宋書

列伝第二十四 鄭鮮之 裴松之 何承天

列伝第二十四 鄭鮮之 裴松之 何承天

鄭鮮之、字あざなは道子、滎陽けいよう郡開封県の人である。高祖父の渾は、魏の将作大匠であった。祖父の襲は、大司農であった。父の遵は、尚書郎であった。襲は初め江乗県令となり、そのため県内に居住した。鮮之は帷を下ろして書を読み、交遊の務めを絶った。初め桓偉の輔国主簿となった。以前、兗州刺史ししの滕恬が丁零や翟遼に敗れて戦死し、遺体が戻らなかったが、その子の羨は官途に就いて廃されることがなかった。これを問題視する議論があった。桓玄が荊州にいた時、官僚たちに広く議論させた。鮮之の議は次の通りであった。

原文鄭鮮之,字道子,滎陽開封人也。高祖渾,魏將作大匠。祖襲,大司農。父遵,尚書郎。襲初爲江乘令,因居縣境。鮮之下帷讀書,絶交遊之務。初爲桓偉輔國主簿。先是,兗州刺史滕恬爲丁零、翟遼所沒,尸喪不反,恬子羨仕宦不廢,議者嫌之。桓玄在荊州,使群僚博議,鮮之議曰:

名教の大極は、忠と孝のみである。しかし、その応用や抑制・導きについては、事ごとに常に異なり、根本を尋ねれば、皆、心を求め形跡を遺すことにある。形跡が現れる際の遭遇は、場合によって異なる。だから聖人は、形跡に即して教化を助けることもあれば、形跡によって罪を成すこともあり、屈伸や与奪は、一律に等しくすることは難しく、その大筋を挙げれば、皆、おおよそ言うことができる。天は逃れられようか。それなのに伊尹は君主を廃した。君主は脅されようか。それなのに鬻権は善を見せた。忠は愚かでありうるか。それなのに箕子は同様に仁であった。これ以降、実質は異なるのに声は同じで、評価は異なるのに美しさが等しい者は、数え切れない。それなのに、百代の下、聖典に欠けていることを、一朝にこの事を正そうとするのは、たやすいことだろうか。

原文名教大極,忠孝而已,至乎變通抑引,每事輒殊,本而尋之,皆是求心而遺跡。跡之所乘,遭遇或異。故聖人或就跡以助教,或因跡以成罪,屈申與奪,難可等齊,舉其阡陌,皆可略言矣。天可逃乎?而伊尹廢君;君可脅乎?而鬻權見善;忠可愚乎?而箕子同仁。自此以還,殊實而齊聲,異譽而等美者,不可勝言。而欲令百代之下,聖典所闕,正斯事於一朝,豈可易哉!

しかし、言を立てて理を明らかにし、古を以て今を証すには、理が人情を満足させるようにすべきである。滕羨の事情のような者は、ある者は終身隠居して人事に関わらず、ある者は朝廷に昇って政務を処理し、前哲を非難されない。滕を通す者は非難されないことを証拠とし、滕を塞ぐ者は隠居を美とする。その両者の中間をとれば、異同の実情が見えてこよう。しかし、前哲を非難しないというのは、人情を満足させることを言うのである。王陵の母が楚で烹殺されても、陵は身を退いて窮居せず、終に社稷の臣となったのは、栄誉のためではない。鮑勳が魏朝で直言し、身を亡ぼして忠節を尽くしたのは、その志が爵位を貪るためでないことを見ればわかる。この二人の賢者は、滕の例えにはならない。

原文然立言明理,以古證今,當使理厭人情。如滕羨情事者,或終身隱處,不關人事;或升朝理務,無譏前哲。通滕者則以無譏爲證,塞滕者則以隱處爲美。折其兩中,則異同之情可見矣。然無譏前哲者,厭情之謂也。若王陵之母,見烹於楚,陵不退身窮居,終爲社稷之臣,非爲榮也。鮑勳蹇諤魏朝,亡身爲效,觀其志非貪爵也。凡此二賢,非滕之諭。

そもそも聖人が教えを立てるに当たっても、なお「礼はあっても時がなければ、君子は行わない」と言う。礼はあっても時がなければ、政事は事に応じて変通すべきであり、一つのことを守り通せないからである。もし滕がこの二人の賢者を証拠とするなら、恐らく人はみな自ら賢者を気取るだろう。もし人がみな自ら賢者を気取ることを許せないなら、どうして独り彼の証拠だけを許せようか。非難する点は人にも兼ねてあり、ただ単にその事柄だけを証拠とするのではない。漢魏以来、記録にその典拠が欠けているが、探し得る者は…ほとんどいない。大晉の中朝から中興以後にかけて、楊臻は七年喪に服さず、三十余年人事に関わらず、溫公は王命に迫られ、庾左丞は終身袷を着けず、高世遠は王右軍や何驃騎ひょうきに諫められて断念した。滕のように容易な者はない。もし縗麻が哀しみの主たるものでないとするなら、これ以上言うことはない。文皇帝は東関の役で、遺骸が戻らなかった者の子弟について、婚姻や官途を廃さない制度を定めた。これは、孝子がすでに人倫において自ら同調せず、識者がすでにその可否を明らかにしていることを示している。もしそうでないなら、宗族を統べ物事を補佐する者は、ただ聖人の教えに即すべきで、その間に改めて制度を明らかにする必要があろうか。永嘉の大乱の後、王敦が中興の際に東関の制度を再び申し立てたのは、そもそもこれが国家の大計であり、人倫を訓育し範とすべきことが、これで尽きるという意味ではない。

原文夫聖人立教,猶云「有禮無時,君子不行」。有禮無時,政以事有變通,不可守一故耳。若滕以此二賢爲證,則恐人人自賢矣;若不可人人自賢,何可獨許其證。譏者兼在於人,不但獨證其事。漢魏以來,記闕其典,尋而得者……無幾人。至乎大晉中朝及中興之後,楊臻則七年不除喪,三十餘年不關人事,溫公則見逼於王命,庾左丞則終身不著袷,高世遠則爲王右軍、何驃騎所勸割,無有如滕之易者也。若以縗麻非爲哀之主,無所復言矣。文皇帝以東關之役,屍骸不反者,制其子弟,不廢婚宦。明此,孝子已不自同於人倫,有識已審其可否矣。若其不爾,居宗輔物者,但當即聖人之教,何所復明制於其間哉!及至永嘉大亂之後,王敦復申東關之制於中興,原此是爲國之大計,非謂訓範人倫,盡於此也。

どうしてそう言えるか。父の仇は明らかに同じ天日の下に生きられないが、国家のためには復讐を許すことはできない。これは法によって情を奪うものであり、すなわち東関や永嘉の例えである。王務を総理することに何の妨げがあろう、布衣のままで処するのである。教えを明らかにする者は、世が横流ではないと自ら言い、およそ士君子の徒には、仕えない道理はないが、情による非難が混じり、貶斥や裁断にあるべきだと言うのである。もし多くの前例を引いて通達の証拠とするなら、孝子は法を顧みて復讐しなくなるだろう。文皇帝は東関について何ら制度を立てず、王敦は中興について何ら明らかにしなかった。このような場面に至るたび、つい宰物者から発せられるのは、この心が理解できないということだろうか。

原文何以言之?父仇明不同戴天日,而爲國不可許復仇,此自以法奪情,即是東關、永嘉之喻也。何妨綜理王務者,布衣以處之。明教者自謂世非橫流,凡士君子之徒,無不可仕之理,而雜以情譏,謂宜在貶裁爾。若多引前事以爲通證,則孝子可顧法而不復仇矣。文皇帝無所立制於東關,王敦無所明之於中興。每至斯會,輒發之於宰物,是心可不喻乎!

さらに道理を求めるには、まず遠大な視点を以てすべきである。もし滄海が横流し、家と国が共に淪溺する時、もし仕えなければ、人は余力を有することになる。人が余力を有すれば、国は滅亡に至り、家は滅びに至るであろう。この時、匹婦でさえなおその身を亡ぼすのに、まして大丈夫であろうか。もしそうでないなら、天下の才は、治められることがなくなるであろう。滕はただ陟岵の哀しみを尽くし、仕えない者の心になぞらえるべきで、何のために前人を証拠として引き合いに出し、自らを通そうとするのか。しかも名は大才に仮借され、小才に栄誉をもたらす。栄誉と仮借が常に伴えば、すでに慚愧の徳があり、官途の進歩を喜ばず、どうして情に基づく事柄があろうか。もしそうでないなら、官途の進歩に喜びがなければ、千載の上で何が貴ばれようか。もし小才にその位を栄誉させるとするなら、滕は常に疑いを顧みて自らに処すべきではないだろうか。いわゆる柳下惠ならば可能でも、我々には不可能だということである。

原文且夫求理當先以遠大,若滄海橫流,家國同其淪溺,若不仕也,則人有餘力;人有餘力,則國可至乎亡,家可至乎滅。當斯時也,匹婦猶亡其身,況大丈夫哉!既其不然,天下之才,將無所理。滕但當盡陟岵之哀,擬不仕者之心,何爲證喻前人,以自通乎?且名爲大才之所假,而小才之所榮,榮與假乘常,已有慚德,無欣工進,何有情事乎?若其不然,則工進無欣,何足貴於千載之上邪!苟許小才榮其位,則滕不當顧常疑以自居乎。所謂柳下惠則可,我則不可也。

さらに生きる者が宗とするのは聖人であり、聖人が教えとするのは礼法である。心に即して言えば、聖人の法は改めることができない。しかし秦は郡県制で天下を治め、これを変える者はなかった。漢文は肉刑を廃止し、これを復活させる者はなかった。あの聖人の定めた法でさえ、後王によって改められることがあるのに、まして滕が前人に頼って、必ず通達すべきだろうか。もし人が皆仕えるなら、この事が後聖を待つことができるかどうかは分からない。まして仕える者と仕えない者には、それぞれ人がおり、仕えない者が引き合いに出すのは、しばしば三年の喪の下で感じることである。議論する者が情の筋目を通達させ、しばしば中庸に依拠し、また、もし滕を非難することを許せば、亡身致命して仕える者が、このために尽くさなくなることを恐れる、と言う。なんとこの言葉は過ちであろうか。忠烈の情は、初めに計算して後に動くものではない。もし計算して後に動くなら、法を恐れて命を尽くさないだろう。もし尽くさないなら、国には常法がある。だから古人は外で軍が敗れ、内で家が誅されたのである。もし忠が内から発し、外で法を恐れるなら、さらに躊躇し顧み望む余地があろうか。もし功があっても賞せず、罪があっても誅さなければ、この例えに至るであろう。名教がその子弟を助けながら、子弟が天とする所に力を尽くさないことはない。天とする所に力を尽くさなければ、王経は忠をもって主を救えず、孝をもって親を顧みず、これは家と国の罪人である。何をもって称えられようか。恩赦が十世に及ぶのは、厚くないわけではない。功が高く賞が厚いのは、報いられないわけではない。もし国法が滕恬に負うところがなければ、羨の通塞は、もとより名教の及ぶ所であり、どうして勧奨や阻止の根本であろうか。

原文且有生之所宗者聖人,聖人之爲教者禮法,即心而言,則聖人之法,不可改也。而秦以郡縣治天下,莫之能變;漢文除肉刑,莫之能復。彼聖人之爲法,猶見改於后王,況滕賴前人,而當必通乎?若人皆仕,未知斯事可俟後聖與不?況仕與不仕,各有其人,而不仕之所引,每感三年之下。見議者弘通情紀,每傍中庸,又云若許譏滕,則恐亡身致命之仕,以此而不盡。何斯言之過與!夫忠烈之情,初無計而後動。若計而後動,則懼法不盡命。若有不盡,則國有常法。故古人軍敗於外,而家誅於內。苟忠發自內,或懼法於外,復有踟躕顧望之地邪!若有功不賞,有罪不誅,可致斯喻爾。無有名教翼其子弟,而子弟不致力於所天。不致力於所天,則王經忠不能救主,孝不顧其親,是家國之罪人爾,何所而稱乎?夫恩宥十世,非不隆也;功高賞厚,非不報也。若國憲無負於滕恬,則羨之通塞,自是名教之所及,豈是勸沮之本乎?

議論する者はまた、唐虞は遠く、どこに帰するか知れず、言葉を尋ね意味を求めれば、負う所が多いだろうと言う。後漢は乱れても滅亡せず、前史はなお数公の力によるものだと言う。魏国が建てられようとした時、荀令君は厳しい顔で異議を唱え、董昭は蘇則の膝を枕にできず、賈充は庾純に辱めを受けた。これによって推すと、天下の正義は、終に伝わって埋もれることはない。どうしてこのような嘆きを発するのか。もし時が上皇の時代でないから、多くを言うに足りないとするなら、夷斉が奭望に対して、子房が四人に対して、また何ら言葉を置く所がなかったであろう。陳平が黙って順応し禍を避け、権謀をもって屈辱を救ったのは、皆、生を衛り害を免れるためであり、栄誉のためではない。滕は今、生を衛る所がなく、鞭撻と塞ぐことはすでに冥界にある。義はどこにあるのか。昔、陳寿が喪中に婢に薬を丸めさせ、郷里から責められた。阮咸が喪に服している時、驢馬に乗って婢を盗み、身は王朝にあった。どうして阮が前世で通達を得たからといって、後世に疑いがないと言えようか。さらに賢聖の抑制や導きは、皆、その始終を究め、その才能と行いを定めるものである。だからたとえ事柄が世俗を驚かすものであっても、道理は必ず申し開かれる。郤詵は母を後園に葬り、自ら官途に登ったが、責めを免れたのは、その孝によるのである。日磾が子を殺しても非難されなかったのは、その忠によるのである。今、どうして二つの事が忠孝のなしたことだからといって、子を殺し母を後園に葬ることを許せようか。明らかにできない。すでにできないなら、滕の才能と行いを究めて定めるべきで、多くを弁じる必要はない。

原文議者又以唐虞邈矣,孰知所歸,尋言求意,將所負者多乎。後漢亂而不亡,前史猶謂數公之力。魏國將建,荀令君正色異議,董昭不得枕蘇則之膝,賈充受辱於庾純。以此而推,天下之正義,終自傳而不沒,何爲發斯歎哉!若以時非上皇,便不足復言多者,則夷齊於奭望,子房於四人,亦無所復措其言矣。至於陳平默順避禍,以權濟屈,皆是衞生免害,非爲榮也。滕今生無所衞,鞭塞已冥,義安在乎?昔陳壽在喪,使婢丸藥,見責鄕閭;阮咸居哀,騎驢偷婢,身處王朝。豈可以阮獲通於前世,便無疑於後乎!且賢聖抑引,皆是究其始終,定其才行。故雖事有驚俗,而理必獲申。郤詵葬母後園,而身登宦,所以免責,以其孝也。日磾殺兒無譏,以其忠也。今豈可以二事是忠孝之所爲,便可許殺兒葬母後園乎?不可明矣。既其不可,便當究定滕之才行,無所多辯也。

滕は下官の郷里の親族ではなく、また交際もなく、その才能をすべて知ることはできない。もし滕の謀略が敵を決する能力があり、才能が広く役立つというなら、これは古人に追従するものであり、議論の及ぶところではない。もし士流であるなら、子夏が曾参の言葉を受けたようにすべきだと言うのは、善いことであるが、子夏には不孝の称はない。私の考えは、すべてここに尽きている。名理でない限り、どうして多くの往復が必要だろうか。もし折衷するなら、裁断は主たる者に委ねるべきである。

原文滕非下官鄕親,又不周旋,才能非所能悉。若以滕謀能決敵,才能周用,此自追蹤古人,非議所及。若是士流,故謂宜如子夏受曾參之詞,可謂善矣,而子夏無不孝之稱也。意之所懷,都盡於此,自非名理,何緣多其往復;如其折中,裁之居宗。

桓偉は安西将軍に進号し、功曹に転補された。陳郡の謝絢を挙げて自らの代わりとした。上奏して言うには、「賢者を知りながら推挙しないのは、臧文が位を窃む所以であり、宣子が譲ることができたので、晋国はそれによって安寧を得たと聞く。鮮之は人材不足を承け、誤って過分な眷顧を蒙り、恩義によって高められ、遂に再び非分の官服を頂戴した。進むことの難しさを知り、たびたび辞退を申し上げたが、退く志は、いまだ暫しも実現されず、日夜氷を抱く思いで、その恐れを忘れようとはしない。行参軍の謝絢は、清く悟り審らかで正しく、道理を懐き通じて美しく、端右の任に就かせても、その采章を十分に伸ばすには足りないかもしれないが、昇進を漸次に行えば、人に擬する位に就かせることはできる。愚かで短い身を請い、甘んじて下列に充て、賢明な牧宰に授けられれば、まさに群望に副うものである。」員外散騎侍郎に入り、司徒しと左西属、大司馬琅邪王録事参軍を経て、御史中丞に遷った。

原文桓偉進號安西,轉補功曹,舉陳郡謝絢自代,曰:「蓋聞知賢弗推,臧文所以竊位;宣子能讓,晉國以之獲寧。鮮之猥承人乏,謬蒙過眷,既恩以義隆,遂再叨非服。知進之難,屢以上請,然自退之志,未獲暫申,夙夜懷冰,敢忘其懼。伏見行參軍謝絢,清悟審正,理懷通美,居以端右,雖未足舒其采章,升庸以漸,差可以位擬人。請乞愚短,甘充下列,授爲賢牧,實副群望。」入爲員外散騎侍郎,司徒左西屬,大司馬琅邪王録事參軍,仍遷御史中丞。

性格は剛直で、権勢ある貴人に阿らず、明らかな法令をまっすぐに適用し、司直の体をよく得ていた。甥の劉毅は当時権勢が重く、朝野帰服しない者はなかったが、鮮之は高祖に心を尽くし、ただ劉毅に対してだけは意を屈さず、劉毅はこれを非常に恨んだ。義熙六年、鮮之は治書侍御史の丘洹に命じて劉毅を弾劾する上奏をさせた。「上言によれば、伝詔の羅道盛が勝手に書簡を開き、遂に密事を盗み出したので、法に依って棄市に処し、奏上して刑の執行を報じたが、劉毅は道盛が侯爵の身分を持つことを理由に、勝手にまた執行を停止し赦免した。按ずるに、劉毅の勲徳は重く光り、任は次相に居る。既に殺すことが自分でないなら、自由に生かす理由はない。また先に奏上しておきながら、後で請願しないのは、閫外に出て国境を越える権限とは、このことを言うのではない。中丞の鮮之は劉毅の甥であり、互いに糾弾することを制限されているので、臣は劉毅の官を免ずることを請う。」詔は何も問わなかった。

原文性剛直,不阿強貴,明憲直繩,甚得司直之體。外甥劉毅,權重當時,朝野莫不歸附,鮮之盡心高祖,獨不屈意於毅,毅甚恨焉。義熙六年,鮮之使治書侍御史丘洹奏彈毅曰:「上言傳詔羅道盛輒開箋,遂盜發密事,依法棄市,奏報行刑,而毅以道盛身有侯爵,輒復停宥。按毅勳德光重,任居次相,既殺之非己,無緣生之自由。又奏之於先,而弗請於後,閫外出疆,非此之謂。中丞鮮之於毅舅甥,制不相糾,臣請免毅官。」詔無所問。

当時、新しい制度で長吏が父母の病気を理由に官を去ると、三年間禁錮(官職に就けない)とされていた。山陰県令の沈叔任が父の病気で職を去った。鮮之はこれについて上議して言った。「事柄には互いに権衡すべき点があり、制度には与奪がある。ここで屈するものがあれば、あちらで申し述べるものがある。道理が明らかでなく、事が何も得られないのに、永久的な制度とすることはない。官を去る者の中には、偽託する事があるかもしれない。偽託の事は、確かにあるかもしれないが、どうして天下の大教を損ない、末節で根本を傷つけることができようか。また法を設けるのは、多くが寡を包むためであって、寡が多くに違うためではない。ましてや官を去ることを防ぎ、孝愛の実を塞ぐなど。かつ人情は栄利に向かうもので、官を辞することは本来防ぐべきことではない。その制度を設ける所以は、官に在任する期間が短いと奔走競争が互いに生じるため、その速やかに成りたい心情を防ぎ、考績の実を明らかにするためである。今、父母の病気を省みることを罪に加えるのは、義に悖り理を害するもので、これより大きなものはない。旧制に従うべきであり、義の上で妥当である。」これに従った。これにより、二品以上の者で父母が没し、墳墓が崩壊したり、病気の族属があってすぐに去る場合は、すべて禁錮しなくなった。

原文時新制長吏以父母疾去官,禁錮三年。山陰令沈叔任父疾去職,鮮之因此上議曰:「夫事有相權,故制有與奪,此有所屈,而彼有所申。未有理無所明,事無所獲,而爲永制者也。當以去官之人,或容詭託之事。詭託之事,誠或有之,豈可虧天下之大教,以末傷本者乎?且設法蓋以眾苞寡,而不以寡違眾,況防杜去官而塞孝愛之實。且人情趨於榮利,辭官本非所防,所以爲其制者,蒞官不久,則奔競互生,故杜其欲速之情,以申考績之實。今省父母之疾,而加以罪名,悖義疾理,莫此爲大。謂宜從舊,於義爲允。」從之。於是自二品以上父母沒者,墳墓崩毀及疾病族屬輒去,並不禁錮。

劉毅が江陵を鎮守することになり、高祖は江寧で会合し、朝士がすべて集まった。劉毅はもともと樗蒲を好み、そこで会合して勝負した。高祖と劉毅が局をまとめ、それぞれ半分ずつを得、銭を積み上げて人を隠した。劉毅は高祖に呼びかけて合わせた。先に擲って雉を得た。高祖は非常に不愉快で、しばらくしてから答えた。四座の注目が集まる中、擲つと、五つの子がすべて黒になった。劉毅の表情と気色は非常に悪く、高祖に言った。「貴公が大座の席を人に与えないことを知っている!」鮮之は大喜びし、裸足で床の周りを走り回って大声で叫び、声が次々と続いた。劉毅は非常に不平で、彼に言った。「この鄭君は何をしているのか!」もはや甥舅の礼はなかった。高祖は若い頃軍旅に事とし、学問に広く渉猟せず、宰相となってから、風流をかなり慕い、時折言論をしたが、人々はみなこれに依違し、敢えて難じる者はなかった。鮮之が難じる時は必ず切実で徹底しており、寛大に許すことはなく、高祖が言葉に窮し理屈が尽きるまで迫り、それからやめた。高祖は時折恥じ入り、顔色を変え表情を動かすこともあったが、後に人に言った。「私はもともと学術がなく、言義は特に浅い。近頃の言論では、諸賢は多く寛容に見てくれるが、ただ鄭だけはそうではなく、ただ一人で人の意を尽くすことができ、非常にこれに感心している。」当時の人はこれを「格佞」と呼んだ。

原文劉毅當鎮江陵,高祖會於江寧,朝士畢集。毅素好摴蒱,於是會戲。高祖與毅斂局,各得其半,積錢隱人,毅呼高祖並之。先擲得雉,高祖甚不説,良久乃答之。四坐傾矚,既擲,五子盡黑,毅意色大惡,謂高祖曰:「知公不以大坐席與人!」鮮之大喜,徒跣繞床大叫,聲聲相續。毅甚不平,謂之曰:「此鄭君何爲者!」無復甥舅之禮。高祖少事戎旅,不經涉學,及爲宰相,頗慕風流,時或言論,人皆依違之,不敢難也。鮮之難必切至,未嘗寬假,要須高祖辭窮理屈,然後置之。高祖或有時慚恧,變色動容,既而謂人曰:「我本無術學,言義尤淺。比時言論,諸賢多見寬容,唯鄭不爾,獨能盡人之意,甚以此感之。」時人謂爲「格佞」。

中丞から司徒左長史、太尉たいい諮議参軍に転じ、間もなく侍中じちゅうを補任され、再び太尉諮議となった。十二年、高祖が北伐する際、右長史とした。鮮之の曾祖の墓は開封にあり、三百里離れていたので、拝省を乞い求めた。高祖は騎兵で送らせた。宋国が初めて建てられた時、奉常に転じた。

原文自中丞轉司徒左長史,太尉諮議參軍,俄而補侍中,復爲太尉諮議。十二年,高祖北伐,以爲右長史。鮮之曾祖墓在開封,相去三百里,乞求拜省,高祖以騎送之。宋國初建,轉奉常。

仏仏虜が関中を陥落させた。高祖はまた北討を考え、行おうとする意気込みが非常に盛んだった。鮮之は上表して諫めて言った。「聖なるご方略の深遠さを伏して思い、臣の愚かな管見ではその意を措くところがない。しかし臣の愚見として、ひそかに懐いているところがある。虜の凶悪狡猾な情状は見て取れる。関中での二度の敗北は、すべて師帥が律を違えたためであり、内に事故があって外に敗傷を来たしたのではない。虜は殿下が自ら六軍を御すること聞けば、必ず討伐されると考え、重兵をもって潼関を守るであろう。その勢いはそうなる。もし威を陵いで長駆するなら、臣はそれが容易でないことを実に見る。もし輿駕が洛に頓するなら、聖躬を上らせて労するには足りない。このように、進退の機は熟慮すべきである。賊は勝ちに乗じて陝を越えることを敢えず、遠く大威に懾服しているからである。今、用兵の計を尽くし、事は屈伸に従い、師を遣わして討伐し、南夏を清晏ならしめ、賊は将来を懼れ、永久に動かなくなる。もし輿駕が洛に至って返れば、凶醜は再び揣量の心を生じ、必ず辺戎の患いを啓くであろう。これは既に必然である。江南は顒顒として、輿駕に傾注している。遠征を突然聞けば、師の深浅を測りかね、必ず殿下が大いに威霊を伸ばされ、未だ還らぬと、人情は恐懼し、事はまた推し量られる。往年の西征では、劉鍾が危殆に陥り、前年には劫盗が広州を破り、人士がことごとく尽きた。三吳の心腹の内、諸県がたびたび敗れたのは、すべて労役によるものである。また聞くところによると、処々で大水があり、遠征の師と民の疲弊に加え、敗散するのは自然の理である。殿下が彭城ほうじょうにおられた時、劫盗が諸県を破ったが、事は偶然ではなく、すべて無頼の凶悪な輩である。およそ順にして撫でれば、百姓は安寧を思い、その願いに違えば、必ず乱をなす。古人がその煩わしさと穢れを救ったのは、まさにこのためである。漢の高祖は平城に身を困らせ、呂后は匈奴の辱めを受け、魏の武帝は赤壁で軍を敗り、宣武帝は枋頭で師を喪ったが、神武の功業は少しも損なわれなかった。ましてや偏師が律を失ったくらいで、廟堂の上に損ないがあろうか。即ち事実に照らせば、敗北とは言えず、ただ齢石らを慮るのみである。もし行えば、あるいはその禍いを速めるかもしれない。反復思惟するに、愚かには殿下が自ら小劫を征する煩わしさはないと思う。西虜が河洛の患いとなるかもしれないが、今は正に北虜と通好すべきであり、そうすれば河南は安泰となる。河南が安泰ならば、済水と泗水は静かになる。伏して願わくは、聖鑑が臣の愚かな思いを察せられますように。」

原文佛佛虜陷關中,高祖復欲北討,行意甚盛。鮮之上表諫曰:「伏思聖略深遠,臣之愚管無所措其意。然臣愚見,竊有所懷。虜凶狡情狀可見,自關中再敗,皆是帥師違律,非是內有事故,致外有敗傷。虜聞殿下親御六軍,必謂見伐,當重兵守潼關,其勢然也。若陵威長驅,臣實見其未易;若輿駕頓洛,則不足上勞聖躬。如此,則進退之機,宜在熟慮。賊不敢乘勝過陝,遠懾大威故也。今盡用兵之算,事從屈申,遣師撲討,而南夏清晏,賊方懼將來,永不敢動。若輿駕造洛而反,凶醜更生揣量之心,必啟邊戎之患,此既必然。江南顒顒,傾注輿駕,忽聞遠伐,不測師之深淺,必以殿下大申威靈,未還,人情恐懼,事又可推。往年西征,劉鍾危殆,前年劫盜破廣州,人士都盡。三吳心腹之內,諸縣屢敗,皆由勞役所致。又聞處處大水,加遠師民敝,敗散,自然之理。殿下在彭城,劫盜破諸縣,事非偶爾,皆是無賴凶慝。凡順而撫之,則百姓思安;違其所願,必爲亂矣。古人所以救其煩穢,正在於斯。漢高身困平城,呂后受匈奴之辱,魏武軍敗赤壁,宣武喪師枋頭,神武之功,一無所損。況偏師失律,無虧於廟堂之上者邪!即之事實,非敗之謂,唯齡石等可念爾。若行也,或速其禍。反覆思惟,愚謂不煩殿下親征小劫。西虜或爲河洛之患,今正宜通好北虜,則河南安。河南安,則濟泗靜。伏願聖鑒察臣愚懷。」

高祖が践祚すると、太常、都官尚書に遷った。鮮之は人となり通達して率直で、高祖の座において言うことに隠すところがなく、当時の人々は非常に畏れた。しかし隠れて厚く篤実で、親族故旧を贍い恤れた。性来、遊行を好み、命じて車を駕してもどこに行くか知らず、御者の行くところに従った。特に高祖に親しまれ、上はかつて内殿で宴飲し、朝貴がすべて至ったが、ただ鮮之だけは召さなかった。座が定まると、群臣に言った。「鄭鮮之は必ず自ら来るだろう。」間もなく外から啓上して言うには、「尚書の鮮之が神虎門に詣でて啓事を求めております。」高祖は大笑いして引き入れさせた。このように親遇されたのである。

原文高祖踐阼,遷太常,都官尚書。鮮之爲人通率,在高祖坐,言無所隱,時人甚憚焉。而隱厚篤實,贍恤親故。性好遊行,命駕或不知所適,隨御者所之。尤爲高祖所狎,上嘗於內殿宴飲,朝貴畢至,唯不召鮮之。坐定,謂群臣曰:「鄭鮮之必當自來。」俄而外啟:「尚書鮮之詣神虎門求啟事。」高祖大笑引入,其被親遇如此。

永初二年、丹陽尹として出向し、再び入朝して都官尚書となり、散騎常侍さんきじょうじを加えられた。従征の功績により、龍陽県五等子に封ぜられた。豫章太守たいしゅとして出向し、秩禄は中二千石であった。元嘉三年、王弘が入朝して宰相となると、鮮之を尚書右僕射に推挙した。四年、死去、享年六十四。散騎常侍・金紫光禄大夫を追贈された。文集が世に伝わっている。子の愔は、尚書郎、始興太守の位に至った。

原文永初二年,出爲丹陽尹,復入爲都官尚書,加散騎常侍。以從征功,封龍陽縣五等子。出爲豫章太守,秩中二千石。元嘉三年,王弘入爲相,舉鮮之爲尚書右僕射。四年,卒,時年六十四。追贈散騎常侍、金紫光祿大夫。文集傳於世。子愔,位至尚書郎,始興太守。

裴松之、字は世期、河東郡聞喜県の人である。祖父の昧は光禄大夫。父の珪は正員外郎。松之は八歳の時、『論語』と『毛詩』を学び通した。広く典籍を博覧し、身を立てるには簡素を旨とした。二十歳の時、殿中將軍に任ぜられた。この官は左右を直衛するもので、晉の孝武帝太元年間に名家を選抜して顧問に参画させる制度を改革し、初めて琅邪の王茂之、会稽の謝輶を用いたが、いずれも南北の声望ある人物であった。母方の叔父の庾楷が江陵にいた時、松之を西上させようとし、新野太守に任じたが、事が難しくて行けなかった。員外散騎侍郎に任ぜられた。義熙初年、呉興郡故鄣県令となり、県で実績を上げた。入朝して尚書祠部郎となった。

原文裴松之,字世期,河東聞喜人也。祖昧,光祿大夫。父珪,正員外郎。松之年八歳,學通論語、毛詩。博覽墳籍,立身簡素。年二十,拜殿中將軍。此官直衞左右,晉孝武太元中革選名家以參顧問,始用琅邪王茂之、會稽謝輶,皆南北之望。舅庾楷在江陵,欲得松之西上,除新野太守,以事難不行。拜員外散騎侍郎。義熙初,爲吳興故鄣令,在縣有績。入爲尚書祠部郎。

松之は、世間で私碑が立てられることが事実に反していると考え、上表してこれを陳べた。「碑銘を作るのは、後世の人々にはっきり示すためであり、特別な功績や並外れた徳がなければ、この典範にふさわしく応えることはできない。大きいものは道義と勲功が遠くまで光り輝き、世の宗仰と推戴を受けるもの、次は節操と行いが高妙で、遺された功業が記録に値するものである。もし政務に明るく登用され、功績と実用が顕著で、教化を施した任地で、恩恵と教訓が融和して遠くまで及んだならば、詠嘆と記述の寄せ所として、彫刻に頼ることもある。この類でないならば、ほとんど僭越で汚れた行為である。俗弊が偽りを生み、華美で煩雑な風習が久しく続いている。それゆえ孔悝の銘文は、行いは正しいが人柄はそうではない。蔡邕が文章を制作するたびに、しばしば恥じ入る表情をした。そしてそれ以来、その流れはますます多くなり、あらかじめ臣下や官吏となれば、必ず建立し、銘文を刻んでも信頼に足る実質は乏しく、石に刊することは虚偽の常態となり、真偽が互いに覆い隠し、かえって美を合わせることを貴ばず、ただその費用の多さを論じるばかりで、また称えるに足りない。禁止と制裁を加えなければ、その弊害は止むことがない。」「諸々碑を立てようとする者は、すべて言上させ、朝廷の議論で許された後、それを聴許すべきである。そうすればおよそ根拠のないものを防ぎ止め、盛んな事績を顕著に彰示でき、百代の後もその虚偽でないことを知らしめ、仰ぎ止むところに義と信が行き渡り、道が来たるべき世に信じられるであろう。」これによってすべて禁止された。

原文松之以世立私碑,有乖事實,上表陳之曰:「碑銘之作,以明示後昆,自非殊功異德,無以允應茲典。大者道勳光遠,世所宗推;其次節行高妙,遺烈可紀。若乃亮采登庸,績用顯著,敷化所蒞,惠訓融遠,述詠所寄,有賴鐫勒,非斯族也,則幾乎僭黷矣。俗敝僞興,華煩已久,是以孔悝之銘,行是人非;蔡邕制文,每有愧色。而自時厥後,其流彌多,預有臣吏,必爲建立,勒銘寡取信之實,刊石成虛僞之常,真假相蒙,殆使合美者不貴,但論其功費,又不可稱。不加禁裁,其敝無已。」以爲「諸欲立碑者,宜悉令言上,爲朝議所許,然後聽之。庶可以防遏無徵,顯彰茂實,使百世之下,知其不虛,則義信於仰止,道孚於來葉。」由是並斷。

高祖が北伐した時、司州刺史を兼任し、松之を州主簿とし、治中従事史に転じた。洛陽を平定した後、高祖は詔を下して言った。「裴松之は朝廷を支える才幹を持つ者であり、長く辺境の事務に留めておくべきではない。今、世子洗馬に召し出し、殷景仁と同様とする。このことを知らせよ。」当時、五廟の楽を立てる議論があり、松之は妃臧氏の廟楽も四廟と同じにすべきと主張した。零陵内史に任ぜられ、国子博士に徴された。

原文高祖北伐,領司州刺史,以松之爲州主簿,轉治中從事史。既克洛陽,高祖敕之曰:「裴松之廊廟之才,不宜久尸邊務,今召爲世子洗馬,與殷景仁同,可令知之。」於時議立五廟樂,松之以妃臧氏廟樂亦宜與四廟同。除零陵內史,徵爲國子博士。

太祖元嘉三年、司徒徐羨之らを誅殺し、大使を分遣して天下を巡行させた。通直散騎常侍袁渝・司徒左西掾孔邈は揚州へ、尚書三公郎陸子真・起部甄法崇は荊州へ、員外散騎常侍范雍・司徒主簿龐遵は南兗州へ、前尚書右丞孔默は南・北二豫州へ、撫軍参軍王歆之は徐州へ、冗従僕射車宗は青兗州へ、松之は湘州へ、尚書殿中郎阮長之は雍州へ、前竟陵太守殷道鸞は益州へ、員外散騎常侍李耽之は広州へ、郎中殷斌は梁州・南秦州へ、前員外散騎侍郎阮園客は交州へ、駙馬都尉・奉朝請潘思先は寧州へ、いずれも散騎常侍を兼ねた。詔書を公布宣布して言った。「昔、王者が功績を巡視し、諸侯が職務を述べた。そうでなければ、慰問の礼や聘問視察の規矩があった。それによって民情を観察し政治を立て、事を命じて業績を考課し、上下ともに通じ、遠近ともに及ぶので、功績を長く世に輝かせ、道を遠い年月にわたって行き渡らせることができたのである。朕は寡徳で暗愚ながら、大業を継承し、在位を畏れ慎み、治道に暗く、夕べも慎み憂い、淵の谷に臨むが如くである。国の風俗が衰え、民の風俗が傷つき偽り、災いと疫病が調和を失い、水害旱害が産業を損なうことを恐れる。たとえ自ら万機に勤め、適切なことを広めようと思っても、機務はただ殷盛で、顧みて行うには多くの欠落があり、政令と刑罰が誤り、まだ詳しく聞くことができていない。誠に素朴な信義がなく、群臣の心を尽くさせず、民を溝に落とすような愧じは、朕一人にある。時世が多難で、王道が統一されていないため、巡狩の礼は廃れて修められず、あの民衆を顧みて、労わりを忘れない。今、兼散騎常侍渝らに四方に命を申し伝えさせ、郡邑を巡行させ、刺史・二千石の官長に直接会い、至誠を述べさせ、政治の要諦を広く諮問させ、官吏の政務を観察し、民の隠れた苦しみを訪ね求め、操行を表彰し挙げ、疾苦を慰問させる。礼俗の得失は、すべて周の典範に依拠し、それぞれ書を作り、帰還後は条を立てて奏上させ、朕が明らかに、あたかも自ら覧るようにさせる。大夫君子たちよ、それぞれ心を尽くして職務を敬い、その力を怠ってはならない。遠大な計画を諮問し、慎んで誠意を述べ、使者に陳べる者がいれば、隠し遺すことなく、まさに良き規矩を敬って受け入れ、その欠落を補おう。励め、自らを勧めよ、朕の意にかなうように。」

原文太祖元嘉三年,誅司徒徐羨之等,分遣大使,巡行天下。通直散騎常侍袁渝、司徒左西掾孔邈使揚州,尚書三公郎陸子真、起部甄法崇使荊州,員外散騎常侍范雍、司徒主簿龐遵使南兗州,前尚書右丞孔默使南、北二豫州,撫軍參軍王歆之使徐州,冗從僕射車宗使青兗州,松之使湘州,尚書殿中郎阮長之使雍州,前竟陵太守殷道鸞使益州,員外散騎常侍李耽之使廣州,郎中殷斌使梁州、南秦州,前員外散騎侍郎阮園客使交州,駙馬都尉、奉朝請潘思先使寧州,並兼散騎常侍。班宣詔書曰:「昔王者巡功,群后述職,不然則有存省之禮,聘眺之規。所以觀民立政,命事考績,上下偕通,遐邇咸被,故能功昭長世,道歷遠年。朕以寡闇,屬承洪業,夤畏在位,昧於治道,夕惕惟憂,如臨淵谷。懼國俗陵頹,民風凋僞,眚厲違和,水旱傷業。雖躬勤庶事,思弘攸宜,而機務惟殷,顧循多闕,政刑乖謬,未獲具聞。豈誠素弗孚,使群心莫盡,納隍之愧,在予一人。以歳時多難,王道未壹,卜徵之禮,廢而未修,眷彼氓庶,無忘攸恤。今使兼散騎常侍渝等申令四方,周行郡邑,親見刺史二千石官長,申述至誠,廣詢治要,觀察吏政,訪求民隱,旌舉操行,存問所疾。禮俗得失,一依周典,每各爲書,還具條奏,俾朕昭然,若親覽焉。大夫君子,其各悉心敬事,無惰乃力。其有咨謀遠圖,謹言中誠,陳之使者,無或隱遺。方將敬納良規,以補其闕。勉哉勖之,稱朕意焉。」

松之は使命から戻り、上奏して言った。「臣は聞く、天道は下を済わせて光明となり、君徳は広く運ばれて極みとなる、と。古の先哲の君主は、心によって広く及ぼし、それゆえ文徳と思慮が身にあれば、時世は自然に和し、礼が江漢に行き渡れば、美しい教化はここから遠くまで及ぶ。それゆえ『大哉』の美しい詠嘆を垂れ、周を造った盛大な法則を広げることができたのである。伏して考えるに、陛下は神知と英知が玄妙に通じ、道は遠い代に契合し、冕旒を戴き華堂に座して、心を八方に垂れられる。敬んで敷くことが純粋でないことを諮り、明らかに挙げることが暢やかでないことを慮られる。清らかな問いを下民に下し、この鰥寡を哀れみ、盛大な号令を発して、あまねく四方に及ぼされる。遠大な謀略は雅・誥に形を現し、恵み深い教訓は遠い辺境にまで播かれる。それゆえ国土のすべてが仰ぎ詠じ、重訳して皆が喜び、謳い吟じ躍り上がらずにはいられず、皇風を銘記する。あるいは老人を支え幼子を携え、道端で歓喜を叫ぶ者もおり、誠に造化の恵みが既に行き渡っているがゆえに、それが自然に至ったことを忘れ、千載一遇の時は、ここにあるのである。臣は誤って選任を受け、はばかりながら顕列に側を汚し、みだりに短所と乏しさをもって、八方を思う純粋さを、聖旨を宣揚暢達し、風化を粛然と明らかにし、罷免と昇進に秩序なく、搜し揚げて聞くことが少なく、慚愧と恐れでおののき、どうしてよいかわからない。二十四条を奉じ、謹んで事に随って牒を作った。伏して癸卯の詔書を拝見するに、礼俗の得失はすべて周の典範に依拠し、それぞれ書を作り、帰還後は条を立てて奏上せよ、とある。謹んで事に依って書を作り、その後につなげる。」松之は使命を奉じる議論に大いに適っており、論者はこれを称賛した。

原文松之反使,奏曰:「臣聞天道以下濟光明,君德以廣運爲極。古先哲后,因心溥被,是以文思在躬,則時雍自洽,禮行江漢,而美化斯遠。故能垂大哉之休詠,廓造周之盛則。伏惟陛下神睿玄通,道契曠代,冕旒華堂,垂心八表。咨敬敷之未純,慮明揚之靡暢。清問下民,哀此鰥寡,渙焉大號,周爰四達。遠猷形於雅、誥,惠訓播乎遐陬。是故率土仰詠,重譯咸説,莫不謳吟踴躍,式銘皇風。或有扶老攜幼,稱歡路左,誠由亭毒既流,故忘其自至,千載一時,於是乎在。臣謬蒙銓任,忝廁顯列,猥以短乏,思純八表,無以宣暢聖旨,肅明風化,黜陟無序,搜揚寡聞,慚懼屏營,不知所措。奉二十四條,謹隨事爲牒。伏見癸卯詔書,禮俗得失,一依周典,每各爲書,還具條奏。謹依事爲書以繫之後。」松之甚得奉使之議,論者美之。

中書侍郎・司冀二州大中正に転じた。上は陳寿の『三国志』に注釈を付けるよう命じ、松之は伝記を集め、異聞を増やし広げ、完成すると上奏した。上はこれを良しとし、「これは不朽のものだ」と言った。永嘉太守として出向し、百姓を労わり慈しみ、官吏と民衆に便利であった。入朝して通直常侍を補任し、再び二州大中正を兼任した。まもなく南琅邪太守として出向した。十四年、致仕し、中散大夫に任ぜられ、まもなく国子博士を兼任した。太中大夫に進み、博士は元の通り。何承天の国史を継続したが、撰述に及ばないうちに、二十八年、死去、享年八十。子の駰は南中郎参軍。松之の著した文論及び『晉紀』、駰が注釈した司馬遷の『史記』は、ともに世に行われた。

原文轉中書侍郎、司冀二州大中正。上使注陳壽三國志,松之鳩集傳記,增廣異聞,既成奏上。上善之,曰:「此爲不朽矣!」出爲永嘉太守,勤恤百姓,吏民便之。入補通直爲常侍,復領二州大中正。尋出爲南琅邪太守。十四年致仕,拜中散大夫,尋領國子博士。進太中大夫,博士如故。續何承天國史,未及撰述,二十八年,卒,時年八十。子駰,南中郎參軍。松之所著文論及晉紀,駰注司馬遷史記,並行於世。

何承天は、東海郡郯県の人である。従祖父の倫は、晉の右衛將軍。承天は五歳で父を失い、母の徐氏は、徐広の姉であり、聡明で博学であったので、承天は幼い頃から訓戒と議論に親しみ、儒教・歴史・百家の学に通覧しないものはなかった。叔父の肹が益陽県令となった時、肹に従って任地へ赴いた。

原文何承天,東海郯人也。從祖倫,晉右衞將軍。承天五歳失父,母徐氏,廣之姊也,聰明博學,故承天幼漸訓議,儒史百家,莫不該覽。叔父肹爲益陽令,隨肹之官。

隆安四年(400年)、南蛮校尉の桓偉が彼を参軍に任命した。当時、殷仲堪や桓玄らが互いに兵を挙げて朝廷に向かっていたため、承天は禍難が収まらないことを恐れ、職を辞して益陽に帰った。義旗が初めて掲げられた時、長沙公の陶延寿が彼を輔国府参軍に任命し、高祖への敬意を伝える使者として派遣した。それにより瀏陽県令に任じられたが、まもなく職を辞して都に戻った。撫軍将軍の劉毅が姑孰こじゅくを鎮守した時、版授により行参軍となった。劉毅がかつて外出した時、鄢陵県の役人である陳満が鳥を射ようとして、誤って直帥(儀仗隊の隊長)に矢が当たった。人を傷つけなかったが、法に照らせば棄市(公開処刑)に処せられることになった。承天が議論して言った。「裁判は実情に基づく判断を重んじ、疑わしい場合は軽い方に従うべきです。昔、漢の文帝の乗輿の馬を驚かせた者に対し、張釈之は犯蹕(天子の行列を犯す罪)として弾劾したが、罪は罰金に留まりました。なぜでしょうか。それは、その者が馬を驚かせる意図がなかったことを明らかにしたからです。ですから、乗輿の重みをもってしても、特別な刑罰を加えなかったのです。今、陳満の意図は鳥を射ることにあり、人に当てようとした心はありません。律によれば、過失で人を傷つけた場合は三年刑であり、まして傷つけていないのですから、軽い罰で十分です。」その後、外任として宛陵県令に補任された。趙惔が寧蛮校尉・尋陽太守となった時、彼を司馬に請うた。まもなく職を辞した。

原文隆安四年,南蠻校尉桓偉命爲參軍。時殷仲堪、桓玄等互舉兵以向朝廷,承天懼禍難未已,解職還益陽。義旗初,長沙公陶延壽以爲其輔國府參軍,遣通敬於高祖,因除瀏陽令,尋去職還都。撫軍將軍劉毅鎮姑孰,版爲行參軍。毅嘗出行,而鄢陵縣史陳滿射鳥,箭誤中直帥,雖不傷人,處法棄市。承天議曰:「獄貴情斷,疑則從輕。昔驚漢文帝乘輿馬者,張釋之劾以犯蹕,罪止罰金。何者?明其無心於驚馬也。故不以乘輿之重,加以異制。今滿意在射鳥,非有心於中人。按律過誤傷人,三歳刑,況不傷乎?微罰可也。」出補宛陵令。趙惔爲寧蠻校尉、尋陽太守,請爲司馬。尋去職。

高祖(劉裕)が彼を太尉行参軍に任命した。高祖が劉毅を討伐した時、諸葛長民を監軍として残した。長民は密かに異心を抱いており、劉穆之が人払いをして承天に尋ねた。「公(高祖)は今、うまく行くでしょうか、どうでしょうか。」承天は言った。「西(劉毅)がすぐに平定されないことを憂うる必要はありませんが、別の懸念があります。公はかつて左里から石頭せきとう城に戻られた時、非常に軽装でしたが、今戻られるなら、より慎重にすべきです。」穆之は言った。「あなたでなければこの言葉は聞けなかった。近ごろは丹徒の劉郎(劉毅)を願っているが、もう二度と得られないかもしれない。」太学博士に任じられた。義熙十一年(415年)、世子征虜参軍となり、西中郎中軍参軍に転じ、銭唐県令となった。高祖が寿陽にいた時、宋の台(中央政府)が建てられ、召し出されて尚書祠部郎となり、傅亮と共に朝儀を撰した。永初末年(422-423年)、南台治書侍御史に補任された。

原文高祖以爲太尉行參軍。高祖討劉毅,留諸葛長民爲監軍。長民密懷異志,劉穆之屏人問承天曰:「公今行濟否云何?」承天曰:「不憂西不時判,別有一慮爾。公昔年自左里還入石頭,甚脫爾,今還,宜加重複。」穆之曰:「非君不聞此言。頃日願丹徒劉郎,恐不復可得也。」除太學博士。義熙十一年,爲世子征虜參軍,轉西中郎中軍參軍,錢唐令。高祖在壽陽,宋臺建,召爲尚書祠部郎,與傅亮共撰朝儀。永初末,補南臺治書侍御史。

謝晦が江陵を鎮守した時、彼を南蛮長史に請うた。当時、尹嘉という者がおり、家が貧しく、母の熊氏が自ら身を質に入れて金を得て、尹嘉の負債を返済した。不孝の罪で死に当たるとされた。承天が議論して言った。「府の宣令により、尹嘉の大辟(死刑)の件を広く議論することになりました。法吏の葛滕の籤(意見書)によれば、母が子の不孝を告げ、殺したいと願うことは許されるとあります。法は、教令に違反し、敬恭の礼を欠き、父母が殺したいと願う場合、皆それを許すと説いています。その告発は、願い求めることに信を置いて許されるものです。謹んで事の根源と心情を尋ねますに、尹嘉の母の言葉は自ら質入れして金を得、子の負債を返済するためでした。尹嘉は確かに教義に違反しましたが、熊氏には殺してほしいという言葉はありません。熊氏は生きる道を求めたのに、今殺すのは、求めに従ったとは言えません。初めは不孝で弾劾され、終わりには身売り(質入れ)で刑が決まる。二つの端によって寄りかかり、母子ともに罪を得る。葛滕の籤の法文は、その条項に当たりません。尹嘉の存在は大きい(母を養うという大義がある)ので、道理の上では主張しにくいですが、明らかな教えが発せられるなら、その愚かさと無知を哀れむべきです。明徳を重んじて刑罰を慎むのは、文王が民を思いやった所以であり、獄を議論して死を緩めるのは、中孚の卦が教化を垂れた所以です。心情を言えば、母は子のために隠すものであり、敬の礼を語れば、礼の及ばないところです。今、赦しを乞う評価を捨てて、殺しを請う条項に依拠し、敬恭の節義を、飢え寒さに苦しむ隷属の者に求めれば、確かに『罰は疑わしきは軽くし、有罪を見逃すこともある』という趣旨ではありません。愚かにも、尹嘉の死刑を減じて、春の恵みの恩沢を広く施し、熊氏の過ちを赦して、子のために隠すことの適切さを明らかにすべきだと考えます。そうすれば、蒲亭のような陋れた地でも、盛んな明君の徳に比べることができ、豚や魚のような微細な生き物も、今の教化から独り取り残されることはないでしょう。」事が決まらないうちに、赦令があり、ともに免罪された。

原文謝晦鎮江陵,請爲南蠻長史。時有尹嘉者,家貧,母熊自以身貼錢,爲嘉償責。坐不孝當死。承天議曰:「被府宣令,普議尹嘉大辟事,稱法吏葛滕籤,母告子不孝,欲殺者許之。法云,謂違犯教令,敬恭有虧,父母欲殺,皆許之。其所告惟取信於所求而許之。謹尋事原心,嘉母辭自求質錢,爲子還責。嘉雖虧犯教義,而熊無請殺之辭。熊求所以生之而今殺之,非隨所求之謂。始以不孝爲劾,終於和賣結刑,倚旁兩端,母子俱罪,滕籤法文,爲非其條。嘉所存者大,理在難申,但明教爰發,矜其愚蔽。夫明德慎罰,文王所以恤下;議獄緩死,中孚所以垂化。言情則母爲子隱,語敬則禮所不及。今舍乞宥之評,依請殺之條,責敬恭之節,於饑寒之隸,誠非罰疑從輕,寧失有罪之謂也。愚以謂降嘉之死,以普春澤之恩;赦熊之愆,以明子隱之宜。則蒲亭雖陋,可比德於盛明;豚魚微物,不獨遺於今化。」事未判,值赦,並免。

謝晦が衛将軍に進号すると、承天は諮議参軍に転じ、記室を領した。元嘉三年(426年)、謝晦が討伐されようとした時、その弟の黄門郎の謝皭が密書で報せた。謝晦が承天に尋ねた。「もし本当なら、卿は私にどうせよと言うか。」承天は言った。「王者の重みをもって、天下を挙げて一州を攻めるのですから、大小の差は既に大きく、逆順も異なります。境外で安全を求めるのが、上策です。次に、腹心の者に兵を率いさせて義陽に駐屯させ、将軍が軍勢を率いて夏口で一戦する。もし敗れたら、すぐに義陽に向かい北境から脱出するのが、その次です。」謝晦はしばらくして言った。「荊楚は武を用いる国であり、兵力には余裕がある。ひとまず決戦し、逃げるのは遅くない。」承天に表文と檄文を作らせた。謝晦は湘州刺史の張邵が必ず自分に同調しないと考え、千人を派遣して襲撃しようとした。承天は、張邵の意向はまだ分からないので、すぐに討伐すべきではないと考えた。当時、張邵の兄の張茂度が益州刺史であり、謝晦と平素から親しかったので、謝晦は兵を派遣するのを止めた。前益州刺史の蕭摹之と前巴西太守の劉道産が職を辞して江陵に戻ったが、謝晦は彼らを殺そうとした。承天は力を尽くして救い、皆全員免れることができた。謝晦が敗走した後、承天は府に留まり従わなかった。到彦之が馬頭に到着すると、承天は自ら出向いて罪を認めた。彦之は彼に誠意があるとして許し、南蛮府の事務を行わせた。

原文晦進號衞將軍,轉諮議參軍,領記室。元嘉三年,晦將見討,其弟黃門郎皭密信報之,晦問承天曰:「若果爾,卿令我云何?」承天曰:「以王者之重,舉天下以攻一州,大小既殊,逆順又異,境外求全,上計也。其次,以腹心領兵戍於義陽,將軍率眾於夏口一戰,若敗,即趨義陽以出北境,其次也。」晦良久曰:「荊楚用武之國,兵力有餘,且當決戰,走不晚也。」使承天造立表檄。晦以湘州刺史張邵必不同己,欲遣千人襲之;承天以爲邵意趨未可知,不宜便討。時邵兄茂度爲益州,與晦素善,故晦止不遣兵。前益州刺史蕭摹之、前巴西太守劉道產去職還江陵,晦將殺之,承天盡力營救,皆得全免。晦既下,承天留府不從。及到彥之至馬頭,承天自詣歸罪,彥之以其有誠,宥之,使行南蠻府事。

元嘉七年(430年)、到彦之が北伐する時、彼を右軍録事に請うた。彦之が敗退した時、承天は軍旅の才がないため、刑罰の責任を免れた。尚書殿中郎を補任され、左丞を兼ねた。呉興郡余杭県の民、薄道挙が強盗を働いた。制令では、同籍の期親(一年の喪服を着る親族)は兵士に補填される。道挙の従弟の代公と道生らはともに大功親(九月の喪服)であり、補謫(兵士として徴発・左遷)の対象にはならないはずだった。法では、代公らの母が存命であることを期親とし、子は母に従って兵士に補填されるべきとされた。承天が議論して言った。「強盗に関する制令を探ると、同籍の期親は兵士に補填されるが、大功親はこの例には含まれません。婦人は三従(三つの従うべき道)があり、既に嫁いだら夫に従い、夫が死んだら子に従います。今、道挙が強盗を働いた時、もしその叔父が存命であれば、制令により補謫されるべきであり、妻子が営居(兵営に住む)するのは当然です。しかし、強盗を働いた時、叔父は既に亡くなっており、代公と道生はともに従弟であり、大功の親族ですから、補謫されるべきではありません。今、叔母を期親とし、代公に母に従って兵士に補填させれば、大功親は謫されないという制令に違反するだけでなく、婦人の三従の道も失うことになります。これは、主管者が期親の条文を守るだけで男女の区別を弁えず、嫌疑を避け責任を負うことを恐れて、この疑念を生じさせたのであり、聖朝が刑罰を思いやる趣旨ではないでしょう。代公ら母子はともに許されるべきだと考えます。」かつての司徒掾の孔邈が上奏した事柄が未だ裁可されないうちに、孔邈が死去し葬儀が済んだ。議論する者は、孔邈の名を用いるべきではなく、現任の官名で上奏すべきだと言った。承天はまた議論して言った。「既に亡くなった者の名で上奏すべきでない理由は、他に意味があるのではなく、ただ不祥に近いことを嫌うからです。上奏事が一度退けられると、動くこと数年を経ます。盛んな明君の世では、事は簡易に従うべきであり、曲がった嫌疑や細かい禁忌は、皆取り除かれるべきです。」

原文七年,彥之北伐,請爲右軍録事。及彥之敗退,承天以才非軍旅,得免刑責。以補尚書殿中郎,兼左丞。吳興餘杭民薄道舉爲劫。制同籍期親補兵。道舉從弟代公、道生等並爲大功親,非應在補謫之例,法以代公等母存爲期親,則子宜隨母補兵。承天議曰:「尋劫制,同籍期親補兵,大功不在此例。婦人三從,既嫁從夫,夫死從子。今道舉爲劫,若其叔尚存,制應補謫,妻子營居,固其宜也。但爲劫之時,叔父已沒,代公、道生並是從弟,大功之親,不合補謫。今若以叔母爲期親,令代公隨母補兵,既違大功不謫之制,又失婦人三從之道。由於主者守期親之文,不辨男女之異,遠嫌畏負,以生此疑,懼非聖朝恤刑之旨。謂代公等母子並宜見原。」故司徒掾孔邈奏事未御,邈已喪殯,議者謂不宜仍用邈名,更以見官奏之。承天又議曰:「既沒之名不合奏者,非有它義,正嫌於近不祥耳。奏事一卻,動經歳時,盛明之世,事從簡易,曲嫌細忌,皆應蕩除。」

承天の性格は剛愎で、朝廷の高官に意を屈することができず、自分の長所を以って同列の者を侮ることが多く、僕射の殷景仁に快く思われず、衡陽内史として出された。かつて西(益州?)にいた時、多くの士人と協調せず、郡でも公正清廉でなく、州の役人に糾弾され、収監されて獄に繋がれたが、赦令により免罪された。元嘉十六年(439年)、著作佐郎に任じられ、国史を撰した。承天は既に年老いており、諸々の佐郎は皆名家の若者だった。潁川の荀伯子が彼を嘲り、常に「乳母」と呼んだ。承天は言った。「卿は『鳳凰が九子を率いる』と言うべきで、乳母などと言うな!」まもなく太子率更令に転じ、著作佐郎は元のままだった。

原文承天爲性剛愎,不能屈意朝右,頗以所長侮同列,不爲僕射殷景仁所平,出爲衡陽內史。昔在西與士人多不協,在郡又不公清,爲州司所糾,被收繫獄,值赦免。十六年,除著作佐郎,撰國史。承天年已老,而諸佐郎並名家年少,潁川荀伯子嘲之,常呼爲奶母。承天曰:「卿當云鳳凰將九子,奶母何言邪!」尋轉太子率更令,著作如故。

当時、丹陽の丁況らが長期間喪に服したまま埋葬しないことがあったので、承天は議論して言った。「礼にいう『還葬』とは、荒廃と不作の一時的な状況を指すものであり、財力に応じて行い完璧を求めないことを許すものである。丁況ら三家は数年の間、埋葬するたびに棺や外棺がなく、実際には浅薄な情けと薄い恩義によるもので、禽獣と同じである。私は、丁宝らが同じ隣組に長年いて、一度も道義をもって勧めたり、法律で縛ったりしなかったことを思う。十六年の冬、新しい法令もなく、また旧制度も明示されていないのに、どうして厳格に突然糾弾するのか。あるいは隣近所の争いから、このような言葉が生じたのであろう。東の各地で聞くところによると、このような例は多く、江西や淮北では特に少なくない。もしこの三人だけを罰するならば、ほとんど整頓されないだろう。一つの端緒を開けば、互いに恐れ動き、里や伍、県の役所が競って不正な利益を貪るようになる。財物の賄賂がはびこれば、訴訟は必ず繁雑になり、聖明なる君主の『鮮を烹る』ような巧みな統治が損なわれることを恐れる。私の愚見では、丁況ら三家については、しばらく問わないでおき、これに付随して制度の趣旨を定めるのがよい。もし民衆の埋葬が法に従わないならば、同じ伍の者はただちに糾弾すべきであり、三年の喪服を除いた後は、互いに告訴し合うことを追及してはならない。このようにすることが事柄に適している。」

原文時丹陽丁況等久喪不葬,承天}議曰:「禮所云還葬,當謂荒儉一時,故許其稱財而不求備。丁況三家,數年中,葬輒無棺櫬,實由淺情薄恩,同於禽獸者耳。竊以爲丁寶等同伍積年,未嘗勸之以義,繩之以法。十六年冬,既無新科,又未申明舊制,有何嚴切,欻然相糾。或由鄰曲分爭,以興此言。如聞在東諸處,此例既多,江西、淮北尤爲不少。若但謫此三人,殆無整肅。開其一端,則互相恐動,里伍縣司,競爲奸利。財賂既逞,獄訟必繁,懼虧聖明烹鮮之美。臣愚謂況等三家,且可勿問,因此附定制旨,若民人葬不如法,同伍當即糾言,三年除服之後,不得追相告列,於事爲宜。」

十九年、国子学が設立されると、承天は本来の官職のまま国子博士を兼任した。皇太子が孝経を講義する際、承天は中庶子の顔延之とともに執経を務めた。まもなく、御史中丞に転任した。当時、索虜(北魏)が国境を侵していたため、太祖(文帝)は群臣に威圧して遠方を防衛する方策を尋ね、承天は上表して言った:

原文十九年,立國子學,以本官領國子博士。皇太子講孝經,承天與中庶子顏延之同爲執經。頃之,遷御史中丞。時索虜侵邊,太祖訪群臣威戎禦遠之略,承天上表曰: