宋書

列伝第二十三 王華 王曇首 殷景仁 沈演之

列伝第二十三 王華 王曇首 殷景仁 沈演之

王華は字あざなを子陵といい、琅邪郡臨沂県の人で、太保王弘の従祖弟(同曾祖父の弟)である。祖父の王薈は、衛将軍、会稽内史を務めた。父の王廞は、太子中庶子、司徒しと左長史を務めた。一家は呉の地に住んでいた。晋の隆安初年、王恭が兵を起こして王國寶を討伐したとき、王廞は母の喪に服して家にいたが、王恭が檄を飛ばして起兵を命じると、王廞はただちに兵を集めてこれに応じ、娘を貞烈将軍とし、女性たちを官属とした。王國寶が死ぬと、王恭は檄を飛ばして王廞に兵をやめるよう命じた。王廞は起兵の際に多くの人を誅殺していたため、この時やむを得ず、王恭を討つという名目で挙兵した。王恭は劉牢之を派遣して王廞を攻撃し、王廞は敗走して行方がわからなくなった。長男の王泰は王恭に殺された。王華は当時十三歳で軍中におり、王廞とはぐれ、沙門の釈曇永について逃げ隠れた。その時、劉牢之が王華を捜索するのは非常に厳しく、曇永は王華に衣包みを提げさせて後について来させたが、関所の巡察兵たちは皆疑った。王華の歩みが遅いと、曇永は叱りつけて罵った。「この怠け者の奴め、私に追いつけないのか!」そして杖で王華を数十回打ったので、人々は疑わなくなり、これによって難を逃れた。

原文王華字子陵,琅邪臨沂人,太保弘從祖弟也。祖薈,衞將軍,會稽內史。父廞,太子中庶子,司徒左長史。居在吳,晉隆安初,王恭起兵討王國寶,時廞丁母憂在家,恭檄令起兵,廞即聚眾應之,以女為貞烈將軍,以女人為官屬。國寶既死,恭檄廞罷兵。廞起兵之際,多所誅戮,至是不復得已,因舉兵以討恭為名。恭遣劉牢之擊廞,廞敗走,不知所在。長子泰為恭所殺。華時年十三,在軍中,與廞相失,隨沙門釋曇永逃竄。時牢之搜檢覔華甚急,曇永使華提衣幞隨後,津邏咸疑焉。華行遲,永呵罵云:「奴子怠懈,行不及我!」以杖捶華數十,眾乃不疑,由此得免。

赦免に遇って呉に戻った。若い頃から志操と行いがあり、父の生死がわからないため、布衣と粗食で交遊せず、このようにして十余年を過ごし、当時の人々から称賛された。高祖(劉裕)はその才能を用いようと考え、王廞の死を確認する喪の問い合わせを行い、王華に喪服を着させた。

原文遇赦還吳。少有志行,以父存亡不測,布衣蔬食不交游,如此十餘年,為時人所稱美。高祖欲收其才用,乃發廞喪問,使華制服。

喪が明けると、高祖が長安を北伐し、鎮西将軍・北徐州刺史ししを兼任したとき、王華を州の主簿に召し出し、やがて鎮西主簿、治中従事史に転じ、歴任した職務で名声があった。太祖(劉義隆)が江陵を鎮守したとき、西中郎主簿とし、諮議参軍に昇進させ、録事を兼任させた。太祖が鎮西将軍に進号すると、また府に従って転任した。太祖がまだ親政していなかったとき、政事はすべて司馬の張邵に委ねられていた。王華は人より優れていたいという性格で、人が自分より上に立つことを好まず、張邵は豪放な性格で、往来の際には常に護衛の車を引き連れていた。王華は出入りに牽車(簡素な車)に乗り、従者は二、三人だけにしてこれに対抗した。かつて城内で出会ったことがあり、王華はわざと張邵だと知らないふりをして、左右の者に言った。「この儀仗は非常に盛大だ。きっと殿下(太祖)が外出なさっているに違いない。」そして牽車から降り、道端に立った。張邵が到着して初めて驚いたふりをした。張邵が喪服で城に登ったことを、王華が糾弾し、張邵は罪に問われて召還された。王華が代わって司馬・南郡太守たいしゅとなり、府と州の事務を代行した。

原文服闋,高祖北伐長安,領鎮西將軍、北徐州刺史,辟華為州主簿,仍轉鎮西主簿,治中從事史,歷職著稱。太祖鎮江陵,以為西中郎主簿,遷諮議參軍,領錄事。太祖進號鎮西,復隨府轉。太祖未親政,政事悉委司馬張邵。華性尚物,不欲人在己前,邵性豪,每行來常引夾轂,華出入乘牽車,從者不過二三以矯之。嘗於城內相逢,華陽不知是邵,謂左右:「此鹵簿甚盛,必是殿下出行。」乃下牽車,立於道側,及邵至乃驚。邵白服登城,為華所糾,坐被徵,華代為司馬、南郡太守,行府州事。

太祖が帝位を継承することになったとき、少帝(劉義符)が殺害されたため、疑って都に下ることをためらった。王華は建議して言った。「徐羨之らは重い任を託されており、すぐに背くようなことはできません。廃された主君が生きていると、将来禍を受けることを憂慮し、この殺害に至ったのでしょう。おそらくは常に情が深く、どうして突然に逆志を抱くことがありましょうか。しかも三人は勢力が拮抗しており、互いに押し伏せることはできず、権力を握って自らの地位を固め、幼い主君を仰いで待つほかないのです。今日、徴召に応じられれば、万に一つも心配はありません。」太祖はこれに従い、王華を留めて後任を総括させた。上(太祖)が即位すると、王華を侍中じちゅうとし、驍騎ぎょうき将軍を兼任させた。まだ拝命しないうちに、右衛将軍に転じ、侍中はもとのままとした。

原文太祖入奉大統,以少帝見害,疑不敢下。華建議曰:「羨之等受寄崇重,未容便敢背德,廢主若存,慮其將來受禍,致此殺害。蓋由每生情多,寧敢一朝頓懷逆志。且三人勢均,莫相推伏,不過欲握權自固,以少主仰待耳。今日就徵,萬無所慮。」太祖從之,留華總後任。上即位,以華為侍中,領驍騎將軍,未拜,轉右衞將軍,侍中如故。

以前、会稽の孔甯子が太祖の鎮西諮議参軍となり、文才によって賞賛されていたが、この時は黄門侍郎となり、歩兵校尉を兼任した。孔甯子は以前、高祖の太尉たいい主簿を務めていたとき、得失を上奏して言った。「盛んな教化の道は、まず官職に適材を得させることにあり、人選の方法は、人が挙薦を慎重にするに如くはありません。制度は変革があっても、得失は存在しますが、賢者を求め官職を審査することは、変わることはありません。『師錫僉曰』(皆が推薦して言う)は、輝かしい欽明の誥(堯舜の言葉)にあり、『茅を抜いて吉を征く』は、幽賁の爻(易経)に明らかです。晋の軍が成功したときは瓜衍を賞し、楚の軍車が入れなかったときは蒍賈が賀しませんでした。今、旧い天命が新しくなり、隠れた人々が首を長くして待っています。韶楽の尽きる美は、すでに綱を振るうことに備わり、武楽の未だ尽きざるものは、あるいは細目を整えることに存するでしょう。九官の職務はすべて挙げることはできませんが、民に親しむ人選は特に優先すべきです。愚考では、朝廷の四品官および外の太守・刺史に、それぞれ二千石の長吏に堪える者一人を推薦させ、選官に付して、欠員に応じて任用し、賢者を得れば賞し、推薦を誤れば罰するのがよいと思います。『惟れ帝の難き』は、どうして凡庸な識見で容易にできましょうか。しかし『爾の知る所を挙げよ』とは、多くの人を求めるのではなく、百官の明らかさによって、一つの識見の見解と比べてどうでしょうか。咎を執るのは己にあり、どうして物に従う私心を許せましょうか。今、選曹が選んだ者が必ずしも誤りであり、諸職が推薦した者が必ずしも良才であるとは限りません。むしろ賢者を求める道を広く開き、考課で少しの落ち度を取るべきです。もし才能が実に群を抜いているなら、進めるには徳を尚ぶべきで、阿の治めの宰(晏嬰)は年数を計らず、免徒の守(西門豹)は資歴に限りません。これ以降は、当然、才能が同等なら資歴により、資歴が同等なら地縁によるべきです。宰として臨む官は、確かに吏職ですが、民の苦しみを観察し、教化を助け風教を宣べるには、隠れて厚い求道が刀筆の才より急務であり、事を能くする功績は徳心に通じます。これをもって人材を論じ、年数を経て行えば、ただ政治に秕や蠹がなく、民が手足を庇われるだけでなく、公道が日々清まり、私的な請託が次第に塞がれるでしょう。士は多く心で競い、仁は必ず己から出るのであり、処士は自ら求める節を磨き、仕子は交わり馳せる情を蔵するでしょう。甯子は凡庸で微賤、治体を識らず、愚見を冒昧に陳べますが、退いては違謬を恐れます。」

原文先是,會稽孔甯子為太祖鎮西諮議參軍,以文義見賞,至是為黃門侍郎,領步兵校尉。甯子先為高祖太尉主簿,陳損益曰:「隆化之道,莫先於官得其才;枚卜之方,莫若人慎其舉。雖復因革不同,損益有物,求賢審官,未之或改。師錫僉曰,煥乎欽明之誥,拔茅征吉,著於幽賁之爻。晉師有成,瓜衍作賞,楚乘無入,蒍賈不賀。今舊命惟新,幽人引領,韶之盡美,已備於振綱;武之未盡,或存於理目。雖九官之職,未可備舉,親民之選,尤宜在先。愚欲使天朝四品官,外及守牧,各舉一人堪為二千石長吏者,以付選官,隨缺敍用,得賢受賞,失舉任罰。夫惟帝之難,豈庸識所易,然舉爾所知,非求多人,因百官之明,孰與一識之見,執咎在己,豈容徇物之私。今非以選曹所銓,果於乖謬,眾職所舉,必也惟良,蓋宜使求賢闢其廣塗,考績取其少殿。若才實拔羣,進宜尚德,治阿之宰,不必計年,免徒之守,豈限資秩。自此以還,故當才均以資,資均以地。宰莅之官,誠曰吏職,然監觀民瘼,翼化宣風,則隱厚之求,急於刀筆,能事之功,接於德心,以此論才,行之年歲,豈惟政無秕蠹,民庇手足而已,將使公路日清,私請漸塞。士多心競,仁必由己,處士砥自求之節,仕子藏交馳之情。甯子庸微,不識治體,冒昧陳愚,退懼違謬。」

孔甯子と王華はともに富貴を願っており、徐羨之らが権力を握ってからは、日夜、太祖に彼らを讒言した。孔甯子がかつて東に帰るとき、金昌亭に着くと、左右の者が船を泊めようとしたが、孔甯子はそれをやめさせて言った。「ここは君を弑しいした亭だ。泊めてはならない。」王華は暇なときによく詩を吟詠し、しばしば王粲の『登楼賦』を誦して言った。「王道の一たび平らかなるを冀い、高衢を仮りて力を騁けん。」出入りして徐羨之らに出会うたびに、毎回歯ぎしりして憤慨し、嘆いて言った。「太平の時を見ることができるだろうか。」元嘉二年、孔甯子は病死した。三年、徐羨之らを誅殺し、王華は護軍に昇進し、侍中はもとのままとした。

原文甯子與華並有富貴之願,自羨之等秉權,日夜構之於太祖。甯子嘗東歸,至金昌亭,左右欲泊船,甯子命去之,曰:「此弒君亭,不可泊也。」華每閑居諷詠,常誦王粲登樓賦曰:「冀王道之一平,假高衢而騁力。」出入逢羨之等,每切齒憤咤,歎曰:「當見太平時不?」元嘉二年,甯子病卒。三年,誅羨之等,華遷護軍,侍中如故。

宋の世で、王華と南陽の劉湛だけは飾った辞譲をせず、官職を得ればすぐに拝命し、これを常とした。王華は心情が人と異なり、一度も宴会に参加せず、終生酒を飲まず、宴があっても出席しなかった。もし論議すべき事があれば、車に乗って門を訪ね、主人が車のところに出てきて話した。王弘が政務を補佐するようになり、弟の王曇首が太祖に重用され、王華と肩を並べるようになると、王華は自分の力が十分に発揮されていないと思い、毎回嘆息して言った。「宰相が突然数人もいれば、天下どうして治められようか。」四年、死去した。時に四十三歳。散騎常侍さんきじょうじ・衛将軍を追贈された。九年、上(文帝)は徐羨之らを誅殺した功績を思い、新建県侯に追封し、食邑千戸、諡を宣侯とした。世祖(孝武帝)が即位すると、太祖の廟庭に配饗された。

原文宋世惟華與南陽劉湛不為飾讓,得官即拜,以此為常。華以情事異人,未嘗預宴集,終身不飲酒,有燕不之詣。若宜有論事者,乘車造門,主人出車就之。及王弘輔政,而弟曇首為太祖所任,與華相埒,華嘗謂己力用不盡,每歎息曰:「宰相頓有數人,天下何由得治!」四年,卒,時年四十三。追贈散騎常侍、衞將軍。九年,上思誅羨之之功,追封新建縣侯,食邑千戶,諡曰宣侯。世祖即位,配饗太祖廟庭。

子の定侯が後を継ぎ、官は左衛将軍まで至り、死去した。子の王長が後を継いだが、太宗(明帝)の泰始二年、母を罵った罪で爵位を剥奪され、王長の弟の王終が封を継いだ。後廃帝の元徽三年、王終が上表して封を王長に返還することを請い、許された。斉が禅譲を受けると、封国は除かれた。

原文子定侯嗣,官至左衞將軍,卒。子長嗣,太宗泰始二年,坐罵母奪爵,以長弟終紹封。後廢帝元徽三年,終上表乞以封還長,許之。齊受禪,國除。

王華の従父弟の王鴻は、五兵尚書、会稽太守を務めた。

原文華從父弟鴻,五兵尚書,會稽太守。

王曇首は、琅邪郡臨沂県の人で、太保王弘の末弟である。

原文王曇首,琅邪臨沂人,太保弘少弟也。

幼い頃から学問と志操があり、著作郎に任じられたが就任しなかった。兄弟で財産を分けるとき、王曇首は図書だけを取った。琅邪王大司馬の属官に召され、府公に従って洛陽の園陵を修復した。従弟の王球とともに高祖(劉裕)に謁見した。その時、謝晦が同席しており、高祖は言った。「この方はともに膏粱(貴族)の盛徳でありながら、よく志を屈して軍旅に従う。」王曇首は答えて言った。「すでに神武の師に従っているのですから、自ずから懦夫も志を立てます。」謝晦は言った。「仁者には果たして勇がある。」高祖は喜んだ。彭城ほうじょうまで行くと、高祖は戲馬臺で盛大な集会を開き、列席した者は皆詩を賦したが、王曇首の文が最初に完成した。高祖はそれを見て読み、王弘に尋ねて言った。「卿の弟は卿と比べてどうか。」王弘は答えて言った。「もしただ私のようであれば、家門の将来はどうなりますか。」高祖は大笑いした。王曇首は識見と器量、知恵と度量があり、喜怒の色を見せず、家庭内では和やかであった。手に金玉を執らず、婦女に装飾品や玩物を持たせず、俸禄や賜物によるものでない限り、他人から一毫も受け取らなかった。

原文幼有業尚,除著作郎,不就。兄弟分財,曇首唯取圖書而已。辟琅邪王大司馬屬,從府公修復洛陽園陵。與從弟球俱詣高祖,時謝晦在坐,高祖曰:「此君並膏粱盛德,乃能屈志戎旅。」曇首答曰:「既從神武之師,自使懦夫有立志。」晦曰:「仁者果有勇。」高祖悅。行至彭城,高祖大會戲馬臺,豫坐者皆賦詩,曇首文先成,高祖覽讀,因問弘曰:「卿弟何如卿?」弘答曰:「若但如民,門戶何寄。」高祖大笑。曇首有識局智度,喜慍不見於色,閨門之內,雍雍如也。手不執金玉,婦女不得為飾玩,自非祿賜所及,一毫不受於人。

太祖が冠軍かんぐん将軍・徐州刺史となり、彭城に留まって鎮守したとき、王曇首を府の功曹とした。太祖が江陵を鎮守するようになると、功曹から長史に転じ、府に従って鎮西長史に転任した。高祖は彼を大いに認めており、太祖に言った。「王曇首は沈着剛毅で器量があり、宰相の才である。何事につけても彼に相談せよ。」景平年間、西方に龍が現れ、半空に舞い上がり、五色の雲を覆い、都の遠近から人々が集まって見物した。太史が上奏して言った。「西方に天子の気配があります。」太祖が帝位を奉じて迎えられることになったとき、上(文帝)と議論する者たちは皆疑って決断できずにいたが、曇首と到彦之、従兄の王華が強く勧めた。それでも上はまだ許さなかった。曇首がさらに強く陳述し、天と人の符瑞が応じていることを述べると、上はようやく出発を決断した。府州の文武官を率いて厳重に兵を整え自衛し、朝廷から派遣された百官や多くの兵士を、自軍の部隊に近づけさせず、中兵参軍の朱容子が刀を抱えて平乗(船)の戸口の外に立ち、数十日間帯を解かなかった。出発して道中にあるとき、黄龍が現れて上(文帝)の乗る船を背負った。左右の者は皆顔色を失ったが、上は曇首に言った。「これはまさに夏の禹が天命を受けた所以である。私に何の徳があってこれに耐えられようか。」即位した後、また曇首に言った。「宋昌の独りよがりの見解でなければ、ここまで至ることはできなかった。」曇首を侍中とし、まもなく右衛将軍を兼任させ、驍騎将軍を領させた。朱容子を右軍将軍とした。徐羨之らを誅殺し、謝晦を平定したのは、曇首と王華の力によるものであった。

原文太祖為冠軍、徐州刺史,留鎮彭城,以曇首為府功曹。太祖鎮江陵,自功曹為長史,隨府轉鎮西長史。高祖甚知之,謂太祖曰:「王曇首,沈毅有器度,宰相才也。汝每事咨之。」景平中,有龍見西方,半天騰上,廕五綵雲,京都遠近聚觀,太史奏曰:「西方有天子氣。」太祖入奉大統,上及議者皆疑不敢下,曇首與到彥之、從兄華固勸,上猶未許。曇首又固陳,并言天人符應,上乃下。率府州文武嚴兵自衞,臺所遣百官眾力,不得近部伍,中兵參軍朱容子抱刀在平乘戶外,不解帶者數旬。既下在道,有黃龍出負上所乘舟,左右皆失色,上謂曇首曰:「此乃夏禹所以受天命,我何德以堪之。」及即位,又謂曇首曰:「非宋昌獨見,無以致此。」以曇首為侍中,尋領右衞將軍,領驍騎將軍。以朱容子為右軍將軍。誅徐羨之等,平謝晦,曇首及華之力也。

元嘉四年、車駕(天子の行列)が北堂から出ようとしたとき、かつて三更(午前零時頃)に広莫門を開けさせようとしたが、南臺(御史台)が言った。「白虎幡と銀字の棨が必要である。」と言って門を開けようとしなかった。尚書左丞の羊玄保が御史中丞の傅隆以下を免官すべきと上奏した。曇首が続けて上奏して言った。「墨敕(皇帝直筆の命令書)もなく、幡や棨も欠けている。上意によるものと称してはいるが、単なる一枚の名刺と異ならない。元嘉元年・二年には再び門を開けた例はあるが、これは以前の事柄の違反である。今、旧来の規定を守るのは、礼に背くものではない。しかし、旧来の記録に基づくならば、疑義を差し挟んで却下する経緯があったはずである。そのような事態がなかったとしても、白虎幡や銀字の棨を請わなかったために門が時を過ぎて開かなかったことを咎め、尚書の受け継いできた過失として糾正すべきである。」上は特に何も問わず、新たに規則を定めた。太子詹事に転任し、侍中はもとのままとした。

原文元嘉四年,車駕出北堂,嘗使三更竟開廣莫門,南臺云:「應須白虎幡,銀字棨。」不肯開門。尚書左丞羊玄保奏免御史中丞傅隆以下,曇首繼啟曰:「既無墨敕,又闕幡棨,雖稱上旨,不異單刺。元嘉元年、二年,雖有再開門例,此乃前事之違。今之守舊,未為非禮。但既據舊史,應有疑却本末,曾無此狀,猶宜反咎其不請白虎幡、銀字棨,致門不時開,由尚書相承之失,亦合糾正。」上特無所問,更立科條。遷太子詹事,侍中如故。

謝晦が平定された後、上は曇首らに封爵を与えようとした。宴会が開かれたとき、酒を勧めながら、御床を叩いて言った。「この座が卿たち兄弟でなければ、今日はなかったであろう。」その時、封ずる詔書はすでに出来上がっており、取り出して曇首に見せた。曇首は言った。「近ごろの事件は、禍難がまさに成就しようとしていましたが、陛下の英明で迅速な決断により、罪人が誅戮されたのです。臣らは天の光を仰ぎ、わずかな力を尽くすことができたに過ぎません。どうして国の災いを、身の幸せとすることができましょう。陛下が臣を私しようとなさっても、正直な史官にどうお答えになりますか。」上は彼の意見を変えさせることができず、封爵の件は取りやめとなった。当時、兄の王弘が尚書事を録し、また揚州刺史を兼ねていた。曇首は上に親しく信任され、両宮(皇帝と皇太子)に兼ねて仕えていた。彭城王の劉義康は王弘とともに録尚書事であったが、常に不満を抱き、また揚州を得たいと思い、言葉や態度に表していた。曇首が宮中にあってその権限を分けているので、ますます快く思わなかった。曇首は固く呉郡の太守を請うた。太祖(文帝)は言った。「どうして大廈を建てようとしてその棟梁を手放すことがあろうか。賢兄は近ごろたびたび病気を称して、州の任を固辞している。将来もし許可するようなことがあれば、この地位は卿以外に誰がいるというのか。また呉郡などというものがあるか。」当時、王弘は長く病んでおり、たびたび辞任を申し出たが、許されなかった。義康は賓客に言った。「王公が長く病んで起き上がれないのに、神州(揚州)を臥して治めることができようか。」曇首は王弘に、府の兵力の半分を減らして義康に配属するよう勧めた。義康はこれでようやく喜んだ。

原文晦平後,上欲封曇首等,會讌集,舉酒勸之,因拊御牀曰:「此坐非卿兄弟,無復今日。」時封詔已成,出以示曇首,曇首曰:「近日之事,釁難將成,賴陛下英明速斷,故罪人斯戮。臣等雖得仰憑天光,効其毫露,豈可因國之災,以為身幸。陛下雖欲私臣,當如直史何。」上不能奪,故封事遂寢。時兄弘錄尚書事,又為揚州刺史,曇首為上所親委,任兼兩宮。彭城王義康與弘並錄,意常怏怏,又欲得揚州,形於辭旨。以曇首居中,分其權任,愈不悅。曇首固乞吳郡,太祖曰:「豈有欲建大厦而遺其棟梁者哉。賢兄比屢稱疾,固辭州任,將來若相申許者,此處非卿而誰?亦何吳郡之有。」時弘久疾,屢遜位,不許。義康謂賓客曰:「王公久疾不起,神州詎合臥治。」曇首勸弘減府兵力之半以配義康,義康乃悅。

元嘉七年、死去した。太祖は彼のために慟哭した。中書舎人の周赳が側に侍っていたが、言った。「王家は衰えようとしている。賢者が先に倒れた。」上は言った。「ただ我が家が衰えるだけである。」左光禄大夫を追贈し、散騎常侍を加え、詹事はもとのままとした。元嘉九年、徐羨之らの誅殺計画に参与した功績により、豫寧県侯に追封され、邑千戸を賜り、諡して文侯といった。世祖(孝武帝)が即位すると、太祖(文帝)の廟庭に配饗された。子の王僧綽が後を継いだ。別に伝がある。末子の王僧虔は、昇明の末年に尚書令となった。

原文七年,卒。太祖為之慟,中書舍人周赳侍側,曰:「王家欲衰,賢者先殞。」上曰:「直是我家衰耳。」追贈左光祿大夫,加散騎常侍,詹事如故。九年,以預誅羨之等謀,追封豫寧縣侯,邑千戶,諡曰文侯。世祖即位,配饗太祖廟庭。子僧綽嗣,別有傳。少子僧虔,昇明末,為尚書令。

殷景仁は、陳郡長平の人である。曾祖父の殷融は、晋の太常であった。祖父の殷茂は、散騎常侍・特進・左光禄大夫であった。父の殷道裕は、早くに亡くなった。

原文殷景仁,陳郡長平人也。曾祖融,晉太常。祖茂,散騎常侍、特進、左光祿大夫。父道裕,蚤亡。

景仁は若いときから大成する器量があり、司徒の王謐は彼を見て娘を妻とさせた。初め劉毅の後軍参軍となり、高祖(武帝)の太尉行参軍となった。百官に人材を推挙させるべきであると建議し、推薦した人物の有能・無能によって昇進・降格とすべきだと述べた。宋の台(宋公国)の秘書郎に転じ、世子中軍参軍となり、主簿に転任し、また驃騎ひょうき将軍の劉道憐の主簿となった。外任して衡陽太守を補し、内任して宋の世子洗馬となり、そのまま中書侍郎に転じた。景仁は学問を文章のためではなく、機敏で思慮深く、口では義を説かないが、道理の本質に深く通じ、国典や朝儀、旧来の規定や記録注釈について、撰録しなかったものはなく、識者は彼に当世を治める志があることを知った。高祖は彼を大いに認め、太子中庶子に転任させた。

原文景仁少有大成之量,司徒王謐見而以女妻之。初為劉毅後軍參軍,高祖太尉行參軍。建議宜令百官舉才,以所薦能否為黜陟。遷宋臺祕書郎,世子中軍參軍,轉主簿,又為驃騎將軍道憐主簿。出補衡陽太守,入為宋世子洗馬,仍轉中書侍郎。景仁學不為文,敏有思致,口不談義,深達理體,至於國典朝儀,舊章記注,莫不撰錄,識者知其有當世之志也。高祖甚知之,遷太子中庶子。

少帝が即位すると、内任して侍中を補したが、たびたび上表して辞退し、また強く陳述して言った。「臣の志と力量は短弱で、経歴は出処進退に明らかです。皇道が隆盛で太平な時にあたり、身に恩栄を負い、官階が推し進められ、月日が積み重なるにつれ、過ちは貪欲にあり、災いは自ら量らないことにあります。そして今、任命を聞き、愚かな心を固く守るのは、ひそかに思うに、特別な寵愛は必ず器量と声望のある者に帰し、喉唇(近侍の要職)の任は才能ある者でなければ居られないからです。三たび自らを省みても、その任に堪えられるわけがなく、どうして安易に栄誉に甘んじ、進退を知らず、上は朝廷の推挙を損ない、下は身に咎を残すようなことができましょう。公私ともに考えて、その妥当性が見出せません。自分の力量と分限を顧みれば、誠に及ぶべくもなく、分を越え順序を乱すことは、戒めと恐れを生じやすいのです。それゆえに身をかがめ伸ばし、周章狼狽し、安らぐ場所がありません。もし恩恵が広く流れ、蘭も艾も同じく潤すならば、前のご命令を改め、官階を下げて賜わりますならば、たとえ実際に不敏であっても、命に従うことを忘れません。臣の背き違える罪は、すでにたびたび積み重なっています。どうしてただ浮ついた外見を尚び、天の聴みみを汚すことができましょう。真心からの誠意をもって、お察しいただくことを仰ぎ望みます。」詔が下って言った。「景仁の退いて控える思いは、改めることができない。黄門侍郎に任じて、君子の請いを明らかにする。」まもなく射声校尉を領した。間もなく左衛将軍に転じた。

原文少帝即位,入補侍中,累表辭讓,又固陳曰:「臣志幹短弱,歷著出處。值皇塗隆泰,身荷恩榮,階牒推遷,日月頻積,失在饕餮,患不自量。而奉聞今授,固守愚心者,竊惟殊次之寵,必歸器望;喉脣之任,非才莫居。三省諸躬,無以克荷,豈可苟順甘榮,不知進退,上虧朝舉,下貽身咎,求之公私,未見其可。顧涯審分,誠難庶幾,踰方越序,易以誡懼。所以俯仰周偟,無地寧處。若惠澤廣流,蘭艾同潤,回改前旨,賜以降階,雖實不敏,敢忘循命。臣迕違之愆,既已屢積,寧當徒尚浮采,塵黷天聽。丹情悾款,仰希照察。」詔曰:「景仁退挹之懷,有不可改,除黃門侍郎,以申君子之請。」尋領射聲。頃之,轉左衞將軍。

太祖(文帝)が即位すると、信任はますます厚くなり、まもなく侍中に転じ、左衛将軍はもとのままとした。当時、侍中右衛将軍の王華、侍中驍騎将軍の王曇首、侍中の劉湛の四人とともに、同時に侍中となり、皆門下省に居り、風采と器量幹略をもって一時の冠となり、ともに昇進した美事は、近代に及ぶものはなかった。元嘉三年、車駕が謝晦を征討したとき、司徒の王弘が中書下省に入り、景仁は長く直(当直)して、ともに留守の任を掌った。謝晦が平定されると、到彦之に代わって中領軍となり、侍中はもとのままとした。

原文太祖即位,委遇彌厚,俄遷侍中,左衞如故。時與侍中右衞將軍王華、侍中驍騎將軍王曇首、侍中劉湛四人,並時為侍中,俱居門下,皆以風力局幹,冠冕一時,同升之美,近代莫及。元嘉三年,車駕征謝晦,司徒王弘入居中書下省,景仁長直,共掌留任。晦平,代到彥之為中領軍,侍中如故。

太祖の生母である章太后は早くに亡くなり、皇帝は太后の生んだ蘇氏を非常に丁重に奉っていた。元嘉六年、蘇氏が亡くなると、皇帝は自ら出向いて臨哭し、詔を下して言った。「朕は幼い頃から片親を失い、その心情は普通以上である。常に考えては、懿戚(母方の親族)を光栄あらしめ、わずかでも果てしない思いを申し上げたいと思っていた。しかし礼の規定は散逸しており、正しい基準とするものがなく、前代の例を参考にしても、採用するか否かもまた異なっている。それゆえにただ疑念を抱き続けて数年が経ち、心の中ではまだ実現していない。蘇夫人が突然に逝去され、情と礼を寄せるべき対象がなくなった。遠くを追い懐かしむ恨みは、事が起こるごとに深くなる。日月には期日があり、まさに墓所を卜定しようとしている。そこで粗ながら春秋の『母を貴ぶ』の義に依拠し、二漢の推恩(恩恵を広げる)の典に倣いたいと思う。しかし、動くたびに史筆に依拠し、後世に伝えることになるので、心のままに行うことは、あるいはまだ妥当ではないかもしれない。時を同じくして詳しく論議し、その適切なところを求めるように。筆を執っては永遠の思いにふけり、ますます感傷に塞がれる。」景仁が議して言った。「至徳の感応は、霊がその祥を啓き、文母(文王の母)が天を仰ぎ見るように、実に皇統を盛んにされた。主上は先の典範に従い、称号は極めて徽崇(美しく尊い)であり、『母を貴ぶ』の義は、礼においてここに尽きています。蘇夫人は戚属(外戚)としての縁故により、情は事によって深まり、寒泉(母を思う)の思いは、実に聖なるお心を感動させ、明らかな詔が発せられ、その適切なところを求められました。謹んで漢代の推恩により爵を加えたことを尋ねますと、当時は秦の弊を承けており、儒術は蔑ろにされており、君主が先例を作り、前の典範はなく、盛んな明君が踏襲すべき軌範ではないことを恐れます。晋は二代(夏・殷)を監み、朝政の拠り所とし、君主の挙動は必ず記録され、哲王が慎重にしたところです。至公を体する者は、爵賞を私心なく懸け、天統を奉ずる者は、常に情を屈して制度を伸ばします。これによって万国に信をなし、後昆に則を遺すのです。臣は博く及ぶ議論に預かり、謹んで凡庸な短見を露わにします。」皇帝はこれに従った。

原文太祖所生章太后早亡,上奉太后所生蘇氏甚謹。六年,蘇氏卒,車駕親往臨哭,下詔曰:「朕夙罹偏罰,情事兼常,每思有以光隆懿戚,少申罔極之懷。而禮文遺逸,取正無所,監之前代,用否又殊,故惟疑累年,在心未遂。蘇夫人奄至傾殂,情禮莫寄,追思遠恨,與事而深。日月有期,將卜窀穸,便欲粗依春秋以貴之義,式遵二漢推恩之典。但動藉史筆,傳之後昆,稱心而行,或容未允。可時共詳論,以求其中。執筆永懷,益增感塞。」景仁議曰:「至德之感,靈啟厥祥,文母俔天,實熙皇祚。主上聿遵先典,號極徽崇,以貴之義,禮盡於此。蘇夫人階緣戚屬,情以事深,寒泉之思,實感聖懷,明詔爰發,詢求厥中。謹尋漢氏推恩加爵,于時承秦之弊,儒術蔑如,自君作故,罔或前典,懼非盛明所宜軌蹈。晉監二代,朝政之所因,君舉必書,哲王之所慎。體至公者,懸爵賞於無私,奉天統者,每屈情以申制。所以作孚萬國,貽則後昆。臣豫蒙博逮,謹露庸短。」上從之。

母の喪に服し、葬儀が終わると、領軍將軍に起用されたが、固辞した。皇帝は綱紀(役人)に代わって拝礼させ、中書舎人周赳に車で送らせて府に戻した。元嘉九年、喪が明けると、尚書僕射しょうしょぼくやに遷った。太子詹事劉湛が代わって領軍となり、景仁とは元々仲が良く、ともに高祖(劉裕)に遇され、ともに宰相と目されていた。劉湛はまだ外任にあったが、ちょうど王弘、華、曇首が相次いで亡くなったので、景仁は劉湛を朝廷に引き戻し、共に政事に参与させた。劉湛が入朝すると、景仁の地位と待遇が本来自分を超えていないのに、一朝にして自分より前に立ったことに、非常に憤慨した。太祖が景仁を信頼し頼りにしていることを知り、動かすことができないとわかると、深く司徒彭城王劉義康と結び、宰相の重みを頼りにして景仁を傾けようとした。元嘉十二年、景仁はさらに中書令に遷り、護軍、僕射は元のままだった。まもなくまた僕射として吏部を領し、護軍は元のままだった。劉湛はますます忿怒した。劉義康は劉湛の言葉を入れ、太祖の前で景仁を誹謗した。太祖は景仁をますます厚遇した。景仁は親しい旧知に嘆いて言った。「彼を引き入れたのに、入ったらすぐに人を食い殺す。」そこで病気と称して職を解き、上表文を累次上奏したが、許されず、家に留まって養病するよう命じられた。詔を発して黄門侍郎に病状を見舞わせた。劉湛は、外で強盗のように人を遣わして殺害し、太祖がたとえ知っても、何か措置はあっても、ついには至親の愛を傷つけることはできないだろうと議した。皇帝はかすかにこれを聞き、景仁を西掖門外の晋の鄱陽公主の邸宅に移し、護軍府とし、宮禁に密接していたので、その計略は実行されなかった。

原文丁母憂,葬竟,起為領軍將軍,固辭。上使綱紀代拜,遣中書舍人周赳輿載還府。九年,服闋,遷尚書僕射。太子詹事劉湛代為領軍,與景仁素善,皆被遇於高祖,俱以宰相許之。湛尚居外任,會王弘、華、曇首相係亡,景仁引湛還朝,共參政事。湛既入,以景仁位遇本不踰己,而一旦居前,意甚憤憤。知太祖信仗景仁,不可移奪,乃深結司徒彭城王義康,欲倚宰相之重以傾之。十二年,景仁復遷中書令,護軍、僕射如故。尋復以僕射領吏部,護軍如故。湛愈忿怒。義康納湛言,毀景仁於太祖。太祖遇之益隆。景仁對親舊歎曰:「引之令入,入便噬人。」乃稱疾解職,表疏累上,不見許,使停家養病。發詔遣黃門侍郎省疾。湛議遣人若劫盜者於外殺之,以為太祖雖知,當有以,終不能傷至親之愛。上微聞之,遷景仁於西掖門外晉鄱陽主第,以為護軍府,密邇宮禁,故其計不行。

景仁が臥病したのは五年に及び、皇帝に会うことはなかったが、密かに上表文のやり取りがあり、一日に十数通にも及び、朝政の大小にかかわらず、必ず彼に諮問し、その跡形は周密で、その内情を窺う者はいなかった。劉湛を逮捕した日、景仁は衣冠を整えさせたが、長く病臥していたので、左右の者はその意図がわからなかった。その夜、皇帝は華林園の延賢堂に出て景仁を召し、まだ足の病気を称していたが、小さな寝台の輿に乗せて座に就かせ、誅討の処分をすべて彼に委ねた。

原文景仁臥疾者五年,雖不見上,而密表去來,日中以十數,朝政大小,必以問焉,影迹周密,莫有窺其際者。收湛之日,景仁使拂拭衣冠,寢疾既久,左右皆不曉其意。其夜,上出華林園延賢堂召景仁,猶稱脚疾,小牀輿以就坐,誅討處分,一皆委之。

劉義康に代わって揚州刺史となり、僕射として吏部を領するのは元のままだった。使者を遣わして印綬を授け、主簿が代わって拝礼した。拝礼が終わると、すぐにその情理が混乱していることに気づいた。性格は本来寛厚だったが、突然に苛酷で暴虐になり、左右に尋ねて言った。「今年は男の結婚が多いか?女の嫁入りが多いか?」この冬、大雪が降り、景仁は輿に乗って聴事(政務を執る所)から外を眺めていたが、突然驚いて言った。「当閤(役所の門)にどうして大きな木があるのか?」しばらくして言った。「私が間違えたのか?」病状はますます重くなった。太祖は州の役所にいるのが不吉だと考え、彼を戻して僕射下省に住まわせた。州にいたのはわずか一か月余りで亡くなった。ある者は劉湛が祟りをなしたと云った。時に五十一歳。侍中、司空しくうを追贈され、本来の官職は元のままだった。諡は文成公。

原文代義康為揚州刺史,僕射領吏部如故。遣使者授印綬,主簿代拜,拜畢,便覺其情理乖錯。性本寬厚,而忽更苛暴,問左右曰:「今年男婚多?女嫁多?」是冬大雪,景仁乘輿出聽事觀望,忽驚曰:「當閤何得有大樹?」既而曰:「我誤邪?」疾轉篤。太祖謂不利在州司,使還住僕射下省,為州凡月餘卒。或云見劉湛為祟。時年五十一,追贈侍中、司空,本官如故。諡曰文成公。

皇帝は荊州刺史衡陽王劉義季に書を送って言った。「殷僕射(景仁)の病気はわずか数日で、突然に救えなかった。その識見と器量は遠大であり、国に奉じて誠を尽くし、周囲に心を砕き、情は常人の痛みを兼ねていた。民の望み、国の器であり、これに遇することは難しく、深く惋歎し、やむことができない。お前も同じではないか?逝ってしまったが、どうしようもない!」世祖(孝武帝劉駿)の大明五年、行幸の途上で景仁の墓のそばを通り、詔して言った。「司空文成公景仁は、徳量が広く正しく、風識が明らかで公正であり、徽績(美しい功績)と忠謨(忠実な謀略)は、早くから先見の明を示し、恵み深い政治と優れた評判は、実に民衆の心に留まっている。近く丘墳を眺め、往時を思い起こして悼みを興す。使者を遣わして祭りを致すように。」

原文上與荊州刺史衡陽王義季書曰:「殷僕射疾患少日,奄忽不救。其識具經遠,奉國竭誠,周游繾綣,情兼常痛。民望國器,遇之為難,惋歎之深,不能已已。汝亦同不?往矣如何!」世祖大明五年,行幸經景仁墓,詔曰:「司空文成公景仁德量淹正,風識明允,徽績忠謨,夙達先照,惠政茂譽,實留民屬。近瞻丘墳,感往興悼,可遣使致祭。」

子の道矜は、幼い頃から聡明ではなく、官は太中大夫に至った。道矜の子の恒は、太宗(明帝劉彧)の世に侍中、度支尚書となったが、父の病気が長く続いたため、役所から上奏された。詔して言った。「道矜は生まれつき病があり、さらに突発的な病気はない。恒は愚かさと怠惰に因り、長く清い官序を妨げてきた。散騎常侍に降格せよ。」

原文子道矜,幼而不慧,官至太中大夫。道矜子恒,太宗世為侍中,度支尚書,屬父疾積久,為有司所奏。詔曰:「道矜生便有病,無更橫疾。恒因愚習惰,久妨清序,可降為散騎常侍。」

沈演之、字は臺真、呉興郡武康県の人である。高祖の沈充は、晋の車騎將軍、呉國內史であった。曾祖の沈勁は、冠軍將軍陳祐の長史となり、金墉城を守備したが、鮮卑慕容恪に陥落され、節を屈せず殺害され、東陽太守を追贈された。祖父の沈赤黔は、廷尉卿であった。父の沈叔任は、若い頃から幹才の資質があり、初め揚州主簿、高祖の太尉參軍、呉県・山陰県の令となり、治績はいずれも名声があった。朱齢石が蜀を伐つ時、齢石の建威府司馬となり、建威將軍を加えられた。蜀平定の功績は、元帥に次ぎ、そのまま本官の号で西夷校尉、巴西梓潼郡太守となり、涪城を守備した。東軍(劉裕軍)が反乱を起こすと、二郡の豪族侯勱、羅奧が衆を集めて乱を起こし、四方から雲のごとく集まり、ついに一万余人に至り、城を急攻した。叔任の東兵は五百に満たなかったが、腹心を推し布き、衆は用いられない者はなく、出撃して大破し、逆党をすべて平定した。高祖が司馬休之を討つ時、齢石は叔任に軍を率いて来会させた。時に高祖は鎮西將軍を領しており、彼を司馬に任命した。軍が戻ると、揚州別駕従事史とした。蜀平定と涪城保全の功により、寧新県男に封じられ、食邑四百四十戸を与えられた。建威將軍、益州刺史として出向したが、病気で都に戻った。義熙十四年、卒去。時に五十歳。長子の融之は早逝した。

原文沈演之字臺真,吳興武康人也。高祖充,晉車騎將軍,吳國內史。曾祖勁,冠軍陳祐長史,戍金墉城,為鮮卑慕容恪所陷,不屈節見殺,追贈東陽太守。祖赤黔,廷尉卿。父叔任,少有幹質,初為揚州主簿,高祖太尉參軍,吳、山陰令,治皆有聲。朱齡石伐蜀,為齡石建威府司馬,加建威將軍。平蜀之功,亞於元帥,即本號為西夷校尉、巴西梓潼郡太守,戍涪城。東軍既反,二郡強宗侯勱、羅奧聚眾作亂,四面雲合,遂至萬餘人,攻城急。叔任東兵不滿五百,推布腹心,眾莫不為用,出擊大破之,逆黨皆平。高祖討司馬休之,齡石遣叔任率軍來會。時高祖領鎮西將軍,命為司馬。及軍還,以為揚州別駕從事史。以平蜀全涪之功,封寧新縣男,食邑四百四十戶。出為建威將軍、益州刺史,以疾還都。義熙十四年,卒,時年五十。長子融之,蚤卒。

演之が十一歳の時、尚書僕射劉柳が彼を見て知り、言った。「この童子はついに立派な人物になる。」家は代々将軍の家柄だったが、演之は志を改めて学問を好み、老子を一日に百回読み、義理の学問と志操で知名であった。父の別爵である吉陽県五等侯を襲封した。郡から主簿に任命され、州から従事史、西曹主簿に辟召され、秀才に挙げられ、嘉興県令となり、有能な名声があった。入朝して司徒祭酒、南譙王劉義宣の左軍主簿、銭唐県令となり、また政績があった。再び司徒主簿となった。母の喪に服した。起用されて武康県令となったが、固辞したが免れず、県に着任して百余日で、病気と称して官を去った。喪が明けると、司徒左西掾、州の治中従事史に任じられた。元嘉十二年、東部諸郡で大水害があり、民衆は飢饉に陥り、呉郡・義興郡および呉郡の銭唐県では、一升の米が三百銭になった。演之と尚書祠部郎江邃をともに散騎常侍を兼ねさせ、巡行して救済恤民に当たらせ、便宜を以て事を行うことを許した。演之は倉庫を開いて飢えた民を救済し、民に子を産んだ者には、一口につき米一斗を賜い、刑獄に疑わしい冤罪があれば、すべて釈放して帰らせ、百姓はその恩恵に頼った。

原文演之年十一,尚書僕射劉柳見而知之,曰:「此童終為令器。」家世為將,而演之折節好學,讀老子日百遍,以義理業尚知名。襲父別爵吉陽縣五等侯。郡命主簿,州辟從事史,西曹主簿,舉秀才,嘉興令,有能名。入為司徒祭酒,南譙王義宣左軍主簿,錢唐令,復有政績。復為司徒主簿。丁母憂。起為武康令,固辭不免,到縣百許日,稱疾去官。服闋,除司徒左西掾,州治中從事史。元嘉十二年,東諸郡大水,民人饑饉,吳義興及吳郡之錢唐,升米三百。以演之及尚書祠部郎江邃並兼散騎常侍,巡行拯卹,許以便宜從事。演之乃開倉廩以賑饑民,民有生子者,口賜米一斗,刑獄有疑枉,悉制遣之,百姓蒙賴。

別駕従事史に転じ、本郡の中正を兼任し、劉義康から非常に厚遇されたため、府州の前後で十数年にわたって仕えた。後に劉湛・劉斌らが徒党を組んで尚書僕射の殷景仁を排斥しようとしたが、演之は正義を重んじ、劉湛らとは異なっていたため、劉湛はこれによって義康に讒言した。かつて事を論じて上意に合わなかったことがあり、義康は顔色を変えて言った。「今後は、もうお前を信じないぞ!」演之は景仁と元来親しく、朝廷に心を尽くしたので、太祖(文帝)は大いにこれを賞賛し、尚書吏部郎に任じた。

原文轉別駕從事史,領本郡中正,深為義康所待,故在府州前後十餘年。後劉湛、劉斌等結黨,欲排廢尚書僕射殷景仁,演之雅仗正義,與湛等不同,湛因此讒之於義康。嘗因論事不合旨,義康變色曰:「自今而後,我不復相信!」演之與景仁素善,盡心於朝庭,太祖甚嘉之,以為尚書吏部郎。

元嘉十七年(440年)、義康が藩国に出され、劉湛らが誅殺されると、演之を右衛将軍とした。景仁がまもなく亡くなると、後軍長史の范曄を左衛将軍とし、演之と対にして禁軍を掌握させ、ともに機密に参与させた。二十年(443年)、侍中に昇進し、右衛将軍はもとのままとした。太祖は彼に言った。「侍中が衛将軍を兼任するのは、声望と実質ともに優れて顕著であり、これは宰相の便座のようなものだ。卿は努めよ。」上(文帝)は林邑を討伐しようとしたが、朝臣たちは賛同せず、広州刺史の陸徽と演之だけが上意を支持した。平定後、群臣に黄金・生口・銅器などを賜ったが、演之の得た分は特に多かった。上は彼に言った。「廟堂の謀議ぼうぎに、卿は力を尽くした。この遠方の夷を平定しただけでは、まだ茅土を多く建てるには足りない。京都を廓清し、東岳で鸞鈴を鳴らす時を待てば、河山が開かれないことは心配ない。」二十一年(444年)、詔が下った。「戎政を総べ、東宮を補佐するのは、誠実な挙措であり、賢者でなければ授けられない。侍中兼右衛将軍の演之は、清廉な業績で貞実慎重、器量と思慮は沈着にして事を成す。右衛将軍の范曄は、才知は通達敏捷、道理を考える心は清らかで要を得ている。ともに内外で美を顕わし、公務に誠実で明るく、その謀略をよく励み、任地に実績を樹てることができる。演之は中領軍とし、范曄は太子詹事とせよ。」范曄は逆謀を抱き、演之はその異変に気づき、太祖に言上した。范曄はまもなく事が発覚して誅殺された。演之は国子祭酒を兼任し、本州の大中正となり、吏部尚書に転じ、太子右衛率を兼任した。宰相にはなっていなかったが、任された信頼はそれと変わらなかった。

原文十七年,義康出藩,誅湛等,以演之為右衞將軍。景仁尋卒,乃以後軍長史范曄為左衞將軍,與演之對掌禁旅,同參機密。二十年,遷侍中,右衞將軍如故。太祖謂之曰:「侍中領衞,望實優顯,此蓋宰相便坐,卿其勉之。」上欲伐林邑,朝臣不同,唯廣州刺史陸徽與演之贊成上意。及平,賜羣臣黃金、生口、銅器等物,演之所得偏多。上謂之曰:「廟堂之謀,卿參其力,平此遠夷,未足多建茅土。俟廓清京都,鳴鸞東岱,不憂河山不開也。」二十一年,詔曰:「總司戎政,翼贊東朝,惟允之舉,匪賢莫授。侍中領右衞將軍演之,清業貞審,器思沈濟。右衞將軍曄,才應通敏,理懷清要。並美彰出內,誠亮在公,能克懋厥猷,樹績所莅。演之可中領軍,曄可太子詹事。」曄懷逆謀,演之覺其有異,言之太祖,曄尋事發伏誅。遷領國子祭酒,本州大中正,轉吏部尚書,領太子右衞率。雖未為宰相,任寄不異也。

もともと心気の病(心臓病か)があり、病気が長年にわたったが、上は彼に病臥したまま政務を執らせた。性格上、人材を推挙することを好み、屈折して滞っている者を救済したが、謙虚で節度を保ち、上から賜った女伎を受け取らなかった。二十六年(449年)、車駕が京陵を拝謁した際、演之は病気のため従わなかった。上が宮中に戻ると召し出され、自ら努めて座に着いたが、尚書下省に出て急死した。享年五十三。太祖は痛惜し、散騎常侍・金紫光禄大夫を追贈し、諡を貞侯とした。

原文素有心氣,疾病歷年,上使臥疾治事。性好舉才,申濟屈滯,而謙約自持,上賜女伎,不受。二十六年,車駕拜京陵,演之以疾不從。上還宮,召見,自勉到坐,出至尚書下省,暴卒,時年五十三。太祖痛惜之,追贈散騎常侍、金紫光祿大夫,諡曰貞侯。

演之はかつて同僚として使節に立った江邃(字は玄遠、済陽郡考城県の人)がいた。文義にかなり通じていた。官は司徒記室参軍まで至り、『文釈』を撰して世に伝わった。

原文演之昔與同使江邃字玄遠,濟陽考城人。頗有文義。官至司徒記室參軍,撰文釋,傳於世。

演之の子の沈睦は、黄門郎、通直散騎常侍まで至った。世祖(孝武帝)の大明初年、上(孝武帝)の側近である俞欣之を引き入れて殿省内の事を訪問・評議させた罪により、また弟の西陽王文学の沈勃と憤って争い不和になった罪により、始興郡に流刑に処せられ、沈勃は官を免ぜられて出仕を禁じられた。

原文演之子睦,至黃門郎,通直散騎常侍。世祖大明初,坐要引上左右俞欣之訪評殿省內事,又與弟西陽王文學勃忿䦧不睦,坐徙始興郡,勃免官禁錮。

沈勃は文章を作ることを好み、琴をよく弾き、囲碁ができたが、軽薄で利益を追った。尚書殿中郎を歴任した。太宗(明帝)の泰始年間、太子右衛率となり、給事中きゅうじちゅうを加えられた。当時、北討を企図しており、沈勃を郷里に帰らせて兵を募らせたが、彼は多くの賄賂を受け取った。上は怒り、詔を下した。「沈勃は琴書の芸業を持ち、口に美称があるが、軽躁で酒に耽り、幼少時から多くの罪過があった。近ごろは奢侈淫らが度を過ごし、妓女数十人を抱え、声を張り上げて放縦にふけり、もう制限がない。自らを呉興の土豪と恃み、門前に義故の徒を並べ、士庶を脅して説き、告げ求めやまない。また募った将兵を私的に委役させ、病気や逃亡と偽って登録し、すでに数百人に及ぶ。周旋する門生らは競って財貨を受け取り、少ないもので一万、多いものは千金に至り、贓物を計算すると二百余万に上る。便宜を図って明らかに罰し法を正し、典刑を正すべきである。故光禄大夫の演之はかつて深い遇を受け、忠績を朝廷に残した。遠くを尋ねて思いやれば、律を広くしないわけにはいかない。沈勃を西辺に流し、過ちを悔い改めさせるようにせよ。」そこで梁州に流刑に処した。廃帝の元徽初年、例によって帰還を許された。阮佃夫げんでんふ・王道隆らに取り入り、再び司徒左長史となった。廃帝によって誅殺された。順帝が即位すると、本官を追贈された。

原文勃好為文章,善彈琴,能圍棊,而輕薄逐利。歷尚書殿中郎。太宗泰始中,為太子右衞率,加給事中。時欲北討,使勃還鄉里募人,多受貨賄。上怒,下詔曰:「沈勃琴書藝業,口有美稱,而輕躁耽酒,幼多罪愆。比奢淫過度,妓女數十,聲酣放縱,無復劑限。自恃吳興土豪,比門義故,脅說士庶,告索無已。又輒聽募將,委役還私,託注病叛,遂有數百。周旋門生,競受財貨,少者至萬,多者千金,考計贓物,二百餘萬,便宜明罰敕法,以正典刑。故光祿大夫演之昔受深遇,忠績在朝,尋遠矜懷,能無弘律,可徙勃西垂,令一思愆悔。」於是徙付梁州。廢帝元徽初,以例得還。結事阮佃夫、王道隆等,復為司徒左長史。為廢帝所誅。順帝即位,追贈本官。

沈勃の弟の沈統は、大明年間に著作佐郎となった。これ以前、五省の官に給される幹僮(雑役係)は、他の雑役に就かせてはならず、太祖(文帝)の時代、これに坐して免官された者は前後百人に及んだ。沈統が軽い役務とはいえ過度に使役したため、有司が奏上して免官を求めた。世祖(孝武帝)は詔して言った。「近頃、幹僮は多くが十分に給仕していない。主人は酌量して杖罰を行うことを聴許せよ。」幹僮に杖罰を行うことが許されたのは、これが始まりである。

原文勃弟統,大明中為著作佐郎。先是,五省官所給幹僮,不得雜役,太祖世,坐以免官者,前後百人。統輕役過差,有司奏免。世祖詔曰:「自頃幹僮,多不祗給,主可量聽行杖。」得行幹杖,自此始也。

演之の兄の沈融の子の沈暢之は、寧新県男の爵位を継いだ。大明年間、海陵王劉休茂の北中郎諮議参軍となり、休茂によって殺害された。黄門郎を追贈された。子の沈曄が後を継いだが、斉が禅譲を受けると封国は除かれた。

原文演之兄融之子暢之,襲寧新縣男。大明中,為海陵王休茂北中郎諮議參軍,為休茂所殺,追贈黃門郎。子曄嗣,齊受禪,國除。