宋書

列伝第十九 殷淳 張暢 何偃 江智淵

列伝第十九 殷淳 張暢 何偃 江智淵

殷淳は字あざなを粹遠といい、陳郡長平の人である。曾祖父の融、祖父の允はともに晋の太常を務めた。父の穆は温和で慎み深いことで称され、顕官を歴任し、五兵尚書から高祖の相国左長史となった。高祖が禅譲を受けると、散騎常侍さんきじょうじに転じ、国子祭酒となり、再び五兵尚書、呉郡太守たいしゅとなった。太祖が即位すると、金紫光禄大夫となり、竟陵王師を兼ね、護軍に昇進し、さらに特進・右光禄大夫に昇進し、始興王師を兼ねた。元嘉十五年に官で死去し、享年六十、諡は元子といった。

原文殷淳字粹遠,陳郡長平人也。曾祖融,祖允,並晉太常。父穆,以和謹致稱,歷顯官,自五兵尚書為高祖相國左長史。及受禪,轉散騎常侍,國子祭酒,復為五兵尚書,吳郡太守。太祖即位,為金紫光祿大夫,領竟陵王師,遷護軍,又遷特進、右光祿大夫,領始興王師。元嘉十五年卒官,時年六十,諡曰元子。

淳は若くして学問を好み、美しい名声があった。少帝の景平の初め、秘書郎、衡陽王文学、秘書丞、中書黄門侍郎となった。淳が黄門にいたときは清要な職務で、退勤後は本来は下省に留まるべきところ、父が年老いていることを理由に特に家に帰ることを許された。高潔で寡欲であり、早くから清らかな志操を持ち、文芸を愛好し、一度もそれを捨てることはなかった。秘書閣において四部書目を撰し、合わせて四十巻、世に行われた。元嘉十一年に死去し、享年三十二、朝廷は痛惜した。

原文淳少好學,有美名。少帝景平初,為祕書郎,衡陽王文學,祕書丞,中書黃門侍郎。淳居黃門為清切,下直應留下省,以父老特聽還家。高簡寡慾,早有清尚,愛好文義,未嘗違捨。在祕書閣撰四部書目凡四十卷,行於世。元嘉十一年卒,時年三十二,朝廷痛惜之。

子の孚は父の風があった。世祖の大明の末、始興相となった。官は尚書吏部郎、順帝の撫軍長史まで至った。

原文子孚,有父風。世祖大明末,為始興相。官至尚書吏部郎,順帝撫軍長史。

淳の弟の沖は字を希遠といい、中書黄門郎を歴任したが、議事が妥当でないとして免官された。再び太子中庶子、尚書吏部郎、御史中丞となり、司直の称があった。地方に出て呉興太守となり、中央に戻って度支尚書となった。元凶(劉劭)の妃は淳の娘であり、また沖は東宮で劉劭に知遇を得ていたため、劉劭が帝を弑しいして即位すると、侍中じちゅう・護軍に任じられ、司隸校尉に昇進した。沖は学問と文才があり、劉劭は彼に尚書符を作らせ、世祖の罪状を列挙させ、また劉劭のために尽力した。世祖が京邑を平定すると、賜死された。

原文淳弟沖字希遠,歷中書黃門郎,坐議事不當免。復為太子中庶子,尚書吏部郎,御史中丞,有司直之稱。出為吳興太守,入為度支尚書。元凶妃即淳女,而沖在東宮為劭所知遇,劭弒立,以為侍中、護軍,遷司隸校尉。沖有學義文辭,劭使為尚書符,罪狀世祖,亦為劭盡力。世祖剋京邑,賜死。

沖の弟の淡は字を夷遠といい、やはり黄門吏部郎、太子中庶子、兼ねて歩兵校尉を歴任した。大明の時代、文章によって認められ、当時の才士とされた。

原文沖弟淡字夷遠,亦歷黃門吏部郎,太子中庶子,領步兵校尉。大明世,以文章見知,為當時才士。

張暢は字を少微といい、呉郡呉の人で、呉興太守の張邵の兄の子である。父の褘は若い頃から孝行で知られ、州府の官職を歴任し、琅邪王国の郎中令となった。琅邪王に従って洛陽に行った。都に戻ると、高祖(劉裕)は薬酒一甕を褘に託し、密かに毒を盛るよう命じた。褘は命を受けたが、帰途につき、道中で自らそれを飲んで死んだ。

原文張暢字少微,吳郡吳人,吳興太守邵兄子也。父褘,少有孝行,歷宦州府,為琅邪王國郎中令。從琅邪王至洛。還京都,高祖封藥酒一甖付褘,使密加酖毒。褘受命,既還,於道自飲而卒。

暢は若い頃、従兄の敷、演、敬とともに名声を等しくし、後進の俊秀とされた。初官は太守徐佩之の主簿となった。佩之が誅殺されると、暢は駆けつけて弔問し、喪服を着て哀悼の意を尽くし、論者の称賛を得た。弟の牧が狂犬に傷つけられ、医者が蝦蟆の膾を食べるよう勧めたが、牧はとても嫌がった。暢は笑みを浮かべてまず自ら味見し、牧はそれを見て食べることにし、傷はすぐに癒えた。州から従事に招聘され、衡陽王劉義季の征虜行参軍、彭城ほうじょう王劉義康の平北主簿、司徒しと祭酒、尚書主客郎となった。拝命しないうちに、また度支左民郎に任じられ、江夏王劉義恭の征北記室参軍、晋安太守となった。さらに義季の安西記室参軍、南義陽太守、臨川王劉義慶の衛軍従事中郎、揚州治中別駕従事史、太子中庶子となった。

原文暢少與從兄敷、演、敬齊名,為後進之秀。起家為太守徐佩之主簿,佩之被誅,暢馳出奔赴,制服盡哀,為論者所美。弟牧嘗為猘犬所傷,醫云宜食蝦蟆膾,牧甚難之,暢含笑先嘗,牧因此乃食,創亦即愈。州辟從事,衡陽王義季征虜行參軍,彭城王義康平北主簿,司徒祭酒,尚書主客郎。未拜,又除度支左民郎,江夏王義恭征北記室參軍、晉安太守。又為義季安西記室參軍、南義陽太守,臨川王義慶衞軍從事中郎,揚州治中別駕從事史,太子中庶子。

世祖(劉駿)が彭城を鎮守したとき、暢は安北長史、沛郡太守となった。元嘉二十七年、索虜の托跋燾が南侵し、太尉たいい江夏王劉義恭が諸軍を総統して、彭城・泗水に出鎮した。その時、托跋燾が自ら大軍を率いて、すでに蕭城に至り、彭城から十数里のところに迫っていた。彭城の兵力は多かったが、軍糧が不足しており、義恭は彭城を捨てて南に帰還しようと考え、議論は一日中決まらなかった。当時、歴城は兵が少なく食糧が多かったため、安北中兵参軍の沈慶之は、車営を函箱の陣とし、精兵を外翼として、二王(江夏王と武陵王)と妃嬪たちを奉じて歴城に直行し、分兵を護軍の蕭思話に配して留守を守らせることを提案した。太尉長史の何勗はこれに反対し、一気に鬱洲に逃れ、海路で都に戻ることを主張した。義恭は去る意志を固めていたが、二つの案のどちらかが決まらず、再び群僚を集めて謀った。皆が慌てふためき、異議を唱える者はいなかった。暢は言った。「もし歴城や鬱洲に確実に到達できる見込みがあるなら、下官がどうして大いに賛成しないことがありましょうか。今、城内は食糧が乏しく、民衆は皆逃げ出したい気持ちでいます。ただ、城門が厳重に閉ざされているので、逃げたくてもできないだけです。もし一旦動き出せば、各自が散り散りに逃げ出し、目的地に着こうとしても、どうしてそれが叶いましょう。今、軍糧は少ないとはいえ、朝夕の支度にまだ窮することはなく、尽きようとする頃合いを見計らって、その時々に適した策を講じればよいのです。どうして万全の策を捨てて、危険な道に就くことがありましょうか。もしこの(逃亡の)計画を必ず実行するというなら、下官はこの首の血であなたの馬蹄を汚すことをお許しください!」世祖は暢の意見を聞くと、義恭に言った。「阿父(叔父)が総統であられる以上、去留について私が口を挟むべきではありません。道民(劉駿の自称)は城主として恥じ入り、威を損ない敵を引き延ばし、その恥ずかしさはすでに深いものがあります。任された鎮を捨てて逃げるなど、実に朝廷に再び奉じる顔がありません。この城と存亡を共にする覚悟です。張長史の言うことに異議はありません。」暢の言葉が固く、世祖もまたその意見を支持したので、義恭は(逃亡を)やめた。

原文世祖鎮彭城,暢為安北長史、沛郡太守。元嘉二十七年,索虜托跋燾南侵,太尉江夏王義恭總統諸軍,出鎮彭、泗。時燾親率大眾,已至蕭城,去彭城十數里。彭城眾力雖多,而軍食不足,義恭欲棄彭城南歸,計議彌日不定。時歷城眾少食多,安北中兵參軍沈慶之建議,欲以車營為函箱陣,精兵為外翼,奉二王及妃媛直趨歷城;分兵配護軍蕭思話留守。太尉長史何勗不同,欲席卷奔鬱洲,自海道還京都。義恭去意已判,唯二議未決,更集羣僚謀之。眾咸遑擾,莫有異議。暢曰:「若歷城、鬱洲有可致之理,下官敢不高讚。今城內乏食,百姓咸有走情,但以關扃嚴固,欲去莫從耳。若一旦動脚,則各自散走,欲至所在,何由可得。今軍食雖寡,朝夕猶未窘罄,量其欲盡,臨時更為諸宜,豈有捨萬安之術,而就危亡之道。若此計必用,下官請以頸血汗公馬蹄!」世祖既聞暢議,謂義恭曰:「阿父既為總統,去留非所敢干。道民忝為城主,而損威延寇,其為愧恧,亦已深矣。委鎮奔逃,實無顏復奉朝廷,期與此城共其存沒,張長史言不可異也。」暢言既堅,世祖又贊成其議,義恭乃止。

その時、太祖(文帝)は員外散騎侍郎の徐爰を駅馬で彭城に派遣し、米穀の在庫量を確定させていた。爰が去った後、城内は騎兵を送って彼を見送った。托跋燾はこれを聞き知ると、すぐに数百騎を派遣して急追させたが、爰はすでに淮水を渡っており、かろうじて難を逃れた。最初に爰が去った時、城内では虜が追撃を派遣したと聞き、爰が捕らえられ、米穀の数量が失われ、虜に城内の食糧事情が知られることを憂慮し、義恭は憂慮して策がなく、なおも逃走しようとしていた。爰が難を逃れたその日、虜の大軍もまた彭城に到着した。

原文時太祖遣員外散騎侍郎徐爰乘驛至彭城取米穀定最,爰既去,城內遣騎送之。燾聞知,即遣數百騎急追,爰已過淮,僅得免。初爰去,城內聞虜遣追,慮爰見禽,失米最,虜知城內食少,義恭憂懼無計,猶欲奔走。爰既免,其日虜大眾亦至彭城。

托跋燾が到着すると、すぐに城南の亜父冢に登り、戯馬台に氈屋を立てた。これより先、托跋燾が到着する前に、世祖は将軍の馬文恭を蕭城に向かわせたが、虜に撃破され、文恭は逃げて難を免れたが、隊主の蒯応が捕らえられた。(蒯応は)小市門に至って言った。「魏主が安北将軍(劉駿)に申し上げます。遠路はるばる来て疲れています。もし甘蔗と酒があれば、分けていただきたい。」その時、防城隊主の梁法念が答えて言った。「申し上げてお聞き入れましょう。」応は自ら蕭城での敗戦の様子を述べた。(法念が)また応に尋ねた。「虜の主君は自ら来ているのか?」応は言った。「来ている。」「今どこにいる?」応は手を挙げて西南を指した。また言った。「兵馬はどれくらいか?」応は答えた。「四十万余り。」法念は托跋燾の言葉を世祖に報告した。世祖は人を遣わして答えた。「行路の苦労が多いことは承知した。今、酒二器、甘蔗百挺を渡す。向こうに駱駝があると聞く。送ってくれるように。」

原文燾始至,仍登城南亞父冢,於戲馬臺立氈屋。先是,燾未至,世祖遣將馬文恭向蕭城,為虜所破,文恭走得免,隊主蒯應見執。至小市門曰:「魏主致意安北,遠來疲乏,若有甘蔗及酒,可見分。」時防城隊主梁法念答曰:「當為啟聞。」應乃自陳蕭城之敗。又問應:「虜主自來不?」曰:「來。」問:「今何在?」應舉手指西南。又曰:「士馬多少?」答云:「四十餘萬。」法念以燾語白世祖,世祖遣人答曰:「知行路多乏,今付酒二器,甘蔗百挺。聞彼有駱駝,可遣送。」

翌朝、燾はまた自ら上戲馬臺に登り、再び使者を小市門に遣わして言った。「魏主が安北将軍にご挨拶申し上げる。安北将軍はしばらく門をお出しいただき、安北将軍とお会いしたい。私もこの城を攻めるつもりはない。安北将軍は何故わざわざ将士を苦労させて城壁の上に立たせておられるのか。また、騾、驢、駱駝は北国(北魏)の産物である。今、贈り物として送り届ける。雑物も併せて贈る。」また小市門の隊主に言った。「贈り物がある以上、君は南門に移動して受け取るがよい。」燾は駱駝、騾、馬、貂裘、各種の飲食を送り届けた。南門に到着したが、門は先に閉ざされており、鍵の提供がまだなかった。暢が城壁の上からこれを見ていると、虜(北魏)の使者が尋ねた。「そちらは張長史(張暢)か?」暢が答えた。「君はどうして私を知っているのか?」虜の使者が答えた。「君の名声は遠くまで聞こえており、私が知るに足る。」暢はそこで虜の使者の姓を尋ねた。答えて言った。「私は鮮卑である。姓はない。また、名乗ることもできない。」暢はまた尋ねた。「君はどのような官職にあるのか?」答えて言った。「鮮卑の官位は(南朝と)同じではない。軽々しく名乗ることはできない。しかし、君と対等に話せる者ではある。」虜の使者がまた尋ねた。「なぜ慌てて門を閉ざし橋を絶ったのか?」暢が答えた。「二王(江夏王劉義恭、武陵王劉駿)は、魏主の陣営がまだ整わず、将士が疲労していると考え、ここに精鋭の兵十万がおり、兵士たちは命を捧げる覚悟でいるため、軽々しく(城外に出て)互いに踏み躙ることを恐れ、しばらく城門を閉ざしているだけである。彼らが兵馬を休ませるのを待ち、その後で共に戦場を整え、期日を定めて戦いを交えよう。」虜の使者が言った。「君は法令をもって事を裁くべきであり、なぜ橋を外す必要があるのか。また、十万という数で人を誇示するに足るものか。我々にも良馬と俊足の馬がおり、もし雲のように騎兵が四方から集まれば、それに立ち向かうこともできる。」暢が言った。「侯王が険阻な地を設けるのは、法令だけによるものではない。もし私が君を誇示するなら、百万と言うだろう。十万と言うのは、まさに二王の身近で普から養っている者たちだけを指しているからだ。この城内には数州の士人と庶民、二つの流刑囚の部隊や兵営の兵士たちがおり、それらはまだ数に入れていない。私はそもそも智謀を争うのであって、馬足を争うのではない。また、冀州の北の地は馬の産地である。君はまた何をもって俊足を誇示するのか。」虜の使者が言った。「そうではない。城を守ることは君の長所であり、野戦は我々の長所である。我々が馬を頼りにするのは、君が城を頼りにするのと同じことだ。」城内に具思という者がおり、かつて北国(北魏)にいたことがあった。義恭が彼を遣わして様子を見させた。思はこの虜の使者が尚書の李孝伯であると見分けた。思はそこで尋ねた。「李尚書、道中のご苦労はいかがですか。」孝伯が答えた。「この件については、互いに共に知っているはずだ。」思が答えた。「共に知っているからこそ、ご苦労をねぎらうのです。」孝伯が言った。「君の厚いお心遣いに感謝する。」

原文明旦,燾又自上戲馬臺,復遣使至小市門曰:「魏主致意安北,安北可暫出門,欲與安北相見。我亦不攻此城,安北何勞苦將士在城上。又騾、驢、駱駝,是北國所出,今遣送,并致雜物。」又語小市門隊主曰:「既有餉物,君可移度南門受之。」燾送駱駝、騾、馬及貂裘、雜飲食,既至南門,門先閉,請籥未出。暢於城上視之,虜使問:「是張長史邪?」暢曰:「君何得見識?」虜使答云:「君聲名遠聞,足使我知。」暢因問虜使姓,答云:「我是鮮卑,無姓。且道亦不可。」暢又問:「君居何任?」答云:「鮮卑官位不同,不可輒道,然亦足與君相敵耳。」虜使復問:「何為怱怱杜門絕橋?」暢答曰:「二王以魏主營壘未立,將士疲勞,此精甲十萬,人思致命,恐輕相凌踐,故且閉城耳。待彼休息士馬,然後共治戰場,剋日交戲。」虜使曰:「君當以法令裁物,何用發橋,復何足以十萬誇人。我亦有良馬逸足,若雲騎四集,亦可以相拒。」暢曰:「侯王設嶮,何但法令而已邪。我若誇君,當言百萬。所以言十萬者,政二王左右素所畜養者耳。此城內有數州士庶,二徒營伍,猶所未論。我本鬭智,不鬭馬足。且冀之北土,馬之所生,君復何以逸足見誇邪。」虜使曰:「不爾。城守,君之所長;野戰,我之所長。我之恃馬,猶如君之恃城耳。」城內有具思者,嘗在北國,義恭遣視之,思識是虜尚書李孝伯。思因問:「李尚書,若行塗有勞。」孝伯曰:「此事應相與共知。」思答:「緣共知,所以有勞。」孝伯曰:「感君至意。」

門が開くと、暢は護衛の兵仗を退け、出て孝伯に対面し、併せて贈り物を進呈した。虜の使者が言った。「貂裘は太尉(劉義恭)に、駱駝と騾は安北将軍(劉駿)に、葡萄酒と雑飲は叔父と甥で共に味わってほしい。」燾はまた酒と甘橘を求めた。暢は世祖(劉駿)の意向を伝えた。「魏主にご挨拶申し上げる。お会いしたいとのお考えは承知した。常々、直接お会いしてお話しすることを楽しみにしている。しかし、本朝(宋)より任命を受け、過分にも藩屏の任を蒙っている身であり、人臣に境外での交際はないため、しばらくの間も(直接会って)全てを話すことができないことを残念に思う。また、城を守り備えを防ぐことは、辺境の鎮守にとって常のことである。ただ、喜んでこれを使うので、労苦があっても怨みはない。太尉、鎮軍将軍(劉駿)は送られてきた品々を受け取った。魏主のご意向により、甘橘もまた必要とされていることを知ったので、今、別途の通り全てお渡しする。太尉は、北の土地は寒い郷里であるため、皮の袴や褶(上衣)が脱ぎ着できるものが必需品と考え、今、魏主にお贈りする。螺杯、雑粽は南方の土地の珍味である。鎮軍将軍が今、贈るものである。」この使者がまだ去らないうちに、燾はまた使者を遣わし、孝伯に命じて伝言させた。「魏主が詔を下し、太尉、安北将軍に伝える。近頃、騎兵が先に到着し、車両は後方にある。今、端座して何もすることがない。博具があれば借りたい。」暢が言った。「博具については申し上げて承諾を得るべきことである。しかし、先ほどの二王への言葉遣いは、もはや謙遜したものではなく、しかも『詔』という言葉は、本来そちらの国で用いるべきものであり、どうしてここで称することができるのか。」孝伯が言った。「『詔』と言おうが『語』と言おうが、『朕』と言おうが『我』と言おうが、何の違いがあるのか。」暢が言った。「もし言葉遣いが通じるためなら、君の言う通りでもよい。しかし、既に(詔を)発する対象があると言うなら、貴賤には序列がある。先ほど称された『詔』という言葉は、私が聞くに堪えない。」孝伯がまた言った。「太尉、安北将軍は人臣であるか、そうでないか?」暢が答えた。「その通りである。」孝伯が言った。「隣国の君主が、どうして隣国の臣下に対して『詔』と称してはならないのか?」暢が言った。「君がこのような呼称を用いることは、中華(南朝)においてさえ聞くことができない。ましてや諸王のような貴人に対して、なお『隣国の君主』と言うのか。」孝伯が言った。「魏主が言うには、太尉、鎮軍将軍は皆若く、南方の消息と隔たっているため、非常に心配している。もし使者を派遣したいなら、護送しよう。もし騎兵が必要なら、馬で送り届けよう。」暢が言った。「この方面には近道が多くあり、使者は朝夕往来している。これ以上、魏主にそのような労を取らせる必要はない。」孝伯が言った。「水路もあることは知っている。どうやら白賊に遮断されているようだ。」暢が言った。「君は白衣を着ているから、白賊と称するのか?」孝伯は大笑いして言った。「今の白賊も、黄巾、赤眉と変わらない。」暢が言った。「黄巾、赤眉は、江南にはいないようだ。」孝伯が言った。「江南にはいないが、青州、徐州にもいない。」暢が言った。「今、青州、徐州には確かに賊がいるが、白賊ではない。」虜の使者が言った。「先ほど博具を借りたいと言ったのに、なぜ出さないのか?」暢が言った。「二王は遠くにおられ、申し上げて聞き届けられることは難しい。」孝伯が言った。「周公は髪を握り、食べ物を吐き出して(賢者を迎えた)という。二王はどうしてただ遠くを貴ぶのか?」暢が言った。「髪を握り食べ物を吐き出すというのは、本来、中国(中原の王朝)に対して施すことだ。」孝伯が言った。「賓客に礼があれば、主人はそれを選ぶ。」暢が言った。「昨日、多くの賓客が門前に至ったが、礼があったとは言えない。」しばらくして博具が送り出され、それによって彼らに与えられた。

原文既開門,暢屏却人仗,出對孝伯,并進餉物。虜使云:「貂裘與太尉,駱駝、騾與安北,蒲陶酒雜飲,叔姪共嘗。」燾又乞酒并甘橘。暢宣世祖問:「致意魏主,知欲相見,常遲面寫。但受命本朝,過蒙藩任,人臣無境外之交,恨不暫悉。且城守備防,邊鎮之常,但悅以使之,故勞而無怨耳。太尉、鎮軍得所送物,魏主意,知復須甘橘,今並付如別。太尉以北土寒鄉,皮絝褶脫是所須,今致魏主。螺杯、雜粽,南土所珍,鎮軍今以相致。」此信未去,燾復遣使令孝伯傳語曰:「魏主有詔語太尉、安北,近以騎至,車兩在後,今端坐無為,有博具可見借。」暢曰:「博具當為申啟。但向語二王,已非遜辭,且有詔之言,政可施於彼國,何得稱之於此。」孝伯曰:「詔之與語,朕之與我,並有何異。」暢曰:「若辭以通,可如來談;既言有所施,則貴賤有等。向所稱詔,非所敢聞。」孝伯又曰:「太尉、安北是人臣與非?」暢曰:「是也。」孝伯曰:「隣國之君,何為不稱詔於隣國之臣?」暢曰:「君之此稱,尚不可聞於中華,況在諸王之貴,而猶曰隣國之君邪。」孝伯曰:「魏主言太尉、鎮軍並皆年少,分闊南信,殊當憂邑。若欲遣信者,當為護送;脫須騎者,亦當以馬送之。」暢曰:「此方間路甚多,使命日夕往來,不復以此勞魏主。」孝伯曰:「亦知有水路,似為白賊所斷。」暢曰:「君著白衣,故稱白賊邪?」孝伯大笑曰:「今之白賊,亦不異黃巾、赤眉。」暢曰:「黃巾、赤眉,似不在江南。」孝伯曰:「雖不在江南,亦不在青、徐也。」暢曰:「今者青、徐,實為有賊,但非白賊耳。」虜使云:「向借博具,何故不出?」暢曰:「二王貴遠,啟聞難徹。」孝伯曰:「周公握髮吐哺,二王何獨貴遠?」暢曰:「握髮吐飡,本施中國耳。」孝伯曰:「賓有禮,主則擇之。」暢曰:「昨見眾賓至門,未為有禮。」俄頃送博具出,因以與之。

燾はまた人を遣わして言った。「魏の主が安北将軍に伝える。程天祚は一介の常人であり、確かに宋の朝廷の美事ではないと知っているが、近ごろ汝陽で九つの傷を負い、溵水に落ちたところを、私が手を引いて助け出した。人は誰でも骨肉が離れ散れば、集まろうと考えるものだ。すでに彼に話したが、その弟が苦しい言葉で断った。今、来使と会わせようと思う。」程天福は使者に言った。「兄は汝陽で命令を受けながら、節を守って死なず、それぞれ別の国にいるのだから、会う必要などない。」燾はまた氈をそれぞれ一枚、塩を九種類、そして胡豉を送ってきた。「これらの塩はそれぞれに適した用途がある。白塩は魏の主が自ら食べるもの。黒塩は腹脹や気が塞ぐのを治し、細かく削って六銖を取り、酒で服用する。胡塩は目の痛みを治す。柔塩は食用ではなく、馬の背中の傷を治す。赤塩、駮塩、臭塩、馬歯塩の四種類は、いずれも食用には適さない。胡豉も食べられる。黄甘みかんはそちらが豊富だから、さらに分けてほしい。」また言った。「魏の主が太尉、安北将軍に伝える。どうして人を遣わして我がもとに来させないのか。互いの情けは尽くせないとしても、せめて我が大小を見、我が老少を知り、我が人となりを見るべきだ。もし諸々の補佐官が遣わせられないなら、僮幹(若い従者)を来させてもよい。」暢はまた旨を宣べて答えた。「魏の主の形状と才力は、長らく往来によって明らかになっている。李尚書が自ら命を受けて来ているので、互いに尽くせないことを心配せず、故に再び使者を遣わさない。」また言った。「魏の主は以前送った馬が、全く気に入らなかったことを残念に思っている。安北将軍が大馬を必要とするなら、改めて送ろう。もし蜀馬が必要なら、良いものもある。」暢は言った。「安北将軍には良馬が不足しているわけではない。送るのはそちらの意向であって、こちらが求めたものではない。」義恭は燾に炬燭十挺を贈り、世祖も錦一匹を贈って言った。「黄甘がさらに必要だと知ったが、惜しむわけではない。ただ送ってもそちらの全軍に行き渡らず、以前魏の主に与えた分もまだ尽きてはいないはずなので、重ねて与えない。」燾はまた甘蔗と安石榴を求めた。暢は言った。「石榴は鄴のものであり、そちらでも不足していないはずだ。」孝伯はまた言った。「貴殿は南国の膏粱(高貴な家柄)なのに、なぜ草鞋を履いているのか。貴殿がこれを履いていては、将士たちはどう思うか。」暢は言った。「膏粱という言葉は、確かに恥ずかしい。ただ武勇に優れない者が、命を受けて軍を統率するのであり、戦陣の間では緩やかな服装は許されない。」孝伯はまた言った。「長史、私は中州の人間だが、長く北国にいて、華夏の風から隔たっている。ほんの数歩の距離だが、十分に話せない。辺りは皆北人が私の言葉を聞いている。長史は私の気持ちを深く理解すべきだ。」孝伯はまた言った。「永昌王は魏の主の従弟で、以前から常に長安を鎮守し、今は精騎八万を率いて淮南に直行した。寿春は久しく門を閉ざして固守し、敢えて防ごうとしない。以前劉康祖の首を送ったが、そちらも見ただろう。王玄謨のことはよく知っているが、これも凡才に過ぎない。南国はどうしてあのような任を使わせて、敗走させたのか。この国境に入って七百里余り、主人はついに一度も抵抗しなかった。鄒山の険しさは、君がたが頼みとするものだが、前鋒がようやく接戦したところで、崔邪利はすぐに穴に隠れた。我が将たちが話すには、足を引っ張って引きずり出したという。魏の主はその命を許し、今ここに従っている。またどうして軽率にも馬文恭を蕭県に遣わし、風を見て退却・屈伏させようとしたのか。君がたの民は非常に憤り怨んでいる。平穏な時は租税や布帛を取り立てるのに、急難の時には救ってくれない、と。」暢は言った。「永昌王がすでに淮南を過ぎ、康祖が彼に破られたことは知っているが、近ごろの使者の報告にはその消息はなかった。王玄謨は南国の偏将に過ぎず、才があるとは言わない。ただ彼が北人だから、前駆として導かせただけだ。大軍が到着しないうちに黄河の氷が結びつこうとしていたので、玄謨は状況を量って旗を返したのであり、機会を失ったわけではない。ただ夜に軍を返したため、軍馬が少し乱れただけだ。我が方の懸瓠は斗の城だが、陳憲という小将が守り、魏の主が国を挙げて攻めても数十日も落とせなかった。胡盛之は偏裨の小帥に過ぎず、兵は一旅もないが、融水を渡り始めただけで、魏国の君臣は逃げ散り、かろうじて逃げ延びた。滑臺の軍も、多くを恥じることはない。鄒山の小さな守りは、わずかな険しさはあるが、河畔の民は多くが新たに帰附したばかりで、聖なる教化を慕い始めたところで、奸盗がまだ止んでいない。崔邪利にそれを鎮撫させただけであり、今や虜の手に落ちたとしても、国に何の損害もない。魏の主が十万の軍をもって一人の崔邪利を制しただけなら、また言うに足るだろうか。蕭県、相県の百姓は皆、山の険に依っていると聞く。ただ馬文恭に十隊で示させただけだ。文恭は以前三隊で出て、戻って走った後、大営の嵇玄敬が百騎で留城に至り、魏軍は敗走した。軽敵してこうなったのであり、敗北したわけでもない。我が国の人民は河畔に住んでいる。二国が交戦する時は、互いに撫養を加えるべきだが、魏軍が国境に入り、残虐な行いをほしいままにした。事が意外に生じたのは、彼らに道がないからだ。官は民に負うところはなく、民は何を怨むことがあろうか。国境に入って七百里、再び抵抗されなかったことを知っているが、これは上は太尉の神算によるものであり、次は鎮軍の聖略によるものだ。国を治める要は、私が予め聞くことではないが、しかし用兵には機微があり、その間は互いに語ることも許されない。」孝伯は言った。「魏の主はこの城を包囲せず、自ら衆軍を率いて、直接瓜歩に向かうだろう。南の事がうまくいけば、彭城は攻囲を待たずとも落ちる。もしうまくいかなければ、彭城も必要ではない。我々は今、南の江湖の水を飲んで渇きを癒そうとしているのだ。」暢は言った。「去就の事は、そちらの胸中に任せる。もし虜の馬がついに江水を飲むことができれば、もはや天道はないということだ。それぞれ返命すべきであり、詳細はまた後日に。」暢は引き返そうとした。孝伯が追いかけて言った。「長史、どうかご自愛ください。ほんの数歩の距離だが、手を執れないのが残念だ。」暢はそこでまた言った。「どうか大切に。平定の日が来ることを願い、遠からず再会しましょう。貴殿がもし宋の朝廷に帰ることがあれば、今が知己の始まりです。」孝伯は言った。「それがいつになるかは分からない。」燾はまた二王のもとに人を遣わし、箜篌、琵琶、箏、笛などの楽器と碁石を借りようとした。義恭は答えて言った。「軍務を受任しており、楽器は携えていない。ここでの宴会では、鎮府に命じて妓を出させ、弦楽器百本がある。これは江南の美であり、今これを贈ろう。」世祖は言った。「方岳の任に居り、初めからこのことは考えていなかった。また楽人の常備の器であり、以前来た諸王の贈別にもこの琵琶があったので、今これを与えよう。碁石も渡す。」孝伯の言辞は弁舌に富み、これも北土の美であった。暢は状況に応じて応答し、言葉が流れるように出て、音韻は詳しく雅やかで、風儀は華やかで潤いがあった。孝伯と左右の人々は皆、互いに見つめてため息をついた。

原文燾又遣人云:「魏主致意安北,程天祚一介常人,誠知非宋朝之美,近於汝陽身被九創,落在溵水,我手牽而出之。凡人骨肉分張,並思集聚,輒已語之,但其弟苦辭。今令與來使相見。」程天福謂使人曰:「兄受命汝陽,不能死節,各在一國,何煩相見。」燾又送氈各一領,鹽各九種,并胡豉:「凡此諸鹽,各有所宜。白鹽是魏主自所食。黑鹽治腹脹氣懣,細刮取六銖,以酒服之。胡鹽治目痛。柔鹽不食,治馬脊創。赤鹽、駮鹽、臭鹽、馬齒鹽四種,並不中食。胡豉亦中噉。黃甘幸彼所豐,可更見分。」又云:「魏主致意太尉、安北,何不遣人來至我間。彼此之情,雖不可盡,要須見我小大,知我老少,觀我為人。若諸佐不可遣,亦可使僮幹來。」暢又宣旨答曰:「魏主形狀才力,久為來往所具。李尚書親自銜命,不患彼此不盡,故不復遣使信。」又云:「魏主恨向所送馬,殊不稱意。安北若須大馬,當更送之,脫須蜀馬,亦有佳者。」暢曰:「安北不乏良駟,送自彼意,非此所求。」義恭餉燾炬燭十挺,世祖亦致錦一匹,曰:「知更須黃甘,誠非所吝。但送不足周彼一軍,向給魏主,未應便乏,故不復重付。」燾復求甘蔗、安石留,暢曰:「石留出自鄴下,亦當非彼所乏。」孝伯又曰:「君南土膏粱,何為著屩。君而著此,使將士云何?」暢曰:「膏粱之言,誠為多愧。但以不武,受命統軍,戎陣之間,不容緩服。」孝伯又曰:「長史,我是中州人,久處北國,自隔華風,相去步武,不得致盡,邊皆是北人聽我語者,長史當深得我。」孝伯又曰:「永昌王,魏主從弟,自頃常鎮長安,今領精騎八萬,直造淮南,壽春久閉門自固,不敢相禦。向送劉康祖頭,彼之所見。王玄謨甚是所悉,亦是常才耳。南國何意作如此任使,以致奔敗。自入此境七百餘里,主人竟不能一相拒逆。鄒山之險,君家所憑,前鋒始得接手,崔邪利便藏入穴,我間諸將倒曳脚而出之,魏主賜其生命,今從在此。復何以輕脫遣馬文恭至蕭縣,使望風退撓邪。君家民人甚相忿怨,云清平之時,賦我租帛,至有急難,不能相拯。」暢曰:「知永昌已過淮南,康祖為其所破,比有信使,無此消息。王玄謨南土偏將,不謂為才,但以其北人,故為前驅引導耳。大軍未至而河冰向合,玄謨量宜反斾,未為失機,但因夜回師,致戎馬小亂耳。我家懸瓠斗城,陳憲小將,魏主傾國,累旬不剋。胡盛之偏裨小帥,眾無一旅,始濟融水,魏國君臣奔迸,僅得免脫,滑臺之師,無所多愧。鄒山小戍,雖有微險,河畔之民,多是新附,始慕聖化,姦盜未息,亦使崔邪利撫之而已,今沒虜手,何損於國。魏主自以十萬師而制一崔邪利,乃復足言邪。聞蕭、相百姓,並依山險,聊遣馬文恭以十隊示之耳。文恭謂前以三隊出,還走後,大營嵇玄敬以百騎至留城,魏軍奔敗。輕敵致此,亦非所衂。王境人民,列居河畔,二國交兵,當互加撫養,而魏師入境,肆行殘虐,事生意外,由彼無道。官不負民,民何怨人。知入境七百,無復相拒,此自上由太尉神算,次在鎮軍聖略。經國之要,雖不豫聞,然用兵有機,間亦不容相語。」孝伯曰:「魏主當不圍此城,自率眾軍,直造瓜步。南事若辦,彭城不待攻圍;若不捷,彭城亦非所須也。我今當南飲江湖以療渴耳。」暢曰:「去留之事,自適彼懷。若虜馬遂得飲江,便為無復天道。各應反命,遲復更悉。」暢便回還,孝伯追曰:「長史深自愛敬,相去步武,恨不執手。」暢因復謂曰:「善將愛,冀蕩定有期,相見無遠。君若得還宋朝,今為相識之始。」孝伯曰:「待此未期。」燾又遣就二王借箜篌、琵琶、箏、笛等器及棊子,義恭答曰:「受任戎行,不齎樂具。在此燕會,政使鎮府命妓,有弦百條,是江南之美,今以相致。」世祖曰:「任居方岳,初不此經慮,且樂人常器,又觀前來諸王贈別,有此琵琶,今以相與。棊子亦付。」孝伯言辭辯贍,亦北土之美也。暢隨宜應答,吐屬如流,音韻詳雅,風儀華潤,孝伯及左右人並相視歎息。

敵はすぐに彭城の南門を攻撃し、同時に火を放った。張暢は自ら前線に出て戦い、兵士たちの先頭に立った。また、太武帝が瓜歩から北へ撤退する際、彭城の下を通り過ぎたとき、城内の人々に告げて言った。「食糧が尽きたので一旦去るが、麦が熟す頃にまた来る。」劉義恭は大いに恐れ、城門を閉じて追撃しようとしなかった。敵が再び来襲する時期が近づくと、麦を刈り苗を切り、住民を堡塁や集落に移すことを議論したが、意見は一致せず、再び会議が開かれた。鎮軍録事参軍の王孝孫だけが言った。「敵は再び来られないので、これで十分に守れる。もしまた来たとしても、この提案は成り立たない。民衆は内城に閉じ込められ、飢えに苦しむ日が長く、今は春の季節で、野で採集して自活している。一度堡塁に集めれば、すぐに餓死してしまう。民が必ず死ぬと知れば、どうして制御できようか。敵が必ず来るなら、麦を刈るのは遅くない。」座る者たちは黙り込み、誰も反論できなかった。張暢は言った。「孝孫の意見には、確かに検討すべき点がある。」鎮軍府の典籤である董元嗣が世祖(劉駿)の側に侍って進み出て言った。「王録事の意見は覆せません。まさに先の論の通りです。」別駕の王子夏がそれに続いて言った。「この論は確かにその通りだ。」張暢は笏を整えて世祖に申し上げた。「下官は孝孫に子夏を弾劾させたいと思います。」世祖が言った。「王別駕に何か問題があるのか?」張暢は言った。「麦を刈り民を移すことは、重大な議題であり、一地方の安危がこれにかかっています。子夏は州の要職にありながら、何ら異論を唱えず、元嗣の言葉を聞いてから、にこやかに応答する。側近に迎合するこの態度は、どうして君主に仕える態度と言えましょうか。」子夏は大いに恥じ入り、元嗣もまた恥じた。劉義恭の提案はそこで取りやめとなった。太祖(劉義隆)は張暢がたびたび正論を述べたと聞き、大いに賞賛した。世祖はまだ彭城に留まっていたが、張暢を先に帰還させ、さらに盱眙城を視察させ、大きな軍鎮を設置しようとした。

原文虜尋攻彭城南門,并放火,暢躬自前戰,身先士卒。及燾自瓜步北走,經彭城下過,遣人語城內:「食盡且去,須麥熟更來。」義恭大懼,閉門不敢追。虜期又至,議欲芟麥剪苗,移民堡聚,眾論並不同,復更會議。鎮軍錄事參軍王孝孫獨曰:「虜不能復來,既自可保,如其更至,此議亦不可立。百姓閉在內城,饑饉日久,方春之月,野採自資,一入堡聚,餓死立至。民知必死,何可制邪?虜若必來,芟麥無晚。」四坐默然,莫之敢對。暢曰:「孝孫之議,實有可尋。」鎮軍府典籤董元嗣侍世祖側,進曰:「王錄事議不可奪,實如來論。」別駕王子夏因曰:「此論誠然。」暢斂板白世祖曰:「下官欲命孝孫彈子夏。」世祖曰:「王別駕有何事邪?」暢曰:「芟麥移民,可謂大議,一方安危,事係於此。子夏親為州端,曾無同異,及聞元嗣之言,則歡笑酬答,阿意左右,何以事君。」子夏大慚,元嗣亦有慚色。義恭之議遂寢。太祖聞暢屢有正議,甚嘉之。世祖猶停彭城,召暢先反,并使履行盱眙城,欲立大鎮。

当時、敵は襄陽に出撃すると言い触らしていたので、張暢を南譙王劉義宣の司空しくう長史・南郡太守に任じた。また、張暢に劉興祖に代わって青州および彭城都督ととくを務めさせようとしたが、いずれも実現しなかった。

原文時虜聲云當出襄陽,故以暢為南譙王義宣司空長史、南郡太守。又欲暢代劉興祖為青州及彭城都督,並不果。

三十年(453年)、元凶(劉劭)が帝を弑逆すると、劉義宣は喪に服す日にすぐに挙兵した。張暢は首席の補佐役として、官僚の筆頭に位置し、悲しみに沈む様子は当時の人々の心を動かした。喪の礼が終わると、服を改め、黄色い革製の袴褶を着て、射堂に出て人員を選抜した。その声の調子や立ち居振る舞いは、誰もが注目せずにはいられず、彼を見た者は皆、命を尽くさんと願った。事件が平定されると、吏部尚書に召され、夷道県侯に封じられ、食邑千戸を与えられた。劉義宣はすでに異心を抱いており、蔡超らは張暢が民望を集めていることを理由に、劉義宣に彼を留めるよう勧めた。そこで劉義宣は南蛮校尉の職を解いて張暢に与え、冠軍かんぐん将軍を加え、丞相長史を兼任させた。張暢は門生の苟僧宝を都に下らせ、顔竣を通じて劉義宣の謀反の様子を報告させた。僧宝は私的な荷物を巴陵に止めていたため、すぐに下ることができず、ちょうど劉義宣が挙兵したため、渡し場の道が断絶し、僧宝は行けなくなった。劉義宣が謀反を起こそうとしたとき、寵愛する者である翟霊宝を張暢のもとに遣わして言わせた。「朝廷は船と兵士を選び練り、西方討伐を意図している。今、自衛のために兵を起こしたい。」張暢は言った。「必ずやそのようなことはありません。命をかけて保証します。」霊宝は張暢が考えを変えないと知り、劉義宣に彼を殺して衆に示すよう勧めた。劉義宣はすぐに張暢を召し出したが、東の部屋に留め置き、一日中会おうとしなかった。司馬の竺超民が保護したおかげで、かろうじて難を免れた。その後、撫軍将軍に進号し、別に軍部を立てて、民望を集めようとした。張暢は文書や檄文に署名はしたが、酒を飲んで常に酔っており、文書を省みることはなかった。劉義宣に従って東下し、梁山での戦いに敗れると、劉義宣は逃走し、張暢は兵乱の中で自ら帰順しようとしたが、兵士たちに掠奪され、衣服をすべて失った。右将軍の王玄謨が車に乗って陣営から出てきたとき、張暢はすでにぼろぼろの衣服を身に着けており、玄謨の車に押し寄せて乗り込んだ。玄謨は非常に不愉快に思い、諸将は張暢を殺そうとしたが、隊主の張世が救出して難を免れた。都に送られ、廷尉に下され、爵位と封土を削られ、左右尚方に配属された。まもなく赦免された。

原文三十年,元凶弒逆,義宣發哀之日,即便舉兵,暢為元佐,位居僚首,哀容俯仰,廕映當時。舉哀畢,改服,著黃韋絝褶,出射堂簡人,音姿容止,莫不矚目,見之者皆願為盡命。事平,徵為吏部尚書,夷道縣侯,食邑千戶。義宣既有異圖,蔡超等以暢民望,勸義宣留之,乃解南蠻校尉以授暢,加冠軍將軍,領丞相長史。暢遣門生苟僧寶下都,因顏竣陳義宣釁狀。僧寶有私貨停巴陵,不時下,會義宣起兵,津徑斷絕,僧寶遂不得去。義宣將為逆,遣嬖人翟靈寶謂暢:「朝廷簡練舟甲,意在西討,今欲發兵自衞。」暢曰:「必無此理,請以死保之。」靈寶知暢不回,勸義宣殺以徇眾。即遣召暢,止于東齋,彌日不與相見,賴司馬竺超民保持,故獲全免。既而進號撫軍,別立軍部,以收民望。暢雖署文檄,而飲酒常醉,不省文書。隨義宣東下,梁山戰敗,義宣奔走,暢於兵亂自歸,為軍人所掠,衣服都盡。值右將軍王玄謨乘輿出營,暢已得敗衣,排玄謨上轝,玄謨意甚不說,諸將欲殺之,隊主張世營救得免。送京師,下廷尉,削爵土,配左右尚方。尋見原。

再び起用されて都官尚書となり、侍中に転じ、子の張淹に代わって太子右衛率を兼任した。孝建二年(455年)、会稽太守として出向した。大明元年(457年)、在官のまま死去した。享年五十。顔竣は世祖に上表して言った。「張暢はついに病に倒れ、救えませんでした。東南の俊秀であり、早くから模範を示し、その訃報を聞くにつけ悲しみ痛み、常に深く思いを寄せておりました。」諡は宣子。張暢は弟の子である張輯を愛し、臨終の遺言で張輯と合葬するよう命じた。

原文復起為都官尚書,轉侍中,代子淹領太子右衞率。孝建二年,出為會稽太守。大明元年,卒官,時年五十。顏竣表世祖:「張暢遂不救疾。東南之秀,蚤樹風範,聞問悽愴,深切常懷。」諡曰宣子。暢愛弟子輯,臨終遺命與輯合墳。

子の張浩は、官は義陽王劉昶の征北諮議参軍まで至った。

原文子浩,官至義陽王昶征北諮議參軍。

張浩の弟の張淹は、世祖の南中郎主簿であった。世祖が即位すると、黄門郎となり、広晋県子に封じられ、食邑五百戸を与えられた。太子右衛率、東陽太守を歴任した。郡の役人に腕を焼いて仏を照らすことを強要し、民に罪があると礼拝させ、その回数は数千回に及んだ。官を免ぜられ、出仕を禁じられた。のちに起用されて光禄勲、臨川内史となった。太宗(劉彧)の泰始初年(465年)、晋安王劉子勛とともに謀反を起こし、軍勢を率いて鄱陽まで至ったが、軍は敗れ、殺害された。

原文浩弟淹,世祖南中郎主簿。世祖即位,為黃門郎,封廣晉縣子,食邑五百戶。太子右衞率,東陽太守。逼郡吏燒臂照佛,民有罪使禮佛,動至數千拜。免官禁錮。起為光祿勳,臨川內史。太宗泰始初,與晉安王子勛同逆,率眾至鄱陽,軍敗見殺。

張暢の弟の張悦もまた、美しい評判があった。中書吏部郎、侍中、臨海王劉子頊りゅうしきょくの前軍長史・南郡太守を歴任した。晋安王劉子勛が尋陽で偽の帝号を建てると、吏部尚書に召され、鄧琬とともに偽政権を補佐した。事が失敗すると、鄧琬を殺して帰順した。詳細は鄧琬伝にある。再び太子庶子となり、やがて巴陵王劉休若の衛軍長史・襄陽太守に任じられた。四年(468年)、すぐに劉休若に代わって雍州刺史しし・寧遠将軍となった。また劉休若の征西長史・南郡太守となった。六年(470年)、太宗は巴郡に三巴校尉を設置し、張悦をこれに補任し、持節・輔師将軍を加え、巴郡太守を兼任させた。拝命しないうちに死去した。

原文暢弟悅,亦有美稱。歷中書吏部郎,侍中,臨海王子頊前軍長史、南郡太守。晉安王子勛建偽號於尋陽,召為吏部尚書,與鄧琬共輔偽政。事敗,殺琬歸降,事在琬傳。復為太子庶子,仍除巴陵王休若衞軍長史、襄陽太守。四年,即代休若為雍州刺史、寧遠將軍。復為休若征西長史、南郡太守。六年,太宗於巴郡置三巴校尉,以悅補之,加持節、輔師將軍,領巴郡太守。未拜,卒。

何偃は字を仲弘といい、廬江郡灊県の人で、司空何尚之の次子である。州から議曹従事に辟召され、秀才に挙げられ、中軍参軍に任じられ、臨川王劉義慶の平西府主簿となった。太子洗馬に召されたが、拝命しなかった。元嘉十九年(442年)、丹陽丞となり、廬陵王友に任じられ、太子中舎人、中書郎、太子中庶子を歴任した。当時、義陽王劉昶が東宮に仕えており、何偃に義陽国の事務を行わせた。

原文何偃字仲弘,廬江灊人,司空尚之中子也。州辟議曹從事,舉秀才,除中軍參軍,臨川王義慶平西府主簿。召為太子洗馬,不拜。元嘉十九年,為丹陽丞,除廬陵王友,太子中舍人,中書郎,太子中庶子。時義陽王昶任東官,使偃行義陽國事。

二十九年(452年)、太祖(劉義隆)は再び北伐を考え、群臣に意見を求めた。何偃の意見は次の通りである。「内幹の胡法宗が詔を宣し、北伐について尋ねられました。伏して考えるに、賊は確かに残虐な害をなしており、犬羊のような夷狄は混乱しやすく、殲滅することは難しくないと存じます。まさに天子のご思召の通りでございます。しかし今、廟算に遺漏はなくとも、兵士はまだ十分に訓練されていません。辺境の鎮戍は、充実している所は少なく、辺境の民は流散し、多くはまだ本業に就いていません。統制と引き合いにする資材は、根本である内地から調達しています。根本を損なって辺境の患いに殉じるならば、出兵しても必ずや成功しないでしょう。昨年の敗北による損傷や、続く内紛を考慮せず、亡びつつある者を侮り混乱を取るのは、確かに勢いがあるように見えます。しかし淮・泗の数州は、実に疲弊消耗しており、流浪の傭兵は帰らず、傷ついた者は立ち直っていません。しかも攻勢と守勢は同じではなく、客軍と主軍の形勢は異なります。軽く見れば勢いが厳しく、包囲すれば長い時間がかかり、進退の間に、奸計や憂いが互いに起こります。ひそかに考えるに、当今の弊害は容易に挫かれ、将来の敵寇は深くはありません。恥を忍び病を隠し、天道に従って整えるべきです。」始興王劉濬の征北長史・南東海太守に転じた。

原文二十九年,太祖欲更北伐,訪之羣臣,偃議曰:「內幹胡法宗宣詔,逮問北伐。伏計賊審有殘禍,犬羊易亂,殲殄非難,誠如天旨。今雖廟算無遺,而士未精習。緣邊鎮戍,充實者寡,邊民流散,多未附業。控引所資,取給根本。虧根本以殉邊患,宜動必不剋。無慮往歲挫傷,續以內釁,侮亡取亂,誠為沛然。然淮、泗數州,實亦彫耗,流傭未歸,創痍未起。且政守不等,客主形異,薄之則勢艱,圍之則曠日,進退之間,姦虞互起。竊謂當今之弊易衂,方來之寇不深,宜含垢藏疾,以齊天道。」遷始興王濬征北長史、南東海太守。

元凶(劉劭)が帝を弑して即位すると、何偃を侍中とし、詔誥を掌らせた。当時、何尚之は司空・尚書令であり、何偃は門下省にいて、父子ともに権力の要職にあったため、当時の人々は心寒く思った。しかし尚之と偃は機宜をうまく取り計らい、巧みに当時の称賛を得た。世祖(劉駿)が即位すると、任用と待遇は変わらず、大司馬長史に任じられ、侍中に転じ、太子中庶子を兼任した。当時、百官に直言を求めると、何偃は次のように考えた。「農業を重視し根本を慈しみ、官を併せて事務を簡素化し、考課によって能力の有無を知り、俸禄を増やして官吏の奸悪を除くべきです。優れた太守に責任を負わせ、その職に長く留めさせます。都督と刺史は、その任務を区別すべきです。」

原文元凶弒立,以偃為侍中,掌詔誥。時尚之為司空、尚書令,偃居門下,父子並處權要,時為寒心;而尚之及偃善攝機宜,曲得時譽。會世祖即位,任遇無改,除大司馬長史,遷侍中,領太子中庶子。時責百官讜言,偃以為:「宜重農卹本,并官省事,考課以知能否,增俸以除吏姦。責成良守,久於其職。都督刺史,宜別其任。」

改めて驍騎ぎょうき将軍を領し、親遇は隆密で、旧臣以上に加えられた。吏部尚書に転じた。尚之が選職を去ってまだ五年も経たないうちに、偃が再びその跡を襲い、世間は栄誉と見なした。侍中の顔竣はこの時になって初めて貴顕となり、偃とともに門下に在り、文義をもって賞会し、互いに得るところ多く甚だ歓んだ。竣は自ら任遇が隆密であるから、重大な地位に居るべきだと考えたが、位次は偃と等しく別段の差がなく、心中やや快く思わなかった。偃が竣に代わって選職を領すると、竣はますます憤懣を抱き、偃との間に遂に隙が生じた。竣は当時その勢いが朝野を傾けるほどであり、偃は自ら安んじることができず、遂に心悸の病を発し、思慮が乖僻となり、上表して職を解き、医師に告げて仕えず。世祖は偃に対する遇いが既に深く、手厚く治療を加え、名医と上薬を、適宜に必要なままに供し、ようやく癒えた。

原文改領驍騎將軍,親遇隆密,有加舊臣。轉吏部尚書。尚之去選未五載,偃復襲其迹,世以為榮。侍中顏竣至是始貴,與偃俱在門下,以文義賞會,相得甚歡。竣自謂任遇隆密,宜居重大,而位次與偃等未殊,意稍不悅。及偃代竣領選,竣愈憤懣,與偃遂有隙。竣時勢傾朝野,偃不自安,遂發心悸病,意慮乖僻,上表解職,告醫不仕。世祖遇偃既深,備加治療,名醫上藥,隨所宜須,乃得瘥。

当時、上の長女である山陰公主は一時の寵愛を一身に受け、偃の子の戢に嫁いだ。偃は平素から玄談を好み、『荘子』の消搖篇に注釈を施して世に伝わった。

原文時上長女山陰公主愛傾一時,配偃子戢。素好談玄,注莊子消搖篇傳於世。

大明二年、官の任上で卒去した。時に四十六歳。世祖は顔竣に詔して言った、「何偃が遂に異世となった。美志は長く往ってしまった。彼と周旋し、重ねて姻媾の縁があった。臨んで哭し傷み怨むのは、まことに已むことができない。往ってしまったものをどうしようもない。宜しく散騎常侍・金紫光禄大夫を追贈し、本官は元の通りとせよ。」諡して靖子といった。子の戢は、昇明の末年に、相国左長史となった。

原文大明二年,卒官,時年四十六。世祖與顏竣詔曰:「何偃遂成異世,美志長往。與之周旋,重以姻媾,臨哭傷怨,良不能已。往矣如何!宜贈散騎常侍、金紫光祿大夫,本官如故。」諡曰靖子。子戢,昇明末,為相國左長史。

江智淵は、済陽郡考城県の人で、湘州刺史の江夷の弟の子である。父の僧安は、太子中庶子であった。

原文江智淵,濟陽考城人,湘州刺史夷弟子。父僧安,太子中庶子。

智淵は初め著作郎となり、江夏王劉義恭の太尉行参軍、太子太傅主簿、随王劉誕の後軍参軍となった。伯父の江夷は盛んな名声があり、夷の子の江湛もまた清い誉れがあり、父子ともに貴顕で通達していた。智淵の父は若い頃から名望がなく、江湛の礼敬は甚だ簡略で、智淵は常にこれを恨みとし、節句や歳時以外には、江湛の門に入らなかった。随王劉誕の補佐となってからは、襄陽におり、劉誕は彼を甚だ厚く遇した。当時、諮議参軍の謝庄と府主簿の沈懐文はともに智淵と親しくした。懐文はしばしば彼を称して言った、「人が有すべきものはことごとく有し、人が有すべきでないものはことごとく無い者、それは江智淵であろうか。」元嘉の末年に、尚書庫部郎に任じられた。当時、高流の官序は台郎を務めず、智淵は門閥が孤で援けが少なく、ただこの選任だけがあり、心中甚だ快からず、固く辞して拝受しようとしなかった。竟陵王劉誕が再び版を下して驃騎ひょうき参軍とし、主簿に転じ、府に随って司空主簿・記室参軍に転じ、南濮陽太守を領し、従事中郎に遷った。劉誕が逆心を抱こうとした時、智淵はその機微を悟り、暇を請けて先に帰還した。劉誕の事が発覚すると、即座に中書侍郎に任じられた。

原文智淵初為著作郎,江夏王義恭太尉行參軍,太子太傅主簿,隨王誕後軍參軍。世父夷有盛名,夷子湛又有清譽,父子並貴達,智淵父少無名問,湛禮敬甚簡,智淵常以為恨,自非節歲,不入湛門。及為隨王誕佐,在襄陽,誕待之甚厚。時諮議參軍謝莊、府主簿沈懷文並與智淵友善。懷文每稱之曰:「人所應有盡有,人所應無盡無者,其江智淵乎。」元嘉末,除尚書庫部郎。時高流官序,不為臺郎,智淵門孤援寡,獨有此選,意甚不說,固辭不肯拜。竟陵王誕復版為驃騎參軍,轉主簿,隨府轉司空主簿、記室參軍,領南濮陽太守,遷從事中郎。誕將為逆,智淵悟其機,請假先反。誕事發,即除中書侍郎。

智淵は文雅を愛好し、詞采は清く豊かで、世祖は深く彼を知り遇し、恩礼は朝廷で第一であった。上は私的な宴席を非常に頻繁に催し、多くは群臣五、三人を命じて遊び集まらせたが、智淵は常にその筆頭であった。同僚たちがまだ前に進み出ないうちに、ただ独り引き入れられ、智淵は毎回、衆を越えることを恥じ、喜びの色を見せたことがなかった。毎回、遊幸に従う時、群僚と相随っていたが、伝詔が馳せ来たるのを見て、自分を呼ぶのだと知ると、身を聳やかし恥じ入り、その様子は容貌に現れ、論者はこれを以て彼を称賛した。

原文智淵愛好文雅,詞采清贍,世祖深相知待,恩禮冠朝。上燕私甚數,多命羣臣五三人游集,智淵常為其首。同侶未及前,輒獨蒙引進,智淵每以越眾為慚,未嘗有喜色。每從游幸,與羣僚相隨,見傳詔馳來,知當呼己,聳動愧恧,形於容貌,論者以此多之。

驍騎将軍、尚書吏部郎に遷った。上は毎回酣宴の度に、しばしば群臣を罵り辱め、かつ自ら互いに嘲りあいをさせて、これを歓笑とした。智淵は元来方正で退けを旨とし、次第に上意に合わなくなった。かつて王僧朗を使ってその子の景文を嘲弄させようとしたことがあり、智淵は正色して言った、「恐らくこのような戯れは宜しくないかと存じます。」上は怒って言った、「江僧安は痴人だ。痴人同士で互いに惜しみ合うのだ。」智淵は席に伏して流涕し、これによって恩寵は大いに衰えた。出向して新安王劉子鸞の北中郎長史・南東海太守となり、寧朔将軍を加えられ、南徐州の事務を行った。初め、上の寵姫である宣貴妃殷氏が卒去した時、群臣に諡を議させ、智淵が上議して「懐」と唱えた。上は嘉号を尽くさないとして、これを甚だ恨みに思った。後に車駕が南山に幸した時、馬に乗って殷氏の墓に至り、群臣は皆騎馬で従っていたが、上は馬鞭で墓の石柱を指して智淵に言った、「この上には『懐』の字は容れられない!」智淵はますます惶恐した。大明七年、憂いによって卒去した。時に四十六歳。

原文遷驍騎將軍,尚書吏部郎。上每酣宴,輒詬辱羣臣,并使自相嘲訐,以為歡笑。智淵素方退,漸不會旨。嘗使以王僧朗嘲戲其子景文,智淵正色曰:「恐不宜有此戲。」上怒曰:「江僧安癡人,癡人自相惜。」智淵伏席流涕,由此恩寵大衰。出為新安王子鸞北中郎長史、南東海太守,加拜寧朔將軍,行南徐州事。初,上寵姬宣貴妃殷氏卒,使羣臣議諡,智淵上議曰「懷」。上以不盡嘉號,甚銜之。後車駕幸南山,乘馬至殷氏墓,羣臣皆騎從,上以馬鞭指墓石柱謂智淵曰:「此上不容有懷字!」智淵益惶懼。大明七年,以憂卒,時年四十六。

子の季筠は、太子洗馬となり、早世した。後廃帝が即位すると、后の父として、金紫光禄大夫を追贈された。季筠の妻の王氏は、平望郷君となった。

原文子季筠,太子洗馬,早卒。後廢帝即位,以后父,追贈金紫光祿大夫。季筠妻王,平望鄉君。

智淵の兄の子の概は早く孤児となり、智淵は彼を子のように養育した。概は黄門吏部郎、侍中、武陵王の北中郎長史・南東海太守、南徐州の事務を行うことを歴任した。後廃帝の元徽年間に卒去した。

原文智淵兄子概早孤,養之如子。概歷黃門吏部郎,侍中,武陵王北中郎長史、南東海太守,行南徐州事。後廢帝元徽中卒。