宋書

列伝第十三 張茂度 庾登之 謝方明 江夷

列伝第十三 張茂度 庾登之 謝方明 江夷

張茂度は、呉郡呉の人で、張良の子孫である。名は高祖(劉裕)の諱いみなと同じなので、字あざなで呼ばれた。張良の七世の孫が長沙太守たいしゅとなり、初めて呉に移住した。高祖(遠祖)は張嘉、曾祖は張澄で、晋の光禄大夫であった。祖父は張彭祖で、広州刺史しし。父は張敞で、侍中じちゅう・尚書・呉国内史を務めた。

原文張茂度,吳郡吳人,張良後也。名與高祖諱同,故稱字。良七世孫為長沙太守,始遷於吳。高祖嘉,曾祖澄,晉光祿大夫。祖彭祖,廣州刺史。父敞,侍中、尚書、吳國內史。

茂度は郡の上計吏、主簿、功曹、州から命じられた従事史に任じられたが、いずれも就任しなかった。琅邪王の衛軍参軍に任じられ、員外散騎侍郎、尚書度支郎となったが、父の喪に服すため拝命しなかった。喪が明けて、何無忌の鎮南参軍となった。まもなく、出向して晋安太守を補任した。盧循が賊となり江州を陥落させると、茂度と建安太守の孫蚪之はともに盧循からの符書を受け、その調役に供給した。盧循が敗走すると、ともに連座して免官となった。再び始興相に任じられた。郡は賊寇の被害を受け、官舎は焼かれ、民衆と物資は散り散りになり、百分の一も残っていなかった。茂度は城と寺を創建し、死者を弔い傷ついた者を慰撫し、離散した者を集め、民戸は次第に回復した。郡に一年在任し、太尉たいい参軍に召された。まもなく主簿、揚州治中従事史に転じた。高祖(劉裕)が西征して劉毅を討つ際、茂度は留守を務め、州の事務をすべて委ねられた。軍が帰還すると、中書侍郎に昇進した。出向して司馬休之の平西司馬・河南太守となった。高祖が休之を討伐しようとしたとき、茂度はそれを聞き知り、軽舟で下流へ逃げたが、途中で高祖に出会い、録事参軍に任じられ、太守は元のままとした。江陵が平定されると、驃騎ひょうき将軍の劉道憐が荊州刺史となり、茂度はそのまま諮議参軍、太守は元のままとなった。帰還して揚州別駕従事史となった。高祖が関中・洛陽に北伐する際、再び留州の事務を任された。出向して使持節・督広交二州諸軍事・建武将軍・平越中郎将・広州刺史となった。百越を鎮撫し、嶺外を安定させた。病気のため帰還を求め、再び劉道憐の司馬となった。継母の喪に服し、喪が明けると、廷尉に任じられ、尚書吏部郎に転じた。

原文茂度郡上計吏,主簿,功曹,州命從事史,並不就。除琅邪王衞軍參軍,員外散騎侍郎,尚書度支郎,父憂不拜。服闋,為何無忌鎮南參軍。頃之,出補晉安太守。盧循為寇,覆沒江州,茂度及建安太守孫蚪之並受其符書,供其調役。循走,俱坐免官。復以為始興相,郡經賊寇,廨宇焚燒,民物凋散,百不存一。茂度創立城寺,弔死撫傷,收集離散,民戶漸復。在郡一周,徵為太尉參軍,尋轉主簿、揚州治中從事史。高祖西伐劉毅,茂度居守,留州事悉委之。軍還,遷中書侍郎。出為司馬休之平西司馬、河南太守。高祖將討休之,茂度聞知,乘輕船逃下,逢高祖於中路,以為錄事參軍,太守如故。江陵平,驃騎將軍道憐為荊州,茂度仍為諮議參軍,太守如故。還為揚州別駕從事史。高祖北伐關洛,復任留州事。出為使持節、督廣交二州諸軍事、建武將軍、平越中郎將、廣州刺史。綏靜百越,嶺外安之。以疾求還,復為道憐司馬。丁繼母憂,服闋,除廷尉,轉尚書吏部郎。

太祖(劉義隆)の元嘉元年、出向して使持節・督益寧二州梁州之巴西梓潼宕渠南漢中秦州之懐寧安固六郡諸軍事・冠軍かんぐん将軍・益州刺史となった。三年、太祖が荊州刺史の謝晦を討伐したとき、詔により益州に軍を派遣して江陵を襲撃させたが、謝晦が平定された後に軍がようやく白帝に到着した。茂度は謝晦と平素から親しかったため、議論する者は彼が出兵を遅らせたことを疑った。当時、茂度の弟の張邵が湘州刺史として、天子(劉義隆)に応じて兵を起こしたため、上(劉義隆)は張邵の忠誠心を考慮し、茂度を罪に問わず、交代させて京師に召還した。七年、起用されて廷尉となり、奉車都尉を加えられ、本州の中正を兼ねた。入朝して五兵尚書となり、太常に転じた。脚の病気のため出向して義興太守となり、秩禄を中二千石に加増された。上は穏やかに茂度に言った。「もう西蜀(益州での遅延事件)のことを気にかけるな。」茂度は答えて言った。「臣が陛下の明察に遇わなければ、墓の木はすでに両手で抱えるほどになっていたでしょう(死んでいたでしょう)。」

原文太祖元嘉元年,出為使持節、督益寧二州梁州之巴西梓潼宕渠南漢中秦州之懷寧安固六郡諸軍事、冠軍將軍、益州刺史。三年,太祖討荊州刺史謝晦,詔益州遣軍襲江陵,晦已平而軍始至白帝。茂度與晦素善,議者疑其出軍遲留,時茂度弟邵為湘州刺史,起兵應大駕,上以邵誠節,故不加罪,被代還京師。七年,起為廷尉,加奉車都尉,領本州中正。入為五兵尚書,徙太常。以脚疾出為義興太守,加秩中二千石。上從容謂茂度曰:「勿復以西蜀介懷。」對曰:「臣若不遭陛下之明,墓木拱矣。」

まもなく、職を解かれて帰郷した。都官尚書に召され、散騎常侍さんきじょうじを加えられたが、病気を理由に固辞した。そのまま光禄大夫を拝命し、金章紫綶を加えられた。茂度は内々に財産に満足し、人との交際を絶ち、本県の華山に居宅を営み始め、野沢を悠々と楽しみ、このようにして七年を過ごした。十八年、会稽太守に任じられた。平素から官吏としての才能があり、郡県において職務はよく治まった。翌年、在官中に死去した。享年六十七。諡は恭子。

原文頃之,解職還家。徵為都官尚書,加散騎常侍,固辭以疾。就拜光祿大夫,加金章紫綬。茂度內足於財,自絕人事,經始本縣之華山以為居止,優遊野澤,如此者七年。十八年,除會稽太守。素有吏能,在郡縣,職事甚理。明年,卒官。時年六十七。諡曰恭子。

茂度と同じ郡の陸仲元は、晋の太尉陸玩の曾孫である。事績によって知られ、清職を歴任し、吏部郎、右衛将軍、侍中、呉郡太守となった。陸玩から陸仲元に至るまで、四代が侍中を務め、当時の人々はこれを前漢の金日磾・張安世の二族になぞらえた。弟の子の陸子真は、元嘉十年に海陵太守となった。中書舎人の秋当は太祖に信任されていたが、家は海陵にあり、父が死んで葬るため帰郷した際、橋や道が壊れており、喪車が通れなかった。県は民衆を徴発して修復を求めたが、子真は許可しなかった。司徒しとの彭城ほうじょう王劉義康はこれを聞いて善しとし、子真を国子博士、司徒左西掾、州治中、臨海・東陽太守に召した。

原文茂度同郡陸仲元者,晉太尉玩曾孫也。以事用見知,歷清資,吏部郎,右衞將軍,侍中,吳郡太守。自玩洎仲元,四世為侍中,時人方之金、張二族。弟子真,元嘉十年,為海陵太守。中書舍人秋當為太祖所信委,家在海陵,父死還葬,橋路毀壞,不通喪車,縣求發民修治,子真不許。司徒彭城王義康聞而善之,召為國子博士,司徒左西掾,州治中,臨海東陽太守。

茂度の子の張演は太子中舎人、張演の弟の張鏡は新安太守で、ともに盛名があったが、いずれも早世した。張鏡の弟が張永である。

原文茂度子演,太子中舍人,演弟鏡,新安太守,皆有盛名,並早卒。鏡弟永。

張永は字を景雲といい、初め郡主簿、州従事となり、司徒士曹参軍に転じ、出向して余姚令を補任し、入朝して尚書中兵郎となった。以前から、尚書中の条制は煩雑であり、元嘉十八年、これを整理編纂しようとして、張永を刪定郎に転任させ、その任を掌らせた。二十二年、建康令に任じられ、任地ではいずれも称賛される実績を挙げた。また、広陵王劉誕の北中郎録事参軍に任じられた。張永は書史に広く通じ、文章を書き、隷書をよくし、音律に通暁し、騎射その他の雑芸に至るまで、触れるものすべてを兼ねてよくし、また巧みな思慮があり、ますます太祖に知られた。紙と墨はすべて自ら調製し、上(太祖)は張永の上表や啓奏を得るたびに、手に取って賞玩し嘆息し、供御する者がまったく及ばないと自ら嘆いた。二十三年、華林園と玄武湖を造営する際、ともに張永に監督統括させた。すべての制度や設置は、張永の定めた規則に従った。江夏王劉義恭の太尉中兵参軍・越騎校尉・振武将軍・広陵・南沛二郡太守に転任した。二十八年、また江夏王劉義恭の驃騎中兵参軍に任じられ、沛郡太守は元のままとした。

原文永字景雲,初為郡主簿,州從事,轉司徒士曹參軍,出補餘姚令,入為尚書中兵郎。先是,尚書中條制繁雜,元嘉十八年,欲加治撰,徙永為刪定郎,掌其任。二十二年,除建康令,所居皆有稱績。又除廣陵王誕北中郎錄事參軍。永涉獵書史,能為文章,善隸書,曉音律,騎射雜藝,觸類兼善,又有巧思,益為太祖所知。紙及墨皆自營造,上每得永表啟,輒執玩咨嗟,自歎供御者了不及也。二十三年,造華林園、玄武湖,並使永監統。凡諸制置,皆受則於永。徙為江夏王義恭太尉中兵參軍、越騎校尉、振武將軍、廣陵南沛二郡太守。二十八年,又除江夏王義恭驃騎中兵參軍,沛郡如故。

張永は才能があり、任地では常に心を尽くしたため、太祖は将帥に適すると考えた。二十九年、張永を督冀州青州之済南楽安太原三郡諸軍事・揚威将軍・冀州刺史とし、王玄謨・申坦ら諸将を督して、河南を経略させた。碻磝城を攻めたが、数十日かかっても陥落させられなかった。その年八月七日の夜、敵が城門を開いて楼櫓や攻車に火を放ち、兵士は焼死したり敵に殺されたりする者が多く、張永はその夜に包囲を解いて退軍したが、諸将に報告しなかったため、諸軍は驚き混乱し、敵に付け込まれ、死者や敗残者が地を埋め尽くすほどであった。張永と申坦はともに統府の撫軍将軍蕭思話に捕らえられ、歴城の獄に繋がれた。太祖はたびたび征伐して功績がなく、諸将は任用に堪えないと考え、張永らと蕭思話に詔を下して責めて言った。「敵はすでに利に乗じ、時節は盛冬に向かっている。もしあえて死を送りに来るなら、兄弟父子が自ら共にこれを当たるだけだ。言うにつけても憤りが増す。張永と申坦に見せよ。」また江夏王劉義恭に書を送って言った。「早くから諸将たちがこのような有様だと知っていれば、白刃で追い立てたことを恨む。今になって悔んでもどうしようもない。」

原文永既有才能,所在每盡心力,太祖謂堪為將。二十九年,以永督冀州青州之濟南樂安太原三郡諸軍事、揚威將軍、冀州刺史,督王玄謨、申坦等諸將,經略河南。攻碻磝城,累旬不能拔。其年八月七日夜,虜開門燒樓及攻車,士卒燒死及為虜所殺甚眾,永即夜撤圍退軍,不報告諸將,眾軍驚擾,為虜所乘,死敗塗地。永及申坦並為統府撫軍將軍蕭思話所收,繫於歷城獄。太祖以屢征無功,諸將不可任,責永等與思話詔曰:「虜既乘利,方向盛冬,若脫敢送死,兄弟父子,自共當之耳。言及增憤,可以示張永、申坦。」又與江夏王義恭書曰:「早知諸將輩如此,恨不以白刃驅之,今者悔何所及。」

三十年、元凶(劉劭)が帝を弑しい逆して即位すると、張永を起用して督青州徐州之東安東莞二郡諸軍事・輔国将軍・青州刺史とした。司空しくうの南譙王劉義宣が義兵を起こすと、また板授(臨時の任命)で張永を督冀州青州之済南楽安太原三郡諸軍事・輔国将軍・冀州刺史とした。張永は司馬の崔勲之と中兵参軍の劉則の二軍を派遣して国の難に駆けつけさせた。当時、蕭思話は彭城におり、劉義宣は二人がうまく調和しないことを懸念し、蕭思話に書を送り、張永と胸襟を開くよう勧めた。また、張永の従兄で長史の張暢に命じて張永に書を送らせて言った。「近ごろ都からの確かな知らせがあり、お前が刑罰の網にかかった経緯を詳しく知った。まさに、囚われの身にあっても、心にやましいところがないと言えよう。蕭公(思話)は公平で温厚であり、以前からわだかまりはない。お前の筆跡を見て、互いを傷つけるようなことは言わないと述べている。なんと雄弁で人の意にかなうことか。当今は世の変故が困難で切迫し、義の旗が雲のように立ち上がっている。まさに多くの賢者を頼りにし、共に時難を救わなければならない。遠くは廉頗・藺相如の公の徳を慕い、近くは陳平・周勃の私心を忘れた美しさを倣い、この小さなわだかまりを捨て、旧来の情誼を伸ばすべきだ。公(蕭思話)もまた、お前に命じて蕭公に隔てなく通じるよう示し、兼ねて返答させるようにし、共にこの旨に従うのだ。」事態が平定されると、召されて江夏王劉義恭の大司馬従事中郎となり、中兵を兼ねた。

原文三十年,元凶弒立,起永督青州徐州之東安東莞二郡諸軍事、輔國將軍、青州刺史。司空南譙王義宣起義,又板永為督冀州青州之濟南樂安太原三郡諸軍事、輔國將軍、冀州刺史。永遣司馬崔勳之、中兵參軍劉則二軍馳赴國難。時蕭思話在彭城,義宣慮二人不相諧緝,與思話書,勸與永坦懷。又使永從兄長史張暢與永書曰:「近有都信,具汝刑網之原,可謂雖在縲紲,而腹心無愧矣。蕭公平厚,先無嫌隙,見汝翰迹,言不相傷,何其滔滔稱人意邪。當今世故艱迫,義旗雲起,方藉羣賢,共康時難。當遠慕廉、藺在公之德,近效平、勃忘私之美,忽此蔕芥,剋申舊情。公亦命蕭示以疏達,兼令相報,共遵此旨。」事平,召為江夏王義恭大司馬從事中郎,領中兵。

当時、百官に直言を献上させたが、張永は諫官を設置し、忌憚のない言路を開き、軍旅のことを講じ、安泰の中にも危険を忘れないことを示すべきであると考えた。世祖孝建元年、臧質が反乱を起こし、張永を派遣して武昌王劉渾を補佐させ、京口を鎮守させた。その年、揚州別駕従事史として出向した。翌年、召還されて尚書左丞となった。当時、将士の休暇は一年に三交代で開かれ、道路上で混乱していた。張永は建議して言った。「臣は聞く、兵を起こし農耕に従わせることは、前代の王がこれを兼ねて隙間を埋め、耕戦を交互に労させることが、先代がこれによって遠くを治めたと。当今、教化は万里に及び、文治は九服に同じく、金を捨て馬を走らせることは、ここから始まる。伏して見るに、将士の休暇は多く三交代を蒙り、日程の期限は既に切迫し、装備を整えて赴くのは早い。故に一年の間に、四度も遠路を馳せ、ある者は春の耕作の機を失い、ある者は秋の収穫の要期に背き、公の常備蓄えを損ない、家には旧来の粟を欠かせ、利害を考定すれば、詳細に改めるべきである。愚かにも交代の期限は、一年を制とし、征士の思いが労苦の積もる前に、遊農の望みが一年で収穫を成すようにすべきと考える。これこそが王の法度が乱れず、民の生業が育つものである。」これに従った。

原文時使百僚獻讜言,永以為宜立諫官,開不諱之路,講師旅,示安不忘危。世祖孝建元年,臧質反,遣永輔武昌王渾鎮京口。其年,出為揚州別駕從事史。明年,召入為尚書左丞。時將士休假,年開三番,紛紜道路。永建議曰:「臣聞開兵從稼,前王以之兼隙,耕戰遞勞,先代以之經遠。當今化寧萬里,文同九服,捐金走驥,於焉自始。伏見將士休假,多蒙三番,程會既促,裝赴在早。故一歲之間,四馳遙路,或失遽春耜,或違要秋登,致使公替常儲,家闕舊粟,考定利害,宜加詳改。愚謂交代之限,以一年為制,使征士之念,勞未及積,遊農之望,收功歲成。斯則王度無騫,民業斯植矣。」從之。

大明元年、黄門侍郎に転じ、まもなく虎賁中郎将・本郡中正を兼ねた。三年、廷尉に転じた。上(孝武帝)は彼に言った。「卿は既に張釈之と同姓であるから、天下に冤罪の民が無いようにしてほしい。」寧朔将軍・尚書吏部郎・司徒右長史・尋陽王劉子房の冠軍長史を加えられた。四年、明堂が建立され、張永は本官のまま将作大匠を兼ねた。事が終わると、太子右衛率に転じた。七年、宣貴妃殷氏のために廟を立て、再び将作大匠を兼ねた。右衛将軍に転じた。その年、世祖が南巡し、宣城から候道を東に入り、張永に水路を巡行させた。この年は旱魃で、道が通じず、上は大いに怒り、免官した。当時、上の寵愛する子の新安王劉子鸞が南徐州刺史となり、呉郡を割いて徐州に属させた。八年、張永を別駕従事史として起用した。その年、召還されて御史中丞となった。前廃帝永光元年、呉興太守として出向し、度支尚書に転じた。

原文大明元年,遷黃門侍郎,尋領虎賁中郎將、本郡中正。三年,遷廷尉。上謂之曰:「卿既與釋之同姓,欲使天下須無寃民。」加寧朔將軍、尚書吏部郎、司徒右長史、尋陽王子房冠軍長史。四年,立明堂,永以本官兼將作大匠。事畢,遷太子右衞率。七年,爲宣貴妃殷氏立廟,復兼將作大匠。轉右衞將軍。其年,世祖南巡,自宣城候道東入,使永循行水路。是歲旱,塗逕不通,上大怒,免。時上寵子新安王子鸞爲南徐州刺史,割吳郡度屬徐州,八年,起永爲别駕從事史。其年,召爲御史中丞,前廢帝永光元年,出爲吳興太守,遷度支尚書。

太宗(明帝)が即位すると、吏部尚書に任じられた。拝命しないうちに、四方の反乱が起こり、再び呉興太守とし、冠軍将軍を加え、仮節を与えた。拝命しないうちに、将軍・仮節のまま、呉郡太守に転任させられ、軍を率いて東討した。また散騎常侍・太子詹事となった。拝命しないうちに、使持節・監青冀幽并四州諸軍事・前将軍・青冀二州刺史に転じ、諸将を統率して徐州刺史薛安都せつあんとを討ち、累わずらわ戦して勝利し、薛索児らを破った。事は安都伝にある。また散騎常侍・鎮軍将軍・太子詹事に転じ、徐州刺史を権領した。また徐・兗・青・冀四州諸軍事を都督ととくし、また使持節・都督南兗徐二州諸軍事・南兗州刺史となり、常侍・将軍は元の通りであった。当時、薛安都が彭城を拠点として降伏を請うたが、誠心がなく、太宗は張永と沈攸之に重兵をもって迎えさせ、前鋒軍事を督することを加え、彭城に進軍させた。安都が招き寄せた索虜(北魏)の兵が到着すると、士卒は離散し、張永は狼狽して軍を引き返したが、虜に追撃され、大敗した。また寒雪に遭い、士卒は離散し、張永は足の指が切断脱落し、かろうじて身一つで逃れ、第四子を失った。

原文太宗即位,除吏部尚書。未拜,會四方反叛,復以為吳興太守,加冠軍將軍,假節。未拜,以將軍假節,徙為吳郡太守,率軍東討。又為散騎常侍、太子詹事。未拜,遷使持節、監青冀幽并四州諸軍事、前將軍、青冀二州刺史,統諸將討徐州刺史薛安都,累戰剋捷,破薛索兒等,事在安都傳。又遷散騎常侍、鎮軍將軍、太子詹事,權領徐州刺史。又都督徐、兗、青、冀四州諸軍事,又為使持節、都督南兗徐二州諸軍事、南兗州刺史,常侍、將軍如故。時薛安都據彭城請降,而誠心不款,太宗遣永與沈攸之以重兵迎之,加督前鋒軍事,進軍彭城。安都招引索虜之兵既至,士卒離散,永狼狽引軍還,為虜所追,大敗。復值寒雪,士卒離散,永脚指斷落,僅以身免,失其第四子。

三年、都督会稽東陽臨海永嘉新安五郡諸軍事・会稽太守に転じ、将軍は元の通りであった。北討で軍律を失ったため、固く自ら貶することを求め、左将軍に降号した。張永は失った子を痛く悼み、常人の哀しみを倍加させ、喪服の期間は終わったが、なお霊座を立て、飲食衣服を、生きている時のように供えた。毎回外出する時は、常に別に名車と良馬を用意し、「侍従」と号し、用事があるとすぐ左右の者に「郎君に報告せよ」と言った。薛索児を破った功績により、孝昌県侯に封じられ、食邑千戸を与えられた。会稽にいた時、賓客に謝方童らがおり、贓物罪で獄に下され死んだため、張永はまた冠軍将軍に降号した。四年、使持節・督雍梁南北秦四州郢州えいしゅう之竟陵随二郡諸軍事・右将軍・雍州刺史に転じた。拝命しないうちに、留め置かれて太子詹事とし、散騎常侍・本州大中正を加えられた。六年、また護軍将軍を加えられ、石頭せきとう戍事を領した。鼓吹一部を与えられた。七年、金紫光禄大夫に転じ、まもなく再び護軍を領した。後廃帝が即位すると、右光禄大夫に進み、侍中を加えられ、安成王師を領し、親信二十人を加えられた。また本州中正を領し、呉郡太守として出向し、秩禄は中二千石、侍中・右光禄は元の通りであった。

原文三年,徙都督會稽東陽臨海永嘉新安五郡諸軍事、會稽太守,將軍如故。以北討失律,固求自貶,降號左將軍。永痛悼所失之子,有兼常哀,服制雖除,猶立靈座,飲食衣服,待之如生。每出行,常別具名車好馬,號曰侍從,有事輒語左右報郎君。以破薛索兒功,封孝昌縣侯,食邑千戶。在會稽,賓客有謝方童等,坐贓下獄死,永又降號冠軍將軍。四年,遷使持節、督雍梁南北秦四州郢州之竟陵隨二郡諸軍事、右將軍、雍州刺史。未拜,停為太子詹事,加散騎常侍、本州大中正。六年,又加護軍將軍,領石頭戌事。給鼓吹一部。七年,遷金紫光祿大夫,尋復領護軍。後廢帝即位,進右光祿大夫,加侍中,領安成王師,加親信二十人。又領本州中正,出為吳郡太守,秩中二千石,侍中、右光祿如故。

元徽二年、使持節・都督南兗徐青冀益五州諸軍事・征北将軍・南兗州刺史に転じ、侍中は元の通りであった。張永は若い頃から駆け回り、力を尽くすことを志し、年は既に老いていたが、志気は衰えず、悠々と閑職にいることを、非常に不愉快に思い、この任命があると、非常に喜び、即日車を命じて都に戻った。任地に赴かないうちに、桂陽王劉休範りゅうきゅうはんの乱が起こり、張永は率いる所領を率いて出屯し白下に駐屯した。休範が新亭に至り、大桁が守られず、前鋒は遂に南掖門を攻めた。張永は人を遣わして賊を偵察させたが、戻ると「台城が陥落した」と叫んだ。張永の軍衆はここで潰散し、張永もまた軍を棄てて逃走し、以前住んでいた南苑に戻った。張永が旧臣であるため罪に問わず、ただ免官と爵位削除のみとし、張永もまた恥じ嘆き病気を発した。三年、死去した。時に六十六歳。順帝昇明二年、侍中・右光禄大夫を追贈された。子の張瓌は、昇明末に高官となった。

原文元徽二年,遷使持節、都督南兗徐青冀益五州諸軍事、征北將軍、南兗州刺史,侍中如故。永少便驅馳,志在宣力,年雖已老,志氣未衰,優遊閑任,意甚不樂,及有此授,喜悅非常,即日命駕還都。未之鎮,值桂陽王休範作亂,永率所領出屯白下。休範至新亭,大桁不守,前鋒遂攻南掖門。永遣人覘賊,既返,唱云「臺城陷矣」。永眾於此潰散,永亦棄軍奔走,還先所住南苑。以永舊臣不加罪,止免官削爵,永亦愧歎發病。三年,卒,時年六十六。順帝昇明二年,追贈侍中、右光祿大夫。子瓌,昇明末,達官。

張永の弟の張弁も、太宗に任用遇され、尚書吏部郎、広州刺史、大司農を歴任した。張弁の弟の張岱は、昇明末に吏部尚書となった。

原文永弟辯,太宗亦見任遇,歷尚書吏部郎,廣州刺史,大司農。辯弟岱,昇明末,吏部尚書。

庾登之、字は元龍、潁川鄢陵の人である。曾祖父の庾冰は、晋の司空。祖父の庾蘊は、広州刺史。父の庾廓は、東陽太守。

原文庾登之字元龍,潁川𨻳陵人也。曾祖冰,晉司空。祖蘊,廣州刺史。父廓,東陽太守。

登之は若い頃から強く物事を処理する能力で自立した。初めは晋の会稽王司馬道子の太傅参軍となった。義旗(劉裕の挙兵)の初め、また高祖(劉裕)の鎮軍参軍となった。桓玄討伐に参画した功績により、曲江県五等男に封じられた。大司馬琅邪王(司馬徳文)の軍事に参じ、豫州別駕従事史、大司馬主簿、司徒左西曹属となった。登之は学問には関わらなかったが、世事に長け、王弘、謝晦、江夷らと皆知己となった。太尉主簿に転じた。義熙十二年、高祖が北伐すると、登之は鞭を打って駆け回ったが、退いて劉穆之に告げ、母が老いていることを理由に郡守を求めた。当時、士庶は皆遠征を恐れていたが、登之は心変わりしたので、高祖は大いに怒り、官吏の名簿から除いた。大軍が出発した後、鎮蛮護軍・西陽太守に補任された。入朝して太子庶子、尚書左丞となった。新安太守として出向した。

原文登之少以強濟自立。初為晉會稽王道子太傅參軍。義旗初,又為高祖鎮軍參軍。以預討桓玄功,封曲江縣五等男。參大司馬琅邪王軍事,豫州別駕從事史,大司馬主簿,司徒左西曹屬。登之雖不涉學,善於世事,王弘、謝晦、江夷之徒,皆相知友。轉太尉主簿。義熙十二年,高祖北伐,登之擊節驅馳,退告劉穆之,以母老求郡。于時士庶咸憚遠役,而登之二三其心,高祖大怒,除吏名。大軍發後,乃以補鎮蠻護軍、西陽太守。入為太子庶子,尚書左丞。出為新安太守。

謝晦が撫軍将軍・荊州刺史となると、長史・南郡太守を請い、そのまま衛軍長史となり、太守は元の通りであった。登之と謝晦はともに曹氏(曹操の子孫? あるいは同じ曹姓の家柄)の婿であり、名声と地位は本来同じであったが、一朝にしてその補佐役となり、心中非常に不満であった。着任の挨拶状には、ただ「本日恭しく到着しました」と書き、感謝の言葉は全くなかった。毎回参内して拝謁する時は、箱や嚢、机や席の類を全て持ち込み、一つでも欠けると座らなかった。謝晦は常に寛容に扱った。謝晦が王師(朝廷軍)に抵抗する時、登之に留守をさせようとしたが、登之は許さず、語は晦伝にある。謝晦が敗れると、登之は任務に就いていなかったため罪を免れ、禁錮されて家に帰された。

原文謝晦為撫軍將軍、荊州刺史,請為長史、南郡太守,仍為衞軍長史,太守如故。登之與晦俱曹氏壻,名位本同,一旦為之佐,意甚不愜。到廳牋,唯云「即日恭到」,初無感謝之言。每入覲見,備持箱囊几席之屬,一物不具不坐。晦常優容之。晦拒王師,欲使登之留守,登之不許,語在晦傳。晦敗,登之以無任免罪,禁錮還家。

元嘉五年(428年)、衡陽王劉義季の征虜長史として起用された。義季は年少で、まだ政務に親しんでおらず、諸事はすべて彼に委ねられた。まもなく南東海太守を兼任した。のちに中央に入り、司徒右長史、尚書吏部郎、司徒左長史、南東海太守を歴任した。府公の彭城王劉義康が政事を専断し、下僚が自ら意見を述べることを好まなかったが、登之は剛直な性格で、しばしば己の意見を述べたため、義康は大いに不愉快に思い、彼を外任として呉郡太守に出した。州と郡は隣接していたが、登之の意志は変わらず、その任地における賄賂収受を理由に、事を以て官を免ぜられた。弟の炳之は当時臨川内史であったので、登之は弟に従ってその郡に赴き、悠々自適の生活を送った。まもなく豫章太守に任ぜられ、赴任の途についた。登之が最初に臨川に着いた時は、役人や民衆は皆彼を軽んじ侮っていたが、豫章は臨川と境を接し、郡もまた大きく華やかで、迎えの儀仗は輝かしく盛大であったため、土地の人々は皆驚き感嘆した。十八年(441年)、江州刺史に転じた。病が重くなったため、中護軍として召還されたが、拝命しなかった。二十年(443年)、死去した。享年六十二。その死に際して、中護軍の官を追贈された。

原文元嘉五年,起為衡陽王義季征虜長史。義季年少,未親政,眾事一以委之。尋加南東海太守。入為司徒右長史,尚書吏部郎,司徒左長史,南東海太守。府公彭城王義康專覽政事,不欲自下厝懷,而登之性剛,每陳己意,義康甚不悅,出為吳郡太守。州郡相臨,執意無改,因其莅任贓貨,以事免官。弟炳之時為臨川內史,登之隨弟之郡,優游自適。俄而除豫章太守,便道之官。登之初至臨川,吏民咸相輕侮,豫章與臨川接境,郡又華大,儀迓光赫,土人並驚歎焉。十八年,遷江州刺史。疾篤,徵為中護軍,未拜。二十年,卒,時年六十二。即以為贈。

子の沖遠は、太宗(劉彧)が姑孰こじゅくを鎮守した時、衛軍長史となり、豫章太守の任中に死去し、侍中を追贈された。

原文子沖遠,太宗鎮姑孰,為衞軍長史,卒於豫章太守,追贈侍中。

炳之は字を仲文といい、初め秘書郎・太子舎人となり、劉粹の征北長史・広平太守を務めた。兄の登之が謝晦の長史であった時、炳之は彼を訪ねて行った。謝晦は当時高位で権勢が重く、朝廷の士人たちは皆敬意を加えずにはいられなかったが、炳之だけは対等の礼をもって接し、当時の論者は彼を剛直と称えた。尚書度支郎に任ぜられたが拝命せず、外任として銭唐令に補され、民を治めて実績を上げた。彭城王劉義康の驃騎主簿に転じたが、就任前に丹陽丞に転任となった。炳之はまだ府(彭城王府)に到着していなかったため、府公(義康)に対する礼敬のあり方について疑義が生じ、礼官に広く議論させた。中書侍郎の裴松之が議して言った。「春秋桓公八年に、祭公が紀で王后を迎えた例を考える。公羊伝に『女は国にあっては女と称する。これが王后と称するのはなぜか。王者には外はないので、その言葉はすでに成っているからである』とある。これを推し進めて言えば、炳之が官吏としての道を定めたのは任命を受けた日であり、その言葉はすでに成っており、官にあっては外はなく、名器が正しければ礼もそれに従うのである。また、今の地方長官たる者は、任命を受けて職に就かず、まだ接していない民に対しても、必ずそれ相応の敬意を持つべきであり、それはすでに王命を受けた以上、君主と民との義が成立しているからである。官吏が勅命を受けることは、任命を受ける者が拝礼を受けることと同じであり、民はまだ会っていないからといってその礼を受けることを欠くことはなく、官吏はどうしてまだ到着していないからといってその節度を廃することができようか。私見では、官吏の礼を執るべきである」。この意見に従った。司徒左西属に遷った。左将軍の竟陵王劉義宣はまだ府を開いていなかったが、板授により炳之を諮議参軍とし、すべての事務を彼に委ねた。後将軍の長沙王劉義欣が寿陽を鎮守した時、炳之はその長史・南梁郡太守となり、鎮軍長史に転じ、太守は元のままとした。外任として臨川内史となった。後将軍の始興王劉濬が湘州を鎮守した時、炳之を司馬とし、長沙内史を兼任させた。劉濬は赴任しなかったため、炳之は南泰山太守に任ぜられ、司馬は元のままとした。

原文炳之字仲文,初為祕書、太子舍人,劉粹征北長史、廣平太守。兄登之為謝晦長史,炳之往省之。晦時位高權重,朝士莫不加敬,炳之獨與抗禮,時論健之。為尚書度支郎,不拜。出補錢唐令,治民有績。轉彭城王義康驃騎主簿,未就,徙為丹陽丞。炳之既未到府,疑於府公禮敬,下禮官博議。中書侍郎裴松之議曰:「案春秋桓八年,祭公逆王后于紀。公羊傳曰:『女在國稱女,此其稱王后何?王者無外,其辭成矣。』推此而言,則炳之為吏之道,定於受命之日矣,其辭已成,在官無外,名器既正,則禮亦從之。且今宰牧之官,拜不之職,未接之民,必有其敬者,以既受王命,則成君民之義故也。吏之被勑,猶除者受拜,民不以未見闕其被禮,吏安可以未到廢其節乎?愚懷所見,宜執吏禮。」從之。遷司徒左西屬。左將軍竟陵王義宣未親府板炳之為諮議參軍,眾務悉委焉。後將軍長沙王義欣鎮壽陽,炳之為長史、南梁郡太守,轉鎮軍長史,太守如故。出為臨川內史。後將軍始興王濬鎮湘州,以炳之為司馬,領長沙內史。濬不之任,除南泰山太守,司馬如故。

当時、領軍将軍の劉湛は大将軍の彭城王劉義康に協力し付き従っていたが、僕射の殷景仁とは不和であり、殷氏と交遊する朝廷の士人はすべて劉氏の門に入ることができなかった。ただ炳之だけが二人の間を交遊し、密かに朝廷に対して忠誠を尽くした。景仁が病気と称して朝見しなくなって数年が経ったが、太祖(文帝)は常に炳之に命じて両者の間を行き来させ、劉湛も疑わなかった。義康が外藩に出され、劉湛が誅殺された後、炳之は尚書吏部郎とされ、右衛将軍の沈演之とともに機密に参与した。まもなく侍中に転じ、本州(彼の本籍地の州)の大中正を兼ねた。吏部尚書に遷り、義陽王師を兼任した。内外から帰依され、その勢いは朝廷内外を傾けた。

原文于時領軍將軍劉湛協附大將軍彭城王義康,而與僕射殷景仁有隙,凡朝士遊殷氏者,不得入劉氏之門,獨炳之遊二人之間,密盡忠於朝廷。景仁稱疾不朝見者歷年,太祖常令炳之銜命去來,湛不疑也。義康出藩,湛伏誅,以炳之為尚書吏部郎,與右衞將軍沈演之俱參機密。頃之,轉侍中,本州大中正。遷吏部尚書,領義陽王師。內外歸附,勢傾朝野。

炳之の為人は強情でせっかちで忍耐強くなく、賓客で理不尽な訴えをする者があれば、憤り罵る様子が言葉や表情に表れた。もともと学術がなく、衆望を集めることはなかった。潔癖な性格で、士大夫が彼を訪ねて来ると、去って戸を出るやいなや、すぐに人に命じて座席を拭き寝台を洗わせた。当時、陳郡の殷沖も清潔を好み、小史は清潔に浴して新しい衣を着なければ、左右に近づくことができなかった。士大夫で少しでも整っていない者があれば、いつも受け入れて接した。炳之の潔癖はこれとは逆で、殷沖はしばしばこのことをもって彼を嘲笑した。選挙を担当してからは、衆論をまとめられず、またかなり賄賂を受け取った。炳之が急用で帰宅した時、吏部令史の銭泰と主客令史の周伯斉が炳之の邸宅に出向いて事務を諮った。銭泰は琵琶を弾くことができ、周伯斉は歌が上手かったので、炳之は彼らを引き留めて宿泊させた。尚書省の旧制では、令史が事務を諮る場合、外に宿泊してはならず、たとえ八座(高官)の命令があっても許されなかった。このため有司に奏劾された。上(文帝)はもともと炳之を厚遇していたので、これを許そうと考え、尚書右僕射の何尚之を召して問うた。尚之は炳之の得失を詳しく述べた。さらに密かに上奏して言った。「国や家のためには、何につけても前代の典拠を慎重に用いるものであり、今たった一人を通そうとすることは、哲王が世を治める長久の術とは思えません。炳之の行いは、曖昧なものではなく、私が聞いているのも一日や二日のことではなく、またしばしば目撃しており、その事は山のように積もり、これほど明らかであるのに、放置して糾弾しなければ、これ以上どのようにして政治を行えばよいのかわかりません。晋の武帝は明主とは言えませんが、鬲県令の事件を断じて、奮発することができました。華廙は待遇が軽くなく、数年も官を奪われた後、再び起用された時は城門校尉に過ぎませんでした。もし炳之が国に対して誠意があると言うなら、具体的にどのような事柄かわかりません。ただ殷景仁とは旧来の関係を失わず、劉湛ともまた疎遠ではなかった、と言えるだけです。しかも景仁に対する当時の事の趣意は、どうして軽んじることができましょうか。朝廷の士人が両方に推挙されることもまた限りなくあり、たとえわずかな誠意があったとしても、どうしてその悪を覆い隠すことができましょうか。今、賈充は功績があり、晋の重臣でしたが、事業が成功しなかったとはいえ、大罪を犯したとは聞きません。諸臣が進言したので、すぐに遠方に出されました。陛下は聖明でいらっしゃいますのに、かえってこの件で遅疑なさっています。炳之自身の過失は、すでに世間に喧伝されており、朋党を結び、是非を扇動して、まさに風俗を乱し傷つけるに足ります。諸々の悪事は紛々として、范曄よりもひどく、ただ賊をなす一事が少ないだけです。伏して願わくは深く三思され、諸々の評判を手がかりに、広く顧問とすべき者に尋ねてみてください。臣下たちは陛下の厚遇が重いのを見て、苦しめて傷つけることを恐れて敢えて言わないでしょうから、顧問する際には、嫌疑と責めの趣旨を明らかにされるべきです。もしこのようにしなければ、得失を弁明することもないでしょう。私は愚かではありますが、すでに啓上した以上、その心を尽くしたいと思います。もし採用されないのであれば、伏して願わくはその抵触の罪をお許しください」。

原文炳之為人強急而不耐煩,賓客干訴非理者,忿詈形於辭色。素無術學,不為眾望所推。性好潔,士大夫造之者,去未出戶,輒令人拭席洗牀。時陳郡殷沖亦好淨,小史非淨浴新衣,不得近左右。士大夫小不整潔,每容接之。炳之好潔反是,沖每以此譏焉。領選既不緝眾論,又頗通貨賄。炳之請急還家,吏部令史錢泰、主客令史周伯齊出炳之宅諮事。泰能彈琵琶,伯齊善歌,炳之因留停宿。尚書舊制,令史諮事,不得宿停外,雖有八座命,亦不許。為有司所奏。上於炳之素厚,將恕之,召問尚書右僕射何尚之,尚之具陳炳之得失。又密奏曰:「夫為國為家,何嘗不謹用前典,今苟欲通一人,慮非哲王御世之長術。炳之所行,非曖昧而已,臣所聞既非一旦,又往往眼見,事如丘山,彰彰若此,遂縱而不糾,不知復何以為治。晉武不曰明主,斷鬲令事,遂能奮發,華廙見待不輕,廢錮累年,後起,止作城門校尉耳。若言炳之有誠於國,未知的是何事?政當云與殷景仁不失其舊,與劉湛亦復不疏。且景仁當時事意,豈復可蔑,朝士兩邊相推,亦復何限,縱有微誠,復何足掩其惡。今賈充勳烈,晉之重臣,雖事業不勝,不聞有大罪,諸臣進說,便遠出之。陛下聖叡,反更遲遲於此。炳之身上之釁,既自藉藉,交結朋黨,構扇是非,實足亂俗傷風。諸惡紛紜,過於范曄,所少賊一事耳。伏願深加三思,試以諸聲傳,普訪諸可顧問者。羣下見陛下顧遇既重,恐不敢苦相侵傷,顧問之日,宜布嫌責之旨。若不如此,亦當不辯有所得失。臣憃,既有所啟,要欲盡其心,如無可納,伏願宥其觸忤之罪。」

当時、炳之は自ら弁明して、「台(尚書省)の制度に詳しくなく、令史たちも皆、外に宿泊することは問題ないと言った」と述べた。太祖は、炳之が誤った情報を信じただけであり、小事は大臣を傷つけるに足りないと考えた。尚之はさらに陳述して言った。「炳之が二人の令史を呼び出して外に宿泊させた時、令史たちは都令史の駱宰に諮り、宰は『通じない(許されない)』と言い、吏部曹も皆、不可であると知っていました。令史たちは炳之に、宿泊できない旨を詳しく説明しましたが、炳之は全く聞き入れませんでした。これは理解できないのではなく、ただ無理に引き留めただけです。外部の者も皆これを知っているのに、誤った情報を信じたと偽るのは、群情がどうして納得するでしょうか。陛下はわざわざ彼のために弁護なさらないでください。たとえ令史であっても、外に出ることは朝廷の典制を大きく損ない、また小事とは言えません。謝晦の声望と実力は、今の者たちの比ではなく、一事の過失で侍中の官を免ぜられました。王珣は時の賢者でしたが、小さな過失で、桓胤は春の狩りの誤りで、ともに白衣(無官の身)のまま職務を執りました。ましてや公然と憲制に違反した者に対してはどうでしょうか。王珣や桓胤の白衣の例と同じに扱うことはできないでしょうか。任使に損害はなく、兼ねてこれを以て厳しく戒めとすることができます。孔万祀は左丞の職にありながら、相応のことを考えず、駱宰に『炳之は貴重で重要であり、他の尚書とは異なる身分だから、まさに無言でいられよう』と言いました。また、『痴でなく聾でなければ、姑や舅にはなれない』と敢えてこのようなことを言うのも、異様なことです」。

原文時炳之自理:「不諳臺制,令史並言停外非嫌。」太祖以炳之信受失所,小事不足傷大臣。尚之又陳曰:「炳之呼二令史出宿,令史諮都令史駱宰,宰云不通,吏部曹亦咸知不可,令史具向炳之說不得停之意,炳之了不聽納。此非為不解,直是苟相留耳。由外悉知此,而誣於信受,羣情豈了,陛下不假為之辭。雖是令史,出乃遠虧朝典,又不得謂之小事。謝晦望實,非今者之疇,一事錯誤,免侍中官。王珣時賢小失,桓胤春蒐之謬,皆白衣領職。況公犯憲制者邪?不審可有同王、桓白衣例不?於任使無損,兼可得以為肅戒。孔萬祀居左丞之局,不念相當,語駱宰云:『炳之貴要,異他尚書身,政可得無言耳。』又云:『不癡不聾,不成姑公。』敢作此言,亦為異也。」

太祖はなおも悠々と構え、尚之に改めてその意を述べさせた。尚之はそこで炳之の過失を詳しく述べて言った。「尚書省には以前から増設された幹(下級事務官)二十人がおり、元、凱の丞郎の幹が病気休暇を取った際、炳之は常に十人を取って私用に使い、その欠員を補充せず、適時に補うことができませんでした。近頃王師(王の使者か)を得たのに、まだ返そうとしません。臣が人をやって『先に人を使い取ったことは、常に心が安らかでなかった。今や手力(人手)があるのに、再び留めておくべきではない』と伝えると、臣のこの手紙を得て、ようやく返したのです。大体、彼は人として好んで思いのままに行動し、様々なごたごたがあり、すべてを理解することはできません。臣は張遼の言葉を思います。関羽はたとえ兄弟であっても、曹公父子に対して、どうして言わないことがあろうか。今の人々が国を憂える者は実に少なく、臣がまた口を閉ざすなら、日月の明かりも、あるいは覆い隠されることがあるでしょう。しかし臣を知らない者は、まさか臣に争い競う跡があるとは言わないでしょうが、それを思って悔やみます。臣は炳之と付き合い、共に恩恵を受けているので、再び厚薄を生じさせるべきではありません。太尉が昨日臣に言ったところでは、炳之には様々な許しがたい点があり、一条だけではなく、遠近で彼を崇め恐れ、天下を震動させていると言います。凡庸な人間がここまで成し得たことは、さらに賞賛すべきです。虞秀之の門生が彼に仕え、珍しい料理を重ねて供し、欠けることがなかった。その外の別の貢ぎ物は、どうして詳しく言い尽くせましょうか。炳之の門下では大小を問わず、張幼緒に求め、幼緒はますます命に堪えられなくなりました。炳之は以前劉德願と非常に仲が悪かったが、德願は琵琶を非常に精巧に持っていた。それを贈ると、すぐにまた親しくなった。市令の盛馥が数百口の材木を進めて住宅建築を助けたが、人に知られるのを恐れ、虚偽の買い入れ証文を作った。劉道錫は急に何かを献上し、南の俸給の半分を傾けた。劉雍は彼の助力を得たと思い、父のように仕え、夏に甘蔗を送り、まるで州で新たに発したかのようだった。国の役人が薪や荻を運搬し、道に絶えることがなかった。諸々、人が物を持っているのを見ると、ほとんど求めないことはなく、劉遵考りゅうじゅんこうが材木を持っていると聞けば、すぐに材木を乞い、良い燭台を見れば、またそれを乞うた。人選が公平でないことは、一二を挙げるに及びません。太尉はまた言った。炳之には全く共に事を行う姿勢がなく、すべての選挙(人選推挙)はすべて彼の意向であり、政令は太尉が知っているだけだ、と。虞秀之を黄門侍郎にしようという議論では、太尉が正しく答えて同意しなかったので、中止になった。太尉は近ごろ炳之と疎遠になり、德願の子を州の西曹に用いたかったが、炳之はかえって彼を主簿に起用するよう上奏し、すぐに德願に話し、德願は太尉に感謝した。前後して漏洩し恩を売ることも、またどうして極まりがあろうか。たとえ罪を加えなくとも、故に彼を外に出すべきです。士人も庶民も憤り憎み、ただ単に項羽の楚歌だけではありません。裴、劉の刑罰以来、諸将は力を尽くして百倍し、今日の事実は善悪を問うことができます。もし赫然と発憤し、法憲を明らかにされれば、陛下は紫闥(宮中)で閑臥し、再び一事もなさらなくてもよいのです。」

原文太祖猶優游之,使尚之更陳其意。尚之乃備言炳之愆過,曰:「尚書舊有增置幹二十人,以元、凱丞郎幹之假疾病,炳之常取十人私使,詢處幹闕,不得時補。近得王師,猶不遣還,臣令人語之,『先取人使,意常未安,今既有手力,不宜復留』。得臣此信,方復遣耳。大都為人好率懷行事,有諸紜紜,不悉可曉。臣思張遼之言,關羽雖兄弟,曹公父子,豈得不言。觀今人憂國實寡,臣復結舌,日月之明,或有所蔽。然不知臣者,豈不謂臣有爭競之迹,追以悵悵。臣與炳之周旋,俱被恩接,不宜復生厚薄。太尉昨與臣言,說炳之有諸不可,非唯一條,遠近相崇畏,震動四海,凡短人辦得致此,更復可嘉。虞秀之門生事之,累味珍肴,未嘗有乏,其外別貢,豈可具詳。炳之門中不問大小,誅求張幼緒,幼緒轉無以堪命。炳之先與劉德願殊惡,德願自持琵琶甚精麗。遺之,便復款然。市令盛馥進數百口材助營宅,恐人知,作虛買券。劉道錫驟有所輸,傾南俸之半。劉雍自謂得其力助,事之如父,夏中送甘蔗,若新發於州。國吏運載樵荻,無輟於道。諸見人有物,鮮或不求,聞劉遵考有材,便乞材,見好燭盤,便復乞之。選用不平,不可一二。太尉又云,炳之都無共事之體,凡所選舉,悉是其意,政令太尉知耳。論虞秀之作黃門,太尉不正答和,故得停。太尉近與炳之疏,欲用德願兒作州西曹,炳之乃啟用為主簿,即語德願,德願謝太尉。前後漏泄賣恩,亦復何極,縱不加罪,故宜出之。士庶忿疾之,非直項羽楚歌而已也。自從裴、劉刑罰以來,諸將陳力百倍,今日事實好惡可問。若赫然發憤,顯明法憲,陛下便可閑臥紫闥,無復一事也。」

太祖は炳之を丹陽尹として出そうと考え、また尚之に問うた。尚之は答えて言った。「臣は賈生(賈誼)のような応対の才に乏しく、また汲公(汲黯)のような顔を犯して直言する剛直さもありません。侍坐して仰ぎ酬いることについては、常に十分にできません。昨日退出して再び深く考え、ただ愚かで滞っているだけです。今の事跡は、異口同音で、まさに明白であり、ただ物事の数(実情)を測り得ないだけです。罪を踏み恩に背くことになり、これ以上少なくすることはできません。しかも官職にあって不和を生じた例は、これに比べるものはありません。陛下が旧恩を惜しみ、窮めて法を執行されるのを忍びないのは、寛大さにおいて、これ以上に過ぎることはありません。まさにまた京兆尹という赫々たる任命があるところ、心を尽くして国に奉ずる人が、これによって息んでしまう恐れがあります。貪欲で意のままに振る舞う者は、年月を経てますます甚だしくなります。ただ王化を損なうだけでなく、治乱の原因となります。臣が聞く天下の議論によれば、炳之は常に日月(天子)の塵となり累し、一毫の輝きを増すのを見ません。今、曲阿は水の南にあり、恩寵に異なることはありませんが、首都に近い郡の栄誉を合わせることで、かえってその形勢を成し、まさに老王雅(王雅、東晋の佞臣)のようになります。古人は言いました。『賞罰がなければ、堯、舜であっても治めることはできない』と。陛下はどうして皇家の重みを損ない、一人の凡人に迷われることがありましょうか。事がまた可否の間にあるならば、臣もあえて穴管(狭い見識)を陳べることはしません。今の曲直は、明白に灼然としており、叡王(聡明な王)令王(立派な王)が、かえって悟らないなら、賈誼、劉向が生き返ったとしても、聖世に慷慨して涙を流さないことがありましょうか。臣が以前范曄について上奏した時も、やはり犯触の罪を恐れましたが、もしこれが愚かな思いで汲み取ったことであれば、政みずから舒達(のびのびと述べ)ないわけにはいきません。いわゆる九死しても悔いないというものです。炳之をしばらく外任させ、もし改修し、在職中に称賛されるなら、戻るのも難しくなく、少しは国典を明らかにし、粗く四海の非難に酬いることができます。今、過ちは山の如く、栄任は損なわれず、炳之がもしまた明白な大罪があれば、誰が再び聞いて述べようとするでしょうか。しかも、特別な勲功や異なる業績でなければ、どうして今日の過失を塞ぐことができましょう。古今を歴覧しても、衆多の過失が籍籍やかましくとし、数百万の賄賂を受けながら、さらに高官厚禄を得た例は今のようにありません。臣は聖化の中にこのような事があるのを思うたびに、痛心疾首せずにはいられません。仮に臣ら数人がこのように縦横に狼藉を働いたとして、どう処すべきか分からないでしょう。近ごろ賈充を遠方の鎮守に出すことを上奏しましたが、今は何を分かつに足りましょう。外任させるのは恐らく良策です。臣は陛下が臣の言葉を採られないことを知っていますが、それ故に臣は自分の愚かな思いを尽くさないわけにはいかないのです。今、恩栄を受ける者は少なくありません。臣はなぜ独りこれについて懇々とするのか、実は主君を尊び治めんとする意によるものです。伏して試みにさらにご考察くださるよう願います。」

原文太祖欲出炳之為丹陽,又以問尚之,尚之答曰:「臣既乏賈生應對之才,又謝汲公犯顏之直,至於侍坐仰酬,每不能盡。昨出伏復深思,祇有愚滯,今之事跡,異口同音,便是彰著,政未測得物之數耳。可為蹈罪負恩,無所復少。且居官失和,未有此比。陛下遲遲舊恩,未忍窮法,為弘之大,莫復過此。方復有尹京赫赫之授,恐悉心奉國之人,於此而息;貪狼恣意者,歲月滋甚。非但虧點王化,乃治亂所由。如臣所聞天下論議,炳之常塵累日月,未見一豪增輝。今曲阿在水南,恩寵無異,而協首郡之榮,乃更成其形勢,便是老王雅也。古人云:『無賞罰,雖堯、舜不能為治也。』陛下豈可坐損皇家之重,迷一凡人。事若復在可否之間,亦不敢苟陳穴管。今之枉直,明白灼然,而叡王令王,反更不悟,令賈誼、劉向重生,豈不慷慨流涕於聖世邪。臣昔啟范曄,當時亦懼犯觸之尤,苟是愚懷所挹,政自不能不舒達,所謂雖九死而不悔者也。謂炳之且外出,若能修改,在職著稱,還亦不難,而可得少明國典,粗酬四海之誚。今愆釁如山,榮任不損,炳之若復有彰大之罪,誰復敢以聞述。且自非殊勳異績,亦何足塞今日之尤。歷觀古今,未有眾過藉藉,受貨數百萬,更得高官厚祿如今者也。臣每念聖化中有此事,未嘗不痛心疾首。設令臣等數人縱橫狼藉復如此,不審當復云何處之。近啟賈充遠鎮,今亦何足分,外出恐是策之良者。臣知陛下不能採臣言,故是臣不能盡己之愚至耳。今蒙恩榮者不少,臣何為獨懇懇於斯,實是尊主樂治之意。伏願試更垂察。」

また言った。「臣は劉伯寵が炳之の行いについて非常に慷慨しているのを見ました。人が張幼緒に贈り物をした時、幼緒は人に言ったそうです。『私は一県を得たが、三十万銭の負債を負った。庾沖遠は新林まで送ってくるが、縛られ束ねられたままで、まだ手を解いてもらえない』と。荀萬秋がかつて炳之を訪ねた時、夏侯という姓の客が一人いた。主人が『良い牛はないか』と尋ねると、『ない』と言った。『良い馬はないか』と尋ねると、また『ない。ただ良い驢馬があるだけだ』と言った。炳之はすぐに答えて『まさに私が欲しいものだ』と言った。客が門を出ると、すぐに人をやってそれを求めさせた。劉道錫は炳之に推挙された者だが、道錫に嫁入り道具や祭祀の器を求め、百万の数に相当した。まだそうではないと言う。選令史の章龍が臣に話したが、彼もその収賄の過ちを嘆き、『実に嫁入り道具を得た。銅の炉は四人で挙げてようやく持ち上がり、細葛の斗帳などの物は、数えきれない』と言った。尚書省の中で、奴に酃酒を売らせ、その百十の利益を得たことも、また台閣(尚書省)にあってはないことです。少しでも聖聴を煩わせていないか分かりません。日月の明を傷つけることを恐れ、臣はひそかにそのことを嘆息します。」

原文又曰:「臣見劉伯寵大慷慨炳之所行,云有人送張幼緒,幼緒語人,吾雖得一縣,負三十萬錢,庾沖遠乃當送至新林,見縛束,猶未得解手。荀萬秋嘗詣炳之,值一客姓夏侯,主人問:『有好牛不?』云:『無。』問:『有好馬不?』又云:『無。政有佳驢耳。』炳之便答:『甚是所欲。』客出門,遂與相聞索之。劉道錫云是炳之所舉,就道錫索嫁女具及祠器,乃當百萬數。猶謂不然。選令史章龍向臣說,亦歎其受納之過,言『實得嫁女具,銅鑪四人舉乃勝,細葛斗帳等物,不可稱數』。在尚書中,令奴酤酃酒,利其百十,亦是立臺閣所無,不審少簡聖聽不?恐仰傷日月之明,臣竊為之歎息。」

太祖はついに有司の上奏を認め、炳之の官を免じた。この年は元嘉二十五年であった。二十七年、家で死去した。時に六十三歳。太祖は彼の過去の誠実さを記録し、本官を追復した。二人の子、季遠と弘遠。

原文太祖乃可有司之奏,免炳之官。是歲,元嘉二十五年也。二十七年,卒於家。時年六十三。太祖錄其宿誠,追復本官。二子季遠、弘遠。

謝方明は、陳郡陽夏の人で、尚書僕射しょうしょぼくや謝景仁の従祖弟である。祖父の謝鉄は永嘉太守。父の謝沖は中書侍郎。家は会稽にあり、病気を理由に帰郷し、黄門侍郎に任じられたが就任せず。孫恩に殺され、散騎常侍を追贈された。

原文謝方明,陳郡陽夏人,尚書僕射景仁從祖弟也。祖鐵,永嘉太守。父沖,中書侍郎。家在會稽,謝病歸,除黃門侍郎,不就。為孫恩所殺,追贈散騎常侍。

方明は伯父の呉興太守謝邈に従って郡にいた。孫恩が会稽を寇すと、東土の諸郡は皆これに呼応し、呉興の民胡桀、郜驃が東遷県を破った。方明は邈に避難を勧めたが、聞き入れず、賊が来て殺害され、方明は逃げ隠れてようやく免れた。初め、邈の母方の従兄弟の長楽の馮嗣之と北方の学士馮翊の仇玄達が、共に呉興に邈を頼って来て、ともに郡学に住まわせたが、礼遇は非常に簡素であった。二人は共に憤慨し、遂に孫恩と通謀した。恩はかつて嗣之らの従者となり、夜に郡に入ったが、邈の兵衆を見て逃げ、気づかなかった。本来は呉興で兵を起こすつもりだったが、事がうまくいかず、会稽に移った。郜らが郡を攻めた時、嗣之、玄達は共にその謀議ぼうぎに与った。劉牢之、謝琰らが孫恩を討ち、恩は海に逃げ込んだ。嗣之らは同行できず、改めて集結した。方明は邈の門生や旧知の義士百余人を結集し、嗣之らを襲撃討伐し、ことごとく捕らえて自ら斬った。

原文方明隨伯父吳興太守邈在郡,孫恩寇會稽,東土諸郡皆響應,吳興民胡桀、郜驃破東遷縣,方明勸邈避之,不從,賊至被害,方明逃竄遂免。初,邈舅子長樂馮嗣之及北方學士馮翊仇玄達,俱往吳興投邈,並舍之郡學,禮待甚簡。二人並忿慍,遂與恩通謀。恩嘗為嗣之等從者,夜入郡,見邈眾,遁,不悟。本欲於吳興起兵,事趣不果,乃遷於會稽。及郜等攻郡,嗣之、玄達並豫其謀。劉牢之、謝琰等討恩,恩走入海,嗣之等不得同去,方更聚合。方明結邈門生義故得百餘人,掩討嗣之等,悉禽而手刃之。

当時は荒廃と混乱の後であり、吉凶の礼儀は廃れていた。方明は一家で災禍に遭い、資産は何も残らなかったが、葬儀の準備を挙行し、その力を尽くして用い、数ヶ月の間に葬送をすべて完了させた。平穏な世の備えられた礼儀でも、これ以上はなかった。まもなく、孫恩が再び会稽を陥落させ、謝琰が殺害された。孫恩は方明を非常に切迫して懸賞をかけて探し求めた。方明は上虞で母と妹を車に乗せて東陽に逃れ、黄蘗嶠を経由して鄱陽に出て、便船に乗って都に戻り、国子学に寄寓した。流浪して危険と苦難に遭い、艱難辛苦を十分に経験したが、貞節な志操は、困窮の中でも変わらなかった。元興元年、桓玄が京邑を制圧すると、丹陽尹の卞範之は朝野に勢力を傾け、娘を方明に嫁がせようとし、尚書吏部郎の王騰に至れり尽くせりの譬えを説かせたが、方明はついに心を動かさなかった。桓玄はこれを聞いて賞賛し、ただちに著作佐郎に任じ、司徒王謐の主簿に補任した。

原文于時荒亂之後,吉凶禮廢,方明合門遇禍,資產無遺,而營舉凶事,盡其力用,數月之間,葬送並畢,平世備禮,無以加也。頃之,孫恩重沒會稽,謝琰見害。恩購求方明甚急。方明於上虞載母妹奔東陽,由黃蘗嶠出鄱陽,附載還都,寄居國子學。流離險厄,屯苦備經,而貞立之操,在約無改。元興元年,桓玄剋京邑,丹陽尹卞範之勢傾朝野,欲以女嫁方明,使尚書吏部郎王騰譬說備至,方明終不回。桓玄聞而賞之,即除著作佐郎,補司徒王謐主簿。

従兄の景仁が彼を高祖の中兵主簿に推薦した。方明は事を思慮し忠誠を尽くし、知っていることは何でも行った。高祖は彼に言った。「瓜衍の賞(大功への褒賞)がないのが恥ずかしいが、しばらく卿と共に豫章国の禄を分かち合おう。」たびたび賞賜を加えた。方明は厳格で謹厳であり、自らの処遇をよく保ち、暗室にいるときでも、たとえ一度もだらけた様子を見せなかった。他の技量はなかったが、自然に高雅な風韻があった。従兄の混は重い名声があったが、方明は歳時や節句に朝見するだけだった。丹陽尹の劉穆之は当時権勢が重く、朝野の人が車の輻が轂に集まるように集まったが、穆之と面識がなかったのは、混、方明、郗僧施、蔡廓の四人だけであった。穆之は非常にこれを遺憾に思った。方明と廓は後に彼を訪ねて行き、穆之は大いに喜び、高祖に言った。「謝方明は名家の駿馬と言える。そのまま置いておけば自然と台鼎(三公や宰相)の人となる。才能や有用性があるかどうかは論ずるまでもない。」

原文從兄景仁舉為高祖中兵主簿。方明事思忠益,知無不為。高祖謂之曰:「愧未有瓜衍之賞,且當與卿共豫章國祿。」屢加賞賜。方明嚴恪,善自居遇,雖處闇室,未嘗有墯容。無他伎能,自然有雅韻。從兄混有重名,唯歲節朝宗而已。丹陽尹劉穆之權重當時,朝野輻輳,不與穆之相識者,唯有混、方明、郗僧施、蔡廓四人而已,穆之甚以為恨。方明、廓後往造之,大悅,白高祖曰:「謝方明可謂名家駒。直置便自是台鼎人,無論復有才用。」

まもなく、従事中郎に転じ、引き続き左将軍道憐の長史となり、高祖は府内のすべての事柄を彼に諮問して決裁するよう命じた。府に従って中軍長史に転じた。まもなくさらに晋陵太守を兼ね、再び驃騎長史・南郡相となり、信任は以前と同じだった。かつて年の暮れに、江陵県の獄の囚人で、罪の軽重を問わず、すべて釈放して家に帰ることを許し、正月三日を過ぎてから戻って来るようにさせた。重罪に該当する者が二十余人いたため、綱紀(役人)以下は疑念と恐れを抱かなかった者はなかった。当時、晋陵郡から前任の主簿弘季盛と徐寿之がともに西に随行しており、強く諫めて言った。「昔の人にもこうした事例はあったが、あるいは記録が誇張しているのでしょう。しかも当今の民情は偽りが多く薄情ですから、古の義をもって約束することはできません。」方明は聞き入れず、一度に彼らを帰した。囚人とその父兄は皆驚喜して涙を流し、死に就くにも恨みはないと思った。期限になると、重罪の二人が戻らなかったが、方明は追捕を許さなかった。その一人は酔って帰れず、二日遅れで戻った。もう一人の囚人は十日たっても来なかった。五官の朱千期が面会を求めて追捕の件を申し出ようとしたが、方明は囚人の件だと知り、左右の者に五官には入る必要はないと断らせ、囚人は自ずから戻って来ると言った。囚人は村里をうろつき、自ら帰ることができず、郷村の者が責め立てて、率いて送り届けたので、ついに逃亡者は一人も出なかった。遠近の人々は皆感嘆して服した。母の喪に遭い、職を去った。喪が明けると、宋台の尚書吏部郎となった。

原文頃之,轉從事中郎,仍為左將軍道憐長史,高祖命府內眾事,皆諮決之。隨府轉中軍長史。尋更加晉陵太守,復為驃騎長史、南郡相,委任如初。嘗年終,江陵縣獄囚事無輕重,悉散聽歸家,使過正三日還到。罪應入重者有二十餘人,綱紀以下,莫不疑懼。時晉陵郡送故主簿弘季盛、徐壽之並隨在西,固諫以為:「昔人雖有其事,或是記籍過言。且當今民情偽薄,不可以古義相許。」方明不納,一時遣之。囚及父兄皆驚喜涕泣,以為就死無恨。至期,有重罪二人不還,方明不聽討捕。其一人醉不能歸,逮二日乃反,餘一囚十日不至,五官朱千期請見欲白討之,方明知為囚事,使左右謝五官不須入,囚自當反。囚逡巡墟里,不能自歸,鄉村責讓之,率領將送,遂竟無逃亡者。遠近咸歎服焉。遭母憂,去職。服闋,為宋臺尚書吏部郎。

高祖が天命を受けると、侍中に遷った。永初三年、丹陽尹として出向し、有能な名声があった。会稽太守に転じた。江東は民戸が豊かで盛んであったが、風俗は厳しく冷酷で、強者と弱者が互いに陵ぎ、奸吏が蜂の巣のように現れ、公文書が一度下されると、召喚状が次々と続いた。また罪が隣保組織(比伍)に及び、動くたびに連座し、一人が役人に罪を犯すと、一村の生業が廃れ、邑里は驚き騒ぎ、犬の吠える声が夜明けまで響いた。方明は統治の根本に深く通じ、文法に拘泥せず、煩瑣な細事を大まかに扱い、綱領を保持することに努めた。州や台からの召喚状は、即時に公布したが、民衆の期限を緩め、その処理と挙行の余地を与えた。郡県の監察官は妄りに出動せず、貴族や豪族は敢えて禁令を犯す者はなく、隣保組織の連座を除き、長く拘束された獄を判決した。前後の征伐では、兵士の輸送が不足するたびに、士人や庶民をすべて徴発して労役に就かせたが、事態が鎮静化すると、皆を本来の身分に戻させた。しかし、所属する役所が害を加え、あるいはすぐに吏に補任することもあった。守宰が明らかでなく、任用と剥奪が食い違い、人事が行き届かないと、必ず抑圧され塞がれた。方明は精選して適切にし、それぞれが適宜を慎重にし、たとえ十年間服役していても、一朝にして道理に従って処理した。東土(会稽地方)の人々は今でもこれを称え歌っている。性格は特に物事を惜しみ、これまで是非を論じたことはなかった。前任者を引き継いでも、その政を変えず、必ず改めるべきことがあれば、徐々に移行変化させ、跡が尋ねられないようにした。元嘉三年、官で死去した。四十七歳。

原文高祖受命,遷侍中。永初三年,出為丹陽尹,有能名。轉會稽太守。江東民戶殷盛,風俗峻刻,強弱相陵,姦吏蜂起,符書一下,文攝相續。又罪及比伍,動相連坐,一人犯吏,則一村廢業,邑里驚擾,狗吠達旦。方明深達治體,不拘文法,闊略苛細,務存綱領。州臺符攝,即時宣下,緩民期會,展其辦舉;郡縣監司,不得妄出,貴族豪士,莫敢犯禁,除比伍之坐,判久繫之獄。前後征伐,每兵運不充,悉發倩士庶,事既寧息,皆使還本。而屬所刻害,或即以補吏。守宰不明,與奪乖舛,人事不至,必被抑塞。方明簡汰精當,各慎所宜,雖服役十載,亦一朝從理,東土至今稱詠之。性尤愛惜,未嘗有所是非,承代前人,不易其政。有必宜改者,則以漸移變,使無迹可尋。元嘉三年,卒官,年四十七。

子の惠連は幼い頃から聡明で敏捷であり、十歳の時に文章を作ることができた。族兄の霊運は深く知己として賞賛し、事績は霊運伝にある。本州から主簿に招聘されたが、就任しなかった。惠連は以前から会稽郡の役人杜徳霊を愛し、父の喪に服している時、五言詩十余首を贈り、その文章は世に行われた。これに連座して流刑に処され、栄達の列に加わらなかった。尚書僕射の殷景仁はその才能を愛し、話の流れの中で太祖に言った。「臣が子供の頃から、世の中にこの文章があるのを見てきましたが、論ずる者は謝惠連の作だと言いますが、実はそうではありません。」太祖は言った。「そうであれば、通達させるべきだ。」元嘉七年、ようやく司徒彭城王義康の法曹参軍となった。この時、義康は東府城を修築しており、城の堀の中で古い墳墓を発見し、そのために改葬し、惠連に祭文を作らせ、使者を留めて完成を待った。その文章は非常に美しかった。また『雪賦』を作り、これも華麗で珍奇と見なされた。文章はともに世に伝わった。十年、死去した。時に二十七歳。早世した上に、軽薄で過失が多く、官位は顕著ではなかった。子はない。

原文子惠連,幼而聰敏,年十歲,能屬文,族兄靈運深相知賞,事在靈運傳。本州辟主簿,不就。惠連先愛會稽郡吏杜德靈,及居父憂,贈以五言詩十餘首,文行於世。坐被徙廢塞,不豫榮伍。尚書僕射殷景仁愛其才,因言次白太祖:「臣小兒時,便見世中有此文,而論者云是謝惠連,其實非也。」太祖曰:「若如此,便應通之。」元嘉七年,方為司徒彭城王義康法曹參軍。是時義康治東府城,城塹中得古冢,為之改葬,使惠連為祭文,留信待成,其文甚美。又為雪賦,亦以高麗見奇。文章並傳於世。十年,卒,時年二十七。既早亡,且輕薄多尤累,故官位不顯。無子。

弟の惠宣は、竟陵王誕の司徒従事中郎、臨川内史となった。

原文弟惠宣,竟陵王誕司徒從事中郎,臨川內史。

江夷は字を茂遠といい、済陽考城の人である。祖父の霦は、晋の護軍将軍であった。父の敳は、驃騎諮議参軍であった。

原文江夷字茂遠,濟陽考城人也。祖霦,晉護軍將軍。父敳,驃騎諮議參軍。

夷は若い頃から自らを磨き励まし、後進の優れた者となった。州から主簿に招聘されたが、就任しなかった。桓玄が帝位を簒奪さんだつすると、豫章王文学に任じられた。義旗が建てられると、高祖は板授で鎮軍行参軍とし、まもなく大司馬琅邪王の軍事に参じ、公事により免官された。しばらくして、再び主簿に補任された。桓玄討伐の功績により、南郡州陵県の五等侯に封じられた。孟昶の建威府司馬、中書侍郎、中軍太尉従事中郎、征西大将軍道規の長史・南郡太守となり、まもなく太尉諮議参軍に転じ、録事を領し、長史に遷り、入朝して侍中となり、大司馬に従い府公とともに北伐し、洛陽の園陵を拝礼し、潼関まで進んだ。帰還して寧遠将軍・琅邪内史・本州大中正を領した。高祖は大司馬府と琅邪国の事を、すべて彼に委ねた。

原文夷少自藻厲,為後進之美。州辟主簿,不就。桓玄篡位,以為豫章王文學。義旗建,高祖板為鎮軍行參軍,尋參大司馬琅邪王軍事,轉以公事免。頃之,復補主簿。豫討桓玄功,封南郡州陵縣五等侯。孟昶建威府司馬,中書侍郎,中軍太尉從事中郎,征西大將軍道規長史、南郡太守,尋轉太尉諮議參軍,領錄事,遷長史,入為侍中,大司馬,從府公北伐,拜洛陽園陵,進至潼關。還領寧遠將軍、琅邪內史、本州大中正。高祖命大司馬府、琅邪國事,一以委焉。

宋台が初めて建てられると、五兵尚書となった。高祖が天命を受けると、度支を掌ることに転じた。義興太守として出向し、秩禄を中二千石に加えられ、病気のため職を去った。まもなく吏部尚書に任じられ、呉郡太守となった。営陽王が呉県で殺害されると、夷は臨んで哭礼を尽くした。また兄の病気のため官を去った。再び丹陽尹、吏部尚書となり、散騎常侍を加えられ、右僕射に遷った。夷は風采が美しく、挙止に優れ、歴任した官職で温和で簡素なことで著名であった。湘州刺史として出向し、散騎常侍を加えられたが、着任しないうちに病死した。時に四十八歳。遺言で薄葬と粗末な供物を命じ、倹約を旨とした。前将軍を追贈され、本来の官職はそのままとした。子の湛については、別に伝がある。

原文宋臺初建,為五兵尚書。高祖受命,轉掌度支。出為義興太守,加秩中二千石,以疾去職。尋拜吏部尚書,為吳郡太守。營陽王於吳縣見害,夷臨哭盡禮。又以兄疾去官。復為丹陽尹,吏部尚書,加散騎常侍,遷右僕射。夷美風儀,善舉止,歷任以和簡著稱。出為湘州刺史,加散騎常侍,未之職,病卒,時年四十八。遺命薄斂蔬奠,務存儉約。追贈前將軍,本官如故。子湛,別有傳。