宋書

列伝第十二 庾悦・王誕・謝景仁・袁湛・褚叔度

列伝第十二 庾悦・王誕・謝景仁・袁湛・褚叔度

庾悦は字あざなを仲豫といい、潁川郡鄢陵県の人である。曾祖父の庾亮は、晋の太尉たいいであった。祖父の庾羲は、呉国内史であった。父の庾準は、西中郎将・豫州刺史ししであった。

原文庾悅字仲豫,潁川𨻳陵人也。曾祖亮,晉太尉。祖羲,吳國內史。父准,西中郎將、豫州刺史。

庾悦は若くして衛将軍琅邪王の行参軍、司馬となり、主簿に転じ、さらに右長史に転任した。桓玄が政権を補佐すると、豫州を領有し、庾悦を別駕従事史に任じた。驍騎ぎょうき将軍に昇進した。桓玄が帝位を簒奪さんだつすると、中書侍郎に転じた。高祖(劉裕)が京邑を平定すると、武陵王司馬遵が制を承け、庾悦を寧遠将軍・安遠護軍・武陵内史に任じた。病気のため職を去った。

原文悅少為衞將軍琅邪王行參軍,司馬,徙主簿,轉右長史。桓玄輔政,領豫州,以悅為別駕從事史。遷驍騎將軍。玄篡位,徙中書侍郎。高祖定京邑,武陵王遵承制,以悅為寧遠將軍、安遠護軍、武陵內史。以病去職。

鎮軍府が版授により諮議参軍とし、車騎従事中郎に転じた。劉毅が撫軍司馬に請うたが、就任しなかった。車騎中軍司馬に昇進した。広固征討に従軍し、誠心誠力を尽くした。盧循が京都を脅かすと、江州・豫州の西陽・新蔡・汝南・潁川、司州の恒農、揚州の松滋の六郡諸軍事・建威将軍・江州刺史に任じられ、東道から鄱陽に出撃した。盧循が将軍の英紏に千余人を率いさせて五畝嶠を遮断させたが、庾悦はこれを撃破し、進軍して豫章を占拠し、盧循の糧食補給路を断った。

原文鎮軍府版諮議參軍,轉車騎從事中郎。劉毅請為撫軍司馬,不就。遷車騎中軍司馬。從征廣固,竭其誠力。盧循逼京都,以為督江州豫州之西陽新蔡汝南潁川司州之恒農揚州之松滋六郡諸軍事、建威將軍、江州刺史,從東道出鄱陽。循遣將英紏千餘人斷五畝嶠,悅破之,進據豫章,絕循糧援。

初め、劉毅の家は京口にあり、貧しく倹約が常以上で、かつて郷里の士大夫と東堂で一緒に弓射を行ったことがあった。当時、庾悦は司徒しと右長史で、たまたま京口に来ており、府州の官僚たちを誘って一緒に東堂に出かけようとした。劉毅はすでに先に到着しており、人をやって庾悦に伝えさせて言った。「私は長らく不遇で、一度遊びの集まりを催すのも大変なのです。あなたは順調な方で、どこでも気ままに過ごせます。どうかこの堂を譲っていただけませんか。」庾悦は元来豪放で、まっすぐ前に進み、劉毅の言葉に答えなかった。一同は皆、これを避けたが、劉毅だけは以前のように弓射を続けた。庾悦の厨房の料理は非常に豊かであったが、劉毅には分け与えなかった。劉毅が去らないので、庾悦は非常に不愉快になり、間もなく退出した。劉毅はまた伝えて言った。「私は今年、子鵝をまだ手に入れていません。残りの焼き物を恵んでいただけませんか。」庾悦はまた答えなかった。盧循平定後、劉毅は江州都督ととくを求めた。江州は内陸地であり、民政を職務とするべきで、軍府を置くのは適切でないとして、上表して次のように述べた。「臣は聞く、天は盈虚をもって道とし、政治は損益をもって義とすると。時勢が悪くても政治を改めず、民が疲弊しても事業を削減しないならば、すでに危殆に瀕した急病を救い、塗炭の苦しみに陥ろうとする者を救済することはできないでしょう。近頃、兵車がしばしば出動し、干戈が国境に満ちています。江州は一隅の地であり、順逆の要衝に当たり、力は弱く民は怠慢ですが、物資輸送の継続地となっています。桓玄以来、駆り立てられ破壊され、ついには男子は養われず、女子は配偶を得ず、逃亡して行く先は、深い山奥をも避けません。財力が尽き力が尽きなければ、ここまでには至らなかったでしょう。もし真心を尽くして情理を考慮し、何らかの改革を行わなければ、滅び去るという嘆きが、たちまち必ず及ぶでしょう。臣は誤って統轄を増やされ、悲しみ感慨を併せて抱いています。官を設け職を分けるのは、軍事と国政とでは用途が異なります。民を治めるには休息と業務を大切にし、武略は事を成し遂げることを優先します。今、これを兼ねて統轄するのは、権宜の事態によるものであり、その状態が長く続いたため、遂に常例となってしまいました。江州は腹心の地にあり、揚州・豫州に接し、藩屏として頼るべき重要な地です。かつて胡の寇賊が放縦に振る舞い、北方の騎兵が長江に臨んだ時、抗戦防禦の措置は、権宜の計略によるものでした。温嶠のような明達な人物でさえ、事が自分一人によるものであっても、その弊害を感じ、論じて詳しく述べています。今、江右は小さな地域で、戸数は数十万に満たず、土地は数千里を超えませんが、統轄する官庁が鱗のようにならび、減らして休息を得ることができていません。大きく言えば、国恥と言えるでしょう。ましてや、その地には軍がなく、軍府がまだ置かれているのです。文武の将佐、経費は一つではありません。これがどうして国家の大計を経営し、湯をかき混ぜて火を消す者と言えましょうか。その州郡は長江沿いにあり、民戸はまばらで、さらに郵亭は険しく隔絶し、風波を恐れ阻まれ、輸送の往復は常に滞り廃れています。また、その利に因ってその弊害を救うというものでもありません。愚かながら、軍府を解き、治所を豫章に移し、十郡の中央に位置して、簡素で恵み深い政治を行えば、数年を経るうちに、活気が出てくるでしょう。また、所属する県は疲弊散逸していますが、存続しているものもあり、役務や調達、送迎に休止がなく、これもまた状況に応じて併合削減し、民衆の負担を簡素化すべきだと思います。刺史の庾悦は、州部に臨んで以来、民を思いやる誠意が大いにありますが、綱紀が改まらないため、自ら綱目によって処理するものではありません。尋陽は蛮族と接しているので、防備遏止が必要であり、州府の兵士一千人をすぐに派遣して、郡の守備を助けるべきです。」そこで、庾悦の都督・将軍の官を解き、刺史として豫章に鎮守を移した。劉毅は親将の趙恢に千人の兵を率いさせて尋陽を守らせ、建威府の文武官三千人をすべて劉毅の府に移し、命令は厳しく、しばしば挫き辱めた。庾悦は志を得ず、背中に癰ができ、豫章に到着して数日で死去した。時に三十八歳。征虜将軍を追贈された。広固での功績により、新陽県五等男を追封された。

原文初,毅家在京口,貧約過常,嘗與鄉曲士大夫往東堂共射。時悅為司徒右長史,暫至京,要府州僚佐共出東堂。毅已先至,遣與悅相聞,曰:「身久躓頓,營一遊集甚難。君如意人,無處不可為適,豈能以此堂見讓。」悅素豪,徑前,不答毅語。眾人並避之,唯毅留射如故。悅厨饌甚盛,不以及毅。毅既不去,悅甚不歡,俄頃亦退。毅又相聞曰:「身今年未得子鵝,豈能以殘炙見惠。」悅又不答。盧循平後,毅求都督江州,以江州內地,治民為職,不宜置軍府,上表陳之曰:「臣聞天以盈虛為道,治以損益為義。時否而政不革,民凋而事不損,則無以救急病於已危,拯塗炭於將絕。自頃戎車屢駕,干戈溢境,江州以一隅之地,當逆順之衝,力弱民慢,而器運所繼。自桓玄以來,驅蹙殘毀,至乃男不被養,女無對匹,逃亡去就,不避幽深,自非財單力竭,無以至此。若不曲心矜理,有所改移,則靡遺之歎,奄焉必及。臣謬荷增統,傷慨兼懷。夫設官分職,軍國殊用,牧民以息務為大,武略以濟事為先。今兼而領之,蓋出於權事,因藉既久,遂為常則。江州在腹心之中,憑接揚、豫,藩屏所倚,實為重複。昔胡寇縱逸,朔馬臨江,抗禦之宜,蓋出權計。以溫嶠明達,事由一己,猶覺其弊,論之備悉。今江右區區,戶不盈數十萬,地不踰數千里,而統司鱗次,未獲減息,大而言之,足為國恥。況乃地在無軍,而軍府猶置,文武將佐,資費非一,豈所謂經國大情,揚湯去火者哉。其州郡邊江,民戶遼落,加以郵亭嶮闊,畏阻風波,轉輸往還,常有淹廢,又非所謂因其所利,以濟其弊者也。愚謂宜解軍府,移治豫章,處十郡之中,厲簡惠之政,比及數年,可有生氣。且屬縣凋散,亦有所存,而役調送迎,不得休止,亦謂應隨宜并減,以簡眾費。刺史庾悅,自臨州部,甚有恤民之誠,但綱維不革,自非綱目所理。尋陽接蠻,宜有防遏,可即州府千兵,以助郡戍。」於是解悅都督、將軍官,以刺史移鎮豫章。毅以親將趙恢領千兵守尋陽,建威府文武三千悉入毅府,符攝嚴峻,數相挫辱。悅不得志,疽發背,到豫章少日卒。時年三十八。追贈征虜將軍。以廣固之功,追封新陽縣五等男。

王誕は字を茂世といい、琅邪郡臨沂県の人で、太保王弘の従兄である。祖父の王恬は、中軍将軍であった。父の王混は、太常であった。

原文王誕字茂世,琅邪臨沂人,太保弘從兄也。祖恬,中軍將軍。父混,太常。

王誕は若くして才藻に富み、晋の孝武帝が崩御した時、従叔父の尚書令王珣が哀策文を作成したが、長い間完成せず、王誕に言った。「まだ季節の景物を序する一句が足りない。」そこで原稿を見せた。王誕は筆を取ってすぐに補い、その秋冬の交代変化の後に、「霜は広き階に繁く、風は高き殿に回る」と続けた。王珣はその清らかで抜きん出ていることを嘆賞し、それを使って採用した。雉郷侯の爵位を襲封し、秘書郎に任じられ、琅邪王文学、中軍功曹となった。

原文誕少有才藻,晉孝武帝崩,從叔尚書令珣為哀策文,久而未就,謂誕曰:「猶少序節物一句。」因出本示誕。誕攬筆便益之,接其秋冬代變後云,「霜繁廣除,風回高殿」。珣嗟歎清拔,因而用之。襲爵雉鄉侯,拜祕書郎,琅邪王文學,中軍功曹。

隆安四年、会稽王の世子元顕が後軍府を開くと、また王誕を功曹に補した。まもなく尚書吏部郎に任じられ、引き続き後軍長史となり、廬江太守たいしゅを兼ね、鎮蛮護軍を加えられた。龍驤将軍・琅邪内史に転じ、長史は元の通りであった。王誕は元顕の寵臣張法順に取り入ったので、元顕に寵愛された。元顕が妾を迎える時、王誕が自ら出迎えに行った。府の転任に従って驃騎ひょうき長史に転じ、将軍・内史は元の通りであった。元顕が桓玄を討伐しようとし、桓氏を皆殺しにしようとした時、王誕は桓脩らは桓玄と志趣が異なると強く陳述し、これによって桓脩らは死を免れた。桓脩は王誕の甥である。桓玄が権力を握ると、王誕は誅殺されるところであったが、桓脩が彼のために陳情し、また桓脩らが死を免れた経緯を述べたので、王誕は広州に流された。盧循が広州を占拠すると、王誕をその平南府長史とし、非常に賓客として礼遇した。王誕は長く客地にいて帰郷を思い、盧循を説得して言った。「下官は遠くここに流されており、特別なご厚情を蒙りました。士は知己を知り、実に恩に報いたいと思います。もともと軍旅の者ではなく、ここにいても役に立ちません。以前から劉鎮軍(劉裕)に認められており、情誼も浅くありません。もし北帰できれば、必ず任用されるでしょう。公私の機会に、厚い恩に報いることは、ここに留まって空しく歳月を過ごすよりましです。」盧循は大いにそうだと思った。当時、広州刺史の呉隠之も盧循に拘留されていたが、王誕はまた言った。「将軍が今、呉公を留め置くのは、公私ともに良策ではありません。孫伯符(孫策)はどうして華子魚(華歆)を留め置きたくなかったでしょうか。ただ、一つの境域に二人の君主が並び立たないだけです。」そこで王誕と呉隠之はともに帰還することができた。

原文隆安四年,會稽王世子元顯開後軍府,又以誕補功曹。尋除尚書吏部郎,仍為後軍長史,領廬江太守,加鎮蠻護軍。轉龍驤將軍、琅邪內史,長史如故。誕結事元顯嬖人張法順,故為元顯所寵。元顯納妾,誕為之親迎。隨府轉驃騎長史,將軍、內史如故。元顯討桓玄,欲悉誅桓氏,誕固陳脩等與玄志趣不同,由此得免。脩,誕甥也。及玄得志,誕將見誅,脩為之陳請,又言脩等得免之由,乃徙誕廣州。盧循據廣州,以誕為其平南府長史,甚賓禮之。誕久客思歸,乃說循曰:「下官流遠在此,被蒙殊眷,士感知己,實思報答。本非戎旅,在此無用。素為劉鎮軍所識,情味不淺,若得北歸,必蒙任寄,公私際會,思報厚恩,愈於停此,空移歲月。」循甚然之。時廣州刺史吳隱之亦為循所拘留,誕又曰:「將軍今留吳公,公私非計。孫伯符豈不欲留華子魚,但以一境不容二君耳。」於是誕及隱之並得還。

員外散騎常侍さんきじょうじに任じられたが、まだ拝命せず、高祖(劉裕)が太尉諮議参軍に請うて、長史に転じた。心を尽くして帰順し奉仕し、日夜怠ることなく、高祖は彼を非常に頼りにした。北伐して広固を攻めた時、斉郡太守を兼任した。盧循が蔡洲から南へ逃走した時、劉毅は固く追討を求めたが、高祖は疑って決断できなかった。劉誕が密かに申し上げた:「公はすでに広固を平定し、さらに盧循を滅ぼせば、その功績は古来に冠絶し、勲功に二つとないものとなります。このような大いなる威光を、どうして他の者に分け与えることができましょうか。劉毅は公と共に布衣から起こり、一時的に互いに推し合ったに過ぎません。今やすでに敗北を喫している以上、再び彼に功を立てさせるべきではありません。」高祖は彼の意見に従った。七年、劉誕を呉国内史とした。母の喪で職を去った。高祖が劉毅を征討する時、輔国将軍として起用されたが、劉誕は固く軍号を辞退し、喪服のまま墨色の帯をして従軍した。当時、諸葛長民が太尉として留府の事務を執り行っていたが、心に不安を抱き、高祖は非常に心配していた。劉毅が平定された後、劉誕は先に下ることを求めた。高祖は言った:「長民は自ら疑う心があるようだ。卿はどうしてすぐに行くことができようか。」劉誕は言った:「長民は私が公のご寵愛を受けていることを知っています。今、私が軽装で単身下れば、必ずや何の心配もないと思い、少しはその心を安らげることができるでしょう。」高祖は笑って言った:「卿の勇気は孟賁や夏育をも超えている。」そこで先に帰還した。

原文除員外散騎常侍,未拜,高祖請為太尉諮議參軍,轉長史。盡心歸奉,日夜不懈,高祖甚委仗之。北伐廣固,領齊郡太守。盧循自蔡洲南走,劉毅固求追討,高祖持疑未決,誕密白曰:「公既平廣固,復滅盧循,則功蓋終古,勳無與二,如此大威,豈可餘人分之。毅與公同起布衣,一時相推耳,今既已喪敗,不宜復使立功。」高祖從其說。七年,以誕為吳國內史。母憂去職。高祖征劉毅,起為輔國將軍,誕固辭軍號,墨絰從行。時諸葛長民行太尉留府事,心不自安,高祖甚慮之。毅既平,誕求先下,高祖曰:「長民似有自疑心,卿詎宜便去。」誕曰:「長民知我蒙公垂眄,今輕身單下,必當以為無虞,乃可以少安其意。」高祖笑曰:「卿勇過賁、育矣。」於是先還。

九年、死去した。時に三十九歳。南北に従軍した功績により、作唐県の五等侯を追封された。子の劉詡は、宋の世子舎人となったが、早逝した。

原文九年,卒,時年三十九。以南北從征,追封作唐縣五等侯。子詡,宋世子舍人,早卒。

謝景仁は、陳郡陽夏の人で、衛将軍謝晦の従叔父である。名は高祖(劉裕)と同じ諱いみなであったため、字で呼ばれた。祖父の謝據は、太傅謝安の第二弟である。父の謝允は、宣城内史であった。

原文謝景仁,陳郡陽夏人,衞將軍晦從叔父也。名與高祖同諱,故稱字。祖據,太傅安第二弟。父允,宣城內史。

謝景仁は幼少時、謝安と接点があり、謝安に認められた。初め前軍行参軍・輔国参軍事となった。会稽王の世子司馬元顕の寵臣張法順は、一時権勢を振るい、内外の者がこぞってその門を訪れたが、謝景仁だけは行かなかった。三十歳になってようやく著作佐郎となった。桓玄が司馬元顕を誅殺した時、謝景仁に会い、非常に高く評価し、周囲の人々に言った:「司馬庶人(司馬元顕)父子はどうして敗れなかったのか。謝景仁を三十歳にしてようやく著作佐郎にしたとは。」桓玄が太尉となると、行参軍に補任し、府が大將軍に転じても引き続き参軍事を務めた。桓玄が楚の臺を建てると、黄門侍郎に補任した。帝位を簒奪すると、驍騎将軍を兼任した。謝景仁は博識で記憶力が強く、過去の言行を上手く語ったため、桓玄は彼と話すたびに飽きることがなかった。桓玄が外出する時、殷仲文や卞範之らは皆、馬に乗って散らばって従ったが、謝景仁には輦に陪乗させた。

原文景仁幼時與安相及,為安所知。始為前軍行參軍、輔國參軍事。會稽王世子元顯嬖人張法順,權傾一時,內外無不造門者,唯景仁不至。年三十,方為著作佐郎。桓玄誅元顯,見景仁,甚知之,謂四坐曰:「司馬庶人父子云何不敗,遂令謝景仁三十方作著作佐郎。」玄為太尉,以補行參軍,府轉大將軍,仍參軍事。玄建楚臺,以補黃門侍郎。及篡位,領驍騎將軍。景仁博聞強識,善敍前言往行,玄每與之言,不倦也。玄出行,殷仲文、卞範之之徒,皆騎馬散從,而使景仁陪輦。

高祖(劉裕)が桓脩の撫軍中兵参軍であった時、かつて謝景仁のところへ事を諮問に行った。謝景仁は彼と話して気に入り、高祖を引き留めて共に食事をした。食事の準備が整わないうちに、謝景仁は桓玄に召喚された。桓玄の性格はせっかちで、たちまちのうちに騎馬の使者による詔が続けて届いた。高祖は何度も帰ろうとしたが、謝景仁は許さず、言った:「主上(桓玄)が私を待遇するには、きっと道理があるはずです。私は客と共に食事をしたいと思っている。どうして待つことができないことがあろうか。」結局、落ち着いて座り、満腹になるまで食事をしてから応召した。高祖は非常に感激し、常々、謝景仁を太傅謝安の孫であると評した。京邑を平定し、石頭せきとう城に入って鎮守した時、謝景仁は百官と共に高祖に拝謁した。高祖は彼を見て言った:「これは名高い公の孫だ。」謝景仁に言った:「承制府には記室参軍が必要だ。今、卿に屈してもらおう。」大將軍武陵王司馬遵の記室参軍とし、引き続き従事中郎を務め、司徒左長史に昇進した。外任として高祖の鎮軍司馬となり、晉陵太守を兼任し、再び車騎司馬となった。

原文高祖為桓脩撫軍中兵參軍,嘗詣景仁諮事,景仁與語悅之,因留高祖共食。食未辦,而景仁為玄所召。玄性促急,俄頃之間,騎詔續至。高祖屢求去,景仁不許,曰:「主上見待,要應有方。我欲與客共食,豈當不得待。」竟安坐飽食,然後應召。高祖甚感之,常謂景仁是太傅安孫。及平京邑,入鎮石頭,景仁與百僚同見高祖,高祖目之曰:「此名公孫也。」謂景仁曰:「承制府須記室參軍,今當相屈。」以為大將軍武陵王遵記室參軍,仍為從事中郎,遷司徒左長史。出為高祖鎮軍司馬,領晉陵太守,復為車騎司馬。

義熙五年、高祖は内乱がすでに鎮まったので、外征を広げようと考え、鮮卑を討伐しようとした。朝廷の議論は皆、反対した。劉毅が当時姑孰こじゅくに鎮守しており、固く高祖を止め、こう考えた:「苻堅が国境を侵した時でさえ、謝太傅(謝安)は自ら出向かなかった。宰相が遠征に出れば、国の根本を揺るがすことになる。」謝景仁だけが言った:「公は桓公・文公の偉業を立てられ、天と人の心に応え、皇統を回復し、奸逆を平定されました。その業績は古を振るうほど高いですが、徳と刑罰はまだ十分に信服されておりません。滅びゆく者を推し進め、存続すべき者を固め、威勢と謀略を広く樹立すべきです。鮮卑は我が疆域に近接し、たびたび辺境を侵犯しています。罪を討ち民を慰めることは、ここにあります。平定した後、鋭気を養い兵士を休ませ、それから洛汭で軍威を示し、園陵を修復すべきです。どうして座して寇虜を成長させ、敵を放って患いを残すようなことがありましょうか!」高祖はこれを採用した。北伐の時、大司馬琅邪王(司馬徳文)は天子の同母弟で、皇太子に次ぐ立場にあったため、高祖は国の根本を深く憂い、謝景仁を大司馬左司馬に転任させ、府の任務を専管させ、右衛将軍を兼任させ、給事中きゅうじちゅうを加え、さらに吏部尚書に昇進させた。当時、従兄の謝混が左僕射であったため、制度上互いに監督する立場になれず、高祖は上奏して、かつての僕射王彪之と尚書王劭の前例に倣い、職を解かないことを認めさせた。

原文義熙五年,高祖以內難既寧,思弘外略,將伐鮮卑。朝議皆謂不可。劉毅時鎮姑孰,固止高祖,以為:「苻堅侵境,謝太傅猶不自行。宰相遠出,傾動根本。」景仁獨曰:「公建桓、文之烈,應天人之心,匡復皇祚,芟夷姦逆,雖業高振古,而德刑未孚,宜推亡固存,廣樹威略。鮮卑密邇疆甸,屢犯邊垂,伐罪弔民,於是乎在。平定之後,養銳息徒,然後觀兵洛汭,修復園寢,豈有坐長寇虜,縱敵貽患者哉!」高祖納之。及北伐,大司馬琅邪王,天子母弟,屬當儲副,高祖深以根本為憂,轉景仁為大司馬左司馬,專總府任,右衞將軍,加給事中,又遷吏部尚書。時從兄混為左僕射,依制不得相臨,高祖啟依僕射王彪之、尚書王劭前例,不解職。

吏部令史の邢安泰を都令史・平原太守に選任した件で連座し、二つの官職を同時に任命したこと、また邢安泰が令史の職務として陵廟に拝謁したことを、御史中丞鄭鮮之に糾弾され、官職を剥奪されたまま職務を執る(白衣領職)こととなった。八年、領軍将軍に昇進した。十一年、右僕射に転じ、さらに左僕射に転じた。

原文坐選吏部令史邢安泰為都令史、平原太守,二官共除,安泰以令史職拜謁陵廟,為御史中丞鄭鮮之所糾,白衣領職。八年,遷領軍將軍。十一年,轉右僕射,仍轉左僕射。

謝景仁の性格は厳格で整然とし、清潔で、住居は清浄で美しかった。痰を吐くたびに、左右の者の衣服に吐きかけ、用が済むと、その日のうちに洗濯させた。痰を吐こうとするたびに、左右の者が争って受けようとした。高祖は彼を非常に重んじ、婚姻によって関係を深め、廬陵王劉義真の妃は謝景仁の娘である。十二年、死去した。時に四十七歳。金紫光禄大夫を追贈され、散騎常侍を加えられた。葬儀の日、高祖は自ら臨み、非常に悲しんで慟哭した。驃騎将軍劉道憐に手紙を送り、こう書いた:「謝景仁が逝去し、悲痛のあまり心が引き裂かれ、自らを制することができない。汝もこの報せを聞き、驚き嘆き、耐えられないことだろう。その器量と風格は中庸に達し、私の信頼は実に厚かった。これから彼と共に時務を治めようとしていたのに、一朝にしてこのようになってしまい、痛惜の念は深い。逝ってしまったものをどうしようもない!これからどうすればよいのか!」

原文景仁性矜嚴整潔,居宇淨麗,每唾,轉唾左右人衣,事畢,即聽一日澣濯。每欲唾,左右爭來受。高祖雅相重,申以婚姻,廬陵王義真妃,景仁女也。十二年,卒,時年四十七。追贈金紫光祿大夫,加散騎常侍。葬日,高祖親臨,哭之甚慟。與驃騎將軍道憐書曰:「謝景仁殞逝,悲痛摧割,不能自勝。汝聞問惋愕,亦不可堪。其器體淹中,情寄實重,方欲與之共康時務,一旦至此,痛惜兼深。往矣柰何!當復柰何!」

子の謝恂は、鄱陽太守となった。謝恂の子の謝稚は、笙を吹くのが上手く、官は西陽太守まで昇った。

原文子恂,鄱陽太守。恂子稚,善吹笙,官至西陽太守。

謝景仁の弟の謝純は字を景懋といい、初め劉毅の豫州別駕となった。劉毅が江陵に鎮守した時、衛軍長史・南平相とした。王鎮悪が軍を率いて劉毅を急襲し、すでに城下に至った。当時劉毅は病気で、佐吏たちは皆、見舞いや報告に入っていた。謝純が報告を終えて出た後、兵が来たと聞き、急いで府に戻った。左右の者が車を引いて外の官舎に戻ろうとしたが、謝純は叱りつけて言った:「私は人の吏である。逃げてどこへ行くというのか!」そして中に入った。劉毅の軍が敗れて兵士が散り散りになった時、すでに夜で暗かった。司馬の毛脩之が謝純に言った:「君はただ私に従え。」謝純は従わず、二人を支えて出ようとしたが、火の光の中で人に殺された。謝純の孫の謝沈は、太宗(劉彧)の泰始初年に、巴陵王劉休若の衛軍録事参軍・山陰令となったが、事件に連座して誅殺された。

原文景仁弟純字景懋,初為劉毅豫州別駕。毅鎮江陵,以為衞軍長史、南平相。王鎮惡率軍襲毅,已至城下,時毅疾病,佐吏皆入參承。純參承畢,已出,聞兵至,馳還入府。左右引車欲還外解,純叱之曰:「我人吏也,逃欲何之!」乃入。及毅兵敗眾散,時已暗夜,司馬毛脩之謂純曰:「君但隨僕。」純不從,扶兩人出,火光中為人所殺。純孫沈,太宗泰始初,為巴陵王休若衞軍錄事參軍、山陰令,坐事誅。

謝述は字を景先といい、若い時から志操と行いがあり、兄の謝純に従って江陵にいた。謝純が殺害されると、謝述は謝純の遺体を奉じて都に帰還した。西塞まで来た時、暴風に遭い、謝純の遺体を載せた船が流され、行方がわからなくなった。謝述は小船に乗ってそれを探し求めた。謝純の妻の庾氏の船のそばを通りかかると、庾氏は人をやって謝述に言わせた:「遺体の船の存否は、すでに定まっているはずです。風波がこのように激しいのに、どうして小船で冒険できましょうか?小郎(謝述)が行ってもきっと間に合わないでしょう。生きている者も亡くなった者も共に尽きてしまう方がましではありませんか。」謝述は号泣して答えた:「もし無事に岸に着いていれば、当然、後事を営まねばなりません。もしすでに不測の事態に陥っているならば、私も独りで生きる気はありません。」そして波を冒して進み、謝純の遺体の船がほとんど沈みそうになっているのを見つけた。謝述は天を呼んで号泣し、幸いにも難を免れた。人々は皆、その精誠がもたらしたものだと思った。高祖はこれを聞いて賞賛し、豫州に臨んだ時、中正に示唆して謝述を主簿とし、非常に知遇を得た。謝景仁は三弟の謝甝を愛し、謝述を憎んだ。かつて高祖を招いて宴を設けた時、ひそかに謝甝を同席させようと望んだが、高祖は謝述を召し出した。謝述はこれが謝景仁の本意ではないことを知り、また高祖の命令であることを慮り、急用を理由に従わなかった。高祖は急いで使者を遣わして謝述を呼び寄せ、彼が到着してからようやく喜んだ。謝景仁が病気になった時、謝述は心を尽くして看病し、湯薬や飲食は必ず自ら味見してから進め、帯を解かず、髪を梳かず顔を洗わないことが数十日続き、謝景仁は深く感動し感謝した。

原文述字景先,少有志行,隨兄純在江陵。純遇害,述奉純喪還都。行至西塞,值暴風,純喪舫流漂,不知所在,述乘小船尋求之。經純妻庾舫過,庾遣人謂述曰:「喪舫存沒,已應有在,風波如此,豈可小船所冒?小郎去必無及,寧可存亡俱盡邪。」述號泣答曰:「若安全至岸,當須營理。如其已致意外,述亦無心獨存。」因冒浪而進,見純喪幾沒,述號叫呼天,幸而獲免,咸以為精誠所致也。高祖聞而嘉之,及臨豫州,諷中正以述為主簿,甚被知器。景仁愛其第三弟甝而憎述,嘗設饌請高祖,希命甝豫坐,而高祖召述。述知非景仁夙意,又慮高祖命之,請急不從。高祖馳遣呼述,須至乃歡。及景仁有疾,述盡心營視,湯藥飲食,必嘗而後進,不解帶、不盥櫛者累旬,景仁深懷感愧。

太尉参軍に転じ、司馬休之征討に従軍し、吉陽県五等侯に封ぜられた。世子征虜参軍となり、主簿に転じ、宋の尚書祠部郎、世子中軍主簿、太子中舎人を経て、長沙内史として出向し、善政を施した。

原文轉太尉參軍,從征司馬休之,封吉陽縣五等侯。世子征虜參軍,轉主簿,宋臺尚書祠部郎,世子中軍主簿,轉太子中舍人,出補長沙內史,有惠政。

元嘉二年、中書侍郎に任命された。翌年、武陵太守として出向し、彭城ほうじょう王劉義康の驃騎長史、南郡太守を兼任した。以前、謝述の従兄の謝曜が劉義康の長史であったが、在官中に死去したため、謝述が代わった。太祖(文帝)は劉義康に書を送り、「今、謝述を以て謝曜に代えよう。その才能は詳しく練達し、歴任の職務において顕著である。故に汝を補佐させる。汝は初めて庶務に親しみ、任は重く事は多い。群賢に思いを託し、補佐調和の美を尽くすべきである。自ら得る所あらんことを想う。吾が言を俟つまでもない」と言った。劉義康が宰相となると、謝述はまた司徒左長史となり、左衛将軍に転じた。官に清廉倹約で、私邸を持たなかった。劉義康は彼を非常に厚遇した。尚書僕射しょうしょぼくやの殷景仁、領軍将軍の劉湛は共に謝述と並々ならぬ交わりを結んだ。風采が美しく、立ち居振る舞いに優れ、劉湛は常に人に言った、「私は謝道児を見ても、飽き足りたことがない」と。道児は謝述の幼名である。

原文元嘉二年,徵拜中書侍郎。明年,出為武陵太守,彭城王義康驃騎長史,領南郡太守。先是,述從兄曜為義康長史,喪官,述代之。太祖與義康書曰:「今以謝述代曜。其才應詳練,著於歷職,故以佐汝。汝始親庶務,而任重事殷,宜寄懷羣賢,以盡弼諧之美,想自得之,不俟吾言也。」義康入相,述又為司徒左長史,轉左衞將軍。莅官清約,私無宅舍。義康遇之甚厚。尚書僕射殷景仁、領軍將軍劉湛並與述為異常之交。美風姿,善舉止,湛每謂人曰:「我見謝道兒,未嘗足。」道兒,述小字也。

雍州刺史の張邵が賄賂を貪った罪で廷尉に下され、死刑に処せられようとした時、謝述は上表して張邵が先朝(武帝朝)の旧功労者であることを陳べ、優遇赦免されるべきであると述べた。太祖は手詔でこれに応じた。謝述は子の謝綜に言った、「主上は張邵の昔からの誠実さを哀れみ、曲がって赦そうとされている。私の上奏がたまたまそれに合致したので、特に受け入れられたのだ。もしこの上疏の内容が広く知れ渡れば、主上の恩を侵奪することになり、これは大いにあってはならないことだ」と。謝綜に命じて前でそれを焼かせた。太祖は後に張邵に言った、「卿が罪を免れたのは、謝述の力によるものだ」。

原文雍州刺史張邵以黷貨下廷尉,將致大辟,述上表陳邵先朝舊勳,宜蒙優貸,太祖手詔酬納焉。述語子綜曰:「主上矜邵夙誠,將加曲恕,吾所啟謬會,故特見酬納耳。若此疏迹宣布,則為侵奪主恩,不可之大者也。」使綜對前焚之。太祖後謂邵曰:「卿之獲免,謝述有力焉。」

謝述は心臓の病を患い、気性や理性が時折乱れることがあった。呉郡太守に任命されたが、病気のため赴任しなかった。病が癒え、呉興太守に補任され、郡では清廉で簡素であり、官吏や民衆に慕われた。十二年、死去、享年四十六。遺体が都に戻る途中、都から数十里に至らないうちに、殷景仁と劉湛が同乗して迎えに出向き、船を望んで涙を流した。十七年、劉湛が誅殺され、劉義康が外鎮に出されることになり、出発に際して嘆いて言った、「謝述はただ私に退くことを勧め、劉湛はただ私に進むことを勧めた。今、謝述は亡く、劉湛は生きている。これが私が罪を得た所以だ」。太祖もまた言った、「謝述が生きていれば、劉義康は必ずやここまでには至らなかっただろう」。

原文述有心虛疾,性理時或乖謬。除吳郡太守,以疾不之官。病差,補吳興太守,在郡清省,為吏民所懷。十二年,卒,時年四十六。喪還京師,未至數十里,殷景仁、劉湛同乘迎赴,望船流涕。十七年,劉湛誅,義康外鎮,將行,歎曰:「謝述唯勸吾退,劉湛唯勸吾進,今述亡而湛存,吾所以得罪也。」太祖亦曰:「謝述若存,義康必不至此。」

三人の子、綜、約、緯。謝綜は才芸があり、隷書をよくし、太子中舎人となったが、母方の叔父の范曄と謀反を企て、誅殺された。謝約も連座して死罪となった。謝緯は太祖の第五女である長城公主を娶り、平素から謝約に憎まれていたため、死罪を免れ広州に流された。孝建年間、都に戻った。方正高雅で父の風格があった。太宗の泰始年間、正員郎中に至った。

原文三子:綜、約、緯。綜有才藝,善隸書,為太子中舍人,與舅范曄謀反,伏誅。約亦坐死。緯尚太祖第五女長城公主,素為約所憎,免死徙廣州。孝建中,還京師。方雅有父風。太宗泰始中,至正員郎中。

袁湛、字は士深、陳郡陽夏の人である。祖父の袁耽は、晋の歴陽太守、父の袁質は琅邪内史で、共に知られた人物であった。

原文袁湛字士深,陳郡陽夏人也。祖耽,晉歷陽太守,父質,琅邪內史,並知名。

袁湛は若い頃、母方の外祖父の謝安に認められ、謝安の兄の子である謝玄の娘を妻に迎えた。初め衛軍行参軍、員外散騎、通直正員郎、中軍功曹、桓玄の太尉参軍事を歴任した。朝廷に入って中書黄門侍郎となり、外任して桓脩の撫軍長史を補任した。

原文湛少為從外祖謝安所知,以其兄子玄之女妻之。初為衞軍行參軍,員外散騎,通直正員郎,中軍功曹,桓玄太尉參軍事。入為中書黃門侍郎,出補桓脩撫軍長史。

義旗(高祖劉裕の挙兵)が建てられると、高祖は彼を鎮軍諮議参軍とした。翌年、尚書吏部郎、司徒左長史、侍中じちゅうに転じた。征討従軍の功により、晋寧県五等男に封ぜられた。高祖の太尉長史として出向し、左民尚書に昇進、吏部を管掌するようになった。呉興太守として出向し、秩禄は中二千石で、政治は温和で道理に適い、官吏や民衆に称賛された。朝廷に戻って中書令を補任し、また外任して呉国内史となり、秩禄は中二千石であった。義熙十二年、尚書右僕射、本州大中正に転じた。時に高祖が北伐すると、袁湛は太尉を兼任し、兼司空しくう、散騎常侍、尚書の范泰と共に九錫の礼の品物を奉じて高祖に拝授した。高祖は謙譲したため、袁湛らは軍に従って洛陽まで行き、柏谷塢に滞在した。范泰は使命が完了していないとして晋の皇帝の陵墓を拝礼すべきでないと議したが、袁湛は独りで五陵(晋の歴代皇帝の陵)に赴き敬意を表した。当時の人々はこれを称賛した。

原文義旗建,高祖以為鎮軍諮議參軍。明年,轉尚書吏部郎,司徒左長史,侍中。以從征功,封晉寧縣五等男。出為高祖太尉長史,遷左民尚書,徙掌吏部。出為吳興太守,秩中二千石,莅政和理,為吏民所稱。入補中書令,又出為吳國內史,秩中二千石。義熙十二年,轉尚書右僕射、本州大中正。時高祖北伐,湛兼太尉,與兼司空、散騎常侍、尚書范泰奉九命禮物,拜授高祖。高祖沖讓,湛等隨軍至洛陽,住柏谷塢。泰議受使未畢,不拜晉帝陵,湛獨至五陵致敬,時人美之。

かつて、陳郡の謝重は、王胡之の外孫であったが、母方の叔父たちに対する礼敬に欠けることが多かった。謝重の子の謝絢は、袁湛の甥であったが、公の席で袁湛を見下すような態度をとったことがあった。袁湛は厳しい表情で彼に言った、「お前は二代にわたって渭陽の情(甥と舅の情愛)がないということだ」。謝絢は恥じ入った。

原文初,陳郡謝重,王胡之外孫,於諸舅禮敬多闕。重子絢,湛之甥也,嘗於公座陵湛,湛正色謂曰:「汝便是兩世無渭陽之情。」絢有愧色。

十四年、在官のまま死去、享年四十。左光禄大夫を追贈され、散騎常侍が加えられた。太祖(文帝)が即位すると、皇后の父として、侍中、左光禄大夫、開府儀同三司を追贈された。諡は敬公。世祖(孝武帝)の大明三年、籍田(皇帝の親耕)に臨幸し、袁湛の墓の前を通りかかった。詔を下して言った、「故侍中、左光禄大夫、開府儀同三司晋寧敬公は、外戚として尊く、質素な風貌で簡潔正直であった。年月が積もり、墳墓が次第に遠ざかる。朕は近く千畝の田を巡覧し、遥かに松の並ぶ墓道を仰ぎ見て、その美しい行跡を思い、感慕の情がますます結ばれる。使者を遣わして祭らせ、永い思いを少しばかり述べさせよ」。また墓守を五戸増やした。

原文十四年,卒官,時年四十。追贈左光祿大夫,加散騎常侍。太祖即位,以后父,追贈侍中、左光祿大夫、開府儀同三司。諡曰敬公。世祖大明三年,幸籍田,行經湛墓。下詔曰:「故侍中、左光祿大夫、開府儀同三司晉寧敬公,外氏尊戚,素風簡正,歲紀稍積,墳塋浸遠。朕近巡覽千畝,遙瞻松隧,緬惟徽塵,感慕增結。可遣使祭,少申永懷。」又增守墓五戶。

子の袁淳、袁淳の子の袁桓が死去した。

原文子淳,淳子桓卒。

袁湛の弟の袁豹、字は士蔚、これも謝安に認められ、学問を好み博識で、多くの典籍を読んだ。初め著作佐郎、衛軍桓謙の記室参軍となった。大將軍武陵王司馬遵が制を承けると、再び記室参軍となった。その年、丹陽尹の孟昶が彼を建威司馬とした。一年余りして、司徒左西属に転じ、劉毅の撫軍諮議参軍に昇進し、記室を兼任した。劉毅が当時大規模な屯田を提案すると、袁豹は上議して言った。

原文湛弟豹字士蔚,亦為謝安所知,好學博聞,多覽典籍。初為著作佐郎,衞軍桓謙記室參軍。大將軍武陵王遵承制,復為記室參軍。其年,丹陽尹孟昶以為建威司馬。歲餘,轉司徒左西屬,遷劉毅撫軍諮議參軍,領記室。毅時建議大田,豹上議曰:

国家は民を以て本と為し、民は食を資として天と為す。その業を修めれば教え興り、その本を崇めれば末は理まる。これはまさに治世の要道であり、教化を致す段階である。その本を重んじなければ、末業が盛んになり、飢寒が交わり迫れば、廉恥は立たない。現在は偽りの政権の末期を受け継ぎ、凶作と荒廃の余波に当たり、利を争う源は既に開かれ、凋落と薄情はますます広がり、栄利が人々の正しい本性を蕩かし、賦役と徴税がその資産を尽くし、良田には耕す者がなく、家々には飢え困窮の憂いがある。この間は多くの変事があり、日々に暇がない。甲冑を巻き馬を退けてから、わずか一二年、積弊を抱えた民衆は、容易に振るい立つことができず、まことに仁愛の心で哀れみ、明らかな教化が発せられるべきである。しかしこの事業が修められないのは、以前からそうであった。民を司る牧の官は、誰もこれを務めとせず、俗吏の凡庸な近視眼的な者は、依然として常套の科条を執り、勧農と監督の古い典拠に依拠し、民情のたびたびの変化に迷っている。譬えるなら堤防を修築して川を防ごうとしながら、淵や丘が改易することを忘れ、昔の弦に膠着して柱を固定し、宮商の音調が乖離することを忽せにし、ただ考課の条項があるだけで、毫分の益もない。清流は源を澄ますことにあること、車輪が止まるのは高い門のためであることを悟らず、患いは根本から生じ、それを末で治めようとするからである。位を設けて賢者を崇め、爵を分けて士を命じ、上は能力を量って官を審らかにし、浮ついた名声で人を取らなければ、徒党を組む道は止み、遊説する者は帰郷し、遊子が既に帰れば、南の田畑は開かれる。職を分けて任務を与え、吏を置いて役事を周行させ、職は任なきことを以て立たず、吏は用いられないことを以て省かれ、冗散な者は廃されれば、荒れた土地は開墾される。器物は用に応じて作り、商いは財を通じさせ、華美な技巧を削り、得難い財貨を棄てれば、彫琢と偽りを好む者は軽んじられ、穀物と農作物が重んじられる。耕し鋤くことは勤苦で、力は多く収穫は少なく、工商は安逸で、労力は浅く利益は深い。商売の税を増やし、田畑の賦役を薄くすれば、末技は抑えられ農夫は喜ぶ。地位にある者に義に従う徒党がなく、野には兼併する党がなければ、賜与は恩情で得られず、力役は私門に入らなければ、遊食する者は本業に戻り、勤勉に励むことを自ら勧め、遊食する者が減り勤勉な者が多ければ、春の耕作は盛んになる。密かに勤める者は選別され、怠慢な者は明らかに罰せられ、勧農と考課の法令を明らかにし、違反を取り締まる官を厳しくすれば、怠惰な者は身を置く所がなく、力田する者は望みを持ち、勤勉な者は喜び怠惰な者は恐れ、農夫は励まされる。凡そこれらの数事は、農耕に務めることの要諦である。清らかな心で臨み、無欲で鎮め、倦まず励まし、廉潔と謹慎で補佐し、日々の小さな成果に拘らず、遠い将来の大いなる達成を期すれば、浅薄な風俗は自然と淳厚になり、心の教化は次第に進むであろう。

原文國因民以為本,民資食以為天,修其業則教興,崇其本則末理,實為治之要道,致化之所階也。不敦其本,則末業滋章;飢寒交湊,則廉恥不立。當今接篡偽之末,值凶荒之餘,爭源既開,彫薄彌啟,榮利蕩其正性,賦斂罄其所資,良疇無側趾之耦,比屋有困餧之患,中間多故,日不暇給。自卷甲郤馬,甫一二年,積弊之黎,難用克振,實仁懷之所矜恤,明教之所爰發也。然斯業不修,有自來矣。司牧之官,莫或為務,俗吏庸近,猶秉常科,依勸督之故典,迷民情之屢變。譬猶修隄以防川,忘淵丘之改易,膠柱於昔弦,忽宮商之乖調,徒有考課之條,而無豪分之益。不悟清流在於澄源,止輪由乎高閎,患生於本,治之於末故也。夫設位以崇賢,疏爵以命士,上量能以審官,不取人於浮譽,則比周道息,游者言歸,游子既歸,則南畝闢矣。分職以任務,置吏以周役,職不以無任立,吏必以非用省,宂散者廢,則萊荒墾矣。器以應用,商以通財,勦靡麗之巧,棄難得之貨,則彫偽者賤,穀稼重矣。耕耨勤悴,力殷收寡,工商逸豫,用淺利深,增賈販之稅,薄疇畝之賦,則末技抑而田畯喜矣。居位無義從之徒,在野靡并兼之黨,給賜非可恩致,力役不入私門,則游食者反本,肆勤自勸,游食省而肆勤眾,則東作繁矣。密勿者甄異,怠慢者顯罰,明勸課之令,峻糾違之官,則嬾惰無所容,力田有所望,力者欣而惰者懼,則穡人勸矣。凡此數事,亦務田之端趣也。莅之以清心,鎮之以無欲,勗之以弗倦,翼之以廉謹,舍日計之小成,期遠致於莫歲,則澆薄自淳,心化有漸矣。

王豹は雅俗を弁えた言葉を巧みにし、しばしば古今を論じ較べ、それに詩歌の朗詠を加えたので、聞く者は疲れを忘れた。

原文豹善言雅俗,每商較古今,兼以誦詠,聽者忘疲。

まもなく撫軍司馬に転じ、御史中丞に遷った。鄱陽県侯の孟懐玉が母の檀氏を国太夫人に拝するよう上奏し、有司がこれを許すと奏上した。王豹は、婦人は夫の爵位に従うものであり、懐玉の父である大司農の孟綽が列卿の地位にあるのに、妻が子に従うのは適当でないと考え、尚書右僕射の劉柳、左丞の徐羨之、郎の何邵の官を免ずるよう奏上した。詔によりいずれも贖罪で論じられた。孟昶が卒すると、王豹は代わって丹陽尹となった。義熙七年、上納金銭を移送させる罪に坐し、太尉諮議参軍に降格され、そのまま長史に転じた。

原文尋轉撫軍司馬,遷御史中丞。鄱陽縣侯孟懷玉上母檀氏拜國太夫人,有司奏許。豹以為婦人從夫之爵,懷玉父大司農綽見居列卿,妻不宜從子,奏免尚書右僕射劉柳、左丞徐羨之、郎何邵之官,詔並贖論。孟昶卒,豹代為丹陽尹。義熙七年,坐使徙上錢,降為太尉諮議參軍,仍轉長史。

劉毅討伐に従軍した。高祖(劉裕)は益州刺史の朱齢石を遣わして蜀を伐たせ、王豹に檄文を作らせた。その文は次の通りである。

原文從討劉毅。高祖遣益州刺史朱齡石伐蜀,使豹為檄文,曰:

徳に順う者は栄え、徳に逆らう者は滅びる。仁と義を失えば、安泰を求めることは難しく、険阻に依り釁を負えば、成し遂げる者は稀である。古来を詳しく観れば、隆盛と衰退には定数があり、故に成都(公孫述)は永続せず、華陽(成漢)にも興隆した国はない。

原文夫順德者昌,逆德者亡,失仁與義,難以求安,馮阻負釁,鮮克有成。詳觀自古,隆替有數,故成都不世祀,華陽無興國。

かつて王室には多くの変事があり、夷羿のような者が紛争を引き起こし、波は震い塵は駭き、遠方の地にまで及んだ。取るに足らない譙縦は、編戸の平民であり、悪を同じくする者と求め合い、これを崇めこれを長とし、州の長官に反逆して噛みつき、民衆に毒害を撒き散らし、我が西方の地域をして、皇恩の潤いから隔絶させた。正義の風が電撃のように靡き、天の光が再び輝き、旧来の事物が明らかになり、天地に和気が満ちて以来、諸々の政務が草創期にあり、九伐の刑を行う暇もなく、それ以来、十年の歳月が過ぎ去った。しかし野心は改まらず、隙を伺い間を乗じ、逃亡した反逆者を招き集め、共に勢力を培い、我が蛮獣を侵擾し、我が辺境を揺るがした。我らはこれによって治洲の役を行い、醜悪な類はことごとく滅び、一匹の馬も残さず、桓謙は首を斬られ、譙福は鳥のように逃げ去り、巣穴に奔り伏し、首を伸ばして誅戮を待っている。

原文日者王室多故,夷羿遘紛,波振塵駭,覃及遐裔。蕞爾譙縱,編戶黔首,同惡相求,是崇是長,肆反噬於州相,播毒害於民黎,俾我西服,隔閡皇澤。自義風電靡,天光反煇,昭晢舊物,烟熅區宇。以庶務草創,未遑九伐,自爾以來,奄延十載。而野心不革,伺隙乘間,招聚逋叛,共相封殖,侵擾我蠻獠,搖蕩我疆垂。我是以有治洲之役,醜類盡殪,匹馬無遺,桓謙折首,譙福鳥逝,奔伏窠穴,引頸待戮。

現在、北狄の露は乾き、南寇の埃は掃われ、朝廷の風は善く、多くの功績は凝集し、『康哉』の歌は日に日に盛んに歌われ、家々の繁栄が詠われるべきである。私はこの経略の職にあり、天下を統一することを思い、かの大禹の足跡を顧み、言葉に表したい思いを懐き、命を受けて西行し、途上で荊州・郢州えいしゅうに至り、巴・漢を眺め望み、憤りと慨嘆が深く交わる。清らかな江の源は觴を浮かべるほどの細流にあり、不穏な気配は井絡(蜀の星宿)において澄み渡り、叛逆を誅し遠方を懐柔するは、今がその時である。ただちに河間太守の蒯恩、下邳太守の劉鍾に、精鋭の兵二万を与え、直ちに成都を指し向かわせる。龍驤将軍の臧熹には、兵卒二万を率いさせ、墊江から進軍させる。益州刺史の朱齢石には、水軍三万を率いさせ、外水において電光のように輝かせる。分遣して輔国将軍の索懇に、漢中の軍勢を総括させ、剣閣の道から渡らせる。振威将軍の朱客子には、寧州の精鋭を提げさせ、瀘水を渡って進入させる。神兵が四方から臨み、天の網は広く覆い、衡山と翼星のように千里に及び、金鼓は万張り鳴り響き、組甲と貝冑は光り輝き波のように連なり、華夏と夷狄、百濮の民は、雲のように集い霧のように至る。これをもって攻撃すれば、誰が敵となろうか。ましてや正義を奉じて行い、順理に従って動く者であればなおさらである。

原文當今北狄露晞,南寇埃掃,朝風載韙,庶績其凝,康哉之歌日熙,比屋之隆可詠。孤職是經略,思一九有,眷彼禹跡,願言載懷,奉命西行,途戾荊、郢,瞻望巴、漢,憤慨交深。清江源於濫觴,澄氛祲於井絡,誅叛柔遠,今也其時。即命河間太守蒯恩、下邳太守劉鍾,精勇二萬,直指成都。龍驤將軍臧熹,戎卒二萬,進自墊江。益州刺史朱齡石,舟師三萬,電曜外水。分遣輔國將軍索懇,總漢中之眾,濟自劍道。振威將軍朱客子,提寧州之銳,渡瀘而入。神兵四臨,天綱宏掩,衡翼千里,金鼓萬張,組甲貝冑,景煥波屬,華夷百濮,雲會霧臻,以此攻戰,誰與為敵,況又奉義而行,以順而動者哉!

今や三陝の険阻は、我が境内にあり、岑彭が守った荊門のような険しさはない。その険阻に入り込めば、平坦な大道が四方に通じ、実に鄧艾が苦戦した綿竹のような艱難はない。山川の地形も、かつてのようではなく、攻守の難易は、明らかに百倍である。全蜀の強さ、士民の富をもってしても、公孫述(子陽)は庸・僰の地に安住できず、劉禅は南中に逃れて命を繋ぐこともできず、荊邯の謀略は折れ、姜維(伯約)の鋭気は挫かれた。故に成敗には定数があり、知恵で延ばすことはできないことを知る。これらは皆、益州の地の過去の事柄であり、現在の大いなる鑑である。盛んなるは盧循の如く、強きは容超の如く、南海に威を凌ぎ、北岱を跨いで制し、楼船万艘が江と汜水を覆い隠し、鉄馬千群が原野を満たし湿地を塞いだ。しかし広固の攻撃では、陸上に完璧な城壁はなく、左里の戦いでは、水上に完全な舟はなかった。ある者は京畿で明らかに誅戮され、ある者は首を万里に伝えられた。故に順逆には勢いがあり、力で抗うことは難しいことを知る。これまた目前の殷鑑であり、深く切実で明らかである。

原文今三陝之隘,在我境內,非有岑彭荊門之險。彌入其阻,平衢四達,實無鄧艾綿竹之艱。山川之形,抑非曩日,攻守難易,居然百倍。當全蜀之強,士民之富,子陽不能自安於庸、僰,劉禪不敢竄命於南中,荊邯折謀,伯約挫銳。故知成敗有數,非可智延,此皆益土前事,當今元龜也。盛如盧循,強如容超,陵威南海,跨制北岱,樓船萬艘,掩江蓋汜,鐵馬千羣,充原塞隰。然廣固之攻,陸無完雉,左里之戰,水靡全舟,或顯戮京畿,或傳首萬里。故知逆順有勢,難以力抗,斯又目前殷鑑,深切著明者也。

梁州・益州の人士は、皆、王化を理解しており、一時的に駆り立てられてはいるが、本来は深く帰依した主君ではない。譙縦の淫虐は、日々に増して広がり、罪なき者を刑殺し、死者は沢の水のように数えきれない。そして敵の誅戮を待ち、豺狼の口に寄りかかり蹲っている。彼らはまさしく南風を誠実に仰ぎ、東雲(朝廷)に首を長くして、普天に蘇り来る幸いがあることを願いながら、一方では自分たちが後回しにされることを怨んでいる。王者の師は、仁を根本とし、逆を捨て順を取る。三度追い払ってから網を張る故事に由来し、斉斧(刑罰)が加わるのは、その身だけである。甲冑を脱ぎ縛られて、自ら軍門に投じる者があれば、一切問わない。士人と百姓は、店を並べて安堵し、吉凶を審らかに選び、自ら多くの福を求めるがよい。大いなる信義の明らかさは、朝日のように明るい。もしも迷い続けて姦邪を守り、愚かさを改めなければ、孟諸の地を火で焼き払えば、霊芝も艾も共に焼け爛れ、金隄が決壊すれば、淵も丘も同じ体となる。たとえ後悔しようとも、どうして及ぼうか。

原文梁益人士,咸明王化,雖驅迫一時,本非奧主。縱之淫虐,日月增播,刑殺非罪,死以澤量。而待命寇讎之戮,㩻䧢豺狼之吻,豈不遡誠南凱,延首東雲,普天有來蘇之幸,而一方懷後予之怨。王者之師,以仁為本,舍逆取順,爰自三驅,齊斧所加,縱身而已。其有衿甲反接,自投軍門者,一無所問。士子百姓,列肆安堵,審擇吉凶,自求多祐。大信之明,皦若朝日,如其迷復姦邪,守愚不改,火燎孟諸,芝艾同爛,河決金隄,淵丘同體,雖欲悔之,亦將何及!

義熙九年、在官のまま死去した。時に四十一歳であった。翌年、蜀討伐の謀議ぼうぎに参画した功績により、南昌県五等子を追封された。

原文九年,卒官,時年四十一。次年,以參伐蜀之謀,追封南昌縣五等子。

子の洵は、元嘉年間に顕官を歴任し、廬陵王劉紹が南中郎将・江州刺史となった時、年少で政務に親しまなかったため、洵は長史・尋陽太守となり、府州の事務を代行した。元嘉末に呉郡太守となった。元凶が帝を弑しいして即位すると、洵に建威将軍を加え、佐史を置いた。安東将軍随王劉誕が義兵を起こすと、檄文で洵を前鋒とし、輔国将軍を加えた。事が平定された後、間もなく死去し、征虜将軍を追贈され、諡は貞子といった。長子の顗は別に伝がある。少子の覬は学問を好み文章をよくし、世に清い名声があった。官は司徒従事中郎・武陵内史まで至ったが、早逝した。

原文子洵,元嘉中,歷顯官,廬陵王紹為南中郎將、江州刺史,年少未親政,洵為長史、尋陽太守,行府州事。元嘉末,為吳郡太守。元凶弒立,加洵建威將軍,置佐史。會安東將軍隨王誕起義,檄洵為前鋒,加輔國將軍。事平,頃之卒,追贈征虜將軍,諡曰貞子。長子顗,別有傳。少子覬,好學善屬文,有清譽於世。官至司徒從事中郎、武陵內史,蚤卒。

洵の弟の濯は、揚州の秀才であったが、早逝した。濯の弟の淑、濯の子の粲は、いずれも別に伝がある。

原文洵弟濯,揚州秀才,蚤卒。濯弟淑,濯子粲,並有別傳。

褚叔度は、河南郡陽翟県の人である。曾祖父の裒は、晋の太傅であった。祖父の歆は、秘書監であった。父の爽は、金紫光禄大夫であった。

原文褚叔度,河南陽翟人也。曾祖裒,晉太傅。祖歆,祕書監。父爽,金紫光祿大夫。

長兄の秀之は、字を長倩といい、大司馬琅邪王の従事中郎、黄門侍郎、高祖の鎮西長史を歴任した。秀之の妹は、恭帝の后であったが、晋の姻戚でありながらも高祖に心を尽くした。侍中に遷り、出て大司馬右司馬を補った。恭帝が即位すると、祠部尚書・本州大中正となった。高祖が天命を受けると、太常に転じた。元嘉元年に在官のまま死去し、時に四十七歳であった。

原文長兄秀之,字長倩,歷大司馬琅邪王從事中郎,黃門侍郎、高祖鎮西長史。秀之妹,恭帝后也,雖晉氏姻戚,而盡心於高祖。遷侍中,出補大司馬右司馬。恭帝即位,為祠部尚書、本州大中正。高祖受命,徙為太常。元嘉元年卒官,時年四十七。

秀之の弟の淡之は、字を仲源といい、これも顕官を歴任し、高祖の車騎従事中郎、尚書吏部郎、廷尉卿、左衛将軍となった。高祖が天命を受けると、侍中となった。淡之兄弟はともに忠を尽くして高祖に仕え、恭帝が男児を生むたびに、機会を見て殺すよう命じ、あるいは内人を誘い賄賂を贈り、あるいは密かに毒を盛って害し、前後して一度や二度ではなかった。恭帝が位を譲って秣陵宮に住むと、常に禍を恐れ、褚后と共に一室に留まり、毒を警戒して自ら床前で食事を煮た。高祖が恭帝を殺そうとし、人を内に入れたくないので、淡之兄弟に褚后を見舞わせ、褚后が出て別室で会うと、兵士が垣を越えて入り、恭帝に薬を進めた。帝は飲もうとせず、「仏教では自殺した者は再び人身を得られない」と言った。そこで布団で覆って殺した。後に会稽郡に欠員が生じ、朝廷の議論では蔡廓を用いようとしたが、高祖は言った、「彼はもともと蔡家の良い子であって、何が人事に関わるというのか、仏を用いるがよい。」仏は、淡之の幼名である。そこで淡之を会稽太守とした。

原文秀之弟淡之,字仲源,亦歷顯官,為高祖車騎從事中郎,尚書吏部郎,廷尉卿,左衞將軍。高祖受命,為侍中。淡之兄弟並盡忠事高祖,恭帝每生男,輒令方便殺焉,或誘賂內人,或密加毒害,前後非一。及恭帝遜位,居秣陵宮,常懼見禍,與褚后共止一室,慮有酖毒,自煮食於牀前。高祖將殺之,不欲遣人入內,令淡之兄弟視褚后,褚后出別室相見,兵人乃踰垣而入,進藥於恭帝。帝不肯飲,曰:「佛教自殺者不得復人身。」乃以被掩殺之。後會稽郡缺,朝議欲用蔡廓,高祖曰:「彼自是蔡家佳兒,何關人事,可用佛。」佛,淡之小字也。乃以淡之為會稽太守。

景平二年、富陽県の孫氏が一族を集結させ、謀反を企てた。その支党が永興県におり、密かに呼応していた。永興県令の羊恂がその奸謀に気づき、淡之に報告したが、淡之は信じず、かえって人を誣告した罪で、県の職局を収監した。そこで孫法亮は冠軍かんぐん大将軍を号し、孫道慶らと共に県邑を攻め落とし、直ちに富陽県令の顧粲を県令とし、輔国将軍を加えた。偽の建威将軍孫道仲、孫公喜、法殺を派遣して永興を攻撃させた。永興の民灟恭期は初め賊と同調していたが、後に改心して羊恂に就き、吏民を率いて防戦したが、兵力が少なく敗退した。賊は県民の許祖を県令とし、羊恂は江唐山に逃げ隠れたが、まもなく再び賊に捕らえられ、県の事務を行わせられた。賊はついに地盤を固め、互いに官位を立て、遠く鄮県令の司馬文寅を征西大将軍とし、孫道仲を征西長史とし、孫道覆を左司馬とし、公喜、法殺らと共に旗を立て鼓を鳴らし、まっすぐ山陰を攻撃した。

原文景平二年,富陽縣孫氏聚合門宗,謀為逆亂,其支黨在永興縣,潛相影響。永興令羊恂覺其姦謀,以告淡之,淡之不信,乃以誣人之罪,收縣職局。於是孫法亮號冠軍大將軍,與孫道慶等攻沒縣邑,即用富陽令顧粲為令,加輔國將軍。遣偽建威將軍孫道仲、孫公喜、法殺攻永興。永興民灟恭期初與賊同,後反善就羊恂,率吏民拒戰,力少退敗。賊用縣人許祖為令,恂逃伏江唐山中,尋復為賊所得,使還行縣事。賊遂磐據,更相樹立,遙以鄮令司馬文寅為征西大將軍,孫道仲為征西長史,孫道覆為左司馬,與公喜、法殺等建旗鳴鼓,直攻山陰。

淡之は自ら凌江将軍を仮称し、山陰県令の陸邵に司馬を兼任させ、振武将軍を加え、前員外散騎常侍の王茂之を長史とし、前国子博士の孔欣、前員外散騎常侍の謝芩之をともに参軍事とし、行参軍七十余人を召集した。前鎮西諮議参軍の孔甯子、左光禄大夫の孔季恭の子で服喪中の山士も、皆起用して将軍とした。隊主の陳願、郡議曹掾の虞道納の二軍を派遣して浦陽江を渡らせた。陳願らは戦いに敗れ、賊は勢いを増して前進し、城から二十余里のところまで来た。淡之は陸邵に戟公の石綝、広武将軍の陸允を督率させて水軍でこれを防がせ、また別に行参軍の灟恭期に歩兵を率いさせて陸邵と合力させた。淡之は自ら率いる兵を率いて近郊に出陣した。恭期らは賊と柯亭で戦い、大破し、賊は逃げて永興に戻った。賊は偽の寧朔将軍孫倫に五百人を率いさせて銭唐を攻撃させたが、県の守備軍の建武将軍と琦で戦い、孫倫は敗走して富陽に戻った。孫倫は改心し、法歩帥ら十余人を殺し、その首を京都に送った。詔により殿中員外将軍の徐卓が千人を率い、右将軍彭城王劉義康は龍驤将軍の丘顕に五百の兵を率いさせて東征させ、司空の徐羨之は版授で揚州主簿の沈嗣之を富陽県令とし五百人を率いさせ、呉興から東に出撃させたが、いずれも到着する前に賊は平定された。呉郡太守の江夷は軽装で任地へ赴き、呉に一泊し、富陽に進軍して善悪を分別し、願わくは賊の残党数百家を彭城、寿陽、青州などの各地に移住させようと捕らえて送った。二年、淡之は死去し、時に四十五歳であった。諡は質子といった。

原文淡之自假凌江將軍,以山陰令陸邵領司馬,加振武將軍,前員外散騎常侍王茂之為長史,前國子博士孔欣、前員外散騎常侍謝芩之並參軍事,召行參軍七十餘人。前鎮西諮議參軍孔甯子、左光祿大夫孔季恭子山士在艱中,皆起為將軍。遣隊主陳願、郡議曹掾虞道納二軍過浦陽江。願等戰敗,賊遂摧鋒而前,去城二十餘里。淡之遣陸邵督帶戟公石綝、廣武將軍陸允以水軍拒之,又別遣行參軍灟恭期率步軍與邵合力。淡之率所領出次近郊。恭期等與賊戰於柯亭,大破之,賊走還永興。遣偽寧朔將軍孫倫領五百人攻錢唐,與縣戍軍建武將軍戰於琦,倫敗走還富陽。倫因反善,殺法步帥等十餘人,送首京都。詔遣殿中員外將軍徐卓領千人,右將軍彭城王義康遣龍驤將軍丘顯率眾五百東討,司空徐羨之版揚州主簿沈嗣之為富陽令領五百人,於吳興道東出,並未至而賊平。吳郡太守江夷輕行之職,停吳一宿,進至富陽,分別善惡,執送願徙賊餘黨數百家於彭城、壽陽、青州諸處。二年,淡之卒,時年四十五。諡曰質子。

叔度の名は高祖と同じであったため、字をもって世に行われた。初め太宰琅邪王の参軍、高祖の車騎参軍事、司徒左西属、中軍諮議参軍となり、中兵を署理し、建威将軍を加えられた。鮮卑征伐に従軍し、誠意と力を尽くした。盧循が査浦を攻撃した時、叔度は力戦して功績があった。盧循が南に逃走すると、高祖は版授で広州刺史とし、そのまま都督交広二州諸軍事・建威将軍・領平越中郎将・広州刺史に任じた。桓玄の一族が山に籠もって徒党を集め、広州を襲おうと謀ったが、事が発覚し、叔度はこれをすべて平定した。義熙八年、盧循の残党の劉敬道が窮迫し、交州に赴いて降伏を申し出た。交州刺史の杜慧度がこのことを統帥府に報告すると、叔度は敬道らが窮地に陥って命乞いをしたのであり、誠意のあるものではないとして、使いに報じて誅殺させた。慧度は防備や記録を加えず、敬道は亡命者を招集し、九真を攻め破り、太守の杜章民を殺害したため、慧度が討伐平定した。叔度はみだりに慧度の称号を奮揚将軍に貶め、事前に上奏しなかったことを憎み、有司に糾弾されたが、詔によって赦された。

原文叔度名與高祖同,故以字行。初為太宰琅邪王參軍,高祖車騎參軍事,司徒左西屬,中軍諮議參軍,署中兵,加建威將軍。從伐鮮卑,盡其誠力。盧循攻查浦,叔度力戰有功。循南走,高祖版行廣州刺史,仍除都督交廣二州諸軍事、建威將軍、領平越中郎將、廣州刺史。桓玄族人開山聚眾,謀掩廣州,事覺,叔度悉平之。義熙八年,盧循餘黨劉敬道窘迫,詣交州歸降。交州刺史杜慧度以事言統府,叔度以敬道等路窮請命,事非款誠,報使誅之。慧度不加防錄,敬道招集亡命,攻破九真,殺太守杜章民,慧度討平之。叔度輒貶慧度號為奮揚將軍,惡不先上,為有司所糾,詔原之。

高祖が劉毅を征討した時、叔度は三千人を派遣して山を越えさせ、荊州が平定されてから帰還させた。在任四年の間、広く賄賂を求め、家財を豊かに蓄積したため、官を免ぜられ、終身禁錮に処された。都に戻ると、旧知や一面識のある者すべてに、厚く贈り物をした。まもなく太尉諮議参軍・相国右司馬に任じられた。高祖が天命を受けると、右衛将軍となった。高祖は彼が名家の出身でありながら、心身を尽くして尽力したことを大いに賞賛し、詔を下して言った、「賞は勤勉な者を漏らさなければ、労苦を尽くす臣はますます励む。爵位は必ず功績に応じて与えるべきであるから、功績のある者は皆栄達する。叔度は南北を征討し、常に軍務の要職を管轄し、西夏(西方)は恭順せず、誠意は嶺表(広東方面)に顕著である。番禺県男に封じ、食邑四百戸を与える。」まもなく散騎常侍を加えられた。永初三年、使持節・監雍梁南北秦四州荊州之南陽竟陵順陽義陽新野随六郡諸軍事・征虜将軍・雍州刺史として出向し、寧蛮校尉・襄陽義成太守を兼任した。在任中は常に清廉簡素で称賛された。景平二年に死去し、時に四十四歳であった。

原文高祖征劉毅,叔度遣三千人過嶠,荊州平乃還。在任四年,廣營賄貨,家財豐積,坐免官,禁錮終身。還至都,凡諸舊及有一面之款,無不厚加贈遺。尋除太尉諮議參軍、相國右司馬。高祖受命,為右衞將軍。高祖以其名家,而能竭盡心力,甚嘉之,乃下詔曰:「夫賞不遺勤,則勞臣增勸;爵必疇庸,故在功咸達。叔度南北征討,常管戎要,西夏不虔,誠著嶺表,可封番禺縣男,食邑四百戶。」尋加散騎常侍。永初三年,出為使持節、監雍梁南北秦四州荊州之南陽竟陵順陽義陽新野隨六郡諸軍事、征虜將軍、雍州刺史,領寧蠻校尉、襄陽義成太守。在任每以清簡致稱。景平二年,卒,時年四十四。

子の恬之が後を継ぎ、官は南琅邪太守まで至った。恬之が死去すると、子の昭が後を継いだ。昭が死去すると、子の瑄が後を継いだ。斉が禅譲を受けると、封国は除かれた。叔度の第二子の寂之は、著作佐郎であったが、早逝した。子の曖は、太祖の第六女である琅邪貞長公主を娶り、太宰参軍となったが、これも早逝した。

原文子恬之嗣,官至南琅邪太守。恬之卒,子昭嗣。昭卒,子瑄嗣。齊受禪,國除。叔度第二子寂之,著作佐郎,早卒。子曖,尚太祖第六女琅邪貞長公主,太宰參軍,亦早卒。

秀之の弟の湛之は字を休玄といい、高祖の第七女である始安哀公主を娶り、駙馬都尉・著作郎に任じられた。哀公主が薨去すると、再び高祖の第五女である呉郡宣公主を娶った。公主を娶る者はすべて名門の子孫を用い、必ずしも才能があるとは限らなかった。湛之は謹厳実直で意欲と才幹があり、ゆえに太祖に知られた。顕職を歴任し、揚武将軍・南彭城・沛二郡太守、太子中庶子、司徒左長史、侍中、左衞将軍、左民尚書、丹陽尹となった。元凶が帝を弑逆すると、吏部尚書に任じられ、さらに輔国将軍・丹陽尹として出向し、石頭の戍守の任を統括した。世祖が入討すると、劉劭は自ら新亭の陣を攻撃し、湛之に水軍を率いてともに進撃させた。湛之はこれに乗じて二人の息子の淵と澄を伴い軽舟で南へ奔った。淵には生まれたばかりの男子が一人いたが、劉劭に殺された。世祖が即位すると、尚書右僕射に任じられた。孝建元年、中書令・丹陽尹となった。南郡王劉義宣の諸子が郡内に逃げ隠れた件に連座し、建康令の王興之と江寧令の沈道源が投獄され、湛之は官を免じられて禁錮に処された。その年、再び散騎常侍・左衞将軍となり、まもなく侍中に昇進し、左衞将軍は元のままとした。長患いを理由に、散騎常侍・光禄大夫に任じられ、金章紫綬を加えられた。ほどなくして、再び丹陽尹となり、光禄大夫は元のままとした。まもなく尚書左僕射となった。南奔の功により都郷侯の爵位を賜った。大明四年、死去した。享年五十。侍中・特進・驃騎将軍を追贈され、鼓吹一部を給され、左僕射は元のままとした。諡は敬侯。

原文秀之弟湛之字休玄,尚高祖第七女始安哀公主,拜駙馬都尉、著作郎。哀公主薨,復尚高祖第五女吳郡宣公主。諸尚公主者,並用世冑,不必皆有才能。湛之謹實有意幹,故為太祖所知。歷顯位,揚武將軍、南彭城沛二郡太守,太子中庶子,司徒左長史,侍中,左衞將軍,左民尚書,丹陽尹。元凶弒逆,以為吏部尚書,復出為輔國將軍、丹陽尹,統石頭戍事。世祖入伐,劭自攻新亭壘,使湛之率水師俱進。湛之因攜二息淵、澄輕船南奔。淵有一男始生,為劭所殺。世祖即位,以為尚書右僕射。孝建元年,為中書令,丹陽尹。坐南郡王義宣諸子逃藏郡堺,建康令王興之、江寧令沈道源下獄,湛之免官禁錮。其年,復為散騎常侍、左衞將軍,俄遷侍中,左衞如故。以久疾,拜散騎常侍、光祿大夫,加金章紫綬。頃之,復為丹陽尹,光祿如故。尋為尚書左僕射。以南奔賜爵都鄉侯。大明四年,卒,時年五十。追贈侍中、特進、驃騎將軍,給鼓吹一部,左僕射如故。諡曰敬侯。

子の淵は庶子として生まれたが、宣公主は淵に才能があるとして、嫡子として立てるよう上表した。淵は、昇明の末年に司空となった。

原文子淵庶生,宣公主以淵有才,表為嫡嗣。淵,昇明末為司空。