宋書

列伝第十一

列伝第十一

長沙景王劉道憐は、高祖(劉裕)の同母弟である。初め国子学生となった。謝琰が徐州刺史ししとなった時、彼を従事史に任命した。高祖が京城を攻略し、京邑を平定した際、道憐は常に家に留まり太后に仕えて慰めていた。桓玄が逃走すると、大将軍武陵王司馬遵が制を承け、員外散騎侍郎に任じた。

原文長沙景王道憐,髙祖中弟也。初爲國子學生。謝琰爲徐州,命爲從事史。髙祖克京城,進平京邑,道憐常留家侍慰太后。桓玄走,大將軍武陵王遵承制,除員外散騎侍郎。

まもなく建威将軍・南彭城ほうじょう内史に転じた。当時、北青州刺史劉該が反乱を起こし、索虜(北魏)を援軍に引き入れ、清河・陽平二郡太守たいしゅ孫全が兵を集めてこれに呼応した。義熙元年、索虜の托跋開(北魏道武帝拓跋珪)が偽豫州刺史索度真・大将軍斛こく斯蘭を派遣して徐州を侵攻させ、相県を攻撃し、鉅鹿太守賀申を捕らえ、さらに寧朔将軍羊穆之を彭城で包囲した。穆之が危急を告げると、道憐は兵を率いて救援に向かった。軍が陵柵に駐屯し、孫全を斬った。彭城まで進軍すると、索度真と斛斯蘭は退却した。道憐は寧遠将軍孟龍符・龍驤将軍孔隆および穆之らを率いて追撃し、索度真と斛斯蘭は相城へ逃走し、さらに光水溝まで追撃して劉該を斬り、敵兵は殺されるか水に落ちて死に、ほぼ全滅した。

原文尋遷建威將軍、南彭城内史。時北靑州刺史劉該反,引索虜爲援,淸河、陽平二郡太守孫全聚衆應之。義熙元年,索虜托跋開遣偽豫州刺史索度眞、大將軍斛斯蘭寇徐州,攻相縣,執鉅鹿太守賀申,進圍寧朔將軍羊穆之於彭城,穆之告急,道憐率衆救之。軍次陵柵,斬全。進至彭城,眞、蘭退走。道憐率寧遠將軍孟龍符、龍驤將軍孔隆及穆之等追,眞、蘭走奔相城,又追躡至光水溝,斬劉該,虜衆見殺及赴水死略盡。

高祖が京口を鎮守すると、道憐の号を龍驤将軍に進め、さらに堂邑太守を兼任させ、石頭せきとう城を守備させた。翌年、使持節・監征蜀諸軍事を加えられ、冠軍かんぐん将軍劉敬宣らを率いて譙縦を討伐したが、文処茂と温祚が険阻な地に拠って進軍できず、結局出兵しなかった。義熙の功績により新興県五等侯に封じられた。四年、諸葛長民に代わって并州刺史・義昌太守となり、将軍・内史の職はそのままで、依然として石頭城を守備した。

原文髙祖鎭京口,進道憐號龍驤將軍,又領堂邑太守,戍石頭。明年,加使持節、監征蜀諸軍事,率冠軍將軍劉敬宣等伐譙縱,而文處茂、温祚據險不得進,故不果行。以義勳封新興縣五等侯。四年,代諸葛長民爲并州刺史、義昌太守,將軍、内史如故,猶戍石頭。

当時、鮮卑が侵攻して逼迫し、彭城以南では民衆が皆、堡塁に立て籠もり、山陽・淮陰などの守備拠点はすべて機能しなくなっていた。道憐は彭城を占拠し、徐々に修復・再建するよう請願したが、朝廷の議論では彭城が遠すぎるとし、山陽を鎮守させた。征虜将軍に進号し、淮北軍郡事を都督ととくし、北東海太守となり、并州刺史・義昌太守はそのままとされた。索度真を破った功績により、新渝県男に封じられ、食邑五百戸を与えられた。高祖に従って広固を征討し、常に軍の先鋒を務めた。城が陥落した時、慕容超が親兵を率いて包囲を突破して逃走しようとしたが、道憐の配下がこれを捕らえた。使持節を加えられ、左将軍に進号した。七年、并州刺史を解任され、北徐州刺史を加えられ、鎮守地を彭城に移した。

原文時鮮卑侵逼,自彭城以南,民皆保聚,山陽、淮陰諸戍,並不復立。道憐請據彭城,以漸修創,朝議以彭城縣遠,使鎭山陽。進號征虜將軍、督淮北軍郡事、北東海太守,并州刺史、義昌太守如故。以破索度眞功,封新渝縣男,食邑五百戸。從髙祖征廣固,常爲軍鋒。及城陷,慕容超將親兵突圍走,道憐所部獲之。加使持節,進號左將軍。七年,解并州,加北徐州刺史,移鎭彭城。

八年、高祖が劉毅を討伐した時、都督兗青二州晉陵京口淮南諸郡軍事・兗青州刺史に召され、持節・将軍・太守の職はそのままで、京口に戻って鎮守した。九年、甲仗(武装兵)五十人が殿中に入ることを許された。広固攻略の功績により、竟陵県公に改封され、食邑千戸を与えられた。先の封邑の半分を減らし、次男の義宗に賜った。十年、中軍将軍に進号し、散騎常侍さんきじょうじを加えられ、鼓吹一部を与えられた。翌年、司馬休之を討伐した時、道憐は留府事を監し、甲仗百人が殿中に入ることを許された。江陵が平定されると、都督荊湘益秦寧梁雍七州諸軍事・驃騎ひょうき将軍・開府儀同三司・領護南蠻校尉・荊州刺史に任じられ、持節・常侍はそのままとされた。北府の文武官はすべて彼に配属された。道憐は元来才能がなく、言葉の訛りがひどく、挙動や振る舞いには多くの粗野なところがあった。高祖は将軍や補佐官を派遣したが、彼は貪欲で放縦が甚だしく、財貨を蓄え集めて常に足りない様子で、任地を離れる時には、府庫が空っぽになるほどであった。

原文八年,髙祖伐劉毅,徴爲都督兗靑二州晉陵京口淮南諸郡軍事、兗靑州刺史,持節、將軍、太守如故,還鎭京口。九年,甲仗五十人入殿。以廣固功,改封竟陵縣公,食邑千戸。減先封戸邑之半,以賜次子義宗。十年,進號中軍將軍,加散騎常侍,給鼓吹一部。明年討司馬休之,道憐監留府事,甲仗百人入殿。江陵平,以爲都督荊湘益秦寧梁雍七州諸軍事、驃騎將軍、開府儀同三司、領護南蠻校尉、荊州刺史,持節、常侍如故。北府文武悉配之。道憐素無才能,言音甚楚,舉止施爲,多諸鄙拙。髙祖雖遣將軍佐輔之,而貪縱過甚,畜聚財貨,常若不足,去鎭之日,府庫爲之空虚。

高祖が三秦を平定し、ようやく外征を考え始めた時、道憐を召還して侍中じちゅう・都督徐兗青三州揚州之晉陵諸軍事・守尚書令・徐兗二州刺史とし、持節・将軍はそのままとされた。元熙元年、尚書令を解任され、司空しくうに進位し、京口に出鎮した。高祖が帝位につくと、太尉たいいに進位し、長沙王に封じられ、食邑五千戸を与えられ、持節・侍中・都督・刺史はそのままとされた。永初二年の正月朝賀で、宮殿内に宿泊した。以前、廬陵王義眞が揚州刺史となった時、太后が皇帝(高祖)に言った。「道憐はあなたの布衣の兄弟(貧しい時代からの兄弟)だから、揚州刺史にすべきだ。」皇帝は言った。「寄奴(劉裕の幼名)が道憐を惜しむわけがない。揚州は国家の根本が依存する地で、事務が非常に多い。道憐が処理できることではない。」太后は言った。「道憐は五十を過ぎているが、あなたの十歳の児(義眞)に及ばないというのか。」皇帝は言った。「車士(義眞の幼名)は刺史ではあるが、事の大小を問わず、すべて寄奴が決めている。道憐は年長だが、実際の事務には関与せず、声望の面で不足がある。」太后はそれ以上言わなかった。車士は、義眞の幼名である。

原文髙祖平定三秦,方思外略,徴道憐還爲侍中、都督徐兗靑三州揚州之晉陵諸軍事、守尚書令、徐兗二州刺史,持節、將軍如故。元熙元年,解尚書令,進位司空,出鎭京口。髙祖受命,進位太尉,封長沙王,食邑五千戸,持節、侍中、都督、刺史如故。永初二年朝正,入住殿省。先是,廬陵王義眞爲揚州刺史,太后謂上曰:「道憐汝布衣兄弟,故宜爲揚州。」上曰:「寄奴於道憐豈有所惜。揚州根本所寄,事務至多,非道憐所了。」太后曰:「道憐年出五十,豈當不如汝十歳兒邪?」上曰:「車士雖爲刺史,事無大小,悉由寄奴。道憐年長,不親其事,於聽望不足。」太后乃無言。車士,義眞小字也。

三年の春、高祖が病気になると、班剣三十人を加えられた。当時、道憐は朝廷に入っていたが、司馬の陸仲元を留守居に残していた。刁逵の子の刁弥が逃亡者となり、数十人を率いて京城に入ったが、仲元がこれを撃退して斬った。以前、府の役人陳㹠が刁弥に異心があると告げていたため、この功で陳㹠に銭二十万を賜り、県令に任じた。五月、高祖が崩御したが、道憐は病気のため喪に臨むことができなかった。六月、薨去した。五十五歳。太傅を追贈され、持節・侍中・都督・刺史はそのままとされた。祭礼は晋の太宰安平王(司馬孚)の故事に従い、鸞輅・九旒・黄屋左纛・轀輬車、挽歌二部、前後部の羽葆・鼓吹、虎賁・班剣百人が付された。

原文三年春,髙祖不豫,加班劍三十人。時道憐入朝,留司馬陸仲元居守,刁逵子彌爲亡命,率數十人入京城,仲元撃斬之。先是,府史陳㹠告彌有異謀,至是賜錢二十萬,除縣令。五月,宮車晏駕,道憐疾患不堪臨喪。六月,薨,年五十五。追贈太傅,持節、侍中、都督、刺史如故。祭禮依晉太宰安平王故事,鸞輅九旒,黃屋左纛,轀輬,挽歌二部,前後部羽葆、鼓吹,虎賁班劍百人。

太祖(文帝劉義隆)の元嘉九年、詔が下された。「古の明王は国を治めるに、功績を記録する法典があり、公平に善悪を裁いて徳と刑を統御し、瑞玉を分けて功績を酬い、功績を鼎や彝器に銘記し、清廟で先祖と共に祀った。それゆえ、先王と共に饗宴に与ることは、『商誥』にその意義が存し、大蒸の祭りに祀ることは、周の典籍にその礼が著されている。漢から晋に至るまで、代々その文を尊び、王道が明らかになると、幽顕ともに秩序が整った。先帝(高祖)は天地を経緯し、乱を撥ね除け天命を受け、大命が集まり、天下を光り輝かせた。これは聖明な深遠な運営と、天地人の三霊の和合によるものであるが、また股肱の臣が補佐し支えた勤労と、祈父(将軍)が力を尽くした効験でもあった。故に、使持節・侍中・都督南徐兗二州揚州之晉陵京口諸軍事・太傅・南徐兗二州刺史長沙景王(劉道憐)、故侍中・大司馬臨川烈武王(劉道規)、故司徒しと南康文宣公穆之(劉穆之)、侍中・衞将軍・開府儀同三司・録尚書事・揚州刺史華容県開国公弘(劉弘)、使持節・散騎常侍・都督江州豫州西陽新蔡晉熙四郡軍事・征南大将軍・開府儀同三司・江州刺史永脩県開国公済(檀道済)、故左将軍・青州刺史龍陽県開国侯鎮悪(王鎮悪)らは、あるいは道を踏み広く流布させ、徳を抱いて深遠であり、あるいは雅量が高く、人物鑑識に明るく遠大であり、あるいは識見が正しく、才略が開放的で卓越しており、皆、文徳をもって帝王の事業を盛んにし、武功をもって大業を高めた。まさに周公旦の跡を並べ、伊尹・召公に匹敵する者である。朕は寡徳をもって、大業を継承し、常にその功績を思い、善き法典に従おうとするが、大常(官名)が銘を刻まず、従祀もまだ欠けている。寝ても覚めても敬慕の念に満ち、深く思いを致している。速やかに前の格式を敬い、この嘉礼を法とし、功績を天府に刻み、廟庭に配祀し、善き模範を示し、美名を後世に伝え、優れた功績と遠大な謀略を、永遠に朽ちることなく伝えさせるべきである。」

原文太祖元嘉九年,詔曰:「古者明王經國,司勳有典,平章以馭德刑,班瑞以疇功烈,銘徽庸於鼎彝,配祫祀於淸廟。是以從饗先王,義存商誥,祭於大蒸,禮著周典。自漢迄晉,世崇其文,王猷既昭,幽顯咸秩。先皇經緯天地,撥亂受終,駿命爰集,光宅區宇,雖聖明淵運,三靈允協,抑亦股肱翼亮之勤,祈父宣力之効。故使持節、侍中、都督南徐兗二州揚州之晉陵京口諸軍事、太傅、南徐兗二州刺史長沙景王,故侍中、大司馬臨川烈武王,故司徒南康文宣公穆之,侍中、衞將軍、開府儀同三司、録尚書事、揚州刺史華容縣開國公弘,使持節、散騎常侍、都督江州豫州西陽新蔡晉熙四郡軍事、征南大將軍、開府儀同三司、江州刺史永脩縣開國公道濟,故左將軍、靑州刺史龍陽縣開國侯鎭惡,或履道廣流,秉德沖邈,或雅量髙劭,風鑒明遠,或識唯知正,才略開邁,咸文德以熙帝載,武功以隆景業,固以侔蹤姬旦,方[車+丸]伊、邵者矣。朕以寡德,纂戎鴻緒,毎惟道勳,思遵令典,而大常未銘,從祀尚闕,鑒寐欽屬,永言深懷。便宜敬是前式,憲茲嘉禮,勒功天府,配祭廟庭,俾示徽章,垂美長世,茂績遠猷,永傳不朽。」

道憐には六人の子がいた。義欣、義慶、義融、義宗、義賓、義綦である。

原文道憐六子:義欣、義慶、義融、義宗、義賓、義綦。

義欣が後を継ぎ、員外散騎侍郎に任じられたが、就任しなかった。中領軍、征虜将軍、青州刺史、魏郡太守を歴任し、将軍の位は元のままで、石頭を守備した。元嘉元年、後将軍の号を加えられ、散騎常侍を加官された。三年、本官の号のまま南兗州刺史となった。七年、到彦之が大軍を率いて黄河に入ると、義欣は彭城に進軍し、諸軍の援護となった。彦之が退却して敗れると、青州、斉州が騒擾し、配下の将佐たちは敵の大軍が来ることを憂慮し、義欣に任地を捨てて都に戻るよう勧めたが、義欣は固く志を守って動かなかった。使持節、監豫司雍并四州諸軍事、豫州刺史に転任し、将軍の位は元のままだった。鼓吹一部を与えられた。寿陽に駐屯した。

原文義欣嗣,爲員外散騎侍郎,不拜。歴中領軍,征虜將軍、靑州刺史、魏郡太守,將軍如故,戍石頭。元嘉元年,進號後將軍,加散騎常侍。三年,以本號爲南兗州刺史。七年,到彦之率大衆入河,義欣進彭城,爲衆軍聲援。彦之退敗,靑、齊搔擾,將佐慮寇大至,勸義欣委鎭還都,義欣堅志不動。遷使持節、監豫司雍并四州諸軍事、豫州刺史,將軍如故。給鼓吹一部。鎭壽陽。

当時、領内は荒廃し、人民は離散し、城郭は崩れ、盗賊が公然と横行していた。義欣は綱紀を整え補修し、状況に応じて処理し、強盗が通った所には、討伐誅殺の制度を立てた。領内は畏服し、道に落ちている物を拾わず、城の府庫の貯蔵物はすべて充実し、ついに盛んな藩屏、強力な鎮守となった。当時、淮西、江北の長官は、すべて功労のある軍人や武人を叙任したもので、多くは政治の術がなかった。義欣はこれを上奏して言った。「江淮の左右は、土地は痩せ、民はまばらで、近年は飢饉が相次ぎ、多くの城は衰弊し、今が最もひどい。安撫統治の適切な方法は、必ず優れた官吏を待つことです。功労のある軍人や武人は、政治の術を経ておらず、管内の官長は、多くは才能に応じて授けられていません。東南の殷賑な地でさえ、時に才能を選ぶことがあるのに、ましてや辺境の地を接する賓客を迎え、荒廃した地を治めようとするのに、どうして統治を整え、欠けたところを補うことができましょうか。願わくは選部に命じて、必ずその任に適した人を得させ、労せずして治まることを望みます。」芍陂には良田一万余頃があったが、堤防と堰は長く壊れたままで、秋夏には常に旱魃に苦しんでいた。義欣は諮議参軍の殷肅を派遣して巡行させ修理させた。古い溝があり、渒水を陂に引き入れていたが、長く修理されず、木々が生い茂って塞がっていた。肅は木を伐り茂みを開き、水が流れ注ぐようにし、旱魃の被害はこれによって除かれた。十年、鎮軍将軍の号を加えられ、監から都督に進んだ。十一年夏、朝廷に入り、太祖は厚く恩礼を加えた。十六年、薨去した。時に三十六歳。散騎常侍、征西将軍、開府儀同三司を追贈され、持節、都督、刺史は元のままとされた。諡は成王。

原文於時土境荒毀,人民彫散,城郭頽敗,盜賊公行。義欣綱維補緝,隨宜經理,劫盜所經,立討誅之制。境内畏服,道不拾遺,城府庫藏,並皆完實,遂爲盛藩強鎭。時淮西、江北長吏,悉敍勞人武夫,多無政術。義欣陳之曰:「江淮左右,土瘠民疎,頃年以來,荐饑相襲,百城彫弊,於今爲甚。綏牧之宜,必俟良吏。勞人武夫,不經政術,統内官長,多非才授。東南殷實,猶或簡能,況賓接荒垂,而可輯柔頓闕。願勑選部,必使任得其人,庶得不勞而治。」芍陂良田萬餘頃,堤堨久壞,秋夏常苦旱。義欣遣諮議參軍殷肅循行修理。有舊溝引渒水入陂,不治積久,樹木榛塞。肅伐木開榛,水得通注,旱患由是得除。十年,進號鎭軍將軍,進監爲都督。十一年夏,入朝,太祖厚加恩禮。十六年,薨,時年三十六。追贈散騎常侍、征西將軍、開府儀同三司,持節、都督、刺史如故。諡曰成王。

子の悼王瑾、字あざなは彦瑜、官は太子屯騎校尉に至り、三十年、元凶に殺された。世祖が即位すると、散騎常侍を追贈された。子の粲は早世し、粲の弟の纂、字は元績が後を継ぎ、官は歩兵校尉に至った。順帝昇明三年に薨去し、ちょうど斉が禅譲を受けたので、封国は除かれた。

原文子悼王瑾字彦瑜,官至太子屯騎校尉,三十年,爲元凶所殺。世祖即位,追贈散騎常侍。子粲早夭,粲弟纂字元績嗣,官至歩兵校尉。順帝昇明三年薨,會齊受禪,國除。

瑾の弟の祗、字は彦期、大明年間に中書郎となった。太宰江夏王義恭が中書監を兼ねたが、近親は互いに監督してはならないため、職の解任を上表した。世祖は詔して言った。「昔、二王と両謝は、ともに崇高な礼遇を受けた。今より三臺五省は、すべてこの例に倣え。」太宗の初め、南兗州刺史、都官尚書となり、晋安王子勛に応じて謀反を企てたため、誅殺された。

原文瑾弟祗字彦期,大明中爲中書郎。太宰江夏王義恭領中書監,服親不得相臨,表求解職。世祖詔曰:「昔二王兩謝,倶至崇禮,自今三臺五省,悉同此例。」太宗初,爲南兗州刺史、都官尚書,謀應晉安王子勛爲逆,伏誅。

祗の弟の楷、秘書郎、元凶に殺され、通直郎を追贈された。

原文祗弟楷,祕書郎,爲元凶所殺,追贈通直郎。

楷の弟の瞻、晋安太守、子勛とともに謀反し、誅殺された。

原文楷弟瞻,晉安太守,與子勛同逆,伏誅。

瞻の弟の韞、字は彦文、歩兵校尉、宣城太守。子勛が乱を起こすと、大軍が鵲尾じゃくびに駐屯し、宣城を攻め迫った。当時、四方の牧守は、みな謀反に同調したが、ただ韞だけが郡を捨てて朝廷に赴いた。太宗はその誠実さを嘉し、黄門郎、太子中庶子、侍中とし、荊州、湘州、南兗州刺史、呉興太守を加えた。侍中、左軍将軍を兼ねた。また驍騎ぎょうき将軍、撫軍将軍、雍州刺史を兼ねるよう改めた。侍中、右衛将軍を兼ねた。また左衛将軍、散騎常侍、中領軍を兼ねるよう改めた。昇明元年、謀反を企て誅殺された。韞は人柄・才能ともに凡庸で卑しいが、宣城での功績があったため、特に太宗に寵愛された。湘州および雍州で、絵の上手な者に自分の出行の鹵簿や羽儀を描かせ、常に自ら披見して楽しんだ。かつてこの絵を征西将軍蔡興宗に見せたところ、興宗はからかい、あたかも絵がわからないふりをして、韞の姿を指して尋ねた。「これは誰で、輿の上にいるのか?」韞は言った。「これはまさに私です。」その凡庸で卑しい様はこのようなものであった。

原文瞻弟韞字彦文,歩兵校尉,宣城太守。子勛爲亂,大衆屯據鵲尾,攻逼宣城。於時四方牧守,莫不同逆,唯韞棄郡赴朝廷,太宗嘉其誠,以爲黃門郎,太子中庶子,侍中,加荊、湘州,南兗州刺史,呉興太守。侍中,領左軍將軍。又改領驍騎將軍,撫軍將軍,雍州刺史。侍中,領右衞將軍。改領左衞將軍、散騎常侍、中領軍。昇明元年,謀反伏誅。韞人才凡鄙,以有宣城之勳,特爲太宗所寵。在湘州及雍州,使善畫者圖其出行鹵簿羽儀,常自披玩。嘗以此圖示征西將軍蔡興宗,興宗戲之,陽若不解畫者,指韞形像問曰:「此何人而在轝上?」韞曰:「此正是我。」其庸鄙如此。

韞の弟の弼、武昌太守、また子勛とともに謀反し、誅殺された。

原文韞弟弼,武昌太守,亦與子勛同逆,伏誅。

弟の鑒、員外散騎侍郎、早世した。

原文弟鑒,員外散騎侍郎,蚤卒。

鑒の弟の勰、字は彦龢、侍中、呉興太守、後廃帝元徽元年に卒去した。

原文鑑弟勰字彦龢,侍中,呉興太守,後廢帝元徽元年卒。

勰の弟の顥、字は彦明、侍中、左衛将軍、冠軍将軍、呉興太守、就任せず、元徽四年に卒去し、右将軍を追贈された。

原文勰弟顥字彦明,侍中、左衞將軍,冠軍將軍、呉興太守,未拜,元徽四年卒,追贈右將軍。

顥の弟の述、東陽太守、黄門郎、従弟の秉とともに謀反し、事が敗れて白山に逃げ、追捕されて誅殺された。

原文顥弟述,東陽太守,黃門郎,與從弟秉同逆,事敗走白山,追禽伏誅。

義欣の弟の義慶は、臨川烈武王道規の後を継いだ。

原文義欣弟義慶,出繼臨川烈武王道規。

義慶の弟の義融、永初元年、桂陽県侯に封ぜられ、食邑千戸。王子で侯となる者は、食邑はすべて千戸である。義融は侍中、左衛将軍、太子中庶子、五兵尚書、領軍を歴任した。質実剛健で、短楯を用いるのが巧みであった。元嘉十八年、卒去し、車騎将軍を追贈され、諡は恭侯。

原文義慶弟義融,永初元年,封桂陽縣侯,食邑千戸。凡王子爲侯者,食邑皆千戸。義融歴侍中,左衞將軍,領太子中庶子,五兵尚書,領軍。有質榦,善於用短楯。元嘉十八年,卒,追贈車騎將軍,諡曰恭侯。

子の孝侯覬が後を継ぎ、官は太子翊軍校尉に至り、元凶に殺された。世祖が即位すると、散騎常侍を追贈された。子がなく、弟の襲が子の晃を立てて封を継がせた。昇明二年、員外散騎侍郎安成の戢仁祖、荒人の王武連、羽林副の彭元儁らと謀反を企て、封国は除かれた。

原文子孝侯覬嗣,官至太子翊軍校尉,爲元凶所殺。世祖即位,追贈散騎常侍。無子,弟襲以子晃繼封。昇明二年,與員外散騎侍郎安成戢仁祖、荒人王武連、羽林副彭元儁等謀反,國除。

襲は字を茂徳といい、太子舎人、安成太守となった。晋安王の子勛が叛逆を起こすと、襲は郡を拠点としてこれに抵抗し、子勛が軍を派遣して包囲攻撃したが陥落させることができなかった。太宗はこれを賞賛し、彼を郢州えいしゅう刺史とし、建陵県侯に封じ、食邑五百戸を与えた。建陵県は蒼梧郡に属していたが、道が遠いため、臨澧県侯に改封された。泰始六年、中護軍の任上で死去した。護軍将軍を追贈され、散騎常侍を加えられ、諡は忠侯といった。襲もまた凡庸で卑しい人物で、郢州にいた時、暑い月に褌のまま上聴事に座り、綱紀が正しく閤に伏していたが、怪しんで尋ねたところ、それが襲であることを知ったという。子の旻が後を継ぎ、昇明二年に東昌県侯に改封されたが、兄の晃とともに誅殺された。

原文襲字茂德,太子舍人,安成太守。晉安王子勛爲逆,襲據郡距之,子勛遣軍攻圍不能下。太宗嘉之,以爲郢州刺史,封建陵縣侯,食邑五百戸。建陵縣屬蒼梧郡,以道遠,改封臨澧縣侯。泰始六年,卒於中護軍。追贈護軍將軍,加散騎常侍,諡曰忠侯。襲亦庸鄙,在郢州,暑月露㡓上聽事,綱紀正伏閤,怪之,訪問,乃知是襲。子旻嗣,昇明二年,改封東昌縣侯,與兄晃倶伏誅。

襲の弟の彪は秘書郎、弟の寔は太子舎人となり、ともに早逝した。寔の弟の爽は海陵太守となった。

原文襲弟彪,祕書郎,弟寔,太子舍人,並蚤卒。寔弟爽,海陵太守。

義融の弟の義宗は、幼い頃から高祖に愛され、字を伯奴といい、新渝県男の爵位を賜った。永初元年、侯爵に進み、黄門侍郎、太子左衛率を歴任した。元嘉八年、門生の杜徳霊が横暴に人を殴打し、邸内に隠れた事件で、義宗がこれを隠蔽したため官を免じられた。徳霊は非常に容姿が美しく、義宗に寵愛されていた。彼はもともと会稽郡の役人であった。謝方明が郡守の時、方明の子の恵連が彼を寵愛し、彼のために十数首の詩を賦した。『乗流遵帰渚』篇がそれである。義宗はまた侍中、太子詹事となり、散騎常侍、征虜将軍、南兗州刺史を加えられた。二十一年に死去し、散騎常侍、平北将軍を追贈され、諡は恵侯といった。士を愛し施しを好み、文籍を愛好したことで、世に称えられた。

原文義融弟義宗,幼爲髙祖所愛,字曰伯奴,賜爵新渝縣男。永初元年,進爵爲侯,歴黃門侍郎,太子左衞率。元嘉八年,坐門生杜德靈放橫打人,還第内藏,義宗隱蔽之,免官。德靈雅有姿色,爲義宗所愛寵,本會稽郡吏。謝方明爲郡,方明子惠連愛幸之,爲之賦詩十餘首,乘流遵歸渚篇是也。又爲侍中、太子詹事,加散騎常侍、征虜將軍、南兗州刺史。二十一年,卒,追贈散騎常侍、平北將軍,諡曰惠侯。愛士樂施,兼好文籍,世以此稱之。

子の懐侯の玠が後を継ぎ、琅邪太守、秦郡太守となった。元凶に殺害され、散騎常侍を追贈された。子がなかったため、弟の秉が子の承を後継ぎとして封を継がせた。

原文子懷侯玠嗣,琅邪、秦郡太守。爲元凶所殺,追贈散騎常侍。無子,弟秉以子承繼封。

秉は字を彦節といい、初め著作郎となり、羽林監、越騎校尉、中書侍郎、黄門侍郎を歴任した。太宗の泰始初年、侍中となり、頻繁に転任して左衛将軍、丹陽尹、太子詹事、吏部尚書となった。当時、宗室は多かったが、才能のある者は非常に少なかった。秉は若い頃から自らを律し、朝野の称賛を大いに得たため、太宗に重用された。五年、前将軍、淮南・宣城二郡太守として出向したが、拝命せず、元の職に復帰した。再び侍中となり、秘書監を守り、太子詹事を領した。拝命前に、使持節・都督南徐・徐・兗・豫・青・冀六州諸軍事・後将軍・南徐州刺史に転じ、散騎常侍を加えられた。後廃帝が即位すると、都督郢州豫州之西陽司州之義陽二郡諸軍事・郢州刺史に改められ、持節・常侍はもとのままとした。拝命前に留め置かれ、尚書左僕射となり、選挙に参与した。元徽元年、吏部を領し、兵五百人を加えられた。まもなく衛尉を領したが、拝命を辞退した。桂陽王の休範が叛逆を起こすと、中領軍の劉勔が石頭城を守るために出陣し、秉が権限を兼ねて領軍将軍となり、与えられた加兵を率いて殿中に入った。二年、散騎常侍、丹陽尹を加えられ、吏部を解かれた。当陽県侯に封じられ、食邑千戸を与えられた。斉王、袁粲、褚淵とともに日を分けて宮中に直し、機密事項を決裁した。四年、中書令に転じ、撫軍将軍を加えられ、常侍、尹はもとのままとした。順帝が即位すると、尚書令、中領軍に転じ、将軍はもとのままとした。

原文秉字彦節,初爲著作郎,歴羽林監,越騎校尉,中書、黃門侍郎。太宗泰始初,爲侍中,頻徙左衞將軍,丹陽尹,太子詹事,吏部尚書。時宗室雖多,材能甚寡。秉少自砥束,甚得朝野之譽,故爲太宗所委。五年,出爲前將軍、淮南宣城二郡太守,不拜,還復本任。復爲侍中,守祕書監,領太子詹事。未拜,遷使持節、都督南徐徐兗豫靑冀六州諸軍事、後將軍、南徐州刺史,加散騎常侍。後廢帝即位,改都督郢州豫州之西陽司州之義陽二郡諸軍事、郢州刺史,持節、常侍如故。未拜,留爲尚書左僕射,參選。元徽元年,領吏部,加兵五百人。尋領衞尉,辭不拜。桂陽王休範爲逆,中領軍劉勔出守石頭,秉權兼領軍將軍,所給加兵,自隨入殿。二年,加散騎常侍、丹陽尹,解吏部。封當陽縣侯,食邑千戸。與齊王、袁粲、褚淵分日入直決機事。四年,遷中書令,加撫軍將軍,常侍、尹如故。順帝即位,轉尚書令、中領軍,將軍如故。

当時、斉王が政務を補佐し、天下の人心が帰するところとなっていた。秉は天命が定まったことを知り、密かに異心を抱いた。袁粲が石頭城を鎮守し、天命を理解せず、沈攸之が兵を挙げて反乱を起こすと、斉王が朝堂に入って駐屯した。粲は密かに秉および諸大将の黄回らと謀り、乱を起こそうとした。当初の計画では夜に石頭城で会合し、明け方に挙兵することになっていた。秉はもともと臆病で動揺しやすく、落ち着かず、夕食後、早々と丹陽郡から車に婦女を乗せ、一族を挙げて石頭城に奔った。配下の兵士数百人が道を埋め尽くし、威勢を誇った。到着して粲に会うと、粲は驚いて言った。「どうしてこんなに急いで来たのか。事は今や失敗だ。」秉は言った。「今、公にお会いできたのだから、万死にも何の恨みがあろうか。」従弟の中領軍の韞は、ちょうど省内に直しており、直閤将軍の卜伯興と謀り、その夜に共に斉王を攻撃しようとした。ちょうど秉の去就が発覚し、斉王が夜間に驍騎将軍の王敬則に命じて韞を捕らえさせた。韞はすでに戒厳態勢を敷いていたが、敬則が壮士を率いてまっすぐに突進し、韞の左右の者は皆敗走したため、韞を殺害し、伯興も誅殺された。粲が敗れると、秉は城を越えて逃走したが、頟檐湖で捕らえられ、二人の子の承と俁とともに死んだ。秉はこの時四十五歳であった。秉の妻の蕭氏は、思話の娘である。元徽年間、朝廷が危うくなると、妻は常に禍いと敗北を恐れ、毎回秉に言った。「あなたは富貴はもう十分です。だから、子供たちのために計らうべきです。五十歳に近づき、残りの人生など惜しむに足りません。」秉はこれに従わなかった。

原文時齊王輔政,四海屬心,秉知鼎命有在,密懷異圖。袁粲鎭石頭,不識天命,沈攸之舉兵反,齊王入屯朝堂,粲潛與秉及諸大將黃回等謀欲作亂。本期夜會石頭,旦乃舉兵。秉素恇怯騷動,擾不自安,再餔後,便自丹陽郡車載婦女,盡室奔石頭,部曲數百,赫奕滿道。既至見粲,粲驚曰:「何遽便來,事今敗矣。」秉曰:「今得見公,萬死亦何恨。」從弟中領軍韞,直在省内,與直閤將軍卜伯興謀,其夜共攻齊王。會秉去事覺,齊王夜使驍騎將軍王敬則收韞。韞已戒嚴,敬則率壯士直前,韞左右皆披靡,因殺之,伯興亦伏誅。粲敗,秉踰城出走,於頟檐湖見擒,與二子承、俁並死。秉時年四十五。秉妻蕭氏,思話女也。元徽中,朝廷危殆,妻常懼禍敗,毎謂秉曰:「君富貴已足,故應爲兒子作計。年垂五十,殘生何足吝邪。」秉不能從。

秉の弟の謨は、奉朝請となった。

原文秉弟謨,奉朝請。

謨の弟の遐は字を彦道といい、やはり奉朝請、員外散騎侍郎となった。彼は嫡母の殷の養女の雲敷と私通し、殷は毎回これを禁じた。殷が急病で死去し、まだ大殮を行わないうちに、口鼻から流血したため、遐が密かに毒を盛って害したのではないかと疑われ、役人に糾弾された。世祖は彼を始安郡に流した。永光年間に帰還を許された。太宗の世に、黄門侍郎、都官尚書、呉郡太守を歴任した。兄の秉が死ぬと、斉王は彼を誅殺するよう命じた。遐は人柄が非常に凡庸で、自分の名を忌み嫌い、常に賓客に対して言った。「孝武帝は無道で、私に母を殺させた。」その愚かさはこのようなものであった。秉が権力を握っていた時、遐はたびたび方伯(地方長官)を求めたが、秉は言った。「私がいる間に、お前を州の長官に用いると、声望に足りない。」遐は言った。「富貴の時には関わり合えないと言い、連座する時には、免れることができるのですか?」この時、果たして死ぬこととなった。

原文謨弟遐字彦道,亦奉朝請、員外散騎侍郎。與嫡母殷養女雲敷私通,殷毎禁之。殷暴病卒,未大殮,口鼻流血,疑遐潛加毒害,爲有司所糾。世祖徙之始安郡。永光中得還。太宗世,歴黃門侍郎,都官尚書,呉郡太守。兄秉既死,齊王遣誅之。遐人才甚凡,自諱名,常對賓客曰:「孝武無道,枉我殺母。」其頑騃若此。秉當權,遐累求方伯,秉曰:「我在,用汝作州,於聽望不足。」遐曰:「富貴時則云不可相關,從坐之日,爲得免不?」至是果死焉。

義宗の弟の義賓は、元嘉二年に新野県侯に封じられた。六年、新野が荒廃していたため、興安県侯に改封された。黄門郎、秘書監、左衛将軍を歴任し、輔国将軍、徐州刺史の位に至った。二十五年に死去し、後将軍を追贈され、諡は粛侯といった。

原文義宗弟義賓,元嘉二年,封新野縣侯。六年,以新野荒敝,改封興安縣侯。黃門郎,祕書監,左衞將軍,位至輔國將軍、徐州刺史。二十五年,卒,追贈後將軍,諡曰肅侯。

子の恵侯の綜が後を継いだ。綜が死去すると、子の憲が後を継いだ。昇明三年、斉が禅譲を受けると、封国は除かれた。綜の弟の琨は、晋平太守となった。

原文子惠侯綜嗣。卒,子憲嗣。昇明三年,齊受禪,國除。綜弟琨,晉平太守。

義賓の弟の義綦は、元嘉六年に営道県侯に封じられた。凡庸で卑しく無知であり、いつも始興王の濬兄弟にからかわれていた。濬はかつて義綦に言った。「陸士衡の詩に『営道無烈心』とある。どうしてあのように苦労して阿父あなたをいじめるのか?」義綦は言った。「下官は初めから知りません。どうして突然苦しめられるのですか。」その愚かで滑稽な様子はこのようなものであった。右衛将軍、湘州刺史を歴任した。孝建二年に死去し、平南将軍を追贈され、諡は僖侯といった。

原文義賓弟義綦,元嘉六年,封營道縣侯。凡鄙無識知,毎爲始興王濬兄弟所戲弄。濬嘗謂義綦曰:「陸士衡詩云:『營道無烈心。』其何意苦阿父如此?」義綦曰:「下官初不識,何忽見苦。」其庸塞可笑類若此。歴右衞將軍,湘州刺史。孝建二年,卒,贈平南將軍,諡曰僖侯。

子の長猷が後を継ぎ、官は歩兵校尉に至った。昇平三年に死去し、斉が禅譲を受けると、封国は除かれた。

原文子長猷嗣,官至歩兵校尉。昇平三年,卒,齊受禪,國除。

臨川烈武王の道規は、字を道則といい、高祖の末弟である。若い頃から豪放で大志を持ち、高祖は彼を異才と認め、桓玄誅殺の謀議ぼうぎに加えた。当時、桓弘が広陵を鎮守しており、道規を征虜中兵参軍とした。高祖が京城を制圧した日、道規もまたその日に劉毅、孟昶と共に弘を斬り、兵を集めて長江を渡った。進軍して京邑を平定し、玄は敗走した。晋の大将軍武陵王の遵が制を承け、道規を振武将軍、義昌太守とした。

原文臨川烈武王道規,字道則,髙祖少弟也。少倜儻有大志,髙祖奇之,與謀誅桓玄。時桓弘鎭廣陵,以爲征虜中兵參軍。髙祖克京城,道規亦以其日與劉毅、孟昶共斬弘,收衆濟江。進平京邑,玄敗走,晉大將軍武陵王遵承制,以道規爲振武將軍、義昌太守。

劉毅、何無忌とともに桓玄を追撃した。桓玄は西へ江陵に逃れ、郭銓と何澹之らに盆口を固守させた。義軍が到着すると、賊軍は艦船を並べて防いだ。何澹之は一つの船にだけ儀仗や旗幟を飾り立て、自分は別の船にいた。何無忌は儀仗のある船を攻撃しようとしたが、兵士たちは皆反対し、「何澹之は必ずこの船にはいない。たとえ捕らえても意味がない」と言った。何無忌は言った。「何澹之がこの船にいないのは、言うまでもない。いないなら、その船の戦士は必ず弱い。我々が精鋭で攻めれば、必ず捕らえられる。捕らえたとき、彼らは軍の主将を失ったと思い、我々の兵は賊の大将を捕らえたと考える。我々は勇気づき、彼らは恐れる。恐れて戦えば、必ず打ち破れる。」劉道規は喜んで言った。「これは名案だ。」そこでその船を攻撃し、すぐにこれを捕らえた。そして鬨の声をあげて叫んだ。「すでに何澹之を斬った!」賊兵も義軍も皆そう信じた。そこで兵を進めると、賊軍は敗走し、盆口を攻略し、尋陽を平定した。さらに急進し、崢嶸洲で桓玄に遭遇した。劉道規らの兵は一万人に満たず、桓玄の兵は数万であった。兵士たちは皆恐れ、尋陽に退却しようとした。劉道規は言った。「いけない。彼は多勢、我々は無勢で、強弱の勢いは異なる。今もし恐れて進まなければ、必ずやられる。たとえ尋陽に着いても、どうして守りきれようか。桓玄は表面上は雄豪を名乗っているが、内心は実は臆病で、しかもすでに敗走しており、兵士たちに固守する心はない。戦機を決する両陣で、将が雄であれば勝つ。昔、光武帝の昆陽の戦い、曹操の官渡の戦いはいずれも少をもって多を制した。皆が聞いていることだ。今、我々は古人に及ばないとはいえ、どうして先に弱気になれようか。」そこで兵を指揮して進軍し、劉毅らもこれに従い、桓玄軍を大破した。郭銓は桓玄と単艦で逃げ、江陵も守りきれず、蜀に入ろうとしたが、馮遷に斬られた。

原文與劉毅、何無忌追玄。玄西走江陵,留郭銓、何澹之等固守盆口,義軍既至,賊列艦距之。澹之空設羽儀旗幟於一舫,而別在它船,無忌欲攻羽儀所在,衆悉不同,曰:「澹之必不在此舫,雖得無益也。」無忌曰:「澹之不在此舫,固不須言也。既不在此,則戰士必弱,我以勁兵攻之,必可禽也。禽之之日,彼必以爲失其軍主,我徒咸謂已得賊帥,我勇而彼懼,懼而薄之,破之必矣。」道規喜曰:「此名計也。」因往彼攻之,即禽此舫。因鼓譟倡曰:「已斬何澹之!」賊徒及義軍並以爲然。因縱兵,賊衆奔敗,即克盆口,進平尋陽。因復馳進,遇玄於崢嶸洲。道規等兵不滿萬人,而玄戰士數萬,衆並憚之,欲退還尋陽。道規曰:「不可。彼衆我寡,強弱異勢。今若畏懦不進,必爲所乘,雖至尋陽,豈能自固。玄雖竊名雄豪,内實恇怯,加已經奔敗,衆無固心。決機兩陳,將雄者克。昔光武昆陽之戰,曹操官渡之師,皆以少制多,共所聞也。今雖才謝古人,豈可先爲之弱。」因麾衆而進,毅等從之,大破玄軍。郭銓與玄單舸走,江陵不復能守,欲入蜀,爲馮遷所斬。

義軍は風に阻まれて進まず、桓謙と桓振が再び江陵を占拠した。劉毅は巴陵に留まり、劉道規と何無忌はともに馬頭で桓謐を、寵洲で桓蔚を攻撃し、いずれも撃破した。何無忌は勝ちに乗じて直ちに江陵を攻めようとしたが、劉道規は言った。「兵法では進退に時がある。軽率に進んではならない。諸桓は代々西楚に住み、多くの者たちが力を尽くしている。桓振は三軍随一の勇者で、争って勝つのは難しい。しばらく兵を留めて鋭気を養い、ゆっくりと計略で絡めとれば、打ち破れない心配はない。」何無忌は従わず、果たして桓振に敗れた。そこで尋陽に退き、船と甲冑を整え、再び夏口に進軍した。偽鎮軍将軍馮該が夏口の東岸を守り、揚武将軍孟山図が魯山城を占拠し、輔国将軍桓仙客が偃月塁を守っていた。そこで劉毅は魯山城を攻め、劉道規と何無忌は偃月塁を攻め、いずれも陥落させ、桓仙客と孟山図を生け捕りにした。その夜、馮該は逃げ、巴陵を平定した。桓謙と桓振は使者を遣わして荊州と江州の二州を割譲し、晋帝を奉じて帰還することを求めたが、許されなかった。ちょうど南陽太守魯宗之が起義して襄陽を攻撃し、偽雍州刺史桓蔚が江陵に逃げた。魯宗之が紀南まで進軍すると、桓振は自ら出向いて防ぎ、桓謙に留守を任せた。その時、劉毅と劉道規はすでに馬頭に駐屯しており、急行して襲撃し、桓謙は逃走し、その日に江陵城を攻略した。桓振は魯宗之を大破して帰還したが、城がすでに陥落したと聞き、これも逃走した。何無忌は天子を護衛して都に帰還し、劉道規は夏口に留まった。江陵平定において、劉道規は劉毅を第一の功労者とし、何無忌を第二とし、自らは末位とした。輔国将軍の号を進められ、淮北諸軍事を督し、并州刺史を兼ね、義昌太守はもとのままとした。

原文義軍遇風不進,桓謙、桓振復據江陵,毅留巴陵,道規與無忌倶進攻桓謐於馬頭,桓蔚於寵洲,皆破之。無忌欲乘勝直造江陵,道規曰:「兵法屈申有時,不可苟進。諸桓世居西楚,羣小皆爲竭力,振勇冠三軍,難與爭勝。且可頓兵養鋭,徐以計策縻之,不憂不克也。」無忌不從,果爲振所敗。乃退還尋陽,繕治舟甲,復進軍夏口。偽鎭軍將軍馮該戍夏口東岸,揚武將軍孟山圖據魯山城,輔國將軍桓仙客守偃月壘。於是毅攻魯山城,道規、無忌攻偃月,並克之,生禽仙客、山圖。其夕,該遁走,進平巴陵。謙、振遣使求割荊、江二州,奉歸晉帝,不許。會南陽太守魯宗之起義攻襄陽,偽雍州刺史桓蔚走江陵。宗之進至紀南,振自往距之,使桓謙留守。時毅、道規已次馬頭,馳往襲,謙奔走,即日克江陵城。振大破宗之而歸,聞城已陷,亦走。無忌翼衞天子還京師,道規留夏口。江陵之平也,道規推毅爲元功,無忌爲次功,自居其末。進號輔國將軍、督淮北諸軍事、并州刺史,義昌太守如故。

当時、荊州、湘州、江州、豫州にはなお桓氏の残党が多く、あちこちで屯結していた。再び本官のまま、江州の武昌、荊州の江夏・随郡・義陽・綏安、豫州の西陽・汝南・潁川・新蔡の九郡諸軍事を督することを進められ、状況に応じて討伐し、すべて平定した。義勳により華容県公に封ぜられ、食邑三千戸を与えられた。使持節・都督荊寧秦梁雍六州司州之河南諸軍事・領護南蛮校尉・荊州刺史に遷り、将軍はもとのままとした。南蛮校尉の職を辞して殷叔文に譲った。殷叔文が誅殺された後、再び兼任した。統治に優れ、刑罰と政務は明らかで道理にかなっており、士民は皆畏敬し慕った。劉敬宣が蜀を征伐して成功せず、劉道規は督統として降格され建威将軍となった。

原文時荊州、湘、江、豫猶多桓氏餘燼,往往屯結。復以本官進督江州之武昌、荊州之江夏隨郡義陽綏安、豫州之西陽汝南潁川新蔡九郡諸軍事,隨宜剪撲,皆悉平之。以義勳封華容縣公,食邑三千戸。遷使持節、都督荊寧秦梁雍六州司州之河南諸軍事、領護南蠻校尉、荊州刺史,將軍如故。辭南蠻以授殷叔文。叔文被誅,乃復還領。善於爲治,刑政明理,士民莫不畏而愛之。劉敬宣征蜀不克,道規以督統降爲建威將軍。

盧循が都を脅かすと、劉道規は司馬の王鎮之と揚武将軍檀道済、広武将軍到彦之らを朝廷救援に派遣したが、尋陽で賊党の荀林に敗れた。盧循はすぐに荀林を南蛮校尉とし、兵を分けて与え、勝ちに乗じて江陵を攻撃させ、徐道覆がすでに都を攻略したと喧伝させた。一方、桓謙は長安から蜀に入り、譙縦は桓謙を荊州刺史とし、多額の資金を与え、その大将の譙道福とともに江陵を侵攻させ、ちょうど荀林と合流した。荀林は江津に駐屯し、桓謙軍は枝江にあり、二つの敵が交わり迫り、都邑との連絡を分断した。荊楚の地は桓氏の旧恩を受けた者が多く、皆異心を抱いていた。劉道規は将兵を集めて告げた。「桓謙は今、近くにいる。聞くところによると、去就を考えている者も多いようだ。我が東から来た文武の官は、事を成すのに十分である。もし去りたい者がいるなら、もとより禁じない。」そこで夜に城門を開き、夜明けまで閉めず、兵士たちは皆畏服し、去る者はなかった。

原文盧循寇逼京邑,道規遣司馬王鎭之及揚武將軍檀道濟、廣武將軍到彦之等赴援朝廷,至尋陽,爲賊黨荀林所破。循即以林爲南蠻校尉,分兵配之,使乘勝伐江陵,揚聲云徐道覆已克京邑。而桓謙自長安入蜀,譙縱以謙爲荊州刺史,厚加資給,與其大將譙道福倶寇江陵,正與林會。林屯江津,謙軍枝江,二寇交逼,分絶都邑之問。荊楚既桓氏義舊,並懷異心。道規乃會將士,告之曰:「桓謙今在近畿,聞者頗有去就之計。吾東來文武,足以濟事。若欲去者,本不相禁。」因夜開城門,達曉不閉,衆咸憚服,莫有去者。

雍州刺史魯宗之が数千の兵を率いて襄陽から救援に来た。ある者は魯宗之は測りがたいと言ったが、劉道規は単騎で出迎え、魯宗之は感激した。衆議では檀道済と到彦之に魯宗之とともに攻撃させようとしたが、劉道規は言った。「盧循が中流を遮断し、離反を煽り、桓謙と荀林が首尾相応じている。人々は危惧を抱き、固守する心はない。成敗の機は、この一挙にある。私が自ら行かなければ、事は決しない。」そこで魯宗之に留守を任せ、腹心として委ね、諸軍を率いて桓謙を攻撃した。諸将佐は皆強く諫めて言った。「今、遠くに出て桓謙を討てば、勝利は確実ではない。荀林は近くの江津におり、人の動静を窺っている。もし来て城を攻めれば、魯宗之が必ずしも守りきれるとは限らず、もし失敗すれば、大事は去ります。」劉道規は言った。「諸君は兵法の機微がわかっていない。荀林は愚かな小人物で、他に奇計はない。我々が去ってまだ遠くないので、必ずや城に向かうことはない。我々が今桓謙を攻め取れば、行けばすぐに勝てる。ためらっている間に、すでに戻ってくる。桓謙が敗れれば荀林は肝を潰し、どうして攻めて来る暇があろうか。また、魯宗之が独りで守っても、どうして数日も持たないことがあろうか。」南蛮校尉の印を解いて諮議参軍劉遵に授けた。急行して桓謙を攻撃し、水陸ともに進軍し、桓謙は大敗し、単艦で逃げ、荀林のもとに下ろうとしたが、追撃して斬った。浦口に戻ると、荀林もまた逃げ散った。劉遵が軍を率いて荀林を追撃し、巴陵で斬った。初め、桓謙が枝江に着いたとき、江陵の士庶は皆桓謙に手紙を送り、城内の虚実を伝え、皆内応を謀ろうとした。この時、参軍曹仲宗がこれを検挙したが、劉道規はすべて焼き捨てて見ず、兵士たちはこれにより大いに安心した。征西将軍の号を進められた。以前、桓歆の子の桓道児が江西に逃れ、義陽郡を攻撃し、盧循と連絡を取り合い、盧循は蔡猛を派遣してこれを助けた。劉道規は参軍劉基を派遣し、大薄で桓道児を破り、戦陣で蔡猛を斬った。

原文雍州刺史魯宗之率衆數千自襄陽來赴。或謂宗之未可測,道規乃單馬迎之,宗之感悅。衆議欲使檀道濟、到彦之與宗之共撃,道規曰:「盧循擁隔中流,扇張同異,桓謙、荀林更相首尾。人懷危懼,莫有固心,成敗之機,在此一舉。非吾自行,其事不決。」乃使宗之居守,委以腹心,率諸軍攻謙。諸將佐皆固諫曰:「今遠出討謙,其勝難必。荀林近在江津,伺人動靜。若來攻城,宗之未必能固,脱有差跌,大事去矣。」道規曰:「諸君不識兵機耳。荀林愚豎,無它奇計,以吾去未遠,必不敢向城。吾今取謙,往至便克,沈疑之間,已自還反。謙敗則林破膽,豈暇得來。且宗之獨守,何爲不支數日。」解南蠻校尉印以授諮議參軍劉遵。馳往攻謙,水陸齊進,謙大敗,單舸走,欲下就林,追斬之。還至浦口,林又奔散。劉遵率軍追林,至巴陵,斬之。初,謙至枝江,江陵士庶皆與謙書,言城内虚實,咸欲謀爲内應。至是參軍曹仲宗檢得之,道規悉焚不視,衆於是大安。進號征西將軍。先是,桓歆子道兒逃於江西,出撃義陽郡,與盧循相連結,循使蔡猛助之。道規遣參軍劉基破道兒於大薄,臨陳斬猛。

徐道覆が三万の兵を率いて突然破冢に到着した。魯宗之はすでに襄陽に帰還しており、追って召し戻すこともできず、人心は大いに動揺した。ある者は盧循がすでに京師を平定し、徐道覆を刺史として派遣したと伝えた。江漢の士庶は手紙を焼いた恩義に感じ、二心を抱く者はなくなった。劉道規は劉遵に遊撃軍を任せ、自らは豫章口で徐道覆を防いだ。先鋒が不利となったが、劉道規の気勢はますます盛んとなり、三軍を激励し、劉遵が外から横撃し、これを大破した。一万余級を斬首し、水に飛び込んで死んだ者はほとんど全滅し、徐道覆は単艦で逃げて盆口に帰還した。初めに劉遵を遊撃軍としたとき、兵士たちは皆言った。「今、強敵が前にいるのに、ただ兵が少ないことを憂えるべきで、現有の戦力を削って無用の地に置くべきではない。」徐道覆を破った後、果たして遊撃軍の力によるものであり、兵士たちはようやく服した。

原文徐道覆率衆三萬,奄至破冢,魯宗之已還襄陽,追召不及,人情大震。或傳循已平京師,遣道覆上爲刺史,江漢士庶感焚書之恩,無復貳志。道規使劉遵爲游軍,自距道覆於豫章口。前驅失利,道規壯氣愈厲,激揚三軍,遵自外橫撃,大破之。斬首萬餘級,赴水死者殆盡,道覆單舸走還盆口。初使遵爲游軍,衆咸云:「今強敵在前,唯患衆少,不應割削見力,置無用之地。」及破道覆,果得游軍之力,衆乃服焉。

遵は字を慧明といい、臨淮郡海西県の人で、道規の母方の従兄(蕭氏の母方の伯叔父)である。官は右将軍・宣城内史・淮南太守に至った。義熙十年に死去し、撫軍将軍を追贈された。監利県侯に追封され、食邑七百戸を与えられた。

原文遵字慧明,臨淮海西人,道規從母兄蕭氏舅也。官至右將軍、宣城内史、淮南太守。義熙十年,卒,追贈撫軍將軍。追封監利縣侯,食邑七百戸。

道規は征西大将軍・開府儀同三司に進号し、散騎常侍を加えられたが、固辞した。まもなく病に臥し、都督豫江二州揚州之宣城淮南廬江歴陽安豊堂邑六郡諸軍事・豫州刺史に改めて任命され、持節・常侍・将軍はもとのままとした。病気のため拝命しなかった。八年閏月、京師で死去した。時に四十三歳。侍中・司徒を追贈された。班剣二十人を加えられた。諡は烈武公といった。桓謙討伐の功により、南郡公に進封され、邑五千戸を与えられた。高祖が天命を受けると、大司馬を贈られ、臨川王に追封され、食邑は先の通りとした。道規には子がなく、長沙景王の第二子義慶を後継ぎとした。

原文道規進號征西大將軍、開府儀同三司,加散騎常侍,固辭。俄而寢疾,改授都督豫江二州揚州之宣城淮南廬江歴陽安豐堂邑六郡諸軍事、豫州刺史,持節、常侍、將軍如故。以疾不拜。八年閏月,薨於京師,時年四十三。追贈侍中、司徒。加班劍二十人。諡曰烈武公。平桓謙功,進封南郡公,邑五千戸。髙祖受命,贈大司馬,追封臨川王,食邑如先。道規無子,以長沙景王第二子義慶爲嗣。

初め、太祖(文帝)は幼少時に道規に養育されていたが、高祖(武帝)が後を継ぐよう命じた。しかし、礼に二度継ぐことはないとされ、太祖は本家に戻り、義慶を後継ぎと定めた。義慶が荊州に赴任する時、廟の神主は江陵に随行すべきであったが、太祖は詔を下して言った。「功績を褒め崇めることは、国を治める盛大な儀式である。親を尊び遠い先祖を追慕することは、心から重んじるべきことだ。故侍中・大司馬臨川烈武王は、道を体し敬虔で聡明、至高の徳は深遠で、英知は天より授かり、孝行と友愛は光り輝いている。初めから協力して計画し、大業を助け支えた。威勢を奮って討伐に当たり、凶悪な敵を討ち滅ぼした。妖逆が相次いで侵攻し、国難が非常に切迫し、勢いは積み重なった碁石のようで、人々の志は固まらなかった。王は神のごとき謀略を独り巡らし、雄大な武威を発揮し、内外を鎮め平定し、多くの凶徒を誅殺し覆した。すでにその教化は江漢に及び、功績は管仲よりも高く、遠大な謀略は周公・召公に匹敵し、英雄の気概は漢の献帝を超えている。朕は幼少より特別な慈愛を受け、その徳の庇護は特に厚く、豊かな恩恵と慈しみ深い教えは、情義深く親密であった。いつもその仁徳の規範を思い、感慕の念が胸に絡みついている。今、廟の神主を移し、初めて西夏(荊州)で祭祀を行うにあたり、嘉礼を崇め、立派な儀式を整えたい。これによってその風格を明らかに宣揚し、天地の神霊にふさわしくしたい。丞相を追崇し、特別な礼を加え、鸞輅・九旒・黄屋左纛を与え、節鉞・前後部の羽葆・鼓吹・虎賁班剣百人を給し、侍中はもとのままとする。」また、長沙太妃檀氏と臨川太妃曹氏が後に亡くなると、祭祀にはいずれも鸞輅・九旒・黄屋左纛・轀輬車・挽歌一部・前後部の羽葆・鼓吹・虎賁班剣百人を給した。

原文初,太祖少爲道規所養,髙祖命紹焉,咸以禮無二繼,太祖還本,而定義慶爲後。義慶爲荊州,廟主當隨往江陵,太祖詔曰:「褒崇道勳,經國之盛典;尊親追遠,因心之所隆。故侍中、大司馬臨川烈武王,體道欽明,至德淵邈,叡哲自天,孝友光備。爰始協規,則翼贊景業;陵威致討,則克剪梟鯨。逮妖逆交侵,方難孔棘,勢踰累棊,人無固志。王神謨獨運,靈武宏發,輯寧内外,誅覆羣凶,固已化被江漢,勳髙微管,遠猷侔於二南,英雄邁於兩獻者矣。朕幼蒙殊愛,德廕特隆,豐恩慈訓,義深情戚,永惟仁範,感慕纏懷。今當擁移寢祏,初祀西夏,思崇嘉禮,式備徽章,庶以昭宣風度,允副幽顯。其追崇丞相,加殊禮,鸞輅九旒,黃屋左纛,給節鉞、前後部羽葆、鼓吹、虎賁班劍百人,侍中如故。」及長沙太妃檀氏、臨川太妃曹氏後薨,祭皆給鸞輅九旒,黃屋左纛,轀輬車,挽歌一部,前後部羽葆、鼓吹,虎賁班劍百人。

義慶は幼い頃から高祖に認められており、高祖は常に「これは我が家の豊城(宝剣の比喩)である」と言った。十三歳で南郡公の爵位を襲封した。給事に任じられたが拝命しなかった。義熙十二年、長安征伐に従軍し、帰還後、輔国将軍・北青州刺史に任じられたが、赴任せず、都督豫州諸軍事・豫州刺史に転じ、さらに都督淮北諸軍事を兼ね、豫州刺史・将軍はもとのままとした。永初元年、臨川王の爵位を襲封した。侍中に徴された。元嘉元年、散騎常侍に転じ、秘書監を兼ね、度支尚書に転じ、丹陽尹に昇進し、輔国将軍・常侍を加えられた(もとのまま)。

原文義慶幼爲髙祖所知,常曰:「此我家豐城也。」年十三,襲封南郡公。除給事,不拜。義熙十二年,從伐長安,還拜輔國將軍、北靑州刺史,未之任,徙督豫州諸軍事、豫州刺史,復督淮北諸軍事,豫州刺史、將軍並如故。永初元年,襲封臨川王。徴爲侍中。元嘉元年,轉散騎常侍,祕書監,徙度支尚書,遷丹陽尹,加輔國將軍、常侍並如故。

当時、民の黄初の妻である趙が子の妻(嫁)を殺した事件があり、赦令に遇って流刑に処せられるべきであったが、孫の仇を避けるために移送すべきかが問題となった。義慶は言った。「周礼を調べると、父母の仇は海外に避けるとあり、市や朝廷で出会っても、武器を持ち帰らずにその場で闘うとある。これは最大の冤罪であり、道理として奪うことはできず、悲しみを抱いて戈を枕にし、義によって必ず報いることを許すからである。しかし、親戚が殺され、骨肉が互いに傷つけ合う場合、道は常の法規から外れ、記録にも一定の基準がなく、法の外に求め、人情によって裁くべきである。しかも礼には過失を許す規定があり、律には祖父への仇討ちについての条文はない。まして趙の凶暴な行為は、もともと酒によるものであり、心情を論じれば確かにそうだが、事柄はまったく老耄によるものである。どうして老耄の祖母を、通りすがりの深い仇敵と同等に扱えようか。臣は思うに、この孫は恥辱を忍び悲しみを抱えながらも、子としての義に背かず、同じ天下に生きながら、孝道を損なうことはないと。」

原文時有民黃初妻趙殺子婦,遇赦應徙送避孫讎,義慶曰:「案周禮父母之仇,避之海外,雖遇市朝,鬭不反兵。蓋以莫大之寃,理不可奪,含戚枕戈,義許必報。至於親戚爲戮,骨肉相殘,故道乖常憲,記無定准,求之法外,裁以人情。且禮有過失之宥,律無讎祖之文。況趙之縱暴,本由於酒,論心即實,事盡荒耄。豈得以荒耄之王母,等行路之深讎。臣謂此孫忍愧銜悲,不違子義,共天同域,無虧孝道。」

六年、尚書左僕射を加えられた。八年、太白星が右執法星を犯した。義慶は災禍を恐れ、外鎮を乞い求めた。太祖は詔を下して諭して言った。「天象は茫漠としており、理解しがたい。また史家のさまざまな占いも、それぞれ異同がある。兵星が王の時に干犯があれば、主として誅殺されることを意味する。このように言えば、ますます恐れることはない。鄭僕射が亡くなった後、左執法星に変異があったが、王光祿は今も平安である。三朝に日蝕があるのは、天下の最も忌むべきことだが、晋の孝武帝の初めにこの異変があり、彼は凡庸な君主であったが、結局他事はなかった。天道は仁を助け善に福をもたらすもので、わざわざ憂い恐れを生じさせるほどのことではないと思う。兄(義慶)と後軍(義康か)はそれぞれ内外の任を受け、もともと国を守るためであり、表裏を経営し、盛衰をこの胸に抱くのは、実に由緒あることだ。仮に天が必ず災いを降すとしても、千里を逃れて避けることができようか。遠くのことでもなく、また吉凶が定まっている場所も知らない。都にいるならば不測の事態があるかもしれないが、ここを去れば必ず利と貞を保てるというのであれば、どうして敢えて天に逆らおうか。」義慶は固く僕射の解任を求め、ようやく許され、中書令を加えられ、前将軍に進号し、常侍・尹はもとのままとした。

原文六年,加尚書左僕射。八年,太白星犯右執法,義慶懼有災禍,乞求外鎭。太祖詔譬之曰:「玄象茫昧,既難可了。且史家諸占,各有異同,兵星王時,有所干犯,乃主當誅。以此言之,益無懼也。鄭僕射亡後,左執法嘗有變,王光祿至今平安。日蝕三朝,天下之至忌,晉孝武初有此異,彼庸主耳,猶竟無他。天道輔仁福善,謂不足橫生憂懼。兄與後軍,各受内外之任,本以維城,表裏經之,盛衰此懷,實有由來之事。設若天必降災,寧可千里逃避邪?既非遠者之事,又不知吉凶定所,若在都則有不測,去此必保利貞者,豈敢苟違天邪。」義慶固求解僕射,乃許之,加中書令,進號前將軍,常侍、尹如故。

京尹(丹陽尹)の任に九年間あり、出向して使持節・都督荊雍益寧梁南北秦七州諸軍事・平西将軍・荊州刺史となった。荊州は上流の要地にあり、土地は広く兵は強く、物資と兵甲は朝廷の半分を占めていたので、高祖は諸子をここに置いた。義慶は宗室の令名ある美しい人物であったので、特にこの任を受けた。性格は謙虚で、着任時から離任時まで、贈答品は一切受け取らなかった。

原文在京尹九年,出爲使持節、都督荊雍益寧梁南北秦七州諸軍事、平西將軍、荊州刺史。荊州居上流之重,地廣兵強,資實兵甲,居朝廷之半,故髙祖使諸子居之。義慶以宗室令美,故特有此授。性謙虚,始至及去鎭,迎送物並不受。

十二年、内外の群官に広く人材推薦を命じた。義慶は上表して言った。「詔書は群司に諮問し、連牧にまで及び、賢者を陋巷から顕彰し、善を幽遠の地から抜擢せよと。伏して思うに、陛下は恵み深く聡明で光を宣べ、経緯は明らかで遠大、皇位は輝き、風教は日々昇っている。それでもなお衢室の善政を尋ね、明台の叡智の教えに従い、深慮を倉庫の役人にまで降ろし、聖慮を版築の賤役にまで及ぼされている。それゆえ道は往代を遠く凌ぎ、徳は前王よりも高い。臣は敢えて虚ろな暗愚を尽くし、謹んで明旨を承る。伏して見るに、前臨沮県令の新野の庾寔は、真実を守り約束を履行し、慈愛と敬慕は淳朴で深い。かつて母の喪に服した時、礼を超えて憔悴し、今は父の喪に遭い、血の涙を流すことが聞こえている。行いは家庭内で成り立ち、孝行は隣近所に顕著で、民を教化し率い、教えを整え風俗を軌道に乗せるに足る。前徴奉朝請の武陵の龔祈は、穏やかで平和・簡素、貞潔で純朴、隠居して志を研ぎ、典籍に耽溺し、頽廃した競争心を鎮め、浮ついた動きを奨励し戒めるに足る。処士の南郡の師覚は、才学が明敏で、操りは清廉で修められ、学業は井戸を浚うように均しく、志は氷霜のように固い。臣は往年、州の祭酒に辟召したが、その志を汚すことはなかった。もし朝廷の命令が遠くまで届き、玉帛が遠くからもたらされれば、優れた人物が世に出ないことがあろうか、何も遠いことではない。」義慶は人々を慰撫することに心を配り、州内の官長で親が老いており、官舎に随行していない者には、年に五人の役人を派遣して家に送り届けることを許した。以前、王弘が江州にいた時も、同様の制度があった。州に八年間いて、西方の地を安んじた。『徐州先賢伝』十巻を撰し、奏上した。また、班固の『典引』に倣って『典叙』を作り、皇代の美を述べた。十六年、散騎常侍・都督江州豫州之西陽晉熙新蔡三郡諸軍事・衛将軍・江州刺史に改めて任じられ、持節はもとのままとした。十七年、本号のまま都督南兗徐兗青冀幽六州諸軍事・南兗州刺史となった。まもなく開府儀同三司を加えられた。

原文十二年,普使内外羣官舉士,義慶上表曰:「詔書疇咨羣司,延及連牧,旌賢仄陋,拔善幽遐。伏惟陛下惠哲光宣,經緯明遠,皇階藻曜,風猷日昇,而猶詢衢室之令典,遵明臺之叡訓,降淵慮於管庫,紆聖思乎版築,故以道邈往載,德髙前王。臣敢竭虚闇,祗承明旨。伏見前臨沮令新野庾寔,秉眞履約,愛敬淳深。昔在母憂,毀瘠過禮,今罹父疚,泣血有聞。行成閨庭,孝著隣黨,足以敦化率民,齊教軌俗。前徴奉朝請武陵龔祈,恬和平簡,貞潔純素,潛居研志,耽情墳籍,亦足鎭息頽競,奬勗浮動。處士南郡師覺,才學明敏,操介淸修,業均井渫,志固冰霜。臣往年辟爲州祭酒,未汙其慮。若朝命遠暨,玉帛遐臻,異人間出,何遠之有。」義慶留心撫物,州統内官長親老,不隨在官舍者,年聽遣五吏餉家。先是,王弘爲江州,亦有此制。在州八年,爲西土所安。撰徐州先賢傳十巻,奏上之。又擬班固典引爲典敍,以述皇代之美。十六年,改授散騎常侍、都督江州豫州之西陽晉熙新蔡三郡諸軍事、衞將軍、江州刺史,持節如故。十七年,即本號都督南兗徐兗靑冀幽六州諸軍事、南兗州刺史。尋加開府儀同三司。

彼の性質は簡素で、嗜好や欲望は少なく、文芸を愛好し、才能や文辞は多くはないが、それでも宗室の模範となるに足るものであった。藩鎮の任を受けたが、軽薄で淫らな過ちはなく、ただ晩年に沙門を養い、かなりの費用を費やした。若い頃は乗馬を得意としたが、成長して世の中の道が険しいことを知ると、もはや馬に跨がることはなかった。文学の士を招き集めると、遠近を問わず必ず集まった。太尉の袁淑は当時文才で第一とされ、義慶が江州にいた時、彼を衛軍諮議参軍に招いた。その他、呉郡の陸展、東海の何長瑜、鮑照らは、いずれも文章の美しさで知られ、彼らを佐史や国臣として登用した。太祖(文帝)は義慶に手紙を送る際、常に細心の注意を払って言葉を選んだ。

原文爲性簡素,寡嗜欲,愛好文義,才詞雖不多,然足爲宗室之表。受任歴藩,無浮淫之過,唯晩節奉養沙門,頗致費損。少善騎乘,及長以世路艱難,不復跨馬。招聚文學之士,近遠必至。太尉袁淑,文冠當時,義慶在江州,請爲衞軍諮議參軍;其餘呉郡陸展、東海何長瑜、鮑照等,並爲辭章之美,引爲佐史國臣。太祖與義慶書,常加意斟酌。

鮑照は字を明遠といい、文辞は豊かで優雅であった。かつて古楽府を作り、その文章は非常に力強く美しかった。元嘉年間、黄河と済水がともに清らかになり、当時はこれを美しい瑞兆と見なした。鮑照は『河清頌』を作り、その序文は非常に巧みであった。その文章は次のとおりである。

原文鮑照字明遠,文辭贍逸,嘗爲古樂府,文甚遒麗。元嘉中,河、濟倶淸,當時以爲美瑞,照爲河淸頌,其序甚工。其辭曰:

世祖(孝武帝)は鮑照を中書舎人に任じた。上(孝武帝)は文章を作ることを好み、自らそのものに及ぶ者はないと自負していた。鮑照はその意を悟り、文章を書く際には多く卑俗な言葉や冗長な句を用いた。当時の人々は皆、鮑照の才能が尽きたのだと言ったが、実際はそうではなかった。臨海王の子頊が荊州刺史となった時、鮑照は前軍参軍となり、書記の任を掌った。子頊が敗れると、鮑照は乱兵に殺された。

原文世祖以照爲中書舍人。上好爲文章,自謂物莫能及,照悟其旨,爲文多鄙言累句,當時咸謂照才盡,實不然也。臨海王子頊爲荊州,照爲前軍參軍,掌書記之任。子頊敗,爲亂兵所殺。

義慶が広陵にいた時、病気になり、白い虹が城を貫き、野の麕(ノロジカ)が府中に入るということがあった。彼はこれを非常に不吉に思い、強く帰還を願い出た。太祖(文帝)は彼の州の職務を解くことを許し、本来の官号のまま朝廷に帰還させた。二十一年(444年)、京邑で死去した。時に四十二歳であった。侍中・司空を追贈され、諡は康王といった。

原文義慶在廣陵,有疾,而白虹貫城,野麕入府,心甚惡之,固陳求還。太祖許解州,以本號還朝。二十一年,薨於京邑,時年四十二。追贈侍中、司空,諡曰康王。

子の哀王劉燁は字を景舒といい、後を嗣いだ。官は通直郎に至ったが、元凶(劉劭)に殺された。散騎常侍を追贈された。その子の劉綽は字を子流といい、後を嗣いだ。官は歩兵校尉に至った。昇明三年(479年)に反乱を起こし、誅殺され、封国は除かれた。劉綽の弟の劉綰は早逝した。

原文子哀王燁字景舒嗣,官至通直郎,爲元凶所殺。追贈散騎常侍。子綽字子流嗣,官至歩兵校尉。昇明三年反,伏誅,國除。綽弟綰,早卒。

劉燁の弟の劉衍は、太子舎人であった。劉衍の弟の劉鏡は、宣城太守であった。劉鏡の弟の劉穎は、前将軍であった。劉穎の弟の劉倩は、南新蔡太守であった。

原文燁弟衍,太子舍人。衍弟鏡,宣城太守。鏡弟穎,前將軍。穎弟倩,南新蔡太守。

劉遵考りゅうじゅんこうは、高祖(武帝)の族弟である。曾祖父の劉淳は、皇曾祖父の武原県令劉混の弟で、官は正員郎に至った。祖父の劉巌は、海西県令であった。父の劉涓子は、彭城内史であった。

原文遵考,髙祖族弟也。曾祖淳,皇曾祖武原令混之弟,官至正員郎。祖巖,海西令。父涓子,彭城内史。

劉遵考は初め将軍振武参軍となり、盧循討伐に参加し、郷侯に封じられた。建威将軍・彭城内史として高祖の北伐に従った。当時、高祖の諸子は皆幼く、宗室で頼りにできるのは劉遵考だけであった。長安が平定されると、并州・司州の北河東・北平陽・北雍州の新平・安定の五郡諸軍事、輔国将軍、并州刺史を督し、河東太守を兼任して蒲坂に駐屯した。関中が失陥すると南帰し、游撃将軍に任じられ、後に冠軍将軍に遷った。晋帝が位を退いて秣陵宮に居ると、劉遵考は兵を率いて防衛した。高祖が帝位に即くと、恩恵を広く施す詔を下し、「遵考は服属の親族であり、国戚から遠くなく、宗室も多くはない。寵爵を蒙るべきである。営浦県侯に封じ、食邑五百戸を与える」と言った。本来の官号のまま彭城・沛の二郡太守となった。

原文遵考始爲將軍振武參軍,預討盧循,封鄕侯。自建威將軍、彭城内史隨髙祖北伐。時髙祖諸子並弱,宗室唯有遵考。長安平定,以督并州司州之北河東北平陽北雍州之新平安定五郡諸軍事、輔國將軍、并州刺史,領河東太守,鎭蒲坂。關中失守,南還,除游撃將軍,遷冠軍將軍。晉帝遜位居秣陵宮,遵考領兵防衞。髙祖初即大位,下推恩之詔,曰:「遵考服屬之親,國戚未遠,宗室無多,宜蒙寵爵。可封營浦縣侯,食邑五百戸。」以本號爲彭城、沛二郡太守。

景平元年(423年)、右衛将軍に遷った。元嘉二年(425年)、外任として征虜将軍・淮南太守となった。翌年、使持節に転じ、護軍を領し、殿省に入って直した。外任として使持節、雍・梁・南北秦の四州および荊州の南陽・竟陵・順陽・襄陽・新野・随の六郡諸軍事、征虜将軍、寧蛮校尉、雍州刺史、襄陽・新野二郡太守を督した。劉遵考の政治は厳しく暴虐で、収奪に節度がなかった。五年(428年)、有司から糾弾されたが、上(文帝)は問わず、赦されて都に帰還した。七年(430年)、太子右衛率に任じられ、給事中きゅうじちゅうを加えられた。翌年、南徐・兗州の江北・淮南諸軍事、征虜将軍、南兗州刺史を督し、広陵太守を兼任した。また侍中に召され、後軍将軍を領し、太常に転じた。九年(432年)、右衛将軍に遷り、散騎常侍を加えられた。十二年(435年)、重い病気で対面を待たなかった罪により、常侍を免じられ、侯の爵位のまま右衛将軍を領した。翌年、元の官職に復した。十五年(438年)、さらに徐州大中正・太子中庶子を領し、本来の官職は変わらなかった。その年、徐・兗二州および豫州の梁郡諸軍事、前将軍、徐・兗二州刺史を監した。赴任せず、留まって侍中、左衛将軍を領した。翌年、外任として使持節、豫・司・雍・并の四州および南豫州の梁郡・弋陽・馬頭、荊州の義陽の四郡諸軍事、前将軍、豫州刺史を監し、南梁郡太守を兼任した。二十一年(444年)、管内が旱魃で百姓が飢えたため、詔によって賑給を加えるよう命じられたが、劉遵考は符旨に従わなかった罪で免官された。散騎常侍・五兵尚書として起用され、呉興太守に遷り、秩禄は中二千石となった。二十五年(448年)、領軍に召された。二十七年(450年)、索虜(北魏)が南進して瓜歩に至ると、軍を率いて江上に出て、仮節・黄鉞を与えられた。

原文景平元年,遷右衞將軍。元嘉二年,出爲征虜將軍、淮南太守。明年,轉使持節,領護軍,入直殿省。出爲使持節、督雍梁南北秦四州荊州之南陽竟陵順陽襄陽新野隨六郡諸軍事、征虜將軍、寧蠻校尉、雍州刺史,襄陽新野二郡太守。遵考爲政嚴暴,聚斂無節。五年,爲有司所糾,上不問,赦還都。七年,除太子右衞率,加給事中。明年,督南徐兗州之江北淮南諸軍事、征虜將軍、南兗州刺史,領廣陵太守。又徴爲侍中,領後軍將軍,徙太常。九年,遷右衞將軍,加散騎常侍。十二年,坐厲疾不待對,免常侍,以侯領右衞。明年,復本官。十五年,又領徐州大中正、太子中庶子,本官如故。其年,監徐兗二州豫州之梁郡諸軍事、前將軍、徐兗二州刺史。未之鎭,留爲侍中,領左衞將軍。明年,出爲使持節、監豫司雍并四州南豫州之梁郡弋陽馬頭荊州之義陽四郡諸軍事、前將軍、豫州刺史,領南梁郡太守。二十一年,坐統内旱,百姓饑,詔加賑給,而遵考不奉符旨,免官。起爲散騎常侍、五兵尚書,遷呉興太守,秩中二千石。二十五年,徴爲領軍。二十七年,索虜南至瓜歩,率軍出江上,假節蓋。

三十年(453年)、再び外任として使持節、豫州刺史を監した。元凶(劉劭)が帝を弑しいして立つと、安西将軍に進号され、外監の徐安期・仰捷祖が彼を監視した。劉遵考は徐安期らを斬り、義兵を起こして南譙王劉義宣に呼応した。劉義宣は劉遵考に鎮西将軍を加えた。夏侯献が軍勢を率いて瓜歩に至り世祖(孝武帝)を待ち受けた時、またもや罪に坐して免官された。孝建元年(454年)、魯爽・臧質が反乱を起こすと、征虜将軍として起用され、軍勢を率いて臨沂県に駐屯し、やがて呉興太守に任じられた。翌年、湘州刺史に召されたが、赴任せず、尚書左僕射に遷った。三年(456年)、丹陽尹に転じ、散騎常侍を加えられた。再び尚書右僕射となり、太子右衛率を領した。翌年、また領軍将軍に任じられ、散騎常侍を加えられた。五年(458年)、再び尚書右僕射・金紫光禄大夫に遷り、常侍は変わらなかった。翌年、左僕射に転じ、常侍は変わらなかった。また徐州刺史・大中正・崇憲太僕を領した。前廃帝が即位すると、特進・右光禄大夫に遷り、常侍・太僕は変わらなかった。景和元年(465年)、外任として南豫州諸軍事、安西将軍、南豫州刺史を督した。太宗(明帝)が即位すると、侍中・特進・右光禄大夫、崇憲太僕を領するよう命じられた。親侍三十人が与えられた。崇憲太后が崩御すると、太僕の職は解かれたが、その他は変わらなかった。泰始五年(469年)、几杖を賜り、太官から四季折々の珍味が賜られ、病気の時は太医が薬を与えたが、几杖は固辞した。後廃帝が即位すると、左光禄大夫に進み、その他は変わらなかった。元徽元年(473年)に死去した。時に八十二歳であった。左光禄大夫・開府儀同三司を追贈され、侍中は変わらなかった。諡は元公といった。劉遵考には才能がなく、ただ宗室で遠くないという理由だけで、歴代の朝廷で顕著な待遇を受けた。年老いて病気で失明した。

原文三十年,復出爲使持節、監豫州刺史。元凶弒立,進號安西將軍,遣外監徐安期、仰捷祖防守之。遵考斬安期等,起義兵應南譙王義宣,義宣加遵考鎭西將軍。夏侯獻率衆至瓜歩承候世祖,又坐免官。孝建元年,魯爽、臧質反,起爲征虜將軍,率衆屯臨沂縣,仍除呉興太守。明年,徴爲湘州刺史,未行,遷尚書左僕射。三年,轉丹陽尹,加散騎常侍。復爲尚書右僕射,領太子右衞率。明年,又除領軍將軍,加散騎常侍。五年,復遷尚書右僕射、金紫光祿大夫,常侍如故。明年,轉左僕射,常侍如故。又領徐州刺史、大中正、崇憲太僕。前廢帝即位,遷特進、右光祿大夫,常侍、太僕如故。景和元年,出督南豫州諸軍事、安西將軍、南豫州刺史。太宗即位,以爲侍中、特進、右光祿大夫,領崇憲太僕。給親侍三十人。崇憲太后崩,太僕解,餘如故。泰始五年,賜几杖,太官四時賜珍味,疾病太醫給藥,固辭几杖。後廢帝即位,進左光祿大夫,餘如故。元徽元年卒,時年八十二。追贈左光祿大夫、開府儀同三司,侍中如故。諡曰元公。遵考無才能,直以宗室不遠,故歴朝顯遇。年老有疾失明。

子の劉澄之は、順帝の昇明末年(479年)に貴顕となった。

原文子澄之,順帝昇明末貴達。

劉澄之の弟の劉琨之は、竟陵王劉誕の司空主簿となった。劉誕が乱を起こすと、彼を中兵参軍に任じようとしたが、就任せず、数十日間拘束されたが、ついに受け入れず、遂に殺された。黄門郎を追贈された。詔によって吏部尚書の謝庄が彼のために誄を作った。

原文澄之弟琨之,爲竟陵王誕司空主簿,誕作亂,以爲中兵參軍,不就,縶繫數十日,終不受,乃殺之。追贈黃門郎。詔吏部尚書謝莊爲之誄。

劉遵考の従弟の劉思考もまた遇を受け、歴代の朝廷で官職に就き、極めて清く顕要な地位にあり、豫章・会稽太守、益州・徐州刺史を歴任し、合わせて十郡と三州を経た。泰始元年(465年)、散騎常侍・金紫光禄大夫の任で死去した。時に七十五歳であった。特進を追贈され、常侍・光禄大夫は変わらなかった。

原文遵考從弟思考,亦被遇,歴朝官,極淸顯,爲豫章、會稽太守,益、徐州刺史,凡經十郡三州。泰始元年,卒於散騎常侍、金紫光祿大夫,時年七十五。追贈特進,常侍、光祿如故。