宋書

列伝第十

列伝第十

胡藩は字あざなを道序といい、豫章郡南昌県の人である。祖父の胡隨は散騎常侍さんきじょうじを務めた。父の胡仲任は治書侍御史を務めた。

原文胡藩字道序,豫章南昌人也。祖隨,散騎常侍。父仲任,治書侍御史。

胡藩は幼くして孤児となり、喪に服して身を痩せ衰えさせたことで称えられた。太守たいしゅの韓伯が彼を見て、胡藩の叔父で尚書少廣であった胡尚に言った。「あなたのこの甥は、義烈によって名を成すであろう。」州や府から召し出されたが、就任しなかった。二人の弟が元服と婚礼を終えるのを待ち、その後郗恢の征虜軍事に参軍した。当時、殷仲堪が荊州刺史ししとなっており、胡藩の母方の従兄である羅企生が殷仲堪の参軍を務めていた。胡藩が休暇を取って帰郷する途中、江陵に立ち寄り羅企生を訪ねた。殷仲堪は胡藩を引き合わせようとし、手厚くもてなした。胡藩は殷仲堪を説得して言った。「桓玄は気まぐれで常ならず、失職を恨み、いつも不満を抱いています。閣下が彼を過度に厚遇されるのは、将来のためには良策ではありません。」殷仲堪は不愉快な表情を浮かべた。胡藩は退出して羅企生に言った。「武器を敵に渡すようなもので、必ず禍が訪れる。もし早く去就を決めなければ、後悔しても及ばない。」桓玄が夏口から殷仲堪を急襲すると、胡藩は桓玄の後軍軍事に参軍した。殷仲堪が敗れると、羅企生はやはり従ったことで災いに遭った。胡藩は転じて太尉たいい、大将軍、相国の軍事に参軍した。

原文藩少孤,居喪以毀稱。太守韓伯見之,謂藩叔尚書少廣曰:「卿此姪當以義烈成名。」州府辟召,不就。須二弟冠婚畢,及參郗恢征虜軍事。時殷仲堪為荊州刺史,藩外兄羅企生為仲堪參軍,藩請假還,過江陵省企生。仲堪要藩相見,接待甚厚。藩因說仲堪曰:「桓玄意趣不常,每怏怏於失職。節下崇待太過,非將來之計也。」仲堪色不悅。藩退而謂企生曰:「倒戈授人,必至之禍。若不早規去就,後悔無及。」玄自夏口襲仲堪,藩參玄後軍軍事。仲堪敗,企生果以附從及禍。藩轉參太尉、大將軍、相國軍事。

義軍が立ち上がり、桓玄が戦いに敗れて逃亡しようとした時、胡藩は南掖門で桓玄の馬の手綱を掴み、言った。「今、羽林の射手はまだ八百人おり、皆かつての西府の義故の者たちです。一度ここを捨ててしまえば、再び帰ることはできるでしょうか?」桓玄はただ馬鞭で天を指すだけで、そのまま逃げ散って互いに行方知れずとなった。蕪湖で桓玄に追いつくと、桓玄は胡藩を見て喜び、張須無に言った。「あなたの州はもとより人材が多いが、今また王叔治のような人物を見た。」桑落の戦いでは、胡藩の軍艦が焼かれ、鎧を着たまま水中に潜り、およそ三十歩ほど進んで、ようやく岸に上がることができた。義軍が迫り、西へ向かうことができなくなったので、家に帰った。高祖(劉裕)はかねてより胡藩が殷仲堪に対して直言したこと、また桓玄に忠節を尽くしたことを聞いていたので、彼を員外散騎侍郎に召し出し、鎮軍軍事に参軍させた。

原文義旗起,玄戰敗將出奔,藩於南掖門捉玄馬控,曰:「今羽林射手猶有八百,皆是義故西人,一旦捨此,欲歸可復得乎?」玄直以馬鞭指天而已,於是奔散相失。追及玄於蕪湖,玄見藩,喜謂張須無曰:「卿州故為多士,今乃復見王叔治。」桑落之戰,藩艦被燒,全鎧入水潛行三十許步,方得登岸。義軍既迫,不復得西,乃還家。高祖素聞藩直言於殷氏,又為玄盡節,召為員外散騎侍郎,參鎮軍軍事。

鮮卑征伐に従軍した。賊が臨朐に集結して駐屯していた時、胡藩は高祖に進言した。「賊は城外に軍を駐屯させており、城を守る兵は必ず少ないでしょう。今、その城を奪い、旗幟を斬り倒せば、これこそ韓信が趙を打ち破った方法です。」高祖は檀韶と胡藩らを密かに派遣した。到着するとすぐにその城を陥落させた。賊は城が落ちたのを見て、一斉に逃走し、広固城に戻って数か月間守りを固めた。城を落とす前夜、佐史たちが一同に集まっていると、突然、鵝ほどの大きさの蒼黒色の鳥が高祖の幕舎の中に飛び込んできた。皆が驚き恐れ、不吉な前兆だと思った。胡藩が立ち上がって祝賀の言葉を述べた。「蒼黒色は胡虜の色です。胡虜が我が方に帰順する、大吉の兆しです。」翌朝、城を攻撃し、陥落させた。左里での盧循討伐に従軍し、頻繁に戦功を立て、呉平県五等子に封じられ、正員郎に任じられた。まもなく寧遠将軍、鄱陽太守に転任した。

原文從征鮮卑,賊屯聚臨朐,藩言於高祖曰:「賊屯軍城外,留守必寡,今往取其城,而斬其旗幟,此韓信所以克趙也。」高祖乃遣檀韶與藩等潛往,既至,即克其城。賊見城陷,一時奔走,還保廣固累月。將拔之夜,佐史並集,忽有鳥大如鵝,蒼黑色,飛入高祖帳裏,眾皆駭愕,以為不祥。藩起賀曰:「蒼黑者,胡虜之色,胡虜歸我,大吉之祥也。」明旦,攻城,陷之。從討盧循於左里,頻戰有功,封吳平縣五等子,除正員郎。尋轉寧遠將軍、鄱陽太守。

劉毅討伐に従軍した。劉毅が初めて荊州に赴任する際、上表して東の道から都に戻り墓参りしたいと請い、都から数十里のところまで来ながら、宮門を拝謁しなかった。高祖は倪塘に出向いて彼と会った。胡藩はその席で劉毅を殺すよう勧めたが、高祖は従わなかった。この時になって高祖は胡藩に言った。「かつて卿の倪塘での献策に従っていたら、今のような挙兵はなかっただろうに。」また司馬休之征伐に従軍し、再び参軍となり、建武将軍を加えられ、江津で游軍を率いた。徐逵之が戦死した時、高祖は大いに怒り、その日に馬頭岸から長江を渡ろうとした。しかし江津の岸は切り立っており、壁のように数丈の高さがあり、司馬休之は岸辺に陣を構え、登るすべがなかった。高祖は胡藩を呼んで登るよう命じた。胡藩はためらう様子を見せた。高祖は激怒し、左右の者に命じて胡藩を捕らえ、斬ろうとした。胡藩は命令を受けず、振り返って言った。「胡藩は寧ろ前進して死にます!」刀の先で岸を穿ち、かろうじて足の指がかかるほどの足場を作り、まっすぐに登り始めた。それに続く者も次第に多くなった。岸に登り着くと、決死の戦いを挑み、賊は防ぐことができず、退却した。そこで勢いに乗じて攻撃し、賊は一斉に逃げ散った。

原文從伐劉毅。毅初當之荊州,表求東道還京辭墓,去都數十里,不過拜闕。高祖出倪塘會之。藩勸於坐殺毅,高祖不從。至是謂藩曰:「昔從卿倪塘之謀,無今舉也。」又從征司馬休之,復為參軍,加建武將軍,領游軍於江津。徐逵之敗沒,高祖怒甚,即日於馬頭岸渡江,而江津岸峭,壁立數丈,休之臨岸置陣,無由可登。高祖呼藩令上,藩有疑色,高祖奮怒,命左右錄來,欲斬之。藩不受命,顧曰:「藩寧前死耳!」以刀頭穿岸,劣容脚指,於是徑上,隨之者稍多。既得登岸,殊死戰,賊不能當,引退。因而乘之,一時奔散。

高祖が羌を討伐した時、胡藩は寧朔将軍を仮授され、太尉軍事に参軍し、別軍を統率した。河東に到着した時、暴風が胡藩の大型軍艦を北岸に流した。索虜(北魏軍)がこの軍艦を引き寄せ、積載品を奪い取った。胡藩は気勢を上げ、憤慨し、左右の者十二人を率いて小船でまっすぐ河北へ向かった。賊の騎兵五、六百人は胡藩が来るのを見て、一斉に笑った。胡藩はもともと弓術に優れており、岸に上がって矢を放つと、賊は弦の音とともに十人ほどが倒れた。賊は皆逃げ退き、胡藩は失った物資をすべて回収して戻った。また胡藩は朱超石らとともに半城で索虜を追撃するよう命じられた。賊の騎兵は幾重にも重なっていた。胡藩と朱超石が率いていた兵は皆、新たに配属された兵で、五千にも満たなかったが、統率して奮戦し、大破した。また朱超石らとともに蒲坂で姚業を攻撃した。朱超石が不利になって退却した時、胡藩は朱超石が置き去りにした物資を回収し、ゆっくりと撤退して戻ったので、姚業は追撃できなかった。

原文高祖伐羌,假藩寧朔將軍,參太尉軍事,統別軍。至河東,暴風漂藩重艦渡北岸,索虜牽得此艦,取其器物。藩氣厲心憤,率左右十二人,乘小船逕往河北。賊騎五六百見藩來,並笑之。藩素善射,登岸射,賊應弦而倒者十許人,賊皆奔退,悉收所失而反。又遣藩及朱超石等追索虜於半城,虜騎數重,藩及超石所領皆割配新軍,不盈五千,率厲力戰,大破之。又與超石等擊姚業於蒲坂,超石失利退還,藩收超石所捨資實,徐行而反,業不敢追。

高祖が彭城ほうじょうに戻ると、相国軍事に参軍した。当時、盧循の残党と蘇淫賊が大いに結集していたので、胡藩を始興相とした。司馬休之平定と広固での功績により、陽山県男に封じられ、食邑五百戸を与えられた。少帝の景平元年、東府を守備中に掖門を開けた罪に問われ、官職を免じられたが、まもなく元の職に復帰した。元嘉四年、建武将軍、江夏内史に遷った。七年、游撃将軍に召された。到彦之の北伐の時、南兗州刺史の長沙王劉義欣が彭城に進軍して占拠すると、胡藩は広陵に出戍し、府州の事務を代行した。太子左衞率に転任した。十年、六十二歳で死去し、諡を壮侯といった。

原文高祖還彭城,參相國軍事。時盧循餘黨與蘇淫賊大相聚結,以為始興相。論平司馬休之及廣固功,封陽山縣男,食邑五百戶。少帝景平元年,坐守東府,開掖門,免官,尋復其職。元嘉四年,遷建武將軍、江夏內史。七年,徵為游擊將軍。到彥之北伐,南兗州刺史長沙王義欣進據彭城,藩出戍廣陵,行府州事。轉太子左衞率。十年,卒,時年六十二,諡曰壯侯。

子の胡隆世が後を継ぎ、官は西陽太守に至った。胡隆世が没すると、子の胡乾秀が後を継いだ。胡藩には庶子が六十人おり、多くは法度を守らなかった。胡藩の十四男の胡遵世は、臧質の寧遠参軍となり、職を辞して家に帰り、孔熙先とともに逆謀を企てた。太祖(劉義隆)は胡藩が功臣であったため、その事を表沙汰にしたくなく、江州に命じて別件で胡遵世を捕らえ処刑させた。二十四年、胡藩の十六男の胡誕世と十七男の胡茂世が一族や従者二百余人を率いて郡県を攻め落とし、太守の桓隆之と県令の諸葛和之を殺害し、庶人に落とされた劉義康を奉じようとした。折しも交州刺史の檀和之が豫章に到着し、討伐して平定した。胡誕世の兄で車騎参軍・新興太守の胡景世と、その弟の胡寶世は、廷尉に出頭して罪を認め、ともに遠州に流された。胡乾秀は封国を剥奪された。世祖(劉駿)の初め、流刑に処されていた者たちは皆、帰還を許された。

原文子隆世嗣,官至西陽太守。隆世卒,子乾秀嗣。藩庶子六十人,多不遵法度。藩第十四子遵世,為臧質寧遠參軍,去職還家,與孔熙先同逆謀,太祖以藩功臣,不欲顯其事,使江州以他事收殺之。二十四年,藩第十六子誕世、第十七子茂世率羣從二百餘人攻破郡縣,殺太守桓隆之、令諸葛和之,欲奉庶人義康。值交州刺史檀和之至豫章,討平之。誕世兄車騎參軍新興太守景世、景世弟寶世,詣廷尉歸罪,並徙遠州。乾秀奪國。世祖初,徙者並得還。

劉康祖は、彭城郡呂県の人である。代々京口に住んだ。伯父の劉簡之は志と才幹があり、高祖に認められた。高祖が復興を謀り、才力のある者を集めようとした時、二度劉簡之を訪ねたが、ちょうど客が来ていた。劉簡之はその意を悟り、弟の劉虔之に言った。「劉下邳(劉裕)が頻繁に訪ねてくるのは、必ずや意味がある。私が直接話せないので、お前が行って会ってみよ。」劉虔之が到着した時、高祖はすでに京城を平定していた。劉虔之はすぐに義軍に投じた。劉簡之はこれを聞くと、耕作用の牛を殺し、徒衆を集めて会合を開き、率いて高祖のもとに赴いた。劉簡之は通直常侍、少府、太尉諮議参軍などの官を歴任した。劉簡之の弟の劉謙之は学問を好み、『晋紀』二十巻を撰した。義熙の末、始興相となった。東海郡の徐道期という者が広州に流寓し、士人の品行がなく、新旧の住民から侮辱されていた。刺史の謝欣が死んだのを機に、ならず者どもを集めて反乱を起こし、州城を攻め落とし、日頃から恨みを持っていた士人や庶民百余人を殺害し、府庫を略奪し、逃亡者を招集して始興を攻撃した。劉謙之はこれを撃破して敗走させ、進軍して広州を平定し、その党与を誅殺し、引き続き州の事務を代行した。すぐに振威将軍、広州刺史に任じられた。後に太中大夫となった。劉虔之は放縦で節度がなく、産業を営まず、財を軽んじて施しを好んだ。高祖が司馬休之や魯宗之らを西征した時、参軍の檀道済と朱超石に歩兵と騎兵を率いさせて襄陽から出撃させた。劉虔之は当時江夏相であり、府郡の兵力を率いて溳城から出撃し、三連に駐屯し、橋を架け糧食を集めて待機した。檀道済らが何日も到着しないうちに、魯宗之の子の魯軌に襲撃され、衆寡敵せずであった。参軍の孫長庸が涙を流して退軍を勧めたが、劉虔之は厳しい表情で言った。「私は順を仗りて罪を伐つ。道理として打ち勝てないはずがない。もし不幸にも敗れるならば、それも運命だ。」戦いに敗れて殺害され、梁州・秦州二州刺史を追贈され、新康県男に封じられ、食邑五百戸を与えられた。

原文劉康祖,彭城呂人。世居京口。伯父簡之,有志榦,為高祖所知。高祖將謀興復,收集才力之士,嘗再造簡之,值有賓客。簡之悟其意,謂弟虔之曰:「劉下邳頻再來,必當有意。既不得共語,汝可試往見之。」既至,高祖已克京城,虔之即便投義。簡之聞之,殺耕牛,會聚徒眾,率以赴高祖。簡之歷官至通直常侍,少府,太尉諮議參軍。簡之弟謙之,好學,撰晉紀二十卷,義熙末,為始興相。東海人徐道期流寓廣州,無士行,為僑舊所陵侮。因刺史謝欣死,合率羣不逞之徒作亂,攻沒州城,殺士庶素憾者百餘,傾府庫,招集亡命,出攻始興。謙之破走之,進平廣州,誅其黨與,仍行州事。即以為振威將軍、廣州刺史。後為太中大夫。虔之誕節,不營產業,輕財好施。高祖西征司馬休之、魯宗之等,遣參軍檀道濟、朱超石步騎出襄陽,虔之時為江夏相,率府郡兵力出溳城,屯三連,立橋聚糧以待。道濟等積日不至,為宗之子軌所襲,眾寡不敵。參軍孫長庸流涕勸退軍,虔之厲色曰:「我仗順伐罪,理無不克。如其不幸,命也。」戰敗見殺,追贈梁、秦二州刺史,封新康縣男,食邑五百戶。

康祖は、垣虔の子であり、封を継承し、長沙王劉義欣の鎮軍参軍となり、員外散騎侍郎に転じた。弓馬に巧みで、膂力は人に優れ、郷里では士業に励まず、放蕩と賭博・酒を事としていた。たびたび法を犯し、郡県に捕らえられそうになると、いつも屋根を越え塀を乗り越えて逃げ、誰も捕まえることができなかった。夜に人家に入り、役人に包囲されても、康祖は包囲を突破して逃げ去り、誰も追おうとはしなかった。ある夜、京口に戻り、半晩で到着し、翌朝、城門の守衛を経て府州の要職に赴いた。間もなく建康から逮捕状が届いたが、府州の執事者たちは皆、康祖がその夜は京口にいたと証言したため、無事となった。前後してたびたび糾弾・弾劾されたが、太祖は功臣の子であることを考慮し、毎回寛大に許した。員外郎を十年務め、再び賭博の遊戯で免官となった。

原文康祖,虔之子也,襲封,為長沙王義欣鎮軍參軍,轉員外散騎侍郎。便弓馬,膂力絕人,在閭里不治士業,以浮蕩蒱酒為事。每犯法,為郡縣所錄,輙越屋踰牆,莫之能禽。夜入人家,為有司所圍守,康祖突圍而去,並莫敢追。因夜還京口,半夕便至,明旦,守門詣府州要職。俄而建康移書錄之,府州執事者並證康祖其夕在京口,遂見無恙。前後屢被糾劾,太祖以勳臣子,每原貸之。為員外郎十年,再坐摴蒱戲免。

太子左積弩将軍に転じ、射声校尉裴方明に従って西征し仇池を討ち、方明と共に廷尉に下され、康祖は免官となった。しばらくして、世祖が豫州刺史となり、歴陽に駐屯した時、康祖を征虜中兵参軍に任じた。任を受けると、自らを律して行いを改めた。太子翊軍校尉に転じた。長らくして、南平王劉鑠の安蛮府司馬に昇進した。

原文轉太子左積弩將軍,隨射聲校尉裴方明西征仇池,與方明同下廷尉,康祖免官。頃之,世祖為豫州刺史,鎮歷陽,以康祖為征虜中兵參軍,既被委任,折節自修。轉太子翊軍校尉。久之,遷南平王鑠安蠻府司馬。

元嘉二十七年春、索虜の托跋燾が自ら大軍を率いて汝南を包囲攻撃した。太祖は諸軍に救援を命じ、康祖が総指揮として先鋒となった。軍は新蔡に駐屯し、虜と戦い、共に百余里前進し、融水を渡った。虜の大軍が到着したが、奮撃してこれを破り、偽の殿中尚書任城公乞地真を斬った。県瓠から四十里の地点で、燾は陣営を焼いて退却した。左軍将軍に転じた。太祖が大規模な北伐を計画すると、康祖は時期が既に遅いとして、来年を待つよう請願した。上(皇帝)は河北の義兵が一斉に立ち上がっているとして、一年も兵を留めれば、義に赴く志を挫くことになると、許さなかった。その年秋、蕭斌、王玄謨、沈慶之らが黄河に入り、康祖は豫州軍を率いて許・洛から出撃した。玄謨らが敗れて帰還すると、虜は大軍を率いて南進した。南平王劉鑠が寿陽にいたため、上は包囲されることを憂慮し、康祖に速やかに帰還するよう召還した。康祖が軍を返し、寿陽まで数十里の地点に至らないうちに、虜の永昌王庫仁真が長安からの八万騎の軍勢を率いて、尉武で康祖と遭遇した。康祖の軍は総勢八千人であった。軍副の胡盛之は山に依り険に拠り、間道を取って進むことを望んだ。康祖は怒って言った。「私は本朝より命令を受け、河洛を清掃平定せんとしている。敵は今自ら進んで来た。これ以上遠く王師を労する必要はない。犬羊(敵軍)は数こそ多いが、実は容易に撃滅できる。我が軍は兵は精鋭、武器は練達し、寿陽までわずか数十里、援軍も間もなく到着する。何を憂えようか。」そこで車営を結んで進軍した。虜は四方から攻め寄せ、一日一夜の大戦となり、殺した虜の屍が積み重なった。虜は軍を三つに分け、休みながら戦い、騎兵に草を背負わせて車営を焼いた。康祖は将士を率いて奮励し、一騎当千の働きを見せ、虜の死者は大半に及んだ。ちょうどその時、矢が首筋に当たって康祖は戦死し、これにより大敗し、全営が陥落し、虜に皆殺しにされ、逃げ延びた者はわずか数十人であった。虜は康祖の首を彭城に送って示したが、顔は生きているようであった。

原文元嘉二十七年春,索虜托拔燾親率大眾攻圍汝南,太祖遣諸軍救援,康祖總統為前驅。軍次新蔡,與虜戰,俱前百餘里,濟融水。虜眾大至,奮擊破之,斬偽殿中尚書任城公乞地真,去縣瓠四十里,燾燒營退走。轉左軍將軍。太祖欲大舉北伐,康祖以歲月已晚,請待明年,上以河北義徒並起,若頓兵一周,沮向義之志,不許。其年秋,蕭斌、王玄謨、沈慶之等入河,康祖率豫州軍出許、洛。玄謨等敗歸,虜引大眾南度。南平王鑠在壽陽,上慮為所圍,召康祖速反。康祖回軍,未至壽陽數十里,會虜永昌王庫仁真以長安之眾八萬騎,與康祖相及於尉武。康祖凡有八千人,軍副胡盛之欲附山依險,間行取至。康祖怒曰:「吾受命本朝,清蕩河洛。寇今自送,不復遠勞王師,犬羊雖多,實易摧滅。吾兵精器練,去壽陽裁數十里,援軍尋至,亦何患乎。」乃結車營而進。虜四面來攻,大戰一日一夜,殺虜填積。虜分眾為三,且休且戰,以騎負草燒車營。康祖率厲將士,無不一當百,虜死者太半。會矢中頸死,於是大敗,舉營淪覆,為虜所殺盡,自免者裁數十人。虜傳康祖首示彭城,面如生。

胡盛之は虜に生け捕りにされ、托跋燾に寵愛され、常に側近に侍った。盛之は勇力があり、初めは長沙王劉義欣の鎮軍参軍督護となり、譙郡の賊を討伐した。県西の賊は歩騎七十騎おり、深い藪に逃げ隠れていたが、盛之は単身で突進し、手ずから五十八の首級を斬った。

原文胡盛之為虜生禽,托跋燾寵之,常在左右。盛之有勇力,初為長沙王義欣鎮軍參軍督護,討劫譙郡,縣西劫有馬步七十,逃隱深榛,盛之挺身獨進,手斬五十八級。

二十八年、詔が下された。「康祖は尉武で軍を返し、軍律に誤りなかった。寡兵をもって衆に立ち向かい、敵の大半を殲滅した。猛気は雲のごとく沸騰し、志は遂げられんとしたが力尽き、命を捨てて節を全うした。まことに嘉すべきであり哀悼に値する。表彰し寵遇を加え、忠烈を顕彰すべきである。益州刺史を追贈し、諡を壮男とせよ。」封国は斉が禅譲を受けるまで伝わり、その後除かれた。

原文二十八年,詔曰:「康祖班師尉武,戎律靡忒。對眾以寡,殲殄太半。猛氣雲騰,志申力屈,沒世徇節,良可嘉悼。宜加甄寵,以旌忠烈。可贈益州刺史,諡曰壯男。」傳國至齊受禪,國除。

垣護之は字を彦宗といい、略陽郡桓道県の人である。祖父の垣敞は、苻氏に仕え、長楽国の郎中令となった。慕容徳が青州に入ると、敞を車騎長史に任じた。徳の兄の子の慕容超が偽位を継ぐと、伯父の垣遵と父の垣苗が再び任用された。遵は尚書となり、苗は京兆太守となった。高祖が広固を包囲した時、遵と苗は城を越えて帰順し、共に太尉行参軍に任じられた。太祖の元嘉年間、遵は員外散騎常侍となり、苗は屯騎校尉となった。

原文垣護之字彥宗,略陽桓道人也。祖敞,仕苻氏,為長樂國郎中令。慕容德入青州,以敞為車騎長史。德兄子超襲偽位,伯父遵、父苗復見委任。遵為尚書,苗京兆太守。高祖圍廣固,遵、苗踰城歸降,並以為太尉行參軍。太祖元嘉中,遵為員外散騎常侍,苗屯騎校尉。

護之は若い頃から豪放磊落で、細かいことに拘らず、背は低く風采は上がらなかったが、気骨と才幹は強く果断であった。高祖に従って司馬休之を征伐し、世子中軍府長史、兼行参軍となった。永初年間、奉朝請に補された。元嘉初年、殿中将軍となった。到彦之に従って北伐し、彦之が撤兵しようとした時、護之は手紙を送って諫めて言った。「外聞によれば、節下(彦之)が軍を返し旗を翻そうとされていると承りますが、私はひそかに同意できません。なぜでしょうか。残った敵は威を恐れ、風の便りに奔り逃げ、八年間にわたって侵された土地を、戦わずして回復しました。今こそ朔漠に長駆し、残った醜類を根こそぎ掃討すべき時です。ましてや敵は自ら進んで来ているのですから、遠く労する必要はありません。竺霊秀を急ぎ滑臺に進ませて朱脩之の固守を助けさせ、節下の大軍は河北を目指して進軍すべきです。そうすれば、牢・洛にうろつく敵魂は、自然に敗走するでしょう。かつて人々が連年攻戦し、兵を失い食糧に窮した時でさえ、まだ胆を張って争って前進し、軽々しく退くことを肯んじませんでした。まして今、青州は豊作で、済水の水運は流通し、兵馬は飽きて安らぎ、威力は損なわれていません。もし空しく滑臺を捨て、成し遂げた業を座して失うならば、それは朝廷が任じた趣旨でしょうか。」彦之は聞き入れず、散乱敗走して帰還した。太祖はこれを聞いて良しとし、江夏王劉義恭の征北行参軍・北高平太守に補した。禁制品を運んだ罪で尚方に拘束されたが、長らくして赦された。また衡陽王劉義季の征北長流参軍に補され、宣威将軍・鍾離太守に昇進した。

原文護之少倜儻,不拘小節,形狀短陋,而氣榦強果。從高祖征司馬休之,為世子中軍府長史,兼行參軍。永初中,補奉朝請。元嘉初,為殿中將軍。隨到彥之北伐,彥之將回師,護之為書諫曰:「外聞節下欲回師反斾,竊所不同。何者?殘虜畏威,望風奔迸,八載侵地,不戰克復。方當長驅朔漠,窮掃遺醜,況乃自送,無假遠勞。宜使竺靈秀速進滑臺助朱脩之固守,節下大軍進擬河北,則牢、洛遊魂,自然奔退。且昔人有連年攻戰,失眾乏糧者,猶張膽爭前,莫肯輕退。況今青州豐穰,濟漕流通,士馬飽逸,威力無損。若空棄滑臺,坐喪成業,豈是朝廷受任之旨。」彥之不納,散敗而歸。太祖聞而善之,以補江夏王義恭征北行參軍、北高平太守。以載禁物繫尚方,久之蒙宥。又補衡陽王義季征北長流參軍,遷宣威將軍、鍾離太守。

王玄謨に従って黄河に入り、玄謨が滑臺を攻撃した時、護之は百艘の船で前鋒となり、進んで石済を占拠した。石済は滑臺の西南百二十里にあった。虜の援軍が到着すると、また急使を出して玄謨に急攻を勧め、言った。「昔、武皇(劉裕)が広固を攻めた時も、戦死者は多かった。況や事態は昔とは異なり、どうして兵士の傷病疲労を計算できようか。どうか城を屠ることを急務とされるよう願います。」聞き入れられなかった。玄謨が敗退した時、護之に知らせる暇がなかった。護之が知った時には、虜は既に玄謨の水軍の大船を全て引き寄せ、三重の鉄鎖で黄河を遮断し、護之の帰路を絶とうとしていた。河水は流れが速く、護之は中流を下り、鉄鎖に至るたびに長柄の斧でこれを断ち切ったので、虜は防ぐことができなかった。ただ一艦を失っただけで、残りの艦は全て無事であった。靡溝城に留まって守備した。

原文隨王玄謨入河,玄謨攻滑臺,護之百舸為前鋒,進據石濟。石濟在滑臺西南百二十里。及虜救至,又馳書勸玄謨急攻,曰:「昔武皇攻廣固,死沒者亦眾。況事殊曩日,豈得計士眾傷疲,願以屠城為急。」不從。玄謨敗退,不暇報護之。護之聞知,而虜悉已牽玄謨水軍大艚,連以鐵鏁三重斷河,欲以絕護之還路。河水迅急,護之中流而下,每至鐵鏁,以長柯斧斷之,虜不能禁。唯失一舸,餘舸並全。留戍靡溝城。

帰還して江夏王劉義恭の驃騎ひょうき戸曹参軍となり、淮陰を守備した。建武将軍を加えられ、済北太守を兼任した。二千人を率いて再び張永に従い碻磝を攻撃し、先に委粟津を占拠した。虜の杜道儁と偽尚書の伏連が碻磝救援に来たが、護之はこれを防ぎ、賊は軍を率いて東へ去った。蕭思話が護之に命じて軍を迎えに梁山まで行かせると、偽尚書の韓元興が精鋭騎兵を率いて突然到着した。護之は険地に依って防戦し、その都軍長史を斬り、甲冑を着た首級数十を挙げ、賊はようやく退却した。思話が軍を引き返そうとした時、護之を欺いて言った。「沈慶之の救援軍がまさに到着しようとしている。急いで済口に橋を架けよ。」護之はその意を推し量り、すぐに白丁(平民の兵士)を分遣した。思話はまた、黄河を渡って乞活堡を守備させ、追撃軍を防がせた。三十年春、太祖が崩御すると、歴下に戻って駐屯した。世祖が討伐に入ったと聞き、配下を率いて急行して赴いた。上はこれを嘉し、督冀州青州之済南楽安太原三郡諸軍事・寧遠将軍・冀州刺史に任じた。

原文還為江夏王義恭驃騎戶曹參軍,戍淮陰。加建武將軍,領濟北太守。率二千人復隨張永攻碻磝,先據委粟津。虜杜道儁與偽尚書伏連來援碻磝,護之拒之,賊因引軍東去。蕭思話遣護之迎軍至梁山,偽尚書韓元興率精騎卒至,護之依險拒戰,斬其都軍長史,甲首數十,賊乃退。思話將引還,誑護之云:「沈慶之救軍垂至,可急於濟口立橋。」護之揣知其意,即分遣白丁。思話復令度河戍乞活堡以防追軍。三十年春,太祖崩,還屯歷下。聞世祖入討,率所領馳赴,上嘉之,以為督冀州青州之濟南樂安太原三郡諸軍事、寧遠將軍、冀州刺史。

孝建元年、南郡王劉義宣が反乱を起こした。兗州刺史の徐遺宝は、護之の妻の弟であり、遠くから連絡を取り合い、護之に手紙を送り、共に逆らうよう勧めた。護之は急使を走らせてこれを報告した。遺宝は当時湖陸を守備していた。護之は子の恭祖を歴城に留めて守らせ、自ら歩騎を率いて遺宝を急襲した。道中、鄒山を通り、その別働隊の守備を破った。湖陸まで六十里の地点に至らないうちに、遺宝は城を焼いて西へ逃走した。

原文孝建元年,南郡王義宣反,兗州刺史徐遺寶,護之妻弟也,遠相連結,與護之書,勸使同逆。護之馳使以聞。遺寶時戍湖陸,護之留子恭祖守歷城,自率步騎襲遺寶。道經鄒山,破其別戍。未至湖陸六十里,遺寶焚城西走。

兗州の地が平定された後、游撃将軍に召し出された。沈慶之らに従って魯爽を討ち、輔国将軍を加えられた。劉義宣が大軍を率いて梁山に至り、王玄謨と対峙した。柳元景は張興世(護之)とその弟の詢之、柳叔仁、鄭琨らの諸軍を率いて新亭に出鎮した。王玄謨は賊軍の強盛を見て、司馬の管法済を遣わして緊急に救援を求めた。皇帝(孝武帝)は柳元景らを派遣して南州を占拠させ、張興世の水軍を先発させた。賊は将の龐法起を遣わして軍勢を率いて姑孰こじゅくを襲撃したが、ちょうど張興世と鄭琨らが到着したところで、奮撃してこれを大破し、斬り取ったり捕らえたり、あるいは水に投じて死んだ者はほぼ全滅した。王玄謨は急使を走らせて柳元景に告げた。「西城は守れず、東城だけが残っている。兵力の差は大きい。姑孰に退き、改めて進撃の策を議論したい。」柳元景は許さず、全軍を率いて救援に向かおうとしたが、張興世は軍を分けて援軍を送るよう勧めた。柳元景はその計略を認め、精兵を張興世に付けて梁山に向かわせた。戦いが始まると、張興世は賊の舟艦が重なり合っているのを見て、王玄謨に言った。「今、火攻めでこれを平定すべきです。」すぐに隊主の張談らに賊の艦船を焼かせた。風は強く水の流れは急で、賊軍はこれによって敗走した。梁山が平定されると、張興世は軍を率いて追討し、朱脩之がすでに江陵を平定したと聞き、尋陽まで進んで引き返した。督徐兗二州豫州之梁郡諸軍事・寧朔将軍・徐州刺史に遷り、益陽県侯に封ぜられ、食邑千戸を与えられた。

原文兗土既定,徵為游擊將軍。隨沈慶之等擊魯爽,加輔國將軍。義宣率大眾至梁山,與王玄謨相持。柳元景率護之及護之弟詢之、柳叔仁、鄭琨等諸軍,出鎮新亭。玄謨見賊強盛,遣司馬管法濟求救甚急。上遣元景等進據南州,護之水軍先發。賊遣將龐法起率眾襲姑孰,適值護之、鄭琨等至,奮擊,大破之,斬獲及投水死略盡。玄謨馳信告元景曰:「西城不守,唯餘東城,眾寡相懸,請退還姑孰,更議進取。」元景不許,將悉眾赴救,護之勸分軍援之。元景然其計,乃以精兵配護之赴梁山。及戰,護之見賊舟艦累沓,謂玄謨曰:「今當以火平之。」即使隊主張談等燒賊艦,風猛水急,賊軍以此奔散。梁山平,護之率軍追討,會朱脩之已平江陵,至尋陽而還。遷督徐兗二州豫州之梁郡諸軍事、寧朔將軍、徐州刺史,封益陽縣侯,食邑千戶。

弟の詢之は、勇猛で気力に満ちていた。元凶の劉劭はかねてからその名を聞いており、輔国将軍張柬の副将とした。当時、張超が真っ先に大逆を行い、やはり軍を率いて張柬に隷属していた。詢之は彼を殺そうと計画したが、張柬が同意しないことを懸念した。張柬も以前からこの考えを持っていたが、詢之が同意するかどうか測りかねて、互いに様子をうかがっていた。ちょうど張超が事を論じに来た時、張柬の顔色が変わったのを詢之は察知し、すぐに共に謀を定め、使者を送って張超を召し出した。張超は疑って来ず、宿所を別の場所に変えた。詢之は彼が移動したことを知らず、直接斬りつけ、その僕を寝台の上で殺した。そこで張柬と共に南へ逃亡した。張柬は淮水で溺れ死に、詢之はたどり着くことができた。当時、世祖(孝武帝)はすでに即位しており、彼を積弩将軍とした。梁山の戦いで力戦し、流れ矢に当たって死んだ。追贈して冀州刺史とした。

原文弟詢之,驍敢有氣力,元凶夙聞其名,以副輔國將軍張柬。時張超首行大逆,亦領軍隸柬。詢之規殺之,慮柬不同,柬宿有此志,又未測詢之同否,互相觀察。會超來論事,柬色動,詢之覺之,即共定謀,遣信召超。超疑之不至,改宿他所。詢之不知其移,逕斫之,殺其僕於牀,因與柬南奔。柬溺淮死,詢之得至。時世祖已即位,以為積弩將軍。梁山之役力戰,為流矢所中,死,追贈冀州刺史。

大明二年、張興世は功績の論議で私情を挟んだ罪により、官を免ぜられた。再び游撃将軍となった。まもなく大司馬、輔国将軍に遷り、南東海太守を兼ねた。拝命しないうちに、再び督青冀二州諸軍事・寧遠将軍・青冀二州刺史となり、歴城に鎮した。翌年、寧朔将軍に進号し、督徐州之東莞東安二郡軍事を加えられた。世祖は歴下が要害の地であるため、青州を移して歴城に併鎮させようと考えたが、議論する者の多くは異を唱えた。張興世は言った。「青州の北には黄河と済水があり、また多くの沼沢地があって、虜(北魏)の侵攻する方向ではありません。侵攻して略奪する時は必ず歴城を通ります。二州を併鎮することは、長期的な方略です。北はまた黄河に近く、帰順する者も容易で、近くでは民の憂いを鎮め、遠くでは王威を示す、辺境を安定させる最上の計略です。」これによって方針が定まった。

原文二年,護之坐論功挾私,免官。復為游擊將軍。俄遷大司馬,輔國將軍,領南東海太守。未拜,復督青冀二州諸軍事、寧遠將軍、青冀二州刺史,鎮歷城。明年,進號寧朔將軍,進督徐州之東莞東安二郡軍事。世祖以歷下要害,欲移青州并鎮歷城,議者多異。護之曰:「青州北有河、濟,又多陂澤,非虜所向。每來寇掠,必由歷城,二州并鎮,此經遠之略也。北又近河,歸順者易,近息民患,遠申王威,安邊之上計也。」由是遂定。

大明三年、右衛将軍に召し出された。帰還の途中、司空しくうの竟陵王劉誕が広陵で反乱を起こしたと聞き、張興世はすぐに私兵を率いて車騎大將軍沈慶之の指揮を受けた。事件が平定されると、西陽王劉子尚の撫軍司馬・臨淮太守に転じた。翌年、使持節・督豫司二州諸軍事・輔国将軍・豫州刺史・淮南太守として出向した。再び沈慶之に隷属して西陽の蛮を討伐した。張興世の赴任した地では多く収奪を行い、賄賂の品物が蓄積された。大明七年、罪に問われて獄に下され、官を免ぜられた。翌年、再び起用されて太中大夫となったが、拝命しないうちにその年に死去した。享年七十。諡は壮侯。前廃帝の永光元年、冠軍かんぐん将軍・豫州刺史を追贈された。

原文大明三年,徵為右衞將軍。還,於道聞司空竟陵王誕於廣陵反叛,護之即率部曲受車騎大將軍沈慶之節度。事平,轉西陽王子尚撫軍司馬、臨淮太守。明年,出為使持節、督豫司二州諸軍事、輔國將軍、豫州刺史、淮南太守。復隸沈慶之伐西陽蠻。護之所莅多聚斂,賄貨充積。七年,坐下獄,免官。明年,復起為太中大夫,未拜,其年卒,時年七十,諡曰壯侯。前廢帝永光元年,追贈冠軍將軍、豫州刺史。

子の承祖が後を嗣いだ。承祖が没すると、子の顕宗が嗣いだ。斉が禅譲を受けると、封国は除かれた。張興世の次男の恭祖は、勇猛果断で父の気風があった。太宗(明帝)の泰始初年、軍功によって梁・南秦二州刺史となった。

原文子承祖嗣。承祖卒,子顯宗嗣。齊受禪,國除。護之次子恭祖,勇果有父風。太宗泰始初,以軍功為梁、南秦二州刺史。

張遵の子の閬は、元嘉年間に員外散騎侍郎となった。母の墓が東阿寺の道人曇洛らによって暴かれたため、閬は弟の殿中將軍閎と共に曇洛ら五人を殺し、役所に出頭して罪を認めたが、許された。閬は、大明三年に義興太守から寧朔将軍・兗州刺史となったが、竟陵王劉誕に殺害された。征虜将軍を追贈され、刺史の官はそのままとした。

原文遵子閬,元嘉中,為員外散騎侍郎。母墓為東阿寺道人曇洛等所發,閬與弟殿中將軍閎共殺曇洛等五人,詣官歸罪,見原。閬,大明三年,自義興太守為寧朔將軍、兗州刺史,為竟陵王誕所殺。追贈征虜將軍,刺史如故。

閎は、順帝の昇明末年、右衛将軍となった。

原文閎,順帝昇明末,右衞將軍。

張興世、字は文德、竟陵郡竟陵県の人である。本来は単名で世といったが、太宗(明帝)が興世と増やした。若い頃は家が貧しく、南郡の宗珍之が竟陵郡太守となった時、張興世は彼に寄寓して客となった。竟陵には以前から軍府が置かれており、参軍督護に補されようとしたが就任しなかった。白衣(無官)のまま王玄謨に従って蛮を討伐し、戦うごとに捕虜や戦利品を得たので、王玄謨の旧来の部曲ぶきょくの諸将も及ばず、大いに驚かせた。都に戻ると、太祖(文帝)に報告し、その胆力を称えた。

原文張興世字文德,竟陵竟陵人也。本單名世,太宗益為興世。少時家貧,南郡宗珍之為竟陵郡,興世依之為客。竟陵舊置軍府,以補參軍督護,不就。白衣隨王玄謨伐蠻,每戰,輒有禽獲,玄謨舊部曲諸將不及也,甚奇之。還都,白太祖,稱其膽力。

その後、世祖(孝武帝)に従って尋陽に鎮し、南中郎参軍督護に補された。元凶(劉劭)討伐に参加し、柳元景に隷属して前鋒となり、事件が平定された。員外将軍に転じ、従隊を率いた。南郡王劉義宣が反乱すると、また王玄謨に従って梁山に出陣し、戦功を立てた。建平王劉宏の中軍行参軍に任じられ、長刀を率いた。また西陽王劉子尚に隷属して直衛となった。従子の劉子尚に従って宮城に入った際、武器を捨てて逃走した罪により、獄に下され官を免ぜられた。再び白衣の身分で直衛に充てられた。

原文後隨世祖鎮尋陽,以補南中郎參軍督護。入討元凶,隸柳元景為前鋒,事定。轉員外將軍,領從隊。南郡王義宣反,又隨玄謨出梁山,有戰功。除建平王宏中軍行參軍,領長刀。又隸西平王子尚為直衞。坐從子尚入臺,棄仗游走,下獄免官。復以白衣充直衞。

大明末年、員外散騎侍郎に任じられ、引き続き宣威将軍・随郡太守に任じられた。赴任しないうちに、太宗(明帝)が即位し、四方で反乱が起こった。張興世は龍驤将軍に進号し、水軍を率いて赭圻しゃきで南方の賊軍を防いだ。湖口に二つの城を築き、偽の龍驤将軍陳慶が舟を率いて前衛として游軍となった。張興世は龍驤将軍の佼長生・董凱之を率いて二城を攻め落とし、陳慶を攻撃した。陳慶は大敗し、水に投じて死んだ者は数千人に及んだ。当時、朝廷軍は赭圻を占拠し、南方の賊軍は鵲尾じゃくびに駐屯し、長期にわたって対峙し決着がつかなかった。張興世は建議して言った。「賊は上流を占拠し、兵は強く地勢は有利です。我々は今、対峙するには余裕がありますが、敵を制圧するには不足しています。今、もし数千の兵を率いて密かにその上流に出て、険しい地形に拠って自らを固め、状況に応じて遮断すれば、賊の首尾は周章狼狽し、進退は疑い沮喪するでしょう。中流を一つ塞げば、糧食の輸送は自然と困難になります。賊を制する奇策は、これに過ぎるものはありません。」沈攸之と呉喜はともにその計略に賛同した。当時、豫州刺史の殷琰が寿陽に拠って同様に叛逆し、劉勔に攻撃されていた。南方の賊軍は龐孟虯に軍を率いさせて殷琰を助けさせ、劉勔は使者を送って緊急に救援を求めてきた。建安王劉休仁りゅうきゅうじんは張興世を派遣して救援させようと考え、沈攸之に意見を求めた。沈攸之は言った。「孟虯は蟻のような賊寇で、必ずや為すところはないでしょう。別将に馬兵・歩兵数千を派遣すれば、十分に制圧できます。もし万一のことがあれば、しばらく江西を餌にしましょう。上流の作戦が成功すれば、殲滅を憂うることはありません。張興世の出撃は、安危の重大な機会であり、必ずや中止すべきではありません。」そこで段仏栄らを派遣して劉勔を救援させた。

原文大明末,除員外散騎侍郎,仍除宣威將軍、隨郡太守。未行,太宗即位,四方反叛。進興世號龍驤將軍,領水軍,距南賊於赭圻。築二城於湖口,偽龍驤將軍陳慶領舸於前為游軍。興世率龍驤將軍佼長生、董凱之攻克二城,因擊慶,慶戰大敗,投水死者數千人。時臺軍據赭圻,南賊屯鵲尾,相持久不決。興世建議曰:「賊據上流,兵強地勝。我今雖相持有餘,而制敵不足。今若以兵數千,潛出其上,因險自固,隨宜斷截,使其首尾周遑,進退疑沮,中流一梗,糧運自艱。制賊之奇,莫過於此。」沈攸之、吳喜並贊其計。時豫州刺史殷琰據壽陽同逆,為劉勔所攻,南賊遣龐孟虯率軍助琰,劉勔遣信求援甚急。建安王休仁欲遣興世救之,問沈攸之。攸之曰:「孟虯蟻寇,必無能為。遣別將馬步數千,足以相制。若有意外,且以江西餌之。上流若捷,不憂不殄。興世之行,是安危大機,必不可輟。」乃遣段佛榮等援勔。

興世は配下の兵を率いて大雷を直接攻め取ろうと考えたが、軍勢がまだ集まっておらず、兵力を分散させるには不足していた。ちょうど薛索児が平定され、太宗が張永に歩兵と騎兵五千を率いて盱眙に駐屯させ、残りの兵二万人をすべて南方討伐に派遣した。山陽もまたまもなく平定され、阮佃夫げんでんふが率いる諸軍を徴発し、すべて南方討伐に戻し、諸軍は大いに集結した。そこで戦士七千を興世に配属し、興世は軽快な船を川を遡上させ、すぐにまた戻らせ、一二日のうちに、しばしばこのように繰り返し、賊に備えさせないようにした。劉胡は興世が上流へ向かおうとしていると聞き、笑って言った。「私でさえまだ彼らの下流を越えて揚州を取ることはできないのに、張興世は何者だ、軽々しく我が上流を占拠しようとするとは!」興世は攸之らに言った。「上流ではただ錢谿だけが占拠できる。地勢は険要で、川幅も非常に狭く、大軍から遠くなく、応援も難しくない。川には渦巻きがあり、船は下ってくれば必ず停泊する。岸には横たわる入り江があり、船を隠すことができる。二、三隻が適当だ。」そこで夜に湖口を渡り、鵲頭に至り、また戻って下流へ向かうふりをして疑わせた。その夜の四更、風に乗り、帆を上げてまっすぐ前進した。賊もまた胡霊秀ら諸軍を派遣し、東岸に沿って翼を広げるように上ってきた。興世は夕方に景江浦に宿営したが、賊も進軍しなかった。夜中にひそかに黄道標に七十隻の船を率いさせ、まっすぐ錢谿を占拠し、城柵を築いて陣営を立てさせた。翌朝、興世は軍とともに一斉に集結した。一晩留まると、劉胡自ら水軍と歩兵二十六軍を率いて夜明けに攻めてきた。将士は迎撃しようとしたが、興世は禁じて言った。「賊はまだ遠く、気勢は盛んで矢は激しい。激しさは力尽きれば、盛んな勢いもまた衰えやすい。これが曹劌が斉を破った理由だ。」将士に妄動を禁じ、これまで通り城の整備を続けさせた。やがて賊が次第に近づき、船が渦巻きに入ると、興世は寿寂之じゅじゃくしと任農夫に壮士数百を率いて攻撃させ、諸軍が相次いで進軍し、胡はついに敗走した。数百の首級を斬り、水に飛び込む者も多く、胡は軍を収めて下流へ退いた。

原文興世欲率所領直取大雷,而軍旅未集,不足分張。會薛索兒平定,太宗使張永以步騎五千留戍盱眙,餘眾二萬人悉遣南討。山陽又尋平,徵阮佃夫所領諸軍,悉還南伐,眾軍大集。乃分戰士七千配興世,興世乃令輕舸泝流而上,旋復回還,一二日中,輒復如此,使賊不為之備。劉胡聞興世欲上,笑之曰:「我尚不敢越彼下取揚州,張興世何物人,欲輕據我上!」興世謂攸之等曰:「上流唯有錢谿可據,地既險要,江又甚狹,去大眾不遠,應赴無難。江有洄洑,船下必來泊,岸有橫浦,可以藏船舸,二三為宜。」乃夜渡湖口,至鵲頭,因復回下疑之。其夜四更,值風,仍舉颿直前。賊亦遣胡靈秀諸軍,於東岸相翼而上。興世夕住景江浦宿,賊亦不進。夜潛遣黃道標領七十舸,徑據錢谿,營立城柴。明旦,興世與軍齊集。停一宿,劉胡自領水步二十六軍平旦來攻。將士欲迎擊之,興世禁曰:「賊來尚遠,而氣盛矢驟,驟既力盡,盛亦易衰,此曹劌之所以破齊也。」令將士不得妄動,治城如故。俄而賊來轉近,舫入洄洑,興世乃命壽寂之、任農夫率壯士數百擊之,眾軍相繼進,胡於是敗走。斬級數百,投水者甚眾,胡收軍而下。

当時、興世の城塁はまだ堅固ではなかった。司徒しと建安王休仁は賊が力を合わせて再び錢谿を攻めることを憂慮し、その勢力を分散させようと、沈攸之、呉喜、佼長生、劉霊遺らに皮で覆った艦二十隻で賊の濃湖のうこを攻撃させ、数日にわたる激戦の末、千を数える斬首と捕獲を得た。この日、劉胡は果たして諸軍を率いて、再び興世を攻撃しようとした。錢谿まで数十里のところで、袁顗えんぎが濃湖の危急を理由に急いで追い返したため、錢谿の城柵はこれによって築くことができた。賊は連戦して次第に敗北し、興世はさらにその糧道を遮断した。尋陽から派遣された補給が南陵に到着したが、下流へ進むことができず、賊の兵士は次第に飢えた。劉胡はそこで袁顗の安北府司馬、偽の右軍である沈仲玉に千人を率いて陸路で南陵を攻め取り、食糧補給を迎え入れさせた。仲玉は南陵に到着し、米三十万斛こく、銭と布を積んだ数十隻の船を引き取り、掲げた板で城とし、突破して通過しようと計画した。貴口まで来たが、進むことができず、密使を派遣して劉胡に報告し、重軍を派遣して援護・接応するよう命じた。興世、寿寂之、任農夫、李安民ら三千人が貴口に到着してこれを攻撃し、仲玉と遭遇した。一日中交戦し、仲玉は敗走して袁顗の陣営に戻り、その物資と実利はすべて奪われ、賊軍は大敗し、劉胡は軍を捨てて逃走し、袁顗もまた逃亡して散り散りになった。興世は軍を率いて追討し、呉喜とともに江陵を平定した。左軍将軍に昇進し、まもなく豫州・司州の二州および南豫州の梁郡諸軍事を監督し、作唐県侯に封ぜられ、食邑千戸を与えられた。

原文時興世城壘未固,司徒建安王休仁慮賊并力更攻錢谿,欲分其形勢,命沈攸之、吳喜、佼長生、劉靈遺等以皮艦二十,攻賊濃湖,苦戰連日,斬獲千數。是日,劉胡果率眾軍,欲更攻興世。未至錢谿數十里,袁顗以濃湖之急遽追之,錢溪城柴由此得立。賊連戰轉敗,興世又遏其糧道,尋陽遣運至南陵,不敢下,賊眾漸饑。劉胡乃遣顗安北府司馬、偽右軍沈仲玉領千人步取南陵,迎接糧運。仲玉至南陵,領米三十萬斛,錢布數十舫,豎榜為城,規欲突過。行至貴口,不敢進,遣間信報胡,令遣重軍援接。興世、壽寂之、任農夫、李安民等三千人至貴口擊之,與仲玉相值。交戰盡日,仲玉走還顗營,悉虜其資實,賊眾大敗,胡棄軍遁走,顗仍亦奔散。興世率軍追討,與吳喜共平江陵。遷左軍將軍,尋為督豫司二州南豫州之梁郡諸軍事,封作唐縣侯,食邑千戶。

游撃将軍として召還された。海路から北伐し、輔国将軍の仮号を与えられ、節と属官を加えられたが、功績なく帰還した。四年、太子右衞率に転じ、また本官のまま驍騎ぎょうき将軍を兼任し、左衞将軍沈攸之とともに員数を置いて参画した。五年、左衞将軍に転任。六年、中領軍劉勔が広陵を鎮守することになり、興世が暫定的に領軍を兼任した。泰豫元年、持節・雍梁南北秦郢州えいしゅうの竟陵随二郡諸軍事・冠軍将軍・雍州刺史に任ぜられ、まもなく寧蛮校尉を加えられた。桂陽王休範が反乱を起こすと、興世は軍を派遣して朝廷に赴かせようとしたが、出発しないうちに事態が平定され、征虜将軍の号を進められた。廃帝元徽三年、通直散騎常侍・左衞将軍として召還された。五年、病気により光禄大夫に転じ、常侍の職は以前の通りとした。順帝昇明二年、死去。享年五十九歳。本官を追贈された。

原文徵為游擊將軍。海道北伐,假輔國將軍,加節置佐,無功而還。四年,遷太子右衞率,又以本官領驍騎將軍,與左衞將軍沈攸之參員置。五年,轉左衞將軍。六年,中領軍劉勔當鎮廣陵,興世權兼領軍。泰豫元年,為持節、督雍梁南北秦郢州之竟陵隨二郡諸軍事、冠軍將軍、雍州刺史,尋加寧蠻校尉。桂陽王休範反,興世遣軍赴朝廷,未發而事平,進號征虜將軍。廢帝元徽三年,徵為通直散騎常侍、左衞將軍。五年,以疾病徙光祿大夫,常侍如故。順帝昇明二年,卒,時年五十九。追贈本官。

興世は臨沔水に住んでいた。沔水は襄陽から下流、九江に至る二千里の間に、以前は洲や島はなかった。興世が生まれた時、その門前の水中に、ある朝突然洲が生じ、年々次第に大きくなり、興世が地方長官となる頃には、洲はすでに十余頃になっていた。父の仲子は、興世のおかげで給事中きゅうじちゅうの地位を得た。興世が彼を襄陽に連れて行こうとしたが、郷里を愛着して離れようとしなかった。かつて興世に言った。「私は田舎の老爺だが、鼓角の音を聞くのが好きだ。一部を送ってくれ、田畑を巡るときに吹かせてくれ。」興世はもともと恭順で法を畏れていたので、たとえて言った。「これは天子の鼓角であって、田舎の老爺が吹くものではない。」興世が墓参りをしようとすると、仲子は言った。「お前の護衛や従者が多すぎる。先祖はきっと驚き恐れるだろう。」興世はそれを減らしてから出かけた。

原文興世居臨沔水,沔水自襄陽以下,至于九江,二千里中,先無洲嶼。興世初生,當其門前水中,一旦忽生洲,年年漸大,及至興世為方伯,而洲上遂十餘頃。父仲子,由興世致位給事中。興世欲將往襄陽,愛戀鄉里,不肯去。嘗謂興世:「我雖田舍老公,樂聞鼓角,可送一部,行田時吹之。」興世素恭謹畏法憲,譬之曰:「此是天子鼓角,非田舍老公所吹。」興世欲拜墓,仲子謂曰:「汝衞從太多,先人必當驚怖。」興世減撤而後行。

興世の子の欣業が封を継ぐはずであったが、ちょうど斉が禅譲を受けたため、封国は除かれた。

原文興世子欣業,當嗣封,會齊受禪,國除。