宋書

列伝第九 孫処、蒯恩、劉鍾、虞丘進

列伝第九 孫処、蒯恩、劉鍾、虞丘進

孫処は字あざなを季高といい、会稽郡永興県の人である。戸籍には季高と記載されているため、字が世に行われた。若い頃は気性が荒かった。高祖が孫恩を東征したとき、季高は義に感じて喜んで従い、高祖が京邑を平定すると、振武将軍に任じられ、新夷県五等侯に封じられた。広固の戦いでは、先鋒として功績を挙げた。

原文孫處字季高,會稽永興人也。籍注季高,故字行於世。少任氣。高祖東征孫恩,季高義樂隨,高祖平定京邑,以為振武將軍,封新夷縣五等侯。廣固之役,先登有功。

盧循の乱では、石頭せきとうに柵を築いて守り、越城と査浦を守備し、新亭で賊を破った。高祖は季高に言った。「この賊は敗走しようとしている。まずその巣窟を覆滅し、逃走する際に帰投する場所がないようにすべきだ。卿でなければこの任を果たせない。」季高に兵三千を率いさせ、海路で番禺を急襲させた。当初、賊は海路からの攻撃を防備しておらず、季高が東衝に到着し、城から十余里の地点に至っても、城内はまだ知らなかった。盧循の守備兵はなお数千人おり、城郭は非常に堅固であった。季高はまず船艦を焼き、全力で上陸し、ちょうど大霧が立ち込め、四方から城に攻め寄せ、その日のうちに陥落させた。盧循の父の嘏、長史の孫建之、司馬の虞尫夫らは、軽舟で始興に逃れた。すぐに振武将軍の沈田子らを分遣して、始興、南康、臨賀、始安など嶺南の諸郡を討伐平定した。盧循は左里から逃走したが、兵力はなお盛んであり、嶺南の道から引き返して広州を襲撃した。季高は二十余日にわたって防戦し、盧循はついに敗走し、殺害された者は一万余人に及び、鬱林まで追撃したが、季高が病気にかかったため、徹底的に討伐できず、盧循は交州へと逃走することができた。

原文盧循之難,於石頭扞柵,戍越城、查浦,破賊於新亭。高祖謂季高曰:「此賊行破。應先傾其巢窟,令奔走之日,無所歸投,非卿莫能濟事。」遣季高率眾三千,汎海襲番禺。初,賊不以海道為防,季高至東衝,去城十餘里,城內猶未知。循守戰士猶有數千人,城池甚固。季高先焚舟艦,悉力登岸,會天大霧,四面陵城,即日克拔。循父嘏、長史孫建之、司馬虞尫夫等,輕舟奔始興。即分遣振武將軍沈田子等討平始興、南康、臨賀、始安嶺表諸郡。循於左里奔走,而眾力猶盛,自嶺道還襲廣州。季高距戰二十餘日,循乃破走,所殺萬餘人,追奔至鬱林,會病,不得窮討,循遂得走向交州。

義熙七年四月、季高は晋康で死去した。時に五十三歳。龍驤将軍、南海太守たいしゅを追贈され、候官県侯に封じられ、食邑千戸を与えられた。九年、高祖は季高の功績を思い、上表して言った。「孫季高の嶺南における勲功は、すでに褒賞と追贈を受けています。臣はさらに考えますに、盧循は十二年もの間悪を重ね、全域を占拠していました。もしその根本が未だ抜かれず、逃げ込む場所があれば、残党を招集し、なおも脅威となり得たでしょう。遠方への出兵討伐は、朝廷の戦略を煩わせるものでした。しかし季高は万里の海を渡り、激流に身を投じ、波を蹴立て電光のように進み、期日通りに到着し、たちまち南海を平定し、その巣窟を覆滅しました。これにより盧循は進退の拠り所を失い、軽舟で遠くへ逃げ去りました。十日と経たないうちに、妖凶は殲滅されました。掃討の功績は、実に季高が最も大きいのです。往年に追贈したものは、なお十分ではありません。愚考では、さらに一州を追贈し、その本来の官号とすべきです。これにより忠勲が埋もれず、功労ある臣下の奮起を促すでしょう。」重ねて交州刺史ししを追贈し、将軍の位は元の通りとした。子の宗世が死去し、その子の欽公が後を継いだ。欽公が死去し、その子の彦祖が後を継いだ。斉が禅譲を受けると、封国は除かれた。

原文義熙七年四月,季高卒於晉康,時年五十三。追贈龍驤將軍、南海太守,封候官縣侯,食邑千戶。九年,高祖念季高之功,乃表曰:「孫季高嶺南之勳,已蒙褒贈。臣更思惟盧循稔惡一紀,據有全域。若令根本未拔,投奔有所,招合餘燼,猶能為虞,縣師遠討,方勤廟算。而季高汎海萬里,投命洪流,波激電邁,指日遄至,遂奄定南海,覆其巢窟,使循進退靡依,輕舟遠迸。曾不旬月,妖凶殲殄。蕩滌之功,實庸為大。往年所贈,猶為未優。愚謂宜更贈一州,即其本號,庶令忠勳不湮,勞臣增厲。」重贈交州刺史,將軍如故。子宗世卒,子欽公嗣。欽公卒,子彥祖嗣。齊受禪,國除。

蒯恩は字を道恩といい、蘭陵郡承県の人である。高祖が孫恩を征討したとき、県から徴発されて兵士となり、乙士に充てられ、馬の飼料を刈る役目を命じられた。恩は常に大きな束を背負い、他の人々の倍以上の量を運び、しばしば飼料を地面に置いては嘆いて言った。「大丈夫たるもの三石の弓を引き絞るべきなのに、どうして馬の飼料係などに甘んじていられようか!」高祖はこれを聞き、すぐに武器を与えた。恩は大いに喜んだ。妖賊征討以来、常に先鋒を務め、多くの首級を挙げた。戦陣に慣れると、胆力は人並み外れ、誠実で忠実謹直であり、過失を犯したことがなく、非常に寵愛信頼された。婁県の戦いで、左目に矢が当たった。

原文蒯恩字道恩,蘭陵承人也。高祖征孫恩,縣差為征民,充乙士,使伐馬芻。恩常負大束,兼倍餘人,每捨芻於地,歎曰:「大丈夫彎弓三石,柰何充馬士!」高祖聞之,即給器仗,恩大喜。自征妖賊,常為先登,多斬首級。既習戰陣,膽力過人,誠心忠謹,未嘗有過失,甚見愛信。於婁縣戰,箭中左目。

京城平定に従い、京邑平定に進み、寧遠将軍として幢を率いた。振武将軍の道規に従って西討し、桓仙客を捕虜とし、偃月塁を陥落させ、ついに江陵を平定した。義熙二年、賊の張堅が応城を占拠して反乱を起こすと、恩はこれを撃破し、都郷侯に封じられた。広固討伐に従い、また戦功を挙げた。盧循が京邑に迫ると、恩は査浦で戦い、賊を退却させた。王仲徳らとともに南陵で盧循の別将の范崇民を追撃して破った。盧循が広州へ逃走した後、恩はまた千余人を率いて劉藩に従い、始興で徐道覆を追撃し、これを斬った。龍驤将軍、蘭陵太守に昇進した。

原文從平京城,進定京邑,以寧遠將軍領幢。隨振武將軍道規西討,虜桓仙客,克偃月壘,遂平江陵。義熙二年,賊張堅據應城反,恩擊破之,封都鄉侯。從伐廣固,又有戰功。盧循逼京邑,恩戰于查浦,賊退走。與王仲德等追破循別將范崇民於南陵。循既走還廣州,恩又領千餘人隨劉藩追徐道覆於始興,斬之。遷龍驤將軍、蘭陵太守。

高祖が劉毅を西征したとき、恩は王鎮悪とともに軽軍で江陵を急襲した。詳細は鎮悪伝にある。本官のまま太尉たいい長兼行参軍となり、兵二千を率いて益州刺史の朱齢石に従い蜀を伐った。彭模に至り、恩の率いる部隊が前衛を務め、朝から日没まで大戦し、勇気はますます奮い立ち、賊を破って敗走させた。成都平定に進み、行参軍に抜擢され、北至県五等男に改封された。高祖が司馬休之と魯宗之を討伐したとき、恩は建威将軍の徐逵之とともに前進した。逵之が敗死すると、恩は堤防の下に陣を布いた。宗之の子の軌が勝ちに乗じて恩を攻撃し、矢は雨のように降り注ぎ、叫び声は地を震わせたが、恩は将士を整え励まし、陣形を堅固に保った。軌は何度も突撃したが動かず、攻め落とせないと悟って退却した。高祖はその将軍としての慎重さを称賛した。江陵平定後、また石城で魯軌を追撃した。軌は城を捨てて逃走し、恩は襄陽まで追撃し、宗之は羌族のもとへ逃げ、恩は諸将とともに追討して魯陽関に至ってから引き返した。

原文高祖西征劉毅,恩與王鎮惡輕軍襲江陵,事在鎮惡傳。以本官為太尉長兼行參軍,領眾二千,隨益州刺史朱齡石伐蜀。至彭模,恩所領居前,大戰,自朝至日昃,勇氣益奮,賊破走。進平成都,擢為行參軍,改封北至縣五等男。高祖伐司馬休之及魯宗之,恩與建威將軍徐逵之前進。逵之敗沒,恩陳于隄下,宗之子軌乘勝擊恩,矢下如雨,呼聲震地,恩整厲將士,置陣堅嚴。軌屢衝之不動,知不可攻,乃退。高祖善其能將軍持重。江陵平定,復追魯軌於石城。軌棄城走,恩追至襄陽,宗之奔羌,恩與諸將追討至魯陽關乃還。

恩は征討に従って以来、危急の際には常に諸将に先んじ、堅陣を突破することに常に身を投じ、艱難危険を避けなかった。百余りの戦いに身を投じ、重傷を負った。高祖はその前後の功労を記録し、新寧県男に封じ、食邑五百戸を与えた。高祖の世子が征虜将軍となると、恩は大府の属官として中兵参軍を兼ね、府の転任に伴い中兵参軍となった。高祖が北伐する際、恩を留めて世子の侍衛とし、朝士と交わるよう命じた。恩はますます謙虚に振る舞い、人と話すときは常に相手の官位を呼び、自分は「鄙人」と称した。士卒を慰撫し扱うには規律が厳然としており、兵士たちは皆親しみ従った。諮議参軍に昇進し、輔国将軍、淮陵太守に転じた。世子が開府すると、また従事中郎となり、司馬に転じ、将軍、太守の位は元の通りであった。

原文恩自從征討,每有危急,輒率先諸將,常陷堅破陣,不避艱嶮。凡百餘戰,身被重創。高祖錄其前後功勞,封新寧縣男,食邑五百戶。高祖世子為征虜將軍,恩以大府佐領中兵參軍,隨府轉中兵參軍。高祖北伐,留恩侍衞世子,命朝士與之交。恩益自謙損,與人語常呼官位,而自稱為鄙人。撫待士卒,甚有紀綱,眾咸親附之。遷諮議參軍,轉輔國將軍、淮陵太守。世子開府,又為從事中郎,轉司馬,將軍、太守如故。

関中に入り桂陽公の義真を迎えた。義真が青埿まで戻ったとき、仏仏虜に追撃され、恩は後衛を務め、連日力戦した。義真の前軍は潰走し、恩の軍兵も尽き、虜に捕らえられ、虜の地で死去した。子の国才が後を継いだ。国才が死去し、その子の慧度が後を継いだ。慧度が死去し、子がなかったため、封国は除かれた。

原文入關迎桂陽公義真。義真還至青埿,為佛佛虜所追,恩斷後,力戰連日。義真前軍奔散,恩軍人亦盡,為虜所執,死於虜中。子國才嗣。國才卒,子慧度嗣。慧度卒,無子,國除。

劉鍾は字を世之といい、彭城ほうじょう郡彭城県の人である。幼くして孤児となり、同郷人の中山太守劉回に寄り添って共に暮らした。幼い頃から志と気力があり、常に貧賤の身分を慷慨していた。隆安四年、高祖が孫恩を討伐したとき、鍾は従軍を願い出て、余姚、浹口から句章、海塩、婁県を攻め、いずれも堅陣を破り、常に戦功を挙げた。劉牢之の鎮北参軍督護となった。高祖が軍事行動を行うたびに、鍾は困難な任務を辞さず、専心尽力したため、非常に寵愛信頼された。

原文劉鍾字世之,彭城彭城人也。少孤,依鄉人中山太守劉回共居。幼有志力,常慷慨於貧賤。隆安四年,高祖伐孫恩,鍾願從餘姚、浹口攻句章、海鹽、婁縣,皆摧堅陷陣,每有戰功。為劉牢之鎮北參軍督護。高祖每有戎事,鍾不辭艱劇,專心盡力,甚見愛信。

義軍の旗揚げが行われようとするとき、高祖は鍾を郡主簿に任命した。翌日、高祖に従って京城に入った。京邑に向かおうとしたとき、高祖は命じて言った。「彭城・沛の郷人で義に赴く者は、皆劉主簿に従え。」そこで義隊が組織され、鍾は常に高祖の側におり、連戦連勝した。翌日、桓謙が東陵に駐屯し、卞範之が覆舟山の西に駐屯した。高祖は賊に伏兵があるのではないかと疑い、左右を見回すと、ちょうど鍾が目に入り、彼に言った。「この山下に伏兵がいるはずだ。卿は部下を率いて少し進んでこれを掃討せよ。」鍾は声に応じて駆け進み、果たして伏兵数百がおり、一斉に逃走した。桓玄が西へ逃走したその夜、高祖は桓謙の旧営に留まり、鍾を派遣して東府を占拠させ宿営させた。鎮軍参軍督護に転じた。桓歆が歴陽を侵すと、鍾を派遣して豫州刺史の魏詠之を助け討伐させ、歆はすぐに逃走した。南斉国内史に任じられ、安丘県五等侯に封じられた。自ら事情を申し出て、父祖と親族十人の遺骸を改葬し、高祖は多額の資金を支給した。車騎長史に転じ、兼行参軍となった。司馬叔璠が彭城の劉謐、劉懷玉らとともに蕃城から鄒山を攻め、魯郡太守の徐邕が守りを失うと、鍾は軍を率いてこれを討伐平定した。

原文義旗將建,高祖版鍾為郡主簿。明日,從入京城。將向京邑,高祖命曰:「預是彭沛鄉人赴義者,並可依劉主簿。」於是立為義隊,恒在左右,連戰皆捷。明日,桓謙屯于東陵,卞範之屯覆舟山西,高祖疑賊有伏兵,顧視左右,正見鍾,謂之曰:「此山下當有伏兵,卿可率部下稍往撲之。」鍾應聲馳進,果有伏兵數百,一時奔走。桓玄西奔,其夕,高祖止桓謙故營,遣鍾宿據東府,轉鎮軍參軍督護。桓歆寇歷陽,遣鍾助豫州刺史魏詠之討之,歆即奔迸。除南齊國內史,封安丘縣五等侯。自陳情事,改葬父祖及親屬十喪,高祖厚加資給。轉車騎長史,兼行參軍。司馬叔璠與彭城劉謐、劉懷玉等自蕃城攻鄒山,魯郡太守徐邕失守,鍾率軍討平之。

広固征討に従軍した。孟龍符が戦死すると、向鍾は配下を率いて突入し、その遺体を奪い返した。振武将軍・中兵参軍に任じられ、龍符に代わって広川太守を兼任した。盧循が都に迫ると、徐赤特の軍が命令に背き、南岸で敗北した。鍾は配下を率いて柵を守り、重傷を負ったが、賊を侵入させなかった。盧循が南へ逃走すると、鍾は輔国将軍の王仲徳とともにこれを追撃した。盧循は別働隊の范崇民に精鋭と大型艦で南陵を占拠させ、両岸に挟み撃ちの陣を敷いていた。鍾は自ら敵情を偵察に向かったが、霧が立ち込め、賊に船を鉤で捕らえられた。鍾は配下を率いて艦の戸口を攻撃し、賊が急いで戸を閉めて防いだため、ゆっくりと引き返した。仲徳とともに范崇民を攻撃し、崇民は敗走した。鍾は百里にわたって追撃し、その船を焼き払った。また劉藩に従って始興で徐道覆を追撃し、これを斬った。太尉行参軍・寧朔将軍・下邳太守に補任され、孟懐玉に代わって石頭の守備を担当した。

原文從征廣固。孟龍符陷沒,鍾率左右直入,取其尸而反。除振武將軍、中兵參軍,代龍符領廣川太守。盧循逼京邑,徐赤特軍違處分,敗于南岸,鍾率麾下距柵,身被重創,賊不得入。循南走,鍾與輔國將軍王仲德追之。循先留別帥范崇民以精兵高艦據南陵,夾屯兩岸。鍾自行覘賊,天霧,賊鉤得其舸,鍾因率左右攻艦戶,賊遽閉戶距之,鍾乃徐還。與仲德攻崇民,崇民敗走,鍾追討百里,燒其船乘。又隨劉藩追徐道覆於始興,斬之。補太尉行參軍、寧朔將軍、下邳太守。代孟懷玉領石頭戍事。

高祖が劉毅を討伐すると、向鍾は軍を率いて王鎮悪に続いた。江陵が平定されると、引き続き朱齢石に従って蜀を討伐し、前鋒として外水から進軍し、彭模に至った。成都から二百里の地点である。偽の冠軍かんぐん征討督護である譙亢らが両岸に連なる陣営を築き、高層の楼閣と重層の柵を設け、兵数は三万と号していた。当時、向鍾は足の病で歩行が困難であった。齢石は鍾のもとを訪れて相談した。「今は暑さが厳しく、賊は厳重に兵を配置し険阻な地を固めている。攻撃しても必ずしも落とせるとは限らず、ただ疲弊を増すだけである。彼らの士気は動揺しており、長く安定してはいないだろう。しばらく鋭気を養い兵を休ませ、隙をうかがうのがよい。隙に乗じて攻めれば、勝利を得られる。しかし、戦場での決断は本来あなたに委ねられている。あなたの意見はどうか。」鍾は言った。「そうではない。以前、我々は大軍が内水に向かうと宣伝したため、譙道福は涪城を離れられなかった。今、大軍が突然現れ、不意を突いたのだから、蜀の兵はすでに肝を潰している。賊が今、兵を集めて険阻な地を守っているのは、恐れて戦えないからであり、長く堅固に守れるわけではない。彼らの恐怖と動揺に乗じ、全力で攻撃すれば、必ず勝てる勢いである。進軍の太鼓を鳴らして進めば、成都は必ず守れない。もし今、兵を緩めて対峙すれば、彼らは我々の実情を知り、涪城の軍が突然合流して抵抗してくるだろう。士気が安定し、優れた将軍も集まれば、我々は戦いを求めるも得られず、軍糧も尽き、蜀の兵の虜となるだけである。」齢石はこれに従った。翌日、攻撃を開始し、二つの城を陥落させ、大将の侯輝と譙詵を斬り、まっすぐに成都を平定した。

原文高祖討劉毅,鍾率軍繼王鎮惡。江陵平定,仍隨朱齡石伐蜀,為前鋒,由外水,至于彭模,去成都二百里。偽冠軍征討督護譙亢等兩岸連營,層樓重柵,眾號三萬。鍾于時脚疾不能行,齡石乃詣鍾謀曰:「今天時盛熱,而賊嚴兵固險,攻之未必可拔,祇增疲困。計其人情恇撓,必不久安,且欲養銳息兵,以伺其隙。隙而乘之,乃可捷事。然決機兩陳,公本有所委,卿意謂何﹖」鍾曰:「不然。前揚聲言大眾向內水,譙道福不敢舍涪城。今重軍卒至,出其不意,蜀人已破膽矣。賊今阻兵守險,是其懼不敢戰,非能持久堅守也。因其兇懼,盡銳攻之,其勢必克。鼓行而進,成都必不能守矣。今若緩兵相守,彼將知人虛實,涪軍忽并來力距我,人情既安,良將又集,此求戰不獲,軍食無資,當為蜀子虜耳。」齡石從之。明日進攻,陷其二城,斬其大將侯輝、譙詵,逕平成都。

広固での功績により、永新県男に封じられ、食邑五百戸を与えられた。給事中きゅうじちゅう・太尉参軍事・龍驤将軍・高陽内史に昇進し、石頭の守備を兼任した。高祖が司馬休之を討伐した際、前軍将軍の劉道憐が東府に留まって鎮守し、駐屯兵を統率した。冶亭の数百の賊徒が夜襲をかけて鍾の陣営を襲ったが、撃退して破った。当時、大軍が外征に出ており、都は騒然とし不安に陥っていた。鍾はこれを鎮圧できなかったとして、建威将軍に降格された。蜀平定の功績により、四百戸の男爵に封じられるべきところ、先に封爵があったため、戸数を減らして次男の向敬順に高昌県男を賜り、食邑百戸を与えた。まもなく元の龍驤将軍の官号に復帰した。十二年、高祖が北伐すると、再び都に留まって鎮守し、兵力を増強され、さらに府に佐史を置くことを命じられた。荊州刺史の劉道憐が名馬三頭と精巧で美しい馬具を献上すると、高祖はすべて鍾の三人の息子に賜った。十四年、右衛将軍に昇進し、龍驤将軍は元のままとした。元熙元年に死去した。四十三歳であった。

原文以廣固功,封永新縣男,食邑五百戶。遷給事中、太尉參軍事、龍驤將軍、高陽內史,領石頭戍事。高祖討司馬休之,前軍將軍道憐留鎮東府,領屯兵。冶亭羣盜數百夜襲鍾壘,距擊破之。時大軍外討,京邑擾懼,鍾以不能鎮遏,降號建威將軍。平蜀功,應封四百戶男,以先有封爵,減戶以賜次子敬順高昌縣男,食邑百戶。尋復本號龍驤將軍。十二年,高祖北伐,復留鎮居守,增其兵力,又命府置佐史。荊州刺史道憐獻名馬三匹,并精麗乘具,高祖悉以賜鍾三子。十四年,遷右衞將軍,龍驤將軍如故。元熙元年卒,時年四十三。

子の向敬義が後を継いだ。敬義は馬頭太守にまで至り、死去した。子の向国重が後を継いだが、斉が禅譲を受けると封国は廃止された。鍾の次男である高昌男の向敬順は死去し、子の向国須が後を継いだ。須が死去し、子がなかったため、封国は廃止された。

原文子敬義嗣。敬義官至馬頭太守,卒。子國重嗣,齊受禪,國除。鍾次子高昌男敬順,卒,子國須嗣。須卒,無子,國除。

虞丘進は字を豫之といい、東海郡郯県の人である。若い頃、謝玄に従って苻堅を討伐し、功績を挙げて関内侯に封じられた。隆安年間、高祖に従って孫恩を征討し、句章城を守備した。数十日にわたって包囲され、一日として戦わない日はなく、何度も傷を負った。餘姚の呵浦に至り、賊の張驃を破り、海塩の旧治と婁県まで追撃した。蒲濤口で孫恩と水戦し、再び重傷を負った。孫恩を鬱洲まで追撃し、さらに石鹿頭に至り、海塩の大柱に戻り、頻繁に戦って功績を挙げた。元興元年、再び高祖に従って東征し臨海に向かい、石歩固で盧循と二十余日対峙した。二年、再び高祖に従って東陽に至り、徐道覆を破った。その年、また臨松穴で賊を破り、永嘉の千江まで追撃し、さらに安固に至り、幾度もの戦いでいずれも功績を挙げた。

原文虞丘進字豫之,東海郯人也。少時隨謝玄討苻堅,有功,封關內侯。隆安中,從高祖征孫恩,戍句章城,被圍數十日,無日不戰,身被數創。至餘姚呵浦,破賊張驃,追至海鹽故治及婁縣。於蒲濤口與孫恩水戰,又被重創。追恩至鬱洲,又至石鹿頭,還海鹽大柱,頻戰有功。元興元年,又從高祖東征臨海,於石步固與盧循相守二十餘日。二年,又從高祖至東陽,破徐道覆。其年,又至臨松穴破賊,追至永嘉千江,又至安固,累戰皆有功。

三年、京城平定に従軍し、都を平定すると、燕国内史に任じられた。義熙二年、龍驤将軍に任じられ、龍川県五等侯に封じられた。高祖に従って広固を討伐し、臨朐で賊を破った。盧循が都に迫ると、孟昶や諸葛長民らが天子を長江の向こうに避難させることを提案したが、進は朝廷の議論で反対し、面と向かって昶らを論破したため、高祖は大いに賞賛した。樹木を伐採して石頭に柵を築く計略を献じた。鄱陽太守に任じられ、将軍の位は元のままとした。歩兵と騎兵合わせて十八隊を統率し、東路から鄱陽に出撃し、五畝嶠に至った。盧循は部将の英紏を上饒県令として派遣し、千余人で旧城を守らせたが、進攻してこれを破った。盧循はまた童敏之を鄱陽太守として派遣し、郡を占拠させた。進は余干の陸路から鄱陽に向かい、敏之は退却したが、追撃して破り、数百の首級を挙げた。再び劉藩に従って始興に至り、徐道覆を討伐して斬った。

原文三年,從平京城,定京邑,除燕國內史。義熙二年,除龍驤將軍,封龍川縣五等侯。從高祖伐廣固,於臨朐破賊。盧循逼京邑,孟昶、諸葛長民等建議奉天子過江,進廷議不可,面折昶等,高祖甚嘉之。獻計伐樹,樹柵石頭。除鄱陽太守,將軍如故。統馬步十八隊,於東道出鄱陽,至五畝嶠。循遣將英紏為上饒令,千餘人守故城,進攻破之。循又遣童敏之為鄱陽太守,據郡,進從餘干步道趣鄱陽,敏之退走,追破之,斬首數百。復隨劉藩至始興,討斬徐道覆。

八年、寧蛮護軍・尋陽太守に任じられ、文武の官二千人を率いて劉毅征討に従軍した。事態が平定されると、太尉行参軍に補任され、まもなく振威将軍を加えられた。九年、前後の功績により望蔡県男に封じられ、食邑五百戸を与えられ、龍驤将軍を加えられた。司馬休之討伐でも戦功を挙げた。軍が帰還すると、輔国将軍・山陽太守に任じられた。宋の朝廷の令書により秦郡太守に任じられ、陳留郡の事務を監督し、将軍の位は元のままとした。元熙二年、宋王の令書により高祖の第四子である劉義康の右将軍司馬に任じられた。永初二年、太子右衛率に転任した。翌年、在官のまま死去した。六十歳であった。司馬休之討伐の功績が追認され、爵位が子爵に進み、食邑三百戸が加増された。

原文八年,除寧蠻護軍、尋陽太守,領文武二千從征劉毅。事平,補太尉行參軍,尋加振威將軍。九年,以前後功封望蔡縣男,食邑五百戶,加龍驤將軍。討司馬休之,又有戰功。軍還,除輔國將軍、山陽太守。宋臺令書除秦郡太守,督陳留郡事,將軍如故。元熙二年,宋王令書以為高祖第四子義康右將軍司馬。永初二年,遷太子右衞率。明年,卒官,時年六十。追論討司馬休之功,進爵為子,增邑三百戶。

子の虞丘耕が後を継いだ。耕が死去すると、子の虞丘襲祖が後を継いだ。襲祖が死去すると、虞丘世宝が後を継いだ。斉が禅譲を受けると封国は廃止された。

原文子耕嗣。耕卒,子襲祖嗣。襲祖卒,世寶嗣。齊受禪,國除。