宋書

列伝第七 劉懷肅、孟懷玉、劉敬宣、檀祗

列伝第七 劉懷肅、孟懷玉、劉敬宣、檀祗

劉懷肅は彭城ほうじょうの人で、高祖(劉裕)の従母兄(母方のいとこ)である。家は代々貧しかったが、自ら耕作して学問を好んだ。

原文劉懷肅,彭城人,高祖從母兄也。家世貧窶,而躬耕好學。

初め劉敬宣の寧朔府司馬となり、東征して孫恩を討ち、戦功があった。また龍驤司馬、費県令となった。高祖が起義したと聞くと、県を捨てて駆けつけた。京邑が平定されると、振武將軍劉道規が桓玄を追撃し、劉懷肅を司馬とした。桓玄は何澹之、郭銓らを桑落洲に駐留させていたが、進撃してこれを破った。潁川太守たいしゅ劉統が平定されると、高平太守に任じられた。桓玄が死ぬと、その従子の桓振が楊林で義軍を大破し、義軍は尋陽に退いた。劉懷肅は江夏相張暢之とともに西塞で何澹之を攻撃し、これを破った。偽鎮東將軍馮該は夏口の東岸を守り、孟山図は魯山城を占拠し、桓仙客は偃月塁を守り、いずれも連なって相望んでいた。劉懷肅は劉道規とともにこれを攻め、自ら甲冑を身につけて二城を陥落させ、馮該は石城に逃走し、桓仙客を生け捕りにした。義熙元年正月、桓振は敗走し、劉道規は劉懷肅を派遣して石城を平定させ、馮該とその子の馮山靖を斬った。三月、桓振が再び江陵を襲撃すると、荊州刺史しし司馬休之は出奔し、劉懷肅は雲杜から急行し、昼夜兼行で七日間で到着した。桓振は兵三万を率い、旗幟が野を覆い、馬を躍らせ矛を横たえ、自ら陣を突破した。流れ矢が劉懷肅の額を傷つけると、兵士たちは恐れて逃げようとしたが、劉懷肅は目を怒らせ奮戦し、士気はますます盛んになった。そこで士卒は争って先を競い、陣前で桓振の首を斬った。江陵が平定されると、司馬休之は任地に戻り、劉懷肅の手を取って言った。「あなたの力がなければ、私は帰る所がなかったであろう。」偽輔國將軍符嗣、馬孫、偽龍驤將軍金符青、楽志らが江夏に屯結していたので、劉懷肅はさらにこれを討ち、楽志らを梟首した。劉道規は劉懷肅に江夏九郡の都督ととくを加え、夏口を仮に鎮守させた。

原文初為劉敬宣寧朔府司馬,東征孫恩,有戰功,又為龍驤司馬、費令。聞高祖起義,棄縣來奔。京邑平定,振武將軍道規追桓玄,以懷肅為司馬。玄留何澹之、郭銓等戍桑落洲,進擊破之。潁川太守劉統平,除高平太守。玄既死,從子振大破義軍於楊林,義軍退尋陽。懷肅與江夏相張暢之攻澹之於西塞,破之。偽鎮東將軍馮該戍夏口東岸,孟山圖據魯山城,桓仙客守偃月壘,皆連壁相望。懷肅與道規攻之,躬擐甲冑,陷二城,馮該走石城,生擒仙客。義熙元年正月,振敗走,道規遣懷肅平石城,斬馮該及其子山靖。三月,桓振復襲江陵,荊州刺史司馬休之出奔,懷肅自雲杜馳赴,日夜兼行,七日而至。振勒兵三萬,旗幟蔽野,躍馬橫矛,躬自突陳。流矢傷懷肅額,眾懼欲奔,懷肅瞋目奮戰,士氣益壯。於是士卒爭先,臨陣斬振首。江陵既平,休之反鎮,執懷肅手曰:「微子之力,吾無所歸矣。」偽輔國將軍符嗣、馬孫、偽龍驤將軍金符青、樂志等屯結江夏,懷肅又討之,梟樂志等。道規加懷肅督江夏九郡,權鎮夏口。

通直郎に任じられ、引き続き輔國將軍、淮南・歴陽二郡太守となった。二年、さらに劉毅の撫軍司馬を兼任し、軍職と郡守はもとのままだった。義功により東興県侯に封じられ、食邑千戸を与えられた。その冬、桓石綏、司馬國璠、陳襲が胡桃山で徒党を集めて賊となったので、劉懷肅は歩兵と騎兵を率いて討ち破った。江淮の間の諸蛮族や桓氏の残党が乱を起こしたため、自ら出討を請うたが、出発後命令に背いたため、劉毅が上表して劉懷肅の官を免じた。三年、死去した。時に四十一歳。左將軍を追贈された。子がなく、弟の劉懷慎がその子の劉蔚祖を後継ぎとして封を嗣がせた。劉蔚祖は官が江夏内史に至った。

原文除通直郎,仍為輔國將軍、淮南歷陽二郡太守。二年,又領劉毅撫軍司馬,軍、郡如故。以義功封東興縣侯,食邑千戶。其冬,桓石綏、司馬國璠、陳襲於胡桃山聚眾為寇,懷肅率步騎討破之。江淮間羣蠻及桓氏餘黨為亂,自請出討,既行失旨,毅上表免懷肅官。三年,卒,時年四十一。追贈左將軍。無子,弟懷慎以子蔚祖嗣封,官至江夏內史。

劉蔚祖が死去すると、子の劉道存が封を嗣いだ。太祖(劉義隆)の元嘉末年、太尉たいい江夏王劉義恭の諮議参軍となった。世祖(劉駿)が元凶(劉劭)を討伐した時、義軍が新亭に至ると、劉道存は出奔し、元凶はその母を殺して見せしめにした。前廃帝の景和年間、劉義恭の太宰從事中郎となり、劉義恭が敗れると、その与党として獄に下され死んだ。

原文蔚祖卒,子道存嗣。太祖元嘉末,為太尉江夏王義恭諮議參軍。世祖伐元凶,義軍至新亭,道存出奔,元凶殺其母以徇。前廢帝景和中,為義恭太宰從事中郎,義恭敗,以黨與下獄死。

劉懷肅の次弟の劉懷敬は、口下手で才能がなかった。初め、高祖が生まれた時に皇妣(母)が亡くなり、孝皇帝(劉裕の父)は貧しく、乳母を得る方法がなかったため、高祖を育てないことを考えた。高祖の従母が劉懷敬を生んだが、まだ一年も経たないうちに、劉懷敬の乳を断ち切って、自ら高祖を養育した。高祖は昔の恩義により、劉懷敬はたびたび寵愛を受けて官職を授かり、会稽太守、尚書、金紫光禄大夫に至った。

原文懷肅次弟懷敬,澀訥無才能。初,高祖產而皇妣殂,孝皇帝貧薄,無由得乳人,議欲不舉高祖。高祖從母生懷敬,未朞,乃斷懷敬乳,而自養高祖。高祖以舊恩,懷敬累見寵授,至會稽太守,尚書,金紫光祿大夫。

劉懷敬の子の劉真道は、銭唐県令となった。元嘉十三年、東の地方が飢饉となったので、上(文帝)は揚州治中從事史沈演之を行在所に巡行させた。沈演之が上表して言った。「県宰が政務を施すには、簡素で恵み深いことで才能を成し、職に臨んで治めを明らかにするには、民に利益をもたらすことで実績を顕著にすることを務めます。ゆえに王奐は前代に記録され、叔卿は後世に称えられました。私見しますに、銭唐県令劉真道、餘杭県令劉道錫は、ともに公務に奉じて民を思いやり、慎み勤勉で怠ることなく、百姓は称賛し、訴訟は少なくなっています。また凶悪な者を討ち払い、たびたび捕獲することができました。水害の初め、餘杭の高い堤防が崩壊し、激流が迅急で、その勢いははかりしれませんでしたが、劉道錫は自ら役人と民に先立ち、自ら板築を執り、堤防が再び築かれると、県邑は保全されました。諸県を巡り、実情を訪ね調べましたが、二人はともに二県の最優であり、民を治める良き県宰です。」上はこれを賞賛し、それぞれに穀物千斛こくを賜り、劉真道を歩兵校尉とした。

原文懷敬子真道,為錢唐令。元嘉十三年,東土饑,上遣揚州治中從事史沈演之巡行在所,演之上表曰:「宰邑敷政,必以簡惠成能,莅職闡治,務以利民著績。故王奐見紀於前,叔卿流稱於後。竊見錢唐令劉真道、餘杭令劉道錫,皆奉公卹民,恪勤匪懈,百姓稱詠,訟訴希簡。又翦蕩凶非,屢能擒獲。災水之初,餘杭高堤崩潰,洪流迅激,勢不可量,道錫躬先吏民,親執板築,塘既還立,縣邑獲全。經歷諸縣,訪覈名實,並為二邦之首最,治民之良宰。」上嘉之,各賜穀千斛,以真道為步兵校尉。

十四年、梁・南秦二州刺史として出向した。十八年、氐の賊帥楊難當が漢中に侵攻したので、劉真道は軍を率いて討ち破った。しかし楊難當の寇盗はなおも止まず、太祖は龍驤將軍裴方明に禁兵五千を率いさせ、劉真道の指揮下につかせた。十九年、裴方明が武興に到着し、太子積弩將軍劉康祖、後軍参軍梁坦、陳弥、裴肅之、安西参軍段叔文、魯尚期、始興王國常侍劉僧秀、綏遠將軍馬洗、振武將軍王奐之らを率い、進軍して潭谷に駐屯し、蘭臯から数里の所にいた。楊難當はその建節將軍苻弘祖、啖元らを派遣して蘭臯を固守させ、鎮北將軍苻徳義を外に遊軍とし、楊難當の子で撫軍大將軍の楊和が重兵を率いてその後を継いだ。裴方明が進撃し、濁水でこれを大破し、苻弘祖以下三千余級を斬った。劉康祖を派遣して追撃させ、蘭臯を過ぎて二千余里に及んだ。楊和はまた苻徳義を派遣して戦いを助けさせたが、劉康祖はまたこれを大破し、楊和は脩城に退いて守った。楊難當は建忠將軍楊林、振威將軍姚憲に二千騎を率いさせて楊和のもとへ向かわせたが、裴方明はまた諸将を率いてこれを攻め、楊和は敗走し、赤亭まで追撃した。楊難當はすべてを巻き上げて逃走した。裴方明は劉康祖を派遣して直ちに百頃に向かわせたところ、偽丞相楊万寿らは一時に帰降した。楊難當の第三子の楊虎は先に陰平を守っていたが、楊難當が逃走すると、楊虎は民間に逃げ隠れたが、生け捕りにされ、京都に送られ、建康の市で斬られた。

原文十四年,出為梁、南秦二州刺史。十八年,氐賊楊難當侵寇漢中,真道率軍討破之。而難當寇盜猶不已,太祖遣龍驤將軍裴方明率禁兵五千,受真道節度。十九年,方明至武興,率太子積弩將軍劉康祖、後軍參軍梁坦、陳彌、裴肅之、安西參軍段叔文、魯尚期、始興王國常侍劉僧秀、綏遠將軍馬洗、振武將軍王奐之等,進次潭谷,去蘭臯數里。難當遣其建節將軍苻弘祖、啖元等固守蘭臯,鎮北將軍苻德義於外為游軍,難當子撫軍大將軍和重兵繼其後。方明進擊,大破之於濁水,斬弘祖并三千餘級。遣康祖追之,過蘭臯二千餘里。和又遣德義助戰,康祖又大破之,和退保脩城。難當遣建忠將軍楊林、振威將軍姚憲領二千騎就和,方明又率諸將攻之,和敗走,追至赤亭,難當席卷奔叛。方明遣康祖直趣百頃,偽丞相楊萬壽等一時歸降。難當第三息虎先戍陰平,難當既走,虎逃竄民間,生禽之,送京都,斬于建康市。

秦州刺史胡崇之が西の百頃を鎮守しようとし、濁水に到着した時、索虜(北魏)に邀撃され、敗没した。劉真道を建威將軍、雍州刺史とし、裴方明を輔國將軍、梁南秦二州刺史とした。裴方明は辞退して拝命しなかった。詔が下された。「往年、氐の小輩楊難當が叛乱を起こし、降伏する者は多かった。その長史楊万寿、建節將軍姚憲は、心情に背かず、たびたび直言を進めた。そして凶悪な輩が夜逃げすると、全境が崩壊混乱したが、建忠將軍呂訓は倉庫を守護して王師を待った。寧朔將軍姜檀は果敢で烈しく誠意があり、力を尽くす志があり、濁水の勝利ではその功績が明らかであり、近ごろは義挙に協賛し奮い立ち、その心は変わらなかった。略陽の苻昭は、誠実に本朝に心を寄せ、またこの挙動に同調し、偽将を捕虜にし、単独で武興を攻略し、先鋒となって功績を挙げ、賊の手に命を落とした。ともに困難な状況で事績を顕著にし、朕の心を動かした。表彰され叙任されるべきであり、生きている者と亡くなった者を栄誉で慰める。楊万寿に龍驤將軍を、苻昭に武都太守を追贈し、姚憲を員外散騎侍郎に補任し、呂訓を駙馬都尉、奉朝請とし、姜檀を征西大將軍司馬、仇池太守とし、いずれも内陸に移住させるべきである。雍・梁二州に符して、手厚く養い救済せよ。」呂訓は、略陽の氐人で呂先の子である。また詔が下された。「故晉壽太守姜道盛は、以前仇池を討伐した時、誠意と力を尽くす志があり、戦場で功績を顕著にし、財に臨んでは清廉であった。近ごろ濁水で先陣を切り、鋒鏑に身を滅ぼし、誠実な節操ともに明らかであり、朕の心は哀悼に満ちている。給事中きゅうじちゅうを追贈し、銭十万を賜る。」姜道盛は古文尚書に注釈を施し、世に行われた。

原文秦州刺史胡崇之西鎮百頃,行至濁水,為索虜所邀擊,敗沒。以真道為建威將軍、雍州刺史,方明輔國將軍、梁南秦二州刺史。方明辭不拜。詔曰:「往年氐豎楊難當造為叛亂,俛首者眾。其長史楊萬壽、建節將軍姚憲,情不違順,屢進矢言。及凶醜宵遁,闔境崩擾,建忠將軍呂訓衞倉儲以候王師。寧朔將軍姜檀果烈懇到,志在宣力,濁水之捷,厥庸顯然,近者協贊義奮,乃心無替。略陽苻昭,誠係本朝,亦同斯舉,俘擒偽將,獨克武興,推鋒致效,隕命寇手。並事著屯險,感于予懷,宜蒙旌敍,榮慰存亡。可贈萬壽龍驤將軍,昭武都太守,憲補員外散騎侍郎,訓駙馬都尉、奉朝請,檀征西大將軍司馬、仇池太守,宜並內徙。可符雍、梁二州,厚加贍卹。」呂訓,略陽氐人呂先子也。又詔曰:「故晉壽太守姜道盛,前討仇池,志輸誠力,即戎著效,臨財能清。近先登濁水,殞身鋒鏑,誠節俱亮,矜悼于懷。可贈給事中,賜錢十萬。」道盛注古文尚書,行於世。

劉真道と裴方明はともに仇池を破った罪により、金銀その他の雑多な宝貨を横領し、また楊難當の良馬を隠匿したとして、獄に下され死んだ。劉康祖らは拘束され、それぞれ差等に応じて免官された。裴方明は河東の人で、劉道済の振武中兵参軍となり、蜀の地で功績を立て、潁川・南平昌太守を歴任したが、いずれも贓物や私利の罪で免官された。

原文真道、方明並坐破仇池,斷割金銀諸雜寶貨,又藏難當善馬,下獄死。劉康祖等繫免各有差。方明,河東人,為劉道濟振武中兵參軍,立功蜀土,歷潁川南平昌太守,皆坐贓私免官。

孟懷玉は、平昌安丘の人である。高祖の孟珩は、晋の河南尹であった。祖父の孟淵は、右光禄大夫であった。父の孟綽は、義旗(劉裕の挙兵)の後、給事中、光禄勲となり、金紫光禄大夫を追贈された。代々京口に居住した。

原文孟懷玉,平昌安丘人也。高祖珩,晉河南尹。祖淵,右光祿大夫。父綽,義旗後為給事中,光祿勳,追贈金紫光祿大夫。世居京口。

高祖が孫恩を東征した際、劉懐玉を建武司馬に任じた。義兵に参加し、京城平定に従い、京邑の平定に進んで功績を挙げ、鄱陽県侯に封ぜられ、食邑千戸を与えられた。高祖が京口を鎮守すると、懐玉を鎮軍参軍・下邳太守とした。義熙三年、寧朔将軍・西陽太守・新蔡内史として出向し、中書侍郎に任ぜられ、輔国将軍に転じ、丹陽府の兵を率いて石頭せきとうを守備した。

原文高祖東伐孫恩,以懷玉為建武司馬。豫義旗,從平京城,進定京邑。以功封鄱陽縣侯,食邑千戶。高祖鎮京口,以懷玉為鎮軍參軍、下邳太守。義熙三年,出為寧朔將軍、西陽太守、新蔡內史,除中書侍郎,轉輔國將軍,領丹陽府兵,戍石頭。

盧循が京邑に迫ると、懐玉は石頭の岸辺で連戦して功績を挙げ、中軍諮議参軍となった。賊の将帥徐道覆はたびたび精鋭を率いて上陸しようとしたが、懐玉を恐れて敢えて上陸しなかった。盧循が南へ逃走すると、懐玉は諸軍とともに追撃し、嶺表にまで至った。徐道覆が始興に屯集すると、懐玉はこれを攻囲し、自ら矢石に身をさらし、一ヶ月余りで陥落させた。引き続き南進して盧循を追撃し、盧循が平定されると、さらに陽豊県男に封ぜられ、食邑二百五十戸を与えられた。再び太尉諮議参軍・征虜将軍となった。八年、江州刺史に遷り、まもなく江州・豫州の西陽・新蔡・汝南・潁川、司州の恒農、揚州の松滋の六郡諸軍事・南中郎将を都督し、刺史の任は変わらなかった。当時、荊州刺史の司馬休之が上流にいて異心を抱いていたため、懐玉にこの任を与えてこれを防がせた。十一年、持節を加えられた。父の喪に服したが、懐玉は孝心が厚く、そのため重病を患い、上表して職務の解除を願い出たが、許されなかった。また、弟の仙客が他家を継いでおり、喪主は自分だけであると自ら陳述したため、ようやく聞き入れられた。赴任せずにその年のうちに在官のまま死去した。時に三十一歳。平南将軍を追贈された。子の元が死去し、子がなかったため、封国は除かれた。懐玉は別に陽豊男に封ぜられており、子の慧熙が後を継いだが、祭祀を廃した罪で爵位を剥奪された。慧熙の子の宗が後を継ぎ、竟陵太守・中大夫となった。

原文盧循逼京邑,懷玉於石頭岸連戰有功,為中軍諮議參軍。賊帥徐道覆屢欲以精銳登岸,畏懷玉不敢上。及循南走,懷玉與眾軍追躡,直至嶺表。徐道覆屯結始興,懷玉攻圍之,身當矢石,旬月乃陷。仍南追循,循平,又封陽豐縣男,食邑二百五十戶。復為太尉諮議參軍,征虜將軍。八年,遷江州刺史,尋督江州豫州之西陽新蔡汝南潁川司州之恒農揚州之松滋六郡諸軍事、南中郎將,刺史如故。時荊州刺史司馬休之居上流,有異志,故授懷玉此任以防之。十一年,加持節。丁父艱,懷玉有孝性,因抱篤疾,上表陳解,不許。又自陳弟仙客出繼,喪主唯己,乃見聽。未去任,其年卒官。時年三十一。追贈平南將軍。子元卒,無子,國除。懷玉別封陽豐男,子慧熙嗣,坐廢祭祀奪爵。慧熙子宗嗣,竟陵太守,中大夫。

孟龍符は劉懐玉の弟である。驍勇果断で胆力があり、体力は人並み外れていた。若い頃から任侠を好み、郷里で客を集めた。早くから高祖に知られ、京城を平定すると、龍符を建武参軍とした。江乗・羅落・覆舟の三戦でいずれも功績を挙げた。鎮軍軍事に参じ、平昌県五等子に封ぜられ、寧遠将軍・淮陵太守を加えられた。劉藩・向弥とともに桓歆・桓石康を征討し、撃破して斬った。建威将軍・東海太守に任ぜられた。索虜の斛蘭・索度真が辺境を侵し、彭城・沛が騒擾すると、高祖は龍符と建威将軍の劉道憐を派遣して北討させ、一戦でこれを破った。斛蘭を光水溝の辺りまで追撃し、傷を負わせて敗走させた。

原文龍符,懷玉弟也。驍果有膽氣,幹力絕人。少好游俠,結客於閭里。早為高祖所知,既克京城,以龍符為建武參軍。江乘、羅落、覆舟三戰,並有功。參鎮軍軍事,封平昌縣五等子,加寧遠將軍、淮陵太守。與劉藩、向彌征桓歆、桓石康,破斬之。除建威將軍、東海太守。索虜斛蘭、索度真侵邊,彭、沛騷擾,高祖遣龍符、建威將軍道憐北討,一戰破之。追斛蘭至光水溝邊,被創奔走。

高祖が広固を征伐した際、龍符を車騎参軍とし、龍驤将軍・広川太守を加え、歩兵と騎兵を統率して前鋒とした。軍が臨朐に達すると、賊と水を争い、龍符は単騎で突撃し、手に応じて敵を打ち破り、ただちに水源を占拠したため、賊は退却した。龍符は勝ちに乗じて追撃したが、後続の騎兵が追いつかず、賊の数千騎が取り囲んで攻撃した。龍符は矛を奮って応戦し、一合ごとに数人を殺したが、衆寡敵せず、ついに討ち死にした。時に三十三歳。高祖は深く痛惜し、青州刺史を追贈した。また上表して言った。「故龍驤将軍・広川太守孟龍符は、忠勇果断で、王事のために命を落とした。表彰され、貞節を顕彰されるべきである。聖恩はその功を嘉し悼み、方州の長官としての栄誉を追贈された。龍符は義兵の初めに袖を翻して参加し、先駆けとして命を捧げ、鋒を推して三たび勝利し、常に衆に先んじた。西では桓歆を討伐し、北では索虜を殲滅したが、朝廷の評議による爵禄の賞与は、まだ施行されていなかった。今度の北伐に際し、再び前の部隊を統率し、臨朐の戦いでは気勢が三軍を圧倒した。当時、逆賊は実に多く、弓を引く者が沢を覆い、龍符は単騎で電光のように躍り出て、向かうところ敵をなぎ倒し、戈を奮って深く突入し、死を知りながらも惜しまなかった。賊の超(慕容超)は奔り逃れ、険阻に依って鳥のように集結したが、大軍はその勢いに乗じて、戦車を並べて長駆した。その功績を考察すると、済水を渡ることに参画した功は、窃かに爵土を班すべきであり、勲功の烈しさを褒めるべきであると思う。」そこで臨沅県男を追封し、食邑五百戸を与えた。子がなく、弟の仙客が子の微生を後継ぎとして封を嗣がせた。太祖の元嘉年間、罪があって爵位を剥奪され、広州に流された。微生の弟の彦祖の子の仏護が爵位を襲った。斉が禅譲を受けると、封国は除かれた。

原文高祖伐廣固,以龍符為車騎參軍,加龍驤將軍、廣川太守,統步騎為前鋒。軍達臨朐,與賊爭水,龍符單騎衝突,應手破散,即據水源,賊遂退走。龍符乘勝奔逐,後騎不及,賊數千騎圍繞攻之,龍符奮矟接戰,每一合輒殺數人,眾寡不敵,遂見害,時年三十三。高祖深加痛悼,追贈青州刺史。又表曰:「故龍驤將軍、廣川太守孟龍符,忠勇果毅,隕身王事,宜蒙甄表,以顯貞節,聖恩嘉悼,寵贈方州。龍符投袂義初,前驅效命,推鋒三捷,每為眾先。及西劋桓歆,北殄索虜,朝議爵賞,未及施行。會今北伐,復統前旅,臨朐之戰,氣冠三軍。于時逆徒實繁,控弦掩澤,龍符匹馬電躍,所向摧靡,奮戈深入,知死弗吝。賊超奔遁,依險鳥聚,大軍因勢,方軌長驅。考其庸績,豫參濟不,竊謂宜班爵土,以褒勳烈。」乃追封臨沅縣男,食邑五百戶。無子,弟仙客以子微生嗣封。太祖元嘉中,有罪奪爵,徙廣州。以微生弟彥祖子佛護襲爵。齊受禪,國除。

孝武帝の大明初年、すべての流刑者は本籍地に帰ることを許された。微生はすでに死去しており、子の係祖が京都に帰った。筋骨たくましく並外れた力を持ち、数人分の荷物を担ぐことができた。羽林に所属し、殿中将軍となった。二年、索虜が青州・冀州を侵すと、世祖は軍を派遣してこれを救援し、係祖は自ら志願して従軍を求めた。杜梁で戦い、身を挺して敵陣に突入し、殺戮して屍が乱れ、ついに討ち死にした。詔書により潁川郡太守を追贈された。

原文孝武大明初,諸流徙者悉聽還本,微生已死,子係祖歸京都,有筋榦異力,能儋負數人。入隸羽林,為殿中將軍。二年,索虜寇青、冀,世祖遣軍援之,係祖自占求行。戰於杜梁,挺身入陳,所殺狼籍,遂見殺。詔書追贈潁川郡太守。

劉敬宣、字あざなは万寿、彭城の人、漢の楚元王劉交の後裔こうえいである。祖父の劉建は征虜将軍。父の劉牢之は鎮北将軍。敬宣は八歳で母を亡くし、昼夜号泣したので、親族は彼を異才と見なした。輔国将軍桓序が蕪湖を鎮守した時、牢之は桓序の軍事に参じた。四月八日、敬宣が人々が仏像に灌水するのを見て、自らの頭上の金鏡を下ろして母のために灌水し、悲しみ泣いて自らを抑えられなかった。桓序は嘆息し、牢之に言った。「卿のこの子は既に家の孝子であるから、必ずや国の忠臣となるだろう。」初めて官に就き、王恭の前軍参軍となり、また会稽王世子元顕の征虜軍事に参じた。

原文劉敬宣字萬壽,彭城人,漢楚元王交後也。祖建,征虜將軍。父牢之,鎮北將軍。敬宣八歲喪母,晝夜號泣,中表異之,輔國將軍桓序鎮蕪湖,牢之參序軍事。四月八日,敬宣見眾人灌佛,乃下頭上金鏡以為母灌,因悲泣不自勝。序歎息,謂牢之曰:「卿此兒既為家之孝子,必為國之忠臣。」起家為王恭前軍參軍,又參會稽世子元顯征虜軍事。

隆安二年、王恭が京口で兵を起こし、司馬尚之兄弟を誅殺することを名目とした。牢之は当時、王恭の前軍司馬・輔国将軍・晋陵太守であり、属官を置き兵を率いていた。しかし王恭は豪族・外戚として自らを尊大にし、甚だしく軽侮したので、牢之は心に不平を抱いた。王恭がこの挙兵をした時、牢之を前鋒とした。太傅会稽王司馬道子は牢之に手紙を送り、禍福を詳しく説き、兵を返して王恭に反逆するよう促した。牢之は敬宣を呼んで言った。「王恭は昔、先帝の特別な恩寵を受け、今は伯舅(母方の伯父)として重きをなしているが、忠義の心は未だ顕わではなく、ただ兵を用いることのみを好む。私は、王恭の事が成功した日に、必ずや天子を奉戴し、宰相と和やかに協力するかどうかを確かめることができない。今、国の威霊を奉じて、逆順を明らかにしたいと思うが、お前はどう思うか。」敬宣は言った。「朝廷には成王・康王のような隆盛はないが、桓帝・霊帝のような乱れもありません。しかし王恭は乱に乗じて兵を恃み、その志は京邑を凌駕しようとしています。父上と王恭は親しくても骨肉の縁はなく、君臣の分けでもありません。共に事をした時間は短く、気持ちも合いません。今日彼を討つことは、情において何の問題もありません。」牢之は竹里に至り、王恭の大将顔延を斬り、敬宣に高雅之らを率いて京に戻り王恭を急襲させた。王恭がちょうど城外に出て軍勢を誇示しているところを、騎兵を馳せて横撃し、たちまち散乱潰走させた。元顕は後将軍に進号し、敬宣を諮議参軍とし、寧朔将軍を加えた。

原文隆安二年,王恭起兵於京口,以誅司馬尚之兄弟為名。牢之時為恭前軍司馬、輔國將軍、晉陵太守,置佐領兵。而恭以豪戚自居,甚相陵忽,牢之心不能平。及恭此舉,使牢之為前鋒。太傅會稽王道子與牢之書,備言禍福,使以兵反恭。牢之呼敬宣謂曰:「王恭昔蒙先帝殊恩,今居伯舅之重,義心未彰,唯兵是縱。吾不能審恭事捷之日,必能奉戴天子,緝穆宰相與不。今欲奉國威靈,以明逆順,汝以為何如?」敬宣曰:「朝廷雖無成、康之隆,未有桓、靈之亂,而恭怙亂阻兵,志陵京邑。大人與恭親無骨肉,分非君臣,雖共事少時,意好不協。今日討之,於情何有。」牢之至竹里,斬恭大將顏延,遣敬宣率高雅之等還京襲恭,恭方出城耀軍,馳騎橫擊之,一時散潰。元顯進號後將軍,以敬宣為諮議參軍,加寧朔將軍。

三年、孫恩が乱を起こし、東土が騒擾すると、牢之は自ら上表して東征を請い、軍を虎疁に駐屯させた。賊は皆死に物狂いで戦った。敬宣は騎兵を率いて南山に沿ってその背後に回ることを請うた。呉の賊は馬を恐れ、また前後から敵を受けることを恐れたので、大敗した。進軍して会稽を平定した。まもなく臨淮太守を加えられ、後軍従事中郎に遷った。五年、孫恩が再び浹口に入ると、高祖は句章を守備し、賊は頻繁に攻撃したが陥とせず、敬宣は救援に向かうことを請うた。賊の孫恩はそこで遠く海の中へ退却した。

原文三年,孫恩為亂,東土騷擾,牢之自表東討,軍次虎疁。賊皆死戰,敬宣請以騎傍南山趣其後,吳賊畏馬,又懼首尾受敵,遂大敗。進平會稽。尋加臨淮太守,遷後軍從事中郎。五年,孫恩又入浹口,高祖戍句章,賊頻攻不能拔,敬宣請往為援,賊恩於是退遠入海。

この時、四方が雲のように乱れ、朝廷は微弱であったので、敬宣は常に艱難がまだ終わらないことを憂慮した。高祖が累ねて妖賊を破り、功名が日に日に盛んになるにつれ、敬宣は深く高祖に頼り結びつき、情誼は非常に厚くなった。元顕が驃騎ひょうき将軍に進号すると、敬宣はそれに従って府の官属に転じ、軍職・郡守は変わらなかった。元顕は驕慢で淫らに振る舞い、部下たちもそれに染まった。敬宣は宴会に参加するたびに、決して酒を飲まず、からかいが来ても何も応答せず、元顕は甚だ不愉快に思った。まもなく輔国将軍に進号し、その他の官職は変わらなかった。

原文是時四方雲擾,朝廷微弱,敬宣每慮艱難未已。高祖既累破妖賊,功名日盛,故敬宣深相憑結,情好甚隆。元顯進號驃騎,敬宣仍隨府轉,軍、郡如故。元顯驕淫縱肆,羣下化之,敬宣每預燕會,未嘗飲酒,調戲之來,無所酬答,元顯甚不說。尋進號輔國將軍,餘如故。

元興元年、劉牢之が南征して桓玄を討つことになり、司馬元顕が征討大都督となったが、日夜酒に溺れてぼんやりしていた。劉牢之が急いで門を訪れたが、面会できず、武帝(劉裕)が送別の宴に出た時、やっと公(劉牢之)が座っているのに出会っただけだった。桓玄がすでに溧洲に到着すると、使者を遣わして劉牢之を説得した。劉牢之は、司馬道子が愚昧で、司馬元顕が淫乱で凶暴であることから、桓玄を平定した後、かえって政情が乱れることを憂慮し、一旦桓玄の手を借りて政権を掌握している者たちを誅殺し、その後桓玄の隙に乗じて、天下の志を得ようと考え、桓玄への降伏を承諾しようとした。劉敬宣が諫めて言った。「今、国家は乱れ騒がしく、天下は沸き立っています。天下の重みは、大人(父上)と桓玄にかかっています。桓玄は父祖の基盤を頼りに、荊南の地勢を占拠し、周の文王のような徳はありませんが、実質的に天下三分の形勢をなしています。一度彼を野に放って朝廷を凌がせれば、威望が確立してからでは、図るのが難しくなります。董卓の変事が、今まさに起ころうとしています。」劉牢之は怒って言った。「今日、桓玄を取るのが掌を返すように容易いことぐらい、私が知らないわけがない。ただ、桓玄を平定した後、私の驃騎将軍(の地位)をどうするつもりか?」劉敬宣を使者として派遣し、桓玄は彼をその府の諮議参軍に任命した。

原文元興元年,牢之南討桓玄,元顯為征討大都督,日夜昏酣,牢之驟詣門,不得相見,帝出餞行,方遇公坐而已。桓玄既至溧洲,遣信說牢之,牢之以道子昏闇,元顯淫凶,慮平玄之日,亂政方始,假手於玄,誅除執政,然後乘玄之隙,可以得志於天下,將許玄降。敬宣諫曰:「方今國家亂擾,四海鼎沸,天下之重,在大人與玄。玄藉先父之基,據荊南之勢,雖無姬文之德,實為參分之形。一朝縱之,使陵朝廷,威望既成,則難圖也。董卓之變,將生於今。」牢之怒曰:「吾豈不知今日取玄如反覆手,但平玄之後,令我那驃騎何?」遣敬宣為任,玄板為其府諮議參軍。

桓玄が志を遂げると、司馬元顕を殺害し、司馬道子を廃し、劉牢之を征東将軍・会稽太守とした。劉牢之は劉敬宣と共謀して桓玄を襲撃しようとし、翌朝を期した。その日は濃霧が立ち込め、府の門が遅く開いた。日が暮れても劉敬宣が来ないので、劉牢之は計画がすでに漏れたと思い、配下の兵を率いて白洲に向かい、広陵へ逃げようとした。一方、劉敬宣は京口に戻って家族を迎えに行っていた。劉牢之は彼を探し求めたが見つからず、すでに桓玄に捕らえられたと思い、自ら首を吊って死んだ。劉敬宣は葬儀に駆けつけ、哭礼を終えると、すぐに長江を渡って司馬休之や高雅之らのもとに身を寄せ、共に洛陽へ奔り、長安を往来し、それぞれ子弟を人質として差し出し、姚興に救援を求めた。姚興は彼らに兵符と証明書を与え、関東で兵を募集するよう命じた。数千人を得て、再び彭城付近に戻り、義勇の旧知を収集した。桓玄は孫無終を派遣して冀州刺史劉軌を討たせた。劉軌は劉敬宣と高雅之らを招き、共に山陽を拠点としてこれを破ろうとしたが、成功しなかった。さらに昌平澗に進軍したが、戦いは不利で、兵士たちはそれぞれ離散し、共に鮮卑の慕容徳のもとへ奔った。

原文玄既得志,害元顯,廢道子,以牢之為征東將軍、會稽太守。牢之與敬宣謀共襲玄,期以明旦。值爾日大霧,府門晚開,日旰,敬宣不至,牢之謂所謀已泄,率部曲向白洲,欲奔廣陵。而敬宣還京口迎家,牢之尋求不得,謂已為玄所擒,乃自縊死。敬宣奔喪,哭畢,即渡江就司馬休之、高雅之等,俱奔洛陽,往來長安,各以子弟為質,求救於姚興。興與之符信,令關東募兵,得數千人,復還至彭城間,收聚義故。玄遣孫無終討冀州刺史劉軌,軌要敬宣、雅之等共據山陽破之,不剋。又進昌平澗,戰不利,眾各離散,乃俱奔鮮卑慕容德。

劉敬宣はもとより天文に通じており、必ず晋室を興復する者が現れることを知っていた。まもなく、土の丸を飲み込む夢を見た。目が覚めると、喜んで言った。「丸は桓である。桓(玄)を既に飲み込んだ。私は故郷に戻るのだろうか。」そこで青州の名族である崔氏・封氏らを結びつけ、さらに鮮卑の大帥である免逵を招き、慕容徳を滅ぼし、司馬休之を主君に推戴しようと謀り、日を定めて挙兵しようとした。その時、劉軌は慕容徳の司空しくうとなっており、大いに重任されていた。高雅之はまた劉軌を誘おうとしたが、劉敬宣は言った。「この方は年老いており、私は彼が斉の地に安住しようとする志があるのを見て取った。必ず動かないだろう。告げるべきではない。」高雅之はそうではないと思い、ついに劉軌に告げた。劉軌は果たして従わなかった。謀略はかなり漏れ、互いに劉軌を殺して去った。淮水・泗水の間まで来た時、高祖(劉裕)が京口を平定したとの報に接し、直筆の書簡で劉敬宣を召し寄せた。側近たちはそれが偽りではないかと疑ったが、劉敬宣は言った。「私はもとよりそうなることを知っていた。下邳(劉裕)は私を誘い出そうとしているのではない。」すぐに馬を走らせて戻った。都に到着すると、劉敬宣を輔国将軍・晋陵太守とし、武岡県男の爵位を襲封させた。この年は、安帝の元興三年であった。

原文敬宣素曉天文,知必有興復晉室者。尋夢丸土服之,既覺,喜曰:「丸者桓也。桓既吞矣,吾復本土乎。」乃結青州大姓諸崔、封,并要鮮卑大帥免逵,謀滅德,推休之為主,剋日垂發。時劉軌為德司空,大被委任,雅之又欲要軌,敬宣曰:「此公年老,吾觀其有安齊志,必不動,不可告也。」雅之以為不然,遂告軌,軌果不從。謀頗泄,相與殺軌而去。至淮、泗間,會高祖平京口,手書召敬宣,左右疑其詐,敬宣曰:「吾固知其然矣。下邳不誘我也。」即便馳還。既至京師,以敬宣為輔國將軍、晉陵太守,襲封武岡縣男。是歲,安帝元興三年也。

桓歆が氐族の賊徒である楊秋を率いて歴陽を侵した。劉敬宣は建威将軍の諸葛長民と共にこれを大破し、桓歆は単騎で淮水を渡って逃げ、楊秋を練固で斬って戻った。建威将軍・江州刺史に転任した。劉敬宣は固辞し、高祖に言上した。「仇敵の恥は既に雪がれ、天下は清らかで平穏です。願わくは身を草むらに引き、残りの年を終えたいと思います。恩遇を忘れずにいただき、再び仕えさせていただくことになりましたが、現在の地位は既に過分です。しかも、劉盤龍(劉毅)や何無忌はまだ寵遇を受けておらず、賢明な二人の弟(劉道憐・劉道規)の地位と任務はまだ低いのに、私が一朝にして彼らに先んじれば、必ず朝廷と民間の非難を招くでしょう。」許されなかった。劉敬宣が江州に着任すると、軍糧を徴収し集め、船や車両を徴発し、軍務に必要な物資は常に備蓄して準備した。そのため、西征の諸軍が敗れて退却して拠点を守る時も、それによってしばしばすぐに勢力を回復することができた。その年、桓玄の兄の子である桓亮が自ら江州刺史を称し、豫章を侵した。桓亮はまた苻宏を派遣して廬陵を侵したが、劉敬宣はこれらを全て討ち破った。

原文桓歆率氐賊楊秋寇歷陽,敬宣與建威將軍諸葛長民大破之,歆單騎走渡淮,斬楊秋於練固而還。遷建威將軍、江州刺史。敬宣固辭,言於高祖曰:「讎恥既雪,四海清蕩,所願反身草澤,以終餘年。恩遇不遺,遂復僶俛,即目所忝,已為優渥。且盤龍、無忌猶未遇寵,賢二弟位任尚卑,一朝先之,必貽朝野之責。」不許。敬宣既至江州,課集軍糧,搜召舟乘,軍戎要用,常有儲擬。故西征諸軍雖失利退據,因之每即振復。其年,桓玄兄子亮自號江州刺史,寇豫章,亮又遣苻宏寇廬陵,敬宣並討破之。

かつて、劉毅が若かった頃、劉敬宣の寧朔参軍であった。当時、ある人は劉毅を雄傑と評したが、劉敬宣は言った。「並外れた才能の持ち主は、別の扱い方があるべきで、どうしてすぐにこの方を人傑と言えるだろうか。彼の性格は外見は寛大だが内面は猜疑心が強く、自らを誇り他人を見下す。もし一度機会に恵まれれば、上に立つ者を凌いで禍を招くことになるだろう。」劉毅はこれを聞き、深く恨みに思った。江陵にいた時、劉敬宣が戻ったことを知ると、人を遣わして高祖に言わせた。「劉敬宣父子は、忠義を国に尽くすことも不明瞭であり、今また義挙の当初にも加わっていません。猛将や功労の臣下は、今まさに叙勲と報奨が必要です。劉敬宣のような者は、後回しにするべきです。もし使君(劉裕)が平生の交わりを忘れず、彼を引き立てようとされるなら、経歴や事績から言って、せいぜい員外常侍にすべきです。聞くところによると、既に郡太守を授けられたそうですが、実に過分です。さらに江州刺史に任じられたと知り、特に驚き残念に思います。」劉敬宣はますます不安を感じた。安帝が復位すると、自ら上表して職務の解任を願い出た。そこで官職を解かれ、邸宅を賜り、毎月三十万銭が給与された。高祖はしばしば彼を引き連れて遊宴し、恩情と待遇は周到で行き届き、賜与された銭・絹・車馬・器物・服飾・珍玩の中で、彼に比肩する者はなかった。

原文初,劉毅之少也,為敬宣寧朔參軍。時人或以雄傑許之,敬宣曰:「夫非常之才,當別有調度,豈得便謂此君為人豪邪?其性外寬而內忌,自伐而尚人,若一旦遭逢,亦當以陵上取禍耳。」毅聞之,深以為恨。及在江陵,知敬宣還,乃使人言於高祖曰:「劉敬宣父子,忠國既昧,今又不豫義始。猛將勞臣,方須敍報,如敬宣之比,宜令在後。若使君不忘平生,欲相申起者,論資語事,正可為員外常侍耳。聞已授其郡,實為過優;尋知復為江州,尤所駭惋。」敬宣愈不自安。安帝反正,自表解職。於是散徹,賜給宅宇,月給錢三十萬。高祖數引與游宴,恩款周洽,所賜錢帛車馬及器服玩好,莫與比焉。

まもなく冠軍かんぐん将軍・宣城内史・襄城太守に任じられた。宣城は山の多い県で、郡では以前から屯田を設けて府や郡の費用に充てており、前任者たちは多く工匠を徴発し、器物を造らせていた。劉敬宣が郡に着任すると、私的な屯田を全て廃止し、ただ竹木を伐採して、役所の建物を整備するだけとした。逃亡していた者たちの多くが自首して出てきて、ついに三千戸あまりを得た。

原文尋除冠軍將軍、宣城內史、襄城太守。宣城多山縣,郡舊立屯以供府郡費用,前人多發調工巧,造作器物,敬宣到郡,悉罷私屯,唯伐竹木,治府舍而已。亡叛多首出,遂得三千餘戶。

高祖は大いに寵愛し重用しようとし、まず功績を立てさせようと考え、義熙三年、上表して劉敬宣に五千の兵を率いて蜀を討伐させることを請うた。国子博士の周祗が高祖に上書して諫めた。「義旗が掲げられて以来、征討したものは必ず勝利し、これは天と人が共に助け、信義と順理の証と言えます。今、大難は既に平定され、君臣共に安泰です。近頃五穀が豊かに実り、民に飢え苦しみはなく、強盗の災いもまた鎮静化しています。これはまさに次第に事なきを得て、大いに根本を治め安寧にすべき時です。蜀の賊を平定し、天下を統一すべきでないというのではありません。古人の言葉に、天の時は地の利に及ばず、地の利は人の和に及ばない、とあります。今、蜀を伐つには、一万余里を遡り、天険を行軍し、動けば一年を要します。もしこの軍が直接成都を指し、ただちに譙氏(譙縦)を捕らえるなら、また将帥が奮威する、一気呵成の快挙でしょう。しかし、益州の地は荒廃し、野に青草はなく、成都の内では、ほとんど生き残りはいないでしょう。得られる利益を計算しても、今の行軍の費用には及びません。しかも今、艱難辛苦を冒して向かおうとしている時に、雨雪が降り始めています。三州三呉の人々を駆り立てて、三巴三蜀の地に投じれば、その中での病気や死亡は、どうして数えられましょう。これが第一の疑念です。賊は必ずや窮地の城を守らず、全力を挙げて決戦するでしょう。今、我々は疲労困憊して向かい、彼らは非常に楽な態勢で来襲します。もし万一、軍の進撃が不利となり、人心が動揺すれば、大勢は挫かれて敗北するでしょう。これが第二の疑念です。かつて千里の糧秣を輸送すれば、兵士に飢えの色が現れます。まして今は険阻な地を万里も遡り、行く先々に備蓄はありません。もし戦いが連続して解けず、輸送が途絶えれば、韓信や白起のような将軍でも、どうして成功できましょう。これが第三の疑念です。今、征討可能と言う者は皆、『彼(譙縦)は親族が離反し、民衆が叛いている』と言いますが、愚かにはそうは思いません。彼は一介の匹夫でありながら、今日の事態を招くことができたのです。もし民衆の力が離散しているなら、どうしてここまで至れたでしょうか。朝廷が派遣する兵は皆、寄せ集めの募集兵であり、必ずや千人一心ではなく、前進しても退却しないということはないでしょう。国を治める者は、まず内を安定させて外を治め、まず近くを安んじて遠くを懐柔すべきです。近頃、狂った狡猾な者が絶えず、誅殺が相次いでおり、人の和があるとは言えません。天険があのようにある以上、地の利があるとは言えません。毛脩之は家族の仇を雪げず、死んでも恨みが残るはずですが、劉敬宣は生き延びた恩を受けており、命をかけて報いるべきです。今、将軍は死を覚悟した二人を駆り立てようとし、国家の重大な計略を忘れようとしています。私の愚かな考えでは、ひそかに不安を覚えます。宮門の外のことは、私が預かるべきことではありませんが、もし心に思うことがあれば、知らず知らずに全てを披瀝してしまいます。」聞き入れられなかった。

原文高祖方大相寵任,欲先令立功,義熙三年,表遣敬宣率眾五千伐蜀。國子博士周祗書諫高祖曰:「自義旗之建,所征無不必克,此可謂天人交助,信順之徵也。今大難已夷,君臣俱泰。頃五穀轉豐,民無饑苦,劫盜之患,亦為弭息,此誠漸足無事,宜大寧治本。蜀賊宜平,六合宜一,非為不爾也。古人有言,天時不如地利,地利不如人和。今往伐蜀,萬有餘里,泝流天險,動經時歲。若此軍直指成都,徑禽譙氏者,復是將帥奮威,一快之舉耳。然益土荒殘,野無青草,成都之內,殆無孑遺。計得彼利,與今行軍之費,不足相補也。而今往艱險,雨雪方降,驅三州三吳之人,投之三巴三蜀之土,其中疾病死亡,豈可稱計。此一疑也。賊必不守窮城,將決力戰。今我往勞困,彼來甚逸。若忽使師行不利,人情波駭,大勢挫衄。此二疑也。且千里饋糧,士有饑色。況今泝險萬里,所在無儲。若連兵不解,運漕不繼,雖韓、白之將,何以成功。此三疑也。今云可征者皆云:『彼親離眾叛。』愚謂不然。彼以一匹夫,而能致今日之事,若眾力離散,亦何以至此。官所遣兵皆烏合受募之人,亦必無千人一心,有前無退矣。為治者固先定其內而理其外,先安其近而懷其遠。自頃狂狡不息,誅戮相繼,未可謂人和也。天險如彼,未可謂地利也。毛脩之家讎不雪,不應以得死為恨,劉敬宣蒙生存之恩,亦宜性命仰報,今將軍欲驅二死之甘心,而忘國家之重計,愚情竊所未安。闕門之外,非所宜豫,苟其有心,不覺披盡。」不從。

敬宣は敬宣の節を与えられ、征蜀諸軍事を監督し、郡の職務は従前通りであった。峡に入ると、振武将軍・巴東太守の温祚に二千人を率いさせて外水方面で虚勢を張らせ、自らは益州刺史の鮑陋、輔国将軍の文処茂、龍驤将軍の時延祖を率いて墊江から進軍した。敬宣は兵士の先頭に立ち、転戦しながら前進し、遂寧郡の黄虎に到達した。ここは成都から五百里の地点である。偽の輔国将軍である譙道福らが全軍を率いて険阻な地で防ぎ、六十余日にわたって対峙し、大小十余度の戦闘が行われたが、賊は堅固に守って出撃しようとしなかった。敬宣は進軍できず、食糧が尽き、軍中に疫病が蔓延し、死者が大半に及んだため、軍を率いて撤退した。譙縦は毛璩一族の遺体と、その妻女、文処茂の母である何氏、および諸士人の棺を送り届け、それらを川の中流に浮かべたが、敬宣はすべて引き上げて帰還させた。このことで有司から弾劾され、官職を免じられ、封邑の三分の一を削減された。

原文假敬宣節,監征蜀諸軍事,郡如故。既入峽,分遣振武將軍、巴東太守溫祚以二千人揚聲外水,自率益州刺史鮑陋、輔國將軍文處茂、龍驤將軍時延祖由墊江而進。敬宣率先士卒,轉戰而前,達遂寧郡之黃虎,去成都五百里。偽輔國將軍譙道福等悉眾距險,相持六十餘日,大小十餘戰,賊固守不敢出。敬宣不得進,食糧盡,軍中多疾疫,死者太半,引軍還。譙縱送毛璩一門諸喪,其妻女、文處茂母何,并諸士人喪柩,浮之中流,敬宣皆拯接致歸。為有司所奏,免官,削封三分之一。

五年、高祖が鮮卑を討伐した際、中軍諮議参軍に任じられ、冠軍将軍の号を加えられた。臨朐に至ると、慕容超が軍を出して防戦したが、敬宣は兗州刺史の劉藩らと奮撃し、これを大破した。龍驤将軍の孟龍符が戦死したため、敬宣はその軍勢を併せて指揮し、広固を包囲し、たびたび戦略を献策した。

原文五年,高祖伐鮮卑,除中軍諮議參軍,加冠軍將軍。從至臨朐,慕容超出軍距戰,敬宣與兗州刺史劉藩等奮擊,大破之。龍驤將軍孟龍符戰沒,敬宣并領其眾,圍廣固,屢獻規略。

盧循が京師に迫ると、敬宣は鮮卑の虎班突騎の一部を指揮し、陣を整然と布いたので、盧循らはこれを見て畏れた。使持節・督馬頭淮西諸軍郡事・鎮蛮護軍・淮南安豊二郡太守・梁国内史に転じ、将軍の号は従前通りであった。盧循が敗走した後、引き続き高祖に従って南征し、左衛将軍に転じ、散騎常侍さんきじょうじを加えられた。

原文盧循逼京師,敬宣分領鮮卑虎班突騎,置陣甚整,循等望而畏之。遷使持節、督馬頭淮西諸軍郡事、鎮蠻護軍、淮南安豐二郡太守、梁國內史,將軍如故。循既走,仍從高祖南討,轉左衞將軍,加散騎常侍。

敬宣は寛厚で士を厚遇し、多くの技芸に通じ、弓馬や音律など、できないものはなかった。当時、尚書僕射しょうしょぼくやの謝混は自らの才覚と家柄を恃み、人と交わることを軽んじなかったが、敬宣と出会うと、礼を尽くして親交を結んだ。ある者が謝混に尋ねた。「あなたは人と軽々しく交際しないのに、万寿(敬宣)に対しては車の蓋を傾けてまで親しくするのはなぜか。」混は答えた。「人と知り合うことは、一つの尺度で限られるものではない。孔文挙が太史子義を礼遇したことを、誰が非難できようか。」

原文敬宣寬厚善待士,多伎藝,弓馬音律,無事不善。時尚書僕射謝混自負才地,少所交納,與敬宣相遇,便盡禮著歡。或問混曰:「卿未嘗輕交於人,而傾蓋於萬壽,何也?」混曰:「人之相知,豈可以一塗限,孔文舉禮太史子義,夫豈有非之者邪!」

初め、敬宣が蜀から軍を返した時、劉毅は厳法をもって彼を処罰しようとしたが、高祖はすでに信任しており、また何無忌が劉毅に明言して、私怨によって至公を傷つけるべきではないと説き、もしどうしても文書で罪状をでっち上げて処刑するなら、自分が朝廷に入り廷議で決着をつけようとした。劉毅はやむを得ず思いとどまったが、それでも高祖に言った。「平生の旧友であっても、ただ一人を信頼すべきではない。光武帝は龐萌を重用して後悔し、曹公は孟卓(張邈)に裏切られた。公は深く考慮されるべきです。」劉毅が荊州に出向する際、敬宣に言った。「私は西方の任に就くが、卿を長史・南蛮校尉として迎えたい。補佐する気はないか。」敬宣は禍が及ぶことを恐れ、高祖に報告した。高祖は笑って言った。「ただ老兄(劉毅)が無事であれば、過度の心配は無用だ。」敬宣は使持節・督北青州軍郡事・征虜将軍・北青州刺史に任じられ、清河太守を兼ね、まもなく冀州刺史も兼ねた。

原文初,敬宣回師於蜀,劉毅欲以重法繩之,高祖既相任待,又何無忌明言於毅,謂不宜以私憾傷至公,若必文致為戮,己當入朝以廷議決之。毅雖止,猶謂高祖曰:「夫生平之舊,豈可孤信。光武悔之於龐萌,曹公失之於孟卓,公宜深慮之。」毅出為荊州,謂敬宣曰:「吾忝西任,欲屈卿為長史、南蠻,豈有見輔意乎?」敬宣懼禍及,以告高祖。高祖笑曰:「但令老兄平安,必無過慮。」出為使持節、督北青州軍郡事、征虜將軍、北青州刺史,領清河太守,尋領冀州刺史。

当時、高祖が劉毅を西討した際、豫州刺史の諸葛長民が太尉軍事を監督し、敬宣に書簡を送った。「盤龍(劉毅)は狼藉で専横、自ら滅亡を招いた。異端の輩は尽きようとしており、世の道は平らかになろうとしている。富貴の事は、共に分かち合おう。」敬宣は返答した。「下官は義熙以来、十年にわたり、三州七郡の任を辱うけた。今この節を持ち、常に福が過ぎて禍が生じることを恐れ、実に満ち盈ちた状態を避け、損なうところに居ようと考えている。富貴の旨は、敢えて受けられるものではありません。」使者を遣わして長民の書簡を高祖に提出すると、高祖は王誕に言った。「阿寿(敬宣)はやはり私を裏切らなかった。」十一年正月、右将軍に進号した。

原文時高祖西討劉毅,豫州刺史諸葛長民監太尉軍事,貽敬宣書曰:「盤龍狼戾專恣,自取夷滅,異端將盡,世路方夷,富貴之事,相與共之。」敬宣報曰:「下官自義熙以來,首尾十載,遂忝三州七郡。今此杖節,常懼福過禍生,實思避盈居損,富貴之旨,非所敢當。」遣使呈長民書,高祖謂王誕曰:「阿壽故為不負我也。」十一年正月,進號右將軍。

司馬道賜という者は、晋の宗室の卑賤な一族で、敬宣の参軍であった。高祖が司馬休之を西征した時、道賜はひそかに同府の辟閭道秀および左右の小将である王猛子らと結託して謀反を企てた。道賜は自ら斉王を称し、道秀を青州刺史に任じて、広固を占拠し、挙兵して休之に呼応しようとした。敬宣が道秀を呼び出して議論しようとした時、人払いをしたため、左右の者はすべて戸の外に出たが、猛子はためらって後ろに残り、敬宣の護身用の刀を取って敬宣を殺害した。時に四十五歳であった。文武の佐吏たちは直ちに道賜や猛子らを討伐し、皆斬った。以前、敬宣が死ぬ前に、夜、僚佐たちと宴会を開いたことがあった。空中から一隻の草鞋が座中に放たれ、敬宣の食器の上に落ちた。長さ三尺五寸で、すでに人が履いたものであり、耳と鼻の部分が壊れようとしていた。間もなく敗北した。遺体が届くと、高祖は臨んで慟哭した。子の祖が後を継いだ。宋が禅譲を受けると、封国は除かれた。

原文司馬道賜者,晉宗室之賤屬也,為敬宣參軍。至高祖西征司馬休之,道賜乃陰結同府辟閭道秀及左右小將王猛子等謀反。道賜自號齊王,以道秀為青州刺史,規據廣固,舉兵應休之。敬宣召道秀有所論,因屏人,左右悉出戶,猛子逡巡在後,取敬宣備身刀殺敬宣,時年四十五。文武佐吏即討道賜、猛子等,皆斬之。先是敬宣未死,嘗夜與僚佐宴集,空中有放一隻芒屩於坐中,墜敬宣食槃上,長三尺五寸,已經人著,耳鼻間並欲壞。頃之而敗。喪至,高祖臨哭甚哀。子祖嗣。宋受禪,國除。

檀祗は字を恭叔といい、高平郡金郷県の人で、左将軍檀韶の次弟である。若くして孫無終の輔国参軍となり、無終に従って孫恩を東征し、たびたび戦功を挙げた。また王誕の龍驤参軍となった。高祖に従って京城を攻略し、建武軍事に参画した。羅落に至り、檀憑之が戦死した後、憑之の率いていた兵を祗に配属した。京邑が平定されると、鎮軍事に参画し、振武将軍を加えられ、振武大将軍の道規に属して桓玄を追討し、戦うごとに勝利した。江陵が平定されると、道規は祗を派遣して溳・沔の亡命者である桓道児、張靖、苻嗣らを征討させ、すべて平定した。龍驤将軍・秦郡太守・北陳留内史に任じられ、さらに寧朔将軍・竟陵太守となったが、拝命しなかった。長沙で桓亮を、湘東で苻宏を撃破した。武陵内史の庾悦が病気になったため、道規は祗に悦の後任を代行させ、寧朔将軍を加え、西昌県侯に封じられ、食邑千戸を与えられた。五年、朝廷に入って中書侍郎となった。

原文檀祗字恭叔,高平金鄉人,左將軍韶第二弟也。少為孫無終輔國參軍,隨無終東征孫恩,屢有戰功。復為王誕龍驤參軍。從高祖克京城,參建武軍事。至羅落,檀憑之戰沒之後,仍以憑之所領兵配祗。京邑既平,參鎮軍事,加振武將軍,隸振武大將軍道規追討桓玄,每戰克捷。江陵平定,道規遣祗征溳、沔亡命桓道兒、張靖、苻嗣等,皆悉平之。除龍驤將軍、秦郡太守、北陳留內史,又為寧朔將軍、竟陵太守,不拜。破桓亮於長沙,苻宏於湘東。武陵內史庾悅疾病,道規以祗代悅,加寧朔將軍,封西昌縣侯,食邑千戶。五年,入為中書侍郎。

盧循が京邑に迫ると、輔国将軍を加えられ、兵を率いて西明門外に駐屯した。盧循が退走すると、祗は配下の軍勢を率いて歩兵で江陵を救援する途上にあったが、出発せず、病気にかかり停止した。八年、右衛将軍に転じ、輔国将軍・宣城内史として出向し、同じ号で江北淮南軍郡事・青州刺史・広陵相を監督した。征虜将軍に進号し、節を加えられた。

原文盧循逼京邑,加輔國將軍,領兵屯西明門外。循退走,祗率所領,步道援江陵,未發,遇疾停。八年,遷右衞將軍,出為輔國將軍、宣城內史,即本號督江北淮南軍郡事、青州刺史、廣陵相。進號征虜將軍,加節。

十年、亡命者の司馬国璠兄弟が北徐州の境界で数百の兵を集め、ひそかに淮水を渡り、夜陰に乗じて、百人ほどで広陵城に沿って侵入し、叫び声を上げながら真っ直ぐに役所の正堂に上がった。祗は驚いて起き上がり、門を出て処置しようとしたが、賊が射てきて腿に傷を負い、中に入った。祗は左右の者に言った。「賊は暗闇に乗じて侵入し、我々の不意を突こうとしている。ただ五鼓を打てば、夜明けを恐れて必ず逃げ出すだろう。」賊は鼓の音を聞き、夜明けだと思い、そこで散り散りに逃げた。追討して百余人を殺した。祗は建武将軍に降格された。十一年、右将軍に進号した。十二年、高祖が北伐すると、亡命者の司馬□が涂中を寇し、秦郡太守の劉基が救援を求めた。軍を分けて急襲討伐し、すぐに撃破して斬った。

原文十年,亡命司馬國璠兄弟自北徐州界聚眾數百,潛得過淮,因天夜陰闇,率百許人緣廣陵城得入,叫喚直上聽事。祗驚起,出門將處分,賊射之,傷股,乃入。祗語左右:「賊乘闇得入,欲掩我不備。但打五鼓,懼曉,必走矣。」賊聞鼓鳴,謂為曉,於是奔散,追討殺百餘人。祗降號建武將軍。十一年,進號右將軍。十二年,高祖北伐,而亡命司馬□寇涂中,秦郡太守劉基求救,分軍掩討,即破斬之。

十四年、宋国が初めて建てられた時、天子の詔があった。「宋国が立ち上がり、内外とも草創期であり、禁軍の要職は、総管するのに才能が必要である。右将軍の祗を宋の領軍将軍とし、散騎常侍を加えるべし。」祗は気性が誇り高く豪放で、外任で自由気ままに過ごすことを好み、内遷を望まず、非常に不満であった。発病して自ら治療せず、その年に広陵で死去した。時に五十一歳。散騎常侍・撫軍将軍を追贈され、諡を威侯といった。

原文十四年,宋國初建,天子詔曰:「宋國始立,內外草創,禁旅王要,總司須才。右將軍祗可為宋領軍將軍,加散騎常侍。」祗性矜豪,樂在外放恣,不願內遷,甚不得志。發疾不自治,其年卒廣陵,時年五十一。贈散騎常侍、撫軍將軍,諡曰威侯。

子の献が後を継いだが、元熙年間に死去し、子がなかったため、祗の次子の朗が封を継いだ。朗が死去すると、子の宣明が後を継いだ。宣明が死去すると、子の逸が後を継いだ。斉が禅譲を受けると、封国は除かれた。

原文子獻嗣,元熙中卒,無子,祗次子朗紹封。朗卒,子宣明嗣。宣明卒,子逸嗣。齊受禪,國除。