宋書

列伝第四 謝晦

列伝第四 謝晦

謝晦は字あざなを宣明といい、陳郡陽夏の人である。祖父の朗は東陽太守たいしゅであった。父の重は会稽王司馬道子の驃騎ひょうき長史であった。兄の絢は高祖(劉裕)の鎮軍長史であったが、早くに亡くなった。

原文謝晦字宣明,陳郡陽夏人也。祖朗,東陽太守。父重,會稽王道子驃騎長史。兄絢,高祖鎮軍長史,蚤卒。

謝晦は初め孟昶の建威府中兵参軍となった。孟昶が死ぬと、高祖は劉穆之に「孟昶の参佐のうち、誰が我が府に入るのに適しているか」と尋ねた。穆之が謝晦を推挙したので、すぐに太尉たいい参軍に任命された。高祖が囚人を取り調べたことがあった。その朝、刑獄参軍が病気だったので、文書で謝晦に代行させた。謝晦は車中で取り調べの記録を一覧し、すぐに判決を下した。相府の事務は多く、獄中の囚人は山積みであったが、謝晦は問われるままに応答し、一度も誤りや矛盾がなかった。高祖はこれを奇異に思い、その日に刑獄賊曹に任命し、後に豫州治中従事に転じた。義熙八年、僑置郡県の住民を現地に定着させる土断が行われ、謝晦は揚州と豫州の民戸を分けて裁定する役目を命じられ、公平で妥当なことで称賛された。太尉主簿として中央に入った。司馬休之征討に従軍した。その時、徐逵之が戦いに敗れて殺されると、高祖は怒り、自ら甲冑を着けて岸に上ろうとした。諸将が諫めたが聞き入れず、怒りはますます激しくなった。謝晦が前に進み出て高祖を抱き止めると、高祖は「お前を斬るぞ!」と言った。謝晦は「天下に謝晦がいなくてもよいが、公(高祖)がいなくてはなりません。謝晦が死んだところで何の痛痒もありません!」と言った。ちょうど胡藩がすでに岸に上り、賊が退却したので、ようやく止めた。

原文晦初為孟昶建威府中兵參軍。昶死,高祖問劉穆之:「孟昶參佐,誰堪入我府?」穆之舉晦,即命為太尉參軍。高祖嘗訊囚,其旦刑獄參軍有疾,札晦代之,於車中一覽訊牒,催促便下。相府多事,獄繫殷積,晦隨問酬辯,曾無違謬。高祖奇之,即日署刑獄賊曹,轉豫州治中從事。義熙八年,土斷僑流郡縣,使晦分判揚、豫民戶,以平允見稱。入為太尉主簿。從征司馬休之。時徐逵之戰敗見殺,高祖怒,將自被甲登岸,諸將諫,不從,怒愈甚。晦前抱持高祖,高祖曰:「我斬卿!」晦曰:「天下可無晦,不可無公,晦死何有!」會胡藩已得登岸,賊退走,乃止。

謝晦は風采が美しく、よく話し笑い、眉目がはっきりとして、鬢の毛は漆を点じたように黒かった。文書の意味に広く通じ、明快で豊富な知識を持ち、多くのことに通じていた。高祖は深く愛賞し、他の官僚たちは及ばなかった。関中・洛陽征討に従い、内外の重要な任務をすべて彼に委ねた。劉穆之が使者を遣わして事柄を陳述させると、謝晦はしばしば異なる意見を述べた。穆之は怒って言った。「公(高祖)はまた戻ってくる時があるのか?」高祖は謝晦を従事中郎にしようと考え、穆之に意見を求めたが、穆之は固執して認めなかった。穆之の存命中は昇進しなかった。穆之の訃報が届くと、高祖は非常に悲しんで泣いた。謝晦はその時ちょうど当直で、大いに喜び、自ら閣内に入って穆之の死の知らせを確認した。その日に命令が出て、謝晦は従事中郎に転じた。

原文晦美風姿,善言笑,眉目分明,鬢髮如點漆。涉獵文義,朗贍多通。高祖深加愛賞,羣僚莫及。從征關、洛,內外要任悉委之。劉穆之遣使陳事,晦往往措異同,穆之怒曰:「公復有還時不?」高祖欲以為從事中郎,以訪穆之,堅執不與。終穆之世不遷。穆之喪問至,高祖哭之甚慟。晦時正直,喜甚,自入閤內參審穆之死問。其日教出,轉晦從事中郎。

宋の朝廷が初めて建てられた時、右衛将軍となり、まもなく侍中じちゅうを加えられた。高祖が天命を受けて皇帝に即位する際、石頭せきとう城で壇に登り、法駕を整えて宮中に入った。謝晦は游軍を率いて警備にあたり、中領軍に昇進し、侍中の職はもとのままだった。建国の功績により、武昌県公に封じられ、食邑二千戸を与えられた。永初二年、行璽を用いて鎮西司馬・南郡太守の王華に大封(封爵の文書)を授ける際、誤って北海太守の球に封じてしまった罪により、版授(任命書による任命)によって謝晦の侍中の職を免じられた。

原文宋臺初建,為右衞將軍,尋加侍中。高祖受命,於石頭登壇,備法駕入宮。晦領游軍為警備,遷中領軍,侍中如故。以佐命功,封武昌縣公,食邑二千戶。二年,坐行璽封鎮西司馬、南郡太守王華大封,而誤封北海太守球,版免晦侍中。

まもなく領軍将軍・散騎常侍さんきじょうじに転じ、晋の中軍将軍羊祜の故事に倣い、殿省に入って直し、宿衛を統率した。永初三年三月、高祖(武帝劉裕)が病気になると、班剣二十人を与えられ、徐羨之・傅亮・檀道済とともに侍医薬(看病と薬の管理)にあたった。少帝が即位すると、中書令を加えられ、羨之・亮とともに朝政を補佐した。少帝が廃位されると、司空しくうの徐羨之が詔命を録し、謝晦に行都督ととく荊湘雍益寧南北秦七州諸軍事・撫軍将軍・領護南蛮校尉・荊州刺史ししの職務を行わせ、外に居て援護させることを考えた。太祖(文帝劉義隆)が到着して別の人を任用するかもしれないと慮り、急いでこの任命を行ったのである。精兵や古参の将軍はすべて彼に配属され、武器や軍資は非常に豊富であった。太祖が即位すると、使持節を加えられ、もとの位のまま除授された。謝晦は(中央から)離れられないのではないかと心配し、非常に憂い恐れたが、新亭を出発し、石頭城を振り返って望み、喜んで言った。「今や脱することができた。」まもなく衛将軍に号を進められ、散騎常侍を加えられ、建平郡公に進封され、食邑四千戸を与えられたが、固辞して進封を受けなかった。また鼓吹一部を与えられた。

原文尋轉領軍將軍、散騎常侍,依晉中軍羊祜故事,入直殿省,總統宿衞。三月,高祖不豫,給班劍二十人,與徐羨之、傅亮、檀道濟並侍醫藥。少帝即位,加領中書令,與羨之,亮共輔朝政。少帝既廢,司空徐羨之錄詔命,以晦行都督荊湘雍益寧南北秦七州諸軍事、撫軍將軍、領護南蠻校尉、荊州刺史,欲令居外為援,慮太祖至或別用人,故遽有此授。精兵舊將,悉以配之,器仗軍資甚盛。太祖即位,加使持節,依本位除授。晦慮不得去,甚憂惶,及發新亭,顧望石頭城,喜曰:「今得脫矣。」尋進號衞將軍,加散騎常侍,進封建平郡公,食邑四千戶,固讓進封。又給鼓吹一部。

初めて荊州に赴任する時、非常に自慢げな様子があり、任地に向かう際、従叔の光禄大夫の謝澹に別れを告げに訪れた。澹が謝晦の年齢を尋ねると、謝晦は「三十五です」と答えた。澹は笑って言った。「昔、荀中郎(荀羨)は二十七歳で北府都督となった。卿は彼と比べると、もう老いている。」謝晦は恥ずかしそうな表情をした。

原文初為荊州,甚有自矜之色,將之鎮,詣從叔光祿大夫澹別。澹問晦年,晦答曰:「三十五。」澹笑曰:「昔荀中郎年二十七為北府都督,卿比之,己為老矣。」晦有愧色。

江陵に到着すると、侍中の王華と深く結びつき、禍を免れようと望んだ。二人の娘を彭城ほうじょう王劉義康と新野侯劉義賓に嫁がせることになっていた。元嘉二年、妻の曹氏と長男の世休を遣わして娘たちを都に送り返した。この前、景平年間に、索虜(北魏)が侵寇し、河南を陥落させた。この時、上(文帝)は徐羨之らを誅殺し、併せて謝晦を討伐しようと考えた。北伐を声高に言い、また京陵(武帝の陵)への拝謁を言い、船艦の装備を整えた。傅亮が謝晦に手紙を送って言った。「河朔を討伐することは、事がまだ終わっていない。朝野の憂慮は、恐れ惧れる者が多い。」また言った。「朝士の多くは北征を諫めており、上は外監の万幼宗を遣わして相談させようとしている。」この時、朝廷の処置は異常で、その謀略はかなり漏れていた。元嘉三年正月、謝晦の弟の黄門侍郎の謝㬭が急使を走らせて謝晦に告げたが、謝晦はまだそうではないと思い、諮議参軍の何承天を呼び、傅亮の手紙を見せて言った。「万幼宗は一両日中に必ず到着するだろう。傅公は私が事を起こすのを心配して、先にこの手紙を送ってきたのだ。」承天は言った。「外で聞くところでは、皆、西討(謝晦討伐)がすでに決まったと言っております。幼宗がどうして来る道理がありましょうか。」謝晦はまだ虚偽だと思い、承天に予め返答の詔書の草案を立てさせ、虜を討伐するのは来年がよいと述べさせた。江夏内史の程道惠が尋陽の人の手紙を得て、「朝廷は大きな処分を行おうとしており、その事はすでに確かである」と言い、その輔国府中兵参軍の楽冏に封をして謝晦に見せさせた。謝晦はまた承天に言った。「幼宗はまだ到着していない。もしまた二三日消息がなければ、もう来ないということか?」承天は答えて言った。「詔使はもともと来る道理はありません。程が言うように、その事はすでに決まっているのです。どうしてまた疑う余地がありましょうか。」

原文至江陵,深結侍中王華,冀以免禍。二女當配彭城王義康、新野侯義賓,元嘉二年,遣妻曹及長子世休送女還京邑。先是景平中,索虜為寇,覆沒河南。至是上欲誅羨之等,并討晦。聲言北伐,又言拜京陵,治裝舟艦。傅亮與晦書曰:「薄伐河朔,事猶未已,朝野之慮,憂懼者多。」又言:「朝士多諫北征,上當遣外監萬幼宗往相諮訪。」時朝廷處分異常,其謀頗泄。三年正月,晦弟黃門侍郎㬭馳使告晦,晦猶謂不然,呼諮議參軍何承天,示以亮書,曰:「計幼宗一二日必至,傅公慮我好事,故先遣此書。」承天曰:「外間所聞,咸謂西討已定,幼宗豈有上理。」晦尚謂虛妄,使承天豫立答詔啟草,言伐虜宜須明年。江夏內史程道惠得尋陽人書,言「朝廷將有大處分,其事已審」,使其輔國府中兵參軍樂冏封以示晦。晦又謂承天曰:「幼宗尚未至,若復二三日無消息,便是不復來邪?」承天答曰:「詔使本無來理,如程所說,其事已判,豈容復疑。」

謝晦は南蛮府の兵籍を焼き払い、現有の兵力で決戦しようと考えた。士人の多くは出兵を勧めたので、幡を立てて戒厳を布告し、司馬の庾登之に言った。「今、我々は自ら出陣しようとしている。卿に三千人を率いて城を守り、劉粹を防備してほしい。」登之は言った。「下官には老いた親が都におり、またもともと軍旅の経験がありません。考えは二つ三つに揺れており、このご命令を受けることはできません。」謝晦はそれでも諸参佐に尋ねた。「戦士三千で、城を守るのに足りるか?」南蛮司馬の周超が答えて言った。「ただ城を守るだけでなく、もし外敵が来れば、功績を立てることができます。」登之はそこで言った。「周超なら必ずやり遂げられます。下官は司馬と南郡太守の職を解いて彼に譲ります。」その場でただちに周超を司馬・建威将軍・南義陽太守に任命し、登之を長史に転じ、南郡太守はもとのままとした。

原文晦欲焚南蠻兵籍,率見力決戰。士人多勸發兵,乃立幡戒嚴,謂司馬庾登之曰:「今當自下,欲屈卿以三千人守城,備禦劉粹。」登之曰:「下官親老在都,又素無旅,情計二三,不敢受此旨。」晦仍問諸佐:「戰士三千,足守城不?」南蠻司馬周超對曰:「非徒守城而已,若有外寇,可以立勳。」登之乃曰:「超必能辦,下官請解司馬、南郡以授。」即於坐命超為司馬、建威將軍、南義陽太守,轉登之為長史,南郡如故。

太祖は徐羨之らおよび謝晦の子で新たに任命されたばかりの秘書郎の謝世休を誅殺し、謝㬭、謝㬭の子の世平、兄の子の著作佐郎の謝紹らを捕らえた。楽冏がまた使者を遣わして謝晦に告げた。「徐・傅の二公および謝㬭らはすでに誅殺された。」謝晦はまず徐羨之と傅亮の死を悼んで哀悼の意を示し、次いで子弟の凶報(死の知らせ)を公表した。その後、自ら射堂に出て、軍装を整え兵士を配属した。かつて高祖の征討に数多く従い、経略を目の当たりにしていたので、この時に至って指揮し処分すること、適切でないことはなかった。二三日のうちに、四方から兵が集まり、精兵三万人を得た。そこで上表文を奉って言った。

原文太祖誅羨之等及晦子新除祕書郎世休,收㬭、㬭子世平、兄子著作佐郎紹等。樂冏又遣使告晦:「徐、傅二公及㬭等並已誅。」晦先舉羨之、亮哀,次發子弟凶問。既而自出射堂,配衣軍旅。數從高祖征討,備覩經略,至是指麾處分,莫不曲盡其宜。二三日中,四遠投集,得精兵三萬人。乃奉表曰:

太祖はすでに戒厳を布告しており、諸軍は次々と進軍を開始した。尚書が荊州に符(公文書)を下して言った。

原文太祖時已戒嚴,諸軍相次進路。尚書符荊州曰:

この時、益州刺史の蕭摹之と巴西太守の劉道産が召還されて帰還途中で、ちょうど江陵に到着した。謝晦は彼らをともに拘束し、その財貨を没収して軍資に充てた。竟陵内史の殷道鸞はまだ任地に赴いておらず、彼を諮議参軍とした。弟の謝遯を冠軍かんぐん将軍・竟陵内史とし、留守の任務を総括させ、兄の子の謝世猷を建威将軍・南平太守とした。劉粹がもし来たら、周超が彼を打ち破ることができれば、すぐに龍驤将軍・雍州刺史に任じようとした。謝晦は二万の兵を率いて江陵を出発し、船艦は江津から破冢まで列をなし、旌旗が互いに照り映え、日光を覆い隠した。謝晦はため息をついて言った。「恨むらくは、これを勤王の師とすることができなかったことだ!」自ら湘州刺史を兼ね、張邵を輔国将軍としたが、張邵は命令を受けなかった。

原文時益州刺史蕭摹之、巴西太守劉道產被徵還,始至江陵,晦並繫縶,沒其財貨,以充軍資。竟陵內史殷道鸞未之郡,以為諮議參軍。以弟遯為冠軍、竟陵內史,總留任,兄子世猷為建威將軍、南平太守。劉粹若至,周超能破之者,即以為龍驤將軍、雍州刺史。晦率眾二萬,發自江陵,舟艦列自江津至于破冢,旍旂相照,蔽奪日光。晦乃歎曰:「恨不得以此為勤王之師!」自領湘州刺史,以張邵為輔國將軍,邵不受命。

謝晦が都に檄文を飛ばして言った。

原文晦檄京邑曰:

謝晦が江口に到着した時、到彦之はすでに彭城洲に到着していた。庾登之は巴陵を占拠していたが、臆病で進もうとしなかった。ちょうど長雨が続いたので、参軍劉和之が言った。「こちらも向こうも同じ雨です。檀征北(檀道済)がまもなく到着し、東軍(朝廷軍)は勢いが強い。ただ迅速に戦うべきです。」登之は臆病で、小将の陳祐に命じて大きな袋を作らせ、数千斛こくの茅を詰め、帆柱に吊るさせた。艦船を焼くことができると言い、火を使うには晴天を待つべきだとし、戦いの時期を遅らせた。謝晦はそれを認め、そこで軍を十五日間停止させた。それから彭城洲の蕭欣を攻撃し、中兵参軍の孔延秀が三千人を率いて進撃し、非常に奮戦した。蕭欣は陣の後方で楯を抱えて自衛し、さらに軍を捨てて船に戻ったため、大敗した。延秀はさらに洲口の柵を攻め落とし、彦之は隠圻に退いて守りを固めた。

原文晦至江口,到彥之已到彭城洲。庾登之據巴陵,畏懦不敢進。會霖雨連日,參軍劉和之曰:「彼此共有雨耳,檀征北尋至,東軍方強,唯宜速戰。」登之恇怯,使小將陳祐作大囊,貯茅數千斛,縣於颿檣,云可以焚艦,用火宜須晴,以緩戰期。晦然之,遂停軍十五日。乃攻蕭欣於彭城洲,中兵參軍孔延秀率三千人進戰,甚力。欣於陳後擁楯自衞,又委軍還船,於是大敗。延秀又攻洲口柵陷之,彥之退保隱圻。

謝晦はまた上表して言った。

原文晦又上表曰:

当初、謝晦は徐羨之、傅亮とともに自らの安全を図る策を謀り、謝晦は上流を占拠し、檀道済は広陵を鎮守し、それぞれ強兵を持って朝廷を牽制し、羨之と亮が朝廷内で権力を握れば、長く持ちこたえられると考えた。太祖(文帝)が誅殺を実行しようとした時、王華らは皆、「道済は信用できません」と言った。太祖は言った。「道済は脅迫に従っただけで、もともと主謀者ではない。殺害の件にも関与していない。私が召し出して尋ねれば、必ず異なる態度を示すだろう。」そこで詔を下して道済を朝廷に入らせ、兵を授け、西方討伐を委任した。謝晦は羨之らが死んだと聞き、道済も一人では生き残れないだろうと思ったが、彼が軍を率いて上って来たと聞くと、恐れおののき、どうすることもできなかった。

原文初,晦與徐羨之、傅亮謀為自全之計,晦據上流,而檀道濟鎮廣陵,各有強兵,以制持朝廷;羨之、亮於中秉權,可得持久。及太祖將行誅,王華之徒咸云:「道濟不可信。」太祖曰:「道濟止於脅從,本非事主。殺害之事,又所不關。吾召而問之,必異。」於是詔道濟入朝,授之以眾,委之西討。晦聞羨之等死,謂道濟必不獨全,及聞率眾來上,惶懼無計。

道済が到着すると、彦之の軍と合流し、軍艦を岸に沿って牽引した。謝晦は最初、軍艦の数が多くないのを見て、軽視し、すぐには戦いを始めなかった。夕方になると、風に帆を上げて前進し、前後が連なり、西軍(謝晦軍)の兵士は離散し、もはや戦う意欲を失った。朝廷軍は忌置洲の末端に到着し、軍艦を並べて長江を渡り、謝晦の大軍は一斉に潰走した。謝晦は夜に出て、巴陵に逃れ、小船で江陵に戻った。当初、雍州刺史の劉粹は弟の竟陵太守劉道済を遣わし、朝廷軍の主将沈敞之とともに江陵を襲撃させたが、沙橋に至り、周超が一万余人を率いて戦い、大破した。まもなく謝晦敗北の報が届いた。謝晦が江陵に着くと、他にどうすることもなく、ただ周超に恥じ入って謝罪しただけだった。周超はその夜、軍を捨てて単艦で到彦之のもとに赴き降伏した。兵士はほぼ散り散りになったので、謝晦は弟の謝遯、兄の子の謝世基ら七騎を連れて北へ逃走した。謝遯は肥満で馬に乗れず、謝晦はいつも彼を待たねばならず、速く進めなかった。安陸の延頭に至り、戍主の光順之に捕らえられた。順之は謝晦の旧吏であった。檻車で都に送られる途中、謝晦は『悲人道』を作り、その詞は次のようであった。

原文道濟既至,與彥之軍合,牽艦緣岸。晦始見艦數不多,輕之,不即出戰。至晚,因風帆上,前後連咽,西人離阻,無復鬭心。臺軍至忌置洲尾,列艦過江,晦大軍一時潰散。晦夜出,投巴陵,得小船還江陵。初,雍州刺史劉粹遣弟竟陵太守道濟與臺軍主沈敞之襲江陵,至沙橋,周超率萬餘人與戰,大破之。俄而晦敗問至。晦至江陵,無它處分,唯愧謝周超而已。超其夜舍軍單舸詣到彥之降。眾散略盡,乃攜其弟遯、兄子世基等七騎北走。遯肥壯不能騎馬,晦每待之,行不得速。至安陸延頭,為戍主光順之所執。順之,晦故吏也。檻送京師,於路作悲人道,其詞曰:

周超が降伏すると、到彦之は彼を参府の事務に当たらせたが、劉粹が参軍の沈敞之を遣わし、彦之に沙橋での敗北は周超のせいだと告げたので、彦之は彼を捕らえた。先に謝㬭らを拘束していたが、まだすぐには処刑せず、そこで謝晦、謝遯、兄の子の謝世基、謝世猷および同党の孔延秀、周超、費愔、竇応期、蔣虔、厳千斯らをともに誅殺した。世基は謝絢の子で、才気があった。死に臨んで連句の詩を作った。「偉大なるかな横海の鱗、壮麗なるかな垂天の翼。一旦風水を失えば、翻って螻蟻の食と為る。」謝晦が続けた。「功遂げて昔人に侔い、退きを保つに智力無し。既に太行の険に渉り、この路信じ難く陟る。」謝晦が死んだ時、三十七歳であった。庾登之、殷道鸞、何承天は皆、罪を赦された。

原文周超既降,到彥之以參府事,劉粹遣參軍沈敞之告彥之沙橋之敗,事由周超,彥之乃執之。先繫㬭等,猶未即戮,於是與晦、遯、兄子世基、世猷及同黨孔延秀、周超、費愔、竇應期、蔣虔、嚴千斯等並伏誅。世基,絢之子也,有才氣。臨死為連句詩曰:「偉哉橫海鱗,壯矣垂天翼。一旦失風水,翻為螻蟻食。」晦續之曰:「功遂侔昔人,保退無智力。既涉太行險,斯路信難陟。」晦死時,年三十七。庾登之、殷道鸞、何承天並皆原免。

当初、河東の人商玄石は謝晦の参軍であったが、謝晦が叛逆すると、玄石は密かに西人の庾田夫と到彦之の従弟を推して主としようとしたが、田夫らは敢えて承諾しなかった。玄石は独りで謀っても成り立たないと知り、そこで謝晦のために幢(軍旗)を率いた。事が平定された後、本来の志が遂げられなかったことを悔やみ、水に投身して死んだ。太祖はこれを賞賛し、その子の商懐福を衡陽王劉義季の右軍参軍督護とした。謝晦が逃走した時、側近は皆彼を見捨てたが、ただ延陵蓋だけが追い従って離れなかった。太祖はこれを賞賛し、後に蓋を長沙王劉義欣の鎮軍功曹督護とした。

原文初,河東人商玄石為晦參軍,晦為逆,玄石密欲推西人庾田夫及到彥之從弟為主,田夫等不敢許。玄石知獨謀不立,遂為晦領幢。事既平,恨本心之不遂,投水死。太祖嘉之,以其子懷福為衡陽王義季右軍參軍督護。晦走,左右皆棄之,唯有延陵蓋追隨不舍。太祖嘉之,後以蓋為長沙王義欣鎮軍功曹督護。