巻43

宋書

列伝第三 徐羨之 傅亮 檀道濟

徐羨之は字を宗文といい、東海郡郯県の人である。祖父の徐寧は、尚書吏部郎、江州 刺史 しし に任じられたが、拝命前に死去した。父の徐祚之は、上虞県令であった。

徐羨之は若くして王雅の太子少傅主簿、劉牢之の鎮北功曹、尚書祠部郎となったが拝命せず、桓脩の撫軍中兵曹参軍となった。高祖(劉裕)と同じ幕府に属し、深く親しく結びついた。義旗が掲げられると、高祖は版授により彼を鎮軍参軍、尚書庫部郎、領軍司馬とした。謝混と共に事に当たり、謝混は彼を大いに認めた。琅邪王大司馬参軍、 司徒 しと 左西属、徐州別駕従事史、 太尉 たいい 諮議参軍を補任された。義熙十一年、鷹揚将軍・琅邪内史に任じられ、引き続き大司馬従事中郎となり、将軍の位はそのままとした。高祖が北伐すると、 太尉 たいい 左司馬に転じ、留守の任を掌り、劉穆之の次官として補佐した。

初め、高祖が北伐を議した時、朝廷の多くの者は諫めたが、徐羨之だけは黙っていた。ある者がなぜただ一人発言しないのかと問うと、羨之は言った。「私は位は二品に至り、官は二千石であり、志望は久しく満たされている。今、二方(南燕・後秦)は既に平定され、万里の地を拓いた。ただ小さい きょう 族(西秦・夏など)が未だ定まっていないだけで、公(劉裕)は寝食も忘れて気にかけている。考えの度量が違うのに、どうして軽々しく口出しできようか」。劉穆之が没すると、高祖は命じて徐羨之を吏部尚書・建威将軍・丹陽尹とし、留守の任を総括して知らせ、甲仗二十人を付けて出入りさせた。 尚書 僕射 ぼくや に転じ、将軍・尹はそのままとした。

十四年、大司馬府の軍人朱興の妻の周が、息子の道扶(三歳)が先に癇病を得た際、その病気が発作を起こしたのに乗じて、地を掘って生き埋めにした罪に坐し、道扶の父方の叔母の娘に告発され、周に棄市の刑が適用されようとした。羨之は議して言った。「自然の愛は、虎狼でさえも仁を示す。周の凶悪残忍さは、明らかに誅戮を加えるべきである。臣は思うに、法律の外においても、やはり万物の情理を広く考えるべきである。母が刑に処せられるのは、子によって法が明らかになるためであり、子としての道において、自ら容れられる場所があろうか。たとえ法に伏す者が罪に当たるとしても、寛容されるべき者には容れられない。愚かながら、特におびただしい遠方の地に流すことを申し上げる」。これに従った。

高祖が即位すると、鎮軍将軍に進号し、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。上(高祖)が即位した初め、佐命の功を思い、 詔 して言った。「 散騎常侍 さんきじょうじ ・尚書 僕射 ぼくや ・鎮軍将軍・丹陽尹徐羨之、監江州 州之西陽新蔡諸軍事・撫軍将軍・江州 刺史 しし 華容侯王弘、 散騎常侍 さんきじょうじ ・護軍将軍作唐男檀道濟、中書令・領太子詹事傅亮、 侍中 ・中領軍謝晦、前左将軍・江州 刺史 しし 宜陽侯檀韶、使持節・雍梁南北秦四州荊州之河北諸軍事・後将軍・雍州 刺史 しし 関中侯趙倫之、使持節・督北徐兗青三州諸軍事・征虜将軍・北徐州 刺史 しし 南城男劉懷慎、 散騎常侍 さんきじょうじ ・領太子左衛率新淦侯王仲德、前 冠軍 将軍・北青州 刺史 しし 安南男向彌、左衛将軍灄陽男劉粹、使持節・南蛮 校尉 こうい 佷山子到彦之、西中郎司馬南郡相宜陽侯張邵、参西中郎将軍事・建威将軍・河東 太守 資中侯沈林子らは、あるいは忠義の規を立て遠くを謀り、大業を扶け賛し、あるいは勤めを尽くして功績を立て、艱難を広く救済した。事を始め終わりを図り、勲功は盛んである。皆、国と共に休戚を同じくし、この大いなる賜物を享受すべきである。羨之は南昌県公に封ぜられ、王弘は華容県公に封ぜられ、檀道濟は永脩県公に改封され、傅亮は建城県公に封ぜられ、謝晦は武昌県公に封ぜられ、それぞれ食邑二千戸とする。檀韶はさらに邑二千五百戸を増やし、王仲德は邑二千二百戸を増やす。劉懷慎・到彦之はそれぞれ侯に爵位を進め、劉粹は建安県侯に改封し、ともに邑を千戸に増やす。趙倫之は霄城県侯に封ぜられ、食邑千戸とする。張邵は臨沮県伯に封ぜられ、沈林子は漢寿県伯に封ぜられ、それぞれ食邑六百戸とする。開国の制度は、おおむね旧章に従う」。

徐羨之は 尚書令 しょうしょれい ・揚州 刺史 しし に遷り、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。 司空 しくう ・録尚書事に進位し、常侍・ 刺史 しし はそのままとした。羨之は 布 衣から出発し、また学術もなく、ただ志気と力量、器量と度量によって、一朝にして朝廷の高位に居り、朝廷と民間から推服され、皆、宰相の器量があると認めた。沈着で口数が少なく、憂いや喜びを顔色に表さなかった。囲碁にかなり巧みで、対局を見ていても常に理解していないかのようであったが、当時の人々はかえってこれによって彼を推重した。傅亮と蔡廓は常に言った。「徐公は万事に通暁し、異同を安んじる」。

高祖が病気になると、班剣三十人を加えられた。高祖が崩御すると、中書令傅亮・領軍将軍謝晦・鎮北将軍檀道濟とともに顧命を受けた。少帝は 詔 して言った。「獄訟を公平に処理することは、政治の道で最も先んずべきことである。朕は哀痛と荒乱の中にあり、親しく覧るに堪えない。 司空 しくう 尚書令 しょうしょれい は衆官を率いて月に一度獄を決するように」。

帝(少帝)が後に徳を失うと、羨之らは廃立を謀ろうとしたが、廬陵王劉義真は軽率で過失が多く、天下を任せられないと考え、まず義真を廃し、その後で帝を廃することにした。当時、謝晦は領軍将軍であり、府舎の内屋が壊れて修理が必要なため、家族をことごとく邸宅から移し、将士を府内に集めた。鎮北将軍・南兗州 刺史 しし 檀道濟は先朝の旧将であり、威厳は宮省に服させ、かつ兵衆を有していたので、召し入れて朝に参じさせ、謀議を告げた。事が起こらんとする時、道濟は領軍府に入って宿直した。中書舎人邢安泰・潘盛が内応となり、その日は宮門を守った。道濟が兵を率いて先頭に立ち、羨之らがその後を継ぎ、東掖門・雲龍門から入った。宿衛の兵はあらかじめ処分を受けていたので、動く者はなかった。先に帝は華林園で店舗を並べ、自ら酒を売り、また溝を開き土を積んで破岡瀆に似せ、左右の者を率いて声をあげて船を引くことを楽しみとしていた。その夜、帝は龍舟に寝ており、天淵池にあった。兵士が進んで二人を殺し、また帝の指を傷つけた。帝を扶けて東閤から出し、 璽綬 じじゅ を収めた。群臣が拝礼して別れを告げ、衛送して旧太子の宮に移し、さらに吳郡に遷した。侍中程道惠が第五皇弟の義恭を立てるよう勧めたが、羨之は許さなかった。使者を遣わして新安で義真を殺し、吳県で帝を殺した。当時、帝のために宮殿を築いていたが未完成で、仮に金昌亭に居させていた。帝が突然走り出て昌門を出ようとしたので、追う者が門の閂で彼を地面に打ち倒し、その後で害を加えた。

太祖(文帝)が即位すると、羨之を 司徒 しと に進め、その他の官職はそのままとし、南平郡公に改封し、食邑四千戸としたが、固辞して加封を譲った。有司が奏上して、車駕が旧例に従って華林園に臨んで訴訟を聴くべきとすると、 詔 して言った。「政事と刑罰については多く未だ詳らかでないところがある。先の二公(徐羨之・傅亮)が推問したようにせよ」。

元嘉二年、徐羨之は左光禄大夫の傅亮とともに上表して政務を返上し、次のように述べた。「臣は聞く、君主は契約を司り、枢機を運らして事を成し遂げる。臣下の道は終わりを代わり、事を尽くして補佐する。 冕旒 の道は、上古の帝王の理に絶え、拱手して自らを治めることは、中古には行われなかった。故に高宗(殷の武丁)は言葉を発さず、三年を区切りとし、冢宰(宰相)が政務を聴くのは、二年を限度とした。百王以来、そうでないことはなかった。陛下は聖徳をもって紹興し、洪業を負荷され、億兆の民が仰ぎ望み、盛んな教化に陶酔することを願っている。しかし聖旨は謙虚に退き、群司に委ねられている。大礼(先帝の葬儀)が終わって以来、火鑽ぎの木が三度変わり、大いなる明るさが照らすのを待ち、遠近が傾き属している。臣らは誠意を率いてたびたび申し上げたが、まだ上を感動させることができず、敢えて品物の情に藉り、謹んで蒼生の志によって願い出る。伏して願わくは、陛下が遠く周の文王の日が傾くまで勤めた道を思い、近く皇室が創建された艱難を考え、時に万機を総覧し、自ら朝政に躬親し、四方の聡明さを広く開き、庶業を博く諮詢されれば、雍熙の世が至り、生きとし生けるものは幸甚である。」上(文帝)は許さなかった。羨之らは重ねて上奏した。「近ごろ下情を陳べて書き記し、言葉は心の尽きる所であったが、返された 詔 書を拝し、許しを鑑みるも未だ返答がない。愚臣のみならず、心に思うところがあり、朝野に諮詢しても、人に異議はない。なぜか。風が四方に形作られるのは、実に王の徳に係っており、一国の事は、その本を一人に帰する。世代は異なり、時と風俗は違うが、主が運び臣が補佐するのは、古今を通じて一つの道理である。心を 渾 にして委任し、休明(善政)を期することはできず、これが宜しからぬことは、遠近に布きわたっている。臣らは二世に遇い、休戚(喜びと憂い)を共にし、情は国のために至り、どうして順んで黙していられようか。重ねて丹心を披き、冒昧にも請う。」上はなお辞退した。羨之らはまた固く陳述した。「先の表を披陳し、言葉と誠意はともに尽くしたが、 詔 旨は遠くにあり、聴き入れられず、三度繰り返して 屏営 、伏して憂いの嘆きを増す。臣は聞く、先人の構えを克く受け継ぐのは、幹蠱(かんこ:父の過ちを正す)の盛業であり、昧旦(まだ暗いうち)に大いに顕わすのは、帝王の高義である。皇宋が運を創って以来、英聖が造り上げられたが、深い憂いは未だ尽きず、艱難と患いはなお纏わりついている。天命が底にあることに頼り、聖明が業を承けているが、時に 屯 しい国故は、なお民心にある。泰山の安泰は、容易に保てるものではなく、昏明と隆替(盛衰)は、聖躬(天子ご自身)にかかっている。これはまさに周詩にいう夙興(早く起きる)の時、殷王が旦を待った日であり、どうして無為で拱手し、玄古の風に戻り、逡巡して虚しく譲り、匹夫の事に従うことができようか。伏して願わくは、宗廟を重んじ、百姓を心とし、大業を弘めて先の軌跡を嗣ぎ、聖道を隆盛にして前の功績を増してほしい。愚かな盲人の献ずる所、情はここに尽きる。」上はようやくこれを許した。羨之はなお位を譲って私邸に退いたが、兄の子の佩之や侍中の程道惠、呉興太守の王韶之らはみな適切でないと言い、きわめて苦しく敦め勧めたので、再び 詔 を奉じて任を摂った。

三年正月、 詔 を下した。「民は三(父・師・君)によって生まれ、事えることは一であり、愛敬は同じ極みに至る。名教のみならず、ましてや施しが造物に等しく、義が加えて隆盛にある者においてはなおさらである。徐羨之、傅亮、謝晦は、縁故による才能で、昔に恩を受け、無聞の地から抜擢され、要職に超抜され、卵の翼で育てられて成長したが、それでも譬えには足りない。永初の末、天の禍が横流し、大いなる明るさが傾いて輝き、四海は声を潜め、実に顧託を受け、任は図を負うと同じであった。しかるにその股肱(補佐)を尽くし、その心力を尽くすことができず、送り往くに再び言う節がなく、事に居て忠貞の効が欠け、順調に進める記録はなく、匡救の聞こえはなく、寵愛を懐いて取り入り、順調に成し遂げて徳を失った。末に禍を恐れて大策を建てたが、その悖心(道理に背く心)を逞しくし、不義を畏れなかった。播遷(都を移す)の始め、毒殺を謀り 肆 にし、到着して間もなく、怨みによる殺害を顕わに行い、窮凶極虐、荼酷(残酷)をことごとく加え、賤しい隷属の手に転倒し、逆旅(旅館)の館で命を告げ尽くし、都鄙(都と鄙)は哀愕し、行路の人は涙を飲んだ。故に廬陵王は英秀で明らかに遠く、徽風(美しい風評)は早くから広まり、魯と衛の寄せられた期待のように、朝野の情が属していた。羨之らは暴虐に蔑んで専権を求め、賢者を忌み、逼迫を恐れ、貝錦(誣告の文書)を造り構え、この無実の罪を作り上げ、主を欺き上を蒙き、横に流罪と追放を加え、朝旨を矯め 誣 き、この禍害を招いた。国命を寄せられながら、仇讐として切り捨て、旬月の間に、再び毒殺を肆にし、三霊(天・地・人)に痛みを感じさせ、人鬼に怨みを結んだ。書契以来、常を棄てて安んじて忍び、天明(天命)を 反易 すことは、これほど甚だしいものはなかった。昔、子家(鄭の公子帰生)が しい 逆に従ったので、鄭人が討伐を加え、宋の肥が無辜であったが、蕩沢が誅戮された。ましてや逆乱が往時の罪より倍し、情の痛みが国家より深いのに、これが許容できるなら、何が忍びられようか。即ち誅戮すべきであり、存亡に告げ謝すべきである。しかし当時は大事が始まったばかりで、異同が紛糾し、国を 匡 す勲功は実に著しいが、最大の罪は未だ顕わではなかった。そこで遠く民心を酌み、近く輿訟(世論)を聴き、乱を討とうとしても、図り難いことを慮り、故に悲しみを忍び哀しみを含み、恥を懐いて累載(数年)に及んだ。人生が実に難しく、情事が未だ 展 けないことを思うたびに、何度か影を顧みて心を慟哭し、枕を伏して血の涙を流さなかったことはない。今、逆臣の罪状は遠近に明らかに暴かれ、君子は悲情に、義徒は奮起を思い、家讐国恥は雪ぐことができる。便ち司寇に命じ、典刑を粛明にする。謝晦は上流を占拠し、あるいは即座に罪に服さないかもしれない。朕は自ら六師を率いて、その防遏に当たる。中領軍の到彦之を派遣して即日電撃的に出発させ、征北将軍の檀道濟に絡驛と道を継がせ、符 えい 軍府州に時を以って収め切り取らせる。既に征虜将軍の劉粹にその逃走と潜伏を断たせた。罪は元凶に止め、その余は問わない。永遠に去ったことを思い、心情は崩れ絶える。霧が既に除かれたので、治道を 庶幾 う。」

その日、 詔 が羨之を召した。西明門外に至った時、謝晦の弟の㬭(子肖反)が黄門郎で、直当番であり、傅亮に報せた。「殿内に異なる処分がある。」傅亮は急いで羨之に報せた。羨之は引き返して西州に至り、内人の問訊車に乗って郭外に出、歩いて新林まで走り、陶器窯の中に入って自ら剄死した。時に六十三歳。羨之は初め召しに応じず、上は中領軍の到彦之、右 えい 将軍の王華に追討を命じた。羨之が死ぬと、野人が報告し、屍を載せて廷尉に引き渡した。子の喬之は、高祖の第六女の富陽公主を娶り、官は竟陵王文学に至った。喬之と弟の乞奴は誅殺に従った。

初め、羨之が年少の時、かつて一人の人が来て、彼に言った。「私はお前の祖父だ。」羨之は起きて拝した。この人は言った。「お前には貴相があるが、大厄がある。銭二十八文を屋敷の四隅に埋めれば、災いを免れることができる。これを過ぎれば、人臣の極位に至ることができる。」後に羨之は親に従って県に行き、県内に住んでいた。かつて一時外出したが、賊が後から県を破り、県内の人で免れた者はなく、鶏犬もことごとく尽きたが、ただ羨之だけが外にいて全うした。従兄の履之に従って臨海郡楽安県にいた時、かつて山中を行き経て、黒龍を見た。長さ一丈余り、頭に角があり、前の両足はともに備わり、後ろ足はなく、尾を曳いて行った。 司空 しくう に拝された時、関を守って入ろうとすると、彗星が朝に危宿の南に見えた。また拝される時、双鸛が太極殿の東の鴟尾に集まって鳴き叫んだ。

兄の子の佩之は軽薄で利を好み、高祖は彼が姻戚であることから、重ねて寵愛し任用し、丹陽尹、呉郡太守とした。景平の初め、羨之が権力を握っていたため、かなり政事に関与した。王韶之、程道惠、中書舎人の邢安泰、潘盛と結党した。当時、謝晦は長く病んでおり、連続して灸を据え、客に会うことができなかった。佩之らは彼が病気と称して異なる企てがあると疑い、韶之、道惠と同車で傅亮を訪れ、羨之の意を称え、亮に 詔 を作って彼を誅殺させようとした。亮は答えて、「我ら三人は同じく顧命を受けた者であり、どうしてお互いを殺し傷つけることができようか。もし諸君が本当にこのことを行うなら、私は角巾をかぶって掖門から歩いて出るだけだ」と言った。佩之らはやめた。羨之が誅殺された後、太祖は特に佩之を赦し、免官だけですませた。その年の冬、佩之はまた殿中監の茅亨と謀反を結び、前寧州 刺史 しし の応襲にも告げ、亨を兗州とし、襲を 州とした。亨は密かにこれを上聞し、襲も 司徒 しと の王弘に告げた。佩之は百余人の徒党を集め、牛を殺して犒賞し、時の人々を条牒に記し、互いに官職を任命し合い、来年の正月の朝会を期して、殿中で乱を起こそうとした。数日も経たないうちに、捕らえられ斬られた。

傅亮は字を季友といい、北地郡霊州の人である。高祖父の咸は司隸 校尉 こうい であった。父の瑗は学業で知られ、安成太守の位に至った。瑗は郗超と親しく、超がかつて瑗を訪れた時、瑗は二人の子の迪と亮を見せた。亮は四、五歳の時、超が人に命じて亮の衣服を脱がせ、左右の者に持って行かせたが、初めから惜しむ様子はなかった。超は瑗に言った、「あなたの小児は才名と官位が、兄をはるかに超えるであろう。しかし家を保ち祚を伝えるのは、結局は兄の方にある」。迪は字を長猷といい、これも儒学に通じ、五兵尚書の官に至った。永初二年に死去し、太常を追贈された。

亮は経史に広く通じ、特に文詞を得意とした。初め建威参軍、桓謙の中軍行参軍となった。桓玄が帝位を 簒奪 さんだつ した時、その博学で文采があると聞き、秘書郎に選び、秘閣を整え正させようとしたが、拝命しないうちに玄は敗れた。義旗の初め、丹陽尹の孟昶が建威参軍とした。義熙元年、員外散騎侍郎に任じられ、西省に直し、 詔 命を典掌した。領軍長史に転じ、中書郎の滕演が代わった。亮は拝命せず、母の喪に遭い、服喪が終わると、劉毅の撫軍記室参軍となり、また領軍司馬を補った。七年、散騎侍郎に遷り、再び演に代わって西省に直した。そのまま中書黄門侍郎に転じ、西省に直すことは以前の通りであった。高祖は彼が長く直して勤労したことをもって、東陽郡太守にしようと考え、まず迪に話した。迪は大いに喜んで亮に告げた。亮は答えず、すぐに馳せて高祖に会いに行き言った、「伏して恩旨を聞き、東陽を賜わろうとされている由、家が貧しく禄を辱うする身としては、私の計らいとしては幸いです。しかし、恩蔭に頼る願いは、実に本心に結びついており、天宇(朝廷)に帰ることを乞い、外出を好みません」。高祖は笑って言った、「卿が禄を必要としていると思っただけだ。もしこのようにできるなら、まさに我が望みに合う」。ちょうど西の司馬休之を討つことになり、 太尉 たいい 従事中郎とし、記室を掌らせた。 太尉 たいい 参軍の羊徽を中書郎とし、西省に直すことを代わらせた。

亮は関中、洛陽への征討に従い、 彭城 に戻った。宋国が初めて建てられた時、令書により侍中に任じられ、世子中庶子を領した。中書令に移り、中庶子を領することは以前の通りであった。寿陽に還ることに従った。高祖には禅譲を受ける意向があったが、口に出すのが難しく、朝臣を集めて宴飲し、ゆったりと言った、「桓玄が暴虐に 簒奪 さんだつ し、鼎の命はすでに移った。私は大義を唱え導き、皇室を復興し、南征北伐し、四海を平定し、功成り業著しく、遂に九錫を受けた。今年は衰え老い、このように崇高な極みに至った。物事は盛満を戒め、長く安泰ではいられない。今、爵位を奉還し、京師に帰って老いようと思う」。群臣はただ盛んに功徳を称えるだけで、この意を理解する者はなかった。日が暮れて座が散り、亮が外に戻ってから、ようやく旨を悟ったが、宮門はすでに閉まっていた。亮はそこで扉を叩いて謁見を請うと、高祖はすぐに門を開けて彼に会った。亮は入るとすぐに言った、「臣は暫く都に還るべきです」。高祖はこの意を理解し、他の言葉はなく、ただ言った、「何人か自分で送る必要があるか?」亮は言った、「数十人あれば足ります」。そこでそのまま辞去を奉じた。亮が出た時はすでに夜で、長星が天を横切っているのを見た。亮は腿を叩いて言った、「私は常に天文を信じなかったが、今ようやく験があった」。都に至ると、すぐに高祖を徴して輔弼に入らせた。

永初元年、太子詹事に遷り、中書令は以前の通りであった。佐命の功により、建城県公に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。中書省に入って直し、 詔 命を専ら典掌した。亮が国の権力を総任するので、省で客に会うことを許された。神虎門の外では、毎朝車が常に数百輛あった。高祖が登庸された初め、文筆はすべて記室参軍の滕演によるものであった。北征して広固を攻めた時は、すべて長史の王誕に委ねた。この後、受命に至るまでの表策文誥は、すべて亮の文辞であった。演は字を彦将といい、南陽郡西鄂県の人で、黄門郎、秘書監の官に至った。義熙八年に死去した。二年、亮は尚書 僕射 ぼくや に転じ、中書令、詹事は以前の通りであった。翌年、高祖が病気になると、徐羨之、謝晦とともに顧命を受け、班剣二十人を与えられた。

少帝が即位すると、 中書監 ちゅうしょかん 尚書令 しょうしょれい に進んだ。景平二年、護軍将軍を領した。少帝が廃されると、亮は行臺を率いて江陵に至り太祖を奉迎した。到着すると、江陵城南に行門を立て、「大司馬門」と題した。行臺の百官を率いて門に詣でて表を拝し、威儀礼容は非常に盛んであった。太祖が降りようとすると、亮を引見し、慟哭して甚だしく、哀しみは左右の人々を動かした。やがて義真と少帝の死去と廃位の経緯を問うと、悲号して嗚咽し、侍側する者は誰も仰ぎ見ることができなかった。亮は汗を流して背中に滲み、答えることができなかった。そこで到彦之、王華らに腹心を布き、深く結び付いた。太祖が即位すると、 散騎常侍 さんきじょうじ 、左光禄大夫、開府儀同三司を加えられ、本来の官職はすべて以前の通りであった。 司空 しくう 府の文武官はそのまま左光禄府となった。また始興郡公に爵位を進められ、食邑四千戸を与えられたが、固辞して進封を譲った。

元嘉三年、太祖は亮を誅殺しようとし、まず呼び入れて会おうとした。省の中に密かにこれを報せる者がおり、亮は兄嫁の病が重いことを理由に辞し、暫く家に帰ることを求めた。使いをやって徐羨之に報せ、車に乗って郭門を出ると、馬に乗って兄の迪の墓に奔った。屯騎 校尉 こうい の郭泓が捕らえて廷尉に引き渡し、誅殺された。時に五十三歳であった。初めて広莫門に至った時、上は中書舎人に 詔 書を持たせて亮に見せ、併せて言った、「公の江陵での誠意により、諸子を無事にさせよう」。

初め、亮は世の道が険難であるのを見て、演慎という名の論を著した。曰く、

亮は布衣の儒生であり、僥倖にも機会に巡り会い、宰輔の位に居り、重権を兼ねて総べたが、少帝が徳を失うと、内に憂いと恐れを抱き、感物賦を作って意を寄せた。その文辞は、

初め、大駕を奉迎した時、道中で詩三首を賦したが、その一篇に悔いと恐れの言葉があった。曰く、「夙に櫂を発して皇邑を離れ、人あり我が舟を祖す。餞別に幣を用いず、贈言は琳球を重んず。知止は道の貴ぶところ、禄を懐くは義の尤むところ。四牡は長路に倦み、君の轡は収むべし。張邴は晨軌を結び、疎董は夕輈を頓す。東隅は誠に已に謝し、西景は逝きて留まらず。性命は安んぞ図るべく、此れを懐いて前修と作す。衽を敷きて篤誨を銘じ、帯を引いて嘉謀を佩く。寵に迷うは予が志に非ず、厚徳は良く未だ酬いず。躬を撫でて疲朽を愧じ、三省して爵浮を慚ず。重明は蓬艾を照らし、万品は同じく率由す。忠誥は豈に知を仮るを要せん、式微は直謳を発す」。亮は自ら傾覆することを知り、退くことを求めるも由がなく、また辛有、穆生、董仲道の賛を作り、その微を見る美を称えた。

長子の演は秘書郎で、亮より先に死去した。演の弟の悝と湛は逃亡し、湛の弟の都は建安郡に流された。世祖の孝建年間の中頃、ともに京師に還った。

檀道済は、高平郡金郷県の人で、左将軍檀韶の末弟である。幼くして孤児となり、喪に服する際は礼を尽くした。姉を敬い兄に仕え、温和で謹直なことで称えられた。

高祖(劉裕)が義兵を起こすと、道済はこれに従って京城に入り、高祖の建武将軍の軍事に参画し、征西将軍に転じた。魯山を討伐平定し、桓振を捕らえ、輔国参軍・南陽太守に任じられた。義兵創立の功績により、呉興県五等侯に封じられた。盧循が反乱を起こし、群盗が相次いで蜂起すると、郭寄生らが作唐に集結したため、道済を揚武将軍・天門太守としてこれを討伐平定させた。また劉道規に従って桓謙・荀林らを討伐し、文武の官を率いて励まし、自ら士卒の先頭に立ち、向かうところ敵を打ち破った。徐道覆が迫って来た時には、道規自ら出陣して防戦し、道済の戦功が最も多かった。安遠護軍・武陵内史に昇進した。再び 太尉 たいい 参軍となり、中書侍郎に任じられ、寧朔将軍に転じ、 太尉 たいい の軍事に参画した。前後の功績により作唐県男に封じられ、食邑四百戸を与えられた。 太尉 たいい 主簿・諮議参軍を補任された。 章公(劉裕)の世子(劉義符)が征虜将軍として京口を鎮守した時、道済はその司馬・臨淮太守となった。また世子の西中郎司馬・梁国内史となった。さらに世子の征虜将軍司馬となり、冠軍将軍の号を加えられた。

義熙十二年、高祖が北伐すると、道済を前鋒として淮水・淝水方面に出撃させた。到着した諸城の守備隊は風の便りに降伏した。進軍して許昌を攻略し、偽(後秦)の寧朔将軍・潁川太守姚坦と大将軍楊業を捕らえた。成臯に至ると、偽兗州 刺史 しし 韋華が降伏した。まっすぐ洛陽に進軍すると、偽平南将軍陳留公姚洸が帰順した。城を陥とし砦を破るごとに、四千人余りを捕虜にした。議論する者は皆、これを全て殺して京観(戦勝記念の塚)とすべきだと言った。道済は言った。「罪ある者を討ち民を慰めるのが、まさに今日の目的である。」捕虜を皆釈放して帰した。これにより、戎や夷の人々は感動し喜び、続々と帰順する者が非常に多かった。潼関を占拠し、諸軍と共に姚紹を打ち破った。長安が平定されると、征虜将軍・琅邪内史に任じられた。世子(劉義隆)が江陵を鎮守することになった時、再び道済を西中郎司馬・持節・南蛮 校尉 こうい とした。さらに征虗将軍の号を加えた。宋国の侍中に昇進し、世子中庶子を兼任し、兗州大中正となった。

高祖が帝位につくと、護軍に転じ、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、 石頭 の戍守を統轄した。殿省に直入することを許された。創業の功臣として、永脩県公に改封され、食邑二千戸を与えられた。丹陽尹に転じたが、護軍の職は変わらなかった。高祖が病気になると、班剣二十人を与えられた。

南徐州・兗州の江北・淮南諸郡の軍事を監督し、鎮北将軍・南兗州 刺史 しし として出向した。景平元年、虜(北魏)が青州 刺史 しし 竺夔を東陽城に包囲し、竺夔が救援を求めた。道済に使持節・征討諸軍事監督の任を加え、王仲徳と共に東陽を救援させた。到着する前に、虜は陣営を焼き、攻城兵器を焼いて逃走した。追撃しようとしたが、城内に食糧がなく、窖(地下倉庫)を開けて長年貯蔵した穀物を取り出した。窖は数丈の深さがあり、穀物を取り出して米にするのに二晩かかり、虜は既に遠くへ去っており、追撃できなくなったのでやめた。広陵に戻って鎮守した。

徐羨之が廬陵王劉義真を廃そうとした時、道済に告げたが、道済は意見が異なり、何度も不可であると述べたが、聞き入れられなかった。徐羨之らが廃立を謀り、道済を朝廷に召し入れるようほのめかし、到着するとその計画を告げた。廃立を行う前夜、道済は領軍府に入り謝晦のところに泊まった。謝晦はその夜、恐れおののいて眠れなかったが、道済は寝床につくとすぐに熟睡した。謝晦はこれによって道済に感服した。太祖(文帝劉義隆)が到着する前、道済は朝廷を守るために入った。皇帝が即位すると、征北将軍の号を進められ、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、鼓吹一部を与えられた。武陵郡公に進封され、食邑四千戸を与えられたが、固辞した。さらに青州・徐州の淮陽・下邳・琅邪・東莞の五郡諸軍事の 都督 ととく を増やされた。

謝晦を討伐する時、道済は軍を率いて到彦之の後を継いだ。到彦之が戦いに敗れ、隠圻に退いて守りを固めると、ちょうど道済が到着した。謝晦はもともと道済が徐羨之らと共に誅殺されたと思っていたので、突然やって来たと聞き、人々は恐れおののき、ついに戦わずして自ら潰走した。事件が平定されると、江州・荊州の江夏、 州の西陽・新蔡・晋熙の四郡諸軍事 都督 ととく ・征南大将軍・開府儀同三司・江州 刺史 しし に昇進し、持節・常侍の職は変わらなかった。食邑千戸を増やされた。

元嘉八年、到彦之が索虜(北魏)を討伐し、一旦は河南を平定したが、まもなくまた失い、金墉・虎牢がともに陥落し、虜が滑台に迫った。道済に征討諸軍事 都督 ととく の任を加え、軍勢を率いて北討させた。軍が東平郡寿張県に至った時、虜の安平公乙旃眷に遭遇した。道済は寧朔将軍王仲徳・ ぎょう 騎 将軍段宏を率いて奮撃し、これを大破した。転戦して高梁亭に至ると、虜の寧南将軍・済州 刺史 しし 寿昌公悉頰庫結が前後から邀撃してきた。道済は段宏と臺隊主沈虔之らに別働隊を率いさせて奇襲攻撃をかけ、ただちに悉頰庫結を斬った。道済は済水のほとりに進み、二十日余り連戦し、前後数十回交戦したが、虜の軍勢が盛んで、ついに滑台は陥落した。道済は歴城で全軍を保持したまま帰還した。 司空 しくう に昇進し、持節・常侍・ 都督 ととく 刺史 しし の職は変わらなかった。尋陽に戻って鎮守した。

道済は前朝(武帝朝)で功績を立て、威名が非常に高く、側近の腹心の者たちは皆百戦を経ており、諸子もまた才気があり、朝廷は彼を疑い恐れた。太祖(文帝)は長年病気がちで、何度も危険な状態に陥り、彭城王劉義康は、万一皇帝が崩御した場合、道済を制御できなくなることを憂慮した。十二年、皇帝の病状が重くなり、ちょうど索虜が辺境を侵したので、道済を朝廷に召し寄せた。到着すると、皇帝は容態が小康状態になった。十三年春、道済を任地に帰還させようとし、既に船に乗ったところで、皇帝の病気が再発したため、餞別のためと呼び戻し、廷尉に引き渡して逮捕した。 詔 書に言う。「檀道済は時運に乗じて寵愛を受け、昔から恩恵を蒙り、寵愛と栄誉は厚く、比べる者もないほどであった。かつて特別な待遇に感謝し、万分の一にも報いようと思ったことはなく、むしろひたすら疑念と二心を抱き、霜を踏む思いを長く続けてきた。元嘉以来、猜疑と隔たりはますます深まり、不義で親しみのない心、部下に迎合して主君を欺く行為は、すでに民衆の耳に曝され、遠近に明らかである。謝霊運は志が凶悪で言葉が醜く、臣下としての道に明らかに背き、邪説を受け入れ、常にこれを隠し容認していた。またひそかに金銭をばらまき、凶暴で狡猾な者を招き誘い、逃亡者が必ず集まり、実に多く広がり、日夜隙をうかがい、非分の望みを抱いていた。鎮軍将軍仲徳は往年入朝した際、しばしばこのような行跡を述べた。朕は彼が高位にあり、国家の重臣として、過ちを繕い容認し養って、あるいは改心するかもしれないと願った。しかし悪を長くして悔い改めず、凶悪な企てを遂げようとし、朕の病気に乗じて、禍心をたくましくした。前南蛮行参軍龐延祖がその奸状をことごとく知り、密かに上奏して報告した。君主や親に対して謀反を企てる者は、これを刑罰し赦さない。ましてや罪の深重さがこのように甚だしいのである。ただちに廷尉に引き渡し、刑罰の法規を厳正に執行せよ。事は首悪のみにとどめ、その他は問わない。」こうして道済とその子の給事黄門侍郎檀植、 司徒 しと 従事中郎檀粲、太子舎人檀隰、征北主簿檀承伯、秘書郎檀遵ら八人を逮捕し、ともに廷尉で処刑した。また 司空 しくう 参軍薛彤を逮捕し、建康で処刑させた。さらに尚書庫部郎顧仲文、建武将軍茅亨を尋陽に派遣し、道済の子の檀夷、檀邕、檀演および 司空 しくう 参軍高進之を捕らえて誅殺させた。薛彤と高進之はともに道済の腹心で、勇力があり、当時の人々は張飛・関羽に例えた。初め、道済が逮捕された時、冠を脱ぎ地面に投げつけて言った。「なんと、お前は万里の長城を壊してしまうのか!」檀邕の子の檀孺だけは赦され、世祖(孝武帝)の時代に奉朝請となった。