宋書
列伝第一
帝の祖母は太皇太后と号し、母は皇太后と号し、妃は皇后と号す。これは漢の旧制である。
晋の武帝は漢・魏の制度を採り、貴嬪・夫人・貴人を置いた。これが三夫人であり、位は三公に準ずる。淑妃・淑媛・淑儀・脩華・脩容・脩儀・婕妤・容華・充華を置いた。これが九嬪であり、位は九卿に準ずる。その他に美人・才人・中才人があり、爵は千石以下に準ずる。高祖(劉裕)が天命を受けると、二才人を省き、その他は晋の制度をそのまま用いた。貴嬪は魏の文帝が制定した。夫人は魏の武帝が初めて魏国を建てた時に制定した。貴人は漢の光武帝が制定した。淑妃は魏の明帝が制定した。淑媛は魏の文帝が制定した。淑儀・脩華は晋の武帝が制定した。脩容は魏の文帝が制定した。脩儀は魏の明帝が制定した。婕妤・容華は前漢の旧号である。充華は晋の武帝が制定した。美人は漢の光武帝が制定した。世祖(孝武帝劉駿)の孝建三年、夫人・脩華・脩容を省き、貴妃を置き、位は相国に比し、貴嬪を進めて位は丞相に比し、貴人は位は三司に比し、これをもって三夫人とした。また昭儀・昭容・昭華を置き、脩華・脩儀・脩容に代えた。また中才人・充衣を置き、散位とした。昭儀は漢の元帝が制定した。昭容は世祖が制定した。昭華は魏の明帝が制定した。中才人は晋の武帝が制定した。充衣は前漢の旧制である。太宗(明帝劉彧)の泰始元年、淑妃・昭華・中才人・充衣を省き、脩華・脩儀・脩容・才人・良人を復置した。三年、また貴人を省き、貴姫を置き、三夫人の数を備えた。また昭華を置き、淑容・承徽・列栄を増設した。淑媛・淑儀・淑容・昭華・昭儀・昭容・脩華・脩儀・脩容をもって九嬪とした。婕妤・容華・充華・承徽・列栄の五職は、班位が九嬪に次ぐ。美人・中才人・才人の三職は散役である。その後、太宗は後宮に心を留め、外朝の百官になぞらえ、内職の位置を備えた。その名称と品等を後に列挙する。後宮通尹は、録尚書に準ずる。
紫極戸主。
光興戸主。
官品第一(各一人を置き、ともに六宮を銓衡する)。
後宮の列叙は、 尚書令 に準じ、六宮を銓衡する。
紫極中監尹、六宮を銓衡する。
光興中監尹、六宮を銓衡する。
宣融戸主、六宮を銓衡する。
紫極房帥、一人を置く。
光興房帥、一人を置く。
官品第二(各一人を置く)。
後宮司儀、左 僕射 に準じ、人士を銓衡する。
後宮司政、右 僕射 に準じ、人士を銓衡する。
参議女林、銀青光禄に準じ、人士を銓衡する。
中台侍御尹、六宮を銓衡する。
宣融便殿中監尹、六宮を銓衡する。
采蓺房主、六宮を銓衡する。
南房主、六宮を銓衡する。
中蔵女典、六宮を銓衡する。
典坊、六宮を銓衡する。
楽正、六宮を銓衡する。
内保、人士を銓衡する。
学林祭酒、人士を銓衡する。
昭陽房帥、一人を置く。
徽音房帥、一人を置く。
宣融房帥、一人を置く。
官品第三(各一人を置く)。
後宮都掌治職、二人を置く(左右丞に準じ、位は尚書に比し、人士を銓衡する)。
後宮殿中治職、一人を置く(左民尚書に準じ、人士を銓衡する)。
後宮源典治職、一人を置く(祠部尚書に準じ、人士を銓衡する)。
後宮穀帛治職、一人を置く(度支尚書に準じる)。
中傅、一人を置く(人士を銓衡する)。
後宮校事女史、一人を置く(人士を銓衡する)。
紫極中監女史、一人を置く(人士を銓衡する)。
光興中監女史、一人を置く(人士を銓衡する)。
紫極房参事、定員なく置く(人士を銓衡する。限外あり)。
宣融房参事、定員なく置く(人士を銓衡する。限外あり)。
中台侍御奏案女史、一人を置く(人士を銓衡する)。
賛楽女史、一人を置く(人士を銓衡する)。
中訓女史、一人を置く(人士を銓衡する)。
女祝史、一人を置く。
紫極中監典、一人を置く。
光興中監典、一人を置く。
典楽帥、定員なく置く(限外あり)。
紫極房廉帥祭酒、一人を置く。
光興房廉帥祭酒、一人を置く。
宣融房廉帥祭酒、一人を置く。
官品第四。
後宮通関参事、一人を置く。
景德房参事、定員なく置く(人士を銓衡する)。
采蓺房参事、定員なく置く(人士を銓衡する)。
南房参事、定員なく置く(人士を銓衡する)。
内房参事、一人を置く(人士を銓衡する)。
校学女史、一人を置く(人士を銓衡する)。
後宮中房帥、二人を置く。
後宮源典帥、二人を置く。
後宮穀帛帥、二人を置く。
中台帥、一人を置く。
中台侍御起居帥、二人を置く。
中台侍御 詔 誥帥、二人を置く。
斯男房帥、一人を置く。
宣 豫 房帥、一人を置く。
景德房帥、一人を置く。
采蓺房帥、一人を置く。
中蔵帥、一人を置く。
内坊帥、一人を置く。
南房帥、一人を置く。
外華房帥、一人を置く。
招慶房帥、一人を置く。
紫極諸房廉帥、定員なく置く(限外あり)。
紫極中監省帥、一人を置く。
紫極殿帥、六人を置く。
光興殿帥、四人を置く。
徽音監帥、一人を置く。
徽章監帥、一人を置く。
宣融便殿中監典、一人を置く。
清商帥、定員なく置く。
総章帥、定員なく置く。
左西章帥、定員なく置く。
右西章帥、定員なく置く。
中厨帥、一人を置く。
官品第五。
中台侍御執衛、定員なく置く。
中台侍御監閨帥、二人を置く。
中台侍御監司帥、二人を置く。
宣融便殿帥、一人を置く。
永巷帥、一人を置く。
後宮都掌内史、二人を置く。
後宮殿中内史、一人を置く。
後宮源典内史、一人を置く。
後宮穀帛内史、二人を置く。
後宮監臨内史、二人を置く。
中台侍御執法内史、一人を置く。
中台侍御典内史、二人を置く。
中台侍御節度内史、二人を置く。
中台侍御応内史、六人を置く。
紫極房内史、一人を置く。
光興房内史、一人を置く。
助教、一人を置く。
綵製帥、定員なく置く。
装飾帥、定員なく置く。
繍帥、定員なく置く。
織帥、定員なく置く。
学林館帥、一人を置く。
宮閨帥、一人を置く。
教堂帥、定員なく置く(限外あり)。
監解帥、定員なく置く。
累室帥、定員なく置く。
行病帥、定員なく置く。
官品第六。
合堂帥、二人を置く。
御清帥、一人を置く。
監夜帥、一人を置く。
諸房禁防、定員なく置く。
三廂禁防、三人を置く。
諸房厨帥、各一人を置く。
中厨廉、三人を置く。
応閨、六人を置く。
諸応閤、定員なく置く。
宮閨史、一人を置く。
官品第七。
諸房中掾、各一人を置く。
中蔵掾、各二人を置く。
五品勅吏に比す。
紫極供殿直倀。
光興供殿直倀。
総章伎倀。
侍御扶侍。
主衣。
二衛五品に準じ、勅吏は六品に比す。
供殿左右(紫極に二十人を置く。光興に十人を置く)。
左右守蔵、四人を置く。
典楽人。
諸房禁防作倀に比す。
王官供殿給使に比す(紫極に二十人を置く。光興に十人を置く)。
典殿、定員なく置く。
官人に比す。
紫極三廂給事、十人を置く。
全堂給使、五人を置く。
宮閨給使、六人を置く。
房に比す。
孝穆趙皇后、 諱 は安宗、下邳郡僮県の人である。祖父の彪は字を世範といい、治書侍御史であった。父の裔は字を彦冑といい、平原 太守 であった。
后は 晉 の穆帝の升平四年に孝皇(劉翹)に嫁ぎ、 晉 の哀帝の興寧元年四月二日に高祖(劉裕)を生んだ。その日、后は産後の病気により丹徒の官舎で亡くなり、時に二十一歳であった。 晉 陵郡丹徒県東郷練璧里の雩山に葬られた。宋の初年に追尊して号 諡 を贈り、陵を興寧陵と称した。
永初二年、有司が上奏して言った。「大孝の徳は、親を栄えさせることに盛んである。一人に慶事があれば、その光は万国に及ぶ。それゆえ霊文(后)は西京で寵愛され、寿張(后)は隆盛な漢で顕彰された。故平原太守趙裔と故洮陽令蕭卓は、ともに外戚の尊属であり、生前の恩寵に及ばなかった。臣らは聖なるお考えを仰ぎ述べ、遠く旧章を考証し、ともに光禄大夫を追贈し、金章紫綬を加えることができると存じます。裔の命婦孫氏は 豫 章郡建昌県君とし、卓の命婦趙氏は呉郡寿昌県君とすることができます。」孫氏は東莞の人である。その年、また 詔 して言った。「恩を推し及ぼす礼は、情において同じである。ゆえに内には宗子を立て、外には后の親族を尊び、漢・魏より以来、皆この典に従ってきた。外祖父の趙光禄(趙裔)・蕭光禄(蕭卓)は、名器は高いが、封土はまだ建てられていない。ともに開国県侯を追封し、食邑五百戸とするのがよい。」そこで裔を臨賀県侯に追封した。裔の長子の宣之は、江乗県令まで仕えたが、早くに亡くなり、子がなかったため、弟の孫の襲之が宣之の後を継いで封を紹いだ。襲之が亡くなると、子の祖憐が嗣いだ。斉が禅譲を受けると、封国は除かれた。宣之の弟の倫之は、別に伝がある。
孝懿蕭皇后は諱を文壽といい、蘭陵郡蘭陵県の人である。祖父の蕭亮は字を保祚といい、侍御史であった。父の蕭卓は字を子略といい、洮陽県令であった。
孝穆后が亡くなると、孝皇帝は后を継室として娶り、長沙景王の劉道憐と臨川烈武王の劉道規を生んだ。義熙七年、 豫 章公太夫人に拝された。高祖が宋王となると、さらに太妃の号を加えられた。高祖は十二年北伐し、引き続き 彭城 ・壽陽に駐留し、元熙二年に入朝するまで、外にいたこと凡そ五年、后は常に東府に留まっていた。高祖が即位すると、有司が上奏して言った。「臣は聞きます。道が積もる者は慶びが流れ、徳が行き渡る者は礼が備わると。故に敬虔さは崇高さに表れ、嘉号は盛典に顕れるのです。伏して思うに、太妃の母儀の徳は、化育が穏やかで言葉を要さず、保翼の訓戒は、洪業に広く及んでいます。幽明ともに慶ぶとはいえ、称謂はまだ尽きておりません。前代を考察しますと、礼には恒常の基準があり、旧章に従うべきであり、まさに衆望に副うものです。臣らは、宋王太后の号を皇太后と上ることを請います。」故に有司の上奏はなお太妃と称していたのである。
上は恭孝を行動とし、太后に仕えることに常に謹んでいた。大位に即いた後も、春秋(年齢)が既に高かったが、毎朝太后のところに入朝し、時刻を失うことはなかった。
少帝が即位すると、崇めて太皇太后と称した。景平元年、顕陽殿で崩御した。時に八十一歳。遺令に言う。「孝皇が世を去って五十余年、古くは合葬しない。かつ漢代の帝后の陵は皆別の場所にある。今は塋域の内に別の墓穴を造るがよい。孝皇の陵墳は本来、素門の礼を用いており、王者の制度の奢侈・倹約とは異なる。婦人の礼には従うべきところがあり、一様に従来の方式に従うがよい。」そこで別の墓穴を開き、興寧陵と合墳した。初め、高祖が微賤の時、貧困は甚だしく、孝皇の崩御の際、葬儀は多くの欠落があった。高祖の遺旨には、太后が百歳後に合葬する必要はないとあった。この時に至り、故に后の遺旨を施行したと称したのである。
蕭卓は初め趙裔とともに金紫光禄大夫を追贈され、また封陽県侯を追封された。妻の下邳趙氏は呉郡壽昌県君に封ぜられた。蕭卓の子の源之が爵を襲い、源之は子の思話の伝に見える。
武敬臧皇后は諱を愛親といい、東莞郡の人である。祖父の臧汪は字を山甫といい、尚書郎であった。父の臧儁は字を宣乂といい、郡の功曹であった。
后は高祖に嫁ぎ、會稽宣長公主の興弟を生んだ。高祖は倹約と公正をもって下を率い、后は恭謹でこれに背かなかった。高祖が 晉 室を興復し、上相の重きに居た時も、后の器服は粗末で質素であり、親族のために請謁することはなかった。義熙四年正月甲午、東城で崩じた。時に四十八歳。 豫 章公夫人を追贈され、丹徒に還葬された。高祖が臨終の際、遺 詔 で京師に留めて葬るよう命じた。そこで法駕を整え、梓宮を迎えて初寧陵に合葬した。
宋初、臧儁に金紫光禄大夫を追贈し、妻の高密叔孫氏を遷陵永平郷君に封じた。臧儁の子の臧燾、臧燾の弟の臧熹、臧熹の子の臧質は、それぞれ伝がある。
武帝の張夫人は諱を闕といい、どの郡県の人かは知られていない。義熙初年、高祖の寵愛を得て、少帝を生み、また義興恭長公主の惠媛を生んだ。永初元年、夫人に拝された。少帝が即位すると、有司が上奏して言った。「臣は聞きます。厳父を敬い始めるのは、その本によるものであり、孝を全うする道は、内から外に出るものです。伏して思うに、夫人の徳は坤元と並び、徽音は輝き、祥瑞を発して慶びを兆し、聖明を誕生させ啓きました。極めて尊い徽号を崇め、盛んな則りを備えるべきです。春秋の母は子によって貴くなるという義に従い、漢・ 晉 の推愛の典を遵奉し、謹んで尊号を皇太后と上り、宮を永楽とします。」少帝が廃されると、太后は 璽綬 を返還し、呉県に移り住んだ。太祖の元嘉元年、營陽王太妃に拝された。三年、 薨去 した。
少帝の司馬皇后は諱を茂英といい、河内郡温県の人で、 晉 の恭帝の娘である。初め海塩公主に封ぜられ、少帝が公子の時に娶った。宋初、皇太子妃に拝された。少帝が即位すると、皇后に立てられた。元嘉元年、營陽王妃に降格され、また南豊王太妃となった。十六年に 薨去 した。時に四十七歳。
武帝の胡婕妤は諱を道安といい、淮南の人である。義熙初年、高祖に納められて文帝を生んだ。五年、譴責を受けて賜死された。時に四十二歳。丹徒に葬られた。高祖が即位すると、婕妤を追贈した。
太祖が即位すると、有司が上奏して言った。「臣は聞きます。徳の厚い者は礼が尊く、慶びの深い者は位が極まる。故に閟宮が築かれると、先妣を 詠 歌し、園陵を崇めて衛ると、来孝を追うのです。伏して思うに、先婕妤は柔明で塞淵(誠実で思慮深く)、六列(後宮の位)に光を備え、徳は坤範に顕れ、訓戒は母儀に通じていました。それゆえ聖明を啓き、四海を覆うことができたのです。厳父に及ばず、天禄は永遠に去りました。臣らは遠く春秋に準え、近く漢・ 晉 を考察します。謹んで尊号を章皇太后と上り、陵を熙寧とします。」京師に廟を立てた。
太后の兄の子の胡元慶は、奉朝請の位に至った。
文帝の袁皇后は諱を齊媯といい、陳郡陽夏県の人で、左光禄大夫敬公袁湛の庶女である。母はもと卑賤であったため、后が五、六歳の時に初めて認知された。後に太祖に嫁ぎ、初め宜都王妃に拝された。子の劉劭と東陽獻公主の英娥を生んだ。上は后に恩礼を厚くしたが、袁氏は貧しかったため、后はしばしば上に金銭や絹布を求めてこれを養った。上は倹約家で、与えるのは多くても三五万銭、三五十匹ほどであった。後に潘淑妃が寵愛を受け、その愛は後宮を傾け、求めるものは何でも得られると言われた。后はこれを聞き、真偽を確かめようと、潘を通じて三十万銭を実家に求めるよう上に願い出た。上意を観るためである。二晩で得られた。このため、后の恨みは非常に深くなり、病気と称して上に会わなくなった。上が入ってくるたび、必ず他の場所に避けた。上は何度も様子を窺ったが、会うことができなかった。始興王劉濬の庶子たちが挨拶に来ても、后は見ようとしなかった。后は遂に憤り恨んで病気になった。元嘉十七年、病が重くなり、上は手を取って涙を流し、何か言うことはないかと尋ねた。后は上を長く見つめた後、布団を引いて顔を覆った。顕陽殿で崩じた。時に三十六歳。上は非常に悼み悲しみ、 詔 して前永嘉太守の顔延之に哀策を作らせた。文は甚だ麗であった。その文は以下の通りである。
哀策が奏上されると、上自ら「撫存悼亡、感今懷昔」(生きている者を慰め亡き者を悼み、今に感じて昔を 懐 かしむ)の八字を加え、その思いを表した。有司が宣皇后と諡するよう上奏したが、上は特に 詔 して「元」とした。
初めに、皇后は劉劭を生んだが、自ら詳しく見て、太祖に馳せ参じて告げた。「この子は形貌が異常で、必ず国を破り家を亡ぼすでしょう。養うことはできません。」すぐに殺そうとした。太祖は慌てふためいて皇后の殿舎の戸の外に至り、手で帷を押しのけて制止し、やっと止めた。
皇后が亡くなった後、常に小さな霊験があった。沈美人という者は、太祖が寵愛した者である。かつて無実の罪で責められ、死を賜わることになった。かつて皇后が住んでいた徽音殿の前を通り過ぎた。この殿には五つの部屋があり、皇后が崩御してから常に閉ざされていた。美人が殿の前に至り、涙を流して大声で言った。「今日、無罪で死に就こうとしています。先の皇后に霊があれば、きっとご存じでしょう!」殿の諸々の窓戸が声に応じて突然開いた。職掌の者が急いで太祖に報告し、太祖が驚いて見に行くと、美人は釈放された。
大明五年、世祖は 詔 を下した。「昔、漢の道が既に霊妙であり、博平侯の輝きが絶え、魏国がようやく安泰となった時、嘉憲が策を啓いた。皆、心に基づいて広め、典章に酌み、誥命に沿った。亡き外祖父の親王夫人は柔らかな徳と淑やかな範を示し、坤載(女性の道)に光を啓いた。内位(后妃の位)が正しく欠けていた時、閨庭で饋(食事の世話)を摂り、儀礼は芳しい閨房に及び、その評判は戚里(外戚の住む所)に宣べ伝えられた。永遠に遠くを感じ、その栄誉ある位階を追想する。鴻大な法則に則り、敬って徽(美しい)なる序列に登らせるべきである。」そこで 豫 章郡新淦県平楽郷君を追贈した。これは皇后の生母である。また 詔 して言った。「趙氏、蕭氏、臧光祿、袁敬公、平楽郷君の墓は、先に塋戸(墓守の戸)が与えられていない。世代が既に遠く、子孫は衰微している。外戚の尊属であるから、墳墓を荒れ果てさせてはならない。それぞれ蛮戸を三戸ずつ与え、清掃に当たらせよ。」
皇后の父の路湛については、別に伝がある。
文帝の路淑媛は、諱を惠男といい、丹陽建康の人である。容色と美貌によって後宮に選ばれ、孝武帝を生み、淑媛に拝された。年が長ずると寵愛はなく、常に世祖について出蕃した。世祖が元凶を討つために入朝すると、淑媛は尋陽に留まった。上(孝武帝)が即位すると、建平王劉宏を遣わして奉迎させた。有司が上奏して言った。「臣は聞く、 歴 が周の国に集まり、徽音(美しい音、后妃の徳)がよく嗣がれ、気が漢の国に 淳 く、沙麓が祥瑞を発したと。昔の上代において、業が隆盛で祚が遠大であったのは、陰教(女性の教化)を敷いて洪大な基を啓き、淑やかな慶びに応じて聖哲を載せなかったことはない。伏して思うに、淑媛は柔らかく明らかな徳を内に昭かし、徽(美)しい儀礼を外に範とし、霊に合うことを初めに導けば、多くの姫妾が仰ぎ輝き、訓戒を蕃閫(藩国の奥)に引き伸ばせば、家と国がその徳を被る。民は和を応じ、神は祉(福)を属す。故に叡智の御身を生み、大命を集めることができ、既に枯れた霊根を固め、中興において盛んな功業を融和させた。化育は厚く深く、声と詠えは確かに調和している。旧典に調和させ、恭しく極上の称号を享けるべきである。謹んで尊号を皇太后と奉り、宮を崇憲と申し上げる。」太后は顕陽殿に住んだ。
上(孝武帝)は閨房の内において、礼敬は甚だ少なく、寵幸する時があれば、時に太后の部屋に留まり止まった。故に民間では喧々囂々となり、皆醜い評判があった。宮掖の事は秘密で、誰も弁明できなかった。
孝建二年、太后の父の路興之を 散騎常侍 に追贈し、興之の妻の徐氏を餘杭県広昌郷君とした。大明四年、太后の弟の子で撫軍参軍の路瓊之上表して言った。「先臣で故懷安令の路道慶は、天命に背き、自ら明世に違いました。敢えて衛戍(守備)の名を請う典に縁り、特に雲雨を乞い、微かに潤いを垂れ賜わりますように。」 詔 は門下に付された。有司は旨を受けて、 給事中 を追贈するよう上奏した。瓊之と弟の休之、茂之は皆、顕職を超えて任用された。太后は政事にかなり関与し、瓊之らに財物を賜い、家財は千金を累ね、住居や衣服・器物は帝子と同等であった。
瓊之の邸 宅 は太常の王僧達と門を並べていた。かつて盛大な車服と護衛を従えて僧達を訪ねたが、僧達は礼をしなかった。瓊之が太后に訴えると、太后は大いに怒り、上に告げて言った。「私がまだ生きているのに、人々は皆、私の家を侮ります。死んだら物乞いをするでしょう。」僧達を罪にしようとした。上は言った。「瓊之は年少で、自ら軽々しく訪問すべきではない。王僧達は貴公子である。どうしてこの事で罪を加えられようか。」
大明五年、太后は上に従って南 豫 州を巡行し、妃や公主以下も皆従った。廃帝が即位すると、太皇太后と号した。
太宗が践祚すると、崇憲太后と号した。初め、太宗は幼くして生母を失い、太后に養育された。太宗は真心を尽くして仕えたが、太后もまた篤く慈しみ愛した。上(太宗)が即位すると、供奉の礼儀は旧日と変わらなかった。有司が上奏して言った。「徳が内に敷かれれば、典章は必ず遠くまで及び、化育が外に及べば、徽号は宣べられるべきです。伏して思うに、皇太后は天から懿聖の徳を授かり、母儀は確かに顕著で、義は八遠(八方の遠方)を明らかにし、道は九囲(天下)を変えました。聖明が登御され、景胙(大いなる福)が改まりました。皇太后は前の号に即し、別に外宮にお住まいになるべきです。」 詔 して言った。「朕は艱難の罰を備え受け、早く孤苦を 嬰 り、特に崇憲太后の聖訓によって撫育された。昔、蕃閫(藩国の奥)にいた時、常に薬膳を奉じたが、中ごろ凶威に迫られ、懐いを抱いて遂げられなかった。今、泰運が初めて啓かれ、情と典が申し得られた。方や親しく晨昏(朝夕の礼)を奉じ、閨禁の内で歓びを尽くそうとしている。奏の如くにはできない。」まもなく崩御し、時に五十五歳。殯を東宮に移し、門に「崇憲宮」と題した。上はまた 詔 して言った。「朕は幼くして荼蓼(苦難)を集め、 夙 に徳訓に憑り、暴を 龕 げ業を定めるには、実に仁範に資った。恩は屯夷(艱難と平穏)に著しく、常の慕いを兼ねている。礼は情に沿って施され、義は事に循って立つ。特に斉衰三月とし、追仰の心を申し述べる。」諡して昭皇太后といい、世祖の陵の東南に葬り、号して脩寧陵といった。
先に、 晉 安王劉子勛が未だ平定されていなかった時、巫者が昭太后(路太后)の陵を開いて厭勝とするのがよいと言った。修復は慌ただしく、礼の如くにはできなかった。上(太宗)の性格は猜疑心が強く、将来災いを招くことを憂慮した。泰始四年夏、有司に 詔 して言った。「崇憲昭太后の脩寧陵の地は、大明の世に、久しく考卜(占い)された所である。前年、諸藩の難に遭い、礼は権宜に従った。奉営は慌ただしく、改めて営む暇がなかった。しかし塋隧(墓道)の所は、山原が卑しく 陋 しい。近年、頽壊し、日に日に甚だしくなり、常に修整の費用を費やしても、ついに永固とはならない。かつ詳しく地形を考うるに、相勢(地相)に甚だ乖いている。朕は早く慈遇を受け、情と礼は常を兼ね、終始の義をして、幽顕に彰えることを思う。史官は巖山の左右に就き、改めて吉地を宅めよ。明らかに亀筮を審らかにし、令辰を選び 須 い、旧典に遵い、礼をもって創制せよ。今、中宇(国内)は寧かであるが、辺虜は未だ息まず、営就の功は、務めて簡略に従うこと。言を挙げて悲しみを尋ねれば、情は切るが如し。」有司が上奏した。「北疆は未だ 緝 まらず、戎役(軍事)が務めである。礼の詳略は、それぞれ時宜に沿います。臣らが参議するに、脩寧陵の玄宮の毀損を補治し、 権 に油殿を施し、暫く梓宮を出し、事が終われば即ち 窆 む。事において妥当です。」 詔 して許可した。
瓊之は衡陽内史となり、先に亡くなった。廃帝の景和年中、休之を黄門侍郎とし、茂之を左軍将軍とし、ともに開国県侯に封じ、邑千戸とした。また興之を 侍中 ・金紫光禄大夫に追贈し、諡して孝侯といった。道慶を 散騎常侍 ・光禄大夫・開府儀同三司に追贈し、諡して敬侯といった。道慶の娘を立てて皇后とし、休之を侍中とし、茂之を黄門郎とした。太宗が幼主を廃すると、太后の心を説得しようとして、令書を下した。「太皇太后は早くより愛遇を垂れ、情に沿い事に即して、天属(肉親)と同じである。前車騎諮議参軍路休之、前丹陽丞路茂之は、崇憲太后の密戚として、早く栄貫(栄達の道)に延び、ともに勲功を懐いている。殊に恒常の飾り(官位)を与えるべきである。休之は黄門侍郎とし、歩兵 校尉 を領せしめよ。茂之は中書侍郎とせよ。」太宗は未だ即位していなかったので、令書と称した。茂之はさらに 司徒 従事中郎に遷り、休之は桂陽王 劉休範 の鎮北諮議参軍となった。太宗が世祖の諸子を殺すと、これによって休之らを陥れ、その諸子は赦した。
孝武帝の文穆王皇后は諱を憲嫄といい、琅邪郡臨沂県の人である。元嘉二十年に武陵王の妃に立てられた。廃帝、 豫 章王の子尚、山陰公主の楚玉、臨淮康哀公主の楚佩、皇女の楚琇、康楽公主の脩明を生んだ。世祖が藩王であった時、后は大いに寵愛を受けた。上(世祖)が凶逆を討伐するために出陣すると、后は尋陽に留まり、皇太后と共に京都に戻り、皇后に立てられた。
大明四年、后は六宮を率いて西郊で桑摘みを自ら行い、皇太后が礼を見物した。上下に 詔 を下して言った。「朕は吉日を占って大昕の時を選び、辰を測って羽を払い、ここに六宮に 詔 して、川室で親しく養蚕を行わせた。皇太后が鑾駕を降りて従駕され、車を停めて礼をご覧になった。緑の蘧(蚕箔)が既に整い、玄紞(冠の紐)がまさに修められ、多くの儀礼が椒房から発し、宮中の教化が動き出した。県妃・公主以下は、それぞれ等級に応じて恩賜を加えることができる。」
廃帝が即位すると、皇太后と尊称し、宮を永訓宮といった。その年、含章殿で崩御し、時に三十八歳であった。景寧陵に合葬された。
后の父の偃は、字を子游といい、晋の丞相王導の玄孫で、尚書王嘏の子である。母は晋の孝武帝の娘の鄱陽公主で、宋が禅譲を受けると、永成君に封ぜられた。偃は高祖の第二女の呉興長公主(諱は栄男)を娶り、若くして顕官を歴任し、黄門侍郎、秘書監、侍中となった。元嘉の末、 散騎常侍 ・右衛将軍となった。世祖が即位すると、后の父として金紫光禄大夫を授けられ、義陽王師を兼任し、常侍はもとの通りとした。右光禄大夫に昇進し、常侍・王師はもとの通りであった。偃は謙虚で恭しく慎み深く、世事に関心を払わなかった。孝建二年に卒去し、時に五十四歳であった。開府儀同三司を追贈され、本官はもとの通りとし、諡を恭公といった。
長子の藻は、東陽太守の官位に至った。太祖の第六女の臨川長公主(諱は英媛)を娶った。公主は性来嫉妬深く、藻は別に側近の者である呉崇祖を寵愛した。前廃帝の景和年間、公主が廃帝に讒言したため、藻は罪に落とされて獄死し、公主は王氏と離婚した。泰始の初め、公主を 豫 章太守の庾沖遠に嫁がせようとしたが、婚礼を挙げる前に沖遠が死去した。
宋の世の諸公主は、厳しい嫉妬心を持たない者はなく、太宗は常にこれを憎んだ。湖熟県令の袁慆の妻は嫉妬のために賜死され、近臣の虞通之に『妒婦記』を撰述させた。左光禄大夫の江湛の孫の江斅が世祖の娘を娶ることになった時、上(太宗)は人に命じて江斅のために婚姻を辞退する上表文を作らせ、次のように言わせた。
太宗はこの上表文を諸公主に広く見せた。そこで臨川長公主が上表して言った。「妾は運命に恵まれず、王氏と絶縁し、私的な家庭内の騒動と不和により、このような離別に至りました。今、孤独で病み、わびしく、朝夕をかろうじて生き長らえており、情愛を注ぐ対象はただ一人の子だけです。苦難と辛苦を共にし、憐れみと哀れみを兼ねて抱き、運命の浮き沈みと盛衰は、この子にかかっています。ひたすらその家門の不和を解消し、再び母子となることを願っております。時が過ぎ、苦労して努力しましたが、自ら上聞に達する機会がありませんでした。先帝は慈愛深く、妾の真心をご覧になりました。もし息子の徹を帰宅させて定省させてくださるなら、天の御旨を推し量るに、あるいは道が開けるかもしれません。今、事態は切迫し誠意は切実で、典憲を顧みず、敢えて恩沢に縁り、畏れ多くも上聞に触れさせていただきます。特に、王族に身を還し、弱い後継ぎを守り養うことをお願いいたします。たとえ死ぬ日であっても、生きているよりも心から甘んじます。」これを許した。
藻の弟の懋は、昇明の末に貴顕となった。懋の弟の攸は、太宰従事中郎となったが、早世し、黄門侍郎を追贈された。弟の臻は、昇明の末に顕官となった。
前廃帝の何皇后は諱を令婉といい、廬江郡灊県の人である。孝建三年に皇太子妃として納れられ、大明五年に東宮の徽光殿で 薨去 し、時に十七歳であった。□□に葬られ、諡を献妃といった。上(孝武帝)はさらに太子のために内職を二等に置き、保林と良娣といった。南中郎長史の太山郡の羊瞻の娘を良娣とし、宜都太守の袁僧恵の娘を保林とした。廃帝が即位すると、献妃を追崇して献皇后とした。太宗が践祚すると、后を廃帝と共に龍山の北に合葬した。
后の父の瑀は、字を稚玉といい、晋の尚書左 僕射 の何澄の曾孫である。祖父の融は大司農であった。瑀は高祖の末娘の 豫 章康長公主(諱は欣男)を娶った。公主は以前に徐喬に嫁いでいたが、容貌が美しく、聡明で機知に富み、太祖の世には礼遇が特に厚かった。瑀は当時豪勢を競い、平昌の孟霊休、東海の何勗らと、車馬や驕奢を互いに誇り合った。公主と瑀の情愛は厚く密接で、何氏の外戚や遠近の親族は、恩恵を受けない者はなかった。瑀は清要な官位を歴任し、衛将軍に至った。大明八年、公主が 薨去 すると、瑀の墓が開かれ、世祖は金紫光禄大夫を追贈し、 散騎常侍 を加えた。
子の邁は、太祖の第十女の新蔡公主(諱は英媚)を娶った。邁は若くして貴戚として顕官にあり、犬馬や狩猟を好み、多くの武勇の士を集めた。江乗県界に別荘があり、京師から三十里離れていた。邁は遊びに出かけるたびに、四頭立ての馬車を連ね、武士を群れさせた。大明の末、 豫 章王の子尚の撫軍諮議参軍となり、寧朔将軍・南済陰太守を加えられた。廃帝が公主を後宮に納れ、偽って 薨去 したと宣言し、一人の婢を殺して邁の邸から送り出し、葬儀の礼を行わせた。常に邁に異心があると疑い、邁もまた志を同じくする者を招き集め、行幸の機会に乗じて廃立を図ろうとした。事が発覚し、廃帝自ら出陣して邁を討ち誅殺した。太宗が即位すると、建寧県侯に追封され、食邑五百戸を与えられた。子の曼倩が後を嗣いだが、斉が禅譲を受けると封国は除かれた。
瑀の兄の子の亮は、孝建の初めに桂陽太守となった。丞相の南郡王の劉義宣が叛逆した時、参軍の王師寿を派遣して桂陽の道を断ち切り、広州 刺史 の宗愨を防がせようとしたが、亮はこれを捕らえて斬った。官位は新安内史に至った。亮の弟の恢は、廃帝の元徽の初めに広州 刺史 となったが、任地に赴かず、国喪の期間に晦日(月末)に到着しなかった罪で、官を免ぜられた。再び起用されて都官尚書となったが、拝命せずに死去した。恢の弟の誕は、 司徒 右長史となった。誕の弟の衍が最も有名であった。性はせっかちで落ち着きがなかった。太宗の初め、建安王の 劉休仁 の 司徒 従事中郎となり、そのまま黄門郎に任ぜられた。拝命しないうちに、 司徒 司馬への転任を求めた。司馬を得ると、また太子右率を求めた。右率に拝命して一二日後、また侍中を求めた。十日ほどの間に、進官を求めてやまなかった。侍中を得られず、怨み罵ったことで賜死された。
文帝の沈婕妤は諱を容姫といい、どこの出身かはわからない。後宮に納れられて美人となった。明帝を生み、婕妤に立てられた。元嘉三十年に卒去し、時に四十歳であった。建康の莫府山に葬られた。世祖が即位すると、湘東国太妃を追贈した。太宗が即位すると、有司が上奏して言った。「昔、豳の都で遠祖を追慕し、正邑で哀悼に沈み、徳義を慕い敬い、園陵を奉りました。先太妃は徳行が端正で華やかであり、威光と気品が明らかで高く、宮中に風光をもたらし、国中の閨門に訓えを流し、聖主を生み霊を授けられましたが、早くに大いなる福を捨てられました。臣らは遠く漢の冊を模範とし、近くは晋の典に則り、謹んで尊号を皇太后と上申いたします。」礼官に諡を議させ、諡を宣太后とし、陵号を崇寧といった。
太后の弟の道慶を給事中とした。泰始三年に卒去し、通直 散騎常侍 を追贈し、県侯の爵を賜った。また太后の父に 散騎常侍 を、母の王氏に成楽郷君を追贈した。
明恭王皇后は諱を貞風といい、琅邪郡臨沂県の人である。元嘉二十五年に淮陽王妃に立てられた。太宗が封を改めると、また湘東王妃となった。晋陵長公主の伯姒、建安長公主の伯媛を生んだ。太宗が即位すると、皇后に立てられた。
帝はかつて宮中で大規模な集会を開き、裸の女性を見物させて、笑いと楽しみとした。皇后は扇で顔を覆い、ただ一言も発しなかった。帝は怒って言った。「外戚の家は貧しい乞食同然だ。今みんなで笑い楽しんでいるのに、なぜお前だけ見ようとしないのか。」皇后は言った。「楽しみの方法は、他にもたくさんあります。どうして姑や姉妹が集まる場で、女性の裸体を見せて楽しむことがありましょうか。これを楽しみとするのは、外戚の家の楽しみ方とは、実に異なります。」帝は大いに怒り、皇后に立ち去るよう命じた。皇后の兄で揚州 刺史 の景文はこのことを従舅の陳郡の謝緯に語って言った。「皇后は家では弱々しい女性だったが、今になってこのように剛直で正しい態度を取れるとは思わなかった。」
廃帝が即位すると、皇太后と尊称され、宮殿は弘訓宮と称された。廃帝は徳を失い、太后はたびたび諫め励ましたが、初めはまだ従順に見えたものの、後に狂気と悪意がますますひどくなり、次第に喜ばなくなった。元徽五年五月五日、太后が帝に玉の柄の毛扇を賜ったが、帝はその毛と柄が華美でないと嫌い、これによって毒殺を企てた。すでに太医に薬を煎じさせたが、側近の者が止めて言った。「もしこのことを行えば、陛下はすぐに孝子とならねばならず、もはや気ままに出入りすることはできなくなります。」帝は言った。「お前の言葉はもっともだ。」そこでやめた。
順帝が即位し、斉王が権力を握ると、宗室の劉晃、劉綽、卜伯興らに異心があり、太后は彼らとかなり関わりを持った。順帝が禅譲すると、太后は帝とともに東邸に退き、それによって丹陽宮に移り住み、汝陰王太妃に封じられた。順帝が丹陽で崩御すると、さらに京邑に邸宅を建てた。建元元年、邸宅で 薨去 し、時に四十四歳であった。追号と諡号が加えられ、宋の皇后の礼で葬られた。父の僧朗については、別に景文伝に事績が見える。
明帝の陳貴妃は諱を妙登といい、丹陽建康の人で、屠殺業者の娘である。世祖(孝武帝)はしばしば尉司に命じて民間の子女で容姿端麗な者を探させた。太妃の家は建康県内にあり、家は貧しく、草屋が二三軒あった。帝が外出した時、尉に尋ねた。「御道のそばにどうしてこのような草屋があるのか。家が貧しいからであろう。」三万銭を賜り、瓦屋を建てるよう命じた。尉が自ら金を届けに行くと、家族は皆不在で、ただ太妃だけが家にいた。当時十二、三歳であった。尉はその容貌と資質が非常に美しいのを見て、すぐに世祖に報告した。そこで迎えられて宮中に入った。路太后の部屋で二、三年を過ごし、二度呼ばれたが、寵愛を受けることはなかった。太后が帝に言上し、太宗(明帝)に下賜された。初めは寵愛を受けたが、一年ほどで衰え、李道児に与えられた。まもなくまた迎え戻され、廃帝を生んだ。そのため民間では皆、廃帝を李氏の子と呼んだ。廃帝は後に常に自らを李将軍と称し、あるいは李統と自称した。
太宗が即位すると、貴妃に封じられ、礼遇と秩禄は皇太子妃と同じであった。廃帝が践祚すると、有司が上奏して言った。「臣は聞きます。河の龍が聖を啓き、理は民神に徹す。郊の電が皇を基づけ、慶は天地を灼く。故に敬を資するの道は、古を粋にして風に銘じ、貴に沿うの誼は、代を眇として則を凝らす。伏して惟うに、貴妃は和を日に含み、淑を星枢に表し、徽音は古に峻く、柔光は世を照らし、声華は帝掖にあり、軌秀は天嬪に秀で、景は皇明に発し、祚は睿命に昌んず。しかるに備物の章は、未だ彝策に煥かず。遠く前王に酌み、允かに鴻典に陟る。臣ら参議し、謹んで尊号を上りて皇太妃と曰う。輿服は一に晋の孝武帝太后の故事の如くす。家令一人を置く。諸国の太妃を改めて太妃と曰う。(妃の音は怡。)宮を弘化と曰う。」太妃の父の金宝を追贈して 散騎常侍 とし、金宝の妻の王氏を永世県成楽郷君とした。昇明初年、蒼梧王太妃に降格された。
伯父の照宗は、中書通事舎人であった。叔父の佛念は、歩兵 校尉 であった。兄の敬元は、通直郎、南魯郡太守であった。佛念は大いに賄賂を取り、朝政を侵し乱した。昇明初年、賜死された。
後廃帝の江皇后は諱を簡珪といい、済陽考城の人で、北中郎長史の智淵の孫娘である。泰始五年、太宗(明帝)が太子妃を求め訪ねたが、小術を深く信じ、名家の娘は多く合わなかった。后は幼く弱く、家門に強い後ろ盾もなかったが、占筮が最も吉であったため、太子に娶らせた。朝士や州郡に物を献上するよう求め、多いものは百金に相当する価値があった。始興太守の孫奉伯は琴と書物だけを献上し、それ以外に余分な物はなかった。帝は大いに怒り、封をした毒薬を賜って死を命じたが、後に許した。太子が帝位に即くと、皇后に立てられた。帝が廃されると、蒼梧王妃に降格された。智淵については独自の伝がある。
明帝の陳昭華は諱を法容といい、丹陽建康の人である。太宗の晩年、陰萎のため後宮に御することができず、諸弟の側室で妊娠している者がいれば、すぐに取り入れて宮中に入れ、男児が生まれると、皆その母を殺し、六宮で寵愛されている者に養わせた。順帝は桂陽王休範の子であるが、昭華を母とした。明帝が崩御すると、昭華は安成王太妃に封じられた。順帝が即位すると、皇太妃に進んだ。順帝が禅譲すると、皇太妃の称号を去った。
順帝の謝皇后は諱を梵境といい、陳郡陽夏の人で、右光禄大夫の謝莊の孫娘である。昇明二年、皇后に立てられた。順帝が禅譲すると、汝陰王妃に降格された。謝莊については独自の伝がある。