宋書

列伝第一

列伝第一

帝の祖母は太皇太后と号し、母は皇太后と号し、妃は皇后と号す。これは漢の旧制である。

原文帝祖母號太皇太后,母號皇太后,妃號皇后,漢舊制也。

晋の武帝は漢・魏の制度を採り、貴嬪・夫人・貴人を置いた。これが三夫人であり、位は三公に準ずる。淑妃・淑媛・淑儀・脩華・脩容・脩儀・婕妤・容華・充華を置いた。これが九嬪であり、位は九卿に準ずる。その他に美人・才人・中才人があり、爵は千石以下に準ずる。高祖(劉裕)が天命を受けると、二才人を省き、その他は晋の制度をそのまま用いた。貴嬪は魏の文帝が制定した。夫人は魏の武帝が初めて魏国を建てた時に制定した。貴人は漢の光武帝が制定した。淑妃は魏の明帝が制定した。淑媛は魏の文帝が制定した。淑儀・脩華は晋の武帝が制定した。脩容は魏の文帝が制定した。脩儀は魏の明帝が制定した。婕妤・容華は前漢の旧号である。充華は晋の武帝が制定した。美人は漢の光武帝が制定した。世祖(孝武帝劉駿)の孝建三年、夫人・脩華・脩容を省き、貴妃を置き、位は相国に比し、貴嬪を進めて位は丞相に比し、貴人は位は三司に比し、これをもって三夫人とした。また昭儀・昭容・昭華を置き、脩華・脩儀・脩容に代えた。また中才人・充衣を置き、散位とした。昭儀は漢の元帝が制定した。昭容は世祖が制定した。昭華は魏の明帝が制定した。中才人は晋の武帝が制定した。充衣は前漢の旧制である。太宗(明帝劉彧)の泰始元年、淑妃・昭華・中才人・充衣を省き、脩華・脩儀・脩容・才人・良人を復置した。三年、また貴人を省き、貴姫を置き、三夫人の数を備えた。また昭華を置き、淑容・承徽・列栄を増設した。淑媛・淑儀・淑容・昭華・昭儀・昭容・脩華・脩儀・脩容をもって九嬪とした。婕妤・容華・充華・承徽・列栄の五職は、班位が九嬪に次ぐ。美人・中才人・才人の三職は散役である。その後、太宗は後宮に心を留め、外朝の百官になぞらえ、内職の位置を備えた。その名称と品等を後に列挙する。後宮通尹は、録尚書に準ずる。

原文晉武帝採漢、魏之制,置貴嬪、夫人、貴人,是為三夫人,位視三公。淑妃、淑媛、淑儀、脩華、脩容、脩儀、婕妤、容華、充華,是為九嬪,位視九卿。其餘有美人、才人、中才人,爵視千石以下。高祖受命,省二才人,其餘仍用晉制。貴嬪,魏文帝所制。夫人,魏武帝初建魏國所制。貴人,漢光武所制。淑妃,魏明帝所制。淑媛,魏文帝所制。淑儀、脩華,晉武帝所制。脩容,魏文帝所制。脩儀,魏明帝所制。婕妤、容華,前漢舊號。充華,晉武帝所制。美人,漢光武所制。世祖孝建三年,省夫人、脩華、脩容,置貴妃,位比相國,進貴嬪,位比丞相,貴人位比三司,以為三夫人。又置昭儀、昭容、昭華,以代脩華、脩儀、脩容。又置中才人、充衣,以為散位。昭儀,漢元帝所制。昭容,世祖所制。昭華,魏明帝所制。中才人,晉武帝所制。充衣,前漢舊制。太宗泰始元年,省淑妃、昭華、中才人、充衣,復置脩華、脩儀、脩容、才人、良人。三年,又省貴人,置貴姬,以備三夫人之數。又置昭華,增淑容、承徽、列榮。以淑媛、淑儀、淑容、昭華、昭儀、昭容、脩華、脩儀、脩容為九嬪。婕妤、容華、充華、承徽、列榮凡五職,班亞九嬪。美人、中才人、才人三職為散役。其後太宗留心後房,擬外百官,備位置內職。列其名品于後。後宮通尹,準錄尚書。

紫極戸主。

原文紫極戶主。

光興戸主。

原文光興戶主。

官品第一(各一人を置き、ともに六宮を銓衡する)。後宮の列叙は、尚書令に準じ、六宮を銓衡する。

原文官品第一〈各置一人,並銓六宮。〉後宮列敍,準尚書令,銓六宮。

紫極中監尹、六宮を銓衡する。

原文紫極中監尹,銓六宮。

光興中監尹、六宮を銓衡する。

原文光興中監尹,銓六宮。

宣融戸主、六宮を銓衡する。

原文宣融戶主,銓六宮。

紫極房帥、一人を置く。

原文紫極房帥,置一人。

光興房帥、一人を置く。

原文光興房帥,置一人。

官品第二(各一人を置く)。

原文官品第二〈各置一人。〉後宮司儀,準左僕射,銓人士。

後宮司儀、左僕射に準じ、人士を銓衡する。

原文後宮司政,準右僕射,銓人士。

後宮司政、右僕射に準じ、人士を銓衡する。

原文參議女林,準銀青光祿,銓人士。

参議女林、銀青光禄に準じ、人士を銓衡する。

原文中臺侍御尹,銓六宮。

中台侍御尹、六宮を銓衡する。

原文宣融便殿中監尹,銓六宮。

宣融便殿中監尹、六宮を銓衡する。

原文采蓺房主,銓六宮。

采蓺房主、六宮を銓衡する。

原文南房主,銓六宮。

南房主、六宮を銓衡する。

原文中藏女典,銓六宮。

中蔵女典、六宮を銓衡する。

原文典坊,銓六宮。

典坊、六宮を銓衡する。

原文樂正,銓六宮。

楽正、六宮を銓衡する。

原文內保,銓人士。

内保、人士を銓衡する。

原文學林祭酒,銓人士。

学林祭酒、人士を銓衡する。

原文昭陽房帥,置一人。

昭陽房帥、一人を置く。

原文徽音房帥,置一人。

徽音房帥、一人を置く。

原文宣融房帥,置一人。

宣融房帥、一人を置く。

原文官品第三〈各置一人。〉後宮都掌治職,置二人。

官品第三(各一人を置く)。

原文〈準左右丞,位比尚書,銓人士。〉後宮殿中治職,置一人。

後宮都掌治職、二人を置く(左右丞に準じ、位は尚書に比し、人士を銓衡する)。

原文〈準左民尚書,銓人士。〉後宮源典治職,置一人。

後宮殿中治職、一人を置く(左民尚書に準じ、人士を銓衡する)。

原文〈準祠部尚書,銓人士。〉後宮穀帛治職,置一人。

後宮源典治職、一人を置く(祠部尚書に準じ、人士を銓衡する)。

原文〈準度支尚書。〉中傅,置一人。

後宮穀帛治職、一人を置く(度支尚書に準じる)。

原文〈銓人士。〉後宮校事女史,置一人。

中傅、一人を置く(人士を銓衡する)。

原文〈銓人士。〉紫極中監女史,置一人。

後宮校事女史、一人を置く(人士を銓衡する)。

原文〈銓人士。〉光興中監女史,置一人。

紫極中監女史、一人を置く(人士を銓衡する)。

原文〈銓人士。〉紫極房參事,置人無定數。

光興中監女史、一人を置く(人士を銓衡する)。

原文〈銓人士。有限外。〉宣融房參事,置人無定數。

紫極房参事、定員なく置く(人士を銓衡する。限外あり)。

原文〈銓人士。有限外。〉中臺侍御奏案女史,置一人。

宣融房参事、定員なく置く(人士を銓衡する。限外あり)。

原文〈銓人士。〉贊樂女史,置一人。

中台侍御奏案女史、一人を置く(人士を銓衡する)。

原文〈銓人士。〉中訓女史,置一人。

賛楽女史、一人を置く(人士を銓衡する)。

原文〈銓人士。〉女祝史,置一人。

中訓女史、一人を置く(人士を銓衡する)。

原文紫極中監典,置一人。

女祝史、一人を置く。

原文光興中監典,置一人。

紫極中監典、一人を置く。

原文典樂帥,置人無定數。

光興中監典、一人を置く。

原文〈有限外。〉紫極房廉帥祭酒,置一人。

典楽帥、定員なく置く(限外あり)。

原文光興房廉帥祭酒,置一人。

紫極房廉帥祭酒、一人を置く。

原文宣融房廉帥祭酒,置一人。

光興房廉帥祭酒、一人を置く。

原文官品第四

宣融房廉帥祭酒、一人を置く。

原文後宮通關參事,置一人。

官品第四。

原文景德房參事,置人無定數。

後宮通関参事、一人を置く。

原文〈銓人士。〉采蓺房參事,置人無定數。

景德房参事、定員なく置く(人士を銓衡する)。

原文〈銓人士。〉南房參事,置人無定數。

采蓺房参事、定員なく置く(人士を銓衡する)。

原文〈銓人士。〉內房參事,置一人。

南房参事、定員なく置く(人士を銓衡する)。

原文〈銓人士。〉校學女史,置一人。

内房参事、一人を置く(人士を銓衡する)。

原文〈銓人士。〉後宮中房帥,置二人。

校学女史、一人を置く(人士を銓衡する)。

原文後宮源典帥,置二人。

後宮中房帥、二人を置く。

原文後宮穀帛帥,置二人。

後宮源典帥、二人を置く。

原文中臺帥,置一人。

後宮穀帛帥、二人を置く。

原文中臺侍御起居帥,置二人。

中台帥、一人を置く。

原文中臺侍御詔誥帥,置二人。

中台侍御起居帥、二人を置く。

原文斯男房帥,置一人。

中台侍御詔誥帥、二人を置く。

原文宣豫房帥,置一人。

斯男房帥、一人を置く。

原文景德房帥,置一人。

宣豫房帥、一人を置く。

原文采蓺房帥,置一人。

景德房帥、一人を置く。

原文中藏帥,置一人。

采蓺房帥、一人を置く。

原文內坊帥,置一人。

中蔵帥、一人を置く。

原文南房帥,置一人。

内坊帥、一人を置く。

原文外華房帥,置一人。

南房帥、一人を置く。

原文招慶房帥,置一人。

外華房帥、一人を置く。

原文紫極諸房廉帥,置人無定數。

招慶房帥、一人を置く。

原文〈有限外。〉紫極中監省帥,置一人。

紫極諸房廉帥、定員なく置く(限外あり)。

原文紫極殿帥,置六人。

紫極中監省帥、一人を置く。

原文光興殿帥,置四人。

紫極殿帥、六人を置く。

原文徽音監帥,置一人。

光興殿帥、四人を置く。

原文徽章監帥,置一人。

徽音監帥、一人を置く。

原文宣融便殿中監典,置一人。

徽章監帥、一人を置く。

原文清商帥,置人無定數。

宣融便殿中監典、一人を置く。

原文總章帥,置人無定數。

清商帥、定員なく置く。

原文左西章帥,置人無定數。

総章帥、定員なく置く。

原文右西章帥,置人無定數。

左西章帥、定員なく置く。

原文中廚帥,置一人。

右西章帥、定員なく置く。

原文官品第五

中厨帥、一人を置く。

原文中臺侍御執衞,置人無定數。

官品第五。

原文中臺侍御監閨帥,置二人。

中台侍御執衛、定員なく置く。

原文中臺侍御監司帥,置二人。

中台侍御監閨帥、二人を置く。

原文宣融便殿帥,置一人。

中台侍御監司帥、二人を置く。

原文永巷帥,置一人。

宣融便殿帥、一人を置く。

原文後宮都掌內史,置二人。

永巷帥、一人を置く。

原文後宮殿中內史,置一人。

後宮都掌内史、二人を置く。

原文後宮源典內史,置一人。

後宮殿中内史、一人を置く。

原文後宮穀帛內史,置二人。

後宮源典内史、一人を置く。

原文後宮監臨內史,置二人。

後宮穀帛内史、二人を置く。

原文中臺侍御執法內史,置一人。

後宮監臨内史、二人を置く。

原文中臺侍御典內史,置二人。

中台侍御執法内史、一人を置く。

原文中臺侍御節度內史,置二人。

中台侍御典内史、二人を置く。

原文中臺侍御應內史,置六人。

中台侍御節度内史、二人を置く。

原文紫極房內史,置一人。

中台侍御応内史、六人を置く。

原文光興房內史,置一人。

紫極房内史、一人を置く。

原文助教,置一人。

光興房内史、一人を置く。

原文綵製帥,置人無定數。

助教、一人を置く。

原文裝飾帥,置人無定數。

綵製帥、定員なく置く。

原文繡帥,置人無定數。

装飾帥、定員なく置く。

原文織帥,置人無定數。

繍帥、定員なく置く。

原文學林館帥,置一人。

織帥、定員なく置く。

原文宮閨帥,置一人。

学林館帥、一人を置く。

原文教堂帥,置人無定數。

宮閨帥、一人を置く。

原文〈有限外。〉監解帥,置人無定數。

教堂帥、定員なく置く(限外あり)。

原文累室帥,置人無定數。

監解帥、定員なく置く。

原文行病帥,置人無定數。

累室帥、定員なく置く。

原文官品第六

行病帥、定員なく置く。

原文合堂帥,置二人。

官品第六。

原文御清帥,置一人。

合堂帥、二人を置く。

原文監夜帥,置一人。

御清帥、一人を置く。

原文諸房禁防,置人無定數。

監夜帥、一人を置く。

原文三廂禁防,置三人。

諸房禁防、定員なく置く。

原文諸房廚帥,各置一人。

三廂禁防、三人を置く。

原文中廚廉,置三人。

諸房厨帥、各一人を置く。

原文應閨,置六人。

中厨廉、三人を置く。

原文諸應閤,置人無定數。

応閨、六人を置く。

原文宮閨史,置一人。

諸応閤、定員なく置く。

原文官品第七

宮閨史、一人を置く。

原文諸房中掾,各置一人。

官品第七。

原文中藏掾,各置二人。

諸房中掾、各一人を置く。

原文比五品敕吏

中蔵掾、各二人を置く。

原文紫極供殿直倀。

五品勅吏に比す。

原文光興供殿直倀。

紫極供殿直倀。

原文總章伎倀。

光興供殿直倀。

原文侍御扶侍。

総章伎倀。

原文主衣。

侍御扶侍。

原文準二衞五品,敕吏比六品。

主衣。

原文供殿左右。

二衛五品に準じ、勅吏は六品に比す。

原文〈紫極置二十人。光興置十人。〉左右守藏,置四人。

供殿左右(紫極に二十人を置く。光興に十人を置く)。

原文典樂人。

左右守蔵、四人を置く。

原文比諸房禁防

典楽人。

原文作倀。

諸房禁防作倀に比す。

原文比王官

王官供殿給使に比す(紫極に二十人を置く。光興に十人を置く)。

原文供殿給使。

典殿、定員なく置く。

原文〈紫極置二十人。光興置十人。〉典殿,置人無定數。

官人に比す。

原文比官人

紫極三廂給事、十人を置く。

原文紫極三廂給事,置十人。

全堂給使、五人を置く。

原文全堂給使,置五人。

宮閨給使、六人を置く。

原文宮閨給使,置六人。

房に比す。

原文比房

孝穆趙皇后、諱いみなは安宗、下邳郡僮県の人である。祖父の彪は字あざなを世範といい、治書侍御史であった。父の裔は字を彦冑といい、平原太守たいしゅであった。

原文孝穆趙皇后諱安宗,下邳僮人也。祖彪字世範,治書侍御史。父裔字彥冑,平原太守。

后は晉の穆帝の升平四年に孝皇(劉翹)に嫁ぎ、晉の哀帝の興寧元年四月二日に高祖(劉裕)を生んだ。その日、后は産後の病気により丹徒の官舎で亡くなり、時に二十一歳であった。晉陵郡丹徒県東郷練璧里の雩山に葬られた。宋の初年に追尊して号諡を贈り、陵を興寧陵と称した。

原文后以晉穆帝升平四年嬪孝皇,晉哀帝興寧元年四月二日生高祖。其日,后以產疾殂于丹徒官舍,時年二十一。葬晉陵丹徒縣東鄉練璧里雩山。宋初追崇號諡,陵曰興寧。

永初二年、有司が上奏して言った。「大孝の徳は、親を栄えさせることに盛んである。一人に慶事があれば、その光は万国に及ぶ。それゆえ霊文(后)は西京で寵愛され、寿張(后)は隆盛な漢で顕彰された。故平原太守趙裔と故洮陽令蕭卓は、ともに外戚の尊属であり、生前の恩寵に及ばなかった。臣らは聖なるお考えを仰ぎ述べ、遠く旧章を考証し、ともに光禄大夫を追贈し、金章紫綬を加えることができると存じます。裔の命婦孫氏は豫章郡建昌県君とし、卓の命婦趙氏は呉郡寿昌県君とすることができます。」孫氏は東莞の人である。その年、また詔して言った。「恩を推し及ぼす礼は、情において同じである。ゆえに内には宗子を立て、外には后の親族を尊び、漢・魏より以来、皆この典に従ってきた。外祖父の趙光禄(趙裔)・蕭光禄(蕭卓)は、名器は高いが、封土はまだ建てられていない。ともに開国県侯を追封し、食邑五百戸とするのがよい。」そこで裔を臨賀県侯に追封した。裔の長子の宣之は、江乗県令まで仕えたが、早くに亡くなり、子がなかったため、弟の孫の襲之が宣之の後を継いで封を紹いだ。襲之が亡くなると、子の祖憐が嗣いだ。斉が禅譲を受けると、封国は除かれた。宣之の弟の倫之は、別に伝がある。

原文永初二年,有司奏曰:「大孝之德,盛於榮親。一人有慶,光被萬國。是以靈文寵於西京,壽張顯於隆漢。故平原太守趙裔、故洮陽令蕭卓,並外屬尊戚,不逮休寵。臣等仰述聖思。遠稽舊章,並可追贈光祿大夫,加金章紫綬。裔命婦孫可豫章郡建昌縣君,卓命婦趙可吳郡壽昌縣君。」孫氏,東莞人也。其年,又詔曰:「推恩之禮,在情所同。故內樹宗子,外崇后屬,爰自漢、魏,咸遵斯典。外祖趙光祿、蕭光祿,名器雖隆,茅土未建,並宜追封開國縣侯,食邑五百戶。」於是追封裔臨賀縣侯。裔長子宣之,仕至江乘令。蚤卒,無子,以弟孫襲之繼宣之紹封。襲之卒,子祖憐嗣。齊受禪,國除。宣之弟倫之,自有傳。

孝懿蕭皇后は諱を文壽といい、蘭陵郡蘭陵県の人である。祖父の蕭亮は字を保祚といい、侍御史であった。父の蕭卓は字を子略といい、洮陽県令であった。

原文孝懿蕭皇后諱文壽,蘭陵蘭陵人也。祖亮字保祚,侍御史。父卓字子略,洮陽令。

孝穆后が亡くなると、孝皇帝は后を継室として娶り、長沙景王の劉道憐と臨川烈武王の劉道規を生んだ。義熙七年、豫章公太夫人に拝された。高祖が宋王となると、さらに太妃の号を加えられた。高祖は十二年北伐し、引き続き彭城ほうじょう・壽陽に駐留し、元熙二年に入朝するまで、外にいたこと凡そ五年、后は常に東府に留まっていた。高祖が即位すると、有司が上奏して言った。「臣は聞きます。道が積もる者は慶びが流れ、徳が行き渡る者は礼が備わると。故に敬虔さは崇高さに表れ、嘉号は盛典に顕れるのです。伏して思うに、太妃の母儀の徳は、化育が穏やかで言葉を要さず、保翼の訓戒は、洪業に広く及んでいます。幽明ともに慶ぶとはいえ、称謂はまだ尽きておりません。前代を考察しますと、礼には恒常の基準があり、旧章に従うべきであり、まさに衆望に副うものです。臣らは、宋王太后の号を皇太后と上ることを請います。」故に有司の上奏はなお太妃と称していたのである。

原文孝穆后殂,孝皇帝娉后為繼室,生長沙景王道憐、臨川烈武王道規。義熙七年,拜豫章公太夫人。高祖為宋王,又加太妃之號。高祖以十二年北伐,仍停彭城、壽陽,至元熙二年入朝,因受晉禪,在外凡五年,后常留東府。高祖踐阼,有司奏曰:「臣聞道積者慶流,德洽者禮備。故祗敬表於崇高,嘉號彰於盛典。伏惟太妃母儀之德,化穆不言,保翼之訓,光被洪業。雖幽明同慶,而稱謂未窮。稽之前代,禮有恒準,宜式遵舊章,允副羣望。臣等請上宋王太后號皇太后。」故有司奏猶稱太妃也。

上は恭孝を行動とし、太后に仕えることに常に謹んでいた。大位に即いた後も、春秋(年齢)が既に高かったが、毎朝太后のところに入朝し、時刻を失うことはなかった。

原文上以恭孝為行,奉太后素謹,及即大位,春秋已高,每旦入朝太后,未嘗失時刻。

少帝が即位すると、崇めて太皇太后と称した。景平元年、顕陽殿で崩御した。時に八十一歳。遺令に言う。「孝皇が世を去って五十余年、古くは合葬しない。かつ漢代の帝后の陵は皆別の場所にある。今は塋域の内に別の墓穴を造るがよい。孝皇の陵墳は本来、素門の礼を用いており、王者の制度の奢侈・倹約とは異なる。婦人の礼には従うべきところがあり、一様に従来の方式に従うがよい。」そこで別の墓穴を開き、興寧陵と合墳した。初め、高祖が微賤の時、貧困は甚だしく、孝皇の崩御の際、葬儀は多くの欠落があった。高祖の遺旨には、太后が百歳後に合葬する必要はないとあった。この時に至り、故に后の遺旨を施行したと称したのである。

原文少帝即位,加崇曰太皇太后。景平元年,崩于顯陽殿,時年八十一。遺令曰:「孝皇背世五十餘年,古不祔葬。且漢世帝后陵皆異處,今可於塋域之內別為一壙。孝皇陵墳本用素門之禮,與王者制度奢儉不同,婦人禮有所從,可一遵往式。」乃開別壙,與興寧陵合墳。初,高祖微時,貧約過甚,孝皇之殂,葬禮多闕,高祖遺旨,太后百歲後不須祔葬。至是故稱后遺旨施行。

蕭卓は初め趙裔とともに金紫光禄大夫を追贈され、また封陽県侯を追封された。妻の下邳趙氏は呉郡壽昌県君に封ぜられた。蕭卓の子の源之が爵を襲い、源之は子の思話の伝に見える。

原文卓初與趙裔俱贈金紫光祿大夫,又追封封陽縣侯,妻下邳趙氏封吳郡壽昌縣君。卓子源之襲爵,源之見子思話傳。

武敬臧皇后は諱を愛親といい、東莞郡の人である。祖父の臧汪は字を山甫といい、尚書郎であった。父の臧儁は字を宣乂といい、郡の功曹であった。

原文武敬臧皇后諱愛親,東莞人也。祖汪字山甫,尚書郎。父儁字宣乂,郡功曹。

后は高祖に嫁ぎ、會稽宣長公主の興弟を生んだ。高祖は倹約と公正をもって下を率い、后は恭謹でこれに背かなかった。高祖が晉室を興復し、上相の重きに居た時も、后の器服は粗末で質素であり、親族のために請謁することはなかった。義熙四年正月甲午、東城で崩じた。時に四十八歳。豫章公夫人を追贈され、丹徒に還葬された。高祖が臨終の際、遺詔で京師に留めて葬るよう命じた。そこで法駕を整え、梓宮を迎えて初寧陵に合葬した。

原文后適高祖,生會稽宣長公主興弟。高祖以儉正率下,后恭謹不違。及高祖興復晉室,居上相之重,而后器服粗素,不為親屬請謁。義熙四年正月甲午,殂於東城,時年四十八,追贈豫章公夫人,還葬丹徒。高祖臨崩,遺詔留葬京師,於是備法駕,迎梓宮祔葬初寧陵。

宋初、臧儁に金紫光禄大夫を追贈し、妻の高密叔孫氏を遷陵永平郷君に封じた。臧儁の子の臧燾、臧燾の弟の臧熹、臧熹の子の臧質は、それぞれ伝がある。

原文宋初追贈儁金紫光祿大夫,妻高密叔孫氏封遷陵永平鄉君。儁子燾,燾弟熹,熹子質,自有傳。

武帝の張夫人は諱を闕といい、どの郡県の人かは知られていない。義熙初年、高祖の寵愛を得て、少帝を生み、また義興恭長公主の惠媛を生んだ。永初元年、夫人に拝された。少帝が即位すると、有司が上奏して言った。「臣は聞きます。厳父を敬い始めるのは、その本によるものであり、孝を全うする道は、内から外に出るものです。伏して思うに、夫人の徳は坤元と並び、徽音は輝き、祥瑞を発して慶びを兆し、聖明を誕生させ啓きました。極めて尊い徽号を崇め、盛んな則りを備えるべきです。春秋の母は子によって貴くなるという義に従い、漢・晉の推愛の典を遵奉し、謹んで尊号を皇太后と上り、宮を永楽とします。」少帝が廃されると、太后は璽綬じじゅを返還し、呉県に移り住んだ。太祖の元嘉元年、營陽王太妃に拝された。三年、薨去した。

原文武帝張夫人諱闕,不知何郡縣人也。義熙初,得幸高祖,生少帝,又生義興恭長公主惠媛。永初元年,拜為夫人。少帝即位,有司奏曰:「臣聞嚴親敬始,所因者本,克孝之道,由中被外。伏惟夫人德並坤元,徽音光劭,發祥兆慶,誕啟聖明。宜崇極徽號,允備盛則。從春秋母以子貴之義,遵漢、晉推愛之典,謹上尊號為皇太后,宮曰永樂。」少帝既廢,太后還璽紱,隨居吳縣。太祖元嘉元年,拜營陽王太妃。三年,薨。

少帝の司馬皇后は諱を茂英といい、河内郡温県の人で、晉の恭帝の娘である。初め海塩公主に封ぜられ、少帝が公子の時に娶った。宋初、皇太子妃に拝された。少帝が即位すると、皇后に立てられた。元嘉元年、營陽王妃に降格され、また南豊王太妃となった。十六年に薨去した。時に四十七歳。

原文少帝司馬皇后諱茂英,河內溫人,晉恭帝女也。初封海鹽公主,少帝以公子尚焉。宋初,拜皇太子妃。少帝即位,立為皇后。元嘉元年,降為營陽王妃,又為南豐王太妃。十六年薨,時年四十七。

武帝の胡婕妤は諱を道安といい、淮南の人である。義熙初年、高祖に納められて文帝を生んだ。五年、譴責を受けて賜死された。時に四十二歳。丹徒に葬られた。高祖が即位すると、婕妤を追贈した。

原文武帝胡婕妤諱道安,淮南人。義熙初,為高祖所納,生文帝。五年,被譴賜死,時年四十二。葬丹徒。高祖踐阼,追贈婕妤。

太祖が即位すると、有司が上奏して言った。「臣は聞きます。徳の厚い者は礼が尊く、慶びの深い者は位が極まる。故に閟宮が築かれると、先妣を詠たた歌し、園陵を崇めて衛ると、来孝を追うのです。伏して思うに、先婕妤は柔明で塞淵(誠実で思慮深く)、六列(後宮の位)に光を備え、徳は坤範に顕れ、訓戒は母儀に通じていました。それゆえ聖明を啓き、四海を覆うことができたのです。厳父に及ばず、天禄は永遠に去りました。臣らは遠く春秋に準え、近く漢・晉を考察します。謹んで尊号を章皇太后と上り、陵を熙寧とします。」京師に廟を立てた。

原文太祖即位,有司奏曰:「臣聞德厚者禮尊,慶深者位極。故閟宮既構,咏歌先妣;園陵崇衞,聿追來孝。伏惟先婕妤柔明塞淵,光備六列,德昭坤範,訓洽母儀。用能啟祚聖明,奄宅四海。嚴親莫逮,天祿永違。臣等遠準春秋,近稽漢、晉。謹上尊號曰章皇太后,陵曰熙寧。」立廟於京師。

太后の兄の子の胡元慶は、奉朝請の位に至った。

原文太后兄子元慶,位至奉朝請。

文帝の袁皇后は諱を齊媯といい、陳郡陽夏県の人で、左光禄大夫敬公袁湛の庶女である。母はもと卑賤であったため、后が五、六歳の時に初めて認知された。後に太祖に嫁ぎ、初め宜都王妃に拝された。子の劉劭と東陽獻公主の英娥を生んだ。上は后に恩礼を厚くしたが、袁氏は貧しかったため、后はしばしば上に金銭や絹布を求めてこれを養った。上は倹約家で、与えるのは多くても三五万銭、三五十匹ほどであった。後に潘淑妃が寵愛を受け、その愛は後宮を傾け、求めるものは何でも得られると言われた。后はこれを聞き、真偽を確かめようと、潘を通じて三十万銭を実家に求めるよう上に願い出た。上意を観るためである。二晩で得られた。このため、后の恨みは非常に深くなり、病気と称して上に会わなくなった。上が入ってくるたび、必ず他の場所に避けた。上は何度も様子を窺ったが、会うことができなかった。始興王劉濬の庶子たちが挨拶に来ても、后は見ようとしなかった。后は遂に憤り恨んで病気になった。元嘉十七年、病が重くなり、上は手を取って涙を流し、何か言うことはないかと尋ねた。后は上を長く見つめた後、布団を引いて顔を覆った。顕陽殿で崩じた。時に三十六歳。上は非常に悼み悲しみ、詔して前永嘉太守の顔延之に哀策を作らせた。文は甚だ麗であった。その文は以下の通りである。

原文文帝袁皇后諱齊媯,陳郡陽夏人,左光祿大夫敬公湛之庶女也。母本卑賤,后年五六歲,方見舉。後適太祖,初拜宜都王妃。生子劭、東陽獻公主英娥。上待后恩禮甚篤,袁氏貧薄,后每就上求錢帛以贍與之,上性節儉,所得不過三五萬、三五十匹。後潘淑妃有寵,愛傾後宮,咸言所求無不得,后聞之,欲知信否,乃因潘求三十萬錢與家,以觀上意,信宿便得。因此恚恨甚深,稱疾不復見上。上每入,必他處回避。上數掩伺之,不能得。始興王濬諸庶子問訊,后未嘗視也。后遂憤恚成疾。元嘉十七年,疾篤,上執手流涕問所欲言,后視上良久,乃引被覆面。崩于顯陽殿,時年三十六。上甚相悼痛,詔前永嘉太守顏延之為哀策,文甚麗。其辭曰:

哀策が奏上されると、上自ら「撫存悼亡、感今懷昔」(生きている者を慰め亡き者を悼み、今に感じて昔を懐おもかしむ)の八字を加え、その思いを表した。有司が宣皇后と諡するよう上奏したが、上は特に詔して「元」とした。

原文策既奏,上自益「撫存悼亡,感今懷昔」八字,以致其意焉。有司奏諡宣皇后,上特詔曰「元」。

初めに、皇后は劉劭を生んだが、自ら詳しく見て、太祖に馳せ参じて告げた。「この子は形貌が異常で、必ず国を破り家を亡ぼすでしょう。養うことはできません。」すぐに殺そうとした。太祖は慌てふためいて皇后の殿舎の戸の外に至り、手で帷を押しのけて制止し、やっと止めた。

原文初,后生劭,自詳視之,馳白太祖:「此兒形貌異常,必破國亡家,不可舉。」便欲殺之。太祖狼狽至后殿戶外,手撥幔禁之,乃止。

皇后が亡くなった後、常に小さな霊験があった。沈美人という者は、太祖が寵愛した者である。かつて無実の罪で責められ、死を賜わることになった。かつて皇后が住んでいた徽音殿の前を通り過ぎた。この殿には五つの部屋があり、皇后が崩御してから常に閉ざされていた。美人が殿の前に至り、涙を流して大声で言った。「今日、無罪で死に就こうとしています。先の皇后に霊があれば、きっとご存じでしょう!」殿の諸々の窓戸が声に応じて突然開いた。職掌の者が急いで太祖に報告し、太祖が驚いて見に行くと、美人は釈放された。

原文后亡後,常有小小靈應。沈美人者,太祖所幸也。嘗以非罪見責,應賜死。從后昔所住徽音殿前度。此殿有五間,自后崩後常閉。美人至殿前,流涕大言曰:「今日無罪就死,先后若有靈,當知之!」殿諸窗戶應聲豁然開。職掌遽白太祖,太祖驚往視之,美人乃得釋。

大明五年、世祖は詔を下した。「昔、漢の道が既に霊妙であり、博平侯の輝きが絶え、魏国がようやく安泰となった時、嘉憲が策を啓いた。皆、心に基づいて広め、典章に酌み、誥命に沿った。亡き外祖父の親王夫人は柔らかな徳と淑やかな範を示し、坤載(女性の道)に光を啓いた。内位(后妃の位)が正しく欠けていた時、閨庭で饋(食事の世話)を摂り、儀礼は芳しい閨房に及び、その評判は戚里(外戚の住む所)に宣べ伝えられた。永遠に遠くを感じ、その栄誉ある位階を追想する。鴻大な法則に則り、敬って徽(美しい)なる序列に登らせるべきである。」そこで豫章郡新淦県平楽郷君を追贈した。これは皇后の生母である。また詔して言った。「趙氏、蕭氏、臧光祿、袁敬公、平楽郷君の墓は、先に塋戸(墓守の戸)が与えられていない。世代が既に遠く、子孫は衰微している。外戚の尊属であるから、墳墓を荒れ果てさせてはならない。それぞれ蛮戸を三戸ずつ与え、清掃に当たらせよ。」

原文大明五年,世祖詔曰:「昔漢道既靈,博平煇絕,魏國方安,嘉憲啟策,皆因心所弘,酌典沿誥。亡外祖親王夫人柔德淑範,光啟坤載。屬內位闕正,攝饋閨庭,儀被芳闈,聞宣戚里。永言感遠,思追榮秩,宜式傍鴻則,敬登徽序。」乃追贈豫章郡新淦縣平樂鄉君。后之所生母也。又詔:「趙、蕭、臧光祿、袁敬公、平樂鄉君墓,先未給塋戶。加世數已遠,胤嗣衰陵。外戚尊屬,不宜使墳塋蕪穢。可各給蠻戶三,以供灑掃。」

皇后の父の路湛については、別に伝がある。

原文后父湛,自有傳。

文帝の路淑媛は、諱を惠男といい、丹陽建康の人である。容色と美貌によって後宮に選ばれ、孝武帝を生み、淑媛に拝された。年が長ずると寵愛はなく、常に世祖について出蕃した。世祖が元凶を討つために入朝すると、淑媛は尋陽に留まった。上(孝武帝)が即位すると、建平王劉宏を遣わして奉迎させた。有司が上奏して言った。「臣は聞く、歴めぐりが周の国に集まり、徽音(美しい音、后妃の徳)がよく嗣がれ、気が漢の国に淳あつく、沙麓が祥瑞を発したと。昔の上代において、業が隆盛で祚が遠大であったのは、陰教(女性の教化)を敷いて洪大な基を啓き、淑やかな慶びに応じて聖哲を載せなかったことはない。伏して思うに、淑媛は柔らかく明らかな徳を内に昭かし、徽(美)しい儀礼を外に範とし、霊に合うことを初めに導けば、多くの姫妾が仰ぎ輝き、訓戒を蕃閫(藩国の奥)に引き伸ばせば、家と国がその徳を被る。民は和を応じ、神は祉(福)を属す。故に叡智の御身を生み、大命を集めることができ、既に枯れた霊根を固め、中興において盛んな功業を融和させた。化育は厚く深く、声と詠えは確かに調和している。旧典に調和させ、恭しく極上の称号を享けるべきである。謹んで尊号を皇太后と奉り、宮を崇憲と申し上げる。」太后は顕陽殿に住んだ。

原文文帝路淑媛諱惠男,丹陽建康人也。以色貌選入後宮,生孝武帝,拜為淑媛。年既長,無寵,常隨世祖出蕃。世祖入討元凶,淑媛留尋陽。上即位,遣建平王宏奉迎。有司奏曰:「臣聞曆集周邦,徽音克嗣,氣淳漢國,沙麓發祥。昔在上代,業隆祚遠,未有不敷陰教以闡洪基,膺淑慶以載聖哲者也。伏惟淑媛柔明內昭,徽儀外範,合靈初迪,則庶姬仰燿;引訓蕃閫,則家邦被德。民應惟和,神屬惟祉,故能誕鍾叡躬,用集大命,固靈根於既殞,融盛烈乎中興。載厚化深,聲詠允緝,宜式諧舊典,恭享極號。謹奉尊號曰皇太后,宮曰崇憲。」太后居顯陽殿。

上(孝武帝)は閨房の内において、礼敬は甚だ少なく、寵幸する時があれば、時に太后の部屋に留まり止まった。故に民間では喧々囂々となり、皆醜い評判があった。宮掖の事は秘密で、誰も弁明できなかった。

原文上於閨房之內,禮敬甚寡,有所御幸,或留止太后房內,故民間諠然,咸有醜聲。宮掖事祕,莫能辨也。

孝建二年、太后の父の路興之を散騎常侍さんきじょうじに追贈し、興之の妻の徐氏を餘杭県広昌郷君とした。大明四年、太后の弟の子で撫軍参軍の路瓊之上表して言った。「先臣で故懷安令の路道慶は、天命に背き、自ら明世に違いました。敢えて衛戍(守備)の名を請う典に縁り、特に雲雨を乞い、微かに潤いを垂れ賜わりますように。」詔は門下に付された。有司は旨を受けて、給事中きゅうじちゅうを追贈するよう上奏した。瓊之と弟の休之、茂之は皆、顕職を超えて任用された。太后は政事にかなり関与し、瓊之らに財物を賜い、家財は千金を累ね、住居や衣服・器物は帝子と同等であった。

原文孝建二年,追贈太后父興之散騎常侍,興之妻徐氏餘杭縣廣昌鄉君。大明四年,太后弟子撫軍參軍瓊之上表曰:「先臣故懷安令道慶賦命乖辰,自違明世。敢緣衞戍請名之典,特乞雲雨,微垂灑潤。」詔付門下。有司承旨奏贈給事中。瓊之及弟休之、茂之並超顯職。太后頗豫政事,賜與瓊之等財物,家累千金,居處服器,與帝子相侔。

瓊之の邸宅さだは太常の王僧達と門を並べていた。かつて盛大な車服と護衛を従えて僧達を訪ねたが、僧達は礼をしなかった。瓊之が太后に訴えると、太后は大いに怒り、上に告げて言った。「私がまだ生きているのに、人々は皆、私の家を侮ります。死んだら物乞いをするでしょう。」僧達を罪にしようとした。上は言った。「瓊之は年少で、自ら軽々しく訪問すべきではない。王僧達は貴公子である。どうしてこの事で罪を加えられようか。」

原文瓊之宅與太常王僧達並門。嘗盛車服衞從造僧達,僧達不為之禮。瓊之以訴太后,太后大怒,告上曰:「我尚在,而人皆陵我家,死後乞食矣。」欲罪僧達。上曰:「瓊之年少,自不宜輕造詣。王僧達貴公子,豈可以此事加罪。」

大明五年、太后は上に従って南豫州を巡行し、妃や公主以下も皆従った。廃帝が即位すると、太皇太后と号した。

原文大明五年,太后隨上巡南豫州,妃主以下並從。廢帝即位,號太皇太后。

太宗が践祚すると、崇憲太后と号した。初め、太宗は幼くして生母を失い、太后に養育された。太宗は真心を尽くして仕えたが、太后もまた篤く慈しみ愛した。上(太宗)が即位すると、供奉の礼儀は旧日と変わらなかった。有司が上奏して言った。「徳が内に敷かれれば、典章は必ず遠くまで及び、化育が外に及べば、徽号は宣べられるべきです。伏して思うに、皇太后は天から懿聖の徳を授かり、母儀は確かに顕著で、義は八遠(八方の遠方)を明らかにし、道は九囲(天下)を変えました。聖明が登御され、景胙(大いなる福)が改まりました。皇太后は前の号に即し、別に外宮にお住まいになるべきです。」詔して言った。「朕は艱難の罰を備え受け、早く孤苦を嬰こうむり、特に崇憲太后の聖訓によって撫育された。昔、蕃閫(藩国の奥)にいた時、常に薬膳を奉じたが、中ごろ凶威に迫られ、懐いを抱いて遂げられなかった。今、泰運が初めて啓かれ、情と典が申し得られた。方や親しく晨昏(朝夕の礼)を奉じ、閨禁の内で歓びを尽くそうとしている。奏の如くにはできない。」まもなく崩御し、時に五十五歳。殯を東宮に移し、門に「崇憲宮」と題した。上はまた詔して言った。「朕は幼くして荼蓼(苦難)を集め、夙つとに徳訓に憑り、暴を龕やわらげ業を定めるには、実に仁範に資った。恩は屯夷(艱難と平穏)に著しく、常の慕いを兼ねている。礼は情に沿って施され、義は事に循って立つ。特に斉衰三月とし、追仰の心を申し述べる。」諡して昭皇太后といい、世祖の陵の東南に葬り、号して脩寧陵といった。

原文太宗踐阼,號崇憲太后。初太宗少失所生,為太后所攝養,太宗盡心袛事,而太后撫愛亦篤。及上即位,供奉禮儀,不異舊日。有司奏曰:「夫德敷於內,典章必遠;化覃于外,徽號宜宣。伏惟皇太后懿聖自天,母儀允著,義明八遠,道變九圍。聖明登御,景胙攸改,皇太后宜即前號,別居外宮。」詔曰:「朕備丁艱罰,蚤嬰孤苦,特蒙崇憲太后聖訓撫育。昔在蕃閫,常奉藥膳,中迫凶威,抱懷莫遂。今泰運初啟,情典獲申,方欲親奉晨昏,盡歡閨禁。不得如所奏。」尋崩,時年五十五。遷殯東宮,門題曰崇憲宮。上又詔曰:「朕幼集荼蓼,夙憑德訓,龕虣定業,實資仁範,恩著屯夷,有兼常慕。夫禮沿情施,義循事立,可特齊衰三月,以申追仰之心。」諡曰昭皇太后,葬世祖陵東南,號曰脩寧陵。

先に、晉安王劉子勛が未だ平定されていなかった時、巫者が昭太后(路太后)の陵を開いて厭勝とするのがよいと言った。修復は慌ただしく、礼の如くにはできなかった。上(太宗)の性格は猜疑心が強く、将来災いを招くことを憂慮した。泰始四年夏、有司に詔して言った。「崇憲昭太后の脩寧陵の地は、大明の世に、久しく考卜(占い)された所である。前年、諸藩の難に遭い、礼は権かり宜に従った。奉営は慌ただしく、改めて営む暇がなかった。しかし塋隧(墓道)の所は、山原が卑しく陋いやしい。近年、頽壊し、日に日に甚だしくなり、常に修整の費用を費やしても、ついに永固とはならない。かつ詳しく地形を考うるに、相勢(地相)に甚だ乖いている。朕は早く慈遇を受け、情と礼は常を兼ね、終始の義をして、幽顕に彰えることを思う。史官は巖山の左右に就き、改めて吉地を宅めよ。明らかに亀筮を審らかにし、令辰を選び須もちい、旧典に遵い、礼をもって創制せよ。今、中宇(国内)は寧かであるが、辺虜は未だ息まず、営就の功は、務めて簡略に従うこと。言を挙げて悲しみを尋ねれば、情は切るが如し。」有司が上奏した。「北疆は未だ緝おさまらず、戎役(軍事)が務めである。礼の詳略は、それぞれ時宜に沿います。臣らが参議するに、脩寧陵の玄宮の毀損を補治し、権に油殿を施し、暫く梓宮を出し、事が終われば即ち窆うずむ。事において妥当です。」詔して許可した。

原文先是晉安王子勛未平,巫者謂宜開昭太后陵以為厭勝。脩復倉卒,不得如禮。上性忌,慮將來致災。泰始四年夏,詔有司曰:「崇憲昭太后脩寧陵地,大明之世,久所考卜。前歲遭諸蕃之難,禮從權宜。奉營倉卒,未暇營改。而塋隧之所,山原卑陋。頃年頹壞,日有滋甚,恒費脩整,終無永固。且詳考地形,殊乖相勢。朕蚤蒙慈遇,情禮兼常,思使終始之義,載彰幽顯。史官可就巖山左右,更宅吉地。明審龜筮,須選令辰,式遵舊典,以禮創制。今中宇雖寧,邊虜未息,營就之功,務在從簡。舉言尋悲,情如切割。」有司奏:「北疆未緝,戎役是務,禮之詳略,各沿時宜。臣等參議,脩寧陵玄宮補治毀壞,權施油殿,暫出梓宮,事畢即窆,於事為允。」詔可。

瓊之は衡陽内史となり、先に亡くなった。廃帝の景和年中、休之を黄門侍郎とし、茂之を左軍将軍とし、ともに開国県侯に封じ、邑千戸とした。また興之を侍中じちゅう・金紫光禄大夫に追贈し、諡して孝侯といった。道慶を散騎常侍・光禄大夫・開府儀同三司に追贈し、諡して敬侯といった。道慶の娘を立てて皇后とし、休之を侍中とし、茂之を黄門郎とした。太宗が幼主を廃すると、太后の心を説得しようとして、令書を下した。「太皇太后は早くより愛遇を垂れ、情に沿い事に即して、天属(肉親)と同じである。前車騎諮議参軍路休之、前丹陽丞路茂之は、崇憲太后の密戚として、早く栄貫(栄達の道)に延び、ともに勲功を懐いている。殊に恒常の飾り(官位)を与えるべきである。休之は黄門侍郎とし、歩兵校尉を領せしめよ。茂之は中書侍郎とせよ。」太宗は未だ即位していなかったので、令書と称した。茂之はさらに司徒しと従事中郎に遷り、休之は桂陽王劉休範りゅうきゅうはんの鎮北諮議参軍となった。太宗が世祖の諸子を殺すと、これによって休之らを陥れ、その諸子は赦した。

原文瓊之為衡陽內史,先后卒。廢帝景和中,以休之為黃門侍郎,茂之左軍將軍,並封開國縣侯,邑千戶。又追贈興之侍中、金紫光祿大夫,諡曰孝侯;道慶散騎常侍、光祿大夫、開府儀同三司,諡曰敬侯。立道慶女為皇后,以休之為侍中,茂之黃門郎。太宗廢幼主,欲說太后之心,乃下令書曰:「太皇太后蚤垂愛遇,沿情即事,同於天屬。前車騎諮議參軍路休之、前丹陽丞路茂之,崇憲密戚,蚤延榮貫,並懷所勳,宜殊恒飾。休之可黃門侍郎,領步兵校尉;茂之可中書侍郎。」太宗未即位,故稱令書。茂之又遷司徒從事中郎,休之桂陽王休範鎮北諮議參軍。太宗殺世祖諸子,因此陷休之等,宥其諸子。

孝武帝の文穆王皇后は諱を憲嫄といい、琅邪郡臨沂県の人である。元嘉二十年に武陵王の妃に立てられた。廃帝、豫章王の子尚、山陰公主の楚玉、臨淮康哀公主の楚佩、皇女の楚琇、康楽公主の脩明を生んだ。世祖が藩王であった時、后は大いに寵愛を受けた。上(世祖)が凶逆を討伐するために出陣すると、后は尋陽に留まり、皇太后と共に京都に戻り、皇后に立てられた。

原文孝武文穆王皇后諱憲嫄,琅邪臨沂人。元嘉二十年,拜武陵王妃。生廢帝、豫章王子尚、山陰公主楚玉、臨淮康哀公主楚佩、皇女楚琇、康樂公主脩明。世祖在蕃,后甚有寵。上入伐凶逆,后留尋陽,與太后同還京都,立為皇后。

大明四年、后は六宮を率いて西郊で桑摘みを自ら行い、皇太后が礼を見物した。上下に詔を下して言った。「朕は吉日を占って大昕の時を選び、辰を測って羽を払い、ここに六宮に詔して、川室で親しく養蚕を行わせた。皇太后が鑾駕を降りて従駕され、車を停めて礼をご覧になった。緑の蘧(蚕箔)が既に整い、玄紞(冠の紐)がまさに修められ、多くの儀礼が椒房から発し、宮中の教化が動き出した。県妃・公主以下は、それぞれ等級に応じて恩賜を加えることができる。」

原文大明四年,后率六宮躬桑于西郊,皇太后觀禮。上下詔曰:「朕卜祥大昕,測辰拂羽,爰詔六宮,親蠶川室。皇太后降鑾從御,佇蹕觀禮。綠蘧既具,玄紞方脩,庶儀發椒,闈化動中。縣妃主以下,可量加班錫。」

廃帝が即位すると、皇太后と尊称し、宮を永訓宮といった。その年、含章殿で崩御し、時に三十八歳であった。景寧陵に合葬された。

原文廢帝即位,尊曰皇太后,宮曰永訓。其年,崩于含章殿,時年三十八。祔葬景寧陵。

后の父の偃は、字を子游といい、晋の丞相王導の玄孫で、尚書王嘏の子である。母は晋の孝武帝の娘の鄱陽公主で、宋が禅譲を受けると、永成君に封ぜられた。偃は高祖の第二女の呉興長公主(諱は栄男)を娶り、若くして顕官を歴任し、黄門侍郎、秘書監、侍中となった。元嘉の末、散騎常侍・右衛将軍となった。世祖が即位すると、后の父として金紫光禄大夫を授けられ、義陽王師を兼任し、常侍はもとの通りとした。右光禄大夫に昇進し、常侍・王師はもとの通りであった。偃は謙虚で恭しく慎み深く、世事に関心を払わなかった。孝建二年に卒去し、時に五十四歳であった。開府儀同三司を追贈され、本官はもとの通りとし、諡を恭公といった。

原文后父偃,字子游,晉丞相導玄孫,尚書嘏之子也。母晉孝武帝女鄱陽公主,宋受禪,封永成君。偃尚高祖第二女吳興長公主諱榮男,少歷顯官,黃門侍郎,祕書監,侍中。元嘉末,為散騎常侍、右衞將軍。世祖即位,以后父,授金紫光祿大夫,領義陽王師,常侍如故。遷右光祿大夫,常侍、王師如故。偃謙虛恭謹,不以世事關懷。孝建二年卒,時年五十四。追贈開府儀同三司,本官如故,諡曰恭公。

長子の藻は、東陽太守の官位に至った。太祖の第六女の臨川長公主(諱は英媛)を娶った。公主は性来嫉妬深く、藻は別に側近の者である呉崇祖を寵愛した。前廃帝の景和年間、公主が廃帝に讒言したため、藻は罪に落とされて獄死し、公主は王氏と離婚した。泰始の初め、公主を豫章太守の庾沖遠に嫁がせようとしたが、婚礼を挙げる前に沖遠が死去した。

原文長子藻,位至東陽太守。尚太祖第六女臨川長公主諱英媛。公主性妒,而藻別愛左右人吳崇祖,前廢帝景和中,主讒之於廢帝,藻坐下獄死,主與王氏離婚。泰始初,以主適豫章太守庾沖遠,未及成禮而沖遠卒。

宋の世の諸公主は、厳しい嫉妬心を持たない者はなく、太宗は常にこれを憎んだ。湖熟県令の袁慆の妻は嫉妬のために賜死され、近臣の虞通之に『妒婦記』を撰述させた。左光禄大夫の江湛の孫の江斅が世祖の娘を娶ることになった時、上(太宗)は人に命じて江斅のために婚姻を辞退する上表文を作らせ、次のように言わせた。

原文宋世諸主,莫不嚴妒,太宗每疾之。湖熟令袁慆妻以妒忌賜死,使近臣虞通之撰妒婦記。左光祿大夫江湛孫斅當尚世祖女,上乃使人為斅作表讓婚,曰:

太宗はこの上表文を諸公主に広く見せた。そこで臨川長公主が上表して言った。「妾は運命に恵まれず、王氏と絶縁し、私的な家庭内の騒動と不和により、このような離別に至りました。今、孤独で病み、わびしく、朝夕をかろうじて生き長らえており、情愛を注ぐ対象はただ一人の子だけです。苦難と辛苦を共にし、憐れみと哀れみを兼ねて抱き、運命の浮き沈みと盛衰は、この子にかかっています。ひたすらその家門の不和を解消し、再び母子となることを願っております。時が過ぎ、苦労して努力しましたが、自ら上聞に達する機会がありませんでした。先帝は慈愛深く、妾の真心をご覧になりました。もし息子の徹を帰宅させて定省させてくださるなら、天の御旨を推し量るに、あるいは道が開けるかもしれません。今、事態は切迫し誠意は切実で、典憲を顧みず、敢えて恩沢に縁り、畏れ多くも上聞に触れさせていただきます。特に、王族に身を還し、弱い後継ぎを守り養うことをお願いいたします。たとえ死ぬ日であっても、生きているよりも心から甘んじます。」これを許した。

原文太宗以此表徧示諸主。於是臨川長公主上表曰:「妾遭隨奇薄,絕於王氏,私庭囂戾,致此分異。今孤疾煢然,假息朝夕,情寄所鍾,唯在一子。契闊荼炭,持兼憐愍,否泰枯榮,繫以為命。實願申其門釁,還為母子。推遷僶俛,未及自聞。先朝慈愛,鑑妾丹衷。若賜使息徹歸第定省,仰揆天旨,或有可尋。今事迫誠切,不顧典憲,敢緣恩燾,觸冒披聞。特乞還身王族,守養弱嗣。雖死之日,實甘於生。」許之。

藻の弟の懋は、昇明の末に貴顕となった。懋の弟の攸は、太宰従事中郎となったが、早世し、黄門侍郎を追贈された。弟の臻は、昇明の末に顕官となった。

原文藻弟懋,昇明末貴達。懋弟攸,太宰從事中郎。蚤卒,追贈黃門侍郎。弟臻,昇明末顯宦。

前廃帝の何皇后は諱を令婉といい、廬江郡灊県の人である。孝建三年に皇太子妃として納れられ、大明五年に東宮の徽光殿で薨去し、時に十七歳であった。□□に葬られ、諡を献妃といった。上(孝武帝)はさらに太子のために内職を二等に置き、保林と良娣といった。南中郎長史の太山郡の羊瞻の娘を良娣とし、宜都太守の袁僧恵の娘を保林とした。廃帝が即位すると、献妃を追崇して献皇后とした。太宗が践祚すると、后を廃帝と共に龍山の北に合葬した。

原文前廢帝何皇后諱令婉,廬江灊人也。孝建三年,納為皇太子妃,大明五年,薨于東宮徽光殿,時年十七。葬□□,諡曰獻妃。上更為太子置內職二等,曰保林,曰良娣。納南中郎長史太山羊瞻女為良娣,宜都太守袁僧惠女為保林。廢帝即位,追崇獻妃曰獻皇后。太宗踐阼,遷后與廢帝合葬龍山北。

后の父の瑀は、字を稚玉といい、晋の尚書左僕射の何澄の曾孫である。祖父の融は大司農であった。瑀は高祖の末娘の豫章康長公主(諱は欣男)を娶った。公主は以前に徐喬に嫁いでいたが、容貌が美しく、聡明で機知に富み、太祖の世には礼遇が特に厚かった。瑀は当時豪勢を競い、平昌の孟霊休、東海の何勗らと、車馬や驕奢を互いに誇り合った。公主と瑀の情愛は厚く密接で、何氏の外戚や遠近の親族は、恩恵を受けない者はなかった。瑀は清要な官位を歴任し、衛将軍に至った。大明八年、公主が薨去すると、瑀の墓が開かれ、世祖は金紫光禄大夫を追贈し、散騎常侍を加えた。

原文后父瑀,字稚玉,晉尚書左僕射澄曾孫也。祖融,大司農。瑀尚高祖少女豫章康長公主諱欣男。公主先適徐喬,美容色,聰敏有智數,太祖世,禮待特隆。瑀豪競於時,與平昌孟靈休、東海何勗等,並以輿馬驕奢相尚。公主與瑀情愛隆密,何氏外姻疏戚,莫不沾被恩紀。瑀歷位清顯,至衞將軍。大明八年,公主薨,瑀墓開,世祖追贈金紫光祿大夫,加散騎常侍。

子の邁は、太祖の第十女の新蔡公主(諱は英媚)を娶った。邁は若くして貴戚として顕官にあり、犬馬や狩猟を好み、多くの武勇の士を集めた。江乗県界に別荘があり、京師から三十里離れていた。邁は遊びに出かけるたびに、四頭立ての馬車を連ね、武士を群れさせた。大明の末、豫章王の子尚の撫軍諮議参軍となり、寧朔将軍・南済陰太守を加えられた。廃帝が公主を後宮に納れ、偽って薨去したと宣言し、一人の婢を殺して邁の邸から送り出し、葬儀の礼を行わせた。常に邁に異心があると疑い、邁もまた志を同じくする者を招き集め、行幸の機会に乗じて廃立を図ろうとした。事が発覚し、廃帝自ら出陣して邁を討ち誅殺した。太宗が即位すると、建寧県侯に追封され、食邑五百戸を与えられた。子の曼倩が後を嗣いだが、斉が禅譲を受けると封国は除かれた。

原文子邁,尚太祖第十女新蔡公主諱英媚。邁少以貴戚居顯宦,好犬馬馳逐,多聚才力之士。有墅在江乘縣界,去京師三十里。邁每游履,輒結駟連騎,武士成羣。大明末,為豫章王子尚撫軍諮議參軍,加寧朔將軍、南濟陰太守。廢帝納公主於後宮,偽言薨殞,殺一婢送出邁第殯葬行喪禮。常疑邁有異圖,邁亦招聚同志,欲因行幸廢立。事覺,廢帝自出討邁誅之。太宗即位,追封建寧縣侯,食邑五百戶。子曼倩嗣,齊受禪,國除。

瑀の兄の子の亮は、孝建の初めに桂陽太守となった。丞相の南郡王の劉義宣が叛逆した時、参軍の王師寿を派遣して桂陽の道を断ち切り、広州刺史ししの宗愨を防がせようとしたが、亮はこれを捕らえて斬った。官位は新安内史に至った。亮の弟の恢は、廃帝の元徽の初めに広州刺史となったが、任地に赴かず、国喪の期間に晦日(月末)に到着しなかった罪で、官を免ぜられた。再び起用されて都官尚書となったが、拝命せずに死去した。恢の弟の誕は、司徒右長史となった。誕の弟の衍が最も有名であった。性はせっかちで落ち着きがなかった。太宗の初め、建安王の劉休仁りゅうきゅうじんの司徒従事中郎となり、そのまま黄門郎に任ぜられた。拝命しないうちに、司徒司馬への転任を求めた。司馬を得ると、また太子右率を求めた。右率に拝命して一二日後、また侍中を求めた。十日ほどの間に、進官を求めてやまなかった。侍中を得られず、怨み罵ったことで賜死された。

原文瑀兄子亮,孝建初,為桂陽太守。丞相南郡王義宣為逆,遣參軍王師壽斷桂陽道,以防廣州刺史宗慤,亮收斬之。官至新安內史。亮弟恢,廢帝元徽初,為廣州剌史,未之鎮,坐國哀朞晦不到,免官。復起為都官尚書,未拜,卒。恢弟誕,司徒右長史。誕弟衍,最知名。性躁動。太宗初,為建安王休仁司徒從事中郎,仍除黃門郎。未拜竟,求轉司徒司馬。得司馬,復求太子右率。拜右率一二日,復求侍中。旬日之間,求進無已。不得侍中,以怨詈賜死。

文帝の沈婕妤は諱を容姫といい、どこの出身かはわからない。後宮に納れられて美人となった。明帝を生み、婕妤に立てられた。元嘉三十年に卒去し、時に四十歳であった。建康の莫府山に葬られた。世祖が即位すると、湘東国太妃を追贈した。太宗が即位すると、有司が上奏して言った。「昔、豳の都で遠祖を追慕し、正邑で哀悼に沈み、徳義を慕い敬い、園陵を奉りました。先太妃は徳行が端正で華やかであり、威光と気品が明らかで高く、宮中に風光をもたらし、国中の閨門に訓えを流し、聖主を生み霊を授けられましたが、早くに大いなる福を捨てられました。臣らは遠く漢の冊を模範とし、近くは晋の典に則り、謹んで尊号を皇太后と上申いたします。」礼官に諡を議させ、諡を宣太后とし、陵号を崇寧といった。

原文文帝沈婕妤諱容姬,不知何許人也。納於後宮,為美人。生明帝,拜為婕妤。元嘉三十年卒,時四十。葬建康之莫府山。世祖即位,追贈湘東國太妃。太宗即位,有司奏曰:「昔豳都追遠,正邑纏哀,緬慕德義,敬奉園陵。先太妃德履端華,徽景明峻,風光宸掖,訓流國闈,鞠聖誕靈,蚤捐鴻祚。臣等遠模漢冊,近儀晉典,謹上尊號為皇太后。」下禮官議諡,諡曰宣太后,陵號曰崇寧。

太后の弟の道慶を給事中とした。泰始三年に卒去し、通直散騎常侍を追贈し、県侯の爵を賜った。また太后の父に散騎常侍を、母の王氏に成楽郷君を追贈した。

原文以太后弟道慶為給事中。泰始三年卒,追贈通直散騎常侍,賜爵縣侯。又追贈太后父散騎常侍,母王氏成樂鄉君。

明恭王皇后は諱を貞風といい、琅邪郡臨沂県の人である。元嘉二十五年に淮陽王妃に立てられた。太宗が封を改めると、また湘東王妃となった。晋陵長公主の伯姒、建安長公主の伯媛を生んだ。太宗が即位すると、皇后に立てられた。

原文明恭王皇后諱貞風,琅邪臨沂人也。元嘉二十五年,拜淮陽王妃。太宗改封,又為湘東王妃。生晉陵長公主伯姒、建安長公主伯媛。太宗即位,立為皇后。

帝はかつて宮中で大規模な集会を開き、裸の女性を見物させて、笑いと楽しみとした。皇后は扇で顔を覆い、ただ一言も発しなかった。帝は怒って言った。「外戚の家は貧しい乞食同然だ。今みんなで笑い楽しんでいるのに、なぜお前だけ見ようとしないのか。」皇后は言った。「楽しみの方法は、他にもたくさんあります。どうして姑や姉妹が集まる場で、女性の裸体を見せて楽しむことがありましょうか。これを楽しみとするのは、外戚の家の楽しみ方とは、実に異なります。」帝は大いに怒り、皇后に立ち去るよう命じた。皇后の兄で揚州刺史の景文はこのことを従舅の陳郡の謝緯に語って言った。「皇后は家では弱々しい女性だったが、今になってこのように剛直で正しい態度を取れるとは思わなかった。」

原文上嘗宮內大集,而臝婦人觀之,以為歡笑。后以扇障面,獨無所言。帝怒曰:「外舍家寒乞,今共為笑樂,何獨不視?」后曰:「為樂之事,其方自多。豈有姑姊妹集聚,而臝婦人形體。以此為樂,外舍之為歡適,實與此不同。」帝大怒,遣后令起。后兄揚州刺史景文以此事語從舅陳郡謝緯曰:「后在家為儜弱婦人,不知今段遂能剛正如此。」

廃帝が即位すると、皇太后と尊称され、宮殿は弘訓宮と称された。廃帝は徳を失い、太后はたびたび諫め励ましたが、初めはまだ従順に見えたものの、後に狂気と悪意がますますひどくなり、次第に喜ばなくなった。元徽五年五月五日、太后が帝に玉の柄の毛扇を賜ったが、帝はその毛と柄が華美でないと嫌い、これによって毒殺を企てた。すでに太医に薬を煎じさせたが、側近の者が止めて言った。「もしこのことを行えば、陛下はすぐに孝子とならねばならず、もはや気ままに出入りすることはできなくなります。」帝は言った。「お前の言葉はもっともだ。」そこでやめた。

原文廢帝即位,尊為皇太后,宮曰弘訓。廢帝失德,太后每加勗譬,始者猶見順從,後狂慝轉甚,漸不悅。元徽五年五月五日,太后賜帝玉柄毛扇,帝嫌其毛柄不華,因此欲加酖害,已令太醫煑藥,左右人止之曰:「若行此事,官便應作孝子,豈復得出入狡獪。」帝曰:「汝語大有理。」乃止。

順帝が即位し、斉王が権力を握ると、宗室の劉晃、劉綽、卜伯興らに異心があり、太后は彼らとかなり関わりを持った。順帝が禅譲すると、太后は帝とともに東邸に退き、それによって丹陽宮に移り住み、汝陰王太妃に封じられた。順帝が丹陽で崩御すると、さらに京邑に邸宅を建てた。建元元年、邸宅で薨去し、時に四十四歳であった。追号と諡号が加えられ、宋の皇后の礼で葬られた。父の僧朗については、別に景文伝に事績が見える。

原文順帝即位,齊王秉權,宗室劉晃、劉綽、卜伯興等有異志,太后頗與相關。順帝禪位,太后與帝遜于東邸,因遷居丹陽宮,拜汝陰王太妃。順帝殂於丹陽,更立第京邑。建元元年,薨于第,時年四十四。追加號諡,葬以宋后禮。父僧朗,事別見景文傳。

明帝の陳貴妃は諱を妙登といい、丹陽建康の人で、屠殺業者の娘である。世祖(孝武帝)はしばしば尉司に命じて民間の子女で容姿端麗な者を探させた。太妃の家は建康県内にあり、家は貧しく、草屋が二三軒あった。帝が外出した時、尉に尋ねた。「御道のそばにどうしてこのような草屋があるのか。家が貧しいからであろう。」三万銭を賜り、瓦屋を建てるよう命じた。尉が自ら金を届けに行くと、家族は皆不在で、ただ太妃だけが家にいた。当時十二、三歳であった。尉はその容貌と資質が非常に美しいのを見て、すぐに世祖に報告した。そこで迎えられて宮中に入った。路太后の部屋で二、三年を過ごし、二度呼ばれたが、寵愛を受けることはなかった。太后が帝に言上し、太宗(明帝)に下賜された。初めは寵愛を受けたが、一年ほどで衰え、李道児に与えられた。まもなくまた迎え戻され、廃帝を生んだ。そのため民間では皆、廃帝を李氏の子と呼んだ。廃帝は後に常に自らを李将軍と称し、あるいは李統と自称した。

原文明帝陳貴妃諱妙登,丹陽建康人,屠家女也。世祖常使尉司採訪民間子女有姿色者。太妃家在建康縣界,家貧,有草屋兩三間。上出行,問尉曰:「御道邊那得此草屋,當由家貧。」賜錢三萬,令起瓦屋。尉自送錢與之,家人並不在,唯太妃在家,時年十二三。尉見其容質甚美,即以白世祖,於是迎入宮。在路太后房內,經二三年,再呼,不見幸。太后因言於上,以賜太宗。始有寵,一年許衰歇,以乞李道兒。尋又迎還,生廢帝,故民中皆呼廢帝為李氏子。廢帝後每自稱李將軍,或自謂李統。

太宗が即位すると、貴妃に封じられ、礼遇と秩禄は皇太子妃と同じであった。廃帝が践祚すると、有司が上奏して言った。「臣は聞きます。河の龍が聖を啓き、理は民神に徹す。郊の電が皇を基づけ、慶は天地を灼く。故に敬を資するの道は、古を粋にして風に銘じ、貴に沿うの誼は、代を眇として則を凝らす。伏して惟うに、貴妃は和を日に含み、淑を星枢に表し、徽音は古に峻く、柔光は世を照らし、声華は帝掖にあり、軌秀は天嬪に秀で、景は皇明に発し、祚は睿命に昌んず。しかるに備物の章は、未だ彝策に煥かず。遠く前王に酌み、允かに鴻典に陟る。臣ら参議し、謹んで尊号を上りて皇太妃と曰う。輿服は一に晋の孝武帝太后の故事の如くす。家令一人を置く。諸国の太妃を改めて太妃と曰う。(妃の音は怡。)宮を弘化と曰う。」太妃の父の金宝を追贈して散騎常侍とし、金宝の妻の王氏を永世県成楽郷君とした。昇明初年、蒼梧王太妃に降格された。

原文太宗即位,拜貴妃,禮秩同皇太子妃。廢帝踐阼,有司奏曰:「臣聞河龍啟聖,理浹民神;郊電基皇,慶爍天地。故資敬之道,粹古銘風;沿貴之誼,眇代凝則。伏惟貴妃含和日晷,表淑星樞,徽音峻古,柔光照世,聲華帝掖,軌秀天嬪,景發皇明,祚昌睿命。而備物之章,未煥彝策。遠酌前王,允陟鴻典。臣等參議,謹上尊號曰皇太妃。輿服一如晉孝武帝太后故事。置家令一人。改諸國太妃曰太妃。〈妃音怡。〉宮曰弘化。」追贈太妃父金寶散騎常侍,金寶妻王氏永世縣成樂鄉君。昇明初,降為蒼梧王太妃。

伯父の照宗は、中書通事舎人であった。叔父の佛念は、歩兵校尉であった。兄の敬元は、通直郎、南魯郡太守であった。佛念は大いに賄賂を取り、朝政を侵し乱した。昇明初年、賜死された。

原文伯父照宗,中書通事舍人。叔佛念,步兵校尉。兄敬元,通直郎,南魯郡太守。佛念大通貨賄,侵亂朝政。昇明初,賜死。

後廃帝の江皇后は諱を簡珪といい、済陽考城の人で、北中郎長史の智淵の孫娘である。泰始五年、太宗(明帝)が太子妃を求め訪ねたが、小術を深く信じ、名家の娘は多く合わなかった。后は幼く弱く、家門に強い後ろ盾もなかったが、占筮が最も吉であったため、太子に娶らせた。朝士や州郡に物を献上するよう求め、多いものは百金に相当する価値があった。始興太守の孫奉伯は琴と書物だけを献上し、それ以外に余分な物はなかった。帝は大いに怒り、封をした毒薬を賜って死を命じたが、後に許した。太子が帝位に即くと、皇后に立てられた。帝が廃されると、蒼梧王妃に降格された。智淵については独自の伝がある。

原文後廢帝江皇后諱簡珪,濟陽考城人,北中郎長史智淵孫女。泰始五年,太宗訪求太子妃,而雅信小數,名家女多不合。后弱小,門無強廕,以卜筮最吉,故為太子納之。諷朝士州郡令獻物,多者將直百金。始興太守孫奉伯止獻琴書,其外無餘物。上大怒,封藥賜死,既而原之。太子即帝位,立為皇后。帝既廢,降為蒼梧王妃。智淵自有傳。

明帝の陳昭華は諱を法容といい、丹陽建康の人である。太宗の晩年、陰萎のため後宮に御することができず、諸弟の側室で妊娠している者がいれば、すぐに取り入れて宮中に入れ、男児が生まれると、皆その母を殺し、六宮で寵愛されている者に養わせた。順帝は桂陽王休範の子であるが、昭華を母とした。明帝が崩御すると、昭華は安成王太妃に封じられた。順帝が即位すると、皇太妃に進んだ。順帝が禅譲すると、皇太妃の称号を去った。

原文明帝陳昭華諱法容,丹陽建康人也。太宗晚年,痿疾不能內御,諸弟姬人有懷孕者,輒取以入宮,及生男,皆殺其母,而以與六宮所愛者養之。順帝,桂陽王休範子也,以昭華為母焉。明帝崩,昭華拜安成王太妃。順帝即位,進為皇太妃。順帝禪位,去皇太妃之號。

順帝の謝皇后は諱を梵境といい、陳郡陽夏の人で、右光禄大夫の謝莊の孫娘である。昇明二年、皇后に立てられた。順帝が禅譲すると、汝陰王妃に降格された。謝莊については独自の伝がある。

原文順帝謝皇后諱梵境,陳郡陽夏人,右光祿大夫莊孫女也。昇明二年,立為皇后。順帝禪位,降為汝陰王妃。莊自有傳。