巻40

宋書

志第三十 百官下

給事黄門侍郎、四人。 侍 とともに門下の諸事を掌る。郊廟や臨軒の儀式では、一人が麾を執る。漢の百官表によれば、秦では給事黄門といい、定員がなく、左右に侍従することを掌った。漢もこれを踏襲した。漢の東京では給事黄門侍郎といい、これも定員がなく、左右に侍従し、内外の連絡を取り、諸侯王が朝見するときは、王を座に導いた。応劭は言う。「毎日暮れに青瑣門に向かって拝礼するので、夕郎と呼ばれた。」史臣は劉向が子の劉歆に送った書簡にある「黄門郎は、顕著な地位である」という記述を踏まえると、前漢の時代からすでに黄門侍郎が置かれていたことがわかる。董巴の『漢書』によれば、「禁門を黄闥といい、宦官がこれを主管したので、黄門令と号した」という。すると、黄門郎は黄闥の内で給事するので、黄門郎と呼ばれたのである。魏、晋以来、定員は四人で、秩禄は六百石。

公車令、一人。章奏の受理を掌る。秦には公車司馬令があり、衛尉に属し、漢もこれを踏襲し、宮の南闕門を掌った。官吏や民衆の上章、四方からの貢物、および公車に召し出された者をすべて掌った。晋の江左以来、単に公車令という。

太醫令、一人。丞一人。周の官制では醫師といい、秦では太醫令となり、二漢に至って少府に属した。

太官令、一人。丞一人。周の官制では膳夫といい、秦では太官令となり、漢に至って少府に属した。

驊騮廄丞、一人。漢の西京では龍馬長といい、漢の東京では未央廄令といい、魏では驊騮令といった。公車令からここまでが、侍中に隷属する。

散騎常侍 さんきじょうじ 、四人。左右に侍することを掌る。秦に散騎を置き、また中常侍散騎を置いた。ともに乗輿の車の後ろに従った。中常侍は禁中に入ることができた。いずれも定員がなく、すべて加官であった。漢の東京では初め散騎を廃止し、中常侍は宦官を用いるようになった。魏の文帝の黄初の初め、散騎を置き、中常侍と合わせて 散騎常侍 さんきじょうじ と称し、初めて孟達をこれに補任した。在任が長い者を祭酒 散騎常侍 さんきじょうじ とし、秩禄は比二千石。

通直 散騎常侍 さんきじょうじ 、四人。魏の末年に 散騎常侍 さんきじょうじ にさらに員外の者がいたが、晋の武帝が二人を 散騎常侍 さんきじょうじ と通直させたので、通直 散騎常侍 さんきじょうじ と称した。晋の江左では五人を置いた。

員外 散騎常侍 さんきじょうじ 、魏の末年に置かれ、定員なし。

散騎侍郎、四人。魏の初年に 散騎常侍 さんきじょうじ とともに置かれた。魏、晋の 散騎常侍 さんきじょうじ 、侍郎は、侍中、黄門侍郎とともに尚書の奏事を評議したが、江左になって廃止された。

通直散騎侍郎、四人。初め晋の武帝が員外散騎侍郎四人を置き、元帝が二人を散騎侍郎と通直させたので、通直散騎侍郎と称した。後に四人に増員された。

員外散騎侍郎、晋の武帝が置き、定員なし。

給事中 、定員なし。漢の西京に置かれた。顧問応対を掌り、位は中常侍の 次 。漢の東京で廃止されたが、魏の世に復活した。

奉朝請、定員なし。官職ともならない。漢の東京では三公、外戚、宗室、諸侯の多くが罷免・削減され、奉朝請となった。奉朝請とは、朝会に奉じ、召し出しを請うだけである。晋の武帝も宗室や外戚を奉車都尉、駙馬都尉、騎都尉とし、奉朝請とした。元帝が晋王であったとき、参軍を奉車都尉とし、掾、属を駙馬都尉とし、行参軍、舍人を騎都尉とし、すべて奉朝請とした。後に奉車都尉、騎都尉は廃止され、駙馬都尉と奉朝請だけが残った。永初以来、奉朝請の選任が雑多になったため、公主を娶る者だけが駙馬都尉を拝命するようになった。三都尉はいずれも漢の武帝が置いた。孝建の初め、奉朝請は廃止された。駙馬都尉、三都尉の秩禄は比二千石。

中書令は一人。 中書監 ちゅうしょかん は一人。中書侍郎は四人。中書通事舍人は四人。漢の武帝が後宮で遊宴する際、初めて宦官に尚書の事務を管轄させ、これを中書謁者と称し、令と 僕射 ぼくや を置いた。元帝の時、令の弘恭と 僕射 ぼくや の石顕が権勢を握って政務を取り仕切り、その権力は朝廷内外を傾けた。成帝は中書謁者令を中謁者令と改称し、 僕射 ぼくや を廃止した。漢の東京(後漢)では中謁者令を省いた。しかし中官謁者令はあったが、その職務ではなかった。魏の武帝が王であった時、秘書令を置き、尚書の上奏事務を管轄させたが、これもその職務である。文帝の黄初の初め、中書令と改め、また監を置き、および通事郎を置き、その次は黄門郎とした。黄門郎がすでに事務に署名し終わると、通事郎がそれを持参して入り、皇帝のために文書を読み上げ、可否を判断した。晋では中書侍郎と改称し、定員は四人とした。晋の江左(東晋)の初め、中書侍郎を通事郎と改称したが、まもなく中書侍郎に復した。晋の初めに舍人一人、通事一人を置いた。江左の初め、舍人と通事を合わせて通事舍人と称し、上奏文書や上表文の取り次ぎを担 当 した。後に通事を省き、中書省が侍郎一人を選んで西省に直番させ、また 詔 勅の起草も担当させた。宋の初めにまた通事舍人を置き、侍郎の職務は軽くなった。舍人は閤内に直番し、中書省に所属した。その下に主事があり、本来は武官を用いていたが、宋では文官の吏に改めた。

秘書監は一人。秘書丞は一人。秘書郎は四人。漢の桓帝の延熹二年、秘書監を置いた。皇甫規が張奐に送った手紙に「従兄の秘書は他に何か動静はあるか」とあるのがこれである。応劭の『漢官』によると、「秘書監一人、六百石」である。後に省かれた。魏の武帝が魏王であった時、秘書令と秘書丞を置いた。秘書は尚書の上奏事務を管轄した。文帝の黄初の初め、中書令を置き、尚書の上奏事務を管轄させ、秘書は令を監に改めた。後に何楨を秘書丞にしようとしたが、秘書省にはすでに丞がいたため、楨を秘書右丞とした。後に省かれた。芸文と図書を管掌した。周官の外史が四方の志と三皇五帝の書を管掌したのが、その職務である。漢の西京(前漢)で図書が収蔵されていたのは、天禄閣、石渠閣、蘭台、石室、延閣、広内の府などである。東京(後漢)の図書は東観にあった。晋の武帝は秘書省を中書省に併合し、監を省き、丞を中書秘書丞と称した。恵帝は著作郎一人、佐郎八人を復置し、国史を管掌させた。周代に左史が事を記し、右史が言を記したのが、その職務である。漢の東京では図書が東観にあったため、名儒や碩学をして東観で著作させ、国史を撰述させた。著作の名はここから始まった。魏の時代は中書省に所属した。晋の武帝の世、繆徴が中書著作郎となった。元康年間、秘書省に所属を改め、後に別に省を設けたが、なお秘書省に所属した。著作郎を大著作と称し、専ら史官の職務を管掌した。晋の制度では、著作佐郎が初めて職に就くと、必ず名臣伝を一人撰述することになっていた。宋の初め、朝廷が始まったばかりで、共に撰述する者がいなかったため、この制度は廃れた。

領軍将軍は一人。内軍を管掌する。漢には南北軍があり、京師を守衛した。武帝は中壘 校尉 こうい を置き、北軍の営を管掌させた。光武帝は中壘 校尉 こうい を省き、北軍中候を置き、五校の営を監督させた。魏の武帝が丞相であった時、丞相府が独自に領軍を置いたが、漢の官制ではない。文帝が魏王の位につくと、魏は初めて領軍を置き、五校、中壘、武衛の三つの営を主管した。晋の武帝の初めに省き、中軍将軍の羊祜に二衛、前後左右、 ぎょう 騎 の七軍の営兵を統率させたが、これが領軍の職務である。羊祜が転任・罷免されると、再び北軍中候を置いた。北軍中候には丞一人を置いた。懐帝の永嘉年間、中領軍と改称した。元帝の永昌元年、再び北軍中候と改称した。まもなく領軍に復した。成帝の世、再び中候としたが、陶回がこれに就いた。まもなく領軍に復した。領軍には今も南軍 都督 ととく がある。

護軍将軍は一人。外軍を管掌する。秦の時の護軍都尉を、漢が踏襲した。陳 平 が護軍中尉となり、諸将をすべて監督した。しかしまた都尉を中尉としたのである。武帝の元狩四年、護軍都尉を大司馬に所属させ、この時また都尉とした。『漢書』李広伝に、李広が ぎょう 騎将軍となり、護軍将軍に所属したとある。おそらく護軍は諸将軍を監督したのであろう。哀帝の元寿元年、護軍都尉を司寇と改称した。平帝の元始元年、護軍都尉と改称した。東京(後漢)では省かれた。 班 固が大将軍中護軍となり、将軍の幕府に所属したが、漢朝廷の列職ではない。魏の武帝が丞相であった時、韓浩を護軍とし、史奐を領軍としたが、漢の官制ではない。建安十二年、護軍を中護軍と改め、領軍を中領軍と改め、長史、司馬を置いた。魏の初め、護軍を置き、武官の選任を主管し、領軍に所属させたが、晋の世には所属しなかった。晋の元帝の永昌元年、護軍を省いて領軍に併合した。明帝の太寧二年、再び置いた。魏、晋の江右(西晋)では、領軍、護軍がそれぞれ営兵を率いた。江左(東晋)以来、領軍は別に営を設けず、二衛、 ぎょう 騎、材官の諸営を総統した。護軍はなお別に営を持っていた。領軍、護軍で資歴の重い者は領軍将軍、護軍将軍とし、資歴の軽い者は中領軍、中護軍とした。官属には長史、司馬、功曹、主簿、五官がある。出征の命を受けると、参軍を置いた。

左衛将軍は一人。右衛将軍は一人。二衛将軍は宿衛の営兵を管掌する。両漢、魏には置かれなかった。晋の文帝が相国であった時、相国府に中衛将軍を置いた。武帝の初め、中衛を分けて 左右衛 将軍を置き、羊琇を左衛将軍、趙序を右衛将軍とした。二衛は江右(西晋)では長史、司馬、功曹、主簿があったが、江左(東晋)では長史はなかった。

ぎょう 騎将軍は、漢の武帝の元光六年、李広が ぎょう 騎将軍となった。魏の世には内軍として置かれ、営兵を持ち、功績の高い者がこれを主管した。先に司馬、功曹、主簿があったが、後に省かれた。

游撃将軍は、漢の武帝の時、韓説が游撃将軍となった。これが六軍である。

左軍将軍。右軍将軍。前軍将軍。後軍将軍。魏の明帝の時、左軍将軍があった。すると左軍将軍は魏の官制である。晋の武帝の初め、前軍将軍、右軍将軍を置き、泰始八年、また後軍将軍を置いた。これが四軍である。

左中郎将。右中郎将。秦の官制で、漢が踏襲した。五官中郎将と共に三署の郎を率いた。魏には三署の郎がいなかったが、なおその職を置いた。晋の武帝が省いた。宋の世祖の大明年間にまた置いた。

屯騎 校尉 こうい 。歩兵 校尉 こうい 。越騎 校尉 こうい 。長水 校尉 こうい 射声校尉 しゃせいこうい 。五校はいずれも漢の武帝が置いた。屯騎 校尉 こうい 、歩兵 校尉 こうい は上林苑の門の屯兵を管掌する。越騎 校尉 こうい は越人の降伏者を管掌し、それによって騎兵とした。一説にはその材力が超越しているから取ったという。長水 校尉 こうい は長水と宣曲の胡騎を管掌する。長水は胡の部落の名である。胡騎は宣曲観の下に駐屯した。韋曜は言う、「長水 校尉 こうい は胡騎を管掌し、厩舎が長水に近いため、これを名とした。長水はおそらく関中の小さい水の名であろう」と。 射声校尉 しゃせいこうい は射声士を管掌し、声を聞くとそれを射るため、この名とした。漢の光武帝の初め、屯騎を ぎょう 騎と改め、越騎を青巾と改めた。建武十五年、旧に復した。漢の東京(後漢)の五校は、宿衛の兵士を管掌した。游撃将軍から五校まで、魏、晋から江左(東晋)に至るまで、初めはなお営兵を率い、ともに司馬、功曹、主簿を置いたが、後に省かれた。二中郎将は本来営兵を率いない。五営の 校尉 こうい の秩禄は二千石である。

虎賁中郎将は、周官に虎賁氏がある。漢の武帝の建元三年に、初めて微行して出遊し、材力の士を選んで兵器を執り従送させ、諸門で期したので、期門と名付けた。定員はなく、多くは千人に至った。平帝の元始元年に、名を改めて虎賁郎とし、中郎将を置いてこれを統率させた。虎賁は旧くは虎奔と作り、虎の奔走するが如きを言う。王莽が政を輔けるに当たり、古に勇士の孟賁がいたので、故に奔を賁に改めた。比二千石。

宂従 僕射 ぼくや は、漢の東京に中黄門宂従 僕射 ぼくや があったが、その職ではない。魏の世にその名によって宂従 僕射 ぼくや を置いた。

羽林監は、漢の武帝の太初元年に、初めて建章営騎を置き、また従送して期門に次ぐことを掌り、後に名を改めて羽林騎とし、令・丞を置いた。宣帝は中郎将・騎都尉に羽林を監させ、これを羽林中郎将と称した。漢の東京はまた羽林左監・羽林右監を置き、魏の世に至るまで改めなかった。晋は羽林中郎将を廃し、また一監を省き、一監のみを置いた。虎賁から羽林まで、これが三将である。哀帝が省いた。宋の高祖の永初初年に、再び置いた。江右では営兵を領し、江左では再び営兵はなかった。羽林監は六百石。

積射将軍。強弩将軍。漢の武帝は路博徳を強弩 校尉 こうい とし、李沮を強弩将軍とした。宣帝は許延寿を強弩将軍とした。強弩将軍は東漢に至って雑号となった。前漢から魏にかけて積射はなかった。晋の太康十年に、射営・弩営を立て、積射・強弩将軍を置いてこれを主とした。 ぎょう 騎将軍から強弩将軍まで、先にはそれぞれ一人ずつ置いた。宋の太宗の泰始以来、多くは軍功によってこの官を得、今は再び定員はない。

殿中将軍。殿中司馬督。晋の武帝の時、殿内の宿衛を三部司馬と号し、この二官を置き、左右二衛に分属させた。江右の初め、定員は十人。朝会や宴饗の時は、将軍は戎服で、左右に直侍し、夜に城の諸門を開く時は、白虎幡を執ってこれを監した。晋の孝武帝の太元年間に、選を改め、門閥の者をこれに居らせた。宋の高祖の永初初年に、二十人に増やした。その後、定員を超えた者を、殿中員外将軍・員外司馬督と称した。その後は再び定員はない。

武衛将軍は、定員なし。初め魏王が武衛中郎将を置き、文帝が践祚すると、衛将軍に改め、禁旅を主としたが、今の二衛のようであり、その任ではない。晋氏は常には置かなかった。宋の世祖の大明年間に、再び置き、殿中将军の任に代え、員外散騎侍郎に比した。

武騎常侍は、定員なし。漢の西京の官。車駕が遊猟する時、常に従って猛獣を射た。後漢・魏・晋では置かなかった。宋の世祖の大明年間に、再び置いた。奉朝請に比した。

御史中丞は、一人。奏劾不法を掌る。秦の時の御史大夫には二丞があり、その一つを御史丞、その二を御史中丞といった。殿中の蘭台に秘書図籍があり、中丞がこれに居た。外では部 刺史 しし を督し、内では侍御史を領し、公卿の奏事を受け、挙劾して章を按じた。時に中丞もまた奏事を受けたが、しかし分かれて掌る所があった。成帝の綏和元年に、御史大夫を大 司空 しくう と改め、長史を置き、中丞の官職は従前の通りであった。哀帝の建平二年に、再び御史大夫とした。元寿二年に、再び大 司空 しくう とした。そして中丞は外に出て御史台の主となり、名を御史長史といった。光武帝は中丞に戻し、また少府に属させた。献帝の時、再び御史大夫を置き、自ら長史一人を置き、もはや中丞を領さなかった。漢の東京では、御史中丞が尚書丞郎に遇うと、中丞は車を止めて版を執り揖し、丞郎は車に坐して手を挙げて礼するだけであった。この制がいつ省かれたかは知らない。中丞は毎月二十五日に、宮垣の白壁を巡行した。史臣は漢志に執金吾が毎月三度宮城を巡行するとあるのを按ずるに、金吾を省き、この事を中丞に併せたのではないかと疑う。中丞の秩は千石。

治書侍御史は、官品第六以上の挙劾を掌る。漢の宣帝が斎居して事を決する時、御史二人に書を治めさせたので、これによって治書御史と称した。漢の東京では法律に明るい者をこれに任じ、天下の疑わしい事を讞する時は、法律をもってその是非に当たらせた。魏・晋以来は、侍御史の掌る諸曹を分掌し、尚書の二丞のようである。

侍御史は、周では柱下史である。周官に御史があり、治令を掌るのもその任である。秦は侍御史を置き、漢はこれに因った。二漢の定員はともに十五人。非法を察挙し、公卿の奏事を受け、違失のある者を挙劾することを掌った。凡そ五曹あり、一つは令曹で律令を掌り、二つは印曹で刻印を掌り、三つは供曹で斎祠を掌り、四つは尉馬曹で官厩の馬を掌り、五つは乗曹で護駕を掌った。魏は御史八人を置き、治書曹があり度支運を掌り、課第曹があり考課を掌ったが、その他の曹は知らない。晋の西朝では凡そ吏曹・課第曹・直事曹・印曹・中 都督 ととく 曹・外 都督 ととく 曹・媒曹・符節曹・水曹・中壘曹・営軍曹・算曹・法曹の凡そ十三曹あり、御史九人を置いた。晋の江左の初め、課第曹を省き、庫曹を置き、厩牧・牛馬・市租を掌った。後に庫曹を分けて、外左庫・内左庫の二曹を置いた。宋の太祖の元嘉年間に、外左庫を省き、内左庫は単に左庫と言った。世祖の大明年間に、再び置いた。廃帝の景和元年にまた省いた。順帝の初め、営軍曹を水曹に併せ省き、算曹を法曹に併せ省き、吏曹には御史を置かず、凡そ十御史となった。魏にはまた殿中侍御史二人があり、これは蘭台が二御史を遣わして殿内に居らせ非法を察したものであろう。晋の西朝では四人、江左では二人。秦・漢には符節令があり、少府に隷し、符璽郎・符節令史を領し、周礼の 典 瑞・掌節の任である。漢から魏にかけて別に一台とし、位は御史中丞に次ぎ、節・銅虎符・竹使符の授与を掌った。晋の武帝の泰始九年に、蘭台に併せ省き、符節御史を置いてその事を掌らせた。

謁者 僕射 ぼくや は、一人。大なる拝授及び百官の班次を掌る。謁者十人を領する。謁者は小なる拝授及び報章を掌る。秦の官である。謁は請うことである。応氏の漢官に曰く、堯が舜を試すに、四門に賓したのがその職である。秦の世の謁者は七十人、漢はこれに因った。後漢の百官志に、謁者 僕射 ぼくや は奉引を掌るとある。和帝の世、陳郡の何熙が謁者 僕射 ぼくや となり、殿中で賛拝し、その音が左右を動かした。然らばまた唱賛をも掌った。常侍謁者が五人あり、謁者は三十五人を置き、西京の半分に減じた。二漢ともに光禄勲に隷した。魏の世は謁者十人を置いた。晋の武帝は 僕射 ぼくや を省き、謁者を蘭台に隷させた。江左は再び 僕射 ぼくや を置き、後にまた省いた。宋の世祖の大明年間に、再び置いた。秩は比千石。

都水使者、一人。舟船航行および輸送部門を管掌する。秦・漢には都水長・丞があり、池沼灌漑を主管し、河渠を保守し、太常に属した。漢の東京では都水を廃止し、河堤謁者を置き、魏はこれを踏襲した。漢代の水衡都尉は上林苑を主管し、魏代では天下の水軍・舟船・器械を主管した。晋の武帝は水衡を廃止し、都水使者を置き、河堤は都水の官属となった。参軍二人、謁者一人、令史は増減設置され定員はない。晋の西朝には参軍はあったが謁者はなく、謁者は江左で設置された。懐帝の永嘉六年、胡人が洛陽に入ると、都水使者の爰濬は先に出て輸送を監督したため難を免れた。すると武帝が職を設置した時から、すでに輸送を管掌していたのである。江左では河堤を廃止した。

太子太傅、一人。丞一人。太子少傅、一人。丞一人。傅は古い官である。『文王世子』に「凡そ三王が世子を教えるには、太傅が前におり、少傅が後ろにおり、ともに輔導を職務とする」とある。漢の高帝九年、叔孫通を太子太傅とし、位次は太常の次であった。両漢にはともに丞はなかった。魏の世には東宮がなかったが、晋が丞を置いたのである。晋の武帝の泰始五年、 詔 して太子が太傅・少傅に拝するのは、弟子が師に仕える礼のようであるとし、二傅は上疏して特別な敬意を示してはならないとした。二傅にはともに功曹・主簿・五官があった。太傅は中二千石、少傅は二千石。

太子詹事、一人。丞一人。職務は 尚書令 しょうしょれい ・領軍將軍に比する。詹は省みる(つかさどる)ことである。漢の西京では太子門大夫・庶子・洗馬・舍人は二傅に属し、率更令・家令・僕・衛率は詹事に属した。いずれも秦の官である。後漢は詹事を廃止し、太子の官属はすべて少傅に属し、太傅はもはや官属を管掌しなかった。晋の初め、太子の官属は通じて二傅に属した。咸寧元年、再び詹事を置き、二傅はもはや官属を管掌しなくなった。詹事は二千石。

家令、一人。丞一人。晋の世に設置された。漢代、太子は湯沐邑十県を食み、家令がこれを主管した。また刑獄・飲食を主管し、職務は廷尉・司農・少府に比する。漢の東京では食官令を主管した。食官令は、晋の世には独自の官となり、もはや家令に属さなくなった。

率更令、一人。宮殿の門戸および賞罰の事を主管し、職務は光禄勲・衛尉のようである。漢の東京では庶子・舍人を管掌したが、晋の世にはそうではなかった。漢から晋まで、家令は率更の下位にあったが、宋では上位にある。

僕、一人。漢代、太子は五日に一朝し、入朝しない日には、僕および中允を派遣して朝に起居を問わせた。車馬・親族を主管し、職務は太僕・宗正のようである。家令から僕までが、太子の三卿である。三卿の秩は千石。

門大夫、二人。漢の東京に設置され、職務は中郎将のようであり、遠近の表牋を分掌した。秩六百石。

中庶子、四人。職務は侍中のようである。漢の東京では員数五人、晋では四人に減らした。秩六百石。

中舍人、四人。漢の東京の太子官属に中允の職があり、中庶子の下、洗馬の上にあり、おそらく今の中書舍人のようであろう。中舍人は晋の初めに設置され、職務は黄門侍郎のようである。

食官令、一人。職務は太官令のようである。漢の東京の官である。今は中庶子に属する。

庶子、四人。職務は 散騎常侍 さんきじょうじ 中書監 ちゅうしょかん 令に比する。晋の制度である。漢の西京では員数五人、漢の東京では員数なく、職務は三署の中郎のようである。古くは諸侯は世禄であり、卿大夫の子は副倅となり、これを国子といい、天子・諸侯の子には庶子の官があり、これを掌って教えた。秦はその名を踏襲した。秩四百石。

舍人、十六人。職務は散騎・中書侍郎のようである。晋の制度である。両漢には員数なく、宿衛を掌るのは三署の中郎のようである。

洗馬、八人。職務は謁者・秘書郎のようである。両漢では員数十六人。太子が出るときは、当直の者が前駆して威儀を導いた。秩は比六百石。

太子左衛率、七人。太子右衛率、二人。二率の職務は二衛のようである。秦の時は単に衛率といい、漢はこれを踏襲し、門衛を主管した。晋の初めは中衛率といい、泰始年に左右に分かれ、それぞれ一軍を率いた。恵帝の時、愍懐太子が東宮にいたが、前後二率を加えて設置した。成都王穎が太弟となると、また中衛を置き、これが五率である。江左の初め、前後二率を廃止した。孝武帝の太元年中にまた設置した。いずれも丞があり、晋の初めに置かれた。宋の世には左右二率のみを置いた。秩は旧来四百石。

太子屯騎 校尉 こうい 。太子歩兵 校尉 こうい 。太子翊軍 校尉 こうい 。三 校尉 こうい はそれぞれ七人、ともに宋の初めに設置された。屯騎・歩兵は、台の 校尉 こうい に因る。翊軍は、晋の武帝の太康初年に設置され、初めは台の 校尉 こうい であり、唐彬がこれに就いたが、江左で廃止された。太子冗従 僕射 ぼくや 、七人。宋の初めに設置された。

太子旅賁中郎将、十人。職務は虎賁中郎将と同じ。宋の初年に設置された。周の官制に旅賁氏があった。漢の制度では、天子には虎賁があり、王侯には旅賁があった。旅とは、衆(多くの者)という意味である。

太子左積弩将軍、十人。太子右積弩将軍、二人。漢の東京(洛陽)の積弩将軍は雑号将軍であり、左右の積弩はなかった。魏の時代から晋の江左(東晋)にかけて、左右積弩は朝廷の職務となり、営兵を率いた。宋の時代に東宮に移され、もはや営兵はなくなった。

殿中将軍、十人。殿中員外将軍、二十人。宋の初年に設置された。

平越中郎将、晋の武帝が設置し、広州を治め、南越の保護を主管した。

南蛮 校尉 こうい 、晋の武帝が設置し、襄陽を治めた。江左(東晋)の初めに一旦廃止された。まもなくまた設置され、江陵を治めた。宋の世祖孝建年間に廃止された。

西戎 校尉 こうい 、晋の初めに設置され、長安を治めた。安帝の義熙年間にまた設置され、漢中を治めた。

寧蛮 校尉 こうい 、晋の安帝が設置し、襄陽を治め、魯宗之に授けた。

南夷 校尉 こうい 、晋の武帝が設置し、寧州を治めた。江左(東晋)では鎮蛮 校尉 こうい と改称した。四夷中郎 校尉 こうい には、いずれも長史・司馬・参軍がいた。魏・晋には雑号護軍があり、将軍と同様で、今(宋)でも鎮蛮・安遠などの護軍がある。鎮蛮護軍は廬江・晋熙・西陽の 太守 に加えられる。安遠護軍は武陵内史に加えられる。

刺史 しし 、各州ごとに一人ずつ。黄帝は四監を立てて万国を治め、唐・虞の世の十二牧がその職務である。周では典と改称し、秦では監御史と称し、さらに丞相史を派遣して諸州を分けて刺探させ、これを 刺史 しし と呼んだ。刺という言葉は、参覘(うかがい見る)のような意味である。文書を写すことも刺と言った。漢の制度で尚書事を刺してはならないというのがこれである。 刺史 しし は六条の 詔 書を公布し、その第一条は、強宗豪右が田宅を制限を超えて占有し、強きをもって弱きを陵ぎ、衆をもって寡を暴にすることを禁じる。第二条は、二千石(郡守など)が 詔 書を奉ぜず、典制を遵承せず、公に背き私に向かい、 詔 命を曲げて利を守り、百姓を侵漁し、聚斂して姦を行うことを禁じる。第三条は、二千石が疑獄を恤まず、風を 厲 して人を殺し、怒れば罰を加え、喜べば賞を任せ、煩擾苛暴で黎元を剝戮し、百姓に 疾 まれ、山崩石裂、妖祥譌言を招くことを禁じる。第四条は、二千石が選署公平でなく、 苟 も愛する者に 阿 り、賢を蔽い頑を寵することを禁じる。第五条は、二千石の子弟が栄勢を 恃怙 み、監する所に請託することを禁じる。第六条は、二千石が公に違い下に比し、豪強に阿附し、貨賂を通じ、正令を割損することを禁じる。歳末には伝車に乗って京師に赴き、事を奏上した。成帝の綏和元年、牧と改称された。哀帝の建平二年、再び 刺史 しし となった。前漢の世、 刺史 しし は伝車に乗って郡国を周行し、定まった治所はなかった。後漢の世、治所が定まった場所を持つようになり、八月に部を行くだけで、再び京師に奏事しなくなった。晋の江左(東晋)でもなお郡県に 詔 を行き渡らせた。棗據の『追遠詩』に「先君は鉅鹿太守たり、今に三紀に至る。忝くも 私 は冀州 刺史 しし たり、 詔 を班りて郡伝に次る」とあるのがこれである。霊帝の世、天下は次第に乱れ、豪桀がそれぞれ州郡を拠有し、劉焉・劉虞がともに九卿から出て益州・幽州の牧となり、その任は次第に重くなった。官属には別駕従事史一人がおり、 刺史 しし に従って部を行く。治中従事史一人がおり、財穀簿書を主管する。兵曹従事史一人がおり、兵事を主管する。部従事史は各郡ごとに一人ずつおり、非法を察する。主簿一人がおり、閤下の衆事を録し、文書を省署する。門亭長一人がおり、州の正門を主管する。功曹書佐一人がおり、選用を主管する。孝経師一人がおり、経を試みる。月令師一人がおり、時節の祠祀を主管する。律令師一人がおり、律を平にする。簿曹書佐一人がおり、簿書を主管する。典郡書佐は各郡ごとに一人ずつおり、一郡の文書を主管する。これが漢の制度である。今(宋)では別駕従事史・治中従事史・主簿・西曹書佐・祭酒従事史・議曹従事史・部郡従事史があり、主簿以下は、人を置く多少は各州によって異なり、旧来定まった制度はない。晋の成帝の咸康年間、江州にはまた別駕祭酒があり、僚職の上に位置したが、別駕従事史は従来通りで、今(宋)では存在しない。別駕・西曹は吏および選挙の事を主管し、治中は衆曹の文書の事を主管する。西曹は、漢の功曹書佐である。祭酒は諸曹の兵・賊・倉・戸・水・鎧などを分掌する。揚州には祭酒がなく、主簿が事を治める。荊州には従事史があり、議曹従事史の下に位置するが、おおよそ魏・晋以来に設置されたものであろう。今、広州・徐州には月令従事があり、諸州の曹史のようなもので、漢の旧名である。漢の武帝の元封四年、諸州に毎年それぞれ秀才一人を挙げることを命じた。後漢では光武帝の 諱 を避け、茂才と改称した。魏では再び秀才と称した。晋の江左(東晋)では揚州は毎年二人を挙げ、諸州は一人を挙げ、あるいは三年に一人とし、州の大小に従い、ともに策問に対答させた。晋の東海王 司馬越 しばえつ 州牧となった時、牧には長史・参軍を置き、庾敳が長史、謝鯤が参軍となったが、これは牧であるからであって、 刺史 しし にはない。牧は二千石、 刺史 しし は六百石である。

郡守、秦の官職。秦が諸侯を滅ぼし、それに従ってその地を郡とし、守・丞・尉を各一人ずつ置いた。守は民を治め、丞はこれを補佐した。辺境の守備に当たる郡では、丞が長史となった。晋の江左(東晋)では皆これを丞と称した。尉は兵を典り、盗賊に備えた。漢の景帝の中二年、守を太守と、尉を都尉と改称した。光武帝は都尉を廃止したが、後にはしばしば東部・西部都尉を置いた。蛮夷がいる所には、また属国都尉があった。漢末および三国時代には、多くの場合、諸部都尉を郡とした。晋の成帝の咸康七年、また諸郡の丞を廃止した。宋の太祖の元嘉四年、再び設置した。郡の官属はおおよそ公府に似ているが、東西曹はなく、功曹史があり、選挙を主管し、五官掾があり、諸曹の事を主管し、部県には都郵・門亭長があり、また主記史があり、期会を催督する。これが漢の制度であり、今(宋)もおおよそこれに従う。諸郡にはそれぞれ旧来の習俗があり、諸曹の名号は往々にして異なる。漢の武帝が董仲舒の言を容れ、元光元年、初めて郡国に孝廉を挙げることを命じ、郡の人口二十万以上は毎年一人を察挙し、四十万以上は二人、六十万は三人、八十万は四人、百万は五人、百二十万は六人、二十万に満たない場合は二年に一人、十万に満たない場合は三年に一人と定めた。四科に限定し、第一は德行高妙、志節清白、第二は学通行修、経中博士、第三は明習法令、疑いを決するに足り、章に案じて覆問し、御史に中たる、第四は剛毅多略、事に遭って惑わず、明らかに決断するに足り、材能をもって三輔の県令に任ずるに足る、とした。魏の初め、人口十万以上は毎年一人と制度を改め、秀異な者は戸口に関わらずとした。江左(東晋)では丹陽・呉・会稽・呉興をともに大郡とし、毎年それぞれ二人を挙げた。漢の制度では毎年上計掾史を各一人派遣し、郡内の衆事を条上させ、これを階簿と呼び、今(宋)でも行われている。太守は二千石、丞は六百石である。

県令と県長は、秦の官制である。大きい県を令、小さい県を長とし、侯国には相を置いた。漢の制度では、丞一人を置き、尉は大県に二人、小県に一人を置いた。五家を伍とし、伍長がこれを主管する。二つの伍を什とし、什長がこれを主管する。十の什を里とし、里魁がこれを主管する。十里を亭とし、亭長がこれを主管する。十亭を郷とし、郷には郷佐、三老、有秩、嗇夫、游徼がそれぞれ一人ずついた。郷佐と有秩は賦税を主管し、三老は教化を主管し、嗇夫は争訟を主管し、游徼は姦非を主管した。その他の諸曹は、郡の職務とほぼ同じである。五官を廷掾としたが、後には丞は置かれなくなり、ただ建康だけが獄丞を置いた。その他の多くの職務は、この県にはあるが他の県にはないなど、それぞれ旧来の習俗があり、定まった制度はなかった。晋の江右では洛陽県に六部都尉を置き、その他の大県には二人、次県・小県にはそれぞれ一人を置いた。宋の太祖元嘉十五年、小さい県ではさらにこれを省いた。

諸官府から郡に至るまで、それぞれ五百を置くのは、旧説によれば、古の君主は師従し、卿は旅従したという。旅は五百人である。今の県令以上は、古の諸侯にあたるので、四五百を立てて師従・旅従を象徴させたのは、古義に依拠したものである。韋曜は言う。五百の字は本来、伍伯である。伍は当であり、伯は道である。これに道を導引させ、道中で駆除させるのである。周の制度では五百を旅とし、その帥は皆大夫であり、この説のように卑しめることはできない。また、周礼の秋官に条狼氏があり、鞭を執って趨辟(走りながら道を開ける)ことを掌り、王の出入りには八人が道を挟み、公には六人、侯伯には四人、子男には二人が付いた。これに近いが、名称が異なるだけである。また、漢の官の中に伯使があり、諸官のために駆使し、道中で道を開けることを主管したので、伯使と言った。これがその比である。県令は千石から六百石、県長は五百石である。

漢の初期、王国には太傅を置き、輔導を掌った。内史は民を治めることを主管し、丞相は衆官を統率し、中尉は武職を掌った。官を分け職を置くことは、京師とほぼ同じであった。景帝の時、七国の乱を戒めとして、諸王が国を治めることを許さないように制度を改め、漢が吏を置き、丞相を相と改称し、御史大夫、廷尉、少府、宗正、博士の官を省き、その大夫、謁者、諸官の長丞は、皆その員数を減らした。後に漢の内史を 京兆尹 けいちょういん と改め、中尉を執金吾と改め、郎中令を光禄勲と改めたが、王国は従前のままとし、また太僕を僕とし、司農を大農とした。成帝はさらに相に郡太守のように民を治めさせ、内史を省いた。その中尉は郡尉のようであり、太傅はただ傅と言うだけとなった。漢の東京(後漢)でも傅一人を置き、王はこれを師事した。相一人は民を治めることを主管し、中尉一人は盗賊を主管し、郎中令一人は郎中の宿衛を掌り、僕一人、治書一人(治書は本来尚書と言い、後に治書と改名)、中大夫は定員なく、京師及び諸国への奉使を掌り、謁者及び礼楽、衛士、医工、永巷、祀礼長がそれぞれ一人、郎中は定員なし。魏の謁者官属については、史書に欠けて順序がわからない。晋の武帝は初め師、友、文学をそれぞれ一人置いた。師はすなわち傅であるが、景帝の諱が師であったため、傅と改めた。宋の世では再び師と改称した。その文学は、前漢ですでに置かれていた。友は文王、仲尼の四友の名に因んだものである。太守を内史と改称し、相及び僕を省いた。郎中令、中尉、大農の三卿があった。大国には左右常侍をそれぞれ三人置き、郎中を省いて侍郎二人を置いた。大国はさらに上軍、中軍、下軍の三将軍を置き、次国は上軍将軍、下軍将軍をそれぞれ一人、小国は上軍のみを置いた。典書、典祠、典衛、学官令、典書令丞がそれぞれ一人、治書四人、中尉、司馬、世子庶子陵廟、牧長がそれぞれ一人、謁者四人、中大夫六人、舍人十人、典医丞、典府丞がそれぞれ一人。宋氏以来、すべて晋の制度を用い、大小国を問わず、皆三軍を有した。晋の制度では、典書令は常侍の下、侍郎の上にあったが、江左では侍郎が常侍の次となり、典書令は三軍の下に位置するようになった。江左以来、公国には中尉、常侍、三軍がなく、侯国にはさらに大農、侍郎がなく、伯子男には典書以下のみで、また学官令もなかった。吏職は皆順次に損減省廃された。晋の江右では公侯以下に官属を置き、国の大小に従って、定まった制度はなかった。晋の江左の諸国は、皆三分の一を食邑とした。元帝太興元年、初めて九分の一を食邑とする制度を定めた。

太傅。 太保。 太宰。

太尉 たいい 司徒 しと 司空 しくう

大司馬。 大將軍。

諸位從公。

特進。

驃騎 ,車騎, えい 將軍。

諸大將軍。

諸持節 都督 ととく

侍中, 散騎常侍 さんきじょうじ

尚書令 しょうしょれい 僕射 ぼくや ,尚書。

中書監 ちゅうしょかん ,令。 祕書監。

諸征、鎮至龍驤將軍。

光禄大夫。

諸卿、尹。

太子の二傅。

大長秋。

太子詹事。

領軍・護軍。

県侯。

二衛から五 校尉 こうい まで。

寧朔から五威・五武将軍まで。

四中郎将。

兵を領有する 刺史 しし

戎蛮 校尉 こうい

御史中丞。都水使者。

郷侯。

給事中。黄門侍郎・散騎侍郎・中書侍郎。

謁者 僕射 ぼくや

三将軍、積射将軍・強弩将軍。

太子中庶子、庶子、三卿、率。

鷹揚将軍から陵江将軍まで。

兵を領有しない 刺史 しし

郡国太守、内史、相。

亭侯。

尚書丞、尚書郎。

治書侍御史、侍御史。

三都尉。

博士。

撫軍将軍以上および節を持ち 都督 ととく ・領・護の長史、司馬。

公府の従事中郎将。

廷尉正、廷尉監、廷尉評。

秘書著作丞、秘書著作郎。

王国の公・三卿、師、友、文学。

諸県の署令で千石の者。

太子門大夫。

殿中將軍、司馬督。

雑号護軍。

関内侯。

謁者。

殿中監。

諸卿尹の丞。

太子傅・詹事・率の丞。

諸軍の長史・司馬で六百石の者。

諸府の参軍。

戎蛮府の長史、司馬。

公府の掾、属。

太子洗馬、舎人、食官令。

諸県の令で六百石の者。

内台の正令史。

郡丞。

諸県の署長。

雑号の宣威将軍以下。

内台の書令史。

外台の正令史。

諸県の署丞、尉。