宋書
志第二十九 百官上
太宰は一人。周の武王の時、周公旦が初めてこれに就き、邦の治めを掌り、六卿の首位となった。秦・漢・魏では常置されなかった。晋の初め、周礼に依って三公を備え置いた。三公の職務では、太師が首位にあったが、景帝の名が師であったため、太宰を置いてこれに代えた。太宰は、おそらく古の太師である。殷の紂王の時、箕子が太師となった。周の武王の時、太公が太師となった。周の成王の時、周公が太師となった。周公が薨じると、畢公が代わった。漢の西京では初め置かず、平帝の時に初めて太師の官を復活させ、孔光がこれに就いた。漢の東京ではまた廃止された。献帝の初め、董卓が太師となったが、卓が誅殺されるとまた廃止された。魏の世には置かれなかった。晋は太師に因って太宰を置き、安平王司馬孚をこれに就かせた。
太傅は一人。周の成王の時、畢公が太傅となった。漢の高后元年、初めて王陵を用いた。
太保は一人。殷の太甲の時、伊尹が太保となった。周の武王の時、召公が太保となった。漢の平帝元始元年、初めて王舜を用いた。後漢から魏にかけては置かれず、晋の初めにまた置かれた。太師から太保まで、これが三公である。道を論じ邦を経営し、陰陽を調和させる。適任者がいれば欠員とし、人主を訓導し護り、徳義をもって導くものである。
相国は一人。漢の高帝十一年に初めて置かれ、蕭何がこれに就き、丞相を罷免した。何が薨じると、曹参が代わった。参が薨じると、廃止された。魏の斉王は晋の景帝を相国とした。晋の恵帝の時は趙王 司馬倫 、愍帝の時は南陽王司馬保、安帝の時は宋の高祖、順帝の時は斉王が、いずれも相国となった。魏・晋以来、もはや人臣の位ではなくなった。
丞相は一人。殷の湯王は伊尹を右相とし、仲虺を左相とした。秦の悼武王二年、初めて丞相の官を置いた。丞は奉じる、相は助けるという意味である。悼武王の子の昭襄王が初めて樗里疾を丞相とし、後に左右丞相を置いた。漢の高帝の初め、一丞相を置き、十一年に相国と改名した。孝恵帝・高后の時は左右丞相を置き、文帝二年にまた一丞相を復活させた。哀帝元寿二年、大 司徒 と改名した。漢の東京では再び置かれなかった。献帝の建安十三年に丞相を復活させ、魏の世および晋の初めにはまた廃止された。恵帝の世、趙王 司馬倫 が帝位を 簒奪 し、梁王司馬肜を丞相とした。永興元年、成都王司馬穎を丞相とした。愍帝建興元年、琅邪王 司馬睿 を左丞相、南陽王司馬保を右丞相とした。三年、保を相国、睿を丞相とした。元帝永昌元年、王敦を丞相とし、 司徒 荀組を 太尉 に転じ、 司徒 の官属を丞相府に併合して留府とし、敦は受けなかった。成帝の世、王導を丞相とし、 司徒 府を罷めて丞相府とし、導が薨じると丞相を廃止し、再び 司徒 府とした。宋の世祖の初め、南郡王劉義宣を丞相としたが、 司徒 府は従前の通りであった。
太尉 は一人。上から下を安んじることを尉という。兵事を掌り、 郊祀 では亜献を掌り、大喪の時は南郊で 諡 を告げる。堯の時、舜が 太尉 の官となった。漢はこれに因った。武帝建元二年に省いた。光武帝建武二十七年、大司馬を罷め、 太尉 を置いてこれに代えた。霊帝の末、劉虞を大司馬としたが、 太尉 は従前の通りであった。
司徒 は一人。民事を掌り、郊祀では犠牲の検分と洗浄の監督を掌り、大喪では梓宮を安置する。少昊氏は鳥の名で官とし、祝鳩氏が 司徒 となった。堯の時、舜が 司徒 となった。舜が帝位を摂ると、契を 司徒 に命じた。契の玄孫の孫は微といい、夏の 司徒 ともなった。周の時、 司徒 は地官となり、邦の教化を掌った。漢の西京では初め置かれなかった。哀帝元寿二年、丞相を罷め、大 司徒 とした。光武帝建武二十七年、「大」の字を除いた。
司空 は一人。水土の事を掌り、郊祀では掃除と楽器の陳列を掌り、大喪では将校を率いて土を盛り返す。舜が帝位を摂ると、禹を 司空 とした。契の玄孫の子は冥といい、夏の 司空 ともなった。殷の湯王は咎単を 司空 とした。周の時、 司空 は冬官となり、邦の事を掌った。漢の西京では初め置かれなかった。成帝綏和元年、御史大夫を大 司空 と改名した。哀帝建平二年、再び御史大夫とした。元寿二年、再び大 司空 とした。光武帝建武二十七年、「大」の字を除いた。献帝建安十三年、また 司空 を罷め、御史大夫を置いた。御史大夫郗慮が免官され、補充されなかった。魏の初めにまた 司空 を置いた。
大司馬は一人。武事を掌る。司は主る、馬は武である。堯の時、棄が后稷となり、兼ねて司馬を掌った。周の時、司馬は夏官となり、邦の政を掌った。項籍は曹無咎と周殷をともに大司馬とした。漢の初めは置かれなかった。武帝元狩四年、初めて大司馬を置いた。初めは単に司馬と言ったが、議する者が漢には軍候千人司馬の官があるので、「大」を加えた。また 司空 を置く時、県道の官に獄 司空 があるので、また「大」を加えた。王莽が摂政の時、漢には小 司徒 がないとして、司馬・ 司徒 ・ 司空 の称号にいずれも「大」を加えて定めた。光武帝建武二十七年、大司馬を省き、 太尉 で代えた。魏の文帝黄初二年、再び大司馬を置き、曹仁をこれに就かせたが、 太尉 は従前の通りであった。
大将軍は一人。凡そ将軍は皆征伐を掌る。周の制度では、王は六軍を立てた。晋の献公は二軍を作り、公が上軍を率いた。将軍の名はここから起こった。楚の懐王は三将を関中に遣わし、宋義が上将となった。漢の高帝は韓信を大将軍とした。漢の西京では大司馬を冠した。漢の東京では大将軍は独自の官となり、位は三司の上にあった。魏の明帝青龍三年、晋の宣帝が大将軍から 太尉 となったが、すると大将軍は三司の下となった。その後また三司の上となった。晋の景帝が大将軍となった時、景帝の叔父の司馬孚が 太尉 であり、大将軍を 太尉 の下とするよう奏上し、後にまた旧に復した。
晋の武帝が践祚すると、安平王司馬孚が太宰、鄭沖が太傅、王祥が太保、義陽王司馬望が 太尉 、何曾が 司徒 、荀顗が 司空 、石苞が大司馬、陳騫が大将軍となり、合わせて八公が同時に並置されたが、ただ丞相だけはなかった。
蒼頭に宜禄という字の者がいた。漢代になると、丞相府で何か報告・連絡がある度に、閤に着くとすぐに「宜禄」と伝呼し、これが常例となった。
丞相には三長史を置いた。丞相が病気の時は、御史大夫が百官を率いて三朝に起居を問い、病が癒えると、 詔 により 尚書令 あるいは光禄大夫が養牛と上尊酒を賜った。漢の景帝の時、三公が病気になると中黄門が病状を問うた。魏・晋では黄門郎が、特に重い場合は 侍中 がこれを行った。魏の武帝が丞相となって以来、左右二長史のみを置いた。漢の東京では太傅府に掾・属十人、御属一人、令史十二人を置いたが、皆どの曹かは分からない。 太尉 から大将軍・ 驃騎 将軍・車騎将軍・衛将軍まで、いずれも長史一人があり、将軍はまたそれぞれ司馬一人を置いた。太傅は長史を置かなかった。
太尉 府には掾と属を合わせて二十四名を置き、西曹は府の吏員の任用を主管し、東曹は二千石の長吏の昇進・任免を主管し、戸曹は民戸・祭祀・農桑を主管し、奏曹は上奏・建議を主管し、辞曹は訴訟を主管し、法曹は郵便・駅伝・法令を主管し、尉曹は兵卒・労役者の輸送を主管し、賊曹は盗賊を主管し、決曹は刑罰・法律を主管し、兵曹は軍事を主管し、金曹は貨幣・塩・鉄を主管し、倉曹は倉庫・穀物を主管し、黄閣主簿は諸事の記録・監督を主管した。御属一人、令史二十二人。御属は公のために車馬を管理し、令史には閣下・記室・門下令史があり、その他の令史は記録が欠けている。掾・属二十四名というのは、東西曹を含めて十二曹あるから、各曹ごとに掾・属一人ずつを置き、合わせて二十四人となる。
司徒 には掾・属三十一人、御属一人、令史三十五人を置いた。 司空 には掾二十九人、御属一人、令史三十一人を置いた。 司空 には別に道橋掾があった。その他の増減の詳細は、記録が欠けて知ることができない。
漢代の東京(洛陽)では、大将軍・驃騎将軍に従事中郎二人、掾・属二十九人、御属一人、令史三十人を置いた。騎将軍・衛将軍には従事中郎二人、掾・属二十人、御属一人、令史二十四人を置いた。兵曹掾史は軍事を主管し、稟仮掾史は俸給・休暇を主管し、また外刺姦を置いて罪法を主管した。領兵して外征する場合、営には五部を設け、各部に 校尉 一人、軍司馬一人を置いた。部下には曲があり、曲には軍候一人を置いた。曲下には屯があり、屯には屯長一人を置いた。 校尉 を置かない場合は、部には軍司馬一人のみがいた。また、軍仮司馬・軍仮候があり、別営を置く場合は別部司馬とした。その他の征伐のために置かれる将軍は、府に定員がなく、部曲司馬・軍候を置いて兵を統率した。大将軍以下の掾属は三公府と比べて増減があったが、記録が欠けて知ることができない。令史・御属を置く場合は三公府と同じである。掾史とある場合は掾はあるが属はなく、また令史・御属もなく、三公府とは異なる。
魏の初めの公府の職僚については、史書に詳しく記されていない。晋の景帝が大将軍となった時、掾十人を置き、西曹・東曹・戸曹・倉曹・賊曹・金曹・水曹・兵曹・騎兵曹に各一人ずつで、属は置かなかった。魏の元帝の咸熙年間、晋の文帝が相国となった時、相国府には中衛将軍・ 驍 騎 将軍・左右長史・司馬・従事中郎四人、主簿四人、舎人十九人、参軍二十二人、参戦十一人、掾・属三十三人を置いた。東曹掾・属各一人、西曹属一人、戸曹掾一人・属二人、賊曹掾一人・属二人、金曹掾・属各一人、兵曹掾・属各一人、騎兵掾二人・属一人、車曹掾・属各一人、鎧曹掾・属各一人、水曹掾・属各一人、集曹掾・属各一人、法曹掾・属各一人、奏曹掾・属各一人、倉曹属二人、戎曹属一人、馬曹属一人、媒曹属一人、合わせて三十三人。散属九人、総計四十二人である。
晋の初め、位が公以上である者はすべて、長史・西閣祭酒・東閣祭酒・西曹・東曹掾・戸曹・倉曹・賊曹属を各一人置いた。兵権を加えられた者はさらに司馬・従事中郎・主簿・記室督を各一人、舎人四人を置いた。持節 都督 となった者は、参軍六人を置いた。安平献王司馬孚が太宰となった時、掾・属を十人に増やし、兵・鎧・士・営軍・刺姦の五曹にすべて属を置き、前のものと合わせて十人とした。楊駿が太傅となった時、祭酒を四人に増やし、掾・属を二十人とし、兵曹を左・右・法・金・田・集・水・戎・車・馬の十曹に分け、すべて属を置いたので、二十人となった。趙王 司馬倫 が相国となった時、左右長史・司馬・従事中郎四人、参軍二十人、主簿・記室督・祭酒各四人、掾・属四十人を置いた。東西曹にも属を置き、その他の十八曹にはすべて掾を置いたので、四十人となった。諸曹にはすべて御属・令史・学幹を置き、御属の職務は記録である。
江左(東晋)以来、諸公は長史・倉曹掾・戸曹属・東西閣祭酒を各一人、主簿・舎人二人、御属二人を置き、令史は定員がなかった。兵権を持つ者は司馬一人、従事中郎二人を置き、参軍は定員がなかった。特に尊崇される者は左右長史・司馬・従事中郎四人、掾・属四人を置き、その場合は倉曹に属を増設し、戸曹に掾を置いた。江左での尊崇の極みはここまでである。
長史、司馬、舍人は秦の官制である。従事中郎、掾、属、主簿、令史は前漢の官制で、陳湯が大将軍王鳳の従事中郎となったのがこれである。御属、参軍は後漢の官制で、孫堅が車騎参軍事となったのがこれである。本来は府主に対して敬意を示す礼はなかったが、晋の時代に太原の孫楚が大司馬石苞の参軍となり、石苞を軽んじ慢心したため、初めて敬意を表す礼が定められた。祭酒は晋の官職で、漢の呉王劉濞が劉氏の祭酒となった。祭祀は酒を根本とし、年長者がこれを主宰するため、祭酒と称した。漢の侍中や魏の 散騎常侍 で功績の高い者は、いずれも祭酒を兼ねた。公府の祭酒は、おそらくこの名称に由来するものであろう。長史と従事中郎は官吏を主管し、司馬は将軍を主管し、主簿、祭酒、舍人は閣内の事務を主管し、参軍、掾、属、令史は諸曹の事務を主管する。 司徒 に公の位がなければ、ただ舍人を省くだけで、その府は常に設置され、その職務と僚属は他の府とは異なる。左右長史、左西曹掾、属がそれぞれ一人おり、その他は同じである。他の府は公があれば設置し、なければ省かれる。晋の元帝が鎮東大将軍および丞相となった時、従事中郎を設置し、定員はなく、諸曹を分担して管轄し、録事中郎、度支中郎、三兵中郎があった。その参軍には諮議参軍が二人おり、諷諫と議論の事務を主管した。これは晋の江左政権初期に設置され、軍諮祭酒に由来する。宋の高祖が丞相となった時、諮議参軍のみを設置し、定員はなかった。現在の諸曹には、録事、記室、戸曹、倉曹、中直兵、外兵、騎兵、長流賊曹、刑獄賊曹、城局賊曹、法曹、田曹、水曹、鎧曹、車曹、士曹、集、右戸、墨曹の、合わせて十八曹の参軍がある。曹を署さない参軍は、定員がない。江左初期、晋の元帝の鎮東丞相府には、録事、記室、東曹、西曹、度支、戸曹、法曹、金曹、倉曹、理曹、中兵、外兵、騎兵、典兵、兵曹、賊曹、運曹、禁防、典賓、鎧曹、田曹、士曹、騎士、車曹の参軍があった。そのうち東曹、西曹、度支、金曹、理曹、典兵、兵曹、賊曹、運曹、禁防、典賓、騎士、車曹の十三曹は、現在は欠けており、残る十二曹である。その後さらに直兵、長流、刑獄、城局、水曹、右戸、墨曹の七曹が加わった。高祖が丞相となった時、中兵と直兵を合わせて一つの参軍とし、曹としては依然として二つであった。現在、小府で長流参軍を設置しない場合は、禁防参軍を設置する。蜀の丞相諸葛亮の府には行参軍があり、晋の太傅 司馬越 の府にはさらに行参軍、兼行参軍があり、後に次第に長兼の字が加えられ、正式に任命されれば参軍事となり、府が板授すれば行参軍となった。晋末以来、参軍事、行参軍はそれぞれ任命と板授があった。板授の行参軍の下には長兼行参軍があった。参軍督護は江左に設置され、本来は皆営を統率し、部曲を持っていたが、現在はない。公府の長史、司馬の秩禄は千石、従事中郎は六百石、東西曹掾は四百石、他の掾は三百石、属は二百石である。
特進は前漢の時代に設置され、前後両漢および魏、晋では加官とされ、本来の官職の車や服飾を用い、配下の吏卒はいなかった。晋の恵帝の元康年間にその位次を定め、諸公の下、驃騎将軍の上とした。
驃騎将軍は一人。漢の武帝の元狩二年、初めて霍去病を驃騎将軍に任じた。漢の西京の制度では、大将軍、驃騎将軍の位は丞相に次ぐ。
車騎将軍は一人。漢の文帝元年、初めて薄昭を車騎将軍に任じた。魚豢は言う。「魏の時代、車騎将軍が 都督 となれば、その儀礼は四征将軍と同じである。 都督 でなければ、たとえ節を持ち四征将軍に属していても、前後左右の雑号将軍と同じである。あるいは散官として文官の例に従って帰還すれば、その位次は三司に次ぐ。」晋、宋では車騎将軍、衛将軍はもはや四征将軍の督下にはならない。
衛将軍は一人。漢の文帝元年、初めて宋昌を衛将軍に任じた。この三つの称号(驃騎、車騎、衛)の位は三司に次ぐ。漢の章帝の建初三年、初めて車騎将軍馬防に三司と同等の班位を与えた。三司と同等の班位はこれから始まった。漢末の奮威将軍、晋の江右政権の伏波将軍、輔国将軍は、いずれも「大」を加えて儀同三司となった。江左以来、将軍では中、鎮、撫、四鎮以上のものに「大」を加えることがあり、その他の官では左右光禄大夫以上はみな儀同三司を得ることができ、これ以下では得られない。
持節 都督 は定員がない。前漢は使者を派遣する際、初めて持節を行った。光武帝の建武初年、四方を征伐するにあたり、臨時に督軍御史を設置し、事が終わると廃止した。建安年間、魏の武帝が丞相となり、初めて大将軍を派遣して軍を督させた。二十一年、孫権を征討して帰還した際、夏侯惇が二十六軍を督したのがこれである。魏の文帝の黄初二年、初めて 都督 諸州軍事を設置し、 刺史 を兼ねることもあった。三年、上軍大将軍曹真が 都督 中外諸軍事となり、仮黄鉞を授けられ、内外の諸軍を総統した。明帝の太和四年、晋の宣帝が蜀を征討する際、大 都督 の号を加えられた。高貴郷公の正元二年、晋の文帝が 都督 中外諸軍となり、まもなく大 都督 を加えられた。晋の時代では、 都督 諸軍が上、監諸軍が次、督諸軍が下であった。使持節が上、持節が次、仮節が下である。使持節は二千石以下の者を殺す権限があり、持節は官位のない者を殺す権限があり、軍事に関しては使持節と同じ権限を持つことがあり、仮節は軍事においてのみ軍令に違反した者を殺す権限があった。晋の江左以来、 都督 中外は特に重んじられ、ただ王導のみがこれに就いた。宋の臣下ではいない。江夏王劉義恭は仮黄鉞を授かった。仮黄鉞は、節を持つ将軍を専断で誅殺する権限があり、人臣の常の器ではない。
征東将軍は一人。漢の献帝の初平三年、馬騰がこれに就いた。征南将軍は一人。漢の光武帝の建武年間、岑彭がこれに就いた。征西将軍は一人。漢の光武帝の建武年間、馮異がこれに就いた。征北将軍は一人。魚豢は言う。「四征将軍は魏の武帝が設置し、秩禄は二千石。黄初年間、その位は三公に次ぐ。漢の旧制では諸征将軍は偏将や裨将の雑号将軍と同じであった。」
鎮東将軍は一人。後漢末、魏の武帝がこれに就いた。鎮南将軍は一人。後漢末、劉表がこれに就いた。鎮西将軍は一人。後漢の初平三年、韓遂がこれに就いた。鎮北将軍は一人。
中軍将軍は一人。漢の武帝が公孫敖をこれに任じたが、当時は雑号であった。鎮軍将軍は一人。魏が陳羣をこれに任じた。撫軍将軍は一人。魏が司馬宣王をこれに任じた。中、鎮、撫の三つの称号は四鎮将軍に比する。
安東将軍は一人。後漢末、陶謙がこれに就いた。安南将軍は一人。安西将軍は一人。後漢末、段煨がこれに就いた。安北将軍は一人。魚豢は言う。「鎮北将軍と四安将軍は、魏の黄初、太和年間に設置された。」
平東将軍は一人。平南将軍は一人。平西将軍は一人。平北将軍は一人。四平将軍は魏の時代に設置された。左将軍。右将軍。前将軍。後将軍。左将軍以下は、周の末の官職で、秦、漢ともにこれを踏襲し、光武帝の建武七年に廃止されたが、魏以来再び設置された。
征虜将軍は、後漢の光武帝建武年間に、初めて祭遵がこれを務めた。 冠軍 将軍は、楚の懐王が宋義を卿子冠軍とした。冠軍の名は、ここから始まる。魏の正始年間に、文欽を冠軍将軍・揚州 刺史 とした。輔国将軍は、後漢の献帝が伏完をこれに任じた。宋の太宗泰始四年に、輔師と改称し、後廃帝元徽二年に元に戻した。龍驤将軍は、晋の武帝が初めて王濬をこれに任じた。
東中郎将は、後漢の霊帝が董卓をこれに任じた。南中郎将は、後漢の献帝建安年間に、臨淄侯曹植をこれに任じた。西中郎将。北中郎将は、後漢の建安年間に、𨻳陵侯曹彰をこれに任じた。四中郎将はすべて、何承天によれば、いずれも後漢に設置されたものである。
建威将軍は、後漢の光武帝建武年間に、耿弇を建威大将軍とした。振威将軍は、後漢の初めに宋登がこれを務めた。奮威将軍は、前漢の時代に任千秋がこれを務めた。揚威将軍は、魏が設置した。広威将軍は、魏が設置した。建武将軍は、魏が設置した。振武将軍は、前漢末に王況がこれを務めた。奮武将軍は、後漢末に呂布がこれを務めた。揚武将軍は、光武帝建武年間に馬成をこれに任じた。広武将軍は、晋の江左政権が設置した。
鷹揚将軍は、後漢の建安年間に、魏の武帝曹操が曹洪をこれに任じた。折衝将軍は、後漢の建安年間に、魏の武帝曹操が楽進をこれに任じた。軽車将軍は、前漢の武帝が公孫賀をこれに任じた。揚烈将軍は、建安年間に、公孫淵に仮に与えられた。寧遠将軍は、晋の江左政権が設置した。材官将軍は、前漢の武帝が李息をこれに任じた。伏波将軍は、前漢の武帝が南越を征討した際に初めてこの称号を設置し、路博徳をこれに任じた。
凌江将軍は、魏が設置した。凌江将軍以下には、宣威、明威、驤威、厲威、威厲、威寇、威虜、威戎、威武、武烈、武毅、武奮、綏遠、綏辺、綏戎、討寇、討虜、討難、討夷、蕩寇、蕩虜、蕩難、蕩逆、殄寇、殄虜、殄難、掃夷、掃寇、掃虜、掃難、掃逆、厲武、厲鋒、虎威、虎牙、広野、横野、偏将軍、裨将軍の、合わせて四十の称号がある。このうち威虜将軍は、後漢の光武帝が馮俊をこれに任じた。虎牙将軍は、蓋延をこれに任じ、虎牙大将軍とした。横野将軍は、耿純をこれに任じた。蕩寇将軍は、後漢の建安年間に満寵がこれを務めた。虎威将軍は、于禁がこれを務めた。その他は後漢や魏によって設置されたものであり、現在では設置されたりされなかったりする。左右前後将軍以下からここまでの四十の称号については、四中郎将のみがそれぞれ一人定員であり、その他はすべて定員がない。車騎将軍以下で 刺史 を兼ね、さらに 都督 および儀同三司を加える者は、官属を領兵時と同じように設置するが、 都督 のみで儀同三司でない者は、従事中郎を設置せず、功曹一人を置き、官吏を主管し、主簿の上位に位置する。これは漢末の官制である。後漢の東京(洛陽)では司隷に功曹従事史があり、諸州の治中と同じで、その名に由来する。功曹参軍一人を置き、主佐□□記室の下、戸曹の上に位置する。監以下は諮議、記室を設置しないが、その他は同じである。宋の太宗以来、皇子や皇弟は 都督 でなくても、記室参軍を設置する。小号の将軍が大郡や辺境の守備を担当し佐吏を設置する場合には、さらに長史を置き、その他は同じである。
太常は、一人。舜が帝位を摂ると、伯夷に命じて秩宗とし、三礼を掌らせた。これがその職務である。周の時代は宗伯といい、春官であり、国家の礼儀を掌った。秦では奉常と改称し、漢がこれを踏襲した。景帝の中六年に、太常と改名した。応劭によれば、「国家が盛大で常に存続することを願い、太常と称した」という。前漢では常に列侯で忠孝・敬慎な者がこれを務めたが、後漢では必ずしも列侯である必要はなかった。
博士は、班固によれば秦の官である。史臣が考えるに、戦国時代にはしばしば博士がおり、古今の事柄に通じることを掌った。前漢の武帝建元五年に、初めて五経博士を設置した。宣帝、成帝の時代には、五経の家法が次第に増え、各経ごとに博士一人を置いた。後漢の東京(洛陽)では合わせて十四人となった。易は施、孟、梁丘、京氏の四家、尚書は欧陽、大夏侯、小夏侯の三家、詩は斉、魯、韓の三家、礼は大戴、小戴の二家、春秋は厳、顔の二家、それぞれ博士一人ずつである。そして聡明で威厳と重みのある者一人を祭酒とした。魏および西晋では十九人を置き、東晋の江左政権初期には九人に減らされたが、いずれもどの経を掌るかは不明であった。元帝の末年に、儀礼、春秋公羊の博士をそれぞれ一人増やし、合わせて十一人とした。後にさらに十六人に増やし、もはや五経ごとに分掌せず、太学博士と称した。秩禄は六百石である。
国子祭酒一人、国子博士二人、国子助教十人。周易、尚書、毛詩、礼記、周官、儀礼、春秋左氏伝、公羊、穀梁をそれぞれ一経とし、論語、孝経を合わせて一経とし、合わせて十経とする。助教が分掌する。国子は周代の旧称であり、周には師氏の職があり、これが現在の国子祭酒にあたる。晋の初めに再び国子学を設置し、生徒を教育したが、太学に隷属させた。晋の初めには助教十五人いたが、江左政権以来、その員数を減らした。宋の時代以降、もし学を設置しない場合は、助教はただ一人のみを置き、祭酒と博士は常に置かれた。
太廟令は、一人。丞は一人。ともに前漢に設置された。西京(長安)では長といい、東京(洛陽)では令といった。斉郎二十四人を管轄する。
明堂令は、一人。丞は一人。丞は後漢の東京(洛陽)初期に設置され、令は宋の世祖大明年間に設置された。
太祝令は、一人。丞は一人。祭祀において祝文を読み、神を迎え送ることを掌る。太祝は周代の旧官である。前漢の西京(長安)では太祝令・丞を置き、武帝の太初元年に廟祀と改名した。後漢の東京(洛陽)では太祝と改称した。
太史令は、一人。丞は一人。日月星の運行、時日、吉兆、災異を掌り、年の終わりには新しい暦を上奏する。太史は三代(夏殷周)の旧官であり、周代には国家の六典を立て、年の始めを定め、事柄の順序を定め、諸侯国に暦を頒布した。また馮相氏があり、天文の順序を掌り、保章氏があり、天文を掌った。現在の太史は、周代の太史、馮相、保章の三つの職務を兼ねている。前漢の西京(長安)では太史令といった。後漢の東京(洛陽)では丞が二人おり、その一人は霊台にいた。
太楽令は、一人。丞は一人。あらゆる音楽に関する事柄を掌る。周の時代は大司楽といった。前漢の西京(長安)では太楽令といった。後漢の東京(洛陽)では大予楽令といった。魏では再び太楽令とした。
陵令は、各陵ごとに一人。漢代の旧官である。
乗黄令は、一人。皇帝の乗る車輿や安車、および諸々の馬を掌る。魏の時代に設置された。博士から乗黄令まで、すべて太常に属する。
光祿勳は一人。丞は一人。光は明の意、祿は爵の意、勳は功の意である。秦では郎中令と称し、漢がこれを踏襲した。漢の武帝の太初元年に、光祿勳と改称した。三署の郎を管掌し、郎は戟を執って宮殿の門戸を警衛した。光祿勳は禁中に居住し、御史のようであり、獄が殿門外にあった。これを光祿外部といった。光祿勳は郊祀において三献を掌った。魏・晋以来、光祿勳はもはや禁中に居住せず、また三署の郎もなくなった。ただ外宮の朝会の際には、名簿を提出するのみとなった。二台(尚書台・御史台)が弾劾を奏上すると、光祿勳に符を下して禁止を加え、禁止を解くのも同様であった。禁止とは、身をもって殿省に入ることを得ないことであり、光祿勳が殿門を主管するためである。宮殿の門戸は、現在に至るまでなお所属している。晋の哀帝の興寧二年に、光祿勳を廃止し、 司徒 に併合した。孝武帝の寧康元年に、再び設置した。漢の東京では三署の郎に四科に応じる行いのある者があり、毎年茂才二人、四行二人を推挙した。三署の郎が廃止されてからも、光祿勳は依然として旧例により四行を推挙し、衣冠の子弟をこれに充てた。三署とは、五官署・左署・右署であり、それぞれ中郎将を置いてこれを司った。郡が孝廉を推挙して三署の郎を補い、五十歳以上は五官に属し、その次は左右の署に分かれた。中郎・議郎・侍郎・郎中の四等があり、定員はなく、多くて一万人に及んだ。
左光祿大夫、右光祿大夫。この二大夫は、晋の初めに設置された。光祿大夫は、秦の時は中大夫であり、漢の武帝の太初元年に光祿大夫と改称した。晋の初めにまた左右光祿大夫を置き、光祿大夫は従前の通りであった。光祿大夫は銀印青綬であり、その重んじられる者は金印紫綬を加えられ、これを金紫光祿大夫といった。旧来の秩禄は二千石に比した。
中散大夫は、王莽が設置し、後漢がこれを踏襲した。前漢の大夫は皆定員がなく、論議を掌った。後漢では光祿大夫三人、中大夫二十人、中散大夫三十人いた。魏以来はまた定員がなくなった。左光祿大夫以下は、老人や病者の扶養に当たり、職事はなかった。中散大夫は六百石。
衞 尉は一人。丞は二人。宮門の屯兵を掌る。秦の官である。漢の景帝の初めに、中大夫令と改めた。後元年に、再び 衞 尉とした。晋の江右では冶鑄を掌り、冶令三十九を管轄し、戸数五千三百五十、冶は全て江北にあった。江南にはただ梅根と冶塘の二冶のみがあり、いずれも揚州に属し、 衞 尉には属さなかった。 衞 尉は江左では設置されず、宋の世祖の孝建元年に再び設置した。旧来は丞一人であったが、世祖が一丞を増設した。
廷尉は一人。丞は一人。刑辟を掌る。凡そ獄事は必ず朝廷に質し、衆と共にするの義である。兵と獄は同じ制度であり、故に廷尉という。舜が帝位を摂ると、咎繇が士となり、これがその任である。周の時は大司寇が秋官となり、邦の刑を掌った。秦では廷尉とした。漢の景帝の中六年に、大理と改称した。武帝の建元四年に、再び廷尉とした。哀帝の元寿二年に、再び大理とした。漢の東京の初めに、再び廷尉とした。
廷尉正は一人。廷尉監は一人。正・監はともに秦の官である。本来は左右監があり、漢の光武帝が右監を廃止し、なお左監といった。魏・晋以来は、単に監という。廷尉評は一人。漢の宣帝の地節三年に、初めて左右評を置いた。漢の光武帝が右評を廃止し、なお左評といった。魏・晋以来は、単に評という。正・監・評はともに下官として廷尉卿を礼敬する。正・監の秩禄は千石、評は六百石。廷尉律博士は一人。魏の武帝が初めて魏国を建てた時に設置した。
大司農は一人。丞は一人。九穀六畜の供膳羞(供御の食物)を掌る。舜が帝位を摂ると、棄を命じて后稷とし、これがその任である。周では太府とし、秦では治粟内史とし、漢の景帝の後元年に大農令と改称し、武帝の太初元年に大司農と改称した。晋の哀帝の末に、廃止して都水に併合し、孝武帝の世に再び設置した。漢代は丞二人、魏以来は一人。
太倉令は一人。丞は一人。秦の官である。晋の江左以来、また東倉・ 石頭 倉の丞が各一人あった。
䆃官令は一人。丞は一人。御米を舂くことを掌る。漢の東京に設置した。䆃は選ぶ意である。米を選び精白にすることを命じる。司馬相如の封禅書に、「䆃(選び取った)一莖六穗(一本の茎に六つの穂)を庖厨に供す」とある。
籍田令は一人。丞は一人。宗廟 社稷 の田を耕すことを掌る。周では甸師に当たる。漢の文帝が初めて籍田を立て、令・丞を各一人置いた。漢の東京および魏ではいずれも設置せず、晋の武帝の泰始十年に再び設置した。江左では廃止した。宋の太祖の元嘉年間にまた設置した。太倉から籍田令まで、いずれも司農に属する。
少府は一人。丞は一人。中服御(宮中の服用や御物)の物を掌る。秦の官であり、漢がこれを踏襲した。禁銭(皇室の収入)を掌り私養(宮中の費用)に供したので、少府といった。晋の哀帝の末に、廃止して丹陽尹に併合した。孝武帝の世に再び設置した。
左尚方令・丞各一人。右尚方令・丞各一人。ともに軍器の製造を掌る。秦の官であり、漢がこれを踏襲した。周では玉府に当たる。晋の江右には中尚方・左尚方・右尚方があり、江左以来はただ一つの尚方のみとなった。宋の高祖が践祚すると、相府の作部を台(中央政府)に配属し、これを左尚方と称し、本来の官署を右尚方と称した。また相府の細作を台に配属し、その名のままに令一人、丞二人を置き、門下に隷属させた。世祖の大明年間に、御府と改称し、令一人、丞一人を置いた。御府は、二漢の世に官婢に褻衣服(普段着)を作らせ補浣(繕いと洗濯)することを掌り、魏・晋もなおその職を置いたが、江左になって廃止した。後廃帝の初めに、御府を廃止し、中署を置いて右尚方に隷属させた。漢の東京では太僕の属官に考工令があり、兵器の弓弩・刀鎧の類を主管し、完成すると執金吾に伝えて武庫に入れ、また綬などの各種の工事を主管した。尚方令はただ御刀・綬・剣などの玩好器物を作るのみであった。すると考工令は現在の尚方に、尚方令は現在の中署に当たる。
東冶令は一人。丞は一人。南冶令は一人。丞は一人。漢には鉄官があり、晋は令を置き、工徒を率いて鼓鑄(金属を溶かして鋳造する)ことを掌り、 衞 尉に隷属した。江左以来、 衞 尉を廃止し、少府に転属させた。宋の世は 衞 尉を設置したが、冶は従前の通り少府に隷属した。江南の諸郡県に鉄がある所には冶令を置くか、あるいは丞を置き、多くは呉が設置したものである。
平准令は一人。丞は一人。染めを掌る。秦の官であり、漢がこれを踏襲した。漢では司農に隷属したが、いつからか少府に隷属した。宋の順帝が即位すると、帝の 諱 を避けて、染署と改称した。
将作大匠は一人。丞は一人。土木の役を掌る。秦の世に将作少府を置き、漢がこれを踏襲した。景帝の中六年に、将作大匠と改称した。光武帝の建武中元二年に廃止し、謁者がこれを兼ねた。章帝の建初元年に再び設置した。晋氏以来、事がある時は置き、なければ廃止した。
大鴻臚は、諸王の拝礼授与の補導を担当する。秦代には典客といい、漢の景帝の中六年に大行令と改称し、武帝の太初元年に大鴻臚と改称した。鴻は大の意、臚は陳べる意である。晋の江左期には当初廃止され、必要があれば臨時に設置し、用事が終われば廃止した。
太僕は、車馬を担当する。周の穆王が設置し、秦がこれを踏襲した。周官では校人が馬を、巾車が車を担当したが、太僕を設置してその任を兼ねさせた。晋の江左期には置いたり廃止したりし、宋以来は設置されていない。郊祀の際には臨時に太僕を置いて手綱を執らせ、儀式が終われば廃止した。
太后三卿は、それぞれ一人。応劭の『漢官』によると、「 衞 尉と少府は秦の官、太僕は漢の成帝が設置し、いずれも太后の宮の名に従って号し、正卿の上に位し、太后がいなければ欠員とする」という。魏は漢の制度を改め、九卿の下に置いた。晋は旧制に復し、同号の卿の上に置いた。
大長秋は、皇后の卿である。皇后がいれば設置し、いなければ廃止する。秦の時は将行といい、漢の景帝の中六年に大長秋と改称した。韋曜はいう、「長秋とは、皇后が陰の官であり、秋は陰の始まりであるから、その終わりを取って長とし、その久しいことを願うのである」と。太常から長秋までは、すべて功曹・主簿・五官を置いた。漢の東京時代、諸郡に五官掾があったが、その名に因むものである。漢の制度では、卿尹の秩は皆中二千石、丞は一千石であった。
尚書は古い官である。舜が帝位を摂ると、龍に命じて納言とし、これがその任にあたる。周官の司会について、鄭玄は、今の尚書のようなものだという。秦代、少府が吏四人を遣わして殿中で文書の発送を主管したので、これを尚書といった。尚は主の意である。漢初には尚冠・尚衣・尚食・尚浴・尚席・尚書があり、これを六尚といった。戦国時代にはすでに尚冠・尚衣の類があった。秦の時には 尚書令 ・ 尚書 僕射 ・尚書丞があった。漢初にはいずれも少府に隷属し、漢の東京時代も名目上はこれに属していた。古くは武官を重んじ、善射の者が事を掌ったので、 僕射 といった。 僕射 とは、射事に僕役するという意味である。秦代には左右曹諸吏があり、官に職事はなく、将軍大夫以下皆この官を加えることができた。漢の武帝の世、左右曹諸吏に命じて尚書の上奏文書を分けて審議させた。昭帝が即位すると、 霍光 が尚書事を領した。成帝の初め、王鳳が尚書事を録した。漢の東京では、帝が即位するたびに太傅を置き、尚書事を録させ、 薨去 すれば廃止した。晋の康帝の世、何充が録を辞讓する上表で、「咸康年中に三録を分置し、王導がその一つを録し、荀崧と陸曄がそれぞれ六条の事を録した」という。すると二十四条あったようだが、もし十二条しかなければ、荀・陸がそれぞれ六条を録するなら、導はまた何を司ったのか。もし導が総録し、荀・陸が分掌したのなら、また導がその一つを録したとは言えない。その後、二録を置くたびに、それぞれ六条の事を掌ると言い、これまた十二条しかないことになる。十二条とは、いったい何条なのかわからない。晋の江右期には四録があり、四人が参録した。江右の張華、江左の庾亮はともに尚書七条に関与したが、これもみな何事だったかわからない。後に何充が録を解かれると、また尚書に関与した。録尚書は職務を総べないものはなく、王肅が尚書の「大麓に納る」に注して、「堯が舜を尊顕の官に納れ、万機の政を大いに録させたのである」という。重号の将軍・ 刺史 はすべて曹に命じて任用を授けることができるが、ただ除授と節を加えることはできない。宋の世祖孝建年中、威権が外に仮されるのを好まず、録を廃止した。大明末年に復置した。その後は置いたり廃止したりした。漢の献帝建安四年、執金吾の栄郃を尚書左 僕射 とし、 衞 臻を右 僕射 とした。二 僕射 が分置されたのはこれが始まりである。漢の成帝建始四年、初めて尚書を置き、定員四人、丞も増員して四人とした。曹尚書の一つは常侍曹で、公卿の事を主管した。二つ目は二千石曹で、郡国の二千石の事を主管した。三つ目は民曹で、吏民の上書の事を主管した。四つ目は客曹で、外国夷狄の事を主管した。光武帝は二千石曹を二つに分け、また客曹を南主客曹と北主客曹に分け、常侍曹を吏曹と改め、合わせて六尚書とした。丞を二つ減らし、ただ左右二丞のみを置いた。応劭の『漢官』によると、「 尚書令 と左丞は綱紀を総領し、統べないものはない。 僕射 と右丞は、稟給・借貸・銭穀を掌る。三公尚書二人は、天下の歳末の集計・考課を掌る。吏曹は選挙・斎祠を掌る。二千石曹は水・火・盗賊・詞訟・罪法を掌る。客曹は 羌 ・胡の朝会、法駕の出御に際し護駕を掌る。民曹は繕治・功作・塩池・苑囿を掌る。吏曹は要職であり、多くは超遷した」という。すると漢末の曹名と職掌はまた光武帝の時と異なる。魏の世には吏部・左民・客曹・五兵・度支の五曹尚書があった。晋初には吏部・三公・客曹・駕部・屯田・度支の六曹尚書があった。武帝の咸寧二年、駕部尚書を廃止し、四年にまた置いた。太康年中には、吏部・殿中・五兵・田曹・度支・左民の六尚書があった。恵帝の世には、また右民尚書があった。尚書は六曹に限られるが、この時どの曹を廃止したかはわからない。江左期には祠部・吏部・左民・度支・五兵があり、合わせて五曹尚書となった。宋の高祖の初め、また都官尚書を増設した。もし右 僕射 がいれば、祠部尚書は置かない。世祖の大明二年、吏部尚書を二人置き、五兵尚書を廃止したが、後にまた吏部尚書一人に戻した。順帝の昇明元年、また五兵尚書を置いた。
尚書令 は機衡を総任し、 僕射 と尚書は諸曹を分領する。左 僕射 は殿中・主客の二曹を領する。吏部尚書は吏部・刪定・三公・比部の四曹を領する。祠部尚書は祠部・儀曹の二曹を領する。度支尚書は度支・金部・倉部・起部の四曹を領する。左民尚書は左民・駕部の二曹を領する。都官尚書は都官・水部・庫部・功論の四曹を領する。五兵尚書は中兵・外兵の二曹を領する。かつて騎兵・別兵・都兵があったので、五兵というのである。五尚書・二 僕射 ・一令を、八坐という。もし宗廟宮室を営造するときは起部尚書を置き、事が終われば廃止する。
漢の成帝が四尚書を置いたときには、郎を置くという記述はない。漢の儀礼によれば、尚書郎は四人で、一人は匈奴単于の営部を主管し、一人は 羌 夷の吏民を主管し、一人は戸口と墾田を主管し、一人は財帛の委輸を主管した。匈奴単于は、宣帝の時代に塞内に保ち内附したが、成帝の時代には単于は北庭に戻った。一郎が匈奴単于の営部を主管したということは、郎を置いたのは光武帝の時ではないかと疑われ、主管した匈奴は南単于であろう。漢の官制によれば、郎を三十六人置いたとあるが、どの皇帝が員数を増やしたのかはわからない。そうすると、一尚書が六郎を率いることになる。文書を作成し、事案の草案を起案することを主管する。初めは郎中となり、満一年で侍郎となる。尚書寺は建礼門内にある。尚書郎が入直すると、官が青縑の白綾の被を供給し、あるいは綿緤で作ったものを与える。帷帳、氈褥、通中枕を給し、太官が食物を供給し、湯官が餅餌および五熟の果実の類を供給する。尚書伯使一人、女侍二人を給し、いずれも端正で妖麗な者を選び、香炉を執り、衣服を護り、明光殿で奏事する。殿は胡粉で壁を塗り、古の賢人烈士を画いている。丹朱色の地とし、これを丹墀という。尚書郎は口に鶏舌香を含み、その奏事答対において、気息を芳しくさせようとするのである。奏事するときは黄門侍郎と対揖する。黄門侍郎が「已聞(すでに聞いた)」と称して、はじめて退出する。天子が服用する五時衣を 尚書令 ・僕に賜い、丞・郎には月ごとに赤管の大筆一双、隃麋墨一丸を賜う。魏の時代には殿中、吏部、駕部、金部、虞曹、比部、南主客、祠部、度支、庫部、農部、水部、儀曹、三公、倉部、民曹、二千石、中兵、外兵、別兵、都兵、考功、定科の、合わせて二十三郎があった。青龍二年に軍事があり、 尚書令 陳矯が都官、騎兵の二曹郎を置くよう奏上し、合わせて二十五曹となった。晋の西朝では直事、殿中、祠部、儀曹、吏部、三公、比部、金部、倉部、度支、都官、二千石、左民、右民、虞曹、屯田、起部、水部、左主客、右主客、駕部、車部、庫部、左中兵、右中兵、左外兵、右外兵、別兵、都兵、騎兵、左士、右士、北主客、南主客の三十四曹郎があり、後にまた運曹を置き、合わせて三十五曹となった。晋の江左初期には、直事、右民、屯田、車部、別兵、都兵、騎兵、左士、右士、運曹の十曹郎がなく、主客、中外兵はそれぞれ一郎を置くだけで、残りは十七曹であった。康帝、穆帝以来、また虞曹、二千石の二郎がなくなり、なお殿中、祠部、吏部、儀曹、三公、比部、金部、倉部、度支、都官、左民、起部、水部、主客、駕部、庫部、中兵、外兵の十八曹郎があった。後にまた主客、起部、水部を省き、残り十五曹となった。宋の高祖の初め、騎兵、主客、起部、水部の四曹郎を加えて置き、合わせて十九曹となった。太祖の元嘉十年、また儀曹、主客、比部、騎部の四曹郎を省いた。十一年、また併せて置いた。十八年、刪定曹郎を増やし、位は左民曹の上にあり、おそらく魏の時代の定科郎であろう。三十年、また功論郎を置き、位は都官の下、刪定の上にある。太宗の世、騎兵を省いた。現在は合わせて二十曹郎である。三公、比部は法制を主管する。度支は計算を主管する。支は派、度は景である。都官は軍事と刑獄を主管する。その他の曹の管掌するところは、それぞれその名の通りである。
漢の制度では、公卿御史中丞以下は、 尚書令 、僕、丞、郎に遇うと、皆車を避けて予め互いに回避し、臺官が過ぎ去ってから、ようやく去ることができた。今、尚書官が上朝および下朝する際に行人を禁断するのは、その制度によるものである。漢ではまた、丞、郎が尚書に会うとき、「明時」と呼びかけ、郎が二丞に会うとき、「左君」「右君」と呼びかける制度があった。
郎以下には都令史、令史、書令史、書吏幹がある。漢の東京では 尚書令 史十八人、晋の初めには正令史百二十人、書令史百三十人いた。晋から現在まで、減ったり増えたりして、定説を述べるのは難しい。漢の儀礼には丞相令史があった。令史はおそらく前漢の官であろう。晋の西朝に尚書都令史朱誕がいたことから、都令史はその来歴が久しい。分曹して管掌するのは尚書と同じである。
晋の西朝では、八坐の丞郎が朝晡に都坐に詣でて朝したが、江左ではただ旦朝だけである。八坐の丞郎が初めて拝命されると、皆都坐に集まり、交礼を行う。転任すると、また解交する。これは漢の旧制である。今ではただ八坐が解交し、丞郎はもはや解交しない。 尚書令 は千石、 僕射 尚書は六百石、丞郎は四百石である。
武庫令、一人。軍器を掌る。秦の官である。二漢に至り、執金吾に属した。晋の初めに執金吾を廃し、現在まで尚書庫部に隷属する。
車府令、一人。丞一人。秦の官である。二漢、魏、晋は皆太僕に隷属した。太僕が既に省かれたので、尚書駕部に隷属する。
上林令、一人。丞一人。漢の西京の上林中には八丞、十二尉、十池監があった。丞、尉は水衡都尉に属した。池監は少府に隷属した。漢の東京では上林苑令および丞各一人といい、少府に隷属した。晋の江左では欠けていた。宋の世祖の大明三年に復置し、尚書殿中曹および少府に隷属する。
材官将軍、一人。司馬一人。工匠土木の事を主管する。漢の左右校令がその任である。魏では右校がまた材官 校尉 を置き、天下の材木の事を主管した。晋の江左では材官 校尉 を材官将軍と改称し、また左校令を廃した。現在、材官は尚書起部および領軍に隷属する。
侍中、四人。奏事を掌り、左右に直侍し、応対し献替する。法駕が出るときは、正直一人が璽を負って陪乗する。殿内門下の諸事を皆掌る。周公が成王を戒めた立政の篇にいう「常伯」が、その任である。侍中は本来秦の丞相史であり、五人をして殿内の東廂に往来して奏事させたので、侍中と称したのである。漢の西京には定員がなく、数十人に至ることもあり、禁中に入り侍し、乗輿の服物を分掌し、下って褻器や虎子の類に至るまでを管掌した。武帝の世、孔安国が侍中となったが、彼が儒者であるため、特に御唾壺を掌ることを許され、朝廷はこれを栄誉とした。長く在任した者は 僕射 となった。漢の東京ではまた少府に属し、なお定員がなかった。左右に侍し、諸事を賛導し、顧問に応答することを掌る。法駕が出るときは、多く識見のある者一人が伝国璽を負い、斬白蛇の剣を操り、参乗する。その他は皆騎乗し、乗輿の車の後ろに従う。光武帝の世、 僕射 を祭酒と改称した。漢の時代、中官とともに禁中に止宿した。武帝の時、侍中の莽何羅が刃を挟んで謀逆を企てたため、これにより侍中は禁外に出て、用事があるときに入り、事が終わればすぐに出た。王莽が政権を執ると、侍中はまた入り、中官とともに止宿した。章帝の元和年間、侍中の郭挙が後宮と通じ、佩刀を抜いて御前を驚かせ、挙は誅殺され、侍中はこれによりまた外に出た。魏、晋以来、四人を置き、別に加官する者は数に入れない。秩は比二千石である。