巻38

宋書

志第二十八 州郡四

益州 刺史 しし は、漢の武帝が梁州を分割して設置したもので、治所は別に梁州に見える。二十九の郡を管轄し、一百二十八の県を領する。戸数五万三千百四十一、人口二十四万八千二百九十三。京都まで水路で九千九百七十里。

蜀郡 太守 は、秦が設置した。晋の武帝の太康年間に、成都国と改称されたが、後に旧称に戻った。五つの県を領する。戸数一万一千九百二、人口六万八百七十六。

広漢太守は、漢の高祖六年に設置された。晋の太康地志では梁州に属する。六つの県を領する。戸数四千五百八十六、人口二万七千百四十九。州治まで陸路六百。京都まで水路九千九百。

巴西太守は、譙周の巴記によれば、建安六年に劉璋が巴郡の墊江より上流を分割して巴西郡とした。徐志は、本来は南陽郡 冠軍 県の流民で、蜀漢に寓居した者を基に、晋の武帝が設置したとしているが、それは誤りである。本来は梁州に属し、文帝の元嘉十六年に益州に転属した。何志には梁・益二州にこの郡は見えない。九つの県を領する。戸数四千九百五十四、人口三万三千三百四十六。

梓潼太守は、晋の太康地志によれば劉氏が広漢郡を分割して設置した。本来は梁州に属し、文帝の元嘉十六年に益州に転属した。永初郡国志にはさらに漢徳・新興の二県があり、徐志も同じ。徐志は、新興は義熙九年に設置、漢徳は旧県としている。二漢の志にはいずれも漢徳県はなく、晋の太康地志と王隠の志にはあるので、劉氏が設置したものと疑われる。何志の益・梁二州にはこの郡は見えない。四つの県を領する。戸数三千三十四、人口二万千九百七十六。

巴郡太守は、秦が設置した。四つの県を領する。戸数三千七百三十四、人口一万三千百八十三。州治まで内水で千八百、陸路五百、外水で二千二百。京都まで水路六千。

遂寧太守は、永初郡国志にはあるが、何志にはなく、徐志は旧来から設置されていたとしている。四つの県を領する。戸数三千三百二十。

江陽太守は、劉璋が犍為郡を分割して設置した。本来の地を失い、武陽に仮の治所を置いている。四つの県を領する。戸数千五百二十五、人口八千二十七。

懐寧太守は、秦・雍州の流民を基に、晋の安帝が設置した。本来は南秦州に属し、文帝の元嘉十六年に益州に転属した。三つの県を領する。戸数千三百十五、人口五千九百五十。成都に仮の治所を置く。

寧蜀太守は、永初郡国志にはあるが何志にはなく、徐志は旧来から設置されていたとしている。永初郡国志及び徐志にはともに西墊江県があるが、現在はない。四つの県を領する。戸数千六百四十三。

越嶲太守は、漢の武帝の元鼎六年に設置され、もとは邛都国であった。何志にはない。八つの県を領する。戸数千三百四十九。

汶山太守は、晋の太康地志によれば漢の武帝が設置し、孝宣帝の地節三年に蜀郡に合併されたが、劉氏が再び設置した。二つの県を領する。戸数千百七、人口六千百五。州治まで陸路一百。京都まで水路一万。

南陰平太守(陰平郡は別に見える。)永嘉の乱による流寓の民が来属し、萇陽に仮の治所を置く。二つの県を領する。戸数千二百四十、人口七千五百九十七。

犍為太守は、漢の武帝の建元六年に、夜郎国を開いて設置された。五県を管轄する。戸数は千三百九十、人口は四千五十七。州治まで陸路九十。京都まで水路一萬。

始康太守は、関隴の流民のために、晋の安帝が設置した。四県を管轄する。戸数は千六十三、人口は四千二百二十六。成都に仮の治所を置く。

晋熙太守は、秦州の流民のために、晋の安帝が設置した。二県を管轄する。戸数は七百八十五、人口は三千九百二十五。

晋原太守は、 李雄 りゆう が蜀郡を分割して漢原としたものを、晋の穆帝が改名した。五県を管轄する。戸数は千二百七十二、人口は四千九百六十。州治まで陸路百二十。京都まで水路一萬。江原男相は、漢代の旧県で、蜀郡に属した。

宋寧太守は、文帝の元嘉十年に、呉の営を免じて僑立した。三県を管轄する。戸数は千三十六、人口は八千三百四十二。成都に仮の治所を置く。

安固太守は、張氏が涼州に設置した。晋の哀帝の時、民が蜀に流入し、この郡を僑立した。本来は南秦に属したが、文帝の元嘉十六年に益州に編入された。六県を管轄する。戸数は千百二十、人口は六千五百五十七。州治まで百三十。京都まで水路一萬。

南漢中太守は、晋地記によれば、孝武帝の太元十五年に、梁州 刺史 しし の周瓊が上表して設置した。徐志によれば、北漢中の民が流寓したため、孝武帝の大明三年に設置した。起居注によれば、本来は梁州に属し、元嘉十六年に編入された。永初郡国では梁州に属し、管轄県はこれと同じ。永初郡国と起居注で検討すると、太元年間に設置されたものであり、何志にこの郡がないのは、永初以後に廃止され、大明三年に再設置されたためであろう。五県を管轄する。戸数は千八十四、人口は五千二百四十六。

北陰平太守は、徐志によれば本来は秦州に属し、文帝の元嘉二十六年に編入された。永初郡国、何志では、秦州、梁州、益州のいずれにも記載がない。四県を管轄する。戸数は千五十三、人口は六千七百六十四。

武都太守は、〈別に見える。〉永初郡国、何志では益州にこの郡はない。徐志によれば本来は秦州に属し、流寓によって設置された。五県を管轄する。戸数は九百八十二、人口は四千四百一。

新城太守は、何志によれば新たに広漢を分割して設置した。二県を管轄する。戸数は七百五十三、人口は五千九百七十一。州治までの距離は〈欠落〉。京都まで九千五百三十。

南新巴太守は、〈新巴郡は別に見える。〉起居注によれば新巴の民が流寓したため、文帝の元嘉十二年に、剣南に設置した。何志では新設とし、新巴の民は先に梁州に属していたが、設置後に割り当てられた。六県を管轄する。戸数は千七十、人口は二千六百八十三。

南晋壽太守は、梁州に元々晋壽があったが、文帝の元嘉十二年に、剣南で僑流のために設置した。五県を管轄する。戸数は千五十七、人口は千九百四十三。州治まで百二十。京都まで水路一萬。

宋興太守は、文帝の元嘉十年に、建平営を免じて設置した。南陵、建昌の二県を管轄する。何志には南陵がなく、南漢、建忠がある。徐志には建忠がなく、永川がある。何志では建忠は新設としている。三県を管轄する。戸数は四百九十六、人口は千九百四十三。成都に仮の治所を置く。

南宕渠太守は、徐志によれば本来は南中の民で、蜀が設置した。起居注によれば、本来は梁州に属し、元嘉十六年に編入された。永初郡国では梁州に宕渠郡があり、三県を管轄し、これと同じだが「南」の字がない。何志も同じ。もしこの郡が元嘉十六年に益州に編入されたなら、何志は益州の部に記載されるべきであり、詳細は不明である。三県を管轄する。戸数は五百四、人口は三千百二十七。

天水太守は、〈別に見える。〉永初郡国、何志では益州にこの郡はない。徐志は現在と同じ。三県を管轄する。戸数は四百六十一。

東江陽太守。何志によれば、晋の安帝の初めに、流寓して蜀に入り、現在は旧地を回復して郡とした。管轄する県は二つ。戸数は百四十二、人口は七百四十。州治までの距離は一千五百八十。京都までの水行距離は八千九十。

沈黎太守。蜀記に云う、「漢の武帝の元鼎十一年、蜀の西部の邛莋を分けて沈黎郡とし、十四年に廃止した」。案ずるに、元鼎は六年までであり、十一年と云うのは誤りである。また、両漢・晋代にもこの郡はなく、永初郡国志にはあるが、何志にはなく、徐志には旧郡とある。管轄する県は四つ。戸数は六十五。

寧州 刺史 しし 。晋の武帝の泰始七年に、益州の南中の建寧・興古・雲南・永昌の四郡を分けて設置した。太康三年に廃止し、南夷 校尉 こうい を置いた。恵帝の太安二年に再設置し、䍧牱・越嶲・朱提の三郡を増やした。成帝の咸康四年に、䍧牱・夜郎・朱提・越嶲の四郡を分けて安州とし、まもなく廃止して寧州に併合した。越嶲は後に益州に戻した。現在管轄する郡は十五、県は八十一。戸数は一万二百五十三。京都までの距離は一万三千三百。

建寧太守。漢代の益州郡滇王国で、劉氏(成漢)が改名した。管轄する県は十三。戸数は二千五百六十二。

しん 寧太守。晋の恵帝の太安二年に、建寧の西の七県を分けて益州郡とし、晋の懐帝が改名した。管轄する県は七。戸数は六百三十七。州治までの距離は七百三十。京都までの水行距離は一万三千七百。

䍧牱太守。漢の武帝の元鼎六年に設置した。管轄する県は六。戸数は一千九百七十。州治までの距離は一千五百。京都までの水行距離は一万二千。

平蠻太守。晋の懐帝の永嘉五年に、寧州 刺史 しし の王遜が䍧牱・朱提・建寧を分けて平夷郡を設置し、後に桓温の 諱 を避けて改称した。管轄する県は二。戸数は二百四十五。京都までの水行距離は一万三千。

夜郎太守。晋の懐帝の永嘉五年に、寧州 刺史 しし の王遜が䍧牱・朱提・建寧を分けて設置した。管轄する県は四。戸数は二百八十八。州治までの距離は一千。京都までの水行距離は一万四千。

朱提太守。劉氏(成漢)が犍為を分けて設置した。管轄する県は五。戸数は一千一十。州治までの距離は七百二十。京都までの水行距離は一万四千六百。

南廣太守。晋の懐帝が朱提を分けて設置した。管轄する県は四。戸数は四百四十。州治までの水行距離は二千三百。京都までの水行距離は一万四百。

建都太守。晋の成帝が建寧を分けて設置した。管轄する県は六。戸数は百七。州治までの距離は二千。京都までの水行距離は一万五十。

西平太守。晋の懐帝の永嘉五年に、寧州 刺史 しし の王遜が興古の東を分けて設置した。何志には晋の成帝の設置とあるが、誤りである。永初郡国志・何志ともに西寧県があるが、何志は晋の成帝の設置と云い、現在はない。管轄する県は五。戸数は百七十六。州治までの距離は二千三百。京都までの水行距離は一万五千三百。

西河陽太守。晋の成帝が河陽を分けて設置した。管轄する県は三。戸数は三百六十九。州治までの距離は二千五百。京都までの水行距離は一万五千五百。

東河陽太守。晋の懐帝の永嘉五年に、寧州 刺史 しし の王遜が永昌・雲南を分けて設置した。永初郡国志にはさらに西阿があり、楪榆・遂段・新豊の三県を管轄したとあるが、何志・徐志にはない。(遂段・新豊の二県は、両漢・晋代ともにない。)管轄する県は二。戸数は百五十二。州治までの距離は二千。京都までの水行距離は一万五千。

雲南太守。晋の太康地志によれば、もと永昌に属した。何志によれば劉氏(成漢)が建寧・永昌を分けて設置した。管轄する県は五。(疑わしい)戸数は三百八十一。州治までの距離は一千五百。京都までの水行距離は一万四千五百。

興寧太守は、晋の成帝が雲南を分割して設置した。管轄する県は二つ。戸数七百五十三。州治までの距離は一千五百。京都までの水行距離は一萬四千五百。

興古太守は、漢代の旧郡であり、晋の太康地志ではかつての䍧牱郡である。何志によれば劉氏が建寧・䍧牱を分割して設置したというが、それならば後漢末に廃止されていたことになる。管轄する県は六つ。戸数三百八十六。州治までの距離は二千三百。京都までの水行距離は一萬六千。

梁水太守は、晋の成帝が興古を分割して設置した。管轄する県は七つ。戸数四百三十一。州治までの水行距離は三千。京都までの水行距離は一萬六千。

広州 刺史 しし は、呉の孫休の永安七年に、交州を分割して設置された。管轄する郡は十七、県は一百三十六。戸数四萬九千七百二十六、人口二十萬六千六百九十四。京都までの水行距離は五千二百。

南海太守は、秦が設置した。秦が滅びると、尉他がこの地を王とし、漢の武帝の元鼎六年に至り、開かれて交州に属した。管轄する県は十。戸数八千五百七十四、人口四萬九千一百五十七。

蒼梧太守は、漢の武帝の元鼎六年に設置された。永初郡国志にはさらに高要・建陵・寧新・都羅・端溪・撫寧の六県があった。建陵・寧新は呉が設置。都羅は晋の武帝が建陵を分割して設置。晋の武帝の太康元年に、新寧を改めて寧新とした。端溪(別に見える)、撫寧は永初郡国志に初めて見える。高要は何志にはなく、その他は永初郡国志と同じ。徐志には建陵・寧新・撫寧の三県がない。何志・徐志の二つにはともに懐熙という一県がある。思安・封興・蕩康・僑寧の四県は、おそらく宋末にここに移されたものであろう。現在管轄する県は十一。戸数六千五百九十三、人口一萬一千七百五十三。州治までの水行距離は八百。京都までの水行距離は五千五百九十。

晋康太守は、晋の穆帝の永和七年に蒼梧を分割して設置され、元渓に治所を置いた。永初郡国志では龍郷に治所を置く。何志にはもはや龍郷県がなく、おそらく晋末に設置され、元嘉二十年以前に龍郷が端渓に併合されたのであろう。永初郡国志にはさらに封興・蕩康・思安・遼安・開平県があった。何志には遼安・開平の二県がなく、その他は永初郡国志と同じ。封興・蕩康・思安(別に見える)、遼安・開平は、おそらく晋末に設置され、元嘉二十年以前に廃止されたものであろう。現在管轄する県は十四。戸数四千五百四十七、人口一萬七千七百一十。州治までの水行距離は五百。京都までの水行距離は五千八百。

新寧太守は、晋の穆帝の永和七年に、蒼梧を分割して設置された。永初郡国志には平興・永城県があったが、何志・徐志には永城があり、平興はない。この二県はおそらく晋末に設置された。平興はおそらく元嘉二十年以前に廃止され、永城はおそらく大明八年以後に廃止された。何志にはさらに熙寧県があり、新たに設置されたとあり、おそらく文帝によって設置された。徐志にはなく、おそらく元嘉二十年以後に廃止されたのであろう。現在管轄する県は十四。戸数二千六百五十三、人口一萬五百一十四。州治までの水行距離は六百二十。京都までの水行距離は五千六百。

永平太守は、晋の穆帝の升平五年に、蒼梧を分割して設置された。永初郡国志には雷郷・盧平・員郷・逋寧・開城の五県があり、おそらく郡とともに設置された。何志・徐志には雷郷・員郷がなく、さらに熙平があり、新たに設置されたとあり、おそらく文帝によって設置されたのであろう。雷郷・員郷はおそらく元嘉二十年以前に廃止された。盧平・逋寧・開城はおそらく大明八年以後に廃止された。現在管轄する県は七つ(疑わしい)。戸数一千六百九、人口一萬七千二百二。州治までの水行距離は一千二百。京都までの水行距離は五千四百。

鬱林太守は、秦の桂林郡であり、尉他に属し、武帝の元鼎六年に回復し、改名した。永初郡国志には安遠・程安・威定(三県は別に見える)、中冑・帰化の五県があった。中冑はおそらく桂林の中溜であろう。帰化は、二漢・晋の太康地志にはなく、おそらく江左で設置された。何志には中冑・帰化がなく、残る三県は桂林に属し、徐志も同じ。現在管轄する県は十七。戸数一千一百二十一、人口五千七百二十七。州治までの水行距離は一千六百。京都までの水行距離は七千九百。

桂林太守は、もともと県の名であり、鬱林に属した。呉の孫晧の鳳皇三年に、鬱林を分割し、武熙県に治所を置いたが、いつ移転したかはわからない。永初郡国志には常安・夾陽の二県があった。夾陽は、晋の武帝の太康元年に龍岡を分割して設置された。常安は、太康地志にはあるが王隠の志にはない。何志・徐志ともにこの二県はない。現在管轄する県は七つ。戸数五百五十八、人口二千二百五。州治までの水行距離は一千五百七十五。京都までの水行距離は六千八百。

高涼太守は、二漢に高涼県があり、合浦に属した。漢の献帝の建安二十三年に、呉が分割して設置し、思平県に治所を置いたが、いつ移転したかはわからない。呉はさらに高熙郡を設置したが、太康年間に廃止されて高涼に併合され、宋の時代にも再び設置されたが、まもなく廃止された。永初郡国志では高涼にさらに石門・広化・長度・宋康の四県があった。何志・徐志ともに宋康がなく、おそらく宋初に設置され、元嘉二十年以前に廃止されたものであり、その他はおそらく江左で設置された。管轄する県は七つ。戸数一千四百二十九、人口八千一百二十三。州治までの水行距離は一千一百、京都までの水行距離は六千六百。

新会太守は、晋の恭帝の元熙二年に、南海を分割して設置された。広州記によると、「永初元年に、新寧を分割して設置し、盆允に治所を置いた」という。どちらが正しいかは詳らかでない。管轄する県は十二、戸数一千七百三十九、人口一萬五百九。州治までの距離は三百五十。

東官太守は、何志によればかつての司塩都尉であり、晋の成帝が郡に昇格させた。広州記によると、晋の成帝の咸和六年に、南海を分割して設置された。管轄する県は六つ。戸数一千三百三十二、人口一萬五千六百九十六。州治までの水行距離は三百七十。京都までの水行距離は五千六百七十。

義安太守は、晋の安帝の義熙九年に、東官を分割して設置された。管轄する県は五つ。戸数一千一百一十九、人口五千五百二十二。州治までの距離は三千五百。京都までの水行距離は八千九百。

宋康太守は、本来高涼の西営であり、文帝の元嘉九年に設置された。管轄する県は九つ。戸数は千五百十三、人口は九千百三十一。州治への水路距離は九百五十里。京都への水路距離は五千九百七十里。

綏建太守は、文帝の元嘉十三年に設置された。孝武帝の孝建元年、役所が奏上したところによると、化注・永固・綏南・宋昌・宋泰の五県は、もともと綏建に属していたが、途中で臨賀郡に割り当てられ、距離が遠くなったため、綏建に戻すべきか疑わしい。現在は綏南県のみが存在し、他はすべてない。何承天と徐爰の記述には新招県もあり、もともと蒼梧郡に属していたが、元嘉十九年に配属を変更したとある。徐爰の志には しん 康郡にもこの県があると記されているが、誤りと思われる。現在管轄する県は七つ。(疑わしい)戸数は三千七百六十四、人口は一万四千四百九十一。州治への距離は(欠落)。

海昌太守は、文帝の元嘉十六年に設置された。何承天の記述には覃化県があるが、徐爰の記述にはない。管轄する県は五つ。戸数は千七百二十四、人口は四千七十四。州治への水路距離は六百五十里。京都への水路距離は五千四百九十四里。

宋熙太守は、文帝の元嘉十八年、交州からの流寓者をもとに昌国・義懐・綏寧・新建の四県を立てて宋熙郡としたが、現在はこの四県はない。二十七年、宋隆と改名した。孝武帝の孝建年間に、再び宋熙と改めた。管轄する県は七つ。戸数は二千八十四、人口は六千四百五十。州治への水路距離は三百四十五里、京都への水路距離は五千二百里。

寧浦太守は、『 しん 太康地志』によれば、武帝の太康七年に合浦属国都尉を改めて設置した。『広州記』によれば、漢の献帝の建安二十三年、呉が鬱林郡を分割して設置し、治所を平山県に置いた。『呉録』によれば、孫休の永安三年、合浦郡を分割して合浦北部尉とし、平山・興道・寧浦の三県を管轄した。また、晋が平山県を分割して始定県とし、寧浦県を分割して澗陽県としたともいうが、どちらが正しいかは詳らかでない。『永初郡国志』には安広県があり、始定県はない。何承天と徐爰の記述にはこの郡はない。管轄する県は六つ。

しん 興太守は、 しん の元帝の太興元年、鬱林郡を分割して設置された。

楽昌郡

交州 刺史 しし は、漢の武帝の元鼎六年に百越を開き、交趾 刺史 しし の治所を龍編に置いた。漢の献帝の建安八年、交州と改称し、治所を蒼梧郡広信県に置き、十六年に南海郡番禺県に移転した。広州が分割されると、治所は番禺に置かれ、交州は龍編に戻った。管轄する郡は八つ、県は五十三。戸数は一万四百五十三。京都への水路距離は一万里。

交趾太守は、漢の武帝の元鼎六年に開かれた。管轄する県は十二。戸数は四千二百三十三。

武平太守は、呉の孫晧の建衡三年、扶厳夷を討伐し、その地に設置された。管轄する県は六つ。戸数は千四百九十。州治への水路距離は二百十里、陸路(以下欠落)。

九真太守は、漢の武帝の元鼎六年に設置された。管轄する県は十二。(疑わしい)戸数は二千三百二十八。州治への水路距離は八百里。京都への水路距離は一万百八十里。

九德太守は、もともと九真郡に属していたが、呉の時代に分割して設置された。何承天の志には七県を管轄するとあるが、現在は十一県を管轄する。戸数は八百九。州治への水路距離は九百里。京都への水路距離は一万九百里。

日南太守は、秦の象郡であり、漢の武帝の元鼎六年に改名した。呉の時代に廃止され、 しん の武帝の太康三年に再設置された。管轄する県は七つ。戸数は四百二。州治への水路距離は二千四百里。京都への水路距離は一万六百九十里。

義昌郡は、宋の末期に設置された。

宋平郡は、孝武帝の時代に日南郡を分割して宋平県を設置し、後に郡となった。

越州 刺史 しし は、明帝の泰始七年に設置された。

百梁太守は、新たに設置された。

𢤱蘇太守は、新たに設置された。

永寧太守は、新たに設置された。

安昌太守は、新たに設置された。

富昌太守は、新たに設置された。

南流太守は、新たに設置された。

臨漳太守は、以前は広州に所属していた。

合浦太守は、漢の武帝により設置され、孫権の黄武七年に珠官と改名されたが、孫亮の時に旧名に戻された。以前は交州に所属していた。管轄する県は七。戸数九百三十八。都から水路で一萬八百の距離。

宋壽太守は、以前は交州に所属していた。