巻34

宋書

志第二十四 五行五

五行伝に言う。「宮室を治め、台榭を飾り、内に淫乱にして、親戚を犯し、父兄を侮れば、則ち稼穡成らず」と。これは土がその性を失って災いとなることを言う。また言う。「思心が叡でない、これを不聖という。その咎は 瞀 であり、その罰は恒風であり、その極みは凶短折である。時に則ち脂夜の 妖 あり、時に則ち華孽あり、時に則ち牛禍あり、時に則ち心腹の 痾 あり、時に則ち黄眚・黄 祥 あり、時に則ち金木水火が土を 沴 す」と。班固は言う。「『惟』と言わずに独り『時に則ち有り』と言うのは、一つの衝気によって沴されるのではなく、その異が大きいことを明らかにするためである」と。華孽は劉歆伝では蠃蟲の孽とし、螟に属すると言う。

呉の孫晧の時、かつて歳に水旱なく、苗稼は豊美であったが、実がならず、百姓は飢え、全境が皆そうであり、連年止まなかった。呉人はこれを傷露(露の害)と考えたが、それは違う。劉向の春秋説を按ずるに、「水旱は書くべきであるのに、水旱を書かず、『大いに麦禾無し』と言うのは、土気が養わず、稼穡が成らないからである」という。これがその意味である。孫晧は初め武昌に遷都し、まもなく建業に戻り、また新館を起こし、珠玉で飾り立て、壮麗が甚だしく過ぎ、諸宮を破壊し、苑囿を増修し、暑さを犯して農を妨げ、官民は疲れ怠った。月令に「季夏は土功を興すべからず」とある。孫晧は皆これを冒した。これは宮室を治め台榭を飾った罰であり、春秋の魯の荘公が三たび台を築いたのと同じ応報である。班固は言う。「水旱の災がなく、草木百穀が熟さないのは、皆が稼穡成らざるものである」と。

晋の穆帝永和十年、三麦が実らず、関西に至るまで同じであった。昨秋からこの夏まで、水旱がなかったのに麦がないのは、劉向の説の通りである。また俗に「苗は多いが実らないのは傷である」と言い、これもその意味である。

魏の斉王正始九年十一月、大風が数十日続き、屋根を飛ばし木を折った。十二月戊子の晦日、特に甚だしく、太極殿の東閣を揺るがした。

魏の斉王嘉平元年正月壬辰の朔日、西北の大風が起こり、屋根を飛ばし木を折り、塵埃が空を暗くした。管輅の説によれば、これは時刑であり、大風は執政の憂いである。この時、曹爽が愚昧で自ら専断し、驕り僭上して度を過ぎ、天の戒めが幾度も現れたが、終いに改めなかった。これは思心が叡でなく、恒風の罰である。後、十日余りを経て曹爽らは滅んだ。京房の 易 伝に言う。「衆逆が同志し、至徳は乃ち潜む、その異は風なり。その風は、行きて解けず、物は長ぜず、雨は小さくして傷つく。政悖り徳隠る、これを乱という。その風は先ず風ありて雨なく、大風暴起し、屋を発し木を折る。義を守りて進まず、これを 眊 という。その風は雲と俱に起き、五穀の茎を折る。臣、上政を易う、これを不 順 という。その風は大いに 飈 起こり屋を発す。賦斂理めず、これを禍という。その風は経紀を絶ち、止まれば即ち温かく、温かければ即ち虫す。侯、封を専にす、これを不統という。その風は疾くして樹は揺れず、穀は成らず。辟、道の利を思わず、これを無沢という。その風は木を揺さぶらず、旱えて雲なく、禾を傷つく。公、常に利に於いて、これを乱という。その風は微かにして温かく、虫蝗を生じ、五穀を害す。正を棄て淫を作す、これを惑という。その風は温かく、螟虫起こり、人に益ある物を害す。侯、朝せず、これを叛という。その風は恒なく、地は赤く変じ、雨は人を殺す」と。

呉の孫権太元元年八月朔日、大風が起こり、江海が涌き溢れ、平地の水深は八尺に及び、高陵の樹二株を抜き、石碑の礎が動き、呉の城の両門が飛び落ちた。華覈の対によれば、役は繁く賦は重く、愚昧で不叡なことの罰である。翌年、孫権は崩御した。

呉の孫亮建興元年十二月丙申、大風が起こり雷電がとどろいた。この年、魏が大軍を三道に分けて攻めて来たが、諸葛恪がその東興軍を破り、他の二軍も退いた。翌年、諸葛恪はまた新城を攻めたが、衆の大半を喪い、帰還後誅殺された。

呉の孫休永安元年十一月甲午、風が四方五方に転じ、また霧が連日かかった。この時、孫綝の一門に五侯があり、権勢が呉の主を傾けた。風霧の災いは、漢の五侯や丁氏・傅氏の場合と同じ応報である。十二月丁卯の夜、また大風が起こり、木を倒し砂を舞い上げた。翌日、孫綝は誅殺された。

晋の武帝泰始五年五月辛卯朔日、広平で大風が起こり木を折った。

晋の武帝咸寧元年五月、下邳・広陵で大風が起こり、千余家を壊し、樹木を折った。

咸寧元年五月甲申、広陵・司吾・下邳で大風が起こり木を折った。

咸寧三年八月、河間で大風が起こり木を折った。

晋の武帝太康二年五月、済南で大風が起こり、木を折り麦を傷つけた。

太康二年(281年)六月、高平で大風が起こり、木を折り、邸閣四十余棟を吹き飛ばして破壊した。

太康八年(287年)六月、八つの郡国で大風が吹いた。

太康九年(288年)正月、京都で風と雹があり、屋根を吹き飛ばし木を抜いた。その二年後、皇帝(武帝)が崩御した。

晋の恵帝の元康四年(294年)六月、大風雨が起こり、樹木を抜いた。

元康五年(295年)四月庚寅の夜、暴風が吹き、城東の渠に波浪が立った。七月、下邳で大風が吹き、家屋を破壊した。九月、雁門、新興、太原、上党で風害が起こり、農作物が被害を受けた。翌年、 てい きょう が反乱を起こし、大軍が西征した。

元康九年(299年)六月、つむじ風が賈謐の朝服を吹き飛ばし、数百丈も飛ばした。翌年、賈謐は誅殺された。

元康九年(299年)十一月甲子の朔日、京都で連日大風が吹き、家屋を吹き飛ばし木を折った。十二月、皇太子が廃位された。

晋の恵帝の永康元年(300年)二月、大風が木を抜いた。三月、愍懐太子が殺害された。己卯の日、霊柩が許から洛陽に戻される際、この日、大風と雷電があり、帷蓋が吹き飛び裂けた。

永康元年(300年)四月、張華の邸宅でつむじ風が木を折り、絹織物の軸六七本が飛んだ。この月、張華は殺害された。

永康元年(300年)十一月戊午の朔日、大風が西北から吹き、木を折り石を飛ばした。翌年正月、趙王 司馬倫 しばりん が帝位を 簒奪 さんだつ した。

晋の恵帝の永興元年(304年)正月癸酉、趙王 司馬倫 しばりん が太廟で祭祀を行った際、災いの風が暴風となって起こり、塵と砂が四方から舞い上がった。その年の四月、 司馬倫 しばりん は処刑された。

晋の元帝の永昌元年(322年)七月丙寅、大風が木を抜き、屋根瓦がすべて飛んだ。

永昌元年(322年)八月、暴風が家屋を破壊し、御道の柳の木百余株を抜いた。その風は縦横無尽に吹き、八方から風が来るかのようであった。十一月、皇帝(元帝)が崩御した。

晋の成帝の咸康四年(338年)三月壬辰、成都で大風が吹き、家屋を吹き飛ばし木を折った。四月、李寿が李期を襲撃して殺害した。

晋の康帝の建元元年(343年)七月庚申、晋陵、呉郡で風害があった。

晋の穆帝の升平元年八月丁未、皇后何氏を策立した。この日、疾風が吹いた。

升平五年正月戊戌朔、疾風が吹いた。

晋の海西公の太和六年二月、大風が急激に吹いた。

晋の孝武帝の寧康元年三月戊申朔、暴風が急に起こり、丑の方角から来て、しばらくして子の方角から来るように変わり、飛砂走石した。

晋の孝武帝の太元元年二月乙丑朔、暴風が木を折った。

太元二年閏三月甲子朔、暴風と激しい雨が共に至り、屋根を吹き飛ばし木を折った。

太元二年六月、長安で大風が苻堅の宮中の樹木を引き抜いた。その後、堅は再び南征し、身を殺され国は滅亡した。

太元四年八月乙未、暴風が吹いた。

太元十二年正月壬子の夜、暴風が吹いた。

太元十二年七月甲辰、大風が木を引き抜いた。

太元十七年六月乙卯、大風が木を折った。

晋の安帝の元興二年二月甲辰、大風雨があり、大航門の屋根瓦が飛び落ちた。翌年、桓玄が帝位を 簒奪 さんだつ し、この門から入った。

元興三年正月、桓玄が大航の南を遊覧した時、旋風が彼の車の覆い蓋を飛ばした。三月、玄は敗れた。

元興三年五月、江陵で大風が木を折った。この月、桓玄は崢嶸洲で敗れ、自身も殺されて切り裂かれた。

元興三年十一月丁酉、大風が吹き、江陵では多くの死者が出た。

晋の安帝義熙四年十一月辛卯の朔日、西北から疾風が起こった。

義熙五年閏十月丁亥、大風が屋根を吹き飛ばした。翌年、盧循が蔡洲に至った。

義熙六年五月壬申、大風が北郊の樹木を抜き倒した。その木はほぼ百年のものであった。琅邪と揚州の二つの射堂が倒壊した。この日、盧循の大艦が漂流して沈没した。甲戌の日、また風が起こり、屋根を吹き飛ばし樹木を折った。この冬、王師が南征した。

義熙十年四月己丑の朔日、大風が樹木を抜き倒した。

義熙十年六月辛亥、大風が樹木を抜き倒した。翌年、西へ司馬休之を討伐した。

宋の少帝景平二年正月癸亥の朔日の朝、暴風が宮殿の庭に起こり、宴会の敷物が数十丈も舞い上がった。五月、帝は廃位された。

文帝元嘉二十六年二月庚申、寿陽に驟雨があり、回転する風と雲霧が、広さおよそ三十歩ほどで、南から来て城の西に至り回転して散り消えた。その衝に当たった所では、家屋や樹木が倒壊した。

元嘉二十九年三月、大風が起こり、樹木を抜き、瓦を飛ばした。

元嘉三十年正月、大風が樹木を抜き倒し、雨と凍えで牛馬が死に、雷電が起こり暗闇となった。二月、宮車(天子の乗り物)が夕方に出発した(=帝が崩御した)。

孝武帝大明七年、風が初寧陵の隧道の口の左の標柱を折った。鍾山の通天台が新たに完成したが、飛ばされて倒れ、山の渓谷に散乱した。翌年閏五月、帝が崩御した。

前廃帝永光元年正月乙未の朔日、京邑に大風が吹いた。

明帝泰始二年三月丙申、京邑に大風が吹いた。

泰始二年四月甲子、京邑に大風が吹いた。

泰始二年五月丁未、京邑に大風が吹いた。

泰始二年五月己酉、京邑に大風が吹いた。

泰始二年(466年)九月 乙巳 いっし の日、京師に大風が吹いた。

後廃帝の元徽二年(474年)七月甲子の日、京師に大風が吹いた。

元徽三年(475年)三月丁卯の日、京師に大風が吹いた。

元徽三年(475年)六月甲戌の日、京師に大風が吹いた。

元徽四年(476年)十一月辛卯の日、京師に大風が吹いた。

元徽五年(477年)三月庚寅の日、京師に大風が吹き、家屋を吹き飛ばし樹木を折った。

元徽五年(477年)六月甲寅の日、京師に大風が吹いた。

魏の高貴郷公の正元二年(255年)閏正月戊戌の日、大風が吹いて暗闇となり、通行人は皆うずくまった。これは夜妖に近い。劉向は言う。「真昼に暗くなるのは、陰が陽に代わり、臣下が君主を制する兆しである。」この時、晋の景王(司馬師)が毋丘倹を討伐し、この日に出発した。

魏の元帝の景元三年(262年)十月、京都で大地震があり、昼間が暗くなった。これは夜妖である。班固は言う。「夜妖とは、雲と風が共に起こって暗闇となるもので、常風と同じ現象である。」劉向の『春秋説』に云う。「天の戒めはこう言う、大夫に世襲の官職を与えてはならない、そうすれば専横が起こり、暗闇となるであろうと。翌年、魯の季友が死去し、果たして世襲の官職となり公室は衰えた。」魏にこの妖が現れたのは、晋が天下を得る応報である。

晋の孝武帝の太元十三年(388年)十二月乙未の日、大風が吹いて暗闇となった。その後、帝が崩御し、諸侯が命令に背き、内乱が起こり、権力は元顕に奪われ、禍いは桓玄によって成された。これがその応報である。

晋の孝武帝の咸寧元年(275年)七月、郡国に螟(稲の害虫)が発生した。九月、青州でまた螟が発生した。

咸寧元年(275年)七月、郡国に青虫が発生し、禾稼(穀物)を食い荒らした。

咸寧四年(278年)、司州、冀州、兗州、 州、荊州、揚州の郡国で皆螟が発生した。

晋の武帝の太康四年(283年)、会稽で彭蜞(カニの一種)と蟹が皆鼠に化し、その数は非常に多く、野を覆い、大量の稲を食い尽くして災害となった。

太康九年(288年)八月、二十四の郡国で螟が発生した。螟の解釈は蝗と同じである。この時、帝は讒言や訴えを聞き入れた。

太康九年(288年)九月、害虫が穀物を食い荒らした。

晋の恵帝元康二年(292年)九月、帯方、含資、提奚、南新、長岑、海冥、列口で害虫が稲の葉を食い尽くした。

晋の恵帝永寧元年(301年)七月、梁州、益州、涼州の三州で螟虫の害があった。この時は斉王司馬冏が政権を握っていた。これは貪欲で苛酷な政治の応報である。

永寧元年(301年)十月、南安、巴西、江陽、太原、新興、北海で青虫が稲の葉を食い、ひどい所では十のうち五六が被害を受けた。

永寧元年(301年)十二月、八つの郡国で螟虫の害があった。

晋の武帝太康九年(288年)、幽州の塞北で死んだ牛の頭が言葉を発した。これは牛の災いの前兆に近い。この時、帝は病気が多く、自身の死後のことを気にかけていたが、後事の託し方は至公とは言えず、思慮が混乱していたことの応報である。師曠は言った。「民衆に怨嗟の声が起こると、言葉を発さないものが言葉を発する。」これもその道理である。

晋の恵帝太安年間(302-303年)、江夏の張騁が乗っていた牛が言った。「天下はまさに乱れようとしている。私に乗ってどこへ行くのか!」張騁は恐れて引き返すと、犬もまた言った。「なぜ早く帰ってきたのか。」その後まもなく、牛がまた後ろ足で立って歩いた。張騁は占いの上手い者に卦を立てさせた。占い師は言った。「天下に兵乱が起こり、災いは一家だけでは済まないだろう。」その年、張昌が反乱を起こし、まず江夏を攻略し、張騁はその将帥となった。こうして五州が荒廃し乱れ、張騁もまた一族皆殺しにされた。京房の『易妖』に言う。「牛が言葉を発すれば、その言葉によって吉凶を占う。」『易萌気枢』に言う。「君主が士を好まず、走馬に文繡をまとわせ、犬や狼が人の食べ物を食らうと、六畜に妖しい言葉を発するものが出る。」当時、天子や諸侯が民に恩恵を施すことを務めとしなかったことが、これまたその応報である。

晋の愍帝建武元年(317年)、曲阿門で牛が子牛を産み、一体で頭が二つあった。

元帝太興元年(318年)、武昌 太守 王諒の牛が子を産み、頭が二つ、足が八本、尾が二本で一つの腹を共有していた。三年後に死んだ。また、牛が足一本、尾三本の子を産んだが、いずれも生まれてすぐ死んだ。司馬彪の説によれば、頭が二つあるのは、政権が私門にあり、上下の区別がないことの象徴である。京房の『易伝』に言う。「足が多いのは、任用された者が邪であること。足が少ないのは、下の者がその任に耐えられないこと。」その後、いずれもこの応報があった。

晋の元帝太興四年(321年)十二月、 郊祀 に用いる牛が死んだ。劉向が『春秋』の郊祀の牛の死について述べた説によれば、宣公が愚昧で昏乱であったため、天がその祭祀を饗けなかったという。元帝の中興の大業は、実は王導の謀略によるものであった。劉隗は君主の意を探り迎合して、親しく寵愛されるようになり、王導は疎遠にされた。これは愚昧で聡明でないことの禍いである。

晋の成帝咸和二年(327年)五月、護軍の牛が子牛を産み、頭が二つ、足が六本あった。この冬、蘇峻が乱を起こした。

咸和七年(332年)、九徳の民である袁栄の家の牛が子牛を産み、頭が二つ、足が八本、尾が二本で一つの体を共有していた。京房の『易伝』に言う。「無罪の者を殺せば、牛に妖しいものが生じる。」

桓玄が荊州に封国を持っていた時、 刺史 しし の殷仲堪を訪ねるため、鶴穴まで行くと、一人の老人に出会い、青い牛を追っていた。その姿形は珍しく異様であった。桓玄はすぐに自分の乗っていた牛と交換して手に入れた。零陵の涇溪まで乗っていくと、その牛は並外れて駿足で、そこで車を停めて牛に水を飲ませようとした。牛はまっすぐに江水に入り、出てこなかった。桓玄は人をやって見張らせたが、一日経っても何も見えなかった。

宋の文帝元嘉三年(426年)、 司徒 しと 徐羨之の長男の喬之が広莫門に入ろうとした。牛がまっすぐに廷尉寺に入ろうとし、左右の者が制止しようとしたができなかった。入ってからようやく出てきた。翌日、彼は捕らえられた。

元嘉二十九年(452年)、晋陵から牛が献上されたが、角が右脇腹から生えており、長さ八尺あった。翌年二月、東宮に禍事が起こった。

孝武帝の大明三年、広州 刺史 しし の費淹が三角水牛を献上した。

蜀の劉備の章武二年、東征した。二月、秭帰から進軍して夷道に駐屯した。六月、秭帰に黄気が現れ、長さ十余里、広さ数十丈であった。その後十余日を過ぎて、劉備は陸議に敗れた。これは黄祥に近いものである。

魏の斉王の正始年間、中山王の周南が襄邑の長となった。鼠が穴から出てきて言った。「王周南よ、お前はある日に死ぬ。」周南は答えなかった。鼠は穴に戻った。後にその日になると、鼠は再び冠と幘と黒い衣を着けて出てきて言った。「周南よ、お前は正午に死ぬはずだ。」また答えなかった。鼠は再び入り、しばらくしてまた出てきて、前日と同じことを言った。ちょうど正午になろうとした時、鼠は入ってはまた出、出てはまた入り、繰り返し前に同じことを言った。日がちょうど中天に達した時、鼠は言った。「周南よ、お前は私に答えない。もう言うことはない。」言葉が終わると、倒れて死に、衣冠はすぐに消えた。取って見ると、すべて普通の鼠と同じであった。班固の説によれば、これは黄祥である。この時、曹爽が政権を握り、互いに徒党を組んで争ったので、鼠が異変を起こしたのである。

宋の孝武帝の大明七年の春、太湖の辺りに突然多くの鼠が現れた。その年の夏、洪水が来ると、すべて鯉魚に変わった。民衆は一日で取ると、三五十斛も得ることができた。翌年、大飢饉が起こった。

晋の元帝の太興四年八月、黄霧が四方に満ち、埃の気が天を覆った。楊宣の対によれば、これは土気に近く、乱の兆しである。

晋の元帝の永昌二年正月癸巳、黄霧が四方に満ちた。

晋の穆帝の永和七年三月、涼州で大風が木を抜き、黄霧が塵を降らせた。この時、張重華は讒言を受け入れ、謝艾を酒泉太守として出し、任用した人物が適任ではなかった。九年に至って張重華は死に、後継の子は しい された。これがその応である。京房の易伝に言う。「善を聞いても与えず、これを不知という。その異は黄、その咎は聾、その災は嗣が絶える。黄とは、黄濁の気が天下に四方に満ちて、賢者を蔽い道を絶つ。故に災いが至って世が絶える。」

晋の安帝の元興元年十月丙申の朔、黄霧がすべて濁り、雨が降らなかった。

宋の文帝の元嘉十八年秋七月、天に黄光があり、地の果てまで照らした。太子率更令の何承天はこれを栄光と呼び、太平の祥瑞として、上表して慶賀を称えた。

呉の孫権の黄武四年、江東の地が連続して震動した。この時、孫権は魏の爵位を受けて、大将軍・呉王となり、元号を改めて専制を行い、臣下としての礼を修めなかった。京房の易伝に言う。「臣下が事を行うのは正しくても、専断すれば必ず震動する。」董仲舒と劉向はともに「臣下が強盛で、動いて害をなそうとする」ことの応であると述べている。

魏の明帝の青龍二年十一月、京都で地震があり、東から来て、ぼんやりと音があり、屋根瓦が揺れた。

魏の明帝の景初元年六月戊申、京都で地震があった。この秋、呉の将軍朱然が江夏を包囲し、荊州 刺史 しし の胡質がこれを撃退した。また公孫淵が自立して燕王となり、年号を改め、百官を置いた。翌年、討伐して平定した。

呉の孫権の嘉禾六年五月、江東で地震があった。

赤烏二年正月、地が再び震動した。この時、呂壹が専権を握り、歩騭が上疏して言った。「伏して聞くに、校事は毛を吹いて瑕を求め、人を陥れようと急ぎ、その威福を成し、罪なく辜なき者が、理由なく重刑を受け、大臣といえども、信任されない。このようでは、天地どうして変異が起こらないことがあろうか。故に嘉禾六年、赤烏二年に、地が連続して震動したのは、臣下が専権を握ることの応です。おそらく人主を警覚させ悟らせるためであり、その意味を深く考えないわけにはいきません。」呂壹は後に結局敗れた。

魏の斉王の正始二年十一月、南安郡で地震があった。

正始三年(242年)七月甲申の日、南安郡で地震が起こった。十二月、魏郡で地震が起こった。

正始六年(245年)二月丁卯の日、南安郡で地震が起こった。この時、曹爽が政権を専断し、太后を永寧宮に移した。太后と皇帝は互いに泣きながら別れた。連年の地震は、この事態の応報であった。

呉の孫権の赤烏十一年(248年)二月、江東で引き続き地震が起こった。この時、孫権は讒言を聞き入れ、まもなく朱據を左遷し、太子を廃した。

蜀の劉禅の炎興元年(263年)、蜀で地震が起こった。この時、宦官の黄皓が権力を専断していた。司馬彪の説によれば、宦官は陽の気を施すことができず、婦人のようなものである。この黄皓が任用されたことの応報であり、漢の和帝の時の事例と同じである。この冬、蜀は滅亡した。

晋の武帝の泰始五年(269年)四月辛酉の日、地震が起こった。この年の冬、新平の てい 族・ きょう 族が反乱した。翌年、孫晧は大軍を渦口に派遣した。反乱した虜が秦州・涼州を侵し、 刺史 しし の胡烈・蘇愉はいずれもその害を受けた。

泰始七年(271年)六月丙申の日、地震が起こった。武帝の時代は、賈充に始まり、楊駿に終わり、徒党を組んで私利を貪り、ひたすら権勢と寵愛を専らにしたため、ついに天下を失った。これがその原因である。末年には任用される者がますます劣悪になったので、一年に六度も地震が起こり、これがその応報であった。裴叔則(裴楷)は言った。「晋の徳が堯・舜のように隆盛にならないのは、賈充らが朝廷にいるからだ。」

晋の武帝の咸寧二年(276年)八月庚辰の日、河南・河東・平陽で地震が起こった。

咸寧四年(278年)六月丁未の日、陰平・広武で地震が起こった。甲子の日、陰平・広武で再び地震が起こった。

晋の武帝の太康二年(281年)二月庚申の日、淮南・丹陽で地震が起こった。

太康五年(284年)二月壬辰の日、地震が起こった。

太康六年(285年)七月己丑の日、地震が起こった。

太康七年(286年)七月、南安・犍為で地震が起こった。八月、京兆で地震が起こった。

太康八年(287年)五月壬子の日、建安で地震が起こった。七月、陰平で地震が起こった。八月、丹陽で地震が起こった。

太康九年(288年)正月、会稽・丹陽・呉興で地震が起こった。四月辛酉の日、長沙・南海など八つの郡国で地震が起こった。七月から八月にかけて、さらに四度地震が起こり、そのうち三度は雷のような音がした。

太康十年(289年)十二月己亥の日、丹陽で地震が起こった。

晋の武帝太熙元年、地震があった。

晋の恵帝元康元年十二月辛酉、都で地震があった。

元康四年二月、蜀郡で山が崩れて人を殺した。上谷、上庸、遼東で地震があった。五月壬子、寿春で山が崩れ、洪水が発生し、城が壊れ、地が三十丈四方陥没した。六月、寿春で大雷鳴と地震があり、山が崩れ地が裂け、家屋が陥没して死者が出た。上庸郡でも同様のことがあった。八月、上谷で地震があり、水が湧き出て百余人が死亡した。居庸で地割れが発生し、幅三十六丈、長さ八十四丈に及び、水が湧き出て大飢饉となった。上庸では四箇所で山が崩れ地が陥没し、幅三十丈、長さ百三十丈に及び、水が湧き出て人を殺した。十月、都で地震があった。十一月、 滎陽 けいよう 、襄城、汝陰、梁国、南陽でいずれも地震があった。十二月、都で再び地震があった。これは賈后が朝廷を乱し、権力を握り専制を行い、ついに禍敗に至ったことの応報である。漢の鄧太后が摂政した時、郡国で地震があった。李固は「地は陰であり、法として安静であるべきである。今や陰の職分を越えて、陽の政務を専断している。それゆえ地震をもって応じたのである」と考えた。これは同じ類の事である。京房の易伝に「徳なくして禄を専らにする、これを不順という。その震動し、丘陵が水を湧き出させる」とある。また「小人が廬を剥ぐ、その妖は山崩れである。これを陰が陽に乗じ、弱が強に勝つという」とある。また「陰が陽に背くとき、地が裂ける。父子が分離し、夷や きょう が叛いて去る」とある。

元康五年五月丁丑、地震があった。六月、金城で地震があった。

元康六年正月丁丑、地震があった。

元康八年正月丙辰、地震があった。

晋の恵帝太安元年十月、地震があった。この時、斉王冏が専政していた。

太安二年十二月丙辰、地震があった。この時、長沙王が専政していた。

晋の孝懐帝永嘉三年十月、荊州と湘州で地震があった。この時、 司馬越 しばえつ が専政していた。

永嘉四年四月、兗州で地震があった。

晋の愍帝建興二年四月甲辰、地震があった。この時、幼い君主が上にあり、権力が下に傾き、四方が雲のように乱れ、兵乱が止まなかった。

建興三年六月丁卯、長安で地震があった。

晋の元帝太興元年四月、西平で地震があり、水が湧き出た。十二月、廬陵、 章、武昌、西陵で地震があり、山が崩れた。干宝は「王敦が上を凌ぐことの応報である」と言った。

太興二年五月癸丑、祁山で地震があり、山が崩れて人を殺した。この時、相国の南陽王保が祁山で晋王を称していたが、終わりを全うしない兆しである。

太興三年四月庚寅、丹陽、呉郡、晋陵で地震があった。その年、南平郡で山が崩れ、数千斤の雄黄が出た。

晋の成帝咸和二年(327年)三月、益州で地震が起こった。四月己未の日、 章で地震が起こった。この年、蘇峻が乱を起こした。

咸和九年(334年)三月丁酉の日、会稽で地震が起こった。この時、政治の実権は臣下にあった。

晋の穆帝永和元年(345年)六月癸亥の日、地震が起こった。この時、継いだ君主は幼く、母后が制を称して政治を行い、実権は臣下にあった。これが連年の地震の原因である。

永和二年(346年)十月、地震が起こった。

永和三年(347年)正月丙辰の日、地震が起こった。

永和四年(348年)十月己未の日、地震が起こった。

永和五年(349年)正月庚寅の日、地震が起こった。

永和九年(353年)八月丁酉の日、京都で地震が起こり、雷のような音がした。

永和十年(354年)正月丁卯の日、地震が起こり、雷のような音がし、鶏や雉が鳴き騒いだ。

永和十一年(355年)四月乙酉の日、地震が起こった。五月丁未の日、地震が起こった。

晋の穆帝升平五年(361年)八月、涼州で地震が起こった。

晋の哀帝隆和元年(362年)四月甲戌の日、地震が起こった。この時、政治の実権は将相にあり、君主は南面しているだけであった。

隆和元年(362年)四月丁丑の日、涼州で地震が起こり、浩亹山が崩れた。これは張天錫が降伏し滅亡する前兆である。

隆和二年(363年)二月庚寅の日、三月丙戌朔、初五日庚寅。興寧二年(364年)三月庚戌朔、庚寅の日はない。江陵で地震が起こった。この時、桓温が政治を専断していた。

晋の海西公太和元年(366年)二月、涼州で地震が起こり水が湧き出た。

晋の簡文帝咸安二年(372年)十月辛未の日、安成で地震があった。

晋の孝武帝寧康元年(373年)十月辛未の日、地震があった。この時、嗣主(孝武帝)は幼少で、政権は将相にあった。

寧康二年(374年)七月甲午の日、涼州で地震があり山が崩れた。

晋の孝武帝太元二年(377年)閏月壬午の日、地震があった。五月丁丑の日、地震があった。

太元十一年(386年)六月己卯の日、地震があった。この後、黄河沿いの諸将が連年兵役を課した。

太元十五年(390年)三月己酉の朔の夜、地震があった。

太元十七年(392年)六月癸卯の日、地震があった。十二月己未の日、また地震があった。この時、群小が権力を弄び、天下は側目していた。

太元十八年(393年)正月癸亥の朔、地震があった。二月乙未の日、地震があった。

晋の安帝隆安四年(400年)九月癸酉の日、地震があった。この時、幼主は幼く暗愚で、政権は臣下にあった。

晋の安帝義熙四年(408年)正月壬子の夜、地震があり音がした。十月癸亥の日、地震があった。

義熙五年(409年)正月戊戌の夜、尋陽で地震があり、雷のような音がした。翌年、盧循が攻め下った。

義熙八年(412年)、正月から四月にかけて、南康・廬陵で四度地震があった。翌年、王師が西征して荊州・益州を討った。

宋の文帝元嘉七年(430年)四月丙辰の日、地震があった。この時、軍を派遣して司州・兗州を経略していた。

元嘉十二年(435年)四月丙辰の日、京邑で地震があった。

元嘉十五年(438年)七月辛未の日、地震があった。

元嘉十六年(439年)、地震があった。

孝武帝の大明二年(458年)四月辛丑の日、地震があった。

大明六年(462年)七月甲申の日、地震があり、音が黄河の北から聞こえ、魯郡では山が揺れ地が動き、 彭城 の城壁の女牆四百八十丈が墜落し、家屋が倒壊した。兗州では地が裂けて泉が湧き出し、二年間止まなかった。その後、虜(北魏)の君主が死に、兗州 刺史 しし の夏侯祖権が死去した。

明帝の泰始二年(466年)四月、地震があった。

泰始四年(468年)七月己酉の日、東北の方角で雷のような音がし、地震があった。

明帝の泰 元年(472年)閏七月甲申の日、東北の方角で雷のような音がし、地震があった。

後廃帝の元徽二年(474年)四月戊申の日、地震があった。

元徽五年(477年)五月戊申の日、地震があった。七月、皇帝が崩御した。

宋の文帝の元嘉二十五年(448年)、青州の城南の地で、遠くから見ると地中に水のような影があり、人馬や様々な物がその影の中に見え、数年経ってようやく消えた。

呉の孫権の赤烏十年(247年)三月八月、丹楊、句容および故鄣、寧国の諸山が崩れ、洪水が溢れた。劉向の説によれば、「山は陽であり、君主である。水は陰であり、民である。天の戒めは言う、君主の道が崩れ壊れ、百姓がその居場所を失おうとしている」という。これは春秋時代の梁山の崩壊や、漢代の斉・楚の多くの山で水が発生した事と同じである。「そもそも三代の命祀は、祭祀はその国の望(国境の山)を越えず、吉凶禍福もこれを超えることはない」。呉は帝を称したが、実質は列国であり、災害が丹楊で発生したのは、天の意である。国は山川を主とし、山が崩れ川が枯れるのは、滅亡の兆しである。二年後に孫権が 薨去 こうきょ し、その二十六年後に呉は滅亡した。

魏の元帝の咸熙二年(265年)二月、太行山が崩れた。これは魏が滅亡する兆しであった。その冬、晋が天下を有した。

晋の武帝の泰始三年(267年)三月戊子の日、太行山が崩れた。

泰始四年(268年)七月、泰山が崩れ、三里にわたって墜落した。これは晋の凶兆であった。武帝が崩御し、禄(権力)が王室から離れ、懐帝・愍帝が北で捕虜となり、元帝が南で中興したのは、この応報である。京房の易伝に言う、「上から下へ落ちることを崩という。その兆候は泰山の石が頂上から落ちることで、聖王が天命を受け、君主は虜となる」。

晋の武帝の太康五年(284年)丙午の日、宣帝の廟の地が陥没した。

太康六年(285年)三月、南安郡新興県で山が崩れ、水が湧き出た。

太康七年(286年)七月、朱提郡の大瀘山が崩壊し、郡の官舎を震動させて破壊した。陰平郡の仇池では崖が崩落した。

太康八年(287年)七月、大雨が降った。宮殿前の地面が陥没し、五尺四方、深さ数丈に及んだ。

晋の恵帝元康四年(294年)五月壬子の日、地面が陥没し、三十丈四方で、人を殺した。史書にはその場所が欠けている。

元康四年(294年)八月、居庸で地割れが起こり、幅三十丈、長さ百三十丈に及び、水が湧き出て人を殺した。

晋の孝懐帝永嘉元年(307年)三月、洛陽の東北にある歩広里で地面が陥没した。

永嘉二年(308年)八月乙亥の日、鄄城の城壁が理由なく七十余丈にわたって自然に崩壊した。 司馬越 しばえつ はこれを不吉として、濮陽に遷った。これは土気の乱れによる異変である。 司馬越 しばえつ はやがて君主を凌ぐようになり、結局は禍を受けた。

永嘉三年(309年)七月戊辰の日、当陽で三か所の地割れが起こった。それぞれ幅三丈、長さ二百歩余りであった。京房の『易伝』に言う、「地が裂けるのは、臣下が分離し、互いに従おうとしないことによる」と。その後、 司馬越 しばえつ と苟 晞 が互いに憎み合い、四方の州牧・方伯は離散せずにおらず、王室はついに滅亡した。

永嘉三年(309年)十月、宜都郡夷道で山が崩れた。

永嘉四年(310年)四月、湘東郡酃県の黒石山が崩れた。

晋の元帝太興四年(321年)八月、常山が崩れ、水が湧き出て、滹沱河が満ち溢れ、大木が傾き倒れた。

晋の成帝咸和四年(329年)十月、柴桑の廬山西北の崖が崩れた。十二月、劉胤が郭默に殺された。

晋の恵帝元康九年(299年)六月の夜、激しい雷雨があった。賈謐の書斎の屋柱が地面にめり込み、賈謐の寝台と帳を押し潰した。これは木が土を乱し、土がその本性を失って、物を載せられなくなったためである。翌年、賈謐は誅殺された。

晋の恵帝 光熙 こうき 元年(306年)五月、范陽の地面が燃え、炊事に使うことができた。これは火が土を乱したためである。この時、礼楽と征伐の権は諸侯から出ていた。

晋の安帝義熙八年(412年)三月壬寅の日、山陰で雷のような音がし、地面が深さ・広さともに四尺ずつ陥没した。

義熙十年(414年)五月戊寅の日、西明門の地面が穿たれ、水が湧き出て、門扉と敷居を破壊した。これは水が土を乱したためである。

五行伝に言う。「皇が極まらざるは、これを不建と謂う。その咎は眊なり、その罰は恒陰なり、その極は弱なり。時に射妖有り、時に龍蛇の孽有り、時に馬禍有り、時に下人上を伐つ痾有り、時に日月乱行し、星辰逆行す」。

呉の孫亮の太平三年、八月より陰沈として雨降らず、四十余日。この時、孫綝を誅殺せんとし、謀りごと漏れる。九月戊午、綝、兵を以て宮を囲み、亮を廃して会稽王とす。これ常陰の罰なり。

呉の孫晧の宝鼎元年十二月、太史奏す、久しく陰りて雨降らず、陰謀有らんと。晧深く驚懼す。時に陸凱ら、その廟を謁するに因りてこれを廃せんと謀る。出でし時、留平に兵を領して前駆せしむ。凱、平に語るも、平許さず、ここをもって果たさず。晧既に肆虐し、群下多く異図を懐き、終に降亡に至る。

宋の後廃帝の元徽三年四月、連日陰りて雨降らず。

元徽三年八月、多く陰る。後二年、 廃帝殞 つ。

蜀の車騎将軍鄧芝、涪陵を征し、玄猿の山に縁るを見て、手ずからこれを射て中つ。猿その箭を抜き、木の葉を巻きてその創を塞ぐ。芝曰く、「ああ、我れ物の性に違う、まさに死せんとす」と。俄にして卒す。これ射妖なり。一説に、猿の母、子を抱く。芝これを射て中つ。子、箭を抜き、木の葉を取って創を塞ぐ。芝歎息し、弓を水中に投じ、自ら死すべきを知る。

晋の恭帝が琅邪王であった時、奇を好み戯れ、嘗て一馬を門内に閉じ、人をしてこれを射しめ、幾箭にして死するかを見んと欲す。左右に諫むる者有り、曰く、「馬は国姓なり。今これを射るは、不祥甚だし」と。ここにおいて乃ち止む。しかして馬は既に十余箭を被る。これ 蓋し けだし 射妖なり。俄にして桓玄位を さん す。

魏の明帝の青龍元年正月甲申、青龍、郟の摩陂の井中に見ゆ。凡そ瑞、時に非ずして興れば、則ち妖孽と為す。況や井に困するは、嘉祥に非ざるなり。魏、以て年を改むるは、非なり。晋の武帝賀さざるは、是なり。干宝曰く、「明帝より魏の世を終わるまで、青龍黄龍見ゆるは、皆その主の廃興の応なり。魏は土運、青は木の色なり。しかるに金に勝たず。黄は位を得、青は位を失うの象なり。青龍多く見ゆるは、君徳国運内に相剋伐するなり。故に高貴郷公ついに兵に敗る」。案ずるに劉向の説に、「龍は貴き象なり。井中に困するは、諸侯将に幽執の禍有らんとす」と。魏の世の龍、井に在らざる莫し。これ上に居る者逼制するの応なり。高貴郷公潜龍の詩を著すは、即ちこの旨なり。

魏の高貴郷公の正元元年冬十月戊戌、黄龍、鄴の井中に見ゆ。

魏の高貴郷公の甘露元年正月辛丑、青龍、軹県の井中に見ゆ。六月乙丑、青龍、元城県界の井中に見ゆ。

甘露二年二月、青龍、温県の井中に見ゆ。

甘露三年、黄龍青龍、 仍 び頓丘・ 冠軍 ・陽夏県界の井中に見ゆ。

景元三年二月、青龍、軹県の井中に見ゆ。

呉の孫晧の天冊年中、龍、長沙の民家に乳し、鶏の雛を啖う。京房の易妖に曰く、「龍人家に乳す、王者庶人と為る」と。その後、晧降る。

晋の武帝の咸寧二年六月丙申、白龍二、九原の井中に見ゆ。

晋の武帝太康五年正月癸卯、二匹の龍が武庫の井戸の中に現れた。帝は龍を見て喜色を帯び、百官が祝賀しようとした。劉毅だけが上表して言った、「昔、龍が夏の庭に涎を垂らし、禍は周の王室に発した。龍が鄭の門に現れた時、子産は祝賀しなかった。」帝は答えて言った、「朕の徳政はまだ修まっておらず、嘉祥を受け入れる理由がない。」そこで祝賀しなかった。孫盛は言う、「龍は水の生き物である。人と何の関係があろうか。子産の言うことは正しい。ただ、その存在すべき場所でないところに現れたのは、実に妖災である。龍は飛翔して顕現することを美とするならば、潜伏して幽暗の場所にいるのは、吉兆ではない。漢の恵帝二年、二匹の龍が蘭陵の井戸の中に現れた。本志はこれを、その後趙王が幽閉されて死んだ前兆としている。武庫は、帝王の威厳を保つ武器を宝蔵する場所であり、建物は奥深く密閉されており、龍の棲むところではない。その後七年、藩王が互いに害し合い、二十八年後、果たして二人の胡人が神器を僭称して 簒奪 さんだつ した。勒と虎の二人の逆賊はいずれも字に「龍」を持っている。この異変の表れは、証拠があるのである。」史臣が考えるに、龍は吉瑞であるが、井戸の中に屈していることについては、前史がすでに詳しく述べている。ただ、兆しは幽微であり、憶測で断じることはできない。ゆえに五行志と符瑞志の両方に記しておく。

晋の愍帝建興二年十一月、 枹罕 の きょう 族の妓女が一匹の龍の子を産んだ。色は錦の文様のようで、母の乳を吸おうとし、遠くから神光が見え、少し近づいて見ることができた。

晋の武帝咸寧年間、 司徒 しと 府に二匹の大蛇がいた。長さは十丈ほどで、役所の平らな垂木の上に住み着き、数年もの間、人は知らなかったが、ただ府内でしばしば小児や豚・犬などが行方不明になるのを怪しんでいた。後に一匹の蛇が夜に出てきて、刃物で傷つき、逃げ去ることができず、ようやく気づかれた。人夫を動員して攻撃し、しばらくしてようやく死んだ。 司徒 しと は五教を司る府である。これが皇極が建てられていないため、蛇の妖異が現れたのである。漢の霊帝の時、蛇が御座に現れたが、楊賜は帝が女色に溺れた応報であると考えた。魏氏は宮人が多く、晋はそれをさらに上回り、宴遊に耽溺した。これがその妖異である。詩経に言う、「これ 虺 かこれ蛇か、女子の祥。」

晋の恵帝元康五年三月癸巳、臨菑に十丈余りの大蛇が現れ、二匹の小蛇を背負って城の北門から入り、市場を通り抜けて漢の城陽景王(劉章)の祠に入り、見えなくなった。天の戒めはこう言っているようだ。斉の地にはかつて劉章に傾きかけた国を安定させた功績があるが、もし節操を励まし忠実に慎まなければ、再び劉章のように職を失い功績を奪われる辱めを踏むことになる、と。斉王司馬冏は悟らず、興復の功績を立てたものの、驕り高ぶって陵辱し、禍を招いた。二匹の小蛇を背負って朝廷の市場から出て行ったことは、いずれも象徴的な類いである。

晋の明帝太寧初年、武昌に大蛇がおり、常に古い神祠の空の木の中に住み、毎回頭を出して人から食べ物を受け取っていた。京房の易妖に言う、「蛇が邑に現れると、三年を出ずして大兵(大規模な戦争)が起こる。国に大いなる憂いがある。」その後、王敦とその党与が討伐滅ぼされた。

晋の武帝太熙元年、遼東で馬が角を生やした。両耳の下にあり、長さ三寸。劉向の説によれば、これは兵の象である。帝が崩御した後、王室が兵禍に苦しんだのは、その応報である。京房の易伝に言う、「臣が上を易える、政が順わない、その妖は馬が角を生やす。」また「天子が親征すると、馬が角を生やす」ともある。呂氏春秋に言う、「人君が道を失うと、馬が角を生やす。」

晋の恵帝元康元年十二月、皇太子が釈奠(学問の神を祭る儀式)を行おうとした時、太傅の趙王 司馬倫 しばりん が驂乗(副乗)していたが、南城門に至ると、馬が止まり、力士が押しても動かなかった。 司馬倫 しばりん が軺車(軽車)に入ると、ようやく進んだ。これは馬の禍である。天の戒めはこう言っているようだ。 司馬倫 しばりん は義方(正しい道)を知らず、ついには乱逆をなす者であり、傅導して礼を行わせるべき人ではない、と。 司馬倫 しばりん は悟らず、故に滅びた。

元康九年十一月戊寅の冬、牝の騮馬(黒いたてがみの赤毛馬)が驚いて狂奔し、廷尉の訊堂(取り調べの間)に至り、悲しげに鳴いて死んだ。これはおそらく愍懐太子が冤罪で死んだ象徴であろう。廷尉の訊堂に現れたことも、また天意であろうか。

晋の孝懐帝永嘉六年二月、神馬が南城門で鳴いた。

晋の元帝太興二年、丹陽郡の役人濮陽の楊演の馬が子馬を産んだが、二つの頭が首の前で別れており、生まれてすぐ死んだ。司馬彪の説によれば、政権が私門(私的な権力者)にあることの、二頭の象である。この後、王敦が上(皇帝)を陵いだ。

晋の成帝咸康八年五月甲戌、血のように赤い色をした馬が、宣陽門から真っ直ぐに殿前(宮殿の前)に走り入り、旋回して走り出し、追跡してもどこに行ったか分からなかった。己卯、帝は体調を崩し、六月に崩御した。これは馬の禍であり、また赤い祥(凶兆)でもある。張重華が涼州にいた時、その西河相の張祚を誅殺しようとしたが、張祚の厩舎の馬数十匹が、同時にすべて後ろ尾を失っていた。

晋の安帝隆安四年十月、梁州で馬が角を生やし、 刺史 しし の郭銓がこれを 都督 ととく の桓玄に見せた。劉向の説によれば、馬が角を生やすべきではないのは、桓玄が上(朝廷)に向かって挙兵すべきではなかったからである。災いを見ても悟らず、故に滅亡に至った。

魏の文帝黄初初年、清河の宋士宗の母が 鼈 に化け、水に入った。

魏の明帝太和三年、曹休の部曲兵の奚農の娘が死んでから生き返った。当時、人が周の時代の墓を開くと、殉葬された女子を得たが、数日で息があり、数ヶ月で話せるようになった。郭太后がこれを慈しみ養った。また太原の民が墓を発掘して棺を破ると、棺の中に一人の生きている婦人がいた。その経緯を尋ねても知らないという。その墓の木を見ると、三十年ほど経っていたようだ。京房の易伝によれば、至陰が陽となる、下の者が上の者となる、これは晋の宣王(司馬懿)が興起する象である。漢の平帝、献帝にも同様の異変があり、占いでは王莽、曹操の兆しとされた。公孫淵が炊事をしている時、小児が 甑 の中で蒸し殺された。その後、公孫淵は滅ぼされた。

呉の孫亮建興二年、諸葛恪が淮南に征討しようとした時、喪服を着た孝子がその閤(役所)に入った。詰問すると、答えて言った、「知らずに入ってしまった。」当時、内外の守備もすべて彼を見なかった。人々は皆これを怪しんだ。帰還後、果たして殺害された。諸葛恪が殺害された後、妻が家にいて、婢に手を洗わせようとしたところ、婢の血の臭いを嗅いだ。また、婢の目つきや物の見方が尋常でなかったので、妻がその理由を尋ねると、婢は突然躍り上がり、頭が棟に届き、腕を振り上げ歯ぎしりして言った、「諸葛公は孫峻に殺されたのだ。」

呉の孫休の永安四年、安呉の民である陳焦が死んで七日後、再び墓穴を穿って出てきた。干宝は言う。「これは漢の宣帝の時と同じ事である。烏程侯の孫晧が廃された家系を継ぎ、位を得る前兆である。」

呉の孫晧の宝鼎元年、丹陽の宣騫の母が八十歳の時、入浴中に黿(スッポン)に化けた。兄弟は戸を閉めて守り、堂上を掘って大きな穴を作り、中に水を満たした。黿は穴に入って一二日遊び、常に首を伸ばして外を眺め、戸が少し開くのを待ち、くるりと回って自ら跳ね上がり、遠くの池に入り、遂に戻らなかった。これは漢の霊帝の時の黄氏の母の事と同じである。呉が滅亡する兆しである。

魏の元帝の咸熙二年八月、襄武県で大人(巨人)が現れたと報告があった。身長三丈余り、足跡の長さ三尺二寸、髪は白く、黄色い頭巾と黄色い単衣を着て、杖をつき、民の王始を呼んで言った。「今、太平が来るであろう。」間もなく晋が魏に代わった。

晋の武帝の泰始五年、元城の人が七十歳で角が生えた。漢書五行志の説によれば、これは趙王 司馬倫 しばりん 簒奪 さんだつ と乱の兆しであろう。

晋の武帝の咸寧二年二月、琅邪の人顔畿が病死し、棺に納めてから久しく経っていたが、家族は皆、畿が自分に言う夢を見た。「私は生き返る。急いで棺を開けよ。」そこで出したところ、次第に飲食し、体を屈伸し、見回すことができるようになったが、歩行と言葉はできなかった。二年後に再び死んだ。その後、劉淵と 石勒 せきろく が遂に晋室を滅ぼした。

晋の恵帝の元康年間、安豊に女子の周世寧がおり、八歳で次第に男子に化け、十七、八歳で気性が定まった。これは劉淵と 石勒 せきろく が晋室を覆す妖異である。漢の哀帝、献帝の時にも同様の異変があり、いずれも王朝が代わる兆しであった。京房の伝に言う。「女子が丈夫(男子)に化する、これを陰が盛んになり賤しい者が王となるという。丈夫が女子に化する、これを陰が陽に勝ちその咎めは滅亡であるという。」

晋の恵帝の永寧初年、斉王司馬冏が義兵を唱え、乱逆を誅伐し、天子の車駕を正しい位に戻した。突然、婦人が大司馬門に来て出産の場所を借りたいと申し出た。門番が詰問すると、婦人は言った。「私は斉を断ち切って去るだけです。」この時、斉王司馬冏は王室を匡復し、天下はその功績を認めていた。識者はこれを不吉と見なした。後に果たして斬殺された。

永寧元年十二月甲子の日、白髪の老人が斉王司馬冏の大司馬府に入り、大声で「大兵が起こる、甲子の旬を出ないうちに」と叫んだ。司馬冏は彼を殺した。翌年の十二月戊辰、司馬冏は敗北した。これはまさに甲子の旬であった。

晋の恵帝の太安元年四月癸酉、ある者が雲龍門から殿前に入り、北に向かって再拝して言った。「私は 中書監 ちゅうしょかん になるであろう。」即座に捕らえて斬った。干宝は言う。「禁庭は尊厳で秘められた場所である。今、賤しい者が直接入り、門衛が気づかないのは、宮室が空虚になり、下の者がそれを越える妖異である。」この後、帝は北の鄴に遷り、さらに西の長安に遷り、盗賊が宮殿を踏み荒らし、遂に天下を失った。

晋の恵帝の世、梁国の女子が許嫁し、すでに礼聘を受けていたが、間もなくその夫が長安に駐屯することになり、一年経っても帰らなかった。女の家は更に別の人に嫁がせようとしたが、女は行くのを好まず、その父母が強いて迫ったので、やむなく行き、間もなく病気で亡くなった。後にその夫が帰還し、女の所在を尋ねたので、その家は詳しく説明した。その夫は直ちに女の墓に行き、哀情に耐えかね、墓を発き棺を開けたところ、女は生き返り、そこで一緒に帰った。後婿がこれを聞き、役所に訴えて争ったが、その地では決着がつかなかった。秘書郎の王導が議して言った。「これは普通の事ではない。常理で判断すべきではなく、前の夫に返すべきである。」朝廷はその議に従った。

晋の恵帝の世、杜錫の家が葬儀を行った時、婢が誤って(墓穴から)出られなくなった。十数年後、墓を開いて合葬しようとしたところ、婢はまだ生きていた。始めは目を閉じていたが、しばらくして次第に意識を取り戻した。尋ねると、自分では一、二晩しか経っていないと思っていたという。初めに婢が埋められた時は十五、六歳で、墓を開いて生き返った時も、やはり十五、六歳のままであった。嫁がせて子をもうけた。

晋の恵帝の 光熙 こうき 元年、会稽の謝真が子を生んだ。頭が大きく 鬢 があり、両足の裏が上向きに反り返り、男女両方の性器を持っていた。生まれるとすぐに男の声を出し、一日で死んだ。

晋の恵帝、懐帝の世、京師と洛陽に男女両方の体を持つ者がおり、両方の性器を用いることもでき、性質は特に淫らであった。これは乱れた気が生んだものである。咸寧、太康の年号以降、男色が大いに流行し、女色よりも甚だしく、士大夫はこれを尊ばない者はなく、天下は皆これに倣い、ある者は夫婦が離別し、怨みや嫉妬を生む者もいた。故に男女の気が乱れ、妖しい形が現れたのである。

元帝の太興初年、また女子で性器が腹の上にある者がおり、揚州におり、性質も淫らであった。京房の易妖に言う。「人が子を生み、陰部が首にある時は天下大乱、腹にある時は天下に事変あり、背にある時は天下に後継ぎなし。」

晋の懐帝の永嘉元年、呉郡呉県の万祥の婢が子を生んだ。頭は鳥のようで、両足は馬の蹄のよう、片手には毛がなく、黄色で、枕ほどの大きさであった。

晋の愍帝建興四年、新蔡県の役人任僑の妻胡氏、二十五歳、二人の女児を産んだ。向かい合い、腹と心臓が合わさり、胸より上は一体で、臍より下はそれぞれ分かれていた。これは天下が統一されていないことの妖異であろう。当時、内史の呂会が上奏して言うには、「瑞応図によれば、異なる根が同体となるのを連理といい、異なる苗が同じ穂となるのを嘉禾という。草木の異変でさえ瑞祥とされるのに、今二人が心を同じくしている。易経に『二人心を同じくすれば、その利は金を断つ』とある。嘉祥が明らかに現れ、陝東の国に生まれた。これは四海が同心となる瑞祥である。喜び踊るに堪えず、謹んで図を描いて上申する」。当時、識者はこれを嗤った。

晋の中興の初め、ある女性がおり、その陰部が腹にあり、臍の下にあった。中原から江東に来て、性質は甚だ淫らであったが、子を産まなかった。京房の易妖に言う、「人が子を生み、陰部が頭にあると天下は大乱し、腹にあると天下に事変があり、背中にあると天下に後継ぎがいなくなる」。

晋の元帝太興三年十二月、尚書の騶(御者)謝平の妻が女児を産み、地面に落ちると濞濞と音がし、間もなく死んだ。鼻と目は全て頭頂にあり、顔があるべき場所は首のようで、口には歯があり、全て一つに連なり、胸は鼈のようで、手足の爪は鳥の爪のようで、全て下に曲がっていた。京房の易妖に言う、「人が人以外の物を生み、人の目に見えないものは、皆天下に大兵乱が起こる前兆である」。後二年、 石頭 の敗戦があった。

晋の明帝太寧二年七月、丹陽江寧侯紀の妻が死に、三日後に生き返った。

晋の成帝咸康四年十一月辛丑、何者か一人が南止車門に至り、自ら名乗って聖人に使わされた者だと述べた。記録して光祿外部に付して取り調べると、東海郡郯県の呂暢であり、言葉は支離滅裂であったため、髠刑と鞭打ち三百回に処し、追放した。

咸康五年四月、下邳の民王和が暨陽に僑居していた。娘の可、二十歳、自ら言うには、「天から帰還し、瑞祥の印綬を得た。天下の母となるべきである」。晋陵太守は妖妄であるとして、捕らえて獄に下した。十一月になると、ある者が柘の杖を持ち、絳色の衣を着て、止車門口に至り、名乗って聖人の使者であるとし、天子に謁見を求めた。門候が供述を受け取ると、姓は呂、名は錫と述べた。王和の娘の可の右足の下に七星があり、星には皆毛が生え、長さ七寸、天が今、可を天下の母とするよう命じたという。奏上して聞かせると、直ちに誅殺された。併せて晋陵に命じて可を誅した。

晋の康帝建元二年十月、衛将軍の営督過望の管轄する兵士陳瀆の娘の壱の足に文字があり、「天下之母」と書かれていた。灸をすえるとますます明らかになった。京都は騒然となった。役所が捕らえて報告した。間もなく建康県の獄から逃亡した。

石虎の末年、大武殿の前に描かれていた賢人聖人の像の頭が、忽然として全て肩の中に縮み込んだ。

晋の孝武帝寧康の初め、南郡州陵の女性唐氏が、次第に男性に変化した。

晋の安帝義熙七年、無錫の人趙朱、八歳、ある朝突然八尺に成長し、髭や鬚が豊かに生え、三日後に死んだ。

義熙年間、東陽の人黄氏が女児を産んだが養わず、埋めた。数日後に土中で啼き声がしたので、取り出して養うと遂に生き返った。

義熙の末、 章郡呉平県の人に二つの陽物があり、重なって生えていた。

晋の恭帝元熙元年、建安の人に陽物がなく、頭部が平らで、下部は女性の体形をしていた。

宋の文帝元嘉十七年、劉斌が呉郡太守であった。婁県に一人の女性がおり、忽然として夜に風雨に乗じて、恍惚として郡城内に至った。自覚では家を出たのは丁度炊事をしているほどの時間で、衣は濡れていなかった。明け方に城門の上で通報を求め、言うには、「私は天の使者である」。斌が前に呼び寄せると、言うには、「府君は起きて私を迎えるべきである。そうすれば大富貴を得る。そうしなければ、必ず凶禍がある」。斌がどこから来たのか尋ねると、自分でも分からないと言った。狂人であるとして、獄に付し、その家に迎えに行かせた。数日後にようやく去ることができた。その後二十日ほどして、斌は誅殺された。

孝武帝大明年間、張暢が会稽郡太守であった時、妾が妊娠し、腹の中の子が啼き、その声が外に聞こえた。暢は間もなく死んだ。

大明(孝武帝の年号)の末年、荊州武寧県の人物である楊始歡の妻が、腹の中で女児を生んだ。この子は今もなお存命である。

明帝の泰 元年正月、巨人が太子西池の水上に現れ、足跡の長さは三尺余りであった。

後廃帝の元徽年間、南東莞の徐坦の妻が妊娠し、腹の中の子が声を発した。

元徽年間、暨陽県の女性が黄山の洞穴の中で二つの卵を得た。大きさは斗のようで、割って見ると人の形をしていた。

魏の文帝の黄初四年三月、宛と許で大疫病が発生し、死者は数万人に上った。

魏の明帝の青龍二年四月、大疫病が発生した。

青龍三年正月、都で大疫病が発生した。

呉の孫権の赤烏五年、大疫病が発生した。

呉の孫亮の建興二年四月、諸葛恪が新城を包囲した。大疫病が発生し、死者は大半を占めた。

呉の孫晧の鳳皇二年、疫病が発生した。

晋の武帝の泰始十年、大疫病が発生した。呉の地も同様であった。

晋の武帝の咸寧元年十一月、大疫病が発生し、都では死者が十万人に上った。

晋の武帝の太康三年春、疫病が発生した。

晋の恵帝の元康二年十一月、大疫病が発生した。

元康七年五月、秦州と雍州の二州で疫病が流行した。

晋の孝懐帝永嘉四年(310年)五月、秦州・雍州で飢饉と疫病が発生し、秋まで続いた。

永嘉六年(312年)、大規模な疫病が発生した。

晋の元帝永昌元年(322年)十一月、大規模な疫病が発生し、死者は十人のうち二、三人に及んだ。河朔地方も同様であった。

晋の成帝咸和五年(330年)五月、大規模な飢饉と疫病が発生した。

晋の穆帝永和九年(353年)五月、大規模な疫病が発生した。

晋の海西公太和四年(369年)冬、大規模な疫病が発生した。

晋の孝武帝太元五年(380年)五月、冬以来の大規模な疫病がこの夏まで続いた。多くの家が絶えた。

晋の安帝義熙元年(405年)十月、大規模な疫病が発生し、赤い斑点が発出してから治癒した。

義熙七年(411年)春、大規模な疫病が発生した。

宋の文帝元嘉四年(427年)五月、京都で疫病が流行した。

孝武帝大明元年(457年)四月、京邑で疫病が流行した。

大明四年(460年)四月、京邑で疫病が流行した。

魏の文帝黄初二年(221年)六月戊辰の晦の日、日食があった。有司が 太尉 たいい の免職を上奏した。 詔 して言った、「災異が起こるのは、元首を譴責するためである。それを股肱の臣の過失に帰するのは、どうして禹や湯が自らを責めた道理にかなうだろうか。百官にそれぞれその職務に忠実であるよう命じよ。今後、天地に災いがあっても、三公を弾劾してはならない」。

黄初三年(222年)正月丙寅の朔の日、日食があった。十一月庚申の晦の日、また日食があった。

黄初五年(224年)十一月戊申の晦の日、日食があった。その二年後、皇帝(文帝)が崩御した。

魏の明帝の太和初年、太史令の許芝が日蝕が起こると上奏し、 太尉 たいい と共に霊台で祈禱を行った。帝は 詔 を下して言った。「君主の政治に不適切な点があれば、天は災異をもってこれを戒め、譴責して自ら修めるよう告げるものと聞く。ゆえに日月が蝕を起こすのは、政治の道に不適切な点があることを明らかにするのである。朕が即位して以来、すでに先帝の聖徳を輝かすことができず、また教化を施すことが皇神に合わないため、上天がこれに気づかせようとしているのだ。政治を励み自らを修め、神明に報いるべきである。天と人の関係は、父と子の関係のようであり、父が子を責めようとしている時に、盛大な饗宴を捧げて免れようとするようなことはありえない。今、外では上公と太史令を遣わして禳祠を整えようとしているが、その義については聞いたことがない。諸公卿士は、それぞれその職務を励んで修めるように。朕の及ばない点を補うことができるものがあれば、それぞれ封をして上奏せよ。」

魏の明帝の太和五年十一月戊戌の晦、日蝕があった。

太和六年正月戊辰の朔、日蝕があった。(呉の暦に見える。)

魏の明帝の青龍元年閏月庚寅の朔、日蝕があった。

魏の斉王の正始元年七月戊申の朔、日蝕があった。(本紀にはない。)

正始三年四月戊戌の朔、日蝕があった。(本紀にはない。)

正始六年四月壬子、日蝕があった。十月戊寅の朔、また日蝕があった。

正始八年二月庚午の朔、日蝕があった。この時、曹爽が専権し、丁謐、鄧颺らが法度を改変していた。日蝕の変異があったため、 詔 を下して群臣に得失を問うた。蔣済が上疏して言った。「昔、大舜が政治を補佐した時は、徒党を組むことを戒めた。周公が政治を補佐した時は、その仲間について慎重であった。斉の侯が災いを問うと、晏子は恩恵を施すことで答えた。魯の君が異変を問うと、臧孫は労役を緩めることで答えた。変異を塞ぎ天に応じるのは、実は人事によるものである。」蔣済の趣旨の譬えは非常に痛切であったが、君臣は悟らず、ついに敗亡に至った。

正始九年正月乙未の朔、日蝕があった。

魏の斉王の嘉平元年二月己未、日蝕があった。

魏の高貴郷公の甘露四年七月戊子の朔、日蝕があった。

甘露五年正月乙酉の朔、日蝕があった。谷永の説によれば、正月の朝会は、尊者がこれを忌む。京房の占いでは、「日蝕が乙酉に起こるのは、君が弱く臣が強い。司馬が兵を率いて、逆にその王を征伐する。」と言う。五月、成済の変があった。

魏の元帝の景元二年五月丁未の朔、日蝕があった。

景元三年三月己亥の朔、日蝕があった。

晋の武帝の泰始二年七月丙午の晦、日蝕があった。

泰始七年五月庚辰の日、日食があった。

泰始八年十月辛未の朔日、日食があった。

泰始九年四月戊辰の朔日、日食があった。

泰始十年三月癸亥の日、日食があった。

晋の武帝咸寧元年七月甲申の晦日、日食があった。

咸寧三年正月丙子の朔日、日食があった。

晋の武帝太康四年三月辛丑の朔日、日食があった。

太康六年八月丙戌の朔日、日食があった。

太康七年正月甲寅の朔日、日食があった。乙亥の日、 詔 を下して言った。「近年、災異がたびたび起こり、国家がよくないのは、まことに朕の身にある。雷と日食の異変は、その咎はどこにあるのか。どのような措置を講じれば、その過ちを救えるのか。」 太尉 たいい の亮、 司徒 しと の舒、 司空 しくう の瓘が辞任を申し出たが、許さなかった。

太康八年正月戊申の朔日、日食があった。

太康九年六月庚子の朔日、日食があった。その二年後、帝が崩御した。

晋の恵帝元康九年十一月甲子の朔日、日食があった。

晋の恵帝永康元年四月辛卯の朔日、日食があった。

晋の恵帝永寧元年閏三月丙戌の朔日、日食があった。

晋の恵帝 光熙 こうき 元年正月戊子の朔日、日食があった。尊者はこれを忌み嫌った。七月乙酉の朔日、また日食が起こり、皆既となった。占いでは「日が完全に蝕かれると、三月を出ずして、国に凶事がある」と言う。十一月、帝が崩御した。十一月壬午の朔日、また日食があった。

晋の孝懐帝永嘉元年十一月戊申、日食があった。

永嘉二年正月丙午朔、日食があった。

永嘉六年二月壬子朔、日食があった。翌年、帝は平陽で崩御した。

晋の愍帝建興四年六月丁巳朔、日食があった。十一月、帝は 劉曜 りゅうよう に捕らえられた。十二月乙卯朔、また日食があった。翌年、帝は平陽で崩御した。

晋の元帝太興元年四月丁丑朔、日食があった。

晋の明帝太寧三年十一月癸巳朔、日食があった。

晋の成帝咸和二年五月甲申朔、日食があった。

晋の成帝咸康元年十月乙未朔、日食があった。

咸康七年二月甲子朔、日食があった。

咸康八年正月己未朔、日食があった。正朝の儀式で、尊者はこれを忌み嫌った。六月、帝は崩御した。

晋の穆帝永和七年正月丁酉朔、日食があった。

永和十二年十月癸巳朔、日食があった。

晋の穆帝升平四年八月辛丑朔、日食があり、完全に隠れず鉤のようであった。翌年、帝は崩御した。

晋の哀帝隆和元年十二月戊午朔、日食があった。

晋の海西公太和三年三月丁巳朔、日食があった。

太和五年七月癸酉朔(1日)、日食があった。翌年、海西公に廃された。

晋の孝武帝寧康三年十月癸酉朔(1日)、日食があった。

晋の孝武帝太元四年閏月己酉朔(1日)、日食があった。

太元六年六月庚子朔(1日)、日食があった。

太元九年十月辛亥朔(1日)、日食があった。

太元十七年五月丁卯朔(1日)、日食があった。

太元二十年三月庚辰朔(1日)、日食があった。翌年、皇帝が崩御した。海西公の時代にもこのような変異があった。また、臣下が君主の明を覆い隠す者があるという。

晋の安帝隆安四年六月庚辰朔(1日)、日食があった。

晋の安帝元興二年四月癸巳朔(1日)、日食があった。

晋の安帝義熙三年七月戊戌朔(1日)、日食があった。

義熙十年九月丁巳朔(1日)、日食があった。七月辛亥晦(30日)、日食があった。

義熙十三年正月甲戌朔(1日)、日食があった。翌年、皇帝が崩御した。

晋の恭帝元熙元年十一月丁亥朔(1日)、日食があった。

宋の少帝景平二年二月癸巳朔(1日)、日食があった。

文帝元嘉四年六月癸卯朔(1日)、日食があった。

元嘉六年五月壬辰朔(一日)、日食があった。十一月己丑朔(一日)、また日食があり、食分が不完全で鈎のようになり、食の時に星が見え、午後遅くになってようやく没した。河北の地は暗かった。

元嘉十二年正月乙未朔(一日)、日食があった。

元嘉十七年四月戊午朔(一日)、日食があった。

元嘉十九年七月甲戌晦(三十日)、日食があった。

元嘉二十三年六月癸未朔(一日)、日食があった。

元嘉三十年七月辛丑朔(一日)、日食があり、皆既食となり、星辰がすべて見えた。

孝武帝孝建元年七月丙戌朔(一日)、日食があり、皆既食となり、列宿が鮮やかに見えた。

孝武帝大明五年九月甲寅朔(一日)、日食があった。

明帝泰始四年八月丙子朔(一日)、日食があった。十月癸酉(日)、また日食があった。

泰始五年十月丁卯朔(一日)、日食があった。

後廃帝元徽元年十二月癸卯朔(一日)、日食があった。

順帝昇明二年九月 乙巳 いっし 朔(一日)、日食があった。

昇明三年三月癸卯朔(一日)、日食があった。

呉の孫権の赤烏十一年二月、白虹が太陽を貫いた。この時、地もまた頻繁に震動した。孫権は 詔 を発して天の災いを深く戒め恐れた。

晋の武帝泰始五年七月甲寅(日)、日暈が二重になり、白虹がそれを貫いた。

晋の武帝太康元年正月己丑の朔日、五色の気が太陽を冠し、卯の刻から酉の刻まで続いた。占いでは、『君主の道が明らかさを失う。丑は斗・牛を主り、斗・牛は呉の地である』という。この時、孫晧は淫乱で暴虐であり、四月に降伏した。

晋の恵帝元康九年正月、太陽の中に燕が飛んでいるようなものが現れ、数か月後に消えた。王隠は、愍懐太子が廃位され死ぬ前兆であると考えた。

晋の恵帝永康元年十月乙未、太陽が闘い、黄霧が四方に満ちた。占いでは、『三年以内に、下で城を抜く大戦がある』という。

晋の恵帝永寧元年九月甲申、太陽に黒点があった。京房の占いによれば、『黒は陰である。臣下が君主の悪を覆い隠さず、下の者が君主の悪を見るようになると、この変異が起こる』。また、『臣下に君主の明を蔽う者がいる』ともいう。

晋の恵帝永興元年十一月、黒い気が太陽を分けた。

晋の恵帝 光熙 こうき 元年五月癸巳、太陽が散らばり、光が血のように流れ、照らされたものはすべて赤くなった。甲午にもまた同様のことがあった。占いでは、『君主の道が明らかさを失う』という。

晋の孝懐帝永嘉元年十一月乙亥、黄黒の気が太陽を覆い、照らされたものはすべて黄色になった。河図の占いによれば、『日薄である』という。その説では、『日蝕はすべて晦日か朔日に起こるが、晦朔でない場合を日薄という。日月が同じ宿にない時でも、陰気が盛んになって日光を覆い薄めるのである。占いは蝕に類する』。

永嘉二年二月癸卯、白虹が太陽を貫き、青黄の暈が五重になった。占いでは、『白虹が日を貫けば、近臣が乱れなければ、諸侯に兵乱があり、その地は破れ滅びる』という。翌年、 司馬越 しばえつ 繆播 びゅうは らを殺し、君主を軽蔑し辱めた。五年、胡が京都を破り、帝はついに捕虜となった。一説には、王者が兵に包囲される象であるという。

永嘉五年三月庚申、太陽が散らばり、光が血のようになって下に流れ、照らされたものはすべて赤くなり、太陽の中に燕が飛んでいるようなものがあった。

晋の愍帝建武元年正月庚子、白虹が天に満ち、三日が並んで照り、太陽に重暈があり、左右に両珥があった。占いでは、『白虹は兵気である。三、四、五、六日がともに出て争えば、天下に兵乱が起こり、王が立つ数もその数と同じである』という。また、『三日が並び出れば、三旬を過ぎず、諸侯が帝位を争う。日に重暈があれば、天下に王が立つ。暈に珥があれば、天下に侯が立つ』という。故に陳卓は、『大いなる慶事があり、天下は三分されるであろう』と言った。三月にして江東が元号を改め、胡もまた元号を改め、曹氏・劉氏の領域を跨いだ。ここにおいて兵乱は累代にわたって続いた。

晋の元帝太興四年三月癸亥、太陽に黒点があった。四月辛亥、帝が自ら囚徒を取り調べた。

晋の元帝永昌元年十月辛卯、太陽に黒点があった。

晋の明帝太寧元年正月己丑の朔日、日暈があり光がなかった。癸巳、黄霧が四方に満ちた。占いでは、『君主の道が明らかさを失い、臣下に陰謀がある』という。この時、王敦が君主を凌ぎ、ついにその罪に伏した。

晋の成帝咸康元年七月、白虹が太陽を貫いた。

咸康八年正月壬申、太陽の中に黒点があった。丙子、ようやく消えた。

晋の海西公太和四年四月戊辰、日暈が厚く密で、白虹が太陽を貫いた。

太和六年三月辛未、白虹が太陽を貫き、日暈が五重になった。十一月、桓温が帝を廃した。張重華が涼州にいた時、太陽が激しく赤く火のようになり、中に三本足の烏がいて、形がはっきり見え、数日たってやんだ。

晋の安帝元興元年二月甲子、日暈があり、白虹が太陽を貫いた。翌年、桓玄が帝位を 簒奪 さんだつ した。

晋の安帝義熙元年五月庚午、太陽に采珥があった。

義熙十一年、太陽が東井にあり、南で太陽を干すように十丈余りの白虹があった。司馬彪の説によれば、災いは分野にあり、 きょう が滅亡する兆しである。

晋の恭帝元熙二年正月壬辰、日暈があり、東西にそれぞれ一丈の直珥があり、白気が貫いて交差し取り巻いた。

晋の孝懐帝永嘉五年三月丙申の夜、月が皆既食した。丁酉の夜、また皆既食した。占いでは「月が皆既食すると、夫人に憂いがある」と言い、また「その国の貴人が死ぬ」と言う。

安帝義熙九年十二月辛卯の朔日の朝、月がまだ東方に見えた。占いによればこれを「側匿」という。

宋の文帝元嘉二十九年十一月己卯の朔日、太陽が昇り始めると、色は血のように赤く、外側に牙が生え、塊のようで丸くなかった。翌年二月、宮車(天子の乗り物)が夕方に出た(天子が崩御した)。

孝武帝大明七年十一月、太陽が昇り始めて四五丈の高さになると、色は血のように赤く、沈む前の四五丈の高さでも同じようであり、八年の春までに合計三度、これを日死と言った。閏五月、帝が崩御した。

後廃帝元徽三年三月乙亥、太陽が沈む数丈手前で、日色が紫がかった赤で光がなかった。

元徽五年三月庚寅、日暈が五重になり、さらに二本の直暈が生じ、一つは抱き、一つは背いた。

文帝の元嘉年間、二つの白虹が宣陽門外に現れた。

後廃帝元徽二年八月壬子の夜、白虹が現れた。

元徽四年正月己酉、白虹が太陽を貫いた。

従帝昇明元年九月乙未の夜、白虹が東方に現れた。