宋書
志第二十三 五行四
五行伝に曰く、「宗廟を簡略にし、祠を祷らず、祭祀を廃し、天時に逆らえば、則ち水は下を潤さず」という。これは水がその本性を失って災いとなることを指す。また曰く、「聴くことが聡明でない、これを不謀という。その咎は急であり、その罰は常に寒く、その極みは貧である。時に鼓妖あり、時に魚孽あり、時に豕禍あり、時に耳痾あり、時に黒眚・黒祥あり。惟れ火は水を沴す」という。魚孽については、劉歆伝では介蟲の孽とし、蝗に属するものとしている。
魏の文帝の黄初四年六月、大雨が長く降り続き、伊水・洛水が溢れて津陽城門に至り、数千家が流され、人々が溺死した。初め、帝が即位した時、鄴から洛陽に遷都し、宮殿を造営したが、宗廟を建立せず、太祖(曹操)の神主は依然として鄴にあった。かつて建始殿で家族の礼のように饗祭を行ったが、黄初年間を通じて鄴に戻らず、円丘・方沢・南北郊・社・稷などの神位は、定まった場所がなかった。これが宗廟を簡略にし、祭祀を廃したことへの罰である。京房の易伝に曰く、「事を専断して知恵を弄び、誅罰が理を絶つと、その災いは水である。その水は、雨が人を殺し、既に霜が降り、大風が吹き天が黄色くなる。飢饉があっても損なわない、これを泰という。その災いは水で人を殺す。有徳者を避け阻む、これを狂という。その災いは水で、水流が人を殺す。既に水害があれば地に虫が生じる。罪を帰して解かず、これを追非という。その水は寒くて人を殺す。誅罰を追って解かず、これを不理という。その水は五穀を収穫できなくする。大敗しても解かず、これを皆陰という。その水は国邑に流れ込み、霜が降りて穀物を殺す」。
呉の孫権の赤烏八年夏、茶陵県で洪水が溢れ出し、二百余家が流された。十三年秋、丹陽郡故鄣県などでまた洪水が溢れた。孫権が帝を称して三十年の間、ついに建業に七廟を創建せず、ただ父の孫堅の一廟があるだけで、それは遠く長沙にあり、 郊祀 と禋祀の礼が欠けていた。嘉禾の初め、群臣が郊祀を行うよう上奏したが、また許さなかった。末年には一度南郊の祭祀を行ったが、北郊の祭祀は遂に聞かれなかった。また、三江・五湖・衡山・霍山・会稽山は、いずれも呉・楚の望祭の対象であるが、これも祭祀の序列に加えられず、反って羅陽の妖神を礼拝して、福と助けを求めた。天意は言わんとしている、孫権が宗廟を簡略にし、祠を祷らず、祭祀を廃したので、この罰を示し、彼に悟らせようとしたのだと。
太元元年、また大風と水の湧き出る異変があった。この冬、孫権は南郊の祭祀を行った。これは咎徴を鑑みたのだろうか。帰還して臥病した。翌年四月、崩御した。一説には、孫権は当時讒訴を信じて受け入れ、陸議(陸遜)のような勲功の重臣や、太子の孫和でさえも、その終わりを全うできなかった。これは漢の安帝が讒言を聞き、楊震を免官し、太子を廃したことと同じである。また赤烏年間には一年も兵を用いない年がなく、百姓は愁い怨んだ。八年秋、将軍の馬茂らがまた謀反を企てたという。
魏の明帝の景初元年九月、長雨が常を超え、冀州・兗州・徐州・ 豫 州の四州で水が出て、人々が溺死し、財産が流された。帝は即位当初から、すでに淫奢で欲望の極みに達し、多くの幼女を占有し、あるいは士人の妻を奪い、宮殿を飾り立て、農耕と戦闘を妨害し、感情のままに欲望を恣にし、この時にはますます甚だしく、号令は時節に逆らい、飢饉があっても労役を減らさなかった。これが水が下を潤さないことの応報である。
呉の孫亮の五鳳元年夏、大水があった。孫亮が即位して四年経って、ようやく孫権の廟を建立したが、また呉の世が終わるまで、祖宗の号を上らず、厳父の礼を修めず、昭穆の数に欠けがあった。孫亮および孫休・孫晧はまた二郊(南北郊)の祭祀を廃し、群神を祭祀の序列に加えなかった。これが宗廟を簡略にし、祭祀を行わないことへの罰である。またこの時、孫峻が専権を握っていた。これは陰が陽に勝つことの応報であろうか。
呉の孫休の永安四年五月、大雨が降り、水泉が湧き溢れた。昨年、浦里塘を築造したが、費用は数え切れず、田は成らず、兵士は死んだり叛いたり、あるいは自ら殺し合い、百姓は愁い怨み、陰気が盛んになったのである。孫休はまた張布を専任し、盛沖らを退けた。これは呉の人々が彼を賊と見なすことの応報である。
呉の孫休の永安五年八月壬午、大雨が降り雷鳴がとどろき、水泉が湧き溢れた。
晋の武帝の泰始四年九月、青州・徐州・兗州・ 豫 州の四州で大水があった。七年六月、大雨が長く降り、黄河・洛水・伊水・沁水が皆溢れ、二百余人が死んだ。帝が尊位に即いてから、三后(宣帝・景帝・文帝)に祖宗の号を加えず、泰始二年、また明堂南郊の五帝の座を除き、同様に昊天上帝と称し、一位だけとした。また先妣が地を配祀する礼を省いた。これが宗廟を簡略にし、祭祀を廃したことへの罰で、漢の成帝の時と同じである。一説には、昨年およびこの年、薬蘭泥・白虎文が秦州・涼州で 刺史 の胡烈・牽弘を殺し、田璋を派遣して薬蘭泥を討伐した。また司馬望が大軍を率いて淮北に駐屯し孫晧を防いだ。内外に兵役があり、西州は飢饉と混乱に陥り、百姓は愁い怨み、陰気が盛んになった。咸寧の初め、ようやく祖宗の号を上り、太熙の初め、五帝の位を回復した。
晋の武帝の咸寧元年九月、徐州で水害があった。二年七月癸亥、河南郡・魏郡で暴水があり、百余人が死んだ。八月、荊州の郡国五か所で大水があった。昨年、良家の子女を選び採り、顔を露わにして殿中に入れ、帝自らが選び閲し、務めて姿色を求め、德行を訪ねなかった。隠匿する者がいれば、不敬の罪に論じた。搢紳(官僚)は愁い怨み、天下はこれを非とした。陰気が盛んになったことの応報である。
咸寧三年六月、益州・梁州の二州八郡国で暴水があり、三百余人が死んだ。七月、荊州で大水があった。九月、始平郡で大水があった。十月、青州・徐州・兗州・ 豫 州・荊州・益州・梁州の七州でまた水害があった。この時、賈充らが権勢を振るう日々が盛んで、正しい人は疎遠にされる者が多かった。
咸寧四年七月、司州・冀州・兗州・ 豫 州・荊州・揚州の郡国二十か所で大水があった。
晋の武帝の太康二年六月、泰山郡・江夏郡で大水があった。泰山では三百家が流され、六千余人が死んだ。江夏でも人を殺した。この時は呉を平定した後で、王濬が第一の功労者であったが、誹謗と弾劾が妄りに加えられ、荀勗・賈充は無謀であったが、共に重賞を受けた。呉の姫妾五千人を収め、後宮に納れた。これがその応報である。
太康四年(283年)七月、司州、 豫 州、徐州、兗州、荊州、揚州の郡国二十か所で大規模な水害が発生し、秋の穀物が損傷し、家屋が倒壊し、死者が出た。
太康六年(285年)三月、青州、涼州、幽州、冀州の郡国十五か所で大規模な水害が発生した。
太康七年(286年)九月、西方の安定など郡国八か所で大規模な水害が発生した。
太康八年(287年)六月、郡国八か所で大規模な水害が発生した。
晋の恵帝の元康二年(292年)、水害があった。
元康五年(295年)五月、潁川、淮南で大規模な水害が発生した。六月、城陽、東莞で大規模な水害が発生し、死者が出た。荊州、揚州、徐州、兗州、 豫 州の五州でもまた大規模な水害があった。この時、皇帝が即位してすでに五年が経っていたが、まだ天地の郊祀を行っておらず、季節の祭祀も多く自ら親しく行わなかった。宗廟を簡略にし、祭祀を廃した罰である。班固は言う。「王者が即位すれば、必ず天地を郊祀し、山川に望祭する。もし鬼神を敬わず、政令が道理に背けば、霧と水が突然到来し、百川が逆流して溢れ、郷邑を壊し、人民を溺れさせ、水が下を潤さなくなる」。
元康六年(296年)五月、荊州、揚州の二州で大規模な水害が発生した。董仲舒の説によれば、水は陰気が盛んになることによる。この時、賈后が朝廷を乱し、賈氏・郭氏を寵愛して勢力を伸ばしていた。女性君主が専制政治を行うことの応報である。
元康八年(298年)五月、金墉城の井戸の水が溢れた。漢の成帝の時にもこのような妖異があり、班固は王莽の兆しと見なした。趙王 司馬倫 が帝位を 簒奪 した時、これが応じたのである。 司馬倫 はこの城で皇帝を廃位させた。井戸の水が溢れた場所もまた、天意であろうか。
元康八年(298年)九月、荊州、揚州、徐州、兗州、冀州の五州で大規模な水害が発生した。この時、賈后は暴虐で横暴なことがますます甚だしく、韓謐は驕慢で猜疑心を煽り、ついに太子を害し、やがて自身も禍に遭って滅んだ。
元康九年(299年)四月、宮中の井戸の水が沸騰して溢れた。
晋の恵帝の永寧元年(301年)七月、南陽、東海で大規模な水害が発生した。この時、斉王司馬冏が政権を握り、専横で勝手気ままに振る舞っていた。陰気が盛んになったことの応報である。
晋の恵帝の太安元年(302年)七月、兗州、 豫 州、徐州、冀州の四州で水害が発生した。この時、将相が権力を争い、主君を尊ぶ心がなかった。
晋の孝懐帝の永嘉四年(310年)四月、江東で大規模な水害が発生した。この時、王導らはひそかに皇帝を擁立する計画を抱いていた。陰気が盛んになったためである。
晋の元帝の太興三年(320年)六月、大規模な水害が発生した。この時、王敦は内心臣下としての本分を忘れ、傲慢で横暴に振る舞い、威を振るっていた。後に結局誅滅された。
太興四年(321年)七月、大規模な水害が発生した。翌年、 石頭 城での敗戦があった。
晋の元帝永昌二年(323年)五月、荊州および丹陽・宣城・吳興・壽春で大水害が発生した。
晋の明帝太寧元年(323年)五月、丹陽・宣城・吳興・壽陽で大水害が発生した。この時、王敦が忠良を害し、その威権が君主を圧していた。まもなく誅滅された。
晋の成帝咸和元年(326年)五月、大水害が発生した。この時、幼い君主が即位し、母后が摂政として政務を執り、庾亮が元舅として民望を集め、禁中で事を決断していた。陰が陽に勝ったためである。
咸和二年(327年)五月戊子、京都で大水害が発生した。この冬、蘇峻が兵を挙げ、都邑は塗炭の苦しみを味わった。
咸和四年(329年)七月、丹陽・宣城・吳興・會稽で大水害が発生した。この冬、郭默が乱を起こし、荊州・ 豫 州が共同で討伐し、半年かけてようやく平定した。
咸和七年(332年)五月、大水害が発生した。この時、帝はまだ親政しておらず、政務は大臣に委ねられていた。陰が陽に勝ったためである。
晋の成帝咸康元年(335年)八月、長沙・武陵で大水害が発生した。この年三月、石虎の騎兵が歴陽にまで略奪に来襲し、四月には襄陽を包囲した。そこで王導に大司馬を加官し、兵を集めさせた。また趙胤・路永・劉仕・王允之・陳光の五将軍にそれぞれ兵を率いさせて防衛に当たらせた。百姓は愁い怨んだ。陰気が盛んだったためである。
晋の穆帝永和四年(348年)五月、大水害が発生した。この時、幼い君主は幼弱で、母后が朝廷に臨み、また将相大臣がそれぞれ権力と政務を争っていた。咸和初年の状況と同じである。
永和五年(349年)五月、大水害が発生した。
永和六年(350年)五月、大水害が発生した。
永和七年(351年)七月甲辰の夜、濤水が石頭城に入り、死者は数百人に上った。前年、殷浩が私怨で蔡謨を免官し、遠近の人々がこれを非難した。また幼い君主が上にいるのに、殷浩と桓温が互いに憎み合い、兵を選び甲冑を集め、それぞれ私権を高めていた。陰が陽に勝ったことの応報である。一説には、濤水が石頭城に入るのは、江右では兵乱の兆しと見なされていた。この後、殷浩・桓温・謝尚・荀羨が連年征伐を行った。
晋の穆帝升平二年(358年)五月、大水害が発生した。この時、桓温が朝廷の権力を掌握し、征伐を専断していた。
升平五年(361年)四月、大水害が発生した。
晋の海西公太和六年(371年)六月、京都で大水害が発生し、平地で数尺の深さに達し、太廟にまで浸水した。朱雀大航の纜が切れ、三艘の船が大江に流された。丹陽・ 晉 陵・吳國・吳興・臨海の五郡でもまた大水害が発生し、稲作が流され尽くし、民衆は飢饉に陥った。初め、四年(369年)に桓温の北伐が大敗し、兵力の九割を失い、五年(370年)にはまた淮南を征伐し、一年以上かけてようやく平定した。百姓の愁い怨みの応報である。
晋の簡文帝咸安元年(371年)十二月壬午、濤水が石頭城に入った。翌年、妖賊の盧竦が配下数百人を率いて宮殿に入り、武庫の三庫の甲冑兵器を略奪したが、游撃将軍の毛安之が討伐して滅ぼした。
晋の孝武帝太元三年(378年)六月、大水が起こった。この時、孝武帝は幼弱で、政権は将相にあった。
太元五年(380年)、大水が起こった。前年、 氐 族の賊が襄陽を攻め落とし、さらに広陵に向かった。このため江・淮の民を強制的に移住させ、すべて南に渡らせたので、三州は生業を失い、路上に餓死者が相次いだ。謝玄が句難らを破ったものの、その後も征戦と守備が絶えなかった。これは百姓の愁怨に応じたものである。
太元六年(381年)六月、荊州・江州・揚州の三州で大水が起こった。
太元十年(385年)夏、大水が起こった。初め八年(383年)に苻堅を破ったが、その後も中州で事変があり、役務は毎年絶えることがなかった。これは兵士と民衆の愁怨に応じたものである。
太元十三年(388年)十二月、濤水が石頭城に入った。翌年、丁零・鮮卑が司州・兗州の鎮戍を侵擾し、西と北は奔命に疲れた。
太元十五年(390年)七月、兗州で大水が起こった。この時、黄河沿いで紛争が続き、征戦と守備が勤苦を極めていた。
太元十七年(392年)六月甲寅、濤水が石頭城に入り、大航を破壊し、船や舫を漂流させ、死者が出た。京口の西浦でも濤水が入り込み人を殺した。永嘉郡では潮水が涌き起こり、近海の四県で多くの人民が死んだ。後四年して帝が崩御し、王恭が再び京師を攻撃した。京師もまた大軍を発してこれを防いだ。
太元十九年(394年)七月、荊州・ 彭城 で大水が起こり、穀物に被害が出た。
太元二十年(395年)、荊州・彭城で大水が起こった。
太元二十一年(396年)五月癸卯、大水が起こった。この時、政事に多くの弊害があり、万民がこれを非難していた。
晋の安帝隆安三年(399年)五月、荊州で大水が起こった。前年、殷仲堪が兵を挙げて京都に向かった。この年の春、また郗恢を殺した。これは陰が盛んになって威を振るうことに応じたものである。仲堪はまもなく敗れて滅んだ。
隆安五年(401年)五月、大水が起こった。この時、司馬元顕が上を陵いで威を振るい、また桓玄が西夏を専断し、孫恩が東国を乱した。これは陰が陽に勝ったことに応じたものである。
晋の安帝元興二年(403年)十二月、桓玄が帝位を 簒奪 した。その翌年二月庚寅の夜、濤水が石頭城に入った。この時、貢使や商旅の船は万を数えるほど並んでいたが、漂流し破壊され、流れが断たれ、骸骨や肉のついた骨が相次いで見られた。江左にも濤水の変異はあったが、これほど甚だしいものはなかった。三月、義軍が京都を攻略し、玄は敗走した。ついに滅ぼされた。
元興三年(404年)二月己丑朔の夜、濤水が石頭城に入り、漂流して人を殺し、大航が流れて破壊された。
晋の安帝義熙元年(405年)十二月己未、濤水が石頭城に入った。
義熙二年十二月己未の夜、濤水が石頭城に入った。翌年、駱球の父の環がひそかに桓胤・殷仲文らと結託して乱を謀り、劉雅もまた謀反を企てた。合わせて誅滅されたのは数十家に及んだ。
義熙三年五月丙午、大水が起こった。
義熙四年十二月戊寅、濤水が石頭城に入った。翌年、朝廷の軍は北進して鮮卑を討った。
義熙六年五月丁巳、大水が起こった。乙丑、盧循が蔡洲に至った。
義熙八年六月、大水が起こった。
義熙九年五月辛巳、大水が起こった。
義熙十年五月丁丑、大水が起こった。戊寅、西明門の地が穿ち水が湧き出て、門扉と敷居を破壊した。七月乙丑、淮北で災害的な風と大水が人を殺した。
義熙十一年七月丙戌、大水が起こり、太廟が水没し、百官が救護に赴いた。翌年、朝廷の軍は北進して関中・黄河地域を討った。
宋の文帝の元嘉五年六月、京邑で大水が起こった。七年、右将軍の到彦之が軍を率いて黄河に入った。
元嘉十一年五月、京邑で大水が起こった。十三年、 司空 の檀道済が誅殺された。
元嘉十二年六月、丹陽・淮南・呉・呉興・義興の五郡で大水が起こり、京邑では船で移動した。
元嘉十八年五月、江水が氾濫し、住民を溺れさせ、苗や作物を害した。翌年、右軍将軍の裴方明が雍州・梁州の兵を率いて仇池を討伐した。
元嘉十九年・二十年、東部の諸郡で大水が起こった。
元嘉二十九年五月、京邑で大水が起こった。
孝武帝の孝建元年八月、会稽で大水が起こり、平地で八尺の深さになった。二年後、虜が青州・冀州を寇し、羽林軍の兵卒を派遣して討伐した。
孝武帝の大明元年(457年)五月、呉興郡と義興郡で大規模な洪水が発生した。
大明四年(460年)八月、雍州で大規模な洪水が発生した。
大明四年(460年)、南徐州と南兗州で大規模な洪水が発生した。
後廃帝の元徽元年(473年)六月、寿陽で大規模な洪水が発生した。
順帝の昇明元年(477年)七月、雍州で大規模な洪水が発生し、その規模は関羽が樊城を水攻めにした時よりも甚だしかった。
昇明二年(478年)二月、於潜県の翼異山で一晩のうちに五十二箇所から水が湧き出し、住民が流された。七月丙午の朔日、怒涛が石頭城に入り込み、住民は皆流されて水没した。
庶徴(様々な兆候)のうち寒さに関するものについて、劉歆は「大雪、あるいは降るべきでない時に雨や雪が降ること、および大粒の雹、霜が降りて豆や草を枯らすことは、いずれも常に寒さによる罰である」と考えた。京房の『易伝』には、「徳のある者が危険に遭う、これを『逆命』という。その異変は寒さである。誅罰が過度に深いと、暖まるべき時に寒くなり、六日間続くと、雹にもなる。正義を害する者を誅殺しない、これを『養賊』という。寒さが七十二日続き、飛ぶ鳥を殺す。道を説く者が去り始める、これを『傷』という。その寒さでは物が霜も降りずに死に、水が湧き出る。戦いにおいて敵の力量を量らない、これを『辱命』という。その寒さでは雨が降っても物は茂らない」とある。
呉の孫権の嘉禾三年(234年)九月の朔日、霜が降りて穀物を傷つけた。劉向の説によれば、「誅罰が君主から出ず、臣下にある象徴」である。この時、校事の呂壹が専権を振るって威福をほしいままにしており、漢の元帝の時に石顕が権勢を握った時に霜が降ったのと同じ応報である。班固の書には九月二日とあり、陳寿は朔日と言っているが、いずれも穀物を傷つけるには至らなかったことを明らかにしている。呂壹は後に誅殺された。京房の『易伝』には、「兵を起こして妄りに誅殺する、これを『亡法』という。その災いは霜で、夏には五穀を殺し、冬には麦を殺す。誅殺する時に実情を考慮しない、これを『不仁』という。その霜は夏にはまず大雷風があり、冬にはまず雨が降り、それから霜が降り、芒角(鋭い角)がある。賢人聖人が害に遭うと、その霜は木に付着して地に降りない。佞人が刑罰に依る、これを『私賊』という。その霜は草の根や土の隙間にある。教えずに誅殺する、これを『虐』という。その霜は逆に草の下にある」とある。
嘉禾四年(235年)七月、雹が降り、また霜が降った。劉向の説によれば、「雹は陰が陽を脅かすものである」。この時、呂壹が権勢を振るい、重臣を誹謗中傷し、無実の者を陥れていた。太子の孫登以下、皆その毒害に苦しんでいたが、呂壹は逆に侯に封じられ寵愛された。これは春秋時代の公子遂が専任された時に雹が降ったのと同じ応報である。漢の安帝が讒言を信じて多くの無辜の者を殺した時も雹が降った。董仲舒が言うように「凡そ雹は皆何かに脅かされていること、専一の政治を行うこと」によるのである。
呉の孫権の赤烏四年(241年)正月、大雪が降り、平地の深さは三尺に達し、鳥獣の死者が大半を占めた。この年の夏、全琮ら四将軍が淮南と襄陽を攻略し、戦死者は千余人に及んだ。その後、孫権は讒言に惑わされ、たびたび陸議(陸遜)を責め立て、陸議は憤慨して死んだ。これは漢の景帝、武帝の時の大雪と同じ事象である。
赤烏十一年(248年)四月、雹が降った。この時、孫権は讒言を聞き入れ、太子を危うくしようとしていた。その後、朱拠と屈晃は意に逆らって罷免・辱めを受け、陳象は忠言をして誅三族に処せられ、太子はついに廃された。これは「有徳の者が危険に遭い、誅罰が過度に深い」ことの応報である。
晋の武帝の泰始六年(270年)冬、大雪が降った。
泰始七年(271年)十二月、大雪が降った。翌年、歩闡と楊肇の敗北があり、死傷者は非常に多かった。
泰始九年(273年)四月辛未、霜が降った。この時、賈充の親族や党派が結託して権勢を振るっていた。魯の定公の時、漢の元帝の時に霜が降ったのと同じ応報である。
晋の武帝の咸寧三年(277年)八月、平原郡、安平郡、上党郡、秦郡で霜が降り、三種類の豆類に被害を与えた。
咸寧三年(277年)八月、河間で暴風と寒氷が発生し、五つの郡国で霜が降り穀物を損なった。その後、大規模に呉を征伐し、馬隆がまた精鋭を率いて涼州を討伐した。
咸寧五年(279年)五月丁亥、鉅鹿・魏郡で雹が降り禾(粟)と麦を損なった。辛卯、雁門で雹が降り秋の作物を損なった。
咸寧五年(279年)六月庚戌、汲郡・広平・陳留・ 滎陽 で雹が降った。丙辰、また雹が降り、秋の麦千三百余頃を損傷し、家屋百三十余間を破壊した。癸亥、安定で雹が降った。七月丙申、魏郡でまた雹が降った。閏月壬子、新興でまた雹が降った。八月庚子、河東・弘農でまた雹が降り、秋の作物と三種類の豆を損なった。
晋の武帝太康元年(280年)三月、河東・高平で霜と雹が降り、桑と麦を損なった。四月、河南・河内・河東・魏郡・弘農で雹が降り、麦と豆を損なった。五月、東平・平陽・上党・雁門・済南で雹が降り、禾(粟)・麦・三種類の豆を損なった。
太康元年(280年)四月庚午、畿内の二県および東平范陽県で雹が降った。癸酉、畿内の五県でまた雹が降った。この時、王濬は大功があったが、権威ある外戚たちが互いに陥れ抑圧し、帝は悠揚として決断しなかった。陰が陽を脅かす応報である。
太康二年(281年)二月辛酉、済南・琅邪で霜が降り、麦を損なった。壬申、琅邪で雪が降り麦を損なった。三月甲午、河東で霜が降り桑を害した。
太康二年(281年)五月丙戌、城陽・章武・琅邪で麦が損なわれた。庚寅、河東・楽安・東平・済陰・弘農・濮陽・斉国・頓丘・魏郡・河内・汲郡・上党で雹が降り、禾穀を損なった。
太康二年(281年)六月、十六の郡国で雹が降った。
太康三年(282年)十二月、大雪が降った。
太康五年(284年)七月乙卯、中山・東平で雹が降り、秋の作物を損なった。
太康五年(284年)七月甲辰、中山で雹が降った。九月、南安で大雪が降り、木を折った。
太康六年(285年)二月、東海で霜が降り桑と麦を損なった。
太康六年(285年)三月戊辰、斉郡の臨菑・長広・不其などの四県、楽安の梁鄒などの八県、琅邪の臨沂などの八県、河間の易城などの六県、高陽の北新城などの四県で、霜が降り桑と麦を損なった。
太康六年(285年)六月、 滎陽 ・汲郡・雁門で雹が降った。
太康八年(287年)四月、斉国・天水の二郡で霜が降った。十二月、大雪が降った。
太康九年(288年)正月、都の洛陽で大風雨と雹があり、屋根を吹き飛ばし木を引き抜いた。四月、隴西で霜が降りた。
太康十年(289年)四月、八つの郡国で霜が降りた。
晋の恵帝元康二年(292年)八月、沛国および湯陰で雹が降った。
元康三年(293年)四月、 滎陽 で雹が降った。弘農郡の湖県、華陰でもまた雹が降り、深さ三尺に達した。この時、賈后が凶暴で淫らで専横に振る舞い、春秋時代の魯の桓公の夫人(文姜)と同じ事態であった。陰気が盛んだったのである。
元康五年(295年)六月、東海で雹が降り、深さ五寸に達した。十二月、丹陽で雹が降った。
元康五年(295年)十二月、丹陽郡建業で大雪が降った。
元康六年(296年)三月、東海で霜が降り、桑と麦を枯らした。
元康七年(297年)五月、魯国で雹が降った。七月、秦州と雍州の二州で霜が降り、穀物を枯らした。
元康九年(299年)三月十八日、河南、 滎陽 、潁川で霜が降り、禾を傷つけた。五月、雹が降った。この時、賈后の凶暴で躁急な振る舞いはますます甚だしく、この冬についに愍懐太子を廃した。
晋の恵帝永寧元年(301年)七月、襄城で雹が降った。この時、斉王司馬冏が専権を握っていた。十月、襄城、河南、高平、平陽で風と雹があり、木を折り穀物を傷つけた。
晋の恵帝 光熙 元年(306年)閏八月甲申の朔日、霰が降った。劉向は言う。「盛んな陽気の時に雨が降ると湯のように熱く、陰気がこれを脅かすと、転じて雹となる。盛んな陰気の時に雪が降ると凝り固まるが、陽気がこれに迫ると、散じて霰となる。」今、雪が季節外れに降るのは、君主の聡明でないことに対する応報である。
晋の懐帝永嘉元年(307年)十二月の冬、雪が平地三尺積もった。
永嘉七年(313年)十月庚午、大雪が降った。
晋の愍帝建興元年(313年)十一月戊午、会稽で大雨と激しい雹があった。己巳の夜、赤い気が西北に輝き、その夜は大雨と雷電があった。庚午、大雪が降った。劉向の説によれば、「雷は二月に出て八月に入る」という。この月に雷電があるのは、陽気が閉蔵されないためである。すでに発泄したのに翌日すぐ大雪となったのは、いずれも節度を失った異変である。この時、劉載( 劉聡 )が平陽で帝号を僭称し、 李雄 が蜀で皇帝を称し、天下は分裂し、西京(長安)は孤立して衰微していた。君主が時を失った象徴である。
晋の元帝太興二年(319年)三月丁未、成都で風と雹があり、人を殺した。
太興三年三月、海鹽郡に雹が降った。この時、王敦が君主を凌駕していた。
晉 の元帝永昌二年十二月、幽州、冀州、 并 州の三州で大雪が降った。
晉 の明帝太寧元年十二月、幽州、冀州、 并 州で大雪が降った。
太寧二年四月庚子、都で大雨と雹が降り、燕雀が死んだ。
太寧三年三月丁丑、雹が降った。癸巳、霜が降った。四月、大雨と雹が降った。この年、帝が崩御し、まもなく蘇峻の乱が起こった。
晉 の成帝咸和六年三月癸未、雹が降った。この時、帝は幼弱で、政権は大臣にあった。
咸和九年八月、成都に雪が降った。その日、 李雄 が死んだ。
晉 の成帝咸康二年正月丁巳、皇后が太廟で謁見した。その夜、雹が降った。
晉 の康帝建元元年八月、大雪が降った。この時、政権は将相にあり、陰気が盛んだった。春秋時代の魯の昭公の時、季孫宿が専権を握った事と同じである。劉向は言う。「およそ雨は陰であり、雪はさらに雨の陰である。時ならずして現れるのは、事象が迫っている象徴である。」
晉 の穆帝永和三年八月、冀の地方で大雪が降り、人馬多く凍死した。
永和五年六月、臨漳で暴風と激しい雷鳴があり、升ほどの大きさの雹が降った。
永和十年五月、涼州に雪が降った。翌年八月、 枹罕 護軍の張瓘が宋混らを率いて張祚を攻め滅ぼし、改めて張曜霊の弟の玄靚を立てた。京房易伝に言う。「夏に雪が降るのは、臣下が乱を起こす戒めである。」
永和十一年四月壬申朔、雪が降った。十二月戊午、雷が鳴った。己未、雷が鳴った。この時、帝は幼く、母后が称制し、政権は大臣にあった。
晉 の穆帝升平二年正月、大雪が降った。
晉 の孝武帝太元二年四月己酉、雹が降った。十二月、大雪が降った。この時、帝は幼弱で、政権は将相にあった。
太元十二年四月己丑(388年5月18日)、雹が降った。この時、中州で戦事があり、兵役が連年続いていた。
太元二十年五月癸卯(395年6月15日)、上虞で雹が降った。
太元二十一年四月丁亥(396年5月24日)、雹が降った。この時、張夫人が専ら寵愛を受け、皇帝が急死すると、民衆はこれを非難した。
太元二十一年十二月、雪が23日間連続して降った。この時、後継の君主は幼く、宰相が政権を専断していた。
晋の安帝隆安二年三月乙卯(398年4月18日)、雹が降った。この秋、王恭と殷仲堪が討伐の軍を起こしたが、結局皆誅殺された。
晋の安帝元興二年十二月(404年1月)、酷寒がひどすぎた。この時、桓玄が帝位を 簒奪 し、政事が煩雑で苛酷であったのが、その応報である。晋朝の過失は緩慢にあり、桓玄はそれと反対のことをした。劉向が言う「周が衰えると寒い年がなくなり、秦が滅ぶと暖かい年がなくなった」とは、このことを言うのである。
元興三年正月甲申(404年2月16日)、霙が降り、また雷が鳴った。雷と霙は同日に起こるべきではないのに起こったのは、節度を失った応報である。二月、義兵が起こり、桓玄は敗れた。
元興三年四月丙午(404年5月8日)、江陵で雹が降った。この時、安帝は都を追われていた。
晋の安帝義熙元年四月壬申(405年5月19日)、雹が降った。この時、四方はまだ統一されておらず、征戦の太鼓の音が日々警戒を促していた。
義熙五年三月己亥(409年4月15日)、雪が数寸積もった。
義熙五年五月癸巳(409年6月8日)、溧陽で雹が降った。九月己丑(409年10月2日)、広陵で雹が降った。翌年、盧循が蔡洲に至った。
義熙五年九月己丑(409年10月2日)、広陵で雹が降った。
義熙六年正月丙寅(410年2月16日)、雪が降り、また雷が鳴った。
義熙六年五月壬申(410年6月22日)、雹が降った。
義熙八年四月辛未朔(412年5月5日)、雹が降った。六月癸亥(412年7月26日)、雹が降り、大風が家屋を破壊した。この秋、劉藩らが誅殺された。
義熙十年四月辛卯(414年)、雹が降った。
宋の文帝の元嘉九年(432年)春、都で雹が降り、溧陽・盱眙では特にひどく、牛馬を傷つけ、禽獣を殺した。
元嘉十八年(441年)三月、雹が降った。二十五日、虜が青州を侵した。
元嘉二十五年(448年)正月、雪が積もり、氷のように寒かった。
元嘉二十九年(452年)五月、盱眙で雹が降り、鶏卵ほどの大きさであった。三十年(453年)、国家に禍乱が起こり、戦争が大いに起こった。
孝武帝の大明元年十二月庚寅(457年)、大雪が降り、平地で二尺余りの深さになった。翌年、虜が冀州を侵し、羽林軍を派遣して北討させた。
明帝の泰始五年四月壬辰(469年)、京邑で雹が降った。
後廃帝の元徽三年五月乙卯(475年)、京邑で雹が降った。
魏の明帝の景初年間(237-239年)、洛陽城の東橋と洛水の浮橋の桓楹が、同日に三箇所で揃って震動した。まもなくまた西城の上にある候風木の飛烏が震動した。この時、労役が大いに起こり、帝はまもなく崩御した。
呉の孫権の赤烏八年(245年)夏、宮門の柱が雷に打たれた。また南津の大橋の桓楹を打った。
孫亮の建興元年十二月朔(252年)、大風が吹き、雷電が走った。この月、また雷雨があった。意味は前の説と同じである。亮はついに廃位された。
晋の武帝の太康六年十二月甲申朔(285年)、淮南郡で雷電が走った。
太康七年十二月己亥(286年)、毗陵で雷電が走り、南沙の司塩都尉戴亮がこれを報告した。
太康十年十二月癸卯(289年)、廬江・建安で雷電と大雨があった。
晋の恵帝の永康元年六月癸卯(300年)、崇陽陵の標の西南五百歩の所が雷に打たれ、標は七十片に破れた。この時、賈后が鼎輔(重臣)を陥れ害し、私的な縁者を寵愛して勢力を築いていた。漢の桓帝の時に憲陵の寝殿が雷に打たれたのと同じ事である。后はついに誅殺された。
晋の恵帝永興二年(305年)十月丁丑の日、雷鳴と稲妻があった。
晋の懐帝永嘉四年(310年)十月、雷鳴と稲妻があった。
晋の元帝永昌二年(323年)七月丙子の朔日、雷が太極殿の柱を震わせた。
永昌二年(323年)十一月、会稽郡と呉郡で雷雨と稲妻があった。
晋の明帝太寧元年(323年)七月丙子の朔日、雷が太極殿の柱を震わせた。
晋の成帝咸和元年(326年)十月己巳の日、会稽郡で大雨と雷鳴・稲妻があった。
咸和三年(328年)六月辛卯の日、臨海郡で大きな雷があり、郡府内の小屋の柱十本を破壊し、人を殺した。
咸和三年(328年)九月二日(立冬)、会稽郡で雷鳴と稲妻があった。
咸和四年(329年)十二月、呉郡と会稽郡で雷鳴と稲妻があった。
咸和四年(329年)十二月、丹陽郡で雷鳴と稲妻があった。
晋の穆帝永和七年(351年)十月壬午の日、雷雨と雷鳴・稲妻があった。
晋の穆帝升平元年(357年)十一月庚戌の日、雷鳴があった。乙丑の日にもまた雷鳴があった。
升平五年(361年)十月庚午の日、雷が東南の方角から起こった。
晋の孝武帝太元五年(380年)六月甲寅の日、雷が含章殿の四本の柱を震わせた。
太元五年(380年)十二月、雷の音が南方にあった。
太元十四年七月甲寅の日、宣陽門の西柱に雷が落ちた。
晋の安帝隆安二年九月壬辰の日、雷雨があった。
晋の安帝元興三年、永安皇后が巴陵から到着した。儀仗を整えて宮中に入ろうとしたところ、天に雷鳴が轟き、人と馬がそれぞれ一体ずつ雷に打たれて死んだ。
晋の安帝義熙四年十一月辛卯の朔日、西北から疾風が吹いた。癸丑の日、雷が鳴った。
義熙五年六月丙寅の日、太廟に雷が落ち、東側の鴟尾を破壊し、壁柱を貫通した。
義熙六年正月丙寅の日、雷が鳴り、さらに雪が降った。
義熙六年十二月壬辰の日、激しい雷が鳴った。
義熙九年十一月甲戌の日、雷が鳴った。乙亥の日、また雷が鳴った。
宋の文帝元嘉四年十一月癸丑の日、雷が鳴った。
元嘉五年六月丙寅の日、太廟に雷が落ち、東側の鴟尾を破壊し、壁柱を貫通した。
元嘉六年正月丙寅の日、雷が鳴り、しかも雪が降った。
元嘉七年十月丙子の日、雷が鳴った。
元嘉八年十二月庚辰の日、雷が鳴った。
元嘉九年十一月甲戌の日、雷が鳴り、しかも雪が降った。
元嘉十四年、初寧陵の入口の標柱に雷が落ち、四つに裂けて地面まで達した。十七年、大将軍彭城王劉義康が廃位された。骨肉が互いに害し合うことが、ここから始まったのである。
前廃帝景和元年九月甲午、雷が鳴動した。
明帝泰始二年九月辛巳、雷が鳴動した。
泰始四年十月辛卯、雷が鳴動した。
泰始四年十一月癸卯朔、雷が鳴動した。
泰始五年十一月 乙巳 、雷が鳴動した。
泰始六年十一月庚午、雷が鳴った。
後廃帝元徽三年九月戊戌、雷が鳴った。
元徽三年九月丁未、雷が鳴った。
元徽三年九月戊午、雷が鳴動した。
元徽三年十月辛未、雷が鳴った。甲戌、また雷が鳴った。
従帝昇明三年二月二十四日丙申、建陽門に雷が落ちた。
晋の恵帝元康九年三月、牛のような音が許昌城から出た。十二月、太子は廃され、許宮に幽閉された。春秋の晋の文公の棺から牛のような音がしたという故事があり、劉向はこれを鼓妖としている。その説によれば、「このような音は怒りの象徴である。急激な怒りによる謀略が起こり、兵甲の禍が生じるであろう」という。これはその類である。翌年、賈后は黄門の孫慮に命じて太子を殺害させ、薬杵で打ち殺した。その音は外まで聞こえた。
蘇峻が歴陽にいた時、外営の将軍の太鼓がひとりでに鳴り、人が太鼓を弄んでいるようであった。蘇峻は自ら手を下してそれを斬りつけ、「我が郷里では昔、このようなことがあると城が空になる(滅びる)前兆だった」と言った。間もなく反乱を起こして滅ぼされた。これは聴覚が明瞭でないことへの罰であり、鼓妖が先に現れたのである。
石虎の末年、洛陽城の西北九里にある青石の台座の上の石牛が、突然鳴き叫び、その声は四十里先まで聞こえた。石虎は人を遣わしてその両耳と尾を打ち落とし、鉄の釘で四本の脚を打ち付けた。
晋の孝武帝太元十五年三月己酉朔、東北の方角から雷のような音がした。劉向の説によれば、「雷は雲に託って現れるものであり、君主が臣下に託って統治するのと同じである」という。雲がないのに雷が鳴るのは、君主が臣下を顧みず、下民が反逆しようとする兆しである。やがて帝が崩御すると天下は次第に乱れ、孫恩や桓玄が相次いで京邑を侵した。
呉興郡長城県の夏架山に石鼓があり、長さ一丈余り、表面の直径は三尺ほどで、下に盤石があって足となっている。鳴ると音は金鼓のようで、三呉に兵乱があると鳴る。晋の安帝隆安年間に大いに鳴り、後に孫霊秀の乱が起こった。
魏の斉王嘉平四年五月、二匹の魚が武庫の屋上に集まった。これは魚の妖異である。王粛は言った。「魚は淵に生まれ、屋上に上がるとは、鱗や甲羅を持つものがその場所を失ったということだ。辺境の将軍に、おそらく甲冑を捨てるような変事があるだろう。」後に果たして東関の敗戦があった。干宝はまた、高貴郷公の兵禍の兆しと考えた。両説とも班固の趣旨と同じである。
晋の武帝太康年間、鯉魚二匹が武庫の屋上に現れた。干宝は言った。「武庫は兵器の府である。魚には鱗や甲羅があり、これも兵器の類である。魚は極陰のものであり、屋上は太陽である。魚が屋上に現れるのは、至陰のものが兵革の禍をもって太陽を犯す象徴である。」恵帝の初めに至り、楊駿が誅殺され、太后が廃され、矢が館閣に交わった。元康の末、賈后が太子を誹謗して殺害し、やがて賈后も誅殺・廃位された。十年の間に、母后の難が二度起こった。これがその応である。これより禍乱が構築された。京房の易妖に言う。「魚が水を離れ、道路に飛び入れば、兵乱が起こらんとする。」
魏の文帝黄初三年七月、冀州で大蝗害があり、民は飢えた。蔡邕の説によれば、「蝗害は、上に貪欲で苛酷な者がいることによって起こる」という。この時、孫権は帰順していたが、帝は彼に西陵の戦役があったことを理由に大軍を挙げて襲撃し、孫権はついに背反した。
晋の武帝泰始十年六月、蝗害があった。この時、荀氏と賈氏が政権を握り、公正な者を憎み害した。
晋の孝懐帝永嘉四年五月、大蝗害があり、幽州・ 并 州・司州・冀州から秦州・雍州に至るまで、草木や牛馬の毛鬣がことごとく食い尽くされた。この時、天下は兵乱にあり、民を漁猟のごとく苦しめ、存亡の鍵は 司馬越 と苟 晞 のみにあったが、彼らは競って暴虐苛酷にふけり、経略に秩序がなかった。
晋の愍帝建興四年六月、大蝗害があった。昨年、胡の賊が頻繁に北地・馮翊を攻撃し、 麴允 らが全軍でこれを防いだ。この時、また 劉曜 を防いだが、 劉曜 に破られ、西京はついに陥落した。
晋の元帝太興元年六月、蘭陵郡合郷で蝗害があり、禾穀を害した。乙未の日、東莞郡で蝗虫が縦横三百里に広がり、苗や穀物を害した。
太興元年七月、東海・彭城・下邳・臨淮の四郡で蝗虫が禾と豆を害した。
太興元年八月、冀・青・徐の三州で蝗が生草を食い尽くし、二年に及んだ。この時、中州は陥落し、暴乱がますます甚だしくなった。
太興二年五月、淮陵・臨淮・淮南・安豊・廬江の諸郡で蝗が秋の麦を食った。
太興三年五月癸丑、徐州および揚州江西の諸郡で蝗害があり、呉の民は多く餓死した。去年、王敦が荊州を兼ねて領有し、苛酷暴虐の禍はここから起こった。またこの年の初め、徐州 刺史 蔡豹が軍を率いて周撫を討伐した。
晋の孝武帝太元十五年八月、兗州で蝗害があった。この時、丁零が兗州・ 豫 州を寇し、鮮卑が河南に迫り、征戦と戍守が止まなかった。
太元十六年五月、飛蝗が南から来て、堂邑県の境界に集まり、苗や穀物を害した。この年の春、江州の兵営から甲士二千人とその家族六七千人を徴発し、護軍と東宮に配属したが、後に散亡してほとんどいなくなった。また辺境の将軍が連続して征役に就いた。
呉の孫晧宝鼎元年、野猪が右大司馬丁奉の営舎に入った。これは豕の禍である。後に丁奉は穀陽を攻撃するよう派遣されたが、功績なく帰還し、孫晧は怒ってその導軍を斬った。また大軍を挙げて北に出撃した時、丁奉と万彧らは互いに言った。「もし華里まで行ったら、各自引き返さざるを得ない。」この謀議が漏れ、丁奉はすでに死んでいたが、孫晧は穀陽の件を追及し、その子の丁温を殺し、家族は皆遠方に流された。これが豕禍の応である。龔遂は言った。「山野の獣が宮室に入るのは、宮室が空になる前兆である。」これもまたその象徴である。
晋の孝懐帝の永嘉年間、寿春城内で豚が二つの頭を持って生まれたが生きられなかった。周馥がこれを取り上げて観察した。当時、数術に通じた者がひそかに言った。「豚は北方の家畜で、胡や狄の象徴である。二つの頭を持つのは、上に立つ者がいないことを意味する。生まれてすぐ死ぬのは、事が成就しないことである。天の意思は、専権や利を図る謀略を起こすな、自ら滅亡を招くであろう、と言っているのだ。」周馥は悟らず、ついに天子を迎え、諸侯を従えようとしたが、まもなく元帝に敗れた。これがその応報である。 石勒 もまた間もなく淮河を渡り、百姓の死者は十のうち八九に及んだ。
晋の愍帝の建武元年、足が八本ある豚が生まれた。これは聴覚が明瞭でないことへの罰である。京房の易伝に言う。「およそ妖が起こる時は、それぞれその類のものを象徴する。足が多いのは、任用される者が邪であることを示す。」この後、劉隗の変乱があった。
晋の成帝の咸和六年六月、銭塘の民家の雄豚が二頭の子を産み、いずれも人の顔をしており、胡人のような様子で、その体は依然として豚であった。京房の易妖に言う。「豚が人の頭と豚の体を持って生まれるのは、その邑がまさに乱れて滅亡する兆しである。」これは雄豚が産んだもので、異変の中でも最も甚だしいものである。
晋の孝武帝の太元十年四月、京都で豚が一つの頭に二つの体と八本の足を持っていた。十三年、京都の民家の豚が子を産み、一つの頭に二つの体と八本の足を持っていた。いずれも建武年間の妖異と同じである。この後、宰相が酒に溺れて酔いしれ、朝政を顧みず、側近が権力を握り、次第に国の綱紀を乱し、ついに大いに破綻するに至った。
晋の孝懐帝の永嘉五年十二月、黒い気が四方に満ちた。これは黒い災いの前兆に近いものである。
宋の文帝の元嘉二十六年三月、帝が京口に行幸した。黒い気が突然立ち上がり、占うと兵乱の兆しがあった。翌年、虜(北魏)が南侵して瓜歩に至り、長江で馬に水を飲ませた。
晋の武帝の太康五年六月、任城と魯国の池の水がすべて血のように赤くなった。劉向の説によれば、これは火が水を害する兆しに近い。聴覚が明瞭でないことへの罰である。京房の易伝に言う。「色欲にふけり、賢人が潜み、国家が危うくなると、その異変として水が赤く流れる。」
晋の穆帝の升平三年二月、涼州城の東の池の中に火があった。四年四月、姑臧の沢の水中にもまた火があった。これは火が水を害する妖異である。翌年、張天錫が中護軍の張邕を殺した。張邕は政権を執る臣であった。
晋の安帝の元興二年十月、銭塘の臨平湖の水が赤くなった。桓玄は呉郡に暗示して、これを開拓除去の瑞兆であると上言させ、自分の吉兆とした。まもなく桓玄は敗れた。