巻32

宋書

志第二十二 五行三

五行伝に曰く、「法律を棄て、功臣を逐い、太子を殺し、妾を妻と為せば、則ち火は上に炎上せず」という。これは火がその本性を失って災いとなることを指す。また曰く、「視ること明らかならず、是れ哲ならざると謂う。その咎は 舒 にあり、その罰は恒懊(常にうっとうしく)、その極みは疾(病気)なり。時に則ち草妖有り、時に則ち臝蟲の 孽 有り、時に則ち羊禍有り、時に則ち目痾有り、時に則ち赤 眚 ・赤 祥 有り。惟れ水は火を 沴 う」という。臝蟲については、劉歆伝では羽蟲としている。

魏の明帝の太和五年五月、清商殿が災害に遭った。初め、帝は平原王であった時、河南の虞氏を妃に迎えた。即位した後、彼女を皇后とせず、代わりに典虞車工卒の毛嘉の娘を立て、これが悼皇后である。后は元々身分が低く、皇后に昇るべきではなかった。これは妾を妻としたことへの罰である。

魏の明帝の青龍元年六月、洛陽宮の鞠室が災害に遭った。

青龍二年四月、崇華殿が災害に遭い、南閣に延焼した。修復したが、三年七月にまたこの殿が災害に遭った。帝が高堂隆に問うた、「これは何の咎か?礼に祈禳の義はあるか?」対えて曰く、「災変が起こるのは、皆教誡を明らかにするためである。ただ礼に従い徳を修めることで、これを克服できる。易伝に曰く、『上儉ならず、下節せず、孽火その室を焼く』。また曰く、『君その臺を高くす、天火災いと為る』。これは人君が宮室を飾るばかりで、百姓が空しく尽きることを知らないため、天が旱魃をもって応じ、火が高殿から起こるのである。旧来の占いによれば、災火が起こるのは、皆臺榭宮室を誡めるためである。今は民役を罷散し、節約に努め、災害のあった場所を清掃し、ここに何かを営造しようとしないべきである。萐莆や嘉禾が必ずこの地に生じ、陛下の虔恭の徳に報いるであろう」。聞き入れられなかった。遂に崇華殿を再建し、九龍と改称した。郡国から前後して龍が現れたと九度言上されたため、この名とした。多く法度を棄て、民を疲れさせて欲望を逞しくし、妾を妻としたことへの応報である。

呉の孫亮の建興元年十二月、武昌の端門が災害に遭った。端門を改作したが、また内殿が災害に遭った。春秋によれば、魯の雉門及び両観が災害に遭った。董仲舒は、天意が定公に季氏を誅させようとしたとし、高く顕著で奢り僭上する者を取り除けと言うようなものだとしている。漢武帝の世、遼東の高廟が災害に遭ったが、その説も同じである。今この事は二つの事柄に頗る類似している。かつ門は号令の出る所、殿は政を聴く所である。この時、諸葛恪が政を執り、傲慢で放肆であり、孫峻が禁旅を総べ、険害が終に著しかった。武昌は孫氏が尊号を始めた地であり、天戒は言うようである、その貴要の首たる者を除くべしと。諸葛恪は果たして衆を喪い民を滅ぼし、孫峻は政を孫綝に授け、孫綝は孫亮を廃した。あるいは言う、孫権が武昌を撤去して太初宮を増築し、諸葛恪に遷都の意があり、門殿を改めて起こしたが、事が時宜に適わなかったため、災害に見舞われたのだと。京房の易伝に曰く、「君道を思わざれば、厥の妖火宮を焼く」。

呉の孫亮の太平元年二月朔、建業で火災があった。人為的な火災である。この秋、孫綝が初めて政を執り、孫亮の 詔 と偽って呂據・滕胤を殺し、翌年、また勝手に朱異を殺した。法律を棄て、功臣を逐ったことへの罰である。

呉の孫休の永安五年二月、白虎門の北楼が災害に遭った。六年十月、 石頭 の小城で火災があり、西南百八十丈を焼いた。この時、寵臣の張布が国勢を専擅し、多くの無礼を行い、韋昭・盛冲は終に斥けられ用いられず、兼ねて察戦等を使者として遣わし、州郡を驚擾させ、交趾の反乱を引き起こした。これがその咎である。

呉の孫晧の建衡二年三月、大火災があり、一万余りの家を焼き、死者七百人を出した。春秋によれば、斉で火災があった。劉向は、桓公が女色を好み、女の言葉を聞き入れ、妻妾を数えきれないほど替えたことへの罰であるとしている。孫晧の制令は詭暴で、法度を蕩棄し、功労ある臣や名士を多く誅斥した。後宮は一万余り、女謁が頻繁に行われ、その中で隆寵を受け皇后の璽を佩く者も多かった。故に大火災があったのである。

晋の武帝の太康八年三月乙丑、西閣と楚王の止まっていた坊、及び臨商観の窓が雷火の災害に遭った。

太康十年四月癸丑、崇賢殿が災害に遭った。十月庚辰、含章鞠室・脩成堂前廡・丙坊東屋・煇章殿南閣が火災に遭った。時に上書する者があった、「漢の王氏の五侯兄弟が代わる代わる重任し、今楊氏の三公が並んで高位にある。天変が屡々現れるのは、窃かに陛下の為に憂える」。楊珧はこれにより退くことを乞うた。この時、帝は馮紞の讒言を容れて張華の功績を廃し、楊駿の讒言を聞いて えい 瓘の寵愛を離した。これは功臣を逐ったことへの罰である。翌年、帝は崩御した。その後、楚王が密かに発した旨を受け、二公を戮害したが、自身も免れなかった。雷火がその坊を災害に遭わせたのも、また天意であろうか。

晋の恵帝の元康五年閏月庚寅、武庫が火災に遭った。張華は乱があると疑い、先ず固守し、その後で救災した。このため累代の異宝、王莽の頭、孔子の履、漢の高祖の白蛇を斬った剣及び二百万人分の器械が、一時に蕩尽した。この後、愍懐太子が殺害された。太子を殺したことへの罰である。天戒は言うようである、険阻を設け柝を撃つのは、その国を固めるためであり、戎器を儲積するのは、不虞に戒めるためである。今、嫡嗣が傾かんとし、 社稷 しゃしょく が滅びんとしている。禁兵は再び施す所なく、皇旅はまた誰が衛るのかと。帝も后も悟らず、終に四海を喪った。これがその応報である。張華・閻纂は皆言った、武庫が火災に遭い てい きょう が反乱し、太子が廃されるなら、四海の状況は知れると。

元康八年十一月、高原陵が火災に遭った。この時、賈后が凶暴で恣肆、賈謐が朝廷を擅にし、悪が積み罪が熟し、誅絶されるべきであった。天戒は言うようである、臣妾にして不可なる者は、親貴で比ぶる者なきほどでも、猶忍んでこれを誅すべし、吾が高原陵を焼くが如くに、と。帝は既に老耄で弱く、張華もまた裴 頠 ・劉卞の謀を納れなかったため、后は遂に賈謐と共に太子を誣殺したのである。干宝は云う、「高原陵の火災は、太子の廃立の応報である。漢武帝の世、高園の便殿が火災に遭い、董仲舒の対はこの占いと同じである」。

晋の恵帝の永康元年、帝は羊氏を皇后に立てた。后が宮中に入ろうとした時、衣の中に忽然と火が起こり、衆皆怪しんだ。太安二年、后の父の玄之は成都王の逼迫により憂死した。永興元年、成都王は遂に后を廃し、金墉城に置き、その叔父の同之を殺した。その後、還って再び立てられ、立てられてはまた廃されることが四度あり、また 詔 を賜って死を命じられたが、荀藩の上表により命は全うされた。末に再び在位に還ったとはいえ、憂逼と折辱は、終古未聞であった。これは孽火の応報である。

晋の恵帝永興二年(305年)七月甲午の日、尚書の諸曹が火災に遭い、崇礼闥と閣道に延焼した。百揆は王化の根本であり、王者が法律を捨て去ったことの応報である。清河王 司馬覃 しばたん が晋の後継者として入朝したが、その地位を全うせず、また太子を殺したことへの罰でもあった。

晋の懐帝永嘉四年(310年)十一月、襄陽で火災が発生し、三千人以上が死亡した。この時、王如が自ら大将軍・司雍二州牧を称し、四、五万の兵を率いて郡県を攻略し、自らの領地としていた。 都督 ととく は力尽きて城に籠もって守りを固めたが、賊軍は襄陽を攻め迫った。これは下が上を陵駕し、陽が節度を失ったため、火災が発生したのである。

晋の元帝太興年間(318年‐321年)、王敦が武昌を鎮守していた。武昌で火災が発生し、兵を動員して消火に当たった。こちらで消火活動をしていると、あちらで火が出るという具合で、東西南北数十か所で次々と火災が発生し、数日間絶えなかった。班固が言うところの、炎がむやみに燃え上がり、たとえ軍隊を動員しても救えないという状態である。干宝は言う。「これは臣下でありながら君主の振る舞いをし、陽気が過剰になって節度を失った災いである。」

晋の元帝永昌二年(323年)正月癸巳の日、都で大火災が発生した。三月、饒安・東光・安陵の三県で火災が発生し、七千戸余りを焼き、一万五千人が死亡した。

晋の明帝太寧元年(323年)正月、都で火災が発生した。この時、王敦は朝廷を威圧して侮り、礼に外れた行いが多く、内外の臣下は皆、怨みと憎悪を抱いていた。陰が極まって陽を生じたため、火災が発生したのである。これは董仲舒が『春秋』の陳の火災について述べたことと同じ事柄である。

晋の穆帝永和五年(349年)六月、石虎の太武殿と両廂、端門が雷火に遭い、光が天を照らすほど燃え盛り、金属や石材まですべて焼き尽くされ、火は一か月余りしてようやく消えた。この年の四月、石虎は死んだ。その後、胡(後趙)は滅亡した。

晋の海西公太和年間(366年‐371年)、郗愔が会稽 太守 であった。六月、大旱魃が続き、火災が数千戸を焼き、山陰の倉庫の米数百万斛にまで延焼した。炎と煙が空を覆い、消火することができなかった。

晋の孝武帝寧康元年(373年)三月、都で大風が吹き、大火災が発生した。この時、桓温が朝廷に入り、上を凌ごうとする志を持ち、幼い皇帝が即位したため、人々は憂いと恐れを抱いていた。これは太寧の火災と同じ事柄である。

晋の孝武帝太元十年(385年)正月、国子学が設立された。学生たちは多くが頑迷で口うるさく、風に乗じて放火し、百余りの部屋を焼いた。この後、試験や評価が厳格でなく、賞罰に規律がなく、人材を育てる名目はあっても、賢者を登用する実績はなかった。書経に言う。「人を知ることは聡明である。」これは聡明でないことへの罰の前兆であった。

太元十三年(388年)十二月乙未の日、延賢堂が火災に遭った。丙申の日、螽斯堂・則百堂および客館、 驃騎 庫がすべて火災に遭った。この時、朝廷には弊政が多く、衰退の兆しが日に日に現れていた。聡明でないことへの罰は、すべて象 徴 的な形で現れていた。君主と宰相が悟らなかったため、ついに乱れ滅亡に至ったという。

晋の安帝隆安二年(398年)三月、龍舟二艘が火災に遭った。これは水が火を害する(水沴火)現象である。

晋の安帝元興元年(402年)八月庚子の日、尚書の下舎曹が火災に遭った。

元興三年(404年)、盧循が広州を攻略し、 刺史 しし の呉隠之は城門を閉じて固守した。この年の十月壬戌の夜、大火災が発生した。当時、民衆は賊を避けて城内に満ちあふれていた。隠之は賊に内応する者がいることを恐れ、ひたすら兵を厳重に配置することに務め、まず火を消すことをしなかった。このため、官舎は焼き尽くされ、一万余人が死亡し、それによって兵士は散り散りになり、すべて賊の捕虜となった。これはほぼ襄陽の火災と同じ占いであった。

晋の安帝義熙四年(408年)七月丁酉の日、尚書殿中の吏部曹が火災に遭った。

義熙十一年(415年)、都のあちこちで大規模な火災が頻発し、特に呉の地域がひどかった。防火対策は非常に厳重であったが、それでも火災は絶えなかった。王弘が当時呉郡太守であったが、昼間に役所の政庁に座っていると、天上に一つの赤い物体が降りてくるのを見た。その形は信幡のようで、まっすぐに道の南側の民家の屋根に落ち、火はたちまち再び大きく燃え上がった。王弘は天がもたらした災いであると悟り、火元の家主を罪に問わなかった。

宋の文帝の元嘉五年正月戊子の日、都で大火災が発生した。

元嘉七年十二月乙亥の日、都で火災が起こり、延焼して太社の北の壁を焼いた。

元嘉二十九年三月壬午の日、都で大火災が発生し、風雷が非常に激しかった。

後廃帝の元徽三年正月己巳の日、都で大火災が発生した。

元徽三年二月戊辰の日、都で大火災が発生し、両岸の数千家を焼いた。

常に暖かいという庶徴(異常な兆候)について、劉向と班固は、冬に氷がなくなり霜が草を枯らさないことで応じるとした。京房の『易伝』にはまた、「夏には暑さが人を殺し、冬には物が花を咲かせ実を結ぶ」とある。

呉の孫亮の建興元年九月、桃と李が花を咲かせた。孫権の時代は、政務が煩雑で賦税が重く、民は労役に疲弊していた。この時、諸葛恪が初めて政務を補佐し、校官を廃止し、未納の税を免除し、関所の税を撤廃し、寛大で厚い政治を重んじた。これは緩やかで寛大な政治の兆しである。一説には、桃や李が寒中に花を咲かせるのは草の妖(草木の異常現象)であり、あるいは花の災い(華孽)に属するという。

魏の元帝の景元三年十月、桃と李が花を咲かせた。高貴郷公が殺害された後、晋の文王(司馬昭)は深く恩徳を施し、事を寛大で緩やかにすることを重んじた。これがその兆しである。

晋の穆帝の永和九年十二月、桃と李が花を咲かせた。この時、簡文帝が政務を補佐し、事柄が多く弛緩して粗略であった。緩やかで寛大な政治の兆しである。

宋の順帝の昇明元年十月、於潜で桃、李、柰が実を結んだ。

漢の献帝の建安二十五年春正月、魏の武帝(曹操)が洛陽におり、建始殿を建てようとした際、濯龍祠の樹木を伐採すると血が出た。また、梨の木を掘り起こして移したところ、根が傷ついても血が出た。帝はこれを嫌い、やがて病に伏せ、その月に崩御した。これは草の妖であり、また赤い祥(災いの兆し)でもある。この年は、魏の文帝の黄初元年にあたる。

呉の孫亮の五鳳元年六月、交趾で稗草が稲に変化した。昔、三苗が滅びようとした時、五穀が種を変えた。これは草の妖である。その後、孫亮は廃位された。

蜀の劉禅の景耀五年、宮中の大樹が理由もなく自ら折れた。譙周はこれを憂い、語り合う者もいなかったので、柱に「衆にして大、其の会、具にして授く、若何ぞ復たせん」と書いた。これは、曹は衆(多い)であり、魏は大(大きい)である。衆にして大なれば、天下はその当に会するであろう。具(備わって)いて授けられれば、どうして再び立つ者があろうか、という意味である。蜀は果たして滅亡し、譙周の言う通りとなった。これは草の妖である。

呉の孫晧の天璽元年、呉郡の臨平湖は漢の末年以来汚れ塞がっていたが、この時ある夜に突然、草もなく開通した。長老の伝承によれば、この湖が塞がれば天下は乱れ、この湖が開けば天下は平らかになるという。呉はまもなく滅亡し、九服(天下)は一つとなった。

呉の孫晧の天紀三年八月、建業に鬼目菜というものが工(工匠)の黄狗の家に生え、棗の木に絡まりながら、長さ一丈余り、茎の幅四寸、厚さ三分に成長した。また、蕒菜というものが工の呉平の家に生え、高さ四尺、枇杷のような形で、上部の円形の直径は一尺八寸、下部の茎の幅は五寸、両側に緑色の縁取りのある葉が生えた。東観(宮中の書庫)が図譜を調べたところ、鬼目を芝草とし、蕒菜を平慮と名付けた。そこで黄狗を侍芝郎に、呉平を平慮郎に任じ、ともに銀印青綬を授けた。干宝は言う。「翌年、晋が呉を平定した時、王濬の船が停泊したのは、まさに平らかな洲(渚)であった。姓名が明らかに事柄を示す徴である。黄狗とは、呉が土徳をもって漢を継承したため、初めに黄龍の瑞祥があり、その末世に鬼目の妖(異常現象)が現れ、黄狗の家に託した。黄という呼称は変わらないが、貴賤は大きく異なる。天の道の精妙な応じ方である。」

晋の恵帝元康二年(292年)春、巴西郡の境界で竹が花を咲かせ、紫色で、実は麦のようであり、外皮は青く、中は赤白で、味は甘かった。

元康九年(299年)六月庚子の日、東宮の西廂に桑の木が生え、一日で一尺余り伸びた。甲辰の日に枯死した。これは殷の太戊の時の妖異と同じである。太子は悟ることができず、ついに廃位・殺害されるに至った。班固は「野の木が朝廷に生えて暴長するのは、小人が大臣の位に暴居し、国家を危うくし滅ぼす象徴であり、朝廷が廃墟となる前兆である」と称している。その後、孫秀・張林がまもなく権力を用い、ついに大乱に至った。

晋の恵帝永康元年(300年)四月丁巳の日、皇孫の臧を立てて皇太孫とした。五月甲子の日、東宮に入った。桑がまた西廂に生えた。翌年、趙王倫が位を 簒奪 さんだつ し、臧を毒殺した。これは愍懐太子の時の妖異と同じである。

永康元年(300年)四月、壮武国で桑が柏に変化した。この月、張華が害に遇った。

晋の懐帝永嘉三年(309年)冬、項県の桑の木が材木を割るような音を立て、民衆はこれを桑林の哭と呼んだ。劉向の説によれば、桑は喪であり、また哭の声であるから、不祥の極みである。この時、京師は虚弱で、胡の寇が交わり逼迫し、 司馬越 しばえつ には上国を守る心がなく、四年(310年)冬、委ねて南に出て、五年(311年)春、この城で薨じた。 石勒 せきろく がその衆を邀撃し、囲んで射かけ、王公以下から庶人に至るまで、死者は十余万人に及び、また越の棺を剖きその屍を焼いた。この敗北により、中原は命を請うところなく、洛京はまもなく陥落した。これが桑の哭の応である。

永嘉六年(312年)五月、無錫県に四株の茱萸の木があり、互いにからみ合って生え、連理のようであった。先に、郭景純(郭璞)が延陵の偃鼠を占い、臨の卦から益の卦に出て、「後にまた妖樹が生じるであろう。瑞祥のようであるがそうではなく、辛く刺す木である。もしこれがあれば、東南数百里の内に必ず叛逆をなす者がいる」と言った。その後、徐馥が乱を起こした。これは草の妖であり、郭は木が曲直せざるものと見なした。

永嘉六年(312年)七月、 章郡に樟の木が久しく枯れていたが、この月に忽然として再び栄茂した。昌邑の枯れた社の木が復活したのと同じ占いである。懐帝がその祚を終えず、元帝が支族から興った応である。

晋の明帝太寧元年(323年)九月、会稽郡剡県で木が人の顔のように生えた。その後、王敦が兵を挙げて叛逆したが、禍敗して成功しなかった。漢の哀帝・霊帝の世にもこの妖があり、人の容貌が備わっていたので、その禍も大きかった。今これはただ人面であるだけで、その変も軽い。

晋の成帝咸和六年(331年)五月癸亥の日、曲阿に柳の木が倒れて六年経っていたが、この月に忽然として再び起き上がって生じた。咸和九年(334年)五月甲戌の日、呉雄の家に枯死した榆の木があり、この日、風雨によって起き上がって生じた。漢の上林苑の断柳が起き上がって生じたのと同じ象である。初め、康帝は呉王であったが、この時は琅邪王に改封されていたが、なおも呉郡を食邑としていた。これは帝が正体を越えて国を饗ける象である。曲阿も先には呉の地であり、象が呉の邑の雄の家に現れたのも、また天意である。

晋の哀帝興寧三年(365年)五月癸卯の日、盧陵郡西昌県の脩明の家に枯死した栗の木があり、この日忽然として起き上がって生じた。この時、孝武帝は四歳で、簡文帝は藩国に居て、四海がその心を寄せていた。位を得て統を垂れるに及んで、祚は孝武帝に隆盛した。識者はひそかに西昌脩明の祥は、帝の 諱 (司馬曜、字は昌明)が実にこれに応じたと言った。これは漢の宣帝と頗る同じ象である。

晋の海西公太和元年(366年)、涼州で楊の木に松が生えた。天の戒めはこう言うようである。松は枝や葉を変えず、楊は柔軟で脆い木である。この永久の業が、危亡の地に集まろうとしている。その後、張天錫が てい に降った。

晋の孝武帝太元十四年(389年)六月、建寧郡同楽県で枯れた木が折れ、忽然として自ら立ち上がって連なった。京房の易伝に「正を棄てて淫を作れば、その妖は木が折れて自ら連なる。妃后に専有あれば、木が倒れて反って立つ」とある。この時、治道は方や僻で、多くその正を失っていた。その後、張夫人が寵を専らにし、帝が崩ずると、兆民はその咎を張氏に帰した。

晋の安帝元興三年(404年)、荊州と江州の二つの境界で竹の実が麦のようになった。

晋の安帝義熙二年(406年)九月、揚州の揚武将軍の営士である陳蓋の家に苦蕒菜があり、茎の高さは四尺六寸、広さは三尺二寸であった。これは殆ど呉の終わりと同じ象である。

義熙年間(405-418年)中、宮城の上の御道の左右に皆、蒺蔾が生えた。草の妖である。蒺蔾には刺があり、踏んで行くことができない。宮牆や馳道に生えるのは、天の戒めがこう言うようである。人君が拱手黙して政を聴くことができず、宸極に居ながらも空宮のようであり、御道があっても未だ馳騁せず、皆蒺蔾が生えて空しく廃れたようである。

義熙八年、太社の壇の側に薰樹が生じた。薰は文においては黒を尚ぶものであり、宋の水徳が王となる兆しである。

魏の文帝の黄初四年五月、鵜鵠鳥が霊芝池に集まった。劉向の説によれば、これは羽虫の孽であり、また青祥である。 詔 して言うには、「これは詩人がいわゆる汚沢である。曹の詩は恭公が君子を遠ざけ小人に近づくことを刺した。今、賢智の士が下位にあることがあるのだろうか、そうでなければこの鳥はどうして来たのだろうか。天下の儁徳茂才、独行君子を広く挙げて、曹人の刺に答えよ。」そこで楊彪、管寧の徒は、みな推薦された。これは妖を見て懼れることを知ったというものである。しかしながら、亮直を優容することができず、偏私に溺れることが多かった。京房の易伝に言う、「有徳を辟退すれば、その妖は水鳥が国井に集まる。」

黄初の末、宮中に燕が鷹を生み、口と爪がともに赤かった。これは商の紂、宋の隠と同じ象である。

景初元年、また燕が巨鷇を衛国の涓桃里の李蓋の家で生んだ。形は鷹のようで、嘴は燕に似ていた。劉向の説によれば、これは羽虫の孽であり、また赤眚である。高堂隆が言うには、「これは魏室の大いなる異であり、蕭牆の内に鷹揚の臣を防ぐべきである。」その後、晋の宣王が起こり、ついに魏室を有した。

漢の献帝の建安二十三年、禿鶖鳥が鄴宮の文昌殿の後ろの池に集まった。翌年、魏の武王が 薨去 こうきょ した。

魏の文帝の黄初三年、また洛陽の芳林園の池に集まった。七年、また集まった。その夏、文帝が崩御した。景初の末、また芳林園の池に集まった。前世に再び至ると、必ず大喪があり、帝はこれを嫌った。その年、明帝が崩御した。

蜀の劉禅の建興九年十月、江陽から江州にかけて、鳥が江南から江北へ飛び渡ろうとしたが、達することができず、水に落ちて死んだものが千余りに及んだ。この時、諸葛亮は連年衆を動かし、中夏を呑み込むことを志したが、ついに渭南で死に、図ったことは成就しなかった。また諸将が分かれて争い、多くの兵士を失った。鳥が北へ飛んで達することができず、水に落ちて死んだことは、皆その象があった。亮はついに渭を越えることができず、またその応であろう。これは漢、楚の国の烏が鬭って泗水に落ちたことと大体同類である。

魏の明帝の青龍三年、戴鵀が鉅鹿の人張臶の家に巣を作った。臶は博学で高節があり、袁紹、高幹の命に応ぜず、魏の太祖が辟しても至らず、優游して嘉遁し、門徒数百人、太守の王肅が雅に敬った。時に年百余歳、門人に言うには、「戴鵀は陽の鳥であるのに、門の陰に巣を作る。これは凶兆である。」そこで琴を援り歌詠し、詩一首を作り、十日で亡くなった。占いによれば、羽虫の孽である。

魏の明帝の景初元年、陵霄閣が構築され始めると、鵲がその上に巣を作った。鵲の体は白黒雑色である。これは羽虫の孽であり、また白黒の祥である。帝が高堂隆に問うと、答えて言うには、「詩に云う、『惟れ鵲に巣有り、惟れ鳩之に居る』。今、宮室を興起するのに、鵲が来て巣を作る。これは宮室が未だ成らず、身が之に居ることを得ざるの象である。天意は若し曰く、宮室未だ成らず、将に他の姓之を制御すべし、深く慮らざるべからず。」そこで帝は顔色を改めて動じた。

呉の孫権の赤烏十二年四月、二羽の烏が鵲を銜えて東館に落とした。権は丞相を領する朱據に鵲を燎いて祭らせた。劉歆の説によれば、これは羽虫の孽であり、また黒祥である。視ること明らかでなく、聴くこと聡明でない罰である。この時、権の意は溢れ徳は衰え、讒言を信じ殺すことを好み、二子が危うくならんとし、将相ともに危殆にあった。妖を見て悟らず、これに燎きを加えるは、道を昧ますこと甚だしいものである。翌年、太子の和が廃され、魯王の霸は死を賜い、朱據は左遷され、陸議は憂いて卒した。これがその応である。東館は典教の府であり、鵲が東館に落ちるは、また天意であろう。

呉の孫権の太元二年正月、前太子の和を南陽王に封じ、長沙に遣わした。鵲がその帆檣に巣を作った。和の故宮僚がこれを聞き、皆憂惨とし、檣の末は傾危で、久安の象ではないと思った。その後、果たしてその死を得られなかった。

呉の孫亮の建興二年十一月、大鳥が五回春申に現れた。呉人はこれを鳳凰と思い、翌年、元号を五鳳に改めた。漢の桓帝の時、五色の大鳥があった。司馬彪が言うには、「政治衰缺し、鳳を致すこと無く、乃ち羽虫の孽のみ。」孫亮には未だ徳政がなく、孫峻の驕暴は方に甚だしく、これは桓帝と同じ事である。瑞応図によれば、大鳥は鳳に似て孽であるものは一つではなく、疑わしくは皆これである。

呉の孫晧の建衡三年、西苑で鳳凰が集まったと言い、これによって元号を改めた。亮と同じ義である。

晋の武帝の泰始四年八月、翟雉が閶闔門に飛び上った。趙倫が既に 簒奪 さんだつ すると、洛陽で異鳥を得たが、名づけることができなかった。倫は人に持たせて出し、城邑を周旋して回って人に問わせた。数日後、宮の西に小児がこれを見て、逆に自ら言うには、「服留鳥翳。」持った者はすぐに戻って倫に報告した。倫は更に小児を求めさせた。至ると、またこれを見て、宮に入れようとし、密かに鳥を籠に閉じ、児を戸の中に閉じた。明日見ると、悉く見えなかった。これは羽虫の孽であり、また妖の甚だしいものである。

趙倫が位を さん すと、鶉が太極殿に入り、雉が東堂に集まった。太極、東堂は皆、朝享聴政の所であるのに、鶉、雉が同日にこれに集まるは、天意は若し曰く、この位に居るべからずというものである。詩に云う「鵲の疆疆、鶉の奔奔。人の良からずんば、我以て君と為す」。これを謂うのであろう。昔、殷の宗が雉の雊くのを感じ、懼れて徳を修めたが、倫は二物を見て、曾て戒めを知らず、故に滅亡に至ったのである。

晋の孝懐帝永嘉元年(307年)二月、洛陽の東北にある歩広里で地盤が陥没し、鵞鳥が現れた。蒼色のものは飛び上がって天を衝き、白色のものはその場に留まった。これは羽虫の孽であり、また黒白の祥である。董養が言った。「歩広は周の狄泉で、盟会の地である。白は金色、蒼は胡(北方異民族)の象徴である。その意味するところを尽くして言えるだろうか。」この後、劉淵と 石勒 せきろく が相次いで華夏を専横し、懐帝と愍帝の二人の皇帝は本来の場所ではない所で滅亡した。

晋の孝懐帝の時代、周玘の家で籠の中にいた鵞鳥の頭が籠の外で切断されていた。周玘が亡くなった後、その家は誅滅された。

晋の明帝太寧三年(325年)八月庚戌の日、二羽の鳥がいた。蒼黒色で、翼幅は一丈四尺あった。一羽は 司徒 しと 府に集まり、射られて殺された。もう一羽は市の北にある民家に集まり、やはり捕獲された。これは羽虫の孽であり、また黒の祥である。閏月戊子の日、明帝が崩御した。後に蘇峻と祖約の乱が起こった。

晋の成帝咸和二年(327年)正月、五羽の鷗鳥が殿庭に集まった。これもまた白の祥である。この時、庾亮は衆議に逆らって蘇峻を召喚しようとし、諫言に従わない咎があった。それゆえ白の祥が先に現れたのである。三年(328年)二月、蘇峻は果たして乱を起こし、宮室は焼き払われて荒れ地と化した。これがその応である。

晋の成帝咸康八年(342年)七月、白鷺が殿屋に集まった。この時、康帝が即位したばかりであり、これは長続きしない祥である。その後、二年を経て康帝は崩御した。劉向は言った。「野鳥が住み着けば、宮室は空になる。」張瓘が涼州で正朝の儀式を行った時、雉や雀などの鳥を放したが、手から離れるとすぐに死んだ。左右の者が放した鳥は皆飛び去った。

晋の孝武帝太元十六年(391年)正月、鵲が太極殿の東側の鴟尾に巣を作り、また国子学の学堂の西側にも巣を作った。十八年(393年)、東宮が完成し、十九年(394年)正月、鵲はまたその西門に巣を作った。これはおそらく魏の景初年間の占いと同じである。学堂は風教が集まる所であり、西門は金行(西方)の祥である。

晋の安帝義熙三年(407年)、龍驤将軍の朱猗が寿陽を守備していた。婢が飯を炊いていると、突然一群の烏が竈に集まり、競って啄んで食べようとした。婢が追い払っても去らなかった。猟犬が一羽の烏鵲を噛み殺すと、残りの烏は共にその犬を啄み、犬は即死し、さらにその肉を食べ尽くし、骨だけが残った。五年(409年)六月、朱猗は死んだ。

宋の武帝永初三年(422年)、帝が軒前に出て徐羨之を 司空 しくう に任命し、百官が陪位した時、二羽の野鸛が太極殿の鴟尾に集まり鳴き叫んだ。

少帝景平二年(424年)春、鸛が太廟の西の鴟尾に巣を作り、追い払ってもまた戻ってきた。

文帝元嘉二年(425年)春、数百羽の江鷗鳥が太極殿前の小階の内側に集まった。翌年、徐羨之らが誅殺された。

晋の成帝咸和二年(327年)五月、 司徒 しと 王導の厩舎で、羊が後ろ足のない状態で生まれた。これは羊の禍である。京房の易伝に言う。「足が少ない者は、下の者が任に耐えられないことである。」翌年、蘇峻が京都に入り、王導と成帝はともに石頭城に幽閉され、かろうじて身を免れた。これがその応である。

宋の孝武帝大明七年(463年)、永平郡が三角の羊を献上した。これは羊の禍である。

公孫淵の時代、襄平の北市に肉塊が生じた。長さと囲みがそれぞれ数尺あり、頭と目と口ばしがあったが、手足はなく、揺れ動いた。これは赤い眚である。占いに言う。「形があって成らず、体があって声がない。その国は滅亡する。」公孫淵はまもなく魏によって誅殺された。

呉の戍将鄧嘉が猪を殺して神に祀り、調理が終わって吊るしておくと、突然人の頭が現れて肉を食べ始めた。鄧嘉が弓を引いてこれを射ると、かちかちと音を立て、三日間屋敷を巡った。これは赤い祥に近い。後に人が鄧嘉が北方に叛こうと謀っていると告発し、一家は誅殺された。京房の易妖に言う。「山に 葆 が現れ、江が邑に迫る。邑に兵乱あり。その様は人の頭のようで赤色である。」

呉の諸葛恪が誅殺されようとする時、手を洗う水が血の臭いがした。侍者が衣を渡すと、衣もまた臭った。これは赤い祥に近い。

晋の武帝太康七年十一月、河陰に赤い雪が二頃降った。これは赤い兆しである。その後四年を経て帝が崩御し、王宮はついに乱れた。

晋の恵帝元康五年三月、呂県に流血があり、東西百余歩に及んだ。これは赤い兆しである。元康の末、極めて凶悪で乱れた状態となり、死体が倒れ血が流れる応報となった。干宝は、その後八年して封雲が徐州で乱を起こし、数万人を殺傷したのがその応報であると考えた。

晋の恵帝永康元年三月、尉氏に血の雨が降った。政治や刑罰が緩慢であると、常に暖かく赤い兆しの怪異がある。この年の正月、愍懐太子を許宮に幽閉して送った。天の戒めはこう言うようであった。『奸人を緩やかに放任すべきではない。そうすれば太子を冤罪で死なせることになる』と。恵帝は愚昧で悟らず、この月に愍懐太子はついに殺された。ここにおいて王室の亀裂が生じ、禍いは天下に流れた。淖歯が斉の閔王を殺した日、天が血の雨を降らせ衣を濡らしたのは、天が告げたのであり、これと同じことを言うのであろうか。京房の易伝に言う。『罪を帰することを解かず、これを追非と謂い、その咎は天が血を降らす。これを不親と謂い、民に怨む心あり、三年を出でずして、その宗人無し』。また言う。『佞人の禄、功臣の戮、天雨血』。

晋の愍帝建興四年十二月丙寅、丞相府が督運令史の淳于伯を斬ったところ、血が逆流して柱を上り二丈三尺に達した。これは赤い兆しである。この時、後将軍の褚裒が広陵を鎮守し、丞相は北伐を声高に言っていた。伯は督運の遅滞および役使の賄賂罪により、征軍の法に依って殺された。その息子が訴えて言うには、『伯の督運の仕事は完了し、遅滞や不足はなく、賄賂を受け役使した罪は死に至るものではない。兵家の情勢は、まず声勢をあげて後に実を取るものであり、実態は屯戍であって征軍ではない。四年以来、運漕が滞ったが、いずれも軍興の法で論じられていない』と。僚佐たちは誰も取り合わなかった。この変事があると、司直が衆官を弾劾したが、元帝もまた何も問わなかった。ここにおいて三年にわたり旱魃が続いた。干宝は冤罪の気の応報であると考えた。郭景純は言った。『血は水の類であり、ともに坎に属する。坎は法家である。水は平らに潤して下るべきで、逆流すべきではない。これは政治に過失がある徴候である』。