宋書

志第二十二 五行三

志第二十二 五行三

五行伝に曰く、「法律を棄て、功臣を逐い、太子を殺し、妾を妻と為せば、則ち火は上に炎上せず」という。これは火がその本性を失って災いとなることを指す。また曰く、「視ること明らかならず、是れ哲ならざると謂う。その咎は舒ゆるやかにあり、その罰は恒懊(常にうっとうしく)、その極みは疾(病気)なり。時に則ち草妖有り、時に則ち臝蟲の孽わざわい有り、時に則ち羊禍有り、時に則ち目痾有り、時に則ち赤眚わざわい・赤祥きざし有り。惟れ水は火を沴そこなう」という。臝蟲については、劉歆伝では羽蟲としている。

原文五行傳曰:「棄法律,逐功臣,殺太子,以妾為妻,則火不炎上。」謂火失其性而為災也。又曰:「視之不明,是謂不哲。厥咎舒,厥罰恒懊,厥極疾。時則有草妖,時則有臝蟲之孽,時則有羊禍,時則有目痾,時則有赤眚、赤祥。惟水沴火。」臝蟲,劉歆傳以為羽蟲。

魏の明帝の太和五年五月、清商殿が災害に遭った。初め、帝は平原王であった時、河南の虞氏を妃に迎えた。即位した後、彼女を皇后とせず、代わりに典虞車工卒の毛嘉の娘を立て、これが悼皇后である。后は元々身分が低く、皇后に昇るべきではなかった。これは妾を妻としたことへの罰である。

原文魏明帝太和五月,清商殿災。初,帝為平原王,納河南虞氏為妃。及即位,不以為后,更立典虞車工卒毛嘉女,是為悼皇后。后本仄微,非所宜升。以妾為妻之罰也。

魏の明帝の青龍元年六月、洛陽宮の鞠室が災害に遭った。

原文魏明帝青龍元年六月,洛陽宮鞠室災。

青龍二年四月、崇華殿が災害に遭い、南閣に延焼した。修復したが、三年七月にまたこの殿が災害に遭った。帝が高堂隆に問うた、「これは何の咎か?礼に祈禳の義はあるか?」対えて曰く、「災変が起こるのは、皆教誡を明らかにするためである。ただ礼に従い徳を修めることで、これを克服できる。易伝に曰く、『上儉ならず、下節せず、孽火その室を焼く』。また曰く、『君その臺を高くす、天火災いと為る』。これは人君が宮室を飾るばかりで、百姓が空しく尽きることを知らないため、天が旱魃をもって応じ、火が高殿から起こるのである。旧来の占いによれば、災火が起こるのは、皆臺榭宮室を誡めるためである。今は民役を罷散し、節約に努め、災害のあった場所を清掃し、ここに何かを営造しようとしないべきである。萐莆や嘉禾が必ずこの地に生じ、陛下の虔恭の徳に報いるであろう」。聞き入れられなかった。遂に崇華殿を再建し、九龍と改称した。郡国から前後して龍が現れたと九度言上されたため、この名とした。多く法度を棄て、民を疲れさせて欲望を逞しくし、妾を妻としたことへの応報である。

原文二年四月,崇華殿災,延于南閣。繕復之。至三年七月,此殿又災。帝問高堂隆:「此何咎也?於禮寧有祈禳之義乎?」對曰:「夫災變之發,皆所以明教誡也。唯率禮修德,可以勝之。易傳曰:『上不儉,下不節,孽火燒其室。』又曰:『君高其臺,天火為災。』此人君苟飾宮室,不知百姓空竭,故天應之以旱,火從高殿起也。案舊占,災火之發,皆以臺榭宮室為誡。今宜罷散民役,務從節約,清掃所災之處,不敢於此有所營造。萐莆嘉禾,必生此地,以報陛下虔恭之德。」不從。遂復崇華殿,改曰九龍。以郡國前後言龍見者九,故以為名。多棄法度,疲民逞欲,以妾為妻之應也。

呉の孫亮の建興元年十二月、武昌の端門が災害に遭った。端門を改作したが、また内殿が災害に遭った。春秋によれば、魯の雉門及び両観が災害に遭った。董仲舒は、天意が定公に季氏を誅させようとしたとし、高く顕著で奢り僭上する者を取り除けと言うようなものだとしている。漢武帝の世、遼東の高廟が災害に遭ったが、その説も同じである。今この事は二つの事柄に頗る類似している。かつ門は号令の出る所、殿は政を聴く所である。この時、諸葛恪が政を執り、傲慢で放肆であり、孫峻が禁旅を総べ、険害が終に著しかった。武昌は孫氏が尊号を始めた地であり、天戒は言うようである、その貴要の首たる者を除くべしと。諸葛恪は果たして衆を喪い民を滅ぼし、孫峻は政を孫綝に授け、孫綝は孫亮を廃した。あるいは言う、孫権が武昌を撤去して太初宮を増築し、諸葛恪に遷都の意があり、門殿を改めて起こしたが、事が時宜に適わなかったため、災害に見舞われたのだと。京房の易伝に曰く、「君道を思わざれば、厥の妖火宮を焼く」。

原文吳孫亮建興元年十二月,武昌端門災。改作端門,又災內殿。案春秋魯雉門及兩觀災。董仲舒以為天意欲使定公誅季氏,若曰去其高顯而奢僭者也。漢武帝世,遼東高廟災,其說又同。今此與二事頗類也。且門者,號令所出,殿者,聽政之所。是時諸葛恪秉政,而矜慢放肆,孫峻總禁旅,而險害終著。武昌,孫氏尊號所始,天戒若曰,宜除其貴要之首者。恪果喪眾殄民,峻授政於綝,綝廢亮也。或曰孫權毀徹武昌,以增太初宮,諸葛恪有遷都意,更起門殿,事非時宜,故見災也。京房易傳曰:「君不思道,厥妖火燒宮。」

呉の孫亮の太平元年二月朔、建業で火災があった。人為的な火災である。この秋、孫綝が初めて政を執り、孫亮の詔と偽って呂據・滕胤を殺し、翌年、また勝手に朱異を殺した。法律を棄て、功臣を逐ったことへの罰である。

原文吳孫亮太平元年二月朔,建業火。人火之也。是秋,孫綝始秉政,矯以亮詔殺呂據、滕胤,明年,又輒殺朱異。棄法律、逐功臣之罰也。

呉の孫休の永安五年二月、白虎門の北楼が災害に遭った。六年十月、石頭せきとうの小城で火災があり、西南百八十丈を焼いた。この時、寵臣の張布が国勢を専擅し、多くの無礼を行い、韋昭・盛冲は終に斥けられ用いられず、兼ねて察戦等を使者として遣わし、州郡を驚擾させ、交趾の反乱を引き起こした。これがその咎である。

原文吳孫休永安五年二月,白虎門北樓災。六年十月,石頭小城火,燒西南百八十丈。是時嬖人張布專擅國勢,多行無禮,而韋昭、盛冲終斥不用,兼遣察戰等為使,驚擾州郡,致使交趾反亂。是其咎也。

呉の孫晧の建衡二年三月、大火災があり、一万余りの家を焼き、死者七百人を出した。春秋によれば、斉で火災があった。劉向は、桓公が女色を好み、女の言葉を聞き入れ、妻妾を数えきれないほど替えたことへの罰であるとしている。孫晧の制令は詭暴で、法度を蕩棄し、功労ある臣や名士を多く誅斥した。後宮は一万余り、女謁が頻繁に行われ、その中で隆寵を受け皇后の璽を佩く者も多かった。故に大火災があったのである。

原文吳孫晧建衡二年三月,大火,燒萬餘家,死者七百人。案春秋,齊火。劉向以為桓公好內,聽女口,妻妾數更之罰也。晧制令詭暴,蕩棄法度,勞臣名士,誅斥甚眾。後宮萬餘,女謁數行,其中隆寵佩皇后璽者又多矣。故有大火。

晋の武帝の太康八年三月乙丑、西閣と楚王の止まっていた坊、及び臨商観の窓が雷火の災害に遭った。

原文晉武帝太康八年三月乙丑,震災西閣、楚王所止坊,及臨商觀牕。

太康十年四月癸丑、崇賢殿が災害に遭った。十月庚辰、含章鞠室・脩成堂前廡・丙坊東屋・煇章殿南閣が火災に遭った。時に上書する者があった、「漢の王氏の五侯兄弟が代わる代わる重任し、今楊氏の三公が並んで高位にある。天変が屡々現れるのは、窃かに陛下の為に憂える」。楊珧はこれにより退くことを乞うた。この時、帝は馮紞の讒言を容れて張華の功績を廃し、楊駿の讒言を聞いて衞瓘の寵愛を離した。これは功臣を逐ったことへの罰である。翌年、帝は崩御した。その後、楚王が密かに発した旨を受け、二公を戮害したが、自身も免れなかった。雷火がその坊を災害に遭わせたのも、また天意であろうか。

原文十年四月癸丑,崇賢殿災。十月庚辰,含章鞠室、脩成堂前廡、丙坊東屋、煇章殿南閣火。時有上書者曰:「漢王氏五侯兄弟迭任,今楊氏三公並在大位。天變屢見,竊為陛下憂之。」楊珧由是乞退。是時帝納馮紞之間,廢張華之功;聽楊駿之讒,離衞瓘之寵。此逐功臣之罰也。明年,宮車晏駕。其後楚王承竊發之旨,戮害二公,身亦不免。震災其坊,又天意乎。

晋の恵帝の元康五年閏月庚寅、武庫が火災に遭った。張華は乱があると疑い、先ず固守し、その後で救災した。このため累代の異宝、王莽の頭、孔子の履、漢の高祖の白蛇を斬った剣及び二百万人分の器械が、一時に蕩尽した。この後、愍懐太子が殺害された。太子を殺したことへの罰である。天戒は言うようである、険阻を設け柝を撃つのは、その国を固めるためであり、戎器を儲積するのは、不虞に戒めるためである。今、嫡嗣が傾かんとし、社稷が滅びんとしている。禁兵は再び施す所なく、皇旅はまた誰が衛るのかと。帝も后も悟らず、終に四海を喪った。これがその応報である。張華・閻纂は皆言った、武庫が火災に遭い氐・羌が反乱し、太子が廃されるなら、四海の状況は知れると。

原文晉惠帝元康五年閏月庚寅,武庫火。張華疑有亂,先固守,然後救災。是以累代異寶,王莽頭,孔子履,漢高斷白蛇劍及二百萬人器械,一時蕩盡。是後愍懷見殺,殺太子之罰也。天戒若曰,夫設險擊柝,所以固其國,儲積戎器,所以戒不虞。今冢嗣將傾,社稷將泯,禁兵無所復施,皇旅又將誰衞。帝后不悟,終喪四海,是其應也。張華、閻纂皆曰,武庫火而氐、羌反,太子見廢,則四海可知矣。

元康八年十一月、高原陵が火災に遭った。この時、賈后が凶暴で恣肆、賈謐が朝廷を擅にし、悪が積み罪が熟し、誅絶されるべきであった。天戒は言うようである、臣妾にして不可なる者は、親貴で比ぶる者なきほどでも、猶忍んでこれを誅すべし、吾が高原陵を焼くが如くに、と。帝は既に老耄で弱く、張華もまた裴頠ぎ・劉卞の謀を納れなかったため、后は遂に賈謐と共に太子を誣殺したのである。干宝は云う、「高原陵の火災は、太子の廃立の応報である。漢武帝の世、高園の便殿が火災に遭い、董仲舒の対はこの占いと同じである」。

原文元康八年十一月,高原陵火。是時賈后凶恣,賈謐擅朝,惡積罪稔,宜見誅絕。天戒若曰,臣妾之不可者,雖親貴莫比,猶宜忍而誅之,如吾燔高原陵也。帝既眊弱,而張華又不納裴頠、劉卞之謀,故后遂與謐誣殺太子也。干寶云:「高原陵火,太子廢,其應也。漢武帝世,高園便殿火,董仲舒對與此占同。」

晋の恵帝の永康元年、帝は羊氏を皇后に立てた。后が宮中に入ろうとした時、衣の中に忽然と火が起こり、衆皆怪しんだ。太安二年、后の父の玄之は成都王の逼迫により憂死した。永興元年、成都王は遂に后を廃し、金墉城に置き、その叔父の同之を殺した。その後、還って再び立てられ、立てられてはまた廃されることが四度あり、また詔を賜って死を命じられたが、荀藩の上表により命は全うされた。末に再び在位に還ったとはいえ、憂逼と折辱は、終古未聞であった。これは孽火の応報である。

原文晉惠帝永康元年,帝納皇后羊氏。后將入宮,衣中忽有火,眾咸怪之。太安二年,后父玄之以成都之逼,憂死。永興元年,成都遂廢后,處之金墉城,而殺其叔父同之。是後還立,立而復廢者四,又詔賜死,荀藩表全之。雖末還在位,然憂逼折辱,終古未聞。此孽火之應。

晋の恵帝永興二年(305年)七月甲午の日、尚書の諸曹が火災に遭い、崇礼闥と閣道に延焼した。百揆は王化の根本であり、王者が法律を捨て去ったことの応報である。清河王司馬覃が晋の後継者として入朝したが、その地位を全うせず、また太子を殺したことへの罰でもあった。

原文晉惠帝永興二年七月甲午,尚書諸曹火,延崇禮闥及閣道。夫百揆王化之本,王者棄法律之應也。清河王覃入為晉嗣,不終于位,又殺太子之罰也。

晋の懐帝永嘉四年(310年)十一月、襄陽で火災が発生し、三千人以上が死亡した。この時、王如が自ら大将軍・司雍二州牧を称し、四、五万の兵を率いて郡県を攻略し、自らの領地としていた。都督ととくは力尽きて城に籠もって守りを固めたが、賊軍は襄陽を攻め迫った。これは下が上を陵駕し、陽が節度を失ったため、火災が発生したのである。

原文晉孝懷帝永嘉四年十一月,襄陽火,死者三千餘人。是時王如自號大將軍、司雍二州牧,眾四五萬,攻略郡縣,以為己邑。都督力屈,嬰城自守,賊遂攻逼襄陽。此下陵上,陽失節,火災出也。

晋の元帝太興年間(318年‐321年)、王敦が武昌を鎮守していた。武昌で火災が発生し、兵を動員して消火に当たった。こちらで消火活動をしていると、あちらで火が出るという具合で、東西南北数十か所で次々と火災が発生し、数日間絶えなかった。班固が言うところの、炎がむやみに燃え上がり、たとえ軍隊を動員しても救えないという状態である。干宝は言う。「これは臣下でありながら君主の振る舞いをし、陽気が過剰になって節度を失った災いである。」

原文晉元帝太興中,王敦鎮武昌。武昌火起,興眾救之。救於此而發於彼,東西南北數十處俱應,數日不絕。班固所謂濫炎妄起,雖興師不能救之之謂也。干寶曰:「此臣而君行,亢陽失節之災也。」

晋の元帝永昌二年(323年)正月癸巳の日、都で大火災が発生した。三月、饒安・東光・安陵の三県で火災が発生し、七千戸余りを焼き、一万五千人が死亡した。

原文晉元帝永昌二年正月癸巳,京都大火。三月,饒安、東光、安陵三縣火,燒七千餘家,死者萬五千人。

晋の明帝太寧元年(323年)正月、都で火災が発生した。この時、王敦は朝廷を威圧して侮り、礼に外れた行いが多く、内外の臣下は皆、怨みと憎悪を抱いていた。陰が極まって陽を生じたため、火災が発生したのである。これは董仲舒が『春秋』の陳の火災について述べたことと同じ事柄である。

原文晉明帝太寧元年正月,京都火。是時王敦威侮朝廷,多行無禮,內外臣下,咸懷怨毒。極陰生陽,故有火災。與董仲舒說春秋陳火同事也。

晋の穆帝永和五年(349年)六月、石虎の太武殿と両廂、端門が雷火に遭い、光が天を照らすほど燃え盛り、金属や石材まですべて焼き尽くされ、火は一か月余りしてようやく消えた。この年の四月、石虎は死んだ。その後、胡(後趙)は滅亡した。

原文晉穆帝永和五年六月,震災石虎太武殿及兩廂、端門,光爛照天,金石皆盡,火月餘乃滅。是年四月,石虎死矣。其後胡遂滅亡。

晋の海西公太和年間(366年‐371年)、郗愔が会稽太守たいしゅであった。六月、大旱魃が続き、火災が数千戸を焼き、山陰の倉庫の米数百万斛こくにまで延焼した。炎と煙が空を覆い、消火することができなかった。

原文晉海西太和中,郗愔為會稽。六月,大旱災,火燒數千家,延及山陰倉米數百萬斛。炎烟蔽天,不可撲滅。

晋の孝武帝寧康元年(373年)三月、都で大風が吹き、大火災が発生した。この時、桓温が朝廷に入り、上を凌ごうとする志を持ち、幼い皇帝が即位したため、人々は憂いと恐れを抱いていた。これは太寧の火災と同じ事柄である。

原文晉孝武帝寧康元年三月,京都風,火大起。是時桓溫入朝,志在陵上,少主踐位,人懷憂恐。此與太寧火同事。

晋の孝武帝太元十年(385年)正月、国子学が設立された。学生たちは多くが頑迷で口うるさく、風に乗じて放火し、百余りの部屋を焼いた。この後、試験や評価が厳格でなく、賞罰に規律がなく、人材を育てる名目はあっても、賢者を登用する実績はなかった。書経に言う。「人を知ることは聡明である。」これは聡明でないことへの罰の前兆であった。

原文晉孝武帝太元十年正月,立國子學。學生多頑嚚,因風放火,焚房百餘間。是後考課不厲,賞黜無章,有育才之名,無收賢之實。書云:「知人則哲。」此不哲之罰先兆也。

太元十三年(388年)十二月乙未の日、延賢堂が火災に遭った。丙申の日、螽斯堂・則百堂および客館、驃騎ひょうき庫がすべて火災に遭った。この時、朝廷には弊政が多く、衰退の兆しが日に日に現れていた。聡明でないことへの罰は、すべて象徴しるし的な形で現れていた。君主と宰相が悟らなかったため、ついに乱れ滅亡に至ったという。

原文太元十三年十二月乙未,延賢堂災。丙申,螽斯、則百堂及客館、驃騎庫皆災。于時朝多弊政,衰陵日兆。不哲之罰,皆有象類。主相不悟,終至亂亡云。

晋の安帝隆安二年(398年)三月、龍舟二艘が火災に遭った。これは水が火を害する(水沴火)現象である。

原文晉安帝隆安二年三月,龍舟二乘災。是水沴火也。

晋の安帝元興元年(402年)八月庚子の日、尚書の下舎曹が火災に遭った。

原文晉安帝元興元年八月庚子,尚書下舍曹火。

元興三年(404年)、盧循が広州を攻略し、刺史ししの呉隠之は城門を閉じて固守した。この年の十月壬戌の夜、大火災が発生した。当時、民衆は賊を避けて城内に満ちあふれていた。隠之は賊に内応する者がいることを恐れ、ひたすら兵を厳重に配置することに務め、まず火を消すことをしなかった。このため、官舎は焼き尽くされ、一万余人が死亡し、それによって兵士は散り散りになり、すべて賊の捕虜となった。これはほぼ襄陽の火災と同じ占いであった。

原文元興三年,盧循攻略廣州,刺史吳隱之閉城固守。是年十月壬戌夜,大火起。時民人避寇,盈滿城內。隱之懼有應賊,但務嚴兵,不先救火,由是府舍焚燒蕩盡,死者萬餘人,因遂散潰,悉為賊擒。殆與襄陽火同占也。

晋の安帝義熙四年(408年)七月丁酉の日、尚書殿中の吏部曹が火災に遭った。

原文晉安帝義熙四年七月丁酉,尚書殿中吏部曹火。

義熙十一年(415年)、都のあちこちで大規模な火災が頻発し、特に呉の地域がひどかった。防火対策は非常に厳重であったが、それでも火災は絶えなかった。王弘が当時呉郡太守であったが、昼間に役所の政庁に座っていると、天上に一つの赤い物体が降りてくるのを見た。その形は信幡のようで、まっすぐに道の南側の民家の屋根に落ち、火はたちまち再び大きく燃え上がった。王弘は天がもたらした災いであると悟り、火元の家主を罪に問わなかった。

原文義熙十一年,京都所在大行火災,吳界尤甚。火防甚峻,猶自不絕。王弘時為吳郡,白日在聽事上,見天上有一赤物下,狀如信幡,徑集路南人家屋上,火即復大發。弘知天為之災,不罪火主。

宋の文帝の元嘉五年正月戊子の日、都で大火災が発生した。

原文宋文帝元嘉五年正月戊子,京邑大火。

元嘉七年十二月乙亥の日、都で火災が起こり、延焼して太社の北の壁を焼いた。

原文元嘉七年十二月乙亥,京邑火,延燒太社北牆。

元嘉二十九年三月壬午の日、都で大火災が発生し、風雷が非常に激しかった。

原文元嘉二十九年三月壬午,京邑大火,風雷甚壯。

後廃帝の元徽三年正月己巳の日、都で大火災が発生した。

原文後廢帝元徽三年正月己巳,京邑大火。

元徽三年二月戊辰の日、都で大火災が発生し、両岸の数千家を焼いた。

原文元徽三年二月戊辰,京邑大火,燒二岸數千家。

常に暖かいという庶徴(異常な兆候)について、劉向と班固は、冬に氷がなくなり霜が草を枯らさないことで応じるとした。京房の『易伝』にはまた、「夏には暑さが人を殺し、冬には物が花を咲かせ実を結ぶ」とある。

原文庶徵之恒燠,劉向、班固以冬亡冰及霜不殺草應之。京房易傳又曰:「夏則暑殺人,冬則物華實。」

呉の孫亮の建興元年九月、桃と李が花を咲かせた。孫権の時代は、政務が煩雑で賦税が重く、民は労役に疲弊していた。この時、諸葛恪が初めて政務を補佐し、校官を廃止し、未納の税を免除し、関所の税を撤廃し、寛大で厚い政治を重んじた。これは緩やかで寛大な政治の兆しである。一説には、桃や李が寒中に花を咲かせるのは草の妖(草木の異常現象)であり、あるいは花の災い(華孽)に属するという。

原文吳孫亮建興元年九月,桃李華。孫權世,政煩賦重,民彫於役。是時諸葛恪始輔政,息校官,原逋責,除關梁,崇寬厚。此舒緩之應也。一說桃李寒華為草妖,或屬華孽。

魏の元帝の景元三年十月、桃と李が花を咲かせた。高貴郷公が殺害された後、晋の文王(司馬昭)は深く恩徳を施し、事を寛大で緩やかにすることを重んじた。これがその兆しである。

原文魏元帝景元三年十月,桃李華。自高貴弒死之後,晉文王深樹恩德,事崇優緩,此其應也。

晋の穆帝の永和九年十二月、桃と李が花を咲かせた。この時、簡文帝が政務を補佐し、事柄が多く弛緩して粗略であった。緩やかで寛大な政治の兆しである。

原文晉穆帝永和九年十二月,桃李華。是時簡文輔政,事多弛略,舒緩之應也。

宋の順帝の昇明元年十月、於潜で桃、李、柰が実を結んだ。

原文宋順帝昇明元年十月,於潛桃、李、柰結實。

漢の献帝の建安二十五年春正月、魏の武帝(曹操)が洛陽におり、建始殿を建てようとした際、濯龍祠の樹木を伐採すると血が出た。また、梨の木を掘り起こして移したところ、根が傷ついても血が出た。帝はこれを嫌い、やがて病に伏せ、その月に崩御した。これは草の妖であり、また赤い祥(災いの兆し)でもある。この年は、魏の文帝の黄初元年にあたる。

原文漢獻帝建安二十五春正月,魏武帝在洛陽,將起建始殿,伐濯龍祠樹而血出;又掘徙棃,根傷亦血出。帝惡之,遂寢疾,是月崩。蓋草妖,又赤祥也。是歲,魏文帝黃初元年也。

呉の孫亮の五鳳元年六月、交趾で稗草が稲に変化した。昔、三苗が滅びようとした時、五穀が種を変えた。これは草の妖である。その後、孫亮は廃位された。

原文吳孫亮五鳳元年六月,交趾稗草化為稻。昔三苗將亡,五穀變種。此草妖也。其後亮廢。

蜀の劉禅の景耀五年、宮中の大樹が理由もなく自ら折れた。譙周はこれを憂い、語り合う者もいなかったので、柱に「衆にして大、其の会、具にして授く、若何ぞ復たせん」と書いた。これは、曹は衆(多い)であり、魏は大(大きい)である。衆にして大なれば、天下はその当に会するであろう。具(備わって)いて授けられれば、どうして再び立つ者があろうか、という意味である。蜀は果たして滅亡し、譙周の言う通りとなった。これは草の妖である。

原文蜀劉禪景耀五年,宮中大樹無故自折。譙周憂之,無所與之言,乃書柱曰:「眾而大,其之會,具而授,若何復。」言曹者眾也;魏者大也;眾而大,天下其當會也;具而授,如何復有立者乎。蜀果亡,如周言。此草妖也。

呉の孫晧の天璽元年、呉郡の臨平湖は漢の末年以来汚れ塞がっていたが、この時ある夜に突然、草もなく開通した。長老の伝承によれば、この湖が塞がれば天下は乱れ、この湖が開けば天下は平らかになるという。呉はまもなく滅亡し、九服(天下)は一つとなった。

原文吳孫晧天璽元年,吳郡臨平湖自漢末穢塞,是時一夕忽開除無草。長老相傳,此湖塞,天下亂,此湖開,天下平。吳尋亡,而九服為一。

呉の孫晧の天紀三年八月、建業に鬼目菜というものが工(工匠)の黄狗の家に生え、棗の木に絡まりながら、長さ一丈いちじょう余り、茎の幅四寸、厚さ三分に成長した。また、蕒菜というものが工の呉平の家に生え、高さ四尺、枇杷のような形で、上部の円形の直径は一尺八寸、下部の茎の幅は五寸、両側に緑色の縁取りのある葉が生えた。東観(宮中の書庫)が図譜を調べたところ、鬼目を芝草とし、蕒菜を平慮と名付けた。そこで黄狗を侍芝郎に、呉平を平慮郎に任じ、ともに銀印青綬を授けた。干宝は言う。「翌年、晋が呉を平定した時、王濬の船が停泊したのは、まさに平らかな洲(渚)であった。姓名が明らかに事柄を示す徴である。黄狗とは、呉が土徳をもって漢を継承したため、初めに黄龍の瑞祥があり、その末世に鬼目の妖(異常現象)が現れ、黄狗の家に託した。黄という呼称は変わらないが、貴賤は大きく異なる。天の道の精妙な応じ方である。」

原文吳孫晧天紀三年八月,建業有鬼目菜生工黃狗家,依緣棗樹,長丈餘,莖廣四寸,厚三分。又有蕒菜生工吳平家,高四尺,如枇杷形,上圓徑一尺八寸,下莖廣五寸,兩邊生葉緣色。東觀案圖,名鬼目作芝草,蕒菜作平慮。遂以狗為侍芝郎,平為平慮郎,皆銀印青綬。干寶曰:「明年晉平吳,王濬止船,正得平渚,姓名顯然,指事之徵也。黃狗者,吳以土運承漢,故初有黃龍之瑞,及其季年,而有鬼目之妖,託黃狗之家,黃稱不改,而貴賤大殊。天道精微之應也。」

晋の恵帝元康二年(292年)春、巴西郡の境界で竹が花を咲かせ、紫色で、実は麦のようであり、外皮は青く、中は赤白で、味は甘かった。

原文晉惠帝元康二年春,巴西郡界竹生花,紫色,結實如麥,外皮青,中赤白,味甘。

元康九年(299年)六月庚子の日、東宮の西廂に桑の木が生え、一日で一尺余り伸びた。甲辰の日に枯死した。これは殷の太戊の時の妖異と同じである。太子は悟ることができず、ついに廃位・殺害されるに至った。班固は「野の木が朝廷に生えて暴長するのは、小人が大臣の位に暴居し、国家を危うくし滅ぼす象徴であり、朝廷が廃墟となる前兆である」と称している。その後、孫秀・張林がまもなく権力を用い、ついに大乱に至った。

原文元康九年六月庚子,有桑生東宮西廂,日長尺餘;甲辰,枯死。此與殷太戊同妖。太子不能悟,故至廢戮也。班固稱「野木生朝而暴長,小人將暴居大臣之位,危亡國家,象朝將為墟也」。是後孫秀、張林尋用事,遂至大亂。

晋の恵帝永康元年(300年)四月丁巳の日、皇孫の臧を立てて皇太孫とした。五月甲子の日、東宮に入った。桑がまた西廂に生えた。翌年、趙王倫が位を簒奪さんだつし、臧を毒殺した。これは愍懐太子の時の妖異と同じである。

原文晉惠帝永康元年四月丁巳,立皇孫臧為皇太孫。五月甲子,就東宮。桑又生於西廂。明年,趙倫篡位,鴆殺臧。此與愍懷同妖也。

永康元年(300年)四月、壮武国で桑が柏に変化した。この月、張華が害に遇った。

原文永康元年四月,壯武國有桑化為柏。是月,張華遇害。

晋の懐帝永嘉三年(309年)冬、項県の桑の木が材木を割るような音を立て、民衆はこれを桑林の哭と呼んだ。劉向の説によれば、桑は喪であり、また哭の声であるから、不祥の極みである。この時、京師は虚弱で、胡の寇が交わり逼迫し、司馬越には上国を守る心がなく、四年(310年)冬、委ねて南に出て、五年(311年)春、この城で薨じた。石勒がその衆を邀撃し、囲んで射かけ、王公以下から庶人に至るまで、死者は十余万人に及び、また越の棺を剖きその屍を焼いた。この敗北により、中原は命を請うところなく、洛京はまもなく陥落した。これが桑の哭の応である。

原文晉孝懷帝永嘉三年冬,項縣桑樹有聲如解材,民謂之桑林哭。案劉向說,桑者喪也,又為哭聲,不祥之甚。是時京師虛弱,胡寇交逼,司馬越無衞上國之心,四年冬,委而南出,至五年春,薨于此城,石勒邀其眾,圍而射之,王公以下至庶人,死者十餘萬人,又剖越棺焚其尸。是敗也,中原無所請命,洛京尋沒。桑哭之應也。

永嘉六年(312年)五月、無錫県に四株の茱萸の木があり、互いにからみ合って生え、連理のようであった。先に、郭景純(郭璞)が延陵の偃鼠を占い、臨の卦から益の卦に出て、「後にまた妖樹が生じるであろう。瑞祥のようであるがそうではなく、辛く刺す木である。もしこれがあれば、東南数百里の内に必ず叛逆をなす者がいる」と言った。その後、徐馥が乱を起こした。これは草の妖であり、郭は木が曲直せざるものと見なした。

原文永嘉六年五月,無錫縣有四株茱萸樹,相樛而生,狀若連理。先是,郭景純筮延陵偃鼠,遇臨之益,曰:「後當復有妖樹生,若瑞而非,辛螫之木也。儻有此,東南數百里必有作逆者。」其後徐馥作亂。此草妖也,郭以為木不曲直。

永嘉六年(312年)七月、豫章郡に樟の木が久しく枯れていたが、この月に忽然として再び栄茂した。昌邑の枯れた社の木が復活したのと同じ占いである。懐帝がその祚を終えず、元帝が支族から興った応である。

原文永嘉六年七月,豫章郡有樟樹久枯,是月忽更榮茂。與昌邑枯社復生同占。懷帝不終其祚,元帝由支族興之應也。

晋の明帝太寧元年(323年)九月、会稽郡剡県で木が人の顔のように生えた。その後、王敦が兵を挙げて叛逆したが、禍敗して成功しなかった。漢の哀帝・霊帝の世にもこの妖があり、人の容貌が備わっていたので、その禍も大きかった。今これはただ人面であるだけで、その変も軽い。

原文晉明帝太寧元年九月,會稽剡縣木生如人面。是後王敦稱兵作逆,禍敗無成。漢哀、靈之世,並有此妖,而人貌備具,故其禍亦大。今此但人面而已,故其變亦輕。

晋の成帝咸和六年(331年)五月癸亥の日、曲阿に柳の木が倒れて六年経っていたが、この月に忽然として再び起き上がって生じた。咸和九年(334年)五月甲戌の日、呉雄の家に枯死した榆の木があり、この日、風雨によって起き上がって生じた。漢の上林苑の断柳が起き上がって生じたのと同じ象である。初め、康帝は呉王であったが、この時は琅邪王に改封されていたが、なおも呉郡を食邑としていた。これは帝が正体を越えて国を饗ける象である。曲阿も先には呉の地であり、象が呉の邑の雄の家に現れたのも、また天意である。

原文晉成帝咸和六年五月癸亥,曲阿有柳樹倒地六載,是月忽復起生。咸和九年五月甲戌,吳雄家有死榆樹,是日因風雨起生。與漢上林斷柳起生同象。初,康帝為吳王,于時雖改封琅邪,而猶食吳郡為邑。是帝越正體饗國之象也。曲阿先亦吳地,象見吳邑雄舍,又天意也。

晋の哀帝興寧三年(365年)五月癸卯の日、盧陵郡西昌県の脩明の家に枯死した栗の木があり、この日忽然として起き上がって生じた。この時、孝武帝は四歳で、簡文帝は藩国に居て、四海がその心を寄せていた。位を得て統を垂れるに及んで、祚は孝武帝に隆盛した。識者はひそかに西昌脩明の祥は、帝の諱いみな(司馬曜、字あざなは昌明)が実にこれに応じたと言った。これは漢の宣帝と頗る同じ象である。

原文晉哀帝興寧三年五月癸卯,盧陵西昌縣脩明家有死栗樹,是日忽起生。時孝武年四歲,而簡文居蕃,四海宅心。及得位垂統,則祚隆孝武。識者竊曰西昌脩明之祥,帝諱實應之矣。是與漢宣帝頗同象也。

晋の海西公太和元年(366年)、涼州で楊の木に松が生えた。天の戒めはこう言うようである。松は枝や葉を変えず、楊は柔軟で脆い木である。この永久の業が、危亡の地に集まろうとしている。その後、張天錫が氐に降った。

原文晉海西太和元年,涼州楊樹生松。天戒若曰,松不改柯易葉,楊者柔脆之木,此永久之業,將集危亡之地。是後張天錫降氐。

晋の孝武帝太元十四年(389年)六月、建寧郡同楽県で枯れた木が折れ、忽然として自ら立ち上がって連なった。京房の易伝に「正を棄てて淫を作れば、その妖は木が折れて自ら連なる。妃后に専有あれば、木が倒れて反って立つ」とある。この時、治道は方や僻で、多くその正を失っていた。その後、張夫人が寵を専らにし、帝が崩ずると、兆民はその咎を張氏に帰した。

原文晉孝武太元十四年六月,建寧同樂縣枯木斷折,忽然自立相屬。京房易傳曰:「棄正作淫,厥妖木斷自屬。妃后有專,木仆反立。」是時治道方僻,多失其正。其後張夫人專寵,及帝崩,兆庶歸咎張氏焉。

晋の安帝元興三年(404年)、荊州と江州の二つの境界で竹の実が麦のようになった。

原文晉安帝元興三年,荊、江二界生竹實如麥。

晋の安帝義熙二年(406年)九月、揚州の揚武将軍の営士である陳蓋の家に苦蕒菜があり、茎の高さは四尺六寸、広さは三尺二寸であった。これは殆ど呉の終わりと同じ象である。

原文晉安帝義熙二年九月,揚州營揚武將軍營士陳蓋家有苦蕒菜,莖高四尺六寸,廣三尺二寸。此殆與吳終同象也。

義熙年間(405-418年)中、宮城の上の御道の左右に皆、蒺蔾が生えた。草の妖である。蒺蔾には刺があり、踏んで行くことができない。宮牆や馳道に生えるのは、天の戒めがこう言うようである。人君が拱手黙して政を聴くことができず、宸極に居ながらも空宮のようであり、御道があっても未だ馳騁せず、皆蒺蔾が生えて空しく廃れたようである。

原文義熙中,宮城上御道左右皆生蒺蔾。草妖也。蒺蔾有刺,不可踐而行,生宮牆及馳道,天戒若曰,人君拱默不能聽政,雖居宸極,猶若空宮,雖有御道,未嘗馳騁,皆生蒺蔾若空廢也。

義熙八年、太社の壇の側に薰樹が生じた。薰は文においては黒を尚ぶものであり、宋の水徳が王となる兆しである。

原文義熙八年,太社生薰樹于壇側。薰於文尚黑,宋水德將王之符也。

魏の文帝の黄初四年五月、鵜鵠鳥が霊芝池に集まった。劉向の説によれば、これは羽虫の孽であり、また青祥である。詔して言うには、「これは詩人がいわゆる汚沢である。曹の詩は恭公が君子を遠ざけ小人に近づくことを刺した。今、賢智の士が下位にあることがあるのだろうか、そうでなければこの鳥はどうして来たのだろうか。天下の儁徳茂才、独行君子を広く挙げて、曹人の刺に答えよ。」そこで楊彪、管寧の徒は、みな推薦された。これは妖を見て懼れることを知ったというものである。しかしながら、亮直を優容することができず、偏私に溺れることが多かった。京房の易伝に言う、「有徳を辟退すれば、その妖は水鳥が国井に集まる。」

原文魏文帝黃初四年五月,有鵜鵠鳥集靈芝池。案劉向說,此羽蟲之孽,又青祥也。詔曰:「此詩人所謂汙澤者也。曹詩刺恭公遠君子,近小人。今豈有賢智之士,處于下位,否則斯鳥胡為而至哉?其博舉天下儁德茂才,獨行君子,以答曹人之刺。」於是楊彪、管寧之徒,咸見薦舉。此謂覩妖知懼者也。雖然不能優容亮直,而多溺偏私矣。京房易傳曰:「辟退有德,厥妖水鳥集于國井。」

黄初の末、宮中に燕が鷹を生み、口と爪がともに赤かった。これは商の紂、宋の隠と同じ象である。

原文黃初末,宮中有鷰生鷹,口爪俱赤。此與商紂、宋隱同象。

景初元年、また燕が巨鷇を衛国の涓桃里の李蓋の家で生んだ。形は鷹のようで、嘴は燕に似ていた。劉向の説によれば、これは羽虫の孽であり、また赤眚である。高堂隆が言うには、「これは魏室の大いなる異であり、蕭牆の内に鷹揚の臣を防ぐべきである。」その後、晋の宣王が起こり、ついに魏室を有した。

原文景初元年,又有鷰生鉅鷇於衞國涓桃里李蓋家。形若鷹,吻似燕。案劉向說,此羽蟲之孽,又赤眚也。高堂隆曰:「此魏室之大異,宜防鷹揚之臣於蕭牆之內。」其後晉宣王起,遂有魏室。

漢の献帝の建安二十三年、禿鶖鳥が鄴宮の文昌殿の後ろの池に集まった。翌年、魏の武王が薨去した。

原文漢獻帝建安二十三年,禿鶖鳥集鄴宮文昌殿後池。明年,魏武王薨。

魏の文帝の黄初三年、また洛陽の芳林園の池に集まった。七年、また集まった。その夏、文帝が崩御した。景初の末、また芳林園の池に集まった。前世に再び至ると、必ず大喪があり、帝はこれを嫌った。その年、明帝が崩御した。

原文魏文帝黃初三年,又集雒陽芳林園池。七年,又集。其夏,文帝崩。景初末,又集芳林園池。前世再至,輒有大喪,帝惡之。其年,明帝崩。

蜀の劉禅の建興九年十月、江陽から江州にかけて、鳥が江南から江北へ飛び渡ろうとしたが、達することができず、水に落ちて死んだものが千余りに及んだ。この時、諸葛亮は連年衆を動かし、中夏を呑み込むことを志したが、ついに渭南で死に、図ったことは成就しなかった。また諸将が分かれて争い、多くの兵士を失った。鳥が北へ飛んで達することができず、水に落ちて死んだことは、皆その象があった。亮はついに渭を越えることができず、またその応であろう。これは漢、楚の国の烏が鬭って泗水に落ちたことと大体同類である。

原文蜀劉禪建興九年十月,江陽至江州有鳥從江南飛渡江北,不能達,墮水死者以千餘。是時諸葛亮連年動眾,志吞中夏,而終死渭南,所圖不遂。又諸將分爭,頗喪徒旅。鳥北飛不能達,墮水死,皆有其象也。亮竟不能過渭,又其應乎。此與漢、楚國烏鬭墮泗水觕類矣。

魏の明帝の青龍三年、戴鵀が鉅鹿の人張臶の家に巣を作った。臶は博学で高節があり、袁紹、高幹の命に応ぜず、魏の太祖が辟しても至らず、優游して嘉遁し、門徒数百人、太守の王肅が雅に敬った。時に年百余歳、門人に言うには、「戴鵀は陽の鳥であるのに、門の陰に巣を作る。これは凶兆である。」そこで琴を援り歌詠し、詩一首を作り、十日で亡くなった。占いによれば、羽虫の孽である。

原文魏明帝青龍三年,戴鵀巢鉅鹿人張臶家。臶博學有高節,不應袁紹、高幹之命,魏太祖辟亦不至,優游嘉遁,門徒數百,太守王肅雅敬焉。時年百餘歲,謂門人曰:「戴鵀陽鳥,而巢于門陰,此凶祥也。」乃援琴歌詠,作詩一首,旬日而卒。按占,羽蟲之孽也。

魏の明帝の景初元年、陵霄閣が構築され始めると、鵲がその上に巣を作った。鵲の体は白黒雑色である。これは羽虫の孽であり、また白黒の祥である。帝が高堂隆に問うと、答えて言うには、「詩に云う、『惟れ鵲に巣有り、惟れ鳩之に居る』。今、宮室を興起するのに、鵲が来て巣を作る。これは宮室が未だ成らず、身が之に居ることを得ざるの象である。天意は若し曰く、宮室未だ成らず、将に他の姓之を制御すべし、深く慮らざるべからず。」そこで帝は顔色を改めて動じた。

原文魏明帝景初元年,陵霄閣始構,有鵲巢其上。鵲體白黑雜色。此羽蟲之孽,又白黑祥也。帝以問高堂隆,對曰:「詩云:『惟鵲有巢,惟鳩居之。』今興起宮室,而鵲來巢,此宮室未成,身不得居之之象。天意若曰,宮室未成,將有它姓制御之,不可不深慮。」於是帝改容動色。

呉の孫権の赤烏十二年四月、二羽の烏が鵲を銜えて東館に落とした。権は丞相を領する朱據に鵲を燎いて祭らせた。劉歆の説によれば、これは羽虫の孽であり、また黒祥である。視ること明らかでなく、聴くこと聡明でない罰である。この時、権の意は溢れ徳は衰え、讒言を信じ殺すことを好み、二子が危うくならんとし、将相ともに危殆にあった。妖を見て悟らず、これに燎きを加えるは、道を昧ますこと甚だしいものである。翌年、太子の和が廃され、魯王の霸は死を賜い、朱據は左遷され、陸議は憂いて卒した。これがその応である。東館は典教の府であり、鵲が東館に落ちるは、また天意であろう。

原文吳孫權赤烏十二年四月,有兩烏銜鵲墮東館。權使領丞相朱據燎鵲以祭。案劉歆說,此羽蟲之孽,又黑祥也。視不明,聽不聰之罰也。是時權意溢德衰,信讒好殺,二子將危,將相俱殆。覩妖不悟,加之以燎,昧道之甚者也。明年,太子和廢,魯王霸賜死,朱據左遷,陸議憂卒,是其應也。東館,典教之府,鵲墮東館,又天意乎。

呉の孫権の太元二年正月、前太子の和を南陽王に封じ、長沙に遣わした。鵲がその帆檣に巣を作った。和の故宮僚がこれを聞き、皆憂惨とし、檣の末は傾危で、久安の象ではないと思った。その後、果たしてその死を得られなかった。

原文吳孫權太元二年正月,封前太子和為南陽王,遣之長沙。有鵲巢其帆檣。和故宮僚聞之,皆憂慘,以為檣末傾危,非久安之象。是後果不得其死。

呉の孫亮の建興二年十一月、大鳥が五回春申に現れた。呉人はこれを鳳凰と思い、翌年、元号を五鳳に改めた。漢の桓帝の時、五色の大鳥があった。司馬彪が言うには、「政治衰缺し、鳳を致すこと無く、乃ち羽虫の孽のみ。」孫亮には未だ徳政がなく、孫峻の驕暴は方に甚だしく、これは桓帝と同じ事である。瑞応図によれば、大鳥は鳳に似て孽であるものは一つではなく、疑わしくは皆これである。

原文吳孫亮建興二年十一月,大鳥五見于春申。吳人以為鳳皇,明年,改元為五鳳。漢桓帝時,有五色大鳥。司馬彪云:「政治衰缺,無以致鳳,乃羽蟲孽耳。」孫亮未有德政,孫峻驕暴方甚,此與桓帝同事也。案瑞應圖,大鳥似鳳而為孽者非一,疑皆是也。

呉の孫晧の建衡三年、西苑で鳳凰が集まったと言い、これによって元号を改めた。亮と同じ義である。

原文吳孫晧建衡三年,西苑言鳳皇集,以之改元。義同於亮。

晋の武帝の泰始四年八月、翟雉が閶闔門に飛び上った。趙倫が既に簒奪すると、洛陽で異鳥を得たが、名づけることができなかった。倫は人に持たせて出し、城邑を周旋して回って人に問わせた。数日後、宮の西に小児がこれを見て、逆に自ら言うには、「服留鳥翳。」持った者はすぐに戻って倫に報告した。倫は更に小児を求めさせた。至ると、またこれを見て、宮に入れようとし、密かに鳥を籠に閉じ、児を戸の中に閉じた。明日見ると、悉く見えなかった。これは羽虫の孽であり、また妖の甚だしいものである。

原文晉武帝泰始四年八月,翟雉飛上閶闔門。趙倫既篡,洛陽得異鳥,莫能名。倫使人持出,周旋城邑匝以問人。積日,宮西有小兒見之,逆自言曰:「服留鳥翳。」持者即還白倫。倫使更求小兒。至,又見之,將入宮,密籠鳥,閉兒戶中。明日視,悉不見。此羽蟲之孽,又妖之甚者也。

趙倫が位を簒すと、鶉が太極殿に入り、雉が東堂に集まった。太極、東堂は皆、朝享聴政の所であるのに、鶉、雉が同日にこれに集まるは、天意は若し曰く、この位に居るべからずというものである。詩に云う「鵲の疆疆、鶉の奔奔。人の良からずんば、我以て君と為す」。これを謂うのであろう。昔、殷の宗が雉の雊くのを感じ、懼れて徳を修めたが、倫は二物を見て、曾て戒めを知らず、故に滅亡に至ったのである。

原文趙倫篡位,有鶉入太極殿,雉集東堂。按太極、東堂,皆朝享聽政之所,而鶉、雉同日集之者,天意若曰,不當居此位也。詩云「鵲之疆疆,鶉之奔奔。人之無良,我以為君」。其此之謂乎。昔殷宗感雉雊,懼而修德,倫覩二物,曾不知戒,故至滅亡也。

晋の孝懐帝永嘉元年(307年)二月、洛陽の東北にある歩広里で地盤が陥没し、鵞鳥が現れた。蒼色のものは飛び上がって天を衝き、白色のものはその場に留まった。これは羽虫の孽であり、また黒白の祥である。董養が言った。「歩広は周の狄泉で、盟会の地である。白は金色、蒼は胡(北方異民族)の象徴である。その意味するところを尽くして言えるだろうか。」この後、劉淵と石勒が相次いで華夏を専横し、懐帝と愍帝の二人の皇帝は本来の場所ではない所で滅亡した。

原文晉孝懷帝永嘉元年二月,洛陽東北步廣里地陷,有鵝出,蒼色者飛翔沖天,白者止焉。此羽蟲之孽,又黑白祥也。董養曰:「步廣,周之狄泉,盟會地也。白者金色,蒼為胡象,其可盡言乎。」是後劉淵、石勒相繼擅華,懷、愍二帝淪滅非所。

晋の孝懐帝の時代、周玘の家で籠の中にいた鵞鳥の頭が籠の外で切断されていた。周玘が亡くなった後、その家は誅滅された。

原文晉孝懷帝世,周玘家有鵝在籠中,而頭斷籠外。玘亡後家誅。

晋の明帝太寧三年(325年)八月庚戌の日、二羽の鳥がいた。蒼黒色で、翼幅は一丈四尺あった。一羽は司徒しと府に集まり、射られて殺された。もう一羽は市の北にある民家に集まり、やはり捕獲された。これは羽虫の孽であり、また黒の祥である。閏月戊子の日、明帝が崩御した。後に蘇峻と祖約の乱が起こった。

原文晉明帝太寧三年八月庚戌,有鳥二,蒼黑色,翼廣一丈四尺。其一集司徒府,射而殺之;其一集市北家人舍,亦獲焉。此羽蟲之孽,又黑祥也。閏月戊子,帝崩。後有蘇峻、祖約之亂。

晋の成帝咸和二年(327年)正月、五羽の鷗鳥が殿庭に集まった。これもまた白の祥である。この時、庾亮は衆議に逆らって蘇峻を召喚しようとし、諫言に従わない咎があった。それゆえ白の祥が先に現れたのである。三年(328年)二月、蘇峻は果たして乱を起こし、宮室は焼き払われて荒れ地と化した。これがその応である。

原文晉成帝咸和二年正月,有五鷗鳥集殿庭。此又白祥也。是時庾亮苟違眾謀,將召蘇峻,有言不從之咎,故白祥先見也。三年二月,峻果作亂,宮室焚毀,化為汙萊,其應也。

晋の成帝咸康八年(342年)七月、白鷺が殿屋に集まった。この時、康帝が即位したばかりであり、これは長続きしない祥である。その後、二年を経て康帝は崩御した。劉向は言った。「野鳥が住み着けば、宮室は空になる。」張瓘が涼州で正朝の儀式を行った時、雉や雀などの鳥を放したが、手から離れるとすぐに死んだ。左右の者が放した鳥は皆飛び去った。

原文晉成帝咸康八年七月,白鷺集殿屋。是時康帝始即位,此不永之祥也。後涉再朞而帝崩。劉向曰:「野鳥入處,宮室將空。」張瓘在涼州正朝,放隹雀諸鳥,出手便死;左右放者悉飛去。

晋の孝武帝太元十六年(391年)正月、鵲が太極殿の東側の鴟尾に巣を作り、また国子学の学堂の西側にも巣を作った。十八年(393年)、東宮が完成し、十九年(394年)正月、鵲はまたその西門に巣を作った。これはおそらく魏の景初年間の占いと同じである。学堂は風教が集まる所であり、西門は金行(西方)の祥である。

原文晉孝武帝太元十六年正月,鵲巢太極東頭鴟尾,又巢國子學堂西頭。十八年,東宮始成,十九年正月,鵲又巢其西門。此殆與魏景初同占。學堂,風教所聚;西門,金行之祥也。

晋の安帝義熙三年(407年)、龍驤将軍の朱猗が寿陽を守備していた。婢が飯を炊いていると、突然一群の烏が竈に集まり、競って啄んで食べようとした。婢が追い払っても去らなかった。猟犬が一羽の烏鵲を噛み殺すと、残りの烏は共にその犬を啄み、犬は即死し、さらにその肉を食べ尽くし、骨だけが残った。五年(409年)六月、朱猗は死んだ。

原文晉安帝義熙三年,龍驤將軍朱猗戍壽陽。婢炊飯,忽有羣烏集竈,競來啄噉,婢驅逐不去。有獵狗咋殺烏鵲,餘者因共啄狗即死,又噉其肉,唯餘骨存。五年六月,猗死。

宋の武帝永初三年(422年)、帝が軒前に出て徐羨之を司空しくうに任命し、百官が陪位した時、二羽の野鸛が太極殿の鴟尾に集まり鳴き叫んだ。

原文宋武帝永初三年,臨軒拜徐羨之為司空,百僚陪位,有二野鸛集太極鴟尾鳴呼。

少帝景平二年(424年)春、鸛が太廟の西の鴟尾に巣を作り、追い払ってもまた戻ってきた。

原文少帝景平二年春,鸛巢太廟西鴟尾,驅去復還。

文帝元嘉二年(425年)春、数百羽の江鷗鳥が太極殿前の小階の内側に集まった。翌年、徐羨之らが誅殺された。

原文文帝元嘉二年春,有江鷗鳥數百,集太極殿前小階內。明年,誅徐羨之等。

晋の成帝咸和二年(327年)五月、司徒王導の厩舎で、羊が後ろ足のない状態で生まれた。これは羊の禍である。京房の易伝に言う。「足が少ない者は、下の者が任に耐えられないことである。」翌年、蘇峻が京都に入り、王導と成帝はともに石頭城に幽閉され、かろうじて身を免れた。これがその応である。

原文晉成帝咸和二年五月,司徒王導廄,羊生無後足。此羊禍也。京房易傳曰:「足少者,下不勝任也。」明年,蘇峻入京都,導與成帝俱幽石頭,僅乃免身。是其應也。

宋の孝武帝大明七年(463年)、永平郡が三角の羊を献上した。これは羊の禍である。

原文宋孝武帝大明七年,永平郡獻三角羊。羊禍也。

公孫淵の時代、襄平の北市に肉塊が生じた。長さと囲みがそれぞれ数尺あり、頭と目と口ばしがあったが、手足はなく、揺れ動いた。これは赤い眚である。占いに言う。「形があって成らず、体があって声がない。その国は滅亡する。」公孫淵はまもなく魏によって誅殺された。

原文公孫淵時,襄平北市生肉,長圍各數尺,有頭目口喙,無手足,而動搖。此赤眚也。占曰:「有形不成,有體無聲,其國滅亡。」淵尋為魏所誅。

呉の戍将鄧嘉が猪を殺して神に祀り、調理が終わって吊るしておくと、突然人の頭が現れて肉を食べ始めた。鄧嘉が弓を引いてこれを射ると、かちかちと音を立て、三日間屋敷を巡った。これは赤い祥に近い。後に人が鄧嘉が北方に叛こうと謀っていると告発し、一家は誅殺された。京房の易妖に言う。「山に葆ほうこが現れ、江が邑に迫る。邑に兵乱あり。その様は人の頭のようで赤色である。」

原文吳戍將鄧嘉殺猪祠神,治畢縣之,忽見一人頭往食肉,嘉引弓射中之,咋咋作聲,繞屋三日。近赤祥也。後人白嘉謀北叛,闔門被誅。京房易妖曰:「山見葆,江于邑,邑有兵,狀如人頭赤色。」

呉の諸葛恪が誅殺されようとする時、手を洗う水が血の臭いがした。侍者が衣を渡すと、衣もまた臭った。これは赤い祥に近い。

原文吳諸葛恪將見誅,盥洗水血臭;侍者授衣,衣亦臭。此近赤祥也。

晋の武帝太康七年十一月、河陰に赤い雪が二頃降った。これは赤い兆しである。その後四年を経て帝が崩御し、王宮はついに乱れた。

原文晉武帝太康七年十一月,河陰有赤雪二頃。此赤祥也。後涉四載而帝崩,王宮遂亂。

晋の恵帝元康五年三月、呂県に流血があり、東西百余歩に及んだ。これは赤い兆しである。元康の末、極めて凶悪で乱れた状態となり、死体が倒れ血が流れる応報となった。干宝は、その後八年して封雲が徐州で乱を起こし、数万人を殺傷したのがその応報であると考えた。

原文晉惠帝元康五年三月,呂縣有流血,東西百餘步。此赤祥也。元康末,窮凶極亂,僵尸流血之應也。干寶以為後八載而封雲亂徐州,殺傷數萬人,是其應也。

晋の恵帝永康元年三月、尉氏に血の雨が降った。政治や刑罰が緩慢であると、常に暖かく赤い兆しの怪異がある。この年の正月、愍懐太子を許宮に幽閉して送った。天の戒めはこう言うようであった。『奸人を緩やかに放任すべきではない。そうすれば太子を冤罪で死なせることになる』と。恵帝は愚昧で悟らず、この月に愍懐太子はついに殺された。ここにおいて王室の亀裂が生じ、禍いは天下に流れた。淖歯が斉の閔王を殺した日、天が血の雨を降らせ衣を濡らしたのは、天が告げたのであり、これと同じことを言うのであろうか。京房の易伝に言う。『罪を帰することを解かず、これを追非と謂い、その咎は天が血を降らす。これを不親と謂い、民に怨む心あり、三年を出でずして、その宗人無し』。また言う。『佞人の禄、功臣の戮、天雨血』。

原文晉惠帝永康元年三月,尉氏雨血。夫政刑舒緩,則有常燠赤祥之妖。此歲正月,送愍懷太子幽于許宮。天戒若曰,不宜緩恣姦人,將使太子冤死。惠帝愚眊不悟,是月愍懷遂斃。於是王室釁成,禍流天下。淖齒殺齊閔王日,天雨血沾衣,天以告也,此之謂乎。京房易傳曰:「歸獄不解,茲謂追非,厥咎天雨血,茲謂不親,民有怨心,不出三年,無其宗人。」又曰:「佞人祿,功臣戮,天雨血。」

晋の愍帝建興四年十二月丙寅、丞相府が督運令史の淳于伯を斬ったところ、血が逆流して柱を上り二丈三尺に達した。これは赤い兆しである。この時、後将軍の褚裒が広陵を鎮守し、丞相は北伐を声高に言っていた。伯は督運の遅滞および役使の賄賂罪により、征軍の法に依って殺された。その息子が訴えて言うには、『伯の督運の仕事は完了し、遅滞や不足はなく、賄賂を受け役使した罪は死に至るものではない。兵家の情勢は、まず声勢をあげて後に実を取るものであり、実態は屯戍であって征軍ではない。四年以来、運漕が滞ったが、いずれも軍興の法で論じられていない』と。僚佐たちは誰も取り合わなかった。この変事があると、司直が衆官を弾劾したが、元帝もまた何も問わなかった。ここにおいて三年にわたり旱魃が続いた。干宝は冤罪の気の応報であると考えた。郭景純は言った。『血は水の類であり、ともに坎に属する。坎は法家である。水は平らに潤して下るべきで、逆流すべきではない。これは政治に過失がある徴候である』。

原文晉愍帝建興四年十二月丙寅,丞相府斬督運令史淳于伯,血逆流上柱二丈三尺。此赤祥也。是時後將軍褚裒鎮廣陵,丞相揚聲北伐,伯以督運稽留及役使臧罪,依征軍法戮之。其息訴稱:「伯督運事訖,無所稽乏,受賕役使,罪不及死。兵家之勢,先聲後實,實是屯戍,非為征軍。自四年以來,運漕稽停,皆不以軍興法論。」僚佐莫之理。及有此變,司直彈劾眾官,元帝又無所問。於是頻旱三年。干寶以為寃氣之應也。郭景純曰:「血者水類,同屬於坎,坎為法家。水平潤下,不宜逆流。此政有咎失之徵也。」