宋書

志第二十 五行一

志第二十 五行一

昔、八卦が兆し、天と人の理が明らかになり、九疇が整えられて帝王の応ずる道が明らかになった。それによって、徳に従えば天の祐けを得、道に背けば神の聴くところの罪に陥ることを知ることはできたが、なお徴候と効果を詳しく挙げ、幽明の事柄を備え考究したものではなかった。時に鼎が庭に現れたり、雉が穀物を食うなどの異変は列挙されたが、究明されていない事柄は多かった。後世の王が鑑みて悟るに至っては、欠けているところが多い。それゆえ仲尼は春秋を作り、祥瑞と災異を詳しく記して、事績を検証した。これは九疇がその意義を前に述べ、春秋がその効果を後に列挙したものである。伏生が大伝を作って紀元を立て、五行の本体が初めて詳しくなり、劉向が洪範を広く演繹して、吉凶の文がさらに備わった。それゆえ班固は経書と伝記を斟酌し、条理と流れを詳しく記した。まさに一王朝の典籍として、欠くことができないからである。天道は声もなく臭いもないが、その応ずることは影が形に、響きが音に応ずるようであり、天と人の験しは、理に背くことはできない。司馬彪は光武帝以来の事を集めて、漢代の事柄を究め、王沈の魏書は志の篇が欠けており、すべての災異はただ帝紀に編むだけである。黄初(魏の年号)以降、二百余年にわたり、その災いと妖異を見て、事柄を考証すると、常に前の説と重なり合い、誤りがない。また高堂隆、郭景純らは経書に基づいて言葉を立て、ついに皆明らかな応験があった。これを欠いて記さなければ、史書の体裁を損なうことになる。今、司馬彪以後のことを撰び集め、論評を加えて序を付ける。これもまた班固が遠く春秋を採り、遠きを挙げて近きを明らかにした例にならうものである。また、言うことに従わないと、介虫の孽わざわいがあるが、劉歆は毛虫としている。見ることが明らかでないと、蠃虫(裸虫)の孽があるが、劉歆は羽虫としている。月令によれば、夏は虫は羽、秋は虫は毛であるから、劉歆の説に従うべきであり、それゆえ旧史はこれに従っている。五行の道理は精微であり、末学の及ぶところではない。すでに以前に議論されたものは、すべてその言葉によって解釈し、旧説のないものは、事理を推し量って、来たるべき哲人を待つこととする。

原文昔八卦兆而天人之理著,九疇序而帝王之應明。雖可以知從德獲自天之祐,違道陷神聽之罪,然未詳舉徵效,備考幽明,雖時列鼎雉庭穀之異,然而未究者眾矣。至於鑑悟後王,多有所闕。故仲尼作春秋,具書祥眚,以驗行事。是則九疇陳其義於前,春秋列其效於後也。逮至伏生創紀大傳,五行之體始詳;劉向廣演洪範,休咎之文益備。故班固斟酌經、傳,詳紀條流,誠以一王之典,不可獨闕故也。夫天道雖無聲無臭,然而應若影響,天人之驗,理不可誣。司馬彪纂集光武以來,以究漢事;王沈魏書志篇闕,凡厥災異,但編帝紀而已。自黃初以降,二百餘年,覽其災妖,以考之事,常若重規沓矩,不謬前說。又高堂隆、郭景純等,據經立辭,終皆顯應。闕而不序,史體將虧。今自司馬彪以後,皆撰次論序,斯亦班固遠采春秋,舉遠明近之例也。又按言之不從,有介蟲之孽,劉歆以為毛蟲;視之不明,有蠃蟲之孽,劉歆以為羽蟲。按月令,夏蟲羽,秋蟲毛,宜如歆說,是以舊史從之。五行精微,非末學所究。凡已經前議者,並即其言以釋之;未有舊說者,推準事理,以俟來哲。

五行伝に言う。「田猟をして宿営せず、飲食を供えず、出入りに節度がなく、民の農時を奪い、および姦謀があると、木は曲直せず、木がその本性を失って災いとなるという。」また言う。「容貌が恭しくない、これを不粛という。その咎は狂、その罰は恒雨(長雨)、その極みは悪。時に服妖あり、時に亀孽あり、時に鶏禍あり、時に下体が上に生ずる病あり、時に青眚・青祥あり。ただ金が木を沴そこなう。」班固は言う。「おそらく工匠が輪や矢を作る者が多く傷つき敗れ、および木が変怪をなす。」これらは皆、曲直しないことである。

原文五行傳曰:「田獵不宿,飲食不享,出入不節,奪民農時,及有姦謀,則木不曲直,謂木失其性而為災也。」又曰:「貌之不恭,是謂不肅。厥咎狂,厥罰恒雨,厥極惡。時則有服妖,時則有龜孽,時則有雞禍,時則有下體生上之痾,時則有青眚、青祥。惟金沴木。」班固曰:「蓋工匠為輪矢者多傷敗,及木為變怪。」皆為不曲直也。

魏の文帝の黄初六年(225年)正月、雨が降り、樹木に氷がついた(樹氷)。劉歆の説によれば、木が曲直しないことである。劉向は言う。「氷は陰の盛んなものであり、木は少陽であり、貴臣の象である。この人が害を受けようとすると、陰気が木を脅かし、木は先に寒くなるので、雨を得て氷となるのである。」この年の六月、利成郡の兵士の蔡方らが太守たいしゅの徐質を殺し、郡を占拠して反乱を起こし、多くの人を脅迫し略奪し、亡命者を集めた。二校尉を派遣し、青州刺史ししとともに討伐して平定した。太守は古の諸侯であり、貴臣に害があるという応験である。一説には、木氷を甲兵(兵器)の象とする。この年、蔡方を討伐した後、さらに八月、天子(文帝)自らが水軍を率いて呉を征伐し、兵士十余万、旗の連なりは数百里に及び、長江に臨んで兵を閲した。

原文魏文帝黃初六年正月,雨,木冰。接劉歆說,木不曲直也。劉向曰:「冰者陰之盛,木者少陽,貴臣象也。此人將有害,則陰氣脅木,木先寒,故得雨而冰也。」是年六月,利成郡兵蔡方等殺太守徐質,據郡反,多所脅略,并聚亡命。遣二校尉與青州刺史共討平之。太守,古之諸侯,貴臣有害之應也。一說以木冰為甲兵之象。是歲,既討蔡方,又八月,天子自將以舟師征吳,戎卒十餘萬,連旍數百里,臨江觀兵。

晋の元帝の太興三年(320年)二月辛未、雨が降り、木氷がついた。二年後、周顗、戴淵、刁協、劉隗が皆殺害された。春秋時代の同じ事柄と符合し、これがその応験である。一説には、この後、王敦が京師を攻めたのも、その象である。

原文晉元帝太興三年二月辛未,雨,木冰。後二年,周顗、戴淵、刁協、劉隗皆遇害,與春秋同事,是其應也。一曰,是後王敦攻京師,又其象也。

晋の穆帝の永和八年(352年)正月乙巳、雨が降り、木氷がついた。この年、殷浩が北伐し、翌年、軍は敗北し、十年(354年)に廃位された。また、荀羨、殷浩の北伐、桓温の関中進入の象であるとも言う。

原文晉穆帝永和八年正月乙巳,雨,木冰。是年,殷浩北伐,明年,軍敗,十年,廢黜。又曰,荀羨、殷浩北伐,桓溫入關之象也。

晋の孝武帝の太元十四年(389年)十二月乙巳、雨が降り、木氷がついた。翌年二月、王恭が北蕃(北府の長官)となり、八月、庾楷が西蕃となり、九月、王国宝が中書令となり、まもなく領軍将軍を兼ねた。十七年(392年)、殷仲堪が荊州刺史となった。邪正の規矩は異なるが、結局はともに滅ぼされた。これがその応験である。一説には、苻堅は敗れたが、関中・黄河は統一されず、丁零や鮮卑が司州・兗州を侵略し、竇揚が勝ちに乗じて梁州・雍州を脅かし、兵役が止まず、これもその象である。

原文晉孝武帝太元十四年十二月乙巳,雨,木冰。明年二月,王恭為北蕃;八月,庾楷為西蕃;九月,王國寶為中書令,尋加領軍將軍;十七年殷仲堪為荊州。雖邪正異規,而終同摧滅,是其應也。一曰,苻堅雖敗,關、河未一,丁零鮮卑,侵略司、兗,竇揚勝扇逼梁、雍,兵役不已,又其象也。

呉の孫亮の建興二年(253年)、諸葛恪が淮南を征伐した。出発後、彼が座っていた政庁の棟が折れた。諸葛恪はみだりに徴役を起こし、民の農時を奪い、邪な謀略を行い、国の財力を損なったので、木がその本性を失い、折れるという結果を招いたのである。そして帰還後に誅殺されたことは、周易の「棟がたわむ」という凶兆にも合致する。

原文吳孫亮建興二年,諸葛恪征淮南,行後,所坐聽事棟中折。恪妄興徵役,奪民農時,作為邪謀,傷國財力,故木失其性,致毀折也。及旋師而誅滅,於周易又為棟橈之凶也。

晋の武帝の太康五年(284年)五月、宣帝(司馬懿)の廟の地が陥没し、梁が折れた。八年(287年)正月、太廟の殿がまた陥没した。廟を改築し、基礎を泉に至るまで築いた。その年の九月、ついに新たな廟を営み、遠方から名材を運び、銅柱を混ぜて用いた。陳勰が工匠となり、作業者は六万人であった。十年(289年)四月に完成した。十一月庚寅、梁がまた折れた。地が陥没するのは分離の象であり、梁が折れるのは木が曲直しないことである。孫盛は言う。当時、後宮の殿に怪火があり、また廟の梁が理由なく自ら折れた。先に帝はしばしば病気であり、ますますこれを忌み嫌った。翌年、帝は崩御し、王室はたびたび乱れ、ついに天下を失った。

原文晉武帝太康五年五月,宣帝廟地陷梁折。八年正月,太廟殿又陷,改作廟,築基及泉。其年九月,遂更營新廟,遠致名材,雜以銅柱。陳勰為匠,作者六萬人。十年四月,乃成。十一月庚寅,梁又折。按地陷者,分離之象,梁折者,木不曲直也。孫盛曰:于時後宮殿有孽火,又廟梁無故自折。先是帝多不豫,益惡之。明年,帝崩,而王室頻亂,遂亡天下。

晋の恵帝の太安二年(303年)、成都王司馬穎が陸機に命じて軍勢を率いて京師に向かわせ、長沙王司馬乂を攻撃させた。軍が進発し始めると、牙門の旗竿が折れた。まもなく戦いに敗れ、陸機は誅殺された。司馬穎はすぐに敗走し、ついには賜死された。初め、河間王司馬顒は先に長沙王を誅殺し、太子を廃して司馬穎を立てようと謀った。長沙王はこれを知り、その党の卞粹らを誅殺したので、司馬穎が討伐に来たのである。陸機もまた司馬穎が遠近の人心を得て、漢の代王のようになるだろうと考え、ついに司馬穎に身を委ね、先鋒の将となった。これらは皆、姦謀に対する罰であり、木が曲直しないことである。

原文晉惠帝太安二年,成都王穎使陸機率眾向京師,擊長沙王乂。軍始引而牙竿折,俄而戰敗,機被誅。穎尋奔潰,卒賜死。初,河間王顒謀先誅長沙,廢太子,立穎。長沙知之,誅其黨卞粹等,故穎來伐。機又以穎得遐邇心,將為漢之代王,遂委質於穎,為犯從之將。此皆姦謀之罰,木不曲直也。

王敦が武昌にいた時、鈴下(侍従)の儀仗に生えた華が蓮花のようになり、五、六日で萎れ落ちた。これは木がその本性を失って変異をなしたものである。干宝は言う。「鈴閣は尊貴なる者の儀礼の場であり、鈴下は威儀を司る官である。今、狂った花が枯れた木に生じ、しかも鈴閣の間にあった。これは威儀の豊かさ、栄華の盛んなことが、皆狂った花が咲くように、長く続かないことを言うのである。」その後、ついに逆命し、死後さらに戮尸の刑に処せられた。これがその応験である。一説では、これは花の孽であり、周易の「枯楊生華(枯れた楊に花が咲く)」である。

原文王敦在武昌,鈴下儀仗生華如蓮花狀,五六日而萎落。此木失其性而為變也。干寶曰:「鈴閤,尊貴者之儀;鈴下,主威儀之官。今狂花生於枯木,又在鈴閤之間,言威儀之富,榮華之盛,皆如狂花之發,不可久也。」其後終以逆命,沒又加戮,是其應也。一說此花孽也,於周易為「枯楊生華」。

桓玄が帝位を簒奪さんだつし始めた時、龍旗の竿が折れた。桓玄は田猟に出ては入りを繰り返し、夜も更けるまでやめず、飲食は恣に奢侈を尽くし、土木工事が農事を妨げ、また多くの姦謀があったので、木がその本性を失ったのである。旗は三辰(日月星)を模し、章(紋様)を明らかにするものである。旗竿が折れるのは、高明なるものが去るということである。在位八十日で敗れた。

原文桓玄始篡,龍旂竿折。玄田獵出入,不絕昏夜,飲食恣奢,土水妨農,又多姦謀,故木失其性也。夫旂所以擬三辰,章著明也。旂竿之折,高明去矣。在位八十日而敗。

宋の明帝の泰始二年(466年)五月丙午、南琅邪郡臨沂県の黄城山の道士、盛道度の堂屋の一柱が自然に光り、夜、光が室内を照らした。これは木がその本性を失ったことである。あるいは、木が腐って自ら光るとも言う。

原文宋明帝泰始二年五月丙午,南琅邪臨沂黃城山道士盛道度堂屋一柱自然,夜光照室內。此木失其性也。或云木腐自光。

廃帝(順帝)の昇明元年(477年)、呉興郡餘杭県の舍亭の禾蕈樹(胡頹樹)に李の実が生じた。禾蕈樹は、民間で胡頹樹と呼ばれるものである。

原文廢帝昇明元年,吳興餘杭舍亭禾蕈樹生李實。禾蕈樹,民間所謂胡頹樹。

魏の文帝が諒闇(喪に服す期間)の初めに、しばしば遊猟に出かけ、容貌を重んぜず、風尚は通脱(形式にとらわれない)であった。そのため戴凌は直諫して罪に触れ、鮑勛は旨に逆らって極刑に処せられた。天下はこれに感化され、皆節操を守ることを軽んじた。これが容貌の恭しからざる(不恭)である。よって国を享けること永からず、後の世の運命は短く促された。春秋時代、魯の君主が喪に居て哀しまず、悲しみの中にありながら喜ばしい容貌をしていたので、穆叔はこれを度を失う(不度)と言い、後についに出奔した。これは同じ類いの事である。

原文魏文帝居諒闇之始,便數出遊獵體,貌不重,風尚通脫。故戴凌以直諫抵罪,鮑勛以迕旨極刑。天下化之,咸賤守節,此貌之不恭也。是以享國不永,後祚短促。春秋魯君居喪不哀,在慼而有嘉容,穆叔謂之不度,後終出奔。蓋同事也。

魏の尚書鄧颺は、歩く様子が弛緩してだらりとしており、筋骨が体を束ねず、座ったり起きたりする時に傾き寄りかかり、手足がないかのようであった。これが容貌の不恭である。管輅はこれを鬼躁と呼んだ。鬼躁とは、凶事で終わる兆しである。後に結局誅殺された。

原文魏尚書鄧颺,行步弛縱,筋不束體,坐起傾倚,若無手足。此貌之不恭也。管輅謂之鬼躁。鬼躁者,凶終之徵。後卒誅死。

晋の恵帝元康年間、貴遊の子弟たちが互いに髪を振り乱し裸身で飲酒し、婢妾を弄び戯れた。これに逆らう者は友好を損ない、非難する者は誹りを負った。世俗に迎合する士は、これに与しないことを恥じた。これは胡や翟が中国を侵す萌芽である。ただ伊川の民が、ひとたび髪を振り乱して祭る者だけではなかった。

原文晉惠帝元康中,貴遊子弟相與為散髮倮身之飲,對弄婢妾。逆之者傷好,非之者負譏。希世之士,恥不與焉。蓋胡、翟侵中國之萌也。豈徒伊川之民,一被髮而祭者乎。

晋の恵帝元康年間、賈謐は親族として貴重され、しばしば二宮(皇帝と皇太子の宮殿)に入り、皇太子と遊戯して、下に降る心がなかった。またかつて囲碁を打って道(着手の順序や権利)を争った時、成都王司馬穎が厳しい顔色で言った。「皇太子は国の儲君(後継者)である。賈謐はどうして無礼ができようか!」賈謐はなおも悔い改めず、ゆえに禍いに及んだ。

原文晉惠帝元康中,賈謐親貴,數入二宮,與儲君遊戲,无降下心。又嘗同弈棊爭道,成都王穎厲色曰:「皇太子,國之儲貳。賈謐何敢無禮!」謐猶不悛,故及於禍。

斉王司馬冏は趙王司馬倫を誅殺した後、そのまま留まって政務を補佐し、座ったまま百官に拝礼させ、符(命令書)や敕(詔勅)を台府(尚書台や将軍府)に発し、淫乱で専横で驕慢であり、一度も朝覲しなかった。これが狂おしくほしいままにして謹みのない様子である。天下の者はその功績を高く評価しつつも、その滅亡を憂慮した。司馬冏は結局改めず、ついに滅亡に至った。

原文齊王冏既誅趙倫,因留輔政,坐拜百官,符敕臺府,淫醟專驕,不一朝覲。此狂恣不肅之容也。天下莫不高其功,而慮其亡也。冏終弗改,遂至夷滅。

太元年間、人々はもはや帩頭(頭巾の一種)を着けなくなった。頭は元首であり、帩は髪が垂れないようにし、元首を助けて儀礼の飾りとするものである。今突然これを廃するのは、君主が独り立ちして補佐がなく、危険と滅亡に至るようである。その後、桓玄が帝位を簒奪した。

原文太元中,人不復著帩頭。頭者,元首,帩者,令髮不垂,助元首為儀飾者也。今忽廢之,若人君獨立無輔,以至危亡也。其後桓玄篡位。

以前は屐(木靴)を作る時、歯(台の下の突起)は皆、楄(台の上面)まで貫通しており、これを「露卯」と呼んだ。太元年間、突然貫通しなくなり、「陰卯」と呼んだ。その後、陰謀が多くなり、ついに大乱を招いた。

原文舊為屐者,齒皆達楄上,名曰「露卯」。太元中,忽不徹,名曰「陰卯」。其後多陰謀,遂致大亂。

晋の安帝義熙七年、晋朝は劉毅の世子に官職を授けた。劉毅は王命の重さを考え、饗宴を設けて親族を招き、役人や補佐官を臨席させて見届けさせようとした。当日、国の官僚(劉毅の家臣)が重ねて報告せず、黙って厩舎の中で拝礼した。朝廷の使者が帰って復命しようとした時、劉毅は初めて知り、大いに恨みとし、郎中令劉敬叔の官職を免じた。識者はこれを怪しんだ。これは嘉礼(吉礼)を粗略にし、謹みのない妖しき現象である。

原文晉安帝義熙七年,晉朝拜授劉毅世子。毅以王命之重,當設饗宴親,請吏佐臨視。至日,國僚不重白,默拜於廄中。王人將反命,毅方知,大以為恨,免郎中令劉敬叔官。識者怪焉。此墮略嘉禮,不肅之妖也。

陳郡の謝霊運は優れた才能を持ち、出入りのたびに、自らを扶け支える者は常に数人いた。民間の歌謡に「四人が衣裙を引き上げ、三人が座席を押さえる」というのがこれである。これは謹みのない咎めであり、後に罪に坐して誅殺された。

原文陳郡謝靈運有逸才,每出入,自扶接者常數人。民間謠曰「四人挈衣裙,三人捉坐席」是也。此蓋不肅之咎,後坐誅。

宋の明帝泰始年間、寵臣の阮佃夫げんでんふは朝廷に勢威を傾け、邸宅は豪華で麗しく、車や衣服は鮮やかで明らかであったが、車に乗る時は常に一方に偏って寄りかかり、正しく立って綏(手すり)を執る作法に違反していた。当時の人々は多くこれを慕い模倣した。これも容貌の不恭の過失である。当時、偏左(左に寄りかかる)の風化が行き渡り、方正の道は廃れた。

原文宋明帝泰始中,幸臣阮佃夫勢傾朝廷,室宇豪麗,車服鮮明,乘車常偏向一邊,違正立執綏之體。時人多慕效。此亦貌不恭之失也。時偏左之化行,方正之道廢矣。

後廃帝は常に単騎で遊び歩き、市街や里、兵営や寺社に出入りし、一度も輦(天子の乗り物)に乗らなかった。ついに滅亡した。

原文後廢帝常單騎遊遨,出入市里營寺,未嘗御輦。終以殞滅。

魏の明帝太和元年秋、しばしば大雨が降り、激しい雷電が多く、尋常ではなく、鳥雀を殺すに至った。楊阜が上疏したことを考えると、これは恒雨(長雨)の罰である。当時、帝は喪に居て哀しまず、出入りして弓矢で狩りをし度を過ごし、奢侈が盛んに起こり、民の農時を奪った。ゆえに木がその本性を失い、恒雨が災いとなったのである。

原文魏明帝太和元年秋,數大雨,多暴雷電,非常,至殺鳥雀。案楊阜上蔬,此桓雨之罰也。時帝居喪不哀,出入弋獵無度,奢侈繁興,奪民農時,故木失其性而恒雨為災也。

太和四年八月、大雨が三十余日も降り続き、伊水、洛水、黄河、漢水が皆氾濫し、その年は凶作と飢饉に見舞われた。

原文太和四年八月,大雨霖三十餘日,伊、洛、河、漢皆溢,歲以凶饑。

孫亮の太平二年二月甲寅、大雨が降り雷電が鳴った。乙卯、雪が降り、大いに寒かった。劉歆の説によれば、この時は雨が降るべきだが大雨であるべきではなく、大雨は恒雨の罰である。雷電が鳴り始めた翌日に雪が降って大寒であるのは、また恒寒(長く続く寒さ)の罰である。劉向は、既に雷電があれば雪は再び降るべきではないと考え、皆、時を失した異変である。天の戒めは言うようである、君主が時を失すれば、賊臣が起こるであろうと。先に雷電があり後に雪が降るのは、陰が隙間を見つけ、起こって陽に勝つことである。逆臣による殺害の禍いが及ぼうとしている。孫亮は悟らず、まもなく廃位された。これは春秋時代の魯の隠公と同じである。

原文孫亮太平二年二月甲寅,大雨震電;乙卯,雪,大寒。案劉歆說,此時當雨而不當大,大雨,恒雨之罰也。於始震電之明日而雪大寒,又恒寒之罰也。劉向以為既已震電,則雪不當復降,皆失時之異也。天戒若曰,為君失時,賊臣將起。先震電而後雪者,陰見間隙,起而勝陽。逆殺之禍將及也。亮不悟,尋見廢。此與春秋魯隱同也。

晋の武帝泰始六年六月、大雨が長く降り、甲辰の日、黄河、洛水、沁水が同時に氾濫し、四千九百余家が流され、二百余人が殺され、秋の作物千三百六十余頃が水没した。晋の武帝太康五年七月、任城、梁国で暴雨があり、豆や麦を害した。太康五年九月、南安で長雨と激しい雪があり、樹木を折り、秋の作物を害した。魏郡、淮南、平原で雨水があり、秋の作物を傷つけた。この秋、魏郡、西平郡の九県で長雨と激しい洪水があり、霜が秋の作物を傷つけた。

原文晉武帝泰始六年六月,大雨霖,甲辰,河、洛、沁水同時並溢,流四千九百餘家,殺二百餘人,沒秋稼千三百六十餘頃。晉武太康五年七月,任城、梁國暴雨,害豆麥。太康五年九月,南安霖雨暴雪,折樹木,害秋稼;魏郡、淮南、平原雨水,傷秋稼。是秋,魏郡、西平郡九縣霖雨暴水,霜傷秋稼。

晋の恵帝永寧元年十月、義陽・南陽・東海で長雨が降り、秋の麦を水害で損なった。

原文晉惠帝永寧元年十月,義陽、南陽、東海霖雨,淹害秋麥。

晋の成帝咸康元年八月乙丑、荊州の長沙郡攸県・醴陵県、武陵郡の龍陽県の三県で、雨水により家屋が流され、人が死亡し、秋の作物が損傷した。

原文晉成帝咸康元年八月乙丑,荊州之長沙攸、醴陵、武陵之龍陽三縣,雨水浮漂屋室,殺人,傷損秋稼。

宋の文帝元嘉二十一年六月、都では百余日にわたり連続して雨が降り、大水となった。

原文宋文帝元嘉二十一年六月,京邑連雨百餘日,大水。

孝武帝大明元年正月、都で雨水の害があった。

原文孝武帝大明元年正月,京邑雨水。

大明五年七月、都で雨水の害があった。

原文大明五年七月,京邑雨水。

大明八年八月、都で雨水の害があった。

原文大明八年八月,京邑雨水。

明帝太始二年六月、都で雨水の害があった。

原文明帝太始二年六月,京邑雨水。

順帝昇明三年四月乙亥、呉郡桐廬県で暴風雷電が起こり、砂を舞い上げ木を折り、水が平地より二丈も上がり、住民が流された。

原文順帝昇明三年四月乙亥,吳郡桐廬縣暴風雷電,揚砂折木,水平地二丈,流漂居民。

魏の武帝は天下が凶作で資財が乏しかったため、古の皮弁を模し、縑帛を裁って白帢を作り、旧来の服に替えさせた。傅玄は言う。「白は軍の容儀であり、国の容儀ではない」と。干寶は、白は喪服の色であり、凶事の象徴であり、帢は毀辱(名誉を傷つける)という意味の言葉であると考えた。これは王朝交代の後、攻撃殺戮の妖しき前兆であろう。初めは白帢で、前を横に縫い合わせて後ろと区別し、これを「顏」と呼び、俗に伝わって行われた。晋の永嘉年間になると、次第にその縫い目をなくし、「無顏帢」と呼んだ。また婦人の髪を束ねるのが、ますます緩やかになり、結い固めることができず、髪が額を覆い、目だけが出ている状態であった。無顏とは、恥じるという言葉である。額を覆うのは、恥じる様子である。その緩やかさがますます甚だしいのは、天下が礼と義を忘れ、情性を放縦にし、その極みに至って、大いなる恥辱に至ることを言うのである。永嘉の後、懐帝・愍帝の二帝が帰らぬ身となり、天下は恥じた。魏の明帝は刺繍の帽子をかぶり、薄青色の絹の半袖を着て、直臣の楊阜に会ったことがある。楊阜は諫めて言った。「これは礼のどの法服に当たるのでしょうか」。帝は黙った。これは近世の服妖である。薄青色は礼に適さぬ色であり、褻服(普段着)は二通りあってはならない。今の君主が自ら礼法に適わない服を着るのは、いわゆる自ら災いを造りて禳うべからざるものである。帝は永年を享けず、身没して禄は王室を去り、後嗣は終わりを全うせず、遂に天下を失った。

原文魏武帝以天下凶荒,資財乏匱,始擬古皮弁,裁縑帛為白帢,以易舊服。傅玄曰:「白乃軍容,非國容也。」干寶以為縞素,凶喪之象,帢,毀辱之言也。蓋革代之後,攻殺之妖也。初為白帢,橫縫其前以別後,名之曰「顏」,俗傳行之。至晉永嘉之間,稍去其縫,名「無顏帢」。而婦人束髮,其緩彌甚,紒之堅不能自立,髮被于額,目出而已。無顏者,愧之言也;覆額者,慚之貌;其緩彌甚,言天下忘禮與義,放縱情性,及其終極,至乎大恥也。永嘉之後,二帝不反,天下愧焉。魏明帝著繡帽,被縹紈半袖,嘗以見直臣楊阜。阜諫曰:「此於禮何法服邪?」帝默然。近服妖也。縹,非禮之色,褻服不貳。今之人主,親御非法之章,所謂自作孽不可禳也。帝既不享永年,身沒而祿去王室,後嗣不終,遂亡天下。

魏の明帝景初元年、銅を発して二体の巨人を鋳造し、「翁仲」と号した。司馬門の外に置いた。古例によれば、長人の出現は国の滅亡を意味する。長狄が臨洮に現れたのは、秦が滅亡する禍の前兆であった。始皇帝は悟らず、かえってこれを嘉祥とし、銅人を鋳造してこれを象った。魏は亡国の器を造ったが、その意義においては何ら取るべきところがなかった。これも服妖である。

原文魏明帝景初元年,發銅鑄為巨人二,號曰「翁仲」。置之司馬門外。案古長人見,為國亡;長狄見臨洮,為秦亡之禍。始皇不悟,反以為嘉祥,鑄銅人以象之。魏法亡國之器,而於義竟無取焉。蓋服妖也。

魏の尚書何晏は、婦人の服を好んで着用した。傅玄は言う。「これは服妖である」と。衣裳の制度は、上下を定め、内外を区別するためにある。大雅に「玄袞赤舄、鉤膺鏤鍚」とあるのは、その文飾を歌ったものである。小雅に「有嚴有翼、共武之服」とあるのは、その武威を詠んだものである。もし内外が区別されなければ、王者の制度は秩序を失い、服妖が起こると身もそれに従って滅びる。末喜が男子の冠をかぶり、桀は天下を失った。何晏が婦人の服を着たので、その家も滅びた。その咎は同じである。

原文魏尚書何晏,好服婦人之服。傅玄曰:「此服妖也。」夫衣裳之制,所以定上下,殊內外也。大雅云:「玄袞赤舄,鉤膺鏤鍚。」歌其文也。小雅云:「有嚴有翼,共武之服。」詠其武也。若內外不殊,王制失敍,服妖既作,身隨之亡。末嬉冠男子之冠,桀亡天下;何晏服婦人之服,亦亡其家。其咎均也。

呉で容姿を整える婦人は、急いで髪を束ね、鬢の角を耳の上まで伸ばした。これはその風俗が自ら束ねるのをあまりに急にし、角が中庸を失っていることを言うのであろう。故に呉の風俗は、急であることを互いに競い、言論で弾劾し、刻薄であることを尊んだ。三年の喪に服する者が、しばしば衰弱して死に至ることがあった。諸葛はこれを憂い、『正交論』を著した。経典の教訓をもって乱れを整えることはできなくとも、時弊を救う作ではあった。孫休の後、衣服の制は上が長く下が短く、また襟を五六重ねて裳は一二に過ぎなかった。干寶は言う。「上が豊かで奢侈、下が倹約で逼迫、上が余り下が足りぬ妖しき前兆である」と。孫晧に至り、果たして上は奢侈暴虐で情欲のままに振る舞い、下の百姓は疲弊困窮し、ついに国を滅ぼした。これがその応報である。

原文吳婦人之修容者,急束其髮,而劘角過于耳。蓋其俗自操束大急,而廉隅失中之謂也。故吳之風俗,相驅以急,言論彈射,以刻薄相尚。居三年之喪者,往往有致毀以死。諸葛患之,著正交論,雖不可以經訓整亂,蓋亦救時之作也。孫休後,衣服之制,上長下短,又積領五六而裳居一二。干寶曰:「上饒奢,下儉逼,上有餘下不足之妖也。」至孫晧,果奢暴恣情於上,而百姓彫困於下,卒以亡國。是其應也。

晋が興った後、衣服は上が倹約で下が豊かになり、衣を着る者は皆腰の部分を覆って裳を隠した。君主が衰弱し、臣下が放縦になり、下が上を覆う象である。衰退して元康の末に至ると、婦人が両当(襦袢のようなもの)を外に着て、脛の上に加えた。これは内が外に出るのである。車乗を造る者は、軽く細いことを尊び、またその形をたびたび変え、皆白い篾(竹の皮)で縁取りをした。これは古の喪車の名残りの象である。乗り物は君子の器であり、君子が心を立てて恒がなく、事を実質を尊ばないのである。干寶は言う。「晋の禍に及んで、天子は権柄を失い、寵臣に権力を制せられ、下が上を覆う応報である。永嘉の末、六宮の才人が戎や翟の地に流れ移ったのは、内が外に出る応報である。天下が乱れ擾い、宰輔や方伯が多くその任に背き、またたびたび改易されたのは、実質を尊ばない応報である」。

原文晉興後,衣服上儉下豐,著衣者皆厭䙅蓋裙。君衰弱,臣放縱,下掩上之象也。陵遲至元康末,婦人出兩襠,加乎脛之上,此內出外也。為車乘者,苟貴輕細,又數變易其形,皆以白篾為純,古喪車之遺象。乘者,君子之器,蓋君子立心無恒,事不崇實也。干寶曰:「及晉之禍,天子失柄,權制寵臣,下掩上之應也。永嘉末,六宮才人,流徙戎、翟,內出外之應也。及天下亂擾,宰輔方伯,多負其任,又數改易,不崇實之應也。」

晋の武帝泰始の後、中国では胡牀(胡座)や貊盤(貊族の皿)、および羌煮(羌族の煮物)や貊炙(貊族の焼肉)を用いることが流行した。貴人や富家は必ずその器を備え、吉事の宴や嘉会では皆これを先にした。太康年間、天下ではまた氈(フェルト)で絈頭(頭巾)や絡帯(帯)、衿口(襟元の飾り)を作った。百姓は戯れて言った。「中国は必ず胡に破られるであろう。氈は胡の産物であるのに、天下がそれで絈頭・帯身・衿口を作る。胡がすでに三つの部位を制したのである。敗れぬことがあろうか」と。干寶は言う。「元康年中、氐・羌が反乱し、永嘉に至って劉淵・石勒が遂に中都を有した。その後、四夷が代わる代わる華土を占拠したのは、これがその応報である」。

原文晉武帝泰始後,中國相尚用胡牀、貊盤,及為羌煑、貊炙。貴人富室,必置其器,吉享嘉會,皆此為先。太康中,天下又以氈為絈頭及絡帶、衿口。百姓相戲曰,中國必為胡所破也。氈產於胡,而天下以為絈頭、帶身、衿口,胡既三制之矣,能无敗乎。干寶曰:「元康中,氐、羌反,至于永嘉,劉淵、石勒遂有中都。自後四夷迭據華土,是其應也。」

晋の武帝太康の後、家を構える者は、婦人を東方に移し、北庭を空地のままにして園囿とした。干寶は言う。「王朝は南向きで、正陽の位である。后は北宮にいて、太陰の位である。世子は東宮にいて、少陽の位である。今、内(后妃)を東に置くのは、外(君主)と共に南面することである。陽が亢進して陰がなく、婦人がその位を失って少陽を犯す象である。賈后が愍懐太子を讒言して殺害すると、間もなく禍敗もまた彼女に及んだ」。

原文晉武帝太康後,天下為家者,移婦人於東方,空萊北庭,以為園囿。干寶曰:「夫王朝南向,正陽也;后北宮,位太陰也;世子居東宮,位少陽也。今居內於東,是與外俱南面也。亢陽无陰,婦人失位而干少陽之象也。賈后讒戮愍懷,俄而禍敗亦及。」

昔、履が初めて作られた時、婦人は丸頭、男子は角頭であった。丸いのは従順の意味で、男女を区別するためである。晋の太康初年、婦人は皆角頭の履を履いた。これは丸い形を捨てて従順を失い、男子と区別がなくなったのである。

原文昔初作履者,婦人圓頭,男子方頭。圓者,順從之義,所以別男女也。晉太康初,婦人皆履方頭,此去其圓從,與男無別也。

太康年間、天下では「晋世寧」の舞が行われ、手で杯や盤を受け取り反転させ、歌に「晋世寧、舞杯盤」とあった。音楽は人の心から生まれ、事態を観察するものである。故に記録に「干を総べて山のように立ち、武王の事である。発揚して蹈厲し、太公の志である。武乱して皆坐し、周・召の治である」とある。また「民を治めるのに労する者は、舞の行綴が遠く、民を治めるのに逸する者は、舞の行綴が近い」ともいう。今、杯盤を手に受け取り反転させるのは、極めて危険である。杯盤は酒食の器であるのに「晋世寧」と名付けるのは、晋の世の士人が酒食の間に苟且に過ごし、その知恵が遠くまで及ばず、晋の世の安寧は、あたかも杯盤が手の中にあるようなものだ、と言うのである。

原文太康之中,天下為晉世寧之舞,手接杯槃反覆之,歌曰:「晉世寧,舞杯槃。」夫樂生人心,所以觀事。故記曰:「總干山立,武王之事也;發揚蹈厲,太公之志也;武亂皆坐,周、召之治也。」又曰:「其治民勞者,舞行綴遠;其治民逸者,舞行綴近。今接杯槃於手上而反覆之,至危也。杯槃者,酒食之器也,而名曰晉世寧者,言晉世之士,偷苟於酒食之間,而其知不及遠,晉世之寧,猶杯槃之在手也。」

晋の恵帝元康年間、婦人の装飾に五兵佩があり、また金・銀・玳瑁などで斧・鉞・戈・戟を作り、笄の代わりとした。干宝は言う。「男女の区別は国の大節である。故に衣服や器物は等級が異なり、贄幣も同じでない。今、婦人が兵器を装飾とするのは、また妖しきことの大きいものである」。やがて賈后の事件があり、ついに兵によって天下を滅ぼすこととなった。

原文晉惠帝元康中,婦人之飾有五兵佩,又以金、銀、瑇瑁之屬為斧、鉞、戈、戟,以當笄□。干寶曰:「男女之別,國之大節,故服物異等,贄幣不同。今婦人而以兵器為飾,又妖之大也。遂有賈后之事,終以兵亡天下。」

元康年間、婦人が髪を結う時、結い終わると、繒でその環をきつく束ね、これを「擷子紒」と呼んだ。宮中から始まり、天下に広まった。その後、賈后は果たして太子を害した。

原文元康中,婦人結髮者,既成,以繒急束其環,名曰擷子紒。始自中宮,天下化之。其後賈后果害太子。

元康年間、天下で互いに倣って㮧杖を作り、脇の下を支える柱とし、後にその鐓を少し施し、止まるときは立てた。木は東方の行であり、金の臣である。扶けるものは杖の本体の器であり、㮧でその頭を作るのは、特に使いやすいためである。必ず脇の下の柱に寄りかかるのは、傍らで救う象である。王室に多くの変故があり、元帝が藩臣として東方に徳を樹て、天下を維持したのは、柱で脇を支える応である。社稷に主がなくなり、海内がこれに帰すると、ついに天命を受け、江外に都を建てたのは、独立の応である。

原文元康中,天下始相倣為㮧杖,以柱掖其後,稍施其錞,住則植之。夫木,東方之行,金之臣也。扶者,杖體之器,㮧其頭者,尤便用也。必傍柱掖者,傍救之象也。王室多故,而元帝以蕃臣樹德東方,維持天下,柱掖之應也。至社稷無主,海內歸之,遂承天命,建都江外,獨立之應也。

元康の末から太安の間にかけて、江・淮の地域で、破れた草鞋が道に自然に集まり、多い時は四五十足にもなった。干宝はかつて人を遣わして散らして去らせ、あるいは林や草の中に投げ、あるいは坑や谷に投げさせた。翌日見ると、すべて元のように戻っていた。民の中には狸が銜えて集めているのを見たという者もいたが、確かめられなかった。干宝は説明して言う。「草鞋は人の卑しい履物で、最も下に位置し、労苦と恥辱に当たり、下民の象である。破れているのは、疲弊し倒れる象である。道は地理的に四方に通じ、王命が往来する交通路である。故に今、破れた草鞋が道に集まるのは、下民が疲弊病み、やがて集まって乱を起こし、四方を絶ち王命を塞ぐ象である」。在位者は誰も察しなかった。太安年間、壬午の兵を徴発し、百姓は嘆き怨んだ。江夏の男子張昌が遂に荊楚で最初に乱を起こし、従う者は流れのようであった。ここにおいて戦乱が毎年起き、天下はこれによって、ついに大きく破壊された。これは服妖に近い。

原文元康末至太安間,江、淮之域,有敗編自聚于道,多者或至四五十量。干寶嘗使人散而去之,或投林草,或投坑谷。明日視之,悉復如故。民或云見狸銜而聚之,亦未察也。寶說曰:「夫編者,人之賤服,最處于下,而當勞辱,下民之象也。敗者,疲斃之象也。道者,地理四方,所以交通王命所由往來也。故今敗編聚於道者,象下民罷病,將相聚為亂,絕四方而壅王命之象也。在位者莫察。太安中,發壬午兵,百姓嗟怨。江夏男子張昌遂首亂荊楚,從之者如流。於是兵革歲起,天下因之,遂大破壞。此近服妖也。」

晋の孝懐帝永嘉以来、士大夫は競って生箋の単衣を着た。遠識のある者はこれを怪しみ、ひそかに指摘して言った。「これは古の繐衰の布で、諸侯や大夫が天子に服する時に着るものである。今、理由もなく皆がこれを着るのは、おそらく何か応があるのだろうか?」その後、愍帝・懐帝が晏駕し、その所を得られなかった。

原文晉孝懷永嘉以來,士大夫竟服生箋單衣。遠識者怪之,竊指擿曰:「此則古者繐衰之布,諸侯大夫所以服天子也。今無故畢服之,殆有應乎?」其後愍、懷晏駕,不獲厥所。

晋の元帝太興以来、兵士は絳色の袋で紒を縛った。紒は頭にあり、これより上はない。周易で乾は首、坤は袋である。坤は臣の道である。晋は金行であり、赤は火の色で、金の賊である。朱色の袋で紒を縛るのは、臣の道が上を侵す象である。永昌元年に至り、大将軍王敦が兵を挙げて内攻し、六軍は散乱潰走した。

原文晉元帝太興以來,兵士以絳囊縛紒。紒在首,莫上焉。周易乾為首,坤為囊。坤,臣道也。晉金行,赤火色,金之賊也。以朱囊縛紒,臣道上侵之象也。到永昌元年,大將軍王敦舉兵內攻,六軍散潰。

以前の羽扇は、柄を木で刻み、その骨の形を象り、羽は十本使い、全数を取った。晋の中興の初め、王敦が南征し、初めて長柄で下に出し、掴めるように改め、その羽を減らして八本にした。識者はこれを非難して言った。「羽扇は翼の名である。長柄を作るのは、その柄を執って羽翼を制するのである。十を八に改めるのは、未備をもって已備を奪おうとするのである」。この時、衣を着る者は、また上を短くし、帯は脇の下まで届き、帽をかぶる者は、帯で首を縛った。下が上を逼迫し、上には余地がない。下袴は、直幅で口に殺しがなく、下が大きく裁ち方を失っている。まもなく兵乱があり、三年で再び京師を攻撃した。

原文舊為羽扇,柄刻木,象其骨形,羽用十,取全數也。晉中興初,王敦南征,始改為長柄下出,可捉,而減其羽用八。識者尤之曰:「夫羽扇,翼之名也。創為長柄者,執其柄制羽翼也。以十改八者,將以未備奪已備也。」是時為衣者,又上短,帶至于掖;著帽者,以帶縛項。下逼上,上無地也。下袴者,直幅為口無殺,下大失裁也。尋有兵亂,三年而再攻京師。

晋の海西公が初めて嗣位した時、迎える官が豹尾を設けるのを忘れた。識者はこれを終わりを全うしない象とし、服妖に近いとした。

原文晉海西初嗣位,迎官忘設豹尾。識者以為不終之象,近服妖也。

晋の司馬道子は府の北園内に酒鑪と列肆を設け、姬人に酒肴を売り買いさせ、まるで小商人のようであり、しばしばその中を遊歩し、自ら買い売りし、酔ってその場に泊まり寝し、動きは日夜に連なった。漢の霊帝もかつてこのようであった。干宝は「君が位を失い、賤しい隷属の身分に降る象である」と考えた。道子はついに廃位・移徙され、庶人として終わった。

原文晉司馬道子於府北園內為酒鑪列肆,使姬人酤鬻酒肴,如裨販者,數遊其中,身自買易,因醉寓寢,動連日夜。漢靈帝嘗若此。干寶以為:「君將失位,降在皁隸之象也。」道子卒見廢徙,以庶人終。

桓玄が簒奪して即位すると、殿上に絳色の綾の帳を施し、黄金を鏤めて顔とし、四角に金龍を配し、五色の羽葆流蘇を銜えさせた。群下はひそかに互いに言った。「輀車に似ている」。これは服妖である。

原文桓玄篡立,殿上施絳綾帳,鏤黃金為顏,四角金龍,銜五色羽葆流蘇。羣下竊相謂曰:「頗類輀車。」此服妖也。

晋の末年に皆が小冠をかぶり、衣裳は広大で、風流として互いに倣い、輿臺の者までが習俗とした。識者は言った。「これは禅代の象である」。永初以後、冠はまた大きくなった。

原文晉末皆冠小冠,而衣裳博大,風流相倣,輿臺成俗。識者曰:「此禪代之象也。」永初以後,冠還大云。

宋の文帝元嘉六年、民間の婦人で髪を結う者は、髪を三分し、その鬟を真っ直ぐ上に引き上げ、これを「飛天紒」と呼んだ。東府から始まり、民庶に広まった。時に司徒しと彭城ほうじょう王劉義康が東府に居たが、その後、ついに上を陵ぐことで徙移・廃位された。

原文宋文帝元嘉六年,民間婦人結髮者,三分髮,抽其鬟直向上,謂之「飛天紒」。始自東府,流被民庶。時司徒彭城王義康居東府,其後卒以陵上徙廢。

孝武帝の世、豫州刺史の劉徳願は車の御し方が巧みで、世祖(孝武帝)はかつて彼に画輪車を御させ、太宰江夏王劉義恭の邸に幸した。徳願は牛杖を挟んで世祖を催促して「日が暮れるから帰るべきです!」と言い、また車賃の増加を求めた。世祖は大いに喜んだ。この事は漢の霊帝が西園に私銭を蓄えたことと同じである。

原文孝武帝世,豫州刺史劉德願善御車,世祖嘗使之御畫輪,幸太宰江夏王義恭第。德願挾牛杖催世祖云:「日暮宜歸!」又求益僦車。世祖甚歡。此事與漢靈帝西園蓄私錢同也。

孝武帝の時代、寵臣の戴法興は権勢が君主に次ぐほどで、円頭の履物を作らせ、世間の人々は皆これを真似た。その時、円滑に迎合する風潮が大いに流行し、方正で厳格な気風は完全に失われた。

原文孝武世,幸臣戴法興權亞人主,造圓頭履,世人莫不效之。其時圓進之俗大行,方格之風盡矣。

明帝の初め、司徒の建安王劉休仁りゅうきゅうじんが赭圻しゃきで軍を統率した際、烏紗帽を作り、帽の裾を反り返らせた。民間ではこれを「司徒状」と呼び、都では一斉にこれを尊んだ。休仁は後に疑いをかけられて追い詰められ、禍を招いた。

原文明帝初,司徒建安王休仁統軍赭圻,制烏紗帽,反抽帽裙,民間謂之「司徒狀」,京邑翕然相尚。休仁後果以疑逼致禍。

晋の恵帝永熙の初め、衛瓘の家の者が飯を炊くと、飯が地面に落ち、すべて螺に変わり、足を出して歩き出した。螺は亀の類であり、亀の妖異に近い。干宝は言う、「螺は甲羅を背負う。これは兵の象徴である。周易では離に当たり、離は戈や兵を表す」と。翌年、衛瓘は誅殺された。

原文晉惠帝永熙初,衛瓘家人炊飯,墮地,盡化為螺,出足起行。螺,龜類,近龜孽也。干寶曰:「螺被甲,兵象也。於周易為離,離為戈兵。」明年,瓘誅。

魏の明帝景初二年、廷尉の府の中で雌鶏が雄に変わり、鳴かず、闘わなかった。干宝は言う、「この年、晋の宣帝が遼東を平定し、民衆が初めて有能な者を推挙する議論を始めた。これがその兆しである」と。しかし晋の三帝(宣帝・景帝・文帝)は皆人臣として終わり、鳴かず闘わなかったのは、また天意でもあった。

原文魏明帝景初二年,廷尉府中有雌雞變為雄,不鳴不將。干寶曰:「是歲,晉宣帝平遼東,百姓始有與能之議,此其象也。」然晉三后並以人臣終,不鳴不將,又天意也。

晋の恵帝元康六年、陳国で鶏が雄鶏を生んだが翼がなく、成長した後、坑に落ちて死んだ。王隠は言う、「雄は後継者の象徴、坑は地の事で母の象徴、賈后が愍懐太子を誣告して殺したことの応であろう」と。

原文晉惠帝元康六年,陳國有雞生雄雞無翅,既大,墜坑而死。王隱曰:「雄,胤嗣象,坑地事為母象,賈后誣殺愍懷,殆其應也。」

晋の恵帝太安年間、周玘の家の雌鶏が承霤(雨樋)の中に逃げ込み、六七日後に下りてきて、翼を振るい鳴き、闘おうとしたが、ただ羽毛だけは変わらなかった。その後、陳敏の乱が起こった。陳敏は江表を支配したが、ついに綱紀や礼楽制度はなく、これがその兆しであった。結局、周玘に滅ぼされた。鶏の災異が周玘の家に現れたのは、また天意でもあった。

原文晉惠帝太安中,周玘家有雌雞逃承霤中,六七日而下,奮翼鳴將,獨毛羽不變。其後有陳敏之事。敏雖控制江表,終無綱紀文章,殆其象也。卒為玘所滅。雞禍見玘家,又天意也。

晋の元帝太興年間、王敦が武昌を鎮守していた時、雌鶏が雄に変わった。天の戒めはこう言うようであった、「雌が雄に変わるのは、臣下が主君の上に立つこと」。その後、王敦は再び都を攻撃した。

原文晉元帝太興中,王敦鎮武昌,有雌雞化為雄。天戒若曰:「雌化為雄,臣陵其上。」其後王敦再攻京師。

晋の孝武帝太元十三年四月、広陵郡高平県の閻嵩の家の雄鶏は、生まれつき右の翼がなかった。彭城郡の到象の家の鶏は、右足がなかった。京房の易伝に言う、「君主が婦人の言葉を用いると、鶏に妖異が生じる」。

原文晉孝武太元十三年四月,廣陵高平閻嵩家雄雞,生無右翅;彭城到象之家雞,無右足。京房易傳曰:「君用婦人言,則雞生妖。」

晋の安帝隆安元年八月、琅邪王司馬道子の家の青い雌鶏が赤い雄に変わったが、鳴かず、闘わなかった。後に桓玄の乱が起こり、その兆候はすべてこの現象の通りであった。

原文晉安帝隆安元年八月,琅邪王道子家青雌雞化為赤雄,不鳴不將。後有桓玄之事,具如其象。

隆安四年、荊州で鶏が角を生やし、角はまもなく脱落した。この時、桓玄が初めて西楚の地で専横を始め、狂慢で謹みがなかったため、鶏の災異があった。角は兵の象徴。まもなく脱落したのは、一時的に起こっても終わらない妖異である。

原文隆安四年,荊州有雞生角,角尋墮落。是時桓玄始擅西夏,狂慢不肅,故有雞禍。角,兵象;尋墮落者,暫起不終之妖也。

晋の安帝元興二年、衡陽で雌鶏が雄に変わり、八十日後に鶏冠が萎えた。衡陽は、桓玄の楚国の封域であった。後に帝位を簒奪して八十日で敗れた。徐広はこれを桓玄の兆しと見なした。

原文晉安帝元興二年,衡陽有雌雞化為雄,八十日而冠萎。衡陽,桓玄楚國封略也。後篡位八十日而敗,徐廣以為玄之象也。

宋の文帝元嘉十二年、華林園の雌鶏が次第に雄に変わった。後に孝武帝が即位し、皇太后の命令が朝廷の外で行われた。これは漢の宣帝の時に雌鶏が雄に変わり、哀帝の時に元后が政事に関与したのと同じである。

原文宋文帝元嘉十二年,華林園雌雞漸化為雄。後孝武即位,皇太后令行于外,亦猶漢宣帝時,雌雞為雄,至哀帝時,元后與政也。

明帝泰始年間、呉興郡東遷県の沈法符の家の鶏に四本の距があった。

原文明帝泰始中,吳興東遷沈法符家雞有四距。

晋の武帝咸寧元年八月丁酉、大風が太社の樹を折り、青い気が出た。これは青祥である。占いでは、「東莞に帝たる者が出るであろう」と言う。翌年、元帝が生まれた。この時、皇帝の祖父の武王(司馬伷)は東莞に封じられていたが、これによって琅邪に転封された。孫盛はこれを中興の兆しと見なした。晋室の乱で、武帝の子孫は一人も残らなかったのは、社の樹が折れた応報であり、また恒常的な風による罰でもあった。

原文晉武帝咸寧元年八月丁酉,大風折太社樹,有青氣出焉。此青祥也。占曰:「東莞當有帝者。」明年,元帝生。是時帝大父武王封東莞,由是徙封琅邪。孫盛以為中興之表。晉室之亂,武帝子孫無孑遺,社樹折之應,又恒風之罰也。

晋の恵帝元康年間、洛陽の南山で虻が「韓屍屍」と声を出した。識者は言った、「韓氏が死ぬであろう。屍屍と言うのは、すべて死ぬという意味である」と。その後、韓謐が誅殺され、韓氏一族は殲滅された。これは青祥である。

原文晉惠帝元康中,洛陽南山有䖟作聲曰:「韓屍屍。」識者曰:「韓氏將死也。言屍屍者,盡死意也。」其後韓謐誅而韓族殲焉。此青祥也。

魏の文帝の初七年正月、帝は許昌に行幸した。許昌の城南門が理由もなく自ら崩壊した。帝はこれを不吉に思い、ついに城内に入らず、洛陽に帰還した。これは金が木を害し、木が動いたためである。五月、帝は崩御した。京房の『易伝』に言う、「上下ともに道理に背くと、その妖は城門が壊れる」。

原文魏文帝初七年正月,幸許昌。許昌城南門無故自崩,帝心惡之,遂不入,還洛陽。此金沴木,木動也。五月,宮車晏駕。京房易傳曰:「上下咸悖,厥妖城門壞。」

晋の元帝の太興二年六月、呉郡の米倉が理由もなく自ら壊れた。この年は大飢饉となり、数千人が死んだ。

原文晉元帝太興二年六月,吳郡米廩無故自壞。是歲大饑,死者數千。

晋の明帝の太寧元年、周筵が自ら王敦のもとに帰順し、屋敷を建てたが、建てた五間六架の建物が、一時に跳ね上がって地面に落ち、残った桁はまだ柱の頭に渡っていた。これは金が木を害したためである。翌年五月、錢鳳が謀反を企て、ついに周筵は一族皆殺しとなり、湖熟もまもなく廃墟となった。

原文晉明帝太寧元年,周筵自歸王敦,既立宅宇,而所起五間六架,一時躍出墮地,餘桁猶亘柱頭。此金沴木也。明年五月,錢鳳謀亂,遂族滅筵,而湖熟尋亦為墟矣。

晋の安帝の元興元年正月丙子、司馬元顯が桓玄を西征しようとし、揚州の南門に軍旗を立てたが、その東側のものがなかなか立たず、長い間を経てようやく正しく立った。これは災いの妖しき前兆に近い。まもなく元顕は桓玄に捕らえられた。

原文晉安帝元興元年正月丙子,司馬元顯將西討桓玄,建牙揚州南門,其東者難立,良久乃正。近沴妖也。尋為桓玄所禽。

元興三年五月、楽賢堂が壊れた。天の意思は言うようである、安帝は愚昧で、賢者を楽しむ心に及ばない、それゆえこの堂に災いが現れたのだと。

原文元興三年五月,樂賢堂壞。天意若曰,安帝嚚眊,不及有樂賢之心,故此堂見沴也。

晋の安帝の義熙九年五月乙酉、国子監の聖堂が壊れた。

原文晉安帝義熙九年五月乙酉,國子聖堂壞。

宋の文帝の元嘉十七年、劉斌が呉郡太守であった時、郡庁舎の西側の鴟尾が理由もなく地面に落ちた。修理が終わらないうちに、東側の鴟尾もまた落ちた。間もなく、劉斌は誅殺された。

原文宋文帝元嘉十七年,劉斌為吳郡,郡堂屋西頭鴟尾無故落地,治之未畢,東頭鴟尾復落。頃之,斌誅。