宋書
志第十九 符瑞下
嘉禾は五穀の長であり、君主の徳が盛んなると、二本の苗が共に秀でる。周の徳においては、三本の苗が共に穂を出す。商の徳においては、同じ根から異なる穂が出る。夏の徳においては、異なる根から同じ秀でた穂が出る。
漢の宣帝の元康四年、嘉穀の玄稷が郡国に降った。
漢の章帝の元和年間、嘉禾が郡国に生じた。
漢の安帝の延光二年六月、嘉禾が九真に生じ、百五十六本、七百六十八穂あった。
漢の桓帝の建和二年四月、嘉禾が大司農の帑蔵に生じた。
漢の桓帝の永康元年八月、嘉禾が魏郡に生じた。
魏の文帝の黄初元年、郡国から三度、嘉禾が生じたと報告があった。
呉の孫権の黄龍三年十月、会稽の南始平から嘉禾が生じたと報告があった。
孫権の赤烏七年秋、宛陵から嘉禾が生じたと報告があった。
晋の武帝の泰始八年十月、瀘水の胡王の彭護が嘉禾を献上した。
晋の武帝の太康四年十二月、嘉禾が扶風の雍に生じた。
太康五年七月、嘉禾が 豫 章の南昌に生じた。
太康八年閏三月、嘉禾が東夷 校尉 の園に生じた。
太康八年(287年)九月、嘉禾(瑞穂)が東萊郡掖県に生じた。
晋の愍帝建興元年(313年)八月癸亥、嘉禾が襄平県に生じ、一本の茎に七つの穂があった。
建興二年(314年)六月、嘉禾が平州の治所に生じ、三つの実が同じ 蔕 についていた。
建興三年(315年)七月、嘉禾が襄平県に生じ、異なる株が同じ蔕についていた。
宋の文帝元嘉二年(425年)十月、嘉禾が潁川郡陽翟県に生じ、 太守 の垣苗がこれを報告した。
元嘉九年(432年)三月、嘉禾が義陽に生じ、 豫 州 刺史 の長沙王劉義欣がこれを献上した。
元嘉十年(433年)八月、嘉禾が汝南郡苞信県に生じ、 豫 州 刺史 の長沙王劉義欣がこれを献上した。
元嘉十一年(434年)八月、一本の茎に九つの穂を持つ嘉禾が北汝陰に生じ、太守の王玄謨がこれを献上した。
元嘉二十年(443年)六月、一本の茎に九つの穂を持つ嘉禾が上庸郡新安県に生じ、梁州 刺史 の劉真道がこれを献上した。
元嘉二十一年(444年)、嘉禾が新野郡鄧県に生じ、雍州 刺史 の蕭思話がこれを献上した。
元嘉二十二年(445年)六月、嘉禾が籍田に生じ、一本の茎に九つの穂があった。
元嘉二十二年(445年)七月癸酉、嘉禾が平虜陵に生じ、徐州 刺史 の臧質がこれを献上した。
元嘉二十二年(445年)九月、嘉禾が 太尉 府の田に生じ、 太尉 の江夏王劉義恭がこれを報告した。
元嘉二十二年(445年)九月、嘉禾が揚州の東耕田に生じ、 刺史 の始興王劉濬がこれを報告した。
元嘉二十二年(445年)、嘉禾が華林園に生じ、百六十の穂があり、園丞の陳襲祖がこれを報告した。
元嘉22年、嘉禾(瑞祥の穀物)が潁川郡曲陽県に生じ、 豫 州 刺史 の趙伯符がこれを献上した。
元嘉23年7月乙丑の日、籍田に嘉禾が群生し、籍田令の褚熙伯がこれを報告した。
元嘉23年7月庚午の日、嘉禾が丹陽郡椒唐里に生じ、揚州 刺史 の始興王劉濬がこれを報告した。
元嘉23年7月庚辰の日、嘉禾が醴湖屯に生じ、屯主の王世宗がこれを報告した。
元嘉23年8月己酉の日、嘉禾が華林園に生じ、園丞の陳襲祖がこれを報告した。
元嘉23年9月庚申の日、嘉禾が沛郡蕭県に生じ、征北大將軍の衡陽王劉義季がこれを報告した。
元嘉23年、嘉禾が江夏郡汝南県に生じ、荊州 刺史 の南譙王劉義宣がこれを報告した。
元嘉24年7月乙卯の日、嘉禾が華林園および景陽山に群生し、園丞の梅道念がこれを報告した。 太尉 の江夏王劉義恭が上表して言った。
中領軍・吉陽県侯の沈演之が嘉禾頌を奏上して言った。「輝く瑞祥の図、明らかな瑞の典。運が傾き隠れていたが、時が通じて初めて現れた。綈の形が既に明らかになり、鳥の文様も識別できる。偉大なる聖天子よ、万物を受け継ぎ遠くを記される。明るい二つの星は辰に輝き、栄光は天に広がる。〈その一〉道理は妙にして位は高く、神事に仕える業は盛んである。深く厚い徳沢、虚静にして道にかなう政治。教化を調和させて心を安らげ、音楽を調えて性を移す。玉衡は体に従い、瑤光は正を得る。巨星が彩を垂れ、景雲が慶びを立てる。〈その二〉極限の仁の及ぶところ、暗い所なく攘われることはない。至極の和の感じるところ、瑞兆として顕れないものはない。鴛鴦は丹穴から出で、鸚鵡は西湘から起こる。白鹿は海を越え、白鳥は江を越える。響きは天の陰に結び、姿形は陽の鐘に現れる。〈その三〉民を治め天に奉じ、勤め努めて至る。黒い耒を始めて用い、高い倉は既に積もる。嘉禾は二度の収穫、甘露は流れる液。辰の畦に秀で、角の沢に穎を揚げる。穂は離れ合い、栄えは区域を覆い辺境を陰にする。〈その四〉箱を満たすのは殷の徴、桑を貫くのは周の表。今我が大宋、霊なる賜物は繚めく。帝は終に謙譲し、思いを巡らして休まない。自ら宗廟に薦め、温かく恭しくこれに従う。誠をもって福を降し、孝を尽くして虔しく供物を捧げる。〈その五〉功を推して頒ち、徽を登せて叡 詔 とする。恩恵は隠れた者顕れた者に及び、賞は辺境の地にまで延びる。河は清く海は平らぎ、山は華やぎ岳は輝く。遠くの琛や賮も、恵沢と共に献上される。日の表、地の外、服を改めて教えを請う。〈その六〉盛時に応じ、万民を安んじて豊作が繰り返される。穏やかに素朴に帰り、秩序正しく大同する。上は諸々の用を蔵し、下は従うべきを知る。上は王者の法度を仰ぎ、下は南風の歌を歌う。鴻名はその首に称えられ、永遠に保たれて窮まることがない。」〈その七〉
元嘉24年8月 乙巳 の日、嘉禾が魚城內の 晉 陵に生じ、南徐州 刺史 の廣陵王劉誕がこれを報告した。
元嘉25年6月壬寅の日、嘉禾が華林園に群生し、10株で700穂あり、園丞の梅道念がこれを報告した。
元嘉25年6月壬子の日、嘉禾が籍田に生じ、籍田令の褚熙伯がこれを献上した。
元嘉25年7月壬辰の日、嘉禾が北海に生じ、青州・冀州二州 刺史 の杜坦がこれを献上した。
元嘉25年8月丙午の日、嘉禾が 太尉 ・江夏王劉義恭の果樹園に生じ、江夏國の典書令の陳穎がこれを報告した。
元嘉25年8月壬子の日、嘉禾が建康の化義里に生じ、令の丘珍孫がこれを献上した。
元嘉二十五年八月癸丑の日、嘉禾(瑞祥の禾)が華林園に生え、園丞の梅道念がこれを献上した。
元嘉二十五年十一月、嘉禾が巴東に生え、荊州 刺史 の南譙王劉義宣がこれを報告した。
元嘉二十六年五月癸酉の日、嘉禾が建康の禁中里に生え、揚州 刺史 の始興王劉濬がこれを献上した。
元嘉二十六年六月甲寅の日、嘉禾が籍田に生え、籍田令の褚熙伯がこれを献上した。
元嘉二十六年七月、嘉禾が巴東の朐䏰に生え、荊州 刺史 の南譙王劉義宣がこれを献上した。
元嘉二十七年十月己丑の日、嘉禾が北海に生え、青州 刺史 の杜坦がこれを報告した。
元嘉二十八年七月戊戌の日、嘉禾が広陵の邵伯埭に生え、兗州 刺史 の江夏王劉義恭がこれを報告した。
孝武帝孝建二年六月癸巳の日、嘉禾二株が江夏王劉義恭の東田に生えた。
孝建二年九月己丑朔の日、嘉禾が異なる畝から同じ穂を出して斉郡広饒県に生えた。
孝建三年七月庚午の日、嘉禾が呉興郡武康県に生えた。
孝武帝大明元年五月戊午の日、嘉禾一株五茎が清暑殿の鴟尾の中に生えた。
大明元年八月甲申の日、嘉禾が青州に生え、異なる根から同じ穂が出た。
大明三年九月乙亥の日、嘉禾が北海郡都昌県に生え、青州 刺史 の顔師伯がこれを報告した。
大明六年八月辛未の日、嘉禾が楽陵に生え、青・冀二州 刺史 の 劉道隆 がこれを報告した。
明帝泰始二年七月己酉の日、嘉禾が会稽郡永興県に生え、太守の巴陵王劉休若がこれを献上した。
漢の章帝の元和年間、嘉麦が郡国に生じた。
晋の武帝の太康十年六月、嘉麦が扶風郡に生じ、一本の茎に四つの穂があった。この年は収穫が三倍であった。
宋の文帝の元嘉二十三年、醴湖の屯に嘉粟が生じ、一本の茎に九つの穂があり、屯主の王世宗がこれを報告した。
元嘉二十五年六月壬子、籍田に嘉黍が生じ、籍田令の褚熙伯がこれを献上した。
呉の孫権の黄龍三年、由拳に野稲が生じ、由拳を禾興と改称した。
呉の孫亮の五鳳元年、交阯で稗草が稲に変化した。
宋の文帝の元嘉二十三年、呉郡嘉興塩官県で野稲が三十種ほど自然に生じ、揚州 刺史 の始興王劉濬がこれを報告した。
元嘉二十八年七月癸卯、尋陽柴桑で菽粟が野生し、原野一面に広がり、江州 刺史 の建平王劉宏がこれを報告した。
漢の章帝の元和年間、嘉瓜が郡国に生じた。
漢の安帝の元初三年三月、東平陵に瓜が異なる場所で共生し、八つの瓜が同じ蔕からなった。
漢の桓帝の建和二年七月、河東に嘉瓜があり、二つの実が同じ蔕を共有していた。
晋の武帝の太康三年六月、嘉瓜が異なる実で同じ蔕から生じ、河南洛陽の輔国大将軍王濬の園にあった。
晋の武帝の太康元年十二月戊子、嘉瓠が寧州に生じ、寧州 刺史 の費統がこれを報告した。
宋の文帝の元嘉二十五年四月戊辰、嘉瓠が京邑の新園に生じ、園丞の徐道興がこれを献上した。
孝武帝の大明五年五月、嘉瓜が建康の蔣陵里に生じ、丹陽尹の王僧朗がこれを献上した。
明帝泰始二年八月戊午、南 豫 州に嘉瓜が生じ、南 豫 州 刺史 の山陽王劉休祐がこれを献上した。
文帝元嘉七年七月乙酉、建康の頟檐湖で二つの蓮が一つの蔕から生じた。
元嘉十六年七月壬申、華林池で双蓮が同じ幹から生じた。
元嘉十年七月己丑、華林の天淵池で芙蓉が異なる花ながら同じ蔕から生じた。
元嘉十九年八月壬子、揚州の後池で二つの蓮が合わさって花を咲かせ、 刺史 の始興王劉濬がこれを献上した。
元嘉二十年五月、廬陵郡の池で芙蓉が二つの花を一つの蔕からつけ、太守の王淵がこれを報告した。
元嘉二十年六月壬寅、華林の天淵池で芙蓉が二つの花を一つの蔕からつけ、園丞の陳襲祖がこれを報告した。
元嘉二十年夏、永嘉郡の後池で芙蓉が二つの花を一つの蔕からつけ、太守の臧藝がこれを報告した。
元嘉二十年七月、吳興郡の後池で芙蓉が二つの花を一つの蔕からつけ、太守の孔山士がこれを報告した。
元嘉二十年、揚州の後池で芙蓉が二つの花を一つの蔕からつけ、 刺史 の始興王劉濬がこれを献上した。
元嘉二十一年六月丙午、華林園の天淵池で二つの蓮が同じ幹から生じ、園丞の陳襲祖がこれを報告した。
元嘉二十二年四月、楽游苑の池で二つの蓮が同じ幹から生じ、苑丞の梅道念がこれを報告した。
元嘉二十二年七月、東宮の玄圃園の池で二つの蓮が同じ幹から生じ、内監殿守舍人の宮勇民がこれを報告した。
元嘉二十三年六月壬寅、華林の天淵池で芙蓉が二つの花を一つの蔕からつけ、園丞の陳襲祖がこれを報告した。
元嘉二十三年六月辛丑、太子の西池で二つの蓮が同じ幹から生じ、池統の胡永祖がこれを報告した。
元嘉二十三年八月己酉、魚邑の三周池で二つの蓮が同じ茎から生じ、園丞の徐道興がこれを報告した。
孝武帝孝建二年六月庚寅、玄武湖で二つの蓮が同じ茎から生じた。
孝武帝大明五年、籍田で芙蓉の二つの花が同じ萼から咲き、大司農の蕭邃がこれを献上した。
明帝泰始二年八月丙辰、五城澳池で二つの蓮が同じ茎から生じ、都水使者の羅僧愍がこれを献上した。
泰始二年八月己未、 豫 州 刺史 の山陽王休祐が蓮を献上した。二つの花が一つの萼から咲いていた。
泰始五年六月甲子、嘉蓮が湖熟に生じ、南臺侍御史の竺曾度がこれを報告した。
泰始六年六月壬子、嘉蓮が東宮の玄圃池に生じ、皇太子がこれを報告した。
晉 武帝泰始二年六月壬申、嘉柰が一つの萼に十個の実をつけ、酒泉に生じた。
泰始七年六月己亥、東宮の玄圃池で芙蓉の二つの花が一つの萼から咲き、皇太子がこれを献上した。
晉 成帝咸和六年、鎮西將軍の庾亮が嘉橘を献上した。一つの萼に十二個の実がついていた。
晉 安帝隆安三年、武陵の臨沅が安石榴を献上した。一つの萼に六個の実がついていた。
雲が五色であるのは、太平の世の兆しであり、慶雲という。雲のようで雲でなく、煙のようで煙でなく、五色が入り混じっているものを慶雲という。
漢宣帝神爵四年春、斎戒の夜に、神光が顕著に現れた。鬯酒を捧げる夕べには、神光が交錯し、あるいは天から降り、あるいは地に登り、あるいは四方から来て、壇の上に集まった。
漢章帝元和三年正月、車駕が北巡し、太牢をもって北岳山を祀ったところ、黄白の気を見た。
宋孝武帝大明元年五月壬子、紫気が景陽楼の上層から出て、煙のような形状で、長い間漂っていた。
明帝泰始二年三月丙午、黄紫色の雲が景陽楼から出て、風に乗って漂い、長い間消えず、華林園令の臧延之が報告した。
泰始二年六月己卯、日没後、黄白と赤白の気が東西に天を覆い、明るく潤いがあり、長い間消えず。
泰始四年十一月辛未、崇寧陵令が上書して言うには、大明八年から現在の四年二月まで、宣太后陵の明堂の前後に幾度も光と五色の雲があり、また芳香が四方に満ち、また五色の雲が松の下にあり、形は車蓋のようであった。
泰始七年四月戊申の夜、京邑の崇虚館の堂前に黄気があり、形は宝蓋のようで、高さはおよそ十丈、次第に五色になり、道士の陸脩静が報告した。
白い兎は、王者が老人を敬うと現れる。
漢の光武帝建武十三年九月、南越が白い兎を献上した。
章帝の元和年間、白い兎が郡国で見られた。
魏の文帝の黄初年間、十九の郡国が白い兎を見たと報告した。
晋の武帝泰始五年七月己亥、白い兎が北海の即墨で見られ、即墨長が捕獲して献上した。
晋の武帝咸寧二年十月癸亥、白い兎二匹が河南の陽翟で見られ、陽翟令の華衍が捕獲して献上した。
咸寧四年六月、白い兎が天水で見られた。
晋の武帝太康二年八月壬子、白い兎が 彭城 で見られた。
太康二年十月、白い兎が趙国の平郷で見られ、趙王倫が捕獲して献上した。
太康四年十一月癸未、白い兎が北地の富平で見られた。
太康八年十二月庚戌、白い兎が陳留の酸棗で見られ、関内侯の成公忠が捕獲して献上した。
晋の穆帝永和十二年九月甲申、白兎が鄱陽に現れ、太守の王耆之がこれを献上し、併せて頌一篇を上奏した。
晋の穆帝升平三年十二月庚申、北中郎将の郗曇が白兎を献上した。
晋の海西公太和九年四月、陽穀が白兎を献上した。
晋の孝武帝太元十五年三月、白兎が淮南の寿陽に現れた。
晋の安帝義熙二年四月、無錫が白兎を献上した。
義熙二年四月、寿陽が白兎を献上した。
宋の文帝元嘉六年九月、長広郡昌陽県の淳于邈が白兎を捕獲し、青州 刺史 の蕭思話がこれを献上した。
元嘉八年閏六月丁亥、 司徒 府の従者である伊生が淮南の繁昌で白兎を捕獲し、これを献上した。
元嘉十三年七月甲戌、済南郡の朝陽県の王道が白兎を捕獲し、青州 刺史 の段宏がこれを献上した。
元嘉十四年正月丙申、白兎が山陽県に現れ、山陽太守の劉懐之がこれを献上した。
元嘉十五年七月壬申、山陽郡の師斉が白兎を捕獲し、南兗州 刺史 の江夏王劉義恭がこれを献上した。
元嘉二十二年三月、白兎が東萊郡の当利県に現れ、青州 刺史 の杜驥がこれを報告した。
元嘉二十四年七月丁巳、白兎が兗州に現れ、 刺史 の徐瓊がこれを報告した。
元嘉二十四年七月己酉、白兎が東莞郡に現れ、太守の趙球がこれを献上した。
元嘉二十七年二月壬辰、白兎が竟陵郡に現れ、荊州 刺史 の南譙王劉義宣がこれを献上した。
元嘉二十七年六月丙午、白兎が南汝陰に現れ、 豫 州 刺史 の南平王劉鑠がこれを献上した。
孝武帝孝建二年正月庚戌、白兎が淮南に現れ、太守の申坦がこれを報告した。
孝建三年閏三月乙丑、白兎が平原に現れ、捕獲して献上された。
孝武帝大明元年六月庚子、白兎が即墨に現れ、捕獲して献上された。
大明六年八月辛未、白兎が北海に現れ、青・冀二州 刺史 の劉道隆がこれを献上した。
大明六年六月乙丑、白兎が現れ、青・冀二州 刺史 の劉道隆がこれを献上した。
北斗の星の精が落ちる。王者の孝行が満ち溢れると現れる。(欠落)
赤烏は、周の武王の時に穀物をくわえて飛来し、兵刃に血塗られることなく殷を服従させた。
後漢の章帝の元和年間、赤烏が郡国に現れた。
呉の孫権の赤烏元年、赤烏が殿前に群がった。
呉の孫休の永安三年三月、西陵で赤烏が現れたと報告された。
東晋の元帝の永昌二年正月、赤烏が暨陽に現れた。
宋の武帝の永初二年二月、赤烏が六度、北海の都昌に現れた。
孝武帝の大明五年六月戊子、赤烏が蜀郡に現れ、益州 刺史 の劉思考がこれを献上した。
白燕は、師曠の時代に、丹書をくわえて飛来した。
漢の章帝の元和年間、白燕が郡国に現れた。
晋の恵帝の元康元年七月、白燕二羽が酒泉郡祿福県に現れ、太守の索靖がこれを報告した。
宋の文帝の元嘉元年七月壬戌、白燕が斉郡の城に集まり、庭や建物の周りを飛び回り、九日経って去り、多くの燕が随従した。
元嘉十四年、白燕が荊州府の門に集まり、 刺史 の臨川王劉義慶がこれを報告した。
元嘉十八年六月、白燕が丹徒県で生まれ、南徐州 刺史 の南譙王劉義宣がこれを報告した。
元嘉二十年五月、白燕が南平郡の府内に集まり、内史の臧綽がこれを報告した。
元嘉二十一年、白燕が広陵に現れ、南兗州 刺史 の広陵王劉誕がこれを献上した。
元嘉二十四年五月辛未、白燕が 司徒 府の西園に集まり、 太尉 の江夏王劉義恭がこれを報告した。
元嘉二十五年八月壬子、白燕が広陵城に現れ、南兗州 刺史 の徐湛之がこれを報告した。
元嘉二十六年五月戊寅、白燕が衡陽王の墓亭で生まれ、郎中令の朱曠之が捕獲して報告した。
元嘉二十七年五月甲戌、白燕が京口で生まれ、南徐州 刺史 の始興王劉濬がこれを報告した。
元嘉二十七年六月壬辰、白燕が秣陵に現れ、丹陽尹の徐湛之がこれを献上した。
孝武帝の大明二年五月 乙巳 、白燕が南郡江陵の民家で生まれ、荊州 刺史 の朱脩之がこれを献上した。
大明二年五月甲子、白燕二羽が山陽県の官舎で生まれ、南兗州 刺史 の竟陵王劉誕がこれを献上した。
大明二年六月甲戌、白燕が呉郡城内で生まれ、太守の王翼之がこれを献上した。
大明三年五月甲申、白い燕が武陵郡臨沅県の民家で生まれ、 郢州 刺史 の孔霊符がこれを報告した。
大明四年六月乙卯、白い燕が平昌で現れ、青州 刺史 の劉道隆がこれを献上した。
明帝泰始二年六月、白い燕が零陵で現れ、捕獲して献上された。
金車は、王者が至孝であれば出現する。(欠落)
三本足の烏は、王者が天地に対して慈孝であれば到来する。
漢の章帝の元和年間、三本足の烏が郡国で現れた。
象車は、山の精である。王者の徳沢が四方の境にまで行き渡れば出現する。(欠落)
白い烏は、王者が宗廟を厳粛に敬えば到来する。
漢の桓帝の永寿元年四月、白い烏が斉国で現れた。
晋の武帝の咸寧五年七月戊辰、白い烏が済南郡隰陰県で現れ、太守が捕獲して献上した。
晋の武帝の太康元年五月庚午、白い烏が襄城で現れた。
太康十年五月丁丑、白い烏が京兆長安で現れた。
晋の恵帝の元康元年四月、白い烏が河南郡成臯県で現れ、県令の劉機が捕獲して報告した。
元康元年五月戊戌、白い烏が梁国睢陽で現れた。
元康元年七月辛丑、白い烏が陳留で現れ、捕獲して献上された。
元康四年(294年)十月、白い烏が鄱陽に現れた。
晋の明帝太寧二年(324年)十一月、白い烏が京都に現れた。
太寧三年(325年)三月、白い烏が呉郡海虞に現れ、捕獲して献上され、百官がこぞって祝賀した。
晋の孝武帝太元十一年(386年)八月乙酉、白い烏が江州の寺の庭に集まり、群烏が飛び回って守衛した。
太元二十一年(396年)五月癸卯、白い烏が呉国に現れ、捕獲して献上された。
宋の武帝永初二年(421年)六月丁酉、白い烏が呉郡婁県に現れ、太守の孟顗が献上した。
文帝元嘉二年(425年)十一月丙辰、白い烏が山陽に現れ、太守の阮宝が報告した。
元嘉三年(426年)三月甲戌、丹陽湖熟の薛爽之が白い烏を捕獲して献上した。
元嘉十一年(434年)六月 乙巳 、呉郡海塩の王説が白い烏を捕獲し、揚州 刺史 の彭城王劉義康が献上した。
元嘉十三年(436年)三月戊辰、義興陽羨の県令が白い烏を捕獲し、太守の劉禎が献上した。
元嘉十九年(442年)五月、海陵王の劉文秀が白い烏を捕獲し、南兗州 刺史 の臨川王劉義慶が献上した。
元嘉十九年(442年)十月、白い烏が 晉 陵暨陽の僑民である彭城の劉原秀の家の木に巣を作り、原秀が報告した。
元嘉二十年(443年)七月、彭城の劉原秀がまた白い烏を捕獲して献上した。
元嘉二十四年(447年)八月 乙巳 、白い烏が 晉 陵に現れ、南徐州 刺史 の広陵王劉誕が献上した。
孝武帝大明元年(457年)四月甲申、白い烏が南郡江陵に現れた。
明帝泰始二年六月丁巳、白い烏が呉郡海塩に現れ、太守の顧覬之が献上した。
泰始二年九月壬寅、白い烏が呉興烏程に現れ、太守の郄顒が献上した。
白雀とは、王者が爵禄を均等にすると現れるものである。
漢の章帝の元和の初め、白雀が郡国に現れた。
魏の文帝の初め、十九の郡国が白雀が現れたと報告した。
晋の武帝の咸寧元年、白雀が梁国に現れ、梁王の司馬肜が捕獲して献上した。
晋の武帝の太康二年六月丁卯、白雀二羽が河内南陽に現れ、太守の阮侃が捕獲して献上した。
太康二年六月、白雀二羽が河南に現れ、河南尹の向雄が捕獲して献上した。
太康七年七月庚午、白雀が 豫 章に現れた。
太康八年八月、白雀が河南洛陽に現れた。
太康十年五月丁亥、白雀が宣光北門に現れ、華林園令の孫邵が捕獲して献上した。
晋の愍帝の建武元年四月、 尚書 僕射 の刁協が白雀を晋王に献上した。
晋の孝武帝の太元十六年十二月、白雀が南海増城県の民である呉比屋の家に現れた。
晋の安帝の隆安五年十一月、白雀が宜都に現れた。
晋の安帝の元興三年六月丙申、白雀が 豫 章新淦に現れ、捕獲して献上された。
宋の文帝の元嘉元年七月己巳の日、白い雀が斉郡の昌国で現れた。
元嘉四年七月乙酉の日、白い雀が北海郡の劇県で現れた。
元嘉八年五月辛丑の日、白い雀が左衛府に集まった。
元嘉十一年五月丁丑の日、斉郡西安の宗顕が白い雀を捕獲し、青州 刺史 の段宏がこれを献上した。
元嘉十四年五月甲午の日、白い雀が費県の員外散騎侍郎顔敬の家に集まり、捕獲して献上された。
元嘉十四年、白い雀が二度、荊州府の客館で現れた。
元嘉十五年五月辛未の日、白い雀が建康の都亭里に集まり、揚州 刺史 の彭城王劉義康がこれを報告した。
元嘉十五年六月、白い雀が建康の定陰里で現れ、彭城王劉義康がこれを献上した。
元嘉十五年八月、白い雀が西陽で現れ、江州 刺史 の南譙王劉義宣がこれを献上した。
元嘉十七年五月壬寅の日、白い雀が二羽、荊州の後園に集まり、 刺史 の衡陽王劉義季がこれを報告した。
元嘉十八年七月、呉郡塩官県の于玄が白い雀を捕獲し、太守の劉禎がこれを献上した。
元嘉二十年五月乙卯の日、秣陵の衛猗之が白い雀を捕獲し、丹陽尹の徐湛之がこれを献上した。
元嘉二十二年四月丙子の日、白い雀が東安郡で現れ、徐州 刺史 の臧質がこれを献上した。
元嘉二十二年閏五月丙午の日、白い雀が華林園で現れ、員外散騎侍郎の長沙王劉瑾が捕獲して献上した。
元嘉二十二年六月庚申の日、南彭城蕃県の時仏護が白い雀を捕獲して献上した。
元嘉二十四年四月、白い雀が呉郡塩官県の民家で生まれ、太守の劉禎がこれを献上した。
元嘉二十四年六月己亥、白い雀五羽が長沙廟に集まり、長沙王劉瑾がこれを報告した。
元嘉二十五年五月丁丑、白い雀二羽が京都に現れ、材官の吏である黄公歓と軍人の丁田夫がそれぞれ捕獲して献上した。
元嘉二十七年六月乙卯、白い雀が済南郡に現れ、薛栄がこれを献上した。
元嘉二十八年八月己巳、崇義の軍人が白い雀一対を捕獲し、太子左率の王錫がこれを献上した。
元嘉二十九年四月癸丑、白い雀が会稽郡山陰県に現れ、太守の東海王劉褘が捕獲して献上した。
孝武帝孝建元年五月己亥、臨沂県の魯尚期が城上で白い雀を得、太傅・仮黄鉞の江夏王劉義恭がこれを献上した。
孝建二年六月丙子、左衛軍が白い雀を捕獲して献上した。
孝建三年閏三月辛酉、黄門侍郎の庾徽之の家で白い雀が捕獲され、これを献上した。
孝建三年五月丁卯、白い雀が建康に現れ、捕獲して献上した。
孝武帝大明元年四月戊申、白い雀が尋陽に現れた。
大明元年五月甲寅、白い雀二羽が渤海に現れ、捕獲して献上した。
大明元年五月甲子、白い雀が建康に現れ、捕獲して献上した。
大明元年六月丁亥、白い雀が零陵郡祁陽県に現れ、捕獲して献上した。
大明元年七月辛亥、白い雀が南陽郡宛県に現れ、捕獲して献上した。
大明二年五月丁未の日、白い雀が建康に現れ、揚州 刺史 の西陽王劉子尚がこれを献上した。
大明二年六月丁亥の日、白い雀が河東定襄県に現れ、荊州 刺史 の朱脩之がこれを報告した。
大明三年四月庚戌の日、白い雀が秣陵に現れ、丹陽尹の劉秀之がこれを献上した。
大明三年五月壬午の日、太宰府の崇蓺軍人が白い雀を捕らえ、太宰の江夏王劉義恭がこれを献上した。
大明四年五月辛巳の日、白い雀が広陵に現れ、 侍中 の顔師伯がこれを献上した。
大明五年四月庚戌の日、白い雀が晋陵に現れ、太守の沈文叔がこれを献上した。
大明五年五月癸未の日、白い雀が二羽尋陽に現れ、江州 刺史 の桂陽王 劉休範 がこれを献上した。
大明五年五月癸未の日、白い雀が二羽済南に現れ、青州 刺史 の劉道隆がこれを献上した。
大明五年十月、白い雀が太原に現れ、青州 刺史 の劉道隆がこれを献上した。
大明六年八月辛巳の日、白い雀が斉郡に現れ、青・冀二州 刺史 の劉道隆がこれを献上した。
大明七年四月乙未の日、白い雀が廬陵王の邸宅に集まり、廬陵王劉敬先がこれを献上した。
大明七年四月乙丑の日、白い雀が歴陽に現れ、太守の建平王 劉景素 がこれを献上した。
大明七年五月辛未の日、白い雀が汝陰に現れ、 豫 州 刺史 の垣護之がこれを献上した。
大明七年六月、白い雀が宝城に現れ、南 豫 州 刺史 の尋陽王劉子房がこれを献上した。
大明七年十月丁卯の日、白い雀が建康に現れ、丹陽尹の永嘉王 劉子仁 がこれを献上した。
大明七年十一月、皇帝が南方を巡幸し、梁山で水軍を訓練した際、中江と白雀の二つの集落に華蓋が現れた。
前廃帝永光元年四月乙亥、白雀が会稽に現れ、東揚州 刺史 の尋陽王子房がこれを献上した。
永光元年六月丙子、白雀が彭城に現れ、徐州 刺史 の義陽王昶がこれを報告した。
明帝泰始二年七月戊子、白雀が虎檻洲に現れ、 都督 征討諸軍の建安王休仁がこれを報告した。
泰始六年七月壬午、白雀二羽が廬陵吉陽に現れ、内史の江孜がこれを報告した。
明帝泰 豫 元年六月辛丑、白雀が広州に現れ、 刺史 の孫超がこれを献上した。
後廃帝元徽五年四月己巳、白雀二羽が尋陽柴桑に現れ、江州 刺史 の邵陵王友がこれを献上した。
孝武帝大明六年三月丙午、青雀が華林園に現れた。
明帝泰始二年九月庚寅、青雀が京城内に現れ、南徐州 刺史 の桂陽王休範がこれを献上した。
玉馬は、王者が聡明で賢者を尊ぶ時に現れる。〈欠落〉
根車は、徳が山陵にまで及ぶ時に現れる。〈欠落〉
白鳩は、成湯の時代に到来した。
魏の文帝の黄初初年、十九の郡国から白鳩出現の報告があった。
呉の孫権の赤烏十二年八月癸丑、白鳩が章安に現れた。
晋の武帝の泰始八年五月甲辰、白鳩二羽が太廟の南門に集まり、議郎の董冑がこれを捕獲して献上した。
晋の武帝の太康二年(281年)七月、白鳩が太僕寺に現れた。
太康四年(283年)十二月、白鳩が安定郡臨涇県に現れた。
太康十年(289年)正月乙亥の日、白鳩が河南郡新城県に現れた。
宋の文帝の元嘉十八年(441年)八月庚午の日、会稽郡山陰県の商世宝が白鳩を捕獲した。その目と足はともに赤く、揚州 刺史 の始興王劉濬がこれを献上した。太子率更令の何承天が上表して言った。
元嘉二十四年(447年)九月、再び白鳩が現れた。庚戌の日、中領軍の沈演之が上表して言った。
玉羊は、師曠の時代に到来した。(記載なし)
玉雞は、王者が至孝であると到来する。(記載なし)
璧流離は、王者が過ちを隠さないと到来する。(記載なし)
玉英は、五常がすべて修められると現れる。(記載なし)
玄圭は、水泉が流通し、四海が会同すると出現する。(記載なし)
漢の桓帝の永興二年(154年)四月、光祿勳の府吏の舎で、夜に壁の下に青い気があり、玉の鉤と玦をそれぞれ一つ得た。鉤の長さは七寸三分、玦の周囲は五寸四分で、本体にはすべて彫刻が施されていた。
漢の桓帝の永興二年(154年)四月、光祿勳の府吏の舎で、夜に壁の下に青い気があり、玉の鉤と玦をそれぞれ一つ得た。鉤の長さは七寸三分、玦の周囲は五寸四分で、本体にはすべて彫刻が施されていた。
晋の懐帝の永嘉六年(312年)二月壬子の日、玉の亀が灞水から出現した。
晋の愍帝の建興二年(314年)十月、大将軍の劉琨が地を掘って玉璽を得、参軍の郎碩に命じてこれを奉じて京師に帰還させた。
建興二年(314年)十二月、涼州 刺史 の張寔が使者を遣わして行璽一紐を献上し、璽を送る使者を関内侯に封じた。
晋の愍帝建武元年三月己酉の日、丹陽郡江寧県の民虞由が土地を開墾した際、白い麒麟の模様のある璽一組を得た。その文には「長寿万年」とあった。これを晋王に献上した。
晋の成帝咸康八年九月、廬江郡舂穀県の留珪が夜、門の内に光があるのを見て、玉鼎一枚を取得した。外囲は四寸であった。 豫 州 刺史 の路永がこれを献上した。著作郎の曹毗が玉鼎頌を上奏した。
晋の安帝義熙十二年六月、左衛の兵士陳陽が東府前の淮水の中で玉璽一枚を得た。
宋の孝武帝大明元年五月戊寅の日、江乗県の民朱伯が地中から玉璧を得た。直径は五寸八分で、これを献上した。
大明四年二月 乙巳 の日、徐州 刺史 劉道隆が汴水で白玉の戟を得て、これを献上した。
明帝泰始五年十月庚辰の日、郢州で玄璧を獲得した。広さは八寸五分で、安西将軍蔡興宗がこれを献上した。
後廃帝元徽四年十一月 乙巳 の日、呉興郡烏程県余山の道人慧が蒼玉璧を獲得した。太守の 蕭恵開 がこれを献上した。
金勝は、国が平穏で盗賊がなく、四方の異民族が服従する時に出現する。
晋の穆帝永和元年二月、舂穀の民が金勝一枚を得た。長さ五寸で、形は織勝のようであった。翌年、桓温が蜀を平定した。
永和元年三月、廬江太守の路永が上言した。舂穀城の北で、水辺に紫赤色の光を見て、金を得た。形は印のようで、主簿の李邁に命じて表文を添えて送らせた。
呉の孫晧天璽元年、呉郡が言上した。地を掘って銀を得た。長さ一尺、広さ三分で、上に年月の字が刻まれていた。
丹甑は、五穀が豊かに実る時に出現する。(欠落)
白魚は、武王が孟津を渡った時、中流で王の舟に入った。
宋の明帝泰始二年十月己巳の日、帝は華林の天淵池に行幸し、白魚が御舟に躍り入った。
漢の章帝元和三年正月、車駕が北巡し、太牢の供え物で北岳に祭祀を行ったところ、神魚が十数匹躍り出た。
金人(金属製の人形)は、王者に盛んな徳があると後池に現れる。〈欠落〉
木連理(木が連理する現象)は、王者の徳と恩恵が純粋に行き渡り、八方が一つに合わさると生じる。
漢の章帝の元和年間、木連理が郡国に生じた。
安帝の元初三年正月丁丑、東平陵で樹木が連理した。
漢の安帝の延光三年七月、左馮翊の衙で木連理があった。
延光三年七月、潁川の定陵で木連理があった。
漢の桓帝の建和二年七月、河東で木連理があった。
呉の孫権の黄武四年六月、皖口で木連理があったと報告された。
魏の文帝の黄初初年、郡国から二度、木連理があったと報告された。
晋の武帝の泰始元年十二月、木連理が遼東の力城に生じた。
泰始二年八月、木連理が河南の成臯に生じた。
泰始八年正月、木連理が東平の范に生じた。
泰始八年五月甲辰、木連理が東平の壽張に生じた。
泰始八年十月、木連理が建寧に生じた。
晋の武帝の咸寧元年正月、木連理が汝陰の南頓に生じた。
咸寧二年四月、木連理が清河郡の霊県に生じた。
咸寧二年六月、木連理が燕国に生じた。
咸寧三年七月壬辰、木連理が始平郡の鄠県に生じた。
咸寧四年八月、木連理が陳留郡の長垣県に生じた。
咸寧五年、木連理が義陽に生じた。
咸寧五年、木連理が楽安郡の臨済県に生じた。
晋の武帝太康元年正月、木連理が涪陵郡の永平県に生じた。
太康元年四月、木連理が頓丘に生じた。
太康元年五月、木連理が二つ、済陰郡の乗氏県と沛国に生じた。
太康元年七月、木連理が 馮翊郡 の粟邑県に生じた。
太康二年正月、木連理が 滎陽 郡の密県に生じた。
太康二年十月、木連理が十三本、南安郡の羱道県に生じた。
太康三年四月、木連理が琅邪郡の華県に生じた。
太康三年六月、木連理が広陵郡の海西県に生じた。
太康四年正月、木連理が 馮翊郡 の臨晋県と蜀郡の成都県に生じた。
太康四年(283年)十二月、扶風で木が連理を生じた。
太康七年(286年)三月、河南郡新安県で木が連理を生じた。
太康七年(286年)六月、始興郡中宿県と南郷郡筑陽県で木が連理を生じた。
太康八年(287年)四月、廬陵郡東昌県で木が連理を生じた。
太康八年(287年)九月、東萊郡盧郷県で木が連理を生じた。
太康九年(288年)九月、陳留郡浚儀県で木が連理を生じた。
太康十年(289年)十一月、鄱陽郡鄡陽県で木が連理を生じた。
晋の武帝の太熙元年(290年)二月、河南郡梁県で木が連理を生じた。
晋の恵帝の元康元年(291年)五月、成都郡臨邛県で三本の木が連理を生じた。
元康元年(291年)七月辛丑の日、梁国内史の任式が上言した。武平の境界に柞と櫟の二本の木があり、一体に合わさり、連理となっていると。
晋の愍帝の建興二年(314年)三月庚辰の日、朱提郡で木が連理を生じた。
建興二年(314年)三月、益州雙栢県で二本の木が連理を生じた。
建興二年(314年)六月、襄平で木が連理を生じた。
晋の愍帝の建武元年(317年)閏月乙丑の日、嵩山で木が連理を生じた。
建武元年(317年)八月甲午の日、汝陰で木が連理を生じた。
建武元年十一月、武昌で木が連理を生じ、大将軍王敦がこれを晋王に報告した。
建武元年十一月癸酉、汝陰で木が連理を生じ、太守がこれを報告した。
晋元帝太興元年七月戊辰、武昌で木が連理を生じ、大将軍王敦がこれを報告した。
太興三年十一月、零陵永昌で木が連理を生じた。
晋成帝咸和八年五月己巳、昌黎咸和で木が連理を生じた。
咸康三年三月庚戌、平州世子府の治所の旧園の中で木が連理を生じた。
咸康七年十二月、呉国内史王恬が上言した。呉県沙里で木が連理を生じたと。
晋穆帝永和五年二月癸丑、臨海太守藍田侯述が言上した。郡内で木が連理を生じたと。
晋孝武帝寧康三年六月辛卯、江寧県建興里の僑民留康の家の樹木が、異なる根元で連理をなした。
晋孝武帝太元十一年四月壬申、琅邪費に榆の木があり、異なる根が連理をなし、互いに四尺九寸離れていた。
太元十八年十月戊午、臨川東興令惠欣之が言上した。県の東南の渓の傍らに白銀樹、芳霊樹、李樹があり、いずれも連理をなしていると。
太元十九年正月丁亥、華林園延賢堂の西北の李樹が連理をなした。
太元二十一年正月丙子、南康寧都県の社の後ろで木が連理を生じた。
晋安帝隆安三年十一月、汝陽で木が連理を生じ、太守垣苗がこれを報告した。
元興元年正月、泰山武陽で木が連理を生じた。
宋の文帝の元嘉八年四月乙亥の日、東莞郡莒県の松樹が連理となった。太守の劉玄がこれを報告した。
元嘉八年八月、木の連理が東安郡新泰県に生じた。
元嘉九年六月、木の連理が営陽郡泠道県に生じた。太守の展禽がこれを報告した。
元嘉十二年二月丁卯の日、南郡江陵県の庾和の園にある甘樹が連理となった。荊州 刺史 の臨川王劉義慶がこれを献上した。
元嘉十二年三月、馬頭郡済陽県の柞樹が連理となった。 豫 州 刺史 の長沙王劉義欣がこれを報告した。
元嘉十四年二月、宮内の螽斯堂の前の梨樹が連理となった。 豫 州 刺史 の長沙王劉義欣がこれを報告した。
元嘉十四年、南郡江陵県の光禕之の園にある甘李の木が二つ連理となった。
元嘉十五年二月、太子家令の劉徵の園中の林檎樹が連理となった。劉徵がこれを報告した。
元嘉十七年七月、武昌郡崇譲郷の程僧愛の家の候風木が連理となった。江州 刺史 の臨川王劉義慶がこれを報告した。
元嘉十七年十月、尋陽郡弘農県の祐幾湖の芙蓉が連理となった。臨川王劉義慶がこれを報告した。
元嘉十八年十二月、木の連理が歴陽郡の劉成之の家に生じた。南 豫 州 刺史 の武陵王劉駿がこれを報告した。
元嘉二十年七月、盱眙郡考城県の柞樹二株が連理となった。南兗州 刺史 の臨川王劉義慶がこれを報告した。
元嘉二十年八月、木の連理が汝陰郡に生じた。 豫 州 刺史 の 劉遵考 がこれを報告した。
元嘉二十一年、木の連理が歴陽郡烏江県に生じた。南 豫 州 刺史 の武陵王劉駿がこれを報告した。
元嘉二十一年、木の連理が 晉 陵郡無錫県に生じた。南徐州 刺史 の南譙王劉義宣がこれを報告した。
元嘉二十二年七月辛巳の日、南頓県の櫟樹が連理を生じ、 豫 州 刺史 の趙伯符がこれを報告した。
元嘉二十二年九月、木の連理が建康に生じ、建康県令の張永がこれを報告した。
元嘉二十二年、木の連理が武昌に生じ、江州 刺史 の廬陵王劉紹がこれを報告した。
元嘉二十三年二月辛亥の日、木の連理が南陰柔県に生じ、太守がこれを報告した。
元嘉二十三年、木の連理が淮南の當塗に生じ、揚州 刺史 の始興王劉濬がこれを報告した。
元嘉二十四年二月壬午の日、臨川王の邸宅の梨樹が連理を生じ、臨川王劉燁がこれを報告した。
元嘉二十四年七月壬子の日、 晉 陵郡無錫県の榖櫟樹が連理を生じ、南徐州 刺史 の広陵王劉誕がこれを報告した。
元嘉二十四年七月乙卯の日、木の連理が会稽郡諸暨県に生じ、揚州 刺史 の始興王劉濬がこれを報告した。会稽太守の羊玄保が上奏し、連理が生じた場所の康亭村を「木連理」と改称した。
元嘉二十四年七月乙卯の日、臨川王の邸宅の梨樹が連理を生じ、臨川王劉燁がこれを報告した。
元嘉二十五年四月戊辰の日、木の連理が 晉 陵に生じ、南徐州 刺史 の広陵王劉誕がこれを報告した。
元嘉二十八年正月戊子の日、木の連理が尋陽郡柴桑県に生じ、また州城の内にも生じ、江州 刺史 の建平王劉宏がこれを報告した。
元嘉二十九年十月丁未の日、木の連理が南琅邪に生じ、太守の劉成がこれを報告した。
孝武帝孝建二年三月己酉の日、木の連理が南郡江陵に生じ、荊州 刺史 の朱脩之がこれを報告した。
孝建三年五月、木の連理が北海郡都昌県に生じ、冀州 刺史 の垣護之がこれを報告した。
孝建三年七月癸未の日、木の連理が歴陽に生じ、歴陽太守の袁敳がこれを報告した。
孝武帝大明元年正月乙亥の日、木が連理となって高平に生じた。
大明元年二月壬寅の日、華林園の双橘の樹が連理となった。
大明元年九月乙丑の日、華林園の梨樹が連理となった。
大明元年十月丁丑朔の日、木が連理となって 豫 章郡南昌に生じた。
大明二年四月辛丑の日、木が連理となって汝南に生じ、 豫 州 刺史 の宗慤がこれを報告した。
大明三年九月甲午の日、木が連理となって丹陽郡秣陵に生じ、材官将軍の范悅時がこれを報告した。
大明四年三月丁亥の日、木が連理となって華林園の曜霊殿の北に生じた。
大明四年四月壬子の日、木が連理となって華林園の日観台の北に生じた。
大明四年六月戊戌の日、木が連理となって会稽郡山陰に生じ、揚州 刺史 の西陽王劉子尚がこれを報告した。
大明五年閏九月、木が連理となって辺城に生じ、 豫 州 刺史 の垣護之がこれを報告した。
大明五年十二月戊寅の日、淮南で松の木が連理となり、 豫 州 刺史 の尋陽王劉子房がこれを報告した。
大明六年二月乙丑の日、木が連理となって 晉 陵に生じ、南徐州 刺史 の新安王劉子鸞がこれを報告した。
大明六年四月戊辰の日、木が連理となって営陽に生じ、湘州 刺史 の建安王 劉休仁 がこれを報告した。
大明六年八月乙丑の日、木が連理となって彭城の城内に生じ、徐州 刺史 の王玄謨がこれを報告した。
大明七年正月己酉の日、珊瑚が連理となって鬱林に生じ、安始太守の劉勔がこれを報告した。
明帝泰始二年七月、木連理が丹陽秣陵に生じた。
泰始四年三月庚戌、太子西池で冬に樹木が連理となり、園丞の周𤢌猗がこれを献上した。
泰始六年四月丙午、木連理が會稽永興に生じ、太守の蔡興宗がこれを報告した。
泰始六年十二月壬辰、木連理が 豫 章南昌に生じ、太守の劉愔之がこれを報告した。
泰始七年二月戊寅、木連理が吳郡錢唐に生じ、太守の王延之がこれを報告した。
昇明二年、木連理が 豫 州の境界内に生じ、 刺史 の劉懷珍がこれを報告した。
比目魚は、王者の徳が幽隠なところにまで及ぶと現れる。(欠)
珊瑚鉤は、王者が恭信であると現れる。(欠)
芝草は、王者が慈仁であると生じる。これを食べると人をして世を超えさせる。
漢の武帝の元封二年、甘泉宮内に芝が産出し、九つの茎が葉を連ねていた。
漢の宣帝の元康四年、金芝が九茎、函徳殿の銅池の中に産出した。
漢の明帝の永平十七年春、芝が前殿に生じた。
漢の桓帝の建和元年四月、芝草が中黄蔵府に生じた。
宋の従帝の昇明二年、宣城の山中に紫芝が一株生じ、在所の者がこれを獲て献上した。
明月珠は、王者が介鱗の物を尽くさないと出現する。
漢の高后(呂后)・景帝の時代、会稽郡の人物である朱仲が三寸・四寸の珠を献上した。
漢の章帝の元和年間、郡国が明珠を献上した。
巨鬯(大きな黒黍で醸した酒)は、三禺(三つの谷)の禾(穀物)であり、一つの稃(殻)に二粒の米があり、王者が宗廟を修めると出現する。
黄帝の時代、南夷が白鹿に乗って来て鬯(香草で醸した酒)を献上した。
漢の章帝の元和年間、秬(黒黍)と秠(一稃二米の黒黍)が郡国に生じた。
華平は、その枝がまっすぐ平らであり、王者に徳があると生じる。徳が剛健であれば枝は上を向き、徳が弱ければ低く垂れる。
漢の章帝の元和年間、華平が郡国に生じた。
平露は、蓋のようであり、四方の政治を察する。その国が平らでなければ、方角に従って傾く。(欠落)
蓂莢は、別名を歴莢といい、階段の脇に生え、一日に一葉ずつ生じ、 朔日 から生え始め、十五日(望)で止まり、十六日からは一日に一葉ずつ落ち、もし小の月であれば、一葉が萎れて落ちない。堯の時代に階段に生じた。(欠落)
萐甫は、別名を倚扇といい、 蓬 のような形で、大きな枝に小さな葉がつき、根は糸のようで、回転して風を起こし、蝿を殺す。堯の時代に厨房に生じた。(欠落)
朱草は、草の精であり、世に聖人の徳があると生じる。
漢の光武帝の建武中元元年五月、京師(洛陽)の水辺に赤い草が生じた。
漢の章帝の元和年間、朱草が郡国に生じた。
魏の文帝(曹丕)の初年、朱草が文昌殿の側に生じた。
宋の文帝の元嘉十一年、朱草が蜀郡郫県の王の家に生じ、益州 刺史 の甄法崇がこれを報告した。
景星は、大きな星である。形状は半月のようで、晦日や朔日に月を助けて明るくする。〈欠落〉
賓連闊達は、房室に生じる。王者が后妃を御するに節度があれば生じる。〈欠落〉
渠搜は、禹の時代に来朝して裘を献上した。〈欠落〉
浪井は、掘らずとも自然にできる。王者が清浄であれば応じる。〈欠落〉
西王母は、舜の時代に来朝して白環と白琯を献上した。〈欠落〉
越常は、周公の時代に来朝して白雉と象牙を献上した。〈欠落〉
漢の平帝の元始元年正月、越常が重訳して白雉一羽、黒雉二羽を献上した。 詔 して三公に宗廟に薦めさせた。
漢の光武帝の建武十三年九月、南越が白雉を献上した。
漢の章帝の元和年間、白雉が郡国に現れた。
漢の桓帝の永康元年十一月、白雉が西河に現れた。
漢の献帝の延康元年四月丁巳、饒安県が白雉が現れたと上言した。また郡国十九が白雉が現れたと上言した。
晋の武帝の咸寧元年四月丁巳、白雉が安豊の松滋に現れた。
咸寧元年十二月丙午、白雉が梁国の睢陽に現れ、梁王の司馬肜が捕獲して献上した。
咸寧三年十一月、白雉が渤海の饒安に現れ、相の阮温が捕獲して献上した。
晋の武帝の太康元年九月庚戌、白雉が中山に現れた。
晋の愍帝建興三年十二月戊午、白雉が襄平に現れた。
建興三年十二月戊午、白雉が現れた。
安帝義熙七年五月、白雉が 豫 章郡南昌に現れた。
宋の文帝元嘉五年五月庚辰、白雉が東莞郡莒県に現れ、太守の劉玄がこれを報告した。
元嘉十六年二月、白雉が陳郡に現れ、 豫 州 刺史 の長沙王劉義欣がこれを献上した。
元嘉十八年二月癸亥、白雉が南汝陰郡宋県に現れ、太守の文道恩がこれを献上した。
元嘉二十年六月、白雉が高平郡方与県に現れ、徐州 刺史 の臧質がこれを献上した。
元嘉二十六年三月戊寅、白雉が東安郡と沛郡にそれぞれ一羽ずつ現れ、徐・兗二州 刺史 の武陵王がこれを献上した。
孝武帝大明二年三月己巳、白雉の雌雄がそれぞれ一羽ずつ海陵に現れ、南兗州 刺史 の竟陵王劉誕がこれを献上した。
大明五年十二月、白雉が秦郡に現れ、南兗州 刺史 の晋安王劉子勛がこれを献上した。
大明八年二月丁卯、白雉が南郡江陵に現れ、荊州 刺史 の臨海王 劉子頊 がこれを献上した。
前廃帝永光元年正月丙午、白雉が渤海に現れ、青州 刺史 の王玄謨がこれを献上した。
永光元年三月甲午朔、白雉が新蔡に現れ、 豫 州 刺史 の劉德願がこれを献上した。
黄銀と紫玉は、王者が金玉を隠さないと、黄銀と紫玉の光が深山に現れる。
宋の明帝泰始二年八月、 赭圻 城の南で紫玉の一片を得た。周囲三尺二寸、長さ一尺、厚さ七尺。太宗(明帝)はこれを二つの爵に加工し、武皇帝と文皇帝の二廟に献上した。
玉女は、天が賜った側室である。『礼含文嘉』に「禹は宮室を質素にし、溝洫に力を尽くし、百穀が実り、神龍の女が降臨した」とある。〈欠落〉
地珠は、王者が財を宝としないならば珠が生じる。〈欠落〉
天鹿は、純粋な霊獣である。五色の光が輝き明るく照らし、王者の道が備わると到来する。〈欠落〉
甪端は、一日に一万八千里を行き、また四方の異民族の言葉を理解する。明君聖主が在位し、遠方の辺境の奥深い事柄に明達していると、書物を奉じて到来する。〈欠落〉
周印は、神獣の名であり、星宿の変化である。王者の徳が盛んになると到来する。〈欠落〉
飛菟は、神馬の名であり、一日に三万里を行く。禹が治水に勤労して長年を費やし、民の害を救ったので、天がその徳に応じて到来させた。〈欠落〉
澤獣は、黄帝の時代に巡狩して東の水辺に至った時、出現し、言葉を話し、万物の精髄に通じ、民を戒め、その時代の害を除いた。賢君の明徳が遠くまで及ぶと来訪する。〈欠落〉
𪊸は、幽隠の獣であり、明王が在位すると来訪し、その時代の災害を排除する。〈欠落〉
騕[䮍-灬]は、神馬であり、飛菟と同じく、それぞれの方角に応じて到来し、君主の徳を明らかにする。〈欠落〉
同心鳥は、王者の徳が遠方に及び、四方の異民族が和合すると到来する。〈欠落〉
趹蹄は、后土の獣であり、自ら言葉を話すことができる。王者が国において仁孝であれば到来する。禹の治水の際に到来した。〈欠落〉
紫達は、王者が仁義を行えば現れる。〈欠落〉
小鳥が大鳥を生むことは、王者の土地が開拓されると到来する。〈欠落〉
河精は、人の頭に魚の体をしており、師曠の時代に授けられた讖である。〈欠落〉
延嬉は、王者の孝道が行われると到来する。〈欠落〉
大貝は、王者が財宝を貪らなければ出現する。(欠)
威蕤は、王者の礼が整っていると殿前に生じる。(欠)
醴泉は、水の精であり、甘美である。王者が政治を整えると出現する。
漢の光武帝建武中元元年五月、醴泉が京師および郡国から湧き出た。醴泉を飲んだ者は、持病がすべて治った。ただ、片目の者と足の不自由な者は治らなかった。
魏の文帝の初年、邵国で二度、醴泉が湧き出たと報告があった。
宋の文帝元嘉十二年、衡陽郡湘鄉県で醴泉が県庁の庭から湧き出た。荊州 刺史 の臨川王劉義慶がこれを報告した。
孝武帝孝建三年九月甲戌、細仗隊の省にある井戸の泉は春夏でも深さ一尺に満たなかったが、突然一丈の深さになり、五色の水が清く澄み、甘い味がし、汲んでも尽きることがなかった。
孝武帝大明二年三月壬子、北汝陰郡楼煩で平地から醴泉が湧き出た。 豫 州 刺史 の宗慤がこれを報告した。
明帝泰 豫 元年四月乙酉、会稽郡山陰県思義で醴泉が湧き出た。太守の蔡興宗がこれを報告した。
日月が光を放つ。日は君主の象徴である。君主が臣下に権力を委ねなければ、日月は光を放って輝く。(欠)
芝英は、王者が年老いた者を親しく近づけ、道を養うと生じる。
漢の章帝元和年間、芝英が郡国に生じた。
碧石は、玩好の物を棄てると現れる。(欠)
玉罋は、汲まなくても満ちる。王者が清廉であれば出現する。(欠)
山車は、山に蔵された精である。金玉を蔵さず、山沢を時節に合わせて利用し、山海の豊かさを通じて天下に供給すれば、山はその車を成す。(欠)
鶏駭犀は、王者が得難い物を軽んじると出現する。〈欠落〉
陵から黒丹が出るのは、王者が至孝を修めると出現する。〈欠落〉
神鼎とは、質と文の精華である。吉凶を知り、重くも軽くもなり、炊かずに沸き、五味が自ら生じ、王者の盛徳があると出現する。
漢の武帝の元鼎元年五月五日、汾水のほとりで鼎を得た。
漢の明帝の永平六年二月、廬江太守が宝鼎を献上した。王雒山から出た。雒は雄とも作る。
漢の章帝の建初七年十月、車駕が西巡して槐里に至り、右扶風の禁が美陽で岐山において銅器を得た。酒尊に似ている。 詔 により道中で朝夕、百官の温酒に用いた。
漢の和帝の永元元年、竇憲が匈奴を征討し、漠北の酒泉で仲山甫の鼎を得た。容積は五斗。
呉の孫権の赤烏十二年六月戊戌、宝鼎が臨平湖から出現した。また東部の酃県からも出現した。
呉の孫晧の宝鼎元年八月、在所で大鼎を得たと上言した。
晋の成帝の咸和元年十月辛卯、宣城の舂穀県で山岸が崩れ、石鼎を獲得した。重さ二斤、一斛余りを受ける。
晋の成帝の咸康五年、 豫 章の南昌の民が地を掘って銅鐘四枚を得た。太守の褚裒が献上した。
晋の穆帝の升平五年二月乙未、南掖門で馬の足が地に陥没し、銅鐘一枚を得た。
宋の文帝の元嘉十三年四月辛丑、武昌県の章山の水辺が自ら開き神鼎が出現した。江州 刺史 の南譙王劉義宣が献上した。
元嘉十九年九月戊申、広陵の肥如の石梁澗の中から石鐘九口が出現した。大小順に並び、南に向かって列をなしていた。南兗州 刺史 の臨川王劉義慶が献上した。
元嘉二十一年十二月、新陽で水辺に古鼎を獲得した。篆書四十二字があり、雍州 刺史 の蕭思話が献上した。
元嘉二十二年、 豫 章郡 豫 寧県で銅鐘が出土し、江州 刺史 の広陵王劉紹が献上した。
孝武帝の孝建三年四月丁亥、臨川郡宜黄県の民の田んぼで銅鐘七口が得られ、内史の傅徽が献上した。
孝建三年四月甲辰、晋陵郡延陵で古鐘六口が得られ、徐州 刺史 の竟陵王劉誕が献上した。
孝武帝の大明七年六月、江夏郡蒲圻で銅の路鼓が獲られ、四面で足が一本であり、郢州 刺史 の安陸王劉子綏が献上した。
明帝の泰始四年二月丙申、 豫 章郡望蔡で古銅鐘が獲られ、高一尺七寸、囲み二尺八寸で、太守の張辯が献上した。
泰始五年五月壬戌、 豫 章郡南昌で古銅鼎が獲られ、容量は七斗で、江州 刺史 の 王景文 が献上した。
泰始七年六月甲寅、義陽郡で銅鼎が獲られ、一斛を受け、蓋も共に隠れ浮き彫りが施されており、 豫 州 刺史 の段仏栄が献上した。
従帝の昇明二年九月、建寧郡の万歳山の渓流で銅鐘が得られ、長さ二尺一寸で、 豫 州 刺史 の劉懐珍が献上した。
漢の宣帝の元康二年の夏、神雀が雍に集まった。
元康三年の春、神雀が泰山に集まった。
宣帝の元康三年の春、五色の雀が万の数で、属県の上空を飛び過ぎた。
元康四年三月、神雀が五色で万の数で飛び過ぎ、長楽宮、未央宮、北宮、高寝、甘泉宮の泰畤殿に集まった。元康四年、神雀が引き続き集まった。
漢の宣帝の五鳳三年正月、神雀が京師に集まった。
漢の明帝の永平十七年の春、五色の神雀が京師に集まった。
漢の章帝の元和年間、神雀が郡国に現れた。
宋の文帝の元嘉二十二年、白い鵲が新野の鄧県に現れ、雍州 刺史 の蕭思話がこれを報告した。
元嘉二十六年五月癸酉の日、白い鵲が建康の崇孝里に現れ、揚州 刺史 の始興王劉濬がこれを献上した。
孝武帝の大明七年三月辛巳の日、白い鵲が汝南の安陽に現れ、太守の申令孫がこれを献上した。
晋の恵帝の永嘉元年五月、白い鼠が東宮に現れ、皇太子がこれを捕らえて献上した。
宋の明帝の泰始三年二月壬寅の日、白い鼠が楽安に現れ、青州 刺史 の沈文秀がこれを献上した。
漢の昭帝の始元元年二月、黄色い鵠が建章宮の太液池の中に降りた。
漢の章帝の元和二年二月、皇帝の車駕が東を巡幸し、岱宗で柴祭を行った。礼が終わると、黄色い鵠三十羽が西南から飛来し、祠壇の上を経て東北へと過ぎ去った。
漢の武帝の太初三年二月五日、皇帝が東海に行幸し、赤い雁を捕獲した。
魏の文帝の初年、大鍋の中に赤い魚が生じた。
孫権の時代、神雀が朱雀門に巣を作った。
孫晧の天璽元年、臨海郡の役人である伍曜が海辺で石の樹を得た。高さは三尺余りで、枝や茎は紫色で、曲がりくねって傾き靡き、光沢があった。山海経に記載されている玉碧樹の類である。
晋の武帝の泰始二年六月壬申の日、白い鳩が酒泉の延寿に現れ、延寿の長である王音がこれを献上した。
晋の成帝の咸和九年五月癸酉の日、白い鵞鳥が呉国の銭塘に現れ、内史の虞潭がこれを献上した。
安帝の義熙元年、南康の雩都の嵩山に金の鶏がいた。青黄色で、岩の間に飛来して集まった。
宋の文帝の元嘉二十二年、湘州 刺史 の南平王劉鑠が赤い鸚鵡を献上した。
孝武帝の大明三年正月丙申の日、媻皇国が赤い鸚鵡と白い鸚鵡をそれぞれ一羽ずつ献上した。
宋の文帝の元嘉二十四年十月甲午の日、揚州 刺史 の始興王劉濬が白い鸚鵡を献上した。
孝武帝の大明五年正月丙子の日、交州 刺史 の垣閎が白い孔雀を献上した。
明帝の泰始三年五月乙亥の日、白い鴝鵒が京兆に現れ、雍州 刺史 の巴陵王劉休若がこれを献上した。
後漢の桓帝の延熹九年四月、済陰、東郡、済北、平原で黄河の水が清らかになった。
宋の文帝の元嘉二十四年二月戊戌の日、黄河と済水がともに清らかになり、龍驤将軍・青冀二州 刺史 の杜坦がこれを報告した。
文帝の元嘉二十五年五月、征北長史・広陵太守の范邈が上言した。「私が管轄する輿県には、以前から大きな浦があり、潮流を引き込んでいたため、水は常に濁って澱んでいた。しかし、最近になって以来、水源から流れまで清らかで澄み、細かい鱗の魚まではっきりと姿が見えるようになった。古老の伝承によれば、これは吉兆であるという。」
孝武帝の孝建三年九月、済水と黄河が清らかになり、冀州 刺史 の垣護之がこれを報告した。
孝武帝の大明五年九月庚戌の日、黄河と済水がともに清らかになり、平原太守の申纂がこれを報告した。
明帝の泰始元年二月丙寅の日、揚子江と淮水が清らかで澄み、普段とは異なっていたため、州の治中従事史の張緒がこれを報告した。
後漢の光武帝の建武初年、野蚕の繭や穀物が百姓に行き渡った。その後、耕作と養蚕が次第に広まり、この二つの事柄は徐々に途絶えた。
呉の孫権の黄龍三年の夏、野蚕の繭が鶏卵のように大きかった。
宋の文帝の元嘉十六年、宣城郡宛陵県の広野で野蚕が繭を作り、雉の卵のように大きく、林や谷に満ち溢れ、年々ますます盛んになった。
孝武帝の大明三年五月癸巳の日、宣城郡宛陵県の石亭山に野蚕が生じ、三百余里に広がった。太守の張辯がこれを報告した。
孝武帝の大明三年十一月己巳の日、粛慎氏が楛の矢と石の鏃を献上し、高麗国が通訳を介して届けた。
大明五年正月戊午の元日、花雪が殿庭に降った。時に右衛将軍謝莊が殿から下りると、雪が衣に積もった。戻って報告すると、上はこれを瑞祥とした。そこで公卿たちは一斉に花雪の詩を作った。史臣が詩を調べると、「先に集まるものを霰という」とある。韓詩には「霰は英なり」とある。花葉を英という。離騷に「秋菊の落英」とある。左思の「落英飄颻」がこれである。すると霰は花雪ということになる。草木の花は多く五出であるが、花雪だけは六出である。
明帝泰始二年五月甲寅、赭中で石柏が獲られた。長さ三尺二寸、幅三尺五寸。揚州 刺史 建安王休仁がこれを献上した。
泰始三年十一月乙卯、盱眙で石柏が獲られた。寧朔将軍段仏栄がこれを献上した。
漢の和帝は在位十七年の間、郡国から瑞応八十余品が報告されたが、帝はこれを辞退して公表しなかった。