巻28

宋書

志第十八 符瑞中

麒麟は仁獣である。雄を麒といい、雌を麟という。胎を刳らず卵を剖かずすれば至る。麕の体に牛の尾、狼の項に一角、黄色で馬の足を持つ。仁を含み義を戴き、音は鍾呂に中り、歩みは規矩に中り、生きた虫を踏まず、生えた草を折らず、不義なものを食わず、濁った池の水を飲まず、落とし穴に入らず、網羅を行かない。明王が動静に儀則があれば現れる。雄が鳴くのを逝聖といい、雌が鳴くのを帰和といい、春に鳴くのを扶幼といい、夏に鳴くのを養綏という。

漢の武帝の元狩元年(十年)、雍に行幸し、五畤を祠り、白麟を獲た。

漢の武帝の太始二年三月、白麟を獲た。

漢の章帝の元和二年以来、章和元年に至るまで、凡そ三年の間に、麒麟が五十一回郡国に現れた。

漢の安帝の延光三年七月、麒麟が潁川郡陽翟県に現れた。

延光三年八月戊子、麒麟が潁川郡陽翟県に現れた。

延光四年正月壬午、麒麟が東郡濮陽県に現れた。

漢の献帝の延康元年、麒麟が十回郡国に現れた。

呉の孫権の赤烏元年八月、武昌が麒麟の出現を言上した。また白麟が建業に現れた。

晋の武帝の泰始元年十二月、麒麟が南郡枝江県に現れた。

晋の武帝の咸寧五年二月甲午、白麟が平原郡鬲県に現れた。

咸寧五年九月甲午、麒麟が河南郡陽城県に現れた。

晋の武帝の太康元年四月、白麟が頓丘県に現れた。

晋の愍帝建興二年九月丙戌の日、麒麟が襄平に現れ、州 刺史 しし の崔毖がこれを報告した。

晋の元帝太興元年正月戊子の日、麒麟が 章に現れた。

晋の成帝咸和八年五月己巳の日、麒麟が遼東に現れた。

鳳凰とは、仁の鳥である。胎を刳らず卵を剖かねば現れる。ある時は飛翔し、ある時は集う。雄を鳳といい、雌を凰という。蛇の頭に燕の頷、亀の背に鼈の腹、鶴の頸に鶏の嘴、鴻の前身に魚の尾、青い頭に並んだ翼、鷺のように立ち鴛鴦のように思う。頭には徳を戴き、背には仁を負い、項には義を荷い、胸には信を抱き、足には正を履き、尾には武を繋ぐ。小さな鳴き声は鐘に合い、大きな鳴き声は鼓に合う。頸を延べ翼を奮い、五色の光を備えて挙がる。八風を起こし、時に雨を降らせ、食には節度があり、飲みには儀礼があり、往くには文があり、来るには嘉があり、遊ぶには必ず地を選び、飲むには妄りに下らない。その鳴き声は、雄は「節節」といい、雌は「足足」という。朝に鳴くのを発明といい、昼に鳴くのを上朔といい、夕に鳴くのを帰昌といい、黄昏に鳴くのを固常といい、夜に鳴くのを保長という。その楽しみは、徘徘徊徊として、雍雍喈喈としている。ただ鳳凰のみが万物を究め、天の祉を通じ、百の状を象り、王道を達し、五音を率い、九徳を成し、文武を備え、下国を正すことができる。ゆえに鳳の象を得るのは、一つならば通り過ぎ、二つならば飛翔し、三つならば集い、四つならば春秋に居し、五つならば終身に居する。

漢の昭帝始元三年十月、鳳凰が東海に集まり、使者を遣わしてその場所を祀らせた。

漢の宣帝本始元年五月、鳳凰が膠東に集まった。

本始四年五月、鳳凰が北海に集まった。

漢の宣帝地節二年四月、鳳凰が魯に集まり、群鳥がこれに従った。

漢の宣帝元康元年三月、鳳凰が泰山と陳留に集まった。

元康四年、南郡が威鳳を獲た。

漢の宣帝神雀二年二月、鳳凰が京師に集まり、群鳥がこれに従うこと万数に及んだ。

神雀四年春、鳳凰が京師に集まった。

神雀四年十月、鳳凰十一羽が杜陵に集まった。

神雀四年十二月、鳳凰が上林に集まった。

漢の宣帝甘露三年二月、鳳凰が新蔡に集まり、群鳥が四方に行列し、皆鳳凰に向かって立ち、その数は万に及んだ。

漢の光武帝建武十七年十月、鳳凰が五羽、高さ八九尺、羽毛は五色に彩られ、潁川郡に集まり、群鳥が行列に従い、地面を数頃覆い、十七日間留まった後に去った。

漢の章帝の元和二年以来、章和元年まで、凡そ三年間に、鳳凰が百三十九回、郡国に現れた。

漢の安帝の延光三年二月、車駕が東巡した。その月の戊子の日、鳳凰が済南郡臺県の丞である霍収の家の木の上に集まった。臺県の長である嶷に帛十五匹、霍収に二十匹、尉にはその半分、吏卒には一人あたり三匹を賜った。鳳凰が通過した亭部では、今年の田租を免除し、男子には爵位を二級ずつ賜った。

延光三年十月壬午、鳳凰が 京兆尹 けいちょういん 新豊県の西の境界の槐の木に集まった。

漢の桓帝の建和元年十一月、鳳凰が済陰郡己氏県に現れた。

漢の霊帝の光和四年秋、五色の大鳥が新城に現れ、群鳥がそれに従った。民は皆これを鳳凰と言った。

漢の献帝の延康元年八月、石邑県が鳳凰が集まったと報告した。また、十三の郡国が鳳凰が現れたと報告した。

呉の孫権の黄武五年七月、蒼梧郡が鳳凰が現れたと報告した。

孫権の黄龍元年四月、夏口と武昌がともに鳳凰が現れたと報告した。

呉の孫亮の建興二年十一月、大鳥が五羽、春申に現れた。

呉の孫晧の建衡四年正月、西苑が鳳凰が集まったと報告した。

晋の武帝の泰始元年十二月、鳳凰が上党郡高都県に現れた。

泰始元年十二月、鳳凰が二羽、河南郡山陽県に現れた。

泰始元年十二月、鳳凰が三羽、 馮翊郡 ひょうよくぐん 下邽県に現れた。

晋の穆帝の升平四年二月辛亥、鳳凰が九羽の雛を連れて鄖郷の豊城に現れた。十二月甲子、また豊城に現れ、多くの鳥が従った。

升平五年四月己未の日、鳳凰が沔水の北に集まり、辛酉の日まで続いた。民衆が集まってこれを見物した。

宋の武帝の永初元年七月戊戌の日、鳳凰が会稽郡山陰県に現れた。

文帝の元嘉十四年三月丙申の日、大きな鳥二羽が秣陵の民王顗の園中の李の木に集まった。大きさは孔雀のようで、頭と足はやや高く、羽毛は鮮やかで、文様と色彩は五色に富み、鳴き声は調和して美しく、山鶏のような多くの鳥がこれに従った。約三十歩ほど歩いた後、東南の方へ飛び去った。揚州 刺史 しし の 彭城 王劉義康がこれを報告した。鳥が集まった永昌里を鳳皇里と改称した。

孝武帝の孝建元年正月庚申の日、鳳凰が丹徒県の愒賢亭に現れ、二羽の白鳥が先導し、多くの鳥が随従した。征虜将軍の武昌王劉渾がこれを報告した。

神鳥とは、赤い神の精気であり、音声の清濁と調和を知るものである。赤色を主としながら五色を備え、体は鶏のようで、鳴き声は五音に叶い、厳かで和やかである。喜べば鳴き舞い、楽しむ場所は奥深く隠れた所である。風俗が従順であれば現れる。

漢の宣帝の五鳳三年三月辛丑の日、神鳥が長楽宮の東の闕の木の上に集まり、また飛び下りて地面に降りた。五色の光彩が輝き、十余刻の間留まった。

漢の章帝の元和年間、神鳥が諸郡国に現れた。

黄龍とは、四種の龍の長である。池を干して魚を捕らず、徳が深い泉にまで及べば、黄龍が池に遊ぶ。高くも低くもなれ、細くも大きくもなれ、幽かにも冥かにもなれ、短くも長くもなれ、忽然と現れ忽然と消える。

赤龍と河図とは、地の符瑞である。王者の徳が深い泉にまで及べば、黄河から龍の図が現れる。

漢の恵帝二年正月癸酉の日、二匹の龍が蘭陵県の民家の井戸の中に現れた。

漢の文帝十五年春、黄龍が成紀に現れた。

漢の宣帝の甘露元年四月、黄龍が新豊に現れた。

漢の成帝の鴻嘉元年冬、黄龍が真定に現れた。

漢の成帝の永始二年二月癸未の日、黄龍が東萊に現れた。

漢の光武帝の建武十二年六月、黄龍が東阿に現れた。

漢の章帝の元和二年から、章和元年に至るまで、凡そ三年の間に、黄龍が四十四回、郡国に現れた。

元和年間に、青龍が郡国に現れた。

元和年間に、白龍が郡国に現れた。

漢の安帝の延光元年八月辛卯の日、黄龍が九真に現れた。

延光三年九月辛亥の日、黄龍が済南郡歴城県に現れた。

延光三年十二月乙未の日、黄龍が琅邪郡の諸県に現れた。

延光四年正月壬午の日、黄龍が二匹、東郡濮陽に現れた。

漢の桓帝の建和元年二月、黄龍が沛国譙県に現れた。

漢の桓帝の元嘉二年八月、黄龍が済陰郡句陽県に現れ、また金城郡允街県にも現れた。

漢の桓帝の永康元年八月、黄龍が巴郡に現れた。

漢の献帝の延康元年三月、黄龍が譙県に現れた。また、十三の郡国が黄龍の出現を報告した。

魏の明帝の青龍元年正月甲申の日、青龍が郟県の摩陂の井戸に現れた。帝は自ら群臣と共にこれを見物し、その後、 詔 を下して画工に描かせたが、龍は潜って見えなくなった。

魏の明帝の景初元年二月壬辰の日、山茌県が黄龍の出現を報告した。

魏の少帝の正元元年十月戊戌の日、黄龍が鄴の井戸の中に現れた。

魏の少帝の甘露元年正月辛丑の日、青龍が軹県の井戸の中に現れた。合わせて二匹であった。

甘露元年(256年)六月、青龍が元城県の境界にある井戸の中に現れた。

甘露二年(257年)二月、青龍が温県の井戸の中に現れた。

甘露三年(258年)八月甲戌の日、黄龍と青龍が引き続き頓丘・ 冠軍 ・陽夏県の井戸の中に現れた。

甘露四年(259年)正月、黄龍が二頭、寧陵県の井戸の中に現れた。

魏の元帝景元元年(260年)十二月甲申の日、黄龍が莘県の井戸の中に現れた。

景元三年(262年)二月、青龍が軹県の井戸の中に現れた。

劉備が即位する前、黄龍が武陽の赤水に現れ、九日後に去った。

呉の孫権の黄武元年(222年)三月、鄱陽で黄龍が現れたと報告があった。

呉の孫権の黄龍元年(229年)四月、夏口と武昌でともに黄龍が現れたと報告があった。孫権はこれにより元号を改めた。黄龍の旗印を作り、常に軍中に置き、進退はその向かう方向を見て決め、胡綜に命じて賦を作らせた。

呉の孫権の赤烏五年(242年)三月、海塩県で黄龍が県の井戸の中に二頭現れたと報告があった。

赤烏十一年(248年)、雲陽で黄龍が現れたと報告があった。また黄龍が二頭、武陵の呉寿に現れ、光と色が輝き照った。

呉の孫休の永安四年(261年)九月、布山で白龍が現れたと報告があった。

永安五年(262年)七月、始新で黄龍が現れたと報告があった。

永安六年(263年)四月、泉陵で黄龍が現れたと報告があった。

晋の武帝泰始元年(265年)十二月、青龍が二頭、済陰の定陶に現れた。

泰始元年十二月、青龍が魏郡湯陰に現れた。

泰始元年十二月、黄龍が河南洛陽の洛水のほとりに現れた。

泰始元年十二月、白龍二頭が太原祁に現れた。

泰始二年七月壬午、黄龍が巴西閬中に現れた。

泰始三年四月戊午、役人が上奏した。「張掖 太守 の焦勝が申しますには、 てい 池県の大柳谷口で青龍が現れたとのことです」。

晋の武帝咸寧二年六月丙申、白龍二頭が新興九原の住民の井戸の中に現れた。

咸寧二年十月庚午、黄龍二頭が漢嘉霊関に現れた。

咸寧二年十一月癸巳、白龍二頭が須度支部に現れた。

咸寧五年十一月甲寅、青龍が京兆霸城に現れた。

晋の武帝太康元年八月、白龍三頭が永昌に現れた。

太康三年閏四月己丑、白龍二頭が済南歴城に現れた。

太康五年正月癸卯、青龍二頭が武器庫の井戸の中に現れ、帝が自ら見に行かれた。

太康六年九月、白龍が京兆陰槃に現れた。

太康九年十二月戊申、青龍一頭が魯国公丘の住民の井戸の中に現れた。

晋の恵帝元康七年三月己酉朔、成臯県の牢獄に龍が昇天した。

宋の武帝永初元年七月、青龍が義興郡陽羨県に現れた。

永初元年八月、青龍が二度、南郡江陵に現れた。

文帝の元嘉十三年九月己酉の日、会稽郡の西南の方角が夜明け前に突然大いに明るくなり、青龍が飛び上がって雲を凌ぎ、長い時間が経ってから消えた。呉興郡の諸所でも同じ日に同じ光景を見た。揚州 刺史 しし の彭城王劉義康がこれを報告した。

元嘉二十一年十月己丑の日、永嘉郡永寧県に黄龍が雲の中から降りてきたのを見た。太守の臧藝がこれを報告した。

元嘉二十五年五月丁丑の日、黒龍が玄武湖の北に現れた。苑丞の王世宗がこれを報告した。

元嘉二十五年五月戊戌の日、黒龍が玄武湖の東北の湾曲部に現れた。揚州の野吏張立之がこれを報告した。

元嘉二十五年八月辛亥の日、黄龍が会稽に現れた。太守の孟顗がこれを報告した。

元嘉二十五年、広陵で龍が湖水の中から天に昇るのを、百姓が皆見た。

孝武帝の孝建二年七月癸丑の日、黄龍が 石頭 城外の水辺に現れた。中護軍の湘東王劉彧がこれを報告した。

孝建三年五月己未の日、龍が臨川郡に現れた。江州 刺史 しし の東海王劉褘がこれを報告した。

孝武帝の大明元年五月癸亥の日、黒龍が晋陵郡占石邨に現れた。邨の名を津里に改めた。

霊亀とは、神亀のことである。王者の徳沢が深く澄みわたり、山川での漁猟が時節に従って行われると出現する。五色が鮮やかで、三百歳で蕖葉の上を遊び、三千歳で常に巻耳の上を遊ぶ。存亡を知り、吉凶を明らかにする。禹が宮室を質素にしたとき、霊亀が現れた。

玄亀が文を負うこと、これは天の符である。王者の徳が淵泉にまで及ぶと、洛水から亀書が現れる。

魏の文帝の初め、神亀が霊池から現れた。

呉の孫権の時代、霊亀が会稽郡章安県から現れた。

魏の元帝咸熙二年(265年)二月甲辰、朐䏰県で霊亀を捕獲し献上した。

晋の長沙王司馬乂は同母兄の楚王司馬瑋の事件に連座し、常山に移封されたが、後に復国した。常山で井戸を掘ったところ、地中四丈の深さで、三四尺四方の白玉を得た。玉の下には大石があり、その中に長さ二尺余りの亀がいた。当時の人々はこれを復国の瑞祥と考えた。

宋の文帝元嘉十九年(442年)四月戊申、白亀が呉興郡余杭県に現れ、太守の文道恩がこれを献上した。

元嘉二十年(443年)四月辛卯、白亀が呉興郡余杭県に現れ、揚州 刺史 しし の始興王劉濬がこれを報告した。

元嘉二十四年(447年)十月甲午、揚州 刺史 しし の始興王劉濬が白亀を捕獲し献上した。

孝武帝大明三年(459年)三月戊子、毛亀が宣城郡広徳県に現れ、太守の張辯がこれを献上した。

大明四年(460年)六月壬寅、皇帝が籍田に行幸した際、千畝の地で白亀が現れ、尚書右 僕射 ぼくや の劉秀之がこれを献上した。

大明七年(463年)八月乙未、毛亀が新安王劉子鸞の邸宅に現れ、捕獲して献上した。

明帝泰始二年(466年)八月丙辰朔、四眼亀が会稽に現れ、会稽太守の巴陵王劉休若がこれを献上した。

泰始二年(466年)八月丙寅、六眼亀が東陽郡長山県に現れ、その甲の文様は爻卦のようであり、太守の劉勰がこれを献上した。

泰始六年(470年)九月己巳、八眼亀が呉興郡故鄣県に現れ、太守の褚淵がこれを献上した。

明帝泰 元年(472年)十月壬戌、義興郡陽羨県で毛亀を捕獲し、太守の王蘊がこれを献上した。

龍馬とは、仁徳の馬であり、黄河の精である。高さ八尺五寸、首が長く翼があり、脇に垂れ毛があり、鳴き声は九つの哀しみを帯びる。〈一説に「音」と作る。〉

騰黄とは、神馬である。その色は黄。王者が四方を徳をもって治めると出現する。白馬で鬣が赤いものは、王者が賢良を任用すると現れる。沢馬とは、王者が百姓を労来すると到来する。夏の馬は駵(黒身で鬣と尾が白)、殷の馬は駱(白身で鬣と尾が黒)、周の馬は騂(赤身で鬣と尾が黒)である。

漢の章帝の元和年間(84-87年)、神馬が郡国に現れた。

晋の懐帝永嘉六年二月壬子の日、神馬が南城門で鳴いた。

晋の孝武帝太元十四年六月甲申朔、寧州 刺史 しし の費統が上言した。「統治する晋寧郡の滇池県には、従来から周囲二百余里の河があった。六月二十八日辛亥の日、神馬二頭、一頭は白、一頭は黒が、忽然と河中から現れ、岸から百歩のところにいた。県民の董聰がこれを見た。」

白象とは、君主が自ら養生し節度があれば現れるものである。

宋の文帝元嘉元年十二月丙辰の日、白象が零陵郡洮陽県に現れた。

元嘉六年三月丁亥の日、白象が安成郡安復県に現れ、江州 刺史 しし の南譙王劉義宣がこれを報告した。

漢の武帝元狩二年三月、南越が馴らした象を献上した。

白狐は、王者が仁愛と知恵に優れれば現れる。

晋の成帝咸康八年七月、燕王慕容皝が国内に白狢が現れたと上言した。

赤熊は、佞人が遠ざかり、奸猾な者がいなくなれば国に入ってくる。

宋の文帝元嘉二十年十二月、白熊が新安郡歙県に現れ、太守の到元度がこれを献上した。

九尾狐は、周の文王がこれを得たとき、東夷が帰順した。

漢の章帝元和年間、九尾狐が諸郡国に現れた。

魏の文帝黄初元年十一月甲午の日、九尾狐が鄄城に現れ、また譙にも現れた。

白鹿は、王者の明らかな恵みが下民に及べば現れる。

漢の章帝建初七年十月、皇帝の車駕が西巡した際、臨平観で白鹿を得た。

漢の章帝の元和年間、白鹿が郡国に現れた。

漢の安帝の延光三年六月辛未、白鹿が右扶風の雍に現れた。

延光三年七月、白鹿が左馮翊に現れた。

漢の桓帝の永興元年二月、白鹿が張掖に現れた。

魏の文帝の黄初元年、十九の郡国が白鹿および白麋が現れたと報告した。

晋の武帝の泰始八年十月、白鹿が扶風の雍に現れ、州 刺史 しし の厳詢が捕獲して献上した。

晋の武帝の太康元年三月、白鹿が零陵の泉陵に現れた。

太康元年五月甲辰、白鹿が天水の西県に現れ、太守の劉辛が捕獲して献上した。

太康三年七月壬子、白鹿が零陵に現れ、零陵令の蔣微が捕獲して献上した。

晋の恵帝の元康元年九月乙酉、白鹿が交趾の武寧に現れた。

晋の愍帝の建武元年五月戊子、白鹿が高山県に現れた。

晋の元帝の太興三年正月、白鹿二頭が 章に現れた。

太興三年四月、白鹿が晋陵の延陵に現れた。

晋の元帝の永昌元年九月、白鹿が江乗県に現れた。

晋の成帝の咸和四年五月甲子、白鹿が零陵の洮陽に現れ、捕獲して献上された。

咸和四年(329年)七月壬寅の日、長沙郡の巡察吏である黄光が南郡の道で白鹿に出会った。追い払っても去らず、まっすぐに黄光のもとに来て、黄光を三百余歩追いかけた。黄光はついに抱き取って、吏の李堅に命じて献上させた。

咸和九年(334年)八月己未の日、白鹿が長沙郡臨湘県に現れた。

晋の成帝咸康二年(336年)七月、白鹿が 章郡望蔡県に現れ、太守の桓景が捕らえて献上した。

晋の孝武帝太元十六年(391年)三月癸酉の日、白鹿が 章郡望蔡県に現れ、捕らえて献上された。

太元十八年(393年)五月辛酉の日、白鹿が江乗県に現れ、江乗県令の田熙之が捕らえて献上した。

太元二十年(395年)九月丁丑の日、白鹿が巴陵郡の清水山に現れ、荊州 刺史 しし の殷仲堪が献上した。

晋の安帝隆安五年(401年)十一月、白鹿が長沙に現れ、荊州 刺史 しし の桓玄が報告した。

宋の文帝元嘉五年(428年)七月丙戌の日、白鹿が東莞郡莒県の岣峨山に現れ、太守の劉玄が報告した。

元嘉九年(432年)正月、白鹿が南譙郡譙県に現れ、 刺史 しし の長沙王劉義欣が献上した。

元嘉十四年(437年)、白鹿が文郷に現れた。

元嘉十七年(440年)五月甲午の日、白鹿が南汝陰郡宋県に現れ、太守の文道恩が献上した。

元嘉二十年(443年)八月、白鹿が譙郡蘄県に現れ、太守の鄧琬が献上した。

元嘉二十二年(445年)二月、白鹿が建康県に現れ、揚州 刺史 しし の始興王劉濬が報告した。

元嘉二十二年(445年)二月辛未の日、白鹿が南康郡灨県に現れ、南康相の劉興祖が献上した。

元嘉二十三年(446年)二月戊戌の日、白鹿が交州に現れ、交州 刺史 しし の檀和之が献上した。

元嘉二十三年六月丙辰、白鹿が彭城郡彭城県に現れ、征北将軍衡陽王劉義季がこれを捕らえて献上した。

元嘉二十七年二月壬辰朔、白鹿が済陰郡に現れ、徐州 刺史 しし 武陵王劉駿がこれを報告した。

元嘉二十九年八月癸酉、白鹿が鄱陽郡に現れ、南中郎将武陵王劉駿がこれを献上した。

元嘉三十年十一月壬午、白鹿が南琅邪郡に現れ、南琅邪太守王僧虔がこれを献上した。

元嘉三十年十一月癸亥、白鹿が武建郡に現れ、雍州 刺史 しし 朱脩之がこれを献上した。

孝武帝孝建三年三月庚子、白鹿が臨川郡西豊県に現れた。

孝武帝大明元年四月甲申、白鹿が南平郡に現れた。

大明二年四月己丑、白鹿が桂陽郡郴県に現れ、湘州 刺史 しし 山陽王劉休祐がこれを献上した。

大明三年正月癸巳、白鹿が南琅邪郡江乗県に現れ、南徐州 刺史 しし 劉延孫がこれを献上した。

大明三年三月辛卯、白鹿が広陵郡新市に現れ、太守柳光宗がこれを報告した。

大明五年五月丙寅、白鹿が南東海郡丹徒県に現れ、南徐州 刺史 しし 劉延孫がこれを献上した。

大明八年六月甲子、白鹿が衡陽郡に現れ、湘州 刺史 しし 江夏王の世子劉伯禽がこれを献上した。

明帝泰始二年二月乙亥、白鹿が宣城郡に現れ、宣城太守劉韞がこれを報告した。

泰始五年二月己亥、白鹿が長沙郡に現れ、湘州 刺史 しし 劉韞がこれを献上した。

泰始六年十二月乙未、白鹿が梁州に現れ、梁州 刺史 しし 杜幼文がこれを報告した。

後廃帝の元徽三年(475年)二月甲子の日、白い鹿が鬱洲に現れ、青州・冀州二州 刺史 しし 、西海太守の劉善明がこれを献上した。

三角獣は、先王の法度が整うと現れる。〈欠落〉

一角獣は、天下が平穏に統一されると現れる。〈欠落〉

六足獣は、王者が衆庶(民衆)の意見にまで配慮すると現れる。〈欠落〉

比肩獣は、王者の徳が矜寡(孤児や寡婦)にまで及ぶと現れる。〈欠落〉

獬豸は曲直(正邪)を知り、獄訟(裁判)が公平になると現れる。〈欠落〉

白虎は、王者が暴虐でなければ、白虎は仁愛を示し、物を害さない。

漢の宣帝の元康四年(前62年)、南郡が白虎を捕獲した。

漢の章帝の元和二年(85年)以来、章和元年(87年)まで、合わせて三年の間に、白虎が二十九回、郡国に現れた。

漢の安帝の延光三年(124年)八月戊子の日、白虎二頭が潁川郡陽翟県に現れた。

漢の献帝の延康元年(220年)四月丁巳の日、饒安県が白虎の出現を報告した。また、二十七の郡国が白虎の出現を報告した。

呉の孫権の赤烏六年(243年)正月、新都郡が白虎の出現を報告した。

赤烏十一年(248年)五月、鄱陽郡が白虎が仁愛を示したと報告した。

晋の武帝の泰始元年(265年)十二月、白虎が河南郡陽翟県に現れた。

泰始元年(265年)十二月、白虎が弘農郡陸渾県に現れた。

泰始二年正月己亥、白虎が遼東の楽浪に現れた。

泰始二年正月辛丑、白虎が天水の西に現れた。

晋の武帝咸寧三年二月乙丑、白虎が沛国に現れた。

晋の武帝太康元年八月、白虎が永昌の南罕に現れた。

太康四年七月丙辰、白虎が建平の北井に現れた。

太康十年十月丁酉、白虎が犍為に現れた。

晋の成帝咸和八年五月己巳、白虎が新昌県に現れた。

晋の簡文帝咸安二年三月、白虎が 章の南昌県西郷の石馬山前に現れた。

晋の孝武帝太元十四年十一月辛亥、白虎が 章郡に現れた。

太元十九年二月、行鞏県令の劉啟期が白虎が頻繁に現れたと報告した。

太元十九年二月、行溫県令の趙邳が白虎が頻繁に現れたと報告した。

晋の安帝隆安五年十一月、襄陽から騶虞が新野に現れたと報告があった。

宋の武帝永初元年八月癸巳、白虎が枝江に現れた。

少帝景平元年十月、白虎が桂陽の耒陽に現れた。

文帝元嘉十九年十月、白虎が弋陽・期思の二県に現れ、南 刺史 しし の武陵王劉駿がこれを報告した。

元嘉二十五年二月己亥の日、白虎が武昌に現れ、武昌太守の蔡興宗がこれを報告した。

元嘉二十五年十一月丁丑の日、白虎が蜀郡に二頭現れ、赤い虎が先導し、益州 刺史 しし の陸徽がこれを報告した。

元嘉二十六年四月戊戌の日、白虎が南琅邪の半陽山に現れ、二頭の虎が随従し、太守の王僧達がこれを報告した。

孝武帝の孝建三年三月壬子の日、白虎が臨川の西豊に現れた。白狼は、周の宣王がこれを得て犬戎が服従した。〈欠落〉

白い麞は、王者が刑罰を正しく行うと現れる。

晋の武帝の咸寧元年四月丙戌・乙卯の日、白い麞が琅邪に現れ、趙王の 司馬倫 しばりん がこれを献上した。

咸寧三年七月壬辰の日、白い麞が魏郡に現れた。

晋の武帝の太康三年八月、白い麞が梁国の蒙に現れ、梁国の相である解隆が捕獲して献上した。

太康五年九月己酉の日、白い麞が義陽に現れた。

太康七年五月戊辰の日、白い麞が汲郡に現れた。

晋の成帝の咸和九年五月癸酉の日、白い麞が呉国の呉県に現れ、内史の虞潭が捕獲して献上した。

晋の穆帝の永和元年八月、白い麞が呉国の呉県西界の包山に現れ、捕獲して献上された。

永和八年十二月、白い麞が丹陽の永世に現れ、永世県令の徐該が捕獲して献上した。

永和十二年十一月庚午の日、白い麞が梁郡に現れ、梁郡太守の劉遂が捕獲して献上した。

晋の安帝の隆安五年十一月、白い麞が荊州に現れ、荊州 刺史 しし の桓玄がこれを報告した。

宋の少帝景平元年五月癸未の日、白い麞が義興郡陽羨県に現れ、太守の王準之がこれを捕獲して献上した。

景平二年六月、白い麞が南郡江陽県に現れ、太守の王華がこれを太祖に献上した。太祖は当時、大統を奉じて入朝する身であり、これを吉祥の兆しとした。

文帝の元嘉五年四月 乙巳 いっし の日、白い麞が汝陽郡武津県に現れ、太守の鄭據がこれを捕獲して献上した。

元嘉十二年正月、白い麞が東萊郡黄県に現れ、青州・冀州 刺史 しし の王方回がこれを献上した。

元嘉十九年五月、山陽郡の張休宗が白い麞を捕獲し、南兗州 刺史 しし の臨川王劉義慶がこれを献上した。

元嘉二十年八月、白い麞が江夏郡安陸県に現れ、内史の劉思考がこれを献上した。

元嘉二十五年二月己丑の日、白い麞が淮南郡に現れ、太守の王休がこれを捕獲して献上した。

元嘉二十五年四月戊午の日、白い麞が南琅邪郡に現れ、太守の王遠がこれを捕獲して献上した。

元嘉二十五年五月辛未の朔日、華林園の白い麞が二頭の子を産み、いずれも白かった。園丞の梅道念がこれを報告した。

元嘉二十六年五月丙戌の日、白い麞が馬頭郡に現れ、 刺史 しし の南平王劉鑠がこれを献上した。

元嘉二十七年正月己丑の日、白い麞が済陰郡に現れ、徐州 刺史 しし の武陵王劉駿がこれを報告した。

元嘉二十七年四月癸丑の日、華林園の白い麞が一頭の白い子を産み、園丞の梅道念がこれを報告した。

元嘉二十九年六月壬戌の日、白い麞が しん 陵郡暨陽県に現れ、南徐州 刺史 しし の始興王劉濬がこれを献上した。

孝武帝の孝建三年六月癸巳の日、白い麞が広陵郡に現れ、南兗州がこれを献上した。

孝武帝の大明元年七月丁丑の日、白い麞が東萊郡曲城県に現れ、捕獲されて献上された。

大明二年正月壬戌、白い麞が山陽に現れ、山陽内史の程天祚がこれを献上した。

大明二年二月辛丑、白い麞が済北に現れ、済北太守の殷孝祖がこれを献上した。

大明五年九月己巳、白い麞が南陽に現れ、雍州 刺史 しし の永嘉王 劉子仁 がこれを献上した。

大明六年四月戊辰、白い麞が営陽に現れ、湘州 刺史 しし の建安王 劉休仁 がこれを献上した。

大明七年正月庚寅、白い麞が南陽に現れ、荊州 刺史 しし の臨海王 劉子頊 がこれを献上した。

大明七年六月己巳、白い麞が武陵郡臨沅県に現れ、太守の劉衍がこれを献上した。

大明七年九月癸未、白い麞が南陽に現れ、雍州 刺史 しし の劉秀之がこれを献上した。

明帝泰始三年五月癸酉、白い麞が南東海郡丹徒県に現れ、南徐州 刺史 しし の桂陽王 劉休範 がこれを献上した。

泰始三年五月乙卯、白い麞が北海郡都昌県に現れ、青州 刺史 しし の沈文秀がこれを献上した。

泰始五年正月癸卯、白い麞が汝陰郡楼煩県に現れ、 刺史 しし の劉勔がこれを献上した。

明帝泰 元年十月壬戌、白い麞が義興郡国山県に現れ、太守の王蘊がこれを献上した。

後廃帝元徽元年正月甲午、白い麞が海陵郡寧海県に現れ、海陵太守の孫嗣之がこれを献上した。

文帝元嘉二十三年五月甲寅、東宮の隊主である白従の陳超が肥如県で黒い麞を捕らえ、皇太子がこれを献上した。

元嘉二十三年十月辛巳、東宮の将である魏栄が秣陵で青い麞を捕らえた。

元嘉十年十二月、営城県の民である成公会之が広陵郡高郵の境界で白い麞(麂)を捕らえて献上した。

孝武帝大明元年二月己亥、白い鹿が会稽郡諸曁県に現れ、捕獲して献上された。

銀の鹿は、刑罰が公平で、民が悪事を働かないと現れる。〈欠落〉

赤い兎は、王者の徳が盛んになると現れる。〈欠落〉

比翼鳥は、王者の徳が高遠なところまで及ぶと現れる。〈欠落〉

赤い雀は、周の文王の時に丹書をくわえて来た。

晋の愍帝建興三年四月癸酉、赤い雀が平州の官舎に現れた。

宋の文帝元嘉二十年五月、赤い雀が南平郡の役所に集まり、内史の臧綽が報告した。

孝武帝孝建元年五月己亥、臨沂県の魯尚斯という軍人が城上で赤い雀を捕獲し、太傅・仮黄鉞の江夏王劉義恭が献上した。

福草とは、宗廟が厳粛であれば、宗廟の中に生える。〈欠落〉

蒼烏とは、賢君が万民に対して孝慈の行いを修め、殺生を好まないと来る。

宋の孝武帝大明元年五月丁丑、蒼烏が襄陽県に現れた。

大明二年四月甲申、蒼烏が襄陽に現れ、雍州 刺史 しし の王玄謨が献上した。

甘露は、王者の徳が大いに至り、和気が盛んになると降る。

柏が甘露を受けるのは、王者が老人を敬って遇すると、柏が甘露を受ける。

竹が甘露を受けるのは、王者が賢者を尊び老人を愛し、細やかなことにも心を配ると、竹や葦が甘露を受ける。

漢の宣帝の元康元年(前65年)三月、甘露が未央宮に降った。

漢の宣帝の神雀二年(前60年)二月、甘露が京師に降った。

神雀四年(前58年)の春、甘露が京師に降った。

漢の宣帝の五鳳二年(前56年)正月、甘露が京師に降った。

漢の成帝の元延四年(前9年)三月、甘露が京師に降った。

漢の光武帝の建武中元元年(56年)五月、郡国から甘露が降ったと報告があった。

漢の明帝の永平十七年(74年)正月戊子の夜、帝は光武帝と光烈皇后の夢を見、夢の中で喜び、目覚めてからも悲しみで眠れなかった。翌朝、陵墓に参拝し、百官と胡人の客が皆集まった。太常丞が上奏して言うには、その日、陵墓の樹木の葉に甘露があったという。帝は百官に命じて甘露を採取させた。帝は自ら御床に伏し、太后の荘器の化粧箱の中の物を見て涙を流し、箱の中の化粧品の道具を取り替えるよう命じた。

永平十七年(74年)の春、甘露が再び京師に降った。

漢の章帝の元和年間(84-87年)、甘露が郡国に降った。

漢の安帝の延光三年(124年)四月丙戌、甘露が沛国の豊県に降った。

延光三年(124年)七月、甘露が左馮翊の頻陽に降った。

漢の桓帝の延熹三年(160年)四月、甘露が上郡に降った。

漢の桓帝の永康元年(167年)八月、甘露が巴郡に降った。

魏の文帝の初年、三十七の郡国が甘露が降ったと報告した。

魏の少帝の甘露元年(256年)五月、鄴と上洛がともに甘露が降ったと報告した。

魏の元帝咸熙二年(265年)四月、南深沢県で甘露が降ったと報告された。

呉の孫権の黄武年間以前、建業で甘露が降ったと報告された。

黄武二年(223年)五月、曲阿で甘露が降ったと報告された。

呉の孫権の嘉禾五年(236年)三月、武昌で礼賓殿に甘露が降ったと報告された。

呉の孫権の赤烏二年(239年)三月、零陵で甘露が降ったと報告された。

赤烏九年(246年)四月、武昌で甘露が降ったと報告された。

呉の孫晧の甘露元年(265年)四月、蔣陵で甘露が降ったと報告された。

晋の武帝泰始十年(274年)四月乙亥、甘露が西河郡離石に降った。

晋の武帝咸寧元年(275年)四月丙戌、甘露が張掖に降った。

咸寧元年(275年)五月戊午、甘露が清河郡繹幕に降った。

咸寧元年(275年)九月、甘露が太原郡晋陽に降った。

咸寧二年(276年)五月戊子、甘露が玄菟郡の郡治に降った。

咸寧五年(279年)六月戊申、甘露が巴郡南充国に降った。

晋の武帝太康五年(284年)三月乙卯、甘露が東宮に降った。

太康七年(286年)四月、甘露が京兆郡杜陵に降った。

太康七年(286年)五月、甘露が魏郡鄴に降った。

晋の恵帝元康四年(294年)五月、甘露が楽陵郡に降った。

晋の愍帝建興元年(313年)六月、甘露が西平県に降った。

建興三年(315年)八月己未、甘露が新昌県に降った。

晋の愍帝建武元年(317年)六月丁丑、甘露が寿春に降った。

晋の元帝太興三年(320年)四月、甘露が琅邪費に降った。

晋の明帝太寧二年(324年)正月、巴郡が甘露が降ったと報告した。

晋の成帝咸和四年(329年)四月、甘露が武昌郡の官衙前の柳樹に降り、太守の詡がこれを報告した。

咸和六年(331年)三月、甘露が寧州城内の北園の榛桃樹に降り、 刺史 しし がこれを報告した。

咸和七年(332年)四月癸巳、甘露が京邑に降り、揚州 刺史 しし の王導がこれを報告した。

咸和八年(333年)四月癸卯、甘露が廬江郡襄安県の蔣冑の家に降った。

咸和八年(333年)四月癸卯、甘露が宣城郡宛陵県の須里に降った。

咸和九年(334年)四月甲寅、甘露が呉国銭唐県右郷康巷の柳樹に降った。

咸和九年(334年)十二月丙辰、甘露が建平陵に降った。

咸和九年(334年)十二月丁巳、甘露が武平陵に降った。

晋の成帝咸康元年四月癸卯、甘露が西堂の桃樹に降った。

咸康二年三月甲戌、甘露が鬱林城内に降った。

咸康二年四月、甘露が西堂に降り、また尚書都坐の桃樹に降り、また会稽永興県に降り、諸官がことごとく祝賀した。戊午、甘露が会稽山陰県に降り、また呉興武康県に降った。庚申、また武康に降った。

咸康三年四月戊午、甘露が殿後の桃李樹に降った。五月、甘露が義興陽羨県の柞樹に降り、東西十四歩、南北十五歩にわたった。

咸康七年四月丙子、甘露が彭城王司馬紘の邸内に降り、諸官がことごとく祝賀した。

晋の穆帝永和元年三月、甘露が廬江郡内の桃李樹に降り、太守の永がこれを報告した。

永和五年十一月、太常の劉邵が上奏した崇平陵令の王昂が即日陵内を奉行したところ、甘露が玄宮前殿に降った。

永和五年十二月己酉、甘露が丹陽湖熟県西界の劉敷の墓の松樹に降り、県令の王恬がこれを報告し、諸官がことごとく祝賀した。

晋の簡文帝咸安二年正月、甘露が随郡灄陽県界の桑木に降り、十餘里の中に沾凝した。

晋の孝武帝太元十二年八月、甘露が寧州界内に降り、 刺史 しし の費統がこれを報告した。

太元十五年閏月、甘露が永平陵に降った。

太元十六年十一月庚午、甘露が句陽県に降った。

太元十七年二月、甘露が南海番禺県の楊樹に降った。

晋の安帝元興二年十月、甘露が武昌王成基の家の竹に降った。

元興三年三月己卯、甘露が丹徒に降った。

元興三年(404年)四月己酉の日、甘露が蘭臺に降った。

宋の武帝永初元年(420年)九月庚辰の日、甘露が丹徒の峴山に降った。

永初元年十月庚午の日、甘露が興寧陵と永寧陵の二つの陵に降り、その範囲は百余里に及んだ。

文帝の元嘉三年(426年)閏正月己丑の日、甘露が呉興郡烏程県に降り、太守の王韶之がこれを報告した。

元嘉四年(427年)五月辛巳の日、甘露が斉郡西安県の臨朐城に降った。

元嘉四年十一月辛未の朔日、甘露が初寧陵に降った。

元嘉四年十一月己丑の日、甘露が南海郡熙安県に降り、広州 刺史 しし の江桓がこれを報告した。

元嘉八年(431年)五月、甘露が南海郡番禺県に降った。

元嘉九年(432年)十一月壬子の日、甘露が初寧陵に降った。

元嘉十一年(434年)八月甲辰の日、甘露が費県の沙里に降り、琅邪太守の呂綽がこれを報告した。

元嘉十三年(436年)二月丁卯の日、甘露が上明の巴山に降った。

元嘉十三年二月、甘露が呉興郡武康県の董道益の家の庭園の樹木に降った。

元嘉十三年三月甲午の日、甘露が初寧陵に降った。

元嘉十六年(439年)三月己卯の日、甘露が広州城の北門の楊樹に降り、 刺史 しし の陸徽がこれを報告した。

元嘉十七年(440年)四月丁丑の日、甘露が広陵郡永福里の梁昌季の家の樹木に降り、南兗州 刺史 しし の江夏王劉義恭がこれを報告した。

元嘉十七年、甘露が高平郡金郷県富民村の周囲三十里の範囲に降った。徐州 刺史 しし の趙伯符がこれを報告した。

元嘉十七年十一月乙酉の日、甘露が楽遊苑に降った。

元嘉十八年五月甲申の日、甘露が丹陽郡秣陵県の衛将軍臨川王劉義慶の園に降った。揚州 刺史 しし 始興王劉濬がこれを報告した。

元嘉十八年六月、甘露が広陵郡広陵県の孟玉秀の家の樹木に降った。南兗州 刺史 しし 臨川王劉義慶がこれを報告した。

元嘉十九年五月丁卯の日、甘露が建康の 司徒 しと 参軍督護顧俊之の宅の竹と柳に降った。

元嘉十九年五月乙亥の日、甘露が馬頭郡済陽県の宋慶之の園の樹木に降った。太守の荀預がこれを報告した。

元嘉二十一年、甘露が益州の役所内の梨と李の樹に降った。 刺史 しし の庾俊之がこれを報告した。

元嘉二十一年四月、甘露が頻繁に楽遊苑に降った。

元嘉二十一年四月、甘露が彭城郡綏輿里に降った。徐州 刺史 しし の臧質がこれを報告した。

元嘉二十一年四月、甘露が義陽郡平陽県に降った。太守の龐秀之がこれを報告した。

元嘉二十二年十一月辛巳の日、甘露が南郡江陵県方城里に降った。荊州 刺史 しし 南譙王劉義宣がこれを報告した。

元嘉二十二年十二月丁酉の日、甘露が長寧陵に降った。陵令の包誕がこれを報告した。

元嘉二十三年二月丁未の日、甘露が楽遊苑に降った。苑丞の張宝がこれを報告した。

元嘉二十三年九月丙子の日、甘露が長寧陵に降った。陵令の華林がこれを報告した。

元嘉二十三年十二月庚子の日、甘露が襄陽郡の役所に降った。雍州 刺史 しし 武陵王劉駿がこれを報告した。

元嘉二十三年十二月辛丑の日、甘露がたびたび楽遊苑に降り、苑の丞である何道之がこれを報告した。

元嘉二十四年二月己亥、庚子の日、甘露がたびたび景陽山に降り、山の監である張績がこれを報告した。

元嘉二十四年二月己亥、癸卯、三月丙辰の日、甘露がたびたび景陽山に降り、華林園の丞である陳襲祖がこれを報告した。

元嘉二十四年三月甲寅の日、甘露が尋陽郡松滋県に降り、江州 刺史 しし の廬陵王劉紹がこれを報告した。

元嘉二十四年四月癸未の日、甘露が尋陽郡松滋県に降り、丙申の日にはまた江州城内の桐の木に降り、丁酉の日にはまた城北数里の地に降り、江州 刺史 しし の廬陵王劉紹がこれを報告した。

元嘉二十四年七月乙卯の日、甘露が京師に降り、揚州 刺史 しし の始興王劉濬がこれを報告した。

元嘉二十四年七月、甘露が襄城県治下の無量寺に降り、雍州 刺史 しし の武陵王劉駿がこれを報告した。

元嘉二十四年十月甲午の日、甘露が魏興郡内に降り、太守の韋寧民がこれを報告した。

元嘉二十三年から二十四年十二月にかけて、甘露がたびたび降り、その様子は細雪のようであり、京都および諸郡国で至る所がそうであり、数えきれないほどであった。

元嘉二十五年十一月庚辰の日、甘露が南郡に降り、荊州 刺史 しし の南譙王劉義宣がこれを報告した。

元嘉二十五年十一月乙未の日、甘露が丹陽郡秣陵県の巖山に降った。

元嘉二十六年三月壬午の日、甘露が景陽山に降り、華林園の丞である梅道念がこれを報告した。

元嘉二十六年三月庚寅、癸巳の日、甘露がたびたび武昌に降り、江州 刺史 しし の廬陵王劉紹がこれを報告した。

元嘉二十六年四月甲辰、丙午、戊申の日、甘露がたびたび 章郡南昌県に降り、太守の劉思考がこれを報告した。

元嘉二十六年七月、甘露が南郡江陵県に降り、荊州 刺史 しし の南譙王劉義宣がこれを報告した。

元嘉二十七年四月乙卯、丙辰、丁巳の三日、甘露が頻繁に 章郡南昌に降った。戊午の午時、天気は清明で、彩色の霧が郡邑を覆い映し、甘露がまた雲から降った。太守の劉思考がこれを報告した。

元嘉二十七年五月甲戌、甘露が東海郡丹徒に降った。南徐州 刺史 しし の始興王劉濬がこれを報告した。

元嘉二十八年二月戊辰、甘露が鍾山の延賢寺に降った。揚州 刺史 しし の廬陵王劉紹がこれを報告した。

元嘉二十八年二月壬午、甘露が徽音殿前の果樹に降った。

元嘉二十八年二月、甘露が合歡殿の後ろの香花や諸草に降った。

孝武帝の孝建元年三月丙辰、甘露が華林園に降った。

孝建二年三月己酉、甘露が丹陽郡秣陵県の中里路にある與之の墓の樹木に降った。

孝建二年三月辛亥、甘露が長寧陵の松樹に降った。

孝建二年三月、甘露が襄陽の民家の梨の木に降った。

孝建二年三月戊午、甘露が丹陽郡秣陵県の尚書謝莊の園の竹林に降った。謝莊がこれを報告した。

孝武帝の大明元年四月癸卯、甘露が華林園の桐の木に降った。

大明三年三月己卯、甘露が楽游苑の梅の木に降った。

大明三年三月戊子、甘露が宣城郡の官舎に降った。太守の張辯がこれを報告した。

大明四年正月壬辰、甘露が初寧陵の松樹に降った。

大明四年二月丙申、甘露が長寧陵の松樹に降った。

大明四年(460年)二月 乙巳 いっし の日、甘露が丹陽郡秣陵県の龍山に降り、丹陽尹の孔霊符がこれを報告した。

大明五年(461年)四月辛亥の日、甘露が呉興郡安吉県に降り、太守の歴陽王劉子頊がこれを報告した。

大明五年(461年)四月乙卯の日、甘露が呉興郡烏程県に降り、太守の歴陽王劉子頊がこれを報告した。

大明六年(462年)二月戊午の日、甘露が建康の霊燿寺および諸苑園、ならびに秣陵県の龍山から婁湖に至るまで降った。この日、さらに句容・江寧の二県にも降った。

大明七年(463年)三月丙申の日、甘露が尋陽郡松滋県に降り、太守の劉矇がこれを報告した。

大明七年(463年)四月己未の日、甘露が荊州城内に降り、 刺史 しし の臨海王劉子頊がこれを報告した。

大明七年(463年)十二月辛丑の朔日、甘露が呉興郡烏程県に降り、県令の苟卞之がこれを報告した。

明帝泰始二年(466年)四月己未の日、甘露が上林苑に降り、苑令の徐承道がこれを献上した。

泰始二年(466年)四月庚申の日、甘露が華林園に降り、園令の臧延之がこれを献上した。

泰始二年(466年)五月己亥の日、甘露が丹陽郡秣陵県の官舎の斎室前の竹に降り、丹陽尹の 王景文 がこれを献上した。

泰始三年(467年)十一月庚申の日、甘露が晋陵郡に降り、晋陵太守の王蘊がこれを報告した。

泰始三年(467年)十一月癸亥の日、甘露が南東海郡丹徒県の建岡に降り、徐州 刺史 しし の桂陽王劉休範がこれを報告した。

泰始三年(467年)十二月壬午の日、甘露が崇寧陵に降り、揚州 刺史 しし の建安王劉休仁がこれを報告した。

後廃帝元徽四年(476年)十一月 乙巳 いっし の日、甘露が呉興郡烏程県に降り、太守の蕭恵明がこれを報告した。

順帝昇明二年(478年)十二月、甘露が建康の禁中里に降った。

昇明二年十一月、甘露が南東海郡武進県の彭山に降り、太守の謝朏がこれを報告した。

昇明二年十一月、甘露が呉興郡長城県の卞山に降り、太守の王奐がこれを報告した。

威香とは、王者の礼が整っていると常に生じるものである。〈闕〉