宋書
志第十七 符瑞上
聡明で機微を極め、霊妙な資質を独り秀でて備えた者を聖人という。聖人は四海を統治し万物を従わせ、動植物の類いをすべてそれぞれの居場所を得させることができる。民衆は聖人を仰ぎ慕い、親戚のように親しみ、椒や蘭のように芳しいものとして感じる。それゆえ旗章や車輿・服飾を設けて聖人を崇め、玉璽や黄屋(皇帝の車)を用いて聖人を尊ぶ。神器(帝位)の重みを以て、聖人を万民の上に推し戴くのである。中程度の知恵以下の者にとっては、万物は従わせる対象となる。性質や識見には優劣があり、愚かで暴虐な道理が存在するのも事実である。聖人が天下に利益をもたらすのを見て、天下を利することができると思い込み、万物が聖人に帰するのを見て、万物を利していると考える。力を争う者たちは、遂には天下を逐鹿(鹿を追う)に譬え、乱臣賊子が世に多く現れる所以である。龍が九五の位(帝位)に飛翔し、天に配して光り輝き天下を治めるには、天命を受けたしるし(符)があり、天と人との応答がある。易経に言う、「黄河から図が現れ、洛水から書が現れ、聖人はこれに則る」と。符瑞の意義は大きい。
赫胥氏、燧人氏の前の時代については、聞いたことがない。
太昊帝宓犧氏(伏羲)。母は華胥という。燧人氏の時代、雷沢に大きな足跡が現れ、華胥がそれを踏んで、成紀で伏羲を生んだ。蛇の体に人の頭を持ち、聖なる徳があった。燧人氏が没すると、宓犧が代わり、龍図を受け、八卦を画いた。これが「河から図が出る」というものである。景龍(光り輝く龍)の瑞祥があった。
炎帝神農氏。母は女登という。華陽に遊んだとき、常羊山で神龍の頭が女登に感応し、炎帝を生んだ。人の体に牛の頭を持ち、聖なる徳があり、大火(炎帝を象徴する火)の瑞祥をもたらした。嘉禾(めでたい穀物)が生え、醴泉(甘い泉)が湧き出た。
黄帝軒轅氏。母は附宝という。大きな電光が北斗七星の枢星を巡り、郊野を照らすのを見て、感応して身ごもった。二十五ヶ月後に寿丘で黄帝を生んだ。幼くして言葉を話し、龍のような顔立ちで、聖なる徳があり、百神を召し出して朝見させ使役した。応龍を使って蚩尤を攻め、虎・豹・熊・羆の四獣の力を戦わせた。女魃を用いて長雨を止めた。天下が平定されると、聖徳が広く覆い、あらゆる瑞祥がことごとく集まった。屈軼という草が庭に生え、佞人(へつらう者)が朝廷に入ると、草がその者を指したので、佞人は進み出ることができなかった。景雲(めでたい雲)の瑞祥があった。赤い方角の気と青い方角の気がつながり、赤い方角の中に二つの星、青い方角の中に一つの星、合わせて三つの星があり、いずれも黄色で、天が清明な時に摂提(星宿)のあたりに現れた。これを景星という。黄帝は黄色の服を着て中宮で斎戒し、玄扈の洛水のほとりに座っていると、鳳凰が集まり、生きた虫を食べず、生えた草を踏まず、あるいは黄帝の東園に止まり、あるいは阿閣(高い楼閣)に巣を作り、あるいは庭で鳴いた。雄は自ら歌い、雌は自ら舞った。麒麟が苑に現れ、神鳥が来て儀礼に参加した。大きな蟻が羊のようで、大きな蚯蚓が虹のようであった。黄帝は土の気が勝ったので、遂に土徳をもって王となった。即位五十年目の秋七月庚申の日、天に霧が立ちこめ三日三夜、昼も暗かった。黄帝は天老、力牧、容成に尋ねて言った。「諸卿はどう思うか。」天老は言った。「臣が聞くところでは、国が安泰で、その主が文を好めば、鳳凰はそこに留まります。国が乱れ、その主が武を好めば、鳳凰は去ります。今、鳳凰が東郊で翔り楽しみ、その鳴き声が夷則(十二律の一つ)に合い、天と符合しています。これを見るに、天は厳かな教えを以て帝に賜ろうとしておられます。帝はこれに逆らわないでください。」そこで史官を召して占わせたところ、亀の甲が焦げた。史官は言った。「臣は占うことができません。聖人にお尋ねください。」帝は言った。「すでに天老、力牧、容成に尋ねた。」史官は北面して再拝し言った。「亀は聖人の知恵に背かないので、焦げたのです。」霧が晴れ、洛水のほとりを遊覧していると、大きな魚を見つけ、五種の犠牲を殺して醮(酒を注いで祭る)をした。すると天は激しい雨を降らせ、七日七夜の後、魚は海に流れ去り、図と書を得た。龍図は黄河から出、亀書は洛水から出て、赤い文様の篆書の文字で、軒轅(黄帝)に授けた。軒轅は明庭で万神を迎えた。今の寒門谷口がこれである。
帝摯少昊氏。母は女節という。星が虹のようになって華渚に流れ下るのを見、やがて夢の中で交わり感応して、少昊を生んだ。帝位に登ると、鳳凰の瑞祥があった。
帝顓頊高陽氏。母は女枢という。瑤光の星が月を貫いて虹のようになるのを見て、幽房の宮で己に感応し、若水で顓頊を生んだ。頭に干戈(盾と戈)を戴き、聖なる徳があった。十歳で少昊氏を補佐し、二十歳で帝位に登った。
帝嚳高辛氏。生まれつき歯が重なっており、聖なる徳があり、高陽氏に代わって天下を治めた。鼓人に鞞鼓を打たせ、鐘や磬を敲かせると、鳳凰が翼を鼓して舞った。
帝堯の母は慶都という。斗維(北斗七星の方向)の野に生まれ、常に黄色い雲がその上を覆って護っていた。成長して三河(黄河の三つの流域)を観察すると、常に龍が付き従った。ある日、龍が背負って図を届け、その文には要約して「また天の祐けを受ける」とあった。眉は八つの彩り、鬢の髪は長さ七尺二寸、顔は上部が鋭く下部が豊かで、足は翼宿(星宿)を踏んだ。やがて暗い風が四方から集まり、赤龍がこれに感応した。十四ヶ月身ごもって丹陵で堯を生んだ。その姿は図の通りであった。成長すると身長十尺、聖なる徳があり、唐に封じられた。天に攀じ登る夢を見た。高辛氏が衰えると、天下は彼に帰した。帝位に七十年、景星が翼宿から現れ、鳳凰が庭に来て、朱草が生え、嘉禾が実り、甘露が潤し、醴泉が湧き出た。日月は合璧のように重なり、五星は連珠のように連なった。厨房に自然と肉が生じ、その薄さは箑(扇子)のようで、揺らすと風が生じ、食物は冷えても臭わず、「箑脯」と名付けられた。また、草が階段の両側に生え、 朔日 に一つの莢が生じ、十五日に十五の莢が生じる。十六日以降は、日ごとに一莢ずつ落ち、晦日(月末)には尽きる。月が小の月(29日)の時は一莢が焦げて落ちない。これを「蓂莢」といい、また「曆莢」ともいう。功績を舜に帰し、天下を禅譲しようと考え、河と洛のほとりに壇場を清め整えて築き、良日を選び、舜らを率いて首山に登り、河の渚に沿った。五人の老人が遊んでいた。これは五星の精である。互いに言った。「河図がまさに来て帝に期日を告げようとしている。我々を知る者は、瞳が二つある黄色い姚(舜)である。」五老は飛んで流星となり、昴宿に入った。二月辛丑の日の夜明け前、礼の準備が整い、日が西に傾く頃、栄光が河から現れ、吉祥の気が四方に満ち、白雲が湧き起こり、旋風が吹き、龍馬が甲(甲羅のようなもの)を銜えて現れ、赤い文様に緑の色で、壇の前に止まり、甲図を吐き出して去った。甲は亀に似て、背の幅は九尺、その図は白玉を封筒とし、赤玉を文字とし、黄金で泥封し、青い縄で縛ってあった。封筒の文に「闓色(めでたい兆し)が帝舜に授けられる」とある。虞、夏、殷、周、秦、漢が天命を受けるべきことを言っている。帝はその言葉を書き写し、東序(学校・書庫)に蔵した。後二年の二月仲辛の日、群臣を率いて璧を洛水に沈めた。礼が終わり、退いて待っていると、日が沈みかける頃、赤い光が起こり、玄い亀が書を背負って現れ、背中の甲に赤い文様で字が成り、壇の前に止まった。その書には舜に禅譲すべきことが記されていた。そこで舜に譲位した。
帝舜は有虞氏で、母は握登といい、大きな虹を見て感応し、姚墟で舜を生んだ。目は二重の瞳子であったため、重華と名付けられた。龍のような顔に大きな口、肌は黒色で、身長は六尺一寸であった。舜の父母は舜を憎み、彼に倉庫の塗装をさせ、下から火を放ったが、舜は鳥工の衣服を着て飛び去った。また井戸を浚わせ、上から石を投げ込んだが、舜は龍工の衣を着て傍らから出てきた。歴山で耕作していた時、眉が髪と同じ長さになる夢を見た。帝位に即くと、階に蓂莢が生え、庭に鳳凰が巣を作り、石を打ち鳴らすと百獣が舞い、景星が房宿から現れ、地から乗黄の馬が現れ、西王母が白環と玉玦を献上した。舜が位にあったこと十四年、鐘・石・笙・管の演奏が終わらないうちに、天は大雷雨となり、疾風が家屋を壊し木を抜き、太鼓が地面を転がり、鐘や磬が乱れ、舞人が倒れ伏し、楽正は狂走した。舜は璿璣と玉衡を抱きしめて笑い、「明らかだ!天下は一人の天下ではない。これもまた鐘・石・笙・管に現れているのだろう。」と言った。そして天に禹を推薦し、天子の事を行わせた。その時、和気が広く応じ、慶雲が湧き起こった。煙のようで煙ではなく、雲のようで雲ではなく、鬱々とし、盛んに立ち込め、入り乱れて曲がりくねり、百官が互いに和して慶雲を歌った。帝は先導して歌った。「慶雲は爛漫とし、縷縷と広がる。日月の光華は、朝また朝と輝く。」群臣は皆進み出て、額を地につけて言った。「明らかな上天よ、星々は爛然と並ぶ。日月の光華は、我が一人を大きく照らす。」帝は再び歌った。「日月には常があり、星辰には運行がある。四季は経緯に従い、万民はまことに誠実である。我が楽を論ずれば、天の霊に配する。聖賢に譲れば、誰もが聞き従う。鼓を打ち鳴らし、舞い踊る。精華は尽き、裾をまくって去る。」すると八風が整って通じ、慶雲が群がり集い、蟠龍はその潜む所から奮い立って躍り出で、蛟魚はその淵から踊り上がり、亀や鼈は皆その穴から出て、虞に仕えることをやめて夏に仕えた。舜は河畔に壇を設け、堯の故事に倣った。日が西に傾く頃、栄光と瑞気が至り、黄龍が図を背負って現れた。長さ三十二尺、幅九尺で、壇のほとりから現れ、赤い文様に緑の錯文があり、その文には禹に禅譲すべきことが書かれていた。
帝禹は有夏氏で、母は脩己といい、外出して流星が昴宿を貫くのを見、夢の中で感応し、やがて神珠を飲み込んだ。脩己の背中が裂けて、石紐で禹を生んだ。虎のような鼻に大きな口、両耳には三つの穴があり、首には鉤鈐を戴き、胸には玉斗があり、足には履己の文様があったため、文命と名付けられた。成長して聖徳を備え、身長は九尺九寸であった。夢の中で自ら河で身を洗い、手で水をすくって飲んだ。また九尾の白狐という瑞兆もあった。堯の時代、舜に推挙された。禹が河を見ていると、白い顔に魚の体をした長身の者が現れ、「我は河の精である。」と言い、禹を呼んで「文命よ、洪水を治めよ。」と言った。言い終わると、禹に河図を授け、治水のことを言って、淵の中へ退いた。禹が治水を完了すると、天は玄珪を賜り、成功を告げた。夏の道が興らんとする時、草木は暢茂し、青龍が郊外に止まり、祝融の神が崇山に降りた。そして舜の禅譲を受け、天子の位に即いた。洛水から六十五字の亀書が現れ、これが洪範であり、いわゆる「洛より書出づ」である。南に巡狩し、長江を渡る時、中流に二匹の黄龍が舟を背負い、舟人は皆恐れた。禹は笑って言った。「我は天より命を受けて、力を尽くして人を養う。生きるは性、死ぬは命である。龍をどうして憂えようか!」龍はそこで尾を引きずって去った。
高辛氏の世の妃に簡狄という者がいた。春分の日に玄鳥が来た時、帝に従って郊禖を祀り、妹と共に玄丘の水で沐浴していた。玄鳥が卵をくわえて落とし、それは五色でとても美しかった。二人は競って取り、玉の筐で覆った。簡狄が先に得てそれを飲み込んだため、妊娠した。胸が裂けて契が生まれた。成長して堯の 司徒 となり、民のために功績を立て、商に封ぜられた。後十三世を経て、主癸が生まれた。主癸の妃は扶都といい、白い気が月を貫くのを見て感応し、乙の日に湯を生み、天乙と号した。顎が豊かで額が鋭く、色白で髭があり、背中が曲がり声が高く、身長九尺、腕に四つの肘があった。これが殷の湯である。湯は亳におり、その徳を修めることができた。伊摯が湯の命に応じようとした時、船に乗って日月の傍を通る夢を見た。湯は東へ洛まで行き、帝堯の壇を見て、璧を沈め退いて立つと、黄魚が二匹躍り出で、黒い鳥が魚に従って壇に止まり、黒玉に変わった。また黒い亀がおり、共に赤い文様で字を成し、夏の桀が無道であり、湯が代わるべきであると記していた。檮杌の神が邳山に現れた。神が白い狼を引いて鉤をくわえさせ、商の朝廷に入った。金徳が盛んになろうとする時、銀が山から溢れ出た。湯が天命を奉じて桀を放逐しようとした時、天に届いてそれを舐める夢を見て、遂に天下を得た。商人は後に天下の号を殷と改めた。
高辛氏の時代、妃に姜嫄という者がいた。郊禖の祭りを助け、大人の足跡を見てそれを踏んだ。その時、まるで人の道が自分を感じたかのように心が動き、やがて身ごもって男児を生んだ。不吉だと思い、狭い路地に棄てたが、羊や牛は避けて踏まず、また山林の中に送り込んだが、ちょうど木を伐る者がいて薦で覆ってくれた。さらに取って寒い氷の上に置くと、大鳥が来て一つの翼を敷いて覆った。姜嫄は不思議に思い、ついに養い育て、名を棄と付けた。枝のような頤に異相があった。成長して堯の稷官となり、民に功績があった。后稷の孫を公劉といい、徳があり、諸侯は皆天子の礼をもって彼を遇した。初め黄帝の時代に、讖言があった。「西北に王が現れ、その期は甲子にある。昌が命を制し、発が誅を実行し、旦が道を行う。」公劉の後、十三世を経て季歴が生まれた。季歴の十年、飛龍が殷の牧野に満ちた。これは聖人が下位にあって将に起こらんとする符であろう。季歴の妃を太任といい、長身の人に感じられ、豚小屋で小便をして昌を生んだ。これが周の文王である。龍の顔に虎の肩、身長十尺、胸に四つの乳があった。太王が言った。「我が世に興る者があるなら、それは昌であろうか。」季歴の兄を太伯といい、天命が昌にあることを知り、越の地に行き終生帰らなかった。弟の仲雍がこれに従ったので、季歴が後継ぎとなり、昌に至った。昌は西伯となり、豊に都を造った。文王の妃を太姒といい、商の庭に棘が生える夢を見た。太子発が宮門の間に梓の木を植えると、松・柏・棫・柞に化した。文王に告げると、文王は幣帛を捧げて群臣に告げ、発と共に拝して夢を告げた。季秋の甲子の日、赤い雀が書を銜えて豊に飛来し、昌の戸口に止まった。昌は拝礼して頭を地につけ、それを受け取った。その文の要旨は「姫昌は蒼帝の子、殷を滅ぼす者は紂王である」というものだった。狩りに出ようとした時、史官が広く占ったところ、「大いに獲るであろう。熊でも羆でもない。天が汝に師を遺して昌を補佐させる。臣の太祖である史疇が禹のために狩りを占った時、皋陶を得た。その兆しはこのようである。」王が磻谿の水辺に至ると、呂尚が岸辺で釣りをしていた。王は下りて急ぎ拝礼して言った。「公を望んで七年、今ようやくここに光景を見る。」尚は立ち上がり名を変えて答えた。「望が釣りをして玉璜を得た。その文の要旨は『姫が命を受け、昌が来て提げよ。爾の雒鈐を撰べ、報いは斉に在り』というものだ。」尚が出遊した時、赤い人が雒水から現れ、尚に書を授けて言った。「命じて呂と言う。昌を補佐する者は子である。」文王は日月が自らの身に付く夢を見、また鸑鷟が岐山で鳴いた。孟春の六十日目、五つの惑星が房宿に集まった。後に鳳凰が書を銜え、文王の都を遊んだ。書にはまたこうあった。「殷の帝は道なく、天下を虐げ乱す。皇命は既に移り、再び久しくあることは得ず、霊祇は遠く離れ、百神は吹き去り、五星は房宿に集まり、四海を照らして治める。」文王が没すると、太子発が代わって立ち、これが武王である。武王は歯が重なり合い、仰ぎ見るような目つきをしていた。紂を討伐しようとして孟津に至ると、八百諸侯が期せずして会した。皆が言った。「紂を討つべきである。」武王は従わなかった。紂が比干を殺し、箕子を囚え、微子が去った時に至って、ようやく紂を討った。孟津を渡る時、中流で白い魚が王の舟に躍り込んだ。王が身をかがめて魚を取ると、長さ三尺で、目の下に赤い文が字を成しており、紂を討つべしと記していた。王が世の文字で書き写すと、魚の文は消えた。魚を焼いて天に告げた。すると火が天から王の屋根に降り止まり、流れて赤い烏となり、烏は穀物を銜えていた。穀物は后稷の徳を記し、火は魚を焼いて天に告げた天火が流れ下り、吉兆として応じたのである。遂に東進して紂を討ち、牧野で勝利し、兵刃に血塗ることなく、天下は彼に帰した。そこで呂望を斉に封じた。周の徳が盛んになると、草木は茂り、蒿で宮室を造ることができたので、蒿宮と名付けた。武王が没し、成王が幼少だったので、周公旦が七年間摂政し、礼楽を制定した。神鳥の鳳凰が現れ、蓂莢が生じた。そこで成王と共に河や洛水を観覧し、璧を沈めた。礼が終わり、王が退いて待っていると、日が暮れる頃、栄光が共に幕のような河から現れ、青雲が浮かび至り、青龍が壇に臨み、玄甲の図を銜えて、座ったまま去った。洛水での礼も同様であった。玄亀・青龍・蒼兕が壇に止まり、甲羅に刻まれた書、赤い文が字を成していた。周公が筆を取って世の文字で書き写すと、書が成ると文は消え、亀は甲を落として去った。その言葉は周公から秦・漢の盛衰の符までを述べていた。麒麟が苑を遊び、鳳凰が庭を翔け、成王は琴を取って歌った。「鳳凰翔けり紫庭に、余何の徳か以て霊を感ぜん、先王に頼りて恩沢至る、楽しみを共にせば民以て寧し。」
魯の哀公十四年、孔子は夜、三本の槐の木の間、豊や沛の地に赤い煙の気が立ち上る夢を見た。そこで顔淵と子夏を呼び、見に行かせた。車を駆って楚の西北の范氏街に着くと、草を刈る子供が麒麟を捕え、その左前足を傷つけ、柴で覆っているのを見た。孔子は言った。「子供よ、来い。お前の姓は赤誦、名は子喬、字は受紀だ。」孔子は言った。「お前は何か見たのか。」子供は言った。「一つの禽獣を見ました。子羊ほど大きく、頭に角があり、その先に肉がついていました。」孔子は言った。「天下には既に主がいる。赤い劉氏で、陳・項が補佐し、五星が井宿に入り歳星に従う。」子供が柴の下の麒麟を示すと、孔子は急いで近づいた。麒麟は耳を覆い、三巻の図を吐き出した。幅三寸、長さ八寸、各巻二十四字で、赤い劉氏が起こるべきだと述べ、こう言っていた。「周が滅び、赤気が起こり、大いなる輝きが興る。玄丘が命を制し、帝は卯金である。」孔子は春秋を作り、孝経を制定し、完成すると、七十二人の弟子を北辰星に向かって腰を折って立たせ、曾子に河図・洛書の事を抱かせて北を向かせた。孔子は斎戒して北辰に向かって拝礼し、天に準備が整ったことを告げて言った。「孝経四巻、春秋・河図・洛書合わせて八十一巻、謹んで既に備えました。」すると天は盛大に鬱然と白い霧を起こして地を撫で、赤い虹が上から下り、黄玉に化けた。長さ三尺で、上に刻まれた文があった。孔子は跪いて受け取り、読んで言った。「宝文出で、劉季握る。卯金刀、軫宿の北に在り。字は禾子、天下服す。」
漢の高祖の父は劉執嘉といった。執嘉の母は、赤い鳥が龍のように戯れて己に寄りかかる夢を見て、執嘉を生んだ。これが太上皇帝である。母の名は含始といい、これが昭霊后である。昭霊后が洛池に遊んだとき、玉の鶏が赤い珠をくわえており、そこには「玉英」と刻まれていて、「これを呑む者は王となる」とあった。昭霊后はそれを取って呑み込んだ。また大沢で寝ていると、神と出会う夢を見た。その時、雷鳴と稲妻が暗闇を照らし、太上皇が見ると、蛟龍が彼女の上にいるのを見て、やがて身ごもって季(高祖)を生んだ。これが高祖である。高祖は鼻筋が高く龍のような顔立ちで、美しいひげをたくわえ、左の腿に七十二の黒子があった。身分が低い頃、しばしば王媼や武負のところで酒を借りて飲み、酔って寝ると、その上には常に怪しい光があった。高祖が飲みに残るたびに、売り上げは数倍になった。武負はこれを怪しみ、借り証文を折ってしまった。単父の人、呂公は人相見を好み、高祖を見て言った。「私は若い頃から人相見が好きで、多くの人を見てきましたが、季ほどの相の人はいません。どうか季は自らを大切になさってください。私に娘がおりますので、箕や箒を持つような身分の低い者としてでもお仕えさせたいと思います。」呂公の妻の媼は怒って呂公に言った。「あなたはいつもこの娘を特別視して、貴人にしようとしていました。沛の県令はあなたと親しいのに、求められても与えませんでした。どうして劉季のような者に軽々しく約束するのですか。」呂公は言った。「女の知ることではない。」ついに高祖に嫁がせた。恵帝と魯元公主を生んだ。呂后がかつて二人の子と田んぼの中に住んでいたとき、一人の老人が通りかかり、飲み物を請うた。呂后はそこで食べ物を与えた。老人は呂后の相を見て言った。「夫人は天下の貴人です。」二人の子の相を見るよう命じ、恵帝を見て言った。「夫人が貴いのは、この男の子のためです。」魯元公主の相も貴いと見た。老人が去った後、高祖がちょうど隣の家から来て、呂后が詳しく話した。高祖は老人を追いかけて尋ねた。老人は言った。「先ほどの夫人とお子様の貴さは、すべてあなたの相によるものです。あなたの貴さは言葉にできません。」高祖は酒を飲み、夜に沢の中の小道を行った。先に行った者が戻ってきて言った。「大きな蛇が道を塞いでいます。戻りましょう。」高祖は酔って言った。「壮士が行くのに、何を恐れることがあるか。」そこで進み出て、剣を抜いて蛇を斬り、蛇は二つに分かれ、道が開けて通ることができた。後から来た者が、老婆が蛇のそばにいて言うのを見た。「さっき赤帝の子が通りかかって、これを殺した。」見た者は老婆が嘘をついていると疑い、鞭打とうとしたが、老婆は忽然と消えてしまった。すべての状況を高祖に告げると、帝は内心喜んだ。秦の始皇帝は言った。「東南に天子の気がある。」そこで東へ巡行してそれを抑えようとした。高祖は芒や碭の山沢の間に身を隠していたが、呂后は常にその場所を知っていた。高祖が怪しんで尋ねると、答えて言った。「季がいる場所の上には、常に雲気があるので、それでわかるのです。」高祖が沛公となり、秦に入ると、五つの星が東井に集まり、歳星が先に至り、四つの星がそれに従った。占いでは「義をもって天下を取る」とあった。初め、張良が下邳の沂水のほとりを遊んでいたとき、ある老人が来て、まっすぐに張良の前に来て、履を落とした。振り返って張良に言った。「若者よ、下りて履を取ってくれ。」張良は驚き、殴ろうとしたが、老人であるため、下りて取って跪いて差し出した。父は足でそれを受け取り、笑って去った。張良は非常に驚いた。老人は一里ほど行ってまた戻ってきて言った。「若者よ、教えられる器だ。五日後の明け方、ここで私と会いなさい。」張良は怪しみながら、跪いて応じた。「承知しました。」五日後、張良が行くと、父はすでに先に来ていて、怒って言った。「年長者と約束して遅れるとは何事か。五日後、またここで会いなさい。」三度約束して、張良は前に来た。老人は喜んで言った。「このようであるべきだ!」すぐに懐から一巻の書物を取り出して与え、言った。「これを読みなさい。これは王者の師となるものだ。十三年後、若者は私を済北の穀城山の下で見るだろう。黄石が私だ。」朝になってその書物を見ると、太公兵法であった。張良が黄石篇を他の人に説いても、誰も理解しなかったが、ただ高祖だけが喜んだ。張良は言った。「これはおそらく天が授けたものであろう。」五年で帝業を成し遂げた。十三年後、張良は果たして穀城山の下で黄石を得て、宝物として祠を建て、死後はそれと合葬した。
文帝の母の薄姫は、魏豹が魏王であったとき、後宮に納められた。許負が彼女の相を見て、天子を生むだろうと言った。魏王豹はそこで漢に背き、漢の高祖が撃って捕虜にし、薄姫は織室に送られた。高祖は彼女を見て美しいと思い、後宮に入れたが、一年余りしてようやく寵愛を受けた。寵愛を受けようとするとき、薄姫は言った。「私は昨夜、青龍が私の心臓の上に乗っている夢を見ました。」高祖は言った。「それは私だ。私があなたのためにそれを成就させよう。」一度の寵愛で文帝を生んだ。
景帝の王皇后は初め金王孫の妻に嫁いだが、母の臧児が占いをして「貴くなるだろう」と言った。そこで金氏から奪って太子の宮中に入れ、男児を生んだ。男児がまだ胎内にいる時、太陽が懐に入る夢を見て、太子に告げた。太子は言った。「これは貴い兆しだ。」男児を生んだ。これが武帝である。
武帝の趙婕妤は、家は河間にあり、生まれた時から両手がともに握り拳で開かなかった。武帝が巡狩して河間を通りかかったとき、望気者が言うには、ここに奇女の天子気があると。召し出して会うと、武帝自ら彼女の手を開いた。すぐに伸びて、一つの玉の鉤を得た。これによって寵愛を受け、「拳夫人」と号した。婕妤に進み、鉤弋宮に住み、大いに寵愛を受けた。十四ヶ月で男児を生んだ。これが昭帝で、「鉤弋子」と号した。武帝は言った。「昔、堯は十四ヶ月で生まれたと聞くが、今の鉤弋子もそうだ。」そこでその門を堯母門と名付けた。
昭帝の元鳳三年正月、泰山の萊蕪山の南で、民が夜に数千人の声がごうごうと聞こえるのを聞き、朝になって見に行くと、大きな石が自立しているのを見た。高さ一丈五尺、太さ四十八囲、地中に八尺入り込み、三つの石が足となっていた。立った後、数千の白い烏がそのそばに集まった。また上林苑の中の柳の木が折れて地面に倒れていたが、一朝にして自ら起き上がり枝葉を生やし、虫がその葉を齧って文字を成していた。「公孫病已立つ」と。陳留の襄邑の王社が突然長安に移った。博士の眭孟が占って言った。「石は陰の類である。泰山は岱宗で、王者が禅譲する場所である。廃される旧家があり、姓は公孫、名は病已という者が、白衣の身分から天子となるだろう。」当時、昭帝は幼少で、 霍光 が政を補佐しており、孟を妖言を吐いたとして誅殺した。昭帝が崩御し、昌邑王もまた廃されると、 霍光 は宣帝を立てた。武帝の曾孫で、本名は病已、民間で白衣の身分が三代続いていた。孟の言う通りであった。
元帝の王皇后は、斉の田氏の末裔である。祖父の翁孺は、東平陵から元城に移った。元城建公が言った。「昔、春秋の時に沙鹿が崩れたが、晋の史官が占うと、陰が陽の雄となり、土と火が相乗じるため、沙鹿が崩れた。その後六百四十五年後に、聖女が興るべきであり、それは斉の田氏であろうか?今、翁孺が移ったのは、まさにその地であり、日月がそれに当たっている。元城の郭の東に五鹿の墟があるが、これが沙鹿の地である。八十年後、天下に貴女が興るだろう。」翁孺は禁を生んだ。禁の妻の李氏が妊娠していた時、月が懐に入る夢を見て、女児を生んだ。これが元后である。嫁ぐことを許されるたびに、まだ嫁いでいないうちに、許された相手が死んでしまった。占い師や人相見は言った。「大いに貴くなるだろう。」ついに元帝の皇后となり、成帝を生んだ。
初めに、秦の始皇帝の時代、身長五丈、足跡六尺の長人が十二人現れ、隴西の臨洮で目撃された。前代の史書はこれを秦の滅亡の兆しとし、史臣は漢の興隆の符瑞と見なした。高祖から平帝まで、十二人の君主がいた。
光武帝の父は済陽県令であった。済陽には武帝の行宮があり、普段は閉鎖されていた。哀帝の建平元年十二月甲子の夜、光武帝が生まれようとした時、その行宮が開かれ、そこに住むことになった。その時、赤い光があり、部屋中が明るくなったので、父は不思議に思った。占い師の王長に占わせたところ、王長は左右を退けて言った。「これは良いことですが、口に出すことはできません。」この年、嘉禾(めでたい稲)が屋根の上に生え、一本の茎に九つの穂がつき、普通の稲とは異なっていた。県内は大豊作となり、それゆえ光武帝を秀と名付けた。その時、また鳳凰が済陽に集まったので、宮殿に鳳凰の絵を描いた。翌年、方士の夏賀良という者が哀帝に上奏して言った。「漢王朝の運命は中衰しており、再び天命を受けるべき時です。」そこで年号を太初元将元年と改め、陳聖劉太平皇帝と称して災いを鎮めようとした。王莽の時代、気を望むのが得意な蘇伯阿が光武帝の住む県の舂陵城の城郭を望見し、感嘆して言った。「気が素晴らしい! 鬱々と茂っている。」王莽は漢を憎み忌み、また銭の文字に「金」が含まれているのを嫌い、貨泉を鋳造してそれと交換した。その後、光武帝が舂陵の白水郷で挙兵すると、貨泉の文字は「白水真人」となった。挙兵した初め、家の南に火光が見えたので、人が松明を持っていると思い、呼びかけると光はますます盛んになり、さっと天に届き、しばらくして見えなくなった。河北にいた時、王郎に追い詰められ、南の滹沱河を渡ろうとした。先導の役人が戻って来て言った。「川は流氷が流れており、渡る船がありません。」左右の者たちは皆恐れた。帝はさらに王霸を行かせて様子を見させた。王霸が行って見ると、役人の言う通りだった。王霸は、もし本当のことを報告すれば人々の心が動揺すると考え、嘘をついて言った。「氷は堅くて渡れます。」帝は急いで進んだ。到着すると、川の氷は全て結びつき、その堅さは乗ることができるほどだった。渡り終えた後、残りの数台の車が渡り終えないうちに氷が陥没した。前に進んで下博城の西に至り、どちらへ行くべきか迷った。道端に白衣の老人がいて言った。「頑張れ! 信都は長安を守る城であり、ここから八十里しか離れていない。」言い終えると、その場から消えた。そこで信都に至り、 太守 の任光を頼った。初め光武帝が微賤の頃、穣県の蔡少公が言った。「讖言に『劉秀が兵を起こして無道を捕らえ、卯金(劉)が徳を修めて天子となる』とある。」国師公の劉子駿の名は秀であった。少公は言った。「国師公のことです。」光武帝は笑って言った。「どうして私ではないとわかるのか?」道士の西門君惠らも皆、「劉秀が天子となるだろう」と言った。光武帝が河北を平定し、中山に戻った時、将軍の万脩が赤伏符を得て、光武帝が天命を受けるべきだと記されていた。群臣が尊号を奉上したが、光武帝は辞退した。前に進んで鄗県に至ると、諸生の彊華がまた長安から鄗に来て、赤伏符を奉り、その文は万脩のものと一致した。臣下たちはまた請願して言った。「天命を受ける符瑞は、人が大いなる者であるべきです。」光武帝はまた赤い龍に乗って天に登る夢を見たので、即位し、洛陽を都とし、宮殿を営んだ。ある夜、門の材木がひとりでにやって来た。その時、琅邪の開陽県の城門が一夜にして理由もなく失われ、やって来た材木を調べると、まさにそれであった。そこでその門を開陽門と名付けた。以前、秦の穆公の時代、陳倉の人が地を掘って物を得た。羊のようで羊ではなく、豚のようで豚でもない奇怪なもので、献上しようとした。道で二人の童子に出会い、彼らは言った。「あなたはあれを知っていますか、名を𱮋といい、常に地下で死人の脳を食べます。もし殺したいなら、柏の東南の枝で指さすと死にます。」𱮋は言った。「この二人の童子は、名を宝といいます。その雄を得る者は王となり、雌を得る者は覇者となります。」そこで陳倉の人は𱮋を捨てて二人の童子を追いかけた。二人の童子は雉に化けて林に飛び込んだ。陳倉の人が穆公に報告すると、穆公は大勢を動員して大規模な狩りを行い、その雌を得た。雌は石に化け、それを汧水と渭水の間に置いた。文公の時代に至り、それに祠を建て、名を陳宝祠とした。雄は南に飛んで南陽の穣県に集まった。その後、光武帝が南陽で興隆した。光武帝が興隆し始めた時、隗囂は隴右に兵を擁し、英俊を招集し、一方で公孫述は蜀で帝を称し、天下は雲のように乱れ、大きい者は州郡を連ね、小さい者は県邑を占拠した。隗囂は扶風の班彪に尋ねた。「昔、周が滅び、戦国が争い、天下が分裂し、数世代後にようやく定まった。合従連衡の事が、今また起こるのでしょうか? それとも天命を受け継いで次々と興り、一人の者に帰するのでしょうか? 先生の論を聞きたい。」班彪は答えた。「周の廃興と漢とは異なります。昔、周は五等の爵を立て、諸侯が政治を行い、本根が既に弱く、枝葉が強大になったので、その末流に合従連衡の事があったのは、その勢いによるものです。漢王朝は秦の制度を受け継ぎ、郡県で民を治め、君主には専断の威があり、臣下には百年続く権柄はありません。成帝に至っては、外戚を頼り、哀帝・平帝は在位が短く、国の継承が三度絶え、禍は上から起こり、下まで傷つくことはありませんでした。故に王氏の貴さは朝廷を傾け専断し、号位を窃取することができましたが、民に根ざしていなかったので、真の天子となった後、天下の誰もが首を長くして嘆きました。十数年の間、内外が騒擾し、遠近で一斉に蜂起し、偽の称号が雲のように集まり、皆劉氏を称し、謀らずして同じ言葉を口にしました。今、州域を帯びる雄傑は皆、七国のような世襲の基盤を持っていません。詩に云う:『皇なるかな上帝、下を臨みて赫々たり。四方を鑒観し、民の瘼(苦しみ)を求む。』今、民は皆漢を謳吟し、劉氏を慕い仰いでいることは、既に知ることができます。」隗囂は言った。「先生が周と漢の勢いについて言うのは結構です。しかし、ただ愚民が劉氏の姓と号に慣れ親しんでいるからという理由で、漢が復興するというのは、粗雑です。昔、秦がその鹿(天下)を失い、劉季(劉邦)がそれを追って捕らえた時、民はまた漢を知っていたでしょうか?」班彪は隗囂の言葉に感じ入るとともに、狂った狡悪な者が止まないことを憂い、『王命論』を著して時の難を救おうとした。その文は以下の通りである:
隗囂は受け入れず、果たして敗れた。
漢の元帝・成帝の時代、道士が言った。「讖に云う:『赤い厄が三七。』三七は二百十年で、外戚の 簒奪 がある。帝位の極みは三六で、龍の飛ぶような秀(優れた人物)が現れ、祖宗を興復するだろう。」そして王莽が漢を 簒奪 した時、漢は二百十年であった。王莽は十八年で敗れ、光武帝が興った。
明帝は生まれた時、頤が豊かで額が尖り、赤い顔色は堯に似ており、ついに帝位に登った。
和帝の鄧皇后の祖父の鄧禹は、光武帝を補佐し、常に言った。「私は百万人を率いたが、一人も妄りに殺したことはない。子孫は必ず大いに興るだろう。」后が幼い時、相見師の蘇文が后を見て驚き言った。「これは成湯の骨法であり、貴くて言葉にできません。」后はかつて梯子を登り、手で天を撫でる夢を見た。天の体は広々として青く滑らかで、鍾乳石のようなものがあり、后は仰向けになってそれを吸った。占夢師に訊ねた。占夢師は言った。「堯は天に登る夢を見、湯は天に届いてそれを舐める夢を見ました。これらは皆、尋常な夢ではありません。」その後、宮中に入り、ついに尊位に登った。
安帝がまだ帝位に即く前、邸宅にいた時、神の光や赤い蛇などの吉兆が幾度もあり、室内を照らし、殿屋や寝台の間をうねうねと這い回り、後に帝位を継承することになった。
初めに桓帝の世に、黄星が楚と宋の分界に現れた。遼東の殷馗が言った。「後五十年、真人が譙と沛の間から起こり、その勢いは阻むことができないだろう。」霊帝の熹平五年、黄龍が譙に現れた。光禄大夫の橋玄が太史令の単颺に尋ねた。「これは何の兆しか?」颺は答えた。「その国には後に王者が興るでしょう。五十年を待たず、また現れるはずです。天事は常に象を示すもので、これがその徴です。」内黄の殷登はこれを黙って記憶した。その後、曹操が譙から起こり、これが魏の武帝である。建安五年、黄星が現れた時、ちょうど五十年であった。そして武帝は袁紹を破り、天下に敵なしとなった。
春秋讖に言う。「漢に代わる者は、当塗高なり。」漢に周舒という者がおり、内学に詳しかった。ある人が尋ねると、舒は言った。「当塗高とは、魏である。」舒が没した後、譙周がまた術士の杜瓊に尋ねた。「周徴君は当塗高を魏とされました。その意味はどこにあるのでしょうか?」瓊は言った。「魏とは、闕の名である。道に面して高くそびえる。聖人は類をもって言うのです。」また周に尋ねた。「まだ何か怪しいことがあるのか?」周は言った。「理解できません。」瓊は言った。「古くは官職の名に曹と言わなかったが、漢以来、官の名はみな曹と言い、吏は属曹と言い、卒は侍曹と言う。これはおそらく天意であろう。」周は言った。「魏とは、大きいことである。曹とは、多いことである。多くてしかも大きい、天下の帰するところであろう。」建安十八年、武帝は公となり、さらに爵を進めて王となった。二十五年、武帝が崩御し、太子の丕が嗣いで魏王となり、これが文帝である。文帝が生まれた時、青色の雲があり、車蓋のように丸く、その上に終日かかっていた。望気者はこれを至貴の祥とし、人臣の気ではないとした。善相の高元呂は言った。「その貴さは言葉にできない。」延康元年三月、黄龍がまた譙に現れ、殷登はまだ存命で、嘆いて言った。「黄龍が熹平に現れた時、単颺は『五十年を待たず、また現れる』と言った。今は四十五年である。颺の言葉はこれで実証されたのだろうか。」四月、饒安で白虎が現れたと報告された。八月、石邑で鳳凰が集まったと報告され、また麒麟が現れた。十月、漢帝は魏に禅位した。魏王は辞譲して受けなかった。博士の蘇林と董巴が上言した。「臣は聞く、天の去就には固有の定めがあり、聖人がこれに当たれば、明らかに疑うことはない。故に堯は骨肉を捨てて有虞に禅り、終に惜しむ色がなかった。舜は壟畝から起こって天下に居り、あたかも固有のもののようであった。その相授ける間は、漏刻を計らず、天下はすでに伝わっていた。天命を急ぐ所以は、天下が一日も君なしではいられないことを明らかにするためである。今、漢の期運はすでに終わり、妖異がこれを絶ったことはすでに明らかである。陛下は天の命を受け、符瑞が兆しを告げ、丁寧に詳しく、反復して備わっている。たとえ言葉で互いに諭しても、これに代えるものはない。今すでに 詔 書を発し、 璽綬 はまだ用いられていないが、固く謙譲を執り、上は天命を考へ、下は民情に背いている。臣は謹んで古の典籍を按じ、図緯を参照するに、魏の行運及び天道の所在、すなわち尊ばれる証拠は、今年この月にあり、明らかにはっきりしている。謹んで条奏を左に記す。ただ陛下には思いを遷し慮りを易え、時に応じて即位し、顕かに上帝に告げ、天下に 詔 を布かれることを願う。そしてその後、正朔を改め、服色を易え、大号を正せば、天下は幸いである。」その陳べた事柄は次の通りである。
魏の氏族は、顓頊から出て、舜と同祖であり、春秋世家に見える。舜は土徳をもって堯の火徳を承けた。今、魏もまた土徳をもって漢の火徳を承ける。その行運は堯と舜の授受の次第に合致する。魏王はなお許さなかった。太史丞の許芝がまた天文の祥瑞を上奏した。
こうして魏王は漢の禅を受け、繁陽で柴祭を行った。黄鳥が丹書を銜えて尚書台に集まった。そこで元号を黄初と改めた。漢の中平二年、洛陽の民に虎賁寺に黄人がいるとの噂が立ち、見物人は日に数万に及び、道路は遮断された。中平元年、黄巾の賊が起こり、「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」と言った。これは魏氏が劉向に依って自ら土徳の符であると云うものである。先に周敬王の四十七年、宋の景公が大夫の邢史子臣に尋ねた。「天道にはどんな兆しがあるか?」答えて言った。「後五年の五月丁亥、臣は死ぬでしょう。死んでから五年後の五月丁卯、呉は滅びるでしょう。滅びてから五年後、君は終わるでしょう。終わってから四百年後、邾が天下を王とするでしょう。」皆その言う通りになった。邾が天下を王とするとは、魏国の後を指すのであろう。四百年と言うのは誤りである。年代が久遠で、伝える者が誤ったのであろう。
高貴郷公が生まれた時、光気が室屋を照らし輝いた。その後、大位に即いた。
劉備は身長七尺七寸で、手を垂らすと膝を過ぎ、振り返れば自分の耳が見えた。洛書甄燿度に言う。「赤三日、徳は昌えて九世、備に会い、合わせて帝の際となる。」洛書宝予命に言う。「天は帝道を度し備は皇と称し、以て契を統握し、百成して敗れず。」洛書録運期に言う。「九侯七傑が民命を争い、骸を炊き道路に散らし、誰が主たらしめるか玄且来たる。」備の字は玄徳であるから、「玄且来」と言うのである。孝経鉤命決に言う。「帝三たび建ち、九たび備に会う。」先に、術士の周羣が言うには、西南にしばしば黄気があり、直立して数丈に及び、このように積年し、毎に景雲祥風があり、璿璣から下りてこれに応じた。建安二十二年中、しばしば気が旗のようで、西から東の果てまで、中天を行った。図書に言う。「必ず天子その方より出づ。」太白、熒惑、鎮星が歳星に従い、また黄龍が犍為武陽の赤水に現れ、九日して去った。関羽が襄陽にいた時、男子の張嘉と王休が玉璽を献じた。備は後に蜀で帝を称した。
孫堅の祖父の名は鍾といい、家は呉郡富春にあり、母と二人で暮らしていた。性質は非常に孝行であった。凶作の年に遭い、瓜を植えて生計を立てていた。ある日、突然三人の若者が鍾を訪ねて瓜を乞うたので、鍾は手厚くもてなした。三人は鍾に言った。「この山の下は良い土地で、墓を作り、葬れば、天子が出るだろう。あなたは山を下りて百歩ほど行き、振り返って私たちが去るのを見たら、すぐに葬るがよい。」鍾は三十歩行ったところで、すぐに振り返ると、三人が並んで白鶴に乗って飛び去るのが見えた。鍾が死ぬと、その地に葬られた。その地は県城の東にあり、墓の上にはしばしば怪しい光が現れ、五色の雲気が天に届き、数里に広がった。古老たちは互いに言った。「これは普通の気ではない。孫氏が興るであろう。」と。堅の母が堅を妊娠したとき、腸が出て呉の昌門を巡る夢を見た。隣の母に告げると、隣の母は言った。「どうして吉祥でないと言えようか。」昌門は、呉の外郭の門である。堅は生まれつき容貌が奇異であった。堅の妻呉氏が最初に子の策を妊娠したとき、月が懐に入る夢を見た。後に権を妊娠したとき、また日が懐に入る夢を見た。堅に告げて言った。「以前策を妊娠したとき、月が懐に入る夢を見たが、今また日が懐に入る夢を見た。これはどういうことか。」堅は言った。「日月は陰陽の精であり、極めて貴い象徴である。我が子孫は興るであろう。」権は頤が四角く口が大きく、髭は紫色で、上半身が長く下半身が短かった。漢の時代に劉琬という人がいて、人相を見ることができ、権兄弟を見て言った。「孫氏の兄弟は、それぞれ才智明達ではあるが、禄と寿命は終わりまで続かない。ただ中弟の孝廉(権)だけは、形貌が奇偉で、骨格が普通でなく、大貴の相があり、年も最も長寿である。よく覚えておけ。」権は当時孝廉であった。初め、秦の始皇帝が東巡し、長江を渡った。気を見る者が言うには、「五百年後、江東に天子の気が呉から出て、金陵の地には王者の勢いがある。」そこで秦の始皇帝は金陵を秣陵と改称し、北山を掘ってその勢いを断った。呉に至っては、また囚人十余万人に命じてその地を掘り汚し、悪い名で表したので、囚巻県と言い、今の嘉興県である。漢の時代の術士が言うには、「黄旗紫蓋が斗・牛の間に現れ、江東に天子の気がある。」献帝の興平年間、呉中に謡言があった。「黄金の車、斑闌の耳。昌門を開け、天子が出る。」と。魏の文帝の黄初三年、夏口と武昌でともに黄龍と鳳凰が現れたと言われた。その年、権は尊号を称した。年七十一で崩じた。権の子の休は初め琅邪王に封ぜられ、龍に乗って天に昇る夢を見たが、振り返っても尾が見えなかった。後に大位を得たが、その子は廃された。