巻24

宋書

志第十四 天文二

晋の恵帝元康二年(292年)二月、天の西北が大きく裂けた。劉向の説によると、「天が裂けるのは陽が不足しているためであり、地が動くのは陰が過剰なためである」という。この時、君主は拱手して黙しており、皇后が専制を行っていた。

元康三年(293年)四月、火星が太微垣を守る(留まる)こと六十日。占いでは「諸侯や三公が主上を謀り、必ず斬られる臣下がいる」という。また「天子が国を失う」ともいう。この春、金星が畢宿を守り、ここに至るまで百余日続いた。占いでは「急な命令に関する憂いがある」という。また「宰相が亡くなる。また辺境が不安定になる」ともいう。この年、土星、木星、金星の三つの星が畢宿と昴宿に集まった。占いでは「兵乱と喪(死)の事がある。畢宿と昴宿は趙の地である」という。後に賈后が太子を陥れて殺し、趙王( 司馬倫 しばりん )が皇后を廃し、さらに彼女を殺し、張華と裴 頠 を斬り、ついに帝位を 簒奪 さんだつ し、恵帝を太上皇に廃した。天下はこれより乱に遭い、禍が連なった。

元康五年(295年)四月、奎宿に彗星が現れ、軒轅、太微垣を通り、三台星、大陵星を経た。占いでは「奎宿は魯を表し、また武器庫を表す。軒轅は後宮を表す。太微垣は天子の朝廷を表す。三台星は三司(三公)を表す。大陵には積屍(死体の山)があり、死喪の事がある」という。翌年、武器庫が火災に遭い、西 きょう が反乱した。さらに五年後、 司空 しくう の張華が禍に遭い、賈后は廃されて死に、魯公の賈謐が誅殺された。また翌年、趙王 司馬倫 しばりん が帝位を 簒奪 さんだつ した。ここにおいて三王(斉王・成都王・河間王)が兵を起こして 司馬倫 しばりん を討ち、兵士と民衆の戦死者は十余万人に及んだ。

元康六年(296年)六月丙午の夜、枉矢(流星の一種)が北斗の魁から東南へ流れた。占いによると「乱をもって乱を伐つ。北斗は殺戮を司り、魁から出るのは、中央で殺戮を司る者が正しくないことを象徴する」という。十月、金星が昼間に現れた。後に趙王が張華と裴頠を殺し、賈后を廃し、太子の冤罪を理めることを名目に、自ら 簒奪 さんだつ し、ついには屠滅された。乱をもって乱を伐つこと、兵乱と喪(死)があり臣下が強くなるという応である。

元康九年(299年)二月、火星が心宿を守る(留まる)。占いでは「王者がこれを憎む」という。八月、火星が羽林に入る。占いでは「禁兵が大いに起こる」という。後二年、恵帝は廃されて太上皇となり、まもなく三王が兵を起こして 司馬倫 しばりん を討ち、 司馬倫 しばりん は中軍の兵をすべて派遣して、数ヶ月にわたり対峙した。

晋の恵帝永康元年(300年)三月、妖星が南方に現れ、中台星が裂け、金星が昼間に現れた。占いでは「妖星が出ると、天下に大兵が起こる。台星が常を失うと、三公に憂いがある。金星が昼間に現れるのは臣下が臣下の道を尽くさないこと」という。この月、賈后が太子を殺し、趙王 司馬倫 しばりん がまもなく賈后と 司空 しくう の張華を廃して殺し、さらに帝を廃して自ら即位した。ここにおいて三王がともに起こり、次々と大権を総べた。

永康元年(300年)五月、火星が南斗に入る。占いでは「宰相が死に、兵が大いに起こる。斗はまた呉の分野である」という。この時、趙王 司馬倫 しばりん が宰相であった。翌年、帝位を 簒奪 さんだつ し、三王が軍を起こして彼を誅殺した。太安二年(303年)、石冰が揚州を破った。

永康元年(300年)八月、火星が箕宿に入る。占いでは「人主が位を失い、兵が起こる」という。十二月、彗星が牽牛星の西から出て、天市垣を指した。占いでは「牛宿は七政(日月五星)の始まりであり、彗星が出るのは、元号を改め称号を変える象徴である」という。天市垣は一名を天府といい、一名を天子禖といい、帝座がその中にある。翌年、趙王が帝位を 簒奪 さんだつ し、元号を改めたが、まもなく大兵によって滅ぼされた。

永康二年(301年)二月、金星が西方に出て、逆行して東井に入る。占いでは「国が政を失い、臣下が乱を起こす」という。四月、彗星が斉の分野に現れる。占いでは「斉に兵乱と喪(死)がある」という。この時、斉王司馬冏が兵を起こして趙王 司馬倫 しばりん を討った。 司馬倫 しばりん が滅びると、司馬冏は兵を擁して朝参せず、権力を専断し贅沢にふけり、翌年に誅殺された。

晋の恵帝永寧元年(301年)、正月から閏月にかけて、五つの惑星が互いに天を経(横切)った。星伝によると「太陽は陽であり、君の道である。星は陰であり、臣の道である。日が出れば星は消え、臣下が専断することはできない。昼間に星が午(南中)の上に見えることを経天といい、その占いは臣下が臣下の道を尽くさず、王が変わることである。今、五つの惑星すべてが天を経たのは、天変でかつてなかったことである」という。石氏の説によると「辰星(水星)が昼間に現れると、その国が滅びなければ、大乱が起こる」という。この後、三公や方伯(地方長官)が互いに大権を握り、二帝(恵帝・懐帝)が流亡し、ついに六夷(諸異民族)が強盛となり、次々と華夏を占拠した。これもまた史書に記されたことのないことである。

永寧元年(301年)五月、金星が昼間に現れる。占いは前条と同じ。七月、木星が虚宿と危宿を守る(留まる)。占いでは「木星が虚宿と危宿を守ると、兵乱の憂いがある」という。また「虚宿を守ると飢饉、危宿を守ると徭役が煩わしく、下民が疲弊する」ともいう。水星が太微垣に入る。占いでは「内乱がある」という。また「群臣が互いに殺し合う」ともいう。金星が右掖門を守る。占いでは「兵乱、反乱、賊害がある」という。八月戊午、土星が左執法星を犯し、さらに上相星を犯した。占いでは「上相に憂いがある」という。火星が昴宿を守る。占いでは「趙、魏に災いがある」という。水星が輿鬼(鬼宿)を守る。占いでは「秦に災いがある」という。九月丁未、月が左角星を犯す。占いでは「人主に憂いがある」という。また「左将軍が死に、天下に兵乱がある」ともいう。

二年(302年)四月癸酉、木星が昼間に現れる。占いでは「臣下が強くなる」という。十月、火星と金星が虚宿と危宿で鬭う(接近・衝突するように見える)。占いでは「大兵が起こり、軍は破れ将は殺される。虚宿と危宿はまた斉の分野である」という。十二月、火星が営室(室宿)で金星を襲う(接近する)。占いでは「天下に兵乱が起こり、君主が失われる戒め」という。また「宰相が変わる」ともいう。初め、斉王司馬冏が京都を平定し、そのまま留まって政務を補佐したが、ついに傲慢で君主をないがしろにした。この月、成都王(司馬穎)と河間王( 司馬顒 しばぎょう )が檄を飛ばして長沙王司馬乂に司馬冏を討たせた。司馬冏と司馬乂が交戦し、宮殿を攻めて焼いた。司馬冏の兵は敗れて滅ぼされ、またその兄の上軍将軍司馬寔以下二十余人が殺された。太安二年(303年)、成都王が長沙王を攻め、ここにおいて公も私も飢え困窮し、百姓の力は尽きた。

晋の恵帝太安二年(303年)二月、金星が昴宿に入る。占いでは「天下が乱れ、兵が大いに起こる」という。三月、彗星が東方に現れ、三台星を指す。占いでは「兵乱と喪(死)の象徴。三台星は三公を表す」という。七月、火星が東井に入る。占いでは「兵が起こり国が乱れる」という。この秋、金星が太微垣の上将星を守る(留まる)。占いでは「上将が兵によって亡くなる」という。この年冬、成都王と河間王が洛陽を攻めた。三年(304年)正月、東海王 司馬越 しばえつ が長沙王司馬乂を捕らえ、張方がさらに彼を殺した。

太安二年(303年)八月、長沙王が帝を奉じて二王に対抗するために出陣し、庚午の日に玄武館に宿営した。この日、天が真っ二つに裂け、雷のような音がした。三つの占いが元康年間と同じ結果を示し、臣下が専横し僭越する兆しである。この時、長沙王が権力を専断し、後に成都王、河間王、東海王が次々に威命を専らにしたのが、その応じた事象である。

太安二年(303年)十一月辛巳、星が昼間に中天から墜ち、北の下で雷のような音がした。占いを調べると、「名を営首といい、営首の所在する所では、下に大兵が起こり流血がある」とある。翌年、劉淵と 石勒 せきろく へい 州を攻略し、多くを殺戮し滅ぼした。王浚が燕・代の地で挙兵し、鮮卑を引き連れて鄴中を攻め略奪し、民衆は塗炭の苦しみを味わった。雷のような音は、怒りの象徴である。

太安二年(303年)十一月庚辰、歳星が月の中に入った。占いでは「国に宰相を追放する者あり」という。十二月壬寅、太白が月を犯した。占いでは「天下に兵乱あり」という。太安三年(304年)正月己卯、月が太白を犯した。占いは青龍年間のものと同じ。熒惑が南斗に入った。占いは永康年間のものと同じ。この月、熒惑がまた歳星を犯した。占いでは「大戦あり」という。七月、左衛将軍陳眕が兵を率いて帝を奉じて成都王を討伐したが、六軍は大敗し、兵が帝の乗輿に迫った。九月、王浚がまた鄴において成都王を攻撃し、鄴は陥落し、成都王はこれによって滅亡した。帝は洛陽に戻ったが、張方に脅迫されて長安へ行った。この時、天下に盗賊が群れをなして起こり、張昌が特に勢い盛んであった。後二年、恵帝が崩御した。

晋の恵帝永興元年(304年)五月、客星が畢を守った。占いでは「天子に後継ぎが絶える」、あるいは「大臣に誅殺される者あり」という。七月庚申、太白が角・亢を犯し、房・心を経由し、尾・箕を過ぎた。九月、南斗に入った。占いでは「角を犯せば、天下に大戦あり。亢を犯せば、大兵あり、人君に憂いあり。房・心に入れば、兵乱と喪失あり。尾を犯せば、将軍と民衆が変乱を起こす。箕を犯せば、女主に憂いあり」という。あるいは「天下乱る。南斗に入れば、兵乱と喪失あり」、あるいは「将軍が乱を起こす」という。その犯守した星宿は、また兗州・ 州・幽州・冀州・揚州の分野である。この年七月、蕩陰の戦役があった。九月、王浚が幽州 刺史 しし 和演を殺し、鄴を攻撃し、鄴は陥落した。ここにおいて兗州・ 州は天下の兵乱の要衝となった。陳敏がまた揚州の地で乱を起こし、劉淵・ 石勒 せきろく 李雄 りゆう らがともに微賤の身から起こり、州郡を跨いで領有した。皇后羊氏はたびたび幽閉・廃位された。 光熙 こうき 元年(306年)、恵帝が崩御し、ついに後継ぎはなかった。

永興元年(304年)七月乙丑、星が墜ちて音がした。二年(305年)十月、星がまた墜ちて音がした。劉向の説によれば、民がその土地を離れる兆しである。この後、ついに中原を失った。

永興元年(304年)十二月壬寅の夜、赤い気が天を横切り、ごうごうと音がした。二年(305年)十月丁丑、赤い気が北方に現れ、東西に天いっぱいに広がった。占いでは「ともに大兵の兆し。ごうごうと音がするのは、怒りの象徴である」という。この後、四海は雲のように乱れ、九服は互いに戦った。

永興二年(305年)四月丙子、太白が狼星を犯した。占いでは「大兵起こる」という。九月、歳星が東井を守った。占いでは「兵乱あり。井宿はまた秦の分野である」という。この年、苟 晞 が公師藩を破り、張方が范陽王司馬虓を破り、関西の諸将が河間王 司馬顒 しばぎょう を攻撃し、 司馬顒 しばぎょう は逃走し、東海王 司馬越 しばえつ が迎え撃ってこれを殺した。

永興二年(305年)八月、星が昴・畢に彗星として現れた。占いでは「兵乱と喪失の兆し」という。昴・畢はまた趙・魏の分野である。十月丁丑、星が北斗に彗星として現れた。占いでは「璿璣(北斗)が改めて授けられる、天子出走す」、また「強国が兵を起こし、諸侯が権力を争う」という。この後、すべてその兆しに応じた事象があった。翌年、恵帝が崩御した。

晋の恵帝 光熙 こうき 元年(306年)四月、太白が軌道を外れ、翼から尾・箕に入った。占いでは「太白が軌道を外れて北へ行く、これを返生という。破軍なきことなく、必ず屠城あり」という。五月、 汲桑 きゅうそう が鄴を攻め、魏郡 太守 馮嵩が出戦して大敗し、 汲桑 きゅうそう はついに東燕王 司馬騰 しばとう を害し、一万余人を殺し、魏の時代の宮殿をことごとく焼き尽くした。

光熙 こうき 元年(306年)五月、枉矢が西南から流れた。占いでは「乱をもって乱を伐つ象徴である」という。この時、 司馬越 しばえつ が西進して河間王を破り、大駕(帝)を奉迎した。まもなく繆胤・何綏らを捕らえ、君主をないがしろにする心をほしいままにし、天下から憎まれた。死後、 石勒 せきろく がその屍柩を焼いたのは、この兆しに応じたものである。

光熙 こうき 元年(306年)九月丁未、熒惑が心宿を守った。占いでは「王者これを悪む」という。己亥、填星が房・心を守り、また歳星を犯した。占いでは「土星が房を守れば、禍いと喪失が多い。心を守れば、国内乱れ、天下に赦しあり」、また「填星と歳星が合うと内乱となる」という。この時、 司馬越 しばえつ が権力を握り、ついに無礼によって滅びたのは、内乱の兆しに応じたものである。十一月、恵帝が崩御し、懐帝が即位し、天下に大赦を行った。

光熙 こうき 元年(306年)十二月癸未、太白が填星を犯した。占いでは「内兵あり、大戦あり」という。この後、河間王が東海王 司馬越 しばえつ に殺された。翌年(永嘉元年)正月、東海王 司馬越 しばえつ が諸葛玫らを殺した。五月、 汲桑 きゅうそう が馮嵩を破り、東燕王を殺した。八月、 苟晞 こうき 汲桑 きゅうそう を大破した。

光熙 こうき 元年(306年)十二月甲申、虹のような白気が、中天から北へ下りて地に至り、夜間に五日間現れて消えた。占いでは「大兵起こる」という。翌年、王弥が青州・徐州で挙兵し、 汲桑 きゅうそう が河北で乱を起こし、毒害が天下に広がった。

孝懐帝永嘉元年(307年)九月辛亥、大きな星が西南から東北へ流れ、小さな星が升ほどの大きさで従い、天が一面に赤くなり、雷のような音がした。占いでは「流星は貴い使者である」という。この年五月、 汲桑 きゅうそう が東燕王 司馬騰 しばとう を殺し、ついに河北を占拠した。十一月、初めて 和郁 わいく を征北将軍として鄴に鎮守させたが、田甄らが 汲桑 きゅうそう を大破し、楽陵で斬った。ここにおいて田甄を汲郡太守とし、弟の田蘭を鉅鹿太守とした。小さな星が従ったのは、小将や別帥の象徴である。 司馬越 しばえつ は魏郡以東、平原以南がすべて 汲桑 きゅうそう に与したことを憤り、すべて田甄らに褒賞として与えたため、ここにおいて赤地を侵略し、雷のような音は怒りの象徴である。

永嘉元年(307年)十二月丁亥、星が流れ、震えて散った。劉向の説によれば、「天官の列宿は在位者の象徴であり、名のない小さな星は庶民の類である。これは百官と庶民が流散する兆しである」という。この後、天下は大乱し、百官と万民は流離転死した。

永嘉二年(308年)正月庚午、太白星(金星)が隠れて見えなくなった。二月庚子、初めて朝方に東方で見えた。これは見えるべき時に見えないという現象で、占いは前条と同じである。その後、軍は破れ将は殺され、数え切れないほどであった。皇帝(懐帝)は敵地で崩御し、中原は陥落した。

永嘉三年(309年)正月庚子、熒惑星(火星)が紫微垣を犯した。占いでは「野で死ぬ王がいるだろう。また火事で宮殿が焼ける」という。この時、太史令の高堂沖が上奏して、天子の車駕は遷幸すべきであり、そうしなければ洛陽は必ず保たれないと述べた。五年(311年)六月、 劉曜 りゅうよう と王弥が京都に入り、宮廟を焼き、皇帝(懐帝)は平陽で崩御した。

永嘉三年(309年)、鎮星(土星)が長く南斗を守った。占いでは「鎮星が留まる所、その国に福あり」という。この時、安東将軍・琅邪王( 司馬睿 しばえい )が初めて揚州の地を有した。その年の十一月、地震があった。陳卓はこれが地動の応報であると考えた。

永嘉三年(309年)十二月乙亥、白い気が帯のようになって南北の方向からそれぞれ二本、地から天に立ち昇り、参宿と伐星を貫いた。占いでは「天下に大兵が起こる」という。四年(310年)三月、 司馬越 しばえつ が繆胤・ 繆播 びゅうは らを捕らえた。また三方で雲が乱れるように争いが起こり、攻撃と戦闘が止まなかった。五年(311年)三月、 司馬越 しばえつ は寧平城で死に、 石勒 せきろく がその軍勢を撃破し、死者は十余万人に及んだ。六月、京都は焼き滅ぼされ、皇帝は敵地に連れ去られた。

永嘉五年(311年)十月、熒惑星(火星)が心宿を守った。二年後、皇帝(懐帝)は敵地で崩御した。

永嘉六年(312年)七月、熒惑星(火星)、歳星(木星)、鎮星(土星)、太白星(金星)が牛宿と女宿の間に集まり、徘徊して進退した。占いによれば「牛宿は揚州の分野である」という。この後、両都(洛陽・長安)が傾覆したが、元帝が揚州の地で中興したのは、この応報である。

愍帝建武元年(317年)五月癸未、太白星(金星)と熒惑星(火星)が東井で合した。占いでは「金と火が合うことを爍といい、喪を意味する」という。この時、皇帝(愍帝)は平陽で脅迫されていたが、天下はまだ敢えてその虚位に居座ろうとはせず、災いは皇帝自身にあった。六月丁卯、太白星が太微垣を犯した。占いでは「兵が天子の廷に入り、王者これを悪む」という。七月、愍帝は敵地で崩御し、天下は喪に服し大いに哀悼した。

晋の元帝太興元年(318年)七月、太白星が南斗を犯した。占いでは「呉・越に兵乱あり、大人(君主)に憂いあり」という。二年(319年)二月甲申、熒惑星が東井を犯した。占いでは「兵乱起こり、貴臣互いに戮し合う」という。八月己卯、太白星が軒轅大星を犯した。占いでは「後宮に憂いあり」という。乙未、太白星が歳星を犯し、翼宿にあった。占いでは「兵乱となる」という。三年(320年)四月壬辰、枉矢(曲がった矢のような流星)が虚宿・危宿から出て、翼宿・軫宿に没した。占いでは「枉矢の触れる所、天下の伐たれる所。翼宿・軫宿は荊州の分野である」という。五月戊子、太白星が太微垣に入り、また上将星を犯した。占いでは「天子自ら将となり、上将誅せらる」という。六月丙辰、太白星と歳星が房宿で合した。占いでは「兵乱と飢饉となる」という。九月、太白星が南斗を犯した。占いは元年と同じ。十月己亥、熒惑星が東井にあり、五諸侯星の南に位置し、躊躇して留まり止まり、三十日間積もった。占いでは「熒惑が井宿を守ること二十日以上、大人に憂いあり。五諸侯を守れば、諸侯に誅せられる者あり」という。十二月己未、太白星が月に入り、斗宿にあった。郭景純(郭璞)は言った。「月は坎に属し、陰府の法象である。太白星の金行が来てこれを犯す。天意は言う、刑理が中を失い、自らその法を毀つ、と。」四年(321年)十二月丁亥、月が歳星を犯し、房宿にあった。占いでは「その国に兵乱と飢饉あり、民流亡す」という。永昌元年(322年)三月、王敦が江州・荊州の軍勢を率いて京都を攻め、六軍が防戦したが敗北した。ここにおいて護軍将軍の周顗と 尚書令 しょうしょれい の刁協を殺し、 驃騎 将軍の劉隗は出奔した。四月、また湘州 刺史 しし の譙王司馬承と鎮南将軍の甘卓を殺した。閏十二月、元帝が崩御した。一年の間を置いて、王敦もまた誅伐された。これは枉矢が翼宿を触れた応報である。十月、石他が 州に入り、城父・銍の二県の民を略奪して北へ去った。 刺史 しし の祖約が軍を派遣して追撃したが、その軍は殲滅され、ついに寿春に退いて守った。

明帝太寧三年(325年)正月、熒惑星が逆行して太微垣に入った。占いでは「兵乱と喪を意味し、王者これを悪む」という。閏八月、皇帝(明帝)が崩御した。咸和二年(327年)、蘇峻が反乱を起こし、宮室を攻めた。太后は憂慮と逼迫により崩御し、天子は 石頭 城で幽閉・脅迫され、遠近で兵乱が起こり、四年(329年)になってようやく収まった。

成帝咸和四年(329年)七月、西北に星の孛(彗星)が現れ、二十三日で消えた。占いでは「兵乱となる」という。十二月、郭默が江州 刺史 しし の劉胤を殺し、荊州 刺史 しし 陶侃 とうかん が郭默を討ち、翌年、これを斬った。この時、 石勒 せきろく もまた初めて帝号を僭称した。

咸和六年(331年)正月丙辰、月が南斗に入った。占いでは「兵乱あり」という。一説に「大赦あり」という。この月、胡賊が婁県・武進県の二県の民を殺害略奪した。ここにおいて中洲に戍兵を派遣した。翌年、胡賊がまた南沙・海虞の民を略奪した。この年正月、大赦があり、淮南を討伐し、襄陽を平定した。

咸和六年(331年)十一月、熒惑星が胃宿・昴宿を守った。占いでは「趙・魏に兵乱あり」という。八年(333年)七月、 石勒 せきろく が死に、石虎が自立し、多くを残滅させた。この時、 石勒 せきろく ・石虎が帝号を僭称していたが、その強弱は常に昴宿によって占われ、太微垣や紫宮には関係しなかった。

咸和八年(333年)三月己巳、月が南斗に入った。六年の占いと同じである。その年の七月、 石勒 せきろく が死んだ。彭彪は譙を、石生は長安を、郭権は秦州をそれぞれ拠点として帰順した。ここにおいて督護の高球に軍勢を率いさせて彭彪を救援させたが、彭彪は敗れ高球は退いた。また石虎と石斌が石生と郭権を攻め滅ぼした。咸康元年(335年)正月、大赦があった。

咸和八年(333年)七月、熒惑星が昴宿に入った。占いでは「胡の王死す」という。石虎は多くを攻め滅ぼした。八月、月が昴宿を犯した。占いでは「胡、安からず」という。九年(334年)六月、月がまた昴宿を犯した。この時、石弘は 石勒 せきろく の位を継いでいたが、石虎が威権を擅にして暴虐横暴であった。十月、石弘を廃して自立し、ついに彼を幽閉して殺害した。

咸和九年(334年)三月己亥、熒惑星が輿鬼に入り、積屍星を犯した。占いでは「兵は西北にあり、軍は没し将は死す」という。四月、鎮西将軍・雍州 刺史 しし の郭権が初めて秦州を拠点として帰順したが、まもなく石斌に滅ぼされ、その民衆は青州・徐州に移された。

晋の成帝咸康元年二月己亥、太白が昴を犯した。占いでは「兵が起こり、歳は大いに旱る」という。四月、石虎の掠奪騎兵が歴陽に至った。朝廷はその軍勢を憂慮し、 司徒 しと 王導に大司馬を加え、兵を治め衆を動かした。また慈湖・牛渚・蕪湖の三つの戍を派遣した。五月になってようやく中止した。この時、胡賊がまた襄陽を包囲し、征西将軍庾亮が寧を派遣してこれを撃退させた。六月、旱魃があった。

咸康元年八月戊戌、熒惑が東井に入った。占いでは「兵なきときは兵起こり、兵あるときは兵止む」という。この年の夏、衆を発して戍を列ねた。王導に大司馬を加えたのは、胡賊に備えるためである。

咸康元年三月丙戌、月が昴に入った。占いでは「胡王死す」という。十一月、月が昴を犯した。二年八月、月がまた昴を犯した。占いは同じ。咸和三年、石虎が衆七万を発し、四年二月、自ら薊において段遼を襲い、遼は敗走した。また棘城において慕容皝を攻めたが、勝てずに引き退き、皝がこれを追撃し、数百人を殺した。虎はその将麻秋を留めて令支に屯させたが、皝が秋を破り、併せて遼を虜にして殺した。

咸康二年正月辛巳、彗星が夕方西方に見え、奎にあった。占いでは「兵喪のため。奎はまた辺兵なり」という。四年、石虎が慕容皝を討ったが勝てず、皝がこれを追撃し、また麻秋を破った。この時、皝は蕃臣を称していた。辺兵の応である。

咸康二年正月辛卯、月が房の南第二星を犯した。占いでは「将相に憂いあり」という。五年七月、丞相王導が薨じた。八月、 太尉 たいい 郗鑒が薨じた。六年正月、征西大将軍庾亮が薨じた。

咸康二年九月庚寅、太白が南斗を犯し、昼間に見えた。占いでは「斗は宰相、また揚州の分野、金がこれを犯せば死喪の象。昼間に見えるは不臣、また兵喪なり」という。三年、石虎が天王を僭称した。四年、虎は段遼を滅ぼしたが慕容皝に敗れた。皝は国の蕃臣である。五年、王導が薨じた。

咸康三年六月辛未、流星あり、大きさ二斗魁の如く、色青く、赤光が地を耀かし、奎の中より出で、婁の北に没した。占いを案ずると飢饉、五穀蔵されず。この月、大いに旱った。

咸康三年八月、熒惑が輿鬼に入り、積屍を犯した。占いでは「貴人憂う」という。三年八月甲戌、月が東井の距星を犯した。占いでは「国に憂いあり、将死す」という。三年九月戊子、月が建星を犯した。占いでは「相を易う」という。一説に「大将死す」という。五年、丞相王導が薨じ、庾氷が代わって政を輔けた。 太尉 たいい 郗鑒、征西大将軍庾亮が薨じた。

咸康三年十一月乙丑、太白が歳星を犯した。占いでは「兵飢あり」という。四年二月、石虎が幽州を破り、その民一万余家を移した。李寿が李期を殺した。五年、胡の衆五万が沔南を寇し、七千余家を略奪して去った。また騎兵二万が邾城を包囲陥落させ、五千余人を殺略した。

咸康四年四月己巳、太白が昼間に柳に見えた。占いでは「兵のため、不臣のため」という。七月 乙巳 いっし 、月が太白を掩蔽した。占いでは「王者地を亡うし、大兵起こる」という。翌年、胡賊が大いに沔南を寇し、邾城を陥落させ、 刺史 しし 毛宝、西陽太守樊峻は皆城を棄てて江に投じて死んだ。ここにおいて内外戒厳し、左衛桓監、匡術らの諸軍が武昌に至り、ようやく退いた。七年、慕容皝が自ら燕王と称した。

咸康四年五月戊午、熒惑が右執法を犯した。占いでは「大臣死す、執政者憂う」という。九月、太白が右執法を犯した。占いを案ずると「五星の災い同じ、金火は特に甚だし」という。十一月戊子、太白が房の上星を犯した。占いでは「上相憂う」という。五年七月己酉、月が房の上星を犯した。占いも同じ。この月庚申、丞相王導が薨じた。

咸康五年四月辛未、月が歳星を犯し、胃にあった。占いでは「国飢え民流る」という。乙未、月が畢の距星を犯した。占いでは「兵起こる」という。この夜、月がまた歳星を犯し、昴にあった。冬に至り、沔南・邾城の敗があり、百姓流亡すること一万余家。

咸康六年二月庚午朔、流星あり、大きさ斗の如く、光が地を耀かし、天市より出で、西行して太微に入った。占いでは「大人これに当たる」という。乙未、太白が月に入った。占いでは「人主死す」という。四月甲午、月が太白を犯した。占いでは「人主これを悪む」という。八年六月、成帝が崩御した。

咸康六年三月甲寅、熒惑が従行して太微の上将星を犯した。占いでは「上将憂う」という。四月丁丑、熒惑が右執法を犯した。占いでは「執法者憂う」という。六月乙亥、月が牽牛の中央星を犯した。占いでは「大将憂う」という。この時、 尚書令 しょうしょれい 何充が執法であり、譴責を避けようとして、翌年、中書令を求めた。建元二年、庾冰が薨じた。皆、大将が政を執る応である。この歳正月、征西将軍庾亮が薨じた。三月、熒惑が上将を犯した。九月、石虎の大将夔安が死んだ。庾冰は後年になってようやく薨じた。はたして庾冰が徳を修めて禍を夔安に移したのだろうか。

咸康六年四月丙午、太白が畢の距星を犯した。占いでは「兵革起こる」という。一説に「女主憂う」という。六月乙卯、太白が軒轅の大星を犯した。占いでは「女主憂う」という。七年三月、皇后杜氏が崩じた。

咸康七年三月壬午、月が房宿を犯した。占いでは「将相に憂いがある」という。八年六月、熒惑が房宿の上第二星を犯した。占いでは「次相に憂いがある」という。建元二年、車騎将軍・江州 刺史 しし の庾冰が 薨去 こうきょ した。この時、驃騎将軍の何充が内に居り、庾冰が次相であった。

咸康七年四月己丑、太白が輿鬼に入った。占いでは「兵革が起こる」という。五月、太白が昼間に現れた。日影の度合いから推測すると、秦・魏でなければ楚である。占いでは「臣下が強くなる、兵がある」という。八月辛丑、月が輿鬼を犯した。占いでは「人主に憂いがある」という。八年六月、成帝が崩御した。

咸康八年八月壬寅、月が畢宿の赤星を犯した。占いでは「下が上を犯し、兵革が起こる」という。十月、月が再び畢宿の赤星を掩蔽した。占いは同じ。己酉、太白が熒惑を犯した。占いでは「大兵が起こる」という。その後、庾翼が大いに兵を発動して胡を討伐しようと謀り、上流を専制し、朝廷はこれを恐れた。

康帝建元元年正月壬午、太白が昴宿に入った。占いでは「趙の地に兵がある」、また「天下に兵が起こる」という。四月乙酉、太白が昼間に現れた。八月丁未、太白が歳星を犯した。占いでは「大兵がある」という。この年、石虎がその太子の石邃とその妻子・徒属二百余人を殺した。また将軍の劉寧を派遣して狄道を陥落させ、また将軍の張挙に万余人を率いさせて薊東に駐屯させ、慕容皝を謀った。

建元元年十一月六日、彗星が亢宿に現れ、長さ七尺、尾は白色であった。占いでは「亢宿は朝廷を表し、兵喪を主る」という。二年九月、康帝が崩御した。

建元元年、歳星が天関を犯した。安西将軍の庾翼が兄の庾冰に手紙を送って言った。「歳星が天関を犯し、占いでは『関梁が渋滞する』と言う。近頃、江東には他に変事はなく、江の道も困難ではない。しかし石虎は頻繁に関を閉ざして通信使を通さない。これもまた天公が混乱して白黒を付けられない徴候である。」

建元二年閏月乙酉、太白が斗宿を犯した。占いでは「喪がある、天下が爵禄を受ける」という。九月、康帝が崩御し、太子が立ち、大赦を行い爵位を賜った。

晋穆帝永和元年正月丁丑、月が畢宿に入った。占いでは「兵が大いに起こる」という。戊寅、月が天関を犯した。占いでは「乱臣が天子の法を改める」という。五月辛巳、太白が昼間に現れ、東井にあった。占いでは「臣下が強くなる、秦に兵がある」という。六月辛丑、太微に入り、屏の西南を犯した。占いでは「輔臣に免職・罷免される者がある」という。七、八月、月はいずれも畢宿を犯した。占いは正月と同じ。己未、月が輿鬼を犯した。占いでは「大臣に誅殺される者がある」という。九月庚戌、月が再び畢宿を犯した。この年初め、庾翼は襄陽におり、七月、庾翼が病で危篤に陥ると、すぐに子の爰之を荊州 刺史 しし として、自分の任を代わらせたが、爰之はまもなく廃された。翌年、桓温もまた勝手に衆を率いて蜀を伐ち、李勢を捕らえ、京都に送った。蜀はもともと秦の地である。

永和二年二月壬子、月が房宿の上星を犯した。四月丙戌、月が再び房宿の上星を犯した。占いは前と同じ。八月壬申、太白が左執法を犯した。この年、 司徒 しと の蔡謨が廃された。

永和三年正月壬午、月が南斗第五星を犯した。占いでは「将軍が死に、近臣が去る」という。五月壬申、月が南斗第四星を犯し、ついで魁に入った。占いでは「兵がある」、一つには「大赦がある」という。六月、月が東井の距星を犯した。占いでは「将が死に、国に憂いがある」という。戊戌、月が五諸侯を犯した。占いでは「諸侯に誅殺される者がある」という。九月庚寅、太白が南斗第五星を犯した。占いでは「喪と兵がある」という。四年七月丙申、太白が左執法を犯した。甲寅、月が房宿を犯した。丁巳、月が南斗に入り第二星を犯した。乙丑、太白が左執法を犯した。占いはすべて上と同じ。十月甲戌、月が亢宿を犯した。占いでは「兵が起こり、軍の将が死ぬ」という。十一月戊戌、上将星を犯した。三年六月、大赦があった。この月、陳逵が寿春を征討したが敗れて帰還した。七月、 てい ・蜀の残党が益州の地で反乱を起こした。九月、石虎が涼州を討伐したが、勝てなかった。

永和四年四月、太白が昴宿に入った。五月、熒惑が婁宿に入り、鎮星を犯した。七月、太白が軒轅を犯した。占いは趙にあり、また兵喪、女主の憂いを示す。その年八月、石虎の太子の石宣が弟の石韜を殺し、石宣もまた死んだ。五年正月、石虎が皇帝を僭称し、まもなく病死した。この年、褚裒が北伐して衆を失い、またまもなく 薨去 こうきょ し、太后は喪服を着た。六年正月、朝会で音楽を廃した。

永和五年四月丁未、太白が東井を犯した。占いでは「秦に兵がある」という。九月戊戌、太白が左角を犯した。占いでは「兵がある」という。十月、月が昴宿を犯した。占いでは「朝廷に憂いがあり、軍の将が死ぬ」という。十一月乙卯、彗星が亢宿に現れ、芒は西に向かい、色は白く、長さ一丈であった。占いでは「兵喪がある」という。この年八月、褚裒の北征軍が敗れた。十月、関中の二十余りの砦が兵を挙げて帰順し、石遵が南陽を攻め落とした。十一月、冉閔が石遵を殺し、また胡人十余万人を皆殺しにし、これにより中原は大乱した。十二月、褚裒が 薨去 こうきょ した。八年、劉顕、苻健、慕容儁がともに僭号を称した。殷浩の北伐が敗れ、廃された。

永和六年二月辛酉、月が心大星を犯した。占いでは「大人に憂いがある。心宿は 州の分野である」という。丁丑、月が房宿を犯した。占いでは「将相に憂いがある」という。三月戊戌、熒惑が歳星を犯した。占いでは「戦いがある」という。六月己丑、月が昴宿を犯した。占いは上と同じ。乙未、月が五諸侯を犯した。占いは三年と同じ。七月壬寅、月が西方に現れ始め、左角を犯した。占いでは「大将軍が死ぬ」、一つには「天下に兵がある」という。丁未、月が箕宿を犯した。占いでは「軍の将が死ぬ」という。丙寅、熒惑が鉞星を犯した。占いでは「大臣に誅殺される者がある」という。八月辛卯、月が左角を犯し、太白が昼間に南斗に現れ、月が右執法を犯した。占いはすべて上と同じ。七年二月、太白が昴宿を犯した。占いは上と同じ。乙卯、熒惑が輿鬼に入り、積屍を犯した。占いでは「貴人に憂いがある」という。五月乙未、熒惑が軒轅大星を犯した。占いでは「女主に憂いがある」という。太白が畢口に入り、左股を犯した。占いでは「将相がこれに当たる」という。六月乙亥、月が箕宿を犯した。丙子、月が斗宿を犯した。丁丑、熒惑が太微に入り、右執法を犯した。八月庚午、太白が軒轅を犯した。戊子、太白が右執法を犯した。占いはすべて上と同じ。七年、劉顕が石祗と諸胡の将帥を殺し、中原は大乱し、戎・晋の十万の数がそれぞれ旧土に帰還し、互いに侵略し合い、疫病と死亡により、到達できた者は十のうち二、三であった。この年、桓温が勝手に大軍を率いて江を下り淮に入って北伐を求めたため、朝廷は震え恐れた。八年、 刺史 しし の謝尚が張遇を討伐したが、苻雄に敗れた。殷浩の北伐が敗れ、廃された。十年、桓温が苻健を討伐したが、勝てずに帰還した。

永和八年三月戊戌の日、月が軒轅大星を犯した。癸丑の日、月が南斗に入り第二星を犯した。五月、月が心星を犯した。四月癸酉の日、月が房宿を犯した。六月辛巳の日、日がまだ沈まないうちに、流星が三斗魁のようで、辰巳の方角から東南へ流れた。日影と度数から推測すると、箕宿と斗宿の間にあり、おそらく燕の分野である。占いによれば、これは営首を意味し、営首の下では血が滂沱と流れる。七月壬子の日、歳星が東井の距星を犯した。占いでは「内乱が起こり兵が起こる」という。八月戊戌の日、熒惑が輿鬼に入った。占いでは「忠臣が誅殺される」という。丙辰の日、太白が南斗に入り、第四星を犯した。占いでは「乱が起こる」、あるいは「丞相が免職になる」という。九年二月 乙巳 いっし の日、南斗に入り第三星を犯した。三月戊辰の日、月が房宿を犯した。八月、歳星が輿鬼の東南星を犯した。占いでは「東南星は兵を主り、兵が起こる」という。十二月、月が東井にあり、歳星を犯した。占いでは「秦が飢饉で民が流亡する」という。この時、皇帝は幼く、母后が制を称し、将相の間に隙があり、戦乱が相次いで起こった。慕容儁が大燕を僭称し、攻撃をやめず、そのため災異がたびたび現れ、殷浩は廃されたのである。

永和十年正月乙卯の日、月が昴宿を蝕んだ。占いでは「趙・魏に兵乱がある」という。癸酉の日、填星が鉞星を覆った。占いでは「斧鉞が用いられる」という。二月甲申の日、月が心大星を犯した。占いでは「王者がこれを憎む」という。四月癸未の日、流星が斗のようで大きく、色は赤黄、織女星から出て造父星に没し、雷のような音がした。占いでは「燕・斉に兵乱があり、民が流亡する」という。戊午の日、月が心大星を犯した。七月庚午の日、太白が昼間に現れた。日影と度数から推すと、災いは秦・鄭にある。九月辛酉の日、太白が左執法を犯した。十一月、月が填星を覆い、輿鬼にあった。占いでは「秦に兵乱がある」という。十一年三月辛亥の日、月が軒轅を覆った。占いは上記と同じ。四月庚寅の日、月が牛宿の南星を犯した。占いでは「国に憂いがある」という。八月己未の日、太白が天江を犯した。占いでは「河の渡しが通じない」という。十二年六月庚子の日、太白が昼間に現れ、東井にあった。占いは上記の通り。己未の日、月が鉞星を犯した。七月丁卯の日、太白が填星を犯し、柳宿にあった。占いでは「周の地に大兵乱がある」という。八月癸酉の日、月が建星を覆った。九月戊寅の日、熒惑が太微に入り、西蕃の上将星を犯した。十一月丁丑の日、熒惑が太微東蕃の上相を犯した。十年四月、桓温が苻健を討伐し、その嶢柳の諸軍を破った。健は長安に拠り、温は退いた。十二月、慕容恪が斉を攻めた。十二年八月、桓温が伊水で姚襄を破り、周の地を平定した。十一月、斉城が陥落し、段龕を捕らえ、三千余人を殺した。永和の末、鮮卑が河・冀を侵略し、升平元年、慕容儁はついに臨漳を占拠し、幽・ へい ・青・冀の地をことごとく有した。黄河沿いの諸将は次第に奔散し、黄河の渡しは隔絶した。三年、会稽王は郗曇・謝万の敗戦により、自ら三等を貶することを求めた。この時、権力は方伯にあり、九服で戦いが交わされたため、譴責の象がなおも現れたのである。

晋の穆帝、升平元年四月壬子の日、太白が輿鬼に入った。丁亥の日、月が東井の南轅西頭第二星を覆った。占いでは「秦の地に兵乱がある」、あるいは「将軍が死ぬ」という。六月戊戌の日、太白が昼間に現れ、軫宿にあった。占いは上記と同じ。軫は楚の分野である。壬子の日、月が畢宿を犯した。占いでは「辺境の兵乱」という。七月辛巳の日、熒惑が天江を犯した。占いでは「河の渡しが通じない」という。十一月、歳星が房宿を犯した。壬午の日、月が歳星を覆い、房宿にあった。占いでは「民が飢える」、あるいは「 州に災いがある」という。二年二月辛卯の日、填星が軒轅大星を犯した。甲午の日、月が東井を犯した。閏月乙亥の日、月が歳星を犯し、房宿にあった。占いはすべて上記と同じ。五月丁亥の日、彗星が天船から出て、胃宿の度数の中にあった。彗星は兵乱と喪を意味し、旧を除き新を布き、天船から出るのは外夷の侵略である。あるいは「大水が出る」という。六月辛酉の日、月が房宿を犯した。八月戊午の日、熒惑が填星を犯し、張宿にあった。占いでは「大兵乱が起こる。張は三河の分野」という。十月己未の日、太白が哭星を犯した。十二月、枉矢が東南から西北へ流れ、その長さは天の半分であった。三年正月壬辰の日、熒惑が楗閉を犯した。占いによれば「人主に憂いがある」。三月乙酉の日、熒惑が逆行して鉤鈐を犯した。占いによれば「王者がこれを憎む」。月が太白を犯し、昴宿にあった。占いでは「人君が死ぬ」、あるいは「趙の地に兵乱があり、朝廷が安らかでない」という。六月、太白が東井を犯した。七月乙酉の日、熒惑が天江を犯した。丙戌の日、太白が輿鬼を犯した。占いはすべて上記と同じ。戊子の日、月が牽牛の中央大星を犯した。占いでは「牽牛は天の将軍である。中央星を犯すと、大将軍が死ぬ」という。八月丁未の日、太白が軒轅大星を犯した。甲子の日、月が畢大星を犯した。占いでは「辺境の兵乱」、あるいは「下が上を犯す」という。庚午の日、太白が填星を犯し、太微の中にあった。占いでは「王者がこれを憎む」という。二年五月、関中の てい 族の帥が苻生を殺して苻堅を立てた。十二月、慕容儁が入って鄴に駐屯した。八月、安西将軍・ 刺史 しし の謝弈が 薨去 こうきょ した。三年十月、諸葛攸の水軍が黄河に入り、大敗した。 刺史 しし の謝万が潁に入ったが、兵衆が潰散して帰還し、除名されて庶民となった。十一月、 司徒 しと 会稽王は二鎮の敗戦により、自ら三等を貶することを求めた。四年正月、慕容儁が死に、子の暐が代わって立った。慕容恪がその 尚書令 しょうしょれい の陽騖らを殺した。五月、天下に大水が出た。五年五月、穆帝が崩御した。

升平四年正月乙亥の日、月が牽牛の中央大星を犯した。占いでは「大将が死ぬ」という。六月辛亥の日、辰星が軒轅を犯した。占いでは「女主に憂いがある」という。己未の日、太白が太微の右掖門に入り、端門から出た。占いでは「貴人が勢いを奪われる」、あるいは「兵乱がある」、また「端門から出るのは臣が臣たらず」という。八月戊申の日、太白が てい 宿を犯した。占いでは「国に憂いがある」という。丙辰の日、熒惑が太微西蕃の上将を犯した。九月壬午の日、太白が南斗の口に入り、第四星を犯した。占いでは「喪があり、赦しがあり、天下が爵禄を受ける」という。十月庚戌の日、天狗が西南に現れた。占いでは「大兵乱があり血が流れる」という。十二月甲寅の日、熒惑が房宿を犯した。丙寅の日、太白が昼間に現れた。庚寅の日、月が楗閉を犯した。占いでは「人君がこれを憎む」という。五年正月 乙巳 いっし の日、填星が逆行して太微を犯した。乙丑の日辰の刻、月が危宿で太白を覆った。占いでは「天下の民が離散する」という。三月丁未の日、月が填星を犯し軫宿にあった。占いでは「大喪がある」という。五月壬寅の日、月が太微を犯した。庚戌の日、月が建星を犯した。占いでは「大臣が互いに讒言する」という。辛亥の日、月が牽牛宿を犯した。占いでは「国に憂いがある」という。五年正月、北中郎将の郗曇が 薨去 こうきょ した。五月、穆帝が崩御し、哀帝が立ち、大赦を行い爵位を賜い、褚后は勢いを失った。七月、慕容恪が野王で冀州 刺史 しし の呂護を攻め、これを陥落させ、護は 滎陽 けいよう に奔った。この時、桓温は大軍を率いて宛に駐屯していたが、護の敗北を聞いて退いた。

升平五年(361年)六月癸酉の日、月が てい 宿の東北星を掩蔽した。占いでは「大将がこれに当たる」という。九月乙酉の日、月が畢宿を掩蔽した。占いでは「辺境に兵乱がある」という。十月丁卯の日、熒惑(火星)が歳星(木星)を犯し、営室宿にあった。占いでは「大臣に密かな謀略がある」という。一説には「衛の地に兵乱がある」という。丁未の日、月が畢宿の赤星を犯した。占いでは「下位の者が上位の者を犯す」という。また「辺境に兵乱がある」ともいう。八月、范汪が廃された。隆和元年(362年)、慕容暐が傅末波を遣わして河陰を寇し、陳祐が危険に追い詰められた。

晋の哀帝興寧元年(363年)八月、星が大角星と亢宿に彗星のように現れ、天市垣に入った。占いによれば「兵乱と喪(君主の死)がある」という。三年(365年)正月、皇后王氏が崩御した。二月、哀帝が崩御した。三月、慕容恪が洛陽を攻め、沈勁らが戦死した。

興寧元年(363年)十月丙戌の日、月が太白(金星)を掩蔽し、須女宿にあった。占いでは「天下の民が離散する」という。一説には「災いは揚州にある」という。三年(365年)、洛陽が陥落した。その後、桓溫が揚州の資産・実力を傾けて鮮卑を討ったが敗北し、死者が大半を占め、また袁真を征討した際には淮南が荒廃した。その後、 てい 族や東胡が侵攻・逼迫し、兵役が絶えなかった。

興寧三年(365年)正月乙卯の日、月が歳星(木星)を掩蔽し、参宿にあった。参宿は益州の分野である。六月、鎮西将軍・益州 刺史 しし の周撫が 薨去 こうきょ した。十月、梁州 刺史 しし の司馬勲が益州に入って反乱を起こし、朱序が軍勢を率いて 刺史 しし の周楚を助けてこれを討ち平定した。

興寧三年(365年)七月庚戌の日、月が南斗を犯した。占いでは「女主に憂いがある」という。歳星(木星)が輿鬼を犯した。占いでは「人君に憂いがある」という。十月、太白(金星)が昼間に現れ、亢宿にあった。占いでは「亢宿は朝廷を表し、兵乱と喪(君主の死)があり、臣下が強くなる」という。哀帝はこの年の二月に崩御したが、その災いは全て海西公(後の廃帝)の時に現れた。翌年五月、皇后庾氏が崩御した。

晋の海西公(廃帝)太和元年(366年)二月丙子の日、月が熒惑(火星)を掩蔽し、参宿にあった。占いでは「内乱がある」という。一説には「参宿は魏の地である」という。二年(367年)正月、太白(金星)が昴宿に入った。五年(370年)、慕容暐が苻堅に滅ぼされ、司州・冀州・幽州・ へい 州の四州は全て てい 族に属した。

太和二年(367年)八月戊午の日、太白(金星)が歳星(木星)を犯し、太微垣にあった。三年(368年)六月甲寅の日、太白(金星)が熒惑(火星)を掩蔽し、太微垣の端門の中にあった。六年(371年)、海西公が廃位された。

太和四年(369年)二月、客星が紫宮(紫微垣)の西垣に見え、七月になってようやく消えた。占いでは「客星が紫宮を守ると、臣下が主君を殺す」という。閏月乙亥の日、月が軫宿に 暈 を生じ、さらに白い暈が月を貫き、北の暈が斗柄の三星を貫いた。占いでは「王者はこれを忌む」という。六年(371年)、桓溫が帝(海西公)を廃した。

太和四年(369年)十月壬申の日、大きな流星が西の方へ下り、音が雷のようであった。占いによれば、「流星は貴い使者であり、星が大きければ使者も大きい」という。翌年、使者を遣わして袁真を免官し庶人とした。桓溫が寿春を征討した時、袁真は病死し、その子の袁瑾が代わって立ち、苻堅に救援を求めたが、桓溫が てい 軍を撃破した。六年(371年)、寿春城が陥落した。音が雷のようであったのは、将兵が怒った象徴である。

太和六年(371年)閏月、熒惑(火星)が太微垣の端門を守った。占いでは「天子が国を失う」という。また「諸侯や三公がその上(天子)を謀る」ともいう。一説には「斬られる臣下がある」という。辛卯の日、月が心宿の大星を犯した。占いでは「王者はこれを忌む」という。十一月、桓溫が帝(海西公)を廃し、併せて武陵王(司馬晞)を誅殺するよう上奏したが、簡文帝は許さず、桓溫は彼を新安に移した。