宋書

志第十三 天文一

志第十三 天文一

天について論じる説には三家があり、一つは宣夜、二つは蓋天、三つは渾天である。しかし天の正しい形体については、経書に以前からの説がなく、司馬遷の書や班固の志にもその記述が欠けている。漢の霊帝のとき、議郎の蔡邕が朔方から上書して言った。『天体を論じる説は三家あるが、宣夜の学は師承の法が全く絶えている。周髀の術数は全て残っているが、天の状態を検証すると、多くの点で食い違いや誤りがある。ただ渾天だけがほぼその実情を得ている。今、史官が用いている候台の銅儀は、その法によるものである。八尺の円体を立てて天地の形を備え、黄道を正し、天体の出没を観察し、日月の運行を行わせ、五星の歩度を測る。精微で深遠巧妙であり、百世変わらぬ道理である。官にはその器はあるが本書がなく、前の志も欠けて論じていない。本来ならば儀器の下に伏して、微細な意味を考え、測量して定数を成し、篇章を著したいところである。しかし罪悪が甚だしく、北辺に追放され、灰となり雨と共に絶え、その道筋はない。群臣に問い、さらに隠遁した学者にまで及んで、渾天の意味を知る者に、その意義を述べさせられるべきである。』当時は宦官が権力を握っており、蔡邕の建議は行われなかった。

原文言天者有三家,一曰宣夜,二曰蓋天,三曰渾天,而天之正體,經無前說,馬書、班志,又闕其文。漢靈帝議郎蔡邕於朔方上書曰:「論天體者三家,宣夜之學,絕無師法。周髀術數具存,考驗天狀,多所違失。惟渾天僅得其情,今史官所用候臺銅儀,則其法也。立八尺圓體,而具天地之形,以正黃道,占察發斂,以行日月,以步五緯,精微深妙,百世不易之道也。官有其器而無本書,前志亦闕而不論,本欲寢伏儀下,思惟微意,按度成數,以著篇章。罪惡無狀,投畀有北,灰滅雨絕,勢路無由。宜問羣臣,下及巖穴,知渾天之意者,使述其義。」時閹官用事,邕議不行。

漢末の呉の人陸績は天文に詳しく、初めて渾天の意味を推究した。王蕃という者は廬江の人で、呉の時代に中常侍となり、数術に詳しく、劉洪の乾象暦を伝えた。乾象法に依拠して渾儀を制作し、論を立てて測量を考証して言った。

原文漢末吳人陸績善天文,始推渾天意。王蕃者,廬江人,吳時為中常侍,善數術,傳劉洪乾象曆。依乾象法而制渾儀,立論考度曰:

古い渾象は二分を一度とし、全体の周囲は七尺三寸半分であった。張衡がさらに制作し、四分を一度とし、周囲は一丈いちじょう四尺六寸とした。王蕃は古制は狭小で星辰が稠密に過ぎ、張衡の器は大きすぎて転移させにくいと考えた。さらに渾象を制作し、三分を一度とし、周天は一丈九寸五分四分の三である。

原文古舊渾象以二分為一度,凡周七尺三寸半分。張衡更制,以四分為一度,凡周一丈四尺六寸。蕃以古制局小,星辰稠穊;衡器傷大,難可轉移。更制渾象,以三分為一度,凡周天一丈九寸五分四分分之三也。

御史中丞の何承天が渾象の形体について論じて言った。『前人の説を詳しく探り、渾儀を観察してその意味を研究し求めたところ、天の形体が正円で、水がその下を巡っていることを悟る根拠があった。四方について言うと、東は暘谷といい、日の出る所であり、西は濛汜に至り、日の入る所である。荘子もまた言う。「北溟の魚が化して鳥となり、南溟に移ろうとする。」これもまた古い伝承であり、四方が皆水である証拠である。四方が皆水であるのを四海という。およそ五行が相生する関係で、水は金から生じる。それ故に百川が源を発するのは皆山から出て、高きから低きへ趣き、海に注ぎ込む。日は陽の精であり、光耀は炎のように熾烈である。一夜で水に入り、経過する所は焦げて枯れる。百川が注ぎ込むことで、十分に補い回復するので、旱魃でも減らず、水害でも増えない。天の直径の数値については、王蕃の説が近い。』

原文御史中丞何承天論渾象體曰:「詳尋前說,因觀渾儀,研求其意,有以悟天形正圓,而水周其下。言四方者,東曰暘谷,日之所出,西至濛汜,日之所入。莊子又云:『北溟之魚,化而為鳥,將徙於南溟。』斯亦古之遺記,四方皆水證也。四方皆水,謂之四海。凡五行相生,水生於金,是故百川發源,皆自山出,由高趣下,歸注於海。日為陽精,光耀炎熾,一夜入水,所經燋竭,百川歸注,足於補復,故旱不為減,浸不為益。徑天之數,蕃說近之。」

太中大夫の徐爰が言った。『渾儀の制度は、その始まりが詳らかでない。王蕃は言う。「虞書に『璿璣玉衡に在りて、以て七政を斉うす』と称している。これが今の渾天儀で日月五星のことである。鄭玄は『動き運ぶのを機といい、正しく保つのを衡といい、皆玉で作る。その運行の度合いを見て、禅譲を受ける是非を観察するのである』と説く。渾儀は羲和氏の古い器で、歴代相伝し、機衡と呼ぶ。その由来には源流がある。しかしこの器は候台に設置され、史官が厳重に秘匿するので、学者はほとんど見聞する機会がなく、穿鑿する輩は機衡の意味を理解せず、七政という言葉があるのを見て、それゆえ北斗七星のことだと考え、虚偽の文をでっち上げ、讖緯に仮託した。司馬遷や班固でさえまだこれに惑わされた。鄭玄は豊かな雅量と高遠な才を持ち、沈静で精妙な思慮があり、超然として独自の見識を持ち、その説を改め正した。聖人が再び現れても、この言葉を変えることはないだろう」。王蕃の言うところはこのようである。七曜を観測審査するには、運行を本体とすべきであり、器を設けて象を模すだけで、どうしてその盈縮を定められようか。このように推論すれば、通達した論とは言えない。仮に唐・虞の時代にすでに渾儀があったとして、三代を経て定準とし、後世が遵守したなら、誰が敢えて改めようか。しかし三つの天の儀は紛然として弁別できず、揚雄に至って初めて蓋天説を難じて渾天を通達させた。張衡が太史令となって、銅を鋳て型を作った。張衡の伝に「その渾天儀を作り、陰陽を考歩するのは最も詳密である」とある。故に張衡以前にはこの儀がなかったと知る。王蕃はまた言う。「渾天は秦の乱に遭い、師弟の伝承が絶えてその文を失い、ただ渾天儀だけがまだ候台にある」。考えてみると、それは舜の璿玉でもなく、また現在の儀が造られた経緯も記されていない。緯書を穿鑿とし、鄭玄を博識実証的とし、偏信して根拠がなく、承用することはできない。璿玉は貴美の名であり、機衡は詳細な目である。それゆえ先儒は北斗七星とし、天綱が運転し、聖人が仰ぎ観て俯して察し、時勢の変化を審らかにするものと考えたのである。』

原文太中大夫徐爰曰:「渾儀之制,未詳厥始。王蕃言『虞書稱「在琁璣玉衡,以齊七政」。則今渾天儀日月五星是也。鄭玄說「動運為機,持正為衡,皆以玉為之。視其行度,觀受禪是非也」。渾儀,羲和氏之舊器,歷代相傳,謂之機衡,其所由來,有原統矣。而斯器設在候臺,史官禁密,學者寡得聞見,穿鑿之徒,不解機衡之意,見有七政之言,因以為北斗七星,搆造虛文,託之讖緯,史遷、班固,猶尚惑之。鄭玄有贍雅高遠之才,沈靜精妙之思,超然獨見,改正其說,聖人復出,不易斯言矣』。蕃之所云如此。夫候審七曜,當以運行為體,設器擬象,焉得定其盈縮,推斯而言,未為通論。設使唐、虞之世,已有渾儀,涉歷三代,以為定准,後世聿遵,孰敢非革。而三天之儀,紛然莫辯,至揚雄方難蓋通渾。張衡為太史令,乃鑄銅制範,衡傳云:『其作渾天儀,考步陰陽,最為詳密。』故知自衡以前,未有斯儀矣。蕃又云:『渾天遭秦之亂,師徒喪絕,而失其文,惟渾天儀尚在候臺。』案既非舜之琁玉,又不載今儀所造,以緯書為穿鑿,鄭玄為博實,偏信無據,未可承用。夫琁玉,貴美之名,機衡,詳細之目,所以先儒以為北斗七星,天綱運轉,聖人仰觀俯察,以審時變焉。」

史臣が考えるに、器象を設けてその恒常的な度合いを定め、それに合えば吉となり、失えば凶となる。それをもって占察するのに、何の不都合があろうか。渾天の文が廃絶したので、宣夜・蓋天の論が生じ、その術はともに粗疏であるため、後人が述べる者がいなくなった。揚雄の法言に「ある人が揚雄に渾天について問うた。揚雄は言った。『落下閎がこれを営み、鮮于妄人がこれを測り、耿中丞がこれを象った。ほとんどこれに違う者はない』」とある。もし天の形体の定まった姿や渾儀の粗密を問うたのなら、揚雄は渾天の意義で答えるべきであるのに、この三人を挙げて対したのは、この三人が渾儀を制作して、日影と星の運行を図示したことを知っているからである。問うた者はおそらく渾儀の粗密を問うたのであって、渾儀の浅深を問うたのではない。これによって推すと、西漢の長安にすでにその器があったことになる。喪乱によって亡失したので、張衡が再び鋳造したのだろうか。王蕃はまた古い渾儀の尺度と張衡が改制した文を記している。それならばこの器が張衡から始めて造られたのではないことは明らかである。張衡が造った渾儀は魏・晋に伝わったが、中華が覆敗し、戎虜の地に沈没した。陸績や王蕃の旧器もまた再び存在しなくなった。晋の安帝の義熙十四年、高祖(劉裕)が長安を平定し、張衡の旧器を得た。儀の形状はほぼ揃っていたが、経星と七曜は付けられていなかった。

原文史臣案:設器象,定其恒度,合之則吉,失之則凶,以之占察,有何不可。渾文廢絕,故有宣、蓋之論,其術並疎,故後人莫述。揚雄法言云:「或人問渾天於雄。雄曰:『落下閎營之,鮮于妄人度之,耿中丞象之,幾幾乎莫之違也。』」若問天形定體,渾儀疎密,則雄應以渾義答之,而舉此三人以對者,則知此三人制造渾儀,以圖晷緯。問者蓋渾儀之疎密,非問渾儀之淺深也。以此而推,則西漢長安已有其器矣。將由喪亂亡失,故衡復鑄之乎?王蕃又記古渾儀尺度并張衡改制之文,則知斯器非衡始造明矣。衡所造渾儀,傳至魏、晉,中華覆敗,沈沒戎虜,績、蕃舊器,亦不復存。晉安帝義熙十四年,高祖平長安,得衡舊器,儀狀雖舉,不綴經星七曜。

文帝の元嘉十三年、詔して太史令の錢樂之にさらに渾儀を鋳造させた。直径は六尺八分少、周囲は一丈八尺二寸六分少で、地は天の内にあり、黄道と赤道の二道を立て、南北の二極の規と二十八宿、北斗の極星を設け、五分を一度とした。日月五星を黄道の上に置き、漏刻を設置し、水で儀を回転させ、黄昏と明け方の中星が天と相応じるようにした。十七年、また小渾天を作った。直径は二尺二寸、周囲は六尺六寸で、一分を一度とし、二十八宿の中外宮を配置した。白と黒の珠および黄色の三色で三家の星とし、日月五星はすべて黄道に位置させた。

原文文帝元嘉十三年,詔太史令錢樂之更鑄渾儀,徑六尺八分少,周一丈八尺二寸六分少,地在天內,立黃赤二道,南北二極規二十八宿,北斗極星,五分為一度,置日月五星於黃道之上,置立漏刻,以水轉儀,昏明中星,與天相應。十七年,又作小渾天,徑二尺二寸,周六尺六寸,以分為一度,安二十八宿中外宮,以白黑珠及黃三色為三家星,日月五星,悉居黃道。

蓋天説の術は、周公旦が殷商に訪ねて得たとされるが、これは仮託の説である。その書は周髀と号する。髀とは表(測量の棒)のことである。周天の数である。その術は言う。「天は覆い蓋のようであり、地は伏せた盆のようである。地は中央が高く四方が低く、日月は天に従って運転し、地の高い部分に隠れることで昼夜となる。天地の間の距離はおよそ八万里であり、天地の中央は外衡より六万里高く、地上の高さは天の外衡より二万里高い。」ある者が揚雄に蓋天説について問うた。揚雄は言った。「蓋だ!蓋だ!」と。八つの事柄を難じた。鄭玄はさらに二つの事柄を難じた。蓋天説を学ぶ者は、これを通じることができなかった。劉向の五紀説は、夏暦では列宿と日月はすべて西に移動し、列宿が速く、日がそれに次ぎ、月が最も遅いと考える。ゆえに日は列宿とともに夕方に西方に入る。その後九十一日で、その宿は北方にある。さらに九十一日で、その宿は東方にある。九十一日で、南方にある。これは日が列宿より運行が遅いことを明らかにする。月が生じて三日目には、日が入って月が西方に見える。十五日になると、日が入って月が東方に見える。晦日が近づくと、日が出ないうちに、東方に見える。これによって月の運行が日より遅く、しかもすべて西行であることを明らかにする。劉向は『洪範伝』を引き、これに難じた。「晦日に月が西方に見えるのを朓という。朓とは速いことである。朔日に月が東方に見えるのを側匿という。側匿とは、遅くて進むことを敢えないことである。星辰が西行するのを、史官は逆行という。」この三つの説は、夏暦はいずれもこれに背いている。その意図を跡づけると、異説を好む者の作ったものである。

原文蓋天之術,云出周公旦訪之殷商,蓋假託之說也。其書號曰周髀。髀者表也。周天之數也。其術云:「天如覆蓋,地如覆盆,地中高而四隤,日月隨天轉運,隱地之高,以為晝夜也。天地相去凡八萬里,天地之中,高於外衡六萬里,地上之高,高於天之外衡二萬里也。」或問蓋天於揚雄。揚雄曰:「蓋哉!蓋哉!」難其八事。鄭玄又難其二事。為蓋天之學者,不能通也。劉向五紀說,夏曆以為列宿日月皆西移,列宿疾而日次之,月最遲。故日與列宿昏俱入西方;後九十一日,是宿在北方;又九十一日,是宿在東方;九十一日,在南方。此明日行遲於列宿也。月生三日,日入而月見西方;至十五日,日入而月見東方;將晦,日未出,乃見東方。以此明月行之遲於日,而皆西行也。向難之以鴻範傳曰:「晦而月見西方,謂之朓。朓,疾也。朔而月見東方,謂之側匿。側匿,遲不敢進也。星辰西行,史官謂之逆行。」此三說,夏曆皆違之,迹其意,好異者之所作也。