宋書

宋書 巻十二

宋書 巻十二

志 第二

原文志第二

天地が最も貴ぶのは生命であり、万物が最も尊ぶのは人間である。人間は知恵を働かせ、神妙を極め、隠れたところも明らかにしないものはない。それゆえ、行動や言動はすべて天地の象に応じる。古代の聖人や哲人は、北極星を模して渾天儀を創り出した。陰陽の二気は万物を育み、その精妙な象が宿るのは日月である。万物の本性は五才(五行)として現れ、五才の霊は五星である。暦は天の運行を模して七曜(日月五星)の順序を定め、万国を統べ、人々に時を授けるためにある。黄帝は大撓に命じて六甲(干支)を作らせ、容成に暦象を制定させ、羲和に日を占わせ、常儀に月を占わせた。少昊氏の時代には鳳鳥の瑞祥があり、鳥の名で官職を名付け、鳳鳥氏が暦を司った。顓頊の時代には、南正の重が天を司り、北正の黎が地を司った。堯は重と黎の子孫を再び登用し、旧職を治めさせ、羲と和に分けて命じ、昊天を敬って従わせた。ゆえに『虞書』に「一年は三百六十六日であり、閏月を置いて四季を定め、年を成す」とある。その後、舜に譲る時、「天の暦数は汝の身にある」と言った。舜もまた禹に同じことを命じた。殷、周の二代に至っても、創業して制度を革新し、服色もそれに従った。その時の気に順応し、天道に応じたので、万物や衆生はその恩恵を被った。三王(夏・殷・周)が既に去り、史官の職務が廃れると、孔子は『春秋』を正して暦官の過ちを明らかにした。秦が天下を統一すると、自らを水徳とし、十月を正月とし、服色を黒を上とした。

原文夫天地之所貴者生也,萬物之所尊者人也,役智窮神,無幽不察,是以動作云為,皆應天地之象。古先聖哲,擬辰極,制渾儀。夫陰陽二氣,陶育羣品,精象所寄,是為日月。羣生之性,章為五才,五才之靈,五星是也。曆所以擬天行而序七耀,紀萬國而授人時。黃帝使大撓造六甲,容成制曆象,羲和占日,常儀占月。少昊氏有鳳鳥之瑞,以鳥名官,而鳳鳥氏司曆。顓頊之代,南正重司天,北正黎司地。堯復育重黎之後,使治舊職,分命羲、和,欽若昊天。故虞書曰:「朞三百有六旬六日,以閏月定四時成歲。」其後授舜,曰:「天之曆數在爾躬。」舜亦以命禹。爰及殷、周二代,皆創業革制,而服色從之。順其時氣,以應天道,萬物羣生,蒙其利澤。三王既謝,史職廢官,故孔子正春秋以明司曆之過。秦兼天下,自以為水德,以十月為正,服色上黑。

漢が興ると、秦の暦法(正朔)を踏襲した。北平侯の張蒼が初めて律暦のことを進言し、顓頊暦を他の六暦と比較して、その誤差が最も少ないとした。これは武帝の元封七年まで用いられた。太中大夫の公孫卿、壺遂、太史令の司馬遷らが、暦紀が廃れ乱れているので、正朔を改め、服色を変えるべきであり、それによって天から受けたことを明らかにすべきだと上言した。そこで詔を下して壺遂らに漢の暦を作らせた。鄧平、長楽司馬可および民間の暦法に通じた者二十余人を選んだ。方士の唐都が天部を分け、落下閎が計算を回して暦を転じた。その方法は八十一寸を積むと一日の分に相当する。落下閎と鄧平の方法は同じであった。そこで皆が星の度数と日月の運行を観測し、さらに計算で推し進め、落下閎と鄧平の法に従い、一ヶ月の日数を二十九日と八十一分の四十三日とした。詔により司馬遷は鄧平の作った八十一分律暦を用い、鄧平を太史丞に任じた。元鳳三年になると、太史令の張寿王が上書し、元年には黄帝調暦を用いたはずなのに、「今、陰陽が調和せず、暦を改めた過ちである」と主張した。詔により、主暦使者の鮮于妄人と治暦の大司農中丞の麻光ら二十余人に、晦・朔・弦・望と二十四気を雑候させた。また、丞相、御史、大将軍、右将軍の史官各一人に命じ、上林苑の清台で雑候させ、各家の暦の密疏を検証させた。合わせて十一家。三年から五年まで行った。張寿王の暦は疏遠であった。また、漢の元年には黄帝調暦を用いていなかったので、張寿王を天地に逆らい、大不敬であると弾劾した。詔により弾劾は取りやめさせた。さらに候測を続け、六年まで行い、太初暦が第一となった。張寿王の暦は実は太史官が用いていた殷暦であった。張寿王は再び弾劾されたが服せず、ついに獄吏に下された。孝成帝の時、劉向が六暦を総括し、是非を列挙して『五紀論』を著した。劉向の子の劉歆は『三統暦』を作って『春秋』を説き、文辞を連ね事柄を比べ、精巧を極めているが、実態に合わなかった。班固はこれを精密で要を得ていると評したので、『漢書』律暦志にこれを述べている。何承天ら六家の暦と校合すると、六元(暦元)は同じでなく、章法も異なるが、現在までの誤差は三日あるいは二日数時間で、その由来を考察すると、多くは戦国時代および秦の時代の人々が作ったものである。その術は斗分が多く、上は『春秋』に照らして検証できず、下は漢・魏の時代に験証できず、帝王の名を仮称しているに過ぎず、ただ当時の人々を惑わすだけである。

原文漢興,襲秦正朔,北平侯張蒼首言律曆之事,以顓頊曆比於六曆,所失差近。施用至武帝元封七年,太中大夫公孫卿、壺遂、太史令司馬遷等,言曆紀廢壞,宜改正朔,易服色,所以明受之於天也。乃詔遂等造漢曆。選鄧平、長樂司馬可及人間治曆者,二十餘人。方士唐都分天部,落下閎運算轉曆。其法積八十一寸,則一日之分也。閎與鄧平所治同。於是皆觀星度,日月行,更以算推,如閎、平法,一月之日二十九日八十一分日之四十三。詔遷用鄧平所造八十一分律曆,以平為太史丞。至元鳳三年,太史令張壽王上書,以為元年用黃帝調曆,「今陰陽不調,更曆之過」。詔下主曆使者鮮于妄人與治曆大司農中丞麻光等二十餘人雜候晦朔弦望二十四氣。又詔丞相、御史、大將軍、右將軍史各一人雜候上林清臺,課諸疏密,凡十一家。起三年盡五年。壽王課疏遠。又漢元年不用黃帝調曆,劾壽王逆天地,大不敬。詔勿劾。復候,盡六年,太初曆第一。壽王曆乃太史官殷曆也。壽王再劾不服,竟下吏。至孝成時,劉向總六曆,列是非,作五紀論。向子歆作三統曆以說春秋,屬辭比事,雖盡精巧,非其實也。班固謂之密要,故漢曆志述之。校之何承天等六家之曆,雖六元不同,分章或異,至今所差,或三日,或二日數時,考其遠近,率皆六國及秦時人所造。其術斗分多,上不可檢於春秋,下不驗於漢、魏,雖復假稱帝王,祇足以惑時人耳。

光武帝の建武八年、太僕の朱浮が暦紀が正しくないので改めて治めるべきだと上言した。当時は誤差がまだ微かだったため、改めて考証する暇がなかった。明帝の永平年間、待詔の楊岑、張盛、景防らが暦を主管したが、ただ加時(時刻の加減)と弦望を改めただけで、暦元を総合的に校合することはできなかった。元和二年になると、太初暦は天象との誤差がますます大きくなり、宿度のずれが次第に多くなり、観測者たちは皆、太陽の宿度が五度ずれ、冬至の日が斗宿二十一度にあること、晦朔弦望が一日早まることを知った。章帝は治暦の編訢、李梵らを召してその状況を総合的に校合させた。そこで詔書を下して言った。「『春秋保乾図』に『三百年ごとに斗暦が改まる』とある。史官が用いる太初暦の鄧平の術は、余分が一あり、三百年の範囲内で運行度数が転じてずれ、次第に誤りが生じ、璿璣(天文観測器)が正しくなく、天文の象が合わない。冬至の日は、太陽が斗宿二十一度にあり、立春の一日前に当たり、これは四分暦の立春日である。それにもかかわらず、訴訟を裁き大刑を断ずるのは、気に既に逆らっている。平和を望んで用いるには、あまりにも遠い。今、四分法に改行し、堯に従い孔子に順い、天の文を奉じ、心を一つにして時を敬って授け、もしや天下がことごとく明るくなることを得んことを。」こうして四分法が施行された。黄帝以来の諸暦で冬至を牽牛の初度とするものは全て退けられた。

原文光武建武八年,太僕朱浮上言曆紀不正,宜當改治。時所差尚微,未遑考正。明帝永平中,待詔楊岑、張盛、景防等典治曆,但改易加時弦望,未能綜校曆元也。至元和二年,太初失天益遠,宿度相覺浸多,候者皆知日宿差五度,冬至之日在斗二十一度,晦朔弦望,先天一日。章帝召治曆編訢、李梵等綜校其狀。遂下詔書稱:「春秋保乾圖曰:『三百年斗曆改憲。』史官用太初鄧平術,有餘分一,在三百年之域,行度轉差,浸以繆錯,琁璣不正,文象不稽。冬至之日,日在斗二十一度,先立春一日,則四分之立春日也。而以折獄斷大刑,於氣已逆;用望平和,蓋亦遠矣。今改行四分,以遵堯順孔,奉天之文,同心敬授,儻獲咸熙。」於是四分法施行。黃帝以來諸曆以為冬至在牽牛初者皆黜焉。

和帝の永元十四年、待詔太史の霍融が上言した。「官製の漏刻は九日ごとに一刻を増減するのが通例ですが、天象と相応せず、時に二刻半も差が出ることがあり、夏暦ほど精密ではありません。」その年の十一月甲寅、詔を下した。「漏刻は時分を節し、黄昏と明け方を定めるものである。黄昏と明け方の長短は、太陽が北極から遠近するのに始まり、太陽の軌道は円周を描くので、計算の割合で分けることはできない。官漏が九日ごとに一刻を増減するのは実態に違反している。日影(晷景)を刻とする方が、密接で験証がある。今、晷景漏刻四十八箭を下す。」その二十四気における太陽の位置、および黄道距極、晷景、漏刻、黄昏と明け方の中星を、並べて『続漢書』律暦志に記載した。

原文和帝永元十四年,待詔太史霍融上言:「官漏刻率九日增減一刻,不與天相應,或時差至二刻半,不如夏曆密。」其年十一月甲寅,詔曰:「漏所以節時分,定昏明。昏明長短,起於日去極遠近,日道周圜,不可以計率分。官漏九日增減一刻,違失其實,以晷景為刻,密近有驗。今下晷景漏刻四十八箭。」其二十四氣日所在,并黃道去極、晷景、漏刻、昏明中星,並列載于續漢律曆志。

安帝の延光三年、中謁者の亶誦が上書して甲寅元を用いるべきだとし、河南の梁豊は太初暦を再び用いるべきだと主張した。尚書郎の張衡、周興はいずれも暦に精通しており、たびたび亶誦と梁豊を難詰した。二人は答えられないか、あるいは誤りを認めた。張衡らは観測記録を参照し、過去を考証して現在と校合し、九道法が最も精密であると考えた。詔を下して公卿に詳しく議論させた。太尉たいいの愷らが参議して言った。「太初暦は天象より一度過ぎ、月が晦日に西方に見える。元和に改めて四分暦に従ったが、四分暦は太初暦より精密ではあるが、また正しくない。いずれも用いることができない。甲寅元は天象と相応し、図讖としんにも合致するので、施行できる。」議論はまとまらなかった。尚書令の忠が上奏した。「天の暦数は、疑わしいものを任せ、虚偽に従い、非をもって是に代えることはできない。」亶誦らの主張は遂に取り上げられなかった。

原文安帝延光三年,中謁者亶誦上書言當用甲寅元,河南梁豐云當復用太初。尚書郎張衡、周興皆審曆,數難誦、豐,或不能對,或云失誤。衡等參案儀注,考往校今,以為九道法最密。詔下公卿詳議。太尉愷等參議:「太初過天一度,月以晦見西方。元和改從四分,四分雖密於太初,復不正。皆不可用。甲寅元與天相應,合圖讖,可施行。」議者不同。尚書令忠上奏:「天之曆數,不可任疑從虛,以非易是。」亶等遂寢。

霊帝の熹平四年(175年)、五官郎中の馮光と沛相の上計掾陳晃らが言った。「暦の元が正しくないため、盗賊が害をなしています。暦は甲寅を元とすべきで、庚申を用いるべきではありません。庚申を元とする経文・緯文の明文を拠り所としないようお願いします。」詔が三府に下され、儒林で道術に明るい者と詳しく議論させた。群臣が司徒しと府に集まって会議した。議郎の蔡邕が言った。「暦数は精微であり、術に常に正しいものはありません。漢が興って秦を継ぎ、暦には顓頊暦を用い、元には乙卯を用いました。百二年後、孝武皇帝が初めて太初暦に改め、元に丁丑を用いました。これを百八十九年行った後、孝章皇帝が四分暦に改め、元に庚申を用いました。今、馮光らは庚申が誤りで甲寅が正しいとします。暦法によれば、黄帝、顓頊、夏、殷、周、魯は、それぞれ独自の元を持っています。馮光、陳晃が援用するのは、殷暦の元です。かつて太初暦の丁丑を元として使い始めた後、六家が紛糾し、是非を争いました。張寿王は甲寅の元を抱えて漢の暦を非難しましたが、清台で雑多な観測を行い、その考課は下位でした。太初暦の効験は、漏れ失うところがありませんでした。これは、図讖の元ではないにせよ、以前に効果があったということです。また、四分暦を用いて以来、その行度を考査すると、太初暦よりも密合しており、これは新しい元が今に効果があるということです。だから延光年間(122-125年)に、亶誦もまた四分暦を非難し、甲寅の元を用いるべきだと主張しましたが、公卿が参議した結果、ついに施行されませんでした。また、三光(日月星)の運行は、遅速進退が必ずしも一様ではありません。だから古今の術があるのです。今の術が古に通じられないのは、古の術が今に通じられないのと同じです。さらに、馮光、陳晃は考霊耀を拠り所とし、二十八宿の度数から太陽の所在まで、錯乱しており、参校できません。元和二年(85年)から今まで九十二年用いられてきましたが、馮光、陳晃は陰陽不和、姦臣盗賊がすべて元の咎であると言います。元和の詔書は、文が備わり義が著明であり、群臣の議者が変えられるものではありません。」三公は蔡邕の議に従い、馮光、陳晃を不敬の罪とし、鬼薪の法に照らして処断しようとした。詔書により罪を問わないこととなった。

原文靈帝熹平四年,五官郎中馮光、沛相上計掾陳晃等言:「曆元不正,故盜賊為害。曆當以甲寅為元,不用庚申,乞本庚申元經緯明文。」詔下三府,與儒林明道術者詳議。羣臣會司徒府集議。議郎蔡邕曰:「曆數精微,術無常是。漢興承秦,曆用顓頊,元用乙卯。百有二歲,孝武皇帝始改太初,元用丁丑。行之百八十九歲,孝章帝改從四分,元用庚申。今光等以庚申為非,甲寅為是。按曆法,黃帝、顓頊、夏、殷、周、魯,各自有元。光、晃所援,則殷曆元也。昔始用太初丁丑之後,六家紛錯,爭訟是非。張壽王挾甲寅元以非漢曆,雜候清臺,課在下第。太初效驗,無所漏失。是則雖非圖讖之元,而有效於前者也。及用四分以來,考之行度,密於太初,是又新元有效於今者也。故延光中,亶誦亦非四分,言當用甲寅元,公卿參議,竟不施行。且三光之行,遲速進退,不必若一。故有古今之術。今術之不能上通於古,亦猶古術不能下通於今也。又光、晃以考靈耀為本,二十八宿度數至日所在,錯異不可參校。元和二年用至今九十二歲,而光、晃言陰陽不和,姦臣盜賊,皆元之咎。元和詔書,文備義著,非羣臣議者所能變易。」三公從邕議,以光、晃不敬,正鬼薪法。詔書勿治罪。

何承天が言う。暦数の術は、もし心が達していなければ、たとえ通人や先見の明があっても、その弊害を救うことはできない。だから長年を経ても、定まることがなかったのである。四分暦は天に対して、三百年で一日の盈(過剰)が出る。代々積み重なっても悟らず、ただ暦を建てる根本は必ずまず元を立てるべきだと言い、図讖緯書を口実に、ついに治乱に関わらせようとする。この弊害は、すでに甚だしい。劉歆の三統法はさらに疎闊で、四分暦と比べて、六千余年でまた一日を増やす。揚雄はその説に心惑わされ、『太玄』に採用した。班固はこれを最も密合していると言い、『漢書』律暦志に著した。司馬彪はこれに因んで「太初元年から三統暦を用い始め、施行すること百有余年」と言った。劉歆の生年が太初に及ばないことを思い出さなかったのか。二、三の君子が暦について語るのは、ほとんど知らずに妄言するようなものではないか。

原文何承天曰:夫曆數之術,若心所不達,雖復通人前識,無救其為敝也。是以多歷年歲,未能有定。四分於天,出三百年而盈一日。積代不悟,徒云建曆之本,必先立元,假言讖緯,遂關治亂,此之為蔽,亦已甚矣。劉歆三統法尤復疏闊,方於四分,六千餘年又益一日。揚雄心惑其說,采為太玄,班固謂之最密,著于漢志;司彪因曰「自太初元年始用三統曆,施行百有餘年。」曾不憶劉歆之生,不逮太初,二三君子言曆,幾乎不知而妄言歟。

光和年間(178-184年)、穀城門候の劉洪が初めて、四分暦が天に対して疎闊であることを悟り、五百八十九を紀法とし、百四十五を斗分とし、乾象法を造り、また遅疾暦を制定して月の運行を推歩した。太初暦、四分暦に比べて、より精微になった。魏の文帝の黄初年間(220-226年)、太史丞の韓翊は、乾象法が斗分を減じすぎており、後々先天(天象より先んじる)すると考え、黄初暦を造り、四千八百八十三を紀法、一千二百五を斗分とした。その後、尚書令の陳羣が上奏し、「暦数は理解が難しく、前代の通儒も多く紛争してきました。黄初の元には、四分暦が久遠で疎闊であるため、大魏が天命を受けた以上、暦を正し時を明らかにすべきです。韓翊が初めて黄初暦を建てましたが、それでも不審を恐れ、乾象法と互いに参校させました。三年を経て、互いに是非を論じ、本を捨てて末に就き、長短を争って尺丈を疑うがごとくで、ついに決する時がありません。三公の議によれば、皆曲理を綜べ尽くし、殊塗同帰しており、璿璣(観測器)で効験させ、それぞれの法を尽くさせ、一年の間に得失が十分に定まり、事の宜しきに合うでしょう。」と述べた。奏は許可された。明帝の時、尚書郎の楊偉が景初暦を制定し、施行されて晋、宋に至った。古に暦を作った者では、鄧平は旧制を修め新たにし、劉洪は初めて四分を減じ、また月の運行の遅疾を定め、楊偉は両端を斟酌して多少の中庸を立て、朔の積分に差を設けて合朔と月食を推し合わせた。この三人は、漢、魏の善く暦を作った者である。しかしながら、劉洪の遅疾法では春秋を検証できず、楊偉の五星法は後代に大きく乖離している。これは劉洪の用心がなお疎かであり、楊偉が上元壬辰を同じく出すことに拘ったためである。

原文光和中,穀城門候劉洪始悟四分於天疏闊,更以五百八十九為紀法,百四十五為斗分,造乾象法,又制遲疾曆以步月行。方於太初、四分,轉精微矣。魏文帝黃初中,太史丞韓翊以為乾象減斗分太過,後當先天,造黃初曆,以四千八百八十三為紀法,一千二百五為斗分。其後尚書令陳羣奏,以為「曆數難明,前代通儒多共紛爭。黃初之元,以四分曆久遠疏闊,大魏受命,宜正曆明時。韓翊首建黃初,猶恐不審,故以乾象互相參校。歷三年,更相是非,舍本即末,爭長短而疑尺丈,竟無時而決。按三公議,皆綜盡曲理,殊塗同歸,欲使效之璿璣,各盡其法,一年之間,得失足定,合於事宜。」奏可。明帝時,尚書郎楊偉制景初曆,施用至于晉、宋。古之為曆者,鄧平能修舊制新,劉洪始減四分,又定月行遲疾,楊偉斟酌兩端,以立多少之衷,因朔積分設差,以推合朔月蝕。此三人,漢、魏之善曆者。然而洪之遲疾,不可以檢春秋,偉之五星,大乖於後代,斯則洪用心尚疏,偉拘於同出上元壬辰故也。

魏の明帝の景初元年(237年)、暦数を改定し、建丑の月(十二月)を正月とし、その年の三月を孟夏四月に改めた。その孟仲季月(四季の各三月)は、正歳(正月)とは異なるが、郊祀こうし、迎気、祭祠、烝嘗、巡狩、蒐田、分至啓閉(二分二至と啓蟄・閉蟄)、時令の班宣に至るまで、すべて建寅(正月)を正とした。三年(239年)正月、帝が崩御し、再び夏正(建寅正月)を用いた。

原文魏明帝景初元年,改定曆數,以建丑之月為正,改其年三月為孟夏四月。其孟仲季月,雖與正歲不同,至於郊祀、迎氣,祭祠、烝嘗,巡狩、蒐田,分至啟閉,班宣時令,皆以建寅為正。三年正月,帝崩,復用夏正。

楊偉の上表に言う。「臣が典籍を調べ、暦数を考証しますに、季節は農事を記し、月は事柄を記すもので、その由来は遠く古くからあります。少昊の時代には玄鳥が分至を司り、顓頊・帝嚳の時代には重・黎が天を司り、唐帝・虞舜の時代には羲・和が日を掌りました。三代はこれを踏襲し、代々に日官がおりました。日官が暦を司ると、それを諸侯に頒布し、諸侯はそれを受け取ると、自らの領内に頒布しました。夏后氏の時代、羲・和が酒に溺れ、時を廃し日を乱したので、書経に胤征が記されています。これを見ると、農時を明らかにし人事を重んじることは、歴代の常であったことが分かります。周室が衰え、戦国時代に諸侯が跋扈するに至り、告朔の羊は廃れて継がれず、登台の礼は滅びて守られなくなりました。閏月の配分が暦の順序から外れて識別できず、孟春正月の暦が乱れて誰も悟らず、大火星がなお西に流れているのに、蟄虫が隠れないのを怪しむ有様でした。この時、天子は時節に合わせず、司暦は日を記さず、諸侯は職務を受けず、日御は朔日を分けず、人事は顧みられず、農時は廃棄されました。春秋において乱を撥ねのけた仲尼は、褒貶を託して糾正し、司暦が閏月を失えばこれを譏って記し、登台して朔日を頒布すればこれを礼有りと称しました。これ以降、秦・漢に至るまで、また孟冬を歳首とし、閏月を後九月とし、中気が錯乱し、時月が誤り、時を加えるのが後れ、日蝕が朔日に起こらず、累代にわたって襲用され、久しく改められませんでした。武帝の元封七年に至って、初めてその誤りを悟りました。そこで正朔を改め、暦数を改め、大才通人に命じて太初暦を作らせ、中朔の差を較正して閏分を正し、中星の度を課して疏密を考証し、建寅の月を正朔とし、黄鍾の月を暦の初めとしました。その暦は斗分が多すぎ、後には疏闊となりました。元和二年に至り、再び四分暦を用いて施行しました。今日に至るまで、日蝕を考察すると、率として常に晦日にあり、これは斗分が多すぎたため、先は密で後は疏となり用をなさないのです。そこで臣は以前、制典の余日に基づき、天路を推考し、前典に照らし、食朔で検証し、詳しく精査して、さらに密な暦を建てました。すると先にも後れず、古今を通じて天に中ります。昔、唐帝の時代に日を協わせ時を正し、百工を允かに治め、庶績ことごとく熙んだようにです。当今の国の典礼、凡百の制度を、ことごとく往古に符合させ、豊かに備えさせたいならば、正朔を改め、暦数を改め、大呂の月を歳首とし、建子の月を暦の初めとすべきです。臣は考えますに、昔の帝代には法を顓頊と称し、軒轅以来には暦を黄帝と称しました。漢の孝武帝に至って、正朔を革め、暦数を改め、元号を太初と改めたので、太初暦と名付けました。今、元号を景初と改めるのであれば、景初暦と称すべきです。臣の建てる景初暦は、法数は簡約で要を得、施用は近密で、治めるには功が省け、学ぶには易しく理解できます。たとえ研桑が心算し、隸首が運籌し、重・黎が日影を司り、羲・和が日影を察して、天路を考証し、日月を歩測・検証し、精微を究極し、術数の極みを尽くしたとしても、皆、臣のこの妙には及びません。このため累代の暦数は、皆、疏で密ではなく、黄帝以来、改革が止むことがなかったのです。」

原文楊偉表曰:「臣攬載籍,斷考曆數,時以紀農,月以紀事,其所由來,遐而尚矣。乃自少昊,則玄鳥司分,顓頊帝嚳,則重、黎司天,唐帝、虞舜則羲、和掌日。三代因之,則世有日官。日官司曆,則頒之諸侯,諸侯受之,則頒于境內。夏后之代,羲、和湎淫,廢時亂日,則書載胤征。由此觀之,審農時而重人事者,歷代然也。逮至周室既衰,戰國橫騖,告朔之羊,廢而不紹,登臺之禮,滅而不遵。閏分乖次而不識,孟陬失紀而莫悟,大火猶西流,而怪蟄蟲之不藏也。是時也,天子不協時,司曆不書日,諸侯不受職,日御不分朔,人事不恤,廢棄農時。仲尼之撥亂於春秋,託褒貶糾正,司曆失閏,則譏而書之,登臺頒朔,則謂之有禮。自此以降,暨于秦、漢,乃復以孟冬為歲首,閏為後九月,中節乖錯,時月紕繆,加時後天,蝕不在朔,累載相襲,久而不革也。至武帝元封七年,始乃寤其繆焉。於是改正朔,更曆數,使大才通人,造太初曆,校中朔所差,以正閏分,課中星得度,以考疏密,以建寅之月為正朔,以黃鍾之月為曆初。其曆斗分太多,後遂疏闊。至元和二年,復用四分曆,施而行之。至于今日,考察日蝕,率常在晦,是則斗分太多,故先密後疏而不可用也。是以臣前以制典餘日,推考天路,稽之前典,驗之食朔,詳而精之,更建密歷,則不先不後,古今中天。以昔在唐帝,協日正時,允釐百工,咸熙庶績也。欲使當今國之典禮,凡百制度,皆韜合往古,郁然備足,乃改正朔,更曆數,以大呂之月為歲首,以建子之月為曆初。臣以為昔在帝代,則法曰顓頊,曩自軒轅,則曆曰黃帝。暨至漢之孝武,革正朔,更曆數,改元曰太初,因名太初曆。今改元為景初,宜曰景初曆。臣之所建景初曆,法數則約要,施用則近密,治之則省功,學之則易知。雖復使研桑心算,隸首運籌,重、黎司晷,羲、和察景,以考天路,步驗日月,究極精微,盡術數之極者,皆未如臣如此之妙也。是以累代曆數,皆疏而不密,自黃帝以來,改革不已。

壬辰元以来、景初元年丁巳に至るまで、歳は四千四十六を積算し、算上とする。この元は天正建子黄鍾の月を暦の初めとし、元首の歳は夜半甲子朔旦冬至である。

原文壬辰元以來,至景初元年丁巳,歲積四千四十六,算上。此元以天正建子黃鍾之月為曆初,元首之歲夜半甲子朔旦冬至。

元法は一万一千五十八。

原文元法,萬一千五十八。

紀法は千八百四十三。

原文紀法,千八百四十三。

紀月は二万二千七百九十五。

原文紀月,二萬二千七百九十五。

章歳は十九。

原文章歲,十九。

章月は二百三十五。

原文章月,二百三十五。

章閏は七。

原文章閏,七。

通数は十三万四千六百三十。

原文通數,十三萬四千六百三十。

日法は四千五百五十九。

原文日法,四千五百五十九。

余数は九千六百七十。

原文餘數,九千六百七十。

周天は六十七万三千一百五十。

原文周天,六十七萬三千一百五十。

歳中は十二。

原文歲中,十二。

気法は十二。

原文氣法,十二。

没分は六万七千三百一十五。

原文沒分,六萬七千三百一十五。

没法、九百六十七。

原文沒法,九百六十七。

月周、二万四千六百三十八。

原文月周,二萬四千六百三十八。

通法、四十七。

原文通法,四十七。

会通、七十九万一百一十。

原文會通,七十九萬一百一十。

朔望合数、六万七千三百一十五。

原文朔望合數,六萬七千三百一十五。

入交限数、七十二万二千七百九十五。

原文入交限數,七十二萬二千七百九十五。

通周、十二万五千六百二十一。

原文通周,十二萬五千六百二十一。

周日日余、二千五百二十八。

原文周日日餘,二千五百二十八。

周虚、二千三十一。

原文周虛,二千三十一。

斗分、四百五十五。

原文斗分,四百五十五。

甲子紀第一:

原文甲子紀第一:

甲戌紀第二:

原文甲戌紀第二:

甲申紀第三:

原文甲申紀第三:

甲午紀第四:

原文甲午紀第四:

甲辰紀第五:

原文甲辰紀第五:

甲寅紀第六:

原文甲寅紀第六:

交会紀の差は、十万三千六百一十である。その数が生じる由来を求めるには、一紀の積月を置き、通数を乗じ、会通で除して去った余りが、紀差の数である。これを転じて前紀に加えれば、後紀を得る。加えて会通に満たない場合は、紀首の年の天正合朔において、月は日道の裏にある。満ちて去れば、月は日道の表にある。表に加えて満ちれば裏にあり、裏に加えて満ちれば表にある。

原文交會紀差,十萬三千六百一十。求其數之所生者,置一紀積月以通數乘之,會通去之,所去之餘,紀差之數也。以之轉加前紀,則得後紀。加之未滿會通者,則紀首之歲天正合朔,月在日道裏。滿去之,則月在日道表。加表滿在裏,加裏滿在表。

遅疾紀の差は、三万百八十である。その数が生じる由来を求めるには、一紀の積月を置き、通数を乗じ、通周で除して去り、余りを通周から減じた、減じた余りが紀差の数である。これを転じて前紀から減じれば、後紀を得る。減じるのに不足する場合は、通周を加える。

原文遲疾紀差,三萬一百八十。求其數之所生者,置一紀積月,以通數乘之,通周去之,餘以減通周,所減之餘,紀差之數也。以之轉減前紀,則得後紀。不足減者,加通周。

次元の紀差率を求め、前元の甲寅紀差率から転じて減じ、余りが次元の甲子紀差率である。次紀を求めるのは、上記の方法と同じである。

原文求次元紀差率,轉減前元甲寅紀差率,餘則次元甲子紀差率也。求次紀,如上法也。

朔積月を推算する術は次のとおり。壬辰元以来から、求めようとする年までを置き、外して求める年を、紀法で除し、得られた算の外が、入る紀の第数であり、余りが入紀の年数である。年数を章月で乗じ、章歳で除して一とすれば積月となり、余りが閏余である。閏余が十二以上であれば、その年には閏がある。閏月は中気がないのを正とする。

原文推朔積月術曰:置壬辰元以來,盡所求年,外所求,以紀法除之,所得算外,所入紀第也,餘則入紀年數。年以章月乘之,如章歲而一為積月,不盡為閏餘。閏餘十二以上,其年有閏。閏月以無中氣為正。

朔を推算する術は次のとおり。通数で積月を乗じ、朔積分とし、日法で除して一とすれば積日となり、余りが小余である。六十で積日を去り、余りが大余である。大余を紀から起算し、算の外が、求めようとする年の天正十一月朔日である。次月を求めるには、大余に二十九を加え、小余に二千四百十九を加え、小余が日法に満てば大余に従い、起算は前と同じくし、次月の朔日である。小余が二千百四十以上であれば、その月は大の月である。

原文推朔術曰:以通數乘積月,為朔積分,如日法而一為積日,不盡為小餘。以六十去積日,餘為大餘。大餘命以紀,算外,所求年天正十一月朔日也。求次月,加大餘二十九,小餘二千四百一十九,小餘滿日法從大餘,命如前,次月朔日也。小餘二千一百四十以上,其月大也。

弦望を推算するには、朔の大余に七を加え、小余に千七百四十四を加え、小分に一を加え、小分が二に満てば小余に従い、小余が日法に満てば大余に従い、大余が六十に満てば去り、余りを紀から起算し、算の外が上弦の日である。さらに加えれば望、下弦、後月の朔を得る。その月に月蝕の望がある場合、定小余を、近い中節の間限の如くし、限数以下のものは、算上を日とする。望が中節の前後各四日以内にある場合は、限数を見る。望が中節の前後各五日以上にある場合は、間限を見る。

原文推弦望,加朔大餘七,小餘千七百四十四,小分一,小分滿二從小餘,小餘滿日法從大餘,大餘滿六十去之,餘命以紀,算外,上弦日也。又加得望、下弦、後月朔。其月蝕望者,定小餘,如所近中節間限,限數以下者,算上為日。望在中節前後各四日以還者,視限數;望在中節前後各五日以上者,視間限。

二十四気を推算する術は次のとおり。入る紀の年を置き、外して求める年を、余数で乗じ、紀法に満てば大余とし、余りが小余である。大余が六十に満てば去り、余りを紀から起算し、算の外が天正十一月冬至の日である。次気を求めるには、大余に十五を加え、小余に四百二を加え、小分に十一を加え、小分が気法に満てば小余に従い、小余が紀法に満てば大余に従い、起算は前と同じくし、次気の日である。

原文推二十四氣術曰:置所入紀年,外所求,以餘數乘之,滿紀法為大餘,不盡為小餘。大餘滿六十去之,餘命以紀,算外,天正十一月冬至日也。求次氣,加大餘十五,小餘四百二,小分十一,小分滿氣法從小餘,小餘滿紀法從大餘,命如前,次氣日也。

閏月を推算する術は次のとおり。閏余を章歳から減じ、余りを歳中で乗じ、章閏に満てば一月とし、余りが半法以上でも一月を得る。数は天正十一月から起算し、算の外が閏月である。閏には進退があり、中気がないのをもってこれを定める。

原文推閏月術曰:以閏餘減章歲,餘以歲中乘之,滿章閏得一月,餘滿半法以上亦得一月。數從天正十一月起,算外,閏月也。閏有進退,以無中氣御之。

没滅を推算する術は次のとおり。冬至の積日に小余があるのを因み、積に一を加え、没分で乗じ、没法で除し、得られたものを大余とし、余りが小余である。大余が六十に満てば去り、余りを紀から起算し、算の外が、即ち去年冬至後の没日である。

原文推沒滅術曰:因冬至積日有小餘者,加積一,以沒分乘之,以沒法除之,所得為大餘,不盡為小餘。大餘滿六十去之,餘命以紀,算外,即去年冬至後沒日也。

次の没を求めるには、大余に六十九を加え、小余に五百九十二を加え、小余が没法に満てば一を得て大余に従い、起算は前と同じくする。小余が尽きれば、滅である。

原文求次沒,加大餘六十九,小餘五百九十二,小餘滿沒法得一,從大餘,命如前。小餘盡,為滅也。

五行の用事日を推算する。立春、立夏、立秋、立冬は、即ち木、火、金、水が用事を始める日である。それぞれその大余から十八を減じ、小余から四百八十三を減じ、小分から六を減じ、余りを紀から起算し、算の外が、各四立の前の土用事日である。大余が減じるのに不足する場合は、六十を加える。小余が減じるのに不足する場合は、大余を一減じて紀法を加える。小分が減じるのに不足する場合は、小余を一減じて気法を加える。

原文推五行用事日:立春、立夏、立秋、立冬者,即木、火、金、水始用事日也。各減其大餘十八,小餘四百八十三,小分六,餘命以紀,算外,各四立之前土用事日也。大餘不足減者,加六十;小餘不足減者,減大餘一,加紀法;小分不足減者,減小餘一,加氣法。

卦の用事日を推算する。冬至の大余を因み、その小余を六倍したものが、坎卦の用事日である。小余に万九十一を加え、元法に満てば大余に従い、即ち中孚の用事日である。

原文推卦用事日:因冬至大餘,六其小餘,坎卦用事日也。加小餘萬九十一,滿元法從大餘,即中孚用事日也。

次の卦を求めるには、それぞれ大余に六を加え、小余に九百六十七を加える。四正卦はそれぞれその中日を因み、その小余を六倍する。

原文求次卦,各加大餘六,小餘九百六十七。其四正各因其中日,六其小餘。

日度を推算する術は次のとおり。紀法で朔積日を乗じ、周天に満てば去り、余りを紀法で除し、得られたものを度とし、余りが分である。度を牛宿の前五度から起算し、宿次で除し、宿に満たなければ、天正十一月朔夜半の日の所在する度及び分である。次日を求めるには、日に一度を加え、分は加えず、斗宿を経る時は斗分を除し、分が少なければ一度を退く。

原文推日度術曰:以紀法乘朔積日,滿周天去之,餘以紀法除之,所得為度,不盡為分。命度從牛前五起,宿次除之,不滿宿,則天正十一月朔夜半日所在度及分也。求次日,日加一度,分不加,經斗除斗分,分少退一度。

月の運行を推算する方法は、月周を朔積日に乗じ、周天で割った余りを紀法で除し、得られたものを度とし、余りを分とする。上記の方法に従って計算すると、天正十一月の朔の夜半における月の位置する度と分が求められる。

原文推月度術曰:以月周乘朔積日,滿周天去之,餘以紀法除之,所得為度,不盡為分,命如上法,則天正十一月朔夜半月所在度及分也。

次の月を求めるには、小月の場合は度二十二、分八百六を加え、大月の場合はさらに一日、度十三、分六百七十九を加える。分が紀法に満てば一度とし、次の月の朔の夜半における月の位置する度と分が求められる。冬の下旬には、月は張宿・心宿の区域にあると記す。

原文求次月,小月加度二十二,分八百六;大月又加一日,度十三,分六百七十九;分滿紀法得一度,則次月朔夜半月所在度及分也。其冬下旬,月在張心署之。

合朔の度を推算する方法は、章歳を朔小余に乗じ、通法で割った商を大分とし、余りを小分とする。この大分を朔の夜半の日度分に加え、分が紀法に満てば度に繰り上げ、前述の方法に従って計算すると、天正十一月の合朔における日月が共に合する度が求められる。

原文推合朔度術曰:以章歲乘朔小餘,滿通法為大分,不盡為小分。以大分從朔夜半日度分,分滿紀法從度,命如前,則天正十一月合朔日月所共合度也。

次の月を求めるには、度二十九、大分九百七十七、小分四十二を加える。小分が通法に満てば大分に繰り上げ、大分が紀法に満てば度に繰り上げる。斗宿を経る際にはその分を除き、次の月の合朔における日月が共に合する度が求められる。

原文求次月,加度二十九,大分九百七十七,小分四十二,小分滿通法從大分,大分滿紀法從度。經斗除其分,則次月合朔日月所共合度也。

弦・望の日の位置する度を推算するには、合朔の度に七、大分七百五、小分十、微分一を加える。微分が二に満てば小分に繰り上げ、小分が通法に満てば大分に繰り上げ、大分が紀法に満てば度に繰り上げ、前述の方法に従うと、上弦の日の位置する度が求められる。さらに加えることで望、下弦、次の月の合朔の度が得られる。

原文推弦望日所在度:加合朔度七,大分七百五,小分十,微分一,微分滿二從小分,小分滿通法從大分,大分滿紀法從度,命如前,則上弦日所在度也。又加得望、下弦、後月合也。

弦・望の月の位置する度を推算するには、合朔の度に九十八、大分千二百七十九、小分三十四を加え、数が満ちれば前述の方法に従うと、上弦の月の位置する度が求められる。さらに加えることで望、下弦、次の月の合朔の度が得られる。

原文推弦望月所在度:加合朔度九十八,大分千二百七十九,小分三十四,數滿命如前,即上弦月所在度也。又加得望下弦後月合也。

日月の昏・明の度を推算する方法は、日については紀法を、月については月周を、それぞれ近い節気の夜漏に乗じ、二百で割ったものを明分とする。日については紀法から、月については月周からこれを減じ、余りを昏分とする。それぞれを夜半に加え、規定の方法で度に換算する。

原文推日月昏明度術曰:日以紀法,月以月周,乘所近節氣夜漏,二百而一,為明分。日以減紀法,月以減月周,餘為昏分。各以加夜半,如法為度。

合朔・交会・月蝕を推算する方法は、入る紀の朔積分を置き、その紀の交会差率の数を加え、会通で割った余りを求めると、それが求める年の天正十一月の合朔が交点から離れた度分となる。通数を加え、会通で割った余りが次の月の合朔が交点から離れた度分となる。朔望合数をそれぞれその月の合朔去交度分に加え、会通で割った余りがそれぞれの月の望が交点から離れた度分となる。朔望の去交分が朔望合数以下で、入交限数以上であれば、朔の場合は交会が起こり、望の場合は月蝕が起こる。

原文推合朔交會月蝕術曰:置所入紀朔積分,以所入紀交會差率之數加之,以會通去之,餘則所求年天正十一月合朔去交度分也。以通數加之,滿會通去之,餘則次月合朔去交度分也。以朔望合數各加其月合朔去交度分,滿會通去之,餘則各其月望去交度分也。朔望去交分如朔望合數以下,入交限數以上者,朔則交會,望則月蝕。

合朔・交会・月蝕の際の月が黄道の表(北)か裏(南)かを推算する方法は、入る紀の朔積分を置き、その紀の下の交会差率の数を加え、会通の二倍で割る。余りが会通に満たない場合、紀首が表なら天正合朔の月は表にあり、紀首が裏なら天正合朔の月は裏にある。余りが会通以上であれば、表は裏に、裏は表になる。

原文推合朔交會月蝕月在日道表裏術曰:置所入紀朔積分,以所入紀下交會差率之數加之,倍會通去之,餘不滿會通者,紀首表,天正合朔月在表,紀首裏,天正合朔月在裏。滿會通去之,表在裏,裏在表。

次の月を求めるには、通数を加え、会通で割る。裏に加えて満ちれば表に、表に加えて満ちれば裏になる。先に交会があり後に月蝕がある場合、朔が表にあれば望も表にあり、朔が裏にあれば望も裏にある。先に月蝕があり後に交会がある場合、月蝕した月の朔が裏にあれば望は表にあり、朔が表にあれば望は裏にある。交会・月蝕が朔望合数以下であれば、前が交で後が会となる。入交限数以上であれば、前が会で後が交となる。前交後会で限数に近い場合は、前月を予め観測する。前会後交で限数に近い場合は、後月を後に観測する。

原文求次月,以通數加之,滿會通去之,加裏滿在表,加表滿在裏。先交會後月蝕者,朔在表則望在表,朔在裏則望在裏。先月蝕後交會者,看食月朔在裏則望在表,朔在表則望在裏。交會月蝕如朔望合數以下,則前交後會;如入交限數以上,則前會後交。其前交後會近於限數者,則豫伺之前月;前會後交近於限數者,則後伺之後月。

去交度を求める方法は、前交後会の場合、現在の去交度分を日法で割ったものが、後方への去交度分となる。前会後交の場合、去交度分を会通から引き、余りを日法で割ったものが、前方への去交度となり、余りは度分である。去交度が十五以上では、交会しても蝕は起こらない。十以下では蝕が起こり、十以上では蝕の程度がわずかで、光がかすめる程度である。蝕の大きさは、十五を基準として計算する。

原文求去交度術曰:其前交後會者,今去交度分如日法而一,所得則却去交度分也。其前會後交者,以去交度分減會通,餘如日法而一,所得則前去交度,餘皆度分也。去交度十五以上,雖交不蝕也。十以下是蝕,十以上虧蝕微少,光晷相及而已。虧之多少,以十五為法。

日蝕の欠け始める角を求める方法は、月が外道(黄道より南)にあり、先交後会の場合は、西南の角から欠け始める。先会後交の場合は、東南の角から欠け始める。月が内道(黄道より北)にあり、先交後会の場合は、西北の角から欠け始める。先会後交の場合は、東北の角から欠け始める。蝕分の大小は、上記のように十五を基準とする。交点の中央で会う場合は、完全な蝕となる。月蝕は太陽の正反対で起こり、欠ける角は上記と反対になる。

原文求日蝕虧起角術曰:其月在外道,先交後會者,虧蝕西南角起;先會後交者,虧蝕東南角起。其月在內道,先交後會者,虧食西北角起;先會後交者,虧食東北角起。虧食分多少,如上以十五為法。會交中者,蝕盡。月蝕在日之衝,虧角與上反也。

合朔・交会・月蝕が遅疾暦に入る日を推算する方法は、入る紀の朔積分を置き、その紀の下の遅疾差率の数を加え、通周で割る。余りを日法で割って日数とし、余りを日余とする。日数を外側から数え始めると、求める年の天正十一月の合朔が暦に入る日が得られる。

原文推合朔交會月蝕入遲疾曆術曰:置所入紀朔積分,以所入紀下遲疾差率之數加之,以通周去之,餘滿日法得一日,不盡為日餘,命日算外,則所求年天正十一月合朔入曆日也。

次の月を求めるには、一日、日余四千四百五十を加える。望を求めるには、十四日、日余三千四百八十九を加える。日余が日法に満てば一日とし、日数が二十七に達すればそれを除く。また、余りを周日余で除し、日余が除しきれない場合は一日を減らし、周虚を加える。

原文求次月,加一日,日餘四千四百五十。求望,加十四日,日餘三千四百八十九。日餘滿日法成日,日滿二十七去之。又除餘如周日餘,日餘不足除者,減一日,加周虛。

合朔・交会・月蝕の定大小余を推算するには、入暦日余に、入っている暦の損益率を乗じ、盈縮積分を損益して定積分とする。章歳から入暦月行分を引き、余りで定積分を除し、得られた値を盈の場合は減じ、縮の場合は本小余に加える。加えて日法に満てば、交会の加時は翌日となる。減じて不足すれば、交会の加時は前日となる。月蝕の場合は、定大小余に従って日加時とする。入暦が周日にある場合は、周日日余に縮積分を乗じて定積分とする。損率に入暦日余を乗じ、さらに周日日余を乗じ、周日日度小分を加え、定積分から減じて後定積分とする。章歳から周日の月行分を引き、余りに周日日余を乗じ、周日日度小分を加え、後定積分を除し、得られた値を本小余に加え、上記の方法に従う。

原文推合朔交會月蝕定大小餘:以入曆日餘,乘所入曆損益率,以損益盈縮積分為定積分。以章歲減所入曆月行分,餘以除之,所得以盈減縮加本小餘。加之滿日法者,交會加時在後日;減之,不足者,交會加時在前日。月蝕者,隨定大小餘為日加時。入曆在周日者,以周日日餘乘縮積分,為定積分。以損率乘入曆日餘,又以周日日餘乘之,以周日日度小分并之,以損定積分,餘為後定積分。以章歲減周日月行分,餘以周日日餘乘之,以周日度小分并之,以除後定積分,所得以加本小餘,如上法。

推加時:十二を乗じて小餘を定め、日法で割って一辰を得る。数は子から始め、算外とし、これが朔望加時の所在する辰である。余りが尽きない場合は四倍し、日法で割って一を少とし、二を半とし、三を太とする。さらに余りがある場合は三倍し、日法で割って一を強とする。半法以上は繰り上げて一とし、半法に満たない場合は廃棄する。強を少に加えて少強とし、半に加えて半強とし、太に加えて太強とする。二強を得た場合は少弱とし、これに少を加えて半弱とし、半を加えて太弱とし、太を加えて一辰弱とする。所在する辰を以て名付け、それぞれ少、太、半および強、弱を得る。月蝕の望が中節の前後四日以内にある場合は限数を視、五日以上にある場合は間限を視る。定小餘が間限・限数以下の場合、算上を以て日とする。

原文推加時:以十二乘定小餘,滿日法得一辰,數從子起,算外,則朔望加時所在辰也。有餘不盡者四之,如日法而一為少,二為半,三為太。又有餘者三之,如日法而一為強,半法以上排成之,不滿半法廢棄之。以強并少為少強,并半為半強,并太為太強。得二強者為少弱,以之并少為半弱,以之并半為太弱,以之并太為一辰弱。以所在辰命之,則各得其少、太、半及強、弱也。其月蝕望在中節前後四日以還者,視限數;五日以上者,視間限。定小餘如間限、限數以下者,以算上為日。

右の如く中節二十四気を求め、術に従って求めるならば、冬至十一月中を得る。これを加えて次月の節を得、節を加えてその月の中を得る。中星は日の所在を以て正とする。求めようとする年の二十四気の小餘を四倍し、法で割って一を得るを少とし、尽きない少を三倍し、法で割って強とする。得たものでその節気の昏明中星をそれぞれ減じて定める。

原文右中節二十四氣,如術求之,得冬至十一月中也。加之得次月節,加節得其月中。中星以日所在為正。置所求年二十四氣小餘四之,如法得一為少,不盡少三之,如法為強。所得以減其節氣昏明中星各定。

五星の術を推す:

原文推五星術:

五星とは、木は歳星、火は熒惑、土は填星、金は太白、水は辰星という。凡そ五星の運行には、遅いものと速いものがあり、留と逆がある。昔、天地開闢の時、清濁が分かれて以来、日月五星は星紀に集まった。星紀から発し、並んで天を巡り、遅疾留逆し、互いに追い及ぶ。星が日と会い、同じ宿・同じ度にあるのを合という。合から合までの日数を終という。それぞれ一終の日数と一歳の日数を通分して約し、終を率として、歳数歳を合終歳数、歳終を合終合数という。二率が定まれば、法数が生じる。章歳に合数を乗じて合月法とし、紀法に合数を乗じて日度法とし、章月に歳数を乗じて合月分とし、合月法で割って合月数とし、合月の余りを月餘とする。通数に合月数を乗じ、日法で割って大餘とし、六十を以て大餘を去り、余りを星合朔大餘とする。大餘の余りを朔小餘とする。通数に月餘を乗じ、合月法に朔小餘を乗じ、合わせ、日法に合月法を乗じたもので除し、得たものを星合入月日数とする。余りを通法で約して、入月日餘とする。朔小餘を日法から減じ、余りを朔虚分とする。暦斗分に合数を乗じて、星度斗分とする。木、火、土はそれぞれ合数を歳数から減じ、余りに周天を乗じ、日度法で割り、得たものを行星度数とし、余りを度餘とする。金、水は周天に歳数を乗じ、日度法で割り、得たものを行星度数とし、余りを度餘とする。

原文五星者,木曰歲星,火曰熒惑,土曰填星,金曰太白,水曰辰星。凡五星之行,有遲有疾,有留有逆。曩自開闢,清濁始分,則日月五星聚于星紀。發自星紀,並而行天,遲疾留逆,互相逮及。星與日會,同宿共度,則謂之合。從合至合之日,則謂之終。各以一終之日與一歲之日,通分相約,終而率之,歲數歲則謂之合終歲數,歲終則謂之合終合數。」。二率既定,則法數生焉。以章歲乘合數為合月法,以紀法乘合數為日度法,以章月乘歲數為合月分,如合月法為合月數,合月之餘為月餘。以通數乘合月數,如日法而一為大餘,以六十去大餘,餘為星合朔大餘。大餘之餘為朔小餘。以通數乘月餘,以合月法乘朔小餘,并之,以日法乘合月法除之,所得星合入月日數也。餘以通法約之,為入月日餘。以朔小餘減日法,餘為朔虛分。以曆斗分乘合數,為星度斗分。木、火、土各以合數減歲數,餘以周天乘之,如日度法而一,所得則行星度數也,餘則度餘。金、水以周天乘歲數,如日度法而一,所得則行星度數也,餘則度餘。

木:合終歳数、千二百五十五。

原文木:合終歲數,千二百五十五。

合終合数、千一百四十九。

原文合終合數,千一百四十九。

合月法、二万一千八百三十一。

原文合月法,二萬一千八百三十一。

日度法、二百十一万七千六百七。

原文日度法,二百一十一萬七千六百七。

合月数、十三。

原文合月數,十三。

月餘、一万一千一百二十二。

原文月餘,萬一千一百二十二。

朔大餘、二十三。

原文朔大餘,二十三。

朔小餘、四千九十三。

原文朔小餘,四千九十三。

入月日、十五。

原文入月日,十五。

日餘、百九十九万五千六百六十四。

原文日餘,百九十九萬五千六百六十四。

朔虚分、四百六十六。

原文朔虛分,四百六十六。

斗分は、五十二万二千七百九十五。

原文斗分,五十二萬二千七百九十五。

行星の度数は、三十三。

原文行星度,三十三。

度余は、百四十七万二千八百六十九。

原文度餘,百四十七萬二千八百六十九。

火星:合終歳数は、五千百五。

原文火:合終歲數,五千一百五。

合終合数は、二千三百八十八。

原文合終合數,二千三百八十八。

合月法は、四万五千三百七十二。

原文合月法,四萬五千三百七十二。

日度法は、四百四十万一千八十四。

原文日度法,四百四十萬一千八十四。

合月数は、二十六。

原文合月數,二十六。

月余は、二万三。

原文月餘,二萬三。

朔大余は、四十七。

原文朔大餘,四十七。

朔小余は、三千六百二十七。

原文朔小餘,三千六百二十七。

入月日は、十三。

原文入月日,十三。

日余は、三百五十八万五千二百三十。

原文日餘,三百五十八萬五千二百三十。

朔虚分は、九百三十二。

原文朔虛分,九百三十二。

斗分は、百八万六千五百四十。

原文斗分,百八萬六千五百四十。

惑星の運行度数、五十。

原文行星度,五十。

度の余り、百四十一万二千百五十。

原文度餘,百四十一萬二千一百五十。

土星:合の終わりの歳数、三千九百四十三。

原文土:合終歲數,三千九百四十三。

合の終わりの合数、三千八百九。

原文合終合數,三千八百九。

合の月法、七万二千三百七十一。

原文合月法,七萬二千三百七十一。

日の度数法、七百一万九千九百八十七。

原文日度法,七百一萬九千九百八十七。

合の月数、十二。

原文合月數,十二。

月の余り、五万八千百五十三。

原文月餘,五萬八千一百五十三。

朔の大余、五十四。

原文朔大餘,五十四。

朔の小余、千六百七十四。

原文朔小餘,千六百七十四。

入月の日、二十四。

原文入月日,二十四。

日の余り、六十七万五千三百六十四。

原文日餘,六十七萬五千三百六十四。

朔の虚分、二千八百八十五。

原文朔虛分,二千八百八十五。

斗分、百七十三万三千九十五。

原文斗分,百七十三萬三千九十五。

惑星の運行度数、十二。

原文行星度,十二。

余り、五百九十六万二千二百五十六。

原文度餘,五百九十六萬二千二百五十六。

金:合計終年の数、千九百七。

原文金:合終歲數,千九百七。

合計終合の数、二千三百八十五。

原文合終合數,二千三百八十五。

合月法、四万五千三百一十五。

原文合月法,四萬五千三百一十五。

日度法、四百三十九万五千五百五十五。

原文日度法,四百三十九萬五千五百五十五。

合月数、九。

原文合月數,九。

月余り、四万三百一十。

原文月餘,四萬三百一十。

朔の大余、二十五。

原文朔大餘,二十五。

朔の小余、三千五百三十五。

原文朔小餘,三千五百三十五。

入月日、二十七。

原文入月日,二十七。

日余り、十九万四千九百九十。

原文日餘,十九萬四千九百九十。

朔虚分、千二十四。

原文朔虛分,千二十四。

斗分、百八万五千一百七十五。

原文斗分,百八萬五千一百七十五。

行星の度、二百九十二。

原文行星度,二百九十二。

度余り、十九万四千九百九十。

原文度餘,十九萬四千九百九十。

水星:合の終歳数は、千八百七十。

原文水:合終歲數,一千八百七十。

合の終合数は、一万一千七百八十九。

原文合終合數,萬一千七百八十九。

合の月法は、二十二万三千九百九十一。

原文合月法,二十二萬三千九百九十一。

日度法は、二千百七十二万七千百二十七。

原文日度法,二千一百七十二萬七千一百二十七。

合の月数は、一。

原文合月數,一。

月余は、二十一万五千四百五十九。

原文月餘,二十一萬五千四百五十九。

朔大余は、二十九。

原文朔大餘,二十九。

朔小余は、二千四百十九。

原文朔小餘,二千四百一十九。

入月日は、二十八。

原文入月日,二十八。

日余は、二千三十四万四千二百六十一。

原文日餘,二千三十四萬四千二百六十一。

朔虚分は、二千百四十。

原文朔虛分,二千一百四十。

斗分は、五百三十六万三千九百九十五。

原文斗分,五百三十六萬三千九百九十五。

行星度は、五十七。

原文行星度,五十七。

度余は、二千三十四万四千二百六十一。

原文度餘,二千三十四萬四千二百六十一。

五星を推算する術は次のように言う。壬辰元以来から求めようとする年までを置き、合終合数を乗じ、合終歳数で割って得たものを積合と名付け、割り切れないものを合余と名付ける。合終合数から合余を引き、一を得れば星は往年に合し、二を得れば前年に合し、得るものがなければその年に合する。余りを合終合数から引いたものを度分とする。金星・水星の積合は、偶数であれば晨、奇数であれば夕となる。

原文推五星術曰:置壬辰元以來盡所求年,以合終合數乘之,滿合終歲數得一,名積合,不盡名合餘。以合終合數減合餘,得一者星合往年,得二者合前往年,無所得,合其年。餘以減合終合數,為度分。金、水積合,偶為晨,奇為夕。

五星の合月を推算するには、月数と月余をそれぞれ積合に乗じ、余りが合月法に満ちれば月に加え、積月とする。満たない分は月余とする。積月を紀月で除し、得られた数(算外)が入る紀であり、余りは入紀月である。副として章閏を乗じ、章月で満たせば一を得て閏とし、入紀月から減じ、余りを歳中から去り、余りを入歳月とし、天正から起算し(算外)、星の合月とする。閏の交際にある場合は、朔を用いてこれを制御する。

原文推五星合月:以月數月餘各乘積合,餘滿合月法從月,為積月,不盡為月餘。以紀月除積月,所得算外,所入紀也,餘為入紀月。副以章閏乘之,滿章月得一為閏,以減入紀月,餘以歲中去之,餘為入歲月,命以天正起,算外,星合月也。其在閏交際,以朔御之。

合月の朔を推算するには、通数に入紀月を乗じ、日法で満たせば一を得て積日とし、満たない分は小余とする。積日から六十を去り、余りを大余とし、入る紀から起算し(算外)、星の合朔日とする。

原文推合月朔:以通數乘入紀月,滿日法得一為積日,不盡為小餘。以六十去積日,餘為大餘,命以所入紀,算外,星合朔日也。

入月日を推算するには、通数に月余を乗じ、合月法に朔小余を乗じ、合わせて通法で約し、得られた数が日度法で満たせば一となり、星の合入月日とする。満たない分は日余とする。日を朔から起算し(算外)、入月日とする。

原文推入月日:以通數乘月餘,合月法乘朔小餘,并之,通法約之,所得滿日度法得一,則星合入月日也,不滿為日餘。命日以朔,算外,入月日也。

星の合度を推算するには、周天に度分を乗じ、日度法で満たせば一を得て度とし、満たない分は余とする。牛宿の前五度から起算し(算外)、星の合度とする。

原文推星合度:以周天乘度分,滿日度法得一為度,不盡為餘,命以牛前五度起,算外,星所合度也。

後の合月を求めるには、月数を入歳月に加え、余りを月余に加える。余りが合月法に満てば一月を得、月が歳中に満たなければその年に在る。満ちて去れば閏を計り、余りは後年となる。再び満ちれば、後二年に在る。金星・水星は晨に加えれば夕を得、夕に加えれば晨を得る。

原文求後合月,以月數加入歲月,以餘加月餘,餘滿合月法得一月,月不滿歲中,即在其年;滿去之,有閏計焉,餘為後年;再滿,在後二年。金、水加晨得夕,加夕得晨也。

後の合朔を求めるには、朔の大小余の数を合朔月の大小余に加える。月余が月を成す場合は、さらに大余二十九、小余二千四百一十九を加える。小余が日法に満ちれば大余に従い、前法のように起算する。

原文求後合朔,以朔大小餘數加合朔月大小餘,其月餘上成月者,又加大餘二十九,小餘二千四百一十九。小餘滿日法從大餘,命如前法。

後の入月日を求めるには、入月日と日余を入月日及び余りに加える。余りが日度法に満てば一を得る。前の合朔の小余がその虚分に満つ場合は一日を去る。後の小余が二千四百一十九以上に満つ場合は二十九日を去る。満たなければ三十日を去り、その余りが後の合入月日となり、朔から起算する。後の合度を求めるには、度数及び分を、前の合宿次と同じように起算する。

原文求後入月日,以入月日、日餘加入月日及餘,餘滿日度法得一。其前合朔小餘滿其虛分者,去一日;後小餘滿二千四百一十九以上,去二十九日;不滿,去三十日,其餘則後合入月日,命以朔。求後合度,以度數及分,如前合宿次命之。

木星:晨に日と合し、伏し、順行、十六日九十九万七千八百三十二分、行星二度百七十九万五千二百三十八分し、晨に東方に現れ、日の後にある。順行、疾く、日行五十七分の十一、五十七日で十一度行く。順行、遅く、日行九分、五十七日で九度行き留まる。行かず、二十七日で旋回する。逆行、日行七分の一、八十四日で十二度退き、再び留まる二十七日。再び遅く、日行九分、五十七日で九度行き再び順行する。疾く、日行十一分、五十七日で十一度行き、日の前に在り、夕に西方に伏す。順行、十六日九十九万七千八百三十二分、行星二度百七十九万五千二百三十八分し、日と合する。凡そ一終、三百九十八日百九十九万五千六百六十四分、行星三十三度百四十七万二千八百六十九分。

原文木:晨與日合,伏,順,十六日九十九萬七千八百三十二分,行星二度百七十九萬五千二百三十八分,而晨見東方,在日後。順,疾,日行五十七分之十一,五十七日行十一度。順,遲,日行九分,五十七日行九度而留。不行,二十七日而旋。逆,日行七分之一,八十四日退十二度,而復留二十七日。復遲,日行九分,五十七日行九度而復順。疾,日行十一分,五十七日行十一度,在日前,夕伏西方。順,十六日九十九萬七千八百三十二分,行星二度百七十九萬五千二百三十八分,而與日合。凡一終,三百九十八日百九十九萬五千六百六十四分,行星三十三度百四十七萬二千八百六十九分。

火星:晨に日と合し、伏し、七十二日百七十九万二千六百一十五分、行星五十六度百二十四万九千三百四十五分し、晨に東方に現れ、日の後にある。順行、日行二十三分の十四、百八十四日で百十二度行く。更に順行、遅く、日行十二分、九十二日で四十八度行き留まる。行かず、十一日で旋回する。逆行、日行六十二分の十七、六十二日で十七度退き、再び留まる十一日。再び順行、遅く、日行十二分、九十二日、四十八度行き再び疾くなる。日行十四分、百八十四日で百十二度行き、日の前に在り、夕に西方に伏す。順行、七十二日百七十九万二千六百一十五分、行星五十六度百二十四万九千三百四十五分し、日と合する。凡そ一終、七百八十日三百五十八万五千二百三十分、行星四百十五度二百四十九万八千六百九十分。

原文火:晨與日合,伏,七十二日百七十九萬二千六百一十五分,行星五十六度百二十四萬九千三百四十五分,而晨見東方,在日後。順,日行二十三分之十四,百八十四日行百一十二度。更順,遲,日行十二分,九十二日行四十八度而留。不行,十一日而旋。逆,日行六十二分之十七,六十二日退十七度,而復留十一日。復順,遲,日行十二分,九十二日,行四十八度而復疾。日行十四分,百八十四日行百一十二度,在日前,夕伏西方。順,七十二日百七十九萬二千六百一十五分,行星五十六度百二十四萬九千三百四十五分,而與日合。凡一終,七百八十日三百五十八萬五千二百三十分,行星四百一十五度二百四十九萬八千六百九十分。

土星:晨に日と合し、伏し、十九日三百八十四万七千六百七十五分半、行星二度六百四十九万一千一百二十一分半し、晨に東方に現れ、日の後にある。順行、百七十二分の十三行き、八十六日で六度半行き留まる。行かず、三十二日半で旋回する。逆行、日行十七分の一、百二日で六度退き再び留まる。行かず、三十二日半再び順行し、日行十三分、八十六日で六度半行き、日の前に在り、夕に西方に伏す。順行、十九日三百八十四万七千六百七十五分半、行星二度六百四十九万一千一百二十一分半し、日と合する。凡そ一終、三百七十八日六十七万五千三百六十四分、行星十二度五百九十六万二千二百五十六分。

原文土:晨與日合,伏,十九日三百八十四萬七千六百七十五分半,行星二度六百四十九萬一千一百二十一分半,而晨見東方,在日後。順,行百七十二分之十三,八十六日行六度半而留。不行,三十二日半而旋。逆,日行十七分之一,百二日退六度而復留。不行,三十二日半復順,日行十三分,八十六日行六度半,在日前,夕伏西方。順,十九日三百八十四萬七千六百七十五分半,行星二度六百四十九萬一千一百二十一分半,而與日合。凡一終,三百七十八日六十七萬五千三百六十四分,行星十二度五百九十六萬二千二百五十六分。

金星:晨に日と合し、伏し、六日で四度退き、晨に東方に現れ、日の後にあるが逆行する。遅く、日行五分の三、十日で六度退く。留まり、行かず、七日で旋回する。順行、遅く、日行四十五分の三十三、四十五日で三十三度行き順行する。疾く、日行一度九十一分の十四、九十一日で百五度行き順行する。益々疾く、日行一度九十一分の二十一、九十一日で百十二度行き、日の後に在り、晨に東方に伏す。順行、四十二日十九万四千九百九十分、行星五十二度十九万四千九百九十分し、日と合する。一合、二百九十二日十九万四千九百九十分、行星も同じ。

原文金:晨與日合,伏,六日退四度,而晨見東方,在日後而逆。遲,日行五分之三,十日退六度。留,不行,七日而旋。順,遲,日行四十五分之三十三,四十五日行三十三度而順。疾,日行一度九十一分之十四,九十一日行百五度而順。益疾,日行一度九十一分之二十一,九十一日行百一十二度,在日後,而晨伏東方。順,四十二日十九萬四千九百九十分,行星五十二度十九萬四千九百九十分,而與日合。一合,二百九十二日十九萬四千九百九十分,行星如之。

金星:夕に日と合し、伏し、順行、四十二日十九万四千九百九十分、行星五十二度十九万四千九百九十分し、夕に西方に現れ、日の前にある。順行、疾く、日行一度九十一分の二十一、九十一日で百十二度行き更に順行する。遅く、日行一度十四分、九十一日で百五度行き順行する。益々遅く、日行四十五分の三十三、四十五日で三十三度行き留まる。行かず、七日で旋回する。逆行、日行五分の三、十日で六度退き、日の前に在り、夕に西方に伏す。逆行、六日、四度退き、日と合する。凡そ再合一終、五百八十四日三十八万九千九百八十分、行星も同じ。

原文金:夕與日合,伏,順,四十二日十九萬四千九百九十分,行星五十二度十九萬四千九百九十分,而夕見西方,在日前。順,疾,日行一度九十一分之二十一,九十一日行百一十二度而更順。遲,日行一度十四分,九十一日行百五度而順。益遲,日行四十五分之三十三,四十五日行三十三度而留。不行,七日而旋。逆,日行五分之三,十日退六度,在日前,夕伏西方。逆,六日,退四度,而與日合。凡再合一終,五百八十四日三十八萬九千九百八十分,行星如之。

水星:晨に日と合し、伏し、十一日で七度退き、晨に東方に現れ、日の後にある。逆行、疾く、一日で一度退き留まる。行かず、一日で旋回する。順行、遅く、日行八分の七、八日で七度行き順行する。疾く、日行一度十八分の四、十八日で二十二度行き、日の後に在り、晨に東方に伏す。順行、十八日二千三十四万四千二百六十一分、行星三十六度二千三十四万四千二百六十一分し、日と合する。凡そ一合、五十七日二千三十四万四千二百六十一分、行星も同じ。

原文水:晨與日合,伏,十一日退七度,而晨見東方,在日後。逆,疾,一日退一度而留。不行,一日而旋。順,遲,日行八分之七,八日行七度而順。疾,日行一度十八分之四,十八日行二十二度,在日後,晨伏東方。順,十八日二千三十四萬四千二百六十一分,行星三十六度二千三十四萬四千二百六十一分,而與日合。凡一合,五十七日二千三十四萬四千二百六十一分,行星如之。

水星:夕方に太陽と合し、伏し、十八日二千三十四万四千二百六十一分で、三十六度二千三十四万四千二百六十一分を運行し、夕方に西方に現れ、太陽の前にある。順行、疾速、一日に一度と十八分の四を運行し、十八日で二十二度を運行してさらに順行する。遅行、一日に八分の七を運行し、八日で七度を運行して留まる。運行せず、一日で回転する。逆行、一日に一度退き、太陽の前で、夕方に西方に伏す。逆行、十一日で七度退き、太陽と合する。凡べて再び合して一終となり、百一十五日千八百九十六万一千三百九十五分で、運行する度数もこれと同じである。

原文水:夕與日合,伏,十八日二千三十四萬四千二百六十一分,行星三十六度二千三十四萬四千二百六十一分,而夕見西方,在日前。順,疾,日行一度十八分之四,十八日行二十二度而更順。遲,日行八分之七,八日行七度而留。不行,一日而旋。逆,一日退一度,在日前,夕伏西方。逆,十一日退七度,而與日合。凡再合一終,百一十五日千八百九十六萬一千三百九十五分,行星如之。

五星の暦歩術:法による伏日と度余を、星の合日と度余に加え、余りが日度法に満てば一を全に従わせ、前のように命じて、星の見える日と度余を得る。星の運行の分母で見える度分を乗じ、日度法で割って一を得、分が尽きなければ、半法以上もまた一を得、そして日に運行分を加え、分がその母に満てば一度を得る。逆行順行で母が同じでない場合は、当行する母で旧分を乗じ、旧母で割って、当行分とする。留は前を承け、逆行ならばこれを減じ、伏は度を記さず、斗分を除き、運行の母を率とする。分に損益があり、前後で互いに制御する。

原文五星曆步術:以法伏日度餘,加星合日度餘,餘滿日度法得一從全,命之如前,得星見日及度餘也。以星行分母乘見度分,如日度法得一,分不盡,半法以上,亦得一,而日加所行分,分滿其母得一度。逆順母不同,以當行之母乘故分,如故母而一,當行分也。留者承前,逆則減之,伏不書度,除斗分,以行母為率。分有損益,前後相御。

凡べて五星が天を運行するのは、遅疾留逆があり、大率として常があるとはいえ、犯守逆順に至っては、術で推すのは難しい。月の天を運行するにも、なお遅疾があるのに、まして五星であろうか。ただ太陽の天を運行するのは常があり、進退に率があり、遅からず疾からず、外れず内れず、人君の徳である。

原文凡五星行天,遲疾留逆,雖大率有常,至犯守逆順,難以術推。月之行天,猶有遲疾,況五星乎。唯日之行天有常,進退有率,不遲不疾,不外不內,人君德也。

木星の合終歳数を求める法は、木星の日度法で一木終の日数を乗じ、内分し、周天で除すれば、即ち得られる。

原文求木合終歲數法,以木日度法乘一木終之日,內分,周天除之,即得也。

木星の合終合数を求める法は、木星の日度法で周天を乗じ、紀法で満たし、得たものを再び周天で除すれば、即ち得られる。五星は皆これに倣う。

原文求木合終合數法,以木日度法乘周天,滿紀法,所得復以周天除之,即得。五星皆放此也。

魏の黄初元年十一月は小の月、己卯蔀首、己亥歳、十一月己卯朔旦冬至、臣の偉が上奏した。」

原文魏黃初元年十一月小,己卯蔀首,己亥歲,十一月己卯朔旦冬至,臣偉上。」

蜀の劉氏は、改暦が見られないが、おそらく漢の四分法を引き続き用いたのであろう。呉の中書令闞沢は、東萊の徐岳(字あざなは公河)から劉洪の乾象法を受けた。故に孫氏は乾象暦を用い、呉が滅ぶに至った。

原文劉氏在蜀,不見改曆,當是仍用漢四分法。吳中書令闞澤受劉洪乾象法於東萊徐岳字公河。故孫氏用乾象曆,至于吳亡。

晋の武帝泰始元年、有司が上奏した:「王者は祖気を祖としてその□終を奉じる。晋は五行の次第において金に応じるべきであり、金は己に生じ、酉に事え、丑に終わる。酉の日を以て祖とし、丑の日を以て臘とすべきである。景初暦を改めて泰始暦とする。」奏は許可された。

原文晉武帝泰始元年,有司奏:「王者祖氣而奉其□終,晉於五行之次應尚金,金生於己,事於酉,終於丑,宜祖以酉日,臘以丑日。改景初曆為泰始曆。」奏可。

史臣が鄒衍の五徳説を検討すると、周は火行である。衍は周の時代に生きており、周氏の行運を知らないはずがない。かつ周の歴年は八百年であり、秦氏は即ち周の建国である。周の火木については、その事柄は容易に詳らかである。かつ五徳が代々王となるのは、ただ二家の説があるのみである。鄒衍は相勝を以て体を立て、劉向は相生を以て義とする。これに拠って言えば、この二家を出ることはできない。仮に劉向の説に即せば、周は木行であり、秦氏が周に代わって、その行運を改めた。もし相勝でなければ、木を克つ者は金である。相生であれば木は実は火を生む。秦氏は水徳を称したが、理として誤りではない。これでは劉氏の証拠とするものは当たらない。臣は張蒼は漢の臣ではあるが、生まれは周と接しており、秦の柱下を司り、図書を備覧したと考える。かつ秦は学を滅ぼしたが、術数は廃さなかったのであれば、周の遺文が全て残っているわけではないが、漢の水行に拠れば、事柄は虚作ではない。賈誼は秦を取って「漢は土徳である」と言った。おそらくこれによって漢が秦に代わったのであろう。二説を詳論すれば、それぞれにその義がある。張蒼は漢の水が周の火に勝つとし、秦を廃して五徳に列さなかった。賈誼は漢の土が秦の水に勝つとし、秦を一代とした。秦と漢を論じるのは異なるが、周が火であることは一つである。そうすると相勝の義は、事柄において長じている。もし張蒼と同じく秦を退けるならば、漢は水、魏は土、晋は木、宋は金である。もし賈誼と同じく秦を取るならば、漢は土、魏は木、晋は金、宋は火である。難じる者が言うには:「漢の高祖が蛇を斬ると神母が夜に哭き、赤帝の子が白帝の子を殺したと言った。そうすると漢は火でなくて何であろうか?」これもまたそうではない。漢がもし火であるならば、赤帝と言うべきで、赤帝の子と言うべきではない。白帝の子はまたどういう意味であろうか?おそらく漢は土徳であり、土は火より生じ、秦は水徳であり、水は金より生じる。これでは漢は土を以て赤帝の子とし、秦は水徳を以て白帝の子としたのである。難じる者はまた言う:「先に五徳相勝と言い、今また土が赤帝の子であると言うのは、どういうことか?」答えて言う:「五行には自ら相勝の義があり、自ら相生の義がある。相勝を以て相生を廃し、相生を以て相勝を廃することはできない。相勝とは、土が水に勝つことである。相生とは、土は自ら火の子であり、その義はどうして関連があろうか。」

原文史臣按鄒衍五德,周為火行。衍生在周時,不容不知周氏行運。且周之為曆年八百,秦氏即有周之建國也。周之火木,其事易詳。且五德更王,唯有二家之說。鄒衍以相勝立體,劉向以相生為義。據以為言,不得出此二家者。假使即劉向之說,周為木行,秦氏代周,改其行運。若不相勝,則克木者金;相生則木實生火。秦氏乃稱水德,理非謬然。斯則劉氏所證為不值矣。臣以為張蒼雖是漢臣,生與周接,司秦柱下,備覩圖書。且秦雖滅學,不廢術數,則有周遺文雖不畢在,據漢水行,事非虛作。賈誼取秦云:「漢土德。」蓋以是漢代秦。詳論二說,各有其義。張蒼則以漢水勝周火,廢秦不班五德。賈誼則以漢土勝秦水,以秦為一代。論秦、漢雖殊,而周為火一也。然則相勝之義,於事為長。若同蒼黜秦,則漢水、魏土、晉木、宋金;若同賈誼取秦,則漢土、魏木、晉金、宋火也。難者云:「漢高斷蛇而神母夜哭,云赤帝子殺白帝子,然則漢非火而何?」斯又不然矣。漢若為火,則當云赤帝,不宜云赤帝子也。白帝子又何義況乎?蓋由漢是土德,土生乎火,秦是水德,水生乎金,斯則漢以土為赤帝子,秦以水德為白帝子也。難者又曰:「向云五德相勝,今復云土為赤帝子,何也?」答曰:「五行自有相勝之義,自有相生之義。不得以相勝廢相生,相生廢相勝也。相勝者,以土勝水耳;相生者,土自火子,義豈相關。」

崔寔の『四民月令』に曰く:祖とは、道の神である。黄帝の子を累祖と言い、遠遊を好み、道路で死んだ。故に祀って道の神とする。嵇含の『祖道賦』序に曰く:漢は丙午を用い、魏は丁未を用い、晋は孟月の酉を用いる。祖の由来を知る者はない。説く者は道の神に祈請することを祖と言い、道に事ある者は、君子が行役すれば則ちこれを中路に列し、喪者が遷されんとすれば則ち階庭に名を称えると言う。あるいは言う、百代の遠祖は、名諡が彫滅し、墳塋が銘表に再び存せず、游魂が廟祧に託することができない。故に初歳の良辰に、華蓋を建て、綵旌を揚げ、以て霊爽を招き、庶幾くば衆祖の来憑かんことを、と。

原文崔寔四民月令曰:祖者,道神。黃帝之子曰累祖,好遠遊,死道路,故祀以為道神。嵇含祖道賦序曰:漢用丙午,魏用丁未,晉用孟月之酉。曰莫識祖之所由。說者云祈請道神,謂之祖有事於道者,君子行役,則列之於中路,喪者將遷,則稱名於階庭。或云,百代遠祖,名諡彫滅,墳塋不復存於銘表,游魂不得託於廟祧,故以初歲良辰,建華蓋,揚綵旌,將以招靈爽,庶眾祖之來憑云爾。

晋の武帝の時、侍中じちゅう平原の劉智は、三百年の斗暦改憲を推し、四分法は三百年で一日を減じると考え、百五十を度法とし、三十七を斗分とした。浮説で飾り、以てその理を扶けた。江左の中領軍琅邪の王朔之はその上元歳が甲子にあることを以て、その術を善しとし、九万七千歳の甲子を開闢の始めとしようとした。何承天が「立意に悼む」と言ったものである。景初の日中晷景は、即ち漢の四分法を用いたので、これによって次第に乖差に就いた。その五星を推すことは、則ち甚だ疏闊であった。晋の江左以来、更に乾象五星法を用いてこれに代えたが、なお前却があった。

原文晉武帝時,侍中平原劉智,推三百年斗曆改憲,以為四分法三百年而減一日,以百五十為度法,三十七為斗分。飾以浮說,以扶其理。江左中領軍琅邪王朔之以其上元歲在甲子,善其術,欲以九萬七千歲之甲子為開闢之始,何承天云「悼於立意」者也。景初日中晷景,即用漢四分法,是以漸就乖差。其推五星,則甚疏闊。晉江左以來,更用乾象五星法以代之,猶有前却。

宋の太祖は頗る暦数を好み、太子率更令の何承天が私かに新法を撰した。元嘉二十年、上表して曰く:

原文宋太祖頗好曆數,太子率更令何承天私撰新法。元嘉二十年,上表曰:

詔して曰く:「何承天の陳べるところは、殊に理拠がある。外に付して詳しくせよ。」

原文詔曰:「何承天所陳,殊有理據。可付外詳之。」

太史令の銭楽之、兼丞の厳粲が奏して曰く:

原文太史令錢樂之、兼丞嚴粲奏曰:

員外散騎郎の皮延宗がまた何承天を難じて言った:「もし晦朔で大小余を定め、紀首が盈に値すれば、則ち一日を退け、便ち故歳の晦を以て新紀の首とすべきである。」承天は乃ち新法を改めて旧術に依り、再び每月大小余を定めず、延宗の難じたように、太史の上ったようにした。

原文員外散騎郎皮延宗又難承天:「若晦朔定大小餘,紀首值盈,則退一日,便應以故歲之晦,為新紀之首。」承天乃改新法依舊術,不復每月定大小餘,如延宗所難,太史所上。

役人が上奏した。「暦法を制定し法令を改めることは、国家を治める盛大な儀式であり、漢や魏に至るまで、たびたび変革が行われてきた。それは、術に常に正しいものがあるわけではなく、その時代に合わせて採用されるからである。今、皇帝の道は輝きを増し、旧来の領土に光が及んでいる。まさに日影の度合いを総合的に検討し、維新の世に広めるべきである。承天の暦術は、採用に適している。宋の二十二年より、元嘉暦を広く用いることとする。」詔が下り、許可された。

原文有司奏:「治曆改憲,經國盛典,爰及漢、魏,屢有變革。良由術無常是,取協當時。方今皇猷載暉,舊域光被,誠應綜覈晷度,以播維新。承天曆術,合可施用。宋二十二年,普用元嘉曆。」詔可。