宋書

宋書 巻十一

宋書 巻十一

左史は言を記し、右史は事を記す。事は春秋がこれであり、言は尚書がこれである。楚書・鄭志・晉乗・楚杌の篇に至るまで、皆、前史を明らかに述べて、後世に泯びさせないようにしたものである。

原文左史記言,右史記事,事則春秋是也,言則尚書是也。至於楚書、鄭志、晉乘、楚杌之篇,皆所以昭述前史,俾不泯於後。

司馬遷は一家の言を制定し、初めて名称と題目を区別した。礼儀や刑政について尽くせないところがあると、紀伝の外に八書を創立し、断片的な文や些細な事柄も、大小を問わず全て挙げた。班固はこれを受け継ぎ、前の形式に背かず、一つの時代を網羅し、条理と流れは遂に広くなった。律暦・礼楽はその名を変えず、天官を天文とし、封禅を郊祀こうしと改め、貨殖・平準の称を易え、河渠・溝洫の名を革めた。荀卿の辞を綴じて刑法を述べ、孟軻の書を採って食貨を序した。劉向の『鴻範』は春秋に始まり、劉歆の『七略』は儒と墨を異なる部類とした。朱贛は風謠を広く採集し、特に詳しくまとめた。班固はこれら全てを踏襲して三志とした。しかし礼楽は疎略で、漏れているところが多く、典章や事柄の数は百に一つも記されていない。天文は該博に挙げられているが、天の形状については言及せず、三つの天に関する説が紛然として区別できないままである。それ故に蔡邕が朔方から上書して、記述すべきであると述べたのである。

原文司馬遷制一家之言,始區別名題,至乎禮儀刑政,有所不盡,乃於紀傳之外,創立八書,片文隻事,鴻纖備舉。班氏因之,靡違前式,網羅一代,條流遂廣。律曆禮樂,其名不變,以天官為天文,改封禪為郊祀,易貨殖、平準之稱,革河渠、溝洫之名;綴孫卿之辭,以述刑法,采孟軻之書,用序食貨。劉向《鴻範》,始自春秋,劉歆《七略》,儒墨異部,朱贛博采風謠,尤為詳洽,固並因仍,以為三志。而禮樂疏簡,所漏者多,典章事數,百不記一。天文雖為該舉,而不言天形,致使三天之說,紛然莫辨。是故蔡邕於朔方上書,謂宜載述者也。

漢が興ると、秦の儒者坑殺の後に接し、典籍は残欠し、老いた学者や碩学の老人は、常に散逸を憂慮した。劉歆の七略、班固の芸文志は、まさにこのためである。黄河は龍門から東へ注ぎ、中国を横断するが、漂没や決壊が及ぶところでは、被害は重く災いは深く、堤防築造の工事は天下に労役を課した。また関中・洛陽は地勢が高く乾燥しており、水源が少ない。それ故に鎬・酆・潦・潏の水は、全て礼典に取り入れられた。漳水・滏水・鄭国渠・白渠の豊かさ、溝渠による灌漑の利は、皆、民の命の源であり、国はこれを天の恵みとした。溝洫について志を立てるのも、まさに相応しいことである。世は異なり事は変わるが、今日においてはその概要を得ることができる。

原文漢興,接秦阬儒之後,典墳殘缺,耆生碩老,常以亡逸為慮。劉歆七略,固之藝文,蓋為此也。河自龍門東注,橫被中國,每漂決所漸,寄重災深,堤築之功,勞役天下。且關、洛高塏,地少川源,是故鎬、酆、潦、潏,咸入禮典。漳、滏、鄭、白之饒,溝渠沾溉之利,皆民命所祖,國以為天,溝洫立志,亦其宜也。世殊事改,於今可得而略。

私は考えるに、班固の律暦志は以前の事柄を既に詳述しており、楊偉が景初暦を改めて創始して以来、魏書には志が欠けている。そして元嘉年間に新法が再び造られ、大明年間に広く議論して改暦した。魏から宋に至るまでを、今の書に載せるべきである。

原文竊以班氏律曆,前事已詳,自楊偉改創景初,而魏書闕志。及元嘉重造新法,大明博議回改,自魏至宋,宜入今書。

班固の礼楽志・郊祀志、司馬彪の祭祀志・礼儀志、蔡邕の朝会志、董巴の輿服志は、それぞれ志を立てている。礼が包含するものは、その用途が一つではなく、郊祭や朝饗は別の事柄とは言えず、旗章や服飾の器物も礼でなければ何であろうか。今、これらを総合して裁定し、同じく礼志と呼ぶこととする。刑法・食貨については、前の説ですでに該当しており、その流れに従って区分し、紀伝に附することとする。楽経は残欠しており、その来歴は遠く、班固が述べたのは、ただ楽記を抄録したに過ぎず、司馬彪の後漢書もまた継続して備えていない。八音や各種楽器に至っては、書物に見えず、世本に少し見えるものの、欠けているものはなお多い。雅楽や俗楽、歌謡の節回しについても、全て排除され落とされ、およそ概観することができない。郊廟の楽章は、世ごとに改まり、雅声の旧典には、皆、遺文がある。また、今の鼓吹鐃歌を調べると、章曲はあるが、楽人が伝え習うのは口伝師承であり、重視するのは声であって、まず義を教えることはしない。今の楽府鐃歌を、漢・魏の旧曲と校合すると、曲名は時に同じでも、歌詞は永久に異なり、文を尋ねて義を求めても、一つとして理解できるものはない。今の鐃章が何代の曲であるか分からない。今、志では郊廟以下、あらゆる楽章について、淫らで騒がしい歌詞でないものは、全て詳しく記載する。

原文班固禮樂、郊祀,馬彪祭祀、禮儀,蔡邕朝會,董巴輿服,並各立志。夫禮之所苞,其用非一,郊祭朝饗,匪云別事,旗章服物,非禮而何?今總而裁之,同謂禮志。刑法、食貨,前說已該,隨流派別,附之紀傳。樂經殘缺,其來已遠,班氏所述,政抄舉樂記,馬彪後書,又不備續。至於八音眾器,並不見書,雖略見世本,所闕猶眾。爰及雅鄭,謳謠之節,一皆屏落,曾無概見。郊廟樂章,每隨世改,雅聲舊典,咸有遺文。又案今鼓吹鐃歌,雖有章曲,樂人傳習,口相師祖,所務者聲,不先訓以義。今樂府鐃歌,校漢、魏舊曲,曲名時同,文字永異,尋文求義,無一可了。不知今之鐃章,何代曲也。今志自郊廟以下,凡諸樂章,非淫哇之辭,並皆詳載。

天文・五行については、司馬彪以後、再び記録されていない。何承天の志は黄初の初めから始まり、徐爰の志は義熙の元年から始まる。今、魏を漢に接続するにあたり、何氏の方式に従う。そうすると、漢の高帝五年の初冬から、宋の順帝昇明二年の初夏に至るまで、二辰六沴(日月と六気の不和)について、甲子の計算に誤りはない。聖帝や哲王は皆、瑞祥や天命の記録があり、これは神聖な帝位を明らかにし、ひそかに吉祥の符を助け、天下を争う謀略を消し、覬覦の心を起こさせず、河図を握り地券を括る、緑文や赤字あざなの書について、言葉を尽くして詳述したものである。さらに、道が天に至って甘露が降り、徳が地に通じて醴泉が湧き出る、金芝や黒黍の祥、朱草や白烏の瑞など、これらは決して偽りえないものである。もし衰えた世で徳が衰えても、良い応報が絶えないならば、これはまさに天道が茫漠として、数を以て推し量ることが難しいからである。また、明主が上に居ても、日食や地震の災いが止まないこともあり、百神が皆順っても、天象の応報だけが背くこともある。今、符瑞志を立てて、前史の欠けを補う。

原文天文、五行,自馬彪以後,無復記錄。何書自黃初之始,徐志肇義熙之元。今以魏接漢,式遵何氏。然則自漢高帝五年之首冬,暨宋順帝昇明二年之孟夏,二辰六沴,甲子無差。聖帝哲王,咸有瑞命之紀,蓋所以神明寶位,幽贊禎符,欲使逐鹿弭謀,窺覬不作,握河括地,綠文赤字之書,言之詳矣。爰逮道至天而甘露下,德洞地而醴泉出,金芝玄秬之祥,朱草白烏之瑞,斯固不可誣也。若夫衰世德爽,而嘉應不息,斯固天道茫昧,難以數推。亦由明主居上,而震蝕之災不弭;百靈咸順,而懸象之應獨違。今立符瑞志,以補前史之闕。

地理はまちまちで、事柄を包括的に弁別するのは難しい。魏晋以来、移転は百を数え、一郡が四つ五つに分かれ、一県が二つ三つに割かれ、あるいは昨日は荊州・豫州に属していたものが、今日は司州・兗州に隷属し、朝は零陵・桂陽の士であっても、夕には廬江・九江の民となる。行き来は紛擾として、一時も止むことがなく、戸籍はこれによって混乱し、職方氏でも記録しきれない。戎狄が内に侮って以来、晋が東遷し、中原の遺民は江外に移住し、幽・并・冀・雍・兗・豫・青・徐の地域は、敵寇に陥落した。扶余や貊から逃れて足を包み首を奉げ、荊・越の地で身を免れた者は、百郡千城に及び、流寓の民が家々に並んだ。人は鴻雁の歌を詠み、士は故郷を思う念を蓄え、それぞれに邦邑を樹て、旧い井戸を復そうとしない者はなかった。しかしその後、民は単身で戸は貧しく、独力で建てることはできず、それ故に魏の邦に韓の邑があり、斉の県に趙の民がいるのである。また、省いたり置いたりが交錯し、日ごと月ごとに移り変わり、寄寓して流転し、ついに定まった託すところがなく、邦の名や邑の号は、詳しく記すことが難しい。大宋が天命を受けると、辺境の争いが再び起こり、淮北の五州は敵寇の境と化した。そこから逃亡し移住して、再び郡県を立てることもあり、これは元嘉と泰始の時代で、同じ名前でも実態が異なる。今、班固と司馬彪の二志、晋・宋の起居注、あらゆる記録や注釈を全て推究討議し、条項に従って弁別分析し、全てを詳しく明らかにする。

原文地理參差,事難該辨,魏晉以來,遷徙百計,一郡分為四五,一縣割成兩三,或昨屬荊、豫,今隸司、兗,朝為零、桂之士,夕為廬、九之民,去來紛擾,無暫止息,版籍為之渾淆,職方所不能記。自戎狄內侮,有晉東遷,中土遺氓,播徙江外,幽、并、冀、雍、兗、豫、青、徐之境,幽淪寇逆。自扶莫而裹足奉首,免身於荊、越者,百郡千城,流寓比室。人佇鴻雁之歌,士蓄懷本之念,莫不各樹邦邑,思復舊井。既而民單戶約,不可獨建,故魏邦而有韓邑,齊縣而有趙民。且省置交加,日回月徙,寄寓遷流,迄無定託,邦名邑號,難或詳書。大宋受命,重啟邊隙,淮北五州,翦為寇境,其或奔亡播遷,復立郡縣,斯則元嘉、泰始,同名異實。今以班固、馬彪二志,晉、宋起居,凡諸記註,悉加推討,隨條辨析,使悉該詳。

百官の設置と廃止については、前の説に備わっており、源を尋ね流れを討つことは、事柄として容易である。

原文百官置省,備有前說,尋源討流,於事為易。

元嘉年間、東海の何承天が詔を受けて宋書を編纂し、その志十五篇は、司馬彪の漢志に続くものであり、その証拠引用が該博なものは、それに従って踏襲した。これは班固と司馬遷が共に一家をなすのと同じである。その漏れや欠落、および何氏以後の事柄については、十分に探し採集し、随時補い綴じた。淵源は浩瀚で、孤学で尽くせるものではなく、足は跛で道は遥かで、短い鞭で走らせることができるものではない。前史を斟酌し、美醜を全て見たとはいえ、愛好する心情は異なり、取捨する意図は別であり、筆を口に含み簡を握るたびに、機織りのように食事を忘れるが、結局は班固や左丘明と並んで馳せ、董狐や南史と轡を並べるには足りない。ただ後世の君子が草稿を削るためのものに過ぎない。

原文元嘉中,東海何承天受詔纂宋書,其志十五篇,以續馬彪漢志,其證引該博者,即而因之,亦由班固、馬遷共為一家者也。其有漏闕,及何氏後事,備加搜采,隨就補綴焉。淵流浩漫,非孤學所盡;足蹇途遙,豈短策能運。雖斟酌前史,備覩妍嗤,而愛嗜異情,取捨殊意,每含毫握簡,杼軸忘飡,終亦不足與班、左並馳,董、南齊轡。庶為後之君子削藳而已焉。

黄帝は伶倫をして大夏の西、阮隃の陰に行かせ、竹を嶰谷の生えるところから取り、その穴の厚さが均一なものを選び、二つの節の間を断ち切って吹き、黄鐘の宮とした。十二の管を制して、鳳凰の鳴き声を聴き、律呂を定めた。音声には清濁があるので、宮商で調和させる。形には長短があるので、丈尺で検査する。器物には大小があるので、斛こく斗で定める。質量には軽重があるので、鈞石で平衡をとる。それ故に虞書に「すなわち律・度・量・衡を同じくす」とある。そうすると律呂は、宮商が生じる源なのである。

原文黃帝使伶倫自大夏之西,阮隃之陰,取竹之嶰谷生,其竅厚均者,斷兩節間而吹之,以為黃鍾之宮。制十二管,以聽鳳鳴,以定律呂。夫聲有清濁,故協以宮商;形有長短,故檢以丈尺;器有大小,故定以斛斗;質有輕重,故平以鈞石。故虞書曰:「乃同律、度、量、衡。」然則律呂,宮商之所由生也。

音楽には器と文、情と官がある。鐘や鼓、干や戚は音楽の器であり、屈伸や緩急は音楽の文である。「論理に過ちがなく憂いがないのは音楽の情であり、喜び楽しみ愛するのは音楽の官である。」「それゆえ君子は情を内に収めて志を和らげ、音楽を広めて教化を成す。だからこそ情は深く、文は明らかとなり、気は盛んで化は神妙となり、和順が内に積もり、英華が外に発する。」故に言う。「楽は心の動きであり、声は楽の象である。」周礼にはこうある。「黄鐘を奏で、大呂を歌い、雲門を舞って、天神を祀る。太蔟を奏で、応鐘を歌い、咸池を舞って、地祇を祭る。」四望の山川と先祖には、それぞれに相応しい楽がある。またこうある。「圜鐘を宮とし、黄鐘を角とし、太蔟を徴とし、姑洗を羽とし、雷鼓と雷鼗、孤竹の管、雲和の琴瑟、雲門の舞を用い、冬至の日に地上の圜丘でこれを奏する。もし楽が六変すれば、天神は皆降臨し、礼を尽くすことができる。」地祇や人鬼に対しても、礼はこれと同様である。音楽が物事を感動させ教化を興す力が、これほど深いものであるとは。

原文夫樂有器有文,有情有官。鍾鼓干戚,樂之器也;屈伸舒疾,樂之文也;「論倫無患,樂之情也;欣喜歡愛,樂之官也。」「是以君子反情以和志,廣樂以成教,故能情深而文明,氣盛而化神,和順積中,而英華發外。」故曰:「樂者,心之動也;聲者,樂之象也。」周禮曰:「乃奏黃鍾,歌大呂,舞雲門,以祀天神。乃奏太蔟,歌應鍾,舞咸池,以祭地祇。」四望山川先祖,各有其樂。又曰:「圜鍾為宮,黃鍾為角,太蔟為徵,姑洗為羽,雷鼓雷鼗,孤竹之管,雲和之琴瑟,雲門之舞,冬日至,於地上之圜丘奏之。若樂六變,則天神皆降,可得而禮矣。」地祇人鬼,禮亦如之。其可以感物興化,若此之深也。

「道は一から始まり、一が二を生み、二が三を生み、三三で九となる。故に黄鐘の数は六であり、分かれて雌雄十二鐘となる。鐘は三で成るので、一を置いて三倍することを繰り返し、総計の積分は十七万七千百四十七となり、これが黄鐘の実数となる。故に黄鐘は子の位にあり、十一月を主とし、下生して林鐘を生む。林鐘の数は五十四で、六月を主とし、上生して太蔟を生む。太蔟の数は七十二で、正月を主とし、下生して南呂を生む。南呂の数は四十八で、八月を主とし、上生して姑洗を生む。姑洗の数は六十四で、三月を主とし、下生して応鐘を生む。応鐘の数は四十三で、十月を主とし、上生して蕤賓を生む。蕤賓の数は五十七で、五月を主とし、上生して大呂を生む。大呂の数は七十六で、十二月を主とし、下生して夷則を生む。夷則の数は五十一で、七月を主とし、上生して夾鐘を生む。夾鐘の数は六十七で、二月を主とし、下生して無射を生む。無射の数は四十五で、九月を主とし、上生して中呂を生む。中呂の数は六十で、四月を主とし、極まって生じない。〈極まって生じないとは、鐘律がそれ以上互いに生じられないこと。〉宮が徴を生み、徴が商を生み、商が羽を生み、羽が角を生み、角が姑洗を生み、姑洗が応鐘を生む。これは正音に比べるので、和となる。〈姑洗は三月、応鐘は十月であり、正音に比べるので和となる。和とは、従う声である。〉応鐘が蕤賓を生むが、蕤賓は正音に比べられないので、繆となる。〈繆とは、音が干渉し合うこと。周の律にはもとより繆と和があり、武王が紂を討つ時の七音となった。〉冬至の日には、音は林鐘に比べて次第に濁り、夏至の日には、音は黄鐘に比べて次第に清くなる。十二の月律は二十四節気に対応する。甲子は中呂の徴であり、丙子は夾鐘の羽であり、戊子は黄鐘の宮であり、庚子は無射の商であり、壬子は夷則の角である。」

原文「道始於一,一生二,二生三,三三而九。故黃鍾之數六,分而為雌雄十二鍾。鍾以三成,故置一而三之,凡積分十七萬七千一百四十七,為黃鍾之實。故黃鍾位子,主十一月,下生林鍾。林鍾之數五十四,主六月,上生太蔟。太蔟之數七十二,主正月,下生南呂。南呂之數四十八,主八月,上生姑洗。姑洗之數六十四,主三月,下生應鍾。應鍾之數四十三,主十月,上生蕤賓。蕤賓之數五十七,主五月,上生大呂。大呂之數七十六,主十二月,下生夷則。夷則之數五十一,主七月,上生夾鍾。夾鍾之數六十七,主二月,下生無射。無射之數四十五,主九月,上生中呂。中呂之數六十,主四月,極不生。〈極不生,鍾律不能復相生。〉宮生徵,徵生商,商生羽,羽生角,角生姑洗,姑洗生應鍾,比於正音,故為和。〈姑洗三月,應鍾十月,與正音比,故為和。和,從聲也。〉應鍾生蕤賓,蕤賓不比於正音,故為繆。〈繆,音相干也。周律故有繆、和,為武王伐紂七音也。〉日冬至,音比林鍾浸以濁;日夏至,音比黃鍾浸以清。以十二月律應二十四時。甲子,中呂之徵也;丙子,夾鍾之羽也;戊子,黃鍾之宮也;庚子,無射之商也;壬子,夷則之角也。」

「古人が度量や軽重を定めるのは、すべて天道から生じている。黄鐘の律管の長さは九寸であり、物事は三から生じるので、三三で九、三九で二十七となり、故に布帛の幅は二尺七寸となる。これが古い制度である。音は八で相生するので、人の身長は八尺であり、尋はその倍なので、八尺を一尋とする。形があれば即ち声があり、音の数は五である。五に八を乗じ、五八四十尺を一匹とする。匹とは、中くらいの人の尺度であり、一匹を一制とする。秋分になると禾の穂先が定まり、〈䅺とは、禾の穂の芒である。〉穂先が定まると禾は熟する。律の数は十二なので、十二の穂先で一粟に相当し、十二粟で一寸に相当する。律は辰に対応し、音は日に対応する。日の数は十なので、十寸で一尺、十尺で一丈いちじょうとなる。重さについては、十二粟で一分に相当し、十二分で一銖に相当し、十二銖で半両に相当する。秤には左右があり、それに基づいて倍にするので、二十四銖で一両となる。天には四時があり、一歳を成すので、それに基づいて四倍にし、四四十六で、故に十六両で一斤となる。三か月で一時、三十日で一月なので、三十斤で一鈞となる。四時で一歳なので、四鈞で一石となる。」「音については、一律から五音が生じ、十二律から六十音が生じる。それに基づいて六倍し、六六三十六で、故に三百六十音が一歳の日数に相当する。故に律暦の数は、天地の道なのである。下生するものは倍にして三で除し、上生するものは四倍にして三で除する。」

原文「古人為度量輕重,皆生乎天道。黃鍾之律長九寸,物以三生,三三九,三九二十七,故幅廣二尺七寸,古之制也。音以八相生,故人長八尺,尋自倍,故八尺而為尋。有形即有聲,音之數五,以五乘八,五八四十尺為匹。匹者,中人之度也,一匹為制。秋分而禾䅺定,〈䅺,禾穗芒也。〉䅺定而禾孰。律之數十二,故十二䅺而當一粟,十二粟而當一寸。律以當辰,音以當日。日之數十,故十寸而為尺,十尺為丈。其以為重,十二粟而當一分,十二分而當一銖,十二銖而當半兩。衡有左右,因而倍之,故二十四銖而當一兩。天有四時,以成一歲,因而四之,四四十六,故十六兩而一斤。三月而一時,三十日一月,故三十斤而為一鈞。四時而一歲,故四鈞而一石。」「其為音也,一律而生五音,十二律而為六十音;因而六之,六六三十六,故三百六十音以當一歲之日。故律曆之數,天地之道也。下生者倍,以三除之;上生者四,以三除之。」

揚子雲が言う。「声は日に生じ、〈甲己を角、乙庚を商、丙辛を徴、丁壬を羽、戊癸を宮とすることを言う。〉律は辰に生ずる。〈子を黄鐘、丑を大呂などとすることを言う。〉声は情によって質を正し、〈質とは正すこと。それぞれその行いの根本となる情を正とする。〉律は声を和らげる。〈律管や鐘の均によって、その清濁の声を調和させるべきである。〉声と律が互いに調和して、八音が生まれる。〈協とは和。〉宮・商・角・徴・羽を五声と言う。金・石・匏・革・絲・竹・土・木を八音と言う。声が和し音が調う、これを五楽と言う。」

原文揚子雲曰:「聲生於日,〈謂甲己為角,乙庚為商,丙辛為徵,丁壬為羽,戊癸為宮。〉律生於辰,〈謂子為黃鍾,丑為大呂之屬。〉聲以情質,〈質,正也。各以其行本情為正也。〉律以和聲,〈當以律管鍾均,和其清濁之聲。〉聲律相協,而八音生。〈協,和。〉宮、商、角、徵、羽,謂之五聲。金、石、匏、革、絲、竹、土、木,謂之八音。聲和音諧,是謂五樂。」

陰陽が調和すれば日影が至り、律気が応じれば葭灰が飛散する。それゆえ天子は常に冬至と夏至に前殿に臨御し、八能の士を集め、八音を陳列し、楽均を聴き、日影を測り、鐘律を観察し、土炭の重さを量り、陰陽の効験を確かめる。冬至に陽気が応じれば、楽均は清く、日影は最も長くなり、黄鐘が通じ、土炭は軽く秤は上を向く。夏至に陰気が応じれば、楽均は濁く、日影は最も短くなり、蕤賓が通じ、土炭は重く秤は下がる。その前後五日の中での進退を、八能の士はそれぞれ観測した状況を奏上する。太史令が封をして上奏する。効験があれば調和、なければ占う。候気の方法は、三重の室を作り、戸を閉め、隙間を塗り塞ぎ、密閉し、緹色の幔を張る。室の中に木の机を置き、各律ごとに一つずつ、内側を低く外側を高くし、その方位に従って、律管をその上に載せる。葭莩の灰をその内端に敷き、暦に従って観測する。気が至れば灰が動く。気によって動く場合は灰が散り、人や風によって動く場合は灰が集まる。殿中での観測には、玉の律管十二本を用いる。ただ冬至と夏至のみは霊台で観測し、竹の律管六十本を用いる。弘農郡宜陽県の金門山の竹を管とし、河内の葭莩を灰とする。

原文夫陰陽和則景至,律氣應則灰除。是故天子常以冬夏至御前殿,合八能之士,陳八音,聽樂均,度晷景,候鍾律,權土炭,効陰陽。冬至陽氣應,則樂均清,景長極,黃鍾通,土炭輕而衡仰。夏至陰氣應,則樂均濁,景短極,蕤賓通,土炭重而衡低。進退於先後五日之中,八能各以候狀聞。太史令封上。効則和,否則占。候氣之法,為室三重,戶閉,塗釁周密,布緹幔。室中以木為案,每律各一,內庳外高,從其方位,加律其上。以葭莩灰布其內端,案曆而候之。氣至者灰動。其為氣動者其灰散,人及風所動者,其灰聚。殿中候,用玉律十二。唯二至乃候靈臺,用竹律六十。取弘農宜陽縣金門山竹為管,河內葭莩為灰。

三代が衰微し、音律が法度を失った。漢が興ると、北平侯の張蒼が初めて律暦を定めた。孝武帝の時代には、協律の官を置いた。元帝の時、郎中の京房が五音六十律の数を知り、小黄令の焦延寿に学んだ。その下生・上生は中呂で終わり、十二律が完結する。中呂から上生して執始となり、執始から下生して去滅となり、南事で終わり、六十律が完結する。十二律の変化が六十に至るのは、八卦の変化が六十四に至るのと同じである。宓羲が易を作り、陽気の初めを記して律法とした。日を建て冬至の声とし、黄鐘を宮とし、太簇を商とし、姑洗を角とし、林鐘を徴とし、南呂を羽とし、応鐘を変宮とし、蕤賓を変徴とした。これが声気の元であり、五音の正である。故に各々一日を統べる。その他は順次運行し、当日のものがそれぞれ宮となり、商・角・徴・羽は類に従ってこれに従う。礼運篇に「五声・六律・十二管は還り相い宮を為す」とある。これがそれである。六十律で一期の日を分け、黄鐘は冬至から始まり、冬至に至って戻る。陰陽・寒暖・風雨の占いはここから生じる。京房はまた言う。「竹の声では調を度ることができないので、準を作って数を定める。準の形状は瑟のようで、長さ一丈で十三弦、隠間九尺、黄鐘の律九寸に対応させる。中央の一弦の下に分寸を画き、六十律の清濁の節とする。」京房の律についての言は劉歆の上奏したものより詳しく、その術は史官で施行され、候部で用いられた。続漢志にはその律準の度数が詳しく記載されている。

原文三代陵遲,音律失度。漢興,北平侯張蒼始定律曆。孝武之世,置協律之官。元帝時,郎中京房知五音六十律之數,受學於小黃令焦延壽。其下生、上生,終於中呂,而十二律畢矣。中呂上生執始,執始下生去滅,終於南事,而六十律畢矣。夫十二律之變至於六十,猶八卦之變至於六十四也。宓羲作易,紀陽氣之初,以為律法。建日冬至之聲,以黃鍾為宮,太蔟為商,姑洗為角,林鍾為徵,南呂為羽,應鍾為變宮,蕤賓為變徵。此聲氣之元,五音之正也。故各統一日。其餘以次運行,當日者各自為宮,而商角徵羽以類從焉。禮運篇曰:「五聲、六律、十二管還相為宮。」此之謂也。以六十律分一朞之日,黃鍾自冬至始,及冬至而復,陰陽寒煖風雨之占於是生焉。房又曰:「竹聲不可以度調,故作準以定數。準之狀如瑟,長丈而十三弦,隱間九尺,以應黃鍾之律九寸;中央一弦,下有畫分寸,以為六十律清濁之節。」房言律詳於歆所奏,其術施行於史官,候部用之。續漢志具載其律準度數。

漢の章帝の元和元年、待詔候鍾律の殷肜が上言した。「官には六十律を理解し準で音を調える者がいないので、待詔の厳嵩が準の法をことごとく子の厳宣に教えました。願わくは厳宣を召し補って学官とし、楽器の調律を主管させてください。」詔して言う。「厳嵩の子が学んで律を審らかに理解し、その族を別け、その声を協わせる者ならば、審らかに試せ。父の学に依託し、聾を以て聡と為すことは許されない。声は微妙で、独り非とすることは知れず、独り是とすることは理解できず、律を錯いて吹き、十二律を一つも失わずに知ることができる者でなければ、厳嵩の学を伝えることができる者とは言えない。」厳宣を試したところ、十二律のうち二つは当たり、四つは当たらず、六つは何の律か分からなかった。厳宣は遂に罷免された。これ以降、律の家で準を作れる者はなくなった。霊帝の熹平六年、東観で典律者である太子舎人の張光らを召して準の意を問うた。張光らは知らなかった。帰って旧蔵を閲覧し、ようやくその器を得た。形状は京房の書の通りであったが、依然としてその弦の緩急を定めることができなかった。音は書いて人に理解させることはできず、知る者は教えようとしても方法がなく、心で理解する者は体得しても師がいない。故に史官で清濁を弁別できる者は遂に絶えた。伝えることができるものは、ただ候気だけとなった。

原文漢章帝元和元年,待詔候鍾律殷肜上言:「官無曉六十律以準調音者,故待詔嚴嵩具以準法教子男宣,願召宣補學官,主調樂器。」詔曰:「嵩子學審曉律,別其族,協其聲者,審試。不得依託父學,以聾為聰。聲微妙,獨非莫知,獨是莫曉,以律錯吹,能知命十二律不失一,乃為能傳嵩學耳。」試宣十二律,其二中,其四不中,其六不知何律,宣遂罷。自此律家莫能為準。靈帝熹平六年,東觀召典律者太子舍人張光等問準意。光等不知。歸閱舊藏,乃得其器,形制如房書,猶不能定其絃緩急。音不可書以曉人,知之者欲教而無從,心達者體知而無師,故史官能辨清濁者遂絕。其可以相傳者,唯候氣而已。