宋書 巻十
本紀第十
順帝の 諱 は準、字は仲謀、小字は智観、明帝の第三子である。泰始五年七月癸丑に生まれた。七年、安成王に封ぜられ、食邑三千戸を与えられた。引き続き撫軍将軍に任じられ、佐史を置いた。廃帝が即位すると、揚州 刺史 となった。元徽二年、車騎将軍・ 都督 揚南 豫 二州諸軍事に進号し、鼓吹一部を与えられ、 刺史 はもとの通りであった。四年、さらに 驃騎 大将軍・開府儀同三司に進号し、班剣三十人を賜り、 都督 ・ 刺史 はもとの通りであった。
元徽五年七月戊子の夜、廃帝が崩じ、王を奉迎して朝堂に入居させた。壬辰、皇帝の位についた。
昇明元年、元号を改め、天下に大赦を行い、文武の官に位二等を賜った。甲午、鎮軍将軍斉王が東城に出鎮し、政を輔佐して相となった。丙申、 詔 して言った。「露台の構築を止めたことは、漢の徳を光らせる義であり、雉の裘を焼いて制度を改めたことは、晋の道を隆盛にした事績である。それゆえに奢侈を検束して教化を導き、倹約を篤くして風俗を治めるのである。近ごろ甸服が未だ静まらず、軍旅が連年続き、蓄えはたびたび空しく、労苦と疲弊は止むことがない。それなのに丹雘の装飾は、浪費が計り知れず、珍宝や賄賂の費用は、賦税を課しても計算できない。今、車服の儀制は、実に節約損減すべきであり、徽章に秩序を持たせ、贅沢に流れてはならない。御府の二署を廃止してもよい。およそ技巧が華美で彫鑴に凝り、風俗を損ない政治を壊すものは、一切禁断する。これによって永遠に憲則を明らかにし、この始政を広めたい。」征西大将軍・荊州 刺史 沈攸之は車騎大将軍・開府儀同三司に進号し、尚書左 僕射 ・中領軍・鎮軍将軍・南兗州 刺史 斉王は 司空 ・録尚書事・驃騎大将軍となり、 刺史 はもとの通り、中書令・衛将軍・開府儀同三司、撫軍将軍劉秉は 尚書令 となり、中軍将軍を加えられ、安西将軍・ 郢州 刺史 晋熙王 劉燮 は撫軍将軍・揚州 刺史 となり、南陽王 劉翽 は郢州 刺史 となった。辛丑、尚書右 僕射 王僧虔は 尚書 僕射 となり、右衛将軍劉韞は中領軍となり、金紫光禄大夫王琨は右光禄大夫となった。 司空 斉王に銭五百万、布五千匹を与えた。癸卯、車駕は太廟を謁した。丙午、安西参軍明慶符を青・冀二州 刺史 とし、武陵王 劉賛 を郢州 刺史 とし、新たに任じられた郢州 刺史 南陽王劉翽を湘州 刺史 とし、 司空 ・南兗州 刺史 斉王は南徐州 刺史 を兼ねることとし、征虜将軍李安民を南兗州 刺史 とした。
雍州に大水があり、八月壬子、使者を派遣して救済し、税調を免除した。驃騎長史劉澄之を南 豫 州 刺史 とした。山陽 太守 于天宝、新呉県子秦立は罪があり、獄に下されて死んだ。戊午、平準署を改めた。辛酉、宣城太守李霊謙を兗州 刺史 とした。癸亥、 司徒 袁粲 が 石頭 を鎮守した。丁卯、元年以前の未納の調を免除し、郡県の禄田を復した。戊辰、皇帝の生母である陳昭華を皇太妃として崇拝した。庚午、 司空 長史謝朏、衛軍長史江斅、中書侍郎褚炫、武陵王文学劉候が殿省に入って直し、文義に参じて侍った。斉王は固く 司空 を辞退し、庚辰、驃騎大将軍・開府儀同三司とした。
九月己丑、 詔 して言った。「昔、聖王が既に没し、淳朴な風俗はすでに衰え、亀書は永遠に埋もれ、龍図は長く秘された。それゆえ三代の末には、徳と刑が互いに乱れ、世は没落し物は競い合い、道は傾き人は諂うようになった。それでもなお正しい士は車を並べ、優れた才人は車を連ねた。朕は金枢の運を継ぎ、瑶極の霊を纂ぎ、扆を負って政を巡り、日が暮れても疲れを忘れ、興廃について深く考え、古を望んで思いを満たす。周・夏の典籍は、なおも緗帙に伝わり、漢・魏の余文は、方冊に布かれている。それゆえ元封には茂才の制を興し、地節には独行の品を創設した。綱紀を振るい根本に務めることは、人を得ることに存する。今、州郡に宣し下し、幽仄を探し求め、郷邑を標榜して採り、名に従って上薦させる。朕は自ら覧て、その優れた者を選別しよう。これによって野に遺された賢人がなく、遠くまで芳しい風を奮い立たせたい。」己酉、廬陵王劉暠が薨じた。
冬十一月己酉、倭国が使者を遣わして方物を献上した。丙午、員外散騎侍郎胡羨生が越州 刺史 を代行し、交州 刺史 沈景德を広州 刺史 とした。
十二月丁巳、 驍 騎 将軍王広之を徐州 刺史 とした。車騎大将軍・荊州 刺史 沈攸之が兵を挙げて反した。丁卯、録公斉王が朝堂に入って守り、 侍中 蕭嶷が東府を鎮守した。戊辰、内外に厳戒態勢を布いた。己巳、郢州 刺史 武陵王劉賛を安西将軍・荊州 刺史 とし、征虜将軍・雍州 刺史 張敬児を鎮軍将軍に進号した。右衛将軍黄回を平西将軍・郢州 刺史 とし、諸軍の前鋒を督して南討させた。征虜将軍呂安国を湘州 刺史 とし、都官尚書王寛に平西将軍を加えた。庚午、新たに任じられた左衛将軍斉王の世子が、新たに任じられた撫軍将軍・揚州 刺史 晋熙王劉燮を奉じて尋陽の盆城を鎮守した。壬申、 驍 騎将軍周盤龍を広州 刺史 とした。この日、 司徒 袁粲 が石頭を拠って反し、 尚書令 劉秉、黄門侍郎劉述、 冠軍 王蘊が衆を率いてこれに赴いた。黄回および輔国将軍孫曇瓘、屯騎 校尉 王宜興、輔国将軍任候伯、左軍将軍彭文之が密かに呼応した。中領軍劉韞、直閤将軍卜伯興が殿内で同謀した。録公斉王が韞らを省内で誅殺した。軍主蘇烈、王天生、薛道淵、戴僧静らが石頭を陥落させ、城内で粲を斬った。秉、述、蘊は城を越えて逃げたが、追ってこれを捕らえ、ともに誅殺された。その他は問わなかった。 豫 州 刺史 劉懐珍、雍州 刺史 張敬児、広州 刺史 陳顕達がともに義兵を挙げた。司州 刺史 姚道和、梁州 刺史 范栢年、湘州行事庾佩玉は衆を擁して二心を抱いた。甲戌、天下に大赦を行った。乙亥、尚書 僕射 王僧虔を尚書左 僕射 とし、新たに任じられた中書令王延之を尚書右 僕射 とした。呉郡太守劉遐が郡を拠って反したが、輔国将軍張瓌が討って斬った。
閏月辛巳、屯騎 校尉 王宜興が罪があり誅殺された。癸巳、沈攸之が郢城を攻囲したが、前軍長史柳世隆が固守した。攸之の弟登之が呉興で乱を起こしたが、呉興太守沈文季が討って斬った。己亥、内外に戒厳令を布き、録公斉王に黄鉞を仮授した。辛丑、寧朔将軍・北秦州 刺史 武都王楊文度を征西将軍に進号した。 乙巳 、録公斉王が新亭に出て駐屯した。
二年春正月、沈攸之が将の公孫方平を遣わして西陽を占拠させたが、辛酉、建寧太守張謨がこれを撃破した。丁卯、沈攸之が郢城から敗走した。己巳、華容県の民が彼を斬って送ってきた。左将軍・ 豫 州 刺史 劉懐珍を平南将軍に進号した。辛未、鎮軍将軍・雍州 刺史 張敬児が江陵を攻略し、攸之の子光琰を斬り、荊州が平定され、同逆の者は皆誅殺された。丙子、戒厳令を解除した。新たに任じられた侍中柳世隆を尚書右 僕射 とした。この日、録公斉王が東府に還って鎮守した。丁丑、江州 刺史 邵陵王 劉友 を安南将軍・南 豫 州 刺史 とした。左衛将軍斉王の世子を江州 刺史 とし、侍中蕭嶷を領軍とし、鎮軍将軍・雍州 刺史 張敬児を征西将軍に進号し、平西将軍・郢州 刺史 黄回を鎮西将軍に進号した。
二月庚辰の日、尚書左 僕射 の王僧虔を 尚書令 とし、尚書右 僕射 の王延之を尚書左 僕射 とした。癸未の日、録公の斉王に 太尉 を加授し、衛将軍の褚淵を 中書監 ・ 司空 とした。甲申の日、荊州を曲赦した。丙戌の日、撫軍将軍・揚州 刺史 の晋熙王劉燮は中軍将軍・開府儀同三司に進号した。戊子の日、雍州の沔水沿いの住民で以前に水害を受けた者の租布を三年間免除した。辛卯の日、郢州 刺史 ・新たに鎮南将軍に任じられた黄回を鎮北将軍・南兗州 刺史 とし、南兗州 刺史 の李安民を郢州 刺史 とした。癸巳の日、山陰県令の傅琰を益州 刺史 とした。丙申の日、左軍将軍の彭文之は罪があり、獄に下されて死んだ。行湘州事の任候伯が前湘州行事の庾佩玉を殺し、その首を京邑に伝送した。
三月庚戌の日、広州 刺史 の周盤龍を司州 刺史 とし、輔国将軍の劉悛を広州 刺史 とした。丙子の日、 太尉 斉王に羽葆・鼓吹を与えた。
夏四月己卯の日、游撃将軍の垣崇祖を兗州 刺史 とした。辛卯の日、新たに鎮北将軍・南兗州 刺史 に任じられた黄回は罪があり賜死された。甲午の日、輔国将軍・淮南宣城二郡太守の蕭映が行南兗州 刺史 となった。
五月戊午の日、倭国王の武が使者を遣わして方物を献上し、武を安東大将軍とした。輔国将軍・行湘州事の任候伯は罪があり誅殺された。
六月己丑の日、前新会太守の趙超民を交州 刺史 とした。丁酉の日、輔国将軍の楊文弘を北秦州 刺史 ・武都王とした。
八月辛卯の日、 太尉 斉王が奇飾麗服を断つことを上表し、全部で十四条あった。乙未の日、江州 刺史 の斉王世子を領軍将軍・撫軍将軍とした。丙申の日、領軍の蕭嶷を江州 刺史 とした。
九月 乙巳 の朔日、日食があった。丙午の日、 太尉 斉王に黄鉞・ 都督 中外諸軍事・太傅を加え、揚州牧を領し、剣履上殿、入朝不趨、賛拝不名の礼遇を与えた。左右の長史・司馬・従事中郎・掾・属をそれぞれ四人ずつ置いた。中軍将軍・揚州 刺史 の晋熙王劉燮は 司徒 となった。戊申の日、行南兗州 刺史 の蕭映が南兗州 刺史 となった。甲寅の日、太傅斉王に三望車を与えた。己未の日、芮芮国が使者を遣わして方物を献上した。癸酉の日、武陵内史の張澹は罪があり、獄に下されて死んだ。
冬十月丁丑の日、寧朔将軍・淮南宣城二郡太守の蕭晃を 豫 州 刺史 とした。孫曇瓘は先に逃亡していたが、己卯の日、捕らえられ誅殺された。壬寅の日、皇后謝氏を立て、死罪を一等減じ、五年刑以下の者はすべて赦免した。
十一月壬子の日、故武昌太守劉琨の子息の劉頒を立てて南豊県王とした。癸亥の日、臨澧侯劉晃が謀反を企て、晃とその党与は皆誅殺された。甲子の日、南陽王劉翽を随郡王に改封し、随陽郡を改めた。
十二月丙戌の日、皇后が太廟に謁見した。戊子の日、高麗国が使者を遣わして方物を献上した。
三年春正月甲辰の日、江州 刺史 の蕭嶷を鎮西将軍・荊州 刺史 とし、尚書左 僕射 の王延之を安南将軍・江州 刺史 とした。安西長史の蕭順之を郢州 刺史 とした。乙卯の日、太傅斉王が諸々の官物の負債や労役を負う者について、すべて免除するよう上表した。辛亥の日、 驍 騎将軍の王玄邈を梁・南秦二州 刺史 とした。領軍将軍・撫軍将軍の斉王世子に尚書 僕射 を加え、中軍大将軍・開府儀同三司に進号した。丙辰の日、太傅斉王に前部の羽葆・鼓吹を加えた。丁巳の日、 詔 して太傅府が旧例に従って辟召を行うことを許した。征西将軍・雍州 刺史 の張敬児を護軍将軍とし、新たに給事黄門侍郎に任じられた蕭長懋を雍州 刺史 とした。
二月丙子の日、安南将軍・南 豫 州 刺史 の邵陵王劉友が 薨去 した。
三月癸卯の朔日、日食があった。甲辰の日、太傅を崇めて相国とし、百揆を総理させ、十郡を封じて斉公とし、九錫の礼を備え、璽紱・遠游冠を加え、諸王の上に位し、相国に緑綟綬を加えた。その驃騎大将軍・揚州牧・南徐州 刺史 の官は従前の通りとした。丙午の日、中軍大将軍の蕭賾を南 豫 州 刺史 ・斉公世子とし、相国の副武とし、緑綟綬を与えた。庚戌の日、臨川王劉綽が謀反を企て、綽とその党与は皆誅殺された。丁巳の日、斉国が初めて建てられたので、銭五百万、布五千匹、絹千匹を与えた。
夏四月壬申の日、斉公の爵位を斉王に進め、封邑を十郡増やした。甲戌の日、安西将軍の武陵王劉賛が 薨去 した。丙戌の日、斉王に十二旒の冕冠を戴かせ、天子の旌旗を立て、出警入蹕の儀を行い、金根車に乗り、六馬を駕し、五時の副車を備え、旄頭・雲罕を置き、八佾の楽舞を設け、鐘簴の宮懸を置くことを命じた。世子を太子に進め、王子・王女・王孫の爵命の号は、すべて旧儀の通りとした。辛卯の日、天の禄は永遠に終わり、位を斉に禅譲した。壬辰の日、帝は東邸で位を退いた。その後、丹陽宮に移り住んだ。斉王が即位し、帝を汝陰王に封じ、臣下としての礼遇を以て遇さなかった。宋の正朔を用い、上書する際は表を用いず、答える際は 詔 を用いなかった。
建元元年五月己未の日、丹陽宮で崩御した。時に十三歳であった。 諡 して順帝という。六月乙酉の日、遂寧陵に葬られた。