宋書

本紀第九

本紀第九

廃帝の諱いみなは昱、字あざなは徳融、小字は慧震、明帝の長子である。大明七年正月辛丑、衛尉府で生まれた。太宗(明帝)の諸子はみな懐妊中に『周易』で占い、得た卦を小字としたため、帝の字は慧震となり、その他の皇子も同様であった。泰始二年、皇太子に立てられた。三年、初めて太子の改名を昱と定めた。安車に象輅に乗る。六年、東宮を出た。また、太子が元正の朝賀に際し、袞冕九章衣を着ることを定めた。

原文廢帝諱昱,字德融,小字慧震,明帝長子也。大明七年正月辛丑,生於衞尉府。太宗諸子在孕,皆以周易筮之,即以所得之卦為小字,故帝字慧震,其餘皇子亦如之。泰始二年,立為皇太子。三年,始制太子改名昱。安車乘象輅。六年,出東宮。又制太子元正朝賀,服袞冕九章衣。

泰豫元年四月己亥、太宗が崩御した。庚子、太子が皇帝の位につき、大赦を天下に施行した。尚書令の袁粲と護軍将軍の褚淵がともに朝政を補佐した。乙巳、護軍将軍の張永を右光禄大夫とし、撫軍将軍の安成王を揚州刺史ししとした。己酉、特進・右光禄大夫の劉遵考りゅうじゅんこうを左光禄大夫に改めた。

原文泰豫元年四月己亥,太宗崩。庚子,太子即皇帝位,大赦天下。尚書令袁粲、護軍將軍褚淵共輔朝政。乙巳,以護軍將軍張永為右光祿大夫,撫軍將軍安成王為揚州刺史。己酉,特進、右光祿大夫劉遵考改為左光祿大夫。

五月丁巳、呉興太守たいしゅの張岱を益州刺史とした。戊辰、長江沿いの戍兵で老病の者は、すべて帰還を許した。班剣は従来通り殿中への佩用を認めた。

原文五月丁巳,以吳興太守張岱為益州刺史。戊辰,緣江戍兵老疾者,悉聽還。班劍依舊入殿。

六月壬辰、詔して言った。「王者が制度を興すには、まず民の苦しみを実地に知り、広く教化を求め、四方に模範を示すべきである。朕は孤陋の身ながら、早くから宝祚を継ぎ、民政について常に考えているが、まだ直接に聴き覧することはできていない。顧みて思いを致し、寝ても覚めても忘れない。大使を派遣して四方に分かれ巡行させ、風謡を観察採集し、その疾苦を問うべし。民に背く法令、習俗に不便な法があれば、すべて条を分けて上奏させよ。もし太守・県令の威厳と恩恵が記録すべきものがあり、廉潔勤勉が明らかに顕著であるなら、事実に基づいて上聞に達せしめよ。また、獄訟で誣告や冤罪があり、職務に過誤があり、公務を怠り私利を図り、民を害して己を利する者がいれば、隠し立てしてはならない。広く草莽の議論を受け入れ、広く技芸を献じる規程を求める。巡省の道は、必ず精緻に行き届かせ、行識に優れた者を深く選び、あたかも朕が自ら覧るがごとくせよ。」また詔して言った。「寝夢の中で賢者を待つことは、古の誥命に美として伝わり、人物を求めて良材を得ることは、前代の書物に盛んと称えられている。朕は幼く暗愚ながら、宝業を継いで受け、聖人の謀猷を仰ぎ述べ、政道を努めて広めようと思い、多くの士人について語るにつけ、常に人材を得たいと願う。牧守に広く下知し、広く探し求めるべし。孝友で一族に聞こえ、義譲で里門を輝かせ、あるいは名を隠して屠釣に従い、身を潜めて耕牧に励み、浮薄な風俗を正しく戒め、淳厚な教化を助け益するに足る者、その一善において、すべて漏れ落ちることはないようにせよ。空しく車輪を整え帛を待ち、良い推薦を聞くのを待つ。」京師に雨水があり、詔して二県の貧民を救済撫恤した。乙巳、皇后を尊んで皇太后とし、皇后江氏を立てた。

原文六月壬辰,詔曰:「夫興王經制,實先民隱,方求廣教,刑於四維。朕以煢眇,夙膺寶歷,永言民政,未接聽覽,眷言乃顧,無忘鑒寐。可遣大使分行四方,觀採風謠,問其疾苦。令有咈民,法不便俗者,悉各條奏。若守宰威恩可紀,廉勤允著,依事騰聞。如獄訟誣枉,職事紕繆,惰公存私,害民利己者,無或隱昧。廣納芻輿之議,博求獻藝之規。巡省之道,務令精洽,深簡行識,俾若朕親覽焉。」又詔曰:「夫寢夢期賢,往誥垂美,物色求良,前書稱盛。朕以沖昧,嗣膺寶業,思仰述聖猷,勉弘政道,興言多士,常想得人。可普下牧守,廣加搜採。其有孝友聞族,義讓光閭,或匿名屠釣,隱身耕牧,足以整厲澆風,扶益淳化者,凡厥一善,咸無遺逸。虛輪佇帛,俟聞嘉薦。」京師雨水,詔賑卹二縣貧民。乙巳,尊皇后曰皇太后,立皇后江氏。

秋七月戊辰、帝の生母である陳貴妃を皇太妃として拝した。

原文秋七月戊辰,崇拜帝所生陳貴妃為皇太妃。

閏月丁亥、宋安郡を廃止して広興郡に属させた。己丑、南豫州の南汝陰郡を割いて西豫州に属させ、西豫州の廬江郡を割いて豫州に属させた。甲辰、新たに任じられた征西将軍・開府儀同三司・荊州刺史の蔡興宗を中書監・光禄大夫とし、安西将軍・郢州えいしゅう刺史の沈攸之を鎮西将軍・荊州刺史とし、南徐州刺史の劉秉を平西将軍・郢州刺史とし、新たに任じられた太常の建平王景素を鎮軍将軍・南徐州刺史とした。

原文閏月丁亥,罷宋安郡還屬廣興。己丑,割南豫州南汝陰郡屬西豫州,西豫州廬江郡屬豫州。甲辰,以新除征西將軍、開府儀同三司、荊州刺史蔡興宗為中書監、光祿大夫,安西將軍、郢州刺史沈攸之為鎮西將軍、荊州刺史,南徐州刺史劉秉為平西將軍、郢州刺史,新除太常建平王景素為鎮軍將軍、南徐州刺史。

八月戊午、新たに任じられた中書監・左光禄大夫・開府儀同三司の蔡興宗が薨去した。

原文八月戊午,新除中書監、左光祿大夫、開府儀同三司蔡興宗薨。

冬十月辛卯、撫軍将軍の劉韞が罪により免官された。辛未、護軍将軍の褚淵が母の喪のため官を去った。

原文冬十月辛卯,撫軍將軍劉韞有罪免官。辛未,護軍將軍褚淵母憂去職。

十一月己亥、新たに任じられた平西将軍・郢州刺史の劉秉を尚書左僕射とした。辛丑、護軍将軍の褚淵が本職に戻って摂行した。芮芮国と高麗国が使者を遣わして方物を献上した。

原文十一月己亥,新除平西將軍、郢州刺史劉秉為尚書左僕射。辛丑,護軍將軍褚淵還攝本任。芮芮國、高麗國遣使獻方物。

十二月、索虜が義陽を侵犯した。丁巳、司州刺史の王瞻がこれを撃破した。

原文十二月,索虜寇義陽。丁巳,司州刺史王瞻擊破之。

元徽元年春正月戊寅朔、元号を改め、大赦を天下に施行した。壬寅、詔して言った。「法を緩めて恩を明らかにし、風俗を整えて盛んな典則とし、刑罰を免除し過ちを許すことは、習俗を教え義を常道とするものである。朕は宸枢に臨んで民衆を治め、寛大簡素を旨とし、哀れみ恵むことを実現しようと思う。今、新たな元年を開き罪を赦し、万物が新たになるにあたり、これらの流罪・斥逐に処せられた者も、広く洗い清められるべきである。元年以前に罪を得て流徙・放逐された者は、すべて本貫への帰還を許す。」

原文元徽元年春正月戊寅朔,改元,大赦天下。壬寅,詔曰:「夫緩法昭恩,裁風茂典,蠲憲貸眚,訓俗彝義。朕臨馭宸樞,夤制氓宇,式存寬簡,思孚矜惠。今開元肆宥,萬品惟新,凡茲流斥,宜均弘洗。自元年以前貽罪徙放者,悉聽還本。」

二月乙亥、晋熙王燮を郢州刺史とした。

原文二月乙亥,以晉熙王燮為郢州刺史。

三月丙申、撫軍長史の何恢を広州刺史とした。婆利国が使者を遣わして方物を献上した。戊戌、前淮南太守の劉霊遺を南豫州刺史とした。

原文三月丙申,以撫軍長史何恢為廣州刺史。婆利國遣使獻方物。戊戌,以前淮南太守劉靈遺為南豫州刺史。

夏五月辛卯の日、輔師将軍の李安民を司州刺史とした。丙申の日、河南王が使者を遣わして地方の産物を献上した。

原文夏五月辛卯,以輔師將軍李安民為司州刺史。丙申,河南王遣使獻方物。

六月壬子の日、越州刺史の陳伯紹を交州刺史とした。乙卯の日、特進・左光禄大夫の劉遵考が死去した。寿陽で大水害が発生し、己未の日、殿中将軍を派遣して救済と慰労を行った。丙寅の日、左軍将軍の孟次陽を兗州刺史とした。

原文六月壬子,以越州刺史陳伯紹為交州刺史。乙卯,特進、左光祿大夫劉遵考卒。壽陽大水,己未,遣殿中將軍賑卹慰勞。丙寅,以左軍將軍孟次陽為兗州刺史。

秋七月丁丑の日、散騎常侍さんきじょうじの顧長康と長水校尉の何翌之が編纂した『諫林』を上表して献上した。その内容は虞・舜から始まり、晋の武帝に至るまで、全十二巻であった。

原文秋七月丁丑,散騎常侍顧長康、長水校尉何翌之表上所撰諫林,上自虞、舜,下及晉武,凡十二卷。

八月辛亥の日、詔を下した。「区域を分けて風俗を正すことは、虞の書に明記され、川や谷の制度が異なることは、周の典籍に輝いている。だから井田と遂(田の道)には区別があり、里や伍(隣保組織)に雑多さがなく、それによって七教をよく宣揚し、八政を秩序立てることができた。長い時代を経て軌道が異なり、沿革によって儀礼も異なるが、民が移住の風習を懐かしむこともあれば、国が移住を重んじることもある。漢陽には燕・代の豪族が並び立ち、関西では斉・楚の一族が勢いを増し、皆新しい地に籍を置き、居住して旧来のものとなった。金の徳が衰えて委ねられ、礼楽が南に移ると、中州の民衆は幼児を背負って揚州・越の地へと渡った。聖武が世を治め、道が天下に広まり、長世の規範を遺し、土断の制度を定めた。しかし平穏と危険は互いに起因し、満ち欠けは代わるがわる襲い、凶作の年には民は離散し、軍役は怠惰で散漫となり、故郷を離れて他境に寓居する者が次第に増えていった。大いなる軌道に従い、永遠の法とすべきである。そうすれば民風が豊かになり民が栄え、風俗が正され安定が保たれよう。胥山の険しさを平らげ、瀚海の波を澄ませ、九服に河図を集め、五都で玉軔(天子の車)を振るうことができるであろう。」秘書丞の王儉が編纂した『七志』三十巻を上表して献上した。京師は旱魃に見舞われた。甲寅の日、詔を下した。「近ごろ陽気の順序が乱れ、日照りが続き、秋の作物を損ない、民の苦しみをもたらしている。朕は微力で病み、政道を広めておらず、牢獄はまだ多く、冤罪で滞っている者もまだ多い。夜も昼も心を痛め、常に胸を痛めている。尚書令は執法以下とともに、多くの獄事を取り調べ、冤罪の訴えを洗い清め、困窮している者を明らかにして救済せよ。州郡に下し、すべて滞りなく行うように。」癸亥の日、鎮軍将軍・南徐州刺史の建平王劉景素りゅうけいそは鎮北将軍に進号した。庚午の日、陳留王の曹銑が薨去した。

原文八月辛亥,詔曰:「分方正俗,著自虞冊,川谷異制,煥乎姬典。故井遂有辨,閭伍無雜,用能七教克宣,八政斯序。雖綿代殊軌,沿革異儀,或民懷遷俗,或國尚興徙,漢陽列燕、代之豪,關西熾齊、楚之族,並通籍新邑,即居成舊。洎金行委御,禮樂南移,中州黎庶,襁負揚、越。聖武造運,道一閎區,貽長世之規,申土斷之制。而夷險相因,盈晦遞襲,歲饉凋流,戎役惰散,違鄉寓境,漸至繁積。宜式遵鴻軌,以為永憲,庶阜俗昌民,反風定保。夷胥山之險,澄瀚海之波,括河圖於九服,振玉軔於五都矣。」祕書丞王儉表上所撰七志三十卷。京師旱。甲寅,詔曰:「比亢序騫度,留熏燿晷,有傷秋稼,方貽民瘼。朕以眇疚,未弘政道,囹圄尚繁,枉滯猶積,夕厲晨矜,每惻于懷。尚書令可與執法以下,就訊眾獄,使寃訟洗遂,困弊昭蘇。頒下州郡,咸令無壅。」癸亥,鎮軍將軍、南徐州刺史建平王景素進號鎮北將軍。庚午,陳留王曹銑薨。

九月壬午の日、詔を下した。「国家の賦税と民の租税には、一定の基準がある。以前は戦乱に属し、軍需を優先したため、徴税のあり方が、かつての基準から外れていた。湘州と江州では、食糧の輸送が偏って蓄積され、徴発と労役が既に煩雑で、民衆はますますかき乱されている。臨時の政務に従ってきたため、まだ改められていない部分があり、民は力尽き疲弊し、年月が経つほどにひどくなっている。深く思い悩み嘆き、昼夜を問わず心にかかっている。使者を派遣して現地に行き、明らかに詳しく調査させよ。旧令に違反して納入しているもの、公の期限でない労役については、すべて直ちに免除・改正し、条項を整えて報告せよ。」丁亥の日、衡陽王劉嶷の子の劉伯玉を南平王に立てた。

原文九月壬午,詔曰:「國賦氓稅,蓋有恒品,往屬戎難,務先軍實,徵課之宜,或乖昔准。湘、江二州,糧運偏積,調役既繁,庶徒彌擾。因循權政,容有未革,民單力弊,歲月愈甚。永言矜歎,情兼宵寐。可遣使到所,明加詳察。其輸違舊令,役非公限者,並即蠲改,具條以聞。」丁亥,立衡陽王嶷子伯玉為南平王。

冬十月壬子の日、撫軍司馬の王玄載を梁・南秦二州刺史とした。癸酉の日、南兗州の鍾離と豫州の馬頭を割き、さらに秦郡・梁郡・歴陽を分けて新昌郡を設置し、徐州を立てた。

原文冬十月壬子,以撫軍司馬王玄載為梁、南秦二州刺史。癸酉,割南兗州之鍾離、豫州之馬頭,又分秦郡、梁郡、歷陽置新昌郡,立徐州。

十一月丙子の日、散騎常侍の垣閎を徐州刺史とした。丁丑の日、尚書令の袁粲が母の喪のため官職を去った。

原文十一月丙子,以散騎常侍垣閎為徐州刺史。丁丑,尚書令袁粲母喪去職。

十二月癸卯の朔日、日食があった。乙巳の日、司空しくう・江州刺史の桂陽王劉休範りゅうきゅうはんは太尉たいいに進位し、尚書令の袁粲は元の職務に戻って摂行し、衛将軍の号を加えられた。癸亥の日、前建安王の世子であった劉伯融を始安県王に立てた。丙寅の日、河南王が使者を遣わして地方の産物を献上した。

原文十二月癸卯朔,日有蝕之。乙巳,司空、江州刺史桂陽王休範進位太尉,尚書令袁粲還攝本任,加號衞將軍。癸亥,立前建安王世子伯融為始安縣王。丙寅,河南王遣使獻方物。

二年春正月庚子の日、右光禄大夫の張永を征北将軍・南兗州刺史とした。

原文二年春正月庚子,以右光祿大夫張永為征北將軍、南兗州刺史。

二月己巳の日、護軍将軍の褚淵に中軍将軍を加えた。

原文二月己巳,加護軍將軍褚淵中軍將軍。

三月癸酉の日、左衛将軍の王寛を南豫州刺史とした。

原文三月癸酉,以左衞將軍王寬為南豫州刺史。

夏四月癸亥の日、詔を下した。「近ごろ爵位を列ね勲功を叙し、栄誉を選んで義に報いているが、条項が積み重なって広がり、それぞれが滞っている。年月が過ぎても事が残り、道理として滞りが生じ、各所で対応に差があり、多くは選別・整備に違反している。賞が均等に行き渡らず、常に心を痛めている。すべて旧来の基準に従い、それぞれ官職に注記して下すように。」

原文夏四月癸亥,詔曰:「頃列爵敍勳,銓榮酬義,條流積廣,又各淹闕。歲往事留,理至逋壅,在所參差,多違甄飭。賞未均洽,每疚厥心。可悉依舊准,並下注職。」

五月壬午の日、太尉・江州刺史の桂陽王劉休範が兵を挙げて反乱を起こした。庚寅の日、内外に戒厳令を敷いた。中領軍の劉勔に鎮軍将軍を加え、右衛将軍の斉王に平南将軍を加え、先鋒として南征させ、新亭に駐屯させた。征北将軍の張永は白下に駐屯し、前南兗州刺史の沈懐明は石頭せきとう城を守備し、衛将軍の袁粲と中軍将軍の褚淵は宮殿と省庁を守備した。壬辰の日、賊軍が突然到来し、新亭の陣を攻撃した。斉王が防戦して撃退し、大いにこれを破った。越騎校尉の張敬児が劉休範を斬った。賊党の杜黒蠡と丁文豪は軍を分けて朱雀航に向かい、劉勔が賊を防いだが敗北し、力戦して戦死した。右軍将軍の王道隆は逃げ走り、殺害された。張永は白下で潰走し、沈懐明は石頭城から逃げ散った。甲午の日、撫軍典籤の茅恬が東府を開いて賊を迎え入れ、賊は中堂に駐屯した。羽林監の陳顕達が攻撃して大いにこれを破った。丙申の日、張敬児らが宣陽門・荘厳寺・小市で賊を破り、進軍して東府城を平定し、賊の群れを捕らえて梟首した。賞賜と封爵はそれぞれ差があった。丁酉の日、詔を下して京邑の二県に、殺した賊と戦死者を埋葬させ、京城と同じ扱いとした。この日に戒厳令を解除し、大赦を施行し、文武の官に爵位一等を賜った。戊戌の日、江州の未納の債務を免除し、通常の調べでない課税や民を害する労役については、すべて免除・停止した。詔を下した。「近ごろ国家の賦税は多くが滞り、公の蓄えはほとんど供給されない。近ごろの戦役は浅かったが、軍費は既に多く、倉庫の蓄えは空っぽで、遠方を治めるのに用いるのが難しい。奢侈の風潮を正しく改め、倹約に務めるべきである。供奉の衣服や車馬はすべて減らし撤去し、彫刻や文様の贅沢な美しさは廃して修復しない。あらゆる遊興の費用は一切禁止する。外に対しては詳細に規則を定めよ。」荊州刺史の沈攸之、南徐州刺史の建平王劉景素、郢州刺史の晋熙王劉燮りゅうしょう、湘州刺史の王僧虔、雍州刺史の張興世が皆、義兵を挙げて京師に向かった。己亥の日、第七皇弟の劉友りゅうゆうを江州刺史とした。芮芮国が使者を遣わして地方の産物を献上した。

原文五月壬午,太尉、江州刺史桂陽王休範舉兵反。庚寅,內外戒嚴。加中領軍劉勔鎮軍將軍,加右衞將軍齊王平南將軍,前鋒南討,出屯新亭。征北將軍張永屯白下,前南兗州刺史沈懷明戍石頭,衞將軍袁粲、中軍將軍褚淵入衞殿省。壬辰,賊奄至,攻新亭壘。齊王拒擊,大破之。越騎校尉張敬兒斬休範。賊黨杜黑蠡、丁文豪分軍向朱雀航,劉勔拒賊敗績,力戰死之。右軍將軍王道隆奔走遇害。張永潰於白下,沈懷明自石頭奔散。甲午,撫軍典籤茅恬開東府納賊,賊入屯中堂。羽林監陳顯達擊大破之。丙申,張敬兒等破賊於宣陽門、莊嚴寺、小市,進平東府城,梟擒羣賊。賞賜封爵各有差。丁酉,詔京邑二縣埋藏所殺賊,并戰亡者,復同京城。是日解嚴,大赦天下,文武賜位一等。戊戌,原除江州逋債,其有課非常調、役為民蠹者,悉皆蠲停。詔曰:「頃國賦多騫,公儲罕給。近治戎雖淺,而軍費已多,廩藏虛罄,難用馭遠。宜矯革淫長,務在節儉。其供奉服御,悉就減撤,雕文靡麗,廢而勿修。凡諸游費,一皆禁斷,外可詳為科格。」荊州刺史沈攸之、南徐州刺史建平王景素、郢州刺史晉熙王燮、湘州刺史王僧虔、雍州刺史張興世並舉義兵赴京師。己亥,以第七皇弟友為江州刺史。芮芮國遣使獻方物。

六月庚子の日、平南将軍の斉王を中領軍・鎮軍将軍・南兗州刺史とした。癸卯の日、晋熙王劉燮が軍を派遣して尋陽を攻略し、江州が平定された。戊申の日、淮南太守の任農夫を豫州刺史とし、右将軍・南豫州刺史の王寛は平西将軍に進号した。壬戌の日、輔師将軍の名称を元の輔国将軍に戻した。

原文六月庚子,以平南將軍齊王為中領軍、鎮軍將軍、南兗州刺史。癸卯,晉熙王燮遣軍剋尋陽,江州平。戊申,以淮南太守任農夫為豫州刺史,右將軍、南豫州刺史王寬進號平西將軍。壬戌,改輔師將軍還為輔國。

秋七月庚辰の日、第七皇弟の劉友を邵陵王に立てた。辛巳の日、撫軍司馬の孟次陽を兗州刺史とした。乙酉の日、鎮西将軍・荊州刺史の沈攸之は征西大将軍に進号し、鎮北将軍・南徐州刺史の建平王劉景素は征北将軍に進号し、ともに開府儀同三司となった。征虜将軍・郢州刺史の晋熙王劉燮は安西将軍に進号し、前将軍・湘州刺史の王僧虔は平南将軍に進号した。

原文秋七月庚辰,立第七皇弟友為邵陵王。辛巳,以撫軍司馬孟次陽為兗州刺史。乙酉,鎮西將軍、荊州刺史沈攸之進號征西大將軍,鎮北將軍、南徐州刺史建平王景素進號征北將軍,並開府儀同三司。征虜將軍、郢州刺史晉熙王燮進號安西將軍,前將軍、湘州刺史王僧虔進號平南將軍。

八月辛酉の日、征虜行参軍の劉延祖を寧州刺史に任じた。

原文八月辛酉,以征虜行參軍劉延祖為寧州刺史。

九月壬辰の日、游撃将軍の呂安国を兗州刺史に任じた。丁酉の日、尚書令で新たに衛将軍に任じられた袁粲を中書監とし、即座に本官のまま開府儀同三司を加え、司徒しとを兼任させた。護軍将軍の褚淵に尚書令を加え、撫軍将軍・揚州刺史の安成王は車騎将軍に昇進した。

原文九月壬辰,以游擊將軍呂安國為兗州刺史。丁酉,以尚書令、新除衞將軍袁粲為中書監,即本號開府儀同三司,領司徒,加護軍將軍褚淵尚書令,撫軍將軍、揚州刺史安成王進號車騎將軍。

冬十月庚申の日、新たに侍中じちゅうに任じられた王蘊を湘州刺史に任じた。甲子の日、游撃将軍の陳顕達を広州刺史に任じた。

原文冬十月庚申,以新除侍中王蘊為湘州刺史。甲子,以游擊將軍陳顯達為廣州刺史。

十一月丙戌の日、皇帝は元服の礼を行い、天下に大赦を施行した。民の男子には爵位一級を賜い、父の後継ぎおよび三老・孝悌・力田には爵位二級を賜った。鰥寡孤独で重病・障害があり自活できない者には、一人あたり穀物五斛こくを賜った。八十歳以上の者には、さらに絹一匹を加賜した。五日間の大酺を許し、王公以下にそれぞれ差等を設けて賜物を与えた。

原文十一月丙戌,御加元服,大赦天下。賜民男子爵一級;為父後及三老孝悌力田者爵二級;鰥寡孤獨篤癃不能自存者,穀人五斛;年八十以上,加帛一匹。大酺五日;賜王公以下各有差。

十二月癸亥の日、第八皇弟の蕭躋を立てて江夏王とし、第九皇弟の蕭賛を立てて武陵王とした。

原文十二月癸亥,立第八皇弟躋為江夏王,第九皇弟贊為武陵王。

三年春正月辛巳の日、皇帝みずから南郊と明堂で祭祀を行った。

原文三年春正月辛巳,車駕親祠南郊、明堂。

三月丙寅の日、河南王が使者を遣わして地方の産物を献上した。己巳の日、車騎将軍の張敬児を雍州刺史に任じた。その日、都で大水害が発生し、尚書郎官長を派遣して巡視させ、救済と賜与を行わせた。

原文三月丙寅,河南王遣使獻方物。己巳,以車騎將軍張敬兒為雍州刺史。其日,京師大水,遣尚書郎官長檢行賑賜。

閏月戊戌の日、詔を下して言った。「近頃、民間の風俗は弊害が増し、国家の用度は豊かでなく、年々の収穫はしばしば凶作で、登録された戸口は十分な供給を得られていない。しかも辺境の憂いがなお警戒を要し、労役と費用はますます煩雑である。夜も心配して考えれば、寝起きするたびに苦悩が増す。豊かさと消耗の制度を広く考え、質素倹約の風潮を厚くし、蓄えを整えて民を救い、政治の道を安んじたい。太官の珍しい御膳、御府の華麗な衣服など、諸々の供給・調達は、すべて減らし撤廃せよ。詳細に規定を定め、簡素で適切なものに務めよ」。

原文閏月戊戌,詔曰:「頃民俗滋弊,國度未殷,歲時屢騫,編戶不給。且邊虞尚警,徭費彌繁,永言夕惕,寢興增疚。思弘豐耗之制,以惇約素之風,庶偫蓄拯民,以康治道。太官珍膳,御府麗服,諸所供擬,一皆減撤,可詳為其格,務從簡衷。」

夏四月、尚書郎を諸州に派遣して民戸を検査・調査させた。老いて特に貧しい者は租税・調役を免除した。壮年でなお生業がある者は、状況に応じて寛大に取り計らった。資産が限度額を満たす者は、督促して納め終わらせた。丙戌の日、皇帝は中堂に行幸して訴訟を聴いた。

原文夏四月,遣尚書郎到諸州檢括民戶,窮老尤貧者,蠲除課調;丁壯猶有生業,隨宜寬申;貲財足以充限者,督令洗畢。丙戌,車駕幸中堂聽訟。

六月癸未の日、北国の使者が到着した。司徒を兼任する袁粲と尚書令の褚淵はともに固辞した。

原文六月癸未,北國使至。兼司徒袁粲、尚書令褚淵並固讓。

秋七月庚戌の日、袁粲を尚書令に任じた。壬戌の日、給事黄門侍郎の劉懐珍を豫州刺史に任じた。

原文秋七月庚戌,以粲為尚書令。壬戌,以給事黃門侍郎劉懷珍為豫州刺史。

八月庚子の日、護軍将軍の褚淵に中書監を加えた。

原文八月庚子,加護軍將軍褚淵中書監。

九月丙辰の日、征西大将軍・河南王の吐谷渾拾夤を車騎大将軍に昇進させた。

原文九月丙辰,征西大將軍河南王吐谷渾拾夤進號車騎大將軍。

冬十月丙戌の日、高麗国が使者を遣わして地方の産物を献上した。

原文冬十月丙戌,高麗國遣使獻方物。

十二月乙丑の日、冠軍かんぐん将軍の姚道和を司州刺史に任じた。

原文十二月乙丑,以冠軍將軍姚道和為司州刺史。

四年の春正月己亥、帝は自ら籍田を耕し、天下に大赦を行った。力田に爵一級を賜い、貧民に糧種を貸し与えた。壬子、梁・南秦二州刺史の王玄載を益州刺史とした。

原文四年春正月已亥,車駕躬耕籍田,大赦天下。賜力田爵一級;貸貧民糧種。壬子,以梁、南秦二州刺史王玄載為益州刺史。

二月壬戌、歩兵校尉の范栢年を梁・南秦二州刺史とした。丁卯、金紫光禄大夫の王琨に特進を加えた。

原文二月壬戌,以步兵校尉范栢年為梁、南秦二州刺史。丁卯,加金紫光祿大夫王琨特進。

夏五月、寧朔将軍・武都王の楊文度を北秦州刺史とした。乙未、尚書右丞の虞玩之が時事について上表して言った。

原文夏五月,以寧朔將軍武都王楊文度為北秦州刺史。乙未,尚書右丞虞玩之表陳時事曰:

帝は丁重な詔で答えた。庚戌、驍騎ぎょうき将軍の曹欣之を徐州刺史とした。

原文帝優詔答之。庚戌,以驍騎將軍曹欣之為徐州刺史。

六月乙亥、鎮軍将軍・斉王に尚書左僕射を加えた。

原文六月乙亥,加鎮軍將軍齊王尚書左僕射。

秋七月戊子、征北将軍・南徐州刺史の建平王劉景素が京城を拠点として反乱を起こした。己丑、内外に戒厳令を敷いた。驍騎将軍の任農夫、冠軍将軍の黄回を派遣して北討させ、鎮軍将軍・斉王が諸軍を総統した。南徐州に限って赦を行った。始安王劉伯融、都郷侯劉伯猷は死を賜った。辛卯、豫州刺史の段仏栄が前鋒の馬歩諸軍を統率した。甲午、軍主・左軍将軍の張保が戦いに敗れて殺された。黄回らが京城に到着し、景素の諸軍と戦い、連破した。乙未、京城を陥落させ、景素を斬り、同逆の者は皆誅殺された。その日に戒厳を解いた。丙申、天下に大赦を行い、封賞をそれぞれ差等に応じて行った。京邑二県の元年以前の未納の調を免除した。辛丑、武陵王劉賛りゅうさんを南徐州刺史とした。

原文秋七月戊子,征北將軍、南徐州刺史建平王景素據京城反。己丑,內外纂嚴。遣驍騎將軍任農夫、冠軍將軍黃回北討,鎮軍將軍齊王總統眾軍。曲赦南徐州。始安王伯融、都鄉侯伯猷賜死。辛卯,豫州刺史段佛榮統前鋒馬步眾軍。甲午,軍主、左軍將軍張保戰敗見殺。黃回等至京城,與景素諸軍戰,連破之。乙未,剋京城,斬景素,同逆皆伏誅。其日解嚴。丙申,大赦天下,封賞各有差。原京邑二縣元年以前逋調。辛丑,以武陵王贊為南徐州刺史。

八月丁卯、第十皇弟の劉翽りゅうかいを南陽王に、第十一皇弟の劉嵩りゅうすうを新興王に、第十二皇弟の劉禧りゅうきを始建王に立てた。庚午、給事黄門侍郎の阮佃夫げんでんふを南豫州刺史とした。乙酉、行青・冀二州刺史の劉善明を青・冀二州刺史とした。

原文八月丁卯,立第十皇弟翽為南陽王,第十一皇弟嵩為新興王,第十二皇弟禧為始建王。庚午,以給事黃門侍郎阮佃夫為南豫州刺史。乙酉,以行青、冀二州刺史劉善明為青、冀二州刺史。

九月丁亥、郢州の随郡を割いて司州に属させた。戊子、驍騎将軍の高道慶が罪ありとして、死を賜った。己丑、車騎将軍・揚州刺史の安成王劉準が驃騎ひょうき大将軍・開府儀同三司に進号し、安西将軍・郢州刺史の晋熙王劉燮が鎮西将軍に進号した。

原文九月丁亥,割郢州之隨郡屬司州。戊子,驍騎將軍高道慶有罪,賜死。己丑,車騎將軍、揚州刺史安成王進號驃騎大將軍、開府儀同三司,安西將軍、郢州刺史晉熙王燮進號鎮西將軍。

冬十月辛酉、吏部尚書の王僧虔を尚書右僕射とした。宕昌王の梁弥機を安西将軍・河涼二州刺史とした。丙寅、中書監・護軍将軍の褚淵が母の喪のため官を去った。十一月庚戌、詔して本任を摂行させた。

原文冬十月辛酉,以吏部尚書王僧虔為尚書右僕射。宕昌王梁彌機為安西將軍、河涼二州刺史。丙寅,中書監、護軍將軍褚淵母憂去職。十一月庚戌,詔攝本任。

五年の春二月壬申、建寧太守の柳和を寧州刺史とした。

原文五年春二月壬申,以建寧太守柳和為寧州刺史。

四月甲戌、豫州刺史の阮佃夫、歩兵校尉の申伯宗、朱幼が廃立を謀り、佃夫と朱幼は獄に下されて死に、伯宗は誅殺された。

原文四月甲戌,豫州刺史阮佃夫、步兵校尉申伯宗、朱幼謀廢立,佃夫、幼下獄死,伯宗伏誅。

五月己亥、左軍将軍の沈景德を交州刺史とし、驍騎将軍の全景文を南豫州刺史とした。丙午、屯騎校尉の孫曇瓘を越州刺史とした。

原文五月己亥,以左軍將軍沈景德為交州刺史,驍騎將軍全景文為南豫州刺史。丙午,以屯騎校尉孫曇瓘為越州刺史。

六月甲戌、司徒左長史の沈勃、散騎常侍の杜幼文、游撃将軍の孫超之、長水校尉の杜叔文を誅殺し、天下に大赦を行った。

原文六月甲戌,誅司徒左長史沈勃、散騎常侍杜幼文、游擊將軍孫超之、長水校尉杜叔文,大赦天下。

七月戊子の夜、帝は仁寿殿で崩御した。時に十五歳であった。己丑、皇太后が令を下して言った。

原文七月戊子夜,帝殞於仁壽殿,時年十五。己丑,皇太后令曰:

太后はまた令を下して言った。「昱(劉昱)は極めて凶暴で、自ら滅亡を招いた。罪によるとはいえ、悼しまないわけにはいかない。庶民と同じく棄てるのは、忍びない。特に蒼梧郡王を追封することを許す。」丹陽郡秣陵県の郊壇の西に葬った。

原文太后又令曰:「昱窮凶極暴,自取灰滅,雖曰罪招,能無傷悼。棄同品庶,顧所不忍。可特追封蒼梧郡王。」葬丹陽秣陵縣郊壇西。

初めに昱が東宮にいた時、五、六歳の頃、初めて書学に就いたが、学業を怠り遊戯を好み、主帥はこれを禁じることができなかった。漆を塗った帳竿によじ登り、地面から一丈いちじょう余り離れた所に、半食ほどの時間、そのまま留まることを好んだ。年齢が次第に長ずるにつれ、喜怒が節度を失い、左右の者がその意に背くことがあれば、すぐに手ずから撲打を加えた。裸足で蹲踞することを常とした。主帥がこれを太宗に報告すると、上はすぐに昱の生母に命じて、厳しく鞭打って訓戒させた。帝位を継いだ後は、内には太后を畏れ、外には諸大臣を憚り、まだ思いのままに振る舞うことはできなかった。元服を加えてからは、変態的な行いが次第に盛んになり、内外ともに次第に制御できなくなった。三年の秋冬の頃から、出遊を好むようになり、太妃は常に青篾車に乗って、付き従い監督した。昱は次第に放恣になり、太妃ももはや禁じることができなかった。わずかに左右の者を率い、部隊を捨てて、十里、二十里と出かけ、あるいは市街地に入り、あるいは営署に赴き、日暮れになって帰還した。四年の春夏には、このような行いがますます頻繁になった。京城が平定されてからは、意志がますます驕慢に転じ、それ以来一日として外出しない日はなかった。左右の者である解僧智、張五兒と常に馳せ追い、夜に出て承明門を開け、夕方に出て朝に戻り、朝に出て暮れに帰った。従者は皆、鋋や矛を執り、行き合う男女や犬馬牛驢に至るまで、遭遇すれば免れる者はなかった。民間は擾乱し恐れ、昼間でも門を開けず、路上の行人はほとんど絶えた。常に小袴褶を着用し、一度も衣冠を着たことがなかった。もし意に逆らう者がいれば、すぐに虐刑を加えた。白棓数十本を持ち、それぞれに名号があり、針、椎、鑿、鋸の類を左右から離さなかった。かつて鉄椎で人の陰部を打ち破り、左右の者がこれを見て眉をひそめる者がいると、昱は大いに怒り、この者に肩を裸にして直立させ、矛で肩を刺し貫かせた。耀霊殿の上に驢を数十頭飼い、自ら乗る馬を御床の側で飼った。以前から民間に流言があり、太宗は男子でなく、陳太妃はもともと李道児の妾であり、巷の言葉では、あるいは道児の子であるとも言われていた。昱は出入りのたびに、常に自ら劉統と称し、あるいは自ら李将軍と号した。右衛翼輦営の女子と私通し、彼女と遊ぶたびに数千銭を持ち、酒肉の費用に供した。阮佃夫の腹心の者である張羊は佃夫に信任されていた。佃夫が敗れると、逃亡したが、後に捕らえられ、昱は自ら承明門で車で轢き殺した。杜延載、沈勃、杜幼文、孫超に対しては、皆自ら矛鋋を運び、手ずから肉を切り刻んだ。幼文の兄である叔文を玄武湖北で捕らえ、昱は馬を馳せて矟を執り、自ら赴いてこれを刺した。露車一乗を造り、その上に篷を施し、これに乗って出入りし、従者は数十人に過ぎなかった。羽儀はこれを追っても常に及ばず、またそれぞれ禍を慮り、敢えて追跡せず、ただ部隊を整え、別の場所で眺めているだけだった。凡そ諸々の卑しい事柄は、一目見ればでき、金銀を鍛錬し、衣を裁ち帽を作ることに、精妙を極めないものはなかった。篪を吹いたことはなかったが、管を執ればすぐに韻を成した。天性殺戮を好み、これを楽しみとし、一日何事もないと、惨惨として楽しまなかった。内外の百官は、自らの保身もできず、殿省は憂い慌て、夕べを過ごしても朝を待つことができなかった。

原文初昱在東宮,年五六歲時,始就書學,而惰業好嬉戲,主帥不能禁。好緣漆帳竿,去地丈餘,如此者半食久,乃下。年漸長,喜怒乖節,左右有失旨者,輒手加撲打。徒跣蹲踞,以此為常。主帥以白太宗,上輒敕昱所生,嚴加捶訓。及嗣位,內畏太后,外憚諸大臣,猶未得肆志。自加元服,變態轉興,內外稍無以制。三年秋冬間,便好出遊行,太妃每乘青篾車,隨相檢攝。昱漸自放恣,太妃不復能禁。單將左右,棄部伍,或十里、二十里,或入市里,或往營署,日暮乃歸。四年春夏,此行彌數。自京城剋定,意志轉驕,於是無日不出。與左右人解僧智、張五兒恒相馳逐,夜出,開承明門,夕去晨反,晨出暮歸。從者並執鋋矛,行人男女,及犬馬牛驢,值無免者。民間擾懼,晝日不敢開門,道上行人殆絕。常著小袴褶,未嘗服衣冠。或有忤意,輒加以虐刑。有白棓數十枚,各有名號,鍼椎鑿鋸之徒,不離左右。嘗以鐵椎椎人陰破,左右人見之有斂眉者,昱大怒,令此人袒胛正立,以矛刺胛洞過。於耀靈殿上養驢數十頭,所自乘馬,養於御牀側。先是民間訛言,謂太宗不男,陳太妃本李道兒妾,道路之言,或云道兒子也。昱每出入去來,常自稱劉統,或自號李將軍。與右衞翼輦營女子私通,每從之遊,持數千錢,供酒肉之費。阮佃夫腹心人張羊為佃夫所委信。佃夫敗,叛走,後捕得,昱自於承明門以車轢殺之。杜延載、沈勃、杜幼文、孫超,皆躬運矛鋋,手自臠割。執幼文兄叔文於玄武湖北,昱馳馬執矟,自往刺之。制露車一乘,其上施篷,乘以出入,從者不過數十人。羽儀追之恒不及;又各慮禍,亦不敢追尋,唯整部伍,別在一處瞻望而已。凡諸鄙事,過目則能,鍛鍊金銀,裁衣作帽,莫不精絕。未嘗吹篪,執管便韻。天性好殺,以此為歡,一日無事,輒慘慘不樂。內外百司,人不自保,殿省憂遑,夕不及旦。

斉王は天人の心に順い、密かに廃立を図り、直閤将軍の王敬則とこれを謀った。七月七日、昱は露車に乗り、二百人ほどを従え、もはや鹵簿や羽儀もなく、青園尼寺へ行き、夕方に新安寺で曇度道人と酒を飲んだ。酔って、夕方に支えられて仁寿殿東の阿の氈幄の中で臥した。当時、昱の出入りは定まらず、省内の諸閤は夜も皆閉じられなかった。また、群下は遭遇することを恐れ、敢えて出る者はいなかった。宿衛は皆逃避し、内外に互いに禁制する者はいなかった。王敬則は先に昱の左右の楊玉夫、楊万年、呂欣之、湯成之、陳奉伯、張石留、羅僧智、鍾千載、厳道福、雷道賜、戴昭祖、許啓、戚元宝、盛道泰、鍾千秋、王天宝、公上延孫、俞成、銭道宝、馬敬之、陳宝直、呉璩之、劉印魯、唐天宝、俞孫ら二十五人と結び、共に昱を取ることを謀った。その夜、敬則は外に出て、玉夫は昱が酔って熟睡し何も知らないのを見て、万年と共に氈幄内に入り、昱の防身刀でこれを斬った。奉伯が昱の首を提げ、常の行法に依り、勅命と称して承明門を開けて出、首を敬則に渡し、領軍府まで馳せ、首を斉王に呈した。王は戎服を着け、左右数十人を率い、行幸より還ると称し、承明門を開けて入った。昱が他の夜に門を開けるたび、門者は震え上がって敢えて見ようとしなかったが、この時はこれを疑わなかった。斉王が入った後、暁に至り、太后の令を奉じて安成王を奉迎した。

原文齊王順天人之心,潛圖廢立,與直閤將軍王敬則謀之。七月七日,昱乘露車,從二百許人,無復鹵簿羽儀,往青園尼寺,晚至新安寺就曇度道人飲酒。醉,夕扶還於仁壽殿東阿氈幄中臥。時昱出入無恒,省內諸閤,夜皆不閉。且羣下畏相逢值,無敢出者。宿衞並逃避,內外無相禁攝。王敬則先結昱左右楊玉夫、楊萬年、呂欣之、湯成之、陳奉伯、張石留、羅僧智、鍾千載、嚴道福、雷道賜、戴昭祖、許啟、戚元寶、盛道泰、鍾千秋、王天寶、公上延孫、俞成、錢道寶、馬敬之、陳寶直、吳璩之、劉印魯、唐天寶、俞孫等二十五人,謀共取昱。其夕,敬則出外,玉夫見昱醉熟無所知,乃與萬年同入氈幄內,以昱防身刀斬之。奉伯提昱首,依常行法,稱敕開承明門出,以首與敬則,馳至領軍府,以首呈齊王。王乃戎服,率左右數十人,稱行還,開承明門入。昱他夕每開門,門者震懾不敢視,至是弗之疑。齊王既入,曉,乃奉太后令奉迎安成王。