巻09

宋書

本紀第九

廃帝の 諱 は昱、字は徳融、小字は慧震、明帝の長子である。大明七年正月辛丑、衛尉府で生まれた。太宗(明帝)の諸子はみな懐妊中に『周易』で占い、得た卦を小字としたため、帝の字は慧震となり、その他の皇子も同様であった。泰始二年、皇太子に立てられた。三年、初めて太子の改名を昱と定めた。安車に象輅に乗る。六年、東宮を出た。また、太子が元正の朝賀に際し、袞冕九章衣を着ることを定めた。

元年四月己亥、太宗が崩御した。庚子、太子が皇帝の位につき、大赦を天下に施行した。 尚書令 しょうしょれい 袁粲 えんさん と護軍将軍の褚淵がともに朝政を補佐した。 乙巳 いっし 、護軍将軍の張永を右光禄大夫とし、撫軍将軍の安成王を揚州 刺史 しし とした。己酉、特進・右光禄大夫の 劉遵考 を左光禄大夫に改めた。

五月丁巳、呉興 太守 の張岱を益州 刺史 しし とした。戊辰、長江沿いの戍兵で老病の者は、すべて帰還を許した。班剣は従来通り殿中への佩用を認めた。

六月壬辰、 詔 して言った。「王者が制度を興すには、まず民の苦しみを実地に知り、広く教化を求め、四方に模範を示すべきである。朕は孤陋の身ながら、早くから宝祚を継ぎ、民政について常に考えているが、まだ直接に聴き覧することはできていない。顧みて思いを致し、寝ても覚めても忘れない。大使を派遣して四方に分かれ巡行させ、風謡を観察採集し、その疾苦を問うべし。民に背く法令、習俗に不便な法があれば、すべて条を分けて上奏させよ。もし太守・県令の威厳と恩恵が記録すべきものがあり、廉潔勤勉が明らかに顕著であるなら、事実に基づいて上聞に達せしめよ。また、獄訟で誣告や冤罪があり、職務に過誤があり、公務を怠り私利を図り、民を害して己を利する者がいれば、隠し立てしてはならない。広く草莽の議論を受け入れ、広く技芸を献じる規程を求める。巡省の道は、必ず精緻に行き届かせ、行識に優れた者を深く選び、あたかも朕が自ら覧るがごとくせよ。」また 詔 して言った。「寝夢の中で賢者を待つことは、古の誥命に美として伝わり、人物を求めて良材を得ることは、前代の書物に盛んと称えられている。朕は幼く暗愚ながら、宝業を継いで受け、聖人の謀猷を仰ぎ述べ、政道を努めて広めようと思い、多くの士人について語るにつけ、常に人材を得たいと願う。牧守に広く下知し、広く探し求めるべし。孝友で一族に聞こえ、義譲で里門を輝かせ、あるいは名を隠して屠釣に従い、身を潜めて耕牧に励み、浮薄な風俗を正しく戒め、淳厚な教化を助け益するに足る者、その一善において、すべて漏れ落ちることはないようにせよ。空しく車輪を整え帛を待ち、良い推薦を聞くのを待つ。」京師に雨水があり、 詔 して二県の貧民を救済撫恤した。 乙巳 いっし 、皇后を尊んで皇太后とし、皇后江氏を立てた。

秋七月戊辰、帝の生母である陳貴妃を皇太妃として拝した。

閏月丁亥、宋安郡を廃止して広興郡に属させた。己丑、南 州の南汝陰郡を割いて西 州に属させ、西 州の廬江郡を割いて 州に属させた。甲辰、新たに任じられた征西将軍・開府儀同三司・荊州 刺史 しし の蔡興宗を 中書監 ちゅうしょかん ・光禄大夫とし、安西将軍・ 郢州 刺史 しし の沈攸之を鎮西将軍・荊州 刺史 しし とし、南徐州 刺史 しし の劉秉を平西将軍・郢州 刺史 しし とし、新たに任じられた太常の建平王景素を鎮軍将軍・南徐州 刺史 しし とした。

八月戊午、新たに任じられた 中書監 ちゅうしょかん ・左光禄大夫・開府儀同三司の蔡興宗が 薨去 こうきょ した。

冬十月辛卯、撫軍将軍の劉韞が罪により免官された。辛未、護軍将軍の褚淵が母の喪のため官を去った。

十一月己亥、新たに任じられた平西将軍・郢州 刺史 しし の劉秉を尚書左 僕射 ぼくや とした。辛丑、護軍将軍の褚淵が本職に戻って摂行した。芮芮国と高麗国が使者を遣わして方物を献上した。

十二月、索虜が義陽を侵犯した。丁巳、司州 刺史 しし の王瞻がこれを撃破した。

元徽元年春正月戊寅朔、元号を改め、大赦を天下に施行した。壬寅、 詔 して言った。「法を緩めて恩を明らかにし、風俗を整えて盛んな典則とし、刑罰を免除し過ちを許すことは、習俗を教え義を常道とするものである。朕は宸枢に臨んで民衆を治め、寛大簡素を旨とし、哀れみ恵むことを実現しようと思う。今、新たな元年を開き罪を赦し、万物が新たになるにあたり、これらの流罪・斥逐に処せられた者も、広く洗い清められるべきである。元年以前に罪を得て流徙・放逐された者は、すべて本貫への帰還を許す。」

二月乙亥、晋熙王燮を郢州 刺史 しし とした。

三月丙申、撫軍長史の何恢を広州 刺史 しし とした。婆利国が使者を遣わして方物を献上した。戊戌、前淮南太守の劉霊遺を南 刺史 しし とした。

夏五月辛卯の日、輔師将軍の李安民を司州 刺史 しし とした。丙申の日、河南王が使者を遣わして地方の産物を献上した。

六月壬子の日、越州 刺史 しし の陳伯紹を交州 刺史 しし とした。乙卯の日、特進・左光禄大夫の劉遵考が死去した。寿陽で大水害が発生し、己未の日、殿中将軍を派遣して救済と慰労を行った。丙寅の日、左軍将軍の孟次陽を兗州 刺史 しし とした。

秋七月丁丑の日、 散騎常侍 さんきじょうじ の顧長康と長水 校尉 こうい の何翌之が編纂した『諫林』を上表して献上した。その内容は虞・舜から始まり、晋の武帝に至るまで、全十二巻であった。

八月辛亥の日、 詔 を下した。「区域を分けて風俗を正すことは、虞の書に明記され、川や谷の制度が異なることは、周の典籍に輝いている。だから井田と遂(田の道)には区別があり、里や伍(隣保組織)に雑多さがなく、それによって七教をよく宣揚し、八政を秩序立てることができた。長い時代を経て軌道が異なり、沿革によって儀礼も異なるが、民が移住の風習を懐かしむこともあれば、国が移住を重んじることもある。漢陽には燕・代の豪族が並び立ち、関西では斉・楚の一族が勢いを増し、皆新しい地に籍を置き、居住して旧来のものとなった。金の徳が衰えて委ねられ、礼楽が南に移ると、中州の民衆は幼児を背負って揚州・越の地へと渡った。聖武が世を治め、道が天下に広まり、長世の規範を遺し、土断の制度を定めた。しかし平穏と危険は互いに起因し、満ち欠けは代わるがわる襲い、凶作の年には民は離散し、軍役は怠惰で散漫となり、故郷を離れて他境に寓居する者が次第に増えていった。大いなる軌道に従い、永遠の法とすべきである。そうすれば民風が豊かになり民が栄え、風俗が正され安定が保たれよう。胥山の険しさを平らげ、瀚海の波を澄ませ、九服に河図を集め、五都で玉軔(天子の車)を振るうことができるであろう。」秘書丞の王儉が編纂した『七志』三十巻を上表して献上した。京師は旱魃に見舞われた。甲寅の日、 詔 を下した。「近ごろ陽気の順序が乱れ、日照りが続き、秋の作物を損ない、民の苦しみをもたらしている。朕は微力で病み、政道を広めておらず、牢獄はまだ多く、冤罪で滞っている者もまだ多い。夜も昼も心を痛め、常に胸を痛めている。 尚書令 しょうしょれい は執法以下とともに、多くの獄事を取り調べ、冤罪の訴えを洗い清め、困窮している者を明らかにして救済せよ。州郡に下し、すべて滞りなく行うように。」癸亥の日、鎮軍将軍・南徐州 刺史 しし の建平王 劉景素 は鎮北将軍に進号した。庚午の日、陳留王の曹銑が 薨去 こうきょ した。

九月壬午の日、 詔 を下した。「国家の賦税と民の租税には、一定の基準がある。以前は戦乱に属し、軍需を優先したため、徴税のあり方が、かつての基準から外れていた。湘州と江州では、食糧の輸送が偏って蓄積され、徴発と労役が既に煩雑で、民衆はますますかき乱されている。臨時の政務に従ってきたため、まだ改められていない部分があり、民は力尽き疲弊し、年月が経つほどにひどくなっている。深く思い悩み嘆き、昼夜を問わず心にかかっている。使者を派遣して現地に行き、明らかに詳しく調査させよ。旧令に違反して納入しているもの、公の期限でない労役については、すべて直ちに免除・改正し、条項を整えて報告せよ。」丁亥の日、衡陽王劉嶷の子の劉伯玉を南平王に立てた。

冬十月壬子の日、撫軍司馬の王玄載を梁・南秦二州 刺史 しし とした。癸酉の日、南兗州の鍾離と 州の馬頭を割き、さらに秦郡・梁郡・歴陽を分けて新昌郡を設置し、徐州を立てた。

十一月丙子の日、 散騎常侍 さんきじょうじ の垣閎を徐州 刺史 しし とした。丁丑の日、 尚書令 しょうしょれい 袁粲 えんさん が母の喪のため官職を去った。

十二月癸卯の朔日、日食があった。 乙巳 いっし の日、 司空 しくう ・江州 刺史 しし の桂陽王 劉休範 は 太尉 たいい に進位し、 尚書令 しょうしょれい 袁粲 えんさん は元の職務に戻って摂行し、衛将軍の号を加えられた。癸亥の日、前建安王の世子であった劉伯融を始安県王に立てた。丙寅の日、河南王が使者を遣わして地方の産物を献上した。

二年春正月庚子の日、右光禄大夫の張永を征北将軍・南兗州 刺史 しし とした。

二月己巳の日、護軍将軍の褚淵に中軍将軍を加えた。

三月癸酉の日、左衛将軍の王寛を南 刺史 しし とした。

夏四月癸亥の日、 詔 を下した。「近ごろ爵位を列ね勲功を叙し、栄誉を選んで義に報いているが、条項が積み重なって広がり、それぞれが滞っている。年月が過ぎても事が残り、道理として滞りが生じ、各所で対応に差があり、多くは選別・整備に違反している。賞が均等に行き渡らず、常に心を痛めている。すべて旧来の基準に従い、それぞれ官職に注記して下すように。」

五月壬午の日、 太尉 たいい ・江州 刺史 しし の桂陽王劉休範が兵を挙げて反乱を起こした。庚寅の日、内外に戒厳令を敷いた。中領軍の劉勔に鎮軍将軍を加え、右衛将軍の斉王に平南将軍を加え、先鋒として南征させ、新亭に駐屯させた。征北将軍の張永は白下に駐屯し、前南兗州 刺史 しし の沈懐明は 石頭 城を守備し、衛将軍の 袁粲 えんさん と中軍将軍の褚淵は宮殿と省庁を守備した。壬辰の日、賊軍が突然到来し、新亭の陣を攻撃した。斉王が防戦して撃退し、大いにこれを破った。越騎 校尉 こうい の張敬児が劉休範を斬った。賊党の杜黒蠡と丁文豪は軍を分けて朱雀航に向かい、劉勔が賊を防いだが敗北し、力戦して戦死した。右軍将軍の王道隆は逃げ走り、殺害された。張永は白下で潰走し、沈懐明は石頭城から逃げ散った。甲午の日、撫軍典籤の茅恬が東府を開いて賊を迎え入れ、賊は中堂に駐屯した。羽林監の陳顕達が攻撃して大いにこれを破った。丙申の日、張敬児らが宣陽門・荘厳寺・小市で賊を破り、進軍して東府城を平定し、賊の群れを捕らえて梟首した。賞賜と封爵はそれぞれ差があった。丁酉の日、 詔 を下して京邑の二県に、殺した賊と戦死者を埋葬させ、京城と同じ扱いとした。この日に戒厳令を解除し、大赦を施行し、文武の官に爵位一等を賜った。戊戌の日、江州の未納の債務を免除し、通常の調べでない課税や民を害する労役については、すべて免除・停止した。 詔 を下した。「近ごろ国家の賦税は多くが滞り、公の蓄えはほとんど供給されない。近ごろの戦役は浅かったが、軍費は既に多く、倉庫の蓄えは空っぽで、遠方を治めるのに用いるのが難しい。奢侈の風潮を正しく改め、倹約に務めるべきである。供奉の衣服や車馬はすべて減らし撤去し、彫刻や文様の贅沢な美しさは廃して修復しない。あらゆる遊興の費用は一切禁止する。外に対しては詳細に規則を定めよ。」荊州 刺史 しし の沈攸之、南徐州 刺史 しし の建平王劉景素、郢州 刺史 しし の晋熙王 劉燮 、湘州 刺史 しし の王僧虔、雍州 刺史 しし の張興世が皆、義兵を挙げて京師に向かった。己亥の日、第七皇弟の 劉友 を江州 刺史 しし とした。芮芮国が使者を遣わして地方の産物を献上した。

六月庚子の日、平南将軍の斉王を中領軍・鎮軍将軍・南兗州 刺史 しし とした。癸卯の日、晋熙王劉燮が軍を派遣して尋陽を攻略し、江州が平定された。戊申の日、淮南太守の任農夫を 刺史 しし とし、右将軍・南 刺史 しし の王寛は平西将軍に進号した。壬戌の日、輔師将軍の名称を元の輔国将軍に戻した。

秋七月庚辰の日、第七皇弟の劉友を邵陵王に立てた。辛巳の日、撫軍司馬の孟次陽を兗州 刺史 しし とした。乙酉の日、鎮西将軍・荊州 刺史 しし の沈攸之は征西大将軍に進号し、鎮北将軍・南徐州 刺史 しし の建平王劉景素は征北将軍に進号し、ともに開府儀同三司となった。征虜将軍・郢州 刺史 しし の晋熙王劉燮は安西将軍に進号し、前将軍・湘州 刺史 しし の王僧虔は平南将軍に進号した。

八月辛酉の日、征虜行参軍の劉延祖を寧州 刺史 しし に任じた。

九月壬辰の日、游撃将軍の呂安国を兗州 刺史 しし に任じた。丁酉の日、 尚書令 しょうしょれい で新たに衛将軍に任じられた 袁粲 えんさん 中書監 ちゅうしょかん とし、即座に本官のまま開府儀同三司を加え、 司徒 しと を兼任させた。護軍将軍の褚淵に 尚書令 しょうしょれい を加え、撫軍将軍・揚州 刺史 しし の安成王は車騎将軍に昇進した。

冬十月庚申の日、新たに 侍中 に任じられた王蘊を湘州 刺史 しし に任じた。甲子の日、游撃将軍の陳顕達を広州 刺史 しし に任じた。

十一月丙戌の日、皇帝は元服の礼を行い、天下に大赦を施行した。民の男子には爵位一級を賜い、父の後継ぎおよび三老・孝悌・力田には爵位二級を賜った。鰥寡孤独で重病・障害があり自活できない者には、一人あたり穀物五斛を賜った。八十歳以上の者には、さらに絹一匹を加賜した。五日間の大酺を許し、王公以下にそれぞれ差等を設けて賜物を与えた。

十二月癸亥の日、第八皇弟の蕭躋を立てて江夏王とし、第九皇弟の蕭賛を立てて武陵王とした。

三年春正月辛巳の日、皇帝みずから南郊と明堂で祭祀を行った。

三月丙寅の日、河南王が使者を遣わして地方の産物を献上した。己巳の日、車騎将軍の張敬児を雍州 刺史 しし に任じた。その日、都で大水害が発生し、尚書郎官長を派遣して巡視させ、救済と賜与を行わせた。

閏月戊戌の日、 詔 を下して言った。「近頃、民間の風俗は弊害が増し、国家の用度は豊かでなく、年々の収穫はしばしば凶作で、登録された戸口は十分な供給を得られていない。しかも辺境の憂いがなお警戒を要し、労役と費用はますます煩雑である。夜も心配して考えれば、寝起きするたびに苦悩が増す。豊かさと消耗の制度を広く考え、質素倹約の風潮を厚くし、蓄えを整えて民を救い、政治の道を安んじたい。太官の珍しい御膳、御府の華麗な衣服など、諸々の供給・調達は、すべて減らし撤廃せよ。詳細に規定を定め、簡素で適切なものに務めよ」。

夏四月、尚書郎を諸州に派遣して民戸を検査・調査させた。老いて特に貧しい者は租税・調役を免除した。壮年でなお生業がある者は、状況に応じて寛大に取り計らった。資産が限度額を満たす者は、督促して納め終わらせた。丙戌の日、皇帝は中堂に行幸して訴訟を聴いた。

六月癸未の日、北国の使者が到着した。 司徒 しと を兼任する 袁粲 えんさん 尚書令 しょうしょれい の褚淵はともに固辞した。

秋七月庚戌の日、 袁粲 えんさん 尚書令 しょうしょれい に任じた。壬戌の日、給事黄門侍郎の劉懐珍を 刺史 しし に任じた。

八月庚子の日、護軍将軍の褚淵に 中書監 ちゅうしょかん を加えた。

九月丙辰の日、征西大将軍・河南王の吐谷渾拾夤を車騎大将軍に昇進させた。

冬十月丙戌の日、高麗国が使者を遣わして地方の産物を献上した。

十二月乙丑の日、 冠軍 将軍の姚道和を司州 刺史 しし に任じた。

四年の春正月己亥、帝は自ら籍田を耕し、天下に大赦を行った。力田に爵一級を賜い、貧民に糧種を貸し与えた。壬子、梁・南秦二州 刺史 しし の王玄載を益州 刺史 しし とした。

二月壬戌、歩兵 校尉 こうい の范栢年を梁・南秦二州 刺史 しし とした。丁卯、金紫光禄大夫の王琨に特進を加えた。

夏五月、寧朔将軍・武都王の楊文度を北秦州 刺史 しし とした。乙未、尚書右丞の虞玩之が時事について上表して言った。

帝は丁重な 詔 で答えた。庚戌、 ぎょう 騎 将軍の曹欣之を徐州 刺史 しし とした。

六月乙亥、鎮軍将軍・斉王に尚書左 僕射 ぼくや を加えた。

秋七月戊子、征北将軍・南徐州 刺史 しし の建平王劉景素が京城を拠点として反乱を起こした。己丑、内外に戒厳令を敷いた。 ぎょう 騎将軍の任農夫、冠軍将軍の黄回を派遣して北討させ、鎮軍将軍・斉王が諸軍を総統した。南徐州に限って赦を行った。始安王劉伯融、都郷侯劉伯猷は死を賜った。辛卯、 刺史 しし の段仏栄が前鋒の馬歩諸軍を統率した。甲午、軍主・左軍将軍の張保が戦いに敗れて殺された。黄回らが京城に到着し、景素の諸軍と戦い、連破した。乙未、京城を陥落させ、景素を斬り、同逆の者は皆誅殺された。その日に戒厳を解いた。丙申、天下に大赦を行い、封賞をそれぞれ差等に応じて行った。京邑二県の元年以前の未納の調を免除した。辛丑、武陵王 劉賛 を南徐州 刺史 しし とした。

八月丁卯、第十皇弟の 劉翽 を南陽王に、第十一皇弟の 劉嵩 を新興王に、第十二皇弟の 劉禧 を始建王に立てた。庚午、給事黄門侍郎の 阮佃夫 を南 刺史 しし とした。乙酉、行青・冀二州 刺史 しし の劉善明を青・冀二州 刺史 しし とした。

九月丁亥、郢州の随郡を割いて司州に属させた。戊子、 ぎょう 騎将軍の高道慶が罪ありとして、死を賜った。己丑、車騎将軍・揚州 刺史 しし の安成王劉準が 驃騎 大将軍・開府儀同三司に進号し、安西将軍・郢州 刺史 しし の晋熙王劉燮が鎮西将軍に進号した。

冬十月辛酉、吏部尚書の王僧虔を尚書右 僕射 ぼくや とした。宕昌王の梁弥機を安西将軍・河涼二州 刺史 しし とした。丙寅、 中書監 ちゅうしょかん ・護軍将軍の褚淵が母の喪のため官を去った。十一月庚戌、 詔 して本任を摂行させた。

五年の春二月壬申、建寧太守の柳和を寧州 刺史 しし とした。

四月甲戌、 刺史 しし の阮佃夫、歩兵 校尉 こうい の申伯宗、朱幼が廃立を謀り、佃夫と朱幼は獄に下されて死に、伯宗は誅殺された。

五月己亥、左軍将軍の沈景德を交州 刺史 しし とし、 ぎょう 騎将軍の全景文を南 刺史 しし とした。丙午、屯騎 校尉 こうい の孫曇瓘を越州 刺史 しし とした。

六月甲戌、 司徒 しと 左長史の沈勃、 散騎常侍 さんきじょうじ の杜幼文、游撃将軍の孫超之、長水 校尉 こうい の杜叔文を誅殺し、天下に大赦を行った。

七月戊子の夜、帝は仁寿殿で崩御した。時に十五歳であった。己丑、皇太后が令を下して言った。

太后はまた令を下して言った。「昱(劉昱)は極めて凶暴で、自ら滅亡を招いた。罪によるとはいえ、悼しまないわけにはいかない。庶民と同じく棄てるのは、忍びない。特に蒼梧郡王を追封することを許す。」丹陽郡秣陵県の郊壇の西に葬った。

初めに昱が東宮にいた時、五、六歳の頃、初めて書学に就いたが、学業を怠り遊戯を好み、主帥はこれを禁じることができなかった。漆を塗った帳竿によじ登り、地面から一丈余り離れた所に、半食ほどの時間、そのまま留まることを好んだ。年齢が次第に長ずるにつれ、喜怒が節度を失い、左右の者がその意に背くことがあれば、すぐに手ずから撲打を加えた。裸足で蹲踞することを常とした。主帥がこれを太宗に報告すると、上はすぐに昱の生母に命じて、厳しく鞭打って訓戒させた。帝位を継いだ後は、内には太后を畏れ、外には諸大臣を憚り、まだ思いのままに振る舞うことはできなかった。元服を加えてからは、変態的な行いが次第に盛んになり、内外ともに次第に制御できなくなった。三年の秋冬の頃から、出遊を好むようになり、太妃は常に青篾車に乗って、付き従い監督した。昱は次第に放恣になり、太妃ももはや禁じることができなかった。わずかに左右の者を率い、部隊を捨てて、十里、二十里と出かけ、あるいは市街地に入り、あるいは営署に赴き、日暮れになって帰還した。四年の春夏には、このような行いがますます頻繁になった。京城が平定されてからは、意志がますます驕慢に転じ、それ以来一日として外出しない日はなかった。左右の者である解僧智、張五兒と常に馳せ追い、夜に出て承明門を開け、夕方に出て朝に戻り、朝に出て暮れに帰った。従者は皆、鋋や矛を執り、行き合う男女や犬馬牛驢に至るまで、遭遇すれば免れる者はなかった。民間は擾乱し恐れ、昼間でも門を開けず、路上の行人はほとんど絶えた。常に小袴褶を着用し、一度も衣冠を着たことがなかった。もし意に逆らう者がいれば、すぐに虐刑を加えた。白棓数十本を持ち、それぞれに名号があり、針、椎、鑿、鋸の類を左右から離さなかった。かつて鉄椎で人の陰部を打ち破り、左右の者がこれを見て眉をひそめる者がいると、昱は大いに怒り、この者に肩を裸にして直立させ、矛で肩を刺し貫かせた。耀霊殿の上に驢を数十頭飼い、自ら乗る馬を御床の側で飼った。以前から民間に流言があり、太宗は男子でなく、陳太妃はもともと李道児の妾であり、巷の言葉では、あるいは道児の子であるとも言われていた。昱は出入りのたびに、常に自ら劉統と称し、あるいは自ら李将軍と号した。右衛翼輦営の女子と私通し、彼女と遊ぶたびに数千銭を持ち、酒肉の費用に供した。阮佃夫の腹心の者である張羊は佃夫に信任されていた。佃夫が敗れると、逃亡したが、後に捕らえられ、昱は自ら承明門で車で轢き殺した。杜延載、沈勃、杜幼文、孫超に対しては、皆自ら矛鋋を運び、手ずから肉を切り刻んだ。幼文の兄である叔文を玄武湖北で捕らえ、昱は馬を馳せて矟を執り、自ら赴いてこれを刺した。露車一乗を造り、その上に篷を施し、これに乗って出入りし、従者は数十人に過ぎなかった。羽儀はこれを追っても常に及ばず、またそれぞれ禍を慮り、敢えて追跡せず、ただ部隊を整え、別の場所で眺めているだけだった。凡そ諸々の卑しい事柄は、一目見ればでき、金銀を鍛錬し、衣を裁ち帽を作ることに、精妙を極めないものはなかった。篪を吹いたことはなかったが、管を執ればすぐに韻を成した。天性殺戮を好み、これを楽しみとし、一日何事もないと、惨惨として楽しまなかった。内外の百官は、自らの保身もできず、殿省は憂い慌て、夕べを過ごしても朝を待つことができなかった。

斉王は天人の心に順い、密かに廃立を図り、直閤将軍の王敬則とこれを謀った。七月七日、昱は露車に乗り、二百人ほどを従え、もはや鹵簿や羽儀もなく、青園尼寺へ行き、夕方に新安寺で曇度道人と酒を飲んだ。酔って、夕方に支えられて仁寿殿東の阿の氈幄の中で臥した。当時、昱の出入りは定まらず、省内の諸閤は夜も皆閉じられなかった。また、群下は遭遇することを恐れ、敢えて出る者はいなかった。宿衛は皆逃避し、内外に互いに禁制する者はいなかった。王敬則は先に昱の左右の楊玉夫、楊万年、呂欣之、湯成之、陳奉伯、張石留、羅僧智、鍾千載、厳道福、雷道賜、戴昭祖、許啓、戚元宝、盛道泰、鍾千秋、王天宝、公上延孫、俞成、銭道宝、馬敬之、陳宝直、呉璩之、劉印魯、唐天宝、俞孫ら二十五人と結び、共に昱を取ることを謀った。その夜、敬則は外に出て、玉夫は昱が酔って熟睡し何も知らないのを見て、万年と共に氈幄内に入り、昱の防身刀でこれを斬った。奉伯が昱の首を提げ、常の行法に依り、勅命と称して承明門を開けて出、首を敬則に渡し、領軍府まで馳せ、首を斉王に呈した。王は戎服を着け、左右数十人を率い、行幸より還ると称し、承明門を開けて入った。昱が他の夜に門を開けるたび、門者は震え上がって敢えて見ようとしなかったが、この時はこれを疑わなかった。斉王が入った後、暁に至り、太后の令を奉じて安成王を奉迎した。