宋書
本紀第八
太宗明皇帝、 諱 は彧、字は休炳、小字は榮期、文帝の第十一子である。元嘉十六年十月戊寅に生まれた。二十五年、淮陽王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。二十九年、湘東王に改封された。元凶(劉劭)が帝を 弑 して立つと、 驍 騎 將軍とし、 給事中 を加えられた。世祖(孝武帝)が即位すると、秘書監となり、 冠軍 將軍・南蘭陵下邳二郡 太守 に遷り、 石頭 戍事を領した。孝建元年、南 彭城 ・東海二郡太守に徙り、將軍はもとのまま、京口を鎮守した。その年、中護軍に徴された。二年、 侍中 に遷り、游擊將軍を領した。三年、衛尉に徙り、侍中はもとのまま。また左衛將軍となり、衛尉はもとのまま。大明元年、中護軍に転じ、衛尉はもとのまま。三年、都官尚書となり、游擊將軍を領し、衛尉はもとのまま。七年、領軍將軍に遷った。八年、使持節・ 都督 徐兗二州 豫 州之梁郡諸軍事・鎮北將軍・徐州 刺史 として出され、鼓吹一部を与えられた。その年、侍中・護軍將軍に徴された。拝受せず、また領軍將軍となり、侍中はもとのまま。
永光元年、また使持節・ 散騎常侍 ・ 都督 南 豫 豫 司江四州揚州之宣城諸軍事・衛將軍・南 豫 州 刺史 として出され、 姑孰 を鎮守した。また 都督 雍梁南北秦四州 郢州 之竟陵諸軍事・寧蠻 校尉 ・雍州 刺史 に徙り、持節・常侍・將軍はもとのまま。拝受せず、もとの位に戻った。まもなく本号(衛將軍)をもって開府儀同三司となった。
廃帝(前廃帝 劉子業 )の景和末、上(明帝)は入朝し、都に留め置かれた。廃帝は宰輔を誅害し、大臣を殺戮し、常に自分を図る者がいることを憂慮し、諸父(叔父たち)を疑い畏れて、ことごとく殿内に拘束し、上に対して無礼なことを行った。事は文諸王伝にある。ついに上を収監して廷尉に引き渡したが、一晩で赦免された。禍害を加えようとした者は、前後で一人ではなかった。やがて上を害する意思が固まり、翌朝には禍に遭うはずであった。上はすでに腹心の 阮佃夫 ・ 李道兒 らと密かに共に謀を合わせていた。この時、廃帝の側近は常に禍が及ぶことを憂慮し、人々に異心があった。ただ直閤將軍の 宗越 ・ 譚金 ・ 童太一 ら数人がその腹心であり、いずれも猛虎のように武勇があり、殿省に長くいて、衆はみな畏服していたので、敢えて動く者はいなかった。この夜、越らはみな外で宿泊した。佃夫・道兒は 寿寂之 らを結託して廃帝を後堂で殺害した。十一月二十九日の夜である。
事が定まると、上はどうすべきか分からなかった。建安王 劉休仁 がすぐに臣を称して奉引し、西堂に昇らせ、御座に登らせ、諸大臣を召見した。この時、事が倉卒に起こったため、上は履を失い、跣足で西堂に至り、まだ烏帽を着けていた。坐が定まると、休仁は主衣に呼びかけて白帽と替えさせ、羽儀を整えさせた。即位はしていなかったが、すべての事柄はことごとく令書として施行された。己未、 司徒 揚州 刺史 の 豫 章王劉子尚・山陰公主はともに賜死された。宗越・譚金・童太一は謀反を企て誅殺された。
十二月庚申朔、令書により 司空 東海王劉褘を 中書監 ・ 太尉 とし、鎮軍將軍・江州 刺史 の 晉 安王劉子勛は車騎將軍・開府儀同三司に進号した。癸亥、新たに除された 驃騎 大將軍建安王劉休仁を 司徒 ・ 尚書令 ・揚州 刺史 とし、鎮軍將軍・開府儀同三司の山陽王劉休祐は驃騎大將軍・荊州 刺史 に進号した。崇憲衛尉の桂陽王 劉休範 を鎮北將軍・南徐州 刺史 とした。乙丑、安陸王劉子綏を江夏王に改封した。
泰始元年冬十二月丙寅、上は皇帝の位に即いた。 詔 して言った。
己巳、安西將軍・南 豫 州 刺史 の 劉遵考 を特進・右光禄大夫とし、輔國將軍・歴陽南譙二郡太守の建平王 劉景素 を南 豫 州 刺史 とした。庚午、荊州 刺史 の臨海王 劉子頊 を鎮軍將軍とし、南徐州 刺史 の永嘉王 劉子仁 を中軍將軍とし、左衛將軍の 劉道隆 を中護軍とした。辛未、臨賀王 劉子産 を南平王に、 晉 熙王 劉子輿 を廬陵王に改封した。壬申、尚書左 僕射 の 王景文 を 尚書 僕射 とした。新たに除された中護軍劉道隆が卒去した。癸酉、 詔 して言った。「朕は乱を平定し民を安んじ、大命を担う。大業が初めて造られ、道を革めて新たにする。しかし国に災難が頻繁に降りかかり、仁沢が偏って塞がれている。常に寝ても覚めても心を痛め、どうすれば救えるのか分からない。四方を巡り風俗を問うことは、政を弘める上で先んずべきことである。大使を分遣して広く民の苦しみを求め、守宰の良否を考査し、民間の善行を採り上げよ。もし獄訟が滞り冤罪があり、民を傷つけ教化を害するようなことがあれば、詳しく事実を以て上聞せよ。鰥寡孤独、病身の者や六疾(諸病)で自活できない者は、郡県が適宜に量って賑給せよ。貞婦・孝子・高行・力田の者は、詳しく条奏せよ。必ず輿誦(世論)を諮り、嘉謀を広く納れ、常に皇華の使の旨を尽くし、あたかも朕が親しく覧るが如くせよ。」乙亥、生母の沈婕妤を追尊して宣皇太后とした。後軍將軍の垣閎を司州 刺史 とし、前右將軍長史の殷琰を 豫 州 刺史 とした。丙子、 詔 して言った。「皇室に多くの変故があり、浪費が広がり、かつ長年豊作でなく、公私ともに困窮している。今まさに倹約に心を砕き、時艱を広く救済しようとするが、政道はまだ信を得ておらず、慨きと慚愧が共に積もっている。太官の供膳は、詳しく減撤すべきところを検討せよ。尚方・御府の彫文篆刻など無益な物は、一切省き去り、必ず簡約を旨とし、朕の心に叶うようにせよ。」戊寅、太后(路太后)を崇憲皇太后とした。皇后王氏を立てた。鎮軍將軍・江州 刺史 の 晉 安王劉子勛が兵を挙げて反逆し、鎮軍長史の鄧琬がその謀主となり、雍州 刺史 の 袁顗 が衆を率いてこれに赴いた。辛巳、驃騎大將軍・前荊州 刺史 の山陽王劉休祐を江州 刺史 に改め、荊州 刺史 の臨海王劉子頊はそのまま留任させた。領軍將軍の王玄謨に鎮軍將軍を加えた。壬午、車駕は太廟に謁した。甲申、後將軍・郢州 刺史 の安陸王劉子綏を征南將軍に進号し、右將軍・會稽太守の尋陽王劉子房を安東將軍に進号し、前將軍・荊州 刺史 の臨海王劉子頊を平西將軍に進号した。子綏・子房・子頊はいずれも命令を受けず、兵を挙げて共に逆をなした。戊子、新たに除された中軍將軍の永嘉王劉子仁を護軍將軍とした。
二年春正月己丑朔(元日)、軍事のため朝会を行わなかった。庚寅、金紫光禄大夫の王僧朗を左光禄大夫・開府儀同三司とした。壬辰、驃騎大将軍・江州 刺史 の山陽王劉休祐を南 豫 州 刺史 に改め、歴陽に鎮守させた。鎮軍将軍・領軍将軍の王玄謨を車騎将軍・江州 刺史 とし、平北将軍・徐州 刺史 の 薛安都 の号を安北将軍に進めた。安都も命令を受けなかった。癸巳、左衛将軍の巴陵王劉休若を鎮東将軍とし、新たに安東将軍に任じられた尋陽王劉子房を撫軍将軍とし、 司徒 左長史の袁愍孫を領軍将軍とした。甲午、内外に戒厳令を敷いた。 司徒 建安王劉休仁が征討諸軍事を 都督 し、諸軍を統率して南征した。青州 刺史 の劉祗を南兗州 刺史 とした。丙申、征虜司馬の申令孫を徐州 刺史 とし、義陽内史の龐孟虯を司州 刺史 とした。令孫・孟虯および 豫 州 刺史 の殷琰・青州 刺史 の沈文秀・冀州 刺史 の崔道固・湘州行事の何慧文・広州 刺史 の袁曇遠・益州 刺史 の 蕭恵開 ・梁州 刺史 の柳元怙は皆ともに叛逆した。兗州 刺史 の殷孝祖が入朝して京都を守衛し、引き続き孝祖を先鋒として南征させた。甲辰、孝祖に撫軍将軍を加えた。丙午、皇帝みずから六軍を率い、中興堂に出て駐屯した。辛亥、驃騎大将軍・南 豫 州 刺史 の山陽王劉休祐を 豫 州 刺史 に改め、諸軍を統率して西征させた。呉郡太守の顧琛・呉興太守の王曇生・義興太守の劉延熙・晋陵太守の袁摽・山陽太守の程天祚が皆挙兵して反乱した。鎮東将軍の巴陵王劉休若が諸軍を統率して東征した。壬子、崇憲皇太后が崩御した。この日、軍主の任農夫・劉懐珍が義興を平定した。永世県の民である史逸宗が県を占拠して逆賊となり、殿中将軍の陸攸之が討伐して平定した。丙辰、新たに左光禄大夫・開府儀同三司に任じられた王僧朗を特進とし、左光禄大夫は元のままとした。
二月乙丑、僧朗が死去した。尚書 僕射 の王景文が父の喪のため官職を去った。呉・呉興・義興・晋陵の四郡を限定赦免した。吏部尚書の蔡興宗を尚書左 僕射 とし、呉興太守の張永・右軍将軍の斉王が東征し、晋陵を平定した。癸未、浙江以東の五郡を限定赦免した。丁亥、鎮東将軍の巴陵王劉休若の号を衛将軍に進めた。建武将軍の呉喜公が諸軍を率いて呉・呉興・会稽で賊を破り、三郡を平定し、同逆者は皆誅殺された。輔国将軍の斉王が先鋒として北征し、輔国将軍の劉勔が先鋒として西征した。賊の劉胡が四万の兵を率いて 赭圻 を占拠した。
三月庚寅、撫軍将軍の殷孝祖が赭圻を攻撃し、戦死した。輔国将軍の沈攸之を代わりに南討の先鋒とした。賊軍の勢力が次第に盛んになり、袁顗が 鵲尾 に駐屯し、陣営を連ねて 濃湖 に至り、兵は十余万に及んだ。壬辰、新たに太子詹事に任じられた張永を青・冀二州 刺史 とした。丙申、鎮北将軍・南徐州 刺史 の桂陽王劉休範が北討諸軍事を総統した。丁酉、尚書の劉思考を徐州 刺史 とした。戊戌、尋陽王劉子房の爵位を松滋県侯に貶した。 乙巳 、奉朝請の鄭黒を司州 刺史 とした。辛亥、鎮北将軍・南徐州 刺史 の桂陽王劉休範が南兗州 刺史 を兼任した。壬子、新銭の使用を停止し、古銭のみを用いた。癸丑、揚州・南徐州の二州の囚人を赦免し、逃亡者も一切追及しなかった。
夏四月壬午、散騎侍郎の明僧暠を青州 刺史 とした。
五月壬辰、輔国将軍の沈攸之を雍州 刺史 とした。丁酉、 豫 州を限定赦免した。丁未、新たに尚書 僕射 に任じられた王景文を中軍将軍とし、青・冀二州 刺史 の張永を鎮軍将軍とした。庚戌、寧朔将軍の劉乗民を冀州 刺史 とした。甲寅、崇憲皇太后を修寧陵に葬った。冠軍将軍・益州 刺史 の蕭恵開の号を平西将軍に進めた。
六月辛酉、鎮軍将軍の張永が徐州 刺史 を兼任した。京師に雨水があり、丁卯、殿中将軍を派遣して巡視させ、救恤を与えた。左軍将軍の垣恭祖を梁・南秦二州 刺史 とした。
秋七月己丑、鎮北将軍・南徐兗二州 刺史 の桂陽王劉休範の号を征北大将軍に進めた。辛卯、鎮軍将軍・徐州 刺史 の張永を南兗州 刺史 に改めた。丁酉、仇池太守の楊僧嗣を北秦州 刺史 ・武都王とした。壬寅、男子の時朗之を北 豫 州 刺史 とした。 乙巳 、龍驤将軍の劉道符が山陽を平定した。辛亥、また義軍主の鄭叔挙を北 豫 州 刺史 とし、鎮軍将軍・南兗州 刺史 の張永が再び徐州 刺史 を兼任した。甲寅、また冀州 刺史 の崔道固を徐州 刺史 とした。
八月己卯、 司徒 建安王劉休仁が諸軍を率いて賊を大破し、偽尚書 僕射 の袁顗を斬った。江・郢・荊・雍・湘の五州に進軍討伐し、平定した。晋安王劉子勛・安陸王劉子綏・臨海王劉子頊・邵陵王劉子元は皆死を賜り、同党は皆誅殺された。諸将軍・将帥に封賞をそれぞれ差等を与えた。甲申、護軍将軍・永嘉王劉子仁を平南将軍・湘州 刺史 とした。
九月乙酉、江・郢・荊・雍・湘の五州を限定赦免した。守宰は職務を離れてはならない。壬辰、驃騎大将軍・ 豫 州 刺史 の山陽王劉休祐を荊州 刺史 に改めた。 豫 州を分割して南 豫 州を設置した。癸巳、六軍の戒厳を解除した。天下に大赦を行い、民に爵一級を賜った。甲午、中軍将軍の王景文を安南将軍・江州 刺史 とした。戊戌、車騎将軍・江州 刺史 の王玄謨を左光禄大夫・開府儀同三司・護軍将軍とした。庚子、建安王劉休仁の世子である劉伯融を 豫 州 刺史 とした。辛丑、衛将軍の巴陵王劉休若が本号のまま雍州 刺史 となった。雍州 刺史 の沈攸之を郢州 刺史 とした。庚戌、太子左衛率の建平王劉景素を南兗州 刺史 とした。
十月乙卯、永嘉王劉子仁・始安王劉子真・淮南王劉子孟・南平王劉子産・廬陵王劉子輿・松滋侯劉子房は皆死を賜った。丁卯、郢州 刺史 の沈攸之を中領軍とし、張永とともに北征させた。庚午、呉郡太守の顧覬之を湘州 刺史 とした。戊寅、皇子の劉昱を皇太子に立てた。揚州・南徐州の二州を限定赦免した。輔国将軍の劉勔を広州 刺史 とし、左軍将軍の張世を 豫 州 刺史 とした。
十一月甲申、安成太守の劉襲を郢州 刺史 とした。壬辰、 詔 して言う。「政治は簡易を尊び、教化は繁侈を嫌う。これは遠く隆替に関わり、明らかに軌跡を著すものである。朕はこの墜ちた運命を救い、この屯きわまりに属し、凋耗を重ね、師旅を因としてきた。しかし前王の識に暗く、昔代の務めに艱難を極めた。それゆえ旧来の賦は既に繁く、費用はますます広がり、万務に鑑みて眠り、常に広く改革を考えてきた。今まさに徭役を緩め、調を優遇し、民を愛することを先とし、有司は詳しく寛恵を加え、さらに科品を立てる。その方物の職貢は、それぞれ土宜に順い、出献し納貢するには、時令を敬って依る。凡そ民を害する俗を蠢す事、末を趣き本に違う業、彫華で靡麗なもの、奇器異技は、並びに厳しく裁断を加え、必ず要実に帰する。左右尚方・御府諸署の供御制造は、ことごとく倹約を存する。淳風至教が至り、微かに太古に遵い、財を阜くし譲を興し、少し季俗を敦くすることを願う。」また 詔 して言う。「機を秉り政を詢うことは、教を立てる本であり、賢を挙げ逸を聘うことは、化を弘める基である。故に鼎を負って策を進めれば、殷代はこれによって康んじ、釣を釈して輔と作れば、周の祚はこれによって治まった。朕は大業を承け始め、訓導はまだ敷かれず、忠規に側席し、巖築に竚夢するが、良図は薦められず、奇士は聞こえず、古に通じて永く鑑み、宵寐に忘れない。今、藩隅はよく晏んじ、敷化はまさに始まろうとし、しばしば存治を思い、まさに箴闕を望む。王公卿尹、群僚庶官、嘉謀直献があり、俗を匡い時を済すものは、ことごとく事に切って陳奏せよ、依隠することなかれ。もし林沢に貞く栖み、丘園に耿潔で、古今に博洽し、孝譲を敦崇する者があれば、四方の在任の者は、明らかに書を以て搜揚し、具に即ち以て聞かせ、随って褒立せよ。」建平王景素の子延年を新安王とした。新たに左光禄大夫・開府儀同三司となった王玄謨を車騎将軍・南 豫 州 刺史 とした。丙申、制して東土が荒れ流散した者を経て、並びに各々本に還らせ、衆調を二年間免除した。
十二月己未、尚書金部郎の劉善明を冀州 刺史 とした。乙丑、 詔 して言う。「近ごろ衆藩が乱を称し、多く釁科に染まった。あるいは誠は本朝に係り、事は逼迫に縁るものも、証錮に混同され、まことに以て悵然とする。天道は仁を尚び、徳刑並び用い、雷霆は時に至り、雲雨は必ず解ける。朕は静かに思いを眷り、風沢を弘めんと念う。凡そ禁削に応ずるものは、皆従って原蕩せよ。その文武で才能に堪える者は、才に随って銓用せよ。」辛未、新たに広州 刺史 となった劉勔を益州 刺史 とし、前巴西・梓潼二郡太守の費混を広州 刺史 とした。劉勔が寿陽を攻克し、 豫 州が平定された。辛巳、輔国将軍の劉霊遺を梁・南秦二州 刺史 とした。薛安都が索虜を引き入れようとし、張永・沈攸之が大敗した。これによって遂に淮北四州及び 豫 州淮西の地を失った。
三年春正月庚子、農役が将に興らんとするため、太官に牛の屠殺を停止させた。癸卯、 豫 ・南 豫 二州を曲赦した。衛将軍巴陵王休若が鎮西将軍に降号した。
閏月庚午、京師に大雨雪が降り、使者を派遣して巡行し、賑賜をそれぞれ差等した。戊寅、游撃将軍の垣閎を益州 刺史 とした。
二月甲申、御史中丞の羊希を広州 刺史 とした。この日、車駕は戦没した将士のために哀悼の礼を行った。己丑、鎮西司馬の劉亮を梁・南秦二州 刺史 とした。索虜が汝陰を寇し、太守の張景遠がこれを撃破した。丙申、青・冀二州を曲赦した。
三月丙子、尚書左 僕射 の蔡興宗を安西将軍・郢州 刺史 とした。戊寅、冠軍将軍の王玄載を徐州 刺史 とし、寧朔将軍の崔平を兗州 刺史 とした。
夏四月癸巳、前司州 刺史 の鄭黑を司州 刺史 とした。乙未、冠軍将軍・北秦州 刺史 の楊僧嗣が征西将軍に進号した。庚子、桂陽王休範の第二子徳嗣を立てて廬陵王とし、侍中劉韞の第二子銑を立てて南豊王とした。丙午、安西将軍蔡興宗が平西将軍に降号した。
五月丙辰、宣太后崇寧陵の禁内にある墳屋で瘞遷徙した者に、葬直を与え、家丁の復役を免除した。戊午、車騎将軍・南 豫 州 刺史 の王玄謨を左光禄大夫・開府儀同三司とした。辛酉、南 豫 州を廃止して 豫 州に併合した。壬戌、太子詹事の 袁粲 を尚書 僕射 とした。
六月乙酉、侍中の劉韞を湘州 刺史 とした。
秋七月壬子、左光禄大夫・開府儀同三司の王玄謨を特進・左光禄大夫・護軍将軍とした。薛安都の子伯令が雍州四郡を略拠したが、 刺史 の巴陵王休若が討伐して斬った。
八月丁酉、 詔 して言う。「古、衡虞に制を置き、蝝蚳は収めず、川沢は産育し、登器して御に進めた。これによって民財を繁阜し、生徳を養い遂げた。近ごろ商販は末を逐い、早く争い新しさを競い、未だ実らぬ果実を折り、豪家の利を収め、膳ならぬ翼を籠め、戯童の資とする。どうして風を還し本に尚び、華を捐て実に務めようか。宜しく道を修め仁を布き、以てこの蠹を革すべし。今より鱗介羽毛、肴核の衆品、時月に採るべからず、器味の須う所は、一に皆禁断し、厳しく科制を為せ。」壬寅、中領軍の沈攸之を行南兗州 刺史 とし、衆を率いて北討させた。癸卯、 詔 して言う。「法網の用は、世を期して行い、寛恵の道は、時に因って布く。況や朕は徳を尚び乱を戡え、仁に依り俗を馭す。宜しく毎に弘簡に就き、以て至治を隆くすべし。しかるに頻りに兵革に罹り、繇賦は未だ休まず、軍民は巧偽し、事を興すこと甚だ多く、刑を蹈み憲に入るは、諒に一科にあらず。乃ち仮りに名を戎伍とし、窃み爵を私庭し、戦に因り散亡し、懼れを託して役を逃れるに至る。かつ往時の諸々の淪逼は、累宥を経たれども、逋竄の党は、猶お実に繁し。宵言して永く思い、まことに兼ねて矜疚とする。重ねて至沢を播き、区宇に覃く被らしむる所以を思う。大赦天下すべし。」新たに左光禄大夫となった王玄謨に車騎将軍を加えた。丙午、吏部尚書の褚淵を派遣して淮に沿った将帥を慰労し、適宜に量って賜与した。戊申、新たに右衛将軍となった劉勔を 豫 州 刺史 とした。
九月癸丑、鎮西将軍・雍州 刺史 の巴陵王休若が衛将軍に進号し、平西将軍・郢州 刺史 の蔡興宗が安西将軍に進号した。乙卯、越騎 校尉 の周寧民を兗州 刺史 とした。戊午、皇后六宮以下の雑衣千領、金釵千枚を以て、北征の将士に班賜した。庚申、前将軍兼冀州 刺史 の崔道固が平北将軍に進号した。甲子、徐・兗・青・冀の四州を曲赦した。
冬十月壬午、新安王延年を改封して始平王とした。戊子、芮芮国が使者を派遣して方物を献じた。辛丑、郡県の公田を復した。鎮西大将軍・西秦河二州 刺史 の吐谷渾拾寅が征西大将軍に進号した。
十一月、建安王休仁の第二子伯猷を立てて江夏王とし、義陽王昶を改封して晋熙王とした。乙卯、徐州を分割して東徐州を置き、輔国将軍の張讜を 刺史 とした。高麗国・百済国が使者を派遣して方物を献じた。
十二月庚辰、寧朔将軍の劉休賓を兗州 刺史 とした。
四年春正月己未、皇帝が自ら南郊で祭祀を行い、大赦を天下に施行した。庚午、衛将軍巴陵王休若が左将軍に降格された。乙亥、零陵王司馬勗が 薨去 した。
二月辛丑、前龍驤将軍常珍奇を平北将軍・司州 刺史 とし、珍奇の子超越を北冀州 刺史 とした。 乙巳 、右光禄大夫・車騎将軍・護軍将軍王玄謨が 薨去 した。
三月己未、游撃将軍劉懷珍を東徐州 刺史 とした。戊辰、軍司馬劉霊遺を梁・南秦二州 刺史 とし、南譙太守孫奉伯を交州 刺史 としたが、交州の者李長仁が州を占拠して反乱を起こした。妖賊が広州を攻撃し、 刺史 羊希を殺害したが、龍驤将軍陳伯紹がこれを討伐平定した。
夏四月己卯、郡県の田禄を再び半減した。丙申、東海王褘を廬江王に改封し、山陽王休祐を晋平王に改封し、晋安郡を晋平郡と改称した。辛丑、芮芮国および河南王がともに使者を遣わして地方の産物を献上した。甲辰、 豫 章太守張辯を広州 刺史 とした。
五月 乙巳 、広州に限って赦を施行した。癸亥、行雍州 刺史 巴陵王休若を行湘州 刺史 とし、会稽太守張永を雍州 刺史 とし、湘州 刺史 劉韞を南兗州 刺史 とした。
秋七月 乙巳 朔、呉郡太守王琨を中領軍とした。丙辰、始平王延年が 薨去 した。己未、侍中劉襲を中護軍とした。庚申、 驍 騎将軍斉王を南兗州 刺史 とした。
八月戊子、南康相劉勃を交州 刺史 とした。辛卯、青州を分割して東青州を設置し、輔国将軍沈文靖を東青州 刺史 とした。丁酉、安南将軍・江州 刺史 王景文の称号を鎮南将軍に進めた。
九月丙辰、驃騎長史張悦を雍州 刺史 とした。戊辰、 詔 を下して言った。「罪には大小があり、刑罰は寛厳に応じて行われる。ゆえに五刑の用い方は異なり、三典の施行も異なる。しかし刑罰を下し法網にかける際、すぐに鉗や撻の刑に及ぶのは、法律の条文に照らせば、その差等はますます遠い。朕は慎み憐れむことを旨とし、常に情状を酌んで寛大に処している。近頃、強盗の罪を定めた法令では、その軽重を大辟と同じにしているが、事実に基づき情状を考慮すれば、詳らかで妥当とは言えない。今後、官の武器を窃取して持ち、巡察の役人に抵抗し戦う者、あるいは駅亭や官寺を攻撃略奪し、あるいは役人や民衆を害する者など、これら諸条については、すべて旧制の通りとする。五人以下で互いに脅迫して奪い合う者は、特に黥刑や刖刑を賜い、四方の遠方に追放することを以て、殺刑に代えることとする。これは古代に比べて優れており、命を全うさせて戸籍に長く留め置くことは、万物を創造する天の働きと同じである。簡潔で恵み深い教化が民衆に信じられ、生命を愛する徳が暗闇の品類にまで漏れないように願う。」庚午、揚州・南徐州・兗州・ 豫 州の四州に限って赦を施行した。
冬十月癸酉朔、日食があった。諸州の兵を徴発して北方を討伐した。南康・建安・安成・宣城の四郡は、かつて南方の叛逆に与しなかったため、すべて徴発の対象から除外した。甲戌、揚州の義興郡を割いて南徐州に属させた。
五年春正月癸亥、皇帝が自ら 藉田 で耕作を行った。大赦を天下に施行し、力田に爵一級を賜った。
二月丙申、 豫 州と揚州を分割して南 豫 州を設置し、 太尉 廬江王褘を車騎将軍・開府儀同三司・南 豫 州 刺史 とした。
三月乙卯、南 豫 州に南義陽郡を設置した。丙寅、皇帝が中堂に行幸して訴訟を聴いた。己巳、河南王が使者を遣わして地方の産物を献上した。
夏四月辛未、雍州の随郡を割いて郢州に属させた。乙酉、 豫 州の義陽郡を割いて郢州に属させ、郢州の西陽郡を 豫 州に属させた。戊子、寧朔将軍崔公烈を兗州 刺史 とした。戊戌、新たに任命された給事黄門侍郎杜幼文を梁・南秦二州 刺史 とした。
六月辛未、晋平王休祐の子宣曜を南平王に立てた。壬申、安西将軍・郢州 刺史 蔡興宗を鎮東将軍とした。癸酉、左衛将軍沈攸之を郢州 刺史 とした。軍事行動が始まって以来、百官の俸給が停止されていたが、すべて生食を支給することとした。丁丑、車騎将軍・南 豫 州 刺史 廬江王褘が官爵を免ぜられた。戊寅、左将軍・行湘州 刺史 巴陵王休若を征南将軍・湘州 刺史 とした。壬午、南 豫 州を廃止した。丙戌、新たに任命された給事黄門侍郎劉亮を益州 刺史 とした。
秋七月己酉、輔国将軍王亮を徐州 刺史 とし、東莞太守陳伯紹を交州 刺史 とした。甲寅、山陽太守李霊謙を兗州 刺史 とした。壬戌、輔国将軍の称号を輔師将軍と改めた。
八月己丑の日、右将軍で 豫 州 刺史 を兼務していた劉勔を平西将軍・ 豫 州 刺史 に任じた。壬辰の日、海陵太守の劉崇智を冀州 刺史 に任じた。
九月甲寅の日、長沙王劉纂の子の延之を始平王に立てた。戊午の日、中領軍の王琨が職を移った。己未の日、 詔 を下して言った。「箕山・潁水の節操は、古より貴ばれ、淡泊な風は、賢明な君主が重んじるところである。朕は乱世の時にあたり、困難で暗い時勢を受け継ぎ、暴を平らげ乱を断ち切ることに日々追われてきた。今や関中・隴西はまだ煙が立ち込めているが、各地は次第に平穏になり、武を収め文を修める時が来た。廉恥を尊び、軽薄な風潮を静めたいと常に思い、寝ても覚めてもため息をついていた。貞節を守り隠棲し、俗事を避けて山林に住み、壁を壊して栄誉を逃れ、釣り糸を垂れて招聘を辞退し、志は江海のように淡泊で、行いは世俗を超えている者があれば、各地で入念に探し求め、時宜を得てその名を聞かせよ。園林を飾り徳を称え、その礼を盛大に明らかにしたい。各官庁はそれぞれ知る者を推挙し、時宜に合わせて爵位を授けよ。」乙丑の日、新たに平西将軍・ 豫 州 刺史 に任じられた劉勔を中領軍に任じた。
冬十月丁卯の朔日、日食があった。
十一月丁未の日、索虜(北魏)が使者を遣わして地方の産物を献上した。
閏月戊子の日、驃騎大将軍・荊州 刺史 の晋平王劉休祐が本来の官号のまま南徐州 刺史 に転じ、征南将軍・湘州 刺史 の巴陵王劉休若が征西将軍・荊州 刺史 に、輔師将軍の孟次陽が兗州 刺史 に、義陽太守の呂安国が司州 刺史 に任じられた。
十二月戊戌の日、 司徒 の建安王劉休仁が揚州 刺史 の職を解かれた。己未の日、征北大将軍・南徐州 刺史 の桂陽王劉休範を 中書監 ・中軍将軍・揚州 刺史 に、呉興太守の建平王劉景素を湘州 刺史 に、輔師将軍で建安王の世子である劉伯融を広州 刺史 に任じた。庚申の日、荊州と益州の五郡を分けて三巴 校尉 を設置した。
泰始六年春正月乙亥の日、新たに制度を定め、二年ごとに南郊で祭祀を行い、一年ごとに明堂で祭祀を行うこととした。
二月壬寅の日、 司徒 の建安王劉休仁が 太尉 となり、 司徒 を兼務した。癸丑の日、皇太子が妃を迎えた。甲寅の日、大赦を天下に施行した。軍務に従事する工匠は赦免の対象外とした。恩賜をそれぞれ差等をつけて行った。
三月乙亥の日、中護軍の劉襲が死去した。丁丑の日、太子詹事の張永を護軍将軍に任じた。
夏四月癸亥の日、第六皇子の 劉燮 を晋熙王に立てた。
五月丁丑の日、前軍将軍の陳胤宗を徐州 刺史 に任じた。丁亥の日、冠軍将軍の吐谷渾拾虔を平西将軍に任じた。戊子の日、奉朝請の孔玉を寧州 刺史 に任じた。
六月己亥の日、第五皇子の劉智井を東平沖王劉休倩の後継ぎとした。庚子の日、侍中の劉韞を撫軍将軍・雍州 刺史 に、前将軍・郢州 刺史 の沈攸之の号を鎮軍将軍に進め、揚州 刺史 の桂陽王劉休範を征南大将軍・江州 刺史 に任じた。癸卯の日、鎮南将軍・江州 刺史 の王景文を尚書左 僕射 ・揚州 刺史 に、尚書 僕射 の 袁粲 を尚書右 僕射 に任じた。己未の日、臨賀郡を臨慶郡と改称し、追って東平王劉休倩を臨慶沖王と改めた。
七月丙戌の日、第五皇子の劉智井が 薨去 した。
九月乙丑の日、中領軍の劉勔に平北将軍の号を加えた。戊寅の日、総明観を設立し、学士を徴用してこれを充てた。東観祭酒を設置した。癸未の日、第八皇子の劉智渙を臨慶沖王劉休倩の後継ぎとした。
冬十月辛卯の日、第九皇子の劉贊を武陵王に立てた。 乙巳 の日、前右軍の馬詵を北雍州 刺史 に任じた。己酉の日、皇帝の車駕は東堂に行幸し、訴訟を聴いた。
十一月己巳の日、高麗国が使者を派遣し、地方の産物を献上した。
十二月癸巳の日、辺境の戦乱が収まらないため、父母が異国の地に陥落している者は、すべて婚姻と官職に就くことを許可する制度を定めた。戊戌の日、始興郡を宋安郡とした。丙辰の日、護軍将軍の張永が職務を移動した。
七年春正月甲戌の日、散騎奏挙郎を設置した。
二月癸巳の日、征西将軍・荊州 刺史 の巴陵王劉休若が征西大将軍に昇進し、開府儀同三司となった。戊戌の日、百梁郡、𢤱蘇郡、永寧郡、安昌郡、富昌郡、南流郡を設置し、さらに広州と交州の三郡を分け、合わせて九郡として越州を立てた。己亥の日、前将軍の劉康を平東将軍とした。妖賊の宋逸が合肥を攻撃し、汝陰太守の王穆之を殺害したが、郡県が討伐して平定した。甲寅の日、驃騎大将軍・開府儀同三司・南徐州 刺史 の晋平王劉休祐が 薨去 した。戊午の日、征西大将軍・荊州 刺史 の巴陵王劉休若を征北大将軍・南徐州 刺史 とし、湘州 刺史 の建平王劉景素を荊州 刺史 とした。
三月辛酉の日、索虜(北魏)が使者を派遣し、地方の産物を献上した。壬戌の日、芮芮国(柔然)が使者を派遣して貢物を奉った。
夏四月辛丑の日、天下の死罪囚を一等減刑し、赦免されて拘禁されている者はすべて釈放した。甲辰の日、南兗州に新平郡を設置した。癸丑の日、金紫光禄大夫の張永が護軍を兼任した。
五月戊午の日、 司徒 の建安王劉休仁が罪を得て、自殺した。辛酉の日、寧朔長史の孫超之を広州 刺史 とし、尚書左 僕射 ・揚州 刺史 の王景文は 刺史 として 中書監 を兼任した。庚午の日、尚書右 僕射 の 袁粲 を 尚書令 とし、新たに吏部尚書に任じられた褚淵を尚書右 僕射 とした。辛未の日、呉郡の王僧虔に湘州 刺史 の職務を代行させた。丙戌の日、晋平王劉休祐を追って免官し、庶人とした。
六月丁酉の日、征南大将軍・江州 刺史 の桂陽王劉休範を驃騎大将軍・南徐州 刺史 とし、征北大将軍の巴陵王劉休若を車騎大将軍・江州 刺史 とした。甲辰の日、芮芮国が使者を派遣し、地方の産物を献上した。
秋七月丁巳の日、散騎奏挙郎を廃止した。乙丑の日、新たに車騎大将軍・江州 刺史 に任じられた巴陵王劉休若が 薨去 した。桂陽王劉休範は新たに任じられた驃騎大将軍として、江州に戻った。庚午の日、第三皇子の劉準を撫軍将軍とした。辛未の日、太子詹事の劉秉を南徐州 刺史 とした。戊寅の日、寧朔将軍の沈懐明を南兗州 刺史 とした。乙酉の日、冀州に西海郡を設置した。
八月戊子の日、第八皇子の 劉躋 が江夏文献王劉義恭の後を継いだ。庚寅の日、病気が治癒したことを祝って大赦を施行した。冀州 刺史 の劉崇智に青州 刺史 を加えた。戊戌の日、第三皇子の劉準を安成王に立てた。
九月辛未の日、越騎 校尉 の周寧民を徐州 刺史 とした。
冬十一月戊午の日、百済国が使者を派遣し、地方の産物を献上した。
十二月丁酉の日、 豫 州と南兗州を分けて南 豫 州を立て、歴陽太守の王玄載を南 豫 州 刺史 とした。
泰 豫 元年春正月甲寅朔の日、皇帝は病気のため朝会に臨まなかった。病気がまだ治っていないため、元号を改めた。孤児、老人、貧者、病人に粟や布帛をそれぞれ差等をつけて賜った。戊午の日、皇太子が東宮で諸国の使者と会い、ともに貢物の計上を受けた。
二月辛丑の日、給事黄門侍郎の王瞻を司州 刺史 とした。
三月癸丑朔(三月一日癸丑)、林邑国が使者を派遣して地方の産物を献上した。己未(七日)、 中書監 ・揚州 刺史 の王景文が死去した。
夏四月辛卯(十日)、撫軍司馬の蔡那を益州 刺史 とした。癸巳(十二日)、右 衞 将軍の張興世を雍州 刺史 とした。己亥(十八日)、帝の病状が重篤となる。驃騎大将軍・江州 刺史 の桂陽王劉休範は 司空 に進み、尚書右 僕射 の褚淵は護軍将軍となり、中領軍の劉勔は尚書右 僕射 を加えられ、鎮東将軍の蔡興宗は征西将軍・開府儀同三司・荊州 刺史 となり、鎮軍将軍・郢州 刺史 の沈攸之は安西将軍の号を進められた。 詔 して言う。「朕が億兆の民を統治して以来、なおも戦乱が続き、常に広く教化を心がけてはいるが、恵みは遠くまで及ばず、軍国は疲弊し、刑罰と訴訟は止まない。今、病が重く危篤に至り、深く哀れみ嘆く。徭役を緩め、税を優遇し、煩雑を去って簡素にせよ。改めるにふさわしいことは、詳しく検討して簡潔な基準を示せ。必ず民を愛することを第一とし、朕の遺志を広く知らしめよ」。 袁粲 ・褚淵・劉勔・蔡興宗・沈攸之はともに遺命を受けた。この日、帝は景福殿で崩御した。享年三十四。五月戊寅(二十七日)、臨沂県莫府山の高寧陵に葬られた。
帝は幼少の頃から温和で、風采は端正優雅であった。早くに実母を失い、太后の宮中で養育された。大明の世、諸弟の多くは猜疑と忌避を受けたが、ただ帝だけは親しまれ、常に路太后の医薬の世話をした。読書を好み、文義を愛し、藩王であった時に、江左以来の文章志を撰し、また 衞 瓘が注した論語二巻を続けて著し、世に行われた。大位に即くと、四方で反乱が起こったが、寛大で仁愛をもって人に接し、諸軍の将帥で父兄子弟が同じく叛逆した者があっても、皆に禁軍を授け、委任を変えなかったので、兵士たちは彼のために働き、力を尽くさない者はなかった。天下を平定し、逆党の多くは助命され、才能のある者は皆、任用され、旧臣のようであった。才学の士は多く引き立てられ、文書に参与し侍従し、左右で応対した。華林園の含芳堂で周易を講義し、常に自ら臨席して聴講した。晩年は鬼神を好み、多くの禁忌があり、言葉や文書で、禍・敗・凶・喪およびそれに似た言葉で回避すべきものは数百千種類に及び、犯せば必ず罪を加えて誅殺した。「騧」の字を「馬」偏に「瓜」と改めたのも、「騧」の字が「禍」の字に似ているからである。南苑を張永に貸し与え、「まず三百年間与える。期限が切れたらまた申し出よ」と言った。このような類の事が多かった。宣陽門は民間で白門と呼んだが、帝は白門という名が不吉であるとして、非常に忌み嫌った。尚書右丞の江謐が誤ってこれに触れたことがあり、帝は顔色を変えて「お前の家の門を白くしろ!」と言った。江謐は額を地につけて謝罪し、しばらくしてようやく許された。太后の遺体を安置した漆塗りの寝台が先に東宮から出された時、帝がかつて宮に行幸し、それを見て大いに怒り、中庶子の官を免じ、職局でそれに連座した者は数十人に及んだ。朝廷内外は常に禁忌に触れることを心配し、人は自らの身の安全を保てなかった。宮内の禁忌は特に厳しく、寝台を移動したり壁を修理したりする時は、必ずまず土神を祭り、文士に文章の祝詞や策文を作らせ、大祭の饗宴のようにした。泰始・泰 豫 の頃は、さらに残忍で殺戮を好み、側近が意に背き気に障ることをすると、しばしば斬り刻み切り捨てる者があった。当時、淮・泗の経略に取り組み、軍旅が絶えず、荒廃疲弊が長く続き、府庫の蓄えは空になった。内外の百官は、日ごとに俸禄を支給されたが、帝は奢侈浪費が過度で、ことさらに彫琢と贅沢に努めた。何か造る度に、必ず正御用三十組、御次用・副用にそれぞれ三十組ずつ作り、一つの品物につき九十個を造らせたので、天下は騒然とし、民は命に堪えられなかった。その他の事跡は、各篇に列挙されている。側近の讒言と悪人を親しみ、皇族の枝葉を切り落とした。宋氏の基業は、ここから衰えたのである。