巻06

宋書

本紀第六

世祖孝武皇帝の 諱 は駿、字は休龍、小字は道民、文帝の第三子である。元嘉七年秋八月庚午に生まれた。十二年、武陵王に立てられ、食邑二千戸を与えられた。十六年、 都督 ととく 湘州諸軍事・征虜将軍・湘州 刺史 しし となり、 石頭 の戍事を領した。十七年、使持節・ 都督 ととく 司雍 へい 五州諸軍事・南 刺史 しし に遷り、将軍の位は元のままとし、依然として石頭を守備した。二十一年、秦州の 都督 ととく を加えられ、撫軍将軍に進号した。翌年、 都督 ととく 雍梁南北秦四州荊州之襄陽竟陵南陽順陽新野隨六郡諸軍事・寧蛮 校尉 こうい ・雍州 刺史 しし に転じ、持節・将軍の位は元のままとした。晋朝が江左に移って以来、襄陽に皇子が重鎮として駐留したことはなく、当時太祖(文帝)は関中・黄河地方の経略を図っていたため、この任命があった。まもなく鼓吹一部を与えられた。

二十五年、 都督 ととく 南兗徐兗青冀幽六州 州之梁郡諸軍事・安北将軍・徐州 刺史 しし に改めて任命され、持節は元のままで、北の 彭城 に駐屯した。まもなく兗州 刺史 しし を兼任した。始興王劉濬が南兗州 刺史 しし となったため、上(孝武帝)は南兗州の 都督 ととく を解かれた。二十七年、汝陽での戦いに敗れた罪により、鎮軍将軍に降号された。また索虜(北魏)が南侵したため、北中郎将に降格された。二十八年、南兗州の 都督 ととく ・南兗州 刺史 しし に進み、山陽に駐屯することとなった。まもなく 都督 ととく 江州荊州之江夏 州之西陽 しん 熙新蔡四郡諸軍事・南中郎将・江州 刺史 しし に遷り、持節は元のままとした。当時、長江沿いの蛮族が寇掠していたため、太祖は太子歩兵 校尉 こうい 沈慶之らを派遣して討伐させ、上に命じて諸軍を総統させた。

三十年正月、上は西陽の五洲に出て駐屯した。ちょうど元凶(劉劭)が逆 しい を犯したため、上は征南将軍とされ、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。上は軍勢を率いて討伐に赴き、荊州 刺史 しし の南譙王劉義宣と雍州 刺史 しし の臧質がともに義兵を挙げた。四月辛酉、上は溧洲に駐屯した。癸亥、 冠軍 将軍柳元景の前鋒が新亭に到着し、営塁を築いた。甲子、賊の劉劭が自ら軍勢を率いて元景を攻撃したが、大敗して退却した。丙寅、上は江寧に駐屯した。丁卯、大将軍江夏王劉義恭が来奔し、上表を奉って尊号を奉った。戊辰、上は新亭に到着した。

己巳、皇帝の位に即いた。天下に大赦を行い、文武の官には爵一等を賜い、従軍した者には二等を賜った。贓汚や清議による処分は、すべて洗い清め除かれた。高齢者、鰥夫・寡婦、孤児・幼児、六疾(重い病気)で自活できない者には、一人あたり穀物五斛を賜った。滞納した租税や古い債務はこれ以上徴収しない。長期の徒刑に処せられた者については、情状を考慮して減刑・赦免した。太祖(文帝)の号 諡 を改めて尊んだ。大将軍江夏王劉義恭を 太尉 たいい ・録尚書六条事・南徐州 刺史 しし とした。庚午、荊州 刺史 しし 南譙王劉義宣を 中書監 ちゅうしょかん ・丞相・録尚書六条事・揚州 刺史 しし とし、安東将軍随王劉誕を衛将軍・開府儀同三司・荊州 刺史 しし とし、雍州 刺史 しし 臧質を車騎将軍・開府儀同三司・江州 刺史 しし とし、征虜将軍沈慶之を領軍将軍とし、撫軍将軍・兗冀二州 刺史 しし 蕭思話を尚書左 僕射 ぼくや とした。壬申、征虜将軍王僧達を尚書右 僕射 ぼくや とした。新亭を中興亭と改称した。

五月甲戌、輔国将軍申坦が京城を制圧した。乙亥、輔国将軍朱脩之が東府を制圧した。丙子、京邑を平定した。劉劭および始興王劉濬ら同逆の者はすべて誅殺された。庚辰、 詔 を下して言った。「天の歩みは困難であり、国の道は時に塞がれる。基盤は永固であっても、気数は時に乱れる。朕は微末の身ながら、皇業を継承し、歴代の天命を奉じて尋ね、寝ても覚めても震え畏れる思いである。万国の風俗と政治は、人を治める根本である。その衰退を思い、心に疚しさを感じる。大使を分遣して四方の風俗を巡視させよ。」この日、戒厳令を解除した。辛巳、車駕は東府城に行幸した。甲申、生母の路淑媛を皇太后として尊んだ。乙酉、妃の王氏を皇后に立てた。戊子、左衛将軍柳元景を雍州 刺史 しし とした。壬辰、 太尉 たいい 江夏王劉義恭を太傅とし、大司馬を兼任させた。甲午、京邑から二百里以内を特別に赦免し、今年の租税を免除した。戊戌、撫軍将軍南平王劉鑠を 司空 しくう とし、建平王劉宏を尚書左 僕射 ぼくや とし、東海王劉褘を撫軍将軍とし、新たに尚書左 僕射 ぼくや に任じられた蕭思話は職務を移動させた。

六月壬寅、 驃騎 参軍垣護之を冀州 刺史 しし とした。甲辰、山陽 太守 申恬を青州 刺史 しし とした。丙午、車駕は宮中に還った。初めて殿門と上閤に屯兵を置いた。江夏内史朱脩之を平西将軍・雍州 刺史 しし とし、御史中丞王曇生を広州 刺史 しし とした。戊申、新たに雍州 刺史 しし に任じられた柳元景を護軍将軍とした。己酉、司州 刺史 しし 魯爽を 刺史 しし とした。庚戌、梁・南秦二州 刺史 しし 劉秀之を益州 刺史 しし とし、 太尉 たいい 司馬龐秀之を梁・南秦二州 刺史 しし とし、衛軍司馬徐遺寶を兗州 刺史 しし とし、寧朔将軍王玄謨を徐州 刺史 しし とし、衛将軍随王劉誕を驃騎大将軍に進号させた。尚書右 僕射 ぼくや 王僧達は職務を移動させ、丹陽尹褚湛之を尚書右 僕射 ぼくや とした。丙辰、 侍中 南譙王世子劉恢を湘州 刺史 しし とした。丁巳、 詔 を下して言った。「興王は訓戒を立て、治世の節度を広く務め、輔臣は時に佐けて、政治の要を勤めて献じる。聖なる規範を仰ぎ見れば、常にこの道を存している。朕は微末の身でありながら、大業を継承し、遺された恩沢を宣揚して、その心を廃することはない。収入を量って支出するのは、国家の不変の法典である。しかし経費の支給は、多くが常度に違反している。兵役による消耗、府庫の散逸減少、内外の様々な供給が、まだ減らし節約されていない。これは先帝のご意志を遵守し、遺された計画を敬って奉ずるものではない。今後、自らを薄くして民を厚くし、煩わしさを去って簡素に従うべきことは、すべて施行して、朕の意にかなうようにせよ。」庚申、 詔 を下して有司に論功行賞をそれぞれ差等をつけて行わせた。辛酉、安西将軍・西秦河二州 刺史 しし 吐谷渾拾寅を鎮西大将軍・開府儀同三司に進号させた。庚午、南徐州を分割して南兗州を設置した。辛未、南譙王劉義宣を南郡王に、随王劉誕を竟陵王に改封し、義宣の次子宜陽侯劉愷を宜陽県王とした。

閏月壬申、領軍将軍沈慶之を鎮軍将軍・南兗州 刺史 しし とした。癸酉、護軍将軍柳元景を領軍将軍とした。丙子、兼 散騎常侍 さんきじょうじ 樂詢ら十五人を派遣して風俗を巡行させた。甲申、尋陽・西陽郡の租布を三年間免除した。甲午、丞相南郡王劉義宣を荊・湘二州 刺史 しし に改め、驃騎大将軍・荊州 刺史 しし 竟陵王劉誕を揚州 刺史 しし に改め、南蛮 校尉 こうい 王僧達を護軍将軍とした。この月、衛尉官を設置した。

秋七月辛丑の朔日、日食があった。甲寅の日、 詔 を下して言った。「世の道はまだ平らかでなく、ただ国のことを憂えている。多くの善政をことごとく挙げることは、もとより一人の才で議論できることではなく、ましてや寡徳の身で、衰微した時代に当たり、朝夕に敬虔に思いをめぐらし、夜明けを待つ思いでいる。王公卿士たちよ、嘉い謀略や善政があり、風俗を維持し教化できるものがあれば、皆その誠意を表して述べよ。隠したり遠慮したりしてはならない。」辛酉の日、 詔 を下して言った。「百姓は疲弊し、徭役と賦税はまだ重い。思いをめぐらせばまだ治まっておらず、倹約と軽減を尊ぶべきである。軍事や国家に関係のない用途は、すべて工事を停止すべきである。細工の仕事と尚方の役所を廃止し、彫刻や文様の過度な技巧、金銀の装飾など、実用に関係のないことは厳しく禁止する。朝廷に供える衣服や食事は、遊興や奢侈を減らす。水陸での捕獲や採集は、それぞれ季節に従うこと。官と私の交易は、互いに有利になるよう務めること。江や海の田地や池で公家が占有しているものについては、詳しく調査して開放または弛緩させる。貴戚が利益を競うことは、すべて禁絶する。」戊戌の日、右衛将軍の宗愨を広州 刺史 しし とした。己巳の日、 司空 しくう の南平王劉鑠が 薨去 こうきょ した。八月辛未の日、武皇帝の旧来の軍役に服し、かつて宮中の斎舎にいた者で、まだ生存している者には、広く戸籍の免除を与えた。乙亥の日、尚書左 僕射 ぼくや の建平王劉宏に 中書監 ちゅうしょかん ・中軍将軍を加えた。丁亥の日、沛郡太守の垣閎を寧州 刺史 しし とし、撫軍司馬の費沈を梁・南秦二州 刺史 しし とした。甲午の日、護軍将軍の王僧達が職を移った。

九月丁巳の日、前尚書の劉義綦を中護軍とした。壬戌の日、新亭の戦いで戦死した者を、京城の者と同じく扱った。劉劭の与党である南海太守の蕭簡が広州を占拠して反乱を起こした。丁卯の日、輔国将軍の鄧琬がこれを討伐して平定した。

冬十月癸未の日、車駕は閲武堂で訴訟を聴いた。

十一月丙午の日、左軍将軍の魯秀を司州 刺史 しし とした。丙辰の日、台省の諸官による朔望の問訊を停止した。丙寅の日、高麗国が使者を遣わして地方の産物を献上した。

十二月甲戌の日、都水台を廃止し、都水使者の官を罷め、水衡令の官を置いた。癸未の日、東宮を設置することに伴い、太子率更令、歩兵 校尉 こうい 、翊軍 校尉 こうい 、旅賁中郎将、冗従 僕射 ぼくや 、左右積弩将軍の官を廃止した。中庶子、中舎人、庶子、舎人、洗馬は、それぞれ旧来の員数の半分に減らした。

孝建元年春正月己亥の朔日、車駕はみずから南郊で祭祀を行い、元号を改め、天下に大赦を行った。壬寅の日、丹陽尹の蕭思話を安北将軍・徐州 刺史 しし とした。甲辰の日、護軍将軍の劉義綦が職を移り、 尚書令 しょうしょれい の何尚之を左光禄大夫・護軍将軍とした。戊申の日、 詔 を下して言った。「食を第一とし農を尊ぶのは、国を治める根本の務めであり、士を貢ぎ行いを察するのは、朝廷を安んじ道に適うためである。内乱がようやく治まり、政治の教化はまだ行き渡らず、衣食にはなお浪費の弊害があり、選挙には国を見る美しさがない。昔、衛文公は民に勤め、殷の高宗は恭しく黙して、ついに岩穴から賢者を収め、殷の末世を大いに盛んにした。朕はいつも席を側らえて疚しさを懐き、目覚めても忘れない。すべての民に親しむ職にある官は、旧来の条規を詳しく申し立て、地の利を尽くすよう勤めること。農業に励み蓄えを善くする者は、その地において名を挙げて報告せよ。褒賞し選抜する科目は、その基準を精緻にせよ。四方の秀才・孝廉は、才がなければ挙げてはならず、献言に答えてその価値があれば、すぐに選抜して登用せよ。もし取り立てるべき点がなければ、それでも任官は与える。もし奉公に堪えず、虚しく栄誉や推薦を得た者は、田舎に送り返し、禁錮を加える。尚書は百官の根本であり、諸々の政務の枢機である。丞・郎・列曹は、それぞれ局や司がある。しかし近ごろは事の大小を問わず、すべて令や僕に帰している。これは多くの人材を集めて構築し、多くの能力をもって事業を成し遂げる道ではない。体制をさらに明らかにし、皆にその成果を責め、勤惰を糾明し検核し、賞罰を厳しく施すこと。」壬戌の日、四銖銭を改めて鋳造した。丙寅の日、皇子の子業を皇太子に立てた。天下の父の後継ぎである者に爵一級を賜った。孝子、順孫、義夫、節婦には粟や帛をそれぞれ差等を設けて与えた。この月、正光殿を建て始めた。

二月庚午の日、 刺史 しし の魯爽、車騎将軍・江州 刺史 しし の臧質、丞相・荊州 刺史 しし の南郡王劉義宣、兗州 刺史 しし の徐遺宝が兵を挙げて反乱を起こした。乙亥の日、撫軍将軍の東海王劉褘が職を移った。己卯の日、領軍将軍の柳元景に撫軍将軍を加えた。壬午の日、 州に限って赦を行った。辛卯の日、左衛将軍の王玄謨を 刺史 しし とした。癸巳の日、王玄謨が進軍して梁山を占拠した。丙申の日、安北司馬の夏侯祖歓を兗州 刺史 しし とした。

三月癸亥の日、内外に戒厳を布いた。辛丑の日、安北将軍・徐州 刺史 しし の蕭思話を安南将軍・江州 刺史 しし とし、撫軍将軍の柳元景をそのままの号で雍州 刺史 しし とした。癸卯の日、太子左衛率の龐秀之を徐州 刺史 しし とした。徐遺宝は夏侯祖歓に撃破され、兵を捨てて逃走した。丙寅の日、輔国長史の明胤を冀州 刺史 しし とした。

夏四月戊辰の日、後将軍の劉義綦を湘州 刺史 しし とした。甲申の日、平西将軍・雍州 刺史 しし の朱脩之を安西将軍・荊州 刺史 しし とした。丙戌の日、鎮軍将軍・南兗州 刺史 しし の沈慶之が歴陽の小峴で魯爽を大破し、魯爽を斬った。癸巳の日、沈慶之の号を鎮北大将軍に進めた。第十六皇弟の休倩を東平王に封じた。拝受しないうちに 薨去 こうきょ した。

五月甲寅の日、劉義宣らが梁山を攻撃したが、王玄謨がこれを大破した。己未の日、戒厳を解いた。癸亥の日、呉興太守の劉延孫を尚書右 僕射 ぼくや とした。

六月戊辰の日、臧質が武昌に逃げたが、人に斬られ、首は京師に伝送された。甲戌の日、撫軍将軍の柳元景の号を撫軍大将軍に進め、鎮北大将軍の沈慶之とともに開府儀同三司とした。丙子の日、征西将軍の武昌王劉渾を雍州 刺史 しし とした。癸未の日、揚州を分割して東揚州を立てた。荊州、湘州、江州、 州を分割して 郢州 を立てた。南蛮 校尉 こうい を廃止した。戊子の日、録尚書事を廃止した。庚寅の日、劉義宣を江陵で賜死した。

秋七月丙申の朔日、日食があった。丙辰の日、天下に大赦を行った。文武の官に爵一級を賜った。滞納した租税や古い債務はもう徴収しない。辛酉の日、雍州に建昌郡を立てた。会稽太守の義陽王劉昶を東揚州 刺史 しし とした。

八月庚午の日、撫軍大将軍の柳元景が再び領軍将軍となり、もとの号はそのままとした。壬申の日、游撃将軍の垣護之を徐州 刺史 しし とした。壬辰の日、安西司馬の梁坦を梁・南秦二州 刺史 しし とした。

九月丙申の日、強弩将軍の尹懐順を寧州 刺史 しし とした。丁酉の日、左光禄大夫の何尚之が護軍将軍を解かれた。甲辰の日、何尚之に特進を加えた。丙午の日、安南将軍・江州 刺史 しし の蕭思話を鎮西将軍・郢州 刺史 しし とした。

冬十月戊寅の日、 詔 を下して言った。「仲尼(孔子)は天の徳を体し、周を興し漢を助け、天地人の三極を経緯し、百王の冠冕となった。前代より、皆褒め称え述べてきた。司る者が人を得ず、宗廟の祭祀が欠けていた。先朝は遠く遺範を存し、建立の 詔 を下したが、世の変故が道を妨げ、事は成就しなかった。国難が頻りに深まり、忠勇の士が奮い立ったのは、実に聖人の教義に依り、大いなる教化が促したものである。常にこれを懐い、夜明けを待つ思いを忘れない。廟制を開き建て、諸侯の礼と同じくすべきである。明るく乾いた地を詳しく選び、祭祀の費用を厚く給すること。」丁亥の日、秘書監の東海王劉褘を撫軍将軍・江州 刺史 しし とした。郢州に安陸郡を立てた。

十一月癸卯、都水臺を再び設置し、都水使者の官職を置いた。

この年、初めて南徐州の僑民に租税を課した。

二年正月壬寅、冠軍将軍湘東王劉彧を中護軍とした。

二月己丑、婆皇国が使者を遣わして地方の産物を献上した。丙寅、鎮北大将軍・南兗州 刺史 しし の沈慶之を左光禄大夫・開府儀同三司とした。辛巳、尚書右 僕射 ぼくや の劉延孫を南兗州 刺史 しし とした。

三月辛亥、呉興太守の 劉遵考 を湘州 刺史 しし とした。壬子、行征西将軍の楊文智を征西将軍・北秦州 刺史 しし とした。

夏四月壬申、河南国が使者を遣わして地方の産物を献上した。壬午、 章太守の檀和之を 刺史 しし とした。

五月戊戌、湘州 刺史 しし の劉遵考を尚書右 僕射 ぼくや とし、前軍司馬の垣閎を交州 刺史 しし とした。庚子、輔国将軍の申坦を徐・兗二州 刺史 しし とした。癸卯、右衛将軍の顧覬之を湘州 刺史 しし とした。丁未、金紫光禄大夫の王偃を右光禄大夫とした。

六月甲子、国喪の忌明けの除服により、大赦を天下に施行した。庚辰、曲江県侯の王玄謨を 刺史 しし とした。

秋七月癸巳、第十三皇弟の劉休祐を山陽王に、第十四皇弟の劉休茂を海陵王に、第十五皇弟の劉休業を鄱陽王に立てた。戊戌、鎮西将軍の蕭思話が死去した。己酉、益州 刺史 しし の劉秀之を郢州 刺史 しし とした。槃槃国が使者を遣わして地方の産物を献上した。甲寅、義興太守の到元度を益州 刺史 しし とした。

八月庚申、雍州 刺史 しし 武昌王劉渾が罪を犯し、庶人に落とされ、自殺した。辛酉、南兗州 刺史 しし の劉延孫を鎮軍将軍・雍州 刺史 しし とした。斤陀利国が使者を遣わして地方の産物を献上した。三呉の民が飢饉に陥った。癸酉、 詔 を下して現地で救済と貸し付けを行わせた。丙子、 詔 を下して言った。「諸苑の禁制は長く遠く、生業の妨げとなっている。詳しく開き緩めるべきところを検討し、貧民に貸し与えよ。」壬午、新たに 刺史 しし に任じられた王玄謨を青・冀二州 刺史 しし とし、青州 刺史 しし の申恬を 刺史 しし とした。甲申、右衛将軍の檀和之を南兗州 刺史 しし とした。

九月丁亥、車駕は宣武場で軍事訓練を閲兵した。庚戌、 詔 を下して言った。「国運が再び屯難に陥り、艱難憂虞がことごとく集まった。朕は徳薄いとはいえ、ついに大いなる慶事を担うことになった。維新の福は、実に歴代の王よりも深い。しかし恵みと赦しの令は、常の厚遇と変わるところがない。常に勤め慮り、寝ても覚めても心に抱いている。朕が天命を受ける以前のことで、罪により流刑・追放された者はすべて、本籍地に帰ることを許す。罪を犯した家門で、まだ存命の者がいる場合は、子弟をその才能に応じて官吏に任用せよ。」

冬十月壬午、太傅江夏王劉義恭が揚州 刺史 しし を兼任し、驃騎大将軍・揚州 刺史 しし の竟陵王劉誕を 司空 しくう ・南徐州 刺史 しし とし、 中書監 ちゅうしょかん ・尚書左 僕射 ぼくや ・中軍将軍の建平王劉宏を 尚書令 しょうしょれい とし、将軍の官職は元のままとした。

十一月戊子、中護軍の湘東王劉彧が職務を移り、鎮軍将軍の劉延孫が護軍将軍となった。青・冀二州 刺史 しし の王玄謨が雍州 刺史 しし となった。甲午、大司馬の垣護之を青・冀二州 刺史 しし とした。辛亥、高麗国が使者を遣わして地方の産物を献上した。

十二月癸亥、前交州 刺史 しし の蕭景憲を交州 刺史 しし とした。

三年春正月庚寅、第十八皇弟の 劉休範 を順陽王に、第十九皇弟の劉休若を巴陵王に立てた。戊戌、第二皇子の劉子尚を西陽王に立てた。辛丑、車駕はみずから南郊で祭祀を行った。壬子、皇太子妃の何氏を立てた。甲寅、大赦を天下に施行した。

二月癸亥の日、右光禄大夫の王偃が死去した。甲子の日、広州 刺史 しし の宗慤を平西将軍・ 刺史 しし に任じた。丁卯の日、新たに御史中丞に任じられた王翼を広州 刺史 しし とした。丁丑の日、初めて朔望(月の初めと十五日)に西堂に出御して群臣と面会し、上奏を受け付ける制度を定めた。壬午の日、内外の官で近道に田地を持つ者は、給与された吏や僮を派遣して付随する業務に従事させることを許可した。

三月癸丑の日、西陽王の子尚を南兗州 刺史 しし とした。

閏月戊午の日、尚書右 僕射 ぼくや の劉遵考が職務を移動した。癸酉の日、鄱陽王の休業が 薨去 こうきょ した。庚辰の日、元嘉三十年以前の兵士・工匠に対する考課と選別を停止した。

夏五月辛酉の日、荊州・徐州・兗州・ 州・雍州・青州・冀州の七州の管内において、家に馬一頭を持つ者には、一人の丁男の賦役を免除する制度を定めた。壬戌の日、右衛将軍の劉瑀を益州 刺史 しし とした。

六月、帝は華林園で訴訟を聴いた。

秋七月、太傅の江夏王義恭が揚州の職務を解かれた。丙子の日、南兗州 刺史 しし の西陽王子尚を揚州 刺史 しし とし、秘書監の建安王休仁を南兗州 刺史 しし とした。

八月戊戌の日、北中郎諮議参軍の費淹を交州 刺史 しし とした。丁未の日、尚書吏部郎の王琨を広州 刺史 しし とした。

九月壬戌の日、丹陽尹の劉遵考を尚書右 僕射 ぼくや とした。

冬十月癸未の日、尋陽太守の張悦を益州 刺史 しし とした。丙午の日、太傅の江夏王義恭は太宰に進み、 司徒 しと を兼ねた。丁未の日、領軍将軍の柳元景は驃騎将軍を加えられ、 尚書令 しょうしょれい の建平王宏は 中書監 ちゅうしょかん ・衛将軍を加えられ、撫軍将軍・江州 刺史 しし の東海王褘は平南将軍の号に進んだ。

十一月癸丑の日、淮南太守の袁景は罪により棄市に処せられた。

十二月丙午の日、侍中の孔霊符を郢州 刺史 しし とした。

大明元年春正月辛亥の朔日、元号を改め、大赦を行った。高齢者や孤児、病者にそれぞれ差等をつけて粟や帛を賜った。庚午の日、護軍将軍の劉延孫が職務を移動し、右衛将軍の湘東王彧が中護軍となった。京邑に雨水があり、辛未の日、使者を派遣して巡視させ、薪や米を賜った。

二月己亥の日、民に直接治める職務にある者の公田を復活させた。索虜が兗州を侵犯した。

三月壬戌の日、大臣で班剣を加えられた者は宮城門に入ってはならないと定めた。梁州の獠が内属を求め、懐漢郡を設置した。

夏四月、京邑に疫病が流行した。丙申の日、使者を派遣して巡視させ、医薬品を支給した。死んで収殮されない者は、官が埋葬した。庚子の日、湘州の宋建郡を廃止して臨賀郡に併合した。

五月、呉興・義興で大水害が発生し、民衆が飢えた。乙卯の日、使者を派遣して倉庫を開き、救済と慰問を行った。癸酉の日、華林園で訴訟を聴いた。乙亥の日、左衛将軍の沈曇慶を徐州 刺史 しし とし、輔国将軍の梁瑾葱を河州 刺史 しし ・宕昌王とした。

六月己卯の日、前太子歩兵 校尉 こうい の劉祗の子である劉歆を南豊王劉朗の後継ぎとした。辛巳の日、長水 校尉 こうい の山陽王劉休祐を東揚州 刺史 しし とした。丁亥の日、劉休祐を湘州 刺史 しし に改めた。丹陽尹の顔竣を東揚州 刺史 しし とした。

秋七月辛未の日、雍州の諸僑郡県に対して土断を実施した。

八月戊戌の日、兗州に陽平郡を設置した。壬寅の日、華林園で訴訟を聴いた。甲辰の日、 司空 しくう ・南徐州 刺史 しし の竟陵王劉誕を南兗州 刺史 しし に改め、太子詹事の劉延孫を鎮軍将軍・南徐州 刺史 しし とした。

冬十月丙申の日、 詔 を下した。「君主が耳を傾け目を配る道は、結縄の時代にも信義があり、日が傾くまで勤勉に務めることは、すでに周の文王の時代から切実であった。ましてや世は弊れ教えは浅く、歳月は風俗が薄れる末世である。朕は天下に力を尽くしているが、まだ夜明け前に衣を求めるほど早く起きておらず、前代の王者に比べて識見が狭く、昔の時代よりも務めを広げようとして、常に薄徳を思うと、その恥ずかしさは誠に深い。朝廷の諮問も野の怨嗟も、自ら上聞に達する者は少なく、民を恵み公に利することを、見失っていることは実に多い。今より百官・諸官の長、下民・賤しい隷に至るまで、誠意を抱き志を抱きながら、門前で鬱屈し、道理を失い誹謗を負い、朝廷の耳に達していない者は、皆、自ら進み出て申し奏上することを許し、大小にかかわらず聞き届ける。朕は聴政の日に、親しく対面して覧るものとする。」甲辰の日、百済王の餘慶を鎮東大将軍とした。

十二月丁亥の日、順陽王劉休範を桂陽王に改封した。戊戌の日、華林園で訴訟を聴いた。

二年春正月辛亥の日、皇帝は南郊で祭祀を行った。壬子の日、 詔 を下した。「去年、東方の地は多く水害を受けた。春の農作業の時期がすでに来ているので、優遇して課役を課すべきである。種籾など必要なものは、時宜に合わせて貸し与えよ。」丙辰の日、郡県の田秩(地方官の俸禄田の収入)を復活させ、九親(皇族)の禄俸も合わせて復活させた。壬戌の日、 詔 を下した。「先帝の霊命が初めて興り、西楚の地から龍が飛び立ってから、歳月は次第に遠ざかり、過去を思い起こすと心にまとわりつく。先帝を奉迎した文武の官は、常に隷属する者としての情が深く、特別な恩沢を広げ、永遠の思いを表したい。官吏自身には爵一級を賜い、軍戸は平民に免ずる。」

二月丙子の日、 詔 を下した。「政治の道が明らかでなく、世俗の弊害はまだ深く、豪族が奢侈にふけ兼併し、貧弱な者は困窮し、生きている間は衣服に事欠き、死んでも棺桶すらない。朕はこれを非常に悲しむ。守宰(地方長官)に明らかに命じ、勤めて慰問救済を加えよ。葬儀の贈り物に関する規定を、速やかに条品として定めよ。」乙酉の日、金紫光禄大夫の褚湛之を尚書左 僕射 ぼくや とした。丙戌の日、 中書監 ちゅうしょかん 尚書令 しょうしょれい ・衛将軍の建平王劉宏は本号のまま開府儀同三司とし、 中書監 ちゅうしょかん はもとの通りとした。丁酉の日、驃騎将軍の柳元景は本号のまま開府儀同三司とした。甲辰の日、 散騎常侍 さんきじょうじ の義陽王劉昶を中軍将軍とした。

三月丁未の日、 中書監 ちゅうしょかん 尚書令 しょうしょれい ・衛将軍の建平王劉宏が 薨去 こうきょ した。乙卯の日、田農の重要な時期であるため、太官に牛の屠殺を停止させた。丁卯の日、皇帝は華林園で訴訟を聴いた。癸酉の日、寧朔将軍の劉季之を司州 刺史 しし とした。

夏四月甲申の日、皇子の劉子綏を立てて安陸王とした。甲午の日、海陵王劉休茂を雍州 刺史 しし とした。辛丑の日、地震があった。

五月戊申の日、西陽郡を復活させた。

六月戊寅の日、吏部尚書を一人増員し、五兵尚書を廃止した。丁亥の日、左光禄大夫の何尚之に開府儀同三司を加えた。戊子の日、金紫光禄大夫の羊玄保を右光禄大夫とした。丙申の日、 詔 を下した。「これまで軍隊のため、多くの逃亡者がいた。あるいは山々に連なり叛逆に染まり、軍法を恐れた者もあり、あるいは役務を嫌い労苦を恐れ、刑罰を免れようとした者もいた。法を簡素化し、広く宥恕することを考え、恩赦の命令をたびたび下したが、なお逃亡潜伏する者は多い。これは習い性となり、悪に慣れて改め難いのか、それとも在所の長吏が宣導を誤ったのか。広く寛大な取り扱いを加え、皆に更生の機会を与えよ。」

秋七月甲辰の日、彭城の民である高闍らが謀反を企て、誅殺された。癸亥の日、右衛将軍の顔師伯を青・冀二州 刺史 しし とした。

八月乙酉の日、河南王が使者を派遣して地方の産物を献上した。丙戌の日、中書令の王僧達が罪を得て、投獄され死んだ。己丑の日、強弩将軍の杜叔文を寧州 刺史 しし とし、交州 刺史 しし の費淹を広州 刺史 しし とし、南海太守の垣閬を交州 刺史 しし とした。甲午の日、寧朔将軍の沈僧栄を兗州 刺史 しし とした。

九月癸卯の日、華林園で訴訟を聴いた。壬戌の日、寧朔将軍の 劉道隆 を徐州 刺史 しし とした。襄陽で大水害があり、使者を派遣して巡行させ、救済と施しを行った。庚午の日、武衛将軍・武騎常侍の官を設置した。

冬十月甲午、中軍将軍義陽王劉昶を江州 刺史 しし とした。乙未、高麗国が使者を派遣し、地方の産物を献上した。

十一月壬子、揚州 刺史 しし 西陽王劉子尚に撫軍将軍を加えた。

十二月己亥、諸王および妃・主、庶姓で位が公に従う者の喪事については凶門の設置を聴許し、その他は全て禁止した。

閏月庚子、 詔 を下して言った。「山に住み岩に棲む者は、魚や鼈を礼としない。近年は多難で、軍の徴発が頻繁かつ切迫し、定められた方針に背いて賦課を設けたのは、もともと一時を救うためであった。しかし担当者が慣れ習い、遂に常典となってしまった。杶・檊・瑤・琨は、その土地の産物として貢納するものであり、軽い羽根も積もれば重くなるように、ついには深刻な弊害を招く。永く思いを巡らし広く改革し、朕の心に背かないようにせよ。すべての宮廷の衛士や貢納の職務、山や淵での採捕は、皆その産物の生育を詳しく弁え、季節の順序に従って考察し、虚偽の懸案として課したり、気候の順序に背いたりさせてはならない。簡約の風が、人々の品性に信を置くようになり、恵みと敏速の教えが、辺鄙な地に漏れることのないようにせよ。」庚申、帝は華林園で訴訟を聴いた。壬戌、林邑国が使者を派遣し、地方の産物を献上した。

この冬、索虜が青州を侵し、 刺史 しし の顔師伯がたびたびこれを大破した。

三年春正月丁亥、 州の梁郡を割いて徐州に属させた。己丑、驃騎将軍・領軍将軍の柳元景を 尚書令 しょうしょれい とし、尚書右 僕射 ぼくや の劉遵考を領軍将軍とした。丙申、婆皇国が使者を派遣し、地方の産物を献上した。

二月乙卯、揚州が統轄する六郡を王畿とした。東揚州を揚州とした。当時、司隸 校尉 こうい を設置しようとしたが、元凶(劉劭)が既に立てられていたので中止した。撫軍将軍・揚州 刺史 しし の西陽王劉子尚は移って揚州 刺史 しし となった。甲子、廷尉監の官を再び設置した。

荊州が飢饉となった。三月甲申、田租や布の賦課をそれぞれ差等を設けて免除した。庚寅、義興太守の垣閬を兗州 刺史 しし とした。壬辰、中護軍の湘東王劉彧が職を移し、中書令の東海王劉褘を衛将軍・護軍将軍とした。癸巳、太宰の江夏王劉義恭に 中書監 ちゅうしょかん を加えた。

夏四月癸卯、帝は華林園で訴訟を聴いた。丙午、建寧太守の苻仲子を寧州 刺史 しし とした。乙卯、 司空 しくう ・南兗州 刺史 しし の竟陵王劉誕に罪があり、爵位を貶された。劉誕は命令を受けず、広陵城に拠って反乱を起こし、兗州 刺史 しし の垣閬を殺害した。始興公の沈慶之を車騎大将軍・開府儀同三司・南兗州 刺史 しし として、劉誕を討伐させることにした。甲子、帝は自ら六軍を統率し、車駕を出して宣武堂に駐屯した。司州 刺史 しし の劉季之が反乱を起こし、徐州 刺史 しし の劉道隆が討伐してこれを斬った。

秋七月己巳、広陵城を陥落させ、劉誕を斬った。城内の男子は全て誅殺し、女子は軍の褒賞とした。この日、戒厳令を解除した。辛未、大赦を天下に施行した。尚方の長期徒刑者や奚官の奴婢で老病の者は全て赦免し放免した。孝子、順孫、義夫、節婦には、粟や帛をそれぞれ差等を設けて賜った。王畿内の貧しい家や、近くの行在所・駐屯地に関わった者には、ともに租税を一年間免除した。丙子、丹陽尹の劉秀之を尚書右 僕射 ぼくや とした。丙戌、淮水の南北を分けて再び二つの 州を設置した。新たに車騎大将軍・開府儀同三司・南兗州 刺史 しし に任じられた沈慶之を 司空 しくう とし、 刺史 しし の職はそのままとした。戊子、衛将軍・護軍将軍の東海王劉褘を南 刺史 しし とし、衛将軍の職はそのままとした。江州 刺史 しし の義陽王劉昶を護軍将軍とし、冠軍将軍の桂陽王劉休範を江州 刺史 しし とした。癸巳、前左衛将軍の王玄謨を郢州 刺史 しし とした。

八月丙申、 詔 を下して言った。「近ごろ北方討伐に従事した文武の官で、軍中で亡くなった者、あるいは矢石に身を斃した者、あるいは疫病で死亡した者は、いずれも王事に尽力したのに、棺や収殮が粗末である。広く改めて葬儀の費用を給付し、必ず手厚くせよ。」己酉、車騎長史の庾深之を 刺史 しし とした。甲子、 詔 を下して言った。「昔、周の道がまさに固まろうとした時、刑法はこれに置かれた。漢の徳が初めて明らかになった時、牢獄は簡素に用いられた。まことに上に立つ者がその道を一にし、下の者がその本性を淳朴にするからである。今、民は薄情で俗は浅薄、誠実は浅く偽りは深く、これに加えて徳が乏しいため、心で感化することができない。だから道理を知る者は少なく、邪な道に向かう者は実に多い。先ごろ巡覧した折、二つの尚方の徒刑者や奴隷が、金属の首枷を着け木枷を履き、既に哀れみを感じた。さらに国の慶事と民の和楽の中で、ただ恩沢から隔てられていることを思うと、ますます恥じ入る。詳しく赦免すべき者を検討せよ。」

九月己巳、 詔 を下して言った。「五刑と三度の訊問は、古来から難しいことであり、巧妙な法と深い条文は、末世になればなるほど甚だしい。だから情に沿って訴訟を察すれば、魯の師は勝利を得た。市や獄を騒がせなければ、漢の史書に名声が飛び交った。廷尉は遠近の疑わしい判決を、公平に決するべき所であるのに、一度牢獄に陥ると、動くことすら一年を超える。民はその苦しみを被り、吏はその私利を容認する。今より囚人が到着し供述が整い次第、全て直ちに上聞せよ。朕が全て詳しく裁断し、獄に留まることのないようにしたい。もし煩雑な文書や滞った弾劾、証拠の取り調べが遠方に及び広範であれば、必ず自ら視察し、情状を尽くすこととする。以後は従来通り訴訟を聴く。」壬辰、玄武湖の北に上林苑を設置した。

冬十月丁酉、 詔 を下して言った。「古には青壇で鞠を薦め、多くの慶事を祈り、玄郊で繭を分け、純粋な服を供えた。来年は、六宮の妃嬪に親桑の礼を行わせよ。」庚子、鎮軍将軍・南徐州 刺史 しし の劉延孫の号を車騎将軍に進めた。戊申、河西国が使者を派遣し、地方の産物を献上した。庚戌、河西王の大沮渠安周を征虜将軍・涼州 刺史 しし とした。

十一月己巳、高麗国が使者を派遣し、地方の産物を献上した。肅慎国が重訳して楛矢と石砮を献上した。西域が舞馬を献上した。

十二月戊午、帝は華林園で訴訟を聴いた。辛酉、謁者 僕射 ぼくや の官を設置した。

四年春正月辛未、皇帝は南郊で祭祀を行った。甲戌、宕昌王が上表文を奉り、地方の産物を献上した。乙亥、皇帝みずから籍田で耕作を行った。大赦を天下に施行した。尚方の囚人および未納の租税・古い債務で、大明元年以前のものはすべて免除する。農業に励む民は、才能に応じて任用する。孝悌・義順の者には爵位一級を賜う。孤児・老人・貧者・病人には、一人あたり穀物十斛を与える。籍田の担当官吏には、広く恩賞を厚く与える。百姓で種籾に困窮している者は、状況に応じて貸し与える。法令をよく宣揚・奨励した官吏は、詳しく調査して表彰・昇進させる。壬午、北中郎司馬の柳叔仁を梁・南秦二州 刺史 しし とした。左将軍・荊州 刺史 しし の朱脩之を鎮軍将軍に昇進させた。庚寅、第三皇子の子勛を晋安王に、第六皇子の子房を尋陽王に、第七皇子の子頊を歴陽王に、第八皇子の子鸞を襄陽王に立てた。

二月庚子、侍中建安王の休仁を湘州 刺史 しし とした。己未、員外散騎侍郎の費景緒を寧州 刺史 しし とした。

三月甲子、冠軍将軍巴陵王の休若を徐州 刺史 しし とした。丁卯、安陸王の子綏を郢州 刺史 しし とした。癸酉、徐州 刺史 しし の劉道隆を青・冀二州 刺史 しし とした。索虜が北陰平の孔堤を侵犯したが、太守の楊帰子がこれを撃破した。甲申、皇后が西郊で親桑の儀を行った。

夏四月癸卯、南琅邪を王畿に編入した。丙午、 詔 を下して言った。「昔、粗衣で天下を治めた君主は、美食を控えて節制を示し、土器で天を祀った君主は、倹約を整えて規範を示した。朕は粗布の衣についての思いを、心に忘れたことはない。役人に厳しく命じて、遊興を省き実務に務めさせているが、歳費は依然として蓄積され、年間の消費量はむなしく大きい。豊かさを捨てて倹約に従うことが、本当に質素な心にかなうと言えようか。四季の供給制限は、詳細に検討して半分以上減らすこと。これにより皮衣や夏服が礼典に従い、民の華美な風を鎮めることができ、贅沢な織物が手工を損なって、市場で競い合うこともなくなるであろう。」辛酉、 詔 を下して言った。「都の気候が調わず、疫病がなお多く、民の苦しみを思うと、情けに傷つく。使者を派遣して見舞い、医薬を与えよ。死亡した者は、状況に応じて救済・扶養せよ。」

五月庚辰、華林園で訴訟を聴いた。乙酉、徐州の梁郡を 州に戻して所属させた。丙戌、尚書左 僕射 ぼくや の褚湛之が死去した。撫軍長史の劉思考を益州 刺史 しし とした。庚寅、南下邳を南彭城郡に併合した。

秋七月甲戌、左光禄大夫・開府儀同三司の何尚之が 薨去 こうきょ した。

八月壬寅、宕昌王が使者を遣わして地方の産物を献上した。己酉、晋安王の子勛を南兗州 刺史 しし とした。雍州で大水害があり、甲寅、軍を派遣して部民に救済物資を与えた。

九月辛未、冠軍将軍の垣護之を 刺史 しし とした。甲申、帝は華林園で訴訟を聴いた。丁亥、襄陽王の子鸞を改めて新安王に封じた。

冬十月庚寅、新任の 司空 しくう の沈慶之を派遣して、長江沿いの蛮を討伐させた。壬辰、郡県の俸禄を減額し、まず公の制限額に充てることを定めた。

十一月戊辰、細作署令を左右御府令に改称した。丙戌、大司農の官を再び設置した。

十二月乙未、帝は華林園で訴訟を聴いた。辛丑、皇帝は廷尉寺に行幸し、囚われている者をすべて赦免して釈放した。索虜が使者を遣わして和を請うた。丁未、皇帝は建康県に行幸し、獄中の囚人を赦免して釈放した。倭国が使者を遣わして地方の産物を献上した。

五年春正月丁卯、宕昌王の梁唐子を河州 刺史 しし とした。

二月癸巳、皇帝は軍事演習を閲兵した。 詔 を下して言った。「昔の人は、人の道で何が先かと言えば、軍事が第一であると言った。長い間用いられなくても、それを忘れれば必ず危険である。朕は政務の余暇に、時機を得て軍事を講じ、坐作の動作に儀礼があり、進退に誤りがない。軍幢以下の者に、広く量を計って恩賜を与える。近ごろ教化が行き渡らず、民は禁令を知らず、役務を逃れ調令に背き、刑罰の網にかかる者が現れている。すべての逃亡者は、今暁以前のものについては、すべて赦免する。すでに牢獄に囚われている者は、釈放して本来の役務に戻せ。未納分で大明三年以前のものは、すべて免除する。これ以降については、鰥夫・貧者・病人・老人については、詳しく申告して減免する。蛮討伐に従軍した家は、租税の半分を免除する。近ごろ戸籍を改める新制が、各地で承諾・施行されているが、誤りが実に多い。広く改めて符牒を下し、今から始めることを認めよ。もし以前にすでに制度に違反した者も、同様に帳消しとする。」甲寅、右光禄大夫の羊玄保に特進を加えた。

夏四月癸巳、西陽王の子尚を改めて 章王に封じた。丙申、 尚書令 しょうしょれい の柳元景に左光禄大夫・開府儀同三司を加えた。戊戌、 詔 を下して言った。「南徐・兗二州は昨年水害で不作となり、民は多く困窮している。未納の租税は、秋の収穫時まで延期することを認める。」丙午、雍州 刺史 しし の海陵王休茂が司馬の庾深之を殺し、兵を挙げて反乱を起こしたが、義成太守の薛継考が討伐してこれを斬った。甲寅、第九皇子の子仁を雍州 刺史 しし とした。

五月癸亥、帝室の期服の親族で、朝官でありながら俸禄を受けない者には、月に十万銭を給与することを定めた。丙辰、皇帝は閲武堂に行幸して訴訟を聴いた。

六月丙午の日、護軍将軍義陽王劉昶を中軍将軍とした。壬子の日、広陵を分割して沛郡を設置し、東平郡を廃止して広陵に併合した。

秋七月丙辰の日、 詔 を下した。「雨水が激しく降り、街路が氾濫している。使者を派遣して巡行させよ。困窮した家には薪と粟を賜え。」丁卯の日、高麗国が使者を派遣して地方の産物を献上した。庚午の日、雍州を限定赦免した。

八月戊子の日、第九皇子の 劉子仁 を永嘉王に、第十一皇子の劉子真を始安王に立てた。北中郎参軍の費伯弘を寧州 刺史 しし とした。己丑の日、 詔 を下した。「霊命が初めて基づき、聖なる計画が遠大であった時より、楽職を参正して神明の応えを感じ、礼の園を崇めて殖やし、至徳の光を奮い起こした。声と実は共に和し、文は均しい節をもって、教化はその俗を調え、物はその情を性とした。故に経典に臨み式典を奠めることは、輝かしく明らかに発揮された。しかし道が喪われ世が難に満ち、学問は衰えて年月が長くなった。訴訟には衰えを止める術が微かになり、百姓は質素に退く方法を忘れた。今、夷狄の山嶂に警報は止み、河渚の波は静かである。山に桟道をかけ海を渡り、風に従い義を慕って、民を教化し俗を成すには、今がその時である。来年は学校を修繕し、国の貴族子弟を招き延べよ。」庚寅の日、方鎮が仮に任命した白板の郡県長官について、在任年限は朝廷の除授に準じ、俸禄は三分の一とし、前任者送迎の費用は支給しない、と定めた。衛将軍東海王劉褘は本官のまま開府儀同三司となった。

九月甲寅朔の日、日食があった。丁卯の日、行幸して琅邪郡に至り、囚人は全て赦免して釈放した。甲戌の日、南 州の治所を淮南から于湖県に移した。丁丑の日、冠軍将軍尋陽王劉子房を南 刺史 しし とした。

閏月戊子の日、皇太子妃の何氏が 薨去 こうきょ した。丙申の日、初めて馳道を設け、閶闔門から朱雀門まで、また承明門から玄武湖まで通じた。壬寅の日、歴陽王 劉子頊 を改封して臨海王とした。

冬十月甲寅の日、車騎将軍・南徐州 刺史 しし の劉延孫を尚書左 僕射 ぼくや ・領護軍将軍とし、尚書右 僕射 ぼくや の劉秀之を安北将軍・雍州 刺史 しし とした。冠軍将軍臨海王劉子頊を広州 刺史 しし とした。乙卯の日、東中郎将新安王劉子鸞を南徐州 刺史 しし とした。

十一月壬辰の日、 詔 を下した。「王畿は内では京師を奉じ、外では諸夏の表率であり、民は豊かで事務は広範である。簡素で恵み深い政治を考えるべきである。尚書を派遣して詳細に検査を加え、郡守・県令と共に諸々の訴訟を公平に処理させよ。疑わしく滞っている案件があれば、詳しく状況を奏上せよ。」丁酉の日、少府丞を一人増員した。

十二月壬申の日、領軍将軍劉遵考を尚書右 僕射 ぼくや とした。甲戌の日、天下の民戸が毎年布四匹を納めることを定めた。庚辰の日、太常の王玄謨を平北将軍・徐州 刺史 しし とした。

六年春正月己丑の日、湘州 刺史 しし 建安王 劉休仁 に平南将軍を加えた。辛卯の日、車駕みずから南郊で祭祀を行った。この日、また明堂で宗廟の祭祀を行った。大赦を施行した。孝子、順孫、義夫、悌弟には爵一級を賜い、慈姑、節婦および孤老、六疾の者には帛五匹、穀十斛を賜った。四方に命じて優れた人物を表彰賞賜せよ。真を懐き素を抱き、志操行いが清廉で、恬淡として自らを守り、当世と交わらない者、あるいは古今に通暁し、才が軍国を経綸し、公に奉じて廉潔正直で、民に高い誉れのある者は、その名を詳しく奏上せよ。乙未の日、五官中郎将、左右中郎将の官を設置した。

二月乙卯の日、百官の俸禄を復旧した。

三月庚寅の日、第十三皇子の劉子元を邵陵王に立てた。壬寅の日、倭国王の世子の興を安東将軍とした。 乙巳 いっし の日、 州の南梁郡を淮南郡と改称し、旧来の淮南郡は宣城郡に併合した。丁未の日、輔国将軍・征虜長史・広陵太守の沈懐文が罪を得て、投獄され死んだ。

四月庚申の日、南兗州の大明三年以前の未納租税を免除した。新たに大航門を作った。

五月丙戌の日、凌室を設置し、氷を蔵する礼を修めた。壬寅の日、太宰江夏王劉義恭が領 司徒 しと を解任された。

六月辛酉の日、尚書左 僕射 ぼくや ・護軍将軍の劉延孫が卒去した。

秋七月庚辰の日、荊州 刺史 しし の朱脩之を領軍将軍とし、広州 刺史 しし 臨海王劉子頊を荊州 刺史 しし とした。甲申の日、地震があった。戊子の日、輔国将軍の王翼之を広州 刺史 しし とした。辛卯の日、西陽太守の檀翼之を交州 刺史 しし とした。乙未の日、第十九皇子の劉子雲を しん 陵王に立てた。

八月癸亥、雍州の大明四年以前の未納租税を免除した。乙亥、清臺令を設置した。

九月戊寅、沙門が君主に敬意を表する制度を定めた。戊子、前金紫光禄大夫の宗慤を中護軍とした。乙未、尚書右 僕射 ぼくや の劉遵考を尚書左 僕射 ぼくや とし、丹陽尹の王僧朗を尚書右 僕射 ぼくや とした。

冬十月丁巳、山陽王休祐の子の士弘を鄱陽哀王休業の後継ぎとした。丁卯、上林苑内の民衆の丘墓で合葬しようとする者を禁じないとの 詔 を下した。

十一月己卯、陳留王曹虔秀が 薨去 こうきょ した。辛巳、 尚書令 しょうしょれい の柳元景を 司空 しくう とし、 尚書令 しょうしょれい の職はそのままとした。

七年春正月癸未、 詔 を下して言った。「春の狩猟の礼は周の法令に明記され、軍事演習の言葉は魯の史書に記されている。これらは徳と法度を明らかにし、民に規範を示すためである。今年は豊作で気候も良く、内外ともに平穏である。農閑期を利用して、この古い定めを整えよう。期日を定めて玄武湖で水軍を大いに閲兵し、併せて長江右岸を巡視し、軍事訓練と狩猟を行え。」丁亥、尚書右 僕射 ぼくや の王僧朗を太常とし、衛将軍の顔師伯を尚書右 僕射 ぼくや とした。己丑、 尚書令 しょうしょれい の柳元景を驃騎大将軍・開府儀同三司とした。庚寅、南兗州 刺史 しし の晋安王子勛を江州 刺史 しし とした。癸巳、呉郡を分割して南徐州に属させた。

二月甲寅、皇帝は南 州と南兗州を巡幸した。丙辰、 詔 を下して言った。「江漢と楚の望祭は周の祭祀にすべて備わり、盛唐で九疑山を礼拝し、渤海で蓬萊を祀ったことは、いずれも前代の伝承であり、歴代の聖王が残した儀式である。霍山は南嶽と呼ばれ、まさに国家を鎮める山であり、霊気を秘めて瑞祥を現し、宋の道を初めて輝かせた。朕は野に駐蹕し、岐陽で祭祀を行い、風雲を眺め想いを巡らせている。使者を遣わして祭奠を行わせよ。」丁巳、皇帝は歴陽郡の烏江で狩猟を行った。己未、皇帝は烏江県の六合山に登った。庚申、歴陽郡と秦郡を分割して臨江郡を設置した。壬戌、 詔 を下して言った。「朕が天の慶びの命を受け継いでから、今に至るまで十一年になる。七廟の霊に頼り、上帝の力を得て、礼儀は四海に広がり、威勢は八荒に震う。今や三湘を巡って衡嶽を祭り、九河を経て雲や岱山を検分する。今、広く視察し功績を成し遂げ、畿外の風俗を省み、六合の民情を観察し、長洲で狩猟を行う。砂礫が舞い上がり、山岳を平らげ海を揺るがし、軍鼓は順序よく、鐃鉦は調子を合わせ、鬯酒を礼に従って献じ、獣を郊外に満たし、王公の杯を敬って挙げ、士民の長寿を広く受け入れる。八風が順調に吹き渡り、慶雲が群がり集い、天の限りの瑞祥を尽くし、宇内の限りの歓喜を極める。太極の泉を散じて、方外の者にまで福を与えたいと思う。天下に大赦を行い、行幸の経由地では、今年の租税と布を免除する。未納の租税と残りの債務は、もはや徴収しない。民に爵位一級を賜い、女子のいる百戸ごとに牛と酒を与える。 刺史 しし ・太守・県令および狩猟に従事した民夫には、広く恩賞を与える。」また 詔 を下して言った。「朕は若年の頃に政務を執り行い、司州と雍州の牧として出向し、政務を引き継ぎ風教を宣べ、年を重ねてきた。国運が中ほどで阻まれ、長江のほとりで軍備を整えたが、困難を克服した心情と義理は、実に心に深く刻まれている。今、兵士を訓練し軍旅を教え、この地域の里を訪れると、かつての邑の古老で、目に映る者はほとんど残っていない。年月はそれほど遠くないのに、大半が亡くなっており、事跡を撫でて思いを致せば、感慨が深く表れる。太宗は燕の旧地に恩恵を施し、世祖は仁を流布させて済水の近郊に恩沢を行き渡らせた。永遠に過去の善政を語り、前の恩賞を広げたいと思う。歴陽郡の租税の納入を三年間免除する。使者を派遣して巡問慰撫し、民の苦しみを尋ね、鰥夫・寡婦・孤児・老人・六疾で自活できない者には、粟と布帛を厚く賜う。高齢者には羊と酒を加える。わずかな善行でも、その才能に応じて登用する。前の国の名臣および府州の属官には、それぞれ恩恵を与える。本人がすでに亡くなっている場合は、その子孫にまで施しを行え。」壬申、皇帝は宮中に戻った。

夏四月甲寅、領軍将軍の朱脩之を特進とした。丙辰、尚書の湘東王彧を領軍将軍とした。甲子、 詔 を下して言った。「軍陣に臨む戦闘以外では、一切独断で殺人を行ってはならない。死刑に相当する重罪については、すべて従来通りまず上奏して裁可を待ち、役人は厳重に審理調査せよ。違反者は殺人罪で論ずる。」

五月乙亥、撫軍将軍・揚州 刺史 しし 章王子尚は車騎将軍に進号し、輔国将軍の始安王子真は広州 刺史 しし となった。丙子、 詔 を下して言った。「今後、 刺史 しし や守宰が民を動員し軍を興す場合は、すべて手 詔 によって施行しなければならない。ただし、辺境での外敵の警報や、内部での奸悪な争いが起こり、事変が突然発生した場合は、この例に従わない。」

六月甲辰、北中郎司馬の柳元怙を梁・南秦二州 刺史 しし とした。戊申、芮芮国と高麗国が使者を遣わして産物を献上した。戊辰、秦郡太守の劉德願を 刺史 しし とした。

七月乙亥、征東大将軍の高麗王高璉は車騎大将軍・開府儀同三司に進号した。丙申、 詔 を下して言った。「以前の 詔 で、江海の田や池は民と利益を共有するとした。年月が経たないうちに、すでに弛緩し廃れている。名山大川は、しばしば占拠され固められている。役人は厳しく検査糾弾し、旧制を明らかにせよ。」

八月丁巳、 詔 を下して言った。「昔、一人の女性が怨みを含んだため、北の鄙の山が焼け焦げた。寡婦が哀痛に暮れたため、東国の台が傾いた。まことに誠の心が動かすところは、微細であっても必ず顕著に現れ、感動が震わせるところは、厚くても必ず崩れる。朕は天下を監察し、夜明けを待つ思いを深くしているが、輝かしい文章を成し、それぞれがその節度にかなうようにすることはできなかった。そのため炎の精気が河を損ない、陽気が偏って施されず、年が豊作でなく、過失は実に朕にある。太官の供する御膳は、減らして簡素にすべきである。近隣の刑獄は、自ら調べて省みる。王畿内および神州が統轄する地域については、尚書を派遣して現地と共に詳細に審議せよ。畿外の諸州については、 刺史 しし に委任する。併せて律令を詳細に検討し、民に利益をもたらすことを考えよ。考課による降格や官職の売買・世襲に関する事柄で、大明七年以前のものは一切追及しない。特に困窮している家には、倉を開いて救済を与えよ。」乙丑、第十六皇子の子孟を淮南王とし、第十八皇子の子産を臨賀王とした。皇帝は建康の秣陵県に行き、獄中の囚人を審問した。

九月巳卯、 詔 を下して言った。「近ごろ炎の精気が盛んに続き、苗や作物が多く傷んだ。今、二麦の時期はまだ遅くなく、慈雨が頻繁に降っている。東境の郡に下知し、耕作を励まし殖やすよう努めさせよ。特に困窮している家には、麦の種を量り貸与せよ。」戊子、 詔 を下して言った。「昔、周王は駿馬の足跡で、実に四方の海の果てまで至り、漢帝は鸞車で、早くから五嶽を遍く巡った。これらはすべて上は幽玄なる霊に対し、下は民の土地を治めるためであった。天が王朝の交代を統御し、宮廷に臨んで国家を創始して以来、礼制は時代と共に盛衰し、世は興廃を交易してきた。皇家が宋を創建し、日月が再び輝き、北斗七星が秩序を得、五星が天命に順ったが、兵車は毎年動き、詩を陳べてその意義を補うことが欠けていた。朕は五光を含み、天下を統べ、あらゆる戒めの規範を尽くし、謀り危うき道を塞ぎたいと思う。時に沿って四方を巡視し、風俗を観察すべきである。外では旧典を詳細に考察して、側席で待つ朕の思いに応えよ。」庚寅、南徐州 刺史 しし の新安王子鸞が 司徒 しと を兼任した。乙未、皇帝は廷尉に行き、獄中の囚人を審問した。丙申、第十七皇子の子嗣を東平王とした。

冬十月壬寅、皇太子が元服し、王公以下に帛を賜い、それぞれ差があった。戊申、車駕は南 州を巡幸した。 詔 して言う、「朕が巡幸する経路において、まず百歳に達した者を見、および孤児・寡婦・老人・病人に、ともに粟と帛を賜う。獄に繋がれている刑罪の者については、ともに自ら訴訟を聴く。その士人や庶民で、あるいは怨み鬱屈し危険な状態に置かれ、役人に抑圧されている者、あるいは隠れて節操を守り立派に生きながら、郷里で排斥されている者は、皆朕の前に進み出て、面と向かって自ら陳訴することを許す。もし忠信孝義に励み、田を力耕して穀物を殖やし、わずかな才能、一芸の美があれば、ことごとく表彰し賞を与える。秋の雨は頻繁に降ったが、夏の旱魃による弊害が続いている。ただちに行倉を開き、ともに救済と賜与を行え」。癸丑、江寧県に行幸して獄囚を訊問した。車騎将軍・揚州 刺史 しし 章王劉子尚に開府儀同三司を加える。癸亥、衛将軍・開府儀同三司の東海王劉褘を 司空 しくう とし、中軍将軍の義陽王劉昶に開府儀同三司を加える。丙寅、 詔 して言う、「賞を与え慶び、刑罰をもって威を示すことは、国家の常道である。暗愚を退け明らかな者を昇進させることは、天下を治める恒常の法である。故に言葉を採り風聞を聴き、その質の良し悪しを観察し、爵位を貶めたり封地を加えたりするのは、ここにある。今、天帝を祀り土地神を祭り、自ら江畔の地を巡り、ついでに地方長官を引見し、民の苦しみを自ら求める。明らかな試験の法を広め、考績の意義を明らかにしようと思う。巡幸の経路において、民を治める職にあり、その功績が聞こえている者は、ただちに選別して賞を与える。もし職務を怠り民を乱す者は、その過失に応じて処罰を論ずる。主管者は詳しく調査して報告せよ」。己巳、車駕は 姑孰 で狩猟を行った。

十一月丙子、南 州の殊死以下の罪を特別に赦す。巡幸した経路については、今年の田租を詳しく減免する。乙酉、 詔 して、使者を遣わして晋の大司馬桓溫と征西将軍毛璩の墓を祭らせる。帝は行在所において溧陽・永世・丹陽県の囚人を訊問した。癸巳、車駕は梁山で水軍を演習した。白い雀二羽が華蓋に集まった。有司が奏上して大明七年を神爵元年に改めるよう請うたが、 詔 して許さなかった。乙未、行在所の獄に繋がれていた徒刑囚を赦免し釈放した。東部諸郡が大旱に見舞われた。壬寅、使者を遣わして倉を開き貸し与えて救済し、雑物で租税に当てることを認めた。

十二月丙午、歴陽に行幸した。甲寅、天下に大赦を行う。南 州の別に置かれた勅命による長期徒刑囚は、一切赦免し釈放する。兵役の期限や考課による流罪・戍辺は、全て停止する。歴陽郡の女子には百戸ごとに牛と酒を賜う。高齢者・孤児・病人には帛十匹を賜い、郡の租税を十年間免除する。己未、太宰の江夏王劉義恭に 尚書令 しょうしょれい を加える。博望梁山に双闕を建立する。癸亥、車駕は歴陽から帰還した。

八年春正月甲戌、 詔 して言う、「東部地域は昨年不作であったので、商貨の流通を広めるべきである。遠近から米粟を販売する者については、道中の雑税を停止する。自衛のために武器を持つことは、全て禁止しない」。癸未、安北将軍・雍州 刺史 しし の劉秀之が死去した。戊子、平南将軍・湘州 刺史 しし の建安王劉休仁を安南将軍・江州 刺史 しし とし、晋安王劉子勛を鎮軍将軍・雍州 刺史 しし とし、南徐州 刺史 しし の新安王劉子鸞を撫軍将軍とし、 司徒 しと を兼ね 刺史 しし は元の通りとし、輔国将軍の江夏王世子劉伯禽を湘州 刺史 しし とする。

二月辛丑、特進の朱脩之が死去した。壬寅、 詔 して言う、「昨年東部地域が旱魃に見舞われ、田畑は収穫を失った。使命で来た者たちの多くが困窮し絶望に至っている。ある者は下層の流民となり、街巷に倒れ伏している。朕は甚だこれを哀れむ。倉の米を出して建康・秣陵の二県に渡し、状況に応じて救済せよ。もし救済が時宜に適わず、死者を出すようなことがあれば、厳しく糾弾・弾劾する」。 乙巳 いっし 、鎮軍将軍の湘東王劉彧を鎮北将軍・徐州 刺史 しし とする。平北将軍・徐州 刺史 しし の王玄謨を領軍将軍とする。

夏閏五月辛丑、前御史中丞の蕭惠開を青・冀二州 刺史 しし とする。壬寅、太宰の江夏王劉義恭が 太尉 たいい を兼ねる。特進・右光禄大夫の羊玄保が死去した。

庚申、帝は玉燭殿で崩御した。時に三十五歳。秋七月丙午、丹陽郡秣陵県の巖山景寧陵に葬られた。