| 西暦 | 紀年 | 宰相の進拜・加官 | 罷免 | 執政の進拜・加官 | 罷免 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1086 | 元祐元年丙寅 | 閏二月庚寅、司馬光が正議大夫・守門下侍郎から前官のまま左僕射兼門下侍郎に加任。壬辰、呂公著が金紫光禄大夫・尚書左丞から門下侍郎に加任。四月壬寅、呂公著が金紫光禄大夫・門下侍郎から前官のまま右僕射兼中書侍郎に加任。文彦博が河東節度使・守太師・開府儀同三司・潞国公から致仕を解かれ太師・平章軍国重事に加任。韓縝 蔡確 司馬光 呂公著 文彦博 | 閏二月庚寅、左僕射蔡確が劉摯・孫覚・蘇轍・朱光庭・王巖叟らに論じられ、前官を守り観文殿大学士として陳州知事に。四月己丑、韓縝が右僕射から光禄大夫・観文殿大学士として潁昌府知事・京西北路安撫使に。九月丙辰朔、左僕射兼門下侍郎司馬光が薨去。 | 閏二月丙午、李清臣が通議大夫・守尚書右丞から尚書左丞に任命。呂大防が試吏部尚書から中大夫・尚書右丞に任命。乙卯、安燾が同知枢密院事から知枢密院事に進任。范純仁が試吏部尚書兼侍読から中大夫・同知枢密院事に任命。五月丁巳朔、韓維が資政殿大学士・正議大夫兼侍読から守門下侍郎に任命。十一月戊午、劉摯が試御史中丞から中大夫・尚書右丞に任命。呂大防が中大夫・尚書左丞から中書侍郎に任命。 | 閏二月辛亥、正議大夫・知枢密院事章惇が劉摯・王巖叟・朱光庭らに論じられ、簾前で争論して諠悖したため、本官を守り汝州知事に罷免。九月己卯、張璪が中書侍郎から資政殿学士・光禄大夫として鄭州知事に。 |
| 1087 | 二年丁卯 | 文彦博 呂公著 | 五月丁卯、劉摯が中大夫・守尚書右丞から尚書左丞に任命。王存が守兵部尚書から中大夫・尚書右丞に任命。六月辛丑、安燾が正議大夫・同知枢密院事から知枢密院事に進任。 | 四月戊申、李清臣が尚書左丞から資政殿学士として河陽知事に。七月辛未、韓維が正議大夫・門下侍郎から資政殿大学士として鄧州知事に。 | |
| 1088年 | 三年戊辰 | 四月辛巳、呂公著が金紫光禄大夫・尚書右僕射兼中書侍郎から司空・平章軍国重事に加官。呂大防が中書侍郎から太中大夫・左僕射兼門下侍郎に加官。范純仁が同知枢密院から太中大夫・右僕射兼門下侍郎に加官。文彦博、呂公著、呂大防、范純仁 | 四月壬午、孫固が観文殿学士・正議大夫兼侍読から門下侍郎に任官。王存が中大夫・尚書右丞から尚書左丞に任官。胡宗愈が試御史中丞から中大夫・尚書右丞に任官。趙瞻が中散大夫・試戸部侍郎から簽書枢密院事に任官。 | ||
| 1089年 | 四年己巳 | 文彦博、呂公著、呂大防、范純仁 | 二月甲辰、司空・同平章軍国事呂公著が薨去。六月甲辰、范純仁が太中大夫・右僕射から前官を守り観文殿学士として潁昌府を治める。 | 六月丙午、韓忠彦が枢密直学士・戸部尚書から中大夫・尚書左丞に任官。趙瞻が簽書枢密院事から同知枢密院事に進む。十一月癸未、孫固が門下侍郎から光禄大夫・知枢密院事に任官。劉摯が中大夫・守中書侍郎から門下侍郎に任官。傅堯俞が試吏部尚書から中大夫・守中書侍郎に任官。 | 三月己卯、胡宗愈が尚書右丞から資政殿学士として陳州を治める。六月甲辰、王存が中大夫・尚書左丞から端明殿学士として蔡州を治める。七月乙亥、安燾が知枢密院事から母の喪に服す。十月乙卯、詔により復職を命じられるが、安燾は辞退。 |
| 1090年 | 五年庚午 | 文彦博 呂大防 | 二月庚戌、文彦博は太師・平章軍国重事から守太師・儀同三司・河中興元尹・護国軍山南西道節度使として致仕した。 | 三月壬申、韓忠彦は中大夫・尚書左丞から同知枢密院事に遷任。蘇頌は翰林学士承旨・知制誥兼侍読から右光禄大夫・尚書左丞に除任。 | 三月丙寅朔、中大夫・同知枢密院事趙瞻が卒去。四月甲辰、右光禄大夫・知枢密院事孫固が卒去。十二月辛卯朔、許将は尚書右丞から太中大夫・資政殿学士として定州知事に転任。 |
| 1091年 | 六年辛未 | 二月辛卯、劉摯は守門下侍郎・太中大夫から右僕射兼中書侍郎に加任。 呂大防 劉摯 | 十一月乙酉朔、劉摯は右僕射から観文殿学士として鄆州知事に転任。 | 二月辛卯、王巖叟が龍圖閣待制・開封府知事から簽書樞密院事に任命された。癸巳、蘇轍が龍圖閣學士・御史中丞から中大夫・尚書右丞に任命された。 | 十一月辛丑、中大夫・守中書侍郎傅堯俞が死去した。 |
| 1092年 | 七年壬申 | 六月辛酉、蘇頌が守尚書左僕射から左光祿大夫・守尚書左僕射兼中書侍郎に昇進した。呂大防、蘇頌。 | 六月辛酉、蘇轍が守尚書右丞から中大夫・門下侍郎に任命された。韓忠彥が同知樞密院事から中大夫知樞密院事に任命された。范百祿が翰林學士・太中大夫から中書侍郎に任命された。梁燾が翰林學士から中大夫・尚書左丞に任命された。鄭雍が太中大夫・御史中丞から尚書右丞に任命された。劉奉世が左朝請大夫・寶文閣待制・權戶部尚書から簽書樞密院事に任命された。 | 五月丙午、王巖叟が簽書樞密院事から端明殿學士・鄭州知事に転任した。 | |
| 1093年 | 八年癸酉 | 七月丙子朔、范純仁が觀文殿大學士・潁昌府知事から通議大夫・尚書右僕射兼中書侍郎に昇進した。呂大防、蘇頌、范純仁。 | 三月癸未、蘇頌が右僕射から依前左光祿大夫・観文殿大学士・集禧観使となる。 | 三月辛卯、范百祿が中書侍郎から太中大夫・資政殿学士として河中府を治める。六月戊午、梁燾が尚書左丞から資政殿学士として醴泉観使を領する。 | |
| 1094年 | 紹聖元年甲戌 | 四月壬戌、章惇が通議大夫・提挙洞霄宮から左正議大夫・守尚書左僕射兼門下侍郎に加えられる。呂大防 范純仁 章惇 | 三月乙亥、呂大防が左僕射・中書侍郎から観文殿大学士・右光祿大夫として潁昌府を治め、永興軍に改める。四月壬戌、范純仁が尚書右僕射兼中書侍郎から右正議大夫・観文殿大学士として潁昌府・京西北路安撫使を治める。 | 二月丁未、李清臣が資政殿学士・守戸部尚書から正議大夫・中書侍郎に除される。鄧溫伯が端明殿学士・守兵部尚書から右光祿大夫・尚書左丞に除される。閏四月甲申、安燾が観文殿学士・右正議大夫から門下侍郎に除される。六月癸未、曾布が翰林学士承旨・知制誥兼侍読から中大夫・同知枢密院事に除される。 | 三月丁酉、蘇轍が太中大夫・門下侍郎から守本官として汝州を治める。五月辛亥、劉奉世が簽書枢密院事から端明殿学士・真定府路安撫使兼知成徳軍となる。乙丑、尚書左丞鄧潤甫が卒す。潤甫は旧名を温伯とし、今名に復す。 |
| 1095年 | 二年乙亥 | 章惇 | 十月甲戌、許將は守吏部尚書兼侍読から守尚書左丞に任じられた。蔡卞は翰林学士兼侍読、修国史から守尚書右丞に任じられた。 | 十月甲子、鄭雍は太中大夫、尚書右丞から資政殿学士として陳州知事となった。十一月乙未、安燾は右正議大夫、門下侍郎から観文殿学士として河南府知事となった。 | |
| 1096 | 三年丙子 | 章惇 | 正月庚子、韓忠彦は太中大夫、知枢密院事から観文殿学士として真定府知事となった。 | ||
| 1097 | 四年丁丑 | 章惇 | 二月己未、故司馬光は左僕射から清海軍節度副使に追貶された。故呂公著は司空・平章軍國事から建武軍節度副使に追貶された。癸未、前宰相呂大防は舒州團練副使を責授され、循州に安置された。前宰相劉摯は鼎州團練副使を責授され、新州に安置された。前宰相范純仁は武安軍節度副使を責授され、永州に安置された。甲申、前太師致仕文彥博は太子少保致仕に降授された。故左僕射王珪は萬安軍司戶に追貶された。 | 閏二月壬寅、曾布は同知樞密院事から太中大夫・知樞密院事に除された。林希は翰林學士・知制誥から太中大夫・同知樞密院事に除された。許將は守尚書左丞から正議大夫・中書侍郎に除された。蔡卞は太中大夫・守尚書右丞から尚書左丞に除された。黃履は試吏部尚書から中大夫・尚書右丞に除された。 | 正月庚戌、李清臣は正議大夫・中書侍郎から資政殿大學士として河南府を治めた。二月己未、故王巖叟は端明殿學士から雷州別駕に追貶された。癸未、蘇轍は前門下侍郎から化州別駕を責授され、雷州に安置された。梁燾は前資政殿學士から雷州別駕を責授され、化州に安置された。劉奉世は前端明殿學士から職を落とし、南京に分司され、郴州に居住した。韓維は前資政殿大學士致仕から職を落とし、特授で左朝議大夫致仕となった。 |
| 1098年 | 元符元年戊寅 | 章惇 | 四月壬辰、林希は同知樞密院事から亳州を治めるために出向した。 | ||
| 1099年 | 二年己卯 | 章惇 | 閏九月辛巳の日、黄履は通議大夫・尚書右丞から本官を守って亳州知事となった。 | ||
| 1100年 | 三年庚辰、徽宗は正月己卯の日に即位した。 | 四月甲辰の日、韓忠彦は門下侍郎から正議大夫・右僕射兼中書侍郎に加えられた。十月丁酉の日、左僕射兼門下侍郎に遷り、儀国公に進封された。壬寅の日、曾布は知枢密院事から右銀青光禄大夫・守尚書右僕射兼中書侍郎に加えられた。 章惇 韓忠彦 曾布 | 先に、豊稷・陳次升・龔夬・陳瓘が章惇を山陵使として喪轝が泥濘に陥り暴露したと弾劾し、九月辛未の日、本官を守って越州知事となった。 | 二月戊午の日、韓忠彦は通議大夫・守吏部尚書から前官のまま門下侍郎に加えられた。黄履は資政殿学士・提挙中太乙宮兼侍読から前官のまま尚書右丞に加えられた。四月甲辰の日、李清臣は左正議大夫・礼部尚書から門下侍郎に加えられた。蒋之奇は翰林学士・通議大夫・知制誥から同知枢密院事に任じられた。十一月戊寅の日、安燾は観文殿学士・提挙太乙宮兼集禧観公事兼侍読から知枢密院事に任じられた。辛卯の日、范純礼は礼部尚書から中大夫・守尚書右丞に任じられた。 | 先に、龔夬・陳瓘が累疏で蔡卞を弾劾し、五月乙酉の日、卞は資政殿学士として江寧府知事となった。十一月庚辰の日、尚書右丞黄履は資政殿大学士として前正議大夫・提挙中太乙宮兼集禧観公事となった。 |
| 1101年 | 建中靖国元年辛巳 | 韓忠彦 曾布 | 正月癸亥、前宰相・観文殿学士・中太乙宮使の范純仁が薨去。 | 七月丁亥、蒋之奇が正議大夫・同知枢密院事から知枢密院事に進む。陸佃が試吏部尚書から中大夫・尚書右丞に任じられる。章楶が端明殿学士・通議大夫・提挙中太乙宮兼集禧観事から同知枢密院事に任じられる。十一月庚申、陸佃が守尚書右丞から尚書左丞に任じられる。温益が試吏部尚書兼侍読から中大夫・尚書右丞に任じられる。 | 六月戊午、范純礼が中大夫・尚書右丞から前官のまま潁昌府知事に出向。七月丙戌、安燾が左正議大夫・知枢密院事から観文殿学士として河南府知事兼西京留守に出向。十月乙未、李清臣が右光禄大夫・門下侍郎から資政殿学士として大名府知事兼北京留守に出向。 |
| 1102年 | 崇寧元年壬午 | 七月戊子、蔡京が守尚書左丞から通議大夫・守尚書右僕射兼中書侍郎に加官。韓忠彦・曾布・蔡京 | 五月庚申、韓忠彦が左僕射兼門下侍郎から観文殿大学士として大名府知事兼北京留守に出向。甲子に落職。閏六月壬戌、曾布が右僕射から観文殿大学士・右銀青光禄大夫として潤州知事に出向。 | 六月丙申、許将が右銀青光禄大夫・守中書侍郎から門下侍郎に加官。温益が中大夫・守尚書右丞から中書侍郎に加官。蔡京が翰林学士承旨中大夫・知制誥兼侍読・修国史・実録修撰から尚書左丞に任じられる。趙挺之が試吏部尚書兼侍読・修国史・編修国朝会要から中大夫・尚書右丞に任じられる。八月己卯、尚書左丞に転任。張商英が翰林学士・知制誥兼侍読・修国史・実録修撰から中大夫・尚書右丞に任じられる。十月戊寅、蔡卞が資政殿学士・左正議大夫・中太乙宮使兼侍読から知枢密院事に任じられる。 | 六月丙申、陸佃が尚書左丞から前太中大夫のまま亳州知事に出向。七月庚午、章楶が同知枢密院事から資政殿学士として中太乙宮使を兼務。十月癸亥、蒋之奇が知枢密院事から前右正議大夫のまま、観文殿学士として杭州知事に出向。 |
| 1103年 | 二年癸未 | 正月丁未,蔡京自右僕射加右光祿大夫、尚書左僕射兼門下侍郎。 蔡京 | 四月戊寅,趙挺之自中大夫、尚書左丞除中書侍郎。張商英自中大夫、尚書右丞除尚書左丞。吳居厚自戶部尚書除中大夫、尚書右丞。安惇自兵部尚書兼侍讀除中大夫、同知樞密院事。 | 正月壬辰,中書侍郎溫益卒。八月戊申,張商英自尚書左丞以通議大夫出知亳州,尋改蘄州。 | |
| 1104 | 三年甲申 | 五月己卯,蔡京自尚書左僕射加司空。 蔡京 | 九月乙亥,趙挺之自右光祿大夫、中書侍郎加門下侍郎。吳居厚自右光祿大夫、尚書右丞加中書侍郎。張康國自翰林學士承旨、知制誥除尚書左丞。鄧洵武自刑部尚書除尚書右丞。 | 八月乙巳,許將自門下侍郎仍前官以資政殿學士出知河南府。十二月戊午,同知樞密院事安惇卒。 | |
| 1105 | 四年乙酉 | 三月甲辰、趙挺之が門下侍郎から右銀青光祿大夫・尚書右僕射兼中書侍郎に昇進。蔡京 趙挺之 | 六月戊子、趙挺之が右僕射から金紫光祿大夫・観文殿大学士に任じられ、中太乙宮使を兼任。 | 二月甲寅、張康国が中大夫・守尚書右丞から前官のまま知枢密院事に。劉逵が兵部尚書兼侍読・修国史兼実録修撰から中大夫・同知枢密院事に。何執中が太中大夫・試吏部尚書兼侍読から尚書左丞に。 | 正月丙申、蔡卞が金紫光禄大夫・知枢密院事から前官のまま資政殿大学士として河南府知事に転出。 |
| 1106 | 五年丙戌 | 二月丙寅、趙挺之が尚書右僕射兼中書侍郎から特進・光禄大夫・尚書右僕射兼中書侍郎に昇進。蔡京 趙挺之 | 二月丙寅、蔡京が左僕射から守司空・安遠軍節度使・開府儀同三司として中太乙宮使を兼任。 | 正月甲辰、呉居厚が右光禄大夫・中書侍郎から門下侍郎に昇進。劉逵が中大夫・同知枢密院事から中書侍郎に昇進。 | 十二月戊午、劉逵が中大夫・中書侍郎の本官を守りながら亳州知事として出向。 |
| 1107年 | 大観元年丁亥 | 正月甲午、蔡京が安遠軍節度使から前司空・左僕射兼門下侍郎・魏国公に。十二月庚寅、蔡京が司空・左僕射兼門下侍郎・魏国公から太尉に加官。趙挺之、蔡京 | 三月丁酉、趙挺之が尚書右僕射兼中書侍郎から特進・観文殿大学士として佑神観を領し致仕。 | 正月壬子、何執中が太中大夫・尚書左丞から中書侍郎に加官。鄧洵武が中大夫・守尚書右丞から尚書左丞に。梁子美が中大夫・試戸部尚書から尚書右丞に。三月丁酉、何執中が中書侍郎から門下侍郎に加官。鄧洵武が尚書左丞から中書侍郎に加官。梁子美が尚書右丞から尚書左丞に昇進。朱諤が吏部尚書から中大夫・尚書右丞に。六月乙未、梁子美が中書侍郎に加官。八月庚申、徐処仁が試戸部尚書から中大夫・尚書右丞に。林攄が太中大夫・試吏部尚書兼侍読実録修撰を前官のまま同知枢密院事に。閏十月丙戌、林攄が中大夫・同知枢密院事から尚書左丞に。鄭居中が資政殿学士・太中大夫・中太乙宮使兼侍読・実録修撰を前官のまま同知枢密院事に。十二月壬寅、徐処仁が起復を辞退。 | 正月壬寅、呉居厚が右光禄大夫・門下侍郎から資政殿学士を前官のまま太一宮使を領す。五月庚寅、鄧洵武が中書侍郎から本官を守り随州知事に。六月己亥、尚書右丞朱諤が死去。十月癸酉、尚書右丞徐処仁が母の喪に服す。 |
| 1108年 | 二年戊子 | 正月己未、蔡京が太尉・左僕射兼門下侍郎・魏国公から太師に加官。蔡京 | 九月辛亥、林攄が右光祿大夫・尚書左丞から中書侍郎に加えられた。余深が試吏部尚書から尚書左丞に任じられた。 | 八月丙申、梁子美が中書侍郎から資政殿學士・正奉大夫として鄆州知事に出向した。 | |
| 1109年 | 三年己丑 | 六月辛巳、何執中が行中書門下侍郎から特進・尚書左僕射兼門下侍郎に加えられた。蔡京何執中 | 六月辛巳、蔡京が左僕射から依前太師として太乙宮使を領した。 | 四月癸巳、鄭居中が右光祿大夫・同知樞密院事から知樞密院事に進んだ。管師仁が中大夫・試吏部尚書から同知樞密院事に任じられた。癸卯、余深が中大夫・尚書左丞から中書侍郎に加えられた。薛昂が試兵部尚書兼侍讀から中大夫・尚書左丞に任じられた。劉正夫が試工部尚書兼侍讀・實錄院修撰から尚書右丞に任じられた。 | 三月戊申、知樞密院事張康国が急死した。四月戊寅、林攄が中書侍郎から依前正奉大夫として滁州知事に出向した。六月甲戌、管師仁が同知樞密院事から資政殿學士・依前中大夫として佑神觀使を領し、まもなく死去した。 |
| 1110年 | 四年庚寅 | 六月乙亥、張商英は守中書侍郎から通議大夫・守尚書右僕射兼中書侍郎に加官された。何執中 張商英 | 二月己丑、余深は中大夫・中書侍郎から門下侍郎に加官された。張商英は資政殿學士・通議大夫・中太乙宮使から中書侍郎に加官された。侯蒙は朝奉大夫・試戶部尚書から中大夫・同知樞密院事に任じられた。八月乙亥、劉正夫は中大夫・尚書右丞から中書侍郎に加官された。侯蒙は中大夫・同知樞密院事から尚書左丞に任じられた。鄧洵仁は翰林學士承旨・太中大夫・知制誥兼侍讀から尚書右丞に任じられた。庚辰、吳居厚は資政殿學士・宣奉大夫・佑神觀使から門下侍郎に加官された。十月庚申、知樞密院事に任じられた。 | 五月丙寅、余深は門下侍郎から資政殿學士・中大夫として青州知事に出向した。六月丙申、薛昂は尚書左丞から資政殿學士・中大夫として江寧府知事に出向した。十月丁酉、鄭居中は正奉大夫・知樞密院事から前官のまま観文殿學士として中太乙宮使を兼任した。 | |
| 1111 | 政和元年辛卯 | 何執中 張商英 | 八月丁巳、張商英は右僕射から観文殿大學士として河南府知事兼西京留守に出向した。 | 三月癸酉、王襄は試吏部尚書から中大夫・同知樞密院事に任じられた。 | 九月戊寅、王襄は同知樞密院事から中大夫として亳州知事に出向した。 |
| 1112 | 二年壬辰 | 四月庚戌、何執中は哲宗帝紀完成により司空を加えられる。五月己巳、蔡京は致仕を解かれ、前の太師に復し、三日に一度都堂に出仕して政務を執る。十一月辛巳、魯國公に進封される。何執中は尚書左僕射から少傅を加えられ、太宰となり、引き続き門下侍郎を兼ねる。 蔡京 何執中 | 六月己丑、青州知事余深が門下侍郎に復する。 | ||
| 1113 | 三年癸巳 | 八月丙子、何執中は尚書左僕射から少師を加えられる。 蔡京 何執中 | 正月乙亥、鄭居中は特進・観文殿学士・中太乙宮使兼侍読から知樞密院事に復任される。四月己酉、薛昂は資政殿学士・通議大夫から尚書右丞に任じられる。 | 正月乙亥、吳居厚は知樞密院事・宣奉大夫から武康軍節度使として洪州知事となる。四月癸巳、鄧洵仁は尚書右丞から通議大夫・資政殿学士として亳州知事に出向し、まもなく落職する。 | |
| 1114 | 四年甲午 | 蔡京 何執中 | |||
| 1115年 | 五年乙未 | 蔡京 何執中 | |||
| 1116年 | 六年丙申 | 五月庚子、鄭居中が特進・知樞密院事から少保・太宰兼門下侍郎に昇進。劉正夫が銀青光祿大夫・中書侍郎から特進・少宰兼中書侍郎に昇進。蔡京 何執中 鄭居中 劉正夫 | 四月辛未、何執中が尚書左僕射から太傅として致仕。十二月乙酉、劉正夫が少宰から安化軍節度使・開府儀同三司として致仕。 | 五月壬寅、鄧洵武が保大軍節度使・佑神觀使兼侍読から正奉大夫・知樞密院事に任命。八月乙巳、薛昂が銀青光祿大夫・尚書右丞から尚書左丞に任命。侯蒙が中大夫・尚書左丞から中書侍郎に任命。十一月辛卯、童貫が節度使・開府儀同三司・陝西河東河北宣撫使から簽書樞密院事に任命。庚子、白時中が禮部尚書兼侍読から中大夫・尚書右丞に任命。 | |
| 1117年 | 七年丁酉 | 十一月辛卯、鄭居中が太宰から母の喪に服していたが、門下侍郎として復帰した。余深は特進・少宰兼中書侍郎となった。蔡京、鄭居中、余深 | 八月庚午、鄭居中が太宰から母の喪に服した。 | 二月、童貫を陝西・河東・河北宣撫使とし、同簽書樞密院事を兼ねた。三月乙未、権領樞密院事に改めた。十一月辛卯、白時中が中大夫・尚書右丞から中書侍郎に昇進した。十二月丁巳、薛昂が銀青光祿大夫・尚書左丞から特進・門下侍郎に昇進した。庚午、童貫が樞密院事を領した。 | 十月戊寅、侯蒙が中書侍郎から資政殿學士として亳州知事に出向した。 |
| 1118年 | 重和元年戊戌 | 七月壬午、鄭居中が太宰から少傅を加えられた。余深が少宰から少保を加えられた。九月辛丑、鄭居中の復帰が罷免された。蔡京、鄭居中、余深 | 正月庚戌、王黼が翰林學士承旨から尚書左丞として復帰した。七月壬午、樞密院事を領する童貫に檢校太保が加えられた。八月甲寅、太保が加えられた。九月庚寅、白時中が中書侍郎から門下侍郎に転じた。王黼が尚書左丞から中書侍郎に昇進した。馮熙載が翰林學士承旨・知制誥兼侍講から中大夫・尚書左丞に任じられた。范致虛が刑部尚書から中大夫・尚書右丞に任じられた。 | 九月庚寅、薛昂が門下侍郎から彰化軍節度使・佑神觀使兼侍讀に任じられた。 | |
| 1119年 | 宣和元年己亥 | 正月戊午、余深が特進・少宰兼中書侍郎から太宰兼門下侍郎に昇進。王黼が通議大夫・中書侍郎から特進・少宰兼中書侍郎・神霄玉清萬壽宮使に昇進。蔡京、余深、王黼 | 二月戊戌、鄧洵武が守中書侍郎知隨州から少保に昇進。三月己未、馮熙載が尚書左丞から中書侍郎に昇進。范致虛が尚書右丞から尚書左丞に昇進。張邦昌が翰林學士から尚書右丞に任命。七月甲寅、童貫が知樞密院事から太傅に昇進。十一月戊辰、張邦昌が通議大夫・尚書右丞から尚書左丞に昇進。王安中が翰林學士承旨・知制誥から中大夫・尚書右丞に任命。 | 八月丁酉、尚書左丞范致虛が母の喪に服す。 | |
| 1120年 | 二年庚子 | 九月癸亥、太宰兼門下侍郎余深が哲宗寶訓完成により少傅に昇進。十一月庚戌、王黼が特進・少宰兼中書侍郎から少保・太宰兼門下侍郎に昇進。蔡京、余深、王黼 | 六月戊寅、蔡京が太尉・左僕射兼門下侍郎・魏國公・太師から太師・魯國公として致仕。十一月己亥、余深が太宰から少傅・鎮江軍節度使として福州知事に転出。 | 十二月己丑、少傅・威武軍節度使鄭居中が樞密院事を権領。 | |
| 1121年 | 三年辛丑 | 九月丙寅、王黼が少保・太宰兼門下侍郎から少傅に加官される。王黼 | 正月癸卯、童貫が太保・領樞密院事から江・浙・江・淮等路宣撫使に任じられる。五月戊戌、鄭居中が「権」の字を落とし、童貫の例に倣い領樞密院事となる。八月乙巳、童貫が太師に加官される。鄭居中が少師に加官される。十月庚申、童貫が引き続き陝西・河東・河北宣撫使を領する。十一月丁丑、張邦昌が尚書左丞から中書侍郎に加官される。王安中が中大夫・尚書右丞から尚書左丞に遷る。李邦彥が翰林學士承旨・太中大夫・知制誥兼侍讀・修國史から尚書右丞に任じられる。 | 正月壬寅、少保・知隨州鄧洵武が卒去する。十一月丁丑、馮熙載が中書侍郎から資政殿學士として亳州知州に出される。 | |
| 1122年 | 四年壬寅 | 六月丙午、王黼が少師に加官される。王黼 | |||
| 1123年 | 五年癸卯 | 五月庚申、王黼は太宰兼門下侍郎から太傅を加えられ、蔡京がかつて太師を務めた例に倣う。王黼 | 二月乙酉朔、李邦彦は太中大夫・尚書右丞から尚書左丞に昇進。趙野は翰林学士・知制誥から中大夫・尚書右丞に任命。五月庚申、鄭居中は少師・領枢密院事から太保を加えられる。癸亥、童貫は節鉞を落とし、前太師のまま。六月乙巳、蔡攸は少師・安遠軍節度使として枢密院事を領す。 | 正月辛酉、王安中は中大夫・尚書左丞から慶遠軍節度使・河北河東燕山府路宣撫使として燕山府を知る。六月丁未、鄭居中は枢密院事を領し太保として致仕、翌日死去。七月己未、童貫は陝西河東河北宣撫使を領して致仕。 | |
| 1124年 | 六年甲辰 | 九月乙亥、李邦彦は通奉大夫・守尚書左丞から銀青光禄大夫・少宰兼中書侍郎・神霄玉清万寿宮使を加えられる。白時中は金紫光禄大夫・門下侍郎から特進・太宰兼門下侍郎・神霄玉清万寿宮使を加えられる。十二月癸亥、蔡京は太師・魯国公から致仕を落とし、前太師・領三省事・神霄玉清万寿宮使となる。王黼・蔡京・白時中・李邦彦 | 十一月丙子、太宰兼門下侍郎・楚国公王黼は太傅として致仕。 | 四月丁巳、李邦彦は丁憂から起復。八月乙卯、童貫は剣南東川節度使から致仕を落とし、前太師・領枢密院事・陝西河北河東燕山府路宣撫使となり、徐・豫国公に進封。九月乙亥、趙野は中大夫・尚書右丞から尚書左丞に昇進。宇文粹中は翰林学士承旨・宣奉大夫から尚書右丞に任命。蔡懋は朝議大夫・試開封府尹から中大夫・同知枢密院事に任命。蔡攸は少師安遠軍節度使として枢密院事を領し節鉞を落とし、前少師のまま。 | |
| 1125年 | 七年乙巳、欽宗十二月庚申即位 | 蔡京、白時中、李邦彥 | 四月庚申、蔡京が三省事を統轄する職を罷免され、再び太師・魯国公として致仕した。 | 六月己未、蔡攸が少師・枢密院事統轄から太保に加官された。十二月庚申、呉敏が試給事中・直学士院から中大夫・門下侍郎に加官された。壬戌、耿南仲が徽猷閣学士・朝散大夫・太子詹事から資政殿学士・簽書枢密院事に任命された。 | |
| 1126年 | 靖康元年丙午 | 正月辛未、李邦彥が銀青光禄大夫・少宰兼中書侍郎から起復し、特進・太宰兼門下侍郎に加官された。張邦昌が正奉大夫から特授依前官少宰兼中書侍郎・神霄玉清万寿宮使に加官された。二月庚戌、光禄大夫に加官され、太宰兼門下侍郎となった。呉敏が知枢密院事から太中大夫・少宰兼中書侍郎に昇進した。三月己巳、徐処仁が守中書侍郎から通奉大夫・太宰兼門下侍郎に加官された。八月己未、唐恪が正奉大夫から少宰兼中書侍郎に加官された。閏十一月壬辰、{上鹵下木}が守門下侍郎から通奉大夫・右僕射・中書侍郎に加官された。蔡京、白時中、李邦彥、張邦昌、呉敏、徐処仁、唐恪、{上鹵下木} | 正月辛未、白時中が太宰から観文殿大学士として中太乙宮使を統轄し、依前特進・慶国公となった。二月庚戌、李邦彥が太宰兼門下侍郎から観文殿学士として中太乙宮使を統轄した。甲寅、蔡京が太師・魯国公致仕から責授中奉大夫・秘書監・分司南京、河南居住となった。三月己巳、張邦昌が太宰兼門下侍郎から観文殿大学士として中太乙宮使を統轄した。八月己未、徐処仁が太宰から観文殿大学士として中太乙宮使を統轄した。呉敏が少宰から観文殿大学士として醴泉観使を統轄した。閏十一月壬辰朔、唐恪が少宰から観文殿大学士として中太乙宮使兼侍読を統轄し、依前光禄大夫となった。 | 正月己巳、呉敏が中大夫・守門下侍郎から知枢密院事・親征行営副使に任命された。李梲が正奉大夫・守吏部尚書から同知枢密院事に任命された。庚午、李綱が試兵部侍郎・中大夫から尚書右丞に任命された。辛未、趙野が通議大夫・尚書左丞から門下侍郎に任命された。王孝迪が通議大夫・翰林学士承旨から中書侍郎に任命された。蔡懋が中大夫・同知枢密院事から尚書左丞に任命された。甲戌、唐恪が正議大夫・守吏部尚書から同知枢密院事に任命された。耿南仲が簽書枢密院事から同知枢密院事に昇進した。辛巳、路允迪が試兵部尚書から資政殿学士・簽書枢密院事に任命された。丁亥、種師道が検校少保・静難軍節度使・河北河東制置使から同知枢密院事に任命された。二月戊戌、尚書右丞李綱が罷免され、辛丑に復職した。癸卯、徐処仁が観文殿大学士・大名尹から中書侍郎に任命された。宇文虚中が保和殿大学士から資政殿大学士・簽書枢密院事に任命された。庚戌、李綱が中大夫・尚書右丞から知枢密院事に任命された。耿南仲が同知枢密院事から尚書左丞に任命された。李梲が正奉大夫・同知枢密院事から尚書右丞に任命された。三月己巳、唐恪が正議大夫・同知枢密院事から依前官で中書侍郎に加官された。{上鹵下木}が翰林学士・知制誥から中大夫・尚書右丞に任命された。許翰が御史中丞から中大夫・同知枢密院事に任命された。四月癸卯、耿南仲が太中大夫・尚書左丞から依前官で門下侍郎に加官された。今月、種師道が検校少傅・中太乙宮使から再び同知枢密院事に任命された。六月戊戌、李綱が河北・河東を宣撫した。八月丙申、種師道が李綱に代わって宣撫となった。己未、{上鹵下木}が太中大夫・尚書右丞から中書侍郎に任命された。陳過庭が太中大夫・試礼部尚書兼侍読から尚書右丞に任命された。聶昌が開封府尹から中大夫・同知枢密院事に任命された。李回が朝請大夫・御史中丞兼侍読から延康殿学士・簽書枢密院事に任命された。九月丁丑、王{上宀下禹}が礼部尚書から尚書左丞に任命された。十月丁未、馮澥が礼部尚書・太子詹事兼侍読から中大夫・知枢密院事に任命された。十一月丁丑、陳過庭が太中大夫・尚書右丞から中書侍郎に任命された。孫傅が試兵部尚書から中大夫・尚書右丞に任命された。甲申、同知枢密院事に任命された。曹輔が御史中丞から延康殿学士・簽書枢密院事に任命された。庚寅、{上鹵下木}が資政殿学士・中大夫・提挙万寿観兼侍読・開封府事統轄から門下侍郎に任命された。閏十一月丁酉、馮澥が資政殿学士・中大夫・太子賓客から尚書左丞に任命された。庚子、張叔夜が延康殿学士・南道都総管から簽書枢密院事に任命された。 | 二月癸卯、蔡懋が尚書左丞から資攻殿学士・依前中大夫として大名府知事兼北京留守となった。王孝迪が中書侍郎から資政殿学士として醴泉観を提挙した。癸丑、種師道が同知枢密院事から検校少傅として中太乙宮使を統轄した。甲寅、童貫が太師・広陽郡王・徐豫国公から責授左衛上将軍致仕、池州居住となった。蔡攸が太保・枢密院事統轄・燕国公から責授太中大夫・亳州明道宮提挙、任便居住となった。三月戊辰、李梲が尚書左丞から正奉大夫・資政殿学士として南京鴻慶宮を提挙した。庚午、宇文虚中が簽書枢密院事から資政殿学士・仍中大夫として青州知事に出向した。四月庚戌、趙野が門下侍郎から資政殿学士として襄陽府知事に出向した。六月癸卯、路允迪が簽書枢密院事から資政殿学士として醴泉観を提挙した。八月戊午、許翰が同知枢密院事から延康殿学士として亳州知事に出向した。九月丁丑、李綱が知枢密院事から観文殿学士として揚州知事に出向した。十月戊午、王{上宀下禹}が尚書左丞から軍前への使者辞退の罪で単州団練副使に責授され、新州に安置された。辛酉、種師道が死去した。十一月戊辰、馮澥が知枢密院から資政殿学士・太子賓客となった。丁丑、{上鹵下木}が中書侍郎から依前官で醴泉観を提挙し、兼侍読となった。丁亥、李回が簽書枢密院事から万寿観を提挙した。 |