◎楽五
四年、再び饗す。国子丞王普言す、「《書・舜典》に按ずるに、夔に命じて曰く『詩は志を言ひ、歌は言を永くし、声は永に依り、律は声に和す』と。蓋し古者は既に詩を作し、従ひて之を歌ひ、然る後に声律を以て協和して曲を成す。歴代より本朝に至るまで、雅楽は皆先づ楽章を製し而る後に譜を成す。崇寧以後、乃ち先づ譜を製し、後に詞を命ず、是に於いて詞律相諧協せず、且つ俗楽と異なる無し。古製を復用するを乞ふ。又《周礼》に按ずるに、黄鐘を奏し、大呂を歌ひて以て天神を祀る。黄鐘は堂下の楽、大呂は堂上の楽なり。郊祀の礼、皇帝の版位は午階下に在り、故に還位の楽は当に黄鐘を奏すべし。明堂の版位は阼階上に在り、則ち還位は当に大呂を歌ふべし。今明堂の礼は堂を下らず、而るに郊祀還位の例を襲ひ、並びに黄鐘の楽を奏す、義に於いて未だ当らず」と。尋で皆普の議の如し。
十年、太常卿蘇攜言す、「将来明堂に行礼するに、登歌大楽已に備はるを除き、宮架・楽舞を見闕く、諸路州軍先に頒降する登歌大楽有り、行ひて搜訪し応用するを乞ふ」と。丞周執羔言す、「大楽は文・武の二舞を兼用す、今殿前司将下の任道、前大晟府の二舞色長に係り、舞儀を深く知る、宜しく寺に赴きて教習せしむべし」と。卿陳桷言す、「前期の五使、例合せて按閲す、仍ち応に侍祠執事の朝臣を詔し、並びに楽を作し教習すべし」と。礼儀博士周林復た言す、「神位の席地陳設に、至尊親しく酌献を行ひ、堂上下皆地に坐して楽を作す、而るに鍾磬の工乃ち木の小榻を設く、当に教習の日、立たしめて以て考撃せしめ、庶くは循習簡陋の弊を革すべし。
初め、上諒闇に居す、臣僚に明堂に行礼し奏楽・受胙等の事を罷むるを請ふ者有り、上礼官に諭して詳定せしむ。太常寺、景德・熙・豊の親郊典故を検照し、郊廟・景霊宮並びに楽を用ふるを除き、其の鹵簿・鼓吹及び楼前宮架・諸軍音楽、皆備へて作さず。毎処の警場、止だ金鉦・鼓角を鳴らすのみ、即ち奏楽・受胙の文を去ること無し。大饗は民の為に福を祈り、上帝・宗廟の為に楽を作す、礼は敢へて卑を以て尊を廃せず。《書》に『五福を斂め、庶民に錫ふ』と、況んや熙寧の礼尤も考ふべく、其の赦文に曰く『六楽舞を備へ、祥祉来臻す』とは是れなり。是に於いて詔して之を行ふに遵ふ。其の後、礼部侍郎施坰奏す、「礼経に蕃楽は荒政より出づ、蓋し一時以て貶抑を示す。昨内外暫く用楽を止む、今徽考の大事既に畢り、慈寧又已に就養す、其の時節上寿は、理宜しく楽を挙ぐべく、一に旧制の如し」と。礼部尋ち言す、「太母宮に還るは、国家の大慶、四方来賀す。今より冬至・元正に朝賀の礼を行ふは、国朝故事に依り、合せて大仗を設け及び楽舞等を用ふべく、庶くは天子の尊を明らかにし、旧典廃墜に至らざらしむ」と。詔有りて来年を俟ちて行ふ。
十四年、太常寺が言うには、「将来の大礼において、玉磬十六枚が欠けている。その定める声律は、玉の厚さに基づき、音の高低を取る。正声は全部で十二あり、黄鍾の厚さは八分、進んで大呂・太簇・夾鍾・姑洗・仲呂・蕤賓・林鍾・夷則・南呂・無射・応鍾となり、毎律一分ずつ増し、応鍾で一寸九分で止まる。清声の夾鍾の厚さは二寸三分、退いて太簇・大呂・黄鍾となり、合わせて四清声、各一分ずつ減じ、黄鍾で二寸で止まる。」と。そこでこれを四川茶馬司に下し、数を広げ分を増やして、市易して用に供させた。太常博士張晟もまた言うには、「大楽で用いる武舞の飾りは、幹に刀を配するが、『周礼・司兵』に『祭祀には、舞者に兵を授く』とあり、先儒は『朱幹・玉戚を授く』と謂い、『郊特牲』に『朱幹・玉戚、冕して大武を舞う』とある。」と。そこでその請いに従い、『三礼図』に倣い、玉戚を造らせ、舞幹に配させた。
この年、初めて徽宗の徽号を上り、特に『顕安の楽』を製した。皇太后の冊・宝を慈寧宮に奉るに至っては、楽に『聖安』を用い、皇后が冊・宝を穆清殿で受けるには、楽に『坤安』を用いたが、これも皆先後参次して挙行された。『顕安』は無射・夾鍾を宮とし、『周大司楽』に先王を饗するには無射を奏し夾鍾を歌うとあり、「夾鍾の六五、上りて無射の上九を生ず。夾鍾は卯の気、二月に建ち、而して辰は降婁に在り;無射は戌の気、九月に建ち、而して辰は大火に在り。」無射は陽律の終わり、夾鍾は実にこれと合し、蓋しその相親しみ合って祖考の精神を仮廟に萃めることを取るのである。『聖安』は純粋に大呂を用い、『坤安』は純粋に中呂を用いた。大呂は陰律の首、母儀を崇めるため;中呂は陰律の次、婦順を明らかにするためである。
時に給事中段拂らが景鍾の制度を討論し、『大晟楽書』を按ずるに、「黄鍾は、楽の出づる所、而して景鍾は又た黄鍾の本、故に楽の祖と為し、惟だ天子が郊祀して上帝する時に則ちこれを用い、斎宮より壇に詣づるに則ちこれを撃ち、以て至陽の気を召す。既に至りて声闋き、衆楽乃ち作る。祀事既に畢り、輦に昇るに、又たこれを撃つ。蓋し天は群物の祖、今楽の祖を以てこれを感ずれば、則ち天の百神礼すべきを得る。音韻清越、九龍を拱し、宮架の中に立ち、以て君囲と為し;四清声の鍾・磬・鎛鍾・特磬を環らし、以て臣囲と為し;編鍾・編磬を以て民囲と為す。内に宝鍾球玉を設け、外は龍虡鳳琴と為す。景鍾の高さ九尺、その数九九、実高八尺一寸。垂るれば則ち鍾と為し、仰げば則ち鼎と為す。鼎の大きさ、九斛に中り、退蔵して実は八斛一斗有り。」と。内より皇祐大楽中の黍尺を出し、太常旧蔵の黄鍾律編鍾を参酌するに、高さ恰も九寸に適い、正に相吻合するので、遂に黍尺を用いて製造するに遵った。
鍾が成ると、左仆射秦檜に命じてこれが銘を為させた。その文に曰く、「皇宋紹興十六年、中興の天子は好生の大徳を以て、既に寰宇を定め、乃ち楽を作して天地の化を暢げ、神人を和す。維れ茲の景鍾、首めて衆楽に出づ、天子専ら禋祀に用い、謹んで手を拜し稽首して銘を献ず。その銘に曰く、徳純懿兮舜・文継ぐ。寿域に躋る兮孰か内外?上帝に薦む兮偉なる茲の器。声気応ず兮同じく久視。子孫に貽す兮弥万世。」と。直ちに又た礼局に命じて鎛鍾四十八・編磬一百八十七・特磬四十八及び編鍾等を添製させ、軍器所に命じて建鼓八・雷鼓二・晉鼓一・雷鞀二・敔各四を造らせた。尋いで金鍾・玉磬二架を製した。
初め、元豊は虞庭の鳴球及び晉の賀循が玉を采って磬を造った義に本き、栄諮道に命じて玉磬を肇造させた。元祐の親祠では、嘗て一度これを用い、久しく楽府に蔵した。至って政和に磨礲を加え、音律に協わせしめ、並びに金鍾を造り、専ら明堂に用いた。蓋し堂上の楽は、歌鍾は左に居り、歌磬は右に居る。金玉は乾より気を稟け、純精至貴である故、鍾は必ず金を以てし、磬は必ず玉を以てし、始めて金声玉振の全きを備える、これ中興の継作する所以である。ここにおいて帝は輔臣に諭し、鍾磬の音律は、その余は皆和するが、惟だ黄鍾・大呂は未だ律に応ぜず、宜しく熟に考究を加うべしと。礼官に詔して鎛鍾を鋳造するに、更に詳審を須い、声和して律応ずるを令し、乃ち奉祀すべしと。太常に前期に按閲せしめ、仍た皇祐進呈雅楽の礼例を用いた。皇帝は射殿に御し、宰執・侍従・台諫・寺監・館閣及び武臣刺史以上を召し、新造の景鍾及び礼器を閲視した。皇帝は即ち御坐に即き、景鍾を撞き、正旦朝会の三曲を用い、宮架の楽を奏し、その製造官は推恩差等有り。景鍾楽正一・鎛鍾楽工十二を添置し、特磬楽工もまたこれに如くした。次いで古製の銅錞一を降下し、その二を増造し;古銅鐃一を降下し、その六を増造した。登歌夷則律玉磬を改造し、長笛二十四を降到し、並びに太常寺に付してこれを掌らせ、専ら大礼の施用を俟った。
既にして刑部郎官許興古が奏す、「比歳休祥協応し、霊芝は廟楹に産し、瑞麦は留都に秀づ。昔の乾徳六年には、嘗て和見に詔して『瑞木』・『馴象』及び『玉烏』・『皓雀』の四瑞楽章を作らせ、登歌に備えた。典故に依り、楽章を製し、諸々の郊廟に登すことを願う。」と。詔してその請いに従い、学士沈虚中に命じて歌曲を作らせ、以て太廟・圜丘・明堂に薦めしめた。尋いで又た内より御製の郊祀大礼天地・宗廟楽章を出し、及び宰執・学士院・両省官に詔して郊祀大礼楽章を刪修せしめ、太常に付して肄習せしめた。
天子が親しく南郊を祀る時は、圜鐘を宮とし、三度奏し、楽は凡そ六成、『景安』を歌い、『文徳武功』の舞を用いる。明堂を饗する時は、夾鐘を宮とし、三度奏し、楽は凡そ九成、『誠安』を歌い、『佑文化俗』・『威功睿徳』の舞を用いる。前二日、景霊宮に朝献する時は、圜鐘を宮とし、三度奏し、凡そ六成、奏する楽は南郊と同じく、『興安』を歌い、『発祥流慶』・『降真観徳』の舞を用いる。前一日、太廟に朝饗する時は、黄鐘を宮とし、三度奏し、楽は凡そ九成、『興安』を歌い、用いる文・武二舞は南郊と同じである。僖祖廟には『基命』の楽舞を用い、翼祖廟には『大順』の楽舞を用い、宣祖廟には『天元』の楽舞を用い、太祖廟には『皇武』の楽舞を用い、太宗廟には『大定』の楽舞を用いる。真宗・仁宗廟の楽舞は『熙文』・『美成』といい、英宗・神宗廟の楽舞は『治隆』・『大明』といい、哲宗・徽宗・欽宗廟の楽舞は『重光』・『承元』・『端慶』といい、皆無射宮でこれを奏する。
文・武二舞は皆八佾を用いる。国初、始めて『崇徳』の舞を改めて『文徳』と曰い、『象成』の舞を改めて『武功』と曰う。その『発祥流慶』・『降真観徳』は則ち祥符の製にして、以て聖祖を薦献し、その『佑文化俗』・『威功睿徳』は則ち皇祐の製にして、以て明禋に奉ず。その帝を祀り、有司行事する時は、『帝臨嘉至』・『神矣錫羨』を以てし、及び太廟に献ずるには『孝熙昭徳』・『礼洽儲祥』を以てするは、則ち元豊に製す。その『広生儲祐』・『厚載凝福』を以て方沢を祀るは、則ち宣和に製す。紹興に至り皇地祇を祀るに、『儲霊錫慶』・『厳恭将事』に易え、而して宣和の製する舞を以て神州地祇を分祀し、転相緝熙し、楽舞浸く備わる。中興に至り賡続裁定し、実にその成を集む。中祀以下は、多く楽有りて舞無く、則ち『礼』に「凡そ小祭祀は舞を興さず」の義に在り。
紹興三十一年、詔有り:教坊は日下蠲罷し、各おの自便を令す。蓋し建炎以来、天を畏れ祖を敬い、祀事に虔恭にして、礼楽は煥然として一新せりと雖も、然れどもその始終常に天下を以て憂いと為し、未だ嘗て位を以て楽しまず、称すべきこと足る有り。
孝宗が初めて大位を践祚したとき、紫宸殿に班を立て仗を設け、雅楽を整えて陳列した。礼官がまもなく車駕が親しく朝饗を行い、登歌・金玉の大楽及び彩絵の宮架・楽舞を用いるよう請うたが、仗内の鼓吹は欽宗の喪制により用いなかった。安穆皇后が廟に祔せられるに及んで、礼部侍郎黄中がまず言上した、「国朝の故事によれば、神主が升祔するときは、鼓吹を用いて導引し、太廟に至ってから、楽舞を用いて行事を行う。宗廟の薦享には楽を用いることができるが、鼓吹を道路上で用いるのは、心情的に安んじがたい。備えはするが作奏しないよう請う」。続いて給事中・舎人に詳議を下すと、彼らは言った、「宗廟を薦享するのは、祖宗のためである。故に大が小を包むならば、別廟であっても楽を用いることを嫌わない。今、祔廟の礼は安穆のために行われるのであり、どうして薦享と同日に語ることができようか。将来の祔礼において、祖宗の諸室を謁するときは、楽舞を用いるべきである。別廟に奉安するに至っては、停止して用いないのがよい。前殿で楽を用いるのは、欽宗の故に祖宗の礼を廃さないためであり、別廟で楽を停めるのは、安穆が欽宗の喪礼のために屈するためである。このようにすれば、礼に順い、義に允当する」。そこでその請いを許可した。まもなく右正言周操が上言した、「祖宗の前殿は、尊ぶべきものに二つはなく、楽を用いることについて、再び疑いの余地はない。しかし、それを享廟の行礼の日に用いるのはよいが、今日の祔礼に用いるのはよくない。祔礼は安穆のために設けられるのであり、その用いる楽は安穆のために用いられるのである。別廟で停止するとは言え、祔後に楽を用いるという名目はなお残っている。前後殿の楽をともに作奏しない方が、議論の余地がないのとどちらがよいだろうか」。詔してこれに従った。
乾道に改元し、初めて天地を郊祀した。太常洪適が奏上した、「聖上が践祚され、乾徳を尊ぶことに務め、郊丘で礼を講じ、専ら誠意をもって神明と交わろうとされている。古今の楽は相沿襲せず、金石八音は俗耳に入らず、国中でその芸に熟達する者は少なく、聴けば倦み眠くなるが、ただ古楽が嘗て郊廟に用いられただけである。昔、竽工・鼓員が経法に応じず、孔光・何武が嘗て漢代に奏上して罷めたことは、前史がこれを是としている。今、楽工の数は甚だ多く、その鹵簿の六引・前後の鼓吹については、有司が既に奏上し、詔により三分の一を減じたが、なお習練に三月を超える日数を要している。遊手の徒を駆り立てて金を振り石を撃たせて、どうして音律に尽く中て、鳳を儀らせ獣を舞わせることができようか。しかも日々に給する虚耗は、総計して緡銭で巨万に近い。もし裁酌に従い、一月の教習を用いれば、自ずから声に応じ節に合い、事を欠くことはないであろう」。そこで詔して、郊祀の楽工に一月の習練を命じた。
太常寺がまた言上した、「郊祀に用いるべき節奏楽工・登歌宮架楽工・引舞舞工は、社稷及び別廟に分詣し、並びに番を輪けて応奉し、更に添置しない」。まもなく礼官が壇下の宮架二百七人を裁減し、十分の一を省き、琴二十人・瑟十二人はそれぞれ半減し、笙・簫・笛は省くべき者十八人、篪・塤は省くべき者十人とした。分詣して祠に給する者は凡そ百十四人であったが、八十人だけを用いた。鐘・磬は凡そ四十八架であったが、三十二人だけを設け、その宮架の鐘・磬は旧に依った。排殿の閑慢な楽色は人数を量り省き、悉く章の如く報告した。
礼部郎官蕭國梁がまた言上した、「礼を議する者は嘗て紹興の指揮を援用し、時饗の亜献が既に太室に入れば、即ち終献の行事に引き継ぎ、有司の侍祠に便であり、跛倚するに至るのを免れるが、その流れは簡略に至るであろう。宗廟で用いるのを郊饗に用いるのは特に宜しくない。献有れば必ず楽有り、爵を卒えて後に楽闋く。今、亜献・終献の楽舞は同じであるが、その作には始めがあり、その成には終わりがあり、乱すことはできない。もし相継いで行事を行わせ、酌献の間に雑然とさせれば、その楽舞を行う者は、亜献の楽か、終献の楽か分からなくなる」。詔してその請いに従い訂定させた。
淳熙六年、初めて明堂の禋礼を挙行し、五使に命じて雅楽並びに厳更・警場を貢院で按閲させ、詔を奉じて楽器を堂上・堂下の儀制に依り排設し、五使及び応赴する官僚に旁らに立って按閲を観させ、なお往来して察視することを聴させた。時に大礼使趙雄が言った、「前例では、楽を閲するに皇帝が飲福位に詣でる一曲に至れば、即ち五使以下は皆立ち、毎に奠玉幣及び酌献等の楽を閲するときは、皆坐したまま自若としていたが、礼に尽くしておらず、前例を襲用すべきではない」。故にこの詔があった。まもなく礼官が討論し、紹興以来、凡そ五度明堂を饗し、礼畢して輦を還すまで、並びに未だ楽を用いたことがなく、即ち作楽の節次を考うるに由なし。乃ち礼例を参酌し、成礼して賀を称し及び赦を肆するに楽を用いて駕を導くことは、並びに皇祐の大饗の典故を用いて施行した。その南郊・明堂の儀注は、実に紹興の成憲を述べ、また有司に命じて兼ねて元豊・大観の旧典を酌み、後世の法程とした。その楽を用い作止する節は、粲然として観るべきものであった。
前三日、太常は壇上に登歌楽を設け、稍南にして北向き、壇南の内壝の外に宮架を設け、酂綴の間に舞表を立てる(明堂の登歌は堂上の前楹の間に設け、宮架は庭中に設く)。前一日、協律郎の位二つを設ける:一つは壇上の楽虡の西北に、一つは宮架の西北に。押楽官の位二つ:太常丞は登歌楽虡の北に、太常卿は宮架の北に。省牲の夕べ、押楽の太常卿及び丞が入り楽架を行い、協律郎が楽器を展視する。
祀の日、楽正が工人・二舞を帥いて以て次に入る。皇帝が輿に乗り、青城の斎殿より出で、楽正が景鐘を撞き、輿を降りて大次に入り、景鐘止む(明堂は景鐘を用いず)。大裘袞冕を服し、正門より入り、協律郎が跪き、俯伏し、麾を挙げ、興く。工鼓し、宮架《乾安の楽》作し、凡そ升降・行止に皆これを奏す(明堂は《儀安》を奏す)。午階の版位に至り、西向きに立ち、協律郎が麾を偃し戛し、楽止む(明堂は阼階の下に至り、楽止む)。凡そ楽は、皆協律郎が麾を挙げて後に作し、麾を偃して後に止む。礼儀使が行事を請うて奏し、宮架《景安の楽》作す(明堂は《誠安》を作す)。
文舞が進み、左丞相らが昇壇し、神位の前に詣でると、楽が奏され、六成で止む。皇帝は大圭を執って再拝し、内侍が御用の匜と帨を進めると、宮架の楽が奏され、手を拭い終わると、楽は止む。礼儀使が先導して壇に昇ると、宮架の楽が奏され、壇下に至ると、楽は止む。午階より昇り(明堂では並びに阼階より昇る)、登歌の楽が奏され、壇上に至ると、楽は止む。登歌『嘉安の楽』が奏される(明堂では堂上に至り『鎮安』を奏す)。鎮圭を奠め、玉幣を上帝に奠めると、楽は止む。皇地祇、太祖、太宗の神位の前に詣で、上記の儀式と同様に行う。礼儀使が導いて版位に還ると、登歌の楽が奏され、階を降りると、楽は止む(明堂では阼階より降る)。宮架の楽が奏され、版位に至ると、楽は止む。奉俎官が正門に入ると、宮架『豊安の楽』が奏される(明堂では『禧安』を奏す)。跪き、俎を奠め終わると、楽は止む。内侍が御用の匜と帨を進めると、宮架の楽が奏され、手を拭い爵を拭うと、楽は止む。礼儀使が導いて壇に昇ると、宮架の楽が奏され、午階に至ると、楽は止む。午階より昇り、登歌の楽が奏され、壇上に至ると、楽は止む(明堂では壇に昇らず)。登歌『禧安の楽』が奏され(明堂では『慶安』を奏す)、神位の前に詣で、三たび酒を祭り、しばらく立つと、楽は止む。冊を読み、皇帝は再拝する。神位に詣でるごとに皆これに同じ。礼儀使が導いて版位に還ると、登歌の楽が奏され、階を降りると、楽は止む。宮架の楽が奏され、版位に至ると、楽は止む。還って小次に入るよう奏請すると、宮架の楽が奏され、小次に入ると、楽は止む。
武舞が進み、宮架『正安の楽』が奏される(明堂では『穆安』を奏す)。舞者が立ち定まると、楽は止む。亜献が昇り、酌尊所に詣で、西に向かって立つと、宮架『正安の楽』が奏される(明堂では皇太子が亜献となり、『穆安』を奏す)。三たび酒を祭り、順次酌献して上記の儀式と同様に行い、楽は止む。終献もまたこれに同じ。飲福の位に詣でるよう奏請すると、宮架の楽が奏され、午階に至ると、楽は止む。午階より昇り、登歌の楽が奏され、位に将到すると、楽は止む。登歌『禧安の楽』が奏される(明堂では『胙安』を奏す)。福酒を飲み、礼が終わると、楽は止む。礼儀使が導いて版位に還ると、登歌の楽が奏され、階を降りると、楽は止む。宮架の楽が奏され、版位に至ると、楽は止む(明堂では階を降りず)。豆を徹すると、登歌『熙安の楽』が奏される(明堂では『歆安』を奏す)。神を送ると、宮架『景安の楽』が奏され、一成で止む(明堂では『誠安』を奏す)。望燎・望瘞の位に詣でると、宮架の楽が奏され、位に至ると、楽は止む(明堂には燎あり瘞なし)。燎・瘞が終わり、大次に還ると、宮架『乾安の楽』が奏される(明堂では『憩安』を奏す)。大次に至ると、楽は止む。皇帝は大輦に乗って大次を出ると、楽正が景鍾を撞き(明堂では景鍾を用いず)、鼓吹が振作し、輦を降りて斎殿に還ると、景鍾は止む。百官・宗室が端誠殿で班列を整えて賀し、聖駕の進発を奏請すると、軍楽が導引し、麗正門に至り、大楽正令が『采茨の楽』を奏するよう命じ、門に入ると、楽は止む(明堂では紫宸殿で賀し、『采茨』を奏さず)。
かくて麗正門に臨み赦を肆う。前期に、太常は門の前に宮架の楽を設け、その西に鉦鼓を設ける。皇帝が門に昇り御閣に至ると、大楽正令が黄鍾の鍾を撞き、右の五鍾皆応じ、『乾安の楽』が奏され、御坐に昇ると、楽は止む。金雞が立てられ、太常が鼓を撃つと、囚人が集まり、鼓声が止む。制が宣べ終わると、大楽正令が蕤賓の鍾を撞き、左の五鍾皆応じ、皇帝が御幄に還ると、楽は止む。輦に乗って門を降り、楽を奏し、導引して文徳殿に至り、輦を降りると、楽は止む。
大礼に用いる楽を按ずるに、凡そ三十四色あり:歌色一、笛色二、塤色三、篪色四、笙色五、簫色六、編鍾七、編磬八、鎛鍾九、特磬十、琴十一、瑟十二、柷敔十三、搏拊十四、晉鼓十五、建鼓十六、鞞鼓・応鼓十七、雷鼓(天神を祀るに用いる)十八、雷鞀鼓(同上)十九、霊鼓(地祇を祭るに用いる)二十、霊鞀鼓(同上)二十一、露鼓(宗廟を饗するに用いる)二十二、露鞀鼓(同上)二十三、雅鼓二十四、相鼓二十五、単鞀鼓二十六、旌纛二十七、金鉦二十八、金錞二十九、単鐸三十、双鐸三十一、鐃鐸三十二、奏坐三十三、麾幡三十四。これ国楽の用いられること特に大なるもの、故に篇に具載す。
初め、紹興年間に皇儲を崇建し、有司に礼冊命を備えるよう詔したが、然れども欽宗の喪中にあり、楽を製するに及ばず。乾道初元、皇太子を立てることを詔し、礼部・太常寺に旧礼を討論して奏聞せしむ。冊を受くる日、黄麾仗を大慶殿に陳べ、宮架の楽を殿庭に設け、皇帝が御坐に昇ると、『乾安の楽』を奏し、昇るには黄鍾宮を用い、降りるには蕤賓宮を用いる。皇太子が殿門に入ると、『明安の楽』を奏し、冊を受けて殿門を出るもまたこれに同じく、皆応鍾宮を用いる。七年に至り、応鍾を易えて姑洗を以て奏す。古より、太子生るれば則ち太師管を吹きてその声を度り、協する律を観る。有虞は楽を典として胄子を教え、天子の元子より皆楽を以て教えと為し、以てその性情の正を養い、邪穢を蕩滌し、查滓を消融して道德に和順せしむ。則ち金石の雅奏を陳べ、以て元良を重んず。冊拝は宜しく古誼に倣い、式に盛礼を昭らすべし。唐の季世より、儲貳定まること罕にして、国家益々多故にして礼廃れ楽闕く。建隆に楽を定むるに至り、皇太子の出入に『良安』を奏すと詔すも、至道に始めて皇太子を冊し、有司言う、「太子冊を受くるは、宜しく『正安の楽』を奏すべし」と。百年の曠典、是に至りて行われ、中外胥に悦ぶ。天禧の冊命に至り、礼儀院復た奏して『正安の楽』を改む。乾道の『明安』を用いるは、実に天禧を祖述し、而して姑洗を宮と為すは、則ち唐の東宮軒垂楽を奏する旧貫に則るという。
その後、雨の降り具合が時期に遅れたため、天地・宗廟に分けて祈禱し、雩祀を精しく修めた。礼に照らすと、大雩には帝が盛楽を用いる。しかし唐の開元の祈雨雩壇は、これを特祀と称し、楽を以て薦めなかった。そこで太常朱時敏が言上した、「『通典』には雩礼に舞僮を用いて『雲漢』を歌うと載せており、晋の蔡謨の議には『『雲漢』の詩は宣王の時に興り、これを歌う者はその修徳禳災、陰陽を和するの義を取る』とある。舞僮六十四人を用い、玄衣を着せ、『雲漢』の詩を歌わせることを乞う」。詔して直ちにこれに従った。
まもなく大享明堂が行われ、起居舎人鄭僑が奏上した、「祭祀は事において大であり、礼楽は用において急である。しかし先王はこれに処して、常と変との違いがあり、各々その礼に当たることを務めただけである。昔、舜が堯の喪に居て、三載遏密した。後世は既に漢文の以日易月の文を用い、また漢儒の越紼行事の制を用い、循習すること既に久しく、礼を用いるだけでなくまた楽を用いるに至り、古よりますます遠ざかった。聖主が躬で通喪を服し、有司が大礼を挙行するよう請うたので、意を屈してこれに従った。しかも大饗の礼は天地を祭るものであり、聖主が身を以て親しくこれを行い、礼を行い楽を作することは、廃すべからざるようである。その他の官の分献及び前もって奏告する例で楽を用いるものは、権宜に蠲寝させることも、また良くはないか。今もし明堂に因って損益し裁定すれば、将来の法とするに足りるであろう」。そこで太常に討論を命じ、初めて詔して、降神・奠玉幣・奉俎・酌献・換舞・徹豆・送神は曲礼に依って楽を作するほか、すべての皇帝及び献官の盥洗・登降等の楽は皆備えながら作さないこととした。