宋史

志第八十三 樂五

志第八十三 樂五

◎楽五

原文◎樂五

高宗が南渡し、国事を営むこと多難にして、その古を稽へ治を飾る事に於いては、時に遑暇あらず。建炎元年、初めて有司に詔して曰く、「朕祖宗の遺沢を承け、臣民の上に托することを獲、顛を扶け危を持するに、夙夜痛悼す。況や楽を聞きて以て自ら楽しむに於いてをや、実に朕が心に感を増す」と。二年、復た詔を下して曰く、「朕方に日極めて憂念し、声楽を屏遠し、過耳せしめず。承平の典故、実は廃すと雖も名は存す、亦た忍びず、悉く減罷に従ふ」と。是の歳、始めて光武の旧礼に拠り、建武二載に郊祀を創立するを以て、乃ち十一月壬寅に天を祀り祖に配し、東京を勅して大楽登歌の法物等を奉じて行在所に赴かしめ、維揚江都に就き壇を築きて事を行ふ。凡そ鹵簿・楽舞の類、率多く未だ備はらず、厳更警場に至りては、中軍の金鼓を就き取りて、一時の用を権ふ。

原文高宗南渡,經營多難,其於稽古飾治之事,時靡遑暇。建炎元年,首詔有司曰:“朕承祖宗遺澤,獲托臣民之上,扶顛持危,夙夜痛悼。況於聞樂以自為樂,實增感於朕心。”二年,復下詔曰:“朕方日極憂念,屏遠聲樂,不令過耳。承平典故,雖實廢名存,亦所不忍,悉從減罷。”是歲,始據光武舊禮,以建武二載創立郊祀,乃十一月壬寅祀天配祖,敕東京起奉大樂登歌法物等赴行在所,就維揚江都築壇行事。凡鹵簿、樂舞之類,率多未備,嚴更警場,至就取中軍金鼓,權一時之用。

紹興元年、始めて明堂を饗す。時に初めて会稽に駐まり、而して渡江の旧楽復た皆毀散す。太常卿蘇遅等言す、「国朝大礼に楽を作すは、儀に依り壇殿の上に登歌を設け、壇殿下に宮架を設くるに合す。今親祠の登歌楽器尚闕く、宣和に添用する籥色、未だ頒降に及ばず、州郡創製するに従ふべき無し、宜しく望祭の礼例を権用し、止だ登歌を設け、楽工四十有七人を用ふべし」と。乃ち旧工を訪ひ、以て其の数を備ふ。

原文紹興元年,始饗明堂。時初駐會稽,而渡江舊樂復皆毀散。太常卿蘇遲等言:“國朝大禮作樂,依儀合於壇殿上設登歌,壇殿下設宮架。今親祠登歌樂器尚闕,宣和添用籥色,未及頒降,州郡無從可以創製,宜權用望祭禮例,止設登歌,用樂工四十有七人。”乃訪舊工,以備其數。

四年、再び饗す。国子丞王普言す、「《書・舜典》に按ずるに、夔に命じて曰く『詩は志を言ひ、歌は言を永くし、声は永に依り、律は声に和す』と。蓋し古者は既に詩を作し、従ひて之を歌ひ、然る後に声律を以て協和して曲を成す。歴代より本朝に至るまで、雅楽は皆先づ楽章を製し而る後に譜を成す。崇寧以後、乃ち先づ譜を製し、後に詞を命ず、是に於いて詞律相諧協せず、且つ俗楽と異なる無し。古製を復用するを乞ふ。又《周礼》に按ずるに、黄鐘を奏し、大呂を歌ひて以て天神を祀る。黄鐘は堂下の楽、大呂は堂上の楽なり。郊祀の礼、皇帝の版位は午階下に在り、故に還位の楽は当に黄鐘を奏すべし。明堂の版位は阼階上に在り、則ち還位は当に大呂を歌ふべし。今明堂の礼は堂を下らず、而るに郊祀還位の例を襲ひ、並びに黄鐘の楽を奏す、義に於いて未だ当らず」と。尋で皆普の議の如し。

原文四年,再饗,國子丞王普言:“按《書·舜典》,命夔曰:‘詩言誌,歌永言,聲依永,律和聲。’蓋古者既作詩,從而歌之,然後以聲律協和而成曲。自曆代至於本朝,雅樂皆先製樂章而後成譜。祟寧以後,乃先製譜,後命詞,於是詞律不相諧協,且與俗樂無異。乞復用古製。又按《周禮》奏黃鍾、歌大呂以祀天神。黃鍾,堂下之樂;大呂,堂上之樂也。郊祀之禮,皇帝版位在午階下,故還位之樂當奏黃鍾;明堂版位在阼階上,則還位當歌大呂。今明堂禮不下堂,而襲郊祀還位例,並奏黃鍾之樂,於義未當。”尋皆如普議。

是に先立ち、帝嘗て時難物を備ふるを以て、礼は宜きに従ふ有り、有司を勅戒して参酌損益し、務めて簡儉を崇くす。仍ち元年の例に権依し、登歌を通じて宮架に作さしめ、其の押楽・挙麾の官及び楽工器服等、蠲省すること甚だ多し。既にして国歩漸く安んじ、始めて境を保ち民を息むるを務と為し、而して礼楽の事浸く以て興る。

原文先是,帝嚐以時難備物,禮有從宜,敕戒有司參酌損益,務崇簡儉。仍權依元年例,令登歌通作宮架,其押樂、舉麾官及樂工器服等,蠲省甚多。既而國步漸安,始以保境息民為務,而禮樂之事浸以興矣。

十年、太常卿蘇攜言す、「将来明堂に行礼するに、登歌大楽已に備はるを除き、宮架・楽舞を見闕く、諸路州軍先に頒降する登歌大楽有り、行ひて搜訪し応用するを乞ふ」と。丞周執羔言す、「大楽は文・武の二舞を兼用す、今殿前司将下の任道、前大晟府の二舞色長に係り、舞儀を深く知る、宜しく寺に赴きて教習せしむべし」と。卿陳桷言す、「前期の五使、例合せて按閲す、仍ち応に侍祠執事の朝臣を詔し、並びに楽を作し教習すべし」と。礼儀博士周林復た言す、「神位の席地陳設に、至尊親しく酌献を行ひ、堂上下皆地に坐して楽を作す、而るに鍾磬の工乃ち木の小榻を設く、当に教習の日、立たしめて以て考撃せしめ、庶くは循習簡陋の弊を革すべし。

原文十年,太常卿蘇攜言:“將來明堂行禮,除登歌大樂已備,見闕宮架、樂舞,諸路州軍先有頒降登歌大樂,乞行搜訪應用。”丞周執羔言:“大樂兼用文、武二舞,今殿前司將下任道,係前大晟府二舞色長,深知舞儀,宜令赴寺教習。”卿陳桷言:“前期五使,例合按閱,仍詔應侍祠執事朝臣,並作樂教習。”禮儀博士周林復言:“神位席地陳設,至尊親行酌獻,堂上下皆地坐作樂,而鍾磬工乃設木小榻,當教習日,使立以考擊,庶革循習簡陋之弊。

初め、上諒闇に居す、臣僚に明堂に行礼し奏楽・受胙等の事を罷むるを請ふ者有り、上礼官に諭して詳定せしむ。太常寺、景德・熙・豊の親郊典故を検照し、郊廟・景霊宮並びに楽を用ふるを除き、其の鹵簿・鼓吹及び楼前宮架・諸軍音楽、皆備へて作さず。毎処の警場、止だ金鉦・鼓角を鳴らすのみ、即ち奏楽・受胙の文を去ること無し。大饗は民の為に福を祈り、上帝・宗廟の為に楽を作す、礼は敢へて卑を以て尊を廃せず。《書》に『五福を斂め、庶民に錫ふ』と、況んや熙寧の礼尤も考ふべく、其の赦文に曰く『六楽舞を備へ、祥祉来臻す』とは是れなり。是に於いて詔して之を行ふに遵ふ。其の後、礼部侍郎施坰奏す、「礼経に蕃楽は荒政より出づ、蓋し一時以て貶抑を示す。昨内外暫く用楽を止む、今徽考の大事既に畢り、慈寧又已に就養す、其の時節上寿は、理宜しく楽を挙ぐべく、一に旧制の如し」と。礼部尋ち言す、「太母宮に還るは、国家の大慶、四方来賀す。今より冬至・元正に朝賀の礼を行ふは、国朝故事に依り、合せて大仗を設け及び楽舞等を用ふべく、庶くは天子の尊を明らかにし、旧典廃墜に至らざらしむ」と。詔有りて来年を俟ちて行ふ。

原文初,上居諒闇,臣僚有請罷明堂行禮奏樂、受胙等事,上諭禮官詳定。太常寺檢照景德、熙、豐親郊典故,除郊廟、景靈宮並合用樂,其鹵簿、鼓吹及樓前宮架、諸軍音樂,皆備而不作。每處警場,止鳴金鉦、鼓角而已,即無去奏樂、受胙之文。大饗為民祈福,為上帝、宗廟而作樂,禮不敢以卑廢尊。《書》“斂五福,錫庶民”,況熙寧禮尤可考,其赦文有曰“六樂備舞,祥祉來臻”是也。於是詔遵行之。其後,禮部侍郎施奏:“禮經蕃樂出於荒政,蓋一時以示貶抑。昨內外暫止用樂,今徽考大事既畢,慈寧又已就養,其時節上壽,理宜舉樂,一如舊制。”禮部尋言:“太母還宮,國家大慶,四方來賀。自今冬至、元正舉行朝賀之禮,依國朝故事,合設大仗及用樂舞等,庶幾明天子之尊,舊典不至廢墜。”有詔俟來年舉行。

十有三年、郊祀し、詔して祐陵深き弓劍の蔵、長楽遂に晨昏の養を以て、神天に昭答し、臨安行在所に就きて円壇を修建す。是に於いて有司言す、「大礼に備楽を排設するに、宮架楽は一料を辦する外、登歌楽は在京夏祭の例に依り、合用するに両料。其の楽器、登歌は則ち編鍾・磬各一架、柷・敔各二、搏拊・鼓各二、琴五色、一絃・三絃・五絃・七絃より九絃に至るまで各二、瑟四、笛四、塤・篪・簫並びに二、巣笙・和笙各四、並びに七星・九曜・閏餘の匏笙各一、麾幡一を用ふ。宮架は則ち編鍾・編磬各十二架、柷・敔各二、琴五色各十、瑟二十六、巣笙及び簫並びに十四、七星・九曜・閏餘の匏笙各一、竽笙十、塤十二、篪十八、笛二十、晋鼓一、建鼓四、麾幡一を用ふ」と。乃ち太常より之を両浙・江南・福建の州郡に下し、又之を広東西・荊湖南北に下し、旧管の大楽を括取り、行都に上らしめ、闕有れば則ち軍器所に下して製造せしめ、雅飾を増修し、而して楽器浸く備はる。其の楽工は、詔して太常寺の請ふるに依り、行止畏謹の人を選択し、登歌・宮架に合する凡そ四百四十人を用ひ、同日に分ちて太社・太稷・九宮貴神に詣る。毎祭各楽正二人、執色楽工・掌事・掌器三十六人を用ひ、三祭共に一百十四人、文舞・武舞計用するに一百二十八人、就以て文舞番を充てる。其の二舞の引頭二十四人は、皆召募して之を補ふ。楽工・舞師は在京の例に照らし、三等に分ちて廩給す。其の楽正・掌事・掌器は、六月一日より教習す。引舞・色長・文武舞頭・舞師及び諸楽工等は、八月一日より教習す。是に於いて楽工漸く集まる。

原文十有三年,郊祀,詔以祐陵深弓劍之藏,長樂遂晨昏之養,昭答神天,就臨安行在所修建圓壇。於是有司言:“大禮排設備樂,宮架樂辦一料外,登歌樂依在京夏祭例,合用兩料。其樂器,登歌則用編鍾、磬各一架,、二,搏拊、鼓二,琴五色,自一、三、五、七至九絃各二,瑟四,笛四,塤、篪、簫並二,巢笙、和笙各四;並七星、九曜、閏餘匏笙各一,麾幡一。宮架則用編鍾、編磬各十二架,、二,琴五色,各十,瑟二十六;巢笙及簫並一十四,七星、九曜、閏餘匏笙各一,竽笙十,塤一十二,篪一十八,笛二十,晉鼓一,建鼓四,麾幡一。”乃從太常下之兩浙、江南、福建州郡,又下之廣東西、荊湖南北,括取舊管大樂,上於行都,有闕則下軍器所製造,增修雅飾,而樂器浸備矣。其樂工,詔依太常寺所請,選擇行止畏謹之人,合登歌、宮架凡用四百四十人,同日分詣太社、太稷、九宮貴神。每祭各用樂正二人,執色樂工、掌事、掌器三十六人,三祭共一百一十四人,文舞、武舞計用一百二十八人,就以文舞番充。其二舞引頭二十四人,皆召募補之。樂工、舞師照在京例,分三等廩給。其樂正、掌事、掌器,自六月一日教習;引舞、色長、文武舞頭、舞師及諸樂工等,自八月一日教習。於是樂工漸集。

十四年、太常寺が言うには、「将来の大礼において、玉磬十六枚が欠けている。その定める声律は、玉の厚さに基づき、音の高低を取る。正声は全部で十二あり、黄鍾の厚さは八分、進んで大呂・太簇・夾鍾・姑洗・仲呂・蕤賓・林鍾・夷則・南呂・無射・応鍾となり、毎律一分ずつ増し、応鍾で一寸九分で止まる。清声の夾鍾の厚さは二寸三分、退いて太簇・大呂・黄鍾となり、合わせて四清声、各一分ずつ減じ、黄鍾で二寸で止まる。」と。そこでこれを四川茶馬司に下し、数を広げ分を増やして、市易して用に供させた。太常博士張晟もまた言うには、「大楽で用いる武舞の飾りは、幹に刀を配するが、『周礼・司兵』に『祭祀には、舞者に兵を授く』とあり、先儒は『朱幹・玉戚を授く』と謂い、『郊特牲』に『朱幹・玉戚、冕して大武を舞う』とある。」と。そこでその請いに従い、『三礼図』に倣い、玉戚を造らせ、舞幹に配させた。

原文十四年,太常寺言:“將來大禮,見闕玉磬十六枚。其所定聲律,係於玉分厚薄,取聲高下。正聲凡十有二,黃鍾厚八分,進而為大呂、太簇、夾鍾、姑洗、仲呂、蕤賓、林鍾、夷則、南呂、無射、應鍾,每律增一分,至應鍾一寸九分而止。清聲夾鍾厚二寸三分,退而為太簇、大呂、黃鍾,共四清聲,各減一分,至黃鍾二寸而止。”乃下之四川茶馬司,寬數增分,市易以供用。太常博士張晟又言:“大樂所用武舞之飾,以幹配刀,《周禮·司兵》‘祭祀,授舞者兵’,先儒謂‘授以朱幹、玉戚’,《郊特牲》‘朱幹、玉戚,冕而舞大武’。”乃從所請,仿《三禮圖》,令造玉戚,以配舞幹。

この年、初めて徽宗の徽号を上り、特に『顕安の楽』を製した。皇太后の冊・宝を慈寧宮に奉るに至っては、楽に『聖安』を用い、皇后が冊・宝を穆清殿で受けるには、楽に『坤安』を用いたが、これも皆先後参次して挙行された。『顕安』は無射・夾鍾を宮とし、『周大司楽』に先王を饗するには無射を奏し夾鍾を歌うとあり、「夾鍾の六五、上りて無射の上九を生ず。夾鍾は卯の気、二月に建ち、而して辰は降婁に在り;無射は戌の気、九月に建ち、而して辰は大火に在り。」無射は陽律の終わり、夾鍾は実にこれと合し、蓋しその相親しみ合って祖考の精神を仮廟に萃めることを取るのである。『聖安』は純粋に大呂を用い、『坤安』は純粋に中呂を用いた。大呂は陰律の首、母儀を崇めるため;中呂は陰律の次、婦順を明らかにするためである。

原文是歲,始上徽宗徽號,特製《顯安之樂》。至於奉皇太后冊、寶於慈寧宮,樂用《聖安》;皇后受冊、寶於穆清殿,樂用《坤安》,亦皆先後參次而舉。《顯安》以無射、夾鍾為宮,《周大司樂》饗先王,奏無射而歌夾鍾,“夾鍾之六五,上生無射之上九。夾鍾,卯之氣,二月建焉,而辰在降婁;無射,戌之氣,九月建焉,而辰在大火。”無射,陽律之終,夾鍾實為之合,蓋取其相親合而萃祖考之精神於假廟也。《聖安》純用大呂,《坤安》純用中呂。大呂,陰律之首,崇母儀也;中呂,陰律之次,明婦順也。

明年の正旦朝会において、初めて楽舞を陳べ、公卿が觴を奉り寿を献じた。元豊の朝会楽によれば、第一爵には登歌して『和安の曲』を奏し、堂上の楽は歌に随って発する;第二爵には笙が入り、乃ち瑞曲を奏し、惟だ笙を吹きて余りの楽は作さず;第三爵には瑞曲を奏し、堂上は歌い、堂下は笙を吹き、一歌一吹相間う;第四爵には合楽して仍た瑞曲を奏し、上下の楽交わって作る。今は悉く旧典に倣い、まず『和安』を奏し、次に『嘉木成文』・『滄海澄清』・『瑞粟呈祥』の三曲を奏し、その楽は専ら太簇を宮とした。太簇の律は、生気湊達して万物に及び、三統においては人正、四時においては孟春である故、元会にこれを用いるのである。

原文明年正旦朝會,始陳樂舞,公卿奉觴獻壽。據元豐朝會樂:第一爵,登歌奏《和安之曲》,堂上之樂隨歌而發;第二爵,笙入,乃奏瑞曲,惟吹笙而餘樂不作;第三爵,奏瑞曲,堂上歌,堂下笙,一歌一吹相間;第四爵,合樂仍奏瑞曲,而上下之樂交作。今悉仿舊典,首奏《和安》,次奏《嘉木成文》、《滄海澄清》、《瑞粟呈祥》三曲,其樂專以太簇為宮。太簇之律,生氣湊達萬物,於三統為人正,於四時為孟春,故元會用之。

時に給事中段拂らが景鍾の制度を討論し、『大晟楽書』を按ずるに、「黄鍾は、楽の出づる所、而して景鍾は又た黄鍾の本、故に楽の祖と為し、惟だ天子が郊祀して上帝する時に則ちこれを用い、斎宮より壇に詣づるに則ちこれを撃ち、以て至陽の気を召す。既に至りて声闋き、衆楽乃ち作る。祀事既に畢り、輦に昇るに、又たこれを撃つ。蓋し天は群物の祖、今楽の祖を以てこれを感ずれば、則ち天の百神礼すべきを得る。音韻清越、九龍を拱し、宮架の中に立ち、以て君囲と為し;四清声の鍾・磬・鎛鍾・特磬を環らし、以て臣囲と為し;編鍾・編磬を以て民囲と為す。内に宝鍾球玉を設け、外は龍虡鳳琴と為す。景鍾の高さ九尺、その数九九、実高八尺一寸。垂るれば則ち鍾と為し、仰げば則ち鼎と為す。鼎の大きさ、九斛に中り、退蔵して実は八斛一斗有り。」と。内より皇祐大楽中の黍尺を出し、太常旧蔵の黄鍾律編鍾を参酌するに、高さ恰も九寸に適い、正に相吻合するので、遂に黍尺を用いて製造するに遵った。

原文時給事中段拂等討論景鍾制度,按《大晟樂書》:“黃鍾者,樂所自出,而景鍾又黃鍾之本,故為樂之祖,惟天子郊祀上帝則用之,自齋宮詣壇則擊之,以召至陽之氣。既至,聲闋,眾樂乃作。祀事既畢,升輦,又擊之。蓋天者,群物之祖,今以樂之祖感之,則天之百神可得而禮。音韻清越,拱以九龍,立於宮架之中,以為君圍;環以四清聲鍾、磬、鎛鍾、特磬,以為臣圍;編鍾、編磬以為民圍。內設寶鍾球玉,外為龍虡鳳琴。景鍾之高九尺,其數九九,實高八尺一寸。垂則為鍾,仰則為鼎。鼎之大,中於九斛,退藏實八斛有一焉。”內出皇祐大樂中黍尺,參以太常舊藏黃鍾律編鍾,高適九寸,正相吻合,遂遵用黍尺製造。

鍾が成ると、左仆射秦檜に命じてこれが銘を為させた。その文に曰く、「皇宋紹興十六年、中興の天子は好生の大徳を以て、既に寰宇を定め、乃ち楽を作して天地の化を暢げ、神人を和す。維れ茲の景鍾、首めて衆楽に出づ、天子専ら禋祀に用い、謹んで手を拜し稽首して銘を献ず。その銘に曰く、徳純懿兮舜・文継ぐ。寿域に躋る兮孰か内外?上帝に薦む兮偉なる茲の器。声気応ず兮同じく久視。子孫に貽す兮弥万世。」と。直ちに又た礼局に命じて鎛鍾四十八・編磬一百八十七・特磬四十八及び編鍾等を添製させ、軍器所に命じて建鼓八・雷鼓二・晉鼓一・雷鞀二・敔各四を造らせた。尋いで金鍾・玉磬二架を製した。

原文鍾成,命左仆射秦檜為之銘。其文曰:“皇宋紹興十六年,中興天子以好生大德,既定寰宇,乃作樂以暢天地之化,以和神人。維茲景鍾,首出眾樂,天子專用禋祀,謹拜手稽首而獻銘。其銘曰:德純懿兮舜、文繼。躋壽域兮孰內外?薦上帝兮偉茲器。聲氣應兮同久視。貽子孫兮彌萬世。”旋又命禮局造鎛鍾四十有八、編磬一百八十七、特磬四十八及添製編鍾等,命軍器所造建鼓八、雷鼓二、晉鼓一、雷鞀二、敔各四。尋製金鍾、玉磬二架。

初め、元豊は虞庭の鳴球及び晉の賀循が玉を采って磬を造った義に本き、栄諮道に命じて玉磬を肇造させた。元祐の親祠では、嘗て一度これを用い、久しく楽府に蔵した。至って政和に磨礲を加え、音律に協わせしめ、並びに金鍾を造り、専ら明堂に用いた。蓋し堂上の楽は、歌鍾は左に居り、歌磬は右に居る。金玉は乾より気を稟け、純精至貴である故、鍾は必ず金を以てし、磬は必ず玉を以てし、始めて金声玉振の全きを備える、これ中興の継作する所以である。ここにおいて帝は輔臣に諭し、鍾磬の音律は、その余は皆和するが、惟だ黄鍾・大呂は未だ律に応ぜず、宜しく熟に考究を加うべしと。礼官に詔して鎛鍾を鋳造するに、更に詳審を須い、声和して律応ずるを令し、乃ち奉祀すべしと。太常に前期に按閲せしめ、仍た皇祐進呈雅楽の礼例を用いた。皇帝は射殿に御し、宰執・侍従・台諫・寺監・館閣及び武臣刺史以上を召し、新造の景鍾及び礼器を閲視した。皇帝は即ち御坐に即き、景鍾を撞き、正旦朝会の三曲を用い、宮架の楽を奏し、その製造官は推恩差等有り。景鍾楽正一・鎛鍾楽工十二を添置し、特磬楽工もまたこれに如くした。次いで古製の銅錞一を降下し、その二を増造し;古銅鐃一を降下し、その六を増造した。登歌夷則律玉磬を改造し、長笛二十四を降到し、並びに太常寺に付してこれを掌らせ、専ら大礼の施用を俟った。

原文初,元豐本虞庭鳴球及晉賀循采玉造磬之義,命榮谘道肇造玉磬。元祐親祠,嚐一用之,久藏樂府。至政和加以磨礲,俾協音律,並造金鍾,專用於明堂。蓋堂上之樂,歌鍾居左,歌磬居右。金玉稟氣於乾,純精至貴,故鍾必以金,磬必以玉,始備金聲玉振之全,此中興所以繼作也。於是帝諭輔臣,以鍾磬音律,其餘皆和,惟黃鍾、大呂猶未應律,宜熟加考究。詔禮官以鑄造鎛鍾,更須詳審,令聲和而律應,乃可奉祀。命太常前期按閱,仍用皇祐進呈雅樂禮例。皇帝御射殿,召宰執、侍從、台諫、寺監、館閣及武臣刺史以上,閱視新造景鍾及禮器。皇帝即御坐,撞景鍾,用正旦朝會三曲,奏宮架之樂,其製造官推恩有差。添置景鍾樂正一、鎛鍾樂工十有二,特磬樂工亦如之。次降下古製銅錞一,增造其二;古銅鐃一,增造其六。改造登歌夷則律玉磬,降到長笛二十有四,並付太常寺掌之,專俟大禮施用。

既にして刑部郎官許興古が奏す、「比歳休祥協応し、霊芝は廟楹に産し、瑞麦は留都に秀づ。昔の乾徳六年には、嘗て和見に詔して『瑞木』・『馴象』及び『玉烏』・『皓雀』の四瑞楽章を作らせ、登歌に備えた。典故に依り、楽章を製し、諸々の郊廟に登すことを願う。」と。詔してその請いに従い、学士沈虚中に命じて歌曲を作らせ、以て太廟・圜丘・明堂に薦めしめた。尋いで又た内より御製の郊祀大礼天地・宗廟楽章を出し、及び宰執・学士院・両省官に詔して郊祀大礼楽章を刪修せしめ、太常に付して肄習せしめた。

原文既而刑部郎官許興古奏:“比歲休祥協應,靈芝產於廟楹,瑞麥秀於留都。昔乾德六年,嚐詔和見作《瑞木》、《馴象》及《玉烏》、《皓雀》四瑞樂章,以備登歌。願依典故,製為樂章,登諸郊廟。”詔從其請,命學士沈虛中作歌曲,以薦於太廟、圜丘、明堂。尋又內出御製郊祀大禮天地、宗廟樂章,及詔宰執、學士院、兩省官刪修郊祀大禮樂章,付太常肄習。

天子が親しく南郊を祀る時は、圜鐘を宮とし、三度奏し、楽は凡そ六成、『景安』を歌い、『文徳武功』の舞を用いる。明堂を饗する時は、夾鐘を宮とし、三度奏し、楽は凡そ九成、『誠安』を歌い、『佑文化俗』・『威功睿徳』の舞を用いる。前二日、景霊宮に朝献する時は、圜鐘を宮とし、三度奏し、凡そ六成、奏する楽は南郊と同じく、『興安』を歌い、『発祥流慶』・『降真観徳』の舞を用いる。前一日、太廟に朝饗する時は、黄鐘を宮とし、三度奏し、楽は凡そ九成、『興安』を歌い、用いる文・武二舞は南郊と同じである。僖祖廟には『基命』の楽舞を用い、翼祖廟には『大順』の楽舞を用い、宣祖廟には『天元』の楽舞を用い、太祖廟には『皇武』の楽舞を用い、太宗廟には『大定』の楽舞を用いる。真宗・仁宗廟の楽舞は『熙文』・『美成』といい、英宗・神宗廟の楽舞は『治隆』・『大明』といい、哲宗・徽宗・欽宗廟の楽舞は『重光』・『承元』・『端慶』といい、皆無射宮でこれを奏する。

原文天子親祀南郊,圜鍾為宮,三奏,樂凡六成,歌《景安》,用《文德武功》之舞;饗明堂,夾鍾為宮,三奏,樂凡九成,歌《誠安》,用《佑文化俗》、《威功睿德之舞》。前二日,朝獻景靈宮,圜鍾為宮,三奏,凡六成,所奏樂與南郊同,歌《興安》,用《發祥流慶》、《降真觀德之舞》。前一日,朝饗太廟,黃鍾為宮,三奏,樂凡九成,歌《興安》,所用文、武二舞與南郊同。僖祖廟用《基命之樂舞》,翼祖廟用《大順之樂舞》,宣祖廟用《天元之樂舞》,太祖廟用《皇武之樂舞》,太宗廟用《大定之樂舞》。真宗、仁宗廟樂舞曰《熙文》、曰《美成》,英宗、神宗廟樂舞曰《治隆》、曰《大明》,哲宗、徽宗、欽宗廟樂舞曰《重光》、曰《承元》、曰《端慶》,皆以無射宮奏之。

毎年昊天上帝を祀るのは凡そ四度:正月上辛の祈穀、孟夏の雩祀、季秋の明堂饗、冬至の圜丘祀がこれである。圜鐘を宮とし、楽を六成奏し、南郊と同じく、乃ち『景安』の歌、『帝臨嘉至』・『神矣錫羨』の舞を用いる。地祇を祀るのは二度:夏至に皇地祇を祀り、楽を八成奏し、乃ち『寧安』の歌、『儲霊錫慶』・『厳恭将事』の舞を用いる。立冬後に神州地祇を祀り、楽を八成奏し、『寧安』を歌うが、皇地祇を祀るのと同名で曲は異なり、『広生儲祐』・『厚載凝福』の舞を用いる。孟春上辛に感生帝を祀る時は、その歌は『大安』、その楽舞は則ち歳祀の昊天と同じである。三年に一度の祫祭及び時饗の太廟では、九成の楽、『興安』の歌は、大礼前事の朝饗と同じく、而して『孝熙昭徳』・『礼洽儲祥』の舞を用いる。太社・太稷には『寧安』を用い、八成の楽は、歳祀の地祇と同じである。親しく製して宣聖及び七十二弟子を讃し、以て崇儒右文の声を広め、親しく学を視、酌献を行い、釈奠を大祀と定め、『凝安』を用い、九成の楽とするに至る。郡邑の行事では、則ち楽は三成に止める。その他、親しく先農を饗し、親しく高禖を祀る時は、則ち壇壝を敞け、楽舞を奏し、同文館・法恵寺で按習する。親しく籍田を耕す時は、則ち宣和の旧制に拠り、大楽を陳設し、而して耒耜を引呈し、耕根車を護衛し、儀仗鼓吹は二千人を率とすることに至る。先農の楽は『静安』を用い、高禖の楽は『景安』を用い、皇帝が親しく三推の礼を行う時は、楽は『乾安』を用いる。その軼典を補苴し、弥文を蒐講するは極まれり。先朝は凡そ雅楽は皆『安』を以て名とし、中興は一にこれを用いるに遵う。

原文每歲祀昊天上帝者凡四:正月上辛祈穀,孟夏雩祀,季秋饗明堂,冬至祀圜丘是也。圜鍾為宮,樂奏六成,與南郊同,乃用《景安之歌》、《帝臨嘉至》、《神矣錫羨之舞》。祀地祗者二:夏至祀皇地祗,樂奏八成,乃用《寧安之歌》、《儲靈錫慶》、《嚴恭將事之舞》;立冬後祀神州地祗,樂奏八成,歌《寧安》,與祀皇地祗同名而異曲,用《廣生儲祐》、《厚載凝福之舞》。孟春上辛祀感生帝,其歌《大安》,其樂舞則與歲祀昊天同。三年一袷及時饗太廟,九成之樂、《興安之歌》,與大禮前事朝饗同,而用《孝熙昭德》、《禮洽儲祥之舞》。太社、太稷用《寧安》,八成之樂,與歲祀地祗同。至於親製讚宣聖及七十二弟子,以廣崇儒右文之聲;親視學,行酌獻,定釋奠為大祀,用《凝安》,九成之樂。郡邑行事,則樂止三成。他如親饗先農、親祀高禖,則敞壇壝、奏樂舞,按習於同文館、法惠寺。親耕籍田,則據宣和舊制,陳設大樂,而引呈耒耜、護衛耕根車、儀仗鼓吹至以二千人為率。先農樂用《靜安》;高禖樂用《景安》;皇帝親行三推禮,樂用《乾安》。其補苴軼典、蒐講彌文者至矣。先朝凡雅樂皆以‘安’名,中興一遵用之。

南郊の楽は、その宮は圜鐘、明堂の楽は、その宮は夾鐘である。圜鐘は即ち夾鐘なり。夾鐘は房・心の気より生じ、実に天帝の堂たるを以て、故に天宮と為す。地祇を祭る時は、その宮は函鐘、即ち林鐘なり。林鐘は未の気より生じ、未は坤の位にして、而して天社・地神は実に東井・輿鬼の外に在るを以て、故に地宮と為す。宗廟を饗する時は、その宮に黄鐘を用いる。黄鐘は虚・危の気より生じ、虚・危は宗廟たるを以て、故に人宮と為す。この三者は、各おのその声類を以てこれを求む。然れども天宮は律の相次ぐを取る:圜鐘は陰声の第五、陰将に極まりて陽生ずるを以て、故に黄鐘を取って角と為す。黄鐘は陽声の首なり。太簇は陽声の第二、故に太簇を徴と為す。姑洗は陽声の第三、故に姑洗を羽と為す。天道は自然の秩序有り、乃ちその相次ぐ者を取って以て声と為す。地宮は律の相生を取る:函鐘は上りて太簇を生ず、故に太簇を角と為す。太簇は下りて南呂を生じ、南呂は上りて姑洗を生ず、故に南呂を徴と為し、姑洗を羽と為す。地道は資生して窮まらず、乃ちその相生する者を取って以て声と為す。人宮は律の相合を取る:黄鐘は子、大呂は丑、故に黄鐘を宮と為し、大呂を角と為すは、子の丑に合するなり。太簇は寅、応鐘は亥、故に太簇を徴と為し、応鐘を羽と為すは、寅の亥に合するなり。人道は合を以て相親しむ、乃ちその合する者を取って以て声と為す。周の天神を降し、地示を出だし、人鬼を礼する、楽の綱要は実に此に在り。独り商声を置いて用いざるは、蓋し商声は剛にして殺を主り、実に鬼神の畏るる所なるが故なり。楽を六成奏するは、即ち周の六変に倣い、八成・九成も亦これの如し。

原文南郊樂,其宮圜鍾;明堂樂,其宮夾鍾。圜鍾即夾鍾也。夾鍾生於房、心之氣,實為天帝之堂,故為天宮。祭地祇,其宮函鍾,即林鍾也。林鍾生於未之氣,未為坤位,而天社、地神實在東井、輿鬼之外,故為地宮。饗宗廟,其宮用黃鍾。黃鍾生於虛、危之氣,虛、危為宗廟,故為人宮。此三者,各用其聲類求之。然天宮取律之相次:圜鍾為陰聲第五,陰將極而陽生,故取黃鍾為角。黃鍾,陽聲之首也。太簇,陽聲之第二,故太簇為徵。姑洗,陽聲之第三,故姑洗為羽。天道有自然之秩序,乃取其相次者以為聲。地宮取律之相生:函鍾上生太簇,故太簇為角;太簇下生南呂,南呂上生姑洗,故南呂為徵,姑洗為羽。地道資生而不窮,乃取其相生者以為聲。人宮取律之相合:黃鍾子,大呂醜,故黃鍾為宮、大呂為角,子合醜也;太簇寅,應鍾亥,故太簇為徵、應鍾為羽,寅合亥也。人道以合而相親,乃取其合者以為聲。周之降天神、出地示、禮人鬼,樂之綱要實在於此。獨商聲置而不用,蓋商聲剛而主殺,實鬼神之所畏也。樂奏六成者,即仿周之六變,八成、九成亦如之。

文・武二舞は皆八佾を用いる。国初、始めて『崇徳』の舞を改めて『文徳』と曰い、『象成』の舞を改めて『武功』と曰う。その『発祥流慶』・『降真観徳』は則ち祥符の製にして、以て聖祖を薦献し、その『佑文化俗』・『威功睿徳』は則ち皇祐の製にして、以て明禋に奉ず。その帝を祀り、有司行事する時は、『帝臨嘉至』・『神矣錫羨』を以てし、及び太廟に献ずるには『孝熙昭徳』・『礼洽儲祥』を以てするは、則ち元豊に製す。その『広生儲祐』・『厚載凝福』を以て方沢を祀るは、則ち宣和に製す。紹興に至り皇地祇を祀るに、『儲霊錫慶』・『厳恭将事』に易え、而して宣和の製する舞を以て神州地祇を分祀し、転相緝熙し、楽舞浸く備わる。中興に至り賡続裁定し、実にその成を集む。中祀以下は、多く楽有りて舞無く、則ち『礼』に「凡そ小祭祀は舞を興さず」の義に在り。

原文文、武二舞皆用八佾。國初,始改《崇德之舞》曰《文德》,改《象成》之舞曰《武功》。其《發祥流慶》、《降真觀德》則祥符所製,以薦獻聖祖;其《佑文化俗》、《威功睿德》則皇祐所製,以奉明禋。其祀帝,有司行事,以《帝臨嘉至》、《神矣錫羨》,與夫獻太廟以《孝熙昭德》、《禮洽儲祥》,則製於元豐。其《廣生儲祐》、《厚載凝福》以祀方澤,則製於宣和。至紹興祀皇地祇,易以《儲靈錫慶》、《嚴恭將事》,而用宣和所製舞以分祀神州地祗,轉相緝熙,樂舞浸備。至中興而賡續裁定,實集其成。中祀而下,多有樂而無舞,則在《禮》“凡小祭祀不興舞”之義也。

紹興三十一年、詔有り:教坊は日下蠲罷し、各おの自便を令す。蓋し建炎以来、天を畏れ祖を敬い、祀事に虔恭にして、礼楽は煥然として一新せりと雖も、然れどもその始終常に天下を以て憂いと為し、未だ嘗て位を以て楽しまず、称すべきこと足る有り。

原文紹興三十一年,有詔:教坊日下蠲罷,各令自便。蓋建炎以來,畏天敬祖,虔恭祀事,雖禮樂煥然一新,然其始終常以天下為憂,而未嘗以位為樂,有足稱者。

孝宗が初めて大位を践祚したとき、紫宸殿に班を立て仗を設け、雅楽を整えて陳列した。礼官がまもなく車駕が親しく朝饗を行い、登歌・金玉の大楽及び彩絵の宮架・楽舞を用いるよう請うたが、仗内の鼓吹は欽宗の喪制により用いなかった。安穆皇后が廟に祔せられるに及んで、礼部侍郎黄中がまず言上した、「国朝の故事によれば、神主が升祔するときは、鼓吹を用いて導引し、太廟に至ってから、楽舞を用いて行事を行う。宗廟の薦享には楽を用いることができるが、鼓吹を道路上で用いるのは、心情的に安んじがたい。備えはするが作奏しないよう請う」。続いて給事中・舎人に詳議を下すと、彼らは言った、「宗廟を薦享するのは、祖宗のためである。故に大が小を包むならば、別廟であっても楽を用いることを嫌わない。今、祔廟の礼は安穆のために行われるのであり、どうして薦享と同日に語ることができようか。将来の祔礼において、祖宗の諸室を謁するときは、楽舞を用いるべきである。別廟に奉安するに至っては、停止して用いないのがよい。前殿で楽を用いるのは、欽宗の故に祖宗の礼を廃さないためであり、別廟で楽を停めるのは、安穆が欽宗の喪礼のために屈するためである。このようにすれば、礼に順い、義に允当する」。そこでその請いを許可した。まもなく右正言周操が上言した、「祖宗の前殿は、尊ぶべきものに二つはなく、楽を用いることについて、再び疑いの余地はない。しかし、それを享廟の行礼の日に用いるのはよいが、今日の祔礼に用いるのはよくない。祔礼は安穆のために設けられるのであり、その用いる楽は安穆のために用いられるのである。別廟で停止するとは言え、祔後に楽を用いるという名目はなお残っている。前後殿の楽をともに作奏しない方が、議論の余地がないのとどちらがよいだろうか」。詔してこれに従った。

原文孝宗初踐大位,立班設仗於紫宸殿,備陳雅樂。禮官尋請車駕親行朝饗,用登歌、金玉大樂及彩繪宮架、樂舞;仗內鼓吹,以欽宗喪製不用。迨安穆皇后祔廟,禮部侍郎黃中首言:“國朝故事,神主升祔,係用鼓吹導引,前至太廟,乃用樂舞行事。宗廟薦享雖可用樂,鼓吹施於道路,情所未安,請備而不作。”續下給、舍詳議,謂:“薦享宗廟,為祖宗也,故以大包小,則別廟不嫌於用樂。今祔廟之禮為安穆而行,豈可與薦享同日語?將來祔禮,謁祖宗諸室,當用樂舞;至別廟奉安,宜停而不用。蓋用樂於前殿,是不以欽宗而廢祖宗之禮;停樂於別廟,是安穆為欽宗喪禮而屈也。如此,則於禮順,於義允。”遂俞其請。既而右正言周操上言:“祖宗前殿,尊無二上,其於用樂,無復有嫌。然用之享廟行禮之日則可,而用於今日之祔則不可。蓋祔禮為安穆而設,則其所用樂是為安穆而用,雖曰停於別廟,而為祔後用樂之名猶在也。孰若前後殿樂俱不作為無可議哉?”詔從之。

隆興元年の天申節に、群臣を率いて徳寿宮に赴き上寿したが、議者は欽宗の喪服が除かれたので、楽を挙行すべきであるとした。事が礼曹に下ると、黄中が再び奏上した、「臣が君に仕えるのは、子が父に仕えるのと同じである。《春秋》には、賊が討たれなければ葬を書かず、臣子の責務を明らかにしている。ましてや欽宗は実は未だ葬られておらず、どうして急いで楽を作すことができようか」。事はそこで止んだ。

原文隆興元年天申節,率群臣詣德壽宮上壽,議者以欽宗服除,當舉樂。事下禮曹,黃中復奏曰:“臣事君,猶子事父也。《春秋》,賊未討,不書葬,以明臣子之責。況欽宗實未葬,而可遽作樂乎?”事遂寢。

乾道に改元し、初めて天地を郊祀した。太常洪適が奏上した、「聖上が践祚され、乾徳を尊ぶことに務め、郊丘で礼を講じ、専ら誠意をもって神明と交わろうとされている。古今の楽は相沿襲せず、金石八音は俗耳に入らず、国中でその芸に熟達する者は少なく、聴けば倦み眠くなるが、ただ古楽が嘗て郊廟に用いられただけである。昔、竽工・鼓員が経法に応じず、孔光・何武が嘗て漢代に奏上して罷めたことは、前史がこれを是としている。今、楽工の数は甚だ多く、その鹵簿の六引・前後の鼓吹については、有司が既に奏上し、詔により三分の一を減じたが、なお習練に三月を超える日数を要している。遊手の徒を駆り立てて金を振り石を撃たせて、どうして音律に尽く中て、鳳を儀らせ獣を舞わせることができようか。しかも日々に給する虚耗は、総計して緡銭で巨万に近い。もし裁酌に従い、一月の教習を用いれば、自ずから声に応じ節に合い、事を欠くことはないであろう」。そこで詔して、郊祀の楽工に一月の習練を命じた。

原文乾道改元,始郊見天地。太常洪適奏:“聖上踐阼,務崇乾德,郊丘講禮,專以誠意交於神明。竊謂古今不相沿樂,金石八音不入俗耳,通國鮮習其藝,而聽之則倦且寐,獨以古樂嚐用之郊廟爾。昔者,竽工、鼓員不應經法,孔光、何武嚐奏罷於漢代,前史是之。今樂工為數甚夥,其鹵簿六引、前後鼓吹,有司已奏明,詔三分減一,惟是肄習尚逾三月之淹。夫驅遊手之人振金擊石,安能盡中音律,使鳳儀而獸舞?而日給虛耗,總為緡錢近二钜萬。若從裁酌,用一月教習,自可應聲合節,不至闕事。”於是詔郊祀樂工,令肄習一月。

太常寺がまた言上した、「郊祀に用いるべき節奏楽工・登歌宮架楽工・引舞舞工は、社稷及び別廟に分詣し、並びに番を輪けて応奉し、更に添置しない」。まもなく礼官が壇下の宮架二百七人を裁減し、十分の一を省き、琴二十人・瑟十二人はそれぞれ半減し、笙・簫・笛は省くべき者十八人、篪・塤は省くべき者十人とした。分詣して祠に給する者は凡そ百十四人であったが、八十人だけを用いた。鐘・磬は凡そ四十八架であったが、三十二人だけを設け、その宮架の鐘・磬は旧に依った。排殿の閑慢な楽色は人数を量り省き、悉く章の如く報告した。

原文太常寺復言:“郊祀合用節奏樂工、登歌宮架樂工、引舞舞工,其分詣社稷及別廟,並番輪應奉,更不添置。”尋以禮官裁減壇下宮架二百七人,省十之一;琴二十人,瑟十二人,各省其半;笙、簫、笛可省者十有八人;篪、塤可省者十人。其分詣給祠凡一百十四,止用八十人。鍾、磬凡四十八架,止設三十有二人,其宮架鍾、磬仍舊。排殿閑慢樂色量省人數,悉報如章。

礼部郎官蕭國梁がまた言上した、「礼を議する者は嘗て紹興の指揮を援用し、時饗の亜献が既に太室に入れば、即ち終献の行事に引き継ぎ、有司の侍祠に便であり、跛倚するに至るのを免れるが、その流れは簡略に至るであろう。宗廟で用いるのを郊饗に用いるのは特に宜しくない。献有れば必ず楽有り、爵を卒えて後に楽闋く。今、亜献・終献の楽舞は同じであるが、その作には始めがあり、その成には終わりがあり、乱すことはできない。もし相継いで行事を行わせ、酌献の間に雑然とさせれば、その楽舞を行う者は、亜献の楽か、終献の楽か分からなくなる」。詔してその請いに従い訂定させた。

原文禮部郎官蕭國梁又言:“議禮者嚐援紹興指揮,時饗亞獻既入太室,即引終獻行事,雖便於有司侍祠,免至跛倚,而其流將至於簡。宗廟用之郊饗尤為非宜。蓋有獻必有樂,卒爵而後樂闋。今亞、終獻樂舞雖同,而其作有始,其成有終,不可亂也。若使之相繼行事,雜然於酌獻之間,則其為樂舞者,不知亞獻之樂耶,終獻之樂耶?”詔從其請訂定。

淳熙六年、初めて明堂の禋礼を挙行し、五使に命じて雅楽並びに厳更・警場を貢院で按閲させ、詔を奉じて楽器を堂上・堂下の儀制に依り排設し、五使及び応赴する官僚に旁らに立って按閲を観させ、なお往来して察視することを聴させた。時に大礼使趙雄が言った、「前例では、楽を閲するに皇帝が飲福位に詣でる一曲に至れば、即ち五使以下は皆立ち、毎に奠玉幣及び酌献等の楽を閲するときは、皆坐したまま自若としていたが、礼に尽くしておらず、前例を襲用すべきではない」。故にこの詔があった。まもなく礼官が討論し、紹興以来、凡そ五度明堂を饗し、礼畢して輦を還すまで、並びに未だ楽を用いたことがなく、即ち作楽の節次を考うるに由なし。乃ち礼例を参酌し、成礼して賀を称し及び赦を肆するに楽を用いて駕を導くことは、並びに皇祐の大饗の典故を用いて施行した。その南郊・明堂の儀注は、実に紹興の成憲を述べ、また有司に命じて兼ねて元豊・大観の旧典を酌み、後世の法程とした。その楽を用い作止する節は、粲然として観るべきものであった。

原文淳熙六年,始舉明堂禋禮,命五使按雅樂並嚴更、警場於貢院,奉詔將樂器依堂上、堂下儀製排設,五使及應赴官僚從旁立觀按閱,仍聽往來察視。時大禮使趙雄言:“前例,閱樂至皇帝詣飲福位一曲,即五使以下皆立,而每閱奠玉幣及酌獻等樂,皆坐自如,於禮未盡,不當襲用前例。”故有是詔。既而禮官討論,自紹興以來,凡五饗明堂,禮畢還輦,並未經用樂,即無作樂節次可考。乃參酌禮例,成禮稱賀及肆赦用樂導駕,並用皇祐大饗典故施行。其南郊、明堂儀注,實述紹興成憲,又命有司兼酌元豐、大觀舊典,為後世法程。其用樂作止之節,粲然可觀:

前三日、太常は壇上に登歌楽を設け、稍南にして北向き、壇南の内壝の外に宮架を設け、酂綴の間に舞表を立てる(明堂の登歌は堂上の前楹の間に設け、宮架は庭中に設く)。前一日、協律郎の位二つを設ける:一つは壇上の楽虡の西北に、一つは宮架の西北に。押楽官の位二つ:太常丞は登歌楽虡の北に、太常卿は宮架の北に。省牲の夕べ、押楽の太常卿及び丞が入り楽架を行い、協律郎が楽器を展視する。

原文前三日,太常設登歌樂於壇上,稍南,北向,設宮架於壇南內壝之外,立舞表於酂綴之間(明堂登歌設於堂上前楹間,宮架設於庭中)。前一日,設協律郎位二:一於壇上樂虡西北,一於宮架西北。押樂官位二:太常丞於登歌樂虡北,太常卿於宮架北。省牲之夕,押樂太常卿及丞入行樂架,協律郎展視樂器。

祀の日、楽正が工人・二舞を帥いて以て次に入る。皇帝が輿に乗り、青城の斎殿より出で、楽正が景鐘を撞き、輿を降りて大次に入り、景鐘止む(明堂は景鐘を用いず)。大裘袞冕を服し、正門より入り、協律郎が跪き、俯伏し、麾を挙げ、興く。工鼓し、宮架《乾安の楽》作し、凡そ升降・行止に皆これを奏す(明堂は《儀安》を奏す)。午階の版位に至り、西向きに立ち、協律郎が麾を偃し戛し、楽止む(明堂は阼階の下に至り、楽止む)。凡そ楽は、皆協律郎が麾を挙げて後に作し、麾を偃して後に止む。礼儀使が行事を請うて奏し、宮架《景安の楽》作す(明堂は《誠安》を作す)。

原文祀之日,樂正帥工人、二舞以次入。皇帝乘輿,自青城齋殿出,樂正撞景鍾,降輿入大次,景鍾止(明堂不用景鍾)。服大裘袞冕,自正門入,協律郎跪,俯伏,舉麾,興。工鼓,宮架《乾安之樂》作,凡升降、行止皆奏之(明堂奏《儀安》)。至午階版位,西向立,協律郎偃麾戛,樂止(明堂至阼階下,樂止)。凡樂,皆協律郎舉麾而後作,偃麾而後止。禮儀使奏請行事,宮架作《景安之樂》。(明堂作《誠安》。)

文舞が進み、左丞相らが昇壇し、神位の前に詣でると、楽が奏され、六成で止む。皇帝は大圭を執って再拝し、内侍が御用の匜と帨を進めると、宮架の楽が奏され、手を拭い終わると、楽は止む。礼儀使が先導して壇に昇ると、宮架の楽が奏され、壇下に至ると、楽は止む。午階より昇り(明堂では並びに阼階より昇る)、登歌の楽が奏され、壇上に至ると、楽は止む。登歌『嘉安の楽』が奏される(明堂では堂上に至り『鎮安』を奏す)。鎮圭を奠め、玉幣を上帝に奠めると、楽は止む。皇地祇、太祖、太宗の神位の前に詣で、上記の儀式と同様に行う。礼儀使が導いて版位に還ると、登歌の楽が奏され、階を降りると、楽は止む(明堂では阼階より降る)。宮架の楽が奏され、版位に至ると、楽は止む。奉俎官が正門に入ると、宮架『豊安の楽』が奏される(明堂では『禧安』を奏す)。跪き、俎を奠め終わると、楽は止む。内侍が御用の匜と帨を進めると、宮架の楽が奏され、手を拭い爵を拭うと、楽は止む。礼儀使が導いて壇に昇ると、宮架の楽が奏され、午階に至ると、楽は止む。午階より昇り、登歌の楽が奏され、壇上に至ると、楽は止む(明堂では壇に昇らず)。登歌『禧安の楽』が奏され(明堂では『慶安』を奏す)、神位の前に詣で、三たび酒を祭り、しばらく立つと、楽は止む。冊を読み、皇帝は再拝する。神位に詣でるごとに皆これに同じ。礼儀使が導いて版位に還ると、登歌の楽が奏され、階を降りると、楽は止む。宮架の楽が奏され、版位に至ると、楽は止む。還って小次に入るよう奏請すると、宮架の楽が奏され、小次に入ると、楽は止む。

原文文舞進,左丞相等升,詣神位前,樂作,六成止。皇帝執大圭再拜,內侍進禦匜帨,宮架樂作,帨手畢,樂止。禮儀使前導升壇,宮架樂作,至壇下,樂止。升自午階,(明堂並升自阼階。)登歌樂作,至壇上,樂止。登歌《嘉安之樂》作(明堂至堂上作《鎮安》)。奠鎮圭、奠玉幣於上帝,樂止。詣皇地祇、太祖、太宗神位前,如上儀。禮儀使導還版位,登歌樂作,降階,樂止(明堂降自阼階)。宮架樂作,至版位,樂止。奉俎官入正門,宮架《豐安之樂》作(明堂作《禧安》)。跪,奠俎訖,樂止。內侍以禦匜帨進,宮架樂作,帨手拭爵,樂止。禮儀使導升壇,宮架樂作,至午階,樂止。升自午階,登歌樂作,至壇上,樂止(明堂無升壇)。登歌《禧安之樂》作(明堂作《慶安》),詣神位前,三祭酒,少立,樂止。讀冊,皇帝再拜。每詣神位並如之。禮儀使導還版位,登歌樂作,降階,樂止。宮架樂作,至版位,樂止。奏請還小次,宮架樂作,入小次,樂止。

武舞が進み、宮架『正安の楽』が奏される(明堂では『穆安』を奏す)。舞者が立ち定まると、楽は止む。亜献が昇り、酌尊所に詣で、西に向かって立つと、宮架『正安の楽』が奏される(明堂では皇太子が亜献となり、『穆安』を奏す)。三たび酒を祭り、順次酌献して上記の儀式と同様に行い、楽は止む。終献もまたこれに同じ。飲福の位に詣でるよう奏請すると、宮架の楽が奏され、午階に至ると、楽は止む。午階より昇り、登歌の楽が奏され、位に将到すると、楽は止む。登歌『禧安の楽』が奏される(明堂では『胙安』を奏す)。福酒を飲み、礼が終わると、楽は止む。礼儀使が導いて版位に還ると、登歌の楽が奏され、階を降りると、楽は止む。宮架の楽が奏され、版位に至ると、楽は止む(明堂では階を降りず)。豆を徹すると、登歌『熙安の楽』が奏される(明堂では『歆安』を奏す)。神を送ると、宮架『景安の楽』が奏され、一成で止む(明堂では『誠安』を奏す)。望燎・望瘞の位に詣でると、宮架の楽が奏され、位に至ると、楽は止む(明堂には燎あり瘞なし)。燎・瘞が終わり、大次に還ると、宮架『乾安の楽』が奏される(明堂では『憩安』を奏す)。大次に至ると、楽は止む。皇帝は大輦に乗って大次を出ると、楽正が景鍾を撞き(明堂では景鍾を用いず)、鼓吹が振作し、輦を降りて斎殿に還ると、景鍾は止む。百官・宗室が端誠殿で班列を整えて賀し、聖駕の進発を奏請すると、軍楽が導引し、麗正門に至り、大楽正令が『采茨の楽』を奏するよう命じ、門に入ると、楽は止む(明堂では紫宸殿で賀し、『采茨』を奏さず)。

原文武舞進,宮架《正安之樂》作(明堂作《穆安》)。舞者立定,樂止。亞獻,升,詣酌尊所,西向立,宮架《正安之樂》作(明堂皇太子為亞獻,作《穆安》)。三祭酒,以次酌獻如上儀,樂止。終獻亦如之。奏請詣飲福位,宮架樂作,至午階,樂止。升自午階,登歌樂作,將至位,樂止。登歌《禧安之樂》作(明堂作《胙安》)。飲福,禮畢,樂止。禮儀使導還版位,登歌樂作,降階,樂止。宮架樂作,至版位,樂止(明堂不降階)。徹豆,登歌《熙安之樂》作(明堂作《歆安》)。送神,宮架《景安之樂》作,一成止(明堂作《誠安》)。詣望燎、望瘞位,宮架樂作,至位,樂止(明堂有燎無瘞)。燎、瘞畢,還大次,宮架《乾安之樂》作(明堂作《憩安》)。至大次,樂止。皇帝乘大輦出大次,樂正撞景鍾(明堂不用景鍾),鼓吹振作,降輦還齋殿,景鍾止。百官、宗室班賀於端誠殿,奏請聖駕進發,軍樂導引,至麗正門,大樂正令奏《采茨之樂》,入門,樂止(明堂就賀於紫宸殿,不奏《采茨》)。

かくて麗正門に臨み赦を肆う。前期に、太常は門の前に宮架の楽を設け、その西に鉦鼓を設ける。皇帝が門に昇り御閣に至ると、大楽正令が黄鍾の鍾を撞き、右の五鍾皆応じ、『乾安の楽』が奏され、御坐に昇ると、楽は止む。金雞が立てられ、太常が鼓を撃つと、囚人が集まり、鼓声が止む。制が宣べ終わると、大楽正令が蕤賓の鍾を撞き、左の五鍾皆応じ、皇帝が御幄に還ると、楽は止む。輦に乗って門を降り、楽を奏し、導引して文徳殿に至り、輦を降りると、楽は止む。

原文乃禦麗正門肆赦。前期,太常設宮架樂於門之前,設鉦鼓於其西,皇帝升門至禦閣,大樂正令撞黃鍾之鍾,右五鍾皆應,《乾安之樂》作,升御坐,樂止。金雞立,太常擊鼓,囚集,鼓聲止。宣製畢,大樂正令撞蕤賓之鍾,左五鍾皆應,皇帝還禦幄,樂止。乘輦降門,作樂,導引至文德殿,降輦,樂止。

大礼に用いる楽を按ずるに、凡そ三十四色あり:歌色一、笛色二、塤色三、篪色四、笙色五、簫色六、編鍾七、編磬八、鎛鍾九、特磬十、琴十一、瑟十二、柷敔十三、搏拊十四、晉鼓十五、建鼓十六、鞞鼓・応鼓十七、雷鼓(天神を祀るに用いる)十八、雷鞀鼓(同上)十九、霊鼓(地祇を祭るに用いる)二十、霊鞀鼓(同上)二十一、露鼓(宗廟を饗するに用いる)二十二、露鞀鼓(同上)二十三、雅鼓二十四、相鼓二十五、単鞀鼓二十六、旌纛二十七、金鉦二十八、金錞二十九、単鐸三十、双鐸三十一、鐃鐸三十二、奏坐三十三、麾幡三十四。これ国楽の用いられること特に大なるもの、故に篇に具載す。

原文按大禮用樂,凡三十有四色:歌色一,笛色二,塤色三,篪色四,笙色五,簫色六,編鍾七,編磬八,鎛鍾九,特磬十,琴十一,瑟十二,、十三,搏拊十四,晉鼓十五,建鼓十六,鞞、應鼓十七,雷鼓(祀天神用)。十八,雷鞀鼓(同上)一十九,靈鼓(祭地祗用)二十,靈鞀鼓(同上)二十一,露鼓(饗宗廟用)二十二,露鞀鼓(同上)二十三,雅鼓二十四,相鼓二十五,單鞀鼓二十六,旌纛二十七,金鉦二十八,金錞二十九,單鐸三十,雙鐸三十一,鐃鐸三十二,奏坐三十三,麾幡三十四。此國樂之用尤大者,故具載於篇。

初め、紹興年間に皇儲を崇建し、有司に礼冊命を備えるよう詔したが、然れども欽宗の喪中にあり、楽を製するに及ばず。乾道初元、皇太子を立てることを詔し、礼部・太常寺に旧礼を討論して奏聞せしむ。冊を受くる日、黄麾仗を大慶殿に陳べ、宮架の楽を殿庭に設け、皇帝が御坐に昇ると、『乾安の楽』を奏し、昇るには黄鍾宮を用い、降りるには蕤賓宮を用いる。皇太子が殿門に入ると、『明安の楽』を奏し、冊を受けて殿門を出るもまたこれに同じく、皆応鍾宮を用いる。七年に至り、応鍾を易えて姑洗を以て奏す。古より、太子生るれば則ち太師管を吹きてその声を度り、協する律を観る。有虞は楽を典として胄子を教え、天子の元子より皆楽を以て教えと為し、以てその性情の正を養い、邪穢を蕩滌し、查滓を消融して道德に和順せしむ。則ち金石の雅奏を陳べ、以て元良を重んず。冊拝は宜しく古誼に倣い、式に盛礼を昭らすべし。唐の季世より、儲貳定まること罕にして、国家益々多故にして礼廃れ楽闕く。建隆に楽を定むるに至り、皇太子の出入に『良安』を奏すと詔すも、至道に始めて皇太子を冊し、有司言う、「太子冊を受くるは、宜しく『正安の楽』を奏すべし」と。百年の曠典、是に至りて行われ、中外胥に悦ぶ。天禧の冊命に至り、礼儀院復た奏して『正安の楽』を改む。乾道の『明安』を用いるは、実に天禧を祖述し、而して姑洗を宮と為すは、則ち唐の東宮軒垂楽を奏する旧貫に則るという。

原文初,紹興崇建皇儲,詔有司備禮冊命,然在欽宗恤製,未及製樂。乾道初元,詔立皇太子,命禮部、太常寺討論舊禮以聞。受冊日,陳黃麾仗於大慶殿,設宮架樂於殿庭,皇帝升御坐,作《乾安之樂》,升,用黃鍾宮,降,用蕤賓宮。皇太子入殿門,作《明安之樂》,受冊出殿門亦如之,皆用應鍾宮。至七年,易應鍾而奏以姑洗。古者,太子生則太師吹管以度其聲,觀所協之律。有虞典樂教胄子,自天子之元子皆以樂為教,所以養其性情之正,蕩滌邪穢,消融查滓而和順於道德,則陳金石雅奏,以重元良。冊拜宜仿古誼,式昭盛禮。由唐季世,儲貳罕定,國家益多故而禮廢樂闕。至於建隆定樂,雖詔皇太子出入奏《良安》,至道始冊皇太子,有司言:“太子受冊,宜奏《正安之樂》。百年曠典,至是舉行,中外胥悅。至天禧冊命,禮儀院復奏改《正安之樂》。乾道之用《明安》,實祖述天禧,而以姑洗為宮,則唐東宮軒垂奏樂舊貫雲。

孝宗は素より恭儉にして、毎たび賀正使の宴に赴き楽を作すに、多く上辛の斎禁に遇う。有司は治平の楽を用いる典故を条治して進む。及び生辰使の上寿に、親郊の散斎に適う。枢密副使陳俊卿、礼を以て北使に諭し、楽を用いざるを請う。已むを得ずば、則ち上寿の日に楽を設け、而して旨を宣してこれを罷め、及び使人を宴するに、然る後にこれを用い、庶幾くは天に事うるの誠を存せんと。上その奏を可とし、且つ曰く、「宴殿にては御酒を進むるも、亦た用いるなかれ」と。宰相葉顒・魏杞方に楽を用いるの議を主とし、楽を紫宸に奏するは、乃ち使客の礼なりと為す。俊卿独り奏して曰く、「適た詔旨を奉ずるに、仰ぎ見るに聖学高明、古の帝王を過ぐること遠し。彼初め必ずしも楽を用いんと欲せず、而我れ乃ち風を望み意を希い、自ら失礼を為して以てこれに徇えば、他日軽侮、何ぞ至らざらん」と。尋いで詔す、「垂拱殿の上寿は楽を止め、正殿は猶お北使の為に権りに用う」と。後三年、賀使朝辞すべく、復た散斎に値う。上乃ち館伴に諭して楽を去るの決意及びこれを処する所以の議を以てし、もし使人必ず楽を作すを言と為さば、則ち茶酒を移して駅に就き管領せしむ。遂に更に楽を用いざるの詔あり。

原文孝宗素恭儉,每賀正使赴宴作樂,多遇上辛齋禁,有司條治平用樂典故以進。及生辰使上壽,適親郊散齋,樞密副使陳俊卿請以禮諭北使,毋用樂。不得已,則上壽之日設樂,而宣旨罷之,及宴使人,然後用之,庶存事天之誠。上可其奏,且曰:“宴殿雖進禦酒,亦勿用。”宰相葉顒、魏杞方主用樂之議,以為樂奏於紫宸,乃使客之禮。俊卿獨奏曰:“適奉詔旨,仰見聖學高明,過古帝王遠甚。彼初未嘗必欲用樂,而我乃望風希意,自為失禮以徇之,他日輕侮,何所不至?”尋詔:“垂拱上壽止樂,正殿猶為北使權用。”後三年,賀使當朝辭,復值散齋,上乃諭館伴以決意去樂及議所以處之者,如使人必以作樂為言,則移茶酒就驛管領,遂有更不用樂之詔。

その後、雨の降り具合が時期に遅れたため、天地・宗廟に分けて祈禱し、雩祀を精しく修めた。礼に照らすと、大雩には帝が盛楽を用いる。しかし唐の開元の祈雨雩壇は、これを特祀と称し、楽を以て薦めなかった。そこで太常朱時敏が言上した、「『通典』には雩礼に舞僮を用いて『雲漢』を歌うと載せており、晋の蔡謨の議には『『雲漢』の詩は宣王の時に興り、これを歌う者はその修徳禳災、陰陽を和するの義を取る』とある。舞僮六十四人を用い、玄衣を着せ、『雲漢』の詩を歌わせることを乞う」。詔して直ちにこれに従った。

原文其後因雨澤愆期,分禱天地、宗廟,精修雩祀。按禮,大雩,帝用盛樂。而唐開元祈雨雩壇,謂之特祀,乃不以樂薦。於是太常朱時敏言:“《通典》載雩禮用舞僮歌《雲漢》,晉蔡謨議謂:‘《雲漢》之詩,興於宣王,歌之者取其修德禳災,以和陰陽之義。’乞用舞僮六十四人,衣玄衣,歌《雲漢》之詩。”詔亟從之。

淳熙二年、上皇に尊号を加えるため、立春の日に慶寿礼を行うよう詔した。有司がまもなく言上した、「乾道の尊号加増の際には、宮架三十六を用い、楽工は合わせて百十三人であった。今度の加号慶寿は、事体が特に重いので、大礼の例に合わせて、四十八架を用い、楽正・楽工は百八十八人を用いるべきであり、そうしてこそ礼楽が明らかに備わるであろう」。また、太常寺と貢院に分かれて前五日に教習させるよう命じた。前もって、太常が大慶殿に宮架の楽を設け、協律郎の位置は宮架の西北、東向き;押楽太常卿の位置は宮架の北、北向き;皇太子及び文武百官は、皆宮架の北に位置し、東西相対した。また、徳寿殿門外に宮架を設け、協律郎・太常卿の位置も同様とした。冊宝を発する日に至り、儀仗・鼓吹は大慶殿門に列し、楽正・師二人が順に入った。賛者が押楽太常卿・協律郎を導いて入り、位置に就き、中厳外辦を奏し終わると、礼儀使が皇帝に冊宝発送の礼を恭しく行うよう奏請し、太常卿が冊宝を導き、『正安之楽』が奏された。中書令が宝を奉じ、侍中が冊を奉じて進行し、『礼安之楽』が奏された。宝冊を発し終わると、鼓吹が振るい起こり、儀衛らが順に従って行った。皇帝は祥曦殿から輦に乗り徳寿宮に至り礼を行い、冊宝が殿門に入ると、『正安之楽』が奏された。上皇が宮を出ると、『乾安之楽』が奏され;御座に昇ると、冊宝を奉上し、『聖安之楽』が奏され;御座を降りると、『乾安』の楽が奏された。太后の冊宝進行には『正安』を用い;閤を出て座に昇るには『坤安』を用い;座を降りて閤に入るには、再び『坤安之楽』が奏された。礼部尚書趙雄らが言上した、「国朝の旧制では、車駕が出る時、楽を奏する。今や慶典の行われることは、古来未だかつてなく、礼儀が詳しく備わっていなければ、内外の歓愉の心に副うことはできない。慶寿礼行う日に、聖駕の往還ともに楽及び簪花を用いることを請う」。詔してこれに従った。まもなく太常がまた言上した、「郊禋の礼が成ったので、慈闈に胙を進め、上寿飲酒の礼を行うべきである。すべての上寿に合わせて仙楼を整える際には依然として楽を用い、楽人は天申節の礼例に照らす」。凡そ上(孝宗)が徳寿宮に詣で、あるいは上皇を恭しく請いて遊幸し、あるいは南内に至り、あるいは上皇が命じて同宴遊し、あるいは時節の賞適・過宮して侍宴し、あるいは聖節に楽を張り・花を珥し・玉卮を奉じて上皇の寿を祝うことは、率いていつも終日従容とし、養老の至楽を隆重にし、情文を極めて備えた。

原文淳熙二年,詔以上皇加上尊號,立春日行慶壽禮。有司尋言:“乾道加尊號,用宮架三十六,樂工共一百一十三人。今來加號慶壽,事體尤重,合依大禮例,用四十八架,樂正、樂工用一百八十八人,庶得禮樂明備。”仍令分就太常寺、貢院前五日教習。前期,太常設宮架之樂於大慶殿,協律郎位於宮架西北,東向;押樂太常卿位於宮架之北,北向;皇太子及文武百僚,並位於宮架之北,東西相向,又設宮架於德壽殿門外,協律郎、太常卿位如之。及發冊寶日,儀仗、鼓吹列於大慶殿門,樂正、師二人以次入。讚者引押樂太常卿、協律郎入,就位,奏中嚴外辦訖,禮儀使奏請皇帝恭行發冊寶之禮,太常卿導冊寶,《正安之樂》作。中書令奉寶、侍中奉冊進行,《禮安之樂》作。發寶冊畢,鼓吹振作,儀衛等以次從行。皇帝自祥曦殿輦至德壽宮行禮,冊寶入殿門,作《正安之樂》。上皇出宮,作《乾安之樂》;升御坐,奉上冊寶,作《聖安之樂》;降御坐,作《乾安》之樂。太后冊寶進行,用《正安》;出閣升坐,用《坤安》;降坐入閣,復作《坤安之樂》。禮部尚書趙雄等言:“國朝舊制,車駕出,奏樂。今慶典之行,亙古未有,自非禮儀祥備,無以副中外歡愉之心。請慶壽行禮日,聖駕往還並用樂及簪花。”詔從之。既而太常又言:“郊禋禮成,宜進胙慈闈,行上壽飲酒禮。所有上壽合辦仙樓仍用樂,某樂人照天申節禮例。”凡上詣德壽宮,或恭請上皇遊幸,或至南內,或上皇命同宴遊,或時序賞適、過宮侍宴,或聖節張樂、珥花、奉玉卮為上皇壽,率從容竟日,隆重養至樂,備極情文。

及び高宗の喪に際し、孝宗は三年の喪制を力行し、有司は別に楽禁を設けたわけではなかったが、喪期を過ぎても楽を聞くに忍びなかった。金の使者が会慶節に来賀し、旧典を考証すると、使人を引対して上寿を許すこともあるが、ただ楽を輟めて挙げない。孝宗は礼典によって断じ、その書幣を退け、館に就いて遣わした。翌年再び至ると、初めて紹興の故事を用い、宴を館に移して楽を作さなかった。高宗が升祔すると、太常が言上した、「祔饗の礼を行うに当たり、登歌・宮架・楽舞を設け、晨祼饋食には、その楽の用い方は朝饗の制の如くすべきである」。ここにおいて、高宗廟に初めて『大徳之楽』舞を奏した。礼部が言上した、「今や虞祔を行うに、純粋に古礼を用い、神主を導引するには、自ずから衛仗及び太常鼓吹があり、しかるに道・釈を雑用することは、礼に於いて経に合わない。これを蠲免することを乞う」。詔してその請いに従った。

原文及高宗之喪,孝宗力行三年之製,有司雖未嘗別設樂禁,而過期不忍聞樂。金使以會慶節來賀,稽之舊典,引對使人或許上壽,惟輟樂不舉。孝宗斷以禮典,卻其書幣,就館遣行。次年再至,始用紹興故事,移宴於館而不作樂。高宗升祔,太常言:“祔饗行禮,當設登歌、宮架、樂舞,晨祼饋食,其用樂如朝饗之製。”於是,高宗廟昉奏《大德之樂》舞。禮部言:“今虞祔之行,純用古禮,導引神主,自有衛仗及太常鼓吹,而雜用道、釋,於禮非經,乞行蠲免。”詔從其請。

まもなく大享明堂が行われ、起居舎人鄭僑が奏上した、「祭祀は事において大であり、礼楽は用において急である。しかし先王はこれに処して、常と変との違いがあり、各々その礼に当たることを務めただけである。昔、舜が堯の喪に居て、三載遏密した。後世は既に漢文の以日易月の文を用い、また漢儒の越紼行事の制を用い、循習すること既に久しく、礼を用いるだけでなくまた楽を用いるに至り、古よりますます遠ざかった。聖主が躬で通喪を服し、有司が大礼を挙行するよう請うたので、意を屈してこれに従った。しかも大饗の礼は天地を祭るものであり、聖主が身を以て親しくこれを行い、礼を行い楽を作することは、廃すべからざるようである。その他の官の分献及び前もって奏告する例で楽を用いるものは、権宜に蠲寝させることも、また良くはないか。今もし明堂に因って損益し裁定すれば、将来の法とするに足りるであろう」。そこで太常に討論を命じ、初めて詔して、降神・奠玉幣・奉俎・酌献・換舞・徹豆・送神は曲礼に依って楽を作するほか、すべての皇帝及び献官の盥洗・登降等の楽は皆備えながら作さないこととした。

原文即而大享明堂,起居舍人鄭僑奏:“祭祀於事為大,禮樂於用為急,然先王處此,有常變之不同,各務當其禮而已。昔舜居堯喪,三載遏密,後世既用漢文以日易月之文,又用漢儒越紼行事之製,循習既久,不特用禮而又用樂,去古愈遠。聖主躬服通喪,有司請舉大禮,屈意從之。且大饗之禮,祭天地也,聖主身親行之,行禮作樂,似不可廢。其他官分獻與夫先期奏告例用樂者,權宜蠲寢,不亦可乎?今若因明堂損益而裁定之,亦足為將來法。”乃命太常討論,始詔除降神、奠玉幣、奉俎、酌獻、換舞、徹豆、送神依曲禮作樂外,所有皇帝及獻官盥洗、登降等樂皆備而不作雲。