開宝年間、江南征討を議す。詔して京西転運使李符の策を用い、和州の丁夫及び郷兵凡そ数万人を発し、歴陽に横江渠を鑿ち、符をしてその役を督めしむ。渠成り、以て漕運を通じ、而して軍用闕くること無し。
八年、瓊州知事李易上言す「州の南五里に度霊塘あり、渠堰を開修し、水田三百余頃を灌漑し、居民之に頼る」と。
初め、楚州北の山陽湾は特に迅急にして、多く沈溺の患あり。雍熙中、転運使劉蟠、沙河を開きて以て淮水の険を避けんことを議す。未だ成さずして代を受く。喬維岳之を継ぎ、河を楚州より淮陰に至るまで開き、凡そ六十里、舟行便なり。
四年、淮南勧農使王貫之、海州石闥堰の水を導き漣水軍に入れ、民田を溉ぐ。定遠県知事江澤・江陰軍知事崔立、民を率い廃塘を修め、古港を浚い、以て高仰の地を灌ぐ。並びに詔を賜いて賞す。
九年正月壬午、劉瑾言す「揚州江都県の古塩河・高郵県の陳公塘等の湖・天長県の白馬塘沛塘・楚州宝応県の泥港射馬港・山陽県の渡塘溝龍興浦・淮陰県の青州澗・宿州虹県の万安湖小河・寿州安豊県の芍陂等、興置す可く、逐路の転運司に令して官を選び覆按せしめんと欲す」と。之に従う。
元豊五年九月、淮南監司言す「舒州城に近きに大沢有り、灊山より出で、北門外に注ぐ。比者、暴水居民を漂わす。知州楊希元、水を捍ぐ堤千一百五十丈を築き、水を泄す斗門二を置き、遂に淫潦の城に入るの患を免る」と。並びに璽書を以て獎諭す。
六年正月戊辰、亀山運河を開く。二月乙未告成す。長さ五十七里、闊さ十五丈、深さ一丈五尺。初め、発運使許元、淮陰より新河を開き、之を洪沢に属し、長淮の険を避く。凡そ四十九里。久しくして浅澀す。熙寧四年、皮公弼復た浚治を請う。十一月壬寅より起こり、明年正月丁酉に尽きて畢り、人便之。是に至り、発運使羅拯復た洪澤より上り、亀山裏河を鑿ちて以て淮に達せんと欲す。帝深く之を然りとす。会に発運使蔣之奇入対し、建言す「上に清汴有り、下に洪沢有り、而して風浪の険百里の淮に止る。邇歳公私の載を溺すること計ふ可からず。凡そ諸道の転輸、湖に渉り江を行くこと、已に数千里、而して覆敗すること此の百里の間に於いて、良く惜しむべし。宜しく亀山蛇浦より下り洪沢に属し、左肋を鑿ちて復河と為し、淮を取りて源と為し、堰閘を置かず、風濤覆溺の患を免る可し」と。帝、都水監丞陳祐甫を遣わして経度せしむ。祐甫言す「往年田棐淮南提刑に任じ、嘗て河を開くの利を言う。其の後淮陰より洪澤に至り、竟に新河を開く。独り洪澤以上、未だ興役を克さず。今既に閘を用いて水を蓄えず、惟だ淮面の高下に随い、河底を深く開き、淮を引いて通流せしめ、形勢便なり。但だ工費浩大なり」と。帝曰く「費は大なりと雖も、利亦博し」と。祐甫曰く「異時、淮中歳に百七十艘を失う。若し数年所損の費を捐てば、足らく此の役を済す」と。帝曰く「損費尚小なり、人命を如何」と。乃ち夫十万を調べて開治す。既に成り、之奇に命じて記を撰ましめ、石に刻して亀山に置く。後、建中靖国初に至り、之奇枢密院同知と為り、奏す「淮水浸淫し、堤岸を沖刷し、漸く墊缺を成す。請う発運司に下し時を失わず修築せしめん」と。是より、歳を以て常と為す。
是の年、将作監主簿李湜言す「鼎・澧等州、溝洫を開き斗門を置き、以て民田に便ならしむべし」と。詔して措置して以て聞かしむ。七年十月、真・楚の運河を浚う。
十二月、京東転運司が言うには、「清河は江・浙・淮南諸路と相通じるが、徐州の呂梁・百歩の両洪が流れが浅く険悪なため、舟船を損なうことが多く、これにより水手・牛驢・牽戸・盤剝人等が様々に妨害し、商賈が通行しない。朝廷は既に斉州通判滕希靖・常州晋陵県知事趙竦に地勢を測らせ穿鑿させた。今もし月河石堤を開修し、上下に閘門を設置し、時宜に応じて開閉し、舟船を通航させれば、実に長久の利となる。使者を派遣し監督して興修を乞う。」これを従う。
四年四月、水部員外郎趙竦が十八里河の疏浚を請い、賈種民に呂梁・百歩洪を相度させ、水磨を添移するよう命じた。詔して発運及び転運司に利害を共に視察させて奏聞させた。
三月甲寅、工部が言うには、「淮南開河所が開修した楚州支家河は、漣水を導いて淮と通じる。」通漣河と名を賜う。
十二月、詔して淮南で遇明河を開修し、真州宣化鎮江口から泗州淮河口まで、五年で完工させる。
翌年三月、詔して曰く、「先に二浙で水災があり、官を委ねて夫を調発し江を開いたが、総領に法がなく、役人は野ざらしとなり、飲食もままならず、疾病死亡する者が多かった。水は依然として害となり、未だ実を究めて罪を按ずることもなく、反って推賞を受け、どうして百姓の怨嗟を満たせようか。」そこで本路提刑司に体量させた。提刑司が言うには、「呉松・青龍江を開浚し、役夫五万、死者千百六十二人、費やした銭米十六万九千三百四十一貫石、積水は今に至るまで退かない。」ここにおいて元の相度官転運副使劉何等は皆坐して貶降された。
四年正月、倉部員外郎沈延嗣を以て青草・洞庭直河の開修を提挙させる。
十一月、詔して曰く、「『禹貢』に『三江既に導かれ、震沢底定す』とある。今三江の名は既にその所を失い、水は海に趨かず、故に蘇・湖は患いを受ける。本路監司に委ね、能臣を選択し、古跡を検按し、導いて下流に趨かせ、併せて圩岸を相度して奏聞せよ。」ここにおいて再び陳仲方を発運司属官とし、蘇州の積水を再び相度させた。
四年八月、臣僚が言うには、「役所が練湖を茅山道観に賜ったが、潤州の田地は多くが高燥地であり、また運河・夾岡の水は浅くて干上がりやすいため、湖に依存している。別に天荒・江漲・沙田を賜って道観に与え、引き続き提挙常平官に前人(先人)の計画に基づく修築を調査・実施させてほしい」と。これに従った。十月、戸部が言うには、「両浙常平司の上奏通り、専ら守・令に委任して、古くから水を貯留した土地を記録し、堤防の限界を定め、公私ともに侵佔させないようにしてほしい。民田で水に近くないものについては、略『周官』の遂人・稻人の溝防の制度に倣い、衆力を合わせて行わせたい」と。詔して許可した。
四年二月、工部が言うには、「前太平州判官盧宗原が、江州から真州までの古来の河道で湮塞している七箇所を開削・修復し、運河を完成させ、浙西へ一百五十里入り、一千六百里の大江の風濤の患いを避けられるようにすること、また、古来より江水が浸没した膏腴田を、三百頃から万頃まで九箇所、計四万二千余頃(三百頃以下のものはさらにこれを超える)を、その土を用いて築堤・開墾することを請うている。盧宗原が太平州判官在任時に既に実施した政和圩田の例に倣い、人戸に自ら財力を準備させて興修させることを乞う」と。詔して沈鏻らに調査・措置させた。
六年閏正月、杭州知州李偃が言うには、「湯村・岩門・白石などの地は、いずれも銭塘江に通じて大海に至り、日に二度の潮を受け、次第に侵食されている。六和寺岸の例に倣い、石を積み重ねてほしい」と。そこで劉既済に修治を命じた。
この年、詔して曰く、「平江府の三十六浦の内、昔から閘を設置し、潮に随って開閉していたが、歳月を経て堙塞し、積水が患いとなっていると聞く。守臣の莊徽に戸曹の趙霖を専任させ、利害を研究させ、水を江海に導き、旧来通り閘を設置させよ」と。ここにおいて、発運副使の應安道が言うには、「すべての港浦で、緊要でないものは、いずれも徐々に議論すればよい。ただまず昆山県界の茜涇塘など六箇所を開削すべきである。秀州の華亭県は、古法にすべて従い、諸堰をすべて取り除き、それぞれに小斗門を設置したい。常州・鎮江府・望亭鎮は、引き続き旧来通り閘を設置する」と。八月、詔して戸曹の趙霖に調査・工事着手させたが、両浙は非常に擾乱した。七年四月己未、尚書省が言うには、「盧宗原の江の浚渫は、擾乱を引き起こす恐れがある」と。詔してその工事を一時停止し、趙霖には別の職務を与えた。
八月、提挙専切措置水利農田所が上奏して曰く、「浙西の諸県にはそれぞれ陂湖・溝港・涇浜・湖濼があり、古来より水を蓄えて灌漑し、また舟楫を通してきた。打量官にその地名・丈尺・四至を調査させ、併せて石に刻ませたい」と。これに従った。
三月、趙霖は水利増修が適切でなかったことを理由に、二官を降格された。六月、詔して曰く、「趙霖が水利を興修し、水害で食糧に困窮した民を募り、総工数二百七十八万二千四百有余、一江・一港・四浦・五十八瀆を開削し、既に成績が見られる。直徽猷閣に進め、併せて降格した二官を復せよ」と。
四月、詔して曰く、「江・淮の漕運は古くからのものである。春秋の時、呉が邗溝を穿ち、東北は射陽湖に通じ、西北は末口に至った。漢の呉王劉濞は邗溝を開き、海陵に通運した。隋は邗溝を開き、山陽から揚子に至り江に入った。雍熙年中、転運使の劉蟠は山陽湾が急流であるため、初めて沙河を開いて険阻を避けた。天禧年中、発運使の賈宗は初めて揚州の古河を開き、城の南を巡らせて運渠に接続し、三つの堰を破壊して水勢を均した。今、運河は毎年浅く渇水する。旧道及び現在の河川の形状と陂塘の貯水地を訪ね求め、長久の利となる措置を研究し、不通を救済せよ。発運使の陳亨伯・内侍の譚稹に条陳して措置を報告させよ」と。
八月、臣僚が言うには、「近頃淮南の運河の水が浅く渇き、半年を超え、綱舟の篙工が私物を積載することを禁じたが、今や河水が増漲したので、旧令の如くせよ」と。
初め、淮南は連年旱魃に遭い、漕運が通じず、揚州は特に甚だしく、詔して中使を派遣して視察させ、運河を浚って江・淮と平らにしようとした。時に両浙に方臘の乱があり、内侍童貫が宣撫使となり、譚稹が制置使となった。貫は海運と陸上の輦運を望み、稹は一河を開鑿し、盱眙から宣化に出ようとした。朝廷は発運司に下して相度させ、陳亨伯はその属官向子諲を派遣してこれを視察させた。子諲は言う、「運河は江・淮より数丈高く、江から淮に至るまで凡そ数百里、人力では浚渫し難い。昔、唐の李吉甫は閘を廃して堰を設け、陂塘を治め、余水を泄し、不足を防ぎ、漕運を通流させた。発運使曾孝蘊は三日に一度開く制を厳しくし、また帰水澳を作り、水を金の如く惜しんだ。近年、直達の法を行い、茶塩の利を走らせ、かつ応奉の権幸に応じ、朝夕に経由し、或いは開き或いは閉じ、帰水の暇が無い。また近頃朝宗閘を毀ち、洪澤から召伯に至る数百里、節制を為さないので、山陽の上下が通じない。その弊を救わんと欲すれば、真州の太子港に一つの壩を作り、以て懷子河の故道を復し、瓜州の河口に一つの壩を作り、以て龍舟堰を復し、海陵の河口に一つの壩を作り、以て茱萸・待賢堰を復し、諸塘の水を瓜洲・真・泰の三河に分かれさせず、北神に近く一つの壩を作り、暫く満浦閘を閉じ、朝宗閘を復すれば、則ち上下に壅塞無からん」と。亨伯はその言を用い、是より後、滞った舟は皆通利したという。
五年三月、詔す、「呂城から鎮江に至る運河が浅く狭く、監司は坐視し、施設する所無し。両浙は専ら王復に委ね、淮南は専ら向子諲に委ね、発運使呂淙と共に措置して車水し、舟運を通済せよ」と。
四月、また王仲閎に命じ、廉訪劉仲元・漕臣孟庾と共に専ら往来して常州・潤州の運河を措置させる。また詔す、「東南六路の諸閘は、啓閉に時あり。近頃聞くところによれば、綱舟及び命官が妄りに専承指揮を称し、時に非ずして啓版を抑令し、河水を走泄し、綱運を妨滞し、中都の歳計を誤る。これを禁止せよ」と。
五月、詔す、「運河が浅く涸れ、官吏が互いに所見を執り、州県は従う所を知らず。発運司の提挙等の官に命じ、廉訪使者と共に、経久の利便を参訂して列奏せよ」と。是の月、臣僚が言う、「鎮江府の練湖は、新豊塘と地理相接し、八百余頃、四県の民田を灌溉する。また湖水一寸は、漕河一尺を益す、その来り久しい。今、堤岸が損缺し、水を貯えることができず、農隙を俟って次第に補葺を乞う」と。詔して本路の漕臣並びに本州県の官に利害を詳度させ、工料を検計して奏聞せしむ。
六年九月、盧宗原がまた言う、「池州の大江は、上流の綱運が経由する所、その東岸は皆暗礁多く、二十余箇所に至る。西岸は則ち沙洲、広さ二百余里。諺に『拆船湾』と言い、舟ここに至れば必ず毀拆すると。今、東岸に車軸河口の沙地四百余里あり、もし開通して杜湖に入らしめ、舟を平水に経由させ、径ちに池口に至らしめれば、二百里の風濤拆船の危険を避け得ん。請う、措置して開修せしめよ」と。これに従う。
七年九月丙子、また宗原に措置して江東の古河を開浚せしむ。白蕪湖より宣溪・溧水を経て鎮江に至り、揚子を渡り、淮・汴に趨き、六百里の江行の危険を免れしむ。併せてこれに従う。