宋史

志第四十九 河渠六

志第四十九 河渠六

開宝年間、江南征討を議す。詔して京西転運使李符の策を用い、和州の丁夫及び郷兵凡そ数万人を発し、歴陽に横江渠を鑿ち、符をしてその役を督めしむ。渠成り、以て漕運を通じ、而して軍用闕くること無し。

原文開寶間,議征江南。詔用京西轉運使李符之策,發和州丁夫及鄉兵凡數萬人,鑿橫江渠于曆陽,令符督其役。渠成,以通漕運,而軍用無闕。

八年、瓊州知事李易上言す「州の南五里に度霊塘あり、渠堰を開修し、水田三百余頃を灌漑し、居民之に頼る」と。

原文八年,知瓊州李易上言:「州南五里有度靈塘,開修渠堰,溉水田三百余頃,居民賴之。」

初め、楚州北の山陽湾は特に迅急にして、多く沈溺の患あり。雍熙中、転運使劉蟠、沙河を開きて以て淮水の険を避けんことを議す。未だ成さずして代を受く。喬維岳之を継ぎ、河を楚州より淮陰に至るまで開き、凡そ六十里、舟行便なり。

原文初,楚州北山陽灣尤迅急,多有沈溺之患。雍熙中,轉運使劉蟠議開沙河,以避淮水之險,未克而受代。喬維岳繼之,開河自楚州至淮陰,凡六十里,舟行便之。

天禧元年、升州知事丁謂言す「城北に後湖あり、往時歳旱水竭すれば、民田に給し、凡そ七十六頃、租銭数百万を出し、蔭溉の利遂に廃す。今田を改め租を除き、旧制を跡づけ、復た岸畔を治め、疏して塘陂と為し以て水を畜え、郭を負うて旱歳無からしめ、広く浦芡を植え、魚鱉を養い、貧民を縦して漁採せしめん」と。又明州、濠池及び慈溪・鄞県の陂湖の年課を免じ、民をして利を射るを許さんことを請う。詔して並び之に従う。

原文天禧元年,知升州丁謂言:「城北有後湖,往時歲旱水竭,給為民田,凡七十六頃,出租錢數百萬,蔭溉之利遂廢。令欲改田除租,跡舊制,復治岸畔,疏為塘陂以畜水,使負郭無旱歲,廣植浦芡,養魚鱉,縱貧民漁采。」又明州請免濠池及慈溪、鄞縣陂湖年課,許民射利。詔並從之。

二年、江・淮発運使賈宗言す「諸路の歳漕、真・揚より淮・汴に入り、堰を歴る者五、糧載は剝卸に煩わされ、民力は牽挽に罷り、官私の船艦、此に由りて速やかに壊る。今揚州の古河を開き、城南に繚りて運渠に接ぎ、龍舟・新興・茱萸の三堰を毀ち、堰に近き漕路を鑿ち、以て水勢を均しめんことを議す。歳に官費十数万を省き、功利甚だ厚し」と。詔して屯田郎中梁楚・閣門祗候李居中をして按視せしむ。以て当然と為す。明年、役既に成り、而して水新河に注ぎ、三堰と平らかにし、漕船阻むること無く、公私大いに便なり。

原文二年,江、淮發運使賈宗言:「諸路歲漕,自真、揚入淮、汴,曆堰者五,糧載煩於剝卸,民力罷於牽挽,官私船艦,由此速壞。今議開揚州古河,繚城南接運渠,毀龍舟、新興、茱萸三堰,鑿近堰漕路,以均水勢。歲省官費十數萬,功利甚厚。」詔屯田郎中梁楚、閣門祗候李居中按視,以為當然。明年,役既成,而水注新河,與三堰平,漕船無阻,公私大便。

四年、淮南勧農使王貫之、海州石闥堰の水を導き漣水軍に入れ、民田を溉ぐ。定遠県知事江澤・江陰軍知事崔立、民を率い廃塘を修め、古港を浚い、以て高仰の地を灌ぐ。並びに詔を賜いて賞す。

原文四年,淮南勸農使王貫之導海州石闥堰水入漣水軍,溉民田;知定遠縣江澤、知江陰軍崔立率民修廢塘,浚古港,以灌高仰之地。並賜詔獎焉。

神宗熙寧元年十月、詔す「杭の長安ちょうあん・秀の杉青・常の望亭の三堰、監護の使臣並びに'管幹河塘'を以て銜に系え、常に所属の令佐と同しく、巡視修固し、時に従い啓閉せしむ」と。提挙両浙開修河渠胡淮の請いに従うなり。

原文神宗熙甯元年十月,詔:「杭之長安、秀之杉青、常之望亭三堰,監護使臣並以'管幹河塘'系銜,常同所屬令佐,巡視修固,以時啟閉。」從堤舉兩浙開修河渠胡淮之請也。

二年三月甲申、是に先立ち、淩民瞻、呂城堰を廃するを建議し、又即ち望亭堰に閘を置きて用いず。及び河を浚うに因り、古き涇函・石閘・石鹈達を隳敗し、河流益々阻み、百姓労弊す。是に至り、民瞻等貶降差あり。

原文二年三月甲申,先是,淩民瞻建議廢呂城堰,又即望亭堰置閘而不用。及因浚河,隳敗古涇函、石閘、石鹈達,河流益阻,百姓勞弊,至是,民瞻等貶降有差。

六年五月、杭州于潜県令郟亶言す「蘇州、湖を環する地は卑くして水多く、海に沿う地は高くして旱多く、故に古人の治水の跡、縦なれば則ち浦有り、横なれば則ち塘有り、又門堰・涇瀝有りて棋布す。今総べて二百六十余所。略古人の法に循い、七里を以て一縦浦と為し、十里を以て一横塘と為し、又土を出すに因り、以て堤岸と為し、夫二十万を用いるを度る。水は高田を治め、旱は下沢を治め、三年を過ぎず、蘇の田畢く治まらん」と。十一月、命じて亶に水利を興修せしむ。然れども措置乖方にして、民多く愁怨し、僅かに一年に及び、遂に両浙の工役を罷む。又数月、中書検正沈括復た言す「浙西の涇浜浅涸し、当に浚うべし。浙東の堤防川瀆堙沒し、当に修むべし。請う司農に下し緡を貸し役を募らん」と。之に従い、仍て括に命じ両浙の水利を相度せしむ。

原文六年五月,杭州于潛縣令郟亶言:「蘇州環湖地卑多水,沿海地高多旱,故古人治水之跡,縱則有浦,橫則有塘,又有門堰、涇瀝而棋布之。今總二百六十餘所。欲略循古人之法,七里為一縱浦,十里為一橫塘,又因出土,以為堤岸,度用夫二十萬。水治高田,旱治下澤,不過三年,蘇之田畢治矣。」十一月,命亶興修水利。然措置乖方,民多愁怨,僅及一年,遂罷兩浙工役。又數月,中書檢正沈括復言:「浙西涇浜淺涸,當浚;浙東堤防川瀆堙沒,當修。請下司農貸緡募役。」從之,仍命括相度兩浙水利。

九年正月壬午、劉瑾言す「揚州江都県の古塩河・高郵県の陳公塘等の湖・天長県の白馬塘沛はい塘・楚州宝応県の泥港射馬港・山陽県の渡塘溝龍興浦・淮陰県の青州澗・宿州虹県の万安湖小河・寿州安豊県の芍陂等、興置す可く、逐路の転運司に令して官を選び覆按せしめんと欲す」と。之に従う。

原文九年正月壬午,劉瑾言:「揚州江都縣古鹽河、高郵縣陳公塘等湖、天長縣白馬塘沛塘、楚州寶應縣泥港射馬港、山陽縣渡塘溝龍興浦、淮陰縣青州澗、宿州虹縣萬安湖小河、壽州安豐縣芍陂等,可興置,欲令逐路轉運司選官覆按。」從之。

元豊五年九月、淮南監司言す「舒州城に近きに大沢有り、灊山より出で、北門外に注ぐ。比者、暴水居民を漂わす。知州楊希元、水を捍ぐ堤千一百五十丈を築き、水を泄す斗門二を置き、遂に淫潦の城に入るの患を免る」と。並びに璽書を以て獎諭す。

原文元豐五年九月,淮南監司言:「舒州近城有大澤,出灊山,注北門外。比者,暴水漂居民,知州楊希元築捍水堤千一百五十丈,置泄水斗門二,遂免淫潦入城之患。」並璽書獎諭。

六年正月戊辰、亀山運河を開く。二月乙未告成す。長さ五十七里、闊さ十五丈、深さ一丈五尺。初め、発運使許元、淮陰より新河を開き、之を洪沢に属し、長淮の険を避く。凡そ四十九里。久しくして浅澀す。熙寧四年、皮公弼復た浚治を請う。十一月壬寅より起こり、明年正月丁酉に尽きて畢り、人便之。是に至り、発運使羅拯復た洪澤より上り、亀山裏河を鑿ちて以て淮に達せんと欲す。帝深く之を然りとす。会に発運使蔣之奇入対し、建言す「上に清汴有り、下に洪沢有り、而して風浪の険百里の淮に止る。邇歳公私の載を溺すること計ふ可からず。凡そ諸道の転輸、湖に渉り江を行くこと、已に数千里、而して覆敗すること此の百里の間に於いて、良く惜しむべし。宜しく亀山蛇浦より下り洪沢に属し、左肋を鑿ちて復河と為し、淮を取りて源と為し、堰閘を置かず、風濤覆溺の患を免る可し」と。帝、都水監丞陳祐甫を遣わして経度せしむ。祐甫言す「往年田棐淮南提刑に任じ、嘗て河を開くの利を言う。其の後淮陰より洪澤に至り、竟に新河を開く。独り洪澤以上、未だ興役を克さず。今既に閘を用いて水を蓄えず、惟だ淮面の高下に随い、河底を深く開き、淮を引いて通流せしめ、形勢便なり。但だ工費浩大なり」と。帝曰く「費は大なりと雖も、利亦博し」と。祐甫曰く「異時、淮中歳に百七十艘を失う。若し数年所損の費を捐てば、足らく此の役を済す」と。帝曰く「損費尚小なり、人命を如何」と。乃ち夫十万を調べて開治す。既に成り、之奇に命じて記を撰ましめ、石に刻して亀山に置く。後、建中靖国初に至り、之奇枢密院同知と為り、奏す「淮水浸淫し、堤岸を沖刷し、漸く墊缺を成す。請う発運司に下し時を失わず修築せしめん」と。是より、歳を以て常と為す。

原文六年正月戊辰,開龜山運河,二月乙未告成,長五十七里,闊十五丈,深一丈五尺。初,發運使許元自淮陰開新河,屬之洪澤,避長淮之險,凡四十九里。久而淺澀,熙寧四年,皮公弼請復浚治,起十一月壬寅,盡明年正月丁酉而畢,人便之。至是,發運使羅拯復欲自洪澤而上,鑿龜山裏河以達於淮,帝深然之。會發運使蔣之奇入對,建言:「上有清汴,下有洪澤,而風浪之險止百里淮,邇歲溺公私之載不可計。凡諸道轉輸,涉湖行江,已數千里,而覆敗於此百里間,良為可惜。宜自龜山蛇浦下屬洪澤,鑿左肋為復河,取淮為源,不置堰閘,可免風濤覆溺之患。」帝遣都水監丞陳祐甫經度。祐甫言:「往年田棐任淮南提刑,嘗言開河之利。其後淮陰至洪澤,竟開新河,獨洪澤以上,未克興役。今既不用閘蓄水,惟隨淮面高下,開深河底,引淮通流,形勢為便。但工費浩大。」帝曰:「費雖大,利亦博矣。」祐甫曰:「異時,淮中歲失百七十艘。若捐數年所損之費,足濟此役。」帝曰:「損費尚小,如人命何。」乃調夫十萬開治,既成,命之奇撰記,刻石龜山,後至建中靖國初,之奇同知樞密院,奏:「淮水浸淫,沖刷堤岸,漸成墊缺,請下發運司及時修築。」自是,歲以為常。

是の年、将作監主簿李湜言す「鼎・澧等州、溝洫を開き斗門を置き、以て民田に便ならしむべし」と。詔して措置して以て聞かしむ。七年十月、真・楚の運河を浚う。

原文是年,將作監主簿李湜言:「鼎、澧等州,宜開溝洫,置斗門,以便民田。」詔措置以聞。七年十月,浚真、楚運河。

哲宗元祐四年、潤州知事林希が呂城堰を復旧し、上下の閘門を設置し、時宜に応じて開閉するよう奏上した。その後、京口・瓜州・奔牛にも閘門を設置した。この年、杭州知事蘇軾が茆山・塩橋の二河を疏浚し、それぞれ江潮と西湖の水を受け、堰閘を造り、時宜に応じて開閉した。初め、杭州は海に近く、水泉が塩辛く苦いことを患い、唐代の刺史李泌が初めて西湖を導き、六井を作り、民は用に足りた。及び白居易が再び西湖を疏浚し、水を運河に引き入れ、また引いて田千頃を灌漑した。湖水には葑が多く、唐代から銭氏の後は廃れて修復されなかった。この時までに、葑が二十五万余丈積もり、水はほとんど無くなった。運河は湖水の利を失い、江潮に頼ったが、潮水が河を淤塞させ、市街に氾濫し、三年ごとに疏浚するのが市井の大患となり、故に六井もまたほとんど廃れた。蘇軾は二河を疏浚した後、余力をもって六井を完全に復旧し、民はその利を得た。

原文哲宗元祐四年,知潤州林希奏復呂城堰,置上下閘,以時啟閉。其後,京口、瓜州、奔牛皆置閘。是歲,知杭州蘇軾浚茆山、鹽橋二河,分受江潮及西湖水,造堰閘,以時啟閉。初,杭近海,患水泉咸苦,唐刺史李泌始導西湖,作六井,民以足用。及白居易復浚西湖,引水入運河,復引溉田千頃。湖水多葑,自唐及錢氏後廢而不理。至是,葑積二十五萬餘丈,而水無幾。運河失湖水之利,取給于江潮,潮水淤河,泛溢闤闠,三年一浚,為市井大患,故六井亦幾廢。軾既浚二河,復以餘力全六井,民獲其利。

十二月、京東転運司が言うには、「清河は江・浙・淮南諸路と相通じるが、徐州の呂梁・百歩の両洪が流れが浅く険悪なため、舟船を損なうことが多く、これにより水手・牛驢・牽戸・盤剝人等が様々に妨害し、商賈が通行しない。朝廷は既に斉州通判滕希靖・常州晋陵県知事趙竦に地勢を測らせ穿鑿させた。今もし月河石堤を開修し、上下に閘門を設置し、時宜に応じて開閉し、舟船を通航させれば、実に長久の利となる。使者を派遣し監督して興修を乞う。」これを従う。

原文十二月,京東轉運司言:「清河與江、浙、淮南諸路相通,因徐州呂梁、百步兩洪湍淺險惡,多壞舟楫,由是水手、牛驢、扌牽戶、盤剝人等,邀阻百端,商賈不行。朝廷已委齊州通判滕希靖、知常州晉陵縣趙竦度地勢穿鑿。今若開修月河石堤,上下置閘,以時開閉,通放舟船,實為長利。乞遣使監督興修。」從之。

紹聖二年、詔して「武進・丹陽・丹徒県界の沿河堤岸及び石鹈達・石木溝は、全て令佐に委ねて検査修護させ、食利人戸を勧誘して修葺させる。任期満了の際、その勤惰を考課して賞罰する。」工部の請いに従った。

原文紹聖二年,詔「武進、丹陽、丹徒縣界沿河堤岸及石鹈達、石木溝,並委令佐檢察修護,勸誘食利人戶修葺。任滿,稽其勤惰而賞罰之。」從工部之請也。

四年四月、水部員外郎趙竦が十八里河の疏浚を請い、賈種民に呂梁・百歩洪を相度させ、水磨を添移するよう命じた。詔して発運及び転運司に利害を共に視察させて奏聞させた。

原文四年四月,水部員外郎趙竦請浚十八里河,令賈種民相度呂梁、百步洪,添移水磨。詔發運並轉運司同視利害以聞。

元符元年正月、潤州知事王悆が建言するには、「呂城閘は常に単水を澳に入れ、閘身に灌注して舟を済すべきである。もし舟が続いて至り力が及ばない場合は、牽駕兵卒を適宜差配し、力を合わせて行うことを許す。監官は任期満了の際、水が漏れ出さなければ賞し、水が満たないうちに閘を開けば罰し、守貳・令佐は常にこれを監察する。」詔して可とする。

原文元符元年正月,知潤州王悆建言:「呂城閘常宜單水入澳,灌注閘身以濟舟。若舟遝至而力不給,許量差牽駕兵卒,並力為之。監官任滿,水無走泄者賞,水未應而輒開閘者罰,守貳、令佐,常覺察之。」詔可。

三月甲寅、工部が言うには、「淮南開河所が開修した楚州支家河は、漣水を導いて淮と通じる。」通漣河と名を賜う。

原文三月甲寅,工部言:「淮南開河所開修楚州支家河,導漣水與淮通。」賜名通漣河。

二年閏九月、潤州京口・常州奔牛の澳閘が完工した。先に、両浙転運判官曾孝蘊が澳閘の利害を献じ、これにより孝蘊を提挙として興修させ、なお啓閉の日限の法を相度して立てさせた。

原文二年閏九月,潤州京口、常州奔牛澳閘畢工。先是,兩浙轉運判官曾孝蘊獻澳閘利害,因命孝蘊提舉興修,仍相度立啟閉日限之法。

三年二月、詔して「蘇・湖・秀州において、運河・港浦・溝瀆を開治し、堤岸を修築し、斗門・水堰などを開置するには、開江兵卒を役することを許す。」

原文三年二月,詔:「蘇、湖、秀州,凡開治運河、港浦、溝瀆,修壘堤岸,開置斗門、水堰等,許役開江兵卒。」

徽宗崇寧元年十二月、提挙淮浙澳閘司官一員を置き、杭州から揚州瓜洲までの澳閘を管掌し、凡そ常・潤・杭・秀・揚州の新旧等の閘を統括して治める。

原文徽宗崇甯元年十二月,置提舉淮、浙澳閘司官一員,掌杭州至揚州瓜洲澳閘,凡常、潤、杭、秀、揚州新舊等閘,通治之。

崇寧二年の初め、通直郎陳仲方が別に呉松江の疏浚を議し、大通浦から海に入り、工数二百二十二万七千余、緡銭・糧斛十八万三千六百を計上し、幹当官十員を置くことを乞うた。朝廷が両浙監司に下して詳議させると、監司は実行可能とした。時にまた青龍江を開き、役夫はその労に耐えられず、提挙常平徐確は言う、「三州の開江兵卒千四百人、使臣二人があり、既に開いた江を護察させ、潮沙が淤澱すれば直ちに開淘し、他の役に就かせた者は違制の罪に論ずるよう請う。」確と監司はしばしば賞を受け、人は濫りであるとした。

原文崇寧二年初,通直郎陳仲方別議浚吳松江,自大通浦入海,計工二百二十二萬七千有奇,為緡錢、糧斛十八萬三千六百,乞置幹當官十員。朝廷下兩浙監司詳議,監司以為可行。時又開青龍江,役夫不勝其勞,而提舉常平徐確謂:「三州開江兵卒千四百人,使臣二人,請就令護察已開之江,遇潮沙淤澱,隨即開淘;若他役者,以違制論。」確與監司往往被賞,人以為濫。

十二月、詔して淮南で遇明河を開修し、真州宣化鎮江口から泗州淮河口まで、五年で完工させる。

原文十二月,詔淮南開修遇明河,自真州宣化鎮江口至泗州淮河口,五年畢工。

翌年三月、詔して曰く、「先に二浙で水災があり、官を委ねて夫を調発し江を開いたが、総領に法がなく、役人は野ざらしとなり、飲食もままならず、疾病死亡する者が多かった。水は依然として害となり、未だ実を究めて罪を按ずることもなく、反って推賞を受け、どうして百姓の怨嗟を満たせようか。」そこで本路提刑司に体量させた。提刑司が言うには、「呉松・青龍江を開浚し、役夫五万、死者千百六十二人、費やした銭米十六万九千三百四十一貫石、積水は今に至るまで退かない。」ここにおいて元の相度官転運副使劉何等は皆坐して貶降された。

原文明年三月,詔曰:「昨二浙水災,委官調夫開江,而總領無法,役人暴露,飲食失所,疾病死亡者眾。水仍為害,未嘗究實按罪,反蒙推賞,何以厭塞百姓怨咨。」乃下本路提刑司體量。提刑司言:「開浚吳松、青龍江,役夫五萬,死者千一百六十二人,費錢米十六萬九千三百四十一貫石,積水至今未退。」於是元相度官轉運副使劉何等皆坐貶降。

四年正月、倉部員外郎沈延嗣を以て青草・洞庭直河の開修を提挙させる。

原文四年正月,以倉部員外郎沈延嗣提舉開修青草、洞庭直河。

大観元年五月、中書舎人許光凝が奏上するには、「臣が以前姑蘇におり、民吏に広く尋ねたが、皆水患を去るには江を開き浦を浚うに如かずと言う。そもそも太湖は諸郡の間にあり、必ずこれを海に導いて然る後に水の帰する所がある。太湖から海に至るまでに三江があり、諸浦があり、江・浦を疏滌すれば水患を除くのは反掌の如しである。今境内の積水は、去歳より二尺減じ、前歳より四尺減じたのは、まさに初めに呉松江を開き、続いて八浦を浚った力による。呉人は一江を開けば一江の利があり、一浦を浚えば一浦の利があると言う。本路監司に委ね、水勢に精通した精強の吏と共に、遍く江・浦に詣で、利害を詳究させ、歳月を仮し、先ずその備えを為させたい。然る後に夫を興し役を調発すれば、公は財を費やすことなく、歳供は常に足り、人は労を告げず、民食は乏しまず、これ一举にして万世の利を得るのである。」詔して呉擇仁に相度させて奏聞させ、開江の議が再び興った。

原文大觀元年五月,中書舍人許光凝奏:「臣向在姑蘇,遍詢民吏,皆謂欲去水患,莫若開江浚浦。蓋太湖在諸郡間,必導之海然後水有所歸。自太湖距海,有三江,有諸浦,能疏滌江、浦,除水患猶反掌耳。今境內積水,視去歲損二尺,視前歲損四尺,良由初開吳松江,繼浚八浦之力也。吳人謂開一江有一江之利,浚一浦有一浦之利。願委本路監司,與諳曉水勢精強之吏,遍詣江、浦,詳究利害,假以歲月,先為之備。然後興夫調役,可使公無費財,而歲供常足;人不告勞,而民食不匱,是一舉而獲萬世之利也。」詔吳擇仁相度以聞,開江之議復興矣。

十一月、詔して曰く、「『禹貢』に『三江既に導かれ、震沢底定す』とある。今三江の名は既にその所を失い、水は海に趨かず、故に蘇・湖は患いを受ける。本路監司に委ね、能臣を選択し、古跡を検按し、導いて下流に趨かせ、併せて圩岸を相度して奏聞せよ。」ここにおいて再び陳仲方を発運司属官とし、蘇州の積水を再び相度させた。

原文十一月,詔曰:「《禹貢》:'三江既導,震澤底定。'今三江之名,既失其所,水不趨海,故蘇、湖被患。其委本路監司,選擇能臣,檢按古跡,循導使之趨下,並相度圩岸以聞。」於是復詔陳仲方為發運司屬官,再相度蘇州積水。

二年八月、詔して曰く、「常州・潤州は旱魃が続き河川が浅くなり、運送船が滞留している。監司は浚渫・修治を監督せよ」と。三年、両浙監司が言うには、「詔を奉じて古跡を調査し、積水を導く。今、呉松江を開削・浚渫し、再び十二の閘を設置することを請う。その他の浦閘・溝港・運河などは、順次増築・修繕する。もし田地が水に囲まれた場合は、民に自ら修治するよう勧める」と。上奏文が工部に下され、工部は言うには、「今、具申された三江は、禹の跡ではないかもしれない。また、呉松江は散漫で、開削して水を泄らすことはできない」と。そこで諸司に命じて再度調査・検討させ、報告させた。

原文二年八月,詔:「常、潤歲旱河淺,留滯運船,監司督責浚治。」三年,兩浙監司言:「承詔案古跡,導積水,今請開淘吳松江,復置十二閘。其餘浦閘、溝港、運河之類,以次增修。若田被水圍,勸民自行修治。」章下工部,工部謂:「今所具三江,或非禹跡;又吳松江散漫,不可開淘泄水。」遂命諸司再相度以聞。

四年八月、臣僚が言うには、「役所が練湖を茅山道観に賜ったが、潤州の田地は多くが高燥地であり、また運河・夾岡の水は浅くて干上がりやすいため、湖に依存している。別に天荒・江漲・沙田を賜って道観に与え、引き続き提挙常平官に前人(先人)の計画に基づく修築を調査・実施させてほしい」と。これに従った。十月、戸部が言うには、「両浙常平司の上奏通り、専ら守・令に委任して、古くから水を貯留した土地を記録し、堤防の限界を定め、公私ともに侵佔させないようにしてほしい。民田で水に近くないものについては、略『周官』の遂人・稻人の溝防の制度に倣い、衆力を合わせて行わせたい」と。詔して許可した。

原文四年八月,臣僚言:「有司以練湖賜茅山道觀,緣潤州田多高仰,及運渠、夾岡水淺易涸,賴湖以濟,請別用天荒江漲沙田賜之,仍令提舉常平官考求前人規畫修築。」從之。十月,戶部言:「乞如兩浙常平司奏,專委守、令籍古瀦水之地,立堤防之限,俾公私毋得侵佔。凡民田不近水者,略仿《周官》遂人、稻人溝防之制,使合眾力而為之。」詔可。

政和元年、陳州知州霍端友が言うには、「陳州の地は低湿で、長雨が続くと積水が農作物を害する。近ごろ新河八百里を疏浚したが、淮河まではまだ遠く、水が時宜を得て泄水されない。さらに二百里を開削し、西華から起こし、宛丘に沿って項城に入り、淮河に達するようにしてほしい」と。これに従った。

原文政和元年,知陳州霍端友言:「陳地汙下,久雨則積潦害稼。比疏新河八百里,而去淮尚遠,水不時泄。請益開二百里,起西華,循宛丘,入項城,以達於淮。」從之

政和元年十月、詔して蘇州・湖州・秀州の三州に水害対策を行わせ、圩岸を創設し、その工費は越州鑑湖の租賦を支給することを許した。まもなく蘇州を平江府に昇格させ、潤州を鎮江府に昇格させた。

原文政和元年十月,詔蘇、湖、秀三州治水,創立圩岸,其工費許給越州鑒湖租賦。已而升蘇州為平江府,潤州為鎮江府。

二年七月、兵部尚書張閣が言うには、「臣が以前杭州を守っていた時、聞くところによれば、銭塘江は元豊六年の氾濫以来、潮汐の往来により、概ね平穏な年がなかった。しかし近年、水勢がやや変化し、海門を過ぎ赭山から、すぐに岩門・白石一帯の北岸に押し寄せ、民田及び塩亭・監の土地を損壊し、東西三十余里、南北二十余里に及ぶ。江東は仁和監からわずか三里、北は赤岸口へ二十里である。運河は正に臨平下塘から出て、西は蘇州・秀州に入る。もし防禦を失えば、他日数十里の膏腴な平陸がすべて江に潰決し、下塘の田畑・家屋は自ら保つことができず、運河は中絶し、漕運に害を及ぼす恐れがある」と。詔して直ちに修築させた。

原文二年七月,兵部尚書張閣言:「臣昨守杭州,聞錢塘江自元豐六年泛溢之後,潮訊往來,率無寧歲。而比年水勢稍改,自海門過赭山,即回薄岩門、白石一帶北岸,壞民田及鹽亭、監地,東西三十餘里,南北二十餘里。江東距仁和監止及三里,北趣赤岸口二十里。運河正出臨平下塘,西入蘇、秀,若失障禦,恐他日數十里膏腴平陸,皆潰于江,下塘田廬,莫能自保,運河中絕,有害漕運。」詔亟修築之。

四年二月、工部が言うには、「前太平州判官盧宗原が、江州から真州までの古来の河道で湮塞している七箇所を開削・修復し、運河を完成させ、浙西へ一百五十里入り、一千六百里の大江の風濤の患いを避けられるようにすること、また、古来より江水が浸没した膏腴田を、三百頃から万頃まで九箇所、計四万二千余頃(三百頃以下のものはさらにこれを超える)を、その土を用いて築堤・開墾することを請うている。盧宗原が太平州判官在任時に既に実施した政和圩田の例に倣い、人戸に自ら財力を準備させて興修させることを乞う」と。詔して沈鏻らに調査・措置させた。

原文四年二月,工部言:「前太平州判官盧宗原請開修自江州至真州古來河道湮塞者凡七處,以成運河,入浙西一百五十里,可避一千六百里大江風濤之患;又可就土興築自古江水浸沒膏腴田,自三百頃至萬頃者凡九所,計四萬二千餘頃,其三百頃以下者又過之。乞依宗原任太平州判官日已興政和圩田例,召人戶自備財力興修。」詔沈鏻等相度措置。

六年閏正月、杭州知州李偃が言うには、「湯村・岩門・白石などの地は、いずれも銭塘江に通じて大海に至り、日に二度の潮を受け、次第に侵食されている。六和寺岸の例に倣い、石を積み重ねてほしい」と。そこで劉既済に修治を命じた。

原文六年閏正月,知杭州李偃言:「湯村、岩門、白石等處並錢塘江通大海,日受兩潮,漸至侵齧。乞依六和寺岸,用石砌疊。」乃命劉既濟修治。

八月、詔して曰く、「鎮江府は大江に臨み、舟艇を収容する港・澳がなく、三年間に五百余艘が転覆・沈没した。聞くところによると、西に旧河があり、風濤を避けられるが、長年にわたり湮廃している。発運司に浚渫・修治させよ」と。

原文八月,詔:「鎮江府傍臨大江,無港澳以容舟檝,三年間覆溺五百餘艘。聞西有舊河,可避風濤,歲久湮廢,宜令發運司浚治。」

この年、詔して曰く、「平江府の三十六浦の内、昔から閘を設置し、潮に随って開閉していたが、歳月を経て堙塞し、積水が患いとなっていると聞く。守臣の莊徽に戸曹の趙霖を専任させ、利害を研究させ、水を江海に導き、旧来通り閘を設置させよ」と。ここにおいて、発運副使の應安道が言うには、「すべての港浦で、緊要でないものは、いずれも徐々に議論すればよい。ただまず昆山県界の茜涇塘など六箇所を開削すべきである。秀州の華亭県は、古法にすべて従い、諸堰をすべて取り除き、それぞれに小斗門を設置したい。常州・鎮江府・望亭鎮は、引き続き旧来通り閘を設置する」と。八月、詔して戸曹の趙霖に調査・工事着手させたが、両浙は非常に擾乱した。七年四月己未、尚書省が言うには、「盧宗原の江の浚渫は、擾乱を引き起こす恐れがある」と。詔してその工事を一時停止し、趙霖には別の職務を与えた。

原文是年,詔曰:「聞平江三十六浦內,自昔置閘,隨潮啟閉,歲久堙塞,致積水為患。其令守臣莊徽專委戶曹趙霖講究利害,導歸江海,依舊置閘。」於是,發運副使應安道言:「凡港浦非要切者,皆可徐議。惟當先開昆山縣界茜涇塘等六所;秀之華亭縣,欲並循古法,盡去諸堰,各置小斗門;常州、鎮江府、望亭鎮,仍舊置閘。」八月,詔戶曹趙霖相度役興,而兩浙擾甚。七年四月己未,尚書省言:「盧宗原浚江,慮成搔擾。」詔權罷其役,趙霖別與差遣。

重和元年二月、前発運副使の柳庭俊が言うには、「真州・揚州・楚州・泗州・高郵の運河堤岸には、旧来斗門・水閘など七十九座があり、水勢を制限して常に平穏を保っていたが、近ごろ多くが損壊している」と。詔して検査・修復を命じた。六月、詔して曰く、「両浙は長雨により、積水が多く民田を浸し、平江府が特に甚だしい。これは港浦を未だ浚渫していないためである。再び趙霖を提挙常平とし、民田の救護措置を行い、人戸を振恤し、流離失所させないようにせよ」と。八月、詔して趙霖に直秘閣を加えた。

原文重和元年二月,前發運副使柳庭俊言:「真揚楚泗、高郵運河堤岸,舊有斗門水閘等七十九座,限則水勢,常得其平,比多損壞。」詔檢計修復。六月,詔:「兩浙霖雨,積水多浸民田,平江尤甚,由未浚港浦故也。其復以趙霖為提舉常平,措置救護民田,振恤人戶,毋令流移失所。」八月,詔加霖直秘閣。

宣和元年二月、臣僚が言うには、「江・淮・荊・漢の間には、荒蕪・瘠痩の地が遠くまで見渡す限り広がっており、概ね古人が一畝十鐘を得た土地であるが、その堤防・水門・溝澮の跡はなお残っている。近ごろ絳州の民呂平らが御史台に訴え出て、熙寧の旧渠を開削・疏浚して灌漑を広め、一等の増税を願い出た。これは近世の陂池の利さえ廃れているということである。どうして古に復する暇があろうか。願わくは常平官に詔し、水利を興修して効果が明白な者がいれば、直ちにその名を聞き上げ、特に褒賞・任用して、能ある者を励ますようにせよ」と。これに従った。

原文宣和元年二月,臣僚言:「江、淮、荊、漢間,荒瘠彌望,率古人一畝十鐘之地,其堤閼、水門、溝澮之跡猶存。近絳州民呂平等詣御史台訴,乞開浚熙甯舊渠,以廣浸灌,願加稅一等。則是近世陂池之利且廢矣,何暇復古哉。願詔常平官,有興修水利功效明白者,亟以名聞,特與褒除,以勵能者。」從之。

八月、提挙専切措置水利農田所が上奏して曰く、「浙西の諸県にはそれぞれ陂湖・溝港・涇浜・湖濼があり、古来より水を蓄えて灌漑し、また舟楫を通してきた。打量官にその地名・丈尺・四至を調査させ、併せて石に刻ませたい」と。これに従った。

原文八月,提舉專切措置水利農田所奏:「浙西諸縣各有陂湖、溝港、涇浜、湖濼,自來蓄水灌溉,及通舟楫,望令打量官按其地名、丈尺、四至,並鐫之石。」從之。

三月、趙霖は水利増修が適切でなかったことを理由に、二官を降格された。六月、詔して曰く、「趙霖が水利を興修し、水害で食糧に困窮した民を募り、総工数二百七十八万二千四百有余、一江・一港・四浦・五十八瀆を開削し、既に成績が見られる。直徽猷閣に進め、併せて降格した二官を復せよ」と。

原文三月,趙霖坐增修水利不當,降兩官。六月,詔曰:「趙霖興修水利,能募被水艱食之民,凡役工二百七十八萬二千四百有奇,開一江、一港、四浦、五十八瀆,已見成績,進直徽猷閣,仍復所降兩官。」

宣和二年九月、真州・揚州等の運河が浅く渇水したため、陳亨伯に措置を委任した。三年春、詔して発運副使の趙億に車で水を汲み上げて運河に注ぎ、三月中に三十綱を京師に到着させるよう期限を設けた。宦官の李琮が言うには、「真州は外江の綱運が集まる要衝であるが、運河が浅く渇水するため、速やかに発送できない。南岸には泄水斗門が八つあり、江まで一里に満たない。斗門の河身を開削し、江から十丈の所に軟壩を築き、江潮を河に引き入れ、その後、人工を倍加して車で水を汲み上げ、運河の水を助けるようにしたい」と。これに従った。

原文宣和二年九月,以真、揚等州運河淺澀,委陳亨伯措置。三年春,詔發運副使趙億以車畎水運河,限三月中三十綱到京。宦者李琮言:「真州乃外江綱運會集要口,以運河淺澀,故不能速發。按南岸有泄水斗門八,去江不滿一里。欲開斗門河身,去江十丈築軟壩,引江潮入河,然後倍用人工車畎,以助運水。」從之。

四月、詔して曰く、「江・淮の漕運は古くからのものである。春秋の時、呉が邗溝を穿ち、東北は射陽湖に通じ、西北は末口に至った。漢の呉王劉濞は邗溝を開き、海陵に通運した。隋は邗溝を開き、山陽から揚子に至り江に入った。雍熙年中、転運使の劉蟠は山陽湾が急流であるため、初めて沙河を開いて険阻を避けた。天禧年中、発運使の賈宗は初めて揚州の古河を開き、城の南を巡らせて運渠に接続し、三つの堰を破壊して水勢を均した。今、運河は毎年浅く渇水する。旧道及び現在の河川の形状と陂塘の貯水地を訪ね求め、長久の利となる措置を研究し、不通を救済せよ。発運使の陳亨伯・内侍の譚稹に条陳して措置を報告させよ」と。

原文四月,詔曰:「江、淮漕運尚矣。春秋時,吳穿邗溝,東北通射陽湖,西北至末口。漢吳王濞開邗溝,通運海陵。隋開邗溝,自山陽至揚子入江。雍熙中,轉運使劉蟠以山陽灣迅急,始開沙河以避險阻。天禧中,發運使賈宗始開揚州古河,繚城南接運渠,毀三堰以均水勢。今運河歲淺澀,當詢訪故道,及今河形勢與陂塘瀦水之地,講究措置悠久之利,以濟不通。可令發運使陳亨伯、內侍譚稹條具措置以聞。」

八月、臣僚が言うには、「近頃淮南の運河の水が浅く渇き、半年を超え、綱舟の篙工が私物を積載することを禁じたが、今や河水が増漲したので、旧令の如くせよ」と。

原文八月,臣僚言:「比緣淮南運河水澀逾半歲,禁綱舟篙工附載私物,今河水增漲,其令如舊。」

初め、淮南は連年旱魃に遭い、漕運が通じず、揚州は特に甚だしく、詔して中使を派遣して視察させ、運河を浚って江・淮と平らにしようとした。時に両浙に方臘の乱があり、内侍童貫が宣撫使となり、譚稹が制置使となった。貫は海運と陸上の輦運を望み、稹は一河を開鑿し、盱眙から宣化に出ようとした。朝廷は発運司に下して相度させ、陳亨伯はその属官向子諲を派遣してこれを視察させた。子諲は言う、「運河は江・淮より数丈高く、江から淮に至るまで凡そ数百里、人力では浚渫し難い。昔、唐の李吉甫は閘を廃して堰を設け、陂塘を治め、余水を泄し、不足を防ぎ、漕運を通流させた。発運使曾孝蘊は三日に一度開く制を厳しくし、また帰水澳を作り、水を金の如く惜しんだ。近年、直達の法を行い、茶塩の利を走らせ、かつ応奉の権幸に応じ、朝夕に経由し、或いは開き或いは閉じ、帰水の暇が無い。また近頃朝宗閘を毀ち、洪澤から召伯に至る数百里、節制を為さないので、山陽の上下が通じない。その弊を救わんと欲すれば、真州の太子港に一つの壩を作り、以て懷子河の故道を復し、瓜州の河口に一つの壩を作り、以て龍舟堰を復し、海陵の河口に一つの壩を作り、以て茱萸・待賢堰を復し、諸塘の水を瓜洲・真・泰の三河に分かれさせず、北神に近く一つの壩を作り、暫く満浦閘を閉じ、朝宗閘を復すれば、則ち上下に壅塞無からん」と。亨伯はその言を用い、是より後、滞った舟は皆通利したという。

原文初,淮南連歲旱,漕運不通,揚州尤甚,詔中使按視,欲浚運河與江、淮平。會兩浙有方臘之亂,內侍童貫為宣撫使,譚稹為制置使,貫欲海運陸輦,稹欲開一河,自盱眙出宣化。朝廷下發運司相度,陳亨伯遣其屬向子諲視之。子諲曰:「運河高江、淮數丈,自江至淮,凡數百里,人力難浚。昔唐李吉甫廢閘置堰,治陂塘,泄有餘,防不足,漕運通流。發運使曾孝蘊嚴三日一啟之制,復作歸水澳,惜水如金。比年行直達之法,走茶鹽之利,且應奉權幸,朝夕經由,或啟或閉,不暇歸水。又頃毀朝宗閘,自洪澤至召伯數百里,不為之節,故山陽上下不通。欲救其弊,宜於真州太子港作一壩,以復懷子河故道,於瓜州河口作一壩,以復龍舟堰,於海陵河口作一壩,以復茱萸、待賢堰,使諸塘水不為瓜洲、真、泰三河所分,於北神相近作一壩,權閉滿浦閘,復朝宗閘,則上下無壅矣。」亨伯用其言,是後滯舟皆通利雲。

三年二月、詔す、「越州の鑒湖、明州の広徳湖は、措置して田と為して以来、下流が埋塞し、灌溉を妨げ、常賦を失うに至り、また多く権勢に占拠され、両州は被害を受け、民は流徙する。宜しく陳亨伯に究実させ、もし租税が過重であれば、即ち中制に裁減し、下流の灌溉を妨ぐものは、全て弛めて民に与えよ」と。

原文三年二月,詔:「趙之鑒湖,明之廣德湖,自措置為田,下流堙塞,有妨灌溉,致失常賦,又多為權勢所占,兩州被害,民以流徙。宜令陳亨伯究實,如租稅過重,即裁為中制;應妨下流灌溉者,並馳以予民。」

五年三月、詔す、「呂城から鎮江に至る運河が浅く狭く、監司は坐視し、施設する所無し。両浙は専ら王復に委ね、淮南は専ら向子諲に委ね、発運使呂淙と共に措置して車水し、舟運を通済せよ」と。

原文五年三月,詔:「呂城至鎮江運河淺澀狹隘,監司坐視,無所施設,兩浙專委王復,淮南專委向子諲,同發運使呂淙措置車水,通濟舟運。」

四月、また王仲閎に命じ、廉訪劉仲元・漕臣孟庾と共に専ら往来して常州・潤州の運河を措置させる。また詔す、「東南六路の諸閘は、啓閉に時あり。近頃聞くところによれば、綱舟及び命官が妄りに専承指揮を称し、時に非ずして啓版を抑令し、河水を走泄し、綱運を妨滞し、中都の歳計を誤る。これを禁止せよ」と。

原文四月,又命王仲閎同廉訪劉仲元、漕臣孟庾專往來措置常、潤運河。又詔:「東南六路諸閘,啟閉有時。比聞綱舟及命官妄稱專承指揮,抑令非時啟版,走泄河水,妨滯綱運,誤中都歲計,其禁止之。」

五月、詔す、「運河が浅く涸れ、官吏が互いに所見を執り、州県は従う所を知らず。発運司の提挙等の官に命じ、廉訪使者と共に、経久の利便を参訂して列奏せよ」と。是の月、臣僚が言う、「鎮江府の練湖は、新豊塘と地理相接し、八百余頃、四県の民田を灌溉する。また湖水一寸は、漕河一尺を益す、その来り久しい。今、堤岸が損缺し、水を貯えることができず、農隙を俟って次第に補葺を乞う」と。詔して本路の漕臣並びに本州県の官に利害を詳度させ、工料を検計して奏聞せしむ。

原文五月,詔:「以運河淺涸,官吏互執所見,州縣莫知所從。其令發運司提舉等官同廉訪使者,參訂經久利便列奏。」是月,臣僚言:「鎮江府練湖,與新豐塘地理相接,八百餘頃,灌溉四縣民田。又湖水一寸,益漕河一尺,其來久矣。今堤岸損缺,不能貯水,乞候農隙次第補葺。」詔本路漕臣並本州縣官詳度利害,檢計工料以聞。

六年九月、盧宗原がまた言う、「池州の大江は、上流の綱運が経由する所、その東岸は皆暗礁多く、二十余箇所に至る。西岸は則ち沙洲、広さ二百余里。諺に『拆船湾』と言い、舟ここに至れば必ず毀拆すると。今、東岸に車軸河口の沙地四百余里あり、もし開通して杜湖に入らしめ、舟を平水に経由させ、径ちに池口に至らしめれば、二百里の風濤拆船の危険を避け得ん。請う、措置して開修せしめよ」と。これに従う。

原文六年九月,盧宗原復言:「池州大江,乃上流綱運所經,其東岸皆暗石,多至二十餘處;西岸則沙洲,廣二百餘里。諺雲'拆船灣',言舟至此,必毀拆也。今東岸有車軸河口沙地四百餘里,若開通入杜湖,使舟經平水,徑池口,可避二百里風濤拆船之險,請措置開修。」從之。

七年九月丙子、また宗原に措置して江東の古河を開浚せしむ。白蕪湖より宣溪・溧水を経て鎮江に至り、揚子を渡り、淮・汴に趨き、六百里の江行の危険を免れしむ。併せてこれに従う。

原文七年九月丙子,又詔宗原措置開浚江東古河,白蕪湖由宣溪、溧水至鎮江,渡揚子,趨淮、汴,免六百里江行之險,並從之。

靖康元年三月丁卯、臣僚が言う、「東南は江海に瀕し、水は泄し易くして旱多く、歴代皆陂湖を以て水を蓄えた。祥符・慶曆の間、民初めて陂湖を盗み田と為し、後にまた田を湖に復した。近年以来、また廃して田と為し、雨ならば澇れ、旱ならば涸る。民は久しく承佃し、収むる所の租税は、計りて脱する無く、悉く御前に帰し、而して漕司の常賦は虧損し、民の失業は算うるに遑あらず。請う、尽く東南の廃湖を田と為したものを括り、復た湖と為し、幾ばくか凋瘵の民をして稍々故業に復せしめよ」と。詔して利害を相度して奏聞せしむ。

原文靖康元年三月丁卯,臣僚言:「東南瀕江海,水易泄而多旱,歷代皆有陂湖蓄水。祥符、慶曆間,民始盜陂湖為田,後復田為湖。近年以來,復廢為田,雨則澇,旱則涸。民久承佃,所收租稅,無計可脫,悉歸御前,而漕司之常賦有虧,民之失業無算。可乞盡括東南廢湖為田者,復以為湖,度幾凋瘵之民,稍復故業。」詔相度利害聞奏。

八月辛丑、戸部が言う、「命官が在任中に農田水利を興修し、元豊の賞格に依れば、千頃以上は第一等に該り、一官を転じ、下は百頃に至るまで皆等第に酬奨す。紹聖もまた然り。政和の続附常平格に縁り、千頃に転両官を増立し、磨勘を三年減ずるは、実に太だ優なり」と。詔して元豊・紹聖の旧格に依らしむ。

原文八月辛丑,戶部言:「命官在任興修農田水利,依元豐賞格,千頃以上,該第一等,轉一官,下至百頃,皆等第酬獎;紹聖亦如之。緣政和續附常平格,千頃增立轉兩官,減磨勘三年,實為太優。」詔依元豐、紹聖舊格。