周書 卷二十二 列傳第十四 周惠達 馮景 楊寬 兄穆 儉 柳慶 子機

周書

卷二十二 列傳第十四 周惠達 馮景 楊寬 兄穆 儉 柳慶 子機

周惠達は字を懷文といい、章武郡文安県の人である。父の信は、若くして州郡に仕え、樂郷・平舒・平成の三県の県令を歴任し、いずれも廉潔で有能であると称された。

惠達は幼い頃から志操があり、書物を読むことを好み、容貌が美しく、進退の振る舞いが見るに値し、見る者は誰もかれもこれを重んじなかった。魏の齊王蕭寶夤が瀛州刺史となった時、惠達と河間の馮景を召し出して閤中に同席させ、大いに礼遇した。寶夤が朝廷に帰還するに及んで、惠達はこれに従って洛陽に入った。領軍の元义が海内に勢威を傾ける中、惠達はかつて寶夤を通じて义と議論し、义は感歎してこれを重んじ、座中で惠達に衣服を贈った。孝昌の初め、魏の臨淮王彧が北討するに当たり、惠達を府の長流参軍とした。万俟醜奴らが乱を起こすに及んで、蕭寶夤が西征し、惠達は再びこれに従って関中に入った。寶夤は後に賊と戦って不利となり、退還し、そのまま雍州刺史に任ぜられ、惠達を使者として洛陽に派遣した。帰還しないうちに、寶夤の反逆の謀略が京師に聞こえた。有司は惠達がその使者であるとして、これを捕らえようとした。そこでひそかに馳せ帰り、潼関に至った時、大使の楊侃に遇った。侃は惠達に言った、「蕭氏の逆謀は既に成った。なぜわざわざ獣の口に入るのか」。惠達は言った、「蕭王は左右に誤らされたのである。今行けば、あるいは考えを改めるであろう」。到着した時、寶夤の反逆の形跡は既に露わになり、繕うことができず、ついに惠達を用いて光祿勲・中書舎人とした。寶夤が敗れた後、人々は皆逃げ散ったが、ただ惠達ら数人がこれに従った。寶夤は惠達に言った、「人生富貴の時は、左右皆節を尽くすと言うが、厄難に遭って初めて、歳寒 (の松柏) を知るのである」。

賀拔岳が寶夤を捕らえて洛陽に送り、惠達を留めて府の祭酒とし、衣服と馬を与え、すぐに参議させた。岳が関中大行臺となると、惠達を従事中郎とした。かつて洛陽に使いした時、魏の孝武帝が惠達と語り、世の難に及んだ。惠達は天下の事勢を述べ、岳に誠実な節操があり、ただ国を憂い乱を定めることを事としていると述べた。言辞が激切であったので、帝は大いにこれを嘉した。帰還すると、ことごとく岳に報告した。岳は言った、「人は天に生まれ、君より命を受ける。どうして人の栄禄を利することあって、その禍難を憂えぬことがあろうか。卿の奏上したことは、実にわが心を得ている」。これより後、一層親しく礼遇された。岳は征討するたびに、常に惠達に居守を命じた。また岳の府の属官に転じた。

岳が侯莫陳悅に害されると、悅は惠達を得て、官職に就けようとした。惠達は病気を理由に辞退したが、許されず、そこで漢陽の麥積崖に遁走した。悅が平定されると、惠達は太祖 (宇文泰) のもとに帰順し、すぐに秦州司馬に任ぜられ、隴右を安んじ集めた。太祖が大 都督 ととく として兵を総管し雍州より挙兵すると、再び惠達を府司馬とし、すぐに委任した。魏の孝武帝が詔して太祖に馮翊長公主を娶らせ、惠達を長史として洛陽に赴き奉迎させた。潼関に至ると、孝武帝が既に西遷したと聞き、すぐに惠達を先発させた。太祖は惠達に言った、「昔、周が東遷した時は、 しん と鄭とが依り頼んだ。今、乗輿が播越して関右に降臨された。我は不肖ながらその任に当たるが、才能は昔の人に愧じる。卿は力を尽くし、共に功業を成し遂げ、富貴を得るがよい」。これに対し答えて言った、「惠達は官遊すること数年、明公の一匡の運に属し、富貴の事は敢えて望みません。ただ明公の威徳が天下に加わり、惠達がその微力を効することを得れば、それで志願は尽きます」。

太祖が大將軍・大行臺となると、惠達を行臺尚書・大將軍府司馬とし、文安県子に封じ、邑三百戸を与えた。太祖が華州に出鎮すると、惠達を留めて後事を知らせた。当時は喪乱を承けた後で、諸事多く欠けていた。惠達は兵器を造営し、食糧を蓄積し、兵士と馬匹を簡閲して、軍国の務めを助け、当時大いに頼りにされた。安東將軍となり、太子少傅を拝し、爵を伯に進め、邑三百戸を増やした。まもなく中書令に任ぜられ、爵を公に進め、邑を増やして前と合わせて九百戸とし、 えい 大將軍・左光禄大夫を加えられた。

四年、尚書右僕射を兼ねた。その年、太祖と魏の文帝が東征し、惠達は魏の太子を補佐して居守し、留臺の事を総管した。惠達は前後して辞讓したが、帝は手詔で答えて言った、「西顧の憂いは、ただ公に属する。蕭何・寇恂の重責を、深く寄託する」。邙山で軍律を失い、人情が駭動した時、趙青雀が東人の徒を率いて長安の子城を占拠して反逆した。惠達は太子を奉じて渭橋の北に出てこれを防いだ。軍が帰還すると、青雀らは誅殺された。吏部尚書を拝した。久しくして、再び右僕射となった。

関右の草創以来、礼楽が欠けていた。惠達は礼官と共に旧章を損益し、ここに至って儀軌がようやく整った。魏の文帝が朝で楽を奏するに当たり、顧みて惠達に言った、「これは卿の功である」。まもなく儀同三司を拝した。

惠達は顕職に居ながらも、性質謙遜で、よく人に下り、心を尽くして公に勤め、良士を進め抜擢した。このため人々は皆これを敬い付き従った。十年、薨去した。子の題が嗣いだ。隋の開皇の初め、惠達が前代に著しい功績を立てたことを以て、蕭国公を追封された。

馮景

馮景は字を長明といい、若い頃惠達と志を同じくして友となった。延昌年中、梁の賊が徐・揚を寇掠した時、景は蕭寶夤に言った、「今、梁寇が侵凌し、朝廷は辺境を鎮める将を思っています。王がもし率先して命に効すれば、家国の恥を雪ぐのみならず、また身を保つ長策でもあります」。寶夤は深くこれを然りとした。寶夤が大 都督 ととく となると、景を功曹参軍とした。後に右僕射となり、景を引いて省に入れ、尚書都令史を領させた。正光年中、寶夤が関西大行臺となると、また景に陵江將軍を仮授し、大行臺都令史を領させ、寶夤に従って征討した。寶夤が挙兵して反逆しようとした時、景は固く諫めたが、聞き入れられなかった。

寶夤が敗れた後、景は洛陽に帰還した。朝廷は先に景に諫言があったと聞いていたので、これを免じた。奉車都尉に任ぜられた。汝陽王元叔昭が隴右大行臺となると、景を行臺郎中とするよう上奏した。賀拔岳が大 都督 ととく となると、また景を従事中郎とした。太祖が侯莫陳悅を平定すると、景を洛陽郡守とし、まもなく行臺左丞を兼ね、原州に留守した。魏の孝武帝が西遷すると、高陽県伯に封じられ、邑三百戸を与えられた。 散騎常侍 さんきじょうじ ・行臺尚書に遷り、瀛州刺史を加えられた。大統の初め、涇州の事務を行った。後に病気で卒した。

楊寬は字を景仁といい、弘農郡華陰県の人である。祖父の恩は、魏の鎮遠將軍・河間内史であった。父の鈞は、博学で記憶力が強く、秀才に挙げられ、大理平を拝し、廷尉正に転じた。累遷して、洛陽令・左中郎将・華州大中正・河南尹・廷尉卿・安北將軍・七兵尚書・北道大行臺・恆州刺史・懷朔鎮将を歴任し、鎮で卒した。侍中・ 司空 しくう 公を追贈され、臨貞県伯を追封され、諡を恭といった。

寬は若い頃から大志があり、いつも諸児童と遊ぶ時は、必ず高大な物を選んでその上に座り、見る者は皆これを異としていた。成長すると、やや文章を綴ることを解し、特に武芸を尚んだ。弱冠で奉朝請に任ぜられた。鈞が恆州に出鎮することに属し、従って効力を展べんことを請うたので、そこで將軍・高闕戍主に改めて任ぜられた。当時、茹茹が既に乱れ、その主の阿那瓌が来奔した。魏帝は使者を遣わしてこれを受け入れ、詔して鈞に兵を率いて護送させた。寬もこれに従い、功により行臺郎中を拝した。当時、北辺の賊が鎮城を攻囲し、鈞が卒すると、城民らは寬を推して守禦させた。まもなく城は陥落し、寬は北へ走って茹茹に入った。後に鎮の賊を討ち、これを破り、寬はようやく朝廷に帰還することができた。

魏の広陽王元深は楊寛と平素より親密に交わり、元深が法を犯して罪を得た際、楊寛も連座して逮捕された。魏の孝荘帝 (当時は侍中) は楊寛と旧知の間柄であり、彼を自邸に匿い、赦令に遇って難を免れた。宗正丞に任ぜられる。北海王元顥は若い頃から楊寛を器重しており、当時大行臺として葛栄を北征するにあたり、楊寛を左右丞に起用し、謀議に参与させようと望んだ。楊寛は孝荘帝の厚恩未だ報いず、利を見て動くは義にあらずと辞退した。元顥はこれを許さなかった。元顥の妹婿李神軌が元顥に言うには、「楊寛は義士なり。匹夫ですら志を奪うべからず、ましてや義士をや。王今彼を強いて従わせようとも、用いられぬことを恐れる」と。元顥はそこで止めた。孝荘帝が即位すると、通直散騎侍郎に任ぜられ、河南尹丞を領し、洛陽令を代行した。

邢杲が反乱を起こすと、楊寛は 都督 ととく として太宰・上党王元天穆に従い討伐して平定した。そのまま通直 散騎常侍 さんきじょうじ に任ぜられた。軍が未だ帰還せぬうち、元顥が梁より洛陽に入ったため、孝荘帝は河内に出奔した。元天穆は恐れ、策なく、諸将を集めて謀議した。楊寛は言う、「呉の兵は軽佻にして、王の敵にあらず。況や孤軍を懸けて深入りし、師老いて兵疲れ、強弩の末、何を為さんや。願わくは直ちに成臯を取って、伊洛に兵を会し、帯 (元顥) を戮し定襄 (孝荘帝) を定むるは、此に在り。この事は朽ち木を摧くが如く容易く、王何ぞ疑わん」と。元天穆はこれを然りとし、軍を率いて成臯に向かい、楊寛と爾朱能に後詰めを命じた。間もなく衆議に従い不可とし、石済に回軍した。楊寛は夜道に迷い、期に後れた。諸将は皆言う、「楊寛は若い頃北海王と交わりあり、今来ぬであろう」と。元天穆は答えて曰く、「楊寛は去就軽き者にあらず。その逗留するには、必ず他故あらん。吾諸君のために保証しよう」と。語り終わって間もなく、斥候が楊寛の到着を告げた。元天穆は腿を撫でて笑い、「吾固より其の必ず来らんことを知れり」と言い、急いで帳外に出て迎え、その手を握り「是れ吾が望む所なり」と言った。即ち牛三十頭、車五乗、綿絹十五車、羊五十口を与えた。元天穆と共に太行で孝荘帝に謁し、 散騎常侍 さんきじょうじ ・安東將軍に任ぜられた。引き続き 都督 ととく として、河内平定に従い、北中城を包囲した。

時に梁の将軍陳慶之が元顥の兵として北門を守り、元天穆は包囲陣の外に駐屯し、楊寛を遣わして城下で陳慶之を説得させた。楊寛は先ず自ら姓名を名乗り、それから語りかけ、利害を詳しく述べて、早く降伏するよう勧めた。陳慶之は答えなかった。久しくして、ようやく言うには、「賢兄 (楊寛の兄) 撫軍 (楊昱) がここにおり、是非お会いしたい」と。楊寛は答えて曰く、「僕の兄は既に力屈して王威に降り、逆党に身を沈めたり。人臣の理、何ぞ煩わして会わんや。先に姓名を申し上げた所以は、兄が彼処に在るを知らぬにあらず。ただ信は疑われず、忠は令徳なりと信ずるが故なり。僕の兄弟のことは、幸いに言うを待たず。ただ良き図りを議し、自ら多福を求むべし」と。元天穆はこれを聞き、左右に謂いて曰く、「楊寛は大いに人に異なり、何ぞここまで形勢の便利を惜しまぬや」と。これより一層敬重した。孝荘帝が復位すると、中軍將軍・太府卿・華州大中正に任ぜられ、澄城県伯に封ぜられ、邑三百戸を賜った。

爾朱栄が誅殺されると、その従弟爾朱世隆らは部曲を擁して城門を焼き、河橋を占拠して出て、還って京師を脅迫した。楊寛は鎮北將軍・使持節・大 都督 ととく に進められ、機に応じて防禦した。爾朱世隆は楊寛に言う、「太宰 (爾朱栄) の相知の深きを忘れたか」と。楊寛は答えて曰く、「太宰は礼をもって愛せり、人臣の交わりなり。今日の事は、君に事うる常の節なり」と。爾朱世隆は北走し、楊寛は河内まで追撃した。間もなく爾朱兆が洛陽を陥とし、孝荘帝を囚執した。楊寛は洛陽に戻れず、遂に成臯より梁に奔った。建業に至り、孝荘帝が しい 逆されたと聞き、楊寛は哀悼の礼を尽くした。梁の武帝はその義を称え、厚く待遇した。間もなく礼を以て送還され朝廷に帰った。下邳に至ると、爾朱仲遠が楊寛の官爵を復するよう上奏し、大行臺吏部尚書として留め置かれた。

孝武帝の初め、 散騎常侍 さんきじょうじ ・驃騎將軍・給事黄門侍郎に改めて任ぜられ、内典書事を監察した。時に夏州の戍兵数千人が兗州を占拠して反乱を起こし、詔により楊寛は侍中を兼ね、諸軍を節度して討伐平定した。中尉綦儶は楊寛と旧怨があり、他罪を誣告して弾劾した。孝武帝は侍臣らに謂いて曰く、「楊寛は清直なり、朕極めて其の無罪なるを知る。但だ法官の奏を杜ぐ能わざるのみ」と。事は廷尉に下され、間もなく冤罪が晴れた。また黄門侍郎に任ぜられ、武 えい 將軍を兼ねた。孝武帝は斉の神武帝 (高歓) と不和となり、遂に騎勇を召募し、宿 えい を広く増強した。楊寛を閤内大 都督 ととく とし、禁旅を専総させた。孝武帝に従って関中に入り、吏部尚書を兼ねた。従駕の勲功を録し、爵を華山郡公に進め、邑一千二百戸を賜った。大統初年、車騎大將軍・太子太傅・儀同三司に遷った。三年、茹茹 (柔然) に使いし、魏の文悼后を迎えた。還り、侍中・ 都督 ととく 涇州諸軍事・涇州刺史に任ぜられた。五年、驃騎大將軍・開府儀同三司・ 都督 ととく 東雍州諸軍事・東雍州刺史に任ぜられ、即ち本州 (華州) の刺史となった。十年、河州刺史に転じた。十六年、大丞相府司馬を兼ねた。

朝議は漢川を経略しようとしたが、梁の宜豊侯蕭循が南鄭を固守した。十七年、楊寛は大將軍達奚武に従ってこれを討った。梁の武陵王蕭紀は将軍楊乾運に兵万余りを率いさせて蕭循を救援し、達奚武は楊寛に開府王傑・賀蘭願德等を督させて邀撃させた。軍は白馬に至り、楊乾運と合戦し、これを破り、数千人を俘斬した。軍が還ると、南豳州刺史に任ぜられた。魏の廃帝の初め、入朝して尚書左僕射・将作大監となったが、事に坐して免官された。魏の恭帝二年、廷尉卿に任ぜられた。世宗 (北周明帝) の初め、大將軍に任ぜられ、邑一千二百戸を加増された。賀蘭祥に従って吐谷渾を討ち、これを破り、別に宜陽県公に封ぜられ、邑一千戸を賜った。小冢宰に任ぜられ、御正中大夫に転じた。武成二年、詔により楊寛は麟趾学士と共に経籍を参定した。

楊寛は性質通敏にして、器識あり。頻りに数州を牧し、清簡と号せられた。台閣に歴任し、当官の誉れ有り。然れども柳慶と協わず、その罪を成案にしようとしたため、時の論は頗るこれを譏った。保定元年、総管梁興等十九州諸軍事・梁州刺史に任ぜられた。その年、州において薨去した。華・陝・虞・上・潞の五州刺史を追贈された。諡して元という。子の楊紀が嗣いだ。大象の末、官は上儀同大將軍・虞部下大夫に至った。

楊寛に二人の兄あり、楊穆と楊儉である。楊穆は字を紹叔という。魏の永安年中、華州別駕に任ぜられた。孝武帝の末、楊寛が澄城県伯の爵位を楊穆に譲ることを請うた。詔はこれを許し、そのまま中軍將軍・金紫光禄大夫に任ぜられ、車騎將軍・ 都督 ととく 幷州諸軍事・幷州刺史に任ぜられた。家において卒した。驃騎大將軍・開府儀同三司・華州刺史を追贈された。

柳儉は字を景則という。容姿は立派で、才能と行いがあった。魏の正始年間 (240–249) に、初めて侍御史に任じられ、奉朝請を加えられ、員外散騎侍郎に転じた。孝昌年間 (525–527) に、鎮遠将軍・頓丘太守に任じられた。任地に赴く前に、元顥が軍に随行するよう請願した。建義初年 (528) 、給事黄門侍郎・左将軍・太府少卿を兼ねた。元顥が洛陽に入ると、撫軍将軍に任じられた。孝荘帝が復位すると、家に罷免された。まもなく 散騎常侍 さんきじょうじ 都督 ととく 潁州諸軍事・潁州刺史に任じられた。建明年間 (530–531) に、征南将軍・金紫光禄大夫を加えられた。孝武帝の初め (532) 、衛将軍・北雍州刺史に任じられた。政治は寛大で恵みを重んじ、異民族も漢人も安んじた。孝武帝が西遷すると、侍中・驃騎将軍に任じられた。大統初年 (535) 、本官のまま東秦州の事務を代行し、使持節・当州大 都督 ととく を加えられた。沙苑で斉の神武帝 (高歓) を破った功績により、夏陽県侯に封じられ、邑八百戸を賜った。七年 (541) 、大丞相府諮議参軍を兼ね、 都督 ととく 東雍華二州諸軍事・驃騎大将軍・開府儀同三司・華州刺史として出向した。八年 (542) 、家で死去した。本官を追贈され、諡は静といった。

柳慶は字を更興といい、解県の人である。五世の祖の柳恭は、後趙に仕えて河東郡守となった。後に秦・趙の地に動乱が起こると、民を率いて南に移り、汝水・潁水の間に居住したため、代々江南の朝廷に仕えた。祖父の柳縃は、宋の同州別駕・宋安郡守となった。父の柳僧習は、斉の奉朝請であった。魏の景明年間 (500–503) に、 州刺史の裴叔業とともに州を挙げて魏に帰順した。北地・潁川の二郡太守、揚州大中正を歴任した。

柳慶は幼い頃から聡明で機敏であり、度量があった。広く諸書に通じたが、章句の学には拘らなかった。酒を好み、応対に巧みであった。十三歳の時、書物を日に干していると、僧習が柳慶に言った。「お前は聡明ではあるが、私は特に試したことはない。」そこで柳慶に雑賦集の中から賦一篇、千余言を取らせると、柳慶は立ちながら三度読み、すぐに暗誦し、何も漏らさなかった。当時、僧習は潁川郡守であり、その地は都の近郊に接し、豪族が多い土地柄であった。郷官を選ぶ際、皆が権勢に頼って競って請託してきた。選任が決まらないうちに、僧習は息子たちに言った。「権貴の請託は、私は一切用いない。その使者が帰るには、皆返答が必要だ。お前たちはそれぞれ思うところを私の返書として書いてみよ。」柳慶は詳細な書状の草稿を書いた。「下官は大邦の任を受け、官吏を選ぶ日にあたり、有能な者を進め、不肖な者を退ける。これは朝廷の恒常の定めである。」僧習はその文を読んで嘆息し、「この子は気概がある。大丈夫は理、かくあるべきだ。」と言い、すぐに柳慶の草稿に従って返答した。初めて奉朝請に任じられた。

柳慶は四番目の叔父の後を継いでいたが、父の喪に遭った時、議論する者が重服を着ることを許さなかった。柳慶は涙を流して言った。「礼とは人情に基づくものである。もし後を継いだ家に、さらに苴斬の服 (重喪の喪服) があるならば、これを奪ってあちらに従うこともできよう。今、四叔父は亡くなって久しく、事情は追うべくもない。どうして礼を奪い、天性に背くことができようか。」当時の論議も抑えることができず、遂に喪に服して藁の寝床と土塊の枕で喪を終えた。葬った後、諸兄とともに土を背負って墳墓を築いた。喪が明けると、中堅将軍に任じられた。

魏の孝武帝が西遷しようとした時、柳慶を散騎侍郎に任じ、駅伝で関中に入らせた。柳慶は高平で太祖 (宇文泰) に会い、時事について議論した。太祖はすぐに車駕を奉迎することを請い、柳慶に先に帰って復命するよう命じた。当時、賀抜勝が荊州におり、帝は左右を退けて柳慶に言った。「高歓はすでに河北に駐屯し、関中の兵はまだ到着していない。朕は荊州に行きたいと思うが、卿の考えはどうか。」柳慶は答えて言った。「関中は金城千里、天下の強国です。宇文泰は忠誠を奮い起こし、朝廷の良臣です。陛下の聖明をもって、宇文泰の力用に依り、進んでは東に向かって群雄を制し、退いては関を閉ざして天府を固めることができます。これは万全の計です。荊州の地は要害ではなく、兵も少なく弱く、外には梁の寇に迫られ、内には高歓の党を防がねばなりません。これは危亡を恐れるべき状態であり、どうして宏大な基業を固められましょうか。臣の判断では、その可なるを見ません。」帝は深くこれを受け入れた。

帝が西遷すると、柳慶は母が老齢のため従わなかった。独孤信が洛陽を鎮守した時、ようやく関中に入ることができた。相府東閤祭酒に任じられ、記室を兼ね、戸曹参軍に転じた。八年 (542) 、大行臺郎中に遷り、北華州長史を兼ねた。十年 (544) 、尚書都兵に任じられ、郎中は元のままとし、記室も兼ねた。

当時、北雍州が白鹿を献上し、群臣が上表文を起草して祝賀しようとした。尚書の蘇綽が柳慶に言った。「近代以来、文章は華美に流れ、江左に至っては、ますます軽薄である。洛陽の後進たちは、これを祖述してやまない。相公 (宇文泰) は民の軌範を執り、君の職は文書を司る。この表を作って、以前の弊風を革めるべきである。」柳慶は筆を執ってすぐに書き上げ、文辞は文飾と質実を兼ねていた。蘇綽は読んで笑い、「枳と橘ですら移し得るというのに、まして才子であるならばなおさらだ。」と言った。まもなく本官のまま雍州別駕を兼ねた。

広陵王の元欣は、魏の宗室の近親である。その甥の孟氏が、しばしば横暴を働いていた。ある者が彼の牛泥棒を告発した。柳慶が捕らえて取り調べると事実であり、急いで拘禁するよう命じた。孟氏は少しも恐れる様子がなく、かえって柳慶に言った。「今もし私に枷をはめたなら、後でどうやって外すというのか。」元欣もまた使者を遣わして無罪を弁明した。孟氏はこれによってますます驕った。柳慶はそこで大いに官僚を集め、孟氏が権威ある外戚に依って、侵害・虐待している様子を大いに述べた。言い終わると、すぐに鞭打ちの刑で殺させた。この後、貴戚は手を控え、侵害・暴行を敢えてしなくなった。

ある商人が金二十斤を持って、都で取引するため、人の家に寄宿した。外出する時はいつも、自分で鍵を執っていた。ところが、封はいつもと変わらないのに金がなくなった。主人が盗んだと思い、郡県が訊問すると、主人は自ら罪を認めた。柳慶はこれを聞いて嘆息し、商人を召し出して尋ねた。「卿の鍵は常にどこに置いていたか。」答えて言った。「常に身につけていました。」柳慶が「人と同宿したことはあるか。」と言うと、「ありません。」「人と一緒に飲んだことはあるか。」と言うと、「先日、ある沙門と二度ほど痛飲して、酔って昼寝をしました。」柳慶は「主人はただ苦痛に耐えかねて自ら罪を認めたのであり、盗人ではない。あの沙門こそ真の盗人である。」と言い、すぐに役人を遣わして沙門を逮捕させると、沙門は金を懐に隠して逃げていた。後に捕らえ、失った金をすべて回収した。十二年 (546) 、三十六曹を十二部に改め、詔によって柳慶を計部郎中とし、別駕は元のままとした。

胡人の家が強盗に遭い、郡県が取り調べたが、賊の所在が分からず、近隣で囚われた者が多かった。柳慶は賊徒が既に多く、烏合の衆のようであり、旧知の間柄でもなければ、互いに疑い妨げるはずだから、詐りを用いて探ることができると考えた。そこで匿名の手紙を多く書き、官門に掲示して言った。「我等は共に胡人の家を強奪したが、仲間が混雑して、ついに漏洩を恐れる。今、自首したいが、誅殺を免れないことを恐れる。もし先に自首すれば罪を免じると聞けば、すぐに告げ出たい。」柳慶はさらに罪を免じる旨の掲示を出した。二日後、広陵王元欣の家奴が手を縛って掲示の下で自首した。これによって追及を尽くし、一味をことごとく捕らえた。柳慶が公正を守り明察であったことは、皆この類いである。常に嘆息して言った。「昔、于公は裁判に私心がなく、高い門を開いて封侯を待つことができた。もしこの言葉が験があれば、私はそのような者でありたいものだ。」十三年 (547) 、清河県男に封じられ、邑二百戸を賜り、尚書右丞を兼ね、計部を代行した。十四年 (548) 、正式に右丞となった。

太祖 (宇文泰) がかつて安定国の臣下である王茂に怒り、これを殺そうとしたが、その罪はなかった。朝臣たちは皆知っていたが、敢えて諫める者はいなかった。柳慶が進み出て言うには、「王茂に罪はありません。どうして殺そうとなさるのですか」。太祖はますます怒り、声と表情は甚だ厳しく、柳慶に言った、「王茂は死罪に当たる。卿がもし彼に罪がないと明らかにするならば、卿もまた連座しなければならない」。そして柳慶を前に引き据えた。柳慶は言葉と態度を屈せず、声を張り上げて言った、「臣は聞きます。君に不達 (道理に通じない) があれば不明であり、臣に争わない (諫めない) があれば不忠であると。慶は謹んで愚かな誠を尽くし、実に死を惜しむことは致しませんが、ただ公が不明の君となられることを恐れるのみです。深くお察しください」。太祖はようやく悟り、王茂を赦そうとしたが、すでに及ばなかった。太祖は黙然とした。翌日、柳慶に言った、「私は卿の言葉を用いなかったために、ついに王茂を冤罪で死なせてしまった。王茂の家に銭帛を賜い、私の過ちを顕彰せよ」。まもなく爵位を子に進め、封邑を三百戸増やした。十五年 (549年) 、平南将軍を加えられた。十六年 (550年) 、太祖が東征するに当たり、柳慶を行台右丞とし、撫軍将軍を加えた。帰還後、尚書右丞に転じ、通直 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。魏の廃帝 (元欽) の初め、民部尚書に任じられた。

柳慶は威儀が端正で厳粛であり、枢機 (物事の要) を明らかに弁じた。太祖が号令を発するたびに、常に柳慶にこれを宣布させた。天性、剛直で、避けるところがなかった。太祖もまたこのことで深く信頼し依拠した。二年 (553年) 、車騎大将軍・儀同三司を授けられた。魏の恭帝 (拓跋廓) の初め、位を驃騎大将軍・開府儀同三司・尚書右僕射に進め、左僕射に転じ、著作を領した。六官が建てられると、司会中大夫に拝された。孝閔帝 (宇文覚) が即位すると、宇文の姓を賜り、爵位を平斉県公に進め、封邑を加えて以前と合わせて一千五百戸とした。

晋公宇文護が初めて政務を摂った時、柳慶を腹心として引き入れようとした。柳慶はこれを辞退し、大いにその意に逆らった。また楊寛と不和があり、楊寛が政事に参与するようになると、柳慶は次第に疎まれ忌避されるようになり、万州刺史として出された。世宗 (宇文毓) はまもなく悟り、柳慶を留めて雍州別駕とし、京兆尹を領させた。武成二年 (560年) 、宜州刺史に任じられた。柳慶は郎官となって以来、司会に至るまで、府庫や倉儲はすべてその職務であった。宜州にいた時、楊寛が小冢宰となると、柳慶の旧吏を囚え、その罪過を求めた。取り調べは六十余日も続き、吏の中には獄死する者もあったが、ついに言うところはなく、ただ余った錦数匹を得たのみであった。当時の人々はその清廉と慎重さに敬服した。保定三年 (563年) 、また入朝して司会となった。

先に、柳慶の兄の柳檜が魏興郡太守であった時、賊の黄宝に害された。柳檜の子三人は皆幼弱であったが、柳慶は甚だ篤く養育した。後に黄宝が衆を率いて朝廷に帰順し、朝廷は優れた礼遇をもって遇した。数年後、柳檜の次子の柳雄亮が白昼、長安城中で黄宝を手ずから斬殺した。晋公宇文護はこれを聞いて大いに怒り、柳慶および諸子・甥たちを皆捕らえて囚えた。そして柳慶を責めて言った、「国家の憲法綱紀は、皆君らが為すところである。たとえ私怨があろうとも、どうして勝手に人を殺すことができようか」。柳慶は答えて言った、「慶は聞きます。父母の仇は天を同じくせず、兄弟の仇は国を同じくせず、と。明公は孝をもって天下を治められています。どうしてここを責められるのですか」。宇文護はますます怒ったが、柳慶の言葉と表情は少しも屈せず、結局このことで罪を免れた。天和元年 (566年) 十二月に薨去した。時に五十歳。鄜州・綏州・丹州の三州刺史を追贈され、諡を景といった。子の柳機が後を嗣いだ。

柳機は字を匡時といい、若い時から良い評判があり、風采と物腰、言葉遣いは当世に推重された。小納言・開府儀同三司・司宗中大夫を歴任した。大象年間 (579-580年) 、御正上大夫・華州刺史となった。

柳機の弟の柳弘は、字を匡道といい、若い時から聡明で機知に富み、また草書・隷書をよくし、広く群書に渉猟し、文辞の彩りは雅やかで豊かであった。弘農の楊素と莫逆の交わりを結んだ。巾を解き (官に就き) 、中外府記室参軍となった。建德初年 (572年) 、内史上士に任じられ、小宮尹・御正上士を歴任した。陳が王偃民を使者として来聘した時、高祖 (武帝宇文邕) は柳弘に命じてこれを慰労させた。王偃民は柳弘に言った、「来たる日、藍田に至った時、ちょうど滋水が暴漲し、携えてきた国信 (国書と贈り物) が溺れ流されてしまいました。今進上するものは、従吏から借りたものです。下流の人々に命じて、これを追い尋ねさせてください」。柳弘は言った、「昔、淳于髡が空の籠を献上したことは、前史が美談として称えています。足下が物を借りて進上するのは、果たして陳君の命によるものですか」。王偃民は恥じて答えることができなかった。高祖はこれを聞いて柳弘を賞賛し、王偃民が進上した物をすべて柳弘に賜り、なおも命じて返聘 (答礼の使者) を行わせた。応対は詳細で機敏であり、当時に称えられた。使いから還ると、内史都上士に拝され、御正下大夫に遷った。まもなく官の任上で卒した。時に三十一歳。高祖は甚だ惜しんだ。晋州刺史を追贈された。楊素が しのびごと を述べて言った、「山陽の王弼、風流長く逝く。潁川の荀粲、零落する時無し。修竹は池に はさ まり、永く梁園の賦を絶つ。長楊は沼に映じ、復た洛川の文無し」。彼が士友に痛惜されたのはこのようなものであった。文集が世に行われた。

柳慶の三人の兄は、柳鷟・柳虯・柳檜である。柳虯と柳檜はそれぞれ別に伝がある。柳鷟は学問を好み、文章をよくした。魏の臨淮王 (元彧) の記室参軍事となった。早世した。

子の柳帯韋は、字を孝孫という。深沈として度量があり、若い時から学問を好んだ。身長は八尺三寸、風采は美しく、応対をよくした。韓賢がかつて洛州刺史であった時、召し出して主簿とした。後に諸父と共に朝廷に帰順し、太祖に召し出されて参軍となった。

時に侯景が江右 (長江中流域) で乱を起こすと、太祖は柳帯韋を使者として江州と 郢州 えいしゅう の二州に遣わし、梁の邵陵王 (蕭綸) と南平王 (蕭恪) の二王と友好を通じさせた。安州に至った時、仮宝らが反乱を起こしたため、柳帯韋は太祖の書状を偽造して彼らを慰撫し、皆すぐに降伏帰附した。郢州に到着し、邵陵王に会うと、詳しく太祖の意を申し述べた。邵陵王はすぐに使者を柳帯韋に随行させて返命させた。使命を奉じて意にかなったため、輔国将軍・中散大夫に任じられた。

十七年 (551年) 、太祖は大将軍の達奚武を遣わして漢川を経略させ、柳帯韋を行台左丞として従軍させ、南征に従った。時に梁の宜豊侯蕭循が南鄭を守っていたが、達奚武はこれを攻め落とせなかった。そこで柳帯韋に命じて城中に入り、蕭循を説得させた、「足下が固めているのは険阻であり、恃んでいるのは援軍であり、守っているのは民衆です。今、王師は棧道を深く入り、漢川に長駆しています。これが、頼みとする険阻が固めに足りないということです。武興は前に陥落し、白馬は後に破亡し、その他の川谷の酋豪たちは、道が阻まれて敢えて進みません。これが、望む援軍が恃むに足りないということです。親戚を顧み、誅殺されることを恐れ、栄誉を貪り利益を慕うのは、生きる者の常です。今、大軍が総じて至り、長い包囲が四方を囲み、逃亡者を殺して安居を勧め、先に降る者を賞して後に服する者を招いています。人は皆、禍を転ずる計らいを懐き、家は皆、安堵の謀りごとを図っています。これが、統べる民衆が守りに足りないということです。かつ足下の本朝は喪乱し、社稷には主がありません。忠を尽くそうとしても何に託すべきか、節に死んでも名を成すに足りません。窃かに足下の取るところではないと思います。僕は聞きます。賢者は時を見て動き、智者は変に因って功を立てると。当今、足下のために計るならば、肉袒して軍門に至り、下吏に帰命し、生民を塗炭から免れさせ、髪膚を孝道において全うすることに如くはありません。必ずや青綬を めぐ らし紫綬を引き、土を裂き珪を分け、名は当時に重く、業は後嗣に光るでしょう。どうして進退根拠なく、身も名も共に滅びる者と比べられましょうか」。蕭循はこれを認め、後に降伏した。

魏の廃帝元年 (552年) 、解県令として出向す。二年、驃騎将軍・左光禄大夫を加授される。翌年、汾陰令に転ず。奸悪を摘発し、百姓は畏れてこれを懐く。世宗 (明帝) の初め、地官上士として召される。武成元年 (559年) 、帥 都督 ととく ・治御伯下大夫を授かり、武蔵下大夫に遷る。保定三年 (563年) 、大 都督 ととく を授かる。四年、儀同三司・中外府掾を加授される。天和二年 (567年) 、康城県男に封ぜられ、邑五百戸を賜い、職方中大夫に転ず。三年、兵部中大夫を授かる。頻りに職を移すも、なお武蔵の職を領す。尋いで母の憂に遭う。起復して職方中大夫となる。五年、武蔵中大夫に転ず。俄かに驃騎大将軍・開府儀同三司に遷る。凡そ劇職に居ること十余年、処断滞ることなく、官曹清く粛然たり。

時に譙王宇文儉は益州総管、漢王宇文賛は益州刺史たり。高祖 (武帝) は乃ち韋瓉を以て益州総管府長史と為し、益州別駕を領せしめ、二王を輔弼し、軍民の事を総知せしむ。建德年中 (572-578年) 、大軍東討するに当たり、韋瓉を徴して前軍総管斉王宇文憲の府長史と為す。北斉平定後、功により上開府儀同大将軍を授かり、爵を公に進め、邑一千戸を増す。陳王宇文純が へい 州に出鎮するに当たり、韋瓉を以て へい 州司会・ へい 州総管府長史と為す。六年 (建徳六年、577年) 、位に卒す。時に年五十五。諡して愷と曰う。子の韋祚、嗣ぐ。少より名誉有り。大象末 (580-581年) 、宣納上士たり。

史臣曰く、周恵達は蕭宝夤に見礼せられ、楊寛は爾朱晋泰に恩荷す。既にして蕭氏 (宝夤) 罪を得、荘帝 (北魏孝荘帝) 出居するに及び、遂に能く寇戎と契闊し、興亡を以て慮を革めず、崎嶇危難に在りて、夷険を以て心を易えず。斯れ固より篤終の士なり。柳慶は束帯して朝に立ち、匪躬の節を懐き、官に莅み政に従い、清白の美を著わす。並びに興運に遭逢し、各々志能を展べ、誉は縉紳に重く、望は端揆に隆し。虚しく云うに非ず。然れども慶は権寵を畏避し、宰臣に違忤す。一時に詘を取ると雖も、実に千載に申ばるるを得たり。

原本を確認する(ウィキソース):周書 巻022