周惠達は字を懷文といい、章武郡文安県の人である。父の信は、若くして州郡に仕え、樂郷・平舒・平成の三県の県令を歴任し、いずれも廉潔で有能であると称された。
惠達は幼い頃から志操があり、書物を読むことを好み、容貌が美しく、進退の振る舞いが見るに値し、見る者は誰もかれもこれを重んじなかった。魏の齊王蕭寶夤が瀛州刺史となった時、惠達と河間の馮景を召し出して閤中に同席させ、大いに礼遇した。寶夤が朝廷に帰還するに及んで、惠達はこれに従って洛陽に入った。領軍の元义が海内に勢威を傾ける中、惠達はかつて寶夤を通じて义と議論し、义は感歎してこれを重んじ、座中で惠達に衣服を贈った。孝昌の初め、魏の臨淮王彧が北討するに当たり、惠達を府の長流参軍とした。万俟醜奴らが乱を起こすに及んで、蕭寶夤が西征し、惠達は再びこれに従って関中に入った。寶夤は後に賊と戦って不利となり、退還し、そのまま雍州刺史に任ぜられ、惠達を使者として洛陽に派遣した。帰還しないうちに、寶夤の反逆の謀略が京師に聞こえた。有司は惠達がその使者であるとして、これを捕らえようとした。そこでひそかに馳せ帰り、潼関に至った時、大使の楊侃に遇った。侃は惠達に言った、「蕭氏の逆謀は既に成った。なぜわざわざ獣の口に入るのか」。惠達は言った、「蕭王は左右に誤らされたのである。今行けば、あるいは考えを改めるであろう」。到着した時、寶夤の反逆の形跡は既に露わになり、繕うことができず、ついに惠達を用いて光祿勲・中書舎人とした。寶夤が敗れた後、人々は皆逃げ散ったが、ただ惠達ら数人がこれに従った。寶夤は惠達に言った、「人生富貴の時は、左右皆節を尽くすと言うが、厄難に遭って初めて、歳寒(の松柏)を知るのである」。
賀拔岳が寶夤を捕らえて洛陽に送り、惠達を留めて府の祭酒とし、衣服と馬を与え、すぐに参議させた。岳が関中大行臺となると、惠達を従事中郎とした。かつて洛陽に使いした時、魏の孝武帝が惠達と語り、世の難に及んだ。惠達は天下の事勢を述べ、岳に誠実な節操があり、ただ国を憂い乱を定めることを事としていると述べた。言辞が激切であったので、帝は大いにこれを嘉した。帰還すると、ことごとく岳に報告した。岳は言った、「人は天に生まれ、君より命を受ける。どうして人の栄禄を利することあって、その禍難を憂えぬことがあろうか。卿の奏上したことは、実にわが心を得ている」。これより後、一層親しく礼遇された。岳は征討するたびに、常に惠達に居守を命じた。また岳の府の属官に転じた。
岳が侯莫陳悅に害されると、悅は惠達を得て、官職に就けようとした。惠達は病気を理由に辞退したが、許されず、そこで漢陽の麥積崖に遁走した。悅が平定されると、惠達は太祖(宇文泰)のもとに帰順し、すぐに秦州司馬に任ぜられ、隴右を安んじ集めた。太祖が大都督として兵を総管し雍州より挙兵すると、再び惠達を府司馬とし、すぐに委任した。魏の孝武帝が詔して太祖に馮翊長公主を娶らせ、惠達を長史として洛陽に赴き奉迎させた。潼関に至ると、孝武帝が既に西遷したと聞き、すぐに惠達を先発させた。太祖は惠達に言った、「昔、周が東遷した時は、晉と鄭とが依り頼んだ。今、乗輿が播越して関右に降臨された。我は不肖ながらその任に当たるが、才能は昔の人に愧じる。卿は力を尽くし、共に功業を成し遂げ、富貴を得るがよい」。これに対し答えて言った、「惠達は官遊すること数年、明公の一匡の運に属し、富貴の事は敢えて望みません。ただ明公の威徳が天下に加わり、惠達がその微力を効することを得れば、それで志願は尽きます」。
太祖が大將軍・大行臺となると、惠達を行臺尚書・大將軍府司馬とし、文安県子に封じ、邑三百戸を与えた。太祖が華州に出鎮すると、惠達を留めて後事を知らせた。当時は喪乱を承けた後で、諸事多く欠けていた。惠達は兵器を造営し、食糧を蓄積し、兵士と馬匹を簡閲して、軍国の務めを助け、当時大いに頼りにされた。安東將軍となり、太子少傅を拝し、爵を伯に進め、邑三百戸を増やした。まもなく中書令に任ぜられ、爵を公に進め、邑を増やして前と合わせて九百戸とし、衞大將軍・左光禄大夫を加えられた。
四年、尚書右僕射を兼ねた。その年、太祖と魏の文帝が東征し、惠達は魏の太子を補佐して居守し、留臺の事を総管した。惠達は前後して辞讓したが、帝は手詔で答えて言った、「西顧の憂いは、ただ公に属する。蕭何・寇恂の重責を、深く寄託する」。邙山で軍律を失い、人情が駭動した時、趙青雀が東人の徒を率いて長安の子城を占拠して反逆した。惠達は太子を奉じて渭橋の北に出てこれを防いだ。軍が帰還すると、青雀らは誅殺された。吏部尚書を拝した。久しくして、再び右僕射となった。
関右の草創以来、礼楽が欠けていた。惠達は礼官と共に旧章を損益し、ここに至って儀軌がようやく整った。魏の文帝が朝で楽を奏するに当たり、顧みて惠達に言った、「これは卿の功である」。まもなく儀同三司を拝した。
惠達は顕職に居ながらも、性質謙遜で、よく人に下り、心を尽くして公に勤め、良士を進め抜擢した。このため人々は皆これを敬い付き従った。十年、薨去した。子の題が嗣いだ。隋の開皇の初め、惠達が前代に著しい功績を立てたことを以て、蕭国公を追封された。
馮景
馮景は字を長明といい、若い頃惠達と志を同じくして友となった。延昌年中、梁の賊が徐・揚を寇掠した時、景は蕭寶夤に言った、「今、梁寇が侵凌し、朝廷は辺境を鎮める将を思っています。王がもし率先して命に効すれば、家国の恥を雪ぐのみならず、また身を保つ長策でもあります」。寶夤は深くこれを然りとした。寶夤が大都督となると、景を功曹参軍とした。後に右僕射となり、景を引いて省に入れ、尚書都令史を領させた。正光年中、寶夤が関西大行臺となると、また景に陵江將軍を仮授し、大行臺都令史を領させ、寶夤に従って征討した。寶夤が挙兵して反逆しようとした時、景は固く諫めたが、聞き入れられなかった。
寶夤が敗れた後、景は洛陽に帰還した。朝廷は先に景に諫言があったと聞いていたので、これを免じた。奉車都尉に任ぜられた。汝陽王元叔昭が隴右大行臺となると、景を行臺郎中とするよう上奏した。賀拔岳が大都督となると、また景を従事中郎とした。太祖が侯莫陳悅を平定すると、景を洛陽郡守とし、まもなく行臺左丞を兼ね、原州に留守した。魏の孝武帝が西遷すると、高陽県伯に封じられ、邑三百戸を与えられた。散騎常侍・行臺尚書に遷り、瀛州刺史を加えられた。大統の初め、涇州の事務を行った。後に病気で卒した。
楊寬は字を景仁といい、弘農郡華陰県の人である。祖父の恩は、魏の鎮遠將軍・河間内史であった。父の鈞は、博学で記憶力が強く、秀才に挙げられ、大理平を拝し、廷尉正に転じた。累遷して、洛陽令・左中郎将・華州大中正・河南尹・廷尉卿・安北將軍・七兵尚書・北道大行臺・恆州刺史・懷朔鎮将を歴任し、鎮で卒した。侍中・司空公を追贈され、臨貞県伯を追封され、諡を恭といった。
寬は若い頃から大志があり、いつも諸児童と遊ぶ時は、必ず高大な物を選んでその上に座り、見る者は皆これを異としていた。成長すると、やや文章を綴ることを解し、特に武芸を尚んだ。弱冠で奉朝請に任ぜられた。鈞が恆州に出鎮することに属し、従って効力を展べんことを請うたので、そこで將軍・高闕戍主に改めて任ぜられた。当時、茹茹が既に乱れ、その主の阿那瓌が来奔した。魏帝は使者を遣わしてこれを受け入れ、詔して鈞に兵を率いて護送させた。寬もこれに従い、功により行臺郎中を拝した。当時、北辺の賊が鎮城を攻囲し、鈞が卒すると、城民らは寬を推して守禦させた。まもなく城は陥落し、寬は北へ走って茹茹に入った。後に鎮の賊を討ち、これを破り、寬はようやく朝廷に帰還することができた。
魏の広陽王元深は楊寛と平素より親密に交わり、元深が法を犯して罪を得た際、楊寛も連座して逮捕された。魏の孝荘帝(当時は侍中)は楊寛と旧知の間柄であり、彼を自邸に匿い、赦令に遇って難を免れた。宗正丞に任ぜられる。北海王元顥は若い頃から楊寛を器重しており、当時大行臺として葛栄を北征するにあたり、楊寛を左右丞に起用し、謀議に参与させようと望んだ。楊寛は孝荘帝の厚恩未だ報いず、利を見て動くは義にあらずと辞退した。元顥はこれを許さなかった。元顥の妹婿李神軌が元顥に言うには、「楊寛は義士なり。匹夫ですら志を奪うべからず、ましてや義士をや。王今彼を強いて従わせようとも、用いられぬことを恐れる」と。元顥はそこで止めた。孝荘帝が即位すると、通直散騎侍郎に任ぜられ、河南尹丞を領し、洛陽令を代行した。
邢杲が反乱を起こすと、楊寛は都督として太宰・上党王元天穆に従い討伐して平定した。そのまま通直散騎常侍に任ぜられた。軍が未だ帰還せぬうち、元顥が梁より洛陽に入ったため、孝荘帝は河内に出奔した。元天穆は恐れ、策なく、諸将を集めて謀議した。楊寛は言う、「呉の兵は軽佻にして、王の敵にあらず。況や孤軍を懸けて深入りし、師老いて兵疲れ、強弩の末、何を為さんや。願わくは直ちに成臯を取って、伊洛に兵を会し、帯(元顥)を戮し定襄(孝荘帝)を定むるは、此に在り。この事は朽ち木を摧くが如く容易く、王何ぞ疑わん」と。元天穆はこれを然りとし、軍を率いて成臯に向かい、楊寛と爾朱能に後詰めを命じた。間もなく衆議に従い不可とし、石済に回軍した。楊寛は夜道に迷い、期に後れた。諸将は皆言う、「楊寛は若い頃北海王と交わりあり、今来ぬであろう」と。元天穆は答えて曰く、「楊寛は去就軽き者にあらず。その逗留するには、必ず他故あらん。吾諸君のために保証しよう」と。語り終わって間もなく、斥候が楊寛の到着を告げた。元天穆は腿を撫でて笑い、「吾固より其の必ず来らんことを知れり」と言い、急いで帳外に出て迎え、その手を握り「是れ吾が望む所なり」と言った。即ち牛三十頭、車五乗、綿絹十五車、羊五十口を与えた。元天穆と共に太行で孝荘帝に謁し、散騎常侍・安東將軍に任ぜられた。引き続き都督として、河内平定に従い、北中城を包囲した。
時に梁の将軍陳慶之が元顥の兵として北門を守り、元天穆は包囲陣の外に駐屯し、楊寛を遣わして城下で陳慶之を説得させた。楊寛は先ず自ら姓名を名乗り、それから語りかけ、利害を詳しく述べて、早く降伏するよう勧めた。陳慶之は答えなかった。久しくして、ようやく言うには、「賢兄(楊寛の兄)撫軍(楊昱)がここにおり、是非お会いしたい」と。楊寛は答えて曰く、「僕の兄は既に力屈して王威に降り、逆党に身を沈めたり。人臣の理、何ぞ煩わして会わんや。先に姓名を申し上げた所以は、兄が彼処に在るを知らぬにあらず。ただ信は疑われず、忠は令徳なりと信ずるが故なり。僕の兄弟のことは、幸いに言うを待たず。ただ良き図りを議し、自ら多福を求むべし」と。元天穆はこれを聞き、左右に謂いて曰く、「楊寛は大いに人に異なり、何ぞここまで形勢の便利を惜しまぬや」と。これより一層敬重した。孝荘帝が復位すると、中軍將軍・太府卿・華州大中正に任ぜられ、澄城県伯に封ぜられ、邑三百戸を賜った。
爾朱栄が誅殺されると、その従弟爾朱世隆らは部曲を擁して城門を焼き、河橋を占拠して出て、還って京師を脅迫した。楊寛は鎮北將軍・使持節・大都督に進められ、機に応じて防禦した。爾朱世隆は楊寛に言う、「太宰(爾朱栄)の相知の深きを忘れたか」と。楊寛は答えて曰く、「太宰は礼をもって愛せり、人臣の交わりなり。今日の事は、君に事うる常の節なり」と。爾朱世隆は北走し、楊寛は河内まで追撃した。間もなく爾朱兆が洛陽を陥とし、孝荘帝を囚執した。楊寛は洛陽に戻れず、遂に成臯より梁に奔った。建業に至り、孝荘帝が弑逆されたと聞き、楊寛は哀悼の礼を尽くした。梁の武帝はその義を称え、厚く待遇した。間もなく礼を以て送還され朝廷に帰った。下邳に至ると、爾朱仲遠が楊寛の官爵を復するよう上奏し、大行臺吏部尚書として留め置かれた。
楊寛に二人の兄あり、楊穆と楊儉である。楊穆は字を紹叔という。魏の永安年中、華州別駕に任ぜられた。孝武帝の末、楊寛が澄城県伯の爵位を楊穆に譲ることを請うた。詔はこれを許し、そのまま中軍將軍・金紫光禄大夫に任ぜられ、車騎將軍・都督幷州諸軍事・幷州刺史に任ぜられた。家において卒した。驃騎大將軍・開府儀同三司・華州刺史を追贈された。
柳儉は字を景則という。容姿は立派で、才能と行いがあった。魏の正始年間(240–249)に、初めて侍御史に任じられ、奉朝請を加えられ、員外散騎侍郎に転じた。孝昌年間(525–527)に、鎮遠将軍・頓丘太守に任じられた。任地に赴く前に、元顥が軍に随行するよう請願した。建義初年(528)、給事黄門侍郎・左将軍・太府少卿を兼ねた。元顥が洛陽に入ると、撫軍将軍に任じられた。孝荘帝が復位すると、家に罷免された。まもなく散騎常侍・都督潁州諸軍事・潁州刺史に任じられた。建明年間(530–531)に、征南将軍・金紫光禄大夫を加えられた。孝武帝の初め(532)、衛将軍・北雍州刺史に任じられた。政治は寛大で恵みを重んじ、異民族も漢人も安んじた。孝武帝が西遷すると、侍中・驃騎将軍に任じられた。大統初年(535)、本官のまま東秦州の事務を代行し、使持節・当州大都督を加えられた。沙苑で斉の神武帝(高歓)を破った功績により、夏陽県侯に封じられ、邑八百戸を賜った。七年(541)、大丞相府諮議参軍を兼ね、都督東雍華二州諸軍事・驃騎大将軍・開府儀同三司・華州刺史として出向した。八年(542)、家で死去した。本官を追贈され、諡は静といった。
柳慶は字を更興といい、解県の人である。五世の祖の柳恭は、後趙に仕えて河東郡守となった。後に秦・趙の地に動乱が起こると、民を率いて南に移り、汝水・潁水の間に居住したため、代々江南の朝廷に仕えた。祖父の柳縃は、宋の同州別駕・宋安郡守となった。父の柳僧習は、斉の奉朝請であった。魏の景明年間(500–503)に、豫州刺史の裴叔業とともに州を挙げて魏に帰順した。北地・潁川の二郡太守、揚州大中正を歴任した。
柳慶は幼い頃から聡明で機敏であり、度量があった。広く諸書に通じたが、章句の学には拘らなかった。酒を好み、応対に巧みであった。十三歳の時、書物を日に干していると、僧習が柳慶に言った。「お前は聡明ではあるが、私は特に試したことはない。」そこで柳慶に雑賦集の中から賦一篇、千余言を取らせると、柳慶は立ちながら三度読み、すぐに暗誦し、何も漏らさなかった。当時、僧習は潁川郡守であり、その地は都の近郊に接し、豪族が多い土地柄であった。郷官を選ぶ際、皆が権勢に頼って競って請託してきた。選任が決まらないうちに、僧習は息子たちに言った。「権貴の請託は、私は一切用いない。その使者が帰るには、皆返答が必要だ。お前たちはそれぞれ思うところを私の返書として書いてみよ。」柳慶は詳細な書状の草稿を書いた。「下官は大邦の任を受け、官吏を選ぶ日にあたり、有能な者を進め、不肖な者を退ける。これは朝廷の恒常の定めである。」僧習はその文を読んで嘆息し、「この子は気概がある。大丈夫は理、かくあるべきだ。」と言い、すぐに柳慶の草稿に従って返答した。初めて奉朝請に任じられた。
柳慶は四番目の叔父の後を継いでいたが、父の喪に遭った時、議論する者が重服を着ることを許さなかった。柳慶は涙を流して言った。「礼とは人情に基づくものである。もし後を継いだ家に、さらに苴斬の服(重喪の喪服)があるならば、これを奪ってあちらに従うこともできよう。今、四叔父は亡くなって久しく、事情は追うべくもない。どうして礼を奪い、天性に背くことができようか。」当時の論議も抑えることができず、遂に喪に服して藁の寝床と土塊の枕で喪を終えた。葬った後、諸兄とともに土を背負って墳墓を築いた。喪が明けると、中堅将軍に任じられた。
魏の孝武帝が西遷しようとした時、柳慶を散騎侍郎に任じ、駅伝で関中に入らせた。柳慶は高平で太祖(宇文泰)に会い、時事について議論した。太祖はすぐに車駕を奉迎することを請い、柳慶に先に帰って復命するよう命じた。当時、賀抜勝が荊州におり、帝は左右を退けて柳慶に言った。「高歓はすでに河北に駐屯し、関中の兵はまだ到着していない。朕は荊州に行きたいと思うが、卿の考えはどうか。」柳慶は答えて言った。「関中は金城千里、天下の強国です。宇文泰は忠誠を奮い起こし、朝廷の良臣です。陛下の聖明をもって、宇文泰の力用に依り、進んでは東に向かって群雄を制し、退いては関を閉ざして天府を固めることができます。これは万全の計です。荊州の地は要害ではなく、兵も少なく弱く、外には梁の寇に迫られ、内には高歓の党を防がねばなりません。これは危亡を恐れるべき状態であり、どうして宏大な基業を固められましょうか。臣の判断では、その可なるを見ません。」帝は深くこれを受け入れた。
帝が西遷すると、柳慶は母が老齢のため従わなかった。独孤信が洛陽を鎮守した時、ようやく関中に入ることができた。相府東閤祭酒に任じられ、記室を兼ね、戸曹参軍に転じた。八年(542)、大行臺郎中に遷り、北華州長史を兼ねた。十年(544)、尚書都兵に任じられ、郎中は元のままとし、記室も兼ねた。
当時、北雍州が白鹿を献上し、群臣が上表文を起草して祝賀しようとした。尚書の蘇綽が柳慶に言った。「近代以来、文章は華美に流れ、江左に至っては、ますます軽薄である。洛陽の後進たちは、これを祖述してやまない。相公(宇文泰)は民の軌範を執り、君の職は文書を司る。この表を作って、以前の弊風を革めるべきである。」柳慶は筆を執ってすぐに書き上げ、文辞は文飾と質実を兼ねていた。蘇綽は読んで笑い、「枳と橘ですら移し得るというのに、まして才子であるならばなおさらだ。」と言った。まもなく本官のまま雍州別駕を兼ねた。
広陵王の元欣は、魏の宗室の近親である。その甥の孟氏が、しばしば横暴を働いていた。ある者が彼の牛泥棒を告発した。柳慶が捕らえて取り調べると事実であり、急いで拘禁するよう命じた。孟氏は少しも恐れる様子がなく、かえって柳慶に言った。「今もし私に枷をはめたなら、後でどうやって外すというのか。」元欣もまた使者を遣わして無罪を弁明した。孟氏はこれによってますます驕った。柳慶はそこで大いに官僚を集め、孟氏が権威ある外戚に依って、侵害・虐待している様子を大いに述べた。言い終わると、すぐに鞭打ちの刑で殺させた。この後、貴戚は手を控え、侵害・暴行を敢えてしなくなった。
太祖(宇文泰)がかつて安定国の臣下である王茂に怒り、これを殺そうとしたが、その罪はなかった。朝臣たちは皆知っていたが、敢えて諫める者はいなかった。柳慶が進み出て言うには、「王茂に罪はありません。どうして殺そうとなさるのですか」。太祖はますます怒り、声と表情は甚だ厳しく、柳慶に言った、「王茂は死罪に当たる。卿がもし彼に罪がないと明らかにするならば、卿もまた連座しなければならない」。そして柳慶を前に引き据えた。柳慶は言葉と態度を屈せず、声を張り上げて言った、「臣は聞きます。君に不達(道理に通じない)があれば不明であり、臣に争わない(諫めない)があれば不忠であると。慶は謹んで愚かな誠を尽くし、実に死を惜しむことは致しませんが、ただ公が不明の君となられることを恐れるのみです。深くお察しください」。太祖はようやく悟り、王茂を赦そうとしたが、すでに及ばなかった。太祖は黙然とした。翌日、柳慶に言った、「私は卿の言葉を用いなかったために、ついに王茂を冤罪で死なせてしまった。王茂の家に銭帛を賜い、私の過ちを顕彰せよ」。まもなく爵位を子に進め、封邑を三百戸増やした。十五年(549年)、平南将軍を加えられた。十六年(550年)、太祖が東征するに当たり、柳慶を行台右丞とし、撫軍将軍を加えた。帰還後、尚書右丞に転じ、通直散騎常侍を加えられた。魏の廃帝(元欽)の初め、民部尚書に任じられた。
柳機は字を匡時といい、若い時から良い評判があり、風采と物腰、言葉遣いは当世に推重された。小納言・開府儀同三司・司宗中大夫を歴任した。大象年間(579-580年)、御正上大夫・華州刺史となった。
柳機の弟の柳弘は、字を匡道といい、若い時から聡明で機知に富み、また草書・隷書をよくし、広く群書に渉猟し、文辞の彩りは雅やかで豊かであった。弘農の楊素と莫逆の交わりを結んだ。巾を解き(官に就き)、中外府記室参軍となった。建德初年(572年)、内史上士に任じられ、小宮尹・御正上士を歴任した。陳が王偃民を使者として来聘した時、高祖(武帝宇文邕)は柳弘に命じてこれを慰労させた。王偃民は柳弘に言った、「来たる日、藍田に至った時、ちょうど滋水が暴漲し、携えてきた国信(国書と贈り物)が溺れ流されてしまいました。今進上するものは、従吏から借りたものです。下流の人々に命じて、これを追い尋ねさせてください」。柳弘は言った、「昔、淳于髡が空の籠を献上したことは、前史が美談として称えています。足下が物を借りて進上するのは、果たして陳君の命によるものですか」。王偃民は恥じて答えることができなかった。高祖はこれを聞いて柳弘を賞賛し、王偃民が進上した物をすべて柳弘に賜り、なおも命じて返聘(答礼の使者)を行わせた。応対は詳細で機敏であり、当時に称えられた。使いから還ると、内史都上士に拝され、御正下大夫に遷った。まもなく官の任上で卒した。時に三十一歳。高祖は甚だ惜しんだ。晋州刺史を追贈された。楊素が誄を述べて言った、「山陽の王弼、風流長く逝く。潁川の荀粲、零落する時無し。修竹は池に夾まり、永く梁園の賦を絶つ。長楊は沼に映じ、復た洛川の文無し」。彼が士友に痛惜されたのはこのようなものであった。文集が世に行われた。
柳慶の三人の兄は、柳鷟・柳虯・柳檜である。柳虯と柳檜はそれぞれ別に伝がある。柳鷟は学問を好み、文章をよくした。魏の臨淮王(元彧)の記室参軍事となった。早世した。
子の柳帯韋は、字を孝孫という。深沈として度量があり、若い時から学問を好んだ。身長は八尺三寸、風采は美しく、応対をよくした。韓賢がかつて洛州刺史であった時、召し出して主簿とした。後に諸父と共に朝廷に帰順し、太祖に召し出されて参軍となった。
時に侯景が江右(長江中流域)で乱を起こすと、太祖は柳帯韋を使者として江州と郢州の二州に遣わし、梁の邵陵王(蕭綸)と南平王(蕭恪)の二王と友好を通じさせた。安州に至った時、仮宝らが反乱を起こしたため、柳帯韋は太祖の書状を偽造して彼らを慰撫し、皆すぐに降伏帰附した。郢州に到着し、邵陵王に会うと、詳しく太祖の意を申し述べた。邵陵王はすぐに使者を柳帯韋に随行させて返命させた。使命を奉じて意にかなったため、輔国将軍・中散大夫に任じられた。
十七年(551年)、太祖は大将軍の達奚武を遣わして漢川を経略させ、柳帯韋を行台左丞として従軍させ、南征に従った。時に梁の宜豊侯蕭循が南鄭を守っていたが、達奚武はこれを攻め落とせなかった。そこで柳帯韋に命じて城中に入り、蕭循を説得させた、「足下が固めているのは険阻であり、恃んでいるのは援軍であり、守っているのは民衆です。今、王師は棧道を深く入り、漢川に長駆しています。これが、頼みとする険阻が固めに足りないということです。武興は前に陥落し、白馬は後に破亡し、その他の川谷の酋豪たちは、道が阻まれて敢えて進みません。これが、望む援軍が恃むに足りないということです。親戚を顧み、誅殺されることを恐れ、栄誉を貪り利益を慕うのは、生きる者の常です。今、大軍が総じて至り、長い包囲が四方を囲み、逃亡者を殺して安居を勧め、先に降る者を賞して後に服する者を招いています。人は皆、禍を転ずる計らいを懐き、家は皆、安堵の謀りごとを図っています。これが、統べる民衆が守りに足りないということです。かつ足下の本朝は喪乱し、社稷には主がありません。忠を尽くそうとしても何に託すべきか、節に死んでも名を成すに足りません。窃かに足下の取るところではないと思います。僕は聞きます。賢者は時を見て動き、智者は変に因って功を立てると。当今、足下のために計るならば、肉袒して軍門に至り、下吏に帰命し、生民を塗炭から免れさせ、髪膚を孝道において全うすることに如くはありません。必ずや青綬を紆らし紫綬を引き、土を裂き珪を分け、名は当時に重く、業は後嗣に光るでしょう。どうして進退根拠なく、身も名も共に滅びる者と比べられましょうか」。蕭循はこれを認め、後に降伏した。
時に譙王宇文儉は益州総管、漢王宇文賛は益州刺史たり。高祖(武帝)は乃ち韋瓉を以て益州総管府長史と為し、益州別駕を領せしめ、二王を輔弼し、軍民の事を総知せしむ。建德年中(572-578年)、大軍東討するに当たり、韋瓉を徴して前軍総管斉王宇文憲の府長史と為す。北斉平定後、功により上開府儀同大将軍を授かり、爵を公に進め、邑一千戸を増す。陳王宇文純が并州に出鎮するに当たり、韋瓉を以て并州司会・并州総管府長史と為す。六年(建徳六年、577年)、位に卒す。時に年五十五。諡して愷と曰う。子の韋祚、嗣ぐ。少より名誉有り。大象末(580-581年)、宣納上士たり。
史臣曰く、周恵達は蕭宝夤に見礼せられ、楊寛は爾朱晋泰に恩荷す。既にして蕭氏(宝夤)罪を得、荘帝(北魏孝荘帝)出居するに及び、遂に能く寇戎と契闊し、興亡を以て慮を革めず、崎嶇危難に在りて、夷険を以て心を易えず。斯れ固より篤終の士なり。柳慶は束帯して朝に立ち、匪躬の節を懐き、官に莅み政に従い、清白の美を著わす。並びに興運に遭逢し、各々志能を展べ、誉は縉紳に重く、望は端揆に隆し。虚しく云うに非ず。然れども慶は権寵を畏避し、宰臣に違忤す。一時に詘を取ると雖も、実に千載に申ばるるを得たり。