史記
巻六十九 蘇秦列傳 第九
蘇秦
蘇秦は、東周の雒陽の人である。東の方へ行き斉に師事し、鬼谷先生に就いて学んだ。
外遊すること数年、大いに困窮して帰った。兄弟・嫂・妹・妻・妾はひそかに皆これを笑い、言うには、「周人の習わしは、産業を治め、工商に力を尽くし、什二の利を追うことを務めとする。今、子は本業を捨てて口舌の業に従事し、困窮するのは、当然ではないか」と。蘇秦はこれを聞いて恥じ、自ら傷み、乃ち室に閉じこもって出ず、その書を取り出して遍くこれを観た。言うには、「そもそも士たるもの、既に首を屈して書を受けながら、これによって尊栄を取ることができぬならば、多くとも何の役に立とうか」と。ここにおいて周書陰符を得て、伏してこれを読み、一年にして、これを出して揣摩し、言うには、「これは以て当世の君を説くことができる」と。周の顕王を説こうと求めた。顕王の左右は平素より蘇秦を知っており、皆これを軽んじた。信じなかった。
乃ち西の方へ秦に行った。秦の孝公は卒した。恵王を説いて言うには、「秦は四方を塞がれた国であり、山に被われ渭水を帯び、東に関河があり、西に漢中があり、南に 巴蜀 があり、北に代馬がある。これは天府である。秦の士民の衆と兵法の教えとをもってすれば、天下を呑み、帝と称して治めることができる」と。秦王は言うには、「毛羽未だ成らずして、高く飛ぶべからず。文理未だ明らかでなくして、併兼すべからず」と。丁度商鞅を誅したばかりで、弁士を憎み、用いなかった。
乃ち東の方へ趙に行った。趙の粛侯はその弟の成を相とし、奉陽君と号していた。奉陽君は彼を喜ばなかった。
去って燕に遊び、一年余りして後にようやく謁見を得た。燕の文侯を説いて言うには、「燕は東に朝鮮・遼東があり、北に林胡・楼煩があり、西に雲中・九原があり、南に嘑沱・易水があり、土地は二千余里四方、甲を帯びる者数十万、車六百乗、騎六千匹、粟は数年を支える。南には碣石・雁門の豊饒があり、北には棗栗の利があり、民は耕作しなくても棗栗で足りる。これこそいわゆる天府というものである。
「安楽にして事なく、軍覆え将殺されるのを見ないのは、燕に過ぐるものはない。大王はその所以然たる理由をご存知か。そもそも燕が寇に犯されず甲兵を被らないのは、趙がその南を蔽っているからである。秦と趙は五度戦い、秦は二度勝ち趙は三度勝った。秦と趙は互いに斃れ、而して王は全燕をもってその後を制する。これが燕が寇に犯されない所以である。且つ秦が燕を攻めるには、雲中・九原を踰え、代・上谷を過ぎ、地を数千里に亘り、たとえ燕の城を得ても、秦の計らいでは固より守ることができない。秦が燕を害することができないのもまた明らかである。今、趙が燕を攻めるには、号令を発し出だせば、十日と経たずして数十万の軍が東垣に軍するであろう。嘑沱を渡り、易水に渉れば、四、五日と経たずして国都に迫るであろう。故に言う、秦が燕を攻めるのは千里の外で戦い、趙が燕を攻めるのは百里の内で戦う、と。百里の患いを憂えずして千里の外を重んずるのは、計らいとしてこれに過ぐるものはない。是をもって願わくは大王、趙と合従して親しみ、天下を一つにすれば、則ち燕国必ず患い無からん」と。
文侯は言うには、「子の言うことはもっともである。しかし我が国は小さく、西は強趙に迫られ、南は斉に近い。斉・趙は強国である。子が必ずや合従して燕を安んじたいと願うなら、寡人は国を以て従おう」と。
ここにおいて蘇秦に車馬金帛を資して趙に行かせた。而して奉陽君は既に死んでいた。即ち趙の粛侯を説いて言うには、「天下の卿相人臣及び布衣の士は、皆賢君の行義を高くし、皆教えを奉り忠を前に陳することを願って久しい。然りといえども、奉陽君が嫉み而して君は事を任せられなかった。是をもって賓客遊士、敢えて前に自ら尽くす者無し。今、奉陽君は館舎を捐てた。君は今や復た士民と親しまれる。臣故に敢えてその愚慮を進める。
「ひそかに君の為に計らうに、民を安んじて事無きに如くはなく、且つ民に事有るを用いざるに如くはない。民を安んずる根本は、交わりを択ぶに在り。交わりを択びて得れば則ち民安く、交わりを択びて得ざれば則ち民終身安からず。外患を言わんことを請う。斉秦を両敵とすれば民安からず、秦に倚って斉を攻めれば民安からず、斉に倚って秦を攻めれば民安からず。故に人の主を謀り、人の国を伐つ者は、常に辞を出だして人の交わりを断絶するを苦しむ。願わくは君、慎んで口より出ださざれ。別に白黒の所以異なる所、陰陽のみを請う。君誠に臣の言を聴かれるならば、燕は必ずや旃裘狗馬の地を致し、斉は必ずや魚塩の海を致し、楚は必ずや橘柚の園を致し、韓・魏・中山は皆湯沐の奉を致さしむべく、而して貴戚父兄は皆封侯を受くべし。夫れ地を割き利を包むは、五覇の軍覆え将を禽えて求むる所以なり。封侯貴戚は、湯武の放伐して争う所以なり。今、君は高く拱して両者を有たれる。これ臣の君の為に願う所以なり。
「今、大王が秦と与すれば、則ち秦は必ず韓・魏を弱め、斉と与すれば、則ち斉は必ず楚・魏を弱める。魏弱ければ則ち河外を割き、韓弱ければ則ち宜陽を献じ、宜陽を献ずれば則ち上郡絶え、河外を割かれれば則ち道通ぜず、楚弱ければ則ち援無し。この三つの策は、熟計せざるべからず。
「そもそも秦が軹道を下れば、則ち南陽危うく、韓を劫いて周を包めば、則ち趙氏自ら兵を操り、衛を拠り巻を取れば、則ち斉は必ず秦に入朝す。秦の欲やむこと山東に得て、則ち必ず兵を挙げて趙に向かわん。秦の甲兵が河を渡り漳を踰え、番吾を拠れば、則ち兵は必ず邯鄲の下で戦わん。これ臣の君の為に患うる所以なり。
「当今の時、山東に建国するもの、趙より強きは無し。趙の地は二千余里四方、甲を帯びる者数十万、車千乗、騎万匹、粟は数年を支える。西に常山があり、南に河漳があり、東に清河があり、北に燕国がある。燕は固より弱国、畏るるに足らず。秦が天下において害とするもの、趙に如くは無し。然るに秦敢えて兵を挙げて趙を伐たざるは、何ぞや。韓・魏がその後を議するを畏れるからである。然らば則ち韓・魏は趙の南の蔽いである。秦が韓・魏を攻めるには、名山大川の限り無く、少しずつ蚕食し、国都に傅いて止まる。韓・魏は秦を支えられず、必ず秦に入臣す。秦に韓・魏の 規 無ければ、則ち禍は必ず趙に中らん。これ臣の君の為に患うる所以なり。
臣は聞く、堯には三夫の分もなく、舜には咫尺の地もなくして、天下を有ち、禹には百人の聚もなくして、諸侯を王とし、湯・武の士は三千を過ぎず、車は三百乗を過ぎず、卒は三萬を過ぎずして、天子と立てられた。誠に其の道を得たればなり。是の故に明主は外に其の敵の強弱を料り、内に其の士卒の賢不肖を度り、両軍相対するを待たずして勝敗存亡の機固より已に胸中に形を成す。豈に衆人の言に揜はれて冥冥として事を決せんや。
臣窃かに天下の地図を案ずるに、諸侯の地は秦に五倍し、諸侯の卒を料度すれば秦に十倍す。六国一つとなり、力を併せて西に向かひて秦を攻めば、秦必ず破れん。今西面して之に事へ、秦に臣たるを見る。人の破るるのと人に破らるるのと、人の臣たるのと人に臣たるのと、豈に同日に論ぜんや。
夫れ衡人なる者は、皆諸侯の地を割きて以て秦に与へんと欲す。秦成れば則ち高台榭を築き、美宮室を飾り、竽瑟の音を聴き、前に楼闕軒轅有り、後に長姣美人有り、国秦の患を受けながら其の憂ひに与からず。是の故に夫れ衡人は日夜務めて秦の権を以て諸侯を恐愒し、割地を求む。故に願はくは大王熟計せられよ。
臣は聞く、明主は疑を絶ち讒を去り、流言の跡を屏ひ、朋党の門を塞ぐ。故に主を尊び地を広め兵を強くするの計、臣前に忠を陳ぶるを得るなり。故に窃かに大王の為に計るに、韓・魏・齊・楚・燕・趙を一にして以て従親し、秦に畔かんに如かず。天下の将相をして洹水の上に会せしめ、質を通じ、白馬を刳いて盟はしむ。要約して曰く、『秦楚を攻むれば、齊・魏各鋭師を出だして以て之を佐け、韓其の糧道を絶ち、趙河漳に渉り、燕常山の北を守る。秦韓・魏を攻むれば、則ち楚其の後を絶ち、齊鋭師を出だして之を佐け、趙河漳に渉り、燕雲中を守る。秦齊を攻むれば、則ち楚其の後を絶ち、韓城皋を守り、魏其の道を塞ぎ、趙河漳・博関に渉り、燕鋭師を出だして之を佐く。秦燕を攻むれば、則ち趙常山を守り、楚武関に軍し、齊勃海に渉り、韓・魏皆鋭師を出だして之を佐く。秦趙を攻むれば、則ち韓宜陽に軍し、楚武関に軍し、魏河外に軍し、齊清河に渉り、燕鋭師を出だして之を佐く。諸侯約に如かざる者有らば、五国の兵を以て共に之を伐つ。』六国従親して秦を賓とすれば、則ち秦の甲必ず敢へて函谷より出でて山東を害せざるべし。此くの如くすれば、則ち霸王の業成る。
趙王曰く、「寡人年少にして、国を立てし日浅く、未だ嘗て社稷の長計を聞くを得ず。今上客天下を存し諸侯を安んずるの意有り。寡人敬ひて国を以て従はん。」乃ち車百乗を飾り、黄金千溢、白璧百双、錦繡千純を以て諸侯に約す。
是の時に周天子文武の胙を秦恵王に致す。恵王犀首をして魏を攻めしめ、将龍賈を禽へ、魏の雕陰を取り、且つ東に兵を出ださんと欲す。蘇秦秦兵の趙に至るを恐れ、乃ち張儀を激怒せしめ、之を秦に入る。
是に於て韓宣王に説きて曰く、「韓は北に鞏・成皋の固き有り、西に宜陽・商阪の塞き有り、東に宛・穰・洧水有り、南に陘山有り、地方九百余里、甲を帯ぶる者数十万、天下の強弓勁弩皆韓より出づ。谿子・少府時力・距来なる者は、皆六百歩の外を射る。韓卒は足を超えて射れば、百発止む暇無く、遠き者は括蔽して胸を洞し、近き者は鏑弇して心を穿つ。韓卒の剣戟は皆冥山・棠谿・墨陽・合賻・鄧師・宛馮・龍淵・太阿より出づ。皆陸にては牛馬を断ち、水にては鵠鴈を截ち、敵に当たれば則ち堅甲鉄幕を斬り、革抉㕹芮、畢く具はらざる無し。韓卒の勇を以て、堅甲を被り、勁弩を蹠き、利剣を帯び、一人百に当たるも、言ふに足らざるなり。夫れ韓の勁きを以て大王の賢に、乃ち西面して秦に事へ、臂を交へて服し、社稷を羞ぢて天下の笑を為すは、此より大なるは無し。是の故に願はくは大王熟計せられよ。
大王秦に事ふれば、秦必ず宜陽・成皋を求む。今茲之に效し、明年又割地を求む。与ふれば則ち地無くして之に給し、与へざれば則ち前功を棄て後禍を受く。且つ大王の地は尽くる有りて秦の求は已む無し。尽くる有るの地を以て已む無きの求に逆らふは、此れ所謂怨を市ひ禍を結ぶ者なり。戦はずして地已に削がる。臣鄙諺を聞くに曰く、『寧ろ鶏口と為るとも、牛後と為る無かれ。』今西面して臂を交へ臣事秦するは、何ぞ牛後に異ならんや。夫れ大王の賢を以て、強韓の兵を挟みて、牛後の名有らんは、臣窃かに大王の為に羞づ。」
是に於て韓王勃然として色を作し、臂を攘ぎ目を瞋し、剣を按じて天を仰ぎ太息して曰く、「寡人不肖と雖も、必ず秦に事ふること能はじ。今主君趙王の教を以て詔す。敬ひて社稷を奉じて以て従はん。」
又魏襄王に説きて曰く、「大王の地は、南に鴻溝・陳・汝南・許・郾・昆陽・召陵・舞陽・新都・新郪有り、東に淮・潁・煑棗・無胥有り、西に長城の界有り、北に河外・巻・衍・酸棗有り、地方千里。地名は小なれども、然れども田舎廬廡の数、曾て芻牧する所無し。人民の衆、車馬の多き、日夜行きて絶えず、輷輷殷殷として、三軍の衆有るが若し。臣窃かに大王の国を量るに楚に下らず。然るに衡人は王を怵して強き虎狼の秦に交はり以て天下を侵さしめ、卒に秦の患ひ有るも、其の禍を顧みず。強秦の勢を挟みて内に其の主を劫かすは、罪此に過ぐる無し。魏は天下の強国なり。王は天下の賢王なり。今乃ち意有りて西面して秦に事へ、東藩と称し、帝宮を築き、冠帯を受け、春秋に祠る。臣窃かに大王の為に恥づ。
臣は聞く、越王句践戦ひに敝れたる卒三千人を以て、夫差を干遂に禽ふ。武王卒三千人、革車三百乗を以て、紂を牧野に制す。豈に其の士卒衆多なるや、誠に其の威を奮ふ能へばなり。今窃かに大王の卒を聞くに、武士二十万、蒼頭二十万、奮撃二十万、廝徒十万、車六百乗、騎五千匹。此れ其の越王句践・武王を過ぐること遠し。今乃ち羣臣の説に聴きて秦に臣事せんと欲す。夫れ秦に事ふれば必ず地を割きて以て実を效す。故に兵未だ用ひざるに国已に虧く。凡そ羣臣の秦に事ふるを言ふ者は、皆姦人にして忠臣に非ず。夫れ人臣と為り、其の主の地を割きて以て外交を求め、一時の功を偸み取りて其の後を顧みず、公家を破りて私門を成し、外に強秦の勢を挟みて内に其の主を劫かし、以て割地を求めんとは、願はくは大王孰察せられよ。
周書に曰く、『緜緜として絶えずんば、蔓蔓として奈何。毫釐伐たざれば、将に斧柯を用ひんとす。』前慮定まらずんば、後大患有らん。将に之を奈何せん。大王誠に臣に聴き、六国従親し、心を専らにし力を併せ意を一にせば、則ち必ず強秦の患無からん。故に敝邑趙王臣を使はして愚計を效し、明約を奉じ、大王の詔するに在り。」
魏王曰く、「寡人不肖にして、未だ嘗て明教を聞くを得ず。今主君趙王の詔を以て之を詔す。敬ひて国を以て従はん。」
そこで東に向かい斉の宣王を説いて言うには、「斉は南に泰山があり、東に琅邪があり、西に清河があり、北に勃海があり、いわゆる四方に要害を備えた国である。斉の土地は方二千余里、甲冑を帯びた兵は数十万、穀物は丘や山のごとく積まれている。三軍の精鋭、五家の兵は、進むときは鋭い矢のごとく、戦うときは雷霆のごとく、解散するときは風雨のごとし。仮に軍役があっても、かつて泰山を背にし、清河を渡り、勃海を渡ることはなかった。臨菑のうちには七万戸あり、臣がひそかに推し量るに、一戸につき男子三人は下らず、三七二十一万人、遠方の県から徴発するまでもなく、臨菑の兵卒だけで既に二十一万人となる。臨菑は甚だ富み実り、その民は竽を吹き瑟を鼓し、琴を弾き筑を撃ち、闘鶏や走狗、六博や蹴鞠をしない者はない。臨菑の道は、車の轂が触れ合い、人の肩が擦れ合い、衣の襟を連ねれば帷と成り、袖を挙げれば幕と成り、汗を振れば雨と成るほどで、家は殷賑に人は足り、志は高く気は揚がっている。大王の賢と斉の強とを以てすれば、天下に抗しうる者はない。今、かえって西を向いて秦に仕えようとしているのは、臣はひそかに大王のため恥ずかしく思う。
「そもそも韓・魏が秦を重く畏れるのは、秦と国境を接しているからである。兵を出して相対すれば、十日と経たずに戦勝存亡の機は決する。韓・魏が戦って秦に勝ったとしても、兵は半ば折れ、四方の国境は守れない。戦って勝たなければ、国は危うく滅亡がその後に続く。これが韓・魏が秦と戦うことを重んじ、軽々しく臣となる所以である。今、秦が斉を攻めるとなればそうではない。韓・魏の地を背にし、衛の陽晋の道を通り、亢父の険をまっすぐに進むには、車は並んで走れず、騎兵は並んで行けず、百人が険を守れば、千人でも通り過ぎることはできない。秦はたとえ深く入ろうとしても、狼が後ろを顧みるように、韓・魏が背後を討つことを恐れるであろう。それ故に、おびえ疑い虚勢を張って、驕り高ぶって進もうとせず、秦が斉を害することができないことも明らかである。
「秦が斉をどうすることもできないことを深く考えず、西を向いてこれに仕えようとするのは、群臣の計略の誤りである。今、秦に臣事する名はなくして強国の実を有するならば、臣はそれ故に大王に少し留意してこれを計らわれることを願う。」
斉王は言う、「寡人は不敏で、僻遠の海を守り、道の東の境にある国であり、かつて余教を聞いたことがない。今、足下が趙王の詔をもってこれを詔され、謹んで国を従わせる。」
そこで西南に向かい楚の威王を説いて言うには、「楚は天下の強国である。王は天下の賢王である。西に黔中・巫郡があり、東に夏州・海陽があり、南に洞庭・蒼梧があり、北に陘塞・郇陽があり、土地は方五千余里、甲冑を帯びた兵は百万、車は千乗、騎兵は万匹、穀物は十年を支える。これこそ霸王の資である。楚の強と王の賢とを以てすれば、天下に抗しうる者はない。今、かえって西を向いて秦に仕えようとするならば、諸侯はみな西を向いて章台の下に朝することになろう。
「秦が害するものは楚に如くはなく、楚が強ければ秦は弱く、秦が強ければ楚は弱く、その勢いは両立しない。それ故に大王のために計るには、合従して秦を孤立させるに如くはない。大王が従わなければ、秦は必ず両軍を起こし、一軍は武関より出で、一軍は黔中を下り、そうなれば鄢・郢は動揺するであろう。
「臣は聞く、治めるのは未だ乱れないうちにし、為すのは未だ生じないうちにする、と。患いが至ってから憂えても、及ばない。それ故に大王に早く熟慮されることを願う。
「大王が真に臣の言を聴かれるならば、臣は山東の国々に命じて四時の貢ぎ物を奉らせ、大王の明詔を承け、社稷を委ね、宗廟を奉り、士を練り兵を励まし、大王の用いられるままにさせよう。大王が真に臣の愚計を用いられるならば、韓・魏・斉・燕・趙・衛の妙音美人は必ず後宮に満ち、燕・代の駱駝や良馬は必ず外厩に満ちるであろう。それ故に合従が成れば楚は王となり、連衡が成れば秦は帝となる。今、霸王の業を捨てて、人に仕える名を有するのは、臣はひそかに大王の取るところではないと思う。
「そもそも秦は虎狼の国であり、天下を呑み込む心がある。秦は天下の仇敵である。連衡を説く者は皆、諸侯の地を割いて秦に仕えようとするが、これはいわゆる仇を養い敵を奉る者である。人臣たる者が、その主君の地を割いて外に強き虎狼の秦と交わり、天下を侵そうとし、ついに秦の患いがあっても、その禍を顧みない。外に強秦の威を挟んで内にその主君を脅し、地を割くことを求める、大逆不忠、これに過ぎるものはない。それ故に合従すれば諸侯は地を割いて楚に仕え、連衡が成れば楚は地を割いて秦に仕える。この二つの策は相去ること遠く、どちらを大王は取られるか。それ故に弊邑の趙王が臣を使わして愚計を献じ、明約を奉らせたのである。大王の詔を待つ。」
楚王は言う、「寡人の国は西で秦と国境を接し、秦には 巴蜀 を挙げ漢中を併せんとする心がある。秦は虎狼の国であり、親しむことはできない。そして韓・魏は秦の患いに迫られ、深く謀ることはできず、深く謀れば恐らく反対者が秦に入り、謀りごとが未だ発せられぬうちに国は既に危うくなる。寡人は自ら料るに、楚をもって秦に当たっても勝ち目はない。内では群臣と謀っても、頼りにならない。寡人は臥すに安席せず、食うに美味を甘んぜず、心は揺れ動いて旗が懸かってどこにも落ち着かないようである。今、主君が天下を一つにし、諸侯を収め、危うき国を存えさせようとされるならば、寡人は謹んで社稷を奉って従う。」
ここにおいて六国は合従して力を合わせた。蘇秦は従約長となり、六国の相を兼ねた。
北へ趙王に報告し、そこで行くこと雒陽を過ぎるとき、車騎や輜重が多く、諸侯がそれぞれ使者を発して送る者が甚だ多く、王のようであった。周の顕王はこれを聞いて恐れ、道を清め、人をやって郊外で労った。蘇秦の兄弟や妻、嫂は横目で見るだけで敢えて仰ぎ見ず、俯伏して食を取って侍った。蘇秦は笑ってその嫂に言う、「どうして以前は傲慢で後には恭しいのか。」嫂は体をくねらせ蒲のように伏し、顔を地に押し付けて謝して言う、「季子が位高く金が多いのを見たからです。」蘇秦は喟然として嘆いて言う、「これ同じ一人の身であり、富貴であれば親戚もこれを畏れ、貧賤であれば軽んじ易くする、ましてや衆人においておや。かつて私が雒陽の城郭に近い田二頃を持っていたならば、どうして六国の相印を佩くことができたであろうか。」そこで千金を散じて宗族や朋友に賜うた。初め、蘇秦が燕に行ったとき、人から百銭を借りて資金とし、富貴を得てから、百金をもってこれを償った。かつて恩を受けた者すべてに報いた。従者のうち一人だけまだ報いを受けていない者がおり、そこで進み出て自ら言った。蘇秦は言う、「私はお前を忘れたのではない。お前は私と燕に行き、再三易水の上で私を去ろうとした。あの時、私は困窮していたので、お前を深く怨んだ。それ故にお前を後回しにしたのだ。お前も今、その報いを得たのである。」
蘇秦は既に六国を合従させて親しくさせ、趙に帰ると、趙の粛侯は武安君に封じ、そこで従約の書を秦に投げつけた。秦の兵は十五年もの間、函谷関を窺うことができなかった。
その後、秦が犀首を使わして斉・魏を欺き、ともに趙を伐ち、従約を敗ろうとした。斉・魏が趙を伐つと、趙王は蘇秦を責めた。蘇秦は恐れ、燕に使いすることを請い、必ず斉に報いると言った。蘇秦が趙を去ると、従約は皆解けた。
秦の恵王はその娘を燕の太子の妃とした。この年、文侯が卒し、太子が立ち、これが燕の易王である。易王が初めて立つと、斉の宣王は燕の喪に乗じて燕を伐ち、十城を取った。易王は蘇秦に言う、「かつて先生が燕に来られ、先王が先生を資助して趙に見えさせ、遂に六国を合従させられた。今、斉が先ず趙を伐ち、次いで燕に至ったのは、先生の故をもって天下の笑いものとなった。先生は燕のために侵された地を取り戻すことができるか。」蘇秦は大いに慚じて言う、「王のためにこれを取り戻しましょう。」
蘇秦が斉王に謁見し、再拝し、うつむいて慶賀し、仰いで弔問した。斉王が言うには、「これは何たる慶弔の相次ぐ速さか」と。蘇秦が言うには、「臣は聞く、飢えた人が飢えていながら烏喙を食わないのは、それが腹を満たすに益して餓死と同じ禍いを招くからだと。今、燕は弱小ではあるが、すなわち秦王の若い婿である。大王がその十城の利に目がくらんで長く強秦と仇敵となるのは、今、弱燕を雁行の先頭に立たせて強秦がその後ろを疲弊させ、天下の精兵を招くようなもので、これは烏喙を食うのと同じ類いです」と。斉王は憂い顔に色を変えて言うには、「それではどうすればよいか」と。蘇秦が言うには、「臣は聞く、古のよく事を制する者は、禍を転じて福とし、敗に因って功を成すと。大王が真に臣の計を聴かれるなら、すなわち燕の十城を返還なさい。燕は理由なくして十城を得れば、必ず喜ぶ。秦王は己が故に燕の十城が返されたと知れば、また必ず喜ぶ。これこそ仇敵を棄てて石交を得るというものです。燕と秦がともに斉に仕えれば、大王が天下に号令して、敢えて聴かぬ者はありません。これは王が虚辞をもって秦に附き、十城をもって天下を取るというものです。これこそ霸王の業です」と。王が言うには、「善い」と。ここにおいてすなわち燕の十城を返した。
人に蘇秦を誹謗する者がいて言うには、「左右に売国反覆の臣である、乱を起こさんとしている」と。蘇秦は罪を得ることを恐れて帰国したが、燕王が再び官職を与えないのを恐れた。蘇秦が燕王に謁見して言うには、「臣は東周の鄙人であり、分寸の功もなく、王は親しく廟で拝し、朝廷で礼遇されました。今、臣は王のために斉の兵を退け、十城を攻め取りました。よってますます親しくされるべきです。今来て王が臣に官職を与えないのは、人必ずや信ならざるをもって臣を王に傷つける者がいるからです。臣の信ならざるは、王の福です。臣は聞く、忠信なる者は、自らのためにするものであり、進取なる者は、人のためにするものだと。かつ臣が斉王を説いたのは、かつて欺いたのではありません。臣は老母を東周に棄て、固より自為を去って進取を行ったのです。今、孝が曾参の如く、廉が伯夷の如く、信が尾生の如き者がいたとします。この三人を得て大王に仕えさせたなら、いかがでしょうか」と。王が言うには、「足りる」と。蘇秦が言うには、「孝が曾参の如く、義としてその親を離れて一宿も外に泊まらず、王はまたどうして彼をして千里を歩行させ、弱燕の危うき王に仕えさせることができましょうか。廉が伯夷の如く、義として孤竹君の嗣とならず、武王の臣たることを肯んぜず、封侯を受けずして首陽山の下で餓死しました。このような廉があれば、王はまたどうして彼をして千里を歩行させ、斉において進取を行わせることができましょうか。信が尾生の如く、女子と梁の下で期し、女子来たらず、水至りて去らず、柱を抱いて死にました。このような信があれば、王はまたどうして彼をして千里を歩行させ、斉の強兵を退けさせることができましょうか。臣のいわゆる忠信をもって上に罪を得る者というのはこれです」と。燕王が言うには、「ただ忠信でないだけではないか、どうして忠信をもって罪を得る者があろうか」と。蘇秦が言うには、「そうではありません。臣は聞く、客に遠く吏となり、その妻が人と私通する者がいた。その夫が来ようとするとき、その私通者は憂えた。妻が言うには『憂うるな、私はすでに薬酒を作って待っている』と。三日経って、その夫は果たして至った。妻は妾に命じて薬酒を挙げて進めさせた。妾は酒に薬があると言おうとすれば、主母を追い出されることを恐れ、言わないでおこうとすれば、主父を殺されることを恐れた。ここにおいて偽って倒れて酒をこぼした。主父は大いに怒り、五十回鞭打った。故に妾が一度倒れて酒を覆したことで、上は主父を存し、下は主母を存したが、しかしながら鞭打ちを免れなかった。どこに忠信の罪なきことがあるでしょうか。臣の過ちは、不幸にもこれに類するのではないでしょうか」と。燕王が言うには、「先生は元の官職に復せよ」と。ますます厚く遇した。
易王の母は、文侯の夫人であり、蘇秦と私通した。燕王はこれを知りながら、蘇秦への待遇をますます厚くした。蘇秦は誅殺されることを恐れ、すなわち燕王を説いて言うには、「臣が燕に居ては燕を重からしめることができず、斉に在れば則ち燕は必ず重くなります」と。燕王が言うには、「ただ先生のなさるままに」と。ここにおいて蘇秦は偽って燕に罪を得て逃亡し斉に走り、斉の宣王は彼を客卿とした。
斉の宣王が卒し、湣王が即位すると、湣王を説いて厚葬して孝を明らかにし、宮室を高く苑囿を大きくして得意を明らかにさせ、斉を疲弊破壊して燕に利せんとした。燕の易王が卒し、燕の噲が立って王となった。その後、斉の大夫で蘇秦と寵を争う者が多く、人を遣わして蘇秦を刺させた。死なず、重傷を負って逃げた。斉王が人を遣わして賊を求めたが、得られなかった。蘇秦が死の間際に、すなわち斉王に言うには、「臣が死んだら、車裂きにして市中にさらし、『蘇秦は燕のために斉で乱を起こした』と言いなさい。そうすれば臣の賊は必ず得られます」と。ここにおいてその言葉の通りにすると、蘇秦を殺した者が果たして自ら現れ、斉王はこれによって誅殺した。燕はこれを聞いて言うには、「甚だしいことよ、斉が蘇生のために仇を報いるとは」と。
蘇代、蘇厲
蘇秦が死んだ後、その事は大いに漏れた。斉は後になってこれを聞き、すなわち燕を恨み怒った。燕は甚だ恐れた。蘇秦の弟を代といい、代の弟を蘇厲といい、兄の成し遂げたことを見て、ともに学んだ。蘇秦が死ぬと、代はすなわち燕王に謁見を求め、故事を襲おうとした。言うには、「臣は東周の鄙人です。窃かに大王の義が甚だ高いと聞き、鄙人不敏ながら、鋤や耨を捨てて大王に干謁しました。邯鄲に至って、見聞したものは東周で聞いたものに及ばず、臣は窃かにその志を負い、燕の朝廷に至り、王の群臣下吏を観て、王は天下の明王です」と。燕王が言うには、「子のいう明王とはどのようなものか」と。答えて言うには、「臣は聞く、明王はその過ちを聞くことに務め、その善を聞きたがらないと。臣は請うて王の過ちを謁見いたします。斉と趙は、燕の仇敵であり、楚と魏は、燕の援国です。今、王は仇敵を奉じて援国を伐とうとしています。これは燕を利するものではありません。王自ら考えてみてください。これこそ計略の過ちであり、これを聞かせないのは、忠臣ではありません」と。王が言うには、「斉は固より寡人の仇敵であり、伐ちたいと思っているが、ただ国が疲弊し力が足りないことを患えているだけだ。子が燕をもって斉を伐つことができれば、寡人は国を挙げて子に委ねよう」と。答えて言うには、「およそ天下の戦国は七つあり、燕はその中で弱い方にあります。独りで戦えばできず、何かに附けば必ず重くなります。南に楚に附けば楚は重くなり、西に秦に附けば秦は重くなり、中に韓・魏に附けば韓・魏は重くなります。かつもし附く国が重くなれば、これ必ずや王を重くさせます。今、斉は君主が長く在位し自らを用いています。南は楚を攻めて五年、蓄積は尽き、西は秦を困らせて三年、士卒は疲弊し、北は燕人と戦い、三軍を覆し、二将を得ました。しかしながらその余兵をもって南面して五千乗の大宋を挙げ、十二諸侯を包囲しました。これはその君が欲得深く、その民力は尽きており、どうして取るに足りましょうか。かつ臣は聞きます、数え戦えば民は労し、師を久しくすれば兵は疲弊すると」と。燕王が言うには、「私は聞く、斉には清き済水、濁れる黄河があって固めとすることができ、長城、鉅防があって塞とすることができると。本当にそうか」と。答えて言うには、「天時が与えられなければ、清き済水、濁れる黄河があっても、どうして固めとすることができましょう。民力が疲弊すれば、長城、鉅防があっても、どうして塞とすることができましょう。かつかつては済西は兵を出さず、趙に備えたのであり、河北は兵を出さず、燕に備えたのでした。今、済西河北はすでに尽く役せられ、封内は疲弊しています。驕れる君は必ず利を好み、亡国の臣は必ず財に貪欲です。王が真に従子や母弟を人質とすることを恥じず、宝珠玉帛をもって左右に事えさせれば、彼らは燕に徳を感じて軽々しく宋を亡ぼすでしょう。そうすれば斉は亡ぼすことができます」と。燕王が言うには、「私はついに子が天より命を受けたと信じる」と。燕はすなわち一子を斉に人質として遣わした。そして蘇厲は燕の人質子に因って斉王に謁見を求めた。斉王は蘇秦を怨み、蘇厲を囚えようとした。燕の人質子が謝罪し、やがて委質して斉の臣となった。
燕の相国子之は蘇代と婚姻関係にあり、燕の権力を得ようと欲し、そこで蘇代をして斉に人質として仕えさせた。斉は蘇代をして燕に返報させた。燕王噲が問うて曰く、「斉王は覇者となるであろうか」と。曰く、「なりません」と。曰く、「何故か」と。曰く、「その臣を信じないからです」と。ここにおいて燕王は子之を専任し、やがて位を譲った。燕は大いに乱れた。斉は燕を伐ち、王噲と子之を殺した。燕は昭王を立てた。そこで蘇代と蘇厲はついに燕に入ることを敢えず、皆ついに斉に帰った。斉は彼らを厚遇した。
蘇代が魏を過ぎたとき、魏は燕のために蘇代を捕らえた。斉は人をして魏王に謂わしめて曰く、「斉は宋の地を以て涇陽君に封ぜんことを請う。秦は必ず受け入れないであろう。秦は斉と結んで宋の地を得ることが利でないのではない。斉王と蘇子を信じないのである。今、斉と魏が不和であることがこのように甚だしいならば、斉は秦を欺かないであろう。秦が斉を信じ、斉と秦が合すれば、涇陽君が宋の地を持つことは、魏の利益ではない。故に王は蘇子を東に帰らせるに如くはない。秦は必ず斉を疑い、蘇子を信じなくなるであろう。斉と秦が合わなければ、天下に変動なく、斉を伐つ形勢が成るであろう」と。ここにおいて蘇代を出した。蘇代は宋に行き、宋は彼を厚遇した。
斉が宋を伐ち、宋が危急に陥った。蘇代はそこで燕昭王に書を遺して曰く、
燕昭王はその書を善しとし、曰く、「先人は嘗て蘇氏に徳があった。子之の乱で蘇氏は燕を去った。燕は斉に仇を報いようとするが、蘇氏でなければできない」と。そこで蘇代を召し、再び厚遇し、斉を伐つことを謀った。ついに斉を破り、湣王は出走した。
久しくして、秦が燕王を召した。燕王は行こうとした。蘇代は燕王に約して曰く、「楚は枳を得て国が亡び、斉は宋を得て国が亡びた。斉・楚は枳・宋を持つことを以て秦に事えることができなかったのは、何故か。それは功績ある者は、秦の深い仇敵であるからだ。秦が天下を取るのは、義を行なうのではなく、暴虐である。秦の暴虐を行なうことは、正に天下に告げている。
「楚に告げて曰く、『蜀の地の甲兵は、船に乗り汶水に浮かび、夏の水に乗って江を下れば、五日にして郢に至る。漢中の甲兵は、船に乗り巴より出で、夏の水に乗って漢水を下れば、四日にして五渚に至る。寡人は甲兵を宛の東に積み下って随に至る。智者も謀るに及ばず、勇士も怒るに及ばず、寡人は隼を射るが如し。王が天下の兵が函谷を攻めるのを待とうとするのは、亦遠からずや』と。楚王はこの故に、十七年秦に事えた。
「秦は正に韓に告げて曰く、『我は少曲より起こり、一日にして太行を断つ。我は宜陽より起こって平陽に触れれば、二日にして繇 (動員) せざるものはない。我は両周を離れて鄭に触れれば、五日にして国は挙がる』と。韓氏はこれを然りとし、故に秦に事えた。
「秦は正に魏に告げて曰く、『我は安邑を挙げ、女戟を塞ぎ、韓氏の太原を巻く。我は軹を下り、南陽に道を通じ、冀を封じ、両周を包む。夏の水に乗り、軽舟に浮かび、強弩を前にし、錟戈を後ろにして、滎口を決すれば、魏に大梁無し。白馬の口を決すれば、魏に外黄・済陽無し。宿胥の口を決すれば、魏に虚・頓丘無し。陸攻すれば則ち河内を撃ち、水攻すれば則ち大梁を滅ぼす』と。魏氏はこれを然りとし、故に秦に事えた。
「秦は安邑を攻めようと欲し、斉がこれを救うことを恐れ、そこで宋を斉に委ねた。曰く、『宋王は無道にして、木人を作りて寡人を写し、その面を射る。寡人の地は隔絶し兵は遠く、攻めることができない。王もし宋を破りてこれを有することができれば、寡人は自ら得たるが如し』と。既に安邑を得、女戟を塞ぎ、因って宋を破ったことを以て斉の罪とした。
「秦は韓を攻めようと欲し、天下がこれを救うことを恐れ、そこで斉を天下に委ねた。曰く、『斉王は四度寡人と約し、四度寡人を欺き、必ず天下を率いて寡人を攻めること三度あり。斉有れば秦無く、秦有れば斉無し。必ずこれを伐ち、必ずこれを亡ぼす』と。既に宜陽・少曲を得、藺・石を致し、因って斉を破ったことを以て天下の罪とした。
「秦は魏を攻めようと欲し、楚を重んじ、そこで南陽を楚に委ねた。曰く、『寡人は固より韓と将に絶たんとす。均陵を残滅し、鄳阨を塞ぐ。もし楚に利あらば、寡人は自らこれを持つが如し』と。魏は与国を棄てて秦と合し、因って鄳阨を塞いだことを以て楚の罪とした。
「兵は林中に困り、燕・趙を重んじ、膠東を燕に委ね、済西を趙に委ねた。既に魏と講和し、公子延に至り、犀首に属行させて趙を攻めた。
「兵は譙石に傷つき、陽馬にて敗北に遇い、魏を重んじ、葉・蔡を魏に委ねた。既に趙と講和し、則ち魏を劫し、割譲せず。困窮すれば則ち太后の弟穰侯をして和を為さしめ、勝利すれば則ち舅と母を兼ねて欺く。
「燕に適する者は『膠東を以て』と言い、趙に適する者は『済西を以て』と言い、魏に適する者は『葉・蔡を以て』と言い、楚に適する者は『鄳阨を塞ぐを以て』と言い、斉に適する者は『宋を以て』と言う。これは必ず言うことを循環の如くならしめ、兵を用いること蜚 (飛ぶ虫) を刺すが如くならしむ。母も制することができず、舅も約束することができない。
「龍賈の戦い、岸門の戦い、封陵の戦い、高商の戦い、趙莊の戦い、秦の殺した三 晉 の民は数百万、今その生き残る者は皆秦に死んだ者の孤児である。西河の外、上雒の地、三川 晉 国の禍、三 晉 の半分、秦の禍はこのように大きいのである。而るに燕・趙の秦に赴く者は、皆競って秦に事えることを以てその主君を説く。これ臣の大いに患うところである。」
燕の昭王は用いなかったが、蘇代は再び燕に重んぜられた。
燕は使者を遣わして諸侯に縦親を約させたが、蘇秦の時の如く、或いは従い或いは従わず、而して天下はここより蘇氏の縦約を宗とした。代・厲は皆寿を以て死し、名を諸侯に顕わす。
評論
太史公曰く、蘇秦兄弟三人は、皆諸侯に遊説して以て名を顕わし、其の術は権変に長ず。而して蘇秦は反間を被りて以て死し、天下共に之を笑い、其の術を学ぶを諱む。然れども世に蘇秦を言うこと多く異なり、異なる時事に之に類する者有れば皆蘇秦に附す。夫れ蘇秦は閭閻より起り、六国を連ねて縦親す、此れ其の智人の過ぐる者有るなり。吾故に其の行事を列し、其の時序を次ぐ、独り悪声を蒙ることを令さざらん。
【索隠述賛】季子は周の人、師事すること鬼谷。揣摩既に就き、陰符を伏して読む。合従して衡を離し、印を佩く者六。天王道を除き、家人扶服す。賢なるかな代・厲、継ぎて栄え党族す。
この作品は全世界において公有領域に属する。何となれば作者の没後百年を経過し、且つ作品は1931年1月1日より前に出版されたからである。