史記

巻六十七 仲尼弟子列傳 第七

孔子が言うには、「教えを受けて身に通じた者は七十有七人」、皆、異能の士である。德行に優れた者は、顏淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓。政事に優れた者は、冉有、季路。言語に優れた者は、宰我、子貢。文學に優れた者は、子游、子夏。師(顓孫師)は辟(偏っている)、參(曾参)は魯(鈍い)、柴(高柴)は愚(愚直)、由(仲由)がさつ、回(顏回)はしばしば空(貧窮)であった。賜(端木賜)は天命を受けずして貨殖(財を殖やす)し、憶(推測)すればしばしば当たった。

原文孔子曰「受業身通者七十有七人」,皆異能之士也。德行:顏淵,閔子騫,冉伯牛,仲弓。政事:冉有,季路。言語:宰我,子貢。文學:子游,子夏。師也辟,參也魯,柴也愚,由也喭,回也屢空。賜不受命而貨殖焉,億則屢中。

孔子が礼を以て事えた者は、周においては老子、衞においては蘧伯玉、齊においては晏平仲、楚においては老萊子、鄭においては子產、魯においては孟公綽である。しばしば臧文仲、柳下惠、銅鞮伯華、介山子然を称えたが、孔子は皆、彼らより後代の人であり、同じ時代ではなかった。

原文孔子之所嚴事:於周則老子;於衞,蘧伯玉;於齊,晏平仲;於楚,老萊子;於鄭,子產;於魯,孟公綽。數稱臧文仲、柳下惠、銅鞮伯華、介山子然,孔子皆後之,不并世。

顏回

原文顏回

顔回は魯の人なり、字は子淵。孔子より三十歳若し。

原文顏回者,魯人也,字子淵。少孔子三十歳。

顔淵仁を問う、孔子曰く、「己に克ちて礼に復る、天下仁に帰す」と。

原文顏淵問仁,孔子曰:「克己復禮,天下歸仁焉。」

孔子曰く、「賢なるかな回や!一簞の食、一瓢の飲、陋巷に在り、人は其の憂いに堪えず、回や其の楽しみを改めず」と。「回や愚なるが如し、退きて其の私をかえりみれば、亦以て発するに足る、回や愚ならず」と。「之を用うれば則ち行い、之を捨つれば則ち蔵る、唯だ我と爾と是れ有るのみ」と。

原文孔子曰:「賢哉回也!一簞食,一瓢飲,在陋巷,人不堪其憂,回也不改其樂。」「回也如愚;退而省其私,亦足以發,回也不愚。」「用之則行,捨之則藏,唯我與爾有是夫!」

回年二十九にして、髪尽く白く、早く死す。孔子之を哭して慟し、曰く、「吾に回有りてより、門人益々親しむ」と。

原文回年二十九,髮盡白,蚤死。孔子哭之慟,曰:「自吾有回,門人益親。」

魯の哀公問う、「弟子孰か学を好むと為す」と。孔子対えて曰く、「顔回と云う者有りて学を好み、怒りを遷さず、過ちを貳せず。不幸にして短命にして死せり、今や則ち亡し」と。

原文魯哀公問:「弟子孰爲好學?」孔子對曰:「有顏回者好學,不遷怒,不貳過。不幸短命死矣,今也則亡。」

閔損

原文閔損

閔損、字は子騫。孔子より十五歳年少である。

原文閔損字子騫。少孔子十五歳。

孔子曰く、「孝なるかな閔子騫!人、其の父母昆弟の言に間せず」と。大に仕えず、汚れた君の禄を食まず。「もし我に復する者有らば、必ず汶上に在らん」。

原文孔子曰:「孝哉閔子騫!人不閒於其父母昆弟之言。」不仕大夫,不食汙君之祿。「如有復我者,必在汶上矣。」

冉耕

原文冉耕

冉耕、字は伯牛。孔子以て德行有りと為す。

原文冉耕字伯牛。孔子以爲有德行。

伯牛は悪疾(重い病)を患い、孔子が往きてこれを問い、窓からその手を執りて曰く、「命なるかな、斯の人にして斯の疾あるは、命なるかな」と。

原文伯牛有惡疾,孔子往問之,自牖執其手,曰:「命也夫!斯人也而有斯疾,命也夫!」

冉雍

原文冉雍

冉雍、字は仲弓。

原文冉雍字仲弓。

仲弓、政を問う。孔子曰く、「門を出づるには大賓を見るが如くし、民を使うには大祭を承くるが如くす。邦に在りて怨み無く、家に在りて怨み無し」と。

原文仲弓問政,孔子曰:「出門如見大賓,使民如承大祭。在邦無怨,在家無怨。」

孔子は仲弓を以て德行有りと為し、曰く、「雍や南面せしむべし」と。

原文孔子以仲弓爲有德行,曰:「雍也可使南面。」

仲弓の父は賤しき人であった。孔子は言われた、「犁牛の子、騂にして角あらば、用いざらんと欲すとも、山川其れ諸れを捨てんや」と。

原文仲弓父,賤人。孔子曰:「犁牛之子騂且角,雖欲勿用,山川其舍諸?」

冉求

原文冉求

冉求、字は子有、孔子より二十九歳年少。季氏の宰となった。

原文冉求字子有,少孔子二十九歳。爲季氏宰。

季康子が孔子に問うて言った、「冉求は仁なるか」と。曰く、「千室の邑、百乗の家、求や其の賦を治むるに使うべし。仁は則ち吾知らざるなり」と。また問う、「子路は仁なるか」と。孔子対えて曰く、「求の如し」と。

原文季康子問孔子曰:「冉求仁乎?」曰:「千室之邑,百乘之家,求也可使治其賦。仁則吾不知也。」復問:「子路仁乎?」孔子對曰:「如求。」

求が問うて言った、「聞きて斯れ行うか」と。子曰く、「之を行え」と。子路が問うて言った、「聞きて斯れ行うか」と。子曰く、「父兄在り、之を如何ぞ其れ聞きて斯れ之を行えんや」と。子華これを怪しみ、「敢えて問う、問い同じくして答え異なるは」と。孔子曰く、「求や退く、故に之を進む。由や人を兼ぬ、故に之を退く」と。

原文求問曰:「聞斯行諸?」子曰:「行之。」子路問:「聞斯行諸?」子曰:「有父兄在,如之何其聞斯行之!」子華怪之,「敢問問同而答異?」孔子曰:「求也退,故進之。由也兼人,故退之。」

仲由

原文仲由

仲由、字は子路、卞の人である。孔子より九歳若い。

原文仲由字子路,卞人也。少孔子九歳。

子路は性質が鄙野で、勇力を好み、志は剛直であり、雄鷄の冠をかぶり、豭豚を佩び、孔子を陵暴した。孔子は礼を設けて徐々に子路を誘い、子路は後に儒服を着て委質し、門人を通じて弟子となることを請うた。

原文子路性鄙,好勇力,志伉直,冠雄鷄,佩豭豚,陵暴孔子。孔子設禮稍誘子路,子路後儒服委質,因門人請爲弟子。

子路が政治を問うと、孔子は曰く、「先んじて行い、労せしめよ」と。益を請うと、曰く、「倦むことなかれ」と。

原文子路問政,孔子曰:「先之,勞之。」請益。曰:「無倦。」

子路が問う、「君子は勇を尚ぶか」と。孔子曰く、「義を以て上となす。君子、勇を好みて義なければ則ち乱れ、小人、勇を好みて義なければ則ち盗む」と。

原文子路問:「君子尚勇乎?」孔子曰:「義之爲上。君子好勇而無義則亂,小人好勇而無義則盜。」

子路は聞き知ったことを、未だ行うことができず、ただ聞くことを恐れた。

原文子路有聞,未之能行,唯恐有聞。

孔子が言われた。「一言で訴訟を裁くことができる者は、それは由であろうか。」「由は勇を好むこと我に過ぎるが、取るべき材がない。」「もし由であれば、その死を得ずして然るであろう。」「ぼろの綿入れの袍を着て、狐や貉の皮衣を着た者と並び立っても、恥じない者は、それは由であろうか。」「由は堂に昇ったが、未だ室に入っていない。」

原文孔子曰:「片言可以折獄者,其由也與!」「由也好勇過我,無所取材。」「若由也,不得其死然。」「衣敝縕袍,與衣狐貉者立,而不恥者,其由也與!」「由也升堂矣,未入於室也。」

季康子が問うた。「仲由は仁者か。」孔子が言われた。「千乗の国に賦(兵賦)を治めさせることができるが、その仁を知らない。」

原文季康子問:「仲由仁乎?」孔子曰:「千乘之國可使治其賦,不知其仁。」

子路は喜んで従って遊び、長沮・桀溺・荷蓧丈人に遇った。

原文子路喜從游,遇長沮、桀溺、荷蓧丈人。

子路が季氏の宰となった時、季孫が問うた。「子路は大臣と言えるか。」孔子が言われた。「具臣と言えるであろう。」

原文子路爲季氏宰,季孫問曰:「子路可謂大臣與?」孔子曰:「可謂具臣矣。」

子路が蒲の大夫となったとき、孔子に辞去した。孔子は言った、「蒲には壮士が多く、また治めにくい。しかし私は汝に告げよう。恭しくして敬うをもってすれば、勇を執るに足る。寛大にして正しきをもってすれば、衆に比するに足る。恭正にして静かならば、上に報いるに足る」と。

原文子路爲蒲大夫,辭孔子。孔子曰:「蒲多壯士,又難治。然吾語汝:恭以敬,可以執勇;寬以正,可以比眾;恭正以靜,可以報上。」

初め、衛の霊公に寵姫がいて南子といった。霊公の太子の蕢聵が南子に罪を得て、誅殺を恐れて出奔した。霊公が卒すると、夫人(南子)は公子の郢を立てようとした。郢は肯んぜず、言った、「亡人(蕢聵)の太子の子の輒がおります」と。ここにおいて衛は輒を立てて君とした。これが出公である。出公が立って十二年、その父の蕢聵は外に居て、入国することができなかった。子路は衛の大夫である孔悝の邑宰となっていた。蕢聵はそこで孔悝と共に乱を起こし、謀って孔悝の家に入り、ついにその徒党を率いて出公を襲撃した。出公は魯に奔り、蕢聵が入って立った。これが荘公である。ちょうど孔悝が乱を起こしたとき、子路は外におり、これを聞いて馳せ往った。子羔が衛の城門から出てくるのに遇い、子路に言った、「出公は去りました。そして門はすでに閉じられました。子は還るべきです。空しくその禍を受けることはありませんように」と。子路は言った、「その食を食む者はその難を避けぬ」と。子羔はついに去った。使者が城に入るとき、城門が開き、子路はそれに従って入った。蕢聵のもとに至ると、蕢聵は孔悝と共に台に登っていた。子路は言った、「君はどうして孔悝を用いられますか。どうか私にこれを得て殺させてください」と。蕢聵は聞き入れなかった。ここにおいて子路は台を焼こうとした。蕢聵は恐れ、そこで石乞と壺黶を下して子路を攻めさせ、子路の冠の纓を撃ち断った。子路は言った、「君子は死すとも冠は免れぬ」と。ついに纓を結び直して死んだ。

原文初,衞靈公有寵姬曰南子。靈公太子蕢聵得過南子,懼誅出奔。及靈公卒而夫人欲立公子郢。郢不肯,曰:「亡人太子之子輒在。」於是衞立輒爲君,是爲出公。出公立十二年,其父蕢聵居外,不得入。子路爲衞大夫孔悝之邑宰。蕢聵乃與孔悝作亂,謀入孔悝家,遂與其徒襲攻出公。出公奔魯,而蕢聵入立,是爲莊公。方孔悝作亂,子路在外,聞之而馳往。遇子羔出衞城門,謂子路曰:「出公去矣,而門已閉,子可還矣,毋空受其禍。」子路曰:「食其食者不避其難。」子羔卒去。有使者入城,城門開,子路隨而入。造蕢聵,蕢聵與孔悝登臺。子路曰:「君焉用孔悝?請得而殺之。」蕢聵弗聽。於是子路欲燔臺,蕢聵懼,乃下石乞、壺黶攻子路,擊斷子路之纓。子路曰:「君子死而冠不免。」遂結纓而死。

孔子が衛の乱を聞いて言った、「ああ、由(子路)は死んだか」と。やがて果たして死んだ。故に孔子は言った、「私が由を得て以来、悪言は耳に聞こえなくなった」と。このとき子貢は魯の使者として斉にいた。

原文孔子聞衞亂,曰:「嗟乎,由死矣!」已而果死。故孔子曰:「自吾得由,惡言不聞於耳。」是時子貢爲魯使於齊。

宰予

原文宰予

宰予、字は子我。口が達者で弁辞に巧みであった。すでに学業を受けた後、問うた、「三年の喪はすでに久しすぎるのではありますまいか。君子が三年礼を行わなければ、礼は必ず壊れる。三年楽を行わなければ、楽は必ず崩れる。旧穀がすでに尽き、新穀がすでに上がり、鑽燧して火を改める(一年の周期)で、すでに十分でしょう」と。子(孔子)は言った、「汝はそれで安らかか」と。宰予は言った、「安らかです」と。子は言った、「汝が安らかならばそれを行え。君子が喪に居るときは、旨いものを食べても甘くなく、楽を聞いても楽しまず、故に行わぬのだ」と。宰我が出ると、子は言った、「予(宰予)は不仁である。子は生まれて三年して初めて父母の懐を免れる。三年の喪は、天下の通義である」と。

原文宰予字子我。利口辯辭。既受業,問:「三年之喪不已久乎?君子三年不爲禮,禮必壞;三年不爲樂,樂必崩。舊穀既沒,新穀既升,鉆燧改火,期可已矣。」子曰:「於汝安乎?」曰:「安。」「汝安則爲之。君子居喪,食旨不甘,聞樂不樂,故弗爲也。」宰我出,子曰:「予之不仁也!子生三年然後免於父母之懷。夫三年之喪,天下之通義也。」

宰予が昼寝をした。孔子が言うには、「朽ちた木は彫刻できず、糞土の壁は塗り固めることができない」と。

原文宰予晝寢。子曰:「朽木不可雕也,糞土之墻不可圬也。」

宰我が五帝の徳について尋ねると、孔子は言うには、「私はそのような人ではない」と。

原文宰我問五帝之德,子曰:「予非其人也。」

宰我が臨菑の大夫となり、田常と共に乱を起こし、その一族を滅ぼしたので、孔子はこれを恥じた。

原文宰我爲臨菑大夫,與田常作亂,以夷其族,孔子恥之。

端木賜

原文端木賜

端木賜は衛の人で、字は子貢という。孔子より三十一歳年少である。

原文端木賜,衞人,字子貢。少孔子三十一歳。

子貢は口が達者で弁舌巧みであり、孔子は常にその弁論を退けた。問うて曰く、「汝と回とではどちらが優れているか」と。対えて曰く、「賜(子貢)はどうして回(顔回)を望みえましょうか。回は一を聞いて十を知るが、賜は一を聞いて二を知るに過ぎません」と。

原文子貢利口巧辭,孔子常黜其辯。問曰:「汝與回也孰愈?」對曰:「賜也何敢望回!回也聞一以知十,賜也聞一以知二。」

子貢が既に学業を受けた後、問うて曰く、「賜はどのような人物でしょうか」と。孔子曰く、「汝は器である」と。曰く、「どのような器でしょうか」と。曰く、「瑚璉(宗廟の祭器)である」と。

原文子貢既已受業,問曰:「賜何人也?」孔子曰:「汝器也。」曰:「何器也?」曰:「瑚璉也。」

陳子禽が子貢に問うて曰く、「仲尼(孔子)はどこで学ばれたのか」と。子貢曰く、「文武の道はまだ地に墜ちておらず、人に存する。賢者はその大なるものを識り、賢ならざる者はその小なるものを識る。文武の道を持たない者はない。夫子(孔子)はどこで学ばないことがあろうか、また何ら常に定まった師があるわけでもない」と。また問うて曰く、「孔子がその国に赴けば必ずその政事を聞かれる。求めて得られるのか、それとも与えられるのか」と。子貢曰く、「夫子は温・良・恭・儉・譲をもってしてこれを得られる。夫子の求め方は、おそらく人の求め方とは異なるのであろう」と。

原文陳子禽問子貢曰:「仲尼焉學?」子貢曰:「文武之道未墜於地,在人,賢者識其大者,不賢者識其小者,莫不有文武之道。夫子焉不學,而亦何常師之有!」又問曰:「孔子適是國必聞其政。求之與?抑與之與?」子貢曰:「夫子溫、良、恭、儉、讓以得之。夫子之求之也,其諸異乎人之求之也。」

子貢問うて曰く、「富みて驕らず、貧しくて諂わず、というのはいかがでしょうか」と。孔子曰く、「可なり。しかし貧しくして道を楽しみ、富みて礼を好むには及ばない」と。

原文子貢問曰:「富而無驕,貧而無諂,何如?」孔子曰:「可也;不如貧而樂道,富而好禮。」

田常が斉において乱を起こそうとしたが、高氏・国氏・鮑氏・晏氏を憚り、故にその兵を移して魯を伐とうとした。孔子これを聞き、門下の弟子に謂いて曰く、「夫れ魯は、墳墓の所在する地、父母の国である。国がこのように危ういのに、諸君はなぜ出て行かぬのか」と。子路が出て行こうと請うたが、孔子はこれを止めた。子張・子石が行こうと請うたが、孔子は許さなかった。子貢が行こうと請うたところ、孔子はこれを許した。

原文田常欲作亂於齊,憚髙國鮑晏,故移其兵欲以伐魯。孔子聞之,謂門弟子曰:「夫魯,墳墓所處,父母之國,國危如此,二三子何爲莫出?」子路請出,孔子止之。子張、子石請行,孔子弗許。子貢請行,孔子許之。

遂に行き、斉に至り、田常に説いて曰く、「君の魯を伐つは過ちなり。そもそも魯は伐ち難き国なり、その城は薄くして低く、その地は狭くして浅く、その君は愚にして仁ならず、大臣は偽りにして用なし、その士民また甲兵の事を悪む、これと戦うべからず。君は呉を伐つに如かず。そもそも呉は、城高くして厚く、地広くして深く、甲堅くして新しく、士選ばれて飽き、重器精兵尽くその中に在り、また明大夫をしてこれを守らしむ、これは伐ち易きなり。」田常忿然として色をなして曰く、「子の難きとするは、人の易きとする所なり。子の易きとするは、人の難きとする所なり。しかるに以て常を教うるは、何ぞや。」子貢曰く、「臣聞く、憂い内に在る者は強きを攻め、憂い外に在る者は弱きを攻む、と。今君の憂いは内に在り。臣聞く、君三たび封ぜんとし而して三たび成らず、大臣に聴かざる者有り、と。今君魯を破りて以て斉を広め、戦勝して以て主を驕らし、国を破りて以て臣を尊ばしむるも、而して君の功はこれに与からず、則ち交わり日に主に疎んぜらる。これ君上は主の心を驕らし、下は群臣を恣にし、以て大事を成さんことを求むるは、難きなり。そもそも上驕れば則ち恣にし、臣驕れば則ち争う、これ君上は主と隙有り、下は大臣と交わり争うなり。かくの如くんば、則ち君の斉に立つは危うきなり。故に曰く、呉を伐つに如かず、と。呉を伐って勝たずんば、民人は外に死し、大臣は内に空し、これ君上には強臣の敵無く、下には民人の過ち無く、孤主斉を制する者は唯君のみなり。」田常曰く、「善し。然りと雖も、吾が兵は既に魯に加えたり。去りて呉に之かば、大臣我を疑わん、奈何。」子貢曰く、「君兵を按じて伐たず、臣請う往きて呉王に使いし、之をして魯を救い斉を伐たしめん。君因りて兵を以て之を迎えよ。」田常之を許し、子貢をして南に呉王に見えしむ。

原文遂行,至齊,説田常曰:「君之伐魯過矣。夫魯,難伐之國,其城薄以卑,其地狹以泄,其君愚而不仁,大臣僞而無用,其士民又惡甲兵之事,此不可與戰。君不如伐吳。夫吳,城髙以厚,地廣以深,甲堅以新,士選以飽,重器精兵盡在其中,又使明大夫守之,此易伐也。」田常忿然作色曰:「子之所難,人之所易;子之所易,人之所難:而以教常,何也?」子貢曰:「臣聞之,憂在內者攻彊,憂在外者攻弱。今君憂在內。吾聞君三封而三不成者,大臣有不聽者也。今君破魯以廣齊,戰勝以驕主,破國以尊臣,而君之功不與焉,則交日疏於主。是君上驕主心,下恣群臣,求以成大事,難矣。夫上驕則恣,臣驕則爭,是君上與主有卻,下與大臣交爭也。如此,則君之立於齊危矣。故曰不如伐吳。伐吳不勝,民人外死,大臣內空,是君上無彊臣之敵,下無民人之過,孤主制齊者唯君也。」田常曰:「善。雖然,吾兵業已加魯矣,去而之吳,大臣疑我,柰何?」子貢曰:「君按兵無伐,臣請往使吳王,令之救魯而伐齊,君因以兵迎之。」田常許之,使子貢南見吳王。

説いて曰く、「臣聞く、王者は世を絶やさず、覇者は強敵無く、千鈞の重さに銖両を加うれば移る、と。今万乗の斉を以て千乗の魯を私し、呉と強を争わば、窃かに王の危うきを為す。且つ夫れ魯を救うは、名を顕わすなり。斉を伐つは、大いなる利なり。以て泗上の諸侯を撫で、暴斉を誅して強晋を服せしむるは、利これより大なるは莫し。名は亡びんとする魯を存し、実は強斉を困らす。智者は疑わず。」呉王曰く、「善し。然りと雖も、吾嘗て越と戦い、之を会稽に棲ます。越王身を苦しめて士を養い、我に報いんとする心有り。子我が越を伐つのを待ちて而して後に子の言を聴かん。」子貢曰く、「越の勁きは魯に過ぎず、呉の強きは斉に過ぎず。王斉を置きて越を伐たば、則ち斉は既に魯を平らげん。且つ王方に存亡継絶を以て名と為す。小越を伐ちて強斉を畏るるは、勇ならず。そもそも勇者は難を避けず、仁者は約に窮せず、智者は時を失わず、王者は世を絶やさず、以てその義を立てん。今越を存するは諸侯に仁を示すなり。魯を救い斉を伐ち、威を晋国に加うれば、諸侯必ず相率いて呉に朝せん。覇業成るなり。且つ王必ずや越を悪むならん、臣請う東に越王に見え、兵を出して以て従わしめん。これ実は越を空しうし、名は諸侯に従いて伐つなり。」呉王大いに説び、乃ち子貢をして越に之かしむ。

原文説曰:「臣聞之,王者不絶世,霸者無彊敵,千鈞之重加銖兩而移。今以萬乘之齊而私千乘之魯,與吳爭彊,竊爲王危之。且夫救魯,顯名也;伐齊,大利也。以撫泗上諸侯,誅暴齊以服彊晉,利莫大焉。名存亡魯,實困彊齊。智者不疑也。」吳王曰:「善。雖然,吾嘗與越戰,棲之會稽。越王苦身養士,有報我心。子待我伐越而聽子。」子貢曰:「越之勁不過魯,吳之彊不過齊,王置齊而伐越,則齊已平魯矣。且王方以存亡繼絶爲名,夫伐小越而畏彊齊,非勇也。夫勇者不避難,仁者不窮約,智者不失時,王者不絶世,以立其義。今存越示諸侯以仁,救魯伐齊,威加晉國,諸侯必相率而朝吳,霸業成矣。且王必惡越,臣請東見越王,令出兵以從,此實空越,名從諸侯以伐也。」吳王大説,乃使子貢之越。

越王は道を清めて郊外に出迎え、自ら御して館舎に至り、問うて曰く、「これ蛮夷の国なり、大夫何を以て儼然として辱くも之に臨むか」と。子貢曰く、「今者吾れ呉王を説きて魯を救い斉を伐たんとす、其の志は之を欲すれども越を畏れ、曰く『我が越を伐つを待てば乃ち可なり』と。此くの如くならば、越を破るは必ずなり。且つ夫れ人の志を報ゆる無くして人をして之を疑わしむるは拙なり、人の志を報ゆる有りて人をして之を知らしむるは殆し、事未だ発せずして先んじて聞こゆるは危し。此の三者は事を挙ぐるの大患なり」と。句踐頓首再拝して曰く、「孤嘗て力を料らず、乃ち呉と戦い、会稽に困り、痛み骨髓に入り、日夜焦脣乾舌し、徒らに呉王と踵を接して死せんと欲するのみ、孤の願いなり」と。遂に子貢に問う。子貢曰く、「呉王の人となり猛暴にして、群臣堪えず、国家は数戦に以て弊れ、士卒は忍びず、百姓は上を怨み、大臣は内変す、子胥は諫めて死し、太宰嚭は用事し、君の過ちに順いて以て其の私を安んず、是れ国を残すの治なり。今王誠に士卒を発して之を佐け其の志を徼ち、重宝を以て其の心を説き、卑辞を以て其の礼を尊ばしむれば、其の斉を伐つは必ずなり。彼戦に勝たずんば、王の福なり。戦に勝てば、必ず兵を以て晋に臨まん、臣請う北して晋君に見え、令して共に之を攻めしめば、呉を弱くするは必ずなり。其の鋭兵は斉に尽き、重甲は晋に困り、而して王其の弊を制せば、此れ呉を滅ぼすは必ずなり」と。越王大いに説び、諾す。子貢に金百鎰、剣一、良矛二を送る。子貢受けず、遂に行く。

原文越王除道郊迎,身御至舍而問曰:「此蠻夷之國,大夫何以儼然辱而臨之?」子貢曰:「今者吾説吳王以救魯伐齊,其志欲之而畏越,曰『待我伐越乃可』。如此,破越必矣。且夫無報人之志而令人疑之,拙也;有報人之志,使人知之,殆也;事未發而先聞,危也。三者舉事之大患。」句踐頓首再拜曰:「孤嘗不料力,乃與吳戰,困於會稽,痛入於骨髓,日夜焦脣乾舌,徒欲與吳王接踵而死,孤之願也。」遂問子貢。子貢曰:「吳王爲人猛暴,群臣不堪;國家敝以數戰,士卒弗忍;百姓怨上,大臣內變;子胥以諫死,太宰嚭用事,順君之過以安其私:是殘國之治也。今王誠發士卒佐之徼其志,重寶以説其心,卑辭以尊其禮,其伐齊必也。彼戰不勝,王之福矣。戰勝,必以兵臨晉,臣請北見晉君,令共攻之,弱吳必矣。其鋭兵盡於齊,重甲困於晉,而王制其敝,此滅吳必矣。」越王大説,許諾。送子貢金百鎰,劍一,良矛二。子貢不受,遂行。

呉王に報じて曰く、「臣敬みて大王の言を以て越王に告ぐ、越王大いに恐れ、曰く『孤不幸にして、少くして先人を失い、内に自ら量らず、罪を呉に抵し、軍敗れて身辱しめられ、会稽に棲み、国は虚莽と為り、大王の賜いに頼り、俎豆を奉じて祭祀を修めしめられ、死すとも敢えて忘れず、何の謀をか敢えて慮わんや』と」と。後五日にして、越は大夫種を使わして頓首して呉王に言うて曰く、「東海の役臣孤句踐の使者臣種、敢えて下吏を修めて左右に問う。今窃かに大王の将に大義を興し、彊を誅し弱を救い、暴斉を困らせて周室を撫さんとすと聞く、請う悉く境内の士卒三千人を起こし、孤請う自ら堅を被り鋭を執り、以て先んじて矢石を受けん。因りて越の賤臣種、先人の蔵する器を奉ず、甲二十領、鈇屈盧の矛、歩光の剣を以て、軍吏を賀す」と。呉王大いに説び、以て子貢に告げて曰く、「越王身を以て寡人に従いて斉を伐たんと欲す、可なるか」と。子貢曰く、「不可なり。夫れ人の国を空しくし、人の衆を悉くし、又其の君に従うは、義ならず。君其の幣を受け、其の師を許し、而して其の君を辞せよ」と。呉王諾し、乃ち越王に謝す。ここに於いて呉王は乃ち遂に九郡の兵を発して斉を伐つ。

原文報吳王曰:「臣敬以大王之言告越王,越王大恐,曰:『孤不幸,少失先人,內不自量,抵罪於吳,軍敗身辱,棲於會稽,國爲虛莽,賴大王之賜,使得奉俎豆而修祭祀,死不敢忘,何謀之敢慮!』」後五日,越使大夫種頓首言於吳王曰:「東海役臣孤句踐使者臣種,敢修下吏問於左右。今竊聞大王將興大義,誅彊救弱,困暴齊而撫周室,請悉起境內士卒三千人,孤請自被堅執鋭,以先受矢石。因越賤臣種奉先人藏器,甲二十領,鈇屈盧之矛,步光之劍,以賀軍吏。」吳王大説,以告子貢曰:「越王欲身從寡人伐齊,可乎?」子貢曰:「不可。夫空人之國,悉人之眾,又從其君,不義。君受其幣,許其師,而辭其君。」吳王許諾,乃謝越王。於是吳王乃遂發九郡兵伐齊。

子貢因りて去りて晋に之き、晋君に謂いて曰く、「臣之を聞く、慮先んじて定まらざれば以て卒に応ずべからず、兵先んじて辨からざれば以て敵に勝つべからず。今夫れ斉と呉将に戦わんとす、彼戦いて勝たずんば、越之を乱す必ずなり、斉と戦いて勝てば、必ず其の兵を以て晋に臨まん」と。晋君大いに恐れ、曰く、「之を為すに奈何」と。子貢曰く、「兵を修め卒を休めて以て之を待て」と。晋君諾す。

原文子貢因去之晉,謂晉君曰:「臣聞之,慮不先定不可以應卒,兵不先辨不可以勝敵。今夫齊與吳將戰,彼戰而不勝,越亂之必矣;與齊戰而勝,必以其兵臨晉。」晉君大恐,曰:「爲之柰何?」子貢曰:「修兵休卒以待之。」晉君許諾。

子貢去りて魯に之く。呉王果たして斉人と艾陵に戦い、大いに斉師を破り、七将軍の兵を獲て帰らず、果たして兵を以て晋に臨み、晋人と黄池の上に相遇う。呉晋彊を争う。晋人之を撃ち、大いに呉師を敗る。越王之を聞き、江を渉りて呉を襲い、城を去ること七里にして軍す。呉王之を聞き、晋を去りて帰り、越と五湖に戦う。三戦して勝たず、城門守らず、越遂に王宮を囲み、夫差を殺し其の相を戮す。呉を破ること三年、東向して覇をなす。

原文子貢去而之魯。吳王果與齊人戰於艾陵,大破齊師,獲七將軍之兵而不歸,果以兵臨晉,與晉人相遇黃池之上。吳晉爭彊。晉人擊之,大敗吳師。越王聞之,涉江襲吳,去城七里而軍。吳王聞之,去晉而歸,與越戰於五湖。三戰不勝,城門不守,越遂圍王宮,殺夫差而戮其相。破吳三年,東向而霸。

故に子貢一出でて、魯を存し、斉を乱し、呉を破り、晋を彊くして越を覇たしむ。子貢一使して、勢を相破らしめ、十年の中に、五国各変有り。

原文故子貢一出,存魯,亂齊,破吳,彊晉而霸越。子貢一使,使勢相破,十年之中,五國各有變。

子貢は物を売り買いすることを好み、時勢に応じて財貨を転換した。人の美点を褒め揚げることを喜び、人の過失を隠すことができなかった。しばしば魯と衛の宰相を務め、家には千金を蓄え、ついに斉で没した。

原文子貢好廢舉,與時轉貨貲。喜揚人之美,不能匿人之過。常相魯衞,家累千金,卒終於齊。

言偃

原文言偃

言偃は呉の人で、字は子游という。孔子より四十五歳年少である。

原文言偃,吳人,字子游。少孔子四十五歳。

子游はすでに学業を受けた後、武城の宰となった。孔子が通りかかると、弦歌の声を聞いた。孔子はにっこりと笑って言った。「鶏を割くのに牛刀を用いる必要があろうか(=大げさだ)。」子游は言った。「かつて偃は夫子からお聞きしました。君子が道を学べば人を愛し、小人が道を学べば使いやすくなる、と。」孔子は言った。「諸君よ、偃の言うことは正しい。先ほどの言葉は戯れに言っただけだ。」孔子は子游が文学に通じていると考えた。

原文子游既已受業,爲武城宰。孔子過,聞弦歌之聲。孔子莞爾而笑曰:「割鷄焉用牛刀?」子游曰:「昔者偃聞諸夫子曰,君子學道則愛人,小人學道則易使。」孔子曰:「二三子,偃之言是也。前言戲之耳。」孔子以爲子游習於文學。

卜商

原文卜商

卜商、字は子夏。孔子より四十四歳年少である。

原文卜商字子夏。少孔子四十四歳。

子夏問うて曰く、「『巧笑倩たり、美目盼たり、素以て絢と爲す』とは、何の謂いぞや」と。子曰く、「繪事は素に後る」と。曰く、「禮も後るるか」と。孔子曰く、「商は始めて詩を言うべきのみ」と。

原文子夏問:「『巧笑倩兮,美目盼兮,素以爲絢兮』,何謂也?」子曰:「繪事後素。」曰:「禮後乎?」孔子曰:「商始可與言詩已矣。」

子貢問うて曰く、「師と商とは孰れか賢れる」と。子曰く、「師や過ぎ、商や及ばず」と。「然らば則ち師や愈れるか」と。曰く、「過ぎたるは猶ほ及ばざるがごとし」と。

原文子貢問:「師與商孰賢?」子曰:「師也過,商也不及。」「然則師愈與?」曰:「過猶不及。」

子、子夏に謂いて曰く、「汝は君子の儒と爲れ、小人の儒と爲ること無かれ」と。

原文子謂子夏曰:「汝爲君子儒,無爲小人儒。」

孔子既に没し、子夏は西河に居りて教授し、魏の文侯の師と爲る。其の子死し、之を哭して失明す。

原文孔子既沒,子夏居西河教授,爲魏文侯師。其子死,哭之失明。

顓孫師

原文顓孫師

顓孫師は陳の人、字は子張。孔子より四十八歳年少である。

原文顓孫師,陳人,字子張。少孔子四十八歳。

子張が禄を得ることを問う。孔子曰く、「多く聞いて疑わしきは闕き、その余りを慎んで言えば、則ち尤め寡なし。多く見て危うきは闕き、その余りを慎んで行えば、則ち悔い寡なし。言に尤め寡なく、行いに悔い寡なければ、禄はその中に在り」と。

原文子張問干祿,孔子曰:「多聞闕疑,慎言其餘,則寡尤;多見闕殆,慎行其餘,則寡悔。言寡尤,行寡悔,祿在其中矣。」

他日、陳蔡の間に従い、困窮するに及び、行うべきことを問う。孔子曰く、「言忠信にして、行い篤敬ならば、蛮貊の国といえども行わる。言忠信ならず、行い篤敬ならざれば、州里といえども行わるや。立つときは則ちその前に参するを見、輿に在るときは則ちその衡に倚るを見る。夫れ然る後に行わる」と。子張これを紳に書す。

原文他日從在陳蔡閒,困,問行。孔子曰:「言忠信,行篤敬,雖蠻貊之國行也;言不忠信,行不篤敬,雖州里行乎哉!立則見其參於前也,在輿則見其倚於衡,夫然後行。」子張書諸紳。

子張問う、「士は如何なる斯くのごときを以て達と謂うべきか」。孔子曰く、「何ぞや、爾の謂う所の達とは」。子張対えて曰く、「国に在れば必ず聞こえ、家に在れば必ず聞こゆるなり」。孔子曰く、「是れ聞なり、達に非ざるなり。夫れ達なる者は、質直にして義を好み、言を察し色を観、慮りて人に下り、国及び家に在れば必ず達す。夫れ聞なる者は、色は仁を取りて行いはこれに違い、これを居るに疑わず、国及び家に在れば必ず聞こゆ」と。

原文子張問:「士何如斯可謂之達矣?」孔子曰:「何哉,爾所謂達者?」子張對曰:「在國必聞,在家必聞。」孔子曰:「是聞也,非達也。夫達者,質直而好義,察言而觀色,慮以下人,在國及家必達。夫聞也者,色取仁而行違,居之不疑,在國及家必聞。」

曾参

原文曾參

曾参は南武城の人、字は子輿。孔子より四十六歳年少。

原文曾參,南武城人,字子輿。少孔子四十六歳。

孔子は孝道に通じ得ると認め、故に業を授く。孝経を作る。魯にて死す。

原文孔子以爲能通孝道,故授之業。作孝經。死於魯。

澹台滅明

原文澹臺滅明

澹台滅明は武城の人、字は子羽。孔子より三十九歳年少。

原文澹臺滅明,武城人,字子羽。少孔子三十九歳。

容貌は甚だ醜悪であった。孔子に仕えようとしたが、孔子は才能が薄いと思った。既に学業を受けた後、退いて修行し、行くに小径によらず、公事でなければ卿大夫に会わなかった。

原文狀貌甚惡。欲事孔子,孔子以爲材薄。既已受業,退而修行,行不由徑,非公事不見卿大夫。

南方に遊学して江に至り、弟子三百人を従え、取るべきものと与えるべきもの、去るべき時と就くべき時を設け、名声は諸侯に及んだ。孔子はこれを聞いて言った、「私は言葉で人を取ったが、宰予で誤った。容貌で人を取ったが、子羽で誤った。」

原文南遊至江,從弟子三百人,設取予去就,名施乎諸侯。孔子聞之,曰:「吾以言取人,失之宰予;以貌取人,失之子羽。」

宓不齊

原文宓不齊

宓不齊、字は子賤。孔子より三十歳若い。

原文宓不齊字子賤。少孔子三十歳。

孔子が子賤について言った、「君子であるかな。魯に君子がなければ、これ(子賤)はどこからこの徳を取ったのか。」

原文孔子謂子賤,「君子哉!魯無君子,斯焉取斯?」

子賤が単父の宰となり、孔子に復命して言うには、「この国には不斉に賢なる者五人あり、不斉に治むべき所以を教えたり」と。孔子曰く、「惜しいかな、不斉の治むる所は小なり、治むる所大ならば則ち庶幾からん」と。

原文子賤爲單父宰,反命於孔子,曰:「此國有賢不齊者五人,教不齊所以治者。」孔子曰:「惜哉不齊所治者小,所治者大則庶幾矣。」

原憲

原文原憲

原憲、字は子思。

原文原憲字子思。

子思、恥を問う。孔子曰く、「国に道あれば、穀す。国に道なければ、穀するは恥なり」と。

原文子思問恥。孔子曰:「國有道,穀。國無道,穀,恥也。」

子思曰く、「克・伐・怨・欲行はれざるは、以て仁と為すべしや」と。孔子曰く、「以て難しと為すべし、仁は則ち吾知らざるなり」と。

原文子思曰:「克、伐、怨、欲不行焉,可以爲仁乎?」孔子曰:「可以爲難矣,仁則吾弗知也。」

孔子が卒すると、原憲は遂に草沢の中に亡命した。子貢が衛に相となり、駟馬を結び騎を連ね、藜藿を排して窮閻に入り、過ぎて原憲に謝した。憲は敝れた衣冠を摂めて子貢に会う。子貢は之を恥じ、曰く、「夫子は豈に病むか」と。原憲曰く、「吾之を聞く、財無き者を貧と謂い、道を学びて能く行わざる者を病と謂う。若し憲は、貧なり、病に非ざるなり」と。子貢は慚じ、懌せずして去り、終身其の言の過ちを恥じた。

原文孔子卒,原憲遂亡在草澤中。子貢相衞,而結駟連騎,排藜藿入窮閻,過謝原憲。憲攝敝衣冠見子貢。子貢恥之,曰:「夫子豈病乎?」原憲曰:「吾聞之,無財者謂之貧,學道而不能行者謂之病。若憲,貧也,非病也。」子貢慚,不懌而去,終身恥其言之過也。

公冶長

原文公冶長

公冶長は、斉の人、字は子長。

原文公冶長,齊人,字子長。

孔子曰く、「長は妻す可し、累紲の中に在りと雖も、其の罪に非ざるなり」と。其の子を以て之に妻せしむ。

原文孔子曰:「長可妻也,雖在累紲之中,非其罪也。」以其子妻之。

南宮括

原文南宮括

南宮括、字は子容。

原文南宮括字子容。

孔子に問うて曰く、「羿は射を善くし、奡は舟を盪し、倶に其の死を得ざる然り。禹・稷は躬ら稼して天下を有つ」と。孔子答えず。容出づ。孔子曰く、「君子なるかな若人。上徳なるかな若人」と。「国に道あれば、廃せられず。国に道なければ、刑戮を免る」と。三たび「白珪の玷」を復し、其の兄の子を以て之に妻す。

原文問孔子曰:「羿善射,奡盪舟,俱不得其死然;禹稷躬稼而有天下?」孔子弗答。容出,孔子曰:「君子哉若人!上德哉若人!」「國有道,不廢;國無道,免於刑戮。」三復「白珪之玷」,以其兄之子妻之。

公皙哀

原文公皙哀

公皙哀、字は季次。

原文公皙哀字季次。

孔子曰く、「天下に行無く、多く家臣と為り、都に仕う。唯だ季次は未だ嘗て仕えず」と。

原文孔子曰:「天下無行,多爲家臣,仕於都;唯季次未嘗仕。」

曾蒧

原文曾蒧

曾蒧、字は皙。

原文曾蒧字皙。

孔子に侍す。孔子曰く、「爾が志を言へ。」蒧曰く、「春服既に成り、冠者五六人、童子六七人、沂に浴し、舞雩に風し、詠じて帰らん。」孔子喟然として嘆じて曰く、「吾は蒧に與せん。」

原文侍孔子,孔子曰:「言爾志。」蒧曰:「春服既成,冠者五六人,童子六七人,浴乎沂,風乎舞雩,詠而歸。」孔子喟爾嘆曰:「吾與蒧也!」

顏無繇

原文顏無繇

顏無繇、字は路。路は顏回の父なり。父子嘗て各異なる時に孔子に事へたり。

原文顏無繇字路。路者,顏回父,父子嘗各異時事孔子。

顔回が死に、顔路は貧しく、孔子の車を請うて葬ろうとした。孔子は言った。「材あるなしは、それぞれ自分の子について言うところである。鯉が死んだとき、棺はあっても槨はなかった。私は徒歩してまで槨を作ろうとはしなかった。私が大夫の末席に連なっている以上、徒歩してはならないからである。」

原文顏回死,顏路貧,請孔子車以葬。孔子曰:「材不材,亦各言其子也。鯉也死,有棺而無槨,吾不徒行以爲之槨,以吾從大夫之後,不可以徒行。」

商瞿

原文商瞿

商瞿は魯の人で、字は子木という。孔子より二十九歳若い。

原文商瞿,魯人,字子木。少孔子二十九歳。

孔子が『易』を商瞿に伝え、瞿は楚の人馯臂(子弘)に伝え、弘は江東の人矯子庸疵に伝え、疵は燕の人周子家豎に伝え、豎は淳于の人光子乗羽に伝え、羽は斉の人田子莊何に伝え、何は東武の人王子中同に伝え、同は菑川の人楊何に伝えた。何は元朔年間に易を治めることで漢の中大夫となった。

原文孔子傳《易》於瞿,瞿傳楚人馯臂子弘,弘傳江東人矯子庸疵,疵傳燕人周子家豎,豎傳淳于人光子乘羽,羽傳齊人田子莊何,何傳東武人王子中同,同傳菑川人楊何。何元朔中以治易爲漢中大夫。

髙柴

原文髙柴

高柴、字は子羔。孔子より三十歳若い。

原文髙柴字子羔。少孔子三十歳。

子羔は背丈が五尺に満たず、孔子に師事したが、孔子は彼を愚鈍であると見做した。

原文子羔長不盈五尺,受業孔子,孔子以爲愚。

子路が子羔を費郈の宰に任じようとしたとき、孔子は言った、「人の子を害するものだ」。子路が言った、「民人がおり、社稷がある。どうして必ず書を読んでから学問とする必要があろうか」。孔子は言った、「それ故に佞者を憎むのである」。

原文子路使子羔爲費郈宰,孔子曰:「賊夫人之子!」子路曰:「有民人焉,有社稷焉,何必讀書然後爲學!」孔子曰:「是故惡夫佞者。」

漆彫開

原文漆彫開

漆彫開、字は子開。

原文漆彫開字子開。

孔子が開に仕官するよう勧めたところ、開は答えて言うには、「私はこれ(仕官)についてまだ自信がありません」と。孔子は喜んだ。

原文孔子使開仕,對曰:「吾斯之未能信。」孔子説。

公伯繚

原文公伯繚

公伯繚、字は子周。

原文公伯繚字子周。

(公伯繚)が季孫に子路を訴えた。子服景伯がこのことを孔子に告げて言うには、「夫子(季孫)はもともと(子路に対して)疑いの心を抱いております。繚のことは、私の力でもまだ市中に晒し者にすることができます」と。孔子は言った。「道が行われようとするのは天命である。道が廃れようとするのも天命である。公伯繚が天命をどうしようというのか」。

原文周訴子路於季孫,子服景伯以告孔子,曰:「夫子固有惑志,繚也,吾力猶能肆諸市朝。」孔子曰:「道之將行,命也;道之將廢,命也。公伯繚其如命何!」

司馬耕

原文司馬耕

司馬耕は字を子牛という。

原文司馬耕字子牛。

牛は言葉多くしてさわがしい。仁を孔子に問う。孔子曰く、「仁者は其の言やじんなり」と。曰く、「其の言や訒、斯れを以て仁と謂うべきか」と。子曰く、「之を為すこと難し。言うこと得て訒ならざらんや」と。

原文牛多言而躁。問仁於孔子,孔子曰:「仁者其言也訒。」曰:「其言也訒,斯可謂之仁乎?」子曰:「爲之難,言之得無訒乎!」

君子を問う。子曰く、「君子は憂えずおそれず」と。曰く、「憂えず懼れず、斯れを以て君子と謂うべきか」と。子曰く、「内に省みてやましきことなければ、夫れ何をか憂え何をか懼れん」と。

原文問君子,子曰:「君子不憂不懼。」曰:「不憂不懼,斯可謂之君子乎?」子曰:「內省不疚,夫何憂何懼!」

樊須

原文樊須

樊須は字を子遅という。孔子より三十六歳若い。

原文樊須字子遲。少孔子三十六歳。

樊遅が農作を学ぶことを請うた。孔子は言われた、「私は老農には及ばない」。園芸を学ぶことを請うと、言われた、「私は老圃には及ばない」。樊遅が出て行くと、孔子は言われた、「小人であることよ、樊須は。上たる者が礼を好めば、民は敢えて敬わない者はない。上たる者が義を好めば、民は敢えて服さない者はない。上たる者が信を好めば、民は敢えて真心を用いない者はない。このようであれば、四方の民は子供を背負ってやって来るであろう。どうして農作を用いようか」。

原文樊遲請學稼,孔子曰:「吾不如老農。」請學圃,曰:「吾不如老圃。」樊遲出,孔子曰:「小人哉樊須也!上好禮,則民莫敢不敬;上好義,則民莫敢不服;上好信,則民莫敢不用情。夫如是,則四方之民襁負其子而至矣,焉用稼!」

樊遅が仁を問うた。子(孔子)は言われた、「人を愛することだ」。智を問うた。言われた、「人を知ることだ」。

原文樊遲問仁,子曰:「愛人。」問智,曰:「知人。」

有若

原文有若

有若は孔子より四十三歳若い。有若が言った、「礼の用い方は、和を貴しとするのが、先王の道の美とするところである。小事大事もこれに従うが、行き詰まることがある。和を知って和するだけで、礼をもってこれを節制しなければ、やはり行うことはできない」。「信が義に近ければ、言葉は履行できる。恭が礼に近ければ、恥辱から遠ざかる。因(縁故)を失わずに親しい者を頼れば、これもまた宗(頼り)とすることができる」。

原文有若少孔子四十三歳。有若曰:「禮之用,和爲貴,先王之道斯爲美。小大由之,有所不行;知和而和,不以禮節之,亦不可行也。」「信近於義,言可復也;恭近於禮,遠恥辱也;因不失其親,亦可宗也。」

孔子が既に亡くなると、弟子たちは慕い偲び、有若の容貌が孔子に似ていたので、弟子たちは互いに共に師として立て、夫子(孔子)が生きていた時のように師事した。ある日、弟子たちが進み出て問うた、「昔、夫子が外出される時、弟子に雨具を持たせられ、やがて果たして雨が降りました。弟子が問うた、『夫子はどうしてこれをご存知でしたか』。夫子は言われた、『『詩経』に言わないか。「月畢ひつを離るれば、滂沱ぼうだたらしむ」と。昨夜、月は畢に宿らなかったか』。別の日、月が畢に宿ったのに、結局雨は降りませんでした。商瞿は年長であったが子がなく、その母が妻を迎えようとした。孔子は彼を斉に行かせようとし、瞿の母がこれを請うた。孔子は言われた、『心配するな、瞿は四十歳の後、必ず五人の男子を得るであろう』。やがて果たしてその通りになりました。夫子はどうしてこれをご存知だったのかと問います」。有若は黙然として応える言葉がなかった。弟子たちは立ち上がって言った、「有子(有若)よ、ここを退け。これはあなたの座ではない」。

原文孔子既沒,弟子思慕,有若狀似孔子,弟子相與共立爲師,師之如夫子時也。他日,弟子進問曰:「昔夫子當行,使弟子持雨具,已而果雨。弟子問曰:『夫子何以知之?』夫子曰:『《詩》不云乎?「月離于畢,俾滂沱矣。」昨暮月不宿畢乎?』他日,月宿畢,竟不雨。商瞿年長無子,其母爲取室。孔子使之齊,瞿母請之。孔子曰:『無憂,瞿年四十後當有五丈夫子。』已而果然。問夫子何以知此?」有若默然無以應。弟子起曰:「有子避之,此非子之座也!」

公西赤

原文公西赤

公西赤、字は子華。孔子より四十二歳年少。

原文公西赤字子華。少孔子四十二歳。

子華が斉に使いしたとき、冉有がその母のために粟を請うた。孔子曰く、「釜を与えよ。」益すことを請うと、曰く、「庾を与えよ。」冉子はこれに粟五秉を与えた。孔子曰く、「赤の斉に適くや、肥馬に乗り、軽裘を衣たり。吾聞く、君子は急を周し、富を継がずと。」

原文子華使於齊,冉有爲其母請粟。孔子曰:「與之釜。」請益,曰:「與之庾。」冉子與之粟五秉。孔子曰:「赤之適齊也,乘肥馬,衣輕裘。吾聞君子周急不繼富。」

巫馬施

原文巫馬施

巫馬施、字は子旗。孔子より三十歳年少。

原文巫馬施字子旗。少孔子三十歳。

陳司敗が孔子に問うて曰く、「魯の昭公は礼を知るか」と。孔子曰く、「礼を知る」と。退いて巫馬旗に揖して曰く、「吾聞く、君子は党せずと。君子も亦た党するか。魯君は呉の女を娶りて夫人と為し、之を命じて孟子と為す。孟子は姓は姫なり、同姓を称するを諱む。故に之を孟子と謂う。魯君にして礼を知るならば、孰れか礼を知らざらん」と。施以て孔子に告ぐ。孔子曰く、「丘や幸いなり。苟くも過ち有らば、人必ず之を知る。臣は君親の悪を言うべからず。諱む者は、礼なり」と。

原文陳司敗問孔子曰:「魯昭公知禮乎?」孔子曰:「知禮。」退而揖巫馬旗曰:「吾聞君子不黨,君子亦黨乎?魯君娶吳女爲夫人,命之爲孟子。孟子姓姬,諱稱同姓,故謂之孟子。魯君而知禮,孰不知禮!」施以告孔子,孔子曰:「丘也幸,苟有過,人必知之。臣不可言君親之惡,爲諱者,禮也。」

他の弟子

原文其他弟子

梁鱣、字は叔魚。孔子より二十九歳少ない。

原文梁鱣字叔魚。少孔子二十九歳。

顔幸、字は子柳。孔子より四十六歳少ない。

原文顏幸字子柳。少孔子四十六歳。

冉孺、字は子魯。孔子より五十歳少ない。

原文冉孺字子魯,少孔子五十歳。

曹卹は字を子循といい、孔子より五十歳若い。

原文曹卹字子循。少孔子五十歳。

伯虔は字を子析といい、孔子より五十歳若い。

原文伯虔字子析,少孔子五十歳。

公孫龍は字を子石といい、孔子より五十三歳若い。

原文公孫龍字子石。少孔子五十三歳。

子石より右方の三十五人には、年齢と名が明らかで、学問を受けたことが書伝に見える。その四十有二人は、年齢がなく書伝に見えない者で、左に記す。

原文自子石已右三十五人,顯有年名及受業見於書傳。其四十有二人,無年及不見書傳者紀於左:

冉季は字を子産という。

原文冉季字子產。

公祖句茲は字を子之という。

原文公祖句茲字子之。

秦祖は字を子南という。

原文秦祖字子南。

漆雕哆は字を子斂という。

原文漆雕哆字子斂。

顏髙は字を子驕という。

原文顏髙字子驕。

漆雕徒父。

原文漆雕徒父。

壤駟赤字子徒。

原文壤駟赤字子徒。

商澤。

原文商澤。

石作蜀字子明。

原文石作蜀字子明。

任不齊字選。

原文任不齊字選。

公良孺字子正。

原文公良孺字子正。

后處は字を子里という。

原文后處字子里。

秦冉は字を開という。

原文秦冉字開。

公夏首は字を乘という。

原文公夏首字乘。

奚容箴は字を子皙という。

原文奚容箴字子皙。

公肩定は字を子中という。

原文公肩定字子中。

顔祖は字を襄という。

原文顏祖字襄。

鄡単は字を子家という。

原文鄡單字子家。

句井疆。

原文句井疆。

罕父黒は字を子索という。

原文罕父黑字子索。

秦商は字を子丕という。

原文秦商字子丕。

申黨、字は周。

原文申黨字周。

顏之僕、字は叔。

原文顏之僕字叔。

榮旂、字は子祈。

原文榮旂字子祈。

縣成、字は子祺。

原文縣成字子祺。

左人郢、字は行。

原文左人郢字行。

燕伋は字を思といふ。

原文燕伋字思。

鄭國は字を子徒といふ。

原文鄭國字子徒。

秦非は字を子之といふ。

原文秦非字子之。

施之常は字を子恒といふ。

原文施之常字子恒。

顏噲は字を子聲といふ。

原文顏噲字子聲。

歩叔乗、字は子車。

原文步叔乘字子車。

原亢籍。

原文原亢籍。

楽欬、字は子声。

原文樂欬字子聲。

廉絜、字は庸。

原文廉絜字庸。

叔仲会、字は子期。

原文叔仲會字子期。

顔何は字を冉という。

原文顏何字冉。

狄黒は字を皙という。

原文狄黑字皙。

邦巽は字を子斂という。

原文邦巽字子斂。

孔忠。

原文孔忠。

公西輿如は字を子上という。

原文公西輿如字子上。

公西葴、字は子上。

原文公西葴字子上。

太史公曰く

原文太史公曰

太史公曰く、学者多くは七十子の徒を称し、誉むる者は或いは其の実を過ぎ、毀る者は或いは其の真を損ふ。之を鈞しくして其の容貌を未だ睹ざれば、則ち弟子の籍を論ずる言、孔氏の古文より出づるは是に近し。余、弟子の名姓文字を以て、悉く論語の弟子問を取りて并び次ぎて篇と為し、疑はしきは闕く。

原文太史公曰:學者多稱七十子之徒,譽者或過其實,毀者或損其真,鈞之未睹厥容貌,則論言弟子籍,出孔氏古文近是。余以弟子名姓文字悉取論語弟子問并次爲篇,疑者闕焉。

【索隠述賛】教は闕里に興り、道は郰郷に在り。異能は列に就き、秀士は堂に升る。仁に依りて芸に遊び、志を合はせて方を同じくす。将師宮尹、俎豆琳琅。惜しいかな覇たらず、空しく臣たり素王!

原文【索隱述贊】教興闕里,道在郰鄉。異能就列,秀士升堂。依仁遊藝,合志同方。將師宮尹,俎豆琳琅。惜哉不霸,空臣素王!