北齊書

巻050

巻050

北齊書

原文北齊書

卷五十補列傳第四十二 恩倖

原文卷五十補列傳第四二 恩倖

甚だしいかな、齊末の嬖幸の甚だしさは、書契以来未だかってこれ有らず。心は錐刀の利を貪り、台鼎の任に居り;智は菽麥に昏く、機衡の重きに当たる。刑に残された閹宦、蒼頭盧兒、西域の醜胡、龜茲の雑伎、王に封ぜられる者は足を接し、開府する者は肩を比す。ただ独り弄臣を守るのみならず、さらに多く朝政に干与す。賜与の費は、帑蔵もって虚しく;杼軸の資は、剝掠将に尽きんとす。たとえ亀鼎の祚、世を卜するに霊長なりとも、この淫昏に属しては、亡びざる理無く、齊の運の短促なるは、固より其れ宜なるかな。高祖こうそ・世宗は、情は庶政に存し、文武の任寄は、多く貞幹の臣有り、ただ郭秀の小人のみ、明徳を累わす有り。天保五年の後は、たとえ狂を作すを念わずとも、幸いする所の徒は、ただ左右の駆馳、内外の褻狎にあり、その朝廷の事は一も与聞せず。大寧の後は、姦佞浸く繁く、盛業鴻基、もって之れ顛覆す。生民、夫れ被髪左袵を免るるは、不幸に非ざるなり。今、諸の凶族を緝めて『佞幸傳』と為す。その宦者の徒は、特に亡齊の一物なり。醜声穢跡、千端万緒、その事は闕けて書かず、仍って略く姓名を存し、この『傳』の末に附す。その帝家の諸奴及び胡人の楽工、貴幸を叨竊する者、今も亦出ず。

原文甚哉齊末之嬖幸也,蓋書契以降未之有焉。心利錐刀,居台鼎之任;智昏菽麥,當機衡之重。刑殘閹宦、蒼頭盧兒,西域醜胡、龜茲雜伎,封王者接武,開府者比肩。非直獨守弄臣,且復多干朝政。賜予之費,帑藏以虛;杼軸之資,剝掠將盡。縱龜鼎之祚,卜世靈長,屬此淫昏,無不亡之理,齊運短促,固其宜哉。高祖、世宗,情存庶政,文武任寄,多貞幹之臣,唯郭秀小人,有累明德。天保五年之後,雖罔念作狂,所幸之徒,唯左右驅馳,內外褻狎,其朝廷之事一不與聞。大寧之後,姦佞浸繁,盛業鴻基,以之顛覆。生民免夫被發左袵,非不幸也。今緝諸凶族為《佞幸傳》云。其宦者之徒,尤是亡齊之一物。醜聲穢跡,千端萬緒,其事闕而不書,仍略存姓名,附之此《傳》之末。其帝家諸奴及胡人樂工,叨竊貴辛,今亦出焉。

郭秀

原文郭秀

郭秀は、范陽涿の人なり。高祖に事えて行臺右丞と為り、親寵日増しに隆く、多く賂遺を受く。秀、疾に遇うや、高祖親しく臨みて之れを視、官を欲する所を問う。乃ち七兵尚書と為さんことを啓く。除書未だ至らざるに卒す。家に成人の子弟無く、高祖自ら其の宅に至り、親しくして其の家資の粟帛の多少を知ることを録使し、然る後に去る。命じて其の子孝義をして太原公以下と同学して書を読ましむ。初め、秀は楊愔を忌み、誑脅して其の逃亡を令す。秀の死後、愔還るや、高祖秀を追忿し、即日に孝義を斥け、終身歯せず。

原文郭秀,范陽涿人。事高祖為行臺右丞,親寵日隆,多受賂遺。秀遇疾,高祖親臨視之,問所欲官。乃啟為七兵尚書,除書未至而卒。家無成人子弟,高祖自至其宅,親使錄知其家資粟帛多少,然後去。命其子孝義與太原公已下同學讀書。初,秀忌楊愔,誑脅令其逃亡。秀死後,愔還,高祖追忿秀,卽日斥孝義,終身不齒。

和士開

原文和士開

和士開は、字は彦通、清都臨漳の人なり。其の先は西域の商胡、本姓は素和氏。父の安は、恭敏にして人に事えるに善く、稍く遷って中書舎人と為る。魏の孝静帝嘗て夜中に朝賢と講集し、安に命じて斗柄の指す所を見しむ。安答えて曰く、「臣は北斗を識らず。」高祖之れを聞き、淳直と為す。後に儀州刺史と為る。

原文和士開,字彥通,清都臨漳人也。其先西域商胡,本姓素和氏。父安,恭敏善事人,稍遷中書舍人。魏孝靜嘗夜中與朝賢講集,命安看斗柄所指,安答曰:「臣不識北斗。」高祖聞之,以為淳直。後為儀州刺史。

士開は幼くして聡慧、選ばれて国子学生と為り、解悟捷疾にして、同業の尚ぶ所と為る。天保初め、世祖長広王に封ぜられ、士開を辟いて府行参軍と為す。世祖は性握槊を好み、士開は此の戯に善く、是れより遂に斯の挙有り。傾巧便僻を加うるに、又能く胡琵琶を弾ず、此れによりて親狎す。嘗て王に謂いて曰く、「殿下は天人に非ず、是れ天帝なり。」王曰く、「卿は世人に非ず、是れ世神なり。」其の深く相愛すること此の如し。顕祖其の軽薄なるを知り、王と小人と相親善するを令さず、其の戯狎の過度を責め、長城に徙す。後に京畿士曹参そうしん軍を除く、長広王の之を請うなり。

原文士開幼而聰慧,選為國子學生,解悟捷疾,為同業所尚。天保初,世祖封長廣王,辟士開府行參軍。世祖性好握槊,士開善於此戲,由是遂有斯舉。加以傾巧便僻,又能彈胡琵琶,因此親狎。嘗謂王曰:「殿下非天人也,是天帝也。」王曰:「卿非世人也,是世神也。」其深相愛如此。顯祖知其輕薄,不令王與小人相親善,責其戲狎過度,徙長城。後除京畿士曹參軍,長廣王請之也。

世祖践祚し、累ねて侍中を除き、開府を加う。母劉氏の憂いに遭う。帝聞きて悲惋し、武衛将軍呂芬を遣わして宅に詣らしめ、昼夜扶侍せしめ、成服後に方ち還る。其の日、帝又た犢車を以て士開を迎え入内せしむ。帝見て、親しく手を握り、愴惻として泣き下し、暁喻すること良久く、然る後に遣わし還し、並びに諸弟四人も皆本官に起復せしむ。其の親重を見らるること此の如し。右僕射を除く。帝先に気疾を患う。飲酒に因りて輒ち大いに発動す。士開毎に諫むれども従わず。帝の気疾発するに属し、又た飲まんと欲す。士開涙下し歔欷して言う能わず。帝曰く、「卿此れは言わざるの諫なり。」因りて復た飲まず。言辞容止、極めて諸の鄙褻に及び、夜を以て晝に継ぎ、復た君臣の礼無し。世祖に説いて云うに至りては、「古より帝王は、尽く灰燼かいじんと為り、堯・舜・桀・紂、竟に復た何の異なる有らん。陛下は宜しく少壮に及び、恣意に作楽し、縦横に行い、即ち是一日の快活千年に敵す。国事は大臣に分付すべし、何ぞ慮りて辦わざらん、自ら勤苦する無かれ。」世祖大いに悦ぶ。其の年十二月、世祖乾寿殿に於いて寝疾す。士開入りて医薬に侍る。世祖士開に伊・霍の才有りと謂い、殷勤として後事を属し、崩ずるに臨み、士開の手を握りて曰く、「我に負くこと無かれ。」仍りて士開の手に於いて絶ゆ。

原文世祖踐祚,累除侍中,加開府。遭母劉氏憂,帝聞而悲惋,遣武衛將軍呂芬詣宅,晝夜扶侍,成服後方還。其日,帝又遣以犢車迎士開入內,帝見,親自握手,愴惻下泣,曉喻良久,然後遣還,幷諸弟四人並起復本官。其見親重如此。除右僕射。帝先患氣疾,因飲酒輒大發動,士開每諫不從。屬帝氣疾發,又欲飲,士開淚下歔欷不能言。帝曰:「卿此是不言之諫。」因不復飲。言辭容止,極諸鄙褻,以夜繼晝,無復君臣之禮。至說世祖云:「自古帝王,盡為灰燼,堯、舜、桀、紂,竟復何異?陛下宜及少壯,恣意作樂,縱橫行之,卽是一日快活敵千年。國事分付大臣,何慮不辦,無為自勤苦也。」世祖大悅。其年十二月,世祖寢疾於乾壽殿,士開入侍醫藥。世祖謂士開有伊、霍之才,殷勤屬以後事,臨崩,握士開之手曰:「勿負我也。」仍絕於士開之手。

後主は世祖の顧托に以り、深く之れを委仗す。又た先に胡太后に幸いを得たり。是を以て弥く親密を見らる。趙郡王叡と婁定遠等、士開を出さんと謀り、諸貴人を引いて共に計策を為す。太后の朝貴を前殿に觴するに属し、叡面して士開の罪失を陳べ、云く、「士開は先帝の弄臣、城狐社鼠、貨賄を受け納れ、宮掖を穢乱す。臣等義として杜口すべからず、死を冒して以て陳ぶ。」太后曰く、「先帝在しし時、王等何ぞ道わざりし。今日孤寡を欺かんと欲するか。但だ酒を飲め、多く言う無かれ。」叡の詞色愈々厲し。或いは曰く、「士開を出さざれば、朝野定まらず。」叡等或いは冠を地に投じ、或いは衣を拂いて起ち、言詞咆勃、至らざる所無し。明日、叡等共に雲龍門に詣り、文遥をして入りて之れを奏せしむ。太后聴かず。段韶胡長粲を呼びて言を伝えしむ。太后曰く、「梓宮殯に在り、事大いに拚速なり。王等に更に思量せんことを欲す。」趙郡王等遂に並びに拝謝し、更に余言無し。太后及び後主召見して士開に問う。士開曰く、「先帝群官の中に於いて、臣を待つこと最重し。陛下諒暗始めて爾り。大臣皆覬覦の心有り。若し臣を出さば、正に陛下の羽翼を剪るなり。宜しく叡等に謂うべし、『士開をして州と為らしめ、山陵を過ぐるを待ち、然る後に発遣せん』と。叡等臣の真に出づるを謂わば、必ず心之れを喜ばん。」後主及び太后之れを然りとし、叡等に告ぐること士開の旨の如く、士開を以て兗州刺史と為す。山陵畢り、叡等士開を促して路に就かしむ。士開美女珠簾及び条の諸宝玩を載せて以て定遠に詣り、謝して曰く、「諸貴は士開を殺さんと欲す。王の特めに性命を賜わるに蒙り、方伯と用作さる。今まさに別れを奉ぜんとす。謹んで二女子・一珠簾を上る。」定遠喜び、士開に謂いて曰く、「還り入らんことを得んと欲するか。」士開曰く、「内に久しく、常に自ら安からず。今出づるを得るは、実に本意に称す。更に入らんことを願わず。但だ王の保護を乞い、長く大州刺史と作らん。今日遠く出づ、願わくは一たび辞して二宮を観んことを得ん。」定遠之れを許す。士開是れによりて太后及び後主を見ることを得、進みて説いて曰く、「先帝一旦登遐し、臣愧じて自ら死する能わず。朝貴の勢、陛下をして幹明たらしめんと欲するを観る。臣出でし後は、必ず大変有らん。復た何の面目を以てか先帝に地下に於いて見えん。」因りて慟哭す。帝及び太后皆泣き、計の将に安く出づべきかを問う。士開曰く、「臣已に入るを得たり。復た何の慮る所か有らん。正に数行の詔書を須うるのみ。」ここにおいて詔して定遠を青州刺史に出し、趙郡王叡を不臣の罪を以て責め、召し入れて之れを殺す。復た士開の侍中・右僕射を除く。定遠は士開の遺する所に帰し、余珍を加えて以て之れを賂う。武平元年、淮陽王に封ぜられ、尚書令しょうしょれい・録尚書事を除き、本官悉く得て故の如くなることを復す。

原文後主以世祖顧托,深委仗之。又先得幸於胡太后,是以彌見親密。趙郡王叡與婁定遠等謀出士開,引諸貴人共為計策。屬太后觴朝貴於前殿,叡面陳士開罪失,云:「士開先帝弄臣,城狐社鼠,受納貨賄,穢亂宮掖,臣等義無杜口,冒死以陳。」太后曰:「先帝在時,王等何不道?今日欲欺孤寡耶!但飲酒,勿多言。」叡詞色愈厲。或曰:「不出士開,朝野不定。」叡等或投冠於地,或拂衣而起,言詞咆勃,無所不至。明日,叡等共詣雲龍門,令文遙入奏之,太后不聽。段韶呼胡長粲傳言,太后曰:「梓宮在殯,事大拚速,欲王等更思量。」趙郡王等遂並拜謝,更無餘言。太后及後主召見問士開,士開曰:「先帝群官之中,待臣最重,陛下諒暗始爾,大臣皆有覬覦心,若出臣,正是剪陛下羽翼。宜謂叡等云:『令士開為州,待過山陵,然後發遣。』叡等謂臣真出,必心喜之。」後主及太后然之,告叡等如士開旨,以士開為兗州刺史。山陵畢,叡等促士開就路。士開載美女珠簾及條諸寶玩以詣定遠,謝曰:「諸貴欲殺士開,蒙王特賜性命,用作方伯。今欲奉別,謹具上二女子、一珠簾。」定遠喜,謂士開曰:「欲得還入不?」士開曰:「在內久,常不自安,令得出,實稱本意,不願更入,但乞王保護,長作大州刺史。今日遠出,願得一辭觀二宮。」定遠許之。士開由是得見太后及後主,進說曰:「先帝一旦登遐,臣愧不能自死。觀朝貴勢欲陛下為幹明。臣出之後,必有大變,復何面見先帝於地下。」因慟哭。帝及太后皆泣,問計將安出。士開曰:「臣已得入,復何所慮,正須數行詔書耳。」於是詔出定遠青州刺史,責趙郡王叡以不臣之罪,召入而殺之。復除士開侍中、右僕射。定遠歸士開所遺,加以餘珍賂之。武平元年,封淮陽王,除尚書令、錄尚書事,復本官悉得如故。

世祖(武成帝)の時、常に士開に太后と握槊をさせ、また臥内に出入りする期限もなく、遂に太后と乱を為す。世祖崩御の後、ますます放恣となる。瑯邪王儼これを憎み、領軍庫狄伏連・侍中馮子琮・御史王子宜・武衛高舍洛らと謀りてこれを誅せんとす。伏連京畿の軍士を発し、神武・千秋の門外に帖し、並びに私に約束し、士開の殿に入るを聴かず。その年七月二十五日朝、士開式に依り早参す。伏連前に進みて士開の手を把りて曰く「今一大好事有り」と。王子宜便ち一函を授け、云く「勑有りて王に台に向かわしむ」と。兵士を遣わし防送せしめ、治書侍御の庁事に禁ず。儼都督ととく馮永洛を遣わし就きて台にてこれを斬る。時に年四十八、その家口を簿録す。後に儼らを誅す。上哀悼し、数日視事せず、追憶已まず。詔してその子道盛を起復して常侍と為し、またその弟士休に勑して内省に入り機密に参典せしむ。詔して士開に仮黄鉞・十州諸軍事・左丞相・太宰を贈ること故の如し。

原文世祖時,恒令士開與太后握槊,又出入臥內無復期限,遂與太后為亂。及世祖崩後,彌自放恣。瑯邪王儼惡之,與領軍庫狄伏連、侍中馮子琮、禦史王子宜、武衛高舍洛等謀誅之。伏連發京畿軍士,帖神武、千秋門外,並私約束,不聽士開入殿。其年七月二十五日旦,士開依式早參,伏連前把士開手曰:「今有一大好事。」王子宜便授一函,云:「有勑令王向臺。」遣兵士防送,禁於治書侍御廳事。儼遣都督馮永洛就臺斬之,時年四十八,簿錄其家口。後誅儼等。上哀悼,不視事數日,追憶不已。詔起復其子道盛為常侍,又勑其弟士休入內省參典機密,詔贈士開假黃鉞、十州諸軍事、左丞相、太宰如故。

士開は稟性庸鄙にして、書伝を窺わず、発言吐論、ただ諂媚を以て自ら資とす。河清・天統以後、威権転じて盛んとなり、富商大賈朝夕門を填め、朝士廉恥を知らざる者多く相附会し、甚だしきはその仮子と為り、市道の小人と同じく昆季の行列に在り。また一人の士有り、曾て士開に参ず。疾に値い、医人云く「王傷寒極めて重く、薬を進むるも効無く、応に黄龍湯を服すべし」と。士開難色有り。是の人云く「此の物甚だ易く与う。王疑惑を須いず。請う王の為めに先ずこれを嘗めん」と。一挙にして便ち尽くす。士開深く此の心を感し、その為めに強いて服し、遂に汗を得て病癒ゆ。その勢朝廷を傾くること此の如し。左道を以てこれに事うる者は、賢愚を問わず、進擢せられざる無く、正理を以て干忤する者も、また頗るこれを捨つる能う。士開人将に刑戮を加えられんとするを見れば、多く営救し、既に罪を免るるを得れば、即ち諷喻を命じ、その珍宝を責め、これを贖命物と謂う。全済有りと雖も、皆直道に非ざる云う。

原文士開稟性庸鄙,不闚書傳,發言吐論,惟以諂媚自資。河清、天統以後,威權轉盛,富商大賈朝夕填門,朝土不知廉恥者多相附會,甚者為其假子,與市道小人同在昆季行列。又有一人士,曾參士開,值疾,醫人云:「王傷寒極重,進藥無效,應服黃龍湯。」士開有難色。是人云:「此物甚易與,王不須疑惑,請為王行先嘗之。」一舉便盡。士開深感此心,為之強服,遂得汗病愈。其勢傾朝廷也如此。雖以左道事之者,不問賢愚,無不進擢;而以正理干忤者,亦頗能捨之。士開見人將加刑戮,多所營救,旣得免罪,卽命諷喻,責其珍寶,謂之贖命物。雖有全濟,皆非直道云。

穆提婆

原文穆提婆

穆提婆は、本姓は駱、漢陽の人なり。父超、謀叛を以て誅せらる。提婆の母陸令萱は賞められて掖庭に配入せられ、後主繈褓の中に在りて、これに鞠養せしむ。これを乾阿妳と謂い、遂に大いに胡后に昵愛せらる。令萱は姦巧にして機辯多く、百端媚を取り、宮掖の中に、独り威福を擅にす。天統初、奏して提婆を引き入れ後主に侍らしめ、朝夕左右に在りて、大いに親狎せらる。嬉戲醜褻、為さざる所無し。寵遇ますます隆く、官爵紀極を知らず、遂に録尚書事に至り、城陽王に封ぜらる。令萱また佞媚し、穆昭儀これを養いて母と為す。是を以て提婆穆氏に改姓す。穆后立つに及び、令萱は太姬と号す。此れ即ち齊朝皇后の母氏の位号なり、第一品を視、班は長公主の上に在り。武平の後より、令萱母子の勢内外を傾く。庸劣の徒は皆重跡屏気す。外より殺生予奪は尽く言う可からず。晉州軍敗れ、後主鄴に還る。提婆周軍に奔る。令萱自殺し、子孫大小皆棄市せられ、その家を籍没す。

原文穆提婆,本姓駱,漢陽人也。父超,以謀叛伏誅。提婆母陸令萱賞配入掖庭,後主繈褓之中,令其鞠養,謂之乾阿妳,遂大為胡后所昵愛。令萱姦巧多機辯,取媚百端,宮掖之中,獨擅威福。天統初,奏引提婆入侍後主,朝夕左右,大被親狎。嬉戲醜褻,無所不為。寵遇彌隆,官爵不知紀極,遂至錄尚書事,封城陽王。令萱又佞媚,穆昭儀養之為母,是以提婆改姓穆氏。及穆后立,令萱號曰太姬,此卽齊朝皇后母氏之位號也,視第一品,班在長公主之上。自武平之後,令萱母子勢傾內外矣。庸劣之徒皆重跡屏氣焉。自外殺生予奪不可盡言。晉州軍敗,後主還鄴,提婆奔周軍。令萱自殺,子孫大小皆棄市,籍沒其家。

高阿那肱

原文高阿那肱

高阿那肱は、善無の人なり。その父市貴、高祖に従い起義す。那肱は庫典と為り、征討に従い、功勤を以て武衛将軍に擢でらる。肱は騎射に妙なり、便僻にして人に事うるを善くし、毎に宴射の次に在りて、大いに世祖に愛重せらる。また和士開に諂悦し、特に相褻狎す。士開毎にその為めに言い、ますます親待せらる。後主即位し、累遷して幷省尚書左僕射と為り、淮陰王に封ぜられ、また幷省尚書令を除かる。

原文高阿那肱,善無人也。其父市貴,從高祖起義。那肱為庫典,從征討,以功勤擢為武衛將軍。肱妙於騎射,便僻善事人,每宴射之次,大為世祖所愛重。又諂悅和士開,尤相褻狎,士開每為之言,彌見親待。後主卽位,累遷幷省尚書左僕射,封淮陰王,又除幷省尚書令。

肱の才伎は庸劣にして、文史に渉らず、識用は特に士開の下に在り、而して姦巧計数もまた士開に逮わず。既に世祖に幸せられ、多く東宮に在りて後主に侍らしめ、是を以て大いに寵遇せらる。士開死後、後主その識度士開を継ぐに足ると謂い、遂に宰輔の位に致す。武平四年、その録尚書事を令し、また外兵及び内省の機密を総知せしむ。尚書郎中源師嘗て肱に諮りて云く「龍見ゆ、当に雩すべし」と。師に問うて云く「何れの処に龍見ゆ。何の物の顔色を作すや」と。師云く「此れは龍星見ゆるなり。須らく雩祭すべく、真の龍の見ゆるに非ず」と。肱云く「漢児強いて星宿を知る」と。その墻面此の如し。また右丞相と為り、余は故の如し。

原文肱才伎庸劣,不涉文史,識用尤在士開之下,而姦巧計數亦不逮士開。旣為世祖所幸,多令在東宮侍後主,所以大被寵遇。士開死後,後主謂其識度足繼士開,遂致位宰輔。武平四年,令其錄尚書事,又總知外兵及內省機密。尚書郎中源師嘗諮肱云:「龍見,當雩。」問師云:「何處龍見?作何物顏色?」師云:「此是龍星見,須雩祭,非是真龍見。」肱云:「漢兒強知星宿!」其墻面如此。又為右丞相,餘如故。

周師平陽に逼る。後主天池に於いて校獵す。晉州頻りに馳奏を遣わす。旦より午に至るまで、駅馬三至る。肱云く「大家正に楽を作す。何ぞ急ぎ奏聞せん」と。暮に至り、使い更に至りて云く「平陽城已に陥ち、賊方に至らんとす」と。乃ち奏して知らしむ。明くる日早朝、即ち軍を引かんと欲す。淑妃また請うて更に一囲を合わさんとす。軍晉州に赴くに及び、肱をして前軍を率い先ず進ましめ、仍って諸軍を総節度せしむ。後主肱に謂いて曰く「戦うは是か、戦わざるは是か」と。肱曰く「戦う勿れ、却って高梁橋を守れ」と。安吐根曰く「一把子の賊、馬上に刺し取りて汾河中に擲てん」と。帝意未だ決せず。諸内参曰く「彼も亦天子、我も亦天子。彼尚お能く遠く来る。我何ぞ塁を守りて弱を示さん」と。帝曰く「此の言是なり」と。是に於いて漸く進む。提婆戦を観、東偏頗る退く者あり。提婆去りて曰く「大家去れ、大家去れ」と。帝淑妃を以て高梁関に奔る。開府奚長楽諫めて曰く「半ば進み半ば退くは、戦の常体なり。今兵衆全く整え、未だ傷敗無し。陛下此れを捨てて何れの処にか安からん。御馬一動すれば、人情驚乱す。且つ速やかに還りて之を安慰すべし」と。武衛張常山後より至り、亦曰く「軍尋いで回収し、甚だ整頓す。城を囲む兵も亦動かず。至尊回るべし。臣の言を信ぜずば、請う内参を将いて往きて視しめよ」と。帝将にこれに従わんとす。提婆帝の肘を引きて曰く「此の言信じ難し」と。帝遂に北に馳す。軍士有りて告げて称す、那肱臣を遣わし西軍を招引す、今故に奏聞すと。後主侍中斛律孝卿に令し検校せしむ。孝卿云く「此人妄語す」と。晉に還る。那肱の腹心肱の謀反を告ぐ。又妄なりと以為い、これを斬る。乃ち顛沛はいして鄴に還る。侍衛逃散し、唯だ那肱及び内官数十騎従行す。

原文周師逼平陽,後主於天池校獵,晉州頻遣馳奏,從旦至午,驛馬三至,肱云:「大家正作樂,何急奏聞。」至暮,使更至,云:「平陽城已陷,賊方至。」乃奏知。明早旦,卽欲引軍,淑妃又請更合一圍。及軍赴晉州,令肱率前軍先進,仍總節度諸軍。後主謂肱曰:「戰是耶,不戰是耶?」肱曰:「勿戰,卻守高梁橋。」安吐根曰:「一把子賊,馬上刺取擲著汾河中。」帝意未決。諸內參曰:「彼亦天子,我亦天子,彼尚能遠來,我何為守塹示弱?」帝曰:「此言是也。」於是漸進。提婆觀戰,東偏頗有退者,提婆去曰:「大家去!大家去!」帝以淑妃奔高梁關。開府奚長樂諫曰:「半進半退,戰之常體,今兵衆全整,未有傷敗,陛下舍此安之?御馬一動,人情驚亂,且速還安慰之。」武衛張常山自後至,亦曰:「軍尋收回,甚整頓,圍城兵亦不動,至尊宜回,不信臣言,乞將內參往視。」帝將從之。提婆引帝肘曰:「此言難信。」帝遂北馳。有軍士告稱那肱遣臣招引西軍,今故聞奏。後主令侍中斛律孝卿檢校,孝卿云:「此人妄語。」還至晉,那肱腹心告肱謀反,又以為妄,斬之。乃顛沛還鄴,侍衛逃散,唯那肱及內官數十騎從行。

後主太行を走りて度る。那肱に数千人を以て済州関に投ぜしめ、仍って覘候を遣わす。毎に奏す「周軍未だ至らず、且つ青州に兵を集め、未だ須いず南行すべからず」と。周将軍尉遅迥関に至るに及び、肱遂に降る。時に人皆云う、肱周武に表款し、必ずや生けながら齊主を致さんことを仰ぎ、故に兵の至るを速やかに報ぜず、後主をして擒えられしめたりと。肱長安ちょうあんに至り、大将軍を授けられ、郡公に封ぜられ、隆州刺史と為り、誅せらる。初め、天保中、顕祖晉陽より鄴に還る。陽愚の僧阿禿師路中に於いて大叫し、顕祖の姓名を呼びて云く「阿那瓌終に你が国を破らん」と。是の時茹茹の主阿那瑰塞北に在りて強盛なり。顕祖特にこれを忌み、是を以て毎歳討撃す。後に齊を亡ぼす者は遂に阿那肱に属すと云う。『肱』の字を作すと雖も、世人皆『瓌』の音と称す。斯れ固より「秦を亡ぼす者は胡なり」、蓋し窈冥に懸定せられたるか。

原文後主走度太行,令那肱以數千人投濟州關,仍遣覘候。每奏:「周軍未至,且在青州集兵,未須南行。」及周將軍尉遲迥至關,肱遂降。時人皆云肱表款周武,必仰生致齊主,故不速報兵至,使後主被擒。肱至長安,授大將軍,封郡公,為隆州刺史,誅。初,天保中,顯祖自晉陽還鄴,陽愚僧阿禿師於路中大叫,呼顯祖姓名云:「阿那瓌終破你國。」是時茹茹主阿那瑰在塞北強盛,顯祖尤忌之,所以每歲討擊,後亡齊者遂屬阿那肱云。雖作「肱」字,世人皆稱為「瓌」音,斯固「亡秦者胡」,蓋懸定於窈冥也。

韓鳳

原文韓鳳

韓鳳、字は長鸞、昌黎の人である。父は永興、青州刺史であった。鳳は幼少より聡明で洞察力があり、膂力に優れ、騎射を得意とした。やがて都督に昇進した。後主が東宮に居た時、年は幼く、世祖は都督二十人を選び送って侍衛させたが、鳳はその中にいた。後主は自ら衆の中から鳳の手を引いて言った、「都督、我が子を見守れよ。」これにより認められ、しばしば呼び出されて共に遊戯した。

原文韓鳳,字長鸞,昌黎人也。父永興,青州刺史。鳳少而聰察,有膂力,善騎射。稍遷都督。後主居東宮,年幼稚,世祖簡都督二十人送令侍衛,鳳在其數。後主親就衆中牽鳳手曰:「都督看兒來。」因此被識,數喚共戲。

後主が即位すると、累進して侍中・領軍となり、内省の機密を総べて知ることとなった。祖珽がかつて鳳と後主の前で事を論じた。鳳に語って云う、「強弓と長槊については、互いに譲る余地はないが、軍国の謀略については、どうして争うことができようか。」鳳は答えて云う、「各々意見を出すのであって、何ぞ文武の優劣にあるものか。」昌黎郡王に封ぜられた。男子の宝仁は公主を娶り、晋陽に邸宅一区を賜った。その公主が男子を産み満月となった時、帝は鳳の宅に行幸し、宴会は終日続いた。軍国の重要な機密は、手を経ないものはなく、高阿那肱・穆提婆と共に枢要の地位にあり、三貴と号され、国を損ない政を害すること、日増しに甚だしくなった。寿陽が陥落した時、鳳と穆提婆は敗戦の報告を聞くと、握槊(双六の一種)を止めずに言った、「他家の物だ、彼の行くに任せよ。」後に帝は黎陽の黄河沿いに城戍を築かせた時、鳳は言った、「危急の時は暫くここを守って亀茲国の真似をしよう、さらに人生が寄る辺ないことを憐れむべきで、ただ行楽すべきであり、どうして愁いをなす必要があろうか。」君臣の応和がこのようなものであった。その弟の万歳、及び二人の子の宝行・宝信は皆、開府儀同三司となった。宝信は公主を娶り、帝は再びその宅に行幸し、親戚は皆、官爵や賞賜を蒙った。

原文後主卽位,累遷侍中、領軍,總知內省機密。祖珽曾與鳳於後主前論事。語鳳云:「強弓長槊,無容相謝,軍國謀算,何由得爭。」鳳答曰:「各出意見,豈在文武優劣?」封昌黎郡王。男寶仁尚公主,在晉陽賜第一區。其公主生男滿月,駕幸鳳宅,宴會盡日。軍國要密,無不經手,與高阿那肱、穆提婆共處衡軸,號曰三貴,損國害政,日月滋甚。壽陽陷沒,鳳與穆提婆聞告敗,握槊不輟,曰:「他家物,從他去。」後帝使於黎陽臨河築城戍,曰:「急時且守此作龜茲國子,更可憐人生如寄,唯當行樂,何因愁為?」君臣應和若此。其弟萬歲,及二子寶行、寶信並開府儀同。寶信尚公主,駕復幸其宅,親戚咸蒙官賞。

鳳の母の鮮于は、段孝言の従母の姉(伯母・叔母に当たる)であり、このため特に彼に引き立てられ、上奏して晋陽宮の監造に派遣された。陳德信が駅伝を飛ばして巡察に来ると、孝言が官の夫匠を役使して自分の邸宅を営んでいるのを見て、すぐに言った、「僕射(孝言)は至尊のために台殿を造り未だ完成せず、どうして先に自らの造営を許されようか。」鳳と穆提婆もまた孝言に工匠を分けさせて自分の邸宅を造らせた。徳信は帰還して詳細を奏上した。帝が晋陽に行幸した時、また官馬を他人に乗騎させた。上(帝)はこれにより怒りを発し、提婆と共に除名したが、その罪を公にはしなかった。なおその邸宅を破却した。公主は離縁された。さらに鄴の吏部の門へ参上するよう遣わされた。後主が晋陽から逃走して帰還した後、勅命により内に入り、まもなく詔により爵位を回復した。後主に従って黄河を渡って逃走し、青州に到着したが、共に周軍に捕らえられた。

原文鳳母鮮于,段孝言之從母子姊也,為此偏相參附,奏遣監造晉陽宮。陳德信馳驛檢行,見孝言役官夫匠自營宅,卽語云:「僕射為至尊起臺殿未訖,何容先自營造?」鳳及穆提婆亦遣孝言分工匠為己造宅,德信還具奏聞。及幸晉陽,又以官馬與他人乘騎。上因此發忿,與提婆並除名,亦不露其罪。仍毀其宅。公主離婚。復被遣向鄴吏部門參。及後主晉陽走還,被勑入內,尋詔復爵。從後主走度河,到青州,並為周軍所獲。

鳳は権要の中にあって、特に人士を嫉み、崔季舒らの冤罪による惨禍は、皆、鳳の仕業であった。朝士が事を諮る毎に、敢えて仰ぎ見る者なく、動けば叱責を受け、すぐに罵って云う、「狗漢(犬のような漢人)は大いに耐え難い、ただ殺すべきである。」もし武職の者を見れば、たとえ賤しい身分の者でも容赦して下に扱った。隋に仕え、位は隴州刺史で終わった。

原文鳳於權要之中,尤嫉人士,崔季舒等冤酷,皆鳳所為。每朝士諮事,莫敢仰視,動致呵叱,輒詈云:「狗漢大不可耐,唯須殺却。」若見武職,雖廝養末品亦容下之。仕隋,位終於隴州刺史。

韓寶業ら

原文韓寶業等

韓寶業・盧勒叉・齊紹は、皆、高祖(高歓)の旧来の側近であり、ただ門番や雑用の役目で、恩遇は受けなかった。天保・皇建の朝を歴任しても、寵幸されることもなく、ただ次第に職務を任されるようになった。宝業は長秋卿に至り、勒叉らは或いは中常侍となった。世祖(高湛)の時には曹文摽・鄧長顒の輩があり、儀同三司に至り食幹(封邑からの収入)を受ける者もいたが、ただ長顒は武平年間に宰相に参画し、朝政に干渉した。後に宝業・勒叉・齊紹・子徵は皆、王に封ぜられたが、侵害や暴虐はしなかった。後主の朝になると、陳徳信ら数十人がおり、皆、その奸佞をほしいままにし、政を敗り民を虐げること、古今に例がなかった。多くは開府儀同三司を授かり、儀同三司で止まる者は稀で、また光禄大夫を加えられ、金章紫綬を帯びる者もいた。多くは侍中・中常侍を帯び、この二職に就く者は数十人に及び、また皆、王に封ぜられ開府した。常に宮門の禁を出入りし、園苑を往来し、左右に趨走して侍し、通宵連日であった。顔色を窺い、競って諂諛を進め、発言し意を動かすこと、多くは深い意図に合致した。一つの遊戯の賞賜も、動けば巨万を超え、丘山のように積まれても、貪欲で飽くことを知らなかった。なお波斯狗(ペルシャ犬)に儀同三司・郡君の位を与え、その幹禄(封邑の収入)を分け与えた。神獣門の外には朝貴の休憩所があり、当時の人は解卸庁と号した。諸宦官は或いは内に多日いた後、暫く帰宅休暇を与えられると、乗る馬を神獣門の階まで引かせ、それから乗り、鞭を飛ばして競い走り、数十人が群れをなし、馬の塵は必ず立ち込めた。諸朝貴は唐・趙・韓・駱に至るまで皆、こっそり耳を澄まし、趨走して避け、敢えて言う者はなかった。

原文韓寶業、盧勒叉、齊紹,並高祖舊左右,唯門閹驅使,不被恩遇。歷天保、皇建之朝,亦不至寵幸,但漸有職任。寶業至長秋卿,勒叉等或為中常侍。世祖時有曹文摽、鄧長顒輩,亦有至儀同食幹者,唯長顒武平中任參宰相,干預朝權。後寶業、勒叉、齊紹、子徵並封王,不過侵暴。於後主之朝,有陳德信等數十人,並肆其姦佞,敗政虐人,古今未有。多授開府,罕止儀同,亦有加光祿大夫,金章紫綬者。多帶侍中、中常侍,此二職乃數十人,又皆封王、開府。恒出入門禁,往來園苑,趨侍左右,通宵累日。承候顏色,競進諂諛,莫不發言動意,多會深旨。一戲之賞,動逾巨萬,丘山之積,貪吝無厭。猶以波斯狗為儀同、郡君,分其幹祿。神獸門外有朝貴憩息之所,時人號為解卸廳。諸閹或在內多日,暫放歸休,所乘之馬牽至神獸門階,然後升騎,飛鞭競走,數十為羣,馬塵必坌。諸朝貴爰至唐、趙、韓、駱皆隱聽趨避,不敢為言。

高祖(高歓)の時には、蒼頭(私的な下僕)の陳山提・蓋豊楽・劉桃枝ら数十人がおり、皆、奔走して機嫌を取ることに長け、大いに恩遇を受けた。天保・大寧の朝には、次第に貴盛となり、武平年間には皆、開府儀同三司となり王に封ぜられ、武平に及ばなかった者も王爵を追贈された。

原文高祖時有蒼頭陳山提、蓋豐樂、劉桃枝等數十人,俱驅馳便僻,頗蒙恩遇。天保、大寧之朝,漸以貴盛,至武平時皆以開府、封王,其不及武平者則追贈王爵。

また何海とその子の洪珍は皆、王となり、特に親密で重要な存在であった。洪珍は権勢を弄び、獄を売り官を売った。また史醜多の徒である胡小児ら数十人は、皆、舞を能くし歌をよくし、儀同三司・開府に至り王に封ぜられた。諸宦官はなおも宮中で奔走し、左右の便を図ることで、次第に親密さを増し、大官に至った。蒼頭は元は家人(私的な家来)であり、情誼は深く密接であったが、後主の代になると、これらは先朝の旧人であり、勤労の功績によって、このような僭越な地位を得たのである。胡小児らに至っては、目鼻が深く険しく、全く用に立たず、道理に合わない寵愛を受け、朝貴を排斥し突き飛ばし、特に人士から憎悪された。音楽によって大官に至った者としては、沈過児は官が開府儀同三司に至り、王長通は年十四、五歳で、仮節を与えられ通州刺史となった。

原文又有何海及子洪珍皆為王,尤為親要。洪珍侮弄權勢,鬻獄賣官。又有史醜多之徒胡小兒等數十,咸能舞工歌,亦至儀同、開府封王。諸宦者猶以宮掖驅馳,便煩左右,漸因昵狎,以至大官。蒼頭始自家人,情寄深密,及於後主,則是先朝舊人,以勤舊之勞,致此叨竊。至於胡小兒等眼鼻深險,一無可用,非理愛好,排突朝貴,尤為人士之所疾惡。其以音樂至大官者:沈過兒官至開府儀同,王長通年十四五,便假節通州刺史。

当時また開府の薛栄宗がおり、常に自ら鬼を使役できると云った。周軍が逼迫した時、後主に言った、「臣は既に斛律明月(斛律光)に大軍を率いて先に行かせました。」帝はこれを信じた。古い墳墓を通りかかった時、栄宗は舎人の元行恭にこれは誰の墓かと問うた。行恭は戯れて言った、「林宗の墓です。」また林宗は誰かと問うと、行恭は言った、「郭元貞の父です。」栄宗は前に進み出て奏上した、「臣は先ほど郭林宗が墓から出てくるのを見ました。大きな帽子を被り、吉莫靴(皮靴)を履き、馬鞭を挿し、臣に『我が阿貞(元貞)は来たか』と問いました。」この時、群妄(多くの奸佞の輩)の多くは皆、このような類いであった。

原文時又有開府薛榮宗,常自云能使鬼。及周兵之逼,言於後主曰:「臣已發遣斛律明月將大兵在前去。」帝信之。經古冢,榮宗謂舍人元行恭是誰冢,行恭戲之曰:「林宗冢。」復問林宗是誰,行恭曰:「郭元貞父。」榮宗前奏曰:「臣向見郭林宗從冢出,著大帽,吉莫靴,插馬鞭,問臣『我阿貞來不』。」是時羣妄多皆類此。

【贊】

原文【贊】