北齊書

巻四十四 列傳第三十六 儒林

班固が「儒家の流れは、 けだ し司 いたずら の官より出で、人君を助けて陰陽を したが い、教化を行ふ」と称する所以である。聖人が以て天道を明らかにし、人倫を正す。是を以て古の先哲の王は おおむ ここ の道に由る。

高祖 (高歓) は辺境の朔方に生まれ、戎馬の間に長ず。魏氏の喪乱の余に り、尒朱 (爾朱) 氏の残酷の挙に あた り、文章は うしな はれ、礼楽は共に はし り、弦歌の音は まさ に絶え、俎豆の かたち まさ に尽きんとす。 いた って義を り旗を建て、区県を掃清し、以て君臣を正し、以て上下を ととの ふ。一人 (天子) 播越し、九鼎潜かに移るに至るも、文武の神器は 顧眄 こべん の間に斯に在り。 猶且 なおかつ 宗支を たす け立て、社稷を重ねて いずく んず。豈に名教の地に きょ し、仁義の風に すす まざらんや。

疆埸 きょうえき 多虞 たぐ に属り、 戎車 じゅうしゃ 歳駕 さいが す。 いえど も庠序の制に 未遑 いとまあ る所有れども、儒雅の道は にわ かに心慮に あら はる。魏の天平年中、范陽の盧景裕が従兄の盧礼と本郡に於いて逆を起す。高祖其の罪を免じ、之を賓館に置き、経を以て太原公 高洋 こうよう 以下を教授せしむ。景裕の卒するに及び、又た趙郡の李同軌を以て之に継がしむ。二賢並びに大いに恩遇を蒙り、殊礼を以て待たる。同軌の亡き後、復た中山の張雕、 渤海 ぼっかい の李鉉、刁柔、中山の石曜等を徴し、 かわるがわる 諸子の師 したし と為す。天保、大寧、武平の朝に及びても、亦た名儒を引進し、皇太子諸王に経術を授く。

然れども始基より季世に至るまで、唯だ済南王 (高殷) 儲宮 ちょきゅう に在りし時、性識聰敏にして、頗る ら砥礪し、以て其の美を成す。 自余 そのほか は多く驕恣傲狠にして、 やや もすれば礼度に違ひ、 日就月将 じつしゅうげっしょう すれども、聞くこと無きのみ。氷を ちりば み朽ち木を彫るが如く、遂に用ふるに成ること無し。蓋し由有るなり。夫れ帝子王孫は、淫逸の性を く。況んや義方の情篤からず、邪僻の路競ひ開かる。自り 生知 せいち を得、 たい 上智を包むに非ざれば、 しか も内に声色の たの しみ有り、外に犬馬の この み多し。安んぞ入りては 便 すなわ ち篤行し、出でては則ち賢に友むことを得んや。徒に師傅の とりえ 有るも、 おわ に琢磨の実無し。下の化に従ふは、風の草を なび かすが如し。是を以て世胄の門には、強学を聞くこと まれ なり。若し貴遊の輩をして明経を以て飾らしめば、稽山の竹箭に括羽を加ふるに謂ふ可く、 して青紫を拾ふは、断じて知る可し。而るに齊氏の 司存 しそん 、或いは其の守を失ひ、 師保疑丞 しほぎじょう は皆勲旧を賞し、国学博士は徒に虚名有るのみ。唯だ国子一学のみ、生徒数十人なる耳。官を正し国を治めんことを求むるも、其れ得可きか。胄子にて通経を以て仕ふる者は、唯だ博陵の崔子發、広平の宋遊卿のみ。自余は其の人を見ること し。

幸いに朝章寛簡にして、 政網疏闊 そかつ なり。遊手浮惰の徒、十室にして九。故に横経受業の侶は郷邑に あまね く、負笈従宦の徒は千里を遠しとせず。 伏膺 ふくよう して怠ること無く、善誘して まず。閭里の内に入りては乞食を資り、桑梓の陰に憩ひては動千数を ゆ。燕・趙の俗、此の 衆尤 もっと も甚だし。齊の制:諸郡並びに学を立て、博士助教を置き経を教授す。学生は とも 差逼 さひつ して員を充つ。士流及び豪富の家は 皆調 ちょう に従はず。備員既に好む所に非ざれば、 墳籍固 もと より関懷せず。 又多 また く州郡の官人に駆使せられ、 たと ひ遊惰有るも亦た検治せず。 皆上 かみ の好まざる所に由りて致されるなり。諸郡俱に孝廉を察するを得。其の博士、助教及び遊学の徒にて通経する者は、推択して充挙す。射策十条、八条を通ずる以上は、九品の出身を ゆる す。其の尤異なる者も亦た抽擢を蒙る。

凡そ経学諸生は、多く魏末の大儒徐遵明の門下より出づ。河北は鄭康成の註する所の『周易』を講ず。遵明は以て盧景裕及び清河の崔瑾に伝へ、景裕は権会に伝へ、権会は郭茂に伝ふ。権会は早く京都に入り、郭茂は つね に門下に在りて教授す。其の後『易』を言ふ能ふ者は多く郭茂の門より出づ。河南及び青・齊の間は、儒生多く王輔嗣の註する所の『周易』を講ず。 師訓蓋 けだ すく なし。齊時に於ける儒士、『 とうと 書』の業を伝ふること罕なり。徐遵明は之を兼ねて通ず。遵明は屯留の王総に受業し、浮陽の李周仁及び渤海の張文敬並びに李鉉、権会に伝授す。並びに鄭康成の注する所にして、古文に非ず。下里の諸生は、 ほぼ 孔氏の注解を見ず。武平末、河間の劉光伯、 信都 しんと の劉士元始めて費甝の『義疏』を得て、乃ち留意す。其の『詩』、『礼』、『春秋』は尤も当時に尚ばれ、諸生多く之を兼ねて通ず。『三礼』は並びに遵明の門より出づ。徐は李鉉、沮俊、田元鳳、馮偉、紀顯敬、呂黄龍、夏懷敬に業を伝ふ。李鉉は又た刁柔、張買奴、鮑季詳、邢峙、劉晝、熊安生に伝授す。安生は又た孫霊暉、郭仲堅、丁恃徳に伝ふ。其の後生にて『礼経』を通ずる能ふ者は多くは安生の門人なり。諸生尽く『小戴礼』を通じ、『周礼』『儀礼』を兼ねて通ずる者は十に二三なり。『毛詩』を通ずる者は多く魏朝の博陵劉献之より出づ。献之は李周仁に伝へ、周仁は董令度、程帰則に伝へ、帰則は劉敬和、張思伯、劉軌思に伝ふ。其の後『詩』を言ふ能ふ者は多く二劉 (劉敬和・劉軌思) の門より出づ。河北の諸儒にて『春秋』を通ずる能ふ者は、並びに服子慎の注する所を講じ、亦た徐生 (遵明) の門より出づ。張買奴、馬敬徳、邢峙、張思伯、張雕、劉晝、鮑長暄、王元則は並びに服氏の精微を得たり。又た衛覬、陳達、潘叔度有り。徐氏の門を伝へずと雖も、亦た通解為す。又た姚文安、秦道靜有り。初め亦た服氏を学ぶも、後更に杜元凱の注する所を兼ねて講ず。其の河外の儒生は俱に杜氏に伏膺す。其の『公羊』『穀梁』二伝は、儒者多く 措懷 そかい せず。『 語』『孝経』は、 諸学徒莫 だれ も通講せざるは無し。諸儒、権会、李鉉、刁柔、熊安生、劉軌思、馬敬徳の徒は多く自ら義疏を出だす。専門と曰ふと雖も、亦た 皆粗 ほぼ 習ふなり。

今序に録する所の諸生は、或いは魏朝に終り、或いは名宦達せず。縦ひ名家と成る能ふも、又た其の由来及び出づる所の郡国を く。並びに略其の姓名を存するのみ。俱に其の尤も通顕なる者を取って『儒林』に列すと云ふ。熊安生の名は周史に在り、光伯、士元は『隋書』に あら はる。 すなは ち重ねて述べず。

李鉉

李鉉、字は宝鼎、渤海郡南皮県の人なり。九歳にして学に入り、『急就篇』を書し、月余にして便ち通ず。家は もと より貧苦にして、常に春夏は農に務め、冬に至りて乃ち学に入る。年十六、浮陽の李周仁に従ひ『毛詩』『尚書』を受け、章武の劉子猛に『礼記』を受け、常山の房虬に『周官』『儀礼』を受け、漁陽の鮮于霊馥に『左氏春秋』を受く。鉉は郷里に師と為す可き者無きを以て、遂に州里の楊元懿、河間の宗恵振等と侶を結び、大儒徐遵明に いた りて受業す。徐の門下に居ること五年、常に高第と称せらる。二十三にして便ち自ら潜居し、是非を討論し、『孝経』『論語』『毛詩』『三礼義疏』及び『三伝異同』、『周易義例』を撰定す。合せて三十余巻。心を用ふること精苦にして、 かつ て三冬枕を たくわ へず。 つね に睡時に至りては、 仮寐 かび するのみ。年二十七、帰りて二親を養ひ、因りて郷里に教授す。 生徒恒 つね に数百に至る。燕・趙の間にて経を言ふ能ふ者は、多く其の門より出づ。

三十六歳の時、父の喪に服す。喪が明けて、郷里には文籍が少ないことを以て、京師に遊学し、未だ見ざる書を読む。州より秀才に挙げられ、太学博士に除せらる。武定年中、李同軌の卒した後、高祖は世宗に命じて京師にて碩学を妙簡せしめ、以て諸子を教えしむ。世宗は鉉を以て旨に応ずるものとし、徴して しん 陽に詣らしむ。時に中山の石曜、北平の陽絢、北海の王 、清河の崔瞻、広平の宋欽道及び工書の人韓毅同じく東館に在り、諸王の師友たり。鉉は聖人より去ること久遠にして、文字多く乖謬有りとし、孔子の「必ずや名を正さん」との言に感じ、乃ち喟然として刊正の意有り。講授の暇に於いて、遂に『説文』を覧、爰に『倉頡篇』『爾雅』に及び、六藝の経注中の謬字を刪正し、名づけて『字辨』と曰う。顕祖、禅を受けて、駕に従い都に還る。天保初め、詔して鉉に殿中尚書邢卲、中書令魏收等と礼律を参議せしめ、仍て兼ねて国子博士とす。時に詔して北平 太守 たいしゅ 宋景業、西河太守綦毋懷文等に新暦を草定せしめ、録尚書平原王高隆之は鉉と通直常侍房延佑、国子博士刁柔に命じて得失を参考せしむ。尋いで国子博士を正す。 廃帝 はいてい の東宮に在りし時、顕祖は詔して鉉に経を以て入授せしめ、甚だ優礼を見る。数年、病卒す。特だ廷尉少卿を贈らる。及び故郡に還葬せしむるに、太子は祭奠の礼を致し、並びに王人をして将送せしめ、儒者之を栄えりとす。楊元懿、宗惠振の官も亦倶に国子博士に至る。

刁柔

刁柔、字は子温、渤海の人なり。父は整、魏の車騎將軍、 司空 しくう を贈らる。柔は少しく好学し、経史を綜習し、尤も礼儀に留心す。性強記にして、氏族の内外に至るまで、多く諳悉す。初め世宗の挽郎となり、 司空 しくう 行参軍を出身す。母に喪有り、喪を成すに孝を以て聞こゆ。永安年中、中堅將軍、奉車都尉に除せられ、冠軍將軍、中散大夫を加えらる。元象年中、例に随いて しん 陽に到り、高祖は以て永安公府長流参軍とし、又諸子を教授せしむ。天保初め、国子博士、中書舎人に除せらる。魏收の魏史を撰するに、柔等を啓して以て同しく其事に与らしむ。柔の性頗る専固にして、是より後、聞く所のものは、収常に嫌憚す。

又律令を参議す。時に議する者、五等の爵邑を立てば、承襲する者に嫡子無くば嫡孫を立て、嫡孫無くば嫡子の弟を立て、嫡子の弟無くば嫡孫の弟を立てんと以為えり。柔は嫡孫無くば応に嫡曾孫を立て、嫡子の弟を立つべからずと以為う。議して曰く、

柔案ずるに『礼』は適を立てるに長を以てす、故に長子を嫡子と謂う。嫡子死すれば、嫡子の子を以て嫡孫と為し、死すれば則ち曾孫、玄孫も亦然り。然らば則ち嫡子の名は、本より重を伝うる為なり。故に『喪服』に曰く「庶子は長子の為に三年せず、祖と禰とを継がざるなり」と。『礼記』公儀仲子の喪に「檀弓曰く『何ぞ居る、我未だ前に聞かず。仲子其の孫を捨てて其の子を立つるは何ぞや』と。子服伯子曰く『仲子も亦猶ほ古の道を行えり。昔者文王は伯邑考を捨てて武王発を立て、微子は其の孫盾を捨てて弟衍を立てたり。仲子も亦猶ほ古の道を行えり』と」。鄭注に曰く「伯子は親なる者の為に諱むのみ、子を立つるは非なり。文王の武王を立つるは、権なり。微子の嫡子死し、其の弟衍を立つるは、殷の礼なり」と。「子遊諸れを孔子に問う、孔子曰く『否、孫を立てよ』と」。注に曰く「『周礼』に拠る」と。然らば則ち商は嫡子死すれば、嫡子の母弟を立て、周は嫡子死すれば、嫡子の子を嫡孫と為して立てる。故に『春秋公羊』の義、嫡子に孫有りて死すれば、質家は親親先ず弟を立て、文家は尊尊先ず孫を立てんとす。『喪服』に云く「父の後と為る者は出母に服無し」と。『小記』に云く「祖父卒して而る後に祖母の後と為る者は三年す」と。出母に服無きは、喪者は祭らざる故なり。祖母に三年するは、大宗重を伝うる故なり。今議するに嫡孫死して嫡子の母弟を立てんとす。嫡子の母弟は則ち父の後と為るなり。嫡子の母弟は本より嫡を承くるに非ず、嫡無きを以て、故に父の後と為ることを得。則ち嫡孫の弟も、理亦応に父の後と為ることを得べし。則ち是れ父卒して然る後に祖の後と為る者は斬衰を服す。既に祖に斬衰を服することを得て、而して重を伝うる者と為ることを得ざるは、未だ之を聞かざるなり。若し商家親親の義を用うれば、本応に嫡子死して嫡孫を立つべからず。若し周家尊尊の文に従わば、豈に其の孫を捨てて其の弟を立つべけんや。或いは文或いは質、愚惑を用うるに焉んぞ。『小記』復た云く「嫡婦舅姑の後と為らざれば、則ち姑姑之が為に小功す」と。注に云く「夫に廃疾他故有り、若しくは死して子無く重を受くざる者を謂う。小功は庶婦の服なり。凡そ父母の子に於ける、舅姑の婦に於ける、将に重を嫡に伝えず、及び将に伝うる所の重なる者嫡に非ざれば、之に服する皆衆子庶婦の如し」と。死して子無きを言うは、絶世して子無きを謂う、子無きを謂うに非ず。若し其れ子有らば、焉んぞ後無しと云わんや。夫仮令廃疾にして子無くとも、婦猶ほ嫡を以て名と為す。嫡の名既に在りて、而して其の子を廃せんと欲するは、其れ礼を如何。礼に損益有り、代相い沿革す。必ずや宗嫡得て変ずべしと謂わば、則ち後と為りて斬衰を服するも、亦宜しく因有りて改むべし。

七年夏卒す、時に年五十六。柔史館に在りて未だ久しからず、勒成の際に逢い、志は偏党に存す。『魏書』中に其の内外の通親なる者と並びに虚美して実を過ぎ、深く時論の譏る所と為る。

馮偉

馮偉、字は偉節、中山安喜の人なり。身長八尺、衣冠甚だ偉く、見る者肅然として敬憚す。少く李宝鼎に従い遊学し、李其の聡敏を重んじ、恒に別意を以て試みに之を問う、通解すること多く、尤も『礼伝』に明らかなり。後郷里に還り、門を閉ざして出でず将に三十年、生産を問わず、賓客と交わらず、専精覃思し、通ぜざる所無し。

趙郡王定州に出鎮するに及び、礼を以て迎接し、命書三至し、県令親しく其の門に至るも、猶疾を辞して起たず。王将に駕を命じて請い致さんとし、佐史前後星馳して之に報い、県令又自ら其が冠履を整うるも、已むを得ずして出づ。王廳事を下りて之を迎え、其の拜伏を止め、階を分かちて上り、之を賓館に留め、甚だ礼重せらる。王将に秀才に挙げ充てんとす、固く辞して就かず。歳余りして還るを請う。王其の拘束せられんことを願わざるを知り、礼を以て発遣し、贈遺甚だ厚しと雖も、一も納れず、唯時の服を受くるのみ。及び還り、終に人事を交わさず、郡守県令毎に親しく其の門に至る。歳時に或いは羊酒を置くも、亦辞して納れず。門徒の束脩、一毫も受けず。耕して飯し、蠶して衣し、簞食瓢飲、其の楽を改めず、竟に寿を以て終わる。

張買奴、平原の人なり。経義該博にして、門徒千余人。諸儒咸く之を推重し、名声甚だ盛ん。歴て太学博士、国子助教、天保年中卒す。

劉軌思、渤海の人なり。『詩』を説くこと甚だ精し。少く同郡の劉敬和に事え、敬和は同郡の程帰則に事う。故に其の郷曲多く『詩』を為す者あり。軌思、天統中国子博士に任ず。

鮑季詳は渤海の人である。『礼』に大変明るく、その離文析句を聴けば、自然と大略が理解できる。兼ねて『左氏春秋』に通じ、若い頃は常に李宝鼎の都講を務め、後には自らも徒衆を有し、諸儒に称えられた。天統年間、太学博士の任に在る中で卒去した。従弟の長暄は、『礼伝』を兼ねて通じていた。武平末、任城王高湝の丞相掾となり、常に京師で貴遊子弟を教授した。北斉滅亡後、郷里に帰って経書を講じ、家で卒去した。

邢峙は字を士峻といい、河間郡鄚県の人である。若くして学問を好み、墳典に耽溺して遊学し、燕・趙の地を巡り、『二礼』と『左氏春秋』に通じた。天保初年、郡より孝廉に推挙され、四門博士に任じられ、国子助教に遷り、経書をもって皇太子に教授した。峙は方正で純厚、儒者の風があった。厨宰が太子に食事を進めた際、「邪蒿」という菜があったが、峙はこれを除けるよう命じ、「この菜には不正の名があり、殿下が食すべきものではない」と言った。顕祖 文宣 ぶんせん 帝) はこれを聞いて賞賛し、被褥と縑纊を賜い、国子博士に任じた。皇建初年、清河太守に除かれ、恵みある政治を行い、民吏に愛された。年老いて病を理由に辞任して帰郷し、家で卒去した。

劉畫

劉晝は字を孔昭といい、渤海郡阜城県の人である。幼くして孤貧であったが、学問を愛し、笈を負って師に従い、心服して倦むことがなかった。儒者の李宝鼎と同郷で、大いに親愛し、その『三礼』を授かった。また馬敬德に就いて『服氏春秋』を学び、共に大義を通じた。郷里に墳籍が少ないのを恨み、杖を策いて都に入った。太府少卿の宋世良の家に多くの書があると知り、そこで訪ねた。世良は彼を受け入れた。恣意に披閲し、昼夜を分かたずに止まなかった。

河清初年、冀州に戻り、秀才に挙げられて京に入るも、策試に及第しなかった。そこで文章を学ばなかったことを悔い、改めて辞藻を緝綴したが、言葉は甚だ古拙であった。一首の賦を制作し、「六合」を名とした。自らは絶倫であると謂い、吟諷を止めなかった。そして嘆いて言うには、「儒者は労多くして功少ないとは、このことである。我れ儒書を読むこと二十余年にして策に答え及第せず、初めて作文を学び、この如きを得た」と。かつてこの賦を魏収に呈したところ、収は人に言うには、「賦の名を六合とするは、その愚かさ甚だしい。その賦を見るに、名よりもさらに愚かである」と。

晝はまた『高才不遇伝』三篇を撰した。皇建・大寧の朝において、また頻りに上書し、その言も切直であったが、多くは世の要務ではなく、終に見て採られることはなかった。自らは博物の奇才と謂い、言葉は好んで誇大にし、常に云うには、「我れに数十巻の書を後世に行わしめば、斉の景公の千駟に易えるに難からず」と。しかし容止は舒緩で、挙動は倫に外れ、これによって遂に仕進することはなかった。天統年間、家で卒去した。五十二歳。

馬敬德

馬敬德は河間の人である。若くして儒術を好み、笈を負って大儒の徐遵明に随い『詩』『礼』を学んだが、大義を略通するのみで精しくはできなかった。そこで『春秋左氏』に留意し、沈思研求し、昼夜倦むことなく、解義は諸儒に称えられた。燕・趙の間で教授し、生徒が随う者は多かった。河間郡王は教学の度に彼を追い求め、孝廉に挙げようとしたが、固辞して就かなかった。そこで州に詣でて秀才に挙げることを求めた。秀才を挙げる例は文士を取るが、州将は彼が純儒であるとして、推薦する意がなかった。敬德は方略を試すことを請うた。そこで策問したところ、答えた五条は全て文理があった。そこで欣然として挙げて京に送った。秀才の策問に依ると、ただ中第を得たのみであったので、経業を試すことを請うた。十条を問うて全て通じた。抜擢されて国子助教に任じられ、太学博士に遷った。

天統初年、国子博士に除かれた。世祖 (武成帝) が後主の師傅を選ぶ際、趙彦深が彼を推挙し、侍講として宮中に入った。その妻が猛獣が将来して向かってくる夢を見た。敬德は走って叢棘を超え、妻は伏して地に動かなかった。敬德はこれを占って言うには、「我れは大官を得るであろう。棘を超えるは、九卿を過ぎるなり。爾が地に伏するは、夫人となるなり」と。後主は既に学を好まず、敬德の侍講は甚だ疎かで、時に『春秋』をもって教授した。武平初年、なお師傅の恩により、超えて国子祭酒に拝され、儀同三司・金紫光禄大夫を加えられ、瀛州大中正を領し、卒去した。開府・瀛滄安州諸軍事・瀛州刺史を追贈された。その後、侍書の張景仁が王に封ぜられた。趙彦深は言うには、「どうして侍書が王に封ぜられ、侍講は翻って封爵無きことがあろうか」と。そこで敬德にも広漢郡王を封じた。子の元熙が襲封した。

元熙は字を長明といい、幼くして父の業を伝え、兼ねて文藻に事えた。父の故により、青州集曹参軍から超えて通直侍郎に遷り、文林館で待詔し、正員に転じた。武平年間、皇太子がまさに『孝経』を講じようとする際、有司が師友を選ぶことを請うた。帝は言うには、「馬元熙は朕の師の子であり、文学も悪くない。児を教えさせよ」と。そこで『孝経』をもって皇太子に教授し、儒者はその世載を栄えとした。性質は和厚で、宮中において甚だ名誉を得、皇太子もまた親しく敬った。隋の開皇年間、秦王文学の任に在る中で卒去した。

張景仁

張景仁は済北の人である。幼くして孤となり家貧しく、書を学ぶことを業とし、遂に草隷に巧みとなり、選ばれて内書生に補された。魏郡の姚元標・潁川の韓毅・同郡の袁買奴・ 滎陽 けいよう の李超らと齊名し、世宗 文襄 ぶんじょう 帝) は皆これらを賓客として引いた。天保八年、勅命により太原王高紹德に書を授け、開府参軍に除かれた。後主が東宮に在った時、世祖 (武成帝) は書に善く性行淳謹なる者を選んで侍書とさせ、景仁は遂に引擢された。小心恭慎で、後主はこれを愛し、博士と呼んだ。太子門大夫・員外 散騎常侍 さんきじょうじ ・諫議大夫を歴任した。後主が即位すると、通直 散騎常侍 さんきじょうじ に除かれた。奏上された際、御筆で「通」の字を点除し、遂に正常侍となった。左右と語るにも、なお博士と称した。

胡人の何洪珍は後主に寵愛され、朝士と通婚せんと欲し、景仁が内官で位稍高きことにより、遂にその兄の子に景仁の第二息である子瑜の女を娶らせた。これによって表裏し、恩遇は日増しに隆盛となった。景仁は病多く、常に徐之範らを遣わして治療させ、薬物と珍羞を給し、中使が病を問うことは、道に相望んだ。この後、勅命により有司が常に宅に御食を送った。

仮の儀同三司、銀青光禄大夫に遷り、恒山県の幹を食した。車駕が行幸する際、道中の宿処では、常に歩障を送って風寒を遮った。位は儀同三司に進み、尋ねて開府を加えられ、侍書・その他の官は並びに元の如くであった。毎朝参内する必要がある時は、即ち東宮に停止した。文林館が立てられると、中人鄧長颙が旨に迎合し、奏上して館事を総制させ、侍中に除かれた。四年、建安王に封ぜられた。洪珍の死後、長顒はなお旧誼を存し、更に相い弥縫して、墜退することなく済んだ。 中書監 ちゅうしょかん に除かれ、病により卒去した。侍中・斉済等五州刺史・ 司空 しくう 公を追贈された。

景仁は寒微より出で、元より識見無く、一朝にして開府・侍中・王に封ぜられた。その妻は姓が奇で、氏族の出づる所を知らず、容制音辞、事々に庸俚であった。既に詔されて王妃と除され、諸公主・郡君と共に朝謁の例に在るも、見る者はその慚悚たるを為した。子瑜は薄く父の業を伝え、更に余伎無く、洪珍の故により、抜擢されて中書舎人に任じられ、給事黄門侍郎に転じた。長息の子玉は、員外散騎侍郎より起家した。

景仁の性質は元来卑謙であったが、胡人巷伯の勢いを用いるに及んで、座して通顕を致し、志操は頗る改まり、漸く驕傲を成す。良馬軽裘、徒従擁冗し、高門広宇、衢に当たり街に向かう。諸子は其の本を思わず、自ら貴遊を許す。蒼頡以来、八体取進、一人のみ。

権会

権会、字は正理、河間鄚の人なり。志尚沈雅にして、動き礼則に遵う。少くして『鄭易』を受け、賾を探り隠を索め、妙に幽微を尽くし、『詩』『書』『三礼』、文義該洽し、兼ねて風角を明らかにし、妙に玄象を識る。魏の武定初め、本郡孝廉を貢し、策上第に居り、褐を解き四門博士となる。僕射崔暹、館客と為し引き、甚だ敬重し、世子達拏に命じ師傅の礼を尽くさしむ。会、此に因り聞達す。暹、会を薦めて馬敬德等と諸王の師と為さんと欲す。会、性恬静にして、栄勢を慕わず、左宦を恥じ、固く辞す。暹亦其の意を識り、遂に薦挙を罷む。尋いで尚書符に被り著作を追われ、国史を修め、太史局事を監知す。皇建中、転じて中散大夫を加えられ、余並びに旧の如し。

会、参掌繁きも、教授闕けず。性甚だ儒懦にして、言う能わざるに似たり。機に臨み難に答うるに及んでは、酬報響の如し。動く必ず古を稽え、辞虚しく発せず。是に由り儒宗の推す所と為る。而して貴遊の子弟其の徳義を慕う者、或いは其の宅に就き、或いは隣家に寄宿し、昼夜間を承け、其の学業を受く。会欣然として演説し、未だ嘗て懈怠せず。

風角を明らかにし、玄象を解すと雖えども、私室に至っては、輒ち言及せず。学徒に請問する者有りと雖えど、終に説く所無し。毎に云う、「此の学は知るべくして言うべからず。諸君並びに貴遊の子弟、此れに由り進まず、何ぞ煩わして問わん。」会唯だ一子有りと雖えど、亦此の術を以て之を教えず。其の謹密此の如し。曾て家人に遠行を令す。久しくして反らず。其の行人還り、垂らく宅に至らんとす。乃ち寒雪に逢い、他舎に寄息す。会方に学堂に処り講説す。忽ち旋風瞥然有り、雪を吹きて戸に入る。会乃ち笑いて曰く、「行人至る、何の意か中停す。」遂ち使人を命じ、某処に詣り追尋せしむ。果たして其の語の如し。毎に人の為に占筮す。小大必ず中る。但だ爻辞・彖象を用いて以て吉凶を弁じ、『易』占の属は、都て口を経ず。

会、本貧生にして、僕隷無し。初め助教に任ずるの日、恒に驢に乗り上下す。且つ其の職事処多く、毎に経歴を須う。其の退食に及んでは、晩からずして帰らず。曾て夜、城東門を出づ。鐘漏已に尽き、会独り驢に乗る。忽ち二人有り。一人は頭を牽き、一人は後に随う。助くるに似たる有り。其の回動軽漂、生人に異なり。漸く路を失い、本道に由らず。会心甚だ之を怪しむ。遂ち『易経』上篇を誦す。一卷尽きず、前後の二人、忽然として離散す。会亦覚えずして驢に堕つ。因り爾りて迷悶し、明に至りて始めて覚ゆ。方に知る、驢に堕つるの処、乃ち郭外にして、纔に家を去ること数里。

一子有り、字は子襲。聡敏精勤にして、幼くして成人の量有り。不幸先に亡ぶ。臨送者其の為に傷慟す。会唯一哭して罷む。時人其の達命を尚ぶ。

武平年、府より第に還る。路に在りて故無くして馬倒る。遂に語るを得ず。因り爾りて暴亡す。時に年七十六。『易』一部を註し、世に行わる。会、生平馬を畏る。位望の至る所、乗らざるを得ず。果たして此を以て終わる。

張思伯

張思伯、河間楽城の人なり。善く『左氏伝』を説く。馬敬德の次と為る。『刊例』十巻を撰し、時に行わる。亦『毛詩』章句を治め、二経を以て斉安王廓に教う。武平初、国子博士。

張雕

張雕、中山北平の人なり。家世貧賤なりと雖えども、慷慨して志節有り、雅に古学を好む。精力人に絶え、篋を負いて師に従い、千里を遠しとせず。遍く『五経』に通じ、尤も『三伝』に明らかし。弟子遠方就業する者百数を以て数う。諸儒其の強弁に服す。

魏末、明経を以て霸府に召し入れらる。高祖諸子と講読せしむ。起家して殄寇将軍、稍く太尉長流参軍・定州主簿に遷る。世宗に従い幷に赴き、常山府長流参軍を除く。天保中、永安王府参軍事と為る。顕祖晋陽に崩ず。兼ねて祠部郎中に擢げられ、喪事を典め、梓宮に従い ぎょう に還る。乾明初、国子博士を除く。平原太守に遷り、贓賄に坐し官を失う。世祖即位す。旧恩を以て通直散騎侍郎を除く。琅邪王儼、博士儒学に精しきを求む。有司雕を以て応選す。時に人を得たりと号す。尋いで涇州刺史と為る。未だ幾ばくもなく、 散騎常侍 さんきじょうじ を拝し、復た儼に講ず。帝の侍講馬敬德卒するに値い、乃ち入り経書を授く。帝甚だ之を重んじ、侍読と為し、張景仁と並びに尊礼せられ、同じく華光殿に入り、共に『春秋』を読む。国子祭酒を加えられ、儀同三司を仮し、文林館に待詔す。

胡人何洪珍、大いに主上の親寵を蒙る。張景仁と婚媾を結ぶ。雕、景仁を宗室と為し、自ら洪珍に託す。心を傾けて相礼し、情好日を追うて密なり。公私の事、雕常に其の指南と為る。時に穆提婆・韓長鸞、洪珍と帷幄に同じく侍す。雕の洪珍の謀主たるを知り、甚だ之を忌み悪む。洪珍又た奏して雕に国史を監せしむ。尋いで侍中を除き、開府を加えられ、度支事を奏す。大いに委任せられ、言多く見従せらる。特勅して奏事趨らず、博士と呼ぶ。雕、自ら微賤より出で、大臣の位を致すを以て、精を励まして公に在り、匪躬の節有り。功効を立てて以て朝恩に報ぜんと欲す。論議抑揚し、回避する所無し。宮掖の不急の費を大いに減省し存し、左右の縦恣の徒を必ず禁約を加え、数え寵要を譏切し、帷扆に献替す。上亦深く之を倚仗し、方に朝政を委んとす。雕便ち澄清を己が任と為し、意気甚だ高し。嘗て朝堂に在りて鄭子信に謂いて曰く、「向に省中に入り、賢家の唐令の処分極めて所以無きを見る。若し数行の兵帳を作らば、雕は邕に如かず。若し主を堯舜に致し、身を稷・契に居らしめば、則ち邕は我に如かず。」其の矜誕此の如し。

長鸞等、其の政に干与して已まざるを慮り、陰に之を図る。会いて雕、侍中崔季舒等と帝の晋陽に幸するを諫む。長鸞因りて之を譖す。故に俱に誅死せらる。刑に臨み、帝段孝言をして之を詰ましむ。雕対を致して曰く、「臣諸生より起り、謬りに抽擢を被り、事に接すること累世、常に恩遇を蒙り、位開府侍中に至り、光寵隆洽す。毎に塵露を思い、微かに山海を益さんとす。今者の諫、臣実に首謀す。意は善くして功は悪し。死を逃るる所無し。伏して願わくは陛下金玉を珍愛し、神明を開発し、数え賈誼の倫を引き、治道を論説し、聴覧の間に於いて、擁蔽する所無からしめよ。則ち臣死するの日と雖えども、猶お生くるの年の如からん。」歔欷して涕を流し、俯して就戮す。侍衛左右憐みて壮とせざる者莫し。時に年五十五。子徳沖等北辺に徙す。南安の反するに、徳沖及び弟徳揭俱に死す。

徳沖は温和で謹み深く謙譲であり、人倫に善く、聡明で敏速に学問を好み、広く文史に渉った。帝師の子として、早くから表彰され抜擢された。員外散騎侍郎・太師府掾を歴任し、入朝して中書舎人となり、例に従って待詔した。その父が誅殺された時、徳沖は殿庭で執事しており、目に冤酷を見て、号哭し地に倒れ絶え、久しくして蘇った。

孫霊暉

孫霊暉は、長楽郡武強県の人である。魏の大儒で秘書監の恵蔚は、霊暉の族曾祖父である。霊暉は幼少より明敏で、器量があった。恵蔚の一子は早世し、その家の書籍は多くそこにあった。霊暉は七歳の時から好学で、日に数千言を誦し、ただ恵蔚の手録した章疏を探求し、師友を求めなかった。『三礼』及び『三伝』は皆その宗旨を通じ、初めて鮑季詳・熊安生に就いて疑問滞りを質し、その発明するところは、熊・鮑も異とするところがなかった。冀州刺史の秀才に挙げられ、射策で高第となり、員外将軍を授けられた。後に儒術が明らかであるとして、太学博士に抜擢された。北徐州治中に遷り、潼郡太守に転じた。

天統年中、詔勅して朝臣に南陽王綽の師とすべき者を推挙させたところ、吏部尚書尉瑾が上表してこれを推薦し、征召されて国子博士となり、南陽王に経を授けた。王は文学を好まなかったが、甚だ相敬重し、上啓してその府の諮議参軍に任じた。綽が定州刺史に任じられると、引き続きこれに従って鎮した。綽の行うところは猖蹶であったが、霊暉はただ黙々として憂い 憔悴 しょうすい し、諫めて止めることができなかった。綽は管記の馬子結を諮議参軍にしようとし、そこで上表して霊暉を転じて王師とし、子結を諮議とすることを請うた。朝廷は王師は三品であり、上啓奏上は合わないとした。後主は上啓の末尾に手で答え、「ただこれを用いよ」と言い、なお手紙で南陽王に報じ、全て奏請に依らせた。儒者は甚だこれを栄誉とした。綽が大将軍に任じられると、霊暉は王師として大将軍司馬を領した。綽が誅殺されると、停廃された。綽の死後、毎度七日及び百日の終わりに、霊暉は常に綽のために僧を請い斎を設け、経を転じ行道した。斉の滅亡後数年で卒した。

子の万寿は、聡識で機警、広く群書に渉り、『礼伝』は共に大議に通じ、文辞に優れ、特に詩詠に長じた。斉末、陽休之が辟召して開府行参軍とした。隋では奉朝請・滕王文学・ 章長史を歴任した。大理司直の任で卒した。

馬子結

馬子結は、その先祖は扶風の人である。代々涼土に居住し、太和年中に洛陽に入った。父祖は共に清官であった。子結兄弟三人は、皆文学に渉った。陽休之が西兗州を牧した時、子廉・子尚・子結と諸朝士が各々詩を贈り言い、陽が総べて一篇にまとめて酬答した、即ち詩に「三馬俱に白眉」と云うものである。子結は開府行参軍から抜擢されて南陽王の管記となり、綽に従って定州に赴いた。綽は毎度出遊狩猟する時、必ず子結に走馬して禽を従わせた。子結は既に儒緩で、衣は垂れ帽は落ち、或いは叫び或いは啼き、騎をしてこれを駆らせ、馬から墜ちるまで止まらず、綽はこれを歓笑とした。これにより次第に親狎を見られ、上啓して諮議としたのである。

石曜

石曜は、字は白曜、中山国安喜県の人、また儒学によって進んだ。居官は極めて清儉であった。武平年中に黎陽郡守となり、斛律武都が兗州刺史として出向する時に遭遇した。武都は即ち丞相 咸陽王 かんようおう の世子で、皇后の兄、性格は甚だ貪暴であった。先に衛県を通った時、県令・県丞以下が絹数千匹を 聚斂 しゅうれん してこれを贈った。黎陽に至ると、左右に命じて曜及び郡の治下の県官を諷動させた。曜は手に一縑を持って武都に謂って言うには、「これは老石の機杼によるもの、聊かこれを奉贈する。これより来るものは並びに吏民より出さねばならず、吏民の物は一毫も敢えて犯さない」と。武都もまた曜が清素な純儒であることを知り、笑って責めなかった。『石子』十巻を著し、言葉は甚だ浅俗である。後に譙州刺史で終わった。この外の行い事績は史に欠けている。

【賛】

原本を確認する(ウィキソース):北齊書 巻044