北齊書

巻032

巻032

北齊書

原文北齊書

巻三十二補列傳第二十四 陸法和 王琳

原文卷三二補列傳第二四 陸法和 王琳

陸法和

原文陸法和

陸法和は、何処の人とも知れない。江陵の百里洲に隠棲し、衣食住居は、一切苦行の沙門と同じであった。古老は幼い時から彼を見ていたが、容貌や色つやは常に一定せず、人は測り知ることができなかった。ある者は、嵩高(嵩山)から出て、遠近を遍く遊歴したのだという。荊州汶陽郡高安県の紫石山に入った後、理由もなく住んでいた山を捨てた。間もなく蛮賊の文道期の乱が起こり、当時の人は彼が兆しを予見していたのだと思った。

原文陸法和,不知何許人也。隱於江陵百里洲,衣食居處,一與苦行沙門同。耆老自幼見之,容色常不定,人莫能測也。或謂自出嵩高,遍遊遐邇。旣入荊州汶陽郡高安縣之紫石山,無故捨所居山。俄有蠻賊文道期之亂,時人以為預見萌兆。

侯景が初めて梁に降伏を申し出た時、法和は南郡の朱元英に言った。「貧道は檀越と共に侯景を撃ちに行こう。」元英が言うには、「侯景は国のために功を立てようとしているのに、師は彼を撃つと言われる。どういうことか。」法和は言った。「正にそういうことなのだ。」侯景が長江を渡った時、法和は青谿山におり、元英が訪ねて言った。「侯景は今、城を包囲している。事態はどうなるか。」法和は言った。「凡そ人が果実を取るには、熟するのを待つべきで、いじらなければ自然に落ちる。檀越はただ侯景が熟するのを待てばよい。どうしてわざわざ尋ねる必要があろうか。」強いて問うと、遂に言った。「勝つこともあれば、勝たぬこともある。」

原文及侯景始告降於梁,法和謂南郡朱元英曰:「貧道共檀越擊侯景去。」元英曰:「侯景為國立效,師云擊之,何也?」法和曰:「正自如此。」及景渡江,法和時在青谿山,元英往問曰:「景今圍城,其事云何?」法和曰:「凡人取果,宜待熟時,不撩自落。檀越但待侯景熟,何勞問也。」固問之,乃曰:「亦克亦不克。」

侯景が将軍の任約を遣わして江陵で梁の湘東王を攻撃すると、法和は湘東王のもとに赴き任約征伐を願い出て、諸蛮の弟子八百人を江津に召集し、二日で出発した。湘東王は胡僧祐に千余人を率いさせて同行させた。法和は軍艦に登って大笑いし、「無量の兵馬である」と言った。江陵には多くの神祠があり、人々の習俗として常に祈願していたが、法和の軍が出てからは、一度も験がなくなった。人々は神々が皆従軍したためだと思った。赤沙湖に至り、任約と対峙した。法和は軽船に乗り、甲冑もつけず、流れに沿って下り、任約の軍から一里の所で引き返した。将士に言うには、「ひとまずあの龍が眠って動かないのを見た。我が軍の龍は大いに躍り立っている。直ちに攻撃せよ。もし明日まで待つことができれば、客(敵)も主(味方)も一人も損なうことなく賊を破ることができるが、しかし悪いところがある。」そこで前方に火船を放ったが、逆風で都合が悪かった。法和が白羽の麾(指揮旗)を執って風を指揮すると、風勢は即座に逆転した。任約の軍衆は皆、梁の兵士が水の上を歩いているのを見て、大いに潰走し、皆水に飛び込んで死んだ。任約は逃げ隠れて行方が分からなくなった。法和は言った。「明日の午の刻に捕らえることができるだろう。」その時刻になっても捕らえられないので、人が尋ねると、法和は言った。「私は以前、この洲の水が干上がった時に一つの仏塔(剎)を建て、檀越たちに言った。『これは仏塔ではあるが、実は賊の標(目印)である』と。今どうしてその標の下で賊を求めないのか。」その言葉通りにすると、果たして水中で任約が仏塔を抱きしめ、頭を仰ぎ、鼻だけを出しているのを見つけ、遂にこれを捕らえた。任約は、師の目の前で死にたいと願った。法和は言った。「檀越には相(人相)があり、必ずや兵刃で死ぬことはない。かつて王(湘東王)との間に縁がある。決して他の心配はない。王は後になって檀越の力を得ることになるだろう。」湘東王は果たして彼を釈放して郡守に用いた。そして魏が江陵を包囲した時、任約は兵を率いて救援に赴き、力戦した。

原文景遣將任約擊梁湘東王於江陵,法和乃詣湘東乞征約,召諸蠻弟子八百人在江津,二日便發。湘東遣胡僧佑領千餘人與同行。法和登艦大笑曰:「無量兵馬。」江陵多神祠,人俗恒所祈禱,自法和軍出,無復一騐,人以為神皆從行故也。至赤沙湖,與約相對,法和乘輕船,不介胄,沿流而下,去約軍一里乃還。謂將士曰:「聊觀彼龍睡不動,吾軍之龍甚自踴躍,卽攻之。若得待明日,當不損客主一人而破賊,然有惡處。」遂縱火舫於前,而逆風不便,法和執白羽麾風,風勢卽返。約衆皆見梁兵步於水上,於是大潰,皆投水而死。約逃竄不知所之。法和曰:「明日午時當得。」及期而未得,人問之,法和曰:「吾前於此洲水幹時建一剎,語檀越等,此雖為剎,實是賊標,今何不向標下求賊也?」如其言,果於水中見約抱剎仰頭,裁出鼻,遂擒之。約言求就師目前死,法和曰:「檀越有相,必不兵死,且於王有緣,決無他慮,王於後當得檀越力耳。」湘東果釋用為郡守。及魏圍江陵,約以兵赴救,力戰焉。

法和が任約を平定した後、巴陵で王僧辯に進み出て会い、言った。「貧道は既に侯景の一臂を断った。彼がさらに何ができようか。檀越は直ちに攻め取るべきである。」そして帰還を請い、湘東王に言った。「侯景は自然に平定されます。心配するに足りません。蜀しょくの賊が来ようとしています。法和は巫峡を守ってこれを待つことを請います。」そこで諸軍を総率して赴き、自ら石を運んで長江を埋めた。三日で、水は分流し、鉄の鎖を横たえた。武陵王蕭紀は果たして蜀兵を遣わして渡河しようとしたが、峡口は地勢が狭く、進退もできなかった。王琳と法和が計画を練り、一戦でこれを殲滅した。

原文法和旣平約,往進見王僧辯於巴陵,謂曰:「貧道已斷侯景一臂,其更何能為,檀越宜卽遂取。」乃請還,謂湘東王曰:「侯景自然平矣,無足可慮。蜀賊將至,法和請守巫峽待之。」乃總諸軍而往,親運石以填江。三日,水遂分流,橫之以鐵鎖。武陵王紀果遣蜀兵來渡,峽口勢蹙,進退不可。王琳與法和經略,一戰而殄之。

軍が白帝に駐屯した時、人に言った。「諸葛孔明は名将と言えよう。私は彼を見たことがある。この城の傍らに、彼が埋めた弩の矢じりが一斛ほどある。」そこで標を立てて掘らせると、その言葉通りであった。またかつて襄陽城の北の大樹の下に行き、地面に二尺四方の範囲を描き、弟子に掘らせると、一匹の亀を得た。長さ一尺半であった。杖でそれを叩いて言った。「お前は出たいのに出られず、既に数百年になる。私に逢わなければ、どうして天日を見ることができたであろうか。」三帰(仏・法・僧への帰依)を授けると、亀は草むらに入っていった。初め、八疊山には悪疾(重い病気)の人が多かったが、法和が薬を採って治療すると、三服を超えずに皆癒え、直ちに弟子になることを求めた。山中の毒虫や猛獣に、法和はその禁戒を授けると、もはや噛みついたり刺したりしなくなった。泊まる江湖には必ず峰の側に標を結び、「此処は放生の地である」と言った。漁師は皆何も得られず、少しでも獲物があると、直ちに大風や雷が起こった。船人は恐れてそれを放すと、風雨は鎮まった。晩年は兵を率いていても、なお諸軍の漁労や捕獲を禁じた。密かにこれに違反する者がいると、夜中に必ず猛獣が来て噛もうとし、あるいは船の纜ともづなを失った。小さな弟子が戯れに蛇の頭を切り、法和のもとに来た。法和は言った。「お前はどうして蛇を殺したのか。」そこで指さして示すと、弟子は蛇の頭が袴の襠またを噛んで離れないのを見た。法和は懺悔させ、蛇のために功徳を修させた。またある人が牛で刀を試し、一振りで首を断ち、法和のもとに来た。法和は言った。「一匹の首を断たれた牛が、お前に命を徴収するのが非常に急である。もし功徳を修さなければ、一月の内に報いが来る。」その人は信じなかったが、数日で果たして死んだ。法和はまた人のために宅地や墓所を選定し、禍を避け福を求めた。かつて人に言った。「碓うすに馬をつなぐな。」その人が郷里を通り過ぎた時、門の側に碓があり、その柱に馬をつないだ。門の中に入り、法和の戒めを思い出し、走り出て解こうとしたが、馬は既に死んでいた。

原文軍次白帝,謂人曰:「諸葛孔明可謂名將,吾自見之。此城旁有其埋弩箭鏃一斛許。」因插表令掘之,如其言。又嘗至襄陽城北大樹下,畫地方二尺,令弟子掘之,得一龜,長尺半,以杖叩之曰:「汝欲出不能得,已數百歲,不逢我者,豈見天日乎?」為授三歸,龜乃入草。初,八疊山多惡疾人,法和為采藥療之,不過三服皆差,卽求為弟子。山中毒蟲猛獸,法和授其禁戒,不復噬螫。所泊江湖,必於峰側結表,云「此處放生。」漁者皆無所得,才有少獲,輒有大風雷。船人懼而放之,風雨乃定。晚雖將兵,猶禁諸軍漁捕。有竊違者,中夜猛獸必來欲噬之,或亡其船纜。有小弟子戲截蛇頭,來詣法和。法和曰:「汝何意殺蛇?」因指以示之,弟子乃見蛇頭齚褲襠而不落。法和使懺悔,為蛇作功德。又有人以牛試刀,一下而頭斷,來詣法和。法和曰:「有一斷頭牛,就卿徵命殊急,若不為作功德,一月內報至。」其人弗信,少日果死。法和又為人置宅圖墓,以避禍求福。嘗謂人曰:「勿繫馬於碓。」其人行過鄉曲,門側有碓,因繫馬於其柱。入門中,意法和戒,走出將解之,馬已斃矣。

梁の元帝は法和を都督ととく・郢州刺史とし、江乗県公に封じた。法和は臣と称さず、その上奏文には朱印で名を上たてまつり、自ら司徒しとと称した。梁の元帝はその僕射の王褒に言った。「私はかつて陸を三公に用いる考えはなかったのに、自ら称するのはどういうことか。」王褒は言った。「彼は既に道術を以て自ら任じています。おそらくは先んじて知っているのでしょう。」梁の元帝は法和の功業が次第に重いため、遂にその上に司徒を加え、都督・刺史は元の通りとした。部曲数千人は、通して弟子と呼び、ただ道術を以て教化し、法獄を以て人に加えることはしなかった。また市の店舗の内には、市丞や牧佐の法を立てず、誰も管理せず、ただ空の檻(箱)に鍵をかけて道の間に置き、上に一つの穴を開けて銭を受け取った。商人や店主は貨物の多少に従い、その価格の限度を計算して、自ら箱の中に委ねた。管理する役所は、夕方になって初めて開けて取り出し、その項目を条記して、庫に納めた。また法和は普段は口を開かないかのように言わなかったが、時折論じると、雄弁で敵なく、しかしなお蛮の訛りが帯びていた。攻戦の具を作るのが巧みであった。江夏において、大いに兵艦を集め、襄陽を襲って武関に入ろうとした。梁の元帝がこれを止めさせると、法和は言った。「法和は仏を求める者である。尚お釈梵天王の坐する処さえ望まない。どうして王位を図ろうか。ただ空王仏の御前において主上と香火の因縁があり、主人に応ずる報いが来るのを見たので、援けを求めたのである。今既に疑われたのは、これは業が定まって改められないからである。」そこで供物の食事を設け、大槌薄餅(大きな槌で打った薄い餅)を備えた。そして魏が挙兵すると、法和は郢州から漢口に入り、江陵に赴こうとした。梁の元帝は人を遣わして迎えさせて言った。「こちらは自ら賊を破ることができる。ただ郢州を鎮守せよ。動く必要はない。」法和はそこで州に戻り、城門を白く塗り、粗末な白布の衫(上着)と布袴、邪巾(斜めにかぶった頭巾)を着け、大繩で腰を縛り、葦の席に坐り、一日中してから脱いだ。そして梁の元帝が敗れて滅んだと聞くと、再び前の凶服(喪服)を取って着け、泣いて弔問を受けた。梁人が魏に入ると、果たして槌餅(槌で打った餅)を見た。法和は初め百里洲に寿王寺を造り、仏殿を架けた後、さらに梁柱を切り詰めて言った。「後四十余年ほどして仏法は雷電に遭うであろう。この寺は幽僻であるから、難を免れることができる。」そして魏が荊州を平定した時、宮室は焼け尽きたが、総管が寿王寺の仏殿の材木を取りに行こうとしたが、その材が短いのを嫌って止めた。後に周(北周)が仏法を滅ぼした時、この寺は陳の境内に隔てられていたので、難に及ばなかった。

原文梁元帝以法和為都督、郢州刺史,封江乘縣公。法和不稱臣,其啟文朱印名上,自稱司徒。梁元帝謂其僕射王褒曰:「我未嘗有意用陸為三公,而自稱何也?」褒曰:「彼旣以道術自命,容是先知。」梁元帝以法和功業稍重,遂就加司徒,都督、刺史如故。部曲數千人,通呼為弟子,唯以道術為化,不以法獄加人。又列肆之內,不立市丞牧佐之法,無人領受,但以空檻籥在道間,上開一孔受錢。賈客店人隨貨多少,計其估限,自委檻中。行掌之司,夕方開取,條其孔目,輸之於庫。又法和平常言若不出口,時有所論,則雄辯無敵,然猶帶蠻音。善為攻戰具。在江夏,大聚兵艦,欲襲襄陽而入武關。梁元帝使止之,法和曰:「法和是求佛之人,尚不希釋梵天王坐處,豈規王位?但於空王佛所與主上有香火因緣,見主人應有報至,故求援耳。今旣被疑,是業定不可改也。」於是設供食,具大槌薄餅。及魏舉兵,法和自郢入漢口,將赴江陵。梁元帝使人逆之曰:「此自能破賊,但鎮郢州,不須動也。」法和乃還州,堊其城門,著粗白布衫、布袴、邪巾,大繩束腰,坐葦席,終日乃脫之。及聞梁元帝敗滅,復取前凶服著之,哭泣受弔。梁人入魏,果見槌餅焉。法和始於百里洲造壽王寺,旣架佛殿,更截梁柱,曰:「後四十許年佛法當遭雷電,此寺幽僻,可以免難。」及魏平荊州,宮室焚燼,總管欲發取壽王佛殿,嫌其材短,乃停。後周氏滅佛法,此寺隔在陳境,故不及難。

天保六年の春、清河王高岳が軍を進めて江に臨むと、法和は州を挙げて北齊に入った。文宣帝は法和を大都督十州諸軍事・太尉公・西南道大行臺とし、大都督・五州諸軍事・荊州刺史・安湘郡公の宋莅を郢州刺史とし、官爵はもとのままとした。宋莅の弟の宋簉を散騎常侍さんきじょうじ・儀同三司・湘州刺史・義興縣公とした。梁の将軍侯瑱が江夏に迫って来たので、齊軍は城を棄てて退却し、法和は宋莅兄弟とともに朝廷に入った。文宣帝はその奇術を聞き、虚心に会見し、三公の鹵簿を整え、城南十二里の地に供帳を設けてこれを待った。法和は遠く鄴城ぎょうじょうを見ると、馬から下りて禹歩を行った。辛術が言うには、「公は既に万里を越えて誠意を帰せしめ、主上は虚心に待遇せんとしている。何ゆえにこの術を行うのか」と。法和は手に香炉を持ち、路車に従って歩き、宿舎に至った。翌日引見され、通幰油絡網車を与えられ、伏身の者百人を付された。宮闕に詣でて名を通すに、官爵を称せず、臣とも称せず、ただ「荊山居士」と云うのみであった。文宣帝は昭陽殿で法和とその徒属を宴し、法和に銭百万・物千段・甲第一区・田百頃・奴婢二百人を賜い、生計資財の什物もこれに相応し、宋莅には千段を賜い、その他の儀同・刺史以下にはそれぞれ差等があった。法和が得た奴婢は、全てこれを免じて言うには、「それぞれ縁に随って去れ」と。銭帛は散施して、一日にして尽きた。官より賜わった宅を以て仏寺を営み、自らは一房に居し、凡人と異なる所がなかった。三年の間に再び太尉となったが、世間ではなお居士と呼んだ。病なくして弟子に死期を告げ、その時至り、香を焚き仏を礼し、繩床に坐して終わった。浴し終えて将に斂めんとするに、屍は小さく縮んで三尺ばかりであった。文宣帝は棺を開かせてこれを見ると、空の棺のみであった。法和はその居室の壁に書き、塗り固めたが、剥落した時、文があり、「十年天子は尚し可なり、百日天子は急なること火の如し、周年天子は代わりに坐す」と。また曰く、「一母三天を生み、両天五年を共にす」と。説く者は婁太后が三天子を生み、孝昭帝が即位してより、武成帝が後主に位を伝えるまで、合わせて五年であるという。

原文天保六年春,清河王岳進軍臨江,法和舉州入齊。文宣以法和為大都督十州諸軍事、太尉公、西南道大行臺,大都督、五州諸軍事、荊州刺史、安湘郡公宋莅為郢州刺史,官爵如故。莅弟簉為散騎常侍、儀同三司、湘州刺史、義興縣公。梁將侯填來逼江夏,齊軍棄城而退,法和與宋莅兄弟入朝。文宣聞其奇術,虛心相見,備三公鹵簿,於城南十二里供帳以待之。法和遙見鄴城,下馬禹步。辛術謂曰:「公旣萬里歸誠,主上虛心相待,何為作此術?」法和手持香爐,步從路車,至於館。明日引見,給通幰油絡網車,伏身百人。詣闕通名,不稱官爵,不稱臣,但云荊山居士。文宣宴法和及其徒屬於昭陽殿,賜法和錢百萬、物千段、甲第一區、田一百頃、奴婢二百人,生資什物稱是,宋莅千段,其餘儀同、刺史以下各有差。法和所得奴婢,盡免之,曰:「各隨緣去。」錢帛散施,一日便盡。以官所賜宅營佛寺,自居一房,與凡人無異。三年間再為太尉,世猶謂之居士。無疾而告弟子死期,至時,燒香禮佛,坐繩床而終。浴訖將斂,屍小,縮止三尺許。文宣令開棺視之,空棺而已。法和書其所居壁而塗之,及剝落,有文曰:「十年天子為尚可,百日天子急如火,周年天子遞代坐。」又曰:「一母生三天,兩天共五年。」說者以為婁太后生三天子,自孝昭卽位,至武成傳位後主,共五年焉。

法和が荊郢に在った時、少姬あり、年は二十余りばかり、自ら越姥と称し、身に法服を披き、嫁がず、常に法和に随って東西した。あるいはこれと私通すること十余年あった。今は賜わって棄てられ、別に他の淫に更えた。有司が考験したところ、並びに事実であった。越姥はこれにより改めて適し、数人の子を生んだ。

原文法和在荊郢,有少姬,年可二十餘,自稱越姥,身披法服,不嫁,恒隨法和東西。或與其私通十有餘年。今者賜棄,別更他淫。有司考驗並實。越姥因爾改適,生子數人。

王琳

原文王琳

王琳、字は子珩、會稽山陰の人である。父は王顯嗣、梁の湘東王国常侍。王琳は元来兵家の出で、元帝が藩国に居た時、王琳の姉妹は並びに入って後庭に見幸され、王琳はこれにより弱冠に至らずして左右に在ることができた。少より武を好み、遂に将帥となった。

原文王琳,字子珩,會稽山陰人也。父顯嗣,梁湘東王國常侍。琳本兵家,元帝居藩,琳姊妹並入後庭見幸,琳由此未弱冠得在左右。少好武,遂為將帥。

太清二年、侯景が江を渡ると、王琳を遣わして米一万石を献上させた。未だ至らぬうちに都城が陥落したので、中流で米を沈め、軽舸で荊州に還った。稍々遷って岳陽内史となり、軍功により建寧縣侯に封ぜられた。侯景が将軍宋子仙を遣わして郢州を占拠すると、王琳はこれを攻め落とし、子仙を生け捕った。また王僧辯に随って侯景を破った。後に湘州刺史に拝された。

原文太清二年,侯景渡江,遣琳獻米萬石。未至,都城陷,乃中江沉米,輕舸還荊州。稍遷岳陽內史,以軍功封建寧縣侯。侯景遣將宋子仙據郢州,琳攻剋之,擒子仙。又隨王僧辯破景。後拜湘州刺史。

王琳は果敢で勁く人に絶し、また能く身を傾けて士に下り、得た賞賜の物を家に入れなかった。麾下の者一万人、多くは江淮の群盗であった。侯景を平定した功勲は、杜龕とともに第一と為り、寵を恃んで建業に暴を恣にした。王僧辯はこれを禁じることができず、乱を為さんことを懼れ、誅殺を請うた。王琳もまた禍を疑い、長史陸納に部曲を率いて先に湘州へ赴かせ、自身は直ちに江陵へ上った。将に行くに当たり、陸納らに言うには、「我もし返らざれば、汝らはどうするか」と。皆曰く、「死を請うて報いん」と。泣いて別れた。至ると、帝はこれを下吏とし、廷尉卿黄羅漢・太府卿張載をして王琳の軍を宣諭させた。陸納ら及び軍人は並びに使者に対し哭し、命を受けることを肯ぜず、乃ち黄羅漢に報い、張載を殺した。張載は性深刻で、帝に信ぜられていたが、荊州ではこれを仇の如く憎んだので、納らは人の欲に因り、腸を抽いて馬の脚に繋ぎ、これを繞らせて走らせ、腸尽きて気絶し、また臠割して五刑を備え斬った。梁元帝は王僧辯を遣わして陸納を討たせ、納らは敗走して長沙に走った。この時湘州は未だ平定せず、武陵王の兵もまた甚だ盛んであり、江陵の公私恐懼し、人に異図あり。陸納は上啓して王琳の罪を申し立て、本位に復し、永く奴婢たらんことを請うた。梁元帝は乃ち王琳を鎖して長沙に送った。時に陸納の兵が出で方に戦わんとし、王琳が至るに会い、王僧辯は楼車に登ってこれを示した。陸納らは戈を投げて俱に拝し、挙軍皆哭して曰く、「王郎の入城を乞う、即ち出でん」と。琳を放ち入れると、納らは乃ち降伏し、湘州は平定した。仍って本位に復し、王琳を使わして蕭紀を拒がせた。蕭紀が平定されると、衡州刺史を授かった。

原文琳果勁絕人,又能傾身下士,所得賞物,不以入家。麾下萬人,多是江淮羣盜。平景之勛,與杜龕俱為第一,恃寵縱暴於建業。王僧辯禁之不可,懼將為亂,啟請誅之。琳亦疑禍,令長史陸納率部曲前赴湘州,身徑上江陵。將行,謂納等曰:「吾若不返,子將安之?」咸曰:「請死相報。」泣而別。及至,帝以下吏,而廷尉卿黃羅漢、太府卿張載宣喻琳軍。陸納等及軍人並哭對使者,莫肯受命,乃報黃羅漢,殺張載。載性深刻,為帝所信,荊州疾之如仇,故納等因人之欲,抽腸系馬腳,使繞而走,腸盡氣絕,又臠割備五刑而斬之。梁元遣王僧辯討納,納等敗走長沙。是時湘州未平,武陵王兵又甚盛,江陵公私恐懼,人有異圖。納啟申琳罪,請復本位,永為奴婢。梁元乃鎖琳送長沙。時納兵出方戰,會琳至,僧辯升諸樓車以示之。納等投戈俱拜,舉軍皆哭,曰:「乞王郎入城,卽出。」及放琳入,納等乃降,湘州平。仍復本位,使琳拒蕭紀。紀平,授衡州刺史。

梁元帝は性多く忌み、王琳の所部が甚だ衆く、また衆心を得ていることを以て、故にこれを嶺外に出し、また都督・広州刺史を受けた。その友人の主書李膺は、帝に任用遇された者で、王琳はこれに告げて曰く、「琳は抜擢を蒙り、常に命を畢くして国恩に報いんと欲す。今天下未だ平らかならず、琳を嶺外に遷す。万一の不虞あらば、安んぞ琳の力を得んや。官(帝)は正に琳を疑うのみ。琳の分望は限りあり、官と争って帝たらんことを得んや。何ぞ琳を以て雍州刺史と為し、武寧を鎮守せしめ、琳自ら兵を放ち田を作り、国の為に禦捍せしめざる。若し警急あれば、動静相知る。遠く嶺南に棄てられ、相去ること万里、一日変有らば、将に如何せんとするに若かざるは。琳は長く荊南に坐するを願うに非ず、正に国計かくの如きのみ」と。李膺はその言を然りとし、敢えて啓上せず、故に遂にその衆を率いて嶺南を鎮守した。

原文梁元性多忌,以琳所部甚衆,又得衆心,故出之嶺外,又受都督、廣州刺史。其友主書李膺,帝所任遇,琳告之曰:「琳蒙拔擢,常欲畢命以報國恩。今天下未平,遷琳嶺外,如有萬一不虞,安得琳力?忖官正疑琳耳。琳分望有限,可得與官爭為帝乎?何不以琳為雍州刺史,使鎮武寧,琳自放兵作田,為國禦捍。若警急,動靜相知。孰若遠棄嶺南,相去萬里,一日有變,將欲如何?琳非願長坐荊南,正以國計如此耳。」膺然其言,不敢啟,故遂率其衆鎮嶺南。

梁元帝が魏に囲まれ逼迫されると、乃ち王琳を徴して赴援せしめ、湘州刺史を除した。王琳の師は長沙に次ぐ。魏が江陵を平定し、既に梁王蕭察を立てたことを知ると、乃ち梁元帝のために挙哀し、三軍縞素とした。別将侯平を遣わして舟師を率い梁を攻撃させた。王琳は兵を長沙に屯し、諸方に檄を伝え、進趨の計を為した。時に長沙藩王蕭韶及び上流の諸将は王琳を推して盟主と為した。侯平は江を渡ることはできなかったが、頻りに梁軍を破り、また王琳の兵威が接続しないことを以て、翻って更に指麾を受けず。王琳は将を遣わしてこれを討たせたが、克たず、また師老いて兵疲れ進むことができなかった。乃ち使者を遣わして表を奉じて齊に詣で、並びに馴象を献じ、また魏に款を献じて妻子を求め、また梁に対しても臣と称した。

原文梁元為魏圍逼,乃徵琳赴援,除湘州刺史。琳師次長沙,知魏平江陵,已立梁王察,乃為梁元舉哀,三軍縞素。遣別將侯平率舟師攻梁。琳屯兵長沙,傳檄諸方,為進趨之計。時長沙藩王蕭韶及上遊諸將推琳主盟。侯平雖不能渡江,頻破梁軍,又以琳兵威不接,翻更不受指麾。琳遣將討之,不克,又師老兵疲不能進。乃遣使奉表詣齊,並獻馴象;又使獻款於魏,求其妻子;亦稱臣於梁。

陳霸は先が既に王僧辯を殺し、敬帝を推立すると、侍中司空しくうとして徴した。王琳は命に従わず、乃ち大いに楼艦を営み、将に義挙を図らんとした。王琳の将帥は各々一艦に乗り、毎に行くに、戦艦は千数を以てし、「野猪」を名とした。陳武帝は将軍侯安都・周文育等を遣わして王琳を誅せしめ、仍って梁の禅を受け継いだ。侯安都は嘆いて曰く、「我れ其れ敗るるか、師名無し」と。沌口に逆戦し、王琳は平肩輿に乗り、鉞を執ってこれを麾し、侯安都・周文育を生け捕り、その他漏れる所無し。ただ周鉄虎一人が恩に背いたことを以て、これを斬った。侯安都・周文育を鎖し王琳の坐する艦中に置き、一閹豎をして監守せしめた。王琳は乃ち湘州の軍府を移して郢城に就き、甲を帯びる者十万、白水浦に兵を練った。王琳は軍を巡って言うには、「以て勤王の師と為すべし、溫太真(溫嶠)何人のことぞ」と。江南の渠帥熊曇朗・周迪は二心を懐き、王琳は李孝欽・樊猛を遣わし余孝頃とともにこれを討たせた。三将軍敗れ、並びに敵に囚われた。侯安都・周文育等は尽く逃れて建業に還った。

原文陳霸先旣殺王僧辯,推立敬帝,以侍中司空徵。琳不從命,乃大營樓艦,將圖義舉。琳將帥各乘一艦,每行,戰艦以千數,以「野豬」為名。陳武帝遣將侯安都、周文育等誅琳,仍受梁禪。安都嘆曰:「我其敗乎,師無名矣。」逆戰於沌口,琳乘平肩輿,執鉞而麾之,禽安都、文育,其餘無所漏。唯以周鐵虎一人背恩,斬之。鎖安都、文育置琳所坐艦中,令一閹豎監守之。琳乃移湘州軍府就郢城,帶甲十萬,練兵於白水浦。琳巡軍而言曰:「可以為勤王之師矣,溫太真何人哉!」江南渠帥熊曇朗、周迪懷貳,琳遣李孝欽、樊猛與余孝頃同討之。三將軍敗,並為敵所囚。安都、文育等盡逃還建業。

初め、魏が江陵を陥れた時、永嘉王蕭莊は年齢わずか七歳にして、人家に逃げ隠れていたが、後に王琳がこれを迎えて湘中に還し、護衛して東下させた。敬帝が立つと、蕭莊は斉に人質として出され、王琳は蕭莊を梁主として受け入れるよう請願した。文宣帝は兵を派遣して援護送還させ、兼中書令李騊駼を遣わして王琳を梁の丞相・都督中外諸軍・録尚書事に冊拝した。舍人羊愨・遊詮之らが璽書を携えて江表に赴き宣撫し、王琳以下すべてに頒賜があった。王琳は兄の子叔宝に命じて配下の十州刺史の子弟を率いて鄴に赴かせ、蕭莊を奉じて郢州において梁の統治を継承させた。蕭莊は王琳に侍中・使持節・大将軍・中書監ちゅうしょかんを授け、安城郡公に改封し、その他はすべて斉朝の前命に従った。陳霸先が即位すると、王琳は蕭莊を補佐して濡須口に駐屯した。斉は揚州道行臺慕容儼に命じて衆を率いて江辺に臨ませ、その声援とした。陳は安州刺史呉明徹に命じて夜中に江を遡上させ、湓城を襲撃せんとした。王琳は巴陵太守任忠を派遣してこれを大破し、呉明徹はただ一身で逃れるのみであった。

原文初,魏剋江陵之時,永嘉王莊年甫七歲,逃匿人家,後琳迎還湘中,衛送東下。及敬帝立,出質於齊,請納莊為梁主。文宣遣兵援送,仍遣兼中書令李騊駼冊拜琳為梁丞相、都督中外諸軍、錄尚書事。舍人羊愨、遊詮之等齎璽書江表宣勞,自琳以下皆有頒賜。琳乃遣兄子叔寶率所部十州刺史子弟赴鄴,奉莊纂梁祚於郢州。莊授琳侍中、使持節、大將軍、中書監,改封安城郡公,其餘並依齊朝前命。及陳霸先卽位,琳乃輔莊次於濡須口。齊遣揚州道行臺慕容儼率衆臨江,為其聲援。陳遣安州刺史吳明徹江中夜上,將襲湓城。琳遣巴陵太守任忠大敗之,明徹僅以身免。

王琳の軍はこれに乗じて東下した。陳は司空侯安都らを派遣してこれを防がせた。侯瑱らは王琳の軍勢が盛んなのを見て、軍を率いて蕪湖に入り避けた。時、西南風が突然起こり、王琳は天道を得たと思い、まさに直ちに揚州を取らんとした。侯瑱らはゆるやかに蕪湖を出て、その後を追った。戦いが始まろうとする時、西南風は翻って侯瑱のために用いられることとなった。王琳の兵が火矢を放って敵船に投げつけたが、皆かえって自らの船を焼いた。王琳の船艦は潰乱し、兵士は水に投じて死ぬこと十二三に及び、残りは皆船を棄てて岸に上がり、陳軍に殺されてことごとく尽きた。初め王琳は左長史袁泌・御史中丞劉仲威に命じて共に兵を統率し蕭莊を侍衛させたが、軍が敗れると、袁泌は遂に陳に降り、劉仲威は蕭莊を連れて歴陽に奔った。

原文琳兵因東下,陳遣司空侯安都等拒之。侯瑱等以琳軍方盛,引軍入蕪湖避之。時西南風忽至,琳謂得天道,將直取揚州。侯瑱等徐出蕪湖,躡其後。比及兵交,西南風翻為瑱用。琳兵放火燧以擲船者,皆反燒其船。琳船艦潰亂,兵士投水死十二三,其餘皆棄船上岸,為陳軍所殺殆盡。初琳命左長史袁泌、禦史中丞劉仲威同典兵侍衛莊,及軍敗,泌遂降陳,仲威以莊投歷陽。

王琳はまもなく蕭莊と共に鄴都に降った。孝昭帝は王琳を合肥に出させ、旧義の者を糾合し、さらに進取を図らせた。王琳は船艦を修繕し、分遣して募兵し、淮南の傖楚の者は皆力を尽くさんと願った。陳の合州刺史裴景暉は、王琳の兄王珉の婿であり、私的な配下を以て斉軍を導くことを請うた。孝昭帝は王琳に行臺左丞盧潜と共に兵を率いて応援するよう委ねたが、王琳は沈吟して決断しなかった。裴景暉は事が漏れることを恐れ、身一つで斉に帰順した。孝昭帝は王琳に璽書を賜い、寿陽を鎮守せしめ、その部下の将帥はすべて従うことを許し、王琳を驃騎大将軍・開府儀同三司・揚州刺史に任じ、会稽郡公に封じ、さらに兵仗を増やし、鐃吹をも給した。王琳は水陸戒厳し、隙を窺って動かんとした。時に陳氏が斉と友好を結んだため、王琳はさらに後の図りを待つよう命じられた。王琳は寿陽において、行臺尚書盧潜と不和で、互いに非難し合い、召還されて鄴に帰ったが、武成帝は寛大に処して問わなかった。滄州刺史に任じられ、後に王琳は特進・侍中とされた。住居の屋根の棟が故なくして剥がれ破れ、赤い蛆が数升出て、地に落ちて血と化し、蠕蠕として動いた。また門外の地から龍が出て、雲霧が立ちこめ、昼間も暗くなった。

原文琳尋與莊同降鄴都。孝昭帝遣琳出合肥,鳩集義故,更圖進取。琳乃繕艦,分遣招募,淮南傖楚,皆願戮力。陳合州刺史裴景暉,琳兄珉之婿也,請以私屬導引齊師。孝昭委琳與行臺左丞盧潛率兵應赴,沉吟不決。景暉懼事泄,挺身歸齊。孝昭賜琳璽書,令鎮壽陽,其部下將帥悉聽以行,乃除琳驃騎大將軍、開府儀同三司、揚州刺史,封會稽郡公,又增兵仗,兼給鐃吹。琳水陸戒嚴,將觀釁而動。屬陳氏結好於齊,使琳更聽後圖。琳在壽陽,與行臺尚書盧潛不協,更相是非,被召還鄴,武成弘而不問。除滄州刺史,後以琳為特進、侍中。所居屋脊無故剝破,出赤蛆數升,落地化為血,蠕蠕而動。又有龍出於門外之地,雲霧起,晝晦。

時に陳の将軍呉明徹が侵攻してきた。帝は領軍将軍尉破胡らに出撃させて秦州を救援せしめ、王琳に共に経略するよう命じた。王琳は親しい者に言った、「今、太歳は東南にあり、歳星は斗牛の分野に居り、太白星は既に高く、皆客軍に利あり。我は喪を有すべし」。また尉破胡に言った、「呉の兵は甚だ鋭し。長策を以てこれを制すべく、軽々しく戦うことを慎むべし」。尉破胡は従わず、遂に戦い、軍は大敗し、王琳は単騎で包囲を突破し、辛うじて免れた。彭城に還ると、帝は直ちに寿陽に赴くことを命じ、併せて募兵を許した。さらに王琳を巴陵郡王に進封した。陳の将軍呉明徹は進軍してこれを包囲し、淝水を堰き止めて城に灌ぎ、皮景和らは淮西に駐屯したが、ついに救援に赴かなかった。呉明徹は昼夜攻撃し、城内は水気が次第に侵し、人々は皆腫れ物を患い、死と病とが相枕した。七月から十月に至り、城は陥落し捕らえられた。百姓は泣きながらこれに従った。呉明徹は彼が変を起こすことを恐れ、城の東北二十里でこれを殺した。時に年四十八、哭く者の声は雷の如し。一人の老人が酒と干し肉を持って来て祭り、哀悼の情を尽くし、その血を収めて懐に入れ去った。首は建康に伝えられ、市に懸けられた。

原文會陳將吳明徹來寇,帝勑領軍將軍尉破胡等出援秦州,令琳共為經略。琳謂所親曰:「今太歲在東南,歲星居鬥牛分,太白已高,皆利為客,我將有喪。」又謂破胡曰:「吳兵甚銳,宜長策制之,慎勿輕鬬。」破胡不從,遂戰,軍大敗,琳單馬突圍,僅而獲免。還至彭城,帝令便赴壽陽,並許召募。又進封琳巴陵郡王。陳將吳明徹進兵圍之,堰淝水灌城,而皮景和等屯於淮西,竟不赴救。明徹晝夜攻擊,城內水氣轉侵,人皆患腫,死病相枕。從七月至十月,城陷被執,百姓泣而從之。吳明徹恐其為變,殺之城東北二十里,時年四十八,哭者聲如雷。有一叟以酒脯來酹,盡哀,收其血,懷之而去。傳首建康,懸之於市。

王琳の旧吏である梁の驃騎府倉曹参そうしん軍朱瑒が、陳の尚書僕射徐陵に書を致し、王琳の首級を求めて言うには、

原文琳故吏梁驃騎府倉曹參軍朱瑒致書陳尚書僕射徐陵求琳首曰:

窃かに考えるに、朝廷と市井は変遷し、骨梗の風を伝え、歴運は推移し、忠貞の跡を表す。故に典午(晋)将滅の時、徐広は晋家の遺老たり。当塗(魏)已に謝すれども、馬孚は魏室の忠臣と称せらる。これを用いて前書に美を播き、後世に名を垂る。梁の故建寧公王琳は、洛濱の余冑、沂州の旧族にして、代邸に功を立て、中朝に績を効し、離乱の辰に当たり、方伯の任を総ぶ。爾乃ち軽く躬を殉し主に、身を許して国に、実に往彦を追跡し、信に前修に踵武す。而るに天は梁の徳を厭い、上は匡継を思うも、徒に包胥の念を蘊み、終に萇弘の眚に遘う。王業光啓に及び、鼎祚帰する所有り、ここに於いて遠く山東に跡を寄せ、河北に命を寄す。軽き旅臣の歎有りと雖も、猶客卿の礼を懐い、この知己に感ずれば、この捐躯を忘る。至らしむるに身は九泉に没し、頭は万里を行く。誠に復た馬革に裹まれて死し、その生平の志を遂ぐるも、原野に骸を暴き、彼の人臣の節に会う。然れども身首異処するは、足るに悲しむべき者有り。封樹卜する無きは、良く愴然たらしむ。朱瑒は早く末席に簉し、薛君の吐握に降り、魏公の知遇に荷う。ここを用いて巾を霑し袂に雨し、痛む可き識りの顔。腸を回し首を疾し、切なる猶生の面。伏して惟うに聖恩博厚にして、明詔爰に発し、王経の哭を赦し、田横の葬を許す。朱瑒、芻賤と雖も、窃かに亦心有り。王琳、寿陽に蒞むこと経り、頗る遺愛を存す。曾て江右に遊び、余徳無きに非ず。東閤の吏に比肩し、西園の賓に踵を継ぐ。願わくは彼の境に帰し、還って窀穸を修めん。庶幾くば孤墳既に築かれ、或いは土を銜ぶ燕の飛ぶ有らん。豊碑式に樹てられ、時に涙を堕す人を留めん。近き故旧の王綰ら已に論牒有り、仰ぎ蒙り制議せらるるも、遂に陳ぶる所に従わず。昔、廉公逝くを告ぐれば、即ち淝川に塋域を建つ。孫叔云亡すれども、仍って芍陂に楸槚を植う。此れに由りて言えば、抑も其の例有り。寿春城下に、唯だ報葛の人を伝え、滄洲島上に、独り悲田の客有らしむるなからんことを。昧死して陳祈し、伏して刑憲を待つ。

原文竊以朝市遷貿,傳骨梗之風,歷運推移,表忠貞之跡。故典午將滅,徐廣為晉家遺老;當塗已謝,馬孚稱魏室忠臣。用能播美於前書,垂名於後世。梁故建寧公琳,洛濱餘胄,沂州舊族,立功代邸,效績中朝,當離亂之辰,總方伯之任。爾乃輕躬殉主,以身許國,實追蹤於往彥,信踵武於前修。而天厭梁德,上思匡繼,徒蘊包胥之念,終遘萇弘之眚。洎王業光啟,鼎祚有歸,於是遠跡山東,寄命河北。雖輕旅臣之歎,猶懷客卿之禮,感茲知己,忘此捐軀。至使身沒九泉,頭行萬里。誠復馬革裹死,遂其生平之志;原野暴骸,會彼人臣之節。然身首異處,有足悲者;封樹靡卜,良可愴焉。瑒早簉末席,降薛君之吐握,荷魏公之知遇。是用霑巾雨袂,痛可識之顏;回腸疾首,切猶生之面。伏惟聖恩博厚,明詔爰發,赦王經之哭,許田橫之葬,瑒雖芻賤,竊亦有心。琳經蒞壽陽,頗存遺愛;曾遊江右,非無餘德。比肩東閤之吏,繼踵西園之賓,願歸彼境,還修窀穸。庶孤墳旣築,或飛銜土之燕;豐碑式樹,時留墮淚之人。近故舊王綰等已有論牒,仰蒙制議,不遂所陳。昔廉公告逝,卽淝川而建塋域;孫叔云亡,仍芍陂而植楸槚。由此言之,抑有其例。不使壽春城下,唯傳報葛之人;滄洲島上,獨有悲田之客。昧死陳祈,伏待刑憲。

徐陵はその志節を称えた。また呉明徹もたびたび王琳が首を求める夢を見、共に陳主に啓上してこれを許された。そこで開府儀同主簿劉韶慧らにその首を持たせて淮南に還し、仮に八公山の側に葬った。旧義の者が会葬した者は数千人に及んだ。朱瑒らは間道を北に帰り、別に迎接を議した。まもなく揚州の茅知勝ら五人が密かに葬送の柩を鄴に届けた。十五州諸軍事・揚州刺史・侍中・特進・開府・録尚書事を追贈され、諡して忠武王と曰い、葬送には轀輬車を給された。

原文陵嘉其志節。又明徹亦數夢琳求首,並為啟陳主而許之。仍與開府儀同主簿劉韶慧等持其首還於淮南,權瘞八公山側,義故會葬者數千人。瑒等乃間道北歸,別議迎接。尋有揚州人茅知勝等五人密送葬柩達於鄴。贈十五州諸軍事、揚州刺史、侍中、特進、開府、錄尚書事,諡曰忠武王,葬給轀輬車。

王琳は体貌閑雅で、立つと髪が地に委ね、喜怒は色に形せず。学業は無かったが、強記で内に聡敏であり、軍府の佐吏数千人、皆その姓名を識った。刑罰を濫り用いず、財を軽んじて士を愛し、将卒の心を得た。若くして将帥を任じ、たびたび喪乱を経て、雅に忠義の節有り。本図は遂げられなかったが、鄴の人もこれを以て重んじ、待遇甚だ厚かった。敗れて陳軍に捕らえられた時、呉明徹は彼を全うせんとしたが、その下の将領の多くは王琳の旧吏であり、争って来て請願し、共に物資を給したため、呉明徹はこれによって彼を忌み、故に難に及んだ。当時、田夫野老、知る者と知らざる者と、彼のために歔欷流泣せざるは無かった。その誠信が物を感ずることを観れば、李将軍の恂恂として善く誘うも、殆ど以て加うる無きが如し。

原文琳體貌閑雅,立髮委地,喜怒不形於色。雖無學業,而強記內敏,軍府佐吏千數,皆識其姓名。刑罰不濫,輕財愛士,得將卒之心。少任將帥,屢經喪亂,雅有忠義之節。雖本圖不遂,鄴人亦以此重之,待遇甚厚。及敗,為陳軍所執,吳明徹欲全之,而其下將領多琳故吏,爭來致請,並相資給,明徹由此忌之,故及於難。當時田夫野老,知與不知,莫不為之歔欷流泣。觀其誠信感物,雖李將軍之恂恂善誘,殆無以加焉。

王琳に十七人の子がいた。長子の王敬は、斉において王爵を襲い、武平末に通直常侍となった。第九子の王衍は、隋の開皇中に開府儀同三司となり、大業初年に渝州刺史の任で卒した。

原文琳十七子。長子敬,在齊襲王爵,武平末,通直常侍。第九子衍,隋開皇中開府儀同三司,大業初,卒於渝州刺史。

注

原文注