陸法和
陸法和は、何処の人とも知れない。江陵の百里洲に隠棲し、衣食住居は、一切苦行の沙門と同じであった。古老は幼い時から彼を見ていたが、容貌や色つやは常に一定せず、人は測り知ることができなかった。ある者は、嵩高 (嵩山) から出て、遠近を遍く遊歴したのだという。荊州汶陽郡高安県の紫石山に入った後、理由もなく住んでいた山を捨てた。間もなく蛮賊の文道期の乱が起こり、当時の人は彼が兆しを予見していたのだと思った。
侯景 が初めて梁に降伏を申し出た時、法和は南郡の朱元英に言った。「貧道は檀越と共に侯景を撃ちに行こう。」元英が言うには、「侯景は国のために功を立てようとしているのに、師は彼を撃つと言われる。どういうことか。」法和は言った。「正にそういうことなのだ。」侯景が長江を渡った時、法和は青谿山におり、元英が訪ねて言った。「侯景は今、城を包囲している。事態はどうなるか。」法和は言った。「凡そ人が果実を取るには、熟するのを待つべきで、いじらなければ自然に落ちる。檀越はただ侯景が熟するのを待てばよい。どうしてわざわざ尋ねる必要があろうか。」強いて問うと、遂に言った。「勝つこともあれば、勝たぬこともある。」
侯景が将軍の任約を遣わして江陵で梁の湘東王を攻撃すると、法和は湘東王のもとに赴き任約征伐を願い出て、諸蛮の弟子八百人を江津に召集し、二日で出発した。湘東王は胡僧祐に千余人を率いさせて同行させた。法和は軍艦に登って大笑いし、「無量の兵馬である」と言った。江陵には多くの神祠があり、人々の習俗として常に祈願していたが、法和の軍が出てからは、一度も験がなくなった。人々は神々が皆従軍したためだと思った。赤沙湖に至り、任約と対峙した。法和は軽船に乗り、甲冑もつけず、流れに沿って下り、任約の軍から一里の所で引き返した。将士に言うには、「ひとまずあの龍が眠って動かないのを見た。我が軍の龍は大いに躍り立っている。直ちに攻撃せよ。もし明日まで待つことができれば、客 (敵) も主 (味方) も一人も損なうことなく賊を破ることができるが、しかし悪いところがある。」そこで前方に火船を放ったが、逆風で都合が悪かった。法和が白羽の麾 (指揮旗) を執って風を指揮すると、風勢は即座に逆転した。任約の軍衆は皆、梁の兵士が水の 上 を歩いているのを見て、大いに潰走し、皆水に飛び込んで死んだ。任約は逃げ隠れて行方が分からなくなった。法和は言った。「明日の午の刻に捕らえることができるだろう。」その時刻になっても捕らえられないので、人が尋ねると、法和は言った。「私は以前、この洲の水が干上がった時に一つの仏塔 (剎) を建て、檀越たちに言った。『これは仏塔ではあるが、実は賊の標 (目印) である』と。今どうしてその標の下で賊を求めないのか。」その言葉通りにすると、果たして水中で任約が仏塔を抱きしめ、頭を仰ぎ、鼻だけを出しているのを見つけ、遂にこれを捕らえた。任約は、師の目の前で死にたいと願った。法和は言った。「檀越には相 (人相) があり、必ずや兵刃で死ぬことはない。かつて王 (湘東王) との間に縁がある。決して他の心配はない。王は後になって檀越の力を得ることになるだろう。」湘東王は果たして彼を釈放して郡守に用いた。そして魏が江陵を包囲した時、任約は兵を率いて救援に赴き、力戦した。
法和が任約を平定した後、巴陵で王僧辯に進み出て会い、言った。「貧道は既に侯景の一臂を断った。彼がさらに何ができようか。檀越は直ちに攻め取るべきである。」そして帰還を請い、湘東王に言った。「侯景は自然に平定されます。心配するに足りません。蜀の賊が来ようとしています。法和は巫峡を守ってこれを待つことを請います。」そこで諸軍を総率して赴き、自ら石を運んで長江を埋めた。三日で、水は分流し、鉄の鎖を横たえた。武陵王蕭紀は果たして蜀兵を遣わして渡河しようとしたが、峡口は地勢が狭く、進退もできなかった。王琳と法和が計画を練り、一戦でこれを殲滅した。
軍が白帝に駐屯した時、人に言った。「諸葛孔明は名将と言えよう。私は彼を見たことがある。この城の傍らに、彼が埋めた弩の矢じりが一斛ほどある。」そこで標を立てて掘らせると、その言葉通りであった。またかつて襄陽城の北の大樹の下に行き、地面に二尺四方の範囲を描き、弟子に掘らせると、一匹の亀を得た。長さ一尺半であった。杖でそれを叩いて言った。「お前は出たいのに出られず、既に数百年になる。私に逢わなければ、どうして天日を見ることができたであろうか。」三帰 (仏・法・僧への帰依) を授けると、亀は草むらに入っていった。初め、八疊山には悪疾 (重い病気) の人が多かったが、法和が薬を採って治療すると、三服を超えずに皆癒え、直ちに弟子になることを求めた。山中の毒虫や猛獣に、法和はその禁戒を授けると、もはや噛みついたり刺したりしなくなった。泊まる江湖には必ず峰の側に標を結び、「此処は放生の地である」と言った。漁師は皆何も得られず、少しでも獲物があると、直ちに大風や雷が起こった。船人は恐れてそれを放すと、風雨は鎮まった。晩年は兵を率いていても、なお諸軍の漁労や捕獲を禁じた。密かにこれに違反する者がいると、夜中に必ず猛獣が来て噛もうとし、あるいは船の 纜 を失った。小さな弟子が戯れに蛇の頭を切り、法和のもとに来た。法和は言った。「お前はどうして蛇を殺したのか。」そこで指さして示すと、弟子は蛇の頭が袴の 襠 を噛んで離れないのを見た。法和は懺悔させ、蛇のために功徳を修させた。またある人が牛で刀を試し、一振りで首を断ち、法和のもとに来た。法和は言った。「一匹の首を断たれた牛が、お前に命を徴収するのが非常に急である。もし功徳を修さなければ、一月の内に報いが来る。」その人は信じなかったが、数日で果たして死んだ。法和はまた人のために宅地や墓所を選定し、禍を避け福を求めた。かつて人に言った。「 碓 に馬をつなぐな。」その人が郷里を通り過ぎた時、門の側に碓があり、その柱に馬をつないだ。門の中に入り、法和の戒めを思い出し、走り出て解こうとしたが、馬は既に死んでいた。
梁の元帝は法和を 都督 ・郢州刺史とし、江乗県公に封じた。法和は臣と称さず、その上奏文には朱印で名を上り、自ら 司徒 と称した。梁の元帝はその僕射の王褒に言った。「私はかつて陸を三公に用いる考えはなかったのに、自ら称するのはどういうことか。」王褒は言った。「彼は既に道術を以て自ら任じています。おそらくは先んじて知っているのでしょう。」梁の元帝は法和の功業が次第に重いため、遂にその上に 司徒 を加え、 都督 ・刺史は元の通りとした。部曲数千人は、通して弟子と呼び、ただ道術を以て教化し、法獄を以て人に加えることはしなかった。また市の店舗の内には、市丞や牧佐の法を立てず、誰も管理せず、ただ空の檻 (箱) に鍵をかけて道の間に置き、上に一つの穴を開けて銭を受け取った。商人や店主は貨物の多少に従い、その価格の限度を計算して、自ら箱の中に委ねた。管理する役所は、夕方になって初めて開けて取り出し、その項目を条記して、庫に納めた。また法和は普段は口を開かないかのように言わなかったが、時折 論 じると、雄弁で敵なく、しかしなお蛮の訛りが帯びていた。攻戦の具を作るのが巧みであった。江夏において、大いに兵艦を集め、襄陽を襲って武関に入ろうとした。梁の元帝がこれを止めさせると、法和は言った。「法和は仏を求める者である。尚お釈梵天王の坐する処さえ望まない。どうして王位を図ろうか。ただ空王仏の御前において主上と 香火 の因縁があり、主人に応ずる報いが来るのを見たので、援けを求めたのである。今既に疑われたのは、これは業が定まって改められないからである。」そこで供物の食事を設け、大槌薄餅 (大きな槌で打った薄い餅) を備えた。そして魏が挙兵すると、法和は郢州から漢口に入り、江陵に赴こうとした。梁の元帝は人を遣わして迎えさせて言った。「こちらは自ら賊を破ることができる。ただ郢州を鎮守せよ。動く必要はない。」法和はそこで州に戻り、城門を白く塗り、粗末な白布の衫 (上着) と布袴、邪巾 (斜めにかぶった頭巾) を着け、大繩で腰を縛り、葦の席に坐り、一日中してから脱いだ。そして梁の元帝が敗れて滅んだと聞くと、再び前の凶服 (喪服) を取って着け、泣いて弔問を受けた。梁人が魏に入ると、果たして槌餅 (槌で打った餅) を見た。法和は初め百里洲に寿王寺を造り、仏殿を架けた後、さらに梁柱を切り詰めて言った。「後四十余年ほどして仏法は雷電に遭うであろう。この寺は幽僻であるから、難を免れることができる。」そして魏が荊州を平定した時、宮室は焼け尽きたが、総管が寿王寺の仏殿の材木を取りに行こうとしたが、その材が短いのを嫌って止めた。後に周 (北周) が仏法を滅ぼした時、この寺は陳の境内に隔てられていたので、難に及ばなかった。
天保六年の春、清河王高岳が軍を進めて江に臨むと、法和は州を挙げて 北齊 に入った。 文宣 帝は法和を大 都督 十州諸軍事・太尉公・西南道大行臺とし、大 都督 ・五州諸軍事・荊州刺史・安湘郡公の宋莅を郢州刺史とし、官爵はもとのままとした。宋莅の弟の宋簉を 散騎常侍 ・儀同三司・湘州刺史・義興縣公とした。梁の将軍侯瑱が江夏に迫って来たので、齊軍は城を棄てて退却し、法和は宋莅兄弟とともに朝廷に入った。文宣帝はその奇術を聞き、虚心に会見し、三公の鹵簿を整え、城南十二里の地に供帳を設けてこれを待った。法和は遠く 鄴 城を見ると、馬から下りて禹歩を行った。辛術が言うには、「公は既に万里を越えて誠意を帰せしめ、主上は虚心に待遇せんとしている。何ゆえにこの術を行うのか」と。法和は手に香炉を持ち、路車に従って歩き、宿舎に至った。翌日引見され、通幰油絡網車を与えられ、伏身の者百人を付された。宮闕に詣でて名を通すに、官爵を称せず、臣とも称せず、ただ「荊山居士」と云うのみであった。文宣帝は昭陽殿で法和とその徒属を宴し、法和に銭百万・物千段・甲第一区・田百頃・奴婢二百人を賜い、生計資財の什物もこれに相応し、宋莅には千段を賜い、その他の儀同・刺史以下にはそれぞれ差等があった。法和が得た奴婢は、全てこれを免じて言うには、「それぞれ縁に随って去れ」と。銭帛は散施して、一日にして尽きた。官より賜わった宅を以て仏寺を営み、自らは一房に居し、凡人と異なる所がなかった。三年の間に再び太尉となったが、世間ではなお居士と呼んだ。病なくして弟子に死期を告げ、その時至り、香を焚き仏を礼し、繩床に坐して終わった。浴し終えて将に斂めんとするに、屍は小さく縮んで三尺ばかりであった。文宣帝は棺を開かせてこれを見ると、空の棺のみであった。法和はその居室の壁に書き、塗り固めたが、剥落した時、文があり、「十年天子は尚し可なり、百日天子は急なること火の如し、周年天子は代わりに坐す」と。また曰く、「一母三天を生み、両天五年を共にす」と。説く者は婁太后が三天子を生み、孝昭帝が即位してより、武成帝が後主に位を伝えるまで、合わせて五年であるという。
法和が荊郢に在った時、少姬あり、年は二十余りばかり、自ら越姥と称し、身に法服を披き、嫁がず、常に法和に随って東西した。あるいはこれと私通すること十余年あった。今は賜わって棄てられ、別に他の淫に更えた。有司が考験したところ、並びに事実であった。越姥はこれにより改めて適し、数人の子を生んだ。
王琳
王琳、字は子珩、會稽山陰の人である。父は王顯嗣、梁の湘東王国常侍。王琳は元来兵家の出で、元帝が藩国に居た時、王琳の姉妹は並びに入って後庭に見幸され、王琳はこれにより弱冠に至らずして左右に在ることができた。少より武を好み、遂に将帥となった。
太清二年、侯景が江を渡ると、王琳を遣わして米一万石を献上させた。未だ至らぬうちに都城が陥落したので、中流で米を沈め、軽舸で荊州に還った。稍々遷って岳陽内史となり、軍功により建寧縣侯に封ぜられた。侯景が将軍宋子仙を遣わして郢州を占拠すると、王琳はこれを攻め落とし、子仙を生け捕った。また王僧辯に随って侯景を破った。後に湘州刺史に拝された。
王琳は果敢で勁く人に絶し、また能く身を傾けて士に下り、得た賞賜の物を家に入れなかった。麾下の者一万人、多くは江淮の群盗であった。侯景を平定した功勲は、杜龕とともに第一と為り、寵を恃んで建業に暴を恣にした。王僧辯はこれを禁じることができず、乱を為さんことを懼れ、誅殺を請うた。王琳もまた禍を疑い、長史陸納に部曲を率いて先に湘州へ赴かせ、自身は直ちに江陵へ上った。将に行くに当たり、陸納らに言うには、「我もし返らざれば、汝らはどうするか」と。皆曰く、「死を請うて報いん」と。泣いて別れた。至ると、帝はこれを下吏とし、廷尉卿黄羅漢・太府卿張載をして王琳の軍を宣諭させた。陸納ら及び軍人は並びに使者に対し哭し、命を受けることを肯ぜず、乃ち黄羅漢に報い、張載を殺した。張載は性深刻で、帝に信ぜられていたが、荊州ではこれを仇の如く憎んだので、納らは人の欲に因り、腸を抽いて馬の脚に繋ぎ、これを繞らせて走らせ、腸尽きて気絶し、また臠割して五刑を備え斬った。梁元帝は王僧辯を遣わして陸納を討たせ、納らは敗走して長沙に走った。この時湘州は未だ平定せず、武陵王の兵もまた甚だ盛んであり、江陵の公私恐懼し、人に異図あり。陸納は上啓して王琳の罪を申し立て、本位に復し、永く奴婢たらんことを請うた。梁元帝は乃ち王琳を鎖して長沙に送った。時に陸納の兵が出で方に戦わんとし、王琳が至るに会い、王僧辯は楼車に登ってこれを示した。陸納らは戈を投げて俱に拝し、挙軍皆哭して曰く、「王郎の入城を乞う、即ち出でん」と。琳を放ち入れると、納らは乃ち降伏し、湘州は平定した。仍って本位に復し、王琳を使わして蕭紀を拒がせた。蕭紀が平定されると、衡州刺史を授かった。
梁元帝は性多く忌み、王琳の所部が甚だ衆く、また衆心を得ていることを以て、故にこれを嶺外に出し、また 都督 ・広州刺史を受けた。その友人の主書李膺は、帝に任用遇された者で、王琳はこれに告げて曰く、「琳は抜擢を蒙り、常に命を畢くして国恩に報いんと欲す。今天下未だ平らかならず、琳を嶺外に遷す。万一の不虞あらば、安んぞ琳の力を得んや。官 (帝) は正に琳を疑うのみ。琳の分望は限りあり、官と争って帝たらんことを得んや。何ぞ琳を以て雍州刺史と為し、武寧を鎮守せしめ、琳自ら兵を放ち田を作り、国の為に禦捍せしめざる。若し警急あれば、動静相知る。遠く嶺南に棄てられ、相去ること万里、一日変有らば、将に如何せんとするに若かざるは。琳は長く荊南に坐するを願うに非ず、正に国計かくの如きのみ」と。李膺はその言を然りとし、敢えて啓上せず、故に遂にその衆を率いて嶺南を鎮守した。
梁元帝が魏に囲まれ逼迫されると、乃ち王琳を徴して赴援せしめ、湘州刺史を除した。王琳の師は長沙に次ぐ。魏が江陵を平定し、既に梁王蕭察を立てたことを知ると、乃ち梁元帝のために挙哀し、三軍縞素とした。別将侯平を遣わして舟師を率い梁を攻撃させた。王琳は兵を長沙に屯し、諸方に檄を伝え、進趨の計を為した。時に長沙藩王蕭韶及び上流の諸将は王琳を推して盟主と為した。侯平は江を渡ることはできなかったが、頻りに梁軍を破り、また王琳の兵威が接続しないことを以て、翻って更に指麾を受けず。王琳は将を遣わしてこれを討たせたが、克たず、また師老いて兵疲れ進むことができなかった。乃ち使者を遣わして表を奉じて齊に詣で、並びに馴象を献じ、また魏に 款 を献じて妻子を求め、また梁に対しても臣と称した。
陳霸先が既に王僧辯を殺し、敬帝を推立すると、侍中 司空 として徴した。王琳は命に従わず、乃ち大いに楼艦を営み、将に義挙を図らんとした。王琳の将帥は各々一艦に乗り、毎に行くに、戦艦は千数を以てし、「野猪」を名とした。陳武帝は将軍侯安都・周文育等を遣わして王琳を誅せしめ、仍って梁の禅を受け継いだ。侯安都は嘆いて曰く、「我れ其れ敗るるか、師名無し」と。沌口に逆戦し、王琳は平肩輿に乗り、鉞を執ってこれを麾し、侯安都・周文育を生け捕り、その他漏れる所無し。ただ周鉄虎一人が恩に背いたことを以て、これを斬った。侯安都・周文育を鎖し王琳の坐する艦中に置き、一閹豎をして監守せしめた。王琳は乃ち湘州の軍府を移して郢城に就き、甲を帯びる者十万、白水浦に兵を練った。王琳は軍を巡って言うには、「以て勤王の師と為すべし、溫太真 (溫嶠) 何人のことぞ」と。江南の渠帥熊曇朗・周迪は二心を懐き、王琳は李孝欽・樊猛を遣わし余孝頃とともにこれを討たせた。三将軍敗れ、並びに敵に囚われた。侯安都・周文育等は尽く逃れて建業に還った。
初め、魏が江陵を陥れた時、永嘉王蕭莊は年齢わずか七歳にして、人家に逃げ隠れていたが、後に王琳がこれを迎えて湘中に還し、護衛して東下させた。敬帝が立つと、蕭莊は斉に人質として出され、王琳は蕭莊を梁主として受け入れるよう請願した。文宣帝は兵を派遣して援護送還させ、兼中書令李騊駼を遣わして王琳を梁の丞相・ 都督 中外諸軍・録尚書事に冊拝した。舍人羊愨・遊詮之らが璽書を携えて江表に赴き宣撫し、王琳以下すべてに頒賜があった。王琳は兄の子叔宝に命じて配下の十州刺史の子弟を率いて鄴に赴かせ、蕭莊を奉じて郢州において梁の統治を継承させた。蕭莊は王琳に侍中・使持節・大将軍・ 中書監 を授け、安城郡公に改封し、その他はすべて斉朝の前命に従った。陳霸先が即位すると、王琳は蕭莊を補佐して濡須口に駐屯した。斉は揚州道行臺 慕容 儼に命じて衆を率いて江辺に臨ませ、その声援とした。陳は安州刺史呉明徹に命じて夜中に江を遡上させ、湓城を襲撃せんとした。王琳は巴陵 太守 任忠を派遣してこれを大破し、呉明徹はただ一身で逃れるのみであった。
王琳の軍はこれに乗じて東下した。陳は 司空 侯安都らを派遣してこれを防がせた。侯瑱らは王琳の軍勢が盛んなのを見て、軍を率いて蕪湖に入り避けた。時、西南風が突然起こり、王琳は天道を得たと思い、まさに直ちに揚州を取らんとした。侯瑱らはゆるやかに蕪湖を出て、その後を追った。戦いが始まろうとする時、西南風は翻って侯瑱のために用いられることとなった。王琳の兵が火矢を放って敵船に投げつけたが、皆かえって自らの船を焼いた。王琳の船艦は潰乱し、兵士は水に投じて死ぬこと十二三に及び、残りは皆船を棄てて岸に上がり、陳軍に殺されてことごとく尽きた。初め王琳は左長史袁泌・御史中丞劉仲威に命じて共に兵を統率し蕭莊を侍衛させたが、軍が敗れると、袁泌は遂に陳に降り、劉仲威は蕭莊を連れて歴陽に奔った。
王琳はまもなく蕭莊と共に鄴都に降った。孝昭帝は王琳を合肥に出させ、旧義の者を糾合し、さらに進取を図らせた。王琳は船艦を修繕し、分遣して募兵し、淮南の傖楚の者は皆力を尽くさんと願った。陳の合州刺史裴景暉は、王琳の兄王珉の婿であり、私的な配下を以て斉軍を導くことを請うた。孝昭帝は王琳に行臺左丞盧潜と共に兵を率いて応援するよう委ねたが、王琳は沈吟して決断しなかった。裴景暉は事が漏れることを恐れ、身一つで斉に帰順した。孝昭帝は王琳に璽書を賜い、寿陽を鎮守せしめ、その部下の将帥はすべて従うことを許し、王琳を驃騎大将軍・開府儀同三司・揚州刺史に任じ、会稽郡公に封じ、さらに兵仗を増やし、鐃吹をも給した。王琳は水陸戒厳し、隙を窺って動かんとした。時に陳氏が斉と友好を結んだため、王琳はさらに後の図りを待つよう命じられた。王琳は寿陽において、行臺尚書盧潜と不和で、互いに非難し合い、召還されて鄴に帰ったが、武成帝は寛大に処して問わなかった。滄州刺史に任じられ、後に王琳は特進・侍中とされた。住居の屋根の棟が故なくして剥がれ破れ、赤い蛆が数升出て、地に落ちて血と化し、蠕蠕として動いた。また門外の地から龍が出て、雲霧が立ちこめ、昼間も暗くなった。
時に陳の将軍呉明徹が侵攻してきた。帝は領軍将軍尉破胡らに出撃させて秦州を救援せしめ、王琳に共に経略するよう命じた。王琳は親しい者に言った、「今、太歳は東南にあり、歳星は斗牛の分野に居り、太白星は既に高く、皆客軍に利あり。我は喪を有すべし」。また尉破胡に言った、「呉の兵は甚だ鋭し。長策を以てこれを制すべく、軽々しく戦うことを慎むべし」。尉破胡は従わず、遂に戦い、軍は大敗し、王琳は単騎で包囲を突破し、辛うじて免れた。彭城に還ると、帝は直ちに寿陽に赴くことを命じ、併せて募兵を許した。さらに王琳を巴陵郡王に進封した。陳の将軍呉明徹は進軍してこれを包囲し、淝水を堰き止めて城に灌ぎ、皮景和らは淮西に駐屯したが、ついに救援に赴かなかった。呉明徹は昼夜攻撃し、城内は水気が次第に侵し、人々は皆腫れ物を患い、死と病とが相枕した。七月から十月に至り、城は陥落し捕らえられた。百姓は泣きながらこれに従った。呉明徹は彼が変を起こすことを恐れ、城の東北二十里でこれを殺した。時に年四十八、哭く者の声は雷の如し。一人の老人が酒と干し肉を持って来て祭り、哀悼の情を尽くし、その血を収めて懐に入れ去った。首は建康に伝えられ、市に懸けられた。
王琳の旧吏である梁の驃騎府倉曹参軍朱瑒が、陳の尚書僕射徐陵に書を致し、王琳の首級を求めて言うには、
窃かに考えるに、朝廷と市井は変遷し、骨梗の風を伝え、歴運は推移し、忠貞の跡を表す。故に典午 (晋) 将滅の時、徐広は晋家の遺老たり。当塗 (魏) 已に謝すれども、馬孚は魏室の忠臣と称せらる。これを用いて前書に美を播き、後世に名を垂る。梁の故建寧公王琳は、洛濱の余冑、沂州の旧族にして、代邸に功を立て、中朝に績を効し、離乱の辰に当たり、方伯の任を総ぶ。爾乃ち軽く躬を殉し主に、身を許して国に、実に往彦を追跡し、信に前修に踵武す。而るに天は梁の徳を厭い、上は匡継を思うも、徒に包胥の念を蘊み、終に萇弘の眚に遘う。王業光啓に及び、鼎祚帰する所有り、ここに於いて遠く山東に跡を寄せ、河北に命を寄す。軽き旅臣の歎有りと雖も、猶客卿の礼を懐い、この知己に感ずれば、この捐躯を忘る。至らしむるに身は九泉に没し、頭は万里を行く。誠に復た馬革に裹まれて死し、その生平の志を遂ぐるも、原野に骸を暴き、彼の人臣の節に会う。然れども身首異処するは、足るに悲しむべき者有り。封樹卜する無きは、良く愴然たらしむ。朱瑒は早く末席に簉し、薛君の吐握に降り、魏公の知遇に荷う。ここを用いて巾を霑し袂に雨し、痛む可き識りの顔。腸を回し首を疾し、切なる猶生の面。伏して惟うに聖恩博厚にして、明詔爰に発し、王経の哭を赦し、田横の葬を許す。朱瑒、芻賤と雖も、窃かに亦心有り。王琳、寿陽に蒞むこと経り、頗る遺愛を存す。曾て江右に遊び、余徳無きに非ず。東閤の吏に比肩し、西園の賓に踵を継ぐ。願わくは彼の境に帰し、還って窀穸を修めん。庶幾くば孤墳既に築かれ、或いは土を銜ぶ燕の飛ぶ有らん。豊碑式に樹てられ、時に涙を堕す人を留めん。近き故旧の王綰ら已に論牒有り、仰ぎ蒙り制議せらるるも、遂に陳ぶる所に従わず。昔、廉公逝くを告ぐれば、即ち淝川に塋域を建つ。孫叔云亡すれども、仍って芍陂に楸槚を植う。此れに由りて言えば、抑も其の例有り。寿春城下に、唯だ報葛の人を伝え、滄洲島上に、独り悲田の客有らしむるなからんことを。昧死して陳祈し、伏して刑憲を待つ。
徐陵はその志節を称えた。また呉明徹もたびたび王琳が首を求める夢を見、共に陳主に啓上してこれを許された。そこで開府儀同主簿劉韶慧らにその首を持たせて淮南に還し、仮に八公山の側に葬った。旧義の者が会葬した者は数千人に及んだ。朱瑒らは間道を北に帰り、別に迎接を議した。まもなく揚州の茅知勝ら五人が密かに葬送の柩を鄴に届けた。十五州諸軍事・揚州刺史・侍中・特進・開府・録尚書事を追贈され、諡して忠武王と曰い、葬送には轀輬車を給された。
王琳は体貌閑雅で、立つと髪が地に委ね、喜怒は色に形せず。学業は無かったが、強記で内に聡敏であり、軍府の佐吏数千人、皆その姓名を識った。刑罰を濫り用いず、財を軽んじて士を愛し、将卒の心を得た。若くして将帥を任じ、たびたび喪乱を経て、雅に忠義の節有り。本図は遂げられなかったが、鄴の人もこれを以て重んじ、待遇甚だ厚かった。敗れて陳軍に捕らえられた時、呉明徹は彼を全うせんとしたが、その下の将領の多くは王琳の旧吏であり、争って来て請願し、共に物資を給したため、呉明徹はこれによって彼を忌み、故に難に及んだ。当時、田夫野老、知る者と知らざる者と、彼のために歔欷流泣せざるは無かった。その誠信が物を感ずることを観れば、李将軍の恂恂として善く誘うも、殆ど以て加うる無きが如し。
王琳に十七人の子がいた。長子の王敬は、斉において王爵を襲い、武平末に通直常侍となった。第九子の王衍は、隋の開皇中に開府儀同三司となり、大業初年に渝州刺史の任で卒した。
注