北史

巻一百 序伝第八十八

李氏序伝

李氏の先祖は、帝顓頊高陽氏より出づ。唐堯の時に当たり、高陽氏に才子ありて庭堅と曰い、堯の大理となり、官を以て族を命ぜられ、理氏と為る。夏・殷の季を歴たり。其の後、理征は字は徳霊、翼隷中呉伯となり、直道を以て容れられず、紂に罪を得たり。其の妻契和氏、子の利貞を携えて伊侯の墟に逃げ隠れ、木子を食いて全きを得、遂に理を改めて李氏と為す。周の時、裔孫に日乾と曰い、益寿氏の女嬰敷に娶る。子の耳を生む、字は伯陽、柱下史と為る。

子孫は諸国に散居し、或いは趙に在り、或いは秦に在り。魏に在る者は段干大夫と為り、段干木は其の後なり。別孫の悝は魏文侯の為に富国の術を興す。趙に在る者は曇と曰い、功を以て柏人に封ぜられ、武安君牧は其の後なり。秦に在る者は名は興族、将軍と為る。子の伯祐を生む、北狄に功を建て、南鄭公に封ぜらる。伯祐は二子を生む、平燕・内徳。子の信は秦の将と為り、燕の太子丹を虜ふ。信の孫元曠、漢に仕えて侍中と為る。元曠の弟仲翔、位は太尉。仲翔は叛羌を素昌に討つ、一名は狄道。仲翔は陣に臨みて命を殞し、狄道川に葬られ、因りて家す。《史記李将軍伝》に云う所の其の先自ら槐裏より成紀に徙り居すは、実に此より始まるなり。仲翔の曾孫広、漢に仕え、文・景・武の三帝を歴たり、位は前将軍、沙漠に功を立つ。広の子は当戸・椒・敢。当戸の子陵、匈奴に戦歿す。椒。敢は侍中・郎中令・関内侯を歴たり。子の禹を生む、位は侍中に至る。並びに事は《史》《漢》に具はり。禹は承公を生む。承公は蜀郡太守の先を生む。先は長宗を生む。長宗は博士の況を生む。況は孝廉の本を生む。本は字は上明、巴郡太守の次公を生む。次公は臨淮太守の軌を生む。軌は字は逸文、積弩将軍の隆を生む。隆は字は業緒、雍を生む。雍は字は俊熙、魏に仕え、尚書郎・済北・東莞の二郡太守を歴たり。雍は柔を生む。柔は字は徳遠、晋に秀才に挙げられ、相国従事中郎・北地太守と為る。

柔は弇を生む、字は秀子、高亮にして果毅、智局有り。晋末大乱に、従兄の卓と相国晋王保の下に居る。卓の位は相国従事中郎、保は政刑修まらず、卓は宗族を率いて張寔に奔る、弇も亦之に随う。因りて張氏に仕え、 ぎょう 騎左監と為る。弇は本名は良、妻は姓は梁氏。張駿は弇に謂いて曰く、「卿の名は良、妻又姓は梁なり、子孫をして何を以て其の舅氏を目せしめんや?昔、耿弇は弱年にして功を立て、中興の業を啓く、吾方に卿に頼む、耿氏に同じ。」乃ち名を弇とせしむ。天水太守・衛将軍を歴たり、安西亭侯に封ぜらる。卒す、年五十六、武衛将軍を贈られ、建初中、追諡して景公と曰う。子の昶、字は仲堅、幼より名誉有り、年十八にして亡ぶ。建初中、追諡して簡公と曰う。

涼の武昭王暠、字は玄盛、小字は長生、簡公昶の子なり。遺腹にして誕れ、祖母梁氏、親しく撫育を加う。幼より学を好み、性沈敏にして寛和、器度美しく、経史に通渉し、尤も文義に長ず。及び長ずるに、頗る武芸を習い、孫・呉の兵法を誦す。常に呂光の太史令郭霡及び其の同母弟宋繇と同宿す。霡起ちて繇に謂いて曰く、「君当に位人臣極まり、李君必ず国土の分有らん。家に騧黄馬白額の駒を生む。此れ其の時なり。」と。及び呂光の末、段業自ら涼州牧を称し、昭王を以て効穀令と為す。而して敦煌護軍馮翊の郭謙・沙州中従事敦煌の索仙等、昭王の温毅にして恵政有るを以て、推して甯朔将軍・敦煌太守と為す。昭王初め之を難ず。会に宋繇業に仕え、告帰し、昭王に言いて曰く、「兄郭霡の言を忘れたりや?白額の駒今已に生まれり!」と。昭王乃ち之に従う。尋いで号を進めて冠軍将軍とし、業に籓を称す。業僭って涼王を称し、其の右衛将軍索嗣、昭王を業に構う、乃ち嗣を以て敦煌太守と為し、騎を率いて西す、昭王師を命じて之を撃ち走らしむ。是に於いて晋昌太守唐瑤、檄を六郡に移し、昭王を推して大 都督 ととく ・大将軍・涼公と為し、秦涼二州牧・護羌 校尉 こうい を領せしめ、竇融の故事に依る。昭王乃ち境内を赦し、元号を建てて庚子と曰い、祖考を追崇し、大いに霸府を開き、左右長史・司馬・従事中郎を置き、僚寀を備え置く。広く土宇を闢き、玉門・陽関に屯し、大いに田して穀を積み、東討の資と為す。靖恭堂を立てて以て朝政を議し、武事を閲す。図讃して古より聖帝・明王・忠臣・孝子・烈士・貞女を、親しく序頌を為し、以て鑑誡の義を明らかにす。当時の文武群公僚佐も、亦皆図讃して志す所なり。五年、元を改めて建初と為す。舎人黄始・梁興を遣わし間行して表を晋に帰す。是の歳、乃ち自ら敦煌より都を酒泉に徙す。又表未だ報ぜざるを以て、復た沙門法泉を遣わし間行して建鄴に表を通ず。時に百姓業を楽み、銘を酒泉に勒せんことを請う、乃ち儒林祭酒劉彦明をして文を為さしめ、石を刻して徳を頌す。又白狼・白兎・白雀・白雉・白鳩等園間に集まる有り。群下以て白祥、金精の誕むる所、皆時に応じて邕にして至る;又神光・甘露・連理・嘉禾の衆瑞有り、史官を請うて其の事を記さしむ。昭王之に従う。上巳の日、曲水に宴し、群僚を命じて詩を賦せしめ、昭王親しく之が序を為す。是に於いて諸葛亮の訓誡を写して以て諸子を勖む。昭王緯世の量を以て、群雄に奉ぜられ、兵血刃無く、遂に霸業を啓き、乃ち敦煌の旧塞を修す。薨ず、諡して武昭王と曰い、廟号は高祖、陵号は建世、武昭王十子、譚・歆・譲・愔・恂・翻・ ・宏・眺・亮。世子譚早く卒す。

後主諱は歆、字は士業、武詔王第二子なり。武昭王薨ず、府僚奉じて 都督 ととく ・大将軍・涼公と為し、涼州牧・護羌 校尉 こうい を領し、境内を大赦し、元を改めて嘉興と為す。母尹氏を尊んで太后と為す。位に在ること四年、沮渠蒙遜に敗れられ、国亡ぶ。武昭王は魏の道武皇帝天興二年に立ち、後主は明元皇帝泰常五年にして亡ぶ、河右に拠ること凡そ二世、二十一年。世子重耳江左に奔り、遂に宋に仕う。後魏に帰し、位は恆農太守、即ち皇室七廟の始めなり。

後主の弟譲、字は士遜、雅量凝重、謀略に善く、位は甯朔将軍、西羌 校尉 こうい ・輔国将軍・晋の敦煌太守・新郷侯を領し、驃騎大将軍を贈られ、諡して穆と曰う。譲の弟愔、字は士正、位は晋昌・敦煌太守。愔の弟恂、字は士如、幹略有り、位は酒泉・敦煌太守、家国の難に遇いて終わる。恂の弟翻、字は士挙、小字は武疆、英雄秀出、雄略有り、位は車騎将軍、祈連・酒泉・晋昌郡太守。翻の弟 、字は士寧、位は西海太守。 の弟宏、字は士賛、位は前将軍・中華令。宏の弟眺、字は士遠、位は左将軍。眺の弟亮、字は士融、位は右将軍。

李宝は字を懐素といい、小字を衍孫といい、晋昌太守李翻の子である。沈着で雅量があり、度量があり、 ぎょう 勇で人をよく慰撫し接遇した。家難に遭い、沮渠蒙遜に囚われて姑臧にいた。一年余りして、舅の唐契とともに北へ伊吾に奔り、蠕蠕に臣従した。その遺衆で帰附する者は、次第に二千に至り、李宝は身を尽くして礼遇し接遇し、大いにその心を得たので、衆は皆これを用い、常に雪辱を報いることを望んだ。時に太武帝が将を遣わして沮渠無諱を敦煌に討たせると、無諱は城を棄てて遁走した。李宝は伊吾より南帰して敦煌に至り、城府を修繕し、先業を回復しようと図り、弟の李懐達を遣わして表を奉じて帰順の誠を表した。太武帝はその忠誠を嘉し、李懐達を 散騎常侍 さんきじょうじ ・敦煌太守に任じた。別に使者を遣わして李宝に使持節・侍中・ 都督 ととく 西垂諸軍事・鎮西大将軍・開府儀同三司・領護西戎 校尉 こうい ・沙州牧・敦煌公を授け、引き続き敦煌を鎮守させ、四品以下は制を承って仮授することを聴許した。真君五年、朝見のため入朝し、そのまま京師に留まり、外都大官に任じられた。鎮南将軍・ へい 州刺史に転じ、後に召還されて内部大官に任じられた。文成帝の初め、司馬文思に代わって懐荒を鎮守し、鎮北将軍に改めて任じられた。太安五年に薨じ、五十三歳であった。詔して命服一襲を賜い、本官のまま贈官し、諡して宣といった。六子あり、李承・李茂・李輔・李佐・李公業・李沖である。李公業は早世した。

李承は字を伯業といい、若くして謀略があった。初め、李宝が帰順しようとした時、僚庶に異議を唱える者が多かった。李承は当時十三歳で、李宝に速やかに大計を定めるよう勧め、これによって遂に決断した。李宝は李承に表に随って入朝して賀を奉じさせた。太武帝は深く器量を異とし、礼遇は甚だ優れた。姑臧侯の爵を賜った。後に父の喪に遭い、喪に服して孝行で知られた。李承は先の封を継ぐべきであったが、自ら爵位を持っていたので、本封を弟の李茂に譲った。当時の論はこれを称賛した。李承は方正で裕福で、鑑識と裁断があり、当時に重んじられた。文成帝の末、散侯として出て龍驤将軍・ 滎陽 けいよう 太守となり、政治は厳明で、名声が大いに著しかった。延興五年に卒し、四十五歳であった。使持節・大将軍・雍州刺史を贈られ、諡して穆といった。

長子の李韶は字を元伯といい、学問に広く通じ器量があり、弟の李彦・李虔・李蕤とともに孝文帝から名を賜った。李韶は特に叔父の李沖に知遇を得て重んじられた。延興年間、中書学生に補せられ、姑臧侯の爵を襲い、儀曹令に任じられた。当時、車服や羽儀の制度を改定するにあたり、皆李韶にこれを司らせた。給事黄門侍郎に遷った。後に例に依り侯から伯に降格され、大鴻臚卿を兼ね、黄門侍郎は元の通りであった。孝文帝が遷都の計を創めようとした時、詔して侍臣を引見し、古事を以て諮問した。李韶は対えて言った、「洛陽は九鼎の旧地、七百の基業、地は土中にあり、実に朝貢に均しく、王が国を建つるは、これに尚ぶものはありません」。帝は善しと称した。太子右詹事に遷り、まもなく左右を廃止され、詹事・肆州大中正のままとなった。出て安東将軍・兗州刺史となった。帝が鄴より洛に還る時、李韶は道中で朝見した。帝は庶人元恂の事について言われた、「卿が東宮を出ていなければ、あるいはここまでには至らなかったであろうに」。宣武帝の初め、召されて侍中とされ、七兵尚書を領し、撫軍将軍・ へい 州刺史に任じられた。従弟の李伯尚が咸陽王元禧の逆に与同したため、官爵を免除された。久しくして、将作大匠を兼ね、朝儀律令の参定を勅せられた。呂苟児が秦州で反乱を起こすと、撫軍将軍・西道 都督 ととく に任じられ、秦州の事務を行い、右衛将軍元麗とともに衆を率いてこれを討った。事が平定すると、真除となり、璽書を以て労い勉め、先の爵位を回復させた。当時、隴右は軍旅を経たばかりで、百姓多く安んじて生業に就かず、李韶はよく慰撫し受け入れ、夷夏の心を大いに得た。

孝明帝の初め、相州刺史より入って殿中尚書となり、雍州の事務を行い、後に中軍大将軍・吏部尚書に任じられ、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、出て冀州刺史となった。清廉簡素で人を愛し、名声を大いに収め、政績の美は、当時に声価を冠した。明帝はこれを嘉し、そのまま 散騎常侍 さんきじょうじ を加え、車騎将軍に遷し、剣珮・貂蟬各一具、驊騮馬一匹、並びに衣服寝具を賜った。李韶は懸車の年齢に達したことを以て、表を上って位を譲ろうとしたが、優詔で許されなかった。定州刺史に転じ、常侍は元の通りであった。中山に赴く時、冀州の父老は皆西の境まで送り出し、集まって泣いた。二州の境は既に連接し、百姓は平素その徳を聞いていたので、州内は大いに安んじた。正光五年、官にて卒し、七十二歳であった。詔して帛七百匹を贈り、使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・車騎大将軍・ 司空 しくう 公・雍州刺史を贈られ、諡して文恭といった。葬られた後、冀州の兵千余人が荊州に戍守しており、帰還の途上李韶の墓の傍を通り、相率いで塚を培い、数日を経て還った。その遺愛はこのようなものであった。永安年間、秦・隴を平定した功により、安城県開国伯を追封され、邑四百戸を賜った。

長子の李璵は字を道璠といい、温雅で識量があった。北魏の永平二年、太尉府行参軍に初めて任じられ、累遷して尚書倉部郎中となった。後に汝南王元悦が司州牧となったが、元悦の性質は疎放で冗漫、情理の識別が常軌を逸しており、朝廷は李璵の器量と声望が共に優れ、政事に通じているとして、元悦の府の長史に抜擢し、州務を兼ねて知らせた。よく補佐の術を得たので、司州別駕に任じられた。光禄少卿に遷った。永安初め、本官のまま度支尚書を兼ね、安城県伯の封を襲い、また 司徒 しと 右長史に任じられ、引き続き尚書を兼ねた。鄴に遷都するに当たり、李璵を後に留めて府蔵の監掌をさせた。宮廟の材木を撤去運搬する際、明敏幹練と称された。征南将軍・金紫光禄大夫を加えられ、まもなく給事黄門侍郎を兼ね、書事を監典した。出て東徐州刺史となり、政治は清静で、人吏はこれを懐かしんだ。州を解任されて還ると、老病を理由に仕進を求めなかった。北斉が禅譲を受けると、李璵を追って前将軍を兼ねさせ、圜丘で行う礼の導従を務めさせた。また護軍を摂り、神武帝の神主に陪従して太廟に入った。李璵は心に両朝に名を記されることを望まず、宿徳耆旧として征されたが、事が過ぎれば即ち朝請を絶った。文宣帝もかつて李璵に華林の宴に預からせ、旧事を顧みて諮問し、甚だ重んじた。天保四年に卒し、七十二歳であった。

子の李詮は字を世良といい、任城郡守となり、涇州刺史を贈られた。

子の李伯卿は太師府参軍事となった。李伯卿の子の李師上は聡敏で好学、風雅に文辞の趣があった。外祖父の魏収に子がなく、ただ一女があり、李師上を生んだので、甚だ愛し重んじ、幼少の時から自ら文章を教え、世に有名であった。後に范陽の盧公順とともに符璽郎となり、文林館で待詔した。博陵の崔君洽と志を同じくして親しくし、晋陽に従駕し、僧寺に寓居した。朝士はこれを康寺三少と呼び、世論の推許はこのようなものであった。隋の煬帝が藩王であった時、王府記室に奏請し、揚州で没した。

李詮の弟の李謐は字を世安といい、高陽郡守・司農卿・安州刺史の位に至った。李謐の子の李千学は、北斉の武平年間に神武帝の女の浮陽長公主を尚し、駙馬都尉・南青州刺史に任じられた。

李謐の弟の李誦は字を世業といい、仮儀同三司・臨漳令の位に至った。李誦の弟の李世韞は太子舎人・殿中郎となった。

李璵の子孫は繁衍し、行く人はその宅を李東徐村と号した。

璵の弟の瑾は、字を道瑜という。容貌が美しく、才学があり、特に韶に寵愛された。清河王の懌は大いに彼を賞賛し知遇を与えた。懌が 司徒 しと となると、彼を参軍事に辟召した。著作郎に転じ、やがて通直散騎侍郎に昇進し、給事黄門侍郎の王遵業、尚書郎の盧観と共に儀注を編纂した。王と盧は即ち瑾の外兄である。臨淮王の彧は瑾ら三人の俊才が、共に皇帝の儀礼を掌ることを評して、舅甥の国と言えようと述べた。明帝が崩御すると、上諡の策文は瑾の制作によるものであった。荘帝の初め、河陰において害され、三十九歳であった。冠軍将軍、齊州刺史を追贈された。

子の産之は、字を孫僑という。容貌は短小で醜かったが、諸弟を撫育訓導し、愛友の情が篤く厚かった。その舅の盧道将は彼を称えて言った、「この児の風調は、李公の家孫たるに足る」と。位は北 州司馬に至った。子の仲膺は、字を公祀という。学問と品行で称せられ、位は太子洗馬に至った。周に仕え、東京少吏部上士となった。隋の開皇年間、荊州総管司馬の任上で卒した。

産之の弟の茜之は、字を曼容といい、清通にして文学を好んだ。斉の天保初年、太子洗馬を歴任し、陽翟郡守を兼ね、政治は清静で、吏民に称賛された。尚書考功郎中に遷ったが、文宣帝の昏乱放縦に遭い、害され、当時の人々は彼を冤罪とみなした。

茜之の弟の寿之は、梁州中従事の位にあり、性質は貞介で、人に背くことがなかった。

寿之の弟の礼之は、 司徒 しと 騎兵参軍の位にあった。妻の鄭氏と互いに尊重し合い、妻が先に亡くなり、遺言で決して独りでは死なないと言った。間もなく、礼之の脚に腫れ物ができ、夢に妻が言うには、小麦を煮て浸せば治ると、その言葉通りにしたが、かえって傷が悪化して卒した。

礼之の弟の行之は、字を義通といい、小字を師子という。簡素で静か、家業を守ることに長け、多くの先人の言行を知っていたが、文学をもって自ら名乗ることはなかった。喪に服するには礼を尽くし、兄弟と深く友愛した。斉に仕え、都水使者、斉郡太守を歴任し、青州長史を兼ねた。任城王も彼を敬い憚り、州人は李御史と呼んだ。周に仕え、冬官府司寺下大夫となった。隋の開皇初年、固始県男に封ぜられ、唐州下溠郡太守に任ぜられたが、病気を理由に赴任せず、卒した。行之の風采と素行は平穏で、士人や友人に称賛された。その甥の盧思道は大いに彼を愛好し、常に詩を贈って言った、「水衡(官名)は逸人と称し、潘岳と楊駿には世親あり、形骸は冠蓋(官人)に預かるも、心思は囂塵を出づ」と。当時の人々はこれを実録と認めた。病気になると、内外の者が多く医者を求めたが、行之は言った、「平常のまま終わりを待つは、士の道なり。貧は既に富に勝り、どうして死が生に如かざるを知らんや」と。一切を抑え止めた。臨終に際し、家人に薄葬を命じ、口述で墓誌を授けその志を記させた、「隴西の李行之、某年某月某所にて終わる。年は将に六紀に及び、官は四朝を歴たり、道は希夷に協い、事の可否を忘る。碩徳高風ありと雖も、先構を傾くす有り、而して身を立て己を行ふ、夙心に愧づること無し。気変ずれば則ち生じ、生化して死と曰ふ、蓋し生は物の用、死は人の終なり、其の間に何の憂喜か有らんや!乃ち銘して曰く、人生寄るが若く、死を視ること帰するが如し。茫茫たる大夜、何れ是れ何れ非ぞ」と。言い終えて絶え、二子あり、夷と道。

行之の弟の凝之は、字を惠堅という。光州中従事となったが、好むところではなく、無理をして就いた。任期が満ちると、直ちに冀州棗強の野舍に帰った。凝之は本草の薬性に明るく、常に服餌を以て自らを保ち、年は耄耋に近づいたが、志と気力は衰えなかった。古文を篤く好み、典礼に心を砕き、それをもって老いを終え、倦むことがなかった。隋の仁寿年間に卒した。

産之の兄弟は、皆器量と声望があった。邢子才が礼之の墓誌に書いた、「食に奇味有れば、相待ちて乃ち餐し、衣に常の主無く、之を易えて出づ」と。当時これを実録と認めた。諸々の嫁(兄弟の妻たち)は互いに親しく、皆姉妹のようであった。茜之が死ぬと、諸弟は当時の兇暴を避けず、喪を行い極めて哀悼した。趙郡の李栄が弔問に来て、嘆いて言った、「この家の風範は、海内に称せられるが、今始めて之を見る、真に吾が師なり」と。彼らと同類たらんと欲し、即日自ら名乗って労をねぎらった。

瑾の弟の贊は、字を道璋という。若くして風尚があり、 司徒 しと 参軍事に辟召された。卒し、漢陽郡太守を追贈された。子の脩年は、開府参軍となったが、早世した。

韶の弟の彦は、字を次仲といい、学業があった。孝文帝の初め、秀才に挙げられ、中書博士に任ぜられ、諫議大夫に転じた。後に考課により、元士に降格された。間もなく主客曹事を行い、郊廟下大夫に転任した。当時、朝儀典章は皆十分に整っておらず、彦は心を留めて考定し、称職と号された。孝文帝が南伐する際、彦は諫めて言った、「臣は以爲へらく、蕞爾たる江・閩は、未だ親しく鑾駕を労するに足らずと」と。頻りに上表したが採用されなかったが、至誠の故をもって賞賛された。六軍が淮南に駐屯すると、広陵王羽の長史に徴され、恢武将軍、西翼副将を加えられた。軍が帰還すると、冀州趙郡王幹の長史に任ぜられた。青州広陵王羽の長史に転じ、斉郡太守を兼ねた。龍驤将軍、 司徒 しと 右長史に徴され、左長史、秦州大中正に転じた。揚州事を行い、間もなく河南尹に拝せられて徴されたが、汝陰に至って帰還し、再び徐州事を行うよう命ぜられた。間もなく平北将軍、平州刺史に拝せられて徴され、平東将軍、徐州刺史に遷った。延昌二年夏、大雨が続き、川や溝が皆溢れた。彦は水陸の形勢を観察し、地形に従って疏通させ、水害による被害を免れた。朝廷はこれを嘉し、頻りに詔を下して労い励ました。内に入って河南尹となり、金紫光禄大夫、光禄勲に遷り、度支尚書に転じた。外に出て撫軍将軍、秦州刺史となった。当時、破六韓抜陵らが北鎮で反乱を起こし、二夏、豳、涼の地で蜂起が相次いだが、彦の刑政は甚だ厳しかった。正光五年六月、城民の薛珍、劉慶、杜超らが四方の離反に乗じて、州の門に突入し彦を害し、その同党の莫折大提を帥に推戴した。永安年間、侍中、驃騎大将軍、 司徒 しと 公、雍州刺史を追贈され、諡して孝貞といった。

子の燮は、字を德諧といい、若くして風望があり、位は 司徒 しと 主簿に至った。卒し、太常少卿を追贈された。子の士萬は、雅望があり、位は高都太守に至った。

燮の弟の爽は、字を德明という。弟の充は、字を德廣という。弱冠にして太学博士となった。大将軍蕭寶夤が西征する時、德廣は行台郎となり、兵を募って征し、戦いに勝利すると、自ら仇敵を手刃し、その肝肺を喰らった。寶夤に異心あるを察し、身を挺して朝廷に帰った。朝廷は爵位を加えようとしたが、辞して受けなかった。寶夤は遂に万俟醜奴と共に反乱を起こし、大行台爾朱天光がこれを討伐するに当たり、德廣を從事中郎に請うた。天光はその計を用い、遂に秦・隴を平定した。功により中散大夫に任ぜられた。父が非命に斃れたことを痛み、終生酒肉を口にしなかった。妹婿の盧元明は彼を嗟嘆し尊重した。

子の士英は、文才があり、王遵業が娘を娶らせた。

次は僧伽、修整篤業にして、辟命に応じなかった。当時、鄭子默が世に有名であったが、僧伽は言った、「行いは道に適わず、文は其の質に勝る、郭林宗の所謂る牆高くして基下く、得ると雖も必ず喪ふ、此の徒なり」と。果たしてその言の通りとなった。尚書の袁叔德が僧伽を訪ねる時は、先ず僕従を減らし、然る後に門に入り、言った、「此の賢を見るに、吾をして軒冕に対し羞ぢしむ」と。僧伽が卒すると、叔德は懐旧の詩を作り、「平生俗累寡く、終身世言無し」と詠んだ。彼がこのように重んぜられたのである。僧伽の弟の法藏は、内に清介で、位は員外郎に至った。

德廣の弟の德顯は、散騎侍郎の位にあり、東秦州刺史を追贈された。

李徳顕の弟の李徳明は、重厚で器量があり、高陽太守の位にあり、光祿少卿・光州刺史を追贈された。

李彦の弟の李虔は、字を叔恭という。太和の初め、中書学生となり、秘書中散に遷り、冀州驃騎府長史・太子中舎人に転じた。宣武帝の初め、太尉従事中郎に遷り、出て清河太守となった。京兆王元愉の反乱に際し、李虔は郡を棄てて朝廷に奔った。宣武帝は李虔が到着したと聞き、左右の者に言った、「李虔は冀州に長く在り、恩信が人々に著しい。今難を抜けて来たれば、衆情おのずから解けよう」と。そこで李虔を別将に任じ、軍前で慰労させた。事が平定されると、長楽太守に転じた。延昌の初め、冀州で大乗の賊が起こり、李虔に本官のまま別将とし、 都督 ととく の元遙とともに討って平定させた。後将軍・燕州刺史に遷った。還って光禄大夫となり、平西将軍を加えられ、大司農を兼ねた。出て 散騎常侍 さんきじょうじ ・安東将軍・兗州刺史となった。冀州平定の功を論じ、高平男の爵を賜った。京に還り、河南邑中正に除かれ、領軍将軍・金紫光禄大夫に遷った。孝荘帝の初め、特進・車騎大将軍・儀同三司・ 散騎常侍 さんきじょうじ を授けられ、さらに驃騎大将軍・開府儀同三司の号を進められた。永安三年に薨じ、七十四歳。侍中・驃騎大将軍・太尉公・ 都督 ととく 冀定瀛三州諸軍事・冀州刺史を追贈され、諡は宣景といった。

長子の李暎は、字を仁明といい、尚書左外兵郎の位にあった。荘帝の初め、河陰で害に遇い、四十歳。度支尚書・安東将軍・青州刺史を追贈された。子の李裒は章武郡守。李裒の弟の李匹は汲郡守。ともに幹局をもって知られた。

李暎の弟の李仁曜は、員外散騎侍郎・太尉録事参軍の位にあった。兄の李暎とともに河陰で害に遇い、三十八歳。 散騎常侍 さんきじょうじ ・左将軍・兗州刺史を追贈された。子の李捴は、字を道熾といい、学識と風格があり、風儀があった。東魏の武定年間、 司空 しくう 長流参軍。北斉の天保末、尚書郎となり、光州司馬の任で終わった。

李仁曜の弟の李皓は、字を仁昭といい、散騎侍郎の位にあった。また河陰で害に遇い、征虜将軍・涼州刺史を追贈された。子の李士元・李士操は、武定年間、ともに儀同開府参軍事であった。

李皓の弟の李暁については、事績は後に列伝される。

李虔の弟の李蕤は、字を延賓といい、歩兵 校尉 こうい ・東郡太守・司農少卿を歴任した。卒し、龍驤将軍・ 州刺史を追贈された。

子の李諺は、字を義興という。幹局があり、初め太学博士に起家し、殿中侍御史を領し、やがて東郡太守に遷った。荘帝の初め、済・広二州刺史となり、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。節閔帝の時、第三弟の通直 散騎常侍 さんきじょうじ 李義真・第七弟の太常少卿李義邕とともに爾朱仲遠に害された。李義邕は、荘帝が藩王であった頃、外戚として甚だ親昵された。即位すると、特に信任を受けた。爾朱栄の誅殺に、李義邕はその事に関与し、これによって禍に及んだのである。節閔帝の初め、李諺には侍中・驃騎将軍・吏部尚書・冀州刺史を、李義真には前将軍・斉州刺史を、李義邕には安東将軍・青州刺史をそれぞれ追贈した。李諺の次弟の李義順は 司空 しくう 属。第四弟の李義遠は国子博士。荘帝の初め、ともに河陰で害に遇い、 散騎常侍 さんきじょうじ ・征東将軍・雍州刺史を追贈された。

李承の弟の李茂は、字を仲宗という。文成帝の末、父の爵である鎮西将軍・敦煌公を襲いだ。孝文帝の初め、長安鎮都将に除かれ、西汾州刺史に転じ、将軍はもとのまま。入朝して光禄大夫となり、西兗州刺史を歴任し、例により侯に降格された。李茂は謙虚で慎重な性格で、弟の李沖の寵遇が盛んなことを恐れ、満ち溢れることを懼れ、病気を理由に退位を求めた。孝文帝はその志を奪わず、大夫の禄を食むことを許し、私邸に還った。中山に住み、これより里舎を優遊し、京師に入らなかった。七十一歳で卒し、諡は恭侯といった。

子の李静は、字を紹安といい、爵を襲い、東平原太守の位にあった。卒し、子の李遐は、字を智遠といい、爵を襲いだ。李遐には机案の才があり、河内太守の位にあった。孝荘帝に従って南に黄河を渡り、河陰で乱兵に害された。事が鎮まると、 散騎常侍 さんきじょうじ ・車騎大将軍・尚書右僕射・秦州刺史を追贈され、盧郷伯に封ぜられた。

李静の弟の李孚は、字を仲安という。恭しく慎み深く篤実で、汝南・中山二郡太守を歴任した。孝荘帝の初め、外戚として超えて撫軍将軍・金紫光禄大夫を授けられ、出て鎮東将軍・滄州刺史となり、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。

李孚の弟の李季安は、書史に粗く通じ、北海王元顥の撫軍長史の位にあった。元顥が関西 都督 ととく となると、再び長史に引き立てられ、軍政を委ねられた。軍中で卒し、征虜将軍・涼州刺史を追贈された。

李茂の弟の李輔は、字を叔直という。器量と声望があり、初め中書博士に任じられ、 司徒 しと 議曹掾に遷った。太和年間、孝文帝が咸陽王元禧にその娘を妃として納れさせ、鎮遠将軍・潁川太守に除き、長社戍を帯びさせた。李輔は綏撫懐柔して人々を招集し、辺境の和合を大いに得た。郡で卒し、征虜将軍・秦州刺史を追贈され、諡は襄武侯といった。

長子の李伯尚は、若くして重い名声があり、弱冠で秘書郎に除かれた。孝文帝は常に言った、「これは李氏の千里駒である」と。やがて通直散騎侍郎に遷り、詔により『太和起居注』を撰した。宣武帝の初め、給事黄門侍郎を兼ね、咸陽王元禧の謀反に連座して誅殺された。

李伯尚の弟の李仲尚は、容姿が甚だ美しく、若くして文学で知られた。二十歳で『前漢功臣序賛』および季父の 司空 しくう 李沖の誄を著した。高聡・邢巒はこれを見て歎じて言った、「後生畏るべし、虚言にあらず」と。初め京兆王元愉の府参軍に起家した。兄の事に連座し、死を賜った。

仲尚の弟季凱は、沈着聡明にして識見と度量を備えていた。兄の事件に連座し、母と弟と共に辺境に流されたが、久しくして赦免に遇い、遂に晋陽に寓居し、長年沈淪していた。後に へい 州安北府長史の官位を歴任した。孝明帝が崩御すると、爾朱栄は密かに義挙を図り、季凱はその謀議に与った。及びて荘帝が即位すると、征されて給事黄門侍郎に任じられ、博平県侯に封ぜられ、 散騎常侍 さんきじょうじ ・秘書監・中軍将軍を加えられた。後に爾朱世隆は爾朱栄の死を以て、季凱がそのことを知っていたとし、ここに害せられた。孝武帝の初め、侍中・驃騎将軍・吏部尚書・定州刺史を追贈された。

季凱の弟延慶は、陳留太守・金紫光禄大夫の位に至った。延慶の弟延度は、衛将軍・安德太守となった。

輔の弟佐は、字を季翼といい、文武の才幹を有していた。孝文帝の初め、 散騎常侍 さんきじょうじ を兼ねて高麗に使いし、その旨に適うことを以て、還って常山太守・真定県子に任じられた。懐州刺史に遷り、山陽侯に爵を進め、安南将軍・河内公を加えられ、相州刺史に転じ、在任する所々で称えられる治績を挙げた。後に安遠将軍に任じられ、勅命により征南将軍城陽王鸞・安南将軍盧陽烏らと共に赭陽を攻めたが、各軍は互いに節度を合わせなかった。諸軍は敵が強いことを理由に退却したが、佐は逆襲して戦い、賊に敗れ、連座して瀛州に流された。車駕が宛・鄧を征した時、再び佐を起用し、仮の平遠将軍・統軍とし、功により涇陽県子に封ぜられた。沔北が平定されると、佐を広陽王嘉の鎮南府長史とし、輔国将軍を加え、別に新野を鎮守させた。大軍が凱旋する際、孝文帝は佐の手を執って言った、「沔北は洛陽の南門である、卿は朕のために善く守るよう努めよ」。孝文帝が崩御すると、勅を遣わして佐に行荊州事を行わせた。佐は州にあって、威信大いに行き渡り、辺境の民は喜んで帰附し、前後して帰順する者は二万余家に及んだ。間もなく正式に刺史となった。宣武帝の初め、征されて都官尚書を兼ねた。卒去、七十一歳、秦州刺史を追贈され、諡して莊といった。

子の遵が襲封した。遵は豪放磊落にして父の風があり、 司空 しくう 司馬の任中に卒し、洛州刺史を追贈された。子の果が襲封し、 司空 しくう 諮議参軍の位に至ったが、西魏と通じた罪で誅殺された。

遵の弟柬は、字を休賢という。郡から功曹に辟召されたが、父の喪に服して職を去り、遂に終身酒肉を口にせず、郷里に隠居した。 司空 しくう ・任城王澄はその操行と志尚を賞賛し、参軍事に任じ、累進して済州刺史に至った。卒去し、殿中尚書・相州刺史を追贈された。

柬の弟挺は、字を神俊といい、小名を提といった。若くして才学で知られ、太常劉芳に賞賛された。中書侍郎・太常少卿・荊州刺史の官位を歴任した。時に梁の将軍曹敬宗が来寇し、長時包囲攻撃し、また水を引いて城を灌漑した。城は数板を残して沈まなかったが、神俊は兵士を慰撫し、力を合わせて固守した。詔により 都督 ととく 崔暹・別将王羆・裴衍らが救援に赴き、敬宗は退却した。時に寇賊の後、城外に露わな骸骨があったので、神俊はこれを収葬させた。征されて大司農に任じられた。孝明帝の末、鎮軍将軍に除され、行相州事となった。時に葛栄が南に迫り、神俊は憂懼し、故意に落馬して足を傷め、そのまま汲郡に留まったが、詔により追還された。荘帝が即位すると、神俊の人望を以て、 散騎常侍 さんきじょうじ ・殿中尚書に任じられ、荊州を固守した功績を追論され、千乗県侯に封ぜられ、 中書監 ちゅうしょかん ・吏部尚書に転じた。神俊は風流を尚ぶ志があり、人物を推挙引薦することに情熱を注いだ。爾朱栄が用いようとする人物があっても、神俊は従わなかった。怒りを買い、懼れて官職の解任を請い、右光禄大夫に除された。間もなく爾朱兆が京師に入り、乗輿が幽閉されるに及び、神俊は遂に民間に逃れた。孝武帝の初め、朝廷に帰り、 散騎常侍 さんきじょうじ ・驃騎大将軍・左光禄大夫・儀同三司に任じられた。孝静帝の初め、驃騎大将軍・華州刺史に除され、入朝して侍中となり、薨去した。六十四歳、尚書左僕射・ 司徒 しと 公、雍州刺史を追贈された。

神俊は風韻秀抜で、博学多聞であり、朝廷の旧典や人倫氏族に通暁していた。学問を篤く好み文雅を愛し、老いてもやめなかった。交遊する者は皆一時の名士であり、後進を引き立ててその名声を高め、四方の才子は皆彼を宗主として慕い付いた。 滎陽 けいよう の鄭伯獻は常に言った、「母方の叔父(神俊)は人物の宗主である」と。洛京にいた時、琅邪の王誦も神俊を称美し、故にその子の名を俊と付け、彼に似ることを願った。梁の武帝はその名声を大いに重んじ、常に言った、「彼がもし李神俊を遣わして来聘すれば、我は劉孝綽を行かせよう」と。そのように重んじられた。首に多くの 鼠乳 いぼ があった。性質は率直で、行いを細かく律せず、若年輩の者とも皆親しみ戯れた。鄴に北遷する途上、犬を見て、温子升が戯れて言った、「これは宋の鵲か?それとも韓の盧か?」神俊は言った、「丞相を追って東に走るか?帝女と共に南に往くか?」沙苑の敗戦の時、神俊は片目の馬に策を当てて走りながら言った、「丁掾(丁彦遠か)の力だ」。馬が倒れると、「丁掾が私を誤らせた」。そのように拘らないところがあった。重厚さに欠けたため、識者はこれを以て譏った。二人の妻に先立たれ、また鄭厳祖の妹を娶ろうとしたが、彼女は神俊の姉妹の子(従甥)であった。盧元明も婚姻しようとした。遂に紛争となり、二家は厳祖の門で争った。鄭氏は結局元明に嫁ぎ、神俊は惆悵してやまなかった。時に人は神俊を以て鳳凰の徳が衰えたものと見なした。

沖は字を思順といい、承の末弟である。本名は思沖といったが、孝文帝が改めた。幼くして孤となり、承に養育された。承は常に言った、「この児は器量が並々ならず、将来門戸の寄るところとなろう」と。沖は大らかな度量があり、兄に従って 滎陽 けいよう に至った。時に牧守の子弟は多く民衆を侵し乱し、軽々しく物を乞い奪ったが、沖と承の長子韶だけは清廉簡素で皎然とし、求める所がなく、時に人はこれを称えた。献文帝の末、中書学生となり、沖は交遊を善くしたが、妄りに戯れ雑ならず、同輩は彼を重んじた。孝文帝の初め、例により秘書中散に遷り、禁中の文書を掌った。勅命の文書を整えるのに敏慧であったため、次第に寵遇され、内秘書令、南部給事中に遷った。

旧来、三長の制はなく、ただ宗主が督護を主宰していたので、戸籍が隠蔽され、五十家、三十家で一戸をなしていた。沖は三正(三長)の制の由来が遠いことを以て、ここに三長の制を創案して上奏した。文明太后はこれを見て善しと称え、公卿を引見して議させたが、群臣の多くは同意しなかった。太后は言った、「三長を立てれば、租税の徴収に常の基準があり、賦課に常の分け前があり、隠蔽された戸は出てこられ、僥倖の徒は止められる。どうして不可なのか」。議論には異論もあったが、ただ変法を難事とするのみで、他に異議はなく、遂に三長の制を立て、公私ともに便利であった。

中書令に遷り、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、給事中は従前の如し。やがて南部尚書に転じ、順陽侯の爵を賜う。沖は文明太后に寵愛され、恩寵日増しに盛んとなり、賞賜は月に必ず数千万に及び、爵位は隴西公に進み、密かに珍寶や服飾を送ってその邸宅を満たし、外の者は知る由もなかった。沖の家は元来清貧であったが、この時より家は豊かとなった。しかも謙虚に自らを律し、蓄えては散じ、近くは姻族より、遠くは郷里に至るまで、分け与えぬ者はなかった。虚心に人と接し、孤苦の者を思いやり、衰微し沈淪した旧臣を引き上げて登用した者もまた多く、当時はこれを称えられた。初め、沖の兄の佐は河南太守の来崇と共に涼州より国(北魏)に入ったが、元来些細な不和があり、佐は因縁をつけて崇の罪をでっち上げ、獄中で餓死させた。後に崇の子の護が南部郎となったが、深く沖に陥れられることを憂慮し、常に退避を求めたが、沖は毎度慰め労った。護が後に贓罪に連座し、必ず助からぬと恐れた時、沖は護との間の確執の経緯を詳細に上奏し、許しを請うたので、ついに連座を免れた。沖の従甥の陰始孫は貧しく、沖の家に来ては、子や甥の如くに遇された。ある者が官を求めるに当たり、彼を通じて沖に馬を贈ったが、始孫は受け取ったまま告げなかった。後にある機会を借りて、沖にその馬を貸した。この馬の主は沖がその馬に乗っているのを見て官を得られず、後に自ら始末を申し出た。沖は聞いて大いに驚き、始孫を捕らえ、その状況を詳しく上奏し、始孫は死罪に処せられた。その要職にあって自らを厳しく律し、私的な好悪に囚われぬことは、皆この類いであった。

当時は旧例に従い、王公や重臣も皆その名で呼ばれたが、孝文帝は沖を中書と呼んで名を呼ばなかった。文明太后が崩御した後、孝文帝が喪に服している間も、引見して待遇は以前より厚かった。律令を議するに当たっては、文辞や趣旨を潤色し、量刑の軽重を刊定するにあたり、孝文帝が自ら筆を執るといえども、沖に諮問せぬことはなかった。沖は忠を尽くして上に奉じ、知る限りを尽くし、出仕も退仕も憂い勤めて、その様子は顔色に表れ、古参の臣や外戚の補佐役といえども、彼に及ぶ者はなく、皆その明断で慎重周密なことを敬服して心服した。かくして天下は一致して従った。遠方の耳目も、皆その非凡さを尊んだ。孝文帝もまた深く彼を頼り信じ、親しみ敬うことますます甚だしく、君臣の間の情義は二つなきものであった。百官を設置し、五等爵を開設するにあたり、沖に典式の参定を委ね、 滎陽 けいよう 侯に封じ、廷尉卿に任じ、侍中・吏部尚書・咸陽王師に遷った。東宮が建てられると、太子少傅に任じられた。孝文帝は初め『周礼』に依って夫人・嬪の列を置き、沖の娘を夫人とした。明堂を営むにあたっては、詔して沖に将作大匠を領させ、 司空 しくう ・長楽公の亮と共に興繕を監督させた。

車駕が南征するに当たり、沖に輔国大将軍を加え、衆を統率して翼従させた。都を発して洛陽に至るまで、長雨が晴れず、なお詔して六軍に発車を命じたが、孝文帝は戎服に鞭を執り、馬を御して出ようとした。群臣が馬首の前で額を地に付けた。孝文帝は言った、「今、大軍が進まんとしている。卿らはさらに何を言おうとするのか」。沖が進み出て請うて言った、「都を発して以来の長雨で、兵士と馬は疲弊しております。哀れんで喪に服し、旗を返すのが、道理に適うかと存じます」。孝文帝は言った、「既にここまで来たのに、どうして車駕を停められようか」。沖がまた進み出て言った、「今度の挙は、天下の望むところではありません。敢えて死を以てお請いします」。孝文帝は大いに怒って言った、「今まさに天下を経営せんとしているのに、卿ら儒生が、屡々大計を疑う。斧鉞の刑は常にある。卿はさらに言うな」。鞭を打って馬を進め出ようとした。大司馬の安定王休や兼左僕射の任城王澄らが並んで懇ろに涙ながらに諫めたので、孝文帝はようやく群臣に諭して言った、「今度の興動は小さからず、勤めて成さずんば、何をもって後世に示せようか。もし南の鑾駕(行幸)を為さずんば、即ちここに都を移すべきである。土中(中原)に光り輝く都を定めるのも、また時であろう。王公らはどう思うか。議して決したならば、踵を返すことは許されぬ。遷都を欲する者は左に、欲せぬ者は右に」。安定王休らは相率いて右に寄った。前南安王の楨が進み出て言った、「愚者は事の成るに暗く、智者は未だ行わざるに見る。至徳を見る者は俗に議せず、大功を成す者は衆に謀らず。非常の事は、非常の人と為す。神都を拡げて王業を延べ、中土に都して帝京を制すは、周公が前にこれを啓き、陛下が後にこれを行われる、固よりその宜しきところです。どうか上は聖躬を安んじ、下は人望を慰め、中原に光り輝く都を定め、かの南伐を止められますよう。これ臣らの願いであり、また蒼生の幸いこれに甚だしきはありません」。群臣は皆万歳を唱えた。孝文帝は初め南遷を謀った時、衆人の心が旧都を恋しがることを恐れ、大挙を示して、以て群情を脅かして定めようとしたのであり、外には南伐と称し、その実は遷都であった。旧人は故郷を懐かしみ、多くは望まず、内には南征を恐れて、敢えて言う者もなかった。かくして洛陽に都を定めた。

まもなく沖を鎮南将軍とし、侍中・少傅は従前の如し。営構の任を委ね、陽平郡侯に改封した。車駕が南征する際、沖に左僕射を兼ねさせ、洛陽に留守し、尚書左僕射に遷り、引き続き少傅を領し、清泉県侯に改封した。太子の恂が廃されると、沖は少傅を罷免された。孝文帝は清徽堂で公卿を引見して言った、「今、皇極を中天に移し、嵩・洛に新たに居を創めた。大構は未だ成らずといえども、およそ条紀は略々挙げた。しかし南には未だ服さぬ賊がおり、また凶悪な蛮族が近接している。朕の南を取る計は決した。行わんとする謀は必ず定まる。近頃、陰陽卜術の士は皆、朕が今征すれば必ず克つと勧める。これは既に家国の大事である。宜しく君臣各々所見を尽くすべきである」。沖は言った、「征戦の法は、先ず人事を尽くし、その後で卜筮に問うものです。卜筮がたとえ吉でも、なお人事が備わっていないことを恐れます。京師が遷ったばかりで、業も定まらず、これに征戦を加えるのは、未だ可ならずと存じます」。帝は言った、「僕射の言は、朕の意に合わぬというのではない。しかし咫尺の間に寇戎があり、自ら安んずる術がない。道理としてこのようにせねばならぬ。もし人事の備わるを待てば、また天時に合わなくなる。どうしたらよいのか。僕射の言の如くならば、遂に征伐の道理は無いことになる」。沖は機敏で巧みな思慮があり、北京(平城)の明堂・円丘・太廟、及び洛都の初めの基礎、郊祀の兆域の定め方、新たに建てる宮殿や寝殿は、皆沖に依った。志を勤め力を強め、孜々として倦まず、文簿を処理し、兼ねて工匠の制を営み、机の上には文書が積み上がり、彫刻刀が前にあっても、初めから労り厭うことはなかった。しかし顕貴の門族として、六姻に栄光と利益をもたらし、兄弟子侄は皆官爵があり、一家の歳禄は一万匹を超えた。年は四十歳ばかりで、鬢の毛はすでに斑白であったが、姿形は甚だ美しく、衰えた様子はなかった。

李彪が京に入った時は、孤微で頼るもの少なく、独り群れずに自立していたが、沖が士を好むのを見て、心を傾けて宗仰し付き従った。沖もまたその器量と学識を重んじ、礼を以て受け入れ、毎度孝文帝に言上して、公私共に互いに引き立て合った。彪が中尉・尚書となり、孝文帝に知遇されるようになると、もはや沖を頼る必要はないと考え、次第に軽んじ背き、公の場ではただ袖を整えて礼をするだけで、もはや宗仰敬慕の意はなかった。沖はこれをかなり恨みに思った。後に孝文帝が南征した時、沖は吏部尚書の任城王澄と共に、彪が傲慢で礼を欠くことを理由に、遂に彼を拘禁し、その罪状を上奏した。沖は自ら手ずから表文を作り、家人も知らなかったが、言葉は甚だ激切で、併せて自らを弾劾した。孝文帝はその表文を覧て、長く嗟歎した。しばらくして言った、「道固(李彪)は確かに狭量と言えようが、僕射もまた満ち足りている(=度量が狭い)」。沖はこの時激怒し、彪の前後の過ちや背きを数え上げて責め、目を瞋らせて大声で呼ばわり、机を投げ折り、御史を全て捕らえ、皆泥を塗り面を縛り、大声で罵り辱めた。沖は元来温和な性質であったが、一朝にして激しい怒りを発し、遂に病を発して狂乱し、言葉は乱れ錯綜し、なおも腕を扼んで叫び罵り、李彪は小人であると称した。医薬も治療できず、ある者は肝臓が傷つき裂けたのだと言った。十余日で卒去した。時に四十九歳であった。

孝文帝は初めて李沖の病状を聞き、右衛の宋弁に謂いて曰く、「僕射は我が枢衡を執り、朝務を総厘し、我に後顧の憂い無からしむるものなり。一朝に忽ち此の患ありとは、朕甚だ愴懷す」と。及び李沖の卒するを聞き、県瓠において哀を挙げ、声を発して悲泣し、自ら勝つ能わず。詔書を下し其の美を褒述して曰く、「国に賢なる者、朝に望む者と謂う可し」と。ここに 司空 しくう 公を贈り、東園秘器一具・衣一襲を給し、銭三十万・布五百匹・蠟二百斤を贈る。有司奏して諡して文穆と曰う。覆舟山に葬る。杜預の塚に近し。孝文帝の意なり。後に車駕鄴より洛に還るに、李沖の墓を経過し、左右以て聞こゆ。孝文帝臥疾して、墳を望み涕を掩うこと久し、太常を遣わして祭を致さしむ。及び留京の百官と相見え、皆李沖の亡没の故を叙し、言及して流涙す。其の相痛惜すること此の如し。

子の延寔は、字は禧、性質温良にして、少くして太子舎人となる。宣武帝の初め、父の爵清泉県侯を襲ぐ。荘帝即位し、母舅の尊を以て、超授して侍中・太保と為し、濮陽郡王に封ぜらる。延寔は太保が祖諱に犯すを以て、又王爵は庶姓の宜しくする所に非ざるを以て、表を抗して固く辞し、徙封して濮陽郡公と為し、改めて太傅を授かる。尋いで 司徒 しと 公に転じ、出でて使持節・侍中・太傅・録尚書事・東道大行台・ 都督 ととく ・青州刺史と為る。爾朱兆京に入り、乗輿幽縶せらる。延寔は外戚を以て州館において害せらる。孝武帝の初め、反葬して洛陽に葬り、使持節・侍中・太師・太尉公・録尚書事・ 都督 ととく ・雍州刺史を贈られ、諡して孝懿と曰う。

長子の彧は、字は子文、荘帝の姉豊亭公主に尚し、東平郡公に封ぜられ、位は侍中・左光禄大夫・ 中書監 ちゅうしょかん ・驃騎大将軍・開府儀同三司・広州刺史に至る。彧は性膏俠たり。爾朱栄の死するや、武毅の士は、皆彧の進むる所なり。孝静帝の初め、法に陥りて害せらる。尋いで詔して本爵を復す。子の道端襲ぐ。彧に七子あり、並びに彭城王勰の女豊亭公主の生む所、道・徳・仁・義・礼・智・信を以て名と為す。第四子の義雄は、識悟有り、学に勤め、手書を釈かず。斉に仕え、位は琅邪郡守に至る。義雄の弟礼成は、最も知名なり。

礼成は字を孝諧と為す。年七歳、姑の子蘭陵太守 滎陽 けいよう の鄭顥と共に魏武帝に従い関中に入る。顥の母は人に謂いて毎に曰く、「此の児平生、未だ嘗て回顧せず、重器と為るべし」と。及び長じ、沈深に行檢有り、妄りに賓客を通ぜず。魏に在りて、著作郎・太子洗馬・員外 散騎常侍 さんきじょうじ を歴任す。周の禅を受くると、平東将軍・ 散騎常侍 さんきじょうじ に拝せらる。時に貴公子は皆競って弓馬を習い、被服多く軍容を為す。礼成は騎射に善くすと雖も、従容として儒服し、素望を失わず。後に軍功を以て車騎大将軍・儀同三司に拝せられ、爵を脩陽侯に賜り、遷州刺史に拝せらる。時に朝廷徴発有り、礼成は蛮夷は擾すべからず、擾せば必ず乱を為すと度り、表を上りて固く諫む。武帝之に従う。斉を伐つ役、帝に従い晋陽を囲む。斉の将席毗羅精兵を以て帝に拒ぐ。礼成力戦して之を撃退す。開府を加えられ、進封して冠軍県公と為り、北徐州刺史・戸部中大夫を歴任す。

礼成の妻竇氏早く没す。隋の文帝に非常の表有るを知り、遂に帝の妹を聘して継室と為す。及び帝丞相と為ると、位上大将軍に進み、司武上大夫に遷り、心膂を以て委ねらる。及び禅を受け、陝州刺史に拝せられ、進封して絳郡公と為り、賞賜優洽なり。累遷して襄州総管・左衛大将軍と為る。時に突厥屡寇患を為し、縁辺の要害は多く重臣を委す。是に由りて寧州刺史に拝せらる。疾を以て京に征還せられ、家に終わる。子の世師は、位は度支侍郎に至る。

礼成の弟智源は、器重有り。斉に仕え、高都郡守の任に卒す。

智源の弟信則は、方雅廉慎なり。斉の武平中、位は南陽王大司馬属に至る。信則は形短く、中書侍郎頓丘の李若之を戯れて曰く、「弟府属と為る、名を以て体を定むと謂う可し」と。信則曰く、「名を以て体を定む、豈に劣弱に過ぎんや」と。尋いで尚書倉部郎中を除かる。周に入り、東京司門下大夫と為る。隋の開皇中、沔州刺史の任に卒す。

彧の弟彬は、字は子儒。其の父延寔既に別封せらる。彬は祖の爵清泉県侯を襲ぐ。位は中書侍郎に至り、左光禄大夫の任に卒す。驃騎大将軍・光禄勲・斉州刺史を贈られ、諡して献と曰う。子の桃杖襲ぐ。彬の弟彰は、位は通直散騎侍郎に至り、父に従い青州に在り、同時に害に遇う。左将軍・瀛州刺史を贈らる。

延寔の弟休纂は、小字を鍾羌と為し、頗る父風有り。位は終に太子舎人に至り、驃騎大将軍・ 尚書令 しょうしょれい 司徒 しと 公・雍州刺史を贈られ、楽涫県公に追封せられ、後進封して高陽郡公と為る。子の昂襲ぐ。

昂は、魏末に広平郡太守と為り、斉の天保中、光禄卿の任に卒す。

昂の子道隆は、才識有り、明らかに剖断す。斉に仕え、位は並省尚書左丞に至る。隋の開皇中、尚書比部侍郎と為る。

休纂の弟延孝は、位は尚書屯田郎中に至る。河陰において害に遇い、侍中・車騎大将軍・ 司空 しくう 公・定州刺史を贈られ、進封して臨潁県公と為る。

李韶の従弟仲遵は、器業有り。彭城王勰定州に在り、之を請いて定州開府参軍と為し、累遷して営州刺史に至る。時に四方の州鎮、逆叛相継ぎ、営州城内、咸に異心有り。仲遵単車にて州に赴く。及び至り、大使盧同と共に恩信を以て懐誘し、率ね皆安帖す。後明帝又詔して盧同を行台と為し、北出して慰労せしむ。同は人情信じ難きを疑い、兵を聚めて将に往かんとす。城人劉安定・就徳興等先に異志有り、己を図らんと欲すと謂い、仲遵を逐って之を害す。

李韶の従祖の抗は、涼州より江左に渡り、宋に仕え、晋寿・安陸・東莱三郡太守を歴任す。

抗の子思穆は、字は叔仁。度量有り、談論を善くし、草隸に工なり、当時に談ぜらる。太和十七年、家累を携えて漢中より魏に帰る。位は都水使者に至る。及び車駕南伐するに、本官を以て直閣将軍を兼ね、従って南陽を平げ、功を以て爵を楽平子に賜る。宣武帝践祚し、進爵して伯と為る。累遷して京兆内史と為り、郡に在ること八年、頗る政績有り。営州刺史の任に卒す。安東将軍・華州刺史を贈らる。子十四人有り。嫡子の斌襲ぎ、位は散騎侍郎に至り、早卒す。

斌の兄の獎は、字を道休といい、荘帝に親しくされ、超えて思穆衛将軍・ 中書監 ちゅうしょかん ・左光禄大夫を追贈され、諡を宣武といった。獎は外戚としての恩沢により、広平侯の爵位を賜った。中書侍郎・兼 散騎常侍 さんきじょうじ ・梁への聘問使主・黄門郎・ 司徒 しと 左長史を歴任し、瀛州の事務を代行した。北斉の天保の初め、兼侍中・冀瀛滄三州大使となり、風俗を視察し、帰還して魏尹に任じられた。死去すると、済州刺史・中書令を追贈された。子の瑰は、中書舎人・黄門郎の位に至った。

韶の族弟の琰之は、字を景珍、小字を墨蠡という。幼少より名を知られ、神童と号され、従父の沖が特に賞賛し異としていた。常に「我が宗を興す者は、この児であろうか」と言い、常に必要なものを資給し、己の子同様に愛した。弱冠で秀才に挙げられたが、応じなかった。かつて河内の北山に遊び、隠遁の志を抱いた。時に彭城王勰が行軍参軍に辟召し、苦しく敦促し、沖もまた使者を遣わして諭したので、久しくしてようやく応召した。まもなく中尉李彪の推挙により兼著作佐郎となり、国史を修撰した。次第に国子博士に昇進し、尚書儀曹郎中を領し、転じて中書侍郎・司農少卿・黄門郎となり、国史を修めた。国子祭酒に転じ、さらに秘書監に転じ、兼七兵尚書となり、太常師に昇った。

孝莊帝の初め、太尉元天穆が葛栄を北討するに当たり、琰之を兼御史中尉とし、北道軍司とした。帰還後、征東将軍を除され、引き続き太常を兼ね、出向して衛将軍・荊州刺史となり、兼尚書左僕射・三荊二郢大行台を兼ね、まもなく 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。琰之は儒素をもって自ら業としていたが、人に語る毎に「我が家は代々将種の家系であり、なお関西の気風がある」と言った。州に至ってのちは、大いに射猟を好み、威武を示した。爾朱兆が洛陽に入ると、南陽太守趙脩延は琰之が荘帝の外戚であることを理由に、琰之が梁国に奔ることを企てていると誣告し、州城を襲撃して、ついに囚われの身となった。脩延は自ら州の事務を行った。城内の者が脩延を斬り、琰之を推して再び州の任に就かせた。孝武帝の初め、兼侍中・車騎大将軍・左光禄大夫・儀同三司に徴された。永熙二年に薨じ、朝廷は悼惜し、侍中・驃騎大将軍・ 司徒 しと 公・雍州刺史を追贈し、諡を文簡といった。

琰之は幼少より機警で、談論を善くし、経史百家に通覧しないものはなく、朝廷の疑わしい事柄について多く諮問された。常に「崔(光)は博だが精でなく、劉(芳)は精だが博でない。我は既に精にして且つ博く、学は二子を兼ねる」と言った。これは崔光と劉芳を指す。論者はその博を認めたが、その精を認めず、当時の議論は皆これを宗とした。また自ら文章を誇り、従姨兄の常景は笑って認めなかった。休暇の際には常に門を閉じて読書し、人と交わらなかった。常に人に言うには、「私が読書を好むのは、死後の名声を求めるためではない。ただ異なる見聞こそが心の願いであり、それゆえに孜孜として探求し、やめることができないのだ。どうして名声のために、世の人を疾み労することがあろうか。これは天性であり、力ずくでするものではない」と。前後二度史職にあったが、編纂したものはなかった。安豊王延明は博聞多識で、疑義がある度に常に琰之の元に赴き弁析を求め、自ら及ばないと思った。

二人の子、綱と慧は、共に孝武帝に従って関中に入った。綱は宜州刺史、儀同三司の位に至った。

子の充節は、若くして慷慨として英略があった。隋の開皇年間、しばしば行軍総管として突厥を撃ち功績があり、上柱国・武陽郡公・朔州総管の位に至った。甚だ威名があり、虜に畏れられたが、後に謀反を企てているとの讒言があり、京師に召還された。上(文帝)が怒ると、充節は元来剛直であったため、憂憤して卒した。子に大亮がいる。

曉は字を仁略といい、太尉虔の子である。若くして簡素で、経史に広く渉猟し、早くから時誉があり、員外散騎侍郎として官途に就いた。爾朱栄が孝荘帝を立てた時、曉兄弟四人は、百官と共にこれを迎えようとした。その夜、曉の衣冠が鼠に噛まれ、行くことができずに難を免れた。上の三人の兄は皆害に遇った。曉は諸々の甥たちを連れ、微服で潜行し、東郡に避難した。成皋に至ると、 滎陽 けいよう 令の天水の閻信に疑われ、左右を退けさせて曉に言うには、「君の儀容を見るに、どうして普通の人であろうか。古人が互いに知ることは、必ずしも早くからではない。必ず急難があるならば、心を尽くして告げるべきだ。天下に北海の孫賓碩だけがいるわけではあるまい」と。曉はこれが長者の言葉であると認め、実情を詳しく告げた。信は厚く資給して難を免れさせた。永安の初め、軽車将軍・尚書左右主客郎を授かり、やがて征虜将軍・中散大夫に転じ、さらに前将軍・太中大夫を除された。

天平の初め、都が鄴に遷されると、曉は清河に寓居し、従母兄の崔甗の郷里の宅に寄寓した。甗が良田三十頃を与えると、曉はそこに室を築いて住んだ。当時、豪族の子弟は多く驕り勝手で、請託や暴乱が多く、州郡はこれを禁止できなかった。曉は子弟を訓戒し励まし、皆学行をもって称えられ、当時の論評はこれを賞賛した。曉は河陰での家禍の後、王道がまだ平らかでないことに遭い、再び官に就く志はなく、名籍に在るだけであった。都が遷った後、私門に退き、外兄の范陽の盧叔彪が仕官を勧めたが、前後数度にわたり、確固として従わなかった。武定の末、斉の文襄王(高澄)が政事を継ぐと、高く僚属を選び、曉及び前開府長史の房延祐を召し出して、共に外兵郎とした。後に平西将軍・太尉府諮議参軍事に転じ、頓丘太守を除された。天保年間、頻りに広武・東の二郡太守を歴任し、任地において恵まれた政績があり、官吏民に懐かれた。郡において卒し、五十九歳であった。本官の将軍・海州刺史を追贈された。三人の子、伯山・仲挙・季遠がいる。

超は字を仲挙といい、字をもって世に行われた。性質は方正で雅やかであり、善く制し、白く析き美しい鬚眉を有し、高簡にして宏達、風調は疏遠であった。広く経史に渉猟し、章句の業を守らず、吉凶の礼制に至っては、親族や姻戚は皆これに則を取った。弱冠にして斉に仕え、襄城王大司馬参軍事となった。時に尚書左僕射元文遥は、令長の徒が多く寒賤であることを以て、選挙を革め、高資を妙に尽くすことを奏請した。仲挙は范陽の盧昌衡ら八人と共に、徴用されることとなった。仲挙を以て司州修武令とした。仲挙は寛簡を以て臨み、吏民はこれを寛明と号した。時に昌衡は平恩令となり、百姓はこれを恩明と号した。故に時に盧・李の恩寛の政と称された。武平の初め、節を持ち、南定に使した。州人は皆蛮左であり、辺境の嶂に接帯していた。仲挙は朝旨を具に宣べ、辺服は清謐となり、朝廷は大いにこれを嘉し、還って晋州別駕を授かった。周師が晋州を囲んだ時、外に救援なく、行台左丞侯子欽は内に離貳を図り、仲挙と謀らんとしたが、その厳正を憚り、言わんとして止むこと数四に及んだ。仲挙はその情を揣み知り、乃ちこれに謂いて曰く、「城は累卵の危うきにあり、伏して公に頼る。今の言わんとすること、他事なきを想う。言わんとして還って中止するか」と。子欽曰く、「官軍に告急すれども、永く消息無し。勢の危急、旦夕に謀らずんばならず。意、夷戮を坐して受けず、有道に帰命せんと欲す。公に於いて如何」と。仲挙は正色して曰く、「僕射高氏の恩徳未だ深からず、公は皇家に没歯非答なり。臣子の義、固より常道有り。何ぞ今日に至りて、翻って此の言に及ぶや」と。子欽は泄れるを懼れ、夜に周軍に投じた。城は尋いで破れ、周将梁士彦は素より仲挙の名を聞き、引きて言い、時事に及んだ。仲挙曰く、「世に山東に居り、高氏の恩を受く。今、国維張らず、還って師衆を労す。臣道に死する能わず、豈に其の議を干すを敢えんや」と。士彦曰く、「百里・左車、前事無きにしも非ず。想うに亦これを得ん」と。見逼すること已まず、仲挙乃ち曰く、「今者、官軍遠来し、方に吊伐を申べんとす。当に先ず徳沢を以てし、遠く威懐を示し、至聖の情を明らかにし、招納の略を弘め、至る所の所に、帰誠する地有らしむべし。所謂王者の師、征して戦わざるなり」と。士彦は深く以て然りと為し、益々相知重んじた。初め、城敗の後、公私蕩然たり。軍人の簿帳、悉く多く亡毀し、戸口倉儲、憑据する所無し。事の大小無く、士彦は一に仲挙に委ね、推尋勾当し、絲発も遺れず、軍用に於いて甚だ助け有りき。

鄴城 ぎょうじょう 平らぎ、仍ち家を将いて例に随い関に入る。仲挙は親故流離するを以て、情住まんと願わず、妻の伯父京兆尹博陵の崔宣猷が留めて去るを許さず。固く辞し、乃ち鄴に還るを得た。尋いで詔有り、素望旧資を以て、州郡に勒して送らしめ、仲挙は厳命を懼れて至った。秋官賓部上士を補し、深く情願に乖き、乃ち急を取って言上し帰った。

隋の開皇中、秦王俊が洛州を鎮め、召して州主簿を補した。友人蜀王府記室范陽の盧士彦が仲挙に謂いて曰く、「丈人は往時征辟を経て、毎に推辞を致す。何ぞ徒労の任の為に、忽爾として徳を降すや」と。仲挙笑って曰く、「屈伸の事、子の知る所に非ず」と。尋いで敕を被り追って京に赴く。朝廷は仲挙が州裏に婆娑するを以て、責めて左降し隆州録事参軍とした。尋いで疾を以て帰り、琴書を以て自ら娯しみ、優遊賞逸し、人世を視ること蔑如の如し。会に朝廷士を挙ぐるに、著作郎王劭又挙げて以て詔に応ぜしむ。以前に推遷を致したことを以て責と為し、冀州清江令を除し、未だ幾ばくもせず、又疾を以て還る。後に資例を以て、帥 都督 ととく ・洛陽令を授かる。彭城の劉逸人が仲挙に謂いて曰く、「君の才地、遠近知る所なり。久しく病み家に在り、恐らくは時論を貽さん。具に武職と為り、差し自安せん」と。仲挙曰く、「吾が性本より疏惰、少より宦情無し。豈に垂老の年を以て、一階半級を求めんや。言う所の武職は、徐君の墓樹に掛くるのみ」と。竟に起たず。洛陽永康里の宅に終わる。時に年六十三、当世の名賢、傷み惜しまざる者無し。二子、大師・行師。

大師は字を君威といい、幼にして爽悟、神情警発し、標格厳峻、人並びにこれを敬憚した。身長七尺五寸、風儀甚だ偉なり。学を好み、窺わざる所無く、善く文を綴る。前代の故事を備え知り、諸れの掌を指すが若し、当世の人物を商較すれば、皆その精を得たり。弱冠、州将賀蘭寛が召して主簿を補した。寛は当時の位望、又大師と年事侔わず、初めて見るや、言未だ終わらざるに、便ち容を改めて敬を加え、曰く、「名下故に虚士無し。今者は以て相労するに非ず、自ら坐嘯托する所あらんことを望むのみ」と。毎に私室に於いて接遇するに、恒に忘年の歓を尽くした。俄かに資を以て左翊衛率を調補し、尋いで冀州司戸参軍を除す。煬帝の初め、州を改めて郡と為し、仍ち信都司戸書佐を除す。大業の暮年に及び、王塗弛紊し、官に居る者率多く侵漁し、皆潤屋を致す。大師独り清戒を守り、営求する所無く、家産益々窘迫を致す。郡丞鞠孝稜益々相嘆服し、曰く、「後に歳寒に於いて、此の言は公に於いて得たり」と。十年、渤海郡主簿に遷る。竇建德が山東を拠有するに及び、召されて尚書礼部侍郎と為る。武徳三年、使いを遣わされて京師に至り、因りて同安公主を送り、遂に和好を求む。使い畢り、還って絳州に至るに、建德は約に違い、又世充を助けて王師に武牢に抗す。高祖大いに怒り、命じて所在に其の使を拘留せしむ。世充・建德尋いで平らぎ、遂に譴を以て西会州に徙配す。

大師少時、嘗て長安に仕えんと筮い、日者姓史の者に遇い、因りて占わしむ。時に従兄の子の同・妹婿の鄭師万・河東の裴寂、同じく宿衛を以て簡に入り文資と為る。各々即日の官位及び将来の至る所を見しむ。史生曰く、「裴二及び李は、皆当に資に依り叙用せらるべし。然れども裴君は終に台輔を致す。鄭は直ちに今歳虚しく帰るのみならず、後歳も亦当に本資叙せられず」と。大師を指して曰く、「君の才は趙元叔に滅せずと雖も、恐らくは賦命も亦将に之に同じくせん」と。子同も亦遠到無しと言う。時に大師の弟行師も亦賓貢に預かり、因りて史生に吉凶を問う。生曰く、「此の郎は裴君の匹に非ずと雖も、亦方伯に至らん」と。既にして大師及び子同・裴寂並びに資を以て州佐を補す。師万は当年差舛し、明年にして斉資叙せられず。師万は益州新都県尉に任ず。武徳の初めに及び、裴寂は尚書左僕射・魏国公に任ず。大師是に至りて遷播す、因りて独り笑いて曰く、「史生の言、茲に於いて験る」と。行師は貞観中に太常寺丞・都水使者・邛州刺史を歴任し、皆史生の占の如し。

大師既に会州に至り、忽忽として楽しまず、乃ち『羈思賦』を為りて以て其事を見す。侍中・観公楊恭仁、時に涼州を鎮め、賦を見て之を異とし、河西に召し至らしめ、深く相礼重し、日と遊処す。

大師は若くして著述の志を抱き、常に宋・斉・梁・陳・魏・斉・周・隋が南北に分かれており、南方の史書は北方を「索虜」と呼び、北方の史書は南方を「島夷」と呼ぶことを憂えた。また、各国とも自国のことは詳しく記すが、他国のことは十分に記さず、往々にして事実を誤っている。常にこれを改め正そうとし、『呉越春秋』にならって編年体で南北の歴史を備えようと志した。この時、用事がなく、かつ恭仁の家は書籍に富んでいたので、思う存分に閲覧することができた。宋・斉・梁・魏の四代については史書があったが、その他の時代については結局得るものがなかった。二年居住した後、恭仁が吏部尚書として朝廷に入り、大師は再び会州に帰った。武徳九年、赦令があり、京師に帰り着いた。尚書右僕射の封徳彝と中書令の房玄齢はともに大師と親しく交わり、留まるよう勧めて去らせまいとし、「時は惟新の世に属し、人はみな自らを役立てようと願っている。今、退くことを事とすれば、行蔵の道を失う恐れがある」と言った。大師は言った、「昔、唐堯が上にありながら、下には箕山の節義があった。私は不才ではあるが、その義を慕いたい」。そこで行装を整えて東に帰った。家にはもともと多くの書物があったので、以前に編修していた史書を編集した。貞観二年五月、鄭州 滎陽 けいよう 県の野中の家で亡くなった。時に五十九歳。撰述は未だ完成せず、これを終生の恨みとした。制作した文筆詩賦は、移転や火災により多くが失われ、現存するものは十巻である。子に慶孫・正礼・利王・延寿・安世がいる。

表(並びに序)

延寿は敬播とともに中書侍郎顔師古・給事中孔穎達の下で史書の削除訂正に従事した。家に旧本があることから、先人の志を継ぎ完成させようと思い、斉・梁・陳の五代の旧事で未見のものは、編纂の暇を見て昼夜を分かたず抄録した。貞観五年、母の喪により官を去った。喪が明けて蜀中で官に就き、得た材料を編次した。しかしなお欠落が多く、完成に至らなかった。貞観十五年、東宮典膳丞に任ぜられた時、右庶子・彭陽公令狐徳棻がまた延寿に『晋書』の修撰を命じ、これによって宋・斉・魏三代の事柄で未得のものを勘究することができた。貞観十七年、尚書右僕射褚遂良が当時諫議大夫として勅命により『隋書』十志を修めており、再び勅命に準じて延寿を召し出して撰録させたため、これによって広く閲覧することができた。当時、五代史はまだ公刊されていなかったので、延寿は人に抄録させることを敢えず、家はもとより貧しく、また雇って書写させることもできなかった。そこで魏・斉・周・隋・宋・斉・梁・陳の正史については、すべて自ら書き写し、本紀は司馬遷の体裁に依り、順次連ね合わせた。また、この八代の正史の外に、さらに雑史を勘案し、正史にないものを千余巻編入した。煩雑冗長なものは削除した。修撰の始めから終わりまで、凡そ十六年を要した。宋に始まり、八代をまとめ、『北史』・『南史』の二書とし、合わせて百八十巻とした。その『南史』を先に書き終え、監国史・国子祭酒令狐徳棻に呈上したところ、始めから終わりまで読了され、誤りは改正され、上奏を許された。次いで『北史』についても意見を求め、詳細に訂正された。そこで広く宰相に諮問し、上表した。表に曰く。

臣延寿が申し上げます。臣は聞く、史官の設置は、その来歴既に古く、簡を執り言を記すには、必ず良き直筆に依らねばならない。それ故に『典謨』に述べ載せるところ、唐・虞の風は特に著しく、『誥誓』これ陳べられるところ、殷・周の功業は一層顕著である。魯の史書が作られ、鹿門は臧孫に鑑を遺し、晋の乗は隠すところなく、桃園は趙孟に譏りを取られた。これは哲王が国を経営し、通達した賢人が範を垂れ、懲戒の方途は、全てこの義によるのである。秦の書既に焼かれ、周の典籍ともに湮滅して後、司馬遷が創制し、五帝三王の事跡をことごとく紀し、条流はなお異なるも、綱目はことごとく張られた。これ以降、皆これに則を取った。左史の筆削、時に乏しきはなかったが、微婉なる伝えは、ただ班固・范曄を称する。次に陳寿の『国志』もまた名家と言われる。これらは既に前代の修史者に重んぜられ、今さら論ずるまでもない。

紫気南に浮かび、黄旗東に遷ってより、時は五代を更め、年は且つ三百年に及ぶ。元熙以前は則ち総べて晋に帰し、著述の士は家数多く、広く論じてみても、尽く善しと聞くには至らない。太宗文皇帝は神資睿聖、天より英霊を授かり、沖襟を動かし、玄覧を巡らせ、深く蕪穢を嘆き、大いに刊勒を存し、既に日星に懸けられ、不朽に伝えんとしている。然れども北朝は魏より還り、南朝は宋より降り、運行は変転し、時俗は汚隆あり、代々に載筆する者あり、多く好事の徒、その篇目を考うるに、史牒少なからず、互いに見聞を陳べ、同異甚だ多い。而して小説短書は湮滅散落し易く、もし残滅すれば、求めて勘定する所なし。一には王道の得喪、朝市の変遷、日にその真を失い、晦明いずくにか取るべきか。二には至人の高跡、達士の弘規、これによって聞こえず、傷歎すべきである。三には敗俗の巨蠹、滔天の桀悪、書法に記さざれば、誰か勧奨せん。

臣は軽き身にして多幸、千載の時運に奉じ、貞観以来、屡々史局に叨り、愚固を省みず、私に修撰を為す。魏の登国元年に起こし、隋の義寧二年に尽くし、凡そ三代二百四十四年、兼ねて東魏の天平元年より斉の隆化二年に尽くす、また四十四年の行事を、総べて編んで本紀十二巻・列伝八十八巻と為し、これを『北史』と謂う。また宋の永初元年に起こし、陳の禎明三年に尽くす、四代百七十年を、本紀十巻・列伝七十巻と為し、これを『南史』と謂う。凡そ八代を合わせて二書と為し、百八十巻、以て司馬遷の『史記』に擬す。この八代について、梁・陳・斉・周・隋の五書は、貞観中に勅撰されたもので、十志未だ奏上されず、本は猶未だ出でざるも、その書及び志の始末は臣の修めたる所である。臣は既に夙く慕尚の志を懐き、また備えて尋聞を得、私に抄録すること十六年、凡そ略取したる所、千有余巻。連ね合わせて改定するに、ただ一手に資るのみ、故に時序を淹くし、今に至りて方に成る。ただ遺逸を鳩聚し、以て異聞を広め、別代を編次し、共に部秩を為す。その冗長を除き、その菁華を捃う。もし文の安んずる所は、則ち因って改めず、敢えて下愚を以て苟くも管見を申さず。疏野ではあるが、遠く先哲に慚じるも、披求して得たる所、窃かに詳尽と謂う。その『南史』は刊勒既に定まり、『北史』は勘校粗了す。既に私門に撰し、敢えて黙して寝さず、また未だ聞奏せざれば、敢えて流伝せず。軽く陳聞を用い、伏して深く戦越す。謹んで言う。

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※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。

原本を確認する(ウィキソース):北史 巻100