およそ婦人の徳は、温柔にあるとはいえ、節を立て名を垂れるは、皆貞烈に資る。温柔は仁の本なり、貞烈は義の資なり。温柔なくしてはその仁を成すこと無く、貞烈なくしてはその義を顕わすこと無し。ここをもって『詩』『書』の記すところ、風俗の存するところ、丹青に図像し、竹素に声を流すは、約を守りて正に居り、身を殺して仁を成す者にあらざるはない。文伯・王陵の母、白公・杞殖の妻、魯の義姑、梁の高行、衛君霊王の妾、夏侯文寧の女のごときは、或いは信を抱きて真に会し、或いは忠を蹈みて義を践み、存亡を以て心を易えず、盛衰を以て節を改めず、その佳名は既没に彰け、徽音は不朽に伝わる。また休なるかな。或いは王公大人の妃、たまたま淫僻の俗に情を 肆 にし、文衣を衣、珍膳を食し、金屋に坐し、玉輦に乗るといえども、彤管の書に入らず、青史の筆に 沾 わず、草木とともに落ち、麋鹿とともに死する者、これを 勝 げて道うべきか。永く言い載せて思うに、実に庶姫の恥なり。
『魏書』『隋書』の二書には、ともに『列女伝』があるが、『斉書』『周書』にはこの篇がない。今また武孫道温の妻趙氏、河北の孫神の妻陳氏を得て、『魏書』『隋書』の二伝に附し、もって『列女篇』を備うる。
魏の中書侍郎清河の崔覧の妻封氏は、勃海の人、 散騎常侍 封愷の女なり。才識あり、聡明で弁が立ち記憶力強く、多く究め知るところあり。時に李敷・公孫文叔らは既に貴重な地位にあったが、近世の故事で達せざるところあれば、皆彼女に就いて諮問請うた。
勃海の封卓の妻劉氏は、彭城の人なり。婚礼を成して一夕、卓は京師に官し、後に事に坐して法に伏す。劉氏は家にありて、忽然として夢に見、卓の既に死せるを知り、哀泣す。嫂が諭しても止まず。旬日を経て、凶報果たして至り、遂に憤歎して死す。時に人これを秦嘉の妻に比す。中書令高允その義の高くして名の著わざるを念い、そのために詩を作りて曰く。
両儀正位し、 人倫肇 めて 甄 わる。 爰 に夫婦を制し、統業先を承く。異族と曰うといえども、気なお自然なり。生けば則ち同室、終わりには黄泉に契う。其一 封生令達、卓は時に彦たり、内には黄中に協い、外には三変を兼ぬ。誰か能く配を作り、その選に 克 く応えん、実に華宗有り、淑媛を挺生す。其二 京野勢殊なり、山川乖互す、乃ち王命を奉じ、載せ馳すること路に在り。公務既に弘く、私義著わることを 獲 たり、媒に因りて幣を致し、幕に止まるに 遘 う。其三 我が初冠に 率 い、彼の弱笄を 眷 みる、形は礼に由りて比し、情は趣を以て 諧 う。忻願常なら難く、影跡易く乖く、悠悠言邁し、戚戚長く懐う。其四 時に 険迍 に遇い、横に塵網に 罹 る、質を伏して刑に就き、身は土壤に分つ。千里と雖も 遐 し、応に影響の如くすべし、 良嬪洞 に感ず、夢想に発す。其五 仰いで惟うに親命、俯して尋ぬるに嘉好、誰か会浅と謂わん、義深く情到る。志を 畢 くして窮を守り、誓って二醮せず、何を以てかこれを 験 さん、身を 殞 すは是れ効なり。其六 人の世に処る、 孰 か厚生をせざらんや、必ず義に存し、重んずる所は則ち軽し。憤を結び心に 鐘 め、甘んじて幽冥に就く、永く堂宇を 捐 て、長く母兄に辞す。其七 芒芒たる中野、翳翳たる孤丘、 葛蕾冥蒙 とし、荊棘四周す、 理苟 くも 昧 からずば、神必ず俱に遊ばん。異なるかな貞婦、曠世に 儔 無し。其八
鉅鹿の魏溥の妻房氏は、慕容垂の貴郷太守常山の房湛の女なり。幼くして烈操あり。年十六にして溥疾に遇い、将に卒せんとし、顧みてこれに謂いて曰く、「死は恨みに足らず、ただ母老いて家貧しく、 赤子蒙眇 なるを痛み、黄壚に抱怨するのみ」と。房涙を垂れて対えて曰く、「幸いに先人の余訓を承け、君子に事え、義は偕老に在り、志に従わざるは、蓋しその命なり。今夫人堂に在り、弱子は 襁褓 にあり、顧みて当に身を以て少しく相い感ぜんとし、永く深き長往の恨みをせん」と。 俄 くして溥卒す。将に大殮せんとするに及び、房氏は刀を操りて左耳を割き、これを棺中に投じ、 仍 曰く、「鬼神に知有らば、泉壌に相期せん」と。 流血滂然 たり、喪を助くる者哀懼す。姑の劉氏哭を 輟 めて謂いて曰く、「新婦何ぞここに至るや」と。対えて曰く、「新婦少年、不幸にして早く 寡 と為り、実に父母の至情を 量 らざるを慮り、このことを持して自ら誓わんと 覬 うのみ」と。聞き知る者感愴せざるは莫し。
時に、子の緝生まれて十旬に満たず、後房の内に 鞠育 し、未だ門を出でず。遂に終身、絲竹を聴かず、座席に預からず。緝年十二、房の父母なお存す。ここにおいて帰寧す。父兄なお異議有り。 緝窃 かにこれを聞き、以てその母に啓す。房は駕を命じ、他に行くに 紿 いて雲い、ここに因りて遂に帰る。その家これを知らず。数千里を行きて、 方 に覚ゆ。兄弟来たりて追う。房哀歎して 反 らず。その 執 意この如し。一子を訓導し、母儀法度有り。緝の交遊するに、名勝なる者あれば、則ち身酒饌を具し、己に及ばざる者あれば、 輒 ち屏臥して 飧 せず、その悔謝するを 須 ちて、乃ち食す。善く誘い厳しく訓う、類皆この如し。年六十五にして終わる。
緝の子の 悦後 に済陰太守と為り、吏民碑を立てて徳を頌す。金紫光禄大夫高閭その文を為りて曰く、「爰に処士に及び、疾に遘いて 夙 に 凋 む、伉儷志を 秉 り、識茂く行高し、形を残して操を顕わし、久要に誓いて 敦 し」と。溥未だ仕えずして卒せり、故に処士と云う。
楽部郎胡長命の妻張氏は、何許の人なるかを知らず。姑の王氏に事えること甚だ謹みあり。太安年中、京師酒を禁ず。張は姑老いて且つ患いあるを以て、私にこれを 醖 す。有司に 糾 かるる所と為る。王氏曹に詣でて自首し、己の私に醸すところなりとす。張氏曰く、「姑老いて患いを抱く、張家事を 主 る、姑は醸すことを知らず」と。主司処する所を知らず。平 原 王陸麗状を以て奏す。文成その義としてこれを赦す。
平原鄃県の女子孫氏男玉は、夫が零陵県の人に殺さる。男玉仇人を追い執え、自らこれを殺さんと欲す。その弟止めて聴かず。男玉曰く、「女人出適するは、夫を以て天と為し、当に自ら復雪すべし、何ぞ人の手を 仮 らんや」と。遂に杖を以てこれを毆殺す。有司死を処し、以て聞こゆ。献文詔して曰く、「男玉は節を重んじ身を軽んじ、義を以て法を犯す。情に縁りて罪を定むれば、理に在りて原すべし。その 特 にこれを恕せ」と。
清河の房愛親の妻崔氏は、同郡の崔元孫の女なり。性厳明にして高節有り、書伝を歴覧し、多く聞き知るところ有り。親しく子の景伯・景光に『九経』の義を授く。学行修明にして、並びに当世の名士たり。景伯清河太守と為り、疑獄有る毎に、常に先ずこれを請う。貝丘の人、子を列ねて不孝なり。吏これを案せんと欲す。景伯そのために悲傷し、入りてその母に白す。母曰く、「吾聞く、名を聞くは面を見るに如かずと。小人礼教を見ず、何ぞ責むるに足らんや。ただその母を呼び来たりて、吾これと同居し、その子を汝の左右に置き、汝の吾に事えるを見しめよ。或いは自ら改むるに応ぜん」と。景伯遂にその母を召す。崔氏これを榻に処し、これと食を共にす。景伯そのために 温凊 す。その子堂下に侍立す。未だ旬日に及ばずして、過ちを悔いて還るを求む。崔氏曰く、「これは顔慚るるも、未だ心愧ずるを知らず。且くこれを置くべし」と。凡そ二十余日を経て、その子頭を叩きて血を流し、その母涕泣して還るを乞う。然る後にこれを聴く。終に孝を以て聞こゆ。その識度物を励ますことこの如し。 竟 に寿を以て終わる。
涇州の貞女、児氏は、彭老生に嫁ぐことを許嫁された妻である。聘幣は既に終わり、未だ婚礼を挙げず。児氏は貞淑を率いて行い、貧しく暮らし、常に自ら舂汲して父母を養う。老生は往ってこれを逼る。女曰く、「君と聘命は終わったが、二門に多事あり、未だ相見えず、何ぞ父母に稟せずして、擅に見陵辱せられんや。若し苟も非礼を行わば、正に身を死なすのみ」と。遂に肯わず従わず。老生は怒りて刺殺し、その衣服を取る。女は尚よく言え、臨死に老生に謂いて曰く、「生身何の罪か、君と相い遇う。我が節を執りて自ら固くする所以は、寧ろ更に邀うる所あらんや、正に君に奉給せんと欲するのみ。今反って君に殺さる。若し魂霊に知あらば、自ら相い報いん」と。言い終わりて絶ゆ。老生は女の衣服珠纓を持ち、その叔の宅に至り、以て告ぐ。叔曰く、「これは汝が婦なり、奈何ぞこれを殺す。天汝を祐さず」と。遂に執りて官に送る。太和七年、有司死罪に劾す。詔して曰く、「老生仁ならず、貞淑を侵陵す。その強暴を原れば、便ちこれを戮すべし。而して女は礼を守り節を履み、身を没するも改めず。草莽に処すと雖も、行い古跡に合う。宜しく美名を賜い、以て風操を顕すべし。その墓を標し善を旌し、号して『貞女』とせよ」と。
姚氏の婦、楊氏は、閹人苻承祖の姨なり。家貧し。承祖が文明太后に寵貴せらるるに及び、親姻皆利潤を求むるも、唯だ楊のみ欲せず。常にその姉に謂いて曰く、「姉は一時の栄有りと雖も、妹の憂い無き楽しみ有るに若かず」と。姉毎にその衣服を遺るも、多く受けず。強いてこれに与うれば、則ち云く、「我が夫家は世貧しく、好衣美服は則ち人をして安からしめず」と。これに奴婢を与うれば、云く、「我が家に食無く、供給すべからず」と。終に肯わず受けず。常に破衣を著、自ら労事を執る。時にその衣服を受くるも、多く著ず、密かにこれを埋む。設い著する者有れば、これを汚して後に服す。承祖毎にその寒悴なるを見て、深くその家を恨み、供給せざるを謂う。乃ちその母に啓して曰く、「今承祖一身、何の乏少する所か有らん。而して姨をしてかくの如くせしむ」と。母具に以てこれを語る。承祖乃ち人を遣わし車に乗じて往き迎えしむれば、則ち厲志して起たず。人を遣わし強いて輦に車上にすれば、則ち大哭して言う、「爾我を殺さんと欲するか」と。ここにより苻家内外、皆号して癡姨と為す。承祖の敗るるに及び、有司その二姨を執りて殿庭に至り法を致す。姚氏の婦の衣裳弊陋なるを以て、特だその罪を免ず。その機を識るは、呂嬃と雖も亦及ばざるなり。
滎陽 京県の人、張洪祁の妻劉氏は、年十七にして夫亡ぶ。遺腹に一子を生み、三歳にして又没す。その舅姑年老い、朝夕奉養し、礼に率いて違うこと無し。兄その少寡を矜れみ、奪い嫁がさんと欲す。劉自ら誓いて許さず、以てその身を終う。
陳留の董景起の妻張氏は、景起早く亡ぶ。張時年十六、夫の少喪を痛み、哀傷礼を過ぐ。蔬食長斎す。又児息無く、独り貞操を守り、期して棺を闔う。郷曲これを高しとし、終に見え標異せらる。
漁陽太守陽尼の妻高氏は、勃海の人なり。学識文翰有り。孝文勅令して後宮に入侍せしむ。幽後の表啓は、悉くその辞なり。
滎陽 の史映周の妻耿氏は、同郡耿氏の女なり。年十七、映周に適す。太和二十三年、映周卒す。耿氏は父母その志を奪わんことを恐れ、因りて映周を葬り、哀哭して殞る。見る者悲歎せざる莫し。大使風を観るに属し、状を以て具に上る。詔して門閭を標す。
任城国太妃孟氏は、钜鹿の人、尚書・任城王澄の母なり。澄が揚州に在る日、衆を率いて出で討つ。後に賊帥姜慶真陰かに逆党を結び、羅城を襲い陥す。長史韋纘倉卒す。孟乃ち兵を勒して陴に登り、文武を激厲し、これに逆順を諭す。ここにおいて咸に奮志有り、賊克つ能わず、卒に全城を以てす。霊太后後ち有司に勅し碑を樹て美を旌さしむ。
梓潼太守苟金龍の妻劉氏は、平原の人、廷尉少卿劉叔宗の姉なり。宣武の時、金龍郡に為り、関城戍主を帯ぶ。梁人攻囲す。会うに金龍疾病し、部分に堪えず。劉遂ち城人を厲し戦具を修理し、夜悉く城に登り拒戦す。百有余日、兵士死傷半を過ぐ。戍副高景陰かに叛逆を図る。劉城人とともに景及びその党与数十人を斬る。自余の将士には、衣を分かち食を減じ、労逸必ず同じくす。畏れこれを懐かざる莫し。井は外城に在り、尋いで賊の陥る所と為り、城中水絶ゆ。渇死する者多し。劉乃ち諸の長幼を集め、忠節を以て諭す。遂いに相率いて天に告訴し、俱に時に号叫す。俄かに澍雨有り。劉命じて公私の布絹及び衣服に至るまでを出だし、城内に懸け、絞りて水を取り、所有の雑器、悉くこれを儲う。ここにおいて人心益々固し。会うに益州刺史傅豎眼将に至らんとす。梁人乃ち退く。豎眼歎異し、状を具に奏聞す。宣武これを嘉す。正光中、その子慶珍に平昌県子を賞し、又二子に出身を得しむ。
貞孝女宗は、趙郡柏人の人、趙郡太守李叔胤の女、范陽盧元礼の妻なり。性至孝、父卒す。号慟幾絶すること数四、母崔氏の慰勉に頼りて全うす。三年のうち、形骸銷瘠し、人に非ざれば起たず。夫氏に帰り、母と分隔するに及び、便ち飲食日損し、涕泣絶えず、日に就きて羸篤す。盧氏一家慰喻すれど解けず。因りて帰寧に遣わし家に還らしむれば、乃ち故に復す。かくの如きこと八九たびなり。元礼の卒するに及び、李亡きを追い遺れるを撫で、姑に事うるに孝謹を以て著る。母崔洛陽に終わる。凶問初めて到る。声を挙げて慟絶し、一宿して乃ち蘇る。水漿口に入れざること六日。その姑その済わざるを慮り、親しく送り奔喪す。而して気力危殆、范陽より都に向かい、八旬にして方に達す。櫬に攀じ号踴し、遂いに卒す。有司状を以て聞く。詔して追号して貞孝女宗とし、その裏を易えて孝德里と為し、李・盧の二門を樹て、以て風俗を惇くす。
河東の姚氏の女は、字して女勝。少くして父に喪い、兄弟無く、母憐れみて守養す。年六七歳にして便ち孝性有り。人その父を言う者あれば、聞きて輒ち垂泣す。鄰伍これを異とす。正光中母死す。勝年十五、哭泣声絶えず、水漿口に入れざること数日、哀しみに勝えず、遂いに死す。太守崔游申請して墓を営み碑を立てしむ。自ら制文を為し、その門閭を表し、曹娥に比し、その裏を改めて上虞裏と曰う。墓は都城の東六里、大道の北に在り、今に至るまで名づけて孝女塚と為す。
滎陽 の刁思遵の妻は、魯氏の女なり。始めて笄し思遵に聘せらる。未だ月を逾えずして思遵亡ぶ。その家その少寡を矜れみ、嫁ぐことを許し已に定む。魯これを聞き、死を以て自ら誓う。父母その志を達せず、遂いに郡を経て訴え、称えて刁氏寡女を吝護し、帰寧せしめずとす。魯乃ち老姑とともに徒歩して 司徒 府に詣り、自ら情状を告ぐ。普泰初、有司聞き奏す。節閔詔して本司に式に依り標榜せしむ。
西魏武功県の孫道温の妻趙氏は、安平の人なり。万俟醜奴の反すに、岐州を囲み、久しく援無し。趙乃ち城中の婦女に謂いて曰く、「今州城将に陥らんとす。義は同じく憂うるに在り」と。遂いに相率いて土を負い、昼夜城を培い、城竟に賊を免る。大統六年、夫に岐州刺史を贈り、趙に安平県君を贈る。
河北の孫神の妻陳氏は、河北郡の人である。孫神が遠方の守備に当たることとなり、主吏が夏州に配属したので、その遠さを難じた。孤児の兄の子がおり、自ら代わらせようとした。陳氏は言う、「国に徴発されて守備に赴くのに、道のりは遠く遥かである。どうして身を以て進んで行かず、孤児の甥を代わりに立たせることができようか。天下の物議、誰がこれを許すであろうか」と。孫神はその言葉に感じ入り、遂に自ら行った。守備地に着いて間もなく、死去した。棺が到着すると、陳氏はそれを見て悲しみ慟哭し、一声泣いて卒した。文帝は詔を下してその里門を表彰した。
隋の蘭陵公主、字は阿五、文帝の第五女である。姿容美しく、性質は婉順であり、帝は諸女の中でも特に寵愛した。初め儀同王奉孝に嫁いだ。奉孝が卒すると、河東の柳述に再嫁し、時に十八歳であった。諸姉は皆驕慢であったが、公主のみは節を屈して婦道に従い、舅姑に仕えること甚だ謹み、病気の際には必ず自ら湯薬を奉った。帝はこれを聞いて大いに喜び、これにより柳述は次第に寵遇されるようになった。初め、晋王広(楊広)は公主をその妃の弟蕭瑒に配そうとし、文帝はこれを許そうとしたが、後に柳述に嫁いだので、晋王はこれにより不悦であった。柳述が権力を用いるようになると、ますますこれを憎んだ。文帝が崩御すると、柳述は嶺表に流された。煬帝は公主に柳述と離縁するよう命じ、改嫁させようとした。公主は死を以て誓い、再び朝謁せず、上表して公主の号を免じ、柳述と共に流されることを求めた。帝は大怒して言う、「天下に男子がおらず、柳述と共に流されようというのか」と。公主は言う、「先帝は妾を柳家に嫁がせられました。今その罪がある以上、妾は連座すべきです」と。帝は悦ばなかった。公主は憂憤して卒し、時に三十二歳であった。臨終に上表し、生きては夫に従えずとも、死して柳氏に葬られることを乞うた。帝は表を覧てますます怒り、遂に哭することなく、公主を洪瀆川に葬り、葬送の資は甚だ薄かった。朝野これを傷んだ。
南陽公主は、煬帝の長女である。風儀美しく、志節があった。十四歳で許国公宇文述の子士及に嫁ぎ、謹厚をもって聞こえた。宇文述が病み将に卒せんとする時、公主は自ら飲食を調え、手ずから奉上し、世間はこれをもって称えた。宇文化及が 弑 逆を為すに及び、公主は聊城に至るまで随従したが、化及が竇建徳に敗れると、士及は済北より西帰して大唐に帰した。時に隋代の衣冠(士大夫)が建徳に引見されると、皆惶懼して常態を失ったが、公主のみは神色自若であった。建徳が語りかけると、公主は自ら国破れ家亡びたるを陳べ、怨みを報い恥を雪ぐことができぬと、涙は襟に溢れ、声と言葉は絶えず、情理切至であった。建徳及び見聞する者は、皆これに動容して涙を落とし、悉く敬異した。建徳が化及を誅するに及び、時に公主に一子あり、名を禅師といい、年十歳に近かった。建徳は武賁郎将於士證を遣わして公主に言う、「宇文化及は躬って 弑 逆を行い、今その宗族を滅ぼさんとす。公主の子は、法に照らせば連座すべきである。若し愛を割くことができねば、留めることも許そう」と。公主は泣いて言う、「武賁は既に隋室の貴臣である。この事は何ぞ問う必要があろうか」と。建徳は遂にこれを殺した。公主は間もなく建徳に請い、髪を剃りて尼となった。建徳が敗れ、西京に帰らんとする時、再び士及と東都で遇った。公主は相見えようとせず、士及が近づき、再び夫婦となることを請うた。公主は拒んで言う、「私は君とは仇家である。今、手を下して君を刃することを恨むのは、謀逆の際、君が予め知らなかったからに過ぎない」と。固く告別した。士及が固く請うと、公主は怒って言う、「必ず死に就くなら、相見えることもできよう」と。士及は屈することができないと知り、拝礼して辞し去った。
襄城王恪の妃は、循州刺史柳旦の女である。妃は姿貌端麗で、十余歳の時、良家の子女として相を見合わされ、聘されて妃となった。間もなく恪が廃されると、妃は婦道を修め、仕えることますます敬った。煬帝が位を嗣ぐと、再び辺境に移され、帝は使者に命じて道中でこれを殺させた。恪が訣別の辞を述べると、妃は言う、「若し王が死なれるなら、妾は誓って独り生きません」と。ここに相対して慟哭した。恪が死に、棺に納め終わると、妃は使者に言う、「妾は誓って楊氏と同穴となります。若し身死して別に埋められぬなら、君の恵みです」と。ここに棺を撫でて号泣慟哭し、自ら縊れて卒した。見る者涙を流さざるはなかった。
華陽王楷の妃は、黄門侍郎・龍涸県公河南の元岩の女である。元岩は明敏にして器幹あり、煬帝が位を嗣ぐと、柳述と連座して罪に坐し、外任として南海に移された。後に赦令に会って長安に還ったが、ある者が元岩が逃げ帰ったと讒言し、収めて殺した。妃は姿色あり、性質婉順で、初め選ばれて妃となったが、間もなく楷が幽閉廃された。妃は楷に仕えることますます謹み、楷に憂懼の色あるを見る毎に、義理を陳べて慰め諭し、楷は甚だ敬った。江都の乱に及び、楷が害に遇うと、宇文化及は妃をその党元武達に賜った。初めは宗族の礼をもって遇し、別舎に置いた。後に酔ってこれを迫ると、妃は自ら誓って屈せず、武達は怒り、百余回打ち据え、妃の言葉と顔色はますます厲しかった。元(妃)は自らその面を毀ち、血と涙ともに下り、武達はこれを釈した。妃はその徒に言う、「私は早く死して命を全うすることができず、侵辱されんとするに至った。これ我が罪である」と。ここに食を絶って卒した。
譙国夫人洗氏は、高涼の人である。代々南越の首領となり、部落十余万家を有した。夫人は幼くして賢明で、父母の家に在りて、部衆を撫循し、よく軍を用い師を行い、諸越を圧服した。毎に宗族を勧めて善を為さしめ、これにより信義は本郷に結ばれた。越人の俗は互いに攻撃するを好み、夫人の兄南梁州刺史挺はその富強を恃み、傍郡を侵掠し、嶺表はこれを苦しめた。夫人は多く規諫し、これにより怨隙は止み息み、海南儋耳より帰附するもの千余洞に及んだ。
梁の大同の初め、羅州刺史馮融は夫人に志行あるを聞き、その子高涼太守宝の妻として聘した。馮融は元来北燕の苗裔である。初め、馮弘が南投するに当たり、馮融の大父業を遣わし三百人を率いて海を渡り宋に帰し、因って新会に留まった。業より融に至るまで、三世守牧たりしも、他郷に羈旅し、号令行わず。夫人に至りて本宗を誡め約し、百姓の礼に従わしむるに及んだ。毎に夫宝と共に、辞訟を参決し、首領に法を犯す者あれば、親族と雖も、これを縱捨すること無かった。ここより、政令序あり、人敢て違う者無し。後に侯景の反に遇い、広州 都督 蕭勃が兵を徴して台城を援けんとし、高州刺史李遷仕が大皋口に拠り、宝を召し遣わした。宝は往かんとしたが、夫人はその反を疑い、止めた。数日を経ず、遷仕は果たして反し、主帥杜平虜を遣わし兵を率いて灨石に入らしめた。宝がこれを告げると、夫人は言う、「平虜が灨に入り、官兵と相拒するは、勢い還るを得ず。遷仕は州に在りて、為す能わざるなり。宜しく使者を遣わしこれを詐るべし、『身は未だ敢えて出でず、婦を遣わして参らせんと欲す』と云わば、彼必ず防慮無からん。我れ千余人を将い、歩いて雑物を担い、輸賧と唱え、柵下に至るを得ば、賊の変を図るべし」と。これに従った。遷仕は果たして大喜び、夫人の衆が皆物を提げるを覘い、備えを設けず。夫人はこれを撃ち、大捷した。ここに兵を総べて長城侯陳霸先と灨石に会した。還って宝に言う、「陳 都督 は極めて衆心を得たり。必ずよく賊を平げん。君は厚く資給せよ」と。
宝が卒するに及び、嶺表大いに乱れ、夫人は百越を懐集し、数州晏然たり。陳の永定二年、その子僕年九歳、諸首領を帥いて丹陽に朝し、陽春郡守に拝された。後に広州刺史歐陽紇が謀反し、僕を南海に召し、誘いて乱を為さしめんとした。僕は使者を遣わし帰って夫人に告げると、夫人は言う、「我れ忠貞を為すこと、今に至るまで両代なり。汝を惜しんで国に背くことはできぬ」と。ここに兵を発して境を拒ぎ、紇の徒は潰散した。僕は夫人の功により、信都侯に封ぜられ、平越中郎将を加えられ、石龍太守に転じた。詔して使者を持節せしめ、夫人を冊して高涼郡太夫人とし、繍晄憲油絡の駟馬安車一乗を齎し、鼓吹一部を与え、並びに麾幢旌節を、刺史の儀の如くにせしめた。至徳年中、僕は卒した。
その後、陳国が滅亡し、嶺南は帰属する所がなく、数郡が共に夫人を奉じて聖母と号した。隋の文帝は総管の韋洸を遣わして嶺外を安撫させたが、陳の将軍徐璒が南康に拠って守りを固めたため、韋洸は進むことができなかった。初め、夫人は扶南の犀杖を陳の主に献上していたが、この時、晋王楊広が陳の主から夫人への書簡を送り、国が滅んだことを告げて帰順を命じ、犀杖と兵符を信物とした。夫人は杖を見て、陳の滅亡を確かめ、首領数千人を集め、一日中慟哭した。孫の馮魂を遣わして人を率い韋洸を迎えさせた。韋洸が広州に至ると、嶺南は悉く平定された。韋洸は馮魂を儀同三司に上表し、夫人を宋康郡夫人に冊封した。
間もなく、番禺の人王仲宣が反乱を起こし、韋洸を包囲し、兵を進めて衡嶺に駐屯した。夫人は孫の馮暄に兵を率いさせ韋洸を救援させた。当時、馮暄は逆党の陳仏智と元来親しかったため、進軍を遅らせて進まなかった。夫人は大いに怒り、使者を遣わして馮暄を捕らえ州の獄に繋ぎ、また孫の馮盎を遣わして陳仏智を討ち斬らせた。兵を進めて南海に至り、鹿願の軍と合流し、共に王仲宣を撃破した。夫人自ら甲冑を身に着け、甲冑を着けた馬に乗り、錦の傘を張り、弓騎兵を率いて、詔使の裴矩が諸州を巡撫するのを護衛した。蒼梧の首領陳坦、岡州の馮岑翁、梁化の鄧馬頭、藤州の李光略、羅州の龐靖らが皆参謁に来た。夫人は彼らに命じて元の通りその部落を統治させ、嶺南は悉く平定された。帝は馮盎を高州刺史に任じ、また馮暄を赦免して羅州刺史に任じた。馮宝を追贈して広州総管とし、譙国公に封じた。夫人の幕府に長史以下の官属を置き、印章を与え、部落と六州の兵馬を動かすことを許し、緊急の事態があれば、適宜に処置することを認めた。勅書を下して褒め称え、物五千段を賜った。皇后は首飾りと宴服一揃えを賜った。夫人はこれらを皆金の箱に収め、梁と陳から賜った物と共に、それぞれ一つの庫に蔵めた。毎年、歳時の大会には、皆庭に並べて展示し、子孫に示して言うには、「汝らは心を尽くして天子に忠誠を尽くすべきである。私は三代の主に仕え、ただ一つの誠心を用いただけである。今、賜り物が全てここにある。これは忠孝の報いである。」と。
当時、番州総管の趙訥が貪欲で暴虐であったため、諸俚獠の多くが逃亡・反乱した。夫人は長史の張融を遣わして封事を上奏し、安撫の方策を論じ、併せて趙訥の罪状を述べた。上(文帝)は趙訥を推問させ、その賄賂を得て、遂に法に照らして処罰した。勅を下して夫人に亡命・反乱者の招慰を委ねた。夫人は自ら詔書を載せ、使者を自称し、十余州を歴訪し、上の意を宣べ述べて諸俚獠を諭し、赴く所全てで降伏させた。文帝は夫人に臨振県の湯沐邑一千五百戸を賜い、馮仆を追贈して崖州総管、平原郡公とした。仁寿の初め、死去し、誠敬夫人と諡された。
鄭善果の母崔氏は、清河の人である。十三歳の時、 滎陽 の鄭誠に嫁ぎ、善果を生んだ。周の末、鄭誠が尉遅迥を討伐し、力戦して陣中に死んだ。母は二十歳で寡婦となり、父の崔彦穆が彼女の志を変えさせようとしたが、母は善果を抱いて言うには、「婦人に再び男子に嫁ぐ義はない。かつ鄭君は死んだが、幸いにこの子がいる。子を棄てるのは慈愛に反し、死んだ夫に背くのは礼に外れる。寧ろ耳を切り髪を断って、この素心を明らかにしよう。礼に背き慈愛を滅ぼすことは、敢えて聞き従うことはできない。」と。
善果は父が王事に殉じたため、数歳で使持節・大将軍に拝され、開封県公の爵を襲封した。開皇の初め、武徳郡公に進封された。十四歳で沂州刺史に任じられた。景州刺史に転じ、間もなく魯郡太守となった。母は性質賢明で節操があり、広く書史に渉猟し、政事に通暁していた。善果が政務を聴く度に、母は胡床に座り、屏風の後からこれを観察した。その裁断が理に適っていると聞けば、帰ると大いに喜び、直ちに座を賜い、相対して談笑した。もし行いが妥当でなかったり、妄りに怒りを発したりすると、母は堂に戻り、袖で顔を覆って泣き、終日食事をしなかった。善果は床前に伏し、起き上がることができなかった。母はようやく起きて彼に言うには、「私は汝を怒っているのではない。汝の家を恥じているのだ。私は汝の家の嫁として、掃除の務めを奉じ、汝の亡き父が忠勤の士であることを知っている。官を守って清廉謹厳で、私利を問うたことはなく、身を以て国に殉じ、死をもって継いだ。私もまた汝に、この心に副うことを望んでいる。汝は幼くして孤児となり、私は寡婦である。慈愛はあっても威厳がなく、汝に礼訓を知らせないのであれば、どうして忠臣の業を負い継ぐことができようか!汝は童子の身で封土を襲い、今や方岳の位に至ったが、これは汝自身の力によるものか?このことを思わず、妄りに怒りを加え、心が驕り楽しみに縁れば、公務は堕する。内には汝の家風を失い、官爵を失うことになろう。外には天下の法を損ない、罪を得ることになろう。私は死んだ後、何の面目あって汝の先人に地下で会えようか!」と。
母は常に自ら紡績し、毎夜遅くまで起きて寝た。善果が言うには、「子は侯に封ぜられ国を開き、位は三品にあり、俸禄は幸いに足りています。母上は何故自らこのように勤労なさるのですか?」と。答えて言うには、「ああ、汝はもう年長になった。私は汝が天下の道理を知っていると思っていたが、今この言葉を聞くと、公事はどうして成し遂げられようか?今の俸禄は天子が汝の先人の殉命に報いるものである。これを六親に分け与え、先君の恵みとすべきである。妻子がどうして独りその利を擅にして富貴となろうか!また、糸や麻の紡績は婦人の務めであり、上は王后から、下は大夫・士の妻に至るまで、それぞれに定めがある。もしこの業を堕とすのは、驕り安逸に流れることである。私は礼を知らないとはいえ、どうして自ら名を敗ることができようか!」と。
初めて寡婦となって以来、脂粉を用いず、常に粗末な絹の服を着た。性質もまた倹約で、祭祀や賓客の事でなければ、酒肉を妄りにその前に並べることはなかった。静かな室に端座し、妄りに門を出ることはなかった。内外の姻戚に吉凶の事があっても、厚く贈り物をするだけで、皆その門を訪れることはなかった。自らの手で作ったものや、荘園・禄賜で得たものでなければ、たとえ親族からの贈り物であっても、一切門に入れることを許さなかった。善果が州郡を歴任する間、内から自ら食事を調えて役所の中で食べさせた。官舎で供給されるものは、一切受け取ることを許さず、全て公舎の修理や、僚佐への分配に用いた。善果もこれによって己を律し、清吏と称された。煬帝は御史大夫の張衡を遣わして彼を労い、考課で天下第一とした。光禄卿に徴されて任じられた。その母が亡くなった後、善果は大理卿となったが、次第に驕り恣に振る舞うようになり、公明・清廉・公平・允当さは、遂に以前のようではなかった。
孝女王舜は、趙郡の人である。父の王子春は、従兄の王長忻と仲が悪かった。斉が滅亡した際、王長忻とその妻が共謀して王子春を殺害した。王舜は当時七歳で、二人の妹がおり、王粲は五歳、王璠は二歳で、皆孤苦となり、親戚に寄食した。王舜は二人の妹を養育し、恩義は非常に篤かった。そして王舜は密かに復讐の心を抱き、王長忻は全く備えをしていなかった。妹たちが皆成長すると、親戚が嫁がせようとしたが、王舜は拒んで従わなかった。密かに二人の妹に言うには、「私には兄弟がいないので、父の仇を討つことができない。我々は女子ではあるが、何のために生きていようか!私は汝らと共に復讐したいと思うが、汝らはどうか?」と。二人の妹は皆涙を流して言うには、「姉上の仰せのままに。」と。夜中、姉妹はそれぞれ刀を持って塀を越えて入り、自らの手で王長忻夫婦を殺し、父の墓に報告した後、県に赴いて罪を請うた。姉妹は争って首謀者となろうとしたため、州県は判決を下せなかった。文帝はこれを聞いて賞賛し、特にその罪を赦した。
韓覬の妻于氏は、河南の人であり、字は茂徳という。父は寔、周の大左輔である。于氏は十四歳の時、韓覬に嫁いだ。裕福な家に生まれ育ち、家門は高貴であったが、行動は礼の規範に従い、自ら倹約に努め、宗族や親族から敬われた。十八歳の時、韓覬が従軍して戦死すると、于氏は悲しみのあまり骨と皮ばかりに痩せ衰え、その慟哭は道行く人をも感動させた。朝夕の供え物の祭りは、すべて自ら手ずから捧げ持った。喪が明けた後、父は彼女が若く子もいないことを理由に、再嫁させようとしたが、彼女は誓って許さなかった。そこで夫の庶子である世隆を後継ぎとし、自ら養育し、己が子と同じように愛し、訓導に方策があり、ついに立派に成人させた。寡婦となって以後は、時折実家に帰るのみで、親族の家には全く往来しなかった。目上の者が見舞いに来ても、送迎も戸口の外には出なかった。粗食に粗衣、音楽を聴くこともなく、このようにして一生を終えた。隋の文帝はこれを聞いて賞賛し、詔を下して褒め称え、その門に表彰した。長安ではこれを節婦の門と呼び、家で亡くなった。
陸譲の母馮氏は、上党の人である。性質は仁愛に富み、母としての模範があった。陸譲はその庶子である。開皇の末年に、播州刺史となった。たびたび財物を収奪し、賄賂や物資が乱雑に散らかり、司馬によって上奏された。取り調べて事実が確認され、刑に処せられようとした。馮氏は髪を振り乱し顔を汚し、朝廷に赴いて陸譲の罪を数え上げた。そして涙を流し嗚咽しながら、自ら粥の杯を持ち、陸譲に食べるよう勧めた。その後、上表して哀れみを請うたが、言葉と心情は甚だ切実であり、皇帝は哀れに思って表情を改めた。献皇后はその心意を大いに奇異とし、皇帝に請願した。書侍御史の柳彧が進言して言うには、「馮氏の母としての徳は極みに達し、道行く人をも感動させております。もしこれを殺すようなことがあれば、何をもって人々を勧善できましょうか」。皇帝はそこで京師の士人と庶民を朱雀門に集め、舎人に詔を宣させて言うには、「馮氏は嫡母としての徳が世の模範に足り、慈愛の道は義をもって人神を感動させる。特に哀れんで罪を免じ、風俗を奨励すべきである。陸譲は死刑を減じて除名とする」。さらに詔を下して彼女を褒め称え、絹織物五百段を賜り、命婦たちを集めて馮氏と面会させ、寵愛と異例の扱いを顕彰した。
劉昶の娘は、河南の長孫氏の嫁である。劉昶は周において公主を娶り、上柱国・彭国公となり、地位と声望は甚だ顕著であった。隋の文帝とは旧知の間柄であり、文帝が禅譲を受けると、大いに親しく礼遇された。左武衛大将軍・慶州総管を歴任した。
その子の居士は千牛備身であったが、法度を守らず、たびたび罪を得た。皇帝は劉昶の故をもって、毎度これを許した。居士はますます勝手になり、しばしば大言して言うには、「男児たるものは、辮髪を結い、手を後ろに縛られ、むしろの上で獠の舞を舞うべきだ」と。公卿の子弟で膂力雄健な者を捕らえては、家に連れ帰り、車輪でその首を挟んで棒で打ち、死にそうになっても屈服しない者を壮士と称し、釈放して交際した。徒党は三百人、そのうち敏捷な者を餓鶻隊と号し、武力に優れる者を蓬転隊と号した。鷹を腕に止め犬を引き連れ、騎馬を連ねて道中を進み、路人を殴打し、多くを侵害略奪した。長安の市街では、貴賤を問わず見る者は避けて退いた。公卿や妃・公主に至っても、敢えて対抗する者はいなかった。その娘(劉昶の娘)は居士の姉であるが、毎度涙を流して諭したが、居士は改めず、ついには家産を傾けるに至った。劉昶は年老いており、養われているものは甚だ粗末であった。その娘は当時寡婦であったが、劉昶がこのような有様を哀れみ、毎度実家に帰ると、自ら紡績に勤しみ、それによって肥えた肉や鮮魚などを得て(父に供した)。
ある者が居士が徒党と共に長安城を遊行し、古い未央殿の基壇に登り、南に向かって座り、前後に隊列を並べ、不遜な意図があると告げた。また互いに約束して言うには、「一死を遂げよう」と。また時に、居士が使者を遣わして突厥を誘い、南侵させ、京師でそれに呼応すると言う者があった。皇帝は劉昶に言った、「今日の事はどうすべきか」。劉昶はなお旧恩を恃み、自ら罪を認めず、まっすぐに進み出て言った、「白黒は至尊(陛下)にお任せします」。皇帝は大いに怒り、劉昶を獄に下し、居士の徒党を捕らえた。憲司(御史台)はまた劉昶が母に孝行でないと上奏した。その娘は劉昶が必ず免れられないと知り、数日間食事を取らなかった。毎度自ら飲食を調え、手ずから捧げ持って、大理寺に赴き父に届けた。獄卒を見ると、跪いてこれを進め、すすり泣き嗚咽し、見る者を哀れませた。居士は斬られ、劉昶は家で死を賜った。詔して百官に臨視させた。その時、娘は気絶してはまた蘇生することを数度繰り返し、公卿が慰め諭した。その娘は父に罪はなく、子の罪に連座して禍を受けたと言い、言葉と心情は哀切で、人々は聞き見するに忍びなかった。ついに粗衣に粗食で、その身を終えた。皇帝は聞いて嘆じて言った、「私は聞く、衰えた家門の女、興隆した家門の男、という言葉は、確かに虚妄ではないと」。
鐘士雄の母蒋氏は、臨賀の人である。士雄は陳に仕え、伏波将軍となった。陳の主(皇帝)は士雄が嶺南の酋長であることを慮り、その反覆を心配して、蒋氏を都に留め置いた。晋王広(後の煬帝)が江南を平定した時、士雄が嶺南にいるので、恩義をもって招致しようとし、蒋氏を臨賀に帰した。その後、同郡の虞子茂・鐘文華らが乱を起こして城を攻め、士雄を召し出そうとし、士雄はこれに応じようとした。蒋氏は言った、「もし汝が徳に背き義を忘れるならば、私は汝の前で自殺する」。士雄はそこで止めた。蒋氏はさらに虞子茂らに手紙を書き、禍福を諭した。子茂は従わず、間もなく官軍に敗れた。皇帝は蒋氏のことを聞き、大いに異とし、安楽県君に封じた。
時に伊州の寡婦胡氏は、どこの誰の妻かは知らないが、甚だ志操があり、郷里の族から重んじられた。江南の乱の時、宗族や親族を諭し、節を守って叛逆に従わず、密陵郡君に封じられた。
孝婦の覃氏は、上郡の鐘氏の嫁である。夫と会って間もなく夫が死に、当時十八歳で、夫の母(姑)に仕えて孝行で知られた。数年の間に、姑や伯父・叔父が相次いで死んだ。覃氏の家は貧しく、葬るに足るものなく、自ら節約に努め、昼夜紡績に励み、十年で八つの喪を葬り、州里から敬われた。文帝はこれを聞いて米百石を賜り、その門に表彰した。
元務光の母盧氏は、范陽の人である。若い時から読書を好み、慌ただしい時にも必ず礼に則った。盛年にして寡婦となり、諸子は幼弱で、家が貧しく学問に就くことができなかったので、盧氏は毎度自ら教授し、正しい道義をもって励ました。漢王諒が反乱を起こし、将の綦良を山東に派遣して土地を攻略させたが、綦良は務光を記室とした。綦良が敗れた後、慈州刺史の上官政が務光の家を調査した。盧氏を見て、彼女を脅迫した。盧氏は死をもって誓った。上官政は凶暴で、甚だ怒り、燭火でその顔を焼いた。盧氏は志操を固く守り、ついに節を屈しなかった。
裴倫の妻柳氏は、河東の人であり、若い時から風教に優れていた。大業の末年に、裴倫が渭源県令となり、賊の薛挙に陥落され、裴倫は害された。柳氏は当時四十歳で、二人の娘と三人の息子の嫁(娘と嫁合わせて五人)がおり、皆美しい容姿であった。柳氏は言った、「我々は禍乱に遭い、汝らの父は既に死んだ。私は汝らを全うできないと思う。我が家の家風は平素からあり、義をもって群賊の辱めを受けることはない。私は汝らと共に死のうと思うが、どうか」。娘らは涙を流して言った、「ただ母の命に従います」。柳氏はそこで自ら井戸に身を投げ、その娘と嫁たちも相次いで下り、皆井戸の中で死んだ。
趙元楷の妻崔氏は、清河の人であり、甚だ礼儀作法に優れていた。隋末の宇文化及の反乱の時、元楷はこれに従って河北に至った。長安に帰ろうとし、滏口で盗賊に遭い、ただ身一つで免れた。崔氏は賊に捕らえられ、妻とするよう求められた。崔氏は言った、「私は士大夫の娘で、僕射(宇文化及)の子の妻である。今日破れて亡びたのだから、ただちに死ぬべきであり、終に賊の妻とはならない」。群賊はその衣を引き裂き、寝台の上に縛り付け、凌辱しようとした。崔氏は辱められることを恐れ、偽って言った、「今は力尽きた。処分を受けるべきである」。賊はそこで彼女を放した。妻はそこで賊の刀を取って樹に寄りかかって立ち、「私を殺したいなら、刀鋸を加えるがよい。死を求めるなら、来て迫ればよい」と言った。賊は大いに怒り、乱射して彼女を殺した。
趙元楷は後に妻を殺した者を得て、四肢を切断して崔氏の棺を祭った。
論ずるに、婦人は機織りや炊事のことを司り、その徳は柔順を第一とするが、これは中庸を挙げたに過ぎず、その極致には至っていない。識見明らかで遠大な計略を持ち、貞節な心と峻烈な節操を守り、志を奪うべからず、ただ義を尊ぶ者については、図史を考証しても、いずれの時代に存在しなかったことがあろうか。魏から隋にかけて列女として記された者は、合わせて三十四人である。王公の妃や公主から、下は庶人の娘や妻に至るまで、その資質は寒松を凌ぎ、心は匪石を超え、あるいは忠壮誠実、あるいは文采が称えられる。劉向が前に集め、杜預が後に編んだものと比べても、その美しい節操において、どうしてこれに優るものがあろうか。故に蘭や玉のように芳しく貞節なのは、その天性を稟受しているからである。
目次へ戻る※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。