北史

巻九十一 つら 伝第七十九 列女

およそ婦人の徳は、温柔にあるとはいえ、節を立て名を垂れるは、皆貞烈に資る。温柔は仁の本なり、貞烈は義の資なり。温柔なくしてはその仁を成すこと無く、貞烈なくしてはその義を顕わすこと無し。ここをもって『詩』『書』の記すところ、風俗の存するところ、丹青に図像し、竹素に声を流すは、約を守りて正に居り、身を殺して仁を成す者にあらざるはない。文伯・王陵の母、白公・杞殖の妻、魯の義姑、梁の高行、衛君霊王の妾、夏侯文寧の女のごときは、或いは信を抱きて真に会し、或いは忠を蹈みて義を践み、存亡を以て心を易えず、盛衰を以て節を改めず、その佳名は既没に彰け、徽音は不朽に伝わる。また休なるかな。或いは王公大人の妃、たまたま淫僻の俗に情を ほしいまま にし、文衣を衣、珍膳を食し、金屋に坐し、玉輦に乗るといえども、彤管の書に入らず、青史の筆に うるお わず、草木とともに落ち、麋鹿とともに死する者、これを げて道うべきか。永く言い載せて思うに、実に庶姫の恥なり。

『魏書』『隋書』の二書には、ともに『列女伝』があるが、『斉書』『周書』にはこの篇がない。今また武孫道温の妻趙氏、河北の孫神の妻陳氏を得て、『魏書』『隋書』の二伝に附し、もって『列女篇』を備うる。

列女

魏の中書侍郎清河の崔覧の妻封氏は、勃海の人、 散騎常侍 さんきじょうじ 封愷の女なり。才識あり、聡明で弁が立ち記憶力強く、多く究め知るところあり。時に李敷・公孫文叔らは既に貴重な地位にあったが、近世の故事で達せざるところあれば、皆彼女に就いて諮問請うた。

勃海の封卓の妻劉氏は、彭城の人なり。婚礼を成して一夕、卓は京師に官し、後に事に坐して法に伏す。劉氏は家にありて、忽然として夢に見、卓の既に死せるを知り、哀泣す。嫂が諭しても止まず。旬日を経て、凶報果たして至り、遂に憤歎して死す。時に人これを秦嘉の妻に比す。中書令高允その義の高くして名の著わざるを念い、そのために詩を作りて曰く。

両儀正位し、 人倫肇 はじ めて あら わる。 ここ に夫婦を制し、統業先を承く。異族と曰うといえども、気なお自然なり。生けば則ち同室、終わりには黄泉に契う。其一 封生令達、卓は時に彦たり、内には黄中に協い、外には三変を兼ぬ。誰か能く配を作り、その選に く応えん、実に華宗有り、淑媛を挺生す。其二 京野勢殊なり、山川乖互す、乃ち王命を奉じ、載せ馳すること路に在り。公務既に弘く、私義著わることを たり、媒に因りて幣を致し、幕に止まるに う。其三 我が初冠に したが い、彼の弱笄を かえり みる、形は礼に由りて比し、情は趣を以て かな う。忻願常なら難く、影跡易く乖く、悠悠言邁し、戚戚長く懐う。其四 時に 険迍 けんとん に遇い、横に塵網に かか る、質を伏して刑に就き、身は土壤に分つ。千里と雖も とお し、応に影響の如くすべし、 良嬪洞 つらつら に感ず、夢想に発す。其五 仰いで惟うに親命、俯して尋ぬるに嘉好、誰か会浅と謂わん、義深く情到る。志を くして窮を守り、誓って二醮せず、何を以てかこれを ため さん、身を おと すは是れ効なり。其六 人の世に処る、 たれ か厚生をせざらんや、必ず義に存し、重んずる所は則ち軽し。憤を結び心に あつ め、甘んじて幽冥に就く、永く堂宇を て、長く母兄に辞す。其七 芒芒たる中野、翳翳たる孤丘、 葛蕾冥蒙 めいもう とし、荊棘四周す、 理苟 いやし くも くら からずば、神必ず俱に遊ばん。異なるかな貞婦、曠世に とも 無し。其八

鉅鹿の魏溥の妻房氏は、慕容垂の貴郷太守常山の房湛の女なり。幼くして烈操あり。年十六にして溥疾に遇い、将に卒せんとし、顧みてこれに謂いて曰く、「死は恨みに足らず、ただ母老いて家貧しく、 赤子蒙眇 もうびょう なるを痛み、黄壚に抱怨するのみ」と。房涙を垂れて対えて曰く、「幸いに先人の余訓を承け、君子に事え、義は偕老に在り、志に従わざるは、蓋しその命なり。今夫人堂に在り、弱子は 襁褓 きょうほう にあり、顧みて当に身を以て少しく相い感ぜんとし、永く深き長往の恨みをせん」と。 しばら くして溥卒す。将に大殮せんとするに及び、房氏は刀を操りて左耳を割き、これを棺中に投じ、 なお 曰く、「鬼神に知有らば、泉壌に相期せん」と。 流血滂然 ぼうぜん たり、喪を助くる者哀懼す。姑の劉氏哭を めて謂いて曰く、「新婦何ぞここに至るや」と。対えて曰く、「新婦少年、不幸にして早く やもめ と為り、実に父母の至情を はか らざるを慮り、このことを持して自ら誓わんと こいねが うのみ」と。聞き知る者感愴せざるは莫し。

時に、子の緝生まれて十旬に満たず、後房の内に 鞠育 きくいく し、未だ門を出でず。遂に終身、絲竹を聴かず、座席に預からず。緝年十二、房の父母なお存す。ここにおいて帰寧す。父兄なお異議有り。 緝窃 ひそ かにこれを聞き、以てその母に啓す。房は駕を命じ、他に行くに 紿 あざむ いて雲い、ここに因りて遂に帰る。その家これを知らず。数千里を行きて、 まさ に覚ゆ。兄弟来たりて追う。房哀歎して かえ らず。その とら 意この如し。一子を訓導し、母儀法度有り。緝の交遊するに、名勝なる者あれば、則ち身酒饌を具し、己に及ばざる者あれば、 すなわ ち屏臥して しょく せず、その悔謝するを ちて、乃ち食す。善く誘い厳しく訓う、類皆この如し。年六十五にして終わる。

緝の子の 悦後 のち に済陰太守と為り、吏民碑を立てて徳を頌す。金紫光禄大夫高閭その文を為りて曰く、「爰に処士に及び、疾に遘いて つと しぼ む、伉儷志を り、識茂く行高し、形を残して操を顕わし、久要に誓いて あつ し」と。溥未だ仕えずして卒せり、故に処士と云う。

楽部郎胡長命の妻張氏は、何許の人なるかを知らず。姑の王氏に事えること甚だ謹みあり。太安年中、京師酒を禁ず。張は姑老いて且つ患いあるを以て、私にこれを かも す。有司に あば かるる所と為る。王氏曹に詣でて自首し、己の私に醸すところなりとす。張氏曰く、「姑老いて患いを抱く、張家事を つかさど る、姑は醸すことを知らず」と。主司処する所を知らず。平 ゆる 王陸麗状を以て奏す。文成その義としてこれを赦す。

平原鄃県の女子孫氏男玉は、夫が零陵県の人に殺さる。男玉仇人を追い執え、自らこれを殺さんと欲す。その弟止めて聴かず。男玉曰く、「女人出適するは、夫を以て天と為し、当に自ら復雪すべし、何ぞ人の手を らんや」と。遂に杖を以てこれを毆殺す。有司死を処し、以て聞こゆ。献文詔して曰く、「男玉は節を重んじ身を軽んじ、義を以て法を犯す。情に縁りて罪を定むれば、理に在りて原すべし。その こと にこれを恕せ」と。

清河の房愛親の妻崔氏は、同郡の崔元孫の女なり。性厳明にして高節有り、書伝を歴覧し、多く聞き知るところ有り。親しく子の景伯・景光に『九経』の義を授く。学行修明にして、並びに当世の名士たり。景伯清河太守と為り、疑獄有る毎に、常に先ずこれを請う。貝丘の人、子を列ねて不孝なり。吏これを案せんと欲す。景伯そのために悲傷し、入りてその母に白す。母曰く、「吾聞く、名を聞くは面を見るに如かずと。小人礼教を見ず、何ぞ責むるに足らんや。ただその母を呼び来たりて、吾これと同居し、その子を汝の左右に置き、汝の吾に事えるを見しめよ。或いは自ら改むるに応ぜん」と。景伯遂にその母を召す。崔氏これを榻に処し、これと食を共にす。景伯そのために 温凊 おんせい す。その子堂下に侍立す。未だ旬日に及ばずして、過ちを悔いて還るを求む。崔氏曰く、「これは顔慚るるも、未だ心愧ずるを知らず。且くこれを置くべし」と。凡そ二十余日を経て、その子頭を叩きて血を流し、その母涕泣して還るを乞う。然る後にこれを聴く。終に孝を以て聞こゆ。その識度物を励ますことこの如し。 つい に寿を以て終わる。

涇州の貞女、児氏は、彭老生に嫁ぐことを許嫁された妻である。聘幣は既に終わり、未だ婚礼を挙げず。児氏は貞淑を率いて行い、貧しく暮らし、常に自ら舂汲して父母を養う。老生は往ってこれを逼る。女曰く、「君と聘命は終わったが、二門に多事あり、未だ相見えず、何ぞ父母に稟せずして、擅に見陵辱せられんや。若し苟も非礼を行わば、正に身を死なすのみ」と。遂に肯わず従わず。老生は怒りて刺殺し、その衣服を取る。女は尚よく言え、臨死に老生に謂いて曰く、「生身何の罪か、君と相い遇う。我が節を執りて自ら固くする所以は、寧ろ更に邀うる所あらんや、正に君に奉給せんと欲するのみ。今反って君に殺さる。若し魂霊に知あらば、自ら相い報いん」と。言い終わりて絶ゆ。老生は女の衣服珠纓を持ち、その叔の宅に至り、以て告ぐ。叔曰く、「これは汝が婦なり、奈何ぞこれを殺す。天汝を祐さず」と。遂に執りて官に送る。太和七年、有司死罪に劾す。詔して曰く、「老生仁ならず、貞淑を侵陵す。その強暴を原れば、便ちこれを戮すべし。而して女は礼を守り節を履み、身を没するも改めず。草莽に処すと雖も、行い古跡に合う。宜しく美名を賜い、以て風操を顕すべし。その墓を標し善を旌し、号して『貞女』とせよ」と。

姚氏の婦、楊氏は、閹人苻承祖の姨なり。家貧し。承祖が文明太后に寵貴せらるるに及び、親姻皆利潤を求むるも、唯だ楊のみ欲せず。常にその姉に謂いて曰く、「姉は一時の栄有りと雖も、妹の憂い無き楽しみ有るに若かず」と。姉毎にその衣服を遺るも、多く受けず。強いてこれに与うれば、則ち云く、「我が夫家は世貧しく、好衣美服は則ち人をして安からしめず」と。これに奴婢を与うれば、云く、「我が家に食無く、供給すべからず」と。終に肯わず受けず。常に破衣を著、自ら労事を執る。時にその衣服を受くるも、多く著ず、密かにこれを埋む。設い著する者有れば、これを汚して後に服す。承祖毎にその寒悴なるを見て、深くその家を恨み、供給せざるを謂う。乃ちその母に啓して曰く、「今承祖一身、何の乏少する所か有らん。而して姨をしてかくの如くせしむ」と。母具に以てこれを語る。承祖乃ち人を遣わし車に乗じて往き迎えしむれば、則ち厲志して起たず。人を遣わし強いて輦に車上にすれば、則ち大哭して言う、「爾我を殺さんと欲するか」と。ここにより苻家内外、皆号して癡姨と為す。承祖の敗るるに及び、有司その二姨を執りて殿庭に至り法を致す。姚氏の婦の衣裳弊陋なるを以て、特だその罪を免ず。その機を識るは、呂嬃と雖も亦及ばざるなり。

滎陽 けいよう 京県の人、張洪祁の妻劉氏は、年十七にして夫亡ぶ。遺腹に一子を生み、三歳にして又没す。その舅姑年老い、朝夕奉養し、礼に率いて違うこと無し。兄その少寡を矜れみ、奪い嫁がさんと欲す。劉自ら誓いて許さず、以てその身を終う。

陳留の董景起の妻張氏は、景起早く亡ぶ。張時年十六、夫の少喪を痛み、哀傷礼を過ぐ。蔬食長斎す。又児息無く、独り貞操を守り、期して棺を闔う。郷曲これを高しとし、終に見え標異せらる。

漁陽太守陽尼の妻高氏は、勃海の人なり。学識文翰有り。孝文勅令して後宮に入侍せしむ。幽後の表啓は、悉くその辞なり。

滎陽 けいよう の史映周の妻耿氏は、同郡耿氏の女なり。年十七、映周に適す。太和二十三年、映周卒す。耿氏は父母その志を奪わんことを恐れ、因りて映周を葬り、哀哭して殞る。見る者悲歎せざる莫し。大使風を観るに属し、状を以て具に上る。詔して門閭を標す。

任城国太妃孟氏は、钜鹿の人、尚書・任城王澄の母なり。澄が揚州に在る日、衆を率いて出で討つ。後に賊帥姜慶真陰かに逆党を結び、羅城を襲い陥す。長史韋纘倉卒す。孟乃ち兵を勒して陴に登り、文武を激厲し、これに逆順を諭す。ここにおいて咸に奮志有り、賊克つ能わず、卒に全城を以てす。霊太后後ち有司に勅し碑を樹て美を旌さしむ。

梓潼太守苟金龍の妻劉氏は、平原の人、廷尉少卿劉叔宗の姉なり。宣武の時、金龍郡に為り、関城戍主を帯ぶ。梁人攻囲す。会うに金龍疾病し、部分に堪えず。劉遂ち城人を厲し戦具を修理し、夜悉く城に登り拒戦す。百有余日、兵士死傷半を過ぐ。戍副高景陰かに叛逆を図る。劉城人とともに景及びその党与数十人を斬る。自余の将士には、衣を分かち食を減じ、労逸必ず同じくす。畏れこれを懐かざる莫し。井は外城に在り、尋いで賊の陥る所と為り、城中水絶ゆ。渇死する者多し。劉乃ち諸の長幼を集め、忠節を以て諭す。遂いに相率いて天に告訴し、俱に時に号叫す。俄かに澍雨有り。劉命じて公私の布絹及び衣服に至るまでを出だし、城内に懸け、絞りて水を取り、所有の雑器、悉くこれを儲う。ここにおいて人心益々固し。会うに益州刺史傅豎眼将に至らんとす。梁人乃ち退く。豎眼歎異し、状を具に奏聞す。宣武これを嘉す。正光中、その子慶珍に平昌県子を賞し、又二子に出身を得しむ。

貞孝女宗は、趙郡柏人の人、趙郡太守李叔胤の女、范陽盧元礼の妻なり。性至孝、父卒す。号慟幾絶すること数四、母崔氏の慰勉に頼りて全うす。三年のうち、形骸銷瘠し、人に非ざれば起たず。夫氏に帰り、母と分隔するに及び、便ち飲食日損し、涕泣絶えず、日に就きて羸篤す。盧氏一家慰喻すれど解けず。因りて帰寧に遣わし家に還らしむれば、乃ち故に復す。かくの如きこと八九たびなり。元礼の卒するに及び、李亡きを追い遺れるを撫で、姑に事うるに孝謹を以て著る。母崔洛陽に終わる。凶問初めて到る。声を挙げて慟絶し、一宿して乃ち蘇る。水漿口に入れざること六日。その姑その済わざるを慮り、親しく送り奔喪す。而して気力危殆、范陽より都に向かい、八旬にして方に達す。櫬に攀じ号踴し、遂いに卒す。有司状を以て聞く。詔して追号して貞孝女宗とし、その裏を易えて孝德里と為し、李・盧の二門を樹て、以て風俗を惇くす。

河東の姚氏の女は、字して女勝。少くして父に喪い、兄弟無く、母憐れみて守養す。年六七歳にして便ち孝性有り。人その父を言う者あれば、聞きて輒ち垂泣す。鄰伍これを異とす。正光中母死す。勝年十五、哭泣声絶えず、水漿口に入れざること数日、哀しみに勝えず、遂いに死す。太守崔游申請して墓を営み碑を立てしむ。自ら制文を為し、その門閭を表し、曹娥に比し、その裏を改めて上虞裏と曰う。墓は都城の東六里、大道の北に在り、今に至るまで名づけて孝女塚と為す。

滎陽 けいよう の刁思遵の妻は、魯氏の女なり。始めて笄し思遵に聘せらる。未だ月を逾えずして思遵亡ぶ。その家その少寡を矜れみ、嫁ぐことを許し已に定む。魯これを聞き、死を以て自ら誓う。父母その志を達せず、遂いに郡を経て訴え、称えて刁氏寡女を吝護し、帰寧せしめずとす。魯乃ち老姑とともに徒歩して 司徒 しと 府に詣り、自ら情状を告ぐ。普泰初、有司聞き奏す。節閔詔して本司に式に依り標榜せしむ。

西魏武功県の孫道温の妻趙氏は、安平の人なり。万俟醜奴の反すに、岐州を囲み、久しく援無し。趙乃ち城中の婦女に謂いて曰く、「今州城将に陥らんとす。義は同じく憂うるに在り」と。遂いに相率いて土を負い、昼夜城を培い、城竟に賊を免る。大統六年、夫に岐州刺史を贈り、趙に安平県君を贈る。

河北の孫神の妻陳氏は、河北郡の人である。孫神が遠方の守備に当たることとなり、主吏が夏州に配属したので、その遠さを難じた。孤児の兄の子がおり、自ら代わらせようとした。陳氏は言う、「国に徴発されて守備に赴くのに、道のりは遠く遥かである。どうして身を以て進んで行かず、孤児の甥を代わりに立たせることができようか。天下の物議、誰がこれを許すであろうか」と。孫神はその言葉に感じ入り、遂に自ら行った。守備地に着いて間もなく、死去した。棺が到着すると、陳氏はそれを見て悲しみ慟哭し、一声泣いて卒した。文帝は詔を下してその里門を表彰した。

隋の蘭陵公主、字は阿五、文帝の第五女である。姿容美しく、性質は婉順であり、帝は諸女の中でも特に寵愛した。初め儀同王奉孝に嫁いだ。奉孝が卒すると、河東の柳述に再嫁し、時に十八歳であった。諸姉は皆驕慢であったが、公主のみは節を屈して婦道に従い、舅姑に仕えること甚だ謹み、病気の際には必ず自ら湯薬を奉った。帝はこれを聞いて大いに喜び、これにより柳述は次第に寵遇されるようになった。初め、晋王広(楊広)は公主をその妃の弟蕭瑒に配そうとし、文帝はこれを許そうとしたが、後に柳述に嫁いだので、晋王はこれにより不悦であった。柳述が権力を用いるようになると、ますますこれを憎んだ。文帝が崩御すると、柳述は嶺表に流された。煬帝は公主に柳述と離縁するよう命じ、改嫁させようとした。公主は死を以て誓い、再び朝謁せず、上表して公主の号を免じ、柳述と共に流されることを求めた。帝は大怒して言う、「天下に男子がおらず、柳述と共に流されようというのか」と。公主は言う、「先帝は妾を柳家に嫁がせられました。今その罪がある以上、妾は連座すべきです」と。帝は悦ばなかった。公主は憂憤して卒し、時に三十二歳であった。臨終に上表し、生きては夫に従えずとも、死して柳氏に葬られることを乞うた。帝は表を覧てますます怒り、遂に哭することなく、公主を洪瀆川に葬り、葬送の資は甚だ薄かった。朝野これを傷んだ。

南陽公主は、煬帝の長女である。風儀美しく、志節があった。十四歳で許国公宇文述の子士及に嫁ぎ、謹厚をもって聞こえた。宇文述が病み将に卒せんとする時、公主は自ら飲食を調え、手ずから奉上し、世間はこれをもって称えた。宇文化及が しい 逆を為すに及び、公主は聊城に至るまで随従したが、化及が竇建徳に敗れると、士及は済北より西帰して大唐に帰した。時に隋代の衣冠(士大夫)が建徳に引見されると、皆惶懼して常態を失ったが、公主のみは神色自若であった。建徳が語りかけると、公主は自ら国破れ家亡びたるを陳べ、怨みを報い恥を雪ぐことができぬと、涙は襟に溢れ、声と言葉は絶えず、情理切至であった。建徳及び見聞する者は、皆これに動容して涙を落とし、悉く敬異した。建徳が化及を誅するに及び、時に公主に一子あり、名を禅師といい、年十歳に近かった。建徳は武賁郎将於士證を遣わして公主に言う、「宇文化及は躬って しい 逆を行い、今その宗族を滅ぼさんとす。公主の子は、法に照らせば連座すべきである。若し愛を割くことができねば、留めることも許そう」と。公主は泣いて言う、「武賁は既に隋室の貴臣である。この事は何ぞ問う必要があろうか」と。建徳は遂にこれを殺した。公主は間もなく建徳に請い、髪を剃りて尼となった。建徳が敗れ、西京に帰らんとする時、再び士及と東都で遇った。公主は相見えようとせず、士及が近づき、再び夫婦となることを請うた。公主は拒んで言う、「私は君とは仇家である。今、手を下して君を刃することを恨むのは、謀逆の際、君が予め知らなかったからに過ぎない」と。固く告別した。士及が固く請うと、公主は怒って言う、「必ず死に就くなら、相見えることもできよう」と。士及は屈することができないと知り、拝礼して辞し去った。

襄城王恪の妃は、循州刺史柳旦の女である。妃は姿貌端麗で、十余歳の時、良家の子女として相を見合わされ、聘されて妃となった。間もなく恪が廃されると、妃は婦道を修め、仕えることますます敬った。煬帝が位を嗣ぐと、再び辺境に移され、帝は使者に命じて道中でこれを殺させた。恪が訣別の辞を述べると、妃は言う、「若し王が死なれるなら、妾は誓って独り生きません」と。ここに相対して慟哭した。恪が死に、棺に納め終わると、妃は使者に言う、「妾は誓って楊氏と同穴となります。若し身死して別に埋められぬなら、君の恵みです」と。ここに棺を撫でて号泣慟哭し、自ら縊れて卒した。見る者涙を流さざるはなかった。

華陽王楷の妃は、黄門侍郎・龍涸県公河南の元岩の女である。元岩は明敏にして器幹あり、煬帝が位を嗣ぐと、柳述と連座して罪に坐し、外任として南海に移された。後に赦令に会って長安に還ったが、ある者が元岩が逃げ帰ったと讒言し、収めて殺した。妃は姿色あり、性質婉順で、初め選ばれて妃となったが、間もなく楷が幽閉廃された。妃は楷に仕えることますます謹み、楷に憂懼の色あるを見る毎に、義理を陳べて慰め諭し、楷は甚だ敬った。江都の乱に及び、楷が害に遇うと、宇文化及は妃をその党元武達に賜った。初めは宗族の礼をもって遇し、別舎に置いた。後に酔ってこれを迫ると、妃は自ら誓って屈せず、武達は怒り、百余回打ち据え、妃の言葉と顔色はますます厲しかった。元(妃)は自らその面を毀ち、血と涙ともに下り、武達はこれを釈した。妃はその徒に言う、「私は早く死して命を全うすることができず、侵辱されんとするに至った。これ我が罪である」と。ここに食を絶って卒した。

譙国夫人洗氏は、高涼の人である。代々南越の首領となり、部落十余万家を有した。夫人は幼くして賢明で、父母の家に在りて、部衆を撫循し、よく軍を用い師を行い、諸越を圧服した。毎に宗族を勧めて善を為さしめ、これにより信義は本郷に結ばれた。越人の俗は互いに攻撃するを好み、夫人の兄南梁州刺史挺はその富強を恃み、傍郡を侵掠し、嶺表はこれを苦しめた。夫人は多く規諫し、これにより怨隙は止み息み、海南儋耳より帰附するもの千余洞に及んだ。

梁の大同の初め、羅州刺史馮融は夫人に志行あるを聞き、その子高涼太守宝の妻として聘した。馮融は元来北燕の苗裔である。初め、馮弘が南投するに当たり、馮融の大父業を遣わし三百人を率いて海を渡り宋に帰し、因って新会に留まった。業より融に至るまで、三世守牧たりしも、他郷に羈旅し、号令行わず。夫人に至りて本宗を誡め約し、百姓の礼に従わしむるに及んだ。毎に夫宝と共に、辞訟を参決し、首領に法を犯す者あれば、親族と雖も、これを縱捨すること無かった。ここより、政令序あり、人敢て違う者無し。後に侯景の反に遇い、広州 都督 ととく 蕭勃が兵を徴して台城を援けんとし、高州刺史李遷仕が大皋口に拠り、宝を召し遣わした。宝は往かんとしたが、夫人はその反を疑い、止めた。数日を経ず、遷仕は果たして反し、主帥杜平虜を遣わし兵を率いて灨石に入らしめた。宝がこれを告げると、夫人は言う、「平虜が灨に入り、官兵と相拒するは、勢い還るを得ず。遷仕は州に在りて、為す能わざるなり。宜しく使者を遣わしこれを詐るべし、『身は未だ敢えて出でず、婦を遣わして参らせんと欲す』と云わば、彼必ず防慮無からん。我れ千余人を将い、歩いて雑物を担い、輸賧と唱え、柵下に至るを得ば、賊の変を図るべし」と。これに従った。遷仕は果たして大喜び、夫人の衆が皆物を提げるを覘い、備えを設けず。夫人はこれを撃ち、大捷した。ここに兵を総べて長城侯陳霸先と灨石に会した。還って宝に言う、「陳 都督 ととく は極めて衆心を得たり。必ずよく賊を平げん。君は厚く資給せよ」と。

宝が卒するに及び、嶺表大いに乱れ、夫人は百越を懐集し、数州晏然たり。陳の永定二年、その子僕年九歳、諸首領を帥いて丹陽に朝し、陽春郡守に拝された。後に広州刺史歐陽紇が謀反し、僕を南海に召し、誘いて乱を為さしめんとした。僕は使者を遣わし帰って夫人に告げると、夫人は言う、「我れ忠貞を為すこと、今に至るまで両代なり。汝を惜しんで国に背くことはできぬ」と。ここに兵を発して境を拒ぎ、紇の徒は潰散した。僕は夫人の功により、信都侯に封ぜられ、平越中郎将を加えられ、石龍太守に転じた。詔して使者を持節せしめ、夫人を冊して高涼郡太夫人とし、繍晄憲油絡の駟馬安車一乗を齎し、鼓吹一部を与え、並びに麾幢旌節を、刺史の儀の如くにせしめた。至徳年中、僕は卒した。

その後、陳国が滅亡し、嶺南は帰属する所がなく、数郡が共に夫人を奉じて聖母と号した。隋の文帝は総管の韋洸を遣わして嶺外を安撫させたが、陳の将軍徐璒が南康に拠って守りを固めたため、韋洸は進むことができなかった。初め、夫人は扶南の犀杖を陳の主に献上していたが、この時、晋王楊広が陳の主から夫人への書簡を送り、国が滅んだことを告げて帰順を命じ、犀杖と兵符を信物とした。夫人は杖を見て、陳の滅亡を確かめ、首領数千人を集め、一日中慟哭した。孫の馮魂を遣わして人を率い韋洸を迎えさせた。韋洸が広州に至ると、嶺南は悉く平定された。韋洸は馮魂を儀同三司に上表し、夫人を宋康郡夫人に冊封した。

間もなく、番禺の人王仲宣が反乱を起こし、韋洸を包囲し、兵を進めて衡嶺に駐屯した。夫人は孫の馮暄に兵を率いさせ韋洸を救援させた。当時、馮暄は逆党の陳仏智と元来親しかったため、進軍を遅らせて進まなかった。夫人は大いに怒り、使者を遣わして馮暄を捕らえ州の獄に繋ぎ、また孫の馮盎を遣わして陳仏智を討ち斬らせた。兵を進めて南海に至り、鹿願の軍と合流し、共に王仲宣を撃破した。夫人自ら甲冑を身に着け、甲冑を着けた馬に乗り、錦の傘を張り、弓騎兵を率いて、詔使の裴矩が諸州を巡撫するのを護衛した。蒼梧の首領陳坦、岡州の馮岑翁、梁化の鄧馬頭、藤州の李光略、羅州の龐靖らが皆参謁に来た。夫人は彼らに命じて元の通りその部落を統治させ、嶺南は悉く平定された。帝は馮盎を高州刺史に任じ、また馮暄を赦免して羅州刺史に任じた。馮宝を追贈して広州総管とし、譙国公に封じた。夫人の幕府に長史以下の官属を置き、印章を与え、部落と六州の兵馬を動かすことを許し、緊急の事態があれば、適宜に処置することを認めた。勅書を下して褒め称え、物五千段を賜った。皇后は首飾りと宴服一揃えを賜った。夫人はこれらを皆金の箱に収め、梁と陳から賜った物と共に、それぞれ一つの庫に蔵めた。毎年、歳時の大会には、皆庭に並べて展示し、子孫に示して言うには、「汝らは心を尽くして天子に忠誠を尽くすべきである。私は三代の主に仕え、ただ一つの誠心を用いただけである。今、賜り物が全てここにある。これは忠孝の報いである。」と。

当時、番州総管の趙訥が貪欲で暴虐であったため、諸俚獠の多くが逃亡・反乱した。夫人は長史の張融を遣わして封事を上奏し、安撫の方策を論じ、併せて趙訥の罪状を述べた。上(文帝)は趙訥を推問させ、その賄賂を得て、遂に法に照らして処罰した。勅を下して夫人に亡命・反乱者の招慰を委ねた。夫人は自ら詔書を載せ、使者を自称し、十余州を歴訪し、上の意を宣べ述べて諸俚獠を諭し、赴く所全てで降伏させた。文帝は夫人に臨振県の湯沐邑一千五百戸を賜い、馮仆を追贈して崖州総管、平原郡公とした。仁寿の初め、死去し、誠敬夫人と諡された。

鄭善果の母崔氏は、清河の人である。十三歳の時、 滎陽 けいよう の鄭誠に嫁ぎ、善果を生んだ。周の末、鄭誠が尉遅迥を討伐し、力戦して陣中に死んだ。母は二十歳で寡婦となり、父の崔彦穆が彼女の志を変えさせようとしたが、母は善果を抱いて言うには、「婦人に再び男子に嫁ぐ義はない。かつ鄭君は死んだが、幸いにこの子がいる。子を棄てるのは慈愛に反し、死んだ夫に背くのは礼に外れる。寧ろ耳を切り髪を断って、この素心を明らかにしよう。礼に背き慈愛を滅ぼすことは、敢えて聞き従うことはできない。」と。

善果は父が王事に殉じたため、数歳で使持節・大将軍に拝され、開封県公の爵を襲封した。開皇の初め、武徳郡公に進封された。十四歳で沂州刺史に任じられた。景州刺史に転じ、間もなく魯郡太守となった。母は性質賢明で節操があり、広く書史に渉猟し、政事に通暁していた。善果が政務を聴く度に、母は胡床に座り、屏風の後からこれを観察した。その裁断が理に適っていると聞けば、帰ると大いに喜び、直ちに座を賜い、相対して談笑した。もし行いが妥当でなかったり、妄りに怒りを発したりすると、母は堂に戻り、袖で顔を覆って泣き、終日食事をしなかった。善果は床前に伏し、起き上がることができなかった。母はようやく起きて彼に言うには、「私は汝を怒っているのではない。汝の家を恥じているのだ。私は汝の家の嫁として、掃除の務めを奉じ、汝の亡き父が忠勤の士であることを知っている。官を守って清廉謹厳で、私利を問うたことはなく、身を以て国に殉じ、死をもって継いだ。私もまた汝に、この心に副うことを望んでいる。汝は幼くして孤児となり、私は寡婦である。慈愛はあっても威厳がなく、汝に礼訓を知らせないのであれば、どうして忠臣の業を負い継ぐことができようか!汝は童子の身で封土を襲い、今や方岳の位に至ったが、これは汝自身の力によるものか?このことを思わず、妄りに怒りを加え、心が驕り楽しみに縁れば、公務は堕する。内には汝の家風を失い、官爵を失うことになろう。外には天下の法を損ない、罪を得ることになろう。私は死んだ後、何の面目あって汝の先人に地下で会えようか!」と。

母は常に自ら紡績し、毎夜遅くまで起きて寝た。善果が言うには、「子は侯に封ぜられ国を開き、位は三品にあり、俸禄は幸いに足りています。母上は何故自らこのように勤労なさるのですか?」と。答えて言うには、「ああ、汝はもう年長になった。私は汝が天下の道理を知っていると思っていたが、今この言葉を聞くと、公事はどうして成し遂げられようか?今の俸禄は天子が汝の先人の殉命に報いるものである。これを六親に分け与え、先君の恵みとすべきである。妻子がどうして独りその利を擅にして富貴となろうか!また、糸や麻の紡績は婦人の務めであり、上は王后から、下は大夫・士の妻に至るまで、それぞれに定めがある。もしこの業を堕とすのは、驕り安逸に流れることである。私は礼を知らないとはいえ、どうして自ら名を敗ることができようか!」と。

初めて寡婦となって以来、脂粉を用いず、常に粗末な絹の服を着た。性質もまた倹約で、祭祀や賓客の事でなければ、酒肉を妄りにその前に並べることはなかった。静かな室に端座し、妄りに門を出ることはなかった。内外の姻戚に吉凶の事があっても、厚く贈り物をするだけで、皆その門を訪れることはなかった。自らの手で作ったものや、荘園・禄賜で得たものでなければ、たとえ親族からの贈り物であっても、一切門に入れることを許さなかった。善果が州郡を歴任する間、内から自ら食事を調えて役所の中で食べさせた。官舎で供給されるものは、一切受け取ることを許さず、全て公舎の修理や、僚佐への分配に用いた。善果もこれによって己を律し、清吏と称された。煬帝は御史大夫の張衡を遣わして彼を労い、考課で天下第一とした。光禄卿に徴されて任じられた。その母が亡くなった後、善果は大理卿となったが、次第に驕り恣に振る舞うようになり、公明・清廉・公平・允当さは、遂に以前のようではなかった。

孝女王舜は、趙郡の人である。父の王子春は、従兄の王長忻と仲が悪かった。斉が滅亡した際、王長忻とその妻が共謀して王子春を殺害した。王舜は当時七歳で、二人の妹がおり、王粲は五歳、王璠は二歳で、皆孤苦となり、親戚に寄食した。王舜は二人の妹を養育し、恩義は非常に篤かった。そして王舜は密かに復讐の心を抱き、王長忻は全く備えをしていなかった。妹たちが皆成長すると、親戚が嫁がせようとしたが、王舜は拒んで従わなかった。密かに二人の妹に言うには、「私には兄弟がいないので、父の仇を討つことができない。我々は女子ではあるが、何のために生きていようか!私は汝らと共に復讐したいと思うが、汝らはどうか?」と。二人の妹は皆涙を流して言うには、「姉上の仰せのままに。」と。夜中、姉妹はそれぞれ刀を持って塀を越えて入り、自らの手で王長忻夫婦を殺し、父の墓に報告した後、県に赴いて罪を請うた。姉妹は争って首謀者となろうとしたため、州県は判決を下せなかった。文帝はこれを聞いて賞賛し、特にその罪を赦した。

韓覬の妻于氏は、河南の人であり、字は茂徳という。父は寔、周の大左輔である。于氏は十四歳の時、韓覬に嫁いだ。裕福な家に生まれ育ち、家門は高貴であったが、行動は礼の規範に従い、自ら倹約に努め、宗族や親族から敬われた。十八歳の時、韓覬が従軍して戦死すると、于氏は悲しみのあまり骨と皮ばかりに痩せ衰え、その慟哭は道行く人をも感動させた。朝夕の供え物の祭りは、すべて自ら手ずから捧げ持った。喪が明けた後、父は彼女が若く子もいないことを理由に、再嫁させようとしたが、彼女は誓って許さなかった。そこで夫の庶子である世隆を後継ぎとし、自ら養育し、己が子と同じように愛し、訓導に方策があり、ついに立派に成人させた。寡婦となって以後は、時折実家に帰るのみで、親族の家には全く往来しなかった。目上の者が見舞いに来ても、送迎も戸口の外には出なかった。粗食に粗衣、音楽を聴くこともなく、このようにして一生を終えた。隋の文帝はこれを聞いて賞賛し、詔を下して褒め称え、その門に表彰した。長安ではこれを節婦の門と呼び、家で亡くなった。

陸譲の母馮氏は、上党の人である。性質は仁愛に富み、母としての模範があった。陸譲はその庶子である。開皇の末年に、播州刺史となった。たびたび財物を収奪し、賄賂や物資が乱雑に散らかり、司馬によって上奏された。取り調べて事実が確認され、刑に処せられようとした。馮氏は髪を振り乱し顔を汚し、朝廷に赴いて陸譲の罪を数え上げた。そして涙を流し嗚咽しながら、自ら粥の杯を持ち、陸譲に食べるよう勧めた。その後、上表して哀れみを請うたが、言葉と心情は甚だ切実であり、皇帝は哀れに思って表情を改めた。献皇后はその心意を大いに奇異とし、皇帝に請願した。書侍御史の柳彧が進言して言うには、「馮氏の母としての徳は極みに達し、道行く人をも感動させております。もしこれを殺すようなことがあれば、何をもって人々を勧善できましょうか」。皇帝はそこで京師の士人と庶民を朱雀門に集め、舎人に詔を宣させて言うには、「馮氏は嫡母としての徳が世の模範に足り、慈愛の道は義をもって人神を感動させる。特に哀れんで罪を免じ、風俗を奨励すべきである。陸譲は死刑を減じて除名とする」。さらに詔を下して彼女を褒め称え、絹織物五百段を賜り、命婦たちを集めて馮氏と面会させ、寵愛と異例の扱いを顕彰した。

劉昶の娘は、河南の長孫氏の嫁である。劉昶は周において公主を娶り、上柱国・彭国公となり、地位と声望は甚だ顕著であった。隋の文帝とは旧知の間柄であり、文帝が禅譲を受けると、大いに親しく礼遇された。左武衛大将軍・慶州総管を歴任した。

その子の居士は千牛備身であったが、法度を守らず、たびたび罪を得た。皇帝は劉昶の故をもって、毎度これを許した。居士はますます勝手になり、しばしば大言して言うには、「男児たるものは、辮髪を結い、手を後ろに縛られ、むしろの上で獠の舞を舞うべきだ」と。公卿の子弟で膂力雄健な者を捕らえては、家に連れ帰り、車輪でその首を挟んで棒で打ち、死にそうになっても屈服しない者を壮士と称し、釈放して交際した。徒党は三百人、そのうち敏捷な者を餓鶻隊と号し、武力に優れる者を蓬転隊と号した。鷹を腕に止め犬を引き連れ、騎馬を連ねて道中を進み、路人を殴打し、多くを侵害略奪した。長安の市街では、貴賤を問わず見る者は避けて退いた。公卿や妃・公主に至っても、敢えて対抗する者はいなかった。その娘(劉昶の娘)は居士の姉であるが、毎度涙を流して諭したが、居士は改めず、ついには家産を傾けるに至った。劉昶は年老いており、養われているものは甚だ粗末であった。その娘は当時寡婦であったが、劉昶がこのような有様を哀れみ、毎度実家に帰ると、自ら紡績に勤しみ、それによって肥えた肉や鮮魚などを得て(父に供した)。

ある者が居士が徒党と共に長安城を遊行し、古い未央殿の基壇に登り、南に向かって座り、前後に隊列を並べ、不遜な意図があると告げた。また互いに約束して言うには、「一死を遂げよう」と。また時に、居士が使者を遣わして突厥を誘い、南侵させ、京師でそれに呼応すると言う者があった。皇帝は劉昶に言った、「今日の事はどうすべきか」。劉昶はなお旧恩を恃み、自ら罪を認めず、まっすぐに進み出て言った、「白黒は至尊(陛下)にお任せします」。皇帝は大いに怒り、劉昶を獄に下し、居士の徒党を捕らえた。憲司(御史台)はまた劉昶が母に孝行でないと上奏した。その娘は劉昶が必ず免れられないと知り、数日間食事を取らなかった。毎度自ら飲食を調え、手ずから捧げ持って、大理寺に赴き父に届けた。獄卒を見ると、跪いてこれを進め、すすり泣き嗚咽し、見る者を哀れませた。居士は斬られ、劉昶は家で死を賜った。詔して百官に臨視させた。その時、娘は気絶してはまた蘇生することを数度繰り返し、公卿が慰め諭した。その娘は父に罪はなく、子の罪に連座して禍を受けたと言い、言葉と心情は哀切で、人々は聞き見するに忍びなかった。ついに粗衣に粗食で、その身を終えた。皇帝は聞いて嘆じて言った、「私は聞く、衰えた家門の女、興隆した家門の男、という言葉は、確かに虚妄ではないと」。

鐘士雄の母蒋氏は、臨賀の人である。士雄は陳に仕え、伏波将軍となった。陳の主(皇帝)は士雄が嶺南の酋長であることを慮り、その反覆を心配して、蒋氏を都に留め置いた。晋王広(後の煬帝)が江南を平定した時、士雄が嶺南にいるので、恩義をもって招致しようとし、蒋氏を臨賀に帰した。その後、同郡の虞子茂・鐘文華らが乱を起こして城を攻め、士雄を召し出そうとし、士雄はこれに応じようとした。蒋氏は言った、「もし汝が徳に背き義を忘れるならば、私は汝の前で自殺する」。士雄はそこで止めた。蒋氏はさらに虞子茂らに手紙を書き、禍福を諭した。子茂は従わず、間もなく官軍に敗れた。皇帝は蒋氏のことを聞き、大いに異とし、安楽県君に封じた。

時に伊州の寡婦胡氏は、どこの誰の妻かは知らないが、甚だ志操があり、郷里の族から重んじられた。江南の乱の時、宗族や親族を諭し、節を守って叛逆に従わず、密陵郡君に封じられた。

孝婦の覃氏は、上郡の鐘氏の嫁である。夫と会って間もなく夫が死に、当時十八歳で、夫の母(姑)に仕えて孝行で知られた。数年の間に、姑や伯父・叔父が相次いで死んだ。覃氏の家は貧しく、葬るに足るものなく、自ら節約に努め、昼夜紡績に励み、十年で八つの喪を葬り、州里から敬われた。文帝はこれを聞いて米百石を賜り、その門に表彰した。

元務光の母盧氏は、范陽の人である。若い時から読書を好み、慌ただしい時にも必ず礼に則った。盛年にして寡婦となり、諸子は幼弱で、家が貧しく学問に就くことができなかったので、盧氏は毎度自ら教授し、正しい道義をもって励ました。漢王諒が反乱を起こし、将の綦良を山東に派遣して土地を攻略させたが、綦良は務光を記室とした。綦良が敗れた後、慈州刺史の上官政が務光の家を調査した。盧氏を見て、彼女を脅迫した。盧氏は死をもって誓った。上官政は凶暴で、甚だ怒り、燭火でその顔を焼いた。盧氏は志操を固く守り、ついに節を屈しなかった。

裴倫の妻柳氏は、河東の人であり、若い時から風教に優れていた。大業の末年に、裴倫が渭源県令となり、賊の薛挙に陥落され、裴倫は害された。柳氏は当時四十歳で、二人の娘と三人の息子の嫁(娘と嫁合わせて五人)がおり、皆美しい容姿であった。柳氏は言った、「我々は禍乱に遭い、汝らの父は既に死んだ。私は汝らを全うできないと思う。我が家の家風は平素からあり、義をもって群賊の辱めを受けることはない。私は汝らと共に死のうと思うが、どうか」。娘らは涙を流して言った、「ただ母の命に従います」。柳氏はそこで自ら井戸に身を投げ、その娘と嫁たちも相次いで下り、皆井戸の中で死んだ。

趙元楷の妻崔氏は、清河の人であり、甚だ礼儀作法に優れていた。隋末の宇文化及の反乱の時、元楷はこれに従って河北に至った。長安に帰ろうとし、滏口で盗賊に遭い、ただ身一つで免れた。崔氏は賊に捕らえられ、妻とするよう求められた。崔氏は言った、「私は士大夫の娘で、僕射(宇文化及)の子の妻である。今日破れて亡びたのだから、ただちに死ぬべきであり、終に賊の妻とはならない」。群賊はその衣を引き裂き、寝台の上に縛り付け、凌辱しようとした。崔氏は辱められることを恐れ、偽って言った、「今は力尽きた。処分を受けるべきである」。賊はそこで彼女を放した。妻はそこで賊の刀を取って樹に寄りかかって立ち、「私を殺したいなら、刀鋸を加えるがよい。死を求めるなら、来て迫ればよい」と言った。賊は大いに怒り、乱射して彼女を殺した。

趙元楷は後に妻を殺した者を得て、四肢を切断して崔氏の棺を祭った。

【論】

論ずるに、婦人は機織りや炊事のことを司り、その徳は柔順を第一とするが、これは中庸を挙げたに過ぎず、その極致には至っていない。識見明らかで遠大な計略を持ち、貞節な心と峻烈な節操を守り、志を奪うべからず、ただ義を尊ぶ者については、図史を考証しても、いずれの時代に存在しなかったことがあろうか。魏から隋にかけて列女として記された者は、合わせて三十四人である。王公の妃や公主から、下は庶人の娘や妻に至るまで、その資質は寒松を凌ぎ、心は匪石を超え、あるいは忠壮誠実、あるいは文采が称えられる。劉向が前に集め、杜預が後に編んだものと比べても、その美しい節操において、どうしてこれに優るものがあろうか。故に蘭や玉のように芳しく貞節なのは、その天性を稟受しているからである。

目次へ戻る

※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。

原本を確認する(ウィキソース):北史 巻091