憲宗桓肅皇帝、諱は蒙哥、睿宗拖雷の長子なり。母は莊(獻)〔聖〕太后と曰い、怯烈氏、諱は唆魯禾帖尼、歳戊辰十二月三日に帝を生む。時に黄忽答部に天象を知る者有り、帝の後必ず大貴すべしと言う、故に蒙哥を以て名と為す。蒙哥は、華言にて長生なり。太宗潜邸に在りし時、養いて子と為し、昂灰皇后に属して之を撫育せしむ。既に長じて、火魯剌部の女火里差を娶らせて妃と為し、之に部民を分かつ。睿宗薨ずるに及び、乃ち命じて藩邸に帰らしむ。征伐に従い、屡々奇功を立てる。嘗て欽察部を攻む、其の酋八赤蠻海島に逃る。帝聞き、亟に師を進め、其の地に至る。適た大風海水を刮ぎ去り、其の浅きこと渡るべし。帝喜びて曰く、「此れ天我に道を開くなり」と。遂に進みて其の衆を屠る。八赤蠻を擒え、之に跪くを命ず。八赤蠻曰く、「我一国の主たり、豈に苟くも生を求むべきや?且つ身駝に非ず、何を以て人に跪かんや?」乃ち命じて之を囚う。八赤蠻守者に謂いて曰く、「我の海に竄入する、魚と何ぞ異ならん?然れども終に見擒えらるるは、天なり。今水廻の期将に至らんとす、軍早く還るべし」と。帝之を聞き、即ち班師す。而して水已に至る、後軍に浮きて渡る者有り。復た諸王抜都と共に斡羅思部を征し、也烈賛城に至り、躬自ら搏戦し、之を破る。
歳戊申、定宗崩ず。朝廷久しく未だ君を立てず、中外恟恟たり、咸に意を帝に属す。然れども覬覦する者衆く、議未だ決せず。諸王抜都、木哥、阿里不哥、唆亦哥禿、塔察児、大将兀良合台、速你帯、帖木迭児、也速不花、咸に阿剌脱忽剌兀の地に会す。抜都首めて推戴を建議す。時に定宗皇后海迷失の遣わしし使者八剌坐に在りて曰く、「昔、太宗皇孫失烈門を以て嗣と為せと命ず、諸王百官皆之を聞く。今失烈門故に在り、而して議は他に属せんと欲す、将に之を何の地に置かんや?」と。木哥曰く、「太宗に命有り、誰か敢えて之に違わん?然れども前に議りて定宗を立てしは、皇后脱(忽列)〔列忽〕乃及び汝輩の之を為すに由る。是れ則ち太宗の命に違う者は汝等なり、今尚お誰を咎めんや?」と。八剌語塞ぐ。兀良合台曰く、「蒙哥聡明睿知、人の咸く之を知る所、抜都の議良く是なり」と。抜都即ち衆に令を申し、衆悉く之に応ず。議遂に定まる。
冬、宴只吉帯の命に違うを以て、合丹を遣わし之を誅し、仍て其の家を籍す。
夏、和林に駐蹕す。諸王を各所に分遷す: 合丹を別石八里の地に、蔑里を(于)葉児的石河に、海都を海押立の地に、別児哥を曲児只の地に、脱脱を葉密立の地に、蒙哥都及び太宗皇后乞里吉忽帖尼を拡端の居する地の西に。仍て太宗の諸后妃の家貲を分ちて親王に賜う。定宗后及び失烈門の母、厭禳の事覚るを以て、並びに賜死す。失烈門、也速、孛里等を没脱赤の地に謫す。和只、納忽、〔也〕孫脱等を軍営に禁錮す。
秋七月、忽必烈を命じて大理を征せしめ、諸王禿児花、撒(丘)〔立〕を命じて身毒を征せしめ、怯的不花を命じて没里奚を征せしめ、旭烈を命じて西域の素丹諸国を征せしむ。宋の荊南、襄陽、樊城、均州の諸守将に詔諭し、来附せしむ。
八月、忽必烈臨洮に次る。総帥汪田哥を命じて利州を城し、以て蜀を取るの計と為さんと欲すと聞く。
冬十月、諸王也古を命じて高麗を征せしむ。帝月帖古忽闌の地に駐蹕す。時に帝狩猟に因りて馬より堕ち臂を傷つけ、朝を視ること百余日。
十二月戊午、天下に大赦す。帖哥紬、闊闊朮等を以て帑蔵を掌らしめ、孛闌合剌孫を以て斡脱を掌らしめ、阿忽察を以て祭祀・医巫・卜筮を掌らしめ、阿剌不花之を副う。諸王合剌薨ず。只児斡帯を以て伝駅の所需を掌らしめ、孛魯合を以て必闍赤の宣詔を写発し及び諸色目官職を掌らしむ。諸匠五百戸を徙し行宮を修行せしむ。
是歳、漢地の民戸を籍す。諸王旭烈薨ず。
三月、大兵海州を攻む。戍将王国昌城下に於いて逆戦し、之を敗り、都統一人を獲る。
夏六月、諸王フレグ(旭烈兀)及びウリヤンカダイ(兀良合台)らに命じて師を率い西域のハリーファ(哈里發)バグダード(八哈塔)等の国を征伐させた。またタタルダイ(塔塔兒帶)サリ(撒里)、トルカ(土魯花)らに命じてヒンドゥース(欣都思)、カシミール(怯失迷兒)等の国を征伐させた。帝はホルフナ(火兒忽納)ヨブル(要不兒)の地に行幸した。諸王バトゥ(拔都)がトビチャ(脫必察)を行在所に遣わし、珠を買う銀一万錠を乞うたので、千錠を与え、なお詔を下して諭して言うには、「太祖、太宗の財をこのように費消すれば、どうして諸王への賜与を賄えようか。王はよくよく審らかにすべきである。この銀は今後歳賜の数に充てるものとする」。
秋、軍脳児(軍腦兒)に行幸した。モンケサル(忙可撒兒)を万戸とし、ハダン(哈丹)をジャルグチ(札魯花赤)とした。
九月、フビライ(忽必烈)がテラ(忒剌)の地に駐留し、兵を三道に分けて進軍させた。
冬十二月、大理が平定された。帝はワンギ(汪吉)の地に駐蹕した。宗王イェフ(耶虎)に命じて洪福源とともに軍を率いて高麗を征伐させ、禾山、東州、春州、三角山、楊根、天龍等の城を攻め落とした。
この年、断事官モンケサル(忙哥撒兒)が卒去した。
四年甲寅の春、帝はケチェン(怯蹇)チャハン(叉罕)で狩猟を行った。
夏、ユエルミエチェ(月兒滅怯)トゥ(土)の地に行幸した。ジャライル(札剌亦兒)部のホルチ(火兒赤)を遣わして高麗を征伐させた。
秋七月、朝に赴いて銭穀の決算を行う官吏に対し、不公正なことを自首することを許し、また以後の無駄な出費を禁ずる詔を下した。
冬、イェメゲン(也滅干)ハリチャハイ(哈里叉海)の地で大規模な狩猟を行った。フビライ(忽必烈)が大理から帰還し、ウリヤンカダイ(兀良合台)を留めて未だ帰附しない諸夷を攻撃させ、自らは狩猟の場所で謁見した。
この年、諸王をココノール(顆顆腦兒)の西で会合させ、日月山において天を祭祀した。新軍の初めての籍簿を作成した。帝は大臣に命じ、封守を慎み固くし、将略に通じた者を求めた。史枢を征行万戸に抜擢し、真定、相、衞、懷、孟の諸軍を配属し、唐、鄧に駐屯させた。張柔を移鎮して亳州に置いた。権万戸史権を鄧州に屯田させた。張柔は張信に命じて八漢軍を率い潁州を守備させた。王安国は四千戸を率いて漢水を南に渡り、深く侵入して帰還した。張柔は連年の兵役の労苦と、両淮における糧秣輸送の困難を理由に、亳州を拠点とする利点を上奏した。詔により張柔に山前八軍を率いさせ、城を築いて守備させた。張柔はまた、渦水の北の隘路が浅く舟を通せず、軍が渡河に苦しみ、曹、濮、魏、博からの穀物が届かないため、甬路を築いて亳から汴に至らせ、堤防を百二十里にわたり築いた。流れが深くて築けない所には、さらに十五の橋を架け、あるものは幅八十尺とし、二つの堡塁を横たえて守備させた。均州総管孫嗣が人を遣わして密書を届け降伏を申し出、かつ援軍を乞うたので、史権は精鋭の甲兵をもって宋軍の要衝を防備し、ついに孫嗣を救援して来降させた。その後、勇将の鍾顯(鐘顯)、王梅、杜柔、袁師信がそれぞれ配下を率いて来降した。
五年乙卯の春、滞納している銭穀の徴収を命ずる詔を下した。
夏、帝はユエルミエチェトゥ(月兒滅怯土)に行幸した。
秋九月、張柔が大帥と符離で会合した。百丈口が宋の往来の通路で、万艘の船を収容できるとみて、甬路を築き、亳から南へ六十余里、途中に横江堡を設けた。また、路の東六十里がすべて水地で宋の船を引き寄せられるため、水中に柵を立て、ただ往来する路に偵察と巡邏を密かに配置した。これにより鹿邑、寧陵、考、柘、楚丘、南頓は宋の脅威がなくなり、陳、蔡、潁、息もすべて通じるようになった。
六年丙辰の春、北方より大風が起こり、砂礫が飛揚し、白日が暗くなった。帝は諸王、百官をユルモゲド(欲兒陌哥都)の地で会合させ、六十余日にわたり宴を設け、金帛を差等をつけて賜与し、なお諸王への歳賜の銭穀を定めて決定した。フビライ(忽必烈)がムルガシ(沒兒合石)を行在所に遣わし、内郡の漢軍の追加徴発を奏請したので、これに従った。
夏四月、帝は答密兒に駐蹕す。
五月、昔剌兀魯朵に幸す。
六月、太白昼に見ゆ。䚟亦兒阿塔に幸す。諸王亦孫哥・駙馬也速兒ら宋を伐つことを請う。帝もまた宋人の命に違いて使を囚うるを以て、会議してこれを伐つ。
秋七月、諸王に命じて各おのの部に還りて居らしむ。諸王塔察兒・駙馬帖里垓の軍、東平諸処を過ぎ、民の羊豕を掠う。帝聞き、使を遣わして罪を問う。ここにより諸軍犯す者なし。
この歳、高麗国王細嵯甫・雲南酋長摩合羅嵯及び素丹諸国来朝す。兀良合台、白蛮等を討ち、これを克つ。すなわち昔八兒の地より還りて重慶府に至り、宋将張都統を破る。金縷織文衣一襲・銀五十両・綵帛一万二百匹を賜い、もって軍士を賚う。
冬、帝は阿塔哈帖乞兒蠻に駐蹕す。阿木河の回回降民を以て諸王百官に分賜す。
七年丁巳の春、忽闌也兒吉に幸す。諸王に詔して師を出だし宋を征せしむ。乞都不花ら、末來吉兒都怯寨を討ち、これを平らぐ。
夏六月、太祖の行宮に謁し、旗鼓を祭り、復た怯魯連の地に会し、還りて月兒滅怯土に幸す。
秋、軍腦兒に駐蹕し、馬乳を釃して天を祭る。
九月、師を出だして南征す。駙馬剌真の子乞䚟を以て達魯花赤と為し、斡羅思を鎮守せしめ、なお馬三百・羊五千を賜う。回鶻、水精盆・珍珠傘等の物を献ず。銀三万餘錠に直すべし。帝曰く、「方今百姓疲弊す。急なる者は銭のみ。朕独りこれ有りて何を為さん」と。これを却く。賽典赤以て言う。帝稍々その直を償い、かつこれに禁じて復た献する所有らしめず。宗王塔察児、諸軍を率いて南征し、樊城を囲む。霖雨連月、すなわち師を班す。元帥卜隣吉䚟の軍、鄧州より地を略し、すなわち漢江を渡る。
冬十一月、兀良合台、交趾を伐ち、これを破り、その国に入る。安南主陳日煚、海島に竄す。すなわち師を班す。阿藍答児・脱因・囊加台らを遣わし、陝西等処に詣りて銭穀を理算せしむ。
冬、帝、漠南を度り、玉龍棧に至る。忽必烈及び諸王阿里不哥・八里土・出木哈児・玉龍塔失・昔烈吉・公主脱滅干ら来迎し、大いに燕す。既にして各おの帰りて所部に遣る。
八年戊午の春正月朔、也里本朵哈の地に幸し、朝賀を受く。
二月、陳日煚、国を長子光昺に伝う。光昺、壻とその国人を遣わし方物を以て来見す。兀良合台、行在所に送り詣らしむ。諸王旭烈兀、回回哈里発を討ち、これを平らぎ、その王を禽え、使を遣わし来たりて捷を献ず。帝、也里海牙の地に狩す。師、南征し、河に次す。適た冰合す。土を以てこれを覆いて渡る。帝自ら将として宋を伐ち、西蜀より以て入る。張柔に命じて忽必烈に従い鄂を征し、杭州に趨らしむ。塔察に命じて荊山を攻め、宋の兵力を分かしむ。宋の四川制置使蒲沢之、成都を攻む。紐隣、師を率いてこれと戦い、これを破る。進んで雲頂山を攻む。守将姚某ら衆を以て相継ぎ来降す。紐隣を都元帥と為すことを詔す。帝、東勝より河を渡る。参知政事劉太平を遣わし、興元の戸口を括せしむ。
三月、洪茶丘に命じて師を率い、劄剌䚟に従い同しく高麗を征せしむ。
夏四月、六盤山に駐蹕し、諸郡県の守令が来朝した。豊州千戸の郭燧が、金州の修治のために千人を徴発することを奏請し、これを許した。この時、軍は四万で、十万と号し、三道に分かれて進んだ。帝は隴州より散関に入り、諸王モゲ(莫哥)は洋州より米倉関に入り、ボリチャ(孛里叉)万戸は漁関より沔州に入った。明安答児を太傅とし、京兆を守らせた。益都行省の李璮に兵を徴発するよう詔を下すと、璮は来て言うには「益都は南北の要衝であり、兵を撤収させることはできません」と。これを許した。璮は帰還し、海州・漣水などを攻撃した。
五月、皇子アスダイ(阿速帶)が狩猟中に単騎で民の作物を傷つけた。帝はこれを見て彼を責め、近侍数人を鞭打った。士卒で民の葱を抜いた者がいたので、ただちに斬って見せしめとした。これにより、秋毫といえども犯す者はなくなった。なお、経由した郡の守臣にそれぞれ差等をつけて賜物を与えた。
秋七月、輜重を六盤山に留め、兵を率いて宝鶏より重貴山を攻め、到る所で平定した。
八月辛丑、李璮が宋軍と戦い、宋軍をほとんど殲滅した。
九月、漢中に駐蹕した。都元帥ニュリン(紐隣)は密里火者・劉黒馬らを留めて成都を守らせ、残りの兵をすべて率いて馬湖を渡り、宋の制置使張実を捕らえた。そこで張実を遣わして苦竹隘を招諭させたが、張実は逃亡した。
冬十月壬午、帝は宝峯に到着した。癸未、利州に行き、その城池がさほど堅固でないのを見て、汪田哥がよく守り、蜀が敢えて侵犯しなかったことを賞し、杯酒を賜って褒め諭した。帝は嘉陵江を渡り、白水江に至り、田哥に浮橋を造って渡河するよう命じた。橋が完成すると、田哥らに金帛を差等をつけて賜った。帝は剣門に駐蹕した。戊子、苦竹隘を攻め、裨将の趙仲がひそかに東南門を献じた。軍が入ると、その守将楊立と戦い、これを破り、楊立を殺し、兵卒はすべて敗走した。趙仲の家族を侵すなとの詔を下し、なお趙仲に衣帽を賜り、隆慶に移住させた。己亥、張実を捕らえ、八つ裂きの刑に処した。田哥に玉帯を賜り、士卒を犒賞し、精兵五百を留めて守らせた。使者を遣わして龍州を招諭した。帝は高峯に至った。庚子、長寧山を包囲すると、守将王佐・裨将徐昕らが兵を率いて出撃してきたので、これを破った。
十一月己酉、帝はみずから軍を督いてまず鵝頂堡を攻めた。壬子、望喜門で激戦した。日暮れに、宋の知県王仲が鵝頂堡から出て降伏した。その夜、城を陥落させ、王佐はそこで死んだ。癸丑、王佐の子および徐昕ら四十余人を誅殺した。彭天祥をダルガチ(達魯花赤)としてその地を治めさせ、王仲をその副とした。丙辰、進攻して大獲山に迫ると、守将楊大淵が降伏した。大淵を四川侍郎に任じ、なおその兵を率いさせて従軍させた。庚午、和溪口に到着し、驍騎を派遣して青居山を攻略させた。この月、龍州の王知府が降伏した。諸王モゲド(莫哥都)は礼義山を攻めたが陥とせず、諸王タチャル(塔察兒)は地を攻略して江に至って引き返し、ともに行在所で合流した。クビライ(忽必烈)に命じて諸路の蒙古・漢軍を統率させて宋を討伐させた。
十二月壬午、楊大淵は配下の兵を率いて汪田哥と分かれて相如などの県を攻撃した。都元帥ニュリン(紐隣)は簡州を攻め、宋の降将張威に命じてその兵を率いさせて先鋒とした。乙酉、帝は運山に到着した。大淵は人を遣わしてその守将張大悦を招降し、なお大悦を元帥に任じた。軍が青居山に至ると、裨将劉淵らが都統段元鑒を殺して降伏した。庚寅、使者を遣わして未だ帰附しない者を招諭した。丁酉、隆州の守県が降伏した。己亥、大良山の守将蒲元圭が降伏した。諸軍に捕虜や掠奪を禁ずる詔を下した。癸卯、雅州を攻め、これを陥落させた。石泉の守将趙順が降伏した。甲辰、宋人である晋国宝を遣わして合州の守将王堅を招諭させたが、王堅はこれを拒絶したので、国宝は帰還した。
この年、皇子ビェンド(辨都)が吉河の南で薨去した。
九年己未の春正月乙巳朔、重貴山の北に駐蹕し、酒宴を設けて大いに会し、諸王・駙馬・百官に問うて言うには「今、宋の境内にいるが、夏の暑さがやがて来る。汝らはここに留まることができると思うか」と。ジャライル(札剌亦兒)部のトホン(脱歡)が言うには「南方の地は瘴癘の地であり、上は北還されるのがよろしい。獲得した人民は、官吏に委ねて治めさせればよい」と。アルラト(阿兒剌)部のバリチ(八里赤)が言うには「脱歡は臆病です。臣は進んでそこに住みたいと思います」と。帝はこれを良しとした。戊申、晋国宝が帰還し峽口に到着したところ、王堅が追いかけて引き戻し殺害した。諸王モゲド(莫哥都)が再び渠州の礼義山を攻め、エレト・トルオン(曳剌禿魯雄)が巴州の平梁山を攻めた。丁卯、大淵が合州を攻撃することを請い、男女八万余りを捕虜とした。
二月丙子、帝はすべての兵を率いて鶏爪灘を渡り、石子山に至った。丁丑、諸軍を督いて城下で戦った。辛巳、一字城を攻めた。癸未、鎮西門を攻めた。三月、東新門・奇勝門・鎮西門の小堡を攻めた。
夏四月丙子、大雷雨が二十日間続いた。乙未、護国門を攻めた。丁酉の夜、外城に登り、宋兵を多く殺した。
五月、たびたび攻めたが陥とせず。
六月丁巳、汪田哥が再び兵を選んで夜に外城の馬軍寨に登り、寨主および守城者を殺した。王堅が兵を率いて来て戦った。夜明け近くになって雨に遭い、梯子が折れ、後軍が進むことができずに中止した。この月、帝は御不例となった。
秋七月辛亥、精兵三千を留めて守らせ、残りはすべて重慶を攻撃させた。癸亥、帝は釣魚山で崩御した。享年五十二、在位九年。桓粛皇帝と追諡され、廟号は憲宗である。
帝は剛明にして雄毅、沈断にして寡言、燕飲を楽しまず、侈靡を好まず、后妃といえども制を過ぐるを許さず。初め、太宗の朝、群臣権を擅にし、政多門より出づ。ここに至りて、凡そ詔旨あるごとに、帝必ず親ら草を起し、数四更易して、然る後これを行ふ。群臣を御すること甚だ厳なり、嘗て旨を諭して曰く、「爾輩若し朕が奬諭の言を得ば、即ち志気驕逸す、志気驕逸して、災禍の随いて至らざる者あらんや。爾輩其れこれを戒めよ」と。性、畋猟を喜び、自ら祖宗の法に遵ひ、他国の為す所を蹈襲せずと謂ふ。然れども巫覡卜筮の術を酷く信じ、凡そ事を行ふに必ず謹んでこれを叩き、殆ど虚日無く、終に自ら厭ふこと無し。