元史

列傳第八十二: 忠義三

伯顏不花的斤

伯顏不花的斤、字は蒼崖、畏吾兒氏、駙馬都尉・中書丞相・高昌王に封ぜられた雪雪的斤の孫、駙馬都尉・江浙行省丞相・荊南王に封ぜられた朵尔的斤の子である。倜儻にして学を好み、音律に通暁した。初め父の蔭により信州路同知となり、後に建徳路に移った。時に徽州の賊が遂安を犯すと、伯顏不花的斤は義兵を率いてこれを平定し、また淳安の叛賊方清之を擒らえ、功により本路総管に昇進した。

至正十六年、衢州路達魯花赤を授けられた。翌年、行樞密院判官阿魯灰が兵を率いて衢州を通過したが、軍に紀律がなく、過ぎる所で大いに掠奪した。伯顏不花的斤は言った、「阿魯灰は官軍でありながら民の患いとなる、これは国賊である、どうしてこれを放っておけようか」と。そこで兵を率いてこれを境外に追い払い、郡はこれにより安寧を得た。浙東都元帥に昇進し、衢州を守禦した。まもなく、江東道廉訪副使に抜擢され、階は中大夫となった。

十八年二月、江西の陳友諒が賊党王奉国らを派遣し、号二十万で信州を寇した。翌年正月、伯顏不花的斤は衢州から兵を率いてこれを救援した。到着すると、奉国と城東で遭遇し、力戦してこれを撃破し敗走させた。時に鎮南王の子大聖奴・樞密院判官席閏らが城中に兵を屯していたが、伯顏不花的斤の到着を聞き、争って門を開いて出迎え、馬前に羅列して拝礼した。伯顏不花的斤は城に登って四方を顧み、賊を破ることを誓って自らに期した。数日後、賊が再び来て城を攻めた。伯顏不花的斤は士卒に大いに饗応し、約して言った、「今日賊を破らざれば、命令に従わぬ者は斬る」と。そこで大都閭に命じて阿速諸軍及び民義を率いて左翼とし、南門より出撃させ、高義・范則忠に命じて信陽一軍を率いて右翼とし、北門より出撃させ、自らは忽都不花と共に沿海諸軍を率いて中軍とし、西門より出撃した。隊列が整うと、奮撃して賊営に突入し、数千級を斬首した。賊は乱れ、奉国を危うく生け捕りにするところであった。ちょうど賊の将が突如として到着し、我が軍で賊営に入った者は皆没し、その勢いは危うくなったが、忽都不花が再び兵を統率して力戦し、大いにこれを破った。

二月、友諒の弟友徳が城東に営し、城をめぐらせて木柵を植え、我が方を攻撃することますます急であった。また偽万戸周伯嘉を遣わして来て降伏を説かせた。高義は密かにこれと通じ、忽都不花らを欺いて、奉国と会見すれば兵の争いは解けると言った。忽都不花はこれを信じ、則忠ら十人を率いて会見に行ったが、奉国はこれを囚禁して返さなかった。翌日、奉国は高義に計略を用いて伯顏不花的斤を誘わせた。時に伯顏不花的斤は城上に坐しており、高義が単騎で来るのを見て、伯顏不花的斤は言った、「汝は十人の将帥を誘い、一人も還らせず、今また私を誘おうとするのか。我が首は断たれようとも、足は動かさぬ」と。そこでその罪を数え上げ、これを斬った。これにより、日夜賊と激戦し、糧は尽き矢は尽きたが、気勢は少しも衰えなかった。

夏四月、城下で大いに呼ぶ者があった、「詔あり」と。参謀海魯丁が城に臨んでこれを問うて言った、「何処よりか」と。答えて言った、「江西より」と。海魯丁は言った、「それでは賊である。我らは元朝の臣子、どうして汝らの偽詔を受けられようか」と。呼ぶ者は言った、「我が主は信州が久しく下らぬと聞き、汝らの忠義を知り、故に詔を下すのである。汝らは空城を守るのみで、何を為そうとするのか」と。海魯丁は言った、「汝は張睢陽の事を聞いたことがあるか」と。偽使者は答えずして去った。伯顏不花的斤は笑って言った、「賊は我らを降伏させようとするのだ。城存すれば共に存し、城亡すれば共に亡びる、我が計らいは熟している」と。時に軍民はただ草・苗・茶・紙を食し、尽きると靴底を徴発して煮て食い、また尽きると鼠を掘り雀を網にかけ、老弱を殺して食らった。

五月、賊兵を大いに破った。六月、奉国が親しく来て城を攻め、昼夜止むことなく十余日を過ぎた。賊は皆百余箇所で地を穴ぐらにし、あるいは魚貫して梯で城に登った。伯顏不花的斤は城に登り、兵を指揮してこれを防いだ。やがて士卒は力疲れて戦えず、万戸顧馬児が城を叛いたため、城はついに陥落した。席閏は出て降伏し、大聖奴・海魯丁は皆これに死し、伯顏不花的斤は力戦して勝てず、ついに自刎した。その部将蔡誠は妻子をことごとく殺し、また蔣広は奮力して巷戦した。誠は害に遇って死に、広は奉国に捕らえられた。奉国は広の勇敢さを愛し、これを降伏させようとしたが、広は言った、「我は寧ろ忠に死すとも、降伏して生きんとは思わぬ。汝らは草中の一盗賊に過ぎぬ、我がどうして汝らに屈しようか」と。賊は怒り、広を竿に磔にした。広は大罵して絶命した。

陳受という者がいた、信州の小民である。伯顏不花的斤は受に膂力があるのを知り、募って義兵とした。まもなく戦いに敗れ、賊に生け捕られ、痛罵して屈せず、賊はこれを焼き殺した。

先に、伯顏不花的斤が信州を救援した時、嘗て南を望んで涙を流し、言った、「我は天子のために憲を司どり、あの城の危急を見て、どうして坐視することを忍ぼうか。上は天子に報い、下は生民を救うことを知るのみ、その他は顧みるに足らぬ。念う所は、太夫人ただお一人である」と。即日に母の鮮于氏に拝謁して言った、「児は今や母に仕えることができません」と。母は言った、「汝が忠臣となるならば、私は即ち死しても、何の遺憾があろうか」と。鮮于氏は、太常典簿樞の娘である。伯顏不花的斤はそこで子の也先不花に命じ、その母を間道より福建に入らせ、江東廉訪司の印を行御史臺に送り届けさせ、ついに孤城を力守して死んだ。朝廷は諡を賜って桓敏といった。

樊執敬

樊執敬、字は時中、済寧鄆城の人。性質は警敏にして学を好み、国子生より経郎に抜擢された。嘗て帝師に拝礼せず、ある人が諫めて言った、「帝師は天子が平素崇重される方で、王公大臣も見れば必ず俯伏して礼を為します。公だけが拝礼されないのは、どうしてですか」と。執敬は言った、「私は孔氏の徒であり、孔氏を尊ぶことのみを知る。どうして異教を拝礼しようか」と。歴官して侍御史に至った。至正七年、山南道廉訪使に抜擢され、まもなく湖北道に移った。十年、江浙行省参知政事を授けられた。

十二年二月、平江において海運を監督し、発船の日を卜して、海口で官が大いに宴を設けて犒労した。俄かに外より客船が来た。その券信を検めて入港を許したが、これが海寇であるとは予想しなかった。港に入るや、即ち火を放ち鬨の声を上げた。時に変は倉卒に起こり、軍民は擾乱し、賊はついに舟を焼き糧を劫掠して去った。執敬は崑山に走り入り、防備を失したことを自ら咎め、心に鬱々として解けなかった。省に還ると、昱嶺関に警報があり、平章政事月魯帖木児が軍を率いてこれを防ぎ、賊は進むことができなかった。

月魯帖木兒はやがて病により卒し、賊は余杭を犯した。執敬は時に既に海上で賊を討つ命を受けていたが、この時事態が急を要し、去るを得ず、平章政事定定と共に省中で政務を執り、兵を調えて出戦したが、皆利あらず。掾史蘇友龍は平素より剛直で有能であり、執敬に進言して言うには、「賊がまさに至らんとし、城内は空虚で備えなし、如何にせん」と。執敬曰く、「我は戈矛を磨き、賊を殲滅して国に報いん。もし成らざれば、死あるのみ、何ぞ畏れんや」と。やがて賊が至ったと報じ、執敬は急ぎ馬に上り、衆を率いて出で、途中で賊と遭遇し、乃ち賊四人を射殺し、賊またこれを追い、三人を射殺した。既にして賊の来る勢い盛んとなり、街巷を埋め塞ぎ、且つ火を放ち、衆は皆潰走した。賊はその援なきを知り、執敬に降るよう呼びかけた。執敬怒ってこれを叱りて曰く、「逆賊よ、関を守る吏が謹まず、汝ここに至るを得たり。汝を万段に砕くを恨む、何ぞ降ると謂うや」と。乃ち奮って刀を揮い賊を斬り、槍に中りて堕ちた。従僕の田也先が馳せてこれを救おうとしたが、また槍に中りて死した。事が聞こえ、翰林学士承旨・栄禄大夫・柱国を贈られ、魯国公を追封され、諡を賜った。

全普庵撒里

全普庵撒里は字を子仁といい、高昌の人である。初め中書省の検校となり、時に太師汪家奴が権を擅にして事を行い、台諫も敢えて言う者なし。普庵撒里ただ一人衆中においてその過失を歴数し、諤諤として懼色なし。監察御史に拝され、即ちまず汪家奴の十罪を弾劾し、乃ち罷免された。然れども気節は益々自ら振るい、挫かれたるによりて遂に阻まれることなく、歴々と権貴を誹謗し、朝臣は畏慄せざる者なし。出でて広東廉訪使となり、尋いで兵部尚書を除された。間もなく、贛州路のダルガチ(達魯花赤)を授けられた。郡に至り、奸悪を摘発し、一郡粛然たり。

至正十一年、潁州に盗賊起こる。即ち城塁を修築し、旬月の間に守禦の具は全て備わる。ここにおいて公帑を発し、勇士を募り、兵三千人を得て、日々これを練習し、皆用いるに足りた。属邑に賊に陥せられたるものあり、往々にして兵を遣わしてこれを回復し、境内悉く安んず。十六年、功により江西行省参知政事に拝され、贛に分省す。

十八年、江西下流の諸郡は皆陳友諒に拠られ、乃ち総管ハイハチ(哈海赤)と力を合わせて共に守る。友諒その将幸文才を遣わし兵を率いて贛を囲み、人をして脅迫して降らせんとす。普庵撒里その使者を斬り、日々甲冑を着て城に登りてこれを拒ぐ。力戦すること凡そ四月、兵少なく食尽き、義兵万戸マハムシャ(馬合某沙)城を挙げて賊に降らんと欲す。普庵撒里従わず、遂に自ら剄して死す。事が聞こえ、朝廷より諡を儆哀と贈られた。

ハイハチ(哈海赤)は贛を守ることに特に功あり、城陥ちたる日、賊将これを脅して降らせんとす。ハイハチこれに謂いて曰く、「汝と戦う者は我なり。汝ら賊は贛の民を殺すことなかれ、速やかに我を殺すべし」と。遂に殺された。

周鏜

周鏜は字を以声といい、瀏陽州の人である。篤学にして春秋に通じ、泰定四年の進士に登第し、衡陽県丞を授かり、再び大冶県尹に転じた。県に豪民あり、官府の短長を握り、治め難しと号せらる。鏜は状は尫懦の如くして、毅然として犯すべからざる威あり、豪強を抑え、窮民を恵み、治行遂に諸県の最となる。累遷して国子助教となる。功臣列伝を修するに会し、翰林国史編修官に抜擢される。乃ち出でて四川行省儒学提挙となり、便道にて家に還る。間もなく、盗賊起こり、湖南・北の郡県皆陥ち、瀏陽に城守なし。盗賊至り、民皆驚きて竄る。鏜その兄弟に告げて遠くに去らしめ、自ら謂う「我は国恩を受け、もし不幸あれば必ず死す、累いとなることなかれ」と。賊至りて鏜を得、これを推して主とせんと欲す。鏜ただ瞠目して厲声にて大いに罵る。賊その屈せざるを知り、乃ちこれを殺す。

鏜と同時に謝一魯、字は至道という者あり、また瀏陽の人である。至元乙亥の郷貢進士、嘗て石林書院の山長となる。賊潭州を陥す。一魯親を奉じて巌谷の中に匿る。官兵郡邑を回復し、亡き者稍々帰る。乃ち故業を理めんと還る。俄かに賊また至り、一魯を生け捕りにす。一魯賊を甚だしく罵る。挙家咸ぞ害に遇う。

聶炳

聶炳は字を韞夫といい、江夏の人である。元統元年の進士、承事郎・同知平昌州事を授かる。炳は早く孤となり、その母改嫁す。平昌より還り、始めてこれを知り、即ちその母を迎えて帰る。久しくして、宝慶路推官に転ず。会に峒猺辺境を寇す。湖広行省右丞トチ(禿赤)兵を統べてこれを討ち、武岡に屯す。炳をして分省理問官を摂せしむ。悍卒の至る所、民を掠めて俘虜とす。炳トチに言い、その験なき者数千人を釈放す。

至正十二年、荊門州知事に遷る。僅か半年、淮・漢の賊起こり、荊門守られず。炳出でて土兵を募り、衆七万を得て、荊門を回復す。また四川行省平章政事ヤオジュ(咬住)と共に江陵を回復し、その功最も多し。既にして蘄・黄・安陸の賊、その勢い再び振るう。賊将俞君正兵を合わせて来たり荊門を攻む。炳孤軍を率いて昼夜血戦す。援絶え城陥ちて賊に捕らえられる。極口に罵りて絶えず。賊刀を以てその歯を抉り尽くし、乃ち左臂を断ちてこれを支解す。

間もなく、賊潜江県を陥す。ダルガチ(達魯花赤)の明安達爾勇敢を率いて出撃し、その偽将劉万戸を擒える。進んで蘆洑に営す。賊衆奄として至る。出でて鬭い死す。その家殲滅せらる。一子の桂山海牙は印綬を懐いて去り、免る。明安達爾はタングート(唐兀)氏、字は士元、炳の同年の進士、宿州判官より再転して潜江となす。

劉耕孫

劉耕孫は字を存吾といい、茶陵州の人である。至順元年の進士、承事郎・桂陽路臨武県尹を授かる。臨武は蛮獠に近し。耕孫至り、父老を召して告げて曰く、「我は儒士なり、今汝が邑の尹となれり。汝ら父老は我が教えを体し、その子弟を訓え、孝弟力田し、暇あれば則ち詩・書に事えよ。自ら棄てて我が政を干すことなかれ」と。乃ち学校を建て、民間の俊秀を求めてこれを教え、爼豆を設けて礼譲を習わしむ。三年にして文化大いに興る。邑に茶課あり、歳五錠に過ぎず、後五十錠に増す。耕孫朝廷に言い、その額を除く。歴任して建徳・徽州・瑞州三路の推官となり、至る所にて疑獄を詳らかに讞じ、その政績卓然たるもの甚だ衆し。

至正十二年(1352年)の春、蘄州・黄州の賊が湖南を攻め落とした。耕孫は家財を傾けて義勇兵を募り、茶陵を救援し、賊が来るたびにこれを退けたため、茶陵は長く守りを失わなかった。十五年(1355年)、儒林郎・寧国路推官に転じた。凶年にあたり、富民に粟を出させて飢民を救済し、生き延びた者は万を数えた。ちょうど長鎗の瑣南班・程述・謝璽らが寧国を攻めたので、耕孫は城の西南を分守し、昼は府の事務を執り、夜は兵を率いて城に登り固守した。江浙行省が参知政事の吉尼哥児を救援に遣わしたが、到着した時には兵はすでに疲弊していた。城は援軍があるとたかをくくり、備えをしなかった。瑣南班はこのことを知り、夜の四更に、衆を率いて堞をよじ登り、城はついに陥落した。耕孫は力戦して害に遇った。

弟の燾孫は、国学生として科挙に落第し、常寧州儒学正に任じられた。湖南が陥落すると、常寧の長吏は城を捨てて逃げ、民は印を捧げて燾孫に城を守ってくれるよう請うた。城は彼のおかげで一年間保たれたが、外からの援軍はすべて絶え、彼は戦死した。長子の碩は、武昌江夏県の魯湖大使となり、義兵を起こして茶陵を救援したが、これまた戦死した。

俞述祖

俞述祖は字を紹芳といい、慶元路象山県の人である。翰林書写から任期満了となり、広東元帥府都事に転じ、さらに国史院編修官として中央に入り、やがて沔陽府推官として出向した。

至正十二年(1352年)、蘄州・黄州の賊が州境に迫ると、述祖は民兵を率いて緑水洪を守り、力を合わせてこれを防いだ。兵力が支えきれず、沔陽城は陥落し、民兵はことごとく潰走した。述祖は賊に捕らえられ、檻車に載せてその偽主徐寿輝のもとに送られ、降伏するよう誘われたが、述祖は罵り続けた。寿輝は怒り、彼を八つ裂きにした。五歳になる子もまた死んだ。事が朝廷に聞こえ、奉訓大夫・礼部郎中・象山県男を追贈された。

桂完澤という者は、永嘉の人である。かつて江西左丞の李朶児に従って京師に留まり、平江路管軍鎮撫を得たが、仇家に訴えられて官を免じられた。ちょうど賊が昱嶺関を攻めたので、行省は以前の官職を仮に与え、従軍を命じた。完澤は賊を討つことに勇猛で、関の下で二度戦い、いずれも勝利した。まもなくまた賊と戦い、捕らえられた。その妻の弟の金徳もまた生け捕りにされ、ともに木に逆さに縛り付けられ、白刃を突きつけられて降伏を脅された。金徳は決心がつかない様子であったが、完澤が叫んだ。「金の舅よ、男子たるもの死ぬとも、賊の言うことを聞いてはならぬ。」金徳は言った。「この言葉こそ最も正しい。」そこで大声で罵った。賊は怒り、二人の腹を裂いて殺した。

丑閭

丑閭は字を時中といい、蒙古氏である。元統元年(1333年)の進士に及第した。累次転任して京畿漕運副使となり、出向して安陸府の知府を務めた。至正十二年(1352年)、蘄州の賊の曾法興が安陸を侵犯した。この時、丑閭は兵を募って数百人を得、これを率いて賊を防いだ。賊の前隊を破り、勝ちに乗じて追撃した。しかし賊は別の門から入城し、急いで兵を返すと、城中に火の手が上がり、軍民は潰乱し、どうすることもできなくなったので、帰宅して朝服を着け、公堂に出て座った。賊が白刃で脅しても、丑閭はなお逆順の道理を説いた。一人の賊が丑閭を突き落として拝礼させようとしたが、屈せず、かつ怒って罵った。賊の首領は害するに忍びず、彼を拘束した。翌日、また乱に従うよう迫ると、丑閭は激しく叱りつけた。「私はこの地を守る臣である。どうして汝ら賊に従えようか。」賊は怒り、刀で丑閭の左脇腹を斬りつけ、切断して殺した。賊は彼が降らなかったことを憤り、さらに布の袋にその死体を詰め、担いで彼の家に置いた。丑閭の妻の侯氏が出てきて、大声で泣き、かつ酒肉を前に並べ、喉の渇いた者には酒を飲ませ、腹の減った者には肉を食べさせ、自分を警戒させないように賊を欺いた。夜になると、自ら首を吊って死んだ。事が朝廷に聞こえ、丑閭には河南行省参知政事を、侯氏には寧夏郡夫人を追贈した。その門に「双節」と表札を立てた。

馮三という者がいた。湖広省の一公使である。もともと学問を知らなかった。湖広が賊に陥落すると、雑役の輩はこぞって蜂起し、略奪殺戮して盗賊となり、馮三をも引きずり込もうとした。馮三は辞退して言った。「賊という名は穢らわしい。我々がどうしてそんなものになれようか。」衆は初めは強要したが、ついに従わず、怒って殺そうとしたので、馮三はついに唾を吐き罵った。賊はそこで彼を十字の木に縛り付け、担いで行きながら肉を切り取ったが、馮三はますます罵り止まなかった。江辺に着くと、喉を切り裂き、捨てて去った。その妻は馮三の後を追って号泣し、うつむいて切り取られた肉を拾い、布の裙の中に入れた。賊が遠ざかるのを待ち、馮三の血まみれの骸骨を収め、衣を脱いで包み、大声で泣きながら、江に身を投げて死んだ。

孛羅帖木児

孛羅帖木児は字を国賓といい、高昌の人である。宿衛から補官され、十三回転任して江東廉訪副使となった。選抜されて襄陽路達魯花赤となった。

至正十一年(1351年)、汝州・潁州で盗賊が蜂起し、均州鄖県の田端子らもまた衆を集めて官吏を殺害したので、孛羅帖木児は民兵を率いてこれを捕らえ斬った。まもなく、行省と廉訪司がともに孛羅帖木児に檄を飛ばし、その率いる兵をもって諸軍と均州・房州で合流してともに賊を討たせたので、賊はようやく退いた。しかし穀城・光化から急報が来たので、ただちに兵を率いて穀城に向かい、分遣して樊城主簿の脱因らを光化に向かわせ、かつ使者を遣わして襄陽に食糧を求めたが、応じなかった。同知の也先不花を遣わして催促したが、またも応じなかった。軍は食糧に乏しく進軍できず、柴店に駐屯した。また甥の馬哈失力を遣わして告げさせたが、言葉は甚だ苦切であった。廉訪分司の王僉事と本路総管の柴順礼は、彼が責め求めることに怒り、彼を檻車に載せた。ちょうど紐真が光化で得た首級を献上しに来て、かつ言った。「孛羅帖木児は穀城で賊と相対し、生死も分からない。急いで食糧を補給すべきである。少しでも遅れれば、おそらく間に合わないだろう。」そこで二人の檻車を外し、帰還させ、また也先不花と万戸の也先帖木児に命じて数千人を率い、孛羅帖木児と合流して賊を討たせた。

翌年(至正十二年、1352年)正月、襄陽が陥落したことを也先不花らが聞き、驚いて潰走した。孛羅帖木児は義兵二百人を率い、戦いながら監利県まで退き、沔陽府達魯花赤の咬住、同知の三山、安陸府同知の燕只不花、荊襄提挙の相哥失力の軍と遭遇した。この時、江辺に千余艘の船があったので、諸々の義兵・壮丁・水夫五千余人を糾合した。軍号を与え、刀と矛を支給し、哨馬五十騎を備え、水陸続々と進軍した。石首県に至った時、中興路もまた陥落したと聞き、そこで岳州に赴いて元帥の帖桀に就くことを議したが、道が阻まれて進めず、やはり襄陽に向かった。賊はちょうど楊湖港に駐屯しており、その不意を突いて撃ち、その船二十七艘を奪い、賊党の劉咬児を生け捕りにした。事情を訊問し、進軍して潜江県に駐屯し、また賊数百人を斬り、三十余艘の船を奪い、賊将の劉万戸・許堂主らを梟首した。

この日、ようやく兵を止めて食事もとらないうちに賊の大軍が到来し、日暮れまで戦ったが、咬住らの軍はそれぞれ一面を担当し、救援できなかった。孛羅帖木児は重傷を負い、馬哈失力に手を振って去るよう命じ、言った。「我は死をもって国に報いる。汝はここに留まるな。」馬哈失力は泣いて言った。「死生とも叔父に従います。」やがて孛羅帖木児は捕らえられ、賊はともに逆をなすよう請うたが、孛羅帖木児は怒って罵り、ついに害に遇った。馬哈失力は家奴を率いてその死体を求め、また賊と戦い、ともに陣中で没した。一家で死んだ者は、合わせて二十六人であった。

彭庭堅

彭庭堅は字を允誠といい、温州瑞安の人である。至正四年の進士に擢第し、承事郎・同知沂州事に任ぜられ、牛皇神祠を毀ち、隣郡の上馬賊を駆逐し、民の横暴な急徴斂を免れさせ、民は大いに便とした。まもなく獄囚を平反して上官の意に忤い、遂に官を棄て去った。十年、詔して守令を選び、建寧路崇安県尹として庭堅を家から起用した。時に鉛山の賊寇周良が窃かに発し、閩関を犯すと、庭堅はこれを防ぐに法あり、寇は境内に入らなかった。十一年、同知建寧路総管府事に昇進した。江西の寇が熾んになると、庭堅は民兵を率いて建陽を克復し、さらに進兵して浦城を平定した。

十二年、僉都元帥府事を摂行し、邵武路総管の吳按攤不花と挟撃して邵武を攻め、庭堅は雲梯火礮を設け、昼夜攻撃し、寇は遁走し、渠魁の董元帥・鐵和尚・童昌を追斬し、邵武は悉く平定された。総兵官の江浙参政章嘉が功績を朝廷に上奏し、同知福建道宣慰使司副都元帥に昇進し、邵武に鎮した。冬、寇が建寧県を陥落させた。十三年、庭堅は建陽・崇安・浦城の三県の民兵を統率し、泰寧に駐屯し、寇は懼れて降伏を請い、建寧県を回復し、軍を返して邵武に帰った。江浙行省は庭堅に檄を飛ばし、建寧・邵武二郡の諸軍を節制させた。

十四年、盗賊が政和・松溪を侵すと、江南行臺中丞の吳鐸が建寧で軍を督し、庭堅に檄を送って来させた。時に鎮撫万戸の岳煥が麾下に隷属していたが、煥は元来悍猛で、士卒を恣にし暴行させたので、庭堅は法をもってこれを糾そうとした。煥は懼れ、配下の士卒に命じて不意を衝き、賊兵と詐って突入して交鋒させ、衆は皆潰走したが、庭堅独り留まって去らず、遂に害に遇い、死年四十三であった。旧吏の張椿、儒士の夏志行・江晃が柩を奉じて崇安に還ると、民は父母を喪うが如く哀泣し、祠像を立て、歳時に祭祷すると、数度霊響が降り、傍邑も祠を立てることも同様であった。南行臺監察御史の余観が行部巡察し、その賊を捕らえて斬った。事績を上奏し、中奉大夫・福建道宣慰使都元帥を追贈され、忠愍侯に封ぜられた。

王伯顏

王伯顏は字を伯敬といい、濱州霑化の人である。湖広省宣使より歴任して永州祁陽・湖州烏程県尹、信州推官となった。至正九年、福寧州知州に遷り、三年在任し、福建塩運副使に昇進した。出発せんとする時、憲府は時局が騒擾していることを以て、伯顏を留めて依然として州事を領させた。

間もなく、賊が邵武より間道を伝って福寧に迫ると、監州の阿撒都剌と共に壮兵五万を募り、分かれて険阻を扼した。賊が楊梅嶺に至り柵を立てると、伯顏は子の相と馳せてこれを破った。賊帥の王善が、俄かに衆を擁して州の西門に直圧すると、胥隷は皆解散し、伯顏の麾下にはただ白挺の市井の者数百人だけであった。伯顏は賊を射て、再び顧みず、賊は長鎗で馬を衝き、馬が倒れ、遂に捕らえられた。善は伯顏を説いて言う、「公に恵政有ると聞く、この州にどうして尹が無くてよいものか、公が我がために尹となってくれぬか」と。伯顏は善を叱って言う、「我は天子の命官、不幸にして守りを失うも、義として死すべきなり、汝に従って反せんや」と。善は怒り、左右を叱って跪かせようとしたが、屈せず、遂に殴打した。伯顏は舌を噛み血を出して善の面に噴きかけ、罵って言う、「反賊、殺すなら殺せ、どうして殴打するのか!我が民は天の民なり、汝は害してはならぬ。大丞相自ら叛逆を討ち、百万の師は雷撃電掃の如し、汝ら小醜は遺種無からん、よくもかくの如くせんや」と。賊もまた阿撒都剌を捕らえて来ると、善は声を厲してその拒鬭を責めたが、口を噤んで答えられず、伯顏は再び善に唾して言う、「我は賊を殺す、何を拒むと言うのか!我死して、神となって汝を殺さん」と。言い終わると、頸を挺して刃を受け、頸が断たれると、白き液が乳の如く涌き出し、屍を数日曝しても色変わらず、州人の哭声巷を連ねた。賊は阿撒都剌を殺した後、相を釈放して官にしようとしたが、相は罵って言う、「我と汝は不倶戴天、寸断せんことを恨む、我が汝の官を受けるものか」と。賊はこれを殺した。相の妻潘氏は、二女を携えて賊に捕らえられ、また賊を罵り、母子共に死んだ。

伯顏が死んだ後、賊は時にその兵を率いて出入りするのを目撃した。翌年、州に林德誠という僧がおり、兵を起こして賊を討とうとし、空を望んで呼ばわった、「王州尹、王州尹、宜しく陰兵を率いて我を助け賊を斬るべし」と。時に賊は正に神を祠っており、紅衣の軍が来るのを目撃し、偽帥の康将軍と思い、急ぎ迎えに行ったが、誰もおらず、四面は皆青衣の官軍で、賊は大敗し、その酋長の江二蛮を斬り、福寧は遂に平定された。

事績が聞こえ、嘉議大夫・済南路総管・上軽車都尉を追贈され、太原郡侯を追封された。

劉濬

劉濬は字を済川といい、その先祖は興州の人である。曾祖父の海は金の進士第一人で、河南府尹に至り、国難に死し、子孫は遂に河南に家した。濬は廉訪司書吏より、連江県寧善郷巡検に転じた。

至正十三年、江西の賊帥王善が閩を寇すと、官軍は羅源県を守ってこれを拒いだ。羅源は連江と接壤し、勢い迫らんとしていた。濬の妻の真定史氏は、故相の家の女で、才識有り、濬に言う、「事急なり、兵を聚めて一方を捍ぐべし」と。ここにおいて嫁入り道具を全て出し、壮士百余りを募り、次子の健にこれを将わせた。十日ほどの間に、衆は数万に至った。

賊は間もなく羅源を破り、両道に分かれて福州を攻めると、濬は辰山でこれを拒ぎ、三戦三勝した。俄かに福州陥落を聞き、衆多く潰走したが、濬は独り健兵を率いて進み、中麻で賊に遇い、その陣を突き、前鋒五人を斬った。賊兵が大挙して至り、三時ほど激戦し、濬は矢に中り馬から落ちた。健は下馬してこれを助けたが、共に捕らえられた。濬は憤り、手を戟の如くして大罵し、賊は濬を階下に縛り、まず手の一指を斬ったが、罵りはますます激しく、再び一指を斬っても同様で、指が尽きんとすると、両手首を斬り、次いで両足を斬ったが、濬の顔色は少しも変わらず、罵声なお絶えず、遂にその喉舌を割いて死んだ。健もまた死をもって賊に拒んだので、善はその義を感じ、健を赦し、濬の屍を収めて埋葬させた。

健は帰り、帥府に兵を請いて父の仇を復そうとしたが、聞き入れられず、健は家財を全て散じ、死士百人を結び、工商流丐と詐って賊の中に入り、夜半、火を放ち大いに騒ぎ立てると、賊は驚き擾乱し、自ら相屠戮し、健は手ずから父を殺した者張破四を斬殺し、併せて善及び寇首の陳伯祥を擒えて来て献上し、磔刑に処した。事績が聞こえ、濬に福建行省検校官を追贈し、健に古田県尹を授けた。官は濬のために祠を福州北門外に立て、有司は歳時に祭ったという。

朵里不花

朵里不花は字を端甫といい、蒙古の人である。初め宿えい官となり、累ねて顕要を歴任し、遼陽行省右丞に擢られ、平章政事に昇進した。

陳友諒が江西を陥落させると、詔により江西行省平章政事に任ぜられ、平章政事アルグンシャ(阿兒渾沙)らと分かれて進軍討伐した。そこで海を渡って南下し、広東に向かい、軍を掲陽に駐屯させ、土寇の金元祐を降伏させ、循州・梅州・恵州の三州の賊を招き返した。制書を奉じてその酋長を官に任じ、賊を治めさせて兵糧を供給させた。また別に四千石の穀物を調達し、京師へ輸送した。これより英州・肇慶・欽州・連州の諸郡は皆帰附し、さらに兵を整えて梅嶺から江西を図ろうとした。しかし元祐に異心があり、その地を鎮撫することを口実に、道を遮って固く引き留めた。

先に、制書は劉巨海を広東元帥府僉事に任じたが、まだ発令されないうちに、元祐がこれを盗み取り、その名を書き換え、ひそかに徭賊の劉文遠に与えて、ともに乱を起こすよう誘い、事が発覚すると、文遠は誅殺されたが、元祐とその弟の元泰、子の栄は、逃げ隠れて捕らえられなかった。

やがて栄が外賊を率いて突入し、符信を奪い、官吏を殺害した。変事は突然起こり、兵たちは支えることができなかった。ドリブカ(朵里不花)は参政の楊泰元らと兵を率いて防戦したが、賊はますます多勢となり、ドリブカは鎗に当たり、傷は重かった。その子のダランブカ(達蘭不花)は麾下を率いて力戦したが、戦死した。ドリブカはついに捕らえられ、太平橋まで連行され、罵りを絶やさず、ついに賊に殺された。その妻のブヤン氏(卜顏氏)、妾の高麗氏は側を離れず、皆大声で罵って言った。「我が平章はお前たち父子を厚く遇したのに、お前たち父子はどうしてここまで暴逆なのか。」彼女たちも皆殺害された。その部将のハキ(哈乞)、呉普顔、アラブカ(阿剌不花)、ダイブカ(歹不花)らは、ともに戦死した。

野峻台

野峻台、その父の世延は別に伝がある。四川行省左右司郎中、西行台監察御史、河西廉訪使を経て黄州路総管に転じた。湖広が陥落した後、朝廷はその才能を認め、四川行省参政に昇進させ、平章のヤオジュ(咬住)とともに賊を討つことを命じた。ヤオジュの軍五千のうち、精鋭八百を分けて野峻台を先鋒とし、賊が巴東県を占拠していたのを攻め落とした。この時、帰州・峡州などは皆賊の守るところであったが、野峻台は賊を江上で破り、斬り殺し溺死させた者は数えきれず、やがて帰州・峡州は平定された。

さらに進んで枝江・松滋の両県を陥落させ、勝ちに乗じて江陵に向かった。賊は清水門に出陣し、夕方まで激戦し、賊は城内に退いたので、その門を占拠し、ヤオジュの軍の到着を待った。夜明けに、賊が出て戦い、三時ほど経った時、ヤオジュの軍は百歩外で止まり、救援せず、賊が飛び槍で刺したため、ついに死んだ。事が上聞されると、栄禄大夫・陝西行省平章政事・柱国を追贈され、涼国公を追封され、諡は忠壮といった。

陳君用

陳君用、字は子材、延平の人。若い頃から気概に富み、勇猛は人に勝っていた。紅巾が江淮で起こり、撫州・旴江から福建に入ると、福建の軍府は君用に南平県尹を授け、銭五万緡を与え、千人の兵を募らせた。君用は家財を投じてこれを継ぎ、官軍を導いて建陽・浦城などの県を回復した。功により同知建寧路事を授けられた。

間もなく、賊が福州を包囲すると、君用は兵を率いて救援に向かい、賊の大軍を打ち破った。廉訪僉事の郭興祖は、君用に明珠虎符を佩かせ、権同知副都元帥を代行させた。そこで兵を率いて北嶺を越え、連江に至り、水を隔てて陣を布いた。君用は言った。「今日、賊を殲滅し尽くさねば、私は生きて還ることはない。」そこで壮士六十人を率いて徒歩で渡河し斬り込み、賊は少し潰走したが、やがて再び集結した。君用は大声で呼びながら転戦し、鎗に当たって死んだ。事が上聞されると、懐遠大将軍・浙東道宣慰司同知・副元帥・軽車都尉・潁川郡侯を追贈され、諡は忠毅といった。

卜理牙敦

卜理牙敦、北庭の人、累進して山南廉訪使に至り、中興路を治めた。中興は江漢の藩屏であり、卜理牙敦は管轄区域を巡察するたびに、威厳と恩恵が一致していた。至正十二年、賊が中興を侵犯すると、卜理牙敦は兵をもってこれに抗し、賊を射て多くを死なせ、賊は少し退いた。翌日、再び大軍を擁して東門を襲撃してきたので、卜理牙敦は力戦したが、捕らえられ、屈服せずに死んだ。

さらに翌日、賊がまた攻めてくると、前中興判官の上都が兵を統率して出撃したが、やがて東門が陥落し、上都は慌てて反撃したが、力尽き、賊が捕らえて降伏を迫ると、上都は大声で罵った。賊は怒り、その腹を割き、肉を切り取って殺した。

潮海

潮海、ジャライト氏(扎剌台氏)、国子生から官に入り、靖安県ダルガチ(達魯花赤)となった。至正十二年、蘄州・黄州の賊が起こると、潮海は県尹の黄紹とともに義兵を集め、賊を防ぐ計画を立てた。間もなく、賊兵数万が武寧から来寇したので、黄紹は行省へ救援を求めに行き、潮海は独りで衆を率いて象湖で賊と戦い、これを大破した。そこで進士の胡斗元・塗淵・舒慶遠・甘棠らを起用して謀を練り、勇士の黄雲を先鋒として、二月から八月にかけて、戦いにしばしば勝利し、賊将の洪元帥を生け捕りにした。しかし賊党はますます盛んとなり、黄雲は戦死し、我が軍は敗北し、潮海はついに包囲され、やがて賊に捕らえられ、富州で殺された。

子の民安図は父の職を襲い、本県のダルガチとなった。十三年、衆を率いて賊将を敗走させ、県治を回復した。十四年、賊兵が再び来ると、民安図は迎え撃ったが、力尽き、賊に捕らえられて殺された。

紹は字を仲先といい、臨川の人である。至正八年の進士に及第し、援軍を求めて靖安を出たが、道が阻絶し、官軍に遇い、護衛されて龍興に入った。しかし龍興もまた包囲され、その後包囲が解けると、紹は民安と図って叛境を招諭し、建昌の高坪を過ぎたところで賊に遇い、紹は戦ったが勝てず、衣冠を正して怒罵し、賊に害された。

斗元は字を元浩といい、靖安の人である。至正十年、江西の郷試で第一となり、下第して鰲溪書院の山長を署任した。賊が靖安に至り、斗元の郷里を掠奪すると、斗元は郷兵を率いてこれを撃破した。県治に入り、潮海と共に戦守を図り、潮海が捕らえられた時、賊は脅して降伏させようとしたが、斗元は罵って屈せず、土でその腰を埋められたが死なず、また暗室に縛り置かれたが、斗元は壁を倒して出て、深山に逃れ、狂ったように罵って死んだ。

黄雲は撫州の人で、靖安に寓居し、平素より勇捷をもって称され、戦いに臨むごとに、独り身をもって敵に当たった。かつて数十人に包囲された時、即ち奮身して躍り出た。この時、身に数十鎗を受け、血を噴きながら賊を罵って死んだ。

魏中立

魏中立は字を伯時といい、済南の人である。国子伴読から歴任して陝西行台御史中丞に至り、饒州の守に遷った。賊が湖広を陥落させると、州郡を分攻し、官軍は多く疲懦で拒げず、所在の無頼の輩は多く隙に乗じて窃発し、十日と経たぬうちに、衆は数万に及び、皆短衣草履で、木を削って杷とし、竹を削って槍とし、緋帛を截って巾襖とし、野一面が赤であった。中立は警報を聞くと、即ち丁壮を率いて険要を分塞し、守備を戒めた。間もなく賊が至り、達魯花赤の馬来が出戦したが、一矢も発することができず、賊はますます逼迫した。中立は義兵を以てこれを撃退したが、やがて賊が再び合流し、遂に捕らえられ、紅衣をその身に被せられた。中立はこれを叱り、鬚髯ことごとく張った。賊は彼を蘄水に連れ帰り、己に従わせようとした。中立は大罵して止まず、遂に害された。

間もなく、賊はまた信州を犯し、信州総管の于大本は土兵を以て備禦した。賊首の項甲が東門を破って入り、大本を捕らえ、蘄水に至って俘虜として献上した。偽主はその縄を解き、偽印一紐を与え、かつ官を命じた。大本は印を地に投げ、偽主を指して痛罵したので、遂にまた害された。大本は字を徳中といい、密州の人で、始め儒学教諭より官に入ったという。