元史

本紀第一: 太祖

太祖法天啓運聖武皇帝、諱は鐵木真、姓は奇渥溫氏、蒙古部の人なり。

その十世の祖は孛端叉兒、母は阿蘭果火と曰い、脫奔咩哩犍に嫁ぎ、二子を生む。長は博寒葛答黑、次は博合覩撒里直。既にして夫亡ぶ。阿蘭寡居し、夜帳中に寢す。白光天窓より入り、金色の神人と化し、來りて臥榻に趨くを夢みる。阿蘭驚覺し、遂に娠あり、一子を産む。即ち孛端叉兒なり。孛端叉兒は狀貌奇異にして、沈默寡言、家人之を癡と謂う。獨り阿蘭人に語りて曰く、「此の兒は癡に非ず、後世の子孫必ず大貴なる者有らん。」阿蘭沒し、諸兄家貲を分かつも之に及ばず。孛端叉兒曰く、「貧賤富貴は命なり、貲財何ぞ足らんと謂わん。」獨り青白馬に乗り、八里屯阿懶の地に至り居す。食飲得る所無し。適た蒼鷹有りて野獣を搏ちて食らう。孛端叉兒緡を以て機を設け之を取れば、鷹即ち馴狎す。乃ち鷹を臂にして兔禽を獵りて以て饍と為し、或いは闕くれば即ち継ぎ、天の之を相うが如し。數月居るに、民數十家統急里忽魯の野より水草を逐い來り遷る有り。孛端叉兒茅を結びて之と居り、出入相資し、此より生理稍く足る。一日、仲兄忽之を思いて曰く、「孛端叉兒獨り出でて齎す所無し。近き者は凍餒すること無からんや。」即ち自ら來たり訪い、邀えて俱に歸らんとす。孛端叉兒中路に其の兄に謂いて曰く、「統急里忽魯の民は屬附する所無し。若し兵を以て之に臨まば、服す可し。」兄然りと以為う。家に至り、即ち壯士を選び、孛端叉兒をして之を帥いて前行せしむ。果たして盡く之を降す。

孛端叉兒歿す。子の八林昔黑剌禿合必畜嗣ぐ。子を生みて咩撚篤敦と曰う。咩撚篤敦の妻は莫挐倫と曰い、七子を生みて寡す。莫挐倫は性剛急なり。時に押剌伊而部に群小兒有りて田間の草根を掘りて以て食と為す。莫挐倫車に乗りて出づ。適た之を見て怒りて曰く、「此の田は乃ち我が子の馬を馳する所なり。群兒輒ち敢えて之を壞すか。」車を驅りて徑ちに出で、諸兒を輾傷し、死に至る者有り。押剌伊而忿怨し、盡く莫挐倫の馬羣を驅りて以て去る。莫挐倫の諸子之を聞き、甲を被るに及ばず、往きて之を追う。莫挐倫私に憂えて曰く、「吾が兒甲を以て往かずんば、恐らくは敵に勝つ能わざらん。」子婦をして甲を載せて之に赴かしむ。已に及ぶ無し。既にして果たして其の為す所に敗れ、六子皆死す。押剌伊而勝に乗じて莫挐倫を殺し、其の家を滅ぼす。唯一の長孫海都尚ほ幼く、乳母之を積木の中に匿し、免るるを得たり。是に先立ち、莫挐倫の第七子納真は、八剌忽の民家に於いて贅壻と為り、故に難に及ばず。其の家禍を被るを聞き、來りて之を視る。病嫗十數人と海都尚ほ在るを見る。其の計ふる所無し。幸ひに馬を驅る時、兄の黃馬三たび套竿を掣きて逸れて歸る。納真是に至りて之に乗るを得たり。乃ち偽りて牧馬者と為り、押剌伊而に詣る。路に父子二騎先後に行き、鷹を臂にして獵るに逢う。納真其の鷹を識りて曰く、「此れ吾が兄の擎く所の者なり。」趨りて前へ其の少者を紿いて曰く、「赤馬有りて羣馬を引きて東す。汝之を見しや。」曰く、「否。」少者乃ち問うて曰く、「爾の經過する所に鳧雁有りや。」曰く、「有り。」曰く、「汝吾が為に前導と為る可きか。」曰く、「可なり。」遂に同行す。一つの河隈を轉ず。後騎の相去ること稍く遠きを度り、之を刺殺す。馬と鷹を縶ぎ、趨りて後騎を迎え、之を紿くこと初めの如し。後騎問うて曰く、「前に鳧雁を射る者は吾が子なり。何を為して久しく臥して起たざるや。」納真鼻衄を以て対う。騎者方に怒る。納真隙に乗じて之を刺殺す。復た前に行きて一つの山下に至る。馬數百有り。牧者は唯だ童子數人、方に髀石を撃ちて戲れを為す。納真熟視之、亦た兄が家の物なり。紿いて童子に問う、亦た之の如し。是に於いて山に登り四顧す。悄として來人無し。童子を盡く殺し、馬を驅り鷹を臂にして還る。海都へいびに病嫗を取り、八剌忽の地に歸りて止まる。海都稍く長ず。納真八剌忽怯谷の諸民を率い、共に立てて君と為す。海都既に立ち、兵を以て押剌伊而を攻め、之を臣屬せしむ。形勢寖に大なり。營帳を八剌合黑河上に列ね、河に跨りて梁を為し、以て往來を便す。是より四傍の部族之に歸する者漸く衆し。

海都歿す。子の拜姓忽兒嗣ぐ。拜姓忽兒歿す。子の敦必乃嗣ぐ。敦必乃歿す。子の葛不律寒嗣ぐ。葛不律寒歿す。子の八哩丹嗣ぐ。八哩丹歿す。子の也速該嗣ぎ、諸部落を并吞し、勢愈よ盛大なり。也速該崩ず。至元三年十月、追諡して烈祖神元皇帝と曰う。

初め、烈祖塔塔兒部を征し、其の部長鐵木真を獲たり。宣懿太后月倫適た帝を生む。手に凝血を握ること赤石の如し。烈祖之を異とし、因りて獲たる所の鐵木真を以て之に名づく。武功を志すなり。

族人泰赤烏部舊より烈祖と相善ししも、後塔兒不台用事するに因り、遂に嫌隙を生じ、絶えて通ぜず。及て烈祖崩ず。帝方に幼冲、部眾多く泰赤烏に歸す。近侍に脫端火兒真なる者有り、亦た將に叛かんとす。帝自ら泣きて之を留む。脫端曰く、「深池已に乾き、堅石已に碎けり。留めて復た何を為さん。」竟に眾を帥いて馳せ去る。宣懿太后其の己を弱くするを怒り、旗を麾ぎ兵を將い、躬自ら叛者を追い、其の太半を驅りて還る。

時に帝の麾下搠只薩里河に別居す。札木合の部人禿台察兒玉律哥泉に居り、時に相侵凌せんと欲し、薩里河の牧馬を掠めて以て去る。搠只左右を麾いて羣馬の中に匿れ、之を射殺す。札木合之を怨みと以為い、遂に泰赤烏諸部と謀を合わし、眾三萬を以て來たり戰う。帝時に軍を答闌版朱思の野に駐め、變を聞き、大いに諸部の兵を集め、十有三翼に分けて以て俟つ。已にして札木合至る。帝之と大戰し、破りて走らしむ。

是の時に當たり、諸部の中、唯だ泰赤烏は地廣く民眾多く、最強と號せらる。其の族の照烈部は、帝の居る所に相近し。帝嘗て獵に出づ。偶々照烈の獵騎と相屬す。帝之に謂いて曰く、「今夕同宿す可きか。」照烈曰く、「同宿は固より願う所なれども、從者四百、糗糧備わらざるに因り、已に半ば還し遣わせり。今將に奈何せん。」帝固より邀えて與に宿せしむ。凡そ其の留まる者、悉く之に飲食せしむ。明日再び圍みを合わす。帝左右をして獸を照烈に向かわしむ。照烈多く獲るを得て以て歸る。其の眾之を感し、私に相語らいて曰く、「泰赤烏は我と雖も兄弟なり、常に我が車馬を攘い、我が飲食を奪い、人君の度無し。人君の度有る者は、其れ唯だ鐵木真太子なるか。」照烈の長玉律は、時に泰赤烏の為す所に虐げられ、堪うる能わず、遂に塔海答魯と其の部を領して來たり歸し、將に泰赤烏を殺して以て自ら效せんとす。帝曰く、「我方に熟寐す。幸いに汝我を覺ます。今より車轍人跡の塗は、當に盡く奪いて以て汝に與うべし。」已にして二人其の言を踐む能わず、復た叛き去る。塔海答魯中路に至り、泰赤烏部人の為す所に殺さる。照烈部遂に亡ぶ。

時に帝の功德日盛んなり。泰赤烏諸部多く其の主の法に非ざるを苦しみ、帝の寬仁なるを見、時に人に裘馬を賜う。心之を悅ぶ。若し赤老溫、若し哲別、若し失力哥也不干諸人、若し朵郎吉、若し札剌兒、若し忙兀諸部、皆慕義して來降す。

帝は諸族の薛徹、大丑(及び薛徹別吉)らを会し、各々旄車に湩酪を載せ、斡難河のほとりで宴を開いた。帝と諸族及び薛徹別吉の母忽児真の前には、共に馬湩一革囊を置き、薛徹別吉の次母野別該の前には、独り一革囊を置いた。忽児真は怒って曰く、「今我を尊ばずして、野別該を貴ぶのか」と。帝の主饍者失丘児の仕業を疑い、遂にこれを笞う。ここにおいて頗る隙あり。時に皇弟別里古台は帝の乞列思の事を掌り、乞列思とは、華言で禁外繫馬所なり。播里は薛徹別吉の乞列思の事を掌る。播里の従者が馬靷を盗み去るに因り、別里古台これを捕らう。播里は怒りて別里古台を斫り、その背を傷つく。左右鬭わんと欲すれども、別里古台これを止め、曰く、「汝ら直ちに復讐せんとするか。我が傷は幸い甚だしからず、姑くこれを待て」と。聞かず、各々馬乳橦を執りて疾く鬭い、忽児真、火里真の二哈敦を奪いて帰る。薛徹別吉は使を遣わして和を請い、因って二哈敦を還す。時に塔塔児部長蔑兀真笑里徒が金の約に背く。金主は丞相完顔襄を遣わし兵を帥いてこれを逐い北走せしむ。帝これを聞き、近兵を発して斡難河より迎撃し、仍って薛徹別吉に部人を帥いて来援せしむを諭す。六日を候うも至らず、帝自らと戦い、蔑兀真笑里徒を殺し、その輜重を尽く虜う。

帝の麾下に乃蛮部人に掠められたる者あり、帝これを討たんと欲し、復た六十人を遣わして薛徹別吉に兵を徴す。薛徹別吉は旧怨の故に、その十人を殺し、五十人の衣を去けて帰す。帝怒りて曰く、「薛徹別吉は昔我が失丘児を笞い、我が別里古台を斫り傷つけ、今また敢えて敵の勢いに乗じて我を陵ぐか」と。因って兵を帥いて沙磧を踰えこれを攻め、その部衆を殺虜し、唯だ薛徹、大丑のみ妻孥を以て免る。数ヶ月を越え、帝復た薛徹、大丑を伐ち、帖烈徒の隘に追い至り、これを滅ぼす。

克烈部の札阿紺孛来たりて帰附す。札阿紺孛とは、部長汪罕の弟なり。汪罕の名は脱里、金より封爵を受けて王と為り、番言音重なる故に、王を汪罕と称す。

初め、汪罕の父忽児札胡思盃祿既に卒し、汪罕嗣位す。多く昆弟を殺戮す。その叔父菊児〔罕〕兵を帥いて汪罕と戦い、哈剌温の隘に逼ってこれを敗る。僅かに百余騎を以て脱走し、烈祖に奔る。烈祖親しく兵を将いて菊児〔罕〕を逐い西夏に走らしめ、復た部衆を奪いて汪罕に帰す。汪罕これを徳とし、遂に相い与に盟し、按答と称す。按答とは、華言で交物の友なり。烈祖崩ず。汪罕の弟也力可哈剌、汪罕の多く殺すを怨み、復た叛きて乃蛮部に帰す。乃蛮部長亦難赤為に兵を発して汪罕を伐ち、その部衆を尽く奪いてこれに与う。汪罕は河西、回鶻、回回の三国に走り、契丹に奔る。既にして復た叛き帰る。中道糧絶え、羊乳を捋りて飲みと為し、橐駝の血を刺して食いと為し、困乏甚だし。帝はその烈祖と交好せしを以て、近侍を遣わして往きてこれを招く。帝親しく迎え撫労し、軍中に安置して振給す。遂に土兀剌河上に会し、汪罕を父として尊ぶ。

未だ幾ばくもあらざるに、帝蔑里乞部を伐ち、その部長脱脱と莫那察山に戦い、遂にその資財、田禾を掠め、以て汪罕に遺す。汪罕ここに因りて部衆稍く集まる。

居ること亡き何、汪罕自らその勢い以て為す有るに足ると為し、帝に告げず、独り兵を率いて復た蔑里乞部を攻む。部人敗走し、脱脱は八児忽真の隘に奔る。汪罕大いに掠めて還る。帝に於いて一も遺す所無し。帝これを屑意とせず。

時に乃蛮部長不(魯欲)〔欲魯〕罕服さず。帝復た汪罕とともにこれを征し、黒辛八石の野に至り、その前鋒也的脱孛魯なる者、百騎を領して来たり戦うに遇う。軍勢漸く逼るを見て、高山に拠りて走る。その馬鞍転じて墜ち、これを擒う。未だ幾ばくもあらざるに、帝復た乃蛮のぎょう将曲薛吾撒八剌の二人に遇う。時に日暮れ、各々営壘に還り、明日戦わんことを約す。この夜、汪罕多く火を営中に燃やし、人に疑わしからざるを示し、潜かに部衆を別所に移す。旦に及び、帝始めてこれを知り、因って頗るその異志有るを疑い、薩里河に退師す。既にして汪罕もまた還りて土兀剌河に至る。汪罕の子亦剌合及び札阿紺孛来たり会す。曲薛吾ら察知し、その不備に乗じ、道においてその部衆を襲い虜う。亦剌合奔りて汪罕に告ぐ。汪罕は亦剌合と卜魯忽䚟に命じ共にこれを追わしめ、且つ使を遣わして来たりて曰く、「乃蛮道無く、我が人民を掠む。太子に四良将あり、我に仮りて以て恥を雪がんことを能くせんか」と。帝頓に前憾を釈し、遂に博爾朮、木華黎、博羅渾、赤老温の四人を遣わし、師を帥いて以往かしむ。師未だ至らざるに、亦剌合既に曲薛吾に追い及び、これと戦い、大いに敗れ、卜魯忽䚟成りて擒らわる。流矢亦剌合の馬胯に中り、幾くんか獲らるる所と為らんとす。須臾にして四将至り、乃蛮を撃ち走らしめ、掠めし所を尽く奪いて汪罕に帰す。已にして皇弟哈撒児と再び乃蛮を伐ち、忽闌盞側山に拒鬭し、これを大いに敗り、その諸将族衆を尽く殺し、屍を積みて以て京観と為す。乃蛮の勢い遂に弱まる。

時に泰赤烏猶お強し。帝は汪罕と薩里河に会し、泰赤烏部長沆忽らと大いに斡難河上に戦い、これを敗走せしめ、斬獲算うるに遑あらず。

哈答斤部、散兄兀部、朵魯班部、塔塔児部、弘吉剌部、乃蛮、泰赤烏の敗るるを聞き、皆威を畏れて自ら安からず、阿雷泉に会し、白馬を斬って誓いと為し、帝及び汪罕を襲わんと欲す。弘吉剌部長迭夷、事成らざるを恐れ、潜かに人を遣わして変を告ぐ。帝と汪罕は虎図澤より逆に盃亦烈川に戦い、またこれを大いに敗る。

汪罕遂に兵を分かち、自ら〔怯〕緑憐河より行く。札阿紺孛は按敦阿述、燕火脱児らと謀りて曰く、「我が兄性行常ならず、既に我が昆弟を屠絶せり。我輩また豈に独り全からんや」と。按敦阿述その言を泄らす。汪罕は燕火脱児らを執いて帳下に至らしめ、その縛を解き、且つ燕火脱児に謂いて曰く、「吾輩は西夏より来たり、道路饑困せり。その相い誓いし語、遽かにこれを忘るるか」と。因ってその面に唾す。坐上の人皆起ちてこれに唾す。汪罕また屡々札阿紺孛を責め、堪えざるに至らしむ。札阿紺孛は燕火脱児らとともに俱に乃蛮に奔る。

帝は軍を徹徹児山に駐め、兵を起こして塔塔児部を伐つ。部長阿剌兀都児ら来たり逆戦す。大いにこれを敗る。

時に弘吉剌部来たりて附かんと欲す。哈撒児その意を知らず、往きてこれを掠む。ここにおいて弘吉剌は札木合部に帰し、朵魯班、亦乞剌思、哈答斤、火魯剌思、塔塔児、散只兀諸部と、犍河に会し、共に札木合を立てて局児罕と為し、禿律別児河岸に盟し、誓いと為して曰く、「凡そ我が同盟、この謀を洩らす者有らば、岸の摧くるが如く、林の伐たるるが如し」と。誓い畢り、共に足を挙げて岸を蹋み、刀を揮いて林を斫り、士卒を駆りて来たり侵す。塔海哈時に衆中に在り、帝の麾下抄吾児と連姻す。抄吾児偶々往きてこれを視る。具にその謀を知り、即ち還りて帝の所に至り、悉くその謀を以てこれを告ぐ。帝即ち兵を起こし、海剌児、帖尼火魯罕の地に逆戦し、これを破る。札木合脱走す。弘吉剌部来たり降る。

壬戌の歳、帝は兀魯回失連真河より兵を発し、按赤塔塔児・察罕塔塔児の二部を伐った。先ず師を誓いて曰く、「もし敵を破りて北に逐うときは、棄て遺されたる物を見るも、慎んで獲ることなかれ、軍事畢りて之を散ずるを俟てよ」と。既にして果たして勝ち、族人の按彈・火察児・答力台の三人、約に背く。帝怒り、その獲たる所を尽く奪い、軍中に分かつ。

初め、脱脱は敗走して八児忽真の隘に走り、既にして復た出でて患いとなす。帝兵を帥いて討ち走らす。是に至り、又た乃蛮部の不魯欲罕(不欲魯罕)と会し、朶魯班・塔塔児・哈答斤・散只兀の諸部を約して来侵す。帝は騎を遣わし高きに乗りて四望せしむ。乃蛮の兵漸く至るを知り、帝は汪罕と軍を移して塞に入る。亦剌合は北辺より来たりて高山を拠りて営を結ぶ。乃蛮軍之を衝くも動かず、遂に還る。亦剌合尋いで亦た塞に入る。将に戦わんとす、帝は輜重を他所に遷し、汪罕と阿蘭塞に倚りて壁と為し、闕奕壇の野に大戦す。乃蛮は神巫をして風雪を祭らしめ、その勢いに因りて進攻せんと欲す。既にして風反り、その陣を逆撃す。乃蛮軍戦う能わず、引き還らんと欲す。雪溝澗に満つ。帝兵を勒して之に乗ず。乃蛮大敗す。是の時、札木合の部、兵を起こして乃蛮を援く。その敗るるを見て、即ち還る。道すがら諸部の己を立てし者を経て、大いに掠奪を縦にして去る。

帝は長子朮赤の為に汪罕の女抄児伯姫に昏を求めんと欲し、汪罕の孫禿撒合も亦た帝の女火阿真伯姫を尚ばんと欲す。俱に諧わず。ここより頗る違言有り。初め、帝は汪罕と軍を合して乃蛮を攻め、明日戦わんと約す。札木合、汪罕に言う、「我は君には白翎雀、他人は鴻雁なり。白翎雀は寒暑北方に常在す。鴻雁は寒に遇えば則ち南に飛びて暖きに就くのみ」と。意は帝の心保つべからざるを謂うなり。汪罕之を聞きて疑い、遂に部衆を別の所に移す。及び昏を議うて成らず、札木合復た隙に乗じて亦剌合に謂う、「太子は汪罕の子と雖も言う、嘗て乃蛮に通信し、将に君父子に利あらざらんとす。君若能く兵を加うれば、我当に傍より君を助けん」と。亦剌合之を信ず。答力台・火察児・按彈等の叛きて亦剌合に帰するに会い、之を説いて曰く、「我等は君に佐けて宣懿太后の諸子を討たんことを願う」と。亦剌合大いに喜び、使いを遣わして汪罕に言う。汪罕曰く、「札木合は巧言寡信の人なり、聴くに足らず」と。亦剌合力を尽くして之を言う。使者往復すること数四。汪罕曰く、「吾が身の存するは、実に太子是に頼る。髭鬚已に白し、遺骸安寝を得んことを冀う。汝乃ち喋喋として已まざるか。汝善く自ら之を為せ、吾が憂いを貽すことなかれ可なり」と。札木合遂に火を放ちて帝の牧地を焚きて去る。

癸亥の歳、汪罕父子、謀りて帝を害せんと欲し、乃ち使者を遣わして来たりて曰く、「向者議う所の婣事、今当に相従うべし、来たりて布渾察児を飲まんことを請う」と。布渾察児は、華言にて許親の酒なり。帝然りと以為い、十騎を率いて之に赴く。中道に至り、心に疑う所有り、一騎を命じて往きて謝せしめ、帝遂に還る。汪罕の謀既に成らず、即ち兵を挙げて来侵するを議う。圉人の乞失力、その事を聞き、密かに弟の把帯とともに帝に告ぐ。帝即ち軍を馳せて阿蘭塞に至り、輜重を尽く他所に移し、折里麥を遣わして前鋒と為し、汪罕の至るを俟ちて即ち兵を整えて出戦す。先ず朱力斤部に遇い、次に董哀部に遇い、又た次に火力失烈門部に遇い、皆之を敗る。最後に汪罕の親兵に遇い、又た之を敗る。亦剌合、勢い急なるを見て、突き来たりて陣を衝く。之を射て頰に中つ。即ち兵を斂めて退く。怯里亦部の人遂に汪罕を棄てて来降す。

汪罕既に敗れて帰り、帝も亦た兵を将いて還りて董哥沢に至り軍を駐め、阿里海を遣わして汪罕に責を致して曰く、「君は叔父菊児罕に逐われ、困迫して来帰す。我が父即ち菊児罕を攻め、河西に之を敗り、その土地人民を尽く収めて君に与う。此れ君に大いに功有る一なり。君は乃蛮に攻められ、西に奔りて日の没する処に至る。君の弟札阿紺孛は金境に在り、我亟に人を遣わして召し還す。比至るに、又た蔑里乞部の人に逼られ、我は我が兄薛徹別及及び我が弟大丑を請いて往きて之を殺さしむ。此れ君に大いに功有る二なり。君困迫して来帰する時、我は哈丁里を過ぎ、諸部の羊・馬・資財を歴掠し、尽く以て君に奉ず。半月に満たずして、君の飢うる者を飽かしめ、瘠せる者を肥えしむ。此れ君に大いに功有る三なり。君は我に告げずして蔑里乞部を掠め、大いに獲て還るも、未だ毫髪を以て我に分たず。我は意と為さず。君が乃蛮に傾覆せらるるに及び、我は四将を遣わして爾が民人を奪い還し、重ねて爾が国家を立つ。此れ君に大いに功有る四なり。我は朶魯班・塔塔児・哈答斤・散只兀・弘吉剌の五部を征すこと、海東の鷙禽の鵝雁に対するが如く、見て獲ざる無く、獲れば則ち必ず君に致す。此れ君に大いに功有る五なり。是の五者は皆明らかなる験有り。君我に報いざるは則ち已む。今乃ち恩を易えて讐と為し、而して遽かに兵を我に加うるか」と。汪罕之を聞き、亦剌合に語りて曰く、「我が向者の言、何如。吾が児宜しく之を識るべし」と。亦剌合曰く、「事勢今日に至りては、必ず已むべからず。唯だ力を竭くして戦鬭するのみ。勝てば則ち彼を併せ、彼勝てば則ち我を併せんのみ。多く言うこと何為」と。

時に帝の諸族の按彈・火察児は皆汪罕の左右に在り。帝因りて阿里海を遣わして汪罕を誚責せしめ、就きて之に告げしめて曰く、「昔者吾が国に主無く、薛徹・太丑の二人は実に我が伯祖八剌哈の裔なり、之を立てんと欲す。二人既に固く辞す。乃ち汝火察児を以て伯父聶坤の子と為し、又た之を立てんと欲す。汝又た固く辞す。然れども事中輟すべからず。復た汝按彈を以て我が祖忽都剌の子と為し、又た之を立てんと欲す。汝又た固く辞す。ここに於いて汝等推戴して吾を以て主と為す。初め豈に我が本心ならんや、自ら意わざらんや相迫りて此くの如きに至るを。三河は祖宗肇基の地なり。他人の所有と為すことなかれ。汝善く汪罕に事えよ。汪罕は性無常なり。我に遇うに尚お此くの如し。況んや汝輩をや。我今去らん。我今去らん」と。按彈等一言無し。

帝既に使いを汪罕に遣わし、遂に兵を進めて弘吉剌別部の溺児斤を虜え以て行く。班朱尼河に至る。河水方に渾り、帝之を飲みて以て衆を誓う。亦乞烈部の人孛徒なる者有り、火魯剌部に敗られ、因りて帝に遇い、之と同盟す。哈撒児は別に哈剌渾山に居し、妻子は汪罕に虜えらる。幼子の脱虎を挟みて走り、糧絶え、鳥卵を探りて食と為し、河上に来たりて会す。時に汪罕の形勢盛んにして強く、帝微弱にして、勝敗未だ知るべからず。衆頗る危懼す。凡そ河水を飲みし者と与にするを、之を渾水を飲むと謂い、その曾て艱難を同じくするを言うなり。汪罕の兵至る。帝と之と哈闌真沙陀の地に戦う。汪罕大敗す。その臣の按彈・火察児・札木合等、謀りて汪罕をしいせんとす。克たず、往きて乃蛮に奔る。答力台・把憐等の部、稽顙して来降す。

帝は軍を移して斡難河の源に駐し、汪罕を攻めんと謀り、また二使を汪罕のもとに遣わし、偽って哈撒兒の言葉として曰く、「我が兄太子は今既に所在を知らず、我が妻子はまた王の所に在り、仮に我が往かんと欲するも、将に何れの所にか之かんや。王もし我が前の過ちを棄て、我が旧好を念ずれば、即ち束手して来帰せん」と。汪罕はこれを信じ、因って人を二使に随わせて来らしめ、皮囊に血を盛って之と盟せしむ。至るに及んで、即ち二使を以て嚮導と為し、軍士に銜枚して夜に趨き折折運都山に至り、其の不意に出で、汪罕を襲い、之を破る。克烈部の衆を尽く降す。汪罕と亦剌合は身を挺して遁れ去る。汪罕嘆いて曰く、「我は吾が児に誤らる。今日の禍、悔ゆるも将に何ぞ及ばんや」と。汪罕出走し、路にて乃蠻部の将に逢い、遂に其の為に殺さる。亦剌哈は西夏に走り、日々剽掠して以て自ら資す。既にして西夏に攻められて走り、龜茲国に至る。龜茲国主は兵を以て討ちて之を殺す。

帝は既に汪罕を滅ぼし、帖麥該川に大いに狩猟し、号令を宣布し、凱を振いて帰る。時に乃蠻部の太陽罕は心に帝の能を忌み、使を遣わして白達達部の主阿剌忽思に謀りて曰く、「吾聞く、東方に帝と称する者有りと。天に二日無く、民豈に二王有らんや。君能く吾が右翼を益さば、吾将に其の弧矢を奪わん」と。阿剌忽思は即ち是の謀を以て帝に報じ、居ること無幾、挙部して来帰す。

歳甲子、帝は帖麥該川に大いに会し、乃蠻を伐たんことを議す。群臣は方春馬痩るるを以て、宜しく秋高きを俟つべしと為言す。皇弟斡赤斤曰く、「事の為すべき所は、之を断つは早きに在り。何ぞ馬痩を以て辞と為すべけんや」と。別里古台も亦曰く、「乃蠻は我が弧矢を奪わんと欲す。是れ我を小にするなり。我輩は義当に同死すべし。彼は其の国大なるを恃みて言誇る。苟も其の不備に乗じて之を攻めば、功当に成る可し」と。帝悦びて曰く、「此の衆を以て戦わば、何ぞ勝たざるを憂えん」と。遂に進兵して乃蠻を伐つ。建忒該山に兵を駐め、先ず虎必来・哲別の二人を遣わして前鋒と為す。太陽罕は按臺より至り、沆海山に営し、蔑里乞部長脱脫・克烈部長阿憐太石・猥剌部長忽都花別吉、及び禿魯班・塔塔児・哈答斤・散只兀諸部と合し、兵勢頗る盛んなり。時に我が隊中の羸馬、驚きて乃蠻の営中に入る者有り。太陽罕之を見て、衆と謀りて曰く、「蒙古の馬の痩弱なること此の如し。今当に其の深入を誘い、然る後に戦いて之を擒うべし」と。其の将火力速八赤対えて曰く、「先王の戦伐は、勇進して回らず、馬尾人背、敵人の之を見しめざりき。今此の遷延の計を為すは、心中に懼るる所有るに非ずや。苟も之を懼るれば、何ぞ后妃をして軍を統べしめざるや」と。太陽罕怒り、即ち馬を躍らせて戦いを索む。帝は哈撒兒を以て中軍を主と為さしむ。時に札木合は太陽罕に従いて来たり、帝の軍容の整肅なるを見て、左右に謂ひて曰く、「乃蠻初め兵を挙ぐるに、蒙古軍を𦍩䍽の羔児の若しと視て、意に蹄皮も留めざらんと謂へり。今吾其の気勢を観るに、殆ど往時に非ず」と。遂に将ひて所部の兵を遁れ去る。是の日、帝は乃蠻軍と大戦して晡に至り、太陽罕を禽殺す。諸部の軍一時に皆潰え、夜に走りて絶險に陥り、崖に墜ちて死する者算うるに勝えず。明日、余衆悉く降る。ここに於て朵魯班・塔塔児・哈答斤・散只兀の四部も亦来降す。

已にして復た蔑里乞部を征す。其の長脱脫は太陽罕の兄卜欲魯罕に奔る。其の属帯児兀孫は女を献げて迎え降るも、俄かに復た叛き去る。帝は泰寒寨に至り、孛羅歓・沈白の二人を遣わし右軍を領して往きて之を平げしむ。

歳乙丑、帝は西夏を征し、力吉里寨を抜き、落思城を経て、大いに人民及び其の橐駝を掠めて還る。

元年丙寅、帝は諸王群臣を大いに会し、九游の白旗を建て、即ち皇帝の位に即くこと斡難河の源に於てす。諸王群臣共に尊号を上りて成吉思皇帝と曰う。是の歳は実に金の泰和の六年なり。

帝は既に即位し、遂に兵を発して復た乃蠻を征す。時に卜欲魯罕は兀魯塔山に狩猟す。之を擒えて帰る。太陽罕の子屈出律罕は脱脫と共に也児的石河の上に奔る。

帝始めて金を伐たんことを議す。初め、金は帝の宗親咸補海罕を殺す。帝は復讐せんと欲す。会うに金の降俘等、具に金主璟の暴虐を行うを言う。帝乃ち討を致さんことを定議す。然れども未だ敢えて軽動せず。

二年丁卯秋、再び西夏を征し、斡羅孩城を克つ。

是の歳、按彈・不兀剌の二人を遣わして乞力吉思に使わす。既にして野牒亦納里部・阿里替也児部、皆使を遣わして来たり名鷹を献ず。

三年戊辰春、帝は西夏より至る。

夏、龍庭に避暑す。

冬、再び脱脫及び屈出律罕を征す。時に斡亦剌部等、我が前鋒に遇い、戦わずして降り、因って之を用いて嚮導と為す。也児的石河に至り、蔑里乞部を討ち、之を滅ぼす。脱脫は流矢に中りて死す。屈出律は契丹に奔る。

四年己巳春、畏吾児国来帰す。帝は河西に入る。夏主李安全は其の世子を遣わして師を率い来たり戦うも、之を敗り、其の副元帥高令公を獲る。兀剌海城を克ち、其の太傅西壁氏を俘う。進みて克夷門に至り、復た夏師を敗り、其の将嵬名令公を獲る。中興府に薄り、河水を引いて之を灌ぐ。堤決ち、水外に潰ゆ。遂に囲みを撤して還る。太傅訛答を遣わし中興に入り、夏主を招諭す。夏主は女を納れて和を請う。

五年庚午春、金は来たり伐たんと謀り、烏沙堡を築く。帝は遮別に命じ、其の衆を襲殺せしめ、遂に地を略して東す。

初め、帝は金に歳幣を貢いでいたが、金主が衛王允済を遣わして浄州に貢ぎさせた。帝は允済に礼を尽くさなかった。允済が帰ると、兵を請うてこれを攻めようとした。ちょうど金主璟が崩じ、允済が嗣位した。詔が国に至り、拝して受けるべきと伝えられた。帝は金使に問うて言った、「新君は誰か」。金使が言うには、「衛王です」。帝は急に南面して唾して言った、「私は中原の皇帝は天上の人がなすものと思っていたが、このような凡庸で懦弱な者もなすのか、どうして拝する必要があろうか」。即ち馬に乗って北へ去った。金使が帰ってこれを言うと、允済はますます怒り、帝が再び入貢するのを待ち、進場でこれを害そうとした。帝はこれを知り、遂に金と絶ち、ますます兵を厳しくして備えとした。

六年辛未の春、帝は怯緑連河に居た。西域の哈剌魯部の主阿昔蘭罕が来降した。畏吾児国の主亦都護が来朝した。

二月、帝みずから将として南伐し、野狐嶺において金の将定薛を破り、大水濼・豊利等の県を取った。金はまた烏沙堡を築いた。

秋七月、遮別に命じて烏沙堡及び烏月営を攻めさせ、これを抜いた。

八月、帝は金師と宣平の会河川において戦い、これを破った。

九月、徳興府を抜き、居庸関の守将は遁走した。遮別は遂に関に入り、中都に至った。

冬十月、金の群牧監を襲い、その馬を駆って還った。耶律阿海が降り、行在所において帝に謁見した。皇子朮赤・察合台・窩闊台が分かれて雲内・東勝・武・朔等の州を徇い、これを下した。

この冬、金の北境に駐蹕した。劉伯林・夾谷長哥等が来降した。

七年壬申の春正月、耶律留哥が隆安に衆を聚め、自ら都元帥と為り、使いを遣わして来附した。帝は昌・桓・撫等の州を破った。金の将紇石烈九斤等が兵三十万を率いて来援し、帝はこれと獾児觜において戦い、大いにこれを破った。

秋、西京を囲んだ。金の元帥左都監奥屯襄が師を率いて来援し、帝は兵を遣わして密谷口に誘い至らせて逆撃し、ことごとく殪した。また西京を攻めたが、帝は流矢に中り、遂に囲みを解いた。

九月、察罕が奉聖州を克った。

冬十二月甲申、遮別が東京を攻めて抜けず、即ち引き去り、夜に馳せ還り、襲ってこれを克った。

八年癸酉の春、耶律留哥が自立して遼王と為り、元号を元統と改めた。

秋七月、宣徳府を克ち、遂に徳興府を攻めた。皇子拖雷・駙馬赤駒が先登し、これを抜いた。帝は進んで懐来に至った。金の行省完顔綱・元帥高琪と戦い、これを破り、北口まで追った。金兵は居庸を保ち、詔して可忒・薄剎にこれを守らせた。遂に涿鹿に向かった。金の西京留守忽沙虎は遁走した。帝は紫荊関を出て、五回嶺において金師を破り、涿・易の二州を抜いた。契丹の訛魯不児等が北口を献じ、遮別は遂に居庸を取り、可忒・薄剎と会した。

八月、金の忽沙虎がその主允済を弑し、豊王珣を迎えて立てた。

この秋、兵を三道に分けた。皇子ジュチ、チャガタイ、オゴデイを右軍とし、太行山に沿って南下し、保州、遂州、安粛軍、安定州、邢州、洺州、磁州、相州、えい州、輝州、懐州、孟州を攻略し、沢州、潞州、遼州、沁州、平陽府、太原府、吉州、隰州を掠め、汾州、石州、嵐州、忻州、代州、武州等の州を陥れて還った。皇弟ハサル及びオチュ・ノヤン、ジュチダイ、ボチャを左軍とし、海に沿って東進し、薊州、平州、灤州、遼西の諸郡を攻略して還った。帝と皇子トルイは中軍とし、雄州、覇州、莫州、安州、河間府、滄州、景州、献州、深州、祁州、蠡州、冀州、恩州、濮州、開州、滑州、博州、済州、泰安州、済南府、濱州、棣州、益都府、淄州、濰州、登州、萊州、沂州等の郡を攻略した。またムカリに命じて密州を攻撃させ、これを屠った。史天倪、蕭勃迭が衆を率いて降伏して来たので、ムカリは制を承ってともに万戸とした。帝は中都に至り、三道の兵は還り、大口に合流して駐屯した。

この年、河北の郡県はことごとく陥落し、ただ中都、通州、順州、真定府、清州、沃州、大名府、東平府、徳州、邳州、海州の十一城のみが下らなかった。

九年甲戌の春三月、中都の北郊に駐蹕した。諸将が勝に乗じて燕京を破るよう請うたが、帝は従わなかった。そこで使者を遣わして金主に諭して言うには、「汝の山東、河北の郡県は悉く我が有となった。汝の守る所はただ燕京のみである。天既に汝を弱くしたのに、我がさらに汝を険地に迫れば、天は我をどう言うであろうか。我今軍を還すが、汝は師を犒って我が諸将の怒りを和らげることができないのか」と。金主は遂に使者を遣わして和を求め、衞紹王の女である岐国公主及び金帛、童男女五百人、馬三千頭を奉って献じ、なおその丞相完顔福興を遣わして帝を居庸関から送り出させた。

夏五月、金主は汴京に遷都し、完顔福興及び参政抹撚盡忠にその太子守忠を輔佐させ、中都に留守とした。

六月、金の乣軍の斫答等がその主帥を殺し、衆を率いて降伏して来た。詔して三摸合、石抹明安に斫答等とともに中都を包囲させた。帝は魚兒濼に避暑した。

秋七月、金の太子守忠は汴京に逃れた。

冬十月、ムカリは遼東を征し、高州の盧琮、金朴等が降伏した。錦州の張鯨がその節度使を殺し、自立して臨海王と称し、使者を遣わして降伏して来た。

十年乙亥の春正月、金の右副元帥蒲察七斤が通州を以て降伏し、七斤を元帥とした。

二月、ムカリは北京を攻め、金の元帥寅答虎、烏古倫が城を以て降伏した。寅答虎を留守とし、吾也而に兵馬都元帥を権行させてこれを鎮守させた。興中府の元帥石天応が降伏して来たので、天応を興中府尹とした。

三月、金の御史中丞李英等が師を率いて中都を救援し、覇州において戦い、これを破った。

夏四月、清州、順州の二州を陥れた。詔して張鯨に北京十提控の兵を総率させて南征に従わせた。張鯨が謀叛を企て誅殺された。張鯨の弟の致は遂に錦州を占拠し、僭称して漢興皇帝と号し、元号を興龍と改めた。

五月庚申、金の中都留守完顔福興が仰薬して死に、抹撚盡忠は城を棄てて逃走し、明安が入ってこれを守った。この月、桓州涼涇に避暑した。忽都忽等を遣わして中都の帑蔵を籍没させた。

秋七月、紅羅山寨の主杜秀が降伏し、秀を錦州節度使とした。乙職里を遣わして金主に諭し、河北、山東の未だ下らざる諸城を献じ、及び帝号を去って河南王と称するならば、兵を罷めんとすべしと伝えさせた。従わなかった。詔して史天倪に南征させ、右副都元帥を授け、金虎符を賜った。

八月、天倪は平州を攻略し、金の経略使乞住が降伏した。ムカリは史進道等を遣わして広寧府を攻撃させ、これを降した。

この秋、攻略した城邑は凡そ八百六十二に及んだ。

冬十月、金の宣撫蒲鮮萬奴が遼東に拠り、天王を僭称し、国号を大真とし、元号を天泰と改めた。

十一月、耶律留哥が来朝し、その子斜闍を入侍させた。史天祥が興州を討ち、その節度使趙守玉を擒えた。

十一年丙子の春、廬朐河の行宮に還る。張致が興中府を陥とし、木華黎がこれを討ち平らげた。

秋、撒里知兀䚟三摸合拔都魯が師を率いて西夏より関中に趨き、遂に潼関を越え、金の西安軍節度使尼龐古蒲魯虎を獲、汝州等の郡を抜き、汴京に抵って還った。

冬十月、蒲鮮萬奴が降り、その子帖哥を入侍させた。既にしてまた叛き、東夏を僭称した。

十二年丁丑の夏、盗賊の祁和尚が武平に拠る。史天祥がこれを討ち平らげ、遂に金の将たる巢元帥を擒えて献じた。察罕が金の監軍夾谷を州に破り、金が和を求め、察罕は乃ち還った。

秋八月、木華黎を太師と為し、国王に封じ、蒙古・乣・漢の諸軍を将いて南征し、遂城・蠡州を抜く。

冬、大名府を克ち、遂に東に益都・淄・登・萊・濰・密等の州を定む。

是の歳、禿満部の民叛く。鉢魯完・朵魯伯を命じてこれを討ち平らげしむ。

十三年戊寅の秋八月、兵を紫荊口に出し、金の行元帥事張柔を獲、命じてその旧職に還らしむ。木華黎、西京より河東に入り、太原・平陽及び忻・代・澤・潞・汾・霍等の州を克つ。金の将武仙、満城を攻む。張柔これを撃ち破る。

是の年、西夏を伐ち、その王城を囲む。夏の主李遵頊、西涼に出奔す。契丹の六哥、高麗の江東城に拠る。哈真・札剌を命じて師を率いてこれを平らげしむ。高麗王㬚遂に降り、歳貢方物を請う。

十四年己卯の春、張柔、武仙を破り、祁陽・曲陽・中山等の城を降す。

夏六月、西域、使者を殺す。帝、師を率いて親征し、訛答剌城を取り、その酋長ハジル・ジラントゥを擒える。

秋、木華黎、岢・嵐・吉・隰等の州を克ち、進んで絳州を攻め、その城を抜き、これを屠る。

十五年庚辰の春三月、帝、蒲華城を克つ。

夏五月、尋思干城を攻略し、行幸は也児的石河に駐留した。

秋、斡脱羅児城を攻撃し、これを攻略した。木華黎は真定まで領土を平定し、武仙が降伏した。史天倪を河北西路兵馬都元帥・行府事とし、武仙をその副官とした。東平の厳実が彰徳・大名・磁・洺・恩・博・滑・濬などの州の戸三十万を籍に載せて帰順し、木華黎は詔命を受けて厳実に金紫光禄大夫・行尚書省事を授けた。

冬、金の邢州節度使武貴が降伏した。木華黎は東平を攻撃したが落とせず、厳実を留めてこれを守らせ、包囲を解いて洺州へ向かい、兵を分けて河北の諸郡を平定した。

この年、董俊に龍虎衛上將軍・右副都元帥を授けた。

十六年辛巳の春、帝は卜哈児・薛迷思干などの城を攻撃し、皇子朮赤は養吉干・八児真などの城を攻撃し、ともにこれを陥落させた。

夏四月、行幸は鐵門關に駐留した。金主が烏古孫仲端を遣わして国書を奉り和を請い、帝を兄と称した。許さなかった。金の東平行省事忙古が城を棄てて逃げ、厳実が入ってこれを守った。宋が苟夢玉を遣わして和を請うてきた。

夏六月、宋の漣水忠義統轄石珪が衆を率いて降伏してきた。石珪を済・兖・単三州総管とした。

秋、帝は班勒紇などの城を攻撃し、皇子朮赤・察合台・窩闊台は玉龍傑赤などの城を分かれて攻撃し、これを陥落させた。

冬十月、皇子拖雷が馬魯察葉可・馬魯・昔剌思などの城を攻略した。木華黎は河西に出て、葭・綏徳・保安・鄜・坊・丹などの州を攻略し、延安を攻撃したが落とせなかった。

十一月、宋の京東安撫使張琳が京東の諸郡を率いて降伏してきた。張琳を滄・景・濱・棣などの州行都元帥とした。

この年、徳順州に詔を下して諭した。

十七年壬午の春、皇子拖雷が徒思・匿察兀児などの城を攻略した。帰途に木剌夷国を経由し、大いにこれを略奪した。搠搠闌河を渡り、也里などの城を攻略した。ついに帝と合流し、兵を合わせて塔里寒寨を攻撃し、これを陥落させた。木華黎軍は乾・涇・邠・原などの州を攻略し、鳳翔を攻撃したが落とせなかった。

夏、塔里寒寨で暑を避けた。西域主札闌丁が逃亡し、滅里可汗と合流した。忽都忽がこれと戦って不利となった。帝みずから将兵を率いてこれを撃ち、滅里可汗を生け捕りにした。札闌丁は逃げ去り、八剌を派遣してこれを追わせたが、捕らえられなかった。

秋、金が再び烏古孫仲端を遣わして和を請うてきた。回鶻国において帝に謁見した。帝は言った。「私は以前、汝の主君に河朔の地を我に与えさせ、汝の主君を河南王とし、互いに兵を収めようとしたが、汝の主君は従わなかった。今、木華黎がすでにこれをことごとく取った後に、ようやく来て請うのか。」仲端は哀願した。帝は言った。「汝が遠くから来たことを思えば、河朔はすでに我が有するところとなり、関西の数城で未だ落ちていないものは、これを割譲して我に与えよ。汝の主君を河南王とし、再び背くことなかれ。」仲端はついに帰った。金の平陽公胡天作が青龍堡を率いて降伏した。

冬十月、金の河中府が帰順してきた。石天応を兵馬都元帥としてこれを守らせた。

十八年癸未の春三月、太師・國王木華黎薨ず。

夏、八魯彎川に避暑す。皇子朮赤・察合台・窩闊台及び八剌の兵来会し、遂に西域諸城を定め、達魯花赤を置きて監治せしむ。

冬十月、金主珣殂ち、子守緒立つ。

是の歳、宋復た苟夢玉を遣わし来る。

十九年甲申の夏、宋の大名総管彭義斌河北を侵す。史天倪之と恩州に戦い、之を敗る。

是の歳、帝東印度国に至り、角端見ゆ。師を班す。

二十年乙酉春正月、行宮に還る。

二月、武仙真定を以て叛き、史天倪を殺す。董俊の判官李全亦た中山を以て叛く。

三月、史天澤仙を撃ちて之を走らしめ、真定を復す。

夏六月、彭義斌兵を以て仙に応ず。天澤之を贊皇に禦ぎ、之を擒え斬る。

二十一年丙戌春正月、帝西夏の仇人亦臘喝翔昆を納れ、及び質子を遣わさざるを以て、自ら将として之を伐つ。

二月、黒水等の城を取る。

夏、渾垂山に避暑す。甘・肅等の州を取る。

秋、西涼府搠羅・河羅等の県を取り、遂に沙陀を踰え、黄河九渡に至り、応里等の県を取る。

九月、李全張琳を執る。郡王帯孫兵を進めて全を益都に囲む。

冬十一月庚申、帝は霊州を攻め、夏は嵬名令公を派遣して来援した。丙寅、帝は河を渡って夏の軍を撃ち、これを破った。丁丑、五星が西南に集まって現れた。塩州川に駐蹕した。

十二月、李全が降った。張柔に行軍千戸・保州等処都元帥を授けた。

この年、皇子オゴデイ及びチャガンの軍は金の南京を包囲した。唐慶を金に派遣して歳幣を責めた。

二十二年丁亥の春、帝は兵を留めて夏の王城を攻めさせ、自らは軍を率いて河を渡り積石州を攻めた。

二月、臨洮府を陥落させた。

三月、洮州・河州・西寧州の二州を陥落させた。オチュン・ノヤンを派遣して信都府を攻め、これを抜いた。

夏四月、帝は龍徳に駐在し、徳順等州を陥落させた。徳順節度使の愛申・進士の馬肩龍はここで死んだ。

五月、唐慶等を金に派遣した。

閏月、六盤山で避暑した。

六月、金は完顔合周・オトン・アフを派遣して和を請うて来た。帝は群臣に言った。「朕は去る冬五星が集まった時、すでに殺掠しないことを許したが、詔を下すのを急いで忘れたか。今、内外に布告し、彼の使者にも朕の意を知らせよ。」この月、夏主の李晛が降った。帝は清水県の西江に駐在した。

秋七月壬午、不(病気)となった。己丑、サリ川のハラルトの行宮で崩御した。臨終に左右の者に言った。「金の精兵は潼関にあり、南は連山に拠り、北は大河に限られ、急に破るのは難しい。もし宋を仮道すれば、宋と金は代々の仇敵であるから、必ず我を許すであろう。そうすれば兵を唐・鄧に下し、まっすぐに大梁を衝く。金が急げば、必ず潼関から兵を徴発する。しかし数万の衆を以て、千里を赴援すれば、人馬は疲弊し、たとえ到着しても戦うことができず、これを破ることは必定である。」言い終わって崩御した。享年六十六。起輦谷に葬られた。至元三年冬十月、聖武皇帝と追諡された。至大二年冬十一月庚辰、法天啓運聖武皇帝と加諡された。廟号は太祖。在位二十二年。

帝は深沈にして大略があり、兵を用いること神の如く、故に四十国を滅ぼし、ついに西夏を平定した。その奇勲偉跡は甚だ多いが、惜しむらくは当時の史官が備わらず、多くは記録に失われたという。

戊子年。この年、皇子トルイが国政を監理した。