旧唐書 和訳 6

旧唐書

本紀第六 則天皇后

則天皇后武氏、諱(いみな)は曌(しょう)、并(へい)州文水(ぶんすい)の人である。父の武士彠(ぶしわく)は、隋の大業(だいぎょう)末年に鷹揚府(おうようふ)の隊正(軍官)であった。高祖(李淵)が汾(ふん)・晋(しん)の地で軍を進めた際、いつもその家に休息した。義兵が初めて起きた際、従軍して京城(長安)を平定した。貞観(じょうがん)年間に、累進して工部尚書・荊(けい)州都督となり、応(おう)国公に封じられた。

初め、則天(皇后)が十四歳の時、太宗(李世民)がその容姿や振る舞いの美しさ(美容止)を聞き、宮中に召し入れて「才人(さいじん:後宮の位)」とした。太宗が崩御するに及んで、ついに尼となり、感業寺(かんぎょうじ)に居た。大帝(高宗)が寺で彼女を見かけ、再び宮中に召し入れ、「昭儀(しょうぎ:後宮の位)」に拝した。当時、皇后の王(おう)氏、良娣(りょうてい:高位の側室)の蕭(しょう)氏が、しばしば武昭儀と寵愛を争い、互いに彼女を誹謗(讒毀)したが、皇帝はすべて聞き入れなかった。位を進めて「宸妃(しんぴ)」とした。永徽(えいき)六年、王皇后を廃して武宸妃を皇后に立てた。高宗が「天皇(てんのう)」と称すると、武后もまた「天后(てんこう)」と称した。皇后はもともと知略(智計)が多く、あわせて文芸や歴史(文史)にも通じていた。皇帝は顕慶(けんけい)年間以後、しばしば風疾(ふうしん:脳溢血など)に苦しみ、百官の上奏(表奏)は、すべて天后に委ねて詳しく決定(詳決)させた。これより国政を内助して数十年、その威勢は皇帝と遜色なく、当時は「二聖(にせい)」と称された。

弘道(こうどう)元年

弘道元年十二月の丁巳の日、大帝(高宗)が崩御した。皇太子の(李)顕(けん)が即位し、天后を敬って「皇太后」とした。まさに位を奪おう(篡奪)としていたため、この日、みずから朝政に臨み命令を発した(臨朝称制)。庚午の日、職を加えて授けた。沢(たく)州刺史で韓(かん)王の(李)元嘉(げんか)を太尉とし、豫(よ)州刺史で滕(とう)王の(李)元嬰(げんえい)を開府儀同三司とし、絳(こう)州刺史で魯(ろ)王の(李)霊夔(れいき)を太子太師とし、相(そう)州刺史で越(えつ)王の(李)貞(てい)を太子太傅とし、安(あん)州都督で紀(き)王の(李)慎(しん)を太子太保とした。元嘉らは家柄が高く信望も厚かったため、変事が起きるのを恐れ、それゆえ虚職(実権のない位)を加えてその心を安んじたのである。甲戌の日、劉仁軌(りゅうじんき)を尚書左僕射、岑長倩(しんちょうせん)を兵部尚書、魏玄同(ぎげんどう)を黄門侍郎とし、あわせて以前と同様に政務を担当(知政事)させた。劉斉賢(りゅうせいけん)を侍中、裴炎(はいえん)を中書令とした。

光宅(こうたく)元年

嗣聖(しせい)元年春正月の甲申の朔(一日)、元号を改めた。

二月の戊午の日、皇帝(中宗)を廃して廬陵(ろりょう)王とし、別の場所に幽閉した。引き続き名を改めて「哲(てつ)」と賜った。己未の日、豫王の(李)輪(りん)を皇帝(睿宗)に立て、別の殿(別殿)に居させた。天下に大赦を行い、文明(ぶんめい)と改元した。皇太后は引き続きみずから朝政に臨み命令を発した(臨朝称制)。庚午の日、皇太孫の(李)重照(じゅうしょう)を廃して庶人とした。太常卿・兼豫王府長史の王徳真(おうほうしん)を侍中とし、中書侍郎・兼豫王府司馬の劉禕之(りゅういし)を同中書門下三品とした。

三月、庶人の(李)賢(けん)が巴(は)州において死んだ。

夏四月、滕王の(李)元嬰が薨去した。畢(ひつ)王の(李)上金(じょうきん)を改めて沢(たく)王に、葛(かつ)王の(李)素節(そせつ)を改めて許(きょ)王に封じた。丁丑の日、廬陵王(李)哲を均(きん)州へ遷した。

閏五月、礼部尚書の武承嗣(ぶしょうし:武則天の甥)を同中書門下三品とした。

秋七月、突厥(とつくつ)のクトゥルグ(骨咄祿)・ゲンチン(元珍)が朔(さく)州に侵攻したため、左威衛大将軍の程務挺(ていむてい)に命じてこれを防がせた。彗星が北西方に現れ、長さは二丈余りで、三十三日を経て消えた(滅)。

九月、天下に大赦を行い、元号を光宅(こうたく)に改めた。旗幟(はた)の色を金(黄色)に改め、紫で装飾し、さまざまな紋様(雑文)を描いた。東都(洛陽)を「神都(しんと)」と改め、また尚書省や諸官司の名称を改めた。初めて「右粛政御史台(うしゅくせいぎょしたい)」の官員を置いた。亡くなった司空・李勣(りせい)の孫で柳(りゅう)州司馬の徐敬業(じょけいぎょう)が、揚(よう)州司馬と偽って称し、長史の陳敬之(ちんけいし)を殺害し、揚州を拠点として挙兵した。みずから「上将」と称し、皇帝の復位(匡復)を大義名分(辞)とした。冬十月、楚(そ)州司馬の李崇福(りすうふく)が、その支配下の三県を率いて敬業に応じた。左玉鈐(ぎょくきん)衛大将軍の李孝逸(りこういつ)を大総管に任命し、兵三十万を率いてこれを討伐させた。内史の裴炎(はいえん)を殺害した。丁酉の日、敬業の父や祖父(李勣)の官位と爵位を死後に剥奪し(追削)、元の姓である「徐(じょ)氏」に戻した。

十二月、前の中書令・薛元超(せつげんちょう)が卒した。左威衛大将軍の程務挺(ていむてい)を殺害した。

垂拱(すいきょう)元年

垂拱元年春正月、徐敬業が平定されたことにより、天下に大赦を行い、改元した。劉仁軌(りゅうじんき)が薨去した。

三月、廬陵王(李)哲を房(ぼう)州へ遷した。みずから撰述した『垂拱格(すいきょうかく:法律)』を天下に頒布した。夏四月、内史の騫味道(けんみどう)を青(せい)州刺史に左遷(左授)した。

五月、秋官尚書(刑部尚書)の裴居道(はいきょどう)を内史とした。納言(門下侍郎)の王徳真(おうとくしん)を象(しょう)州へ流し(配流)、冬官尚書(工部尚書)の蘇良嗣(そりょうし)を納言とした。文武の九品以上の官吏、および百姓に対し、すべて自薦を行う(咸令自挙)よう詔を下した。この夏は大旱魃であった。

垂拱二年

二年春正月、皇太后(武則天)が詔を下し、皇帝(睿宗)に政権を返上(復政)しようとした。皇太后にその本意がないことを知り、(皇帝は)これを固辞した。皇太后は引き続き以前と同様に朝政に臨み命令を発した(臨朝称制)。天下に大赦を行った。初めて都督や刺史に対し、京官(中央官徒)の例に準じて魚袋(身分証)を身に付けさせた。

三月、初めて朝堂(ちょうどう:政庁の前)に「匭(き:投書箱)」を置いた。書面を差し出して政務を述べたい者には投函を許した。これによって、民間の善悪の出来事が多く知られるようになった。夏四月、岑長倩(しんちょうせん)を内史とした。

六月、蘇良嗣(そりょうし)を文昌左相(左僕射)、天官尚書(吏部尚書)の韋待価(いたいか)を文昌右相(右僕射)とし、ともに鳳閣(ほうかく)鸞台(らんだい)三品(宰相職)とした。右粛政御史大夫の韋思謙(いしけん)を納言(門下侍郎)とした。

垂拱(すいきょう)三年

三年春正月、皇子の(李)成義(せいぎ)を恒(こう)王に、(李)隆基(りゅうき:後の玄宗)を楚(そ)王に、(李)隆範(りゅうはん)を衛(えい)王に、(李)隆業(りゅうぎょう)を趙(ちょう)王に、それぞれ封じた。

二月、韋思謙が引退(致仕)を請うたため、これを許した。夏四月、裴居道(はいきょどう)を納言とした。夏官(かかん)侍郎(兵部侍郎)の張光輔(ちょうこうほ)を鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事とした。庚午の日、劉禕之(りゅういし)が自宅において死を賜った(賜死)。

秋八月、地官(ちかん)尚書(戸部尚書)の魏玄同(ぎげんどう)を検校納言とした。

垂拱四年

四年春二月、乾元(けんげん)殿を破壊し、その地に明堂(めいどう)を造営した。山東(さんとう)・河南(かなん)で飢饉(饑乏)が甚だしかったため、司属(しぞく)卿(宗正卿)の王及善(おうきゅうぜん)、司府(しふ)卿(少府監)の欧陽通(おうようつう)、冬官(とうかん)侍郎(工部侍郎)の狄仁傑(たくじんけつ)に巡回・慰撫と救済(賑給)を命じる詔を下した。

夏四月、魏王の武承嗣(ぶしょうし:武則天の甥)が「瑞石(めでたい石)」を偽造した。そこには「聖母が人々に臨み、帝業を永く昌(さか)えさせよ(聖母臨人、永昌帝業)」という文が刻まれていた。雍(よう)州の住人の唐同泰(とうどうたい)に命じ、これを洛(らく)水で獲得したと上奏(表称)させた。皇太后は大いに喜び、その石を「宝図(ほうと)」と呼び、唐同泰を抜擢して遊撃将軍とした。

五月、皇太后に「聖母神皇(せいぼしんこう)」という尊称を奉った。

秋七月、天下に大赦を行った。「宝図」を改めて「天授聖図」と呼び、洛水の神を「顕聖(けんせい)」と封じ、特進という高い位を加え、あわせて廟を立てた。水路のそばに永昌(えいしょう)県を置いた。天下に五日間の酒宴(大酺)を許した。

八月の壬寅の日、博(はく)州刺史で瑯邪(ろうや)王の(李)沖(ちゅう)が博州を拠点として挙兵した。左金吾大将軍の丘神勣(きゅうしんせき)を行軍総管に任命してこれを討伐させた。庚戌の日、沖の父である豫州刺史・越(えつ)王の(李)貞(てい)もまた豫州において挙兵し、沖に応じた。

九月、内史の岑長倩(しんちょうせん)・鳳閣侍郎の張光輔・左監門大將軍の鞠崇裕(ぎくすうゆう)に命じ、兵を率いてこれを討伐させた。丙寅の日、貞(てい)および沖らを斬首し、その首を神都(洛陽)に送り、(李氏の姓を剥奪して)「虺(き:毒蛇)氏」と姓を改めさせた。博州に限定して恩赦(曲赦)を行った。韓(かん)王の(李)元嘉(げんか)、魯(ろ)王の(李)霊夔(れいき)、元嘉の子の黄国公(李)譔(せん)、霊夔の子の左散騎常侍・范陽王(李)藹(あい)、霍(かく)王の(李)元軌(げんき)および子の江都王(李)緒(しょ)、故・虢(かく)王の(李)元鳳(げんぽう)の子で東莞公の(李)融(ゆう)らは、越王貞と共謀した罪に連坐した。元嘉・霊夔は自殺し、元軌は黔(きん)州に流刑(配流)となり、譔らは処刑(伏誅)され、姓を「虺氏」に改めさせた。これより宗室の諸王で相次いで誅殺された者は、ほとんど滅び尽くす(殆将尽)までになった。その子孫で年少の者はすべて嶺外(れいがい:嶺南)へ流され、その親族や党羽(親党)数百余家を誅殺した。十二月の己酉の日、神皇(武則天)は洛水において「天授聖図」を拝受し、この日に宮中へ還った。明堂(めいどう)が完成した。

永昌(えいしょう)元年

永昌元年春正月、神皇みずから明堂において祭祀を行い、天下に大赦を行い、元号を改め、七日間の酒宴(大酺)を許した。

三月、張光輔を内史、武承嗣を納言とした。

夏四月、蒋(しょう)王(李)惲(うん)、道(どう)王(李)元慶、徐(じょ)王(李)元礼、曹(そう)王(李)明らの諸子孫を誅殺し、その家属を剗(けい)州へ移した。

五月、文昌右相の韋待価(いたいか)を安息道大総管に任命し、吐蕃(とばん)を討伐させた。

六月、文武の五品以上の官吏に対し、それぞれ自分の知る優れた人物を推薦(各挙所知)するよう命じた。

秋七月、紀(き)王の(李)慎(しん)が謀反を誣告され、檻車(かんしゃ)に載せられて巴(は)州へ流され、姓を「虺氏」と改めさせられた。韋待価は進軍を遅らせた(遅留不進)ことにより、士卒の多くを飢え死にさせた罪に連坐し、繍(しゅう)州へ流刑(配流)となった。

八月、左粛政御史大夫の王本立(おうほんりゅう)を同鳳閣鸞台三品(宰相職)とした。辛巳の日、内史の張光輔を誅殺した。

九月、納言の魏玄同(ぎげんどう)が自宅において死を賜った(賜死)。

冬十月、春官(しゅんかん)尚書(礼部尚書)の范履氷(はんりひょう)、鳳閣侍郎の邢文偉(けいぶんい)を、ともに同鳳閣鸞台平章事とした。羽林軍の「百騎(ひゃっき)」を「千騎(せんき)」に改めた。

天授(てんじゅ)元年

(実質 二年)載初(さいしょ)元年春正月、神皇みずから明堂において祭祀を行い、天下に大赦を行った。周の制度に依って「子(ね)」の月を正月とし、永昌元年十一月を載初元年正月、十二月を臘月(ろうげつ)とし、元の正月を一月(いちがつ)と改めた。三日間の酒宴(大酺)を許した。神皇はみずから「曌(しょう)」の字を名とし、これより詔書を改めて「制書(せいしょ)」と呼ぶこととした。

春一月、蘇良嗣を特進、武承嗣を文昌左相、岑長倩を文昌右相、裴居道を太子少傅とし、ともに以前と同様に同鳳閣鸞台三品(宰相職)とした。鳳閣侍郎の武攸寧(ぶゆうねい:武則天の甥)を納言、邢文偉を内史とした。

秋七月、豫章(よしょう)王の(李)亶(たん)を殺害し、その父・舒(じょ)王の(李)元名(げんめい)を和(わ)州へ移した。十人の僧(沙門)が「大雲経(だいうんきょう)」を偽造して献上したが、そこには神皇(武則天)が天命を受けたということが盛んに述べられていた。これを天下に頒布し、諸州に各々「大雲寺」を置かせ、僧侶千人を度(出家)させるよう命じた。

丁亥の日、随州刺史で沢(たく)王の(李)上金(じょうきん)、舒(じょ)州刺史で許(きょ)王の(李)素節(そせつ)、およびその子ら数十人を殺害した。

九月九日の壬午の日、唐の天命を革(あらため:革命)、国号を「周(しゅう)」と改めた。元号を「天授(てんじゅ)」と改め、天下に大赦を行い、七日間の酒宴(賜酺)を許した。乙酉の日、(武則天に)「聖神皇帝(せいしんこうてい)」という尊称を奉り、皇帝(睿宗)を降格させて「皇嗣(こうし:跡継ぎ)」とした。丙戌の日、初めて神都(洛陽)に武氏の七廟(祖先を祀る廟)を立てた。神皇(武則天)の父で追贈太尉・太原王の武士彠(ぶしわく)を「孝明皇帝」と追尊した。兄の子で文昌左相の武承嗣(ぶしょうし)を魏(ぎ)王に、天官(てんかん)尚書(吏部尚書)の武三思(ぶさんし)を梁(りょう)王に、従兄の子の武懿宗(ぶいそう)ら十二人を郡王に封じた。司賓(しひん)卿(光禄卿)の史務滋(しむし)を納言、鳳閣侍郎の宗秦客(そうしんかく)を内史とした。給事中の傅遊芸(ふゆうげい)を鸞台(らんだい)侍郎とし、引き続き以前と同様に同鳳閣鸞台平章事(宰相職)とした。史務滋ら十人に、道を分かれて天下を巡回・慰撫(存撫)するよう命じた。内外の官吏が身に付ける魚袋(ぎょたい)を改めて「亀(きたい)」の形に作らせた。

冬十月、并(へい)州の文水(ぶんすい)県を「武興(ぶこう)県」と改めた。漢の豊(ほう)・沛(はい)の例(高祖の故郷)に倣い、百姓の子孫は代々租税や労役を免除(給復)することとした。

天授(てんじゅ)二年

二年正月、みずから明堂(めいどう)で祭祀を行った。

春三月、唐の太廟(たいびょう)を改めて「享徳廟(きょうとくびょう)」とした。

夏四月、仏教(釈教)を道教(道法)の上位に置くよう命じ、僧侶・尼僧(僧尼)の席次を道士・女冠(じょかん:女道士)の前にした。

六月、岑長倩(しんちょうせん)に命じて諸軍を率いて吐蕃(とばん)を討伐させた。左粛政御史大夫の格輔元(かくほげん)を地官(ちかん)尚書(戸部尚書)とし、鸞台侍郎の楽思晦(らくしかい)とともに、同鳳閣鸞台平章事(宰相職)とした。

秋七月、関内(かんない)の雍(よう)・同(どう)など七州の住民数十万世帯を移住させて、洛陽(の人口)を充実させた。京兆(けいちょう)を分割して鼎(てい)・稷(しょく)・鴻(こう)・宜(ぎ)の四州を置いた。夏官(かかん)尚書(兵部尚書)の欧陽通(おうようつう)に納言の事務を担当(知納言事)させた。

九月、傅遊芸(ふゆうげい)が獄に下されて死んだ。右羽林衛大将軍・建昌王の(武)攸寧(ぶゆうねい)を納言とし、洛(らく)州司馬の狄仁傑(たくじんけつ)を地官侍郎・同鳳閣鸞台平章事とした。

冬十月、官吏を志す者に対し、すべて自薦を行う(咸令自挙)よう制を下した。文昌左相の岑長倩、納言の欧陽通、地官尚書の格輔元を殺害した。

長寿(ちょうじゅ)元年

(天授)三年正月、みずから明堂において祭祀を行った。

春一月、冬官(とうかん)尚書(工部尚書)の楊執柔(ようしゅうじゅう)を同鳳閣鸞台平章事とした。

三月、五天竺(ごてんじく:インド)諸国がともに使節を派遣して朝貢した。

四月、天下に大赦を行い、元号を「如意(にょい)」に改め、天下の屠殺(畜殺)を禁じた。

秋七月、大雨が降り、洛水が氾濫し、住民五千余家が漂流した。使節を派遣して巡回・慰問させ、物資を救済・貸与(賑貸)させた。

八月、魏王の武承嗣を特進に、建昌王の武攸寧を冬官尚書に、楊執柔を地官尚書に任命し、ともに政務(知政事)を免じた。秋官(しゅうかん)侍郎(刑部侍郎)の崔元琮(さいげんそう)を鸞台侍郎に、夏官(かかん)侍郎(兵部侍郎)の李昭徳(りしょうとく)を鳳閣侍郎に、検校天官(てんかん)侍郎(吏部侍郎)の姚璹(ようとう)を文昌左丞に、地官侍郎の李元素(りげんそ)を文昌右丞とし、ともに同鳳閣鸞台平章事(宰相職)とした。

九月、天下に大赦を行い、元号を「長寿(ちょうじゅ)」に改めた。九月を「社(しゃ:地の神の祭日)」に用いるよう改め、七日間の酒宴(大酺)を許した。并(へい)州に「北都(ほくと)」を置くよう改めた。

冬十月、武威軍総管の王孝傑(おうこうけつ)が吐蕃を大破し、亀茲(きじ)・于闐(うてん)・疏勒(そろく)・砕葉(さいよう)の四鎮を奪還した。

長寿二年

二年春一月、みずから明堂において祭祀を行った。癸亥の日、皇嗣(李旦)の妃の劉(りゅう)氏・竇(とう)氏(後の玄宗の母)を殺害した。

臘月(十二月)、皇孫の(李)成器(せいき)を寿春(じゅしゅん)郡王に、恒(こう)王の(李)成義(せいぎ)を衡陽(こうよう)郡王に、隆基(りゅうき)を臨淄(りんし)郡王に、衛(えい)王の(李)隆範(りゅうはん)を巴陵(はりょう)郡王に、隆業(りゅうぎょう)を彭城(ほうじょう)郡王に、それぞれ改封した。

春二月、尚方(しょうほう)監の裴匪躬(はいひきゅう)が、密かに皇嗣に謁見した罪により、都市で腰斬(ようざん:腰を斬る死刑)に処せられた。

秋九月、皇帝(武則天)に「金輪聖神皇帝(きんりんせいしんこうてい)」という号を加え、天下に大赦を行い、七日間の酒宴(大酺)を許した。辛丑の日、司賓卿の豆盧欽望(とうろきんぼう)を内史とし、文昌右丞の韋巨源(いきょげん)を同鳳閣鸞台平章事とし、秋官侍郎の陸元方(りくげんぽう)を鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事とした。

延載(えんさい)元年

(長寿)三年春一月、みずから明堂において祭祀を行った。

三月、鳳閣侍郎の李昭徳を検校内史とし、鸞台侍郎の蘇味道(そみどう)を同鳳閣鸞台平章事とした。韋巨源を夏官侍郎とし、以前と同様に政務を担当(知政事)させた。

四月、夏官尚書の王孝傑(おうこうけつ)を同鳳閣鸞台三品(宰相職)とした。

五月、皇帝(武則天)に「越古(えつこ)金輪聖神皇帝」という尊称を加え、天下に大赦を行い、元号を延載(えんさい)に改め、七日間の酒宴(大酺)を許した。

秋八月、司賓少卿の姚璹(ようとう)を納言とした。左粛政御史中丞の楊再思(ようさいし)を鸞台侍郎、洛州司馬の杜景倹(とけいけん)を鳳閣侍郎とし、引き続きともに同鳳閣鸞台平章事とした。梁王の武三思が諸民族の酋長たちを率い、東都(洛陽)で銅や鉄を大量に徴収(大征斂)し、端門(たんもん)の外に「天枢(てんすう:記念碑)」を造り、皇帝の功績を記録するための碑文(頌)を立てるよう願い出た。

九月、内史の李昭徳(りしょうとく)を欽(きん)州南賓(なんびん)県尉に左遷(左授)した。

冬十月、文昌右丞の李元素(りげんそ)を同鳳閣鸞台平章事(宰相職)とした。

天冊万歳(てんさつばんざい)元年

証聖(しょうせい)元年春一月、皇帝(武則天)に「慈氏(じし:弥勒)越古金輪聖神皇帝」という尊称を加え、天下に大赦を行い、改元し、七日間の酒宴(大酺)を許した。戊子の目、豆盧欽望(とうろきんぼう)・韋巨源(いきょげん)・杜景倹(とけいけん)・蘇味道(そみどう)・陸元方(りくげんぽう)を、ともに地方(趙・鄜・集・綏など)の刺史へ左遷(左授)した。丙申の夜、明堂(めいどう)で火災が起き、夜明け(至明)までにすべて灰燼に帰した。庚子の目、明堂の火災を太廟(廟)に報告し、自ら過ちを責める詔(手詔責躬)を下し、文武の九品以上の官吏に対し、それぞれ密奏(封事)を奉り、忌憚のないいさめ(正諫)を述べるよう命じた。

春二月、皇帝は「慈氏越古」の尊称を返上(去)した。

秋九月、みずから南郊(なんこう:天を祭る場所)で祭祀を行い、「天冊(てんさつ)金輪聖神皇帝」という尊称を加え、天下に大赦を行い、元号を「天冊万歳」に改めた。大辟(だいへき:死罪)以下の罪、および十悪(重罪)など通常の恩赦では許されない(不原)者も、すべて赦免した。九日間の酒宴(大酺)を許した。

万歳通天(ばんざいつうてん)元年

万歳登封(ばんざいとうほう)元年臘月(十二月)の甲申の日、皇帝は嵩岳(すうがく:嵩山)において封禅(登封)の礼を行い、天下に大赦を行い、改元し、九日間の酒宴(大酺)を許した。丁亥の日、少室(しょうしつ)山において禅礼(地の祭礼)を行った。己丑の日、また文武の三品以上の官吏に対し、以前(の分)とあわせて爵位二等を賜り、四品以下には二階(位階)を加えるよう制を下した。洛州の百姓の租税を二年間、登封(とうほう)・告成(こうせい)の両県については三年間、免除(給復)した。癸巳の日、嵩岳から還った。甲午の日、みずから太廟に参拝した。

春三月、再び造営していた明堂が完成した。

夏四月、みずから明堂において祭祀を行い、天下に大赦を行い、元号を万歳通天に改め、七日間の酒宴(大酺)を許した。天下が大旱魃であったため、文武の九品以上の官吏に対し、時政の得失(政治の良し悪し)について忌憚なく述べる(極言)よう命じた。

五月、営(えい)州付近の契丹(きったん)の首領で松漠(しょうばく)都督の李尽忠(りじんちゅう)と、その妻の兄で帰誠(きせい)州刺史の孫万栄(そんばんえい)が、都督の趙文翽(ちょうぶんかい)を殺害し、兵を挙げて反乱を起こし、営州を攻略・陥落させた。尽忠はみずから「可汗(カガン)」と号した。乙丑の日、鷹揚将軍の曹仁師(そうじんし)・右金吾大将軍の張玄遇(ちょうげんぐう)・右武威大将軍の李多祚(りたそ)・司農少卿の麻仁節(まじんせつ)ら二十八人の将軍に、これの討伐を命じた。

秋七月、春官(しゅんかん)尚書・梁王の(武)三思を安撫大使に、納言の姚璹(ようとう)をその副官に任命した。李尽忠の名を「尽滅(じんめつ)」に、孫万栄の名を「万斬(ばんざん)」に改めさせるよう制を下した。

秋八月、張玄遇・曹仁師・麻仁節が李尽滅(尽忠)と西硤石(さいこうせき)の黄麞谷(こうしょうこく)において戦ったが、官軍は大敗(敗績)し、張玄遇・麻仁節はともに賊軍に捕らえられた。

九月、右武威大将軍・建安王の(武)攸宜(ぶゆうぎ)を大総管に任命し、契丹を討伐させた。并(へい)州長史の王方慶(おうほうけい)を鸞台侍郎とし、殿中監の李道広(りどうこう)とともに同鳳閣鸞台平章事(宰相職)とした。吐蕃が涼(りょう)州に侵攻し、都督の許欽明(きょきんめい)が賊軍に捕らえられた。庚申の日、王方慶を鳳閣侍郎とし、引き続き以前と同様に政務を担当(知政事)させた。李尽滅が死に、その一味の孫万斬(万栄)が代わってその衆(配下)を率いた。

冬十月、孫万斬が冀(き)州を攻略・陥落させ、刺史の陸宝積(りくほうせき)がこれに殉じた(死之)。

十一月、また瀛(えい)州に属する諸県を陥落させた。

神功(しんこう)元年

(実質 二年)二年正月、みずから明堂において祭祀を行った。鳳閣侍郎の李元素・夏官侍郎の孫元亨(そんげんきょう)が、綦連耀(きれんよう)との謀反の罪に連座し、処刑(伏誅)された。原(げん)州都督府司馬の婁師徳(ろうしとく)を鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事とした。

春二月、王孝傑(おうこうけつ)・蘇宏暉(そこうき)らが兵十八万を率いて孫万斬と硤石谷(こうせきこく)において戦ったが、官軍は敗れ、王孝傑は陣中で戦死し、蘇宏暉は武器を捨てて逃走した。

夏四月、九鼎(きゅうてい:王朝の象徴たる九つのかなえ)の鋳造が完成し、明堂の庭に置いた。前・益州大都督府長史の王及善(おうきゅうぜん)を内史とした。

五月、右金吾大将軍・河内王の武懿宗(ぶいそう)を大総管に、右粛政御史大夫の婁師徳を副大総管に、右武威衛大将軍の沙吒忠義(さたじゅうぎ)を前軍総管に任命し、兵二十万を率いて孫万斬を討伐させた。

六月、内史の李昭徳・司僕少卿の来俊臣(らいしゅんしん:酷吏)が罪により処刑(伏誅)された。孫万斬が自分の家の奴隷に殺害され、その残党は離散(大潰)した。魏王の武承嗣・梁王の武三思を、ともに同鳳閣鸞台三品(宰相職)とした。

秋八月、納言の姚璹を益州大都督府長史とした。九月、契丹の李尽滅(尽忠)らが平定されたことにより、天下に大赦を行い、元号を神功に改め、七日間の酒宴(大酺)を許した。婁師徳を納言とした。

冬十月、前・幽州都督の狄仁傑(たくじんけつ)を鸞台侍郎、司刑(しけい)卿(大理寺卿)の杜景倹(とけいけん)を鳳閣侍郎とし、ともに同鳳閣鸞台平章事(宰相職)とした。

聖歴(せいれき)元年

聖歴元年正月、みずから明堂において祭祀を行い、天下に大赦を行い、改元し、九日間の酒宴(大酺)を許した。

春三月、廬陵(ろりょう)王の(李)哲(後の中宗)を房(ぼう)州から召還した。

夏五月、天下の屠殺(畜殺)を禁じた。突厥(とつくつ)のモチュ(黙啜)が上言し、娘を差し出して和親を求めた。

秋七月、淮陽(わいよう)王の武延秀(ぶえんしゅう:武則天の甥)を突厥(とつくつ)へ派遣し、モチュ(黙啜)の娘を娶って妃とするよう命じた。右豹韜衛(ほうとうえい)大将軍の閻知微(えんちび)を春官尚書(礼部尚書)に任命して随行させ、捕虜の宮廷(虜庭:突厥の陣営)へ向かわせた。

八月、突厥のモチュ(黙啜)は、武延秀が唐室の本来の諸王(李氏)ではないことを理由に、これ(延秀)を別の場所に幽閉した。そして衆を率いて閻知微とともに媯(き)・檀(たん)などの州へ侵攻した。司属(しぞく)卿・高平王の(武)重規(ぶじゅうき)、右武威衛大将軍の沙吒忠義(さたじゅうぎ)、幽州都督の張仁亶(ちょうじんたん)、右羽林衛大将軍の李多祚(りたそ)らに命じ、兵二十万を率いてこれを迎え撃たせ、(交渉の結果)延秀を解放させて還らせた。己丑の日、モチュ(黙啜)が定(てい)州を攻略・陥落させ、刺史の孫彦高(そんげんこう)がこれに殉じた。百姓の家々を焼き払い、殺害された者は数千人に及んだ。魏王の武承嗣が卒した。庚子の目、梁王の武三思を内史、狄仁傑を納言とした。

九月、建昌王の武攸寧(ぶゆうねい)を同鳳閣鸞台平章事(宰相職)とした。モチュ(黙啜)が趙(ちょう)州を攻略・陥落させ、刺史の高睿(こうえい)が殺害(遇害)された。丙子の目、廬陵王(李)哲を皇太子とし、以前通りの名である「(李)顕(けん)」と名乗るよう命じ、天下に大赦を行い、五日間の酒宴(大酺)を許した。納言の狄仁傑を河北道行軍元帥に任命した。辛巳の日、皇太子が太廟に参拝した。天官(てんかん)侍郎の蘇味道(そみどう)を鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事とした。癸未の日、モチュ(黙啜)は略奪した趙・定州の男女一万余人をすべて殺害し、五回(ごかい)道を通って去っていった。通過した場所での殺戮(残害)は数えきれないほどであった。

冬十月、夏官(かかん)侍郎の姚元崇(ようげんすう)、麟台(りんだい)少監(秘書少監)の李嶠(りきょう)を、ともに同鳳閣鸞台平章事(宰相職)とした。この月、閻知微(えんちび)が突厥より(裏切って)叛き帰ったため、その一族を皆殺し(族誅)にした。

聖暦(せいれき)二年

二年春二月、皇嗣(こうし)の(李)旦(後の睿宗)を相(そう)王に封じた。初めて寵臣の張易之(ちょうえきし)およびその弟の(張)昌宗(しょうそう)のために「控鶴府(こうかくふ)」の官員を置き、まもなく「奉宸府(ほうしんふ)」と改めた。その席次は御史大夫の下とした。左粛政御史中丞の魏元忠(ぎげんちゅう)を鳳閣侍郎、吉頊(きつきょく)を天官侍郎とし、ともに同鳳閣鸞台平章事とした。戊子の目、嵩山に行幸し、王子晋(おうししん)の廟を通り過ぎた。丙申の日、緱山(こうざん)に行幸した。丁酉の日、嵩山より還った。

夏四月、吐蕃(とばん)の大論(宰相)のサンパ(贊婆)が亡命して(唐に)来た。

秋七月、皇帝(武則天)は自分の年齢が高くなったため、皇太子(中宗)や相王(睿宗)が、梁王・武三思や定王・武攸寧らと不和になるのを懸念(慮)し、明堂において互いに誠実を誓う誓文(誓文)を立てさせた。

八月、王及善(おうきゅうぜん)を文昌左相、豆盧欽望(とうろきんぼう)を文昌右相とし、ともに引き続き同鳳閣鸞台三品(宰相職)とした。

冬十月の乙亥の日、福昌(ふくしょう)県に行幸した。王及善が薨去した。

久視(きゅうし)元年

(実質 二年)三年正月戊寅の日、梁王の武三思を特進とした。天官侍郎の吉頊(きつきょく)を嶺表(れいひょう:嶺南)へ流した(配流)。臘月(十二月)の辛巳の日、皇太子の嫡男である(李)重潤(じゅうじゅん)を邵(しょう)王に封じた。狄仁傑を内史とした。戊寅の日、汝(じょ)州の温湯(おんとう:温泉)に行幸した。甲戌の日、温湯より還った。嵩山に三陽宮(さんようきゅう)を造営した。

春三月、李嶠を鸞台侍郎とし、知政事(宰相職)は以前のままとした。

夏四月の戊申の日、三陽宮に行幸した。

五月の癸丑の日、皇帝(武則天)は病(所疾)が回復したことにより、天下に大赦を行い、元号を久視(きゅうし)に改めた。「金輪」などの尊称を停止し、五日間の酒宴(大酺)を許した。

六月、魏元忠を左粛政御史大夫とし、知政事は以前のままとした。この夏は大旱魃であった。

秋七月、三陽宮より還った。天官侍郎の張錫(ちょうしゃく)を鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事とした。その甥で鳳閣鸞台平章事の李嶠を成均(せいきゅう)祭酒(国子祭酒)に任命し、知政事を免じた。壬寅の日、制を下した。「隋の尚書令の楊素(ようそ)は、かつて(隋の)本朝に在って、早くから過分な恩遇(殊遇)を蒙りながら、凶悪でよこしまな徳(兇邪之徳)を抱き、諂いねたむ才能(諂佞之才)を持ち、君主を惑わし乱し、肉親の間を裂いた。嫡子(楊勇)を揺り動かしたのは、ただ(独孤皇后の)蠱惑の禍(握蠱之禍)のみではない。後主(煬帝)を誘い扇動し、ついに(文帝殺害の)隙(請蹯之釁)を成し遂げた。隋の王家が滅亡したのは、偏に(煬帝の)多くの過ち(多僻)によるものだが、その兆候を究めれば、職責はこの者(楊素)に由来する。生きては不忠の人であり、死しては不義の鬼である。その身は幸いにも罰を免れた(幸免)が、子は結局一族皆殺し(族誅)となった。これは奸逆の計略(奸逆之謀)が、そのまま家庭の訓(庭訓)となったものであり、険悪で軽薄な行い(険薄之行)が、そのまま家風となったものである。刑戮は加えられたが、その枝葉の末裔(枝胤)は今なお存在する。どうして(そのような者の子孫を)側近の列(肩随近侍)に従わせ、朝廷の列(朝行)に列することができようか! 朕は百代の王朝の伝統を受け継ぎ(接統百王)、四海を統治する(恭臨四海)にあたり、上では賢明な佐臣(賢佐)を嘉(よみ)し、下では賊臣を憎む。常に政務(万機)の余暇に、千載ののちまで褒貶(評価)を下そうと考えているが、まして年代は遠くなく、耳目に残っている者においてはなおさらである! その楊素および兄弟子孫以下は、すべて京官(中央官)および侍衛の職に任じてはならない。」

九月、内史の狄仁傑が卒した。

冬十月の甲寅の日、正月・朔日を(周制から唐の)旧制に戻し、一月を「正月」と改め、引き続き一年の始まり(歳首)とした。「正月(周制の正月)」は以前通り「十一月」とした。天下に大赦を行った。韋巨源を地官尚書、文昌左丞の韋安石(いあんせき)を鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事とした。丁卯の日、新安に行幸し、その県に限定して恩赦(曲赦)を行った。壬申の日、新安より還った。

十二月、屠殺の禁(肉食禁止)を解き、諸々の祭祀についても以前通り家畜(牲牢)を用いるよう命じた。

長安(ちょうあん)元年

大足(だいそく)元年春正月、制を下して改元した。

二月、鸞台侍郎の李懐遠(りかいえん)を同鳳閣鸞台平章事(宰相職)とした。

三月、姚元崇を鳳閣侍郎とし、知政事は以前のままとした。丙申の日、鳳閣侍郎の張錫(ちょうしゃく)が収賄(坐贓)の罪により循(じゅん)州へ流された(配流)。

夏五月、三陽宮(さんようきゅう)に行幸した。左粛政御史大夫の魏元忠(ぎげんちゅう)を総管に任命し、突厥に備えさせた。天官侍郎の顧琮(こそう)を同鳳閣鸞台平章事とした。

六月、夏官侍郎の李迥秀(りけいしゅう)を同鳳閣鸞台平章事とした。辛未の日、告成(こうせい)県に限定して恩赦(曲赦)を行った。

秋七月甲戌の日、三陽宮より還った。

九月、邵(しょう)王の(李)重潤(じゅうじゅん)が張易之(ちょうえきし)の讒言(讒構)を蒙り、自殺を命じられた。

冬十月、京師(長安)に行幸し、天下に大赦を行い、元号を長安に改めた。

長安二年

二年春正月、突厥が塩(えん)・夏(か)などの州に侵攻し、官吏や民衆を殺害・略奪した。

秋九月乙丑の日、日食があった。皆既(不尽)ではなく鉤(かぎ)のような形になり、京師(長安)および四方でこれが見られた。

冬十月、日本国(にほんこく)が使節を派遣して方物(土地の産物)を貢いだ。

十一月、相王(李)旦を司徒とした。戊子の目、みずから南郊(なんこう)で祭祀を行い、天下に大赦を行った。

長安三年

三年春三月壬戌の日、日食があった。

夏四月庚子の目、相王(李)旦が上表して司徒の官位を譲ったため、これを許した。文昌台(尚書省)を「中台(ちゅうだい)」に改めた。李嶠(りきょう)に納言の事務を担当(知納言事)させた。

六月、寧(ねい)州で雨が降り、山水が急激に増量(暴漲)し、二千余家が漂流し、溺死者は千余人に及んだ。

秋七月、右金吾大将軍の唐休璟(とうきゅうけい)を殺害した。

『欽定四庫全書・旧唐書・巻六考証』「長安三年秋七月、右金吾大将軍の唐休璟を殺害した」の条:『新書(新唐書)』では「秋七月庚戌、検校涼州都督の唐休璟を夏官尚書・同鳳閣鸞台平章事とする」とある。【臣・徳潜(とくせん)】按ずるに、(本紀の記述は誤りであり)本伝によれば、休璟(きゅうけい)はかつて殺されたことはなく、またかつて金吾大将軍になったこともない。ここは「金吾大将軍を殺す」という記述の下に明らかに欠文があり、かつ休璟の昇進(遷官)に関する記述も欠けており、二つの出来事を混同して一つにしてしまったものである。

秋九月、正諫(せいかん)大夫の朱敬則(しゅけいそく)を同鳳閣鸞台平章事とした。戊申の日、相王(李)旦を雍(よう)州牧とした。この月、御史大夫・兼知政事・太子右庶子の魏元忠(ぎげんちゅう)が張昌宗(ちょうしょうそう)に讒言(譖)され、端(たん)州高要(こうよう)尉に左遷(左授)された。京師(長安)に大雨と雹(ひょう)が降り、人間や家畜に凍死者が出た。

冬十月丙寅の日、皇帝の行列(駕)が神都(洛陽)へ還った。乙酉の日、京師より到着した。

長安四年

四年春正月、寿安(じゅあん)県の万安(ばんあん)山に興泰(こうたい)宮を造営した。天官侍郎の韋嗣立(いしりつ)を鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事とした。朱敬則が引退(致仕)を請うたため、これを許した。

三月、平恩(へいおん)郡王の(李)重福(じゅうふく)を改めて譙(しょう)王に封じ、夏官(かかん)侍郎の宗楚客(そうそかく)を同鳳閣鸞台平章事とした。

夏四月、韋安石(いあんせき)に納言の事務、李嶠(りきょう)に内史の事務を担当させた。丙子の目、興泰宮に行幸した。六月、天官侍郎の崔玄暐(さいげんい)を同鳳閣鸞台平章事とした。李嶠を国子祭酒とし、知政事は以前のままとした。

七月丙戌の日、楊再思(ようさいし)を内史とした。甲午の日、興泰宮より還った。宗楚客(そうそかく)を原(げん)州都督に左遷(左授)した。

八月、姚元崇(ようげんすう)を司僕卿とし、政務を担当(知政事)させた。韋安石を検校揚(よう)州大都督府長史とした。

冬十月、秋官(しゅうかん)侍郎の張柬之(ちょうかんし)を同鳳閣鸞台平章事とした。

十一月、李嶠を地官尚書、張柬之を鳳閣鸞台平章事とした。九月からこの月に至るまで、日夜薄暗く(陰晦)、大雪が降り、都(洛陽)の中で餓死・凍死者が出たため、担当官司に命じて倉庫を開き救済(賑給)させた。

神龍(しんりゅう)元年

神龍元年春正月、大赦を行い、改元した。皇帝(武則天)の病状が芳しくなかった(不豫)ため、文明元年からこの方、罪を得た人々(ただし揚・豫・博の三州の反乱および諸々の反乱首謀者を除く)をすべて赦免するよう制を下した。癸亥の日、麟台監の張易之とその弟の司僕卿・昌宗が反乱を図ったため、皇太子(中宗)が左右羽林軍の桓彦範(かんげんはん)・敬暉(けいき)らを率い、羽林兵をもって禁中(宮中)に入り、これを誅殺した。甲辰の日、皇太子が国を監理(監国)し、万機を統括するよう命じ、天下に大赦を行った。この日、皇帝(武則天)は皇太子に帝位を譲り(伝位)、上陽(じょうよう)宮へ移り住んだ。戊申の日、皇帝(中宗)が(武則天に)「則天大聖皇帝(そくてんだいせいこうてい)」という尊称を奉った。

冬十一月壬寅の日、則天(皇后)の病が重くなり(将大漸)、遺詔を下した。太廟(太宗の廟)に陪祀し(祔廟)、(高宗の)陵墓に葬る(帰陵)こと、また「帝」の号を去って「則天大聖皇后」と称することとした。王(おう)・蕭(しょう)の二家(以前の皇后・側室)および褚遂良(ちょすいりょう)・韓瑗(かんえん)らの子孫や親族で、当時連坐した者たちは、すべて復職・復業(復業)させるよう命じた。この日、上陽宮の仙居(せんきょ)殿において崩御した。時に年八十三歳であった。「則天大聖皇后」と諡(おくりな)した。

(神龍)二年五月、庚申の日、乾陵(けんりょう:高宗の陵墓)に合葬した(祔葬)。睿宗が即位すると、上元(じょうげん:高宗の元号)年間の故事に依り、再び「天后」と呼ぶよう詔を下した。まもなく「大聖天后」と追尊し、さらに「則天皇太后」と改め称した。太后(武則天)はかつて周思茂(しゅうしぼう)・範履氷(はんりひょう)・衛敬業(えいけいぎょう)といった文才のある人士を召し寄せ、『玄覧(げんらん)』および『古今内範(ここんないはん)』各百巻、『青宮紀要(せいきゅうきよう)』『少陽政範(しょうようせいはん)』各三十巻、『維城典訓(いじょうてんくん)』『鳳楼新誡(ほうろうしんかい)』『孝子列女伝』各二十巻、『内軌要略(ないきようりゃく)』『楽書要録(がくしょようろく)』各十巻、『百僚新誡(ひゃくりょうしんかい)』『兆人本業(ちょうじんほんぎょう)』各五巻、『臣範(しんぱん)』二巻、『垂拱格(すいきょうかく)』四巻、並びに文集百二十巻を撰述させ、これらは秘閣に所蔵された。

【史評】

史臣(柳芳ら)は次のように述べる。治世か乱世かは「時(とき)」により、存続か滅亡かは「勢(いきおい)」によるものである。もし傑(けつ)・紂(ちゅう)のような暴君が上にいれば、十人の堯(ぎょう)がいても治めることはできない。逆にもし堯・舜が上にいれば、十人の傑がいても乱すことはできない。ましてや「懦夫(だふ:弱気な男)」や「女子(じょし:武則天)」が時代の勢いに乗って権力を得れば、座したまま万物の命を制し、不義の威勢をほしいままにするのに十分である。武氏(武則天)が臨朝称制していた歳月を鑑みるに、英才たちが相次いで現れたが、家が(彼女に)支配されるのを嘆き、国家が危うくなるのを憤らない者はなかった。しかし結局、先帝(太宗・高宗)の恩に報いることも、わが君主の子(李氏)を守ることもできなかった。またたく間に罪なくして陥れられ、首を差し出して殺される(就誅)に至った。天地は籠(かご)のようであり、逃れようにもどこへ行くことができようか。悲しいことである! 昔、鼻を覆った讒言(戦国時代の故事)はその毒の深さを称えられ、人間を豚(人彘)にする酷刑(呂太后の故事)は世に冤罪とされた。武后が皇后の座を奪おうとした謀略も、喉を絞めて赤子(自分の娘)を絶命させ、王皇后らの骨を砕いて塩漬けにする(菹醢)など、その道に外れた振る舞いは甚だしい。これは狡猾な人間や嫉妬深い女に共通する姿でもある。しかしながら、それでも広く直言(讜議)を受け入れ、時には正しき人々を礼遇した。初めは牝鶏(めんどり)が朝を告げる(牝鶏司晨:女が政を行う)ようであったが、最後には帝位を子(中宗)に還して明君の道(明闢)を復興させた。流言(飛語)を排して魏元忠の罪を弁明し、善言をもって狄仁傑の心を慰め、時の法を尊んで寵臣を抑え、忠言を聴き入れて酷吏を誅殺した。深い趣旨(旨)があることよ、深い趣旨があることよ!

賛(まとめの詩)に言う。龍の涎(漦)から姿を変え(周の滅亡の予兆)、宮殿(丙殿)に世継ぎが栄えた。天(穹昊)はどうして、このような化け物(夔魖:武則天)を生んだのか。王朝の宝(神器)を奪い取り、皇帝の居所を汚した。最期まで妖しさを極めた(窮妖白首)彼女に対し、天の下す審判(降鑒)はいかなるものであったか。