旧唐書
本紀第四 高宗上
高宗天皇大聖大弘孝皇帝、諱は治(ち)、太宗の第九子である。母は文徳順聖長孫皇后(長孫氏)。貞観二年六月に、東宮の麗正殿(れいせいでん)において生まれた。五年、晋(しん)王に封じられた。七年、并州(へいしゅう)都督を遙授(現地に赴かず肩書きのみ拝受)された。幼い頃から聡明(岐嶷:きぎょく)で、物事に端正かつ慎重(端審)であり、寛仁で孝行・友愛の心(孝友)が深かった。初めに『孝経(こうきょう)』を著作郎の蕭徳言(しょうとくげん)から学んだが、太宗が「この書の中でどの言葉が最も肝要か?」と問うと、彼は答えて「それ孝は、父母に仕えることに始まり、君主に仕えることを中(なか)とし、身を立てることに終わります。君子が上に仕えるにあたっては、進んでは忠を尽くすことを思い、退いては過ちを補うことを思い、その美点に従い(将順其美)、その悪行を正し救う(匡救其悪)ことです」と言った。太宗は大いに喜び、「これを実行すれば、父や兄に仕え、臣下や子としての道を尽くすに十分である」と言った。文徳皇后が崩御した際、晋王(高宗)は当時九歳であったが、その悲しみと慕う情(哀慕)は側近たちを感動させた。太宗はたびたび慰撫(なぐさめ)を加えたが、これにより特に深く寵愛された。まもなく右武候大将軍に任じられた。十七年、皇太子の(李)承乾が廃され、魏王の(李)泰もまた罪により退けられた。太宗は長孫無忌・房玄齢・李勣(りせい)らと協議し、晋王を皇太子に立てた。太宗が朝廷で政務を執る(視朝)たびに、常に側に伴わせて庶政の決断を観させ、あるいは参議させたが、太宗はその良さを数回にわたって称賛した。十八年、太宗が高句麗(こうくり)を討伐しようとした際、太子に命じて定州(ていしゅう)に留まって鎮守させた。出発の日が迫ると、太子は数日にわたって悲しみ泣き、そこで早馬(飛驛)で定時の機嫌伺いの上奏文(起居を問う表)を送り、また皇帝からの垂報(知らせ)を届けてくれるよう請い願ったが、すべて許された。上奏文で政務を奏上すること(飛表奏事)は、ここから始まったのである。軍が帰還すると、太子は付き従って并州に至った。当時、太宗が癰(はれもの)を患っていたが、太子は自らその毒を吸い出し(親吮之)、数日にわたって手押し車(輦)を支え歩いて従った。
貞観二十三年
二十三年五月の己巳の日、太宗が崩御した。庚午の日、礼部尚書・兼太子少師・黎陽県公の于志寧(うしねい)を侍中に、太子少詹事・兼尚書左丞の張行成(ちょうこうせい)を兼侍中・検校刑部尚書に、太子右庶子・兼吏部侍郎・摂戸部尚書の高季輔(こうきほ)を兼中書令・検校吏部尚書に、太子左庶子・高陽県男の許敬宗(きょけいそう)を兼礼部尚書に、それぞれ任命した。辛未の日、京師(長安)に還った。
六月の甲戌の朔(一日)、皇太子が皇帝の位に即いた。時に年二十二であった。詔を下して言った。「大行皇帝(崩御した太宗)がにわかに(天下を)棄て去られ、痛みは心を貫き、熱湯や火の中にいるかのようである。大いなる孝(大孝)を遵守し、あえて身を滅ぼさないようにする(不敢滅身)とはいえ、末永く慕い大声で泣き叫んでも(永慕長号)、どうして(亡き父に)及ぶことができようか。私は孤り卑小な身(孤眇)ながら、元嗣(正統な後継者)としての重責を担うこととなった。徳の薄さ(空薄)を励まし、民(黎元)を安んじ救いたい(康済)。(先帝の教えを)敬い順じて維新を行い、仰いで先帝の徳を顕彰し、速やかに(凱澤を)布いて、億兆の民に及ぼすべきである。天下に大赦を行うこととする。内内の文武の官吏には勲官を一級授ける。八十歳以上の高齢者には粟や帛を贈る。雍州および諸州で、近年軍への供給(供軍)や役務(労役)が特に激しかった場所には、一年間の租税・役免(給復)を行う。」辛巳の日、民部尚書を戸部尚書と改めた。疊(じょう)州都督で英国公の(李)勣を特進・検校洛州刺史とし、引き続き洛陽宮の留守(番)をさせた。癸未の日、司徒・揚州都督・趙国公の(長孫)無忌を太尉・兼検校中書令とし、尚書・門下の二省の事務(知尚書門下二省事)を担当させ、その他はすべてもとのままとし、物資三千段を賜った。癸巳の日、特進・英国公の(李)勣を開府儀同三司・同中書門下三品とした。
秋七月の丙午の日、担当官司(所司)が、皇帝の諱(治)を避けるために、治書侍御史を御史中丞に、諸州の治中を司馬に、別駕を長史に、治礼郎を奉礼郎に改めるよう請い願った。しかし、貞観年間には先帝(高祖)の二文字の諱(淵)を避けていなかった(慣例)ことから、担当官司を召して奏上させたところ、「先帝の二文字の諱は、礼において一文字ずつ避けることはしません。上(皇帝)の御名は一文字(治)ですので、臣下や子として直接口にしたり書いたりする(指斥)のは適いません」と言った。皇帝(上)はこれに従った。己酉の日、于闐(ホータン)王のブシャシン(伏闍信)が来朝した。
八月の癸酉の朔(一日)、河東で地震があり、晋州は特に激しく、民家(廬舎)を破壊し、圧死者は五千余人に達した。三日後、再び揺れた。使者を派遣して労い(存問)、二年の免税(給復)を行い、圧死者のあった家には絹三匹を賜った。開府儀同三司で英国公の(李)勣を尚書左僕射・同中書門下三品とした。僕射(ぼくや)が「同中書門下(宰相職)」を帯び始めたのは、ここからである。庚寅の日、太宗を昭陵に葬った。
九月の甲寅の日、鄜(ふ)州刺史で荊王の李元景に司徒を、前安州都督で呉王の李恪に司空・兼梁州刺史を、それぞれ加授した。丙寅の日、追贈された太尉・梁国公の(房)玄齢、司徒・申国公の(高)士廉、左僕射・蒋国公の屈突通を、ともに太宗の廟庭に配食(合祀)するよう命じた。
冬十一月の甲子の目、瑶池都督のアシナ・ハル(阿史那賀魯)を左驍衛大将軍とした。乙丑の日、晋州で再び地震があった。この冬は雪が降らなかった。
永徽元年
永徽元年春正月の辛丑の朔(一日)、皇帝(上)は(喪中のため)朝賀を受けず、元号を改める(改元)よう詔を下した。
壬寅の日、太極殿にお出ましになり、朝賀を受けたが酒宴は行わなかった。丙午の日、妃の王氏を皇后に立てた。丁未の日、陳王の(李)忠を雍州牧とした。
二月の辛卯の日、皇子の(李)孝を許王に、(李)上金を杞(き)王に、(李)素節(そせつ)を雍王に封じた。
夏四月の己巳の朔(一日)、晋州(しんしゅう)で再び地震があった。
五月の丁未の日、皇帝(上)は群臣に語った。「私は不徳(謬)ながら大位(帝位)を継承したが、政治や教化(政教)が不明瞭であるため、ついに晋州の地でたびたび地震が発生してしまった。これはまことに賞罰が適正を欠き、政治の道が道理に背いている(乖方)からであろう。卿らはそれぞれ機密の上奏文(封事)を奉呈し、得失を極言して、私の至らない点(不逮)を正してほしい。」吐火羅(トハラ)が使者を派遣して、ラクダのような大きな鳥(ダチョウ)を献上した。この鳥は銅や鉄を食べた。皇帝はこれを昭陵(太宗の墓)に献じさせた。吐蕃(とばん)の賛普(サンプ:ソンツェン・ガンポ)が死んだため、右武衛将軍の鮮于匡済(せんうきょうさい)に詔書(璽書)を携えさせて派遣し、弔いと祭祀を行わせた。
六月の庚辰の日、晋州で地震があった。
秋七月の丙寅の日、旱魃のため、自ら京師(長安)の囚人の処遇を記録し確認(録)した。
九月の癸卯の日、右驍衛郎将の高侃(こうかん)が車鼻(しゃび)可汗を捕らえて参内(闕)し、社廟および昭陵に献じた(勝利を報告した)。己未の日、尚書左僕射で英国公の李勣(りせい)が、職を辞することを固く請い願ったため、これを許し、開府儀同三司・同中書門下三品(宰相職)とした。
十一月の己未の日、中書令で河南郡公の褚遂良(ちょすいりょう)を同州刺史に左遷した。
十二月、瑶池(ようち)都督で沙缽羅(イシュバラ)葉護(ヤブグ)のアシナ・ハル(阿史那賀魯)が、その府を擁して反乱を起こし、自ら可汗を称して西域の地を領有した。この年、雍州・絳(こう)州・同州など九州で旱魃と蝗害(蝗)があり、斉州・定州など十六州で水害があった。
永徽二年
二年春正月の戊戌の日、次のような詔を下した。「去年、関中(関輔)の地は蝗(蝗螟)にひどく荒らされ、天下の諸州もまた水害や旱魃に遭い、百姓(民)の間には底をついて乏しい者(罄乏)が出るに至った。これはひとえに私の不徳によるものであり、民(兆庶)に何の罪があろうか(何辜)。万物を憐れみ自らの罪を問うに(矜物罪己)、憂いと恐れ(憂惕)がますます深まる。今、新しい年(献歳)を迎え春が始まり、耕作(東作)を始めようとしているが、兵糧(糧廩)が空になっている者もおり、振興と給付(賑給)の助けを必要としている。虫害や水害のあった場所で貧乏な者については、正倉や義倉(備蓄倉庫)をもって賑恤(賑貸)せよ。雍州・同州には、それぞれ郎中一人を使者として派遣して労わせ、憐れみの意(哀矜之旨)を尽くさせ、私の民を思う心(乃眷之心)に副わせるようにせよ。」乙巳の日、黄門侍郎で平昌県公の宇文節(うぶんせつ)に銀青光禄大夫を加え、もとのまま同中書門下三品とした。守中書侍郎の柳奭(りゅうせき)を中書侍郎とし、もとのまま同中書門下三品とした。
夏四月の乙酉の日、太廟(たいびょう)令および献陵・昭陵令の位を従五品に、丞(じょう)を従七品とした。
五月の壬辰の日、開府儀同三司および京城の文武の職事四品・五品の官吏に対し、等しく随身魚(身分証としての魚袋)を給した。
六月の辛酉の日、開府儀同三司で襄邑(じょうゆう)王の(李)神符(じんぷ)が薨去した。
秋七月の丁未の日、アシナ・ハル(阿史那賀魯)が金嶺城、蒲類(ほるい)県を陥落させたため、武候大将軍の梁建方(りょうけんぽう)、右驍衛大将軍の契苾何力(けいひつかりき)を弓月道総管に任命してこれを討伐させた。
八月の乙丑の日、大食(イスラム帝国)が初めて使者を派遣して朝貢した。己巳の日、侍中で燕国公の于志寧(うしねい)を尚書左僕射に、侍中・兼刑部尚書の北平県公・(張)行成(ぎょうせい)を尚書右僕射に任命した。ともに同中書門下三品としたが、まだ(正式な)職名(銜)には入れなかった。中書令・兼検校吏部尚書・条県公の高季輔(こうきほ)を侍中(あるいは侍郎:原文は侍郎)とした。
九月の癸巳の日、九成宮を改めて萬年宮(まんねんきゅう)とし、玉華宮を廃止して仏寺(玉華寺)とした。
閏月の辛未の日、新しく定めた律・令・格・式を天下に頒布した。冬十月の辛卯の日、晋州で地震があった。
十一月の辛酉の日、南郊(地を祀る場所)を祀る儀式(有事於南郊)を行った。戊辰の日、定襄(ていじょう)で地震があった。丁丑の日、高昌(こうしょう)の旧地に安西都護府を置いた。白水蛮(はくすいばん)が麻州を冒したため、左領軍将軍の趙孝祖(ちょうこうそ)に命じて討ち平らげさせた。
永徽三年
三年春正月の癸亥の日、去る秋からこの月に至るまで雨が降らなかったことにより、皇帝(上)は正殿を避け(避正殿)、天下の死罪および流罪をそれぞれ一等減じ、徒刑以下はすべてこれを免除した。弓月道総管の梁建方、契苾何力らが牢山(ろうざん)において処月(しょげつ)部のシュヤ・コチュ(硃耶孤注)を大破し、九千人を斬首し、その首長(渠帥)六千人を捕らえ、捕虜(生口)一万余人を獲得し、牛・馬・雑畜七万頭を獲た。丙寅の日、太尉・趙国公の(長孫)無忌が旱魃を理由に退位(巽位)を請い願ったが、許さなかった。己巳の日、同州刺史で河南郡公の褚遂良を吏部尚書・同中書門下三品とした。丙子の目、親しく太廟を祭った。丁亥の日、千畝(せんぽ:帝田)を耕す儀式(籍於千畝)を行い、群官に帛をそれぞれ差をつけて賜った。
三月の辛巳の日、黄門侍郎で平昌県公の宇文節を侍中に、中書侍郎の柳奭を中書令とした。庚申の日、観徳殿(かんとくでん)に行幸し、文武の群官に大規模な弓術大会(大射)を催した。
夏四月の庚寅の日、左領軍将軍の趙孝祖が白水蛮の大勃律(だいぼとりつ)を大破した。甲午の日、澧(れい)州刺史で彭王の(李)元則(げんそく)が薨去した。
五月の庚辰の日、周の司沐大夫・裴融(はいゆう)、北斉の侍中・崔季舒(さいきじょ)、給事黄門侍郎・裴澤(はいたく)、尚書左丞・封孝琰(ほうこうえん)、隋の儀同三司・豆盧毓(とうろいく)、御史中丞・游楚客(ゆうそかく)らに対し、ともに門閥が忠実かつ剛直(忠鯁)であったことから、その子孫をそれぞれ抜擢(甄擢)するよう詔を下した。
秋七月の丁巳の日、陳王の(李)忠を皇太子に立て、天下に大赦を行い、五品以上で父の後継者となった者に勲官一級を授け、三日間の酒宴(大酺)を賜った。乙丑の日、左僕射の于志寧に太子少師を、右僕射の張行成に太子少傅を、侍中の高季輔に太子少保を、侍中の宇文節(うぶんせつ)に太子詹事(ぜんじ)を、それぞれ兼任させた。丁丑の日、皇帝は戸部尚書の高履行(こうりこう)に「昨年、戸数はいくら増えたか?」と問うた。履行は「増えた戸数は全部で一十五万です」と奏上した。また「隋の時代には何戸あったか? 今は実数で何戸あるか?」と問うと、履行は「隋の開皇年間には八百七十万戸ありましたが、現在は実数で三百八十万戸です」と奏上した。
九月の丁巳の日、太子の名(忠)を避ける(避太子名)ため、太子中允を内允に、中書舎人を内史舎人に、諸率府の中郎を旅賁(りょほん)郎将にそれぞれ改めた。
冬十月の戊戌の日、同安大長公主の邸宅に行幸し、また高陽長公主の邸宅に行幸し、その日のうちに宮中に還った。
十一月の乙亥の日、駁馬(ばくま)国が使者を派遣して朝貢した。庚寅の日、弘化(こうか)長公主が吐谷渾(とよくこん)より来朝した。
十二月の癸巳の日、濮(ぼく)王の(李)泰が薨去した。
永徽四年
四年春正月の癸丑の朔(一日)、皇帝は軒(高殿)に臨んだが、朝賀(朝)を受けなかった。これは濮王・李泰がまだ埋葬前(在殯)であったためである。丙子の目、新しく任命された房州刺史・駙馬都尉の房遺愛(ぼういあい)、司徒・秦州刺史・荊王の李元景、司空・安州刺史・呉王の李恪(りかく)、寧州刺史・駙馬都尉の薛万徹(せつまんてつ)、嵐州刺史・駙馬都尉の柴令武(さいれいぶ)らが謀反を企てた。
二月の乙酉の日、房遺愛・薛万徹・柴令武らはともに処刑(伏誅)された。荊王・元景、呉王・恪、巴陵(はりょう)公主、高陽(こうよう)公主はともに死を賜った。左驍衛大将軍・安国公の執失思力(しつしつしりき)は巂(けい)州へ、侍中・兼太子詹事・平昌県公の宇文節は桂(けい)州へ流刑(配流)となった。戊子の目、特進・太常卿・江夏王の李道宗を桂州へ流刑とし、李恪の同母弟である蜀王の李愔(りいん)を廃して庶人とした。己亥の日、絳(こう)州刺史で徐王の李元礼に司徒を加え、開府儀同三司・英国公の李勣を司空とした。
三月の壬子の朔(一日)、孔穎達(こうえいだつ)の『五経正義(ごきょうせいぎ)』を天下に頒布し、毎年の明経(めいけい)科の試験にはこれに依拠するよう命じた。丙辰の日、皇帝は観徳殿にお出ましになり、謀反人である房遺愛らの(没収した)家畜(口馬)や財産を一か所に集め(為五垛)、王公や親類、異民族の賓客(蕃客)、および文武九品以上の官吏を引いて弓術(射)を行わせた。
夏四月の戊子の目、林邑(りんゆう)国王が使者を派遣して来朝し、手なずけた象(馴象)を献上した。壬寅の日、旱魃のため正殿を避け(避正殿)、食事を減らし(減膳)、自ら獄中の囚人を記録(録系囚)し、使者を派遣して天下の冤罪(冤獄)を審理させ、文武の官吏に政治の得失を極言するよう詔を下した。
八月の己亥の日、同州(どうしゅう)の馮翊(ひょうよく)に十八個の隕石が落ちた。その音は雷のようであった。
九月の壬寅の日、尚書右僕射で北平県公の張行成が薨去した。甲戌の日、吏部尚書で河南郡公の褚遂良を尚書右僕射とし、以前と同様に政務を担当(知政事)させた。
冬十月の庚子の目、新豊(しんぽう)の温湯に行幸した。甲辰の日、新豊に限定して大赦(曲赦)を行った。乙巳の日、温湯より還った。戊申の日、睦(ぼく)州の女子である陳碩真(ちんせきしん)が挙兵して反乱を起こし、自ら「文佳皇帝(ぶんかこうてい)」と称して、睦州に属する県を陥落させた。婺(ぶ)州刺史の崔義玄(さいぎげん)、揚州都督府長史の房仁裕(ぼうじんゆう)がそれぞれ軍を率いてこれを討ち平らげた。
十一月の癸丑の日、兵部尚書で固安県公の崔敦礼を侍中とした。新しい『律疏(りっそ)』を天下に頒布した。
十二月の庚子の目、侍中・兼太子少保・条県公の高季輔(こうきほ)が卒した。
永徽五年
五年春三月の戊午の日、萬年宮に行幸した。辛未の日、通行した州県の囚人に限定して特赦(曲赦)した。工部尚書の閻立徳(えんりとく)に命じて、四万人の労働者(丁夫)を率いて長安の羅郭(外城)を築かせた。
夏四月、守黄門侍郎で潁川(えいせん)県公の韓瑗(かんえん)、守尚書侍郎の来済(らいせい)に、ともに銀青光祿大夫を加え、以前と同様に同中書門下三品とした。
閏五月の丁丑の夜、大雨が降り、水の勢いが激しく溢れ出し(暴溢)、麟游(りんゆう)県の住民および当番の衛士(当番衛士)を押し流し(漂溺)、死者は三千余人に達した。
六月、恒(こう)州で大雨があり、滹沱河(こだが)が氾濫し、五千余家を沈めた。癸丑の日、蒲州の汾陰(ふんいん)県で豪雨があり、住民を押し流し、廬舎を水浸しにし破壊した。癸亥の日、中書令の柳奭(りゅうせき)に吏部尚書を兼任させた。丙寅の日、河北の諸州で大水害があった。
七月の辛巳の日、スズメ(雀)のような小鳥が、ハト(鳩)のような大きな鳥を、萬年宮の皇帝が以前住んでいた家(皇帝旧宅)で産んだ。
八月、大理(だいり:裁判所)が死刑囚の処決を奏上したが、全部で(総)七十余人であった。
辛亥の日、今後五品以上の官吏が薨去した際、身分証としての魚袋(随身魚)を回収(追收)する必要はないよう詔を下した。辛未の日、吐蕃(とばん)の使者が馬百匹、および高さ五丈・広さ二十七歩の大廬(大型のテント)を献上した。
九月の丁酉の日、萬年宮より還った。
冬十一月の癸酉の日、京師(長安)の羅郭(外郭)を築いた。京兆(長安近郊)の百姓四万一千人を雇い(和雇)、三十日間の突貫工事(板築)を行って終了した。九つの門にそれぞれ楼閣(観)を設けた。
十二月の癸丑の日、倭国(わこく:日本)が琥珀(こはく)と瑪瑙(めのう)を献上した。琥珀は一斗(器)ほどの大きさがあり、瑪瑙は五斗器ほどの大きさがあった。戊午の日、京師を出発して昭陵(太宗の墓)に参拝した。その途上で皇子の(李)賢(けん)が生まれた。己未の日、二年に一度、戸籍を確定(一定戸)させるよう指示(勅)した。
永徽六年
六年春正月の壬申の朔(一日)、皇帝みずから昭陵に参拝し、醴泉(れいせん)県の民に限定して大赦(曲赦)を行い、今年の租税と課役(租賦)を免除した。陵墓の警備(宿衛)にあたっていた将軍や郎将の爵位を一等進め、陵墓の令や丞の位を進め(加階)、物資を賜った。甲戌の日、昭陵より還った。陵墓のそばに仏寺を建立した。庚寅の日、皇子の(李)弘(こう)を代王に、(李)賢(けん)を潞(ろ)王に封じた。
二月の乙巳の日、皇太子の(李)忠が元服(加元服)した。内内の文武の職事五品以上で父の後継者となった者に、勲官一級を授けた。三日間の酒宴(大酺)を賜った。
三月、営州都督の程名振(ていめいしん)が高句麗を貴端水(きたんすい)において破った。嘉(か)州の辛道譲(しんどうじょう)の妻が一回の出産で四人の男児を産んだ。壬戌の日、昭儀(しょうぎ)の武氏(武則天)が『内訓』一篇を著した。
夏五月の癸未の日、左屯衛(ざとんえい)大将軍・廬国公の程知節(ていちせつ:程咬金)ら五人の将軍に命じて、軍を率いて葱山(そうざん)道から出撃させ、アシナ・ハル(阿史那賀魯)を討伐させた。黄門侍郎で潁川(えいせん)郡公の韓瑗(かんえん)を侍中に、中書侍郎で南陽男の来済(らいせい)を中書令とした。兼吏部尚書で河東県男の柳奭(りゅうせき)を遂州刺史に左遷した。
六月、大食(イスラム帝国)が使者を派遣して朝貢した。
秋七月の乙亥の日、侍中で固安県公の崔敦礼(さいとんれい)を中書令とした。乙酉の日、天下の州県の公廨(くがい:役所の経費を賄う田地)を整理し均一(均)にした。
八月、尚薬奉御(しょうやくほうぎょ)の蒋孝璋(しょうこうしょう)を定員外(員外)として特別に設置(特置)し、引き続き正員と同じ扱い(同正)とした。「員外同正」という官職は、蒋孝璋から始まったのである。己酉の日、大理(だいり)に新たに少卿一員を置いた。これより先、大雨が降り、道路が不通となったため、京師の米価が急騰(暴貴)した。そこで倉庫の粟(倉粟)を出してこれを売り(綈之)、京師の東・西の二つの市に常平倉(じょうへいそう)を設置した。
九月の庚午の日、尚書右僕射で河南郡公の褚遂良(ちょすいりょう)が、武昭儀(武則天)を皇后に立てることに反対(諫立)したため、潭(たん)州都督に左遷された。乙酉の日、洛州で大水害があり、天津橋(てんしんきょう)を破壊した。
冬十月の己酉の日、皇后の王氏を廃して庶人とし、昭儀の武氏を立てて皇后とし、天下に大赦を行った。
十一月の丁卯の朔(一日)、皇帝は軒(高殿)に臨み、司空の(李)勣、左僕射の(于)志寧に命じて皇后の冊立(冊皇后)を行わせた。文武の群官および異民族の首長(番夷之長)が、粛義門(しゅくぎもん)において皇后に謁見(奉朝皇后)した。十一月の己巳の日、皇后が廟に参拝した。癸酉の日、皇后の亡き父、もとの工部尚書で応国公・追贈并州都督の武士彠(ぶしわく)を司空に追贈した。丙子の目、淄(し)州高苑(こうえん)県の呉文威(ごぶんい)の妻・魏氏が一回の出産で四人の男児を産み、三人が育った(三見育)。癸巳の日、応国夫人(武則天の母)の楊氏を改めて代国夫人に封じた。
十二月、礼部尚書で高陽県男の許敬宗(きょけいそう)を、毎日武徳殿(ぶとくでん)の西門で待機(待詔)させるよう派遣した。
顕慶元年
(実質 二年)春正月の辛未の日、皇太子の(李)忠を廃して梁王とし、代王の(李)弘を皇太子に立てた。壬申の日、大赦を行い、元号を顕慶(けんけい)と改めた。文武九品以上、および五品以下で父の後継者となった者に、勲官一級(一転)を授けた。三日間の酒宴(大酺)を賜った。甲子の目、尚書左僕射・兼太子少師・燕国公の(于)志寧に太子太傅を兼任させ、侍中の韓瑗、中書令の来済、礼部尚書の許敬宗を、ともに太子賓客(たいしひんかく)とした。「賓客」という官職が始まったのは、ここからである。玄武門にお出ましになり、葱山道大総管の程知節(ていちせつ)を送り出した(餞)。
二月の庚寅の日、『破陣楽(はじんがく)』の名を『神功破陣楽(じんこうはじんがく)』とした。辛亥の日、追贈された司空の武士彠を司徒・周国公とした。
三月の辛巳の日、皇后が北郊において先蚕(せんさん:蚕の神)を祭った。丙戌の日、戸部侍郎の杜正倫(とせいりん)を守黄門侍郎・同中書門下三品とした。
夏四月の戊申の日、安福門(あんふくもん)にお出ましになり、僧・玄奘(げんじょう)が御製(皇帝の作った文章)および自筆の慈恩寺(じおんじ)の碑文を迎えるのを観覧した。天竺(てんじゅく:インド)の儀礼(法儀)で先導させ、その行列(徒)は非常に盛大であった。
五月の己卯の日、太尉の長孫無忌(ちょうそんむき)が史官の撰述した梁・陳・北周・北斉・隋の『五代史志』三十巻を奉呈した。弘文館学士の許敬宗が撰述した『東殿新書(とうでんしんしょ)』二百巻を奉呈し、皇帝(上)みずから序文を作った。
六月の己卯の日、岐(き)州刺史で潞王の(李)賢を雍州牧とした。
秋七月の癸未の日、中書令・兼検校太子詹事で固安県公の崔敦礼(さいとんれい)を太子少師・同中書門下三品とした。民部尚書(戸部尚書)を度支(たくし)尚書に、侍郎もまた同様に(度支侍郎)改称した(改戸部尚書為度支尚書)。
八月の丙申の日、太子少師の崔敦礼が卒した。
左衛大将軍の程知節(ていちせつ:程咬金)が、アシナ・ハル(阿史那賀魯)の部族である歌邏禄(カルルク)の処剌頡発(しょらつけつはつ)および処月(しょげつ)部の預支士斤(よししきん)らと榆幕谷(ゆばくこく)において戦い、これを大破し、千余人を斬首し、万単位(万計)のラクダ・馬・牛・羊を獲得した。
九月の癸酉の日、初めて三万戸以上の州を「上州」、二万戸以上を「中州」とし、それまで上州・中州であったものはそれぞれ従前通り(依旧)とするよう詔を下した。皇后(武則天)が『外戚誡(がいせきかい)』を著した。庚辰の日、括(かつ)州で高潮(海水泛溢)が発生し、安固(あんこ)・永嘉(えいきか)の二県を破壊し、四千余家が損害を受けた。辛巳の日、初めて都督および上州にそれぞれ執刀(護衛官)十五人を、中州・下州には十人を置く制を定めた。癸未の日、初めて驃騎(ひょうき)大将軍を置き、官位を従一品とした。程知節がアシナ・ハルの子である咥運(しつうん)と戦い、数千人を斬首し、怛篤(だつとく)城まで進軍して、その部族の戸口や莫大な財宝(貨物巨積)を捕虜・獲得した。
冬十一月の乙丑の日、皇子の(李)顕(けん:後の中宗)が生まれた。京師(長安)の官吏、および地方から朝廷に来ていた使者(朝集使)にそれぞれ勲級を加えるよう詔を下した。
十二月の乙酉の日、算学(数学の教育機関)を置いた。左屯衛大将軍の程知節は、アシナ・ハル討伐において逗留し、敵(賊)を追い詰め損ねた罪により、死罪を減じて免職(免官)となった。蘭州都督を廃止した。鄯(ぜん)州に都督を置いた。
顕慶二年
二年春正月の庚寅の日、洛陽に行幸した。右屯衛将軍の蘇定方(そていほう)ら四人の将軍を伊麗(いれい)道将軍に任命し、軍を率いてアシナ・ハルを討伐させるよう命じた。
二月の辛酉の日、洛陽宮に入り、洛州に限定して大赦(曲赦)を行った。庚午の日、皇子の第七子である(李)顕を周王に封じ、許王の(李)素節(そせつ)を郇(しゅん)王に改めて封じた。
三月の甲子の目、中書侍郎の李義府(りぎふ)を中書令・兼検校御史大夫に、黄門侍郎の杜正倫(とせいりん)を兼度支尚書にし、以前と同様に同中書門下三品とした。
夏五月の丙申の日、明徳宮に行幸した。
秋七月の丁亥の日、洛陽宮に還った。
八月の丁卯の日、侍中で潁川(えいせん)県公の韓瑗(かんえん)を振(しん)州刺史に左遷し、中書令・兼太子詹事で南陽侯の来済(らいせい)を台(だい)州刺史に左遷した。ともに武昭儀(武則天)を皇后に立てることに反対(諫立)し、褚遂良の左遷を救おうとした罪によるものである。礼部尚書で高陽郡公の許敬宗(きょけいそう)を侍中とした。これは武后を立てた功績によるものである。九月の庚寅の日、度支尚書の杜正倫(とせいりん)を中書令とした。
冬十月の戊戌の日、みずから許(きょ)・鄭(てい)の郊外で武芸の講習(講武)を行い、鄭州に限定して大赦(曲赦)した。使者を派遣して鄭の大夫・国僑(こくきょう:子産)、後漢の太丘長・陳実(ちんじつ)の墓を祭らせた。
十二月の乙卯の日、洛陽宮に還った。庚午の日、「皞(こう)」「葉(よう)」の文字(の使用)を改めた。丁卯の日、みずから詔を下して(手詔)洛陽宮を「東都」と改め、洛州の官員の階級(階品)を雍州(長安)に準じることとした。穀(こく)州を廃止し、福昌(ふくしょう)など四県、ならびに懐(かい)州の河陽・済源・温、鄭州の汜水(しすい)を、あわせて洛州に属させた。己巳の日、中書省に起居舎人(ききょしゃにん)二員を置き、官位を起居郎と同じとした。庚午の日、周王の(李)顕を洛州牧とした。壬午の日、散騎常侍を左右それぞれ二員に分け、その右散騎常侍は中書省に属させた。
顕慶三年
三年春正月の戊子の目、太尉・趙国公の長孫無忌(ちょうそんむき)らが『新礼』の編纂を終えた。全部で一百三十巻、二百五十九篇あり、これを天下に頒布するよう詔を下した。
二月の丁巳の日、皇帝の行列(車駕)が京師(長安)に還った。壬午の日、自ら囚人を記録(録囚徒)し、多くを恩赦(原宥)した。蘇定方が西突厥の沙缽羅(イシュバラ)可汗アシナ・ハル(賀魯)および咥運(しつうん)、闕啜(けつせつ)を攻め破った。アシナ・ハルは石国(タシュケント)へ逃げたが、副将の蕭嗣業(しょうしぎょう)がこれを追い捕らえ、その人々や家畜を前後して四十余万獲得した。甲寅の日、西域が平定されたため、その地に濛池(もうち)・昆陵(こんりょう)の二都護府を置いた。再び亀茲(きじ:クチャ)国に安西都護府を置き、高昌(こうしょう)の旧地を西州とした。正三品の「懐化大将軍」、従三品の「帰化将軍」を設置し、新たに帰順した(初附)首長に授け、引き続き諸衛に分担して所属させた。
六月、程名振(ていめいしん)が高句麗を攻撃した。
九月、書学・算学・律学(の各教育機関)を廃止した。担当官司(所司)が「排車(はいしゃ:行列用の車)」七百乗を造り、巡幸の際に連ねて城壁(排城)とすることを請い願ったが、皇帝は民の労苦(労民)であると考え、従来の宿泊所(旧頓)に院の壁(院墻)を設置することに留めた。
冬十一月の乙酉の日、兼中書令・皇太子賓客・兼検校御史大夫・河間郡公の李義府(りぎふ)を普(ふ)州刺史に左遷し、兼中書令・皇太子賓客・襄陽郡公の杜正倫を横(おう)州刺史に左遷した。中書侍郎の李友益(りゆうえき)を免職(除名)とし、巂(けい)州へ流刑(配流)とした。戊戌の日、侍中の許敬宗に暫定的に(権)中書令を検校(代行)させた。戊子の目、侍中・皇太子賓客・権検校中書令・高陽郡公の許敬宗を中書令とし、賓客以下の職はもとのままとした。大理卿の辛茂将(しんぼうしょう)を侍中とした。鴻臚(こうろ)卿の蕭嗣業が石国よりアシナ・ハルを連れて戻り、昭陵に献じた。甲辰の日、開府儀同三司で鄂(がく)国公の尉遅敬徳(うっちけいとく)が薨去した。
顕慶四年
四年春二月の乙亥の日、皇帝(上)みずから科挙(挙人)を策試(面接試験)し、全部で九百人が受けたが、ただ郭待封(かくたいほう)・張九齢(ちょうきゅうれい)ら五人のみが上位(上第)に合格した。彼らを弘文館(こうぶんかん)で待機(待詔)させ、儀仗(仗)に従い宮中に仕えさせた。
三月、左驍衛大将軍で郕(せい)国公の契苾何力(けいひつかりき)を派遣して遼東方面の経営(経略)にあたらせた。
夏四月の己未の日、太子太傅・尚書左僕射で燕国公の于志寧(うしねい)を太子太師とし、以前と同様に同中書門下三品とした。乙丑の日、黄門侍郎の許圉師(きょぎょし)を同中書門下三品とした。丙戌の日、太子太師・同中書門下三品・燕国公の于志寧を免職とし、私邸(私第)へ帰らせた。戊戌の日、太尉・揚州都督・趙国公の(長孫)無忌に対し、揚州都督の肩書きを持たせたまま黔(きん)州に安置(幽閉)し、以前と同様に一品の待遇(一品供給)を与えた。五月の丙申の日、兵部尚書の任雅相(じんがしょう)、度支尚書の盧承慶(ろしょうけい)を連れ参知政事(副宰相職)とした。
秋七月の壬子の目、普(ふ)州刺史の李義府(りぎふ)を吏部尚書・同中書門下三品とした。
冬十月の乙巳の日、皇太子(李弘)が元服(加元服)した。天下に大赦を行い、文武五品以上で父や祖父の後継者となった者に勲官一級を授け、三日間の酒宴(大酺)を賜った。
閏十月の戊寅の日、東都(洛陽)に行幸した。皇太子(李弘)に国を監視(監国)させた。戊戌の日、東都に到着した。
十一月、中書侍郎の許圉師を散騎常侍・検校侍中とした。戊午の日、兼侍中の辛茂将(しんぼうしょう)が卒した。癸亥の日、邢(けい)国公の蘇定方(そていほう)を神丘(しんきゅう)道総管に、劉伯英(りゅうはくえい)を昆夷(こんい)道総管とした。
顕慶五年
五年春正月の甲子の目、并州(へいしゅう:太原)に行幸した。
二月の辛巳の日、并州に到着した。丙戌の日、従軍した官吏、および親族、并州の官僚・属官・父老らに宴を催し、帛をそれぞれ差をつけて賜った。并州および管内の諸州に限定して大赦(曲赦)を行った。高祖の挙兵(義旗)当初、職事五品以上で亡くなった者のうち、墳墓が并州にある者については、担当官司(所司)に命じて祭祀を行わせた。建国の功臣(佐命功臣)の子孫、および大将軍府(挙兵時の軍府)の官僚(僚佐)以下で今なお生存している者には、官階をそれぞれ進め、才能を量って(量才)官職を配置(処分)した。挙兵に加わった者(起義之徒)で職事一品以下の者には、物資をそれぞれ差をつけて賜った。八十歳以上の高齢者には、名誉職(版授)の刺史や県令を授けた。建国の功臣で個別に恩賞(別封)を授けられ、すでに本人が亡くなっている場合は、後を継ぐ子孫に官階をそれぞれ二級加えた。三日間の酒宴(賜酺)を賜った。甲午の日、旧宅(太宗の旧邸)を祭り、武士彠(ぶしわく)・殷開山(いんかいざん)・劉政会(りゅうせいかい)を配食(功臣として合祀)した。
三月の丙午の日、皇后(武則天)が朝堂において親族・隣里・旧友に宴を催し、また内殿において命婦(高位の婦人)や女性たち(婦人)の会を催した。皇室の諸親族、および従軍した文武五品以上の官吏に帛をそれぞれ差をつけて賜った。皇后の故郷である并州の長史・司馬の勲級をそれぞれ進める制を定めた(制以皇后故郷並州長史、司馬各加勲級)。また皇后が自ら親しく会に参加し、一回ごとに物資一千段を賜い、期親(一年喪の親族)には五百段、大功(九か月喪)以下、および喪服を着ない親族(無服親)・隣里・旧友には、それぞれ差をつけて賜った。城内および諸州の女性で八十歳以上の者には、それぞれ名誉職(版授)の郡君を授け、引き続き物資などを賜った。己酉の日、并州城の西で武芸の講習(講武)を行い、皇帝(上)は飛閣(渡り廊下)にお出ましになり、群臣に指揮を観覧(臨観)させた。辛亥の日、神丘道軍を出発させ、百済(くだら)を討伐した。丁巳の日、左右領(左右領軍衛)を初めて「左右千牛(千牛衛)」と改めた。
夏四月の戊寅の日、皇帝の行列(車駕)が東都(洛陽)に還った。東都の苑内(の合璧宮)に八関宮(はっかんきゅう)を造営した。癸亥の日、并州より還った。
五月の壬戌の日、八関宮に行幸したが、これを合璧宮(ごうへききゅう)と改めた。
六月の庚午の朔(一日)、日食があった。辛卯の日、文武五品以上に対し、四科(挙人の分類)によって人材を推薦(挙人)するよう詔を下した。甲午の日、東都に還った。
秋七月の乙巳の日、梁王(廃太子)の李忠を廃して庶人とし、黔(きん)州へ移した。戊辰の日、度支尚書・同中書門下三品の盧承慶(ろしょうけい)が罪により免職となった。八月の庚辰の日、蘇定方らが百済を討ち平らげ、その王・扶餘義慈(ふよぎじ:義慈王)を縛り上げさせて面会(面縛)した。国を五つの部(部)、三十七の郡、二百の城、七十六万戸に分け、その地に熊津(ゆうしん)など五つの都督府を分担して置いた。神丘・昆夷(こんい)道の総管以下に限定して大赦(曲赦)を行い、天下に三日間の酒宴(大酺)を賜った。
九月の戊午の日、英国公の(李)勣に対し、墓所(墓塋)一所を賜った。
冬十月の丙子の目、代国夫人の楊氏を栄国夫人に改封し、品位を第一とし、位を王公の母や妻の上に置いた。
十一月の戊戌の朔(一日)、邢国公の蘇定方が、百済王の扶餘義慈、太子の隆ら五十八人を捕虜(俘)として則天門(そくてんもん)において献上(報告)した。皇帝は彼らを責めつつも赦免(宥)した。乙卯の日、許(きょ)・鄭(てい)の郊外で狩り(狩)を行った。
十二月の己卯の日、許州より還った。
龍朔(りゅうさく)元年
(龍朔元年)春正月の乙卯の日、河南・河北・淮南の六十七州において四万四千六百四十六人を募り、平壌(へいじょう)・帯方(たいほう)道の行軍(行営)へと送り出した。
二月の乙未の日、益州・綿州などの各地で龍が現れた(龍見)との報告があったため、元号を改めた。洛州に限定して大赦(曲赦)した。
龍朔元年三月の丙申の朔(一日)、改元(龍朔と改める。注:実際には二月)した。壬戌の日、合璧宮に行幸した。
夏五月の丙申の日、左驍衛大将軍で涼(りょう)国公の契苾何力(けいひつかりき)を遼東道大総管に、左武衛大将軍で邢(けい)国公の蘇定方(そていほう)を平壌道大総管に、兵部尚書・同中書門下三品で楽安県公の任雅相(じんがしょう)を浿江(はいこう)道大総管に任命し、高句麗(こうくり)を討伐させた。この日、皇后(武則天)が「天下の女性が俳優(芸人)の芝居を演じることを禁じてほしい」と請い願い、詔を下してこれに従った。甲子の月晦(月末)、日食があった。
六月の庚寅の日、中書令の許敬宗(きょけいそう)らが、書物の校選(集約)である『累璧(るいへき)』六百三十巻、および目録四巻を奉呈した。
秋七月の癸卯の日、皇帝の行列(車駕)が東都(洛陽)より還った。
八月の丙戌の日、諸州に対し、孝行が特に顕著である者、および数世代にわたって同居している義居(節義の家)で、風俗を奨励できる者を推薦(挙)するよう命じた。
九月の甲辰の日、河南(かなん)県の高齢の女性である張氏が百三歳に達したため、親しくその邸宅に行幸した。また李勣(りせい)の邸宅にも行幸した。天宮寺(てんきゅうじ)は、高祖(李淵)が即位前(潜竜時)に住んでいた旧宅であり、皇帝(上)は殿や宇(建物)をくまなく巡り、久しく感傷に浸った(感愴久之)。僧侶二十人を度(得度)させた。皇后は許圉師(きょぎょし)の邸宅に至った。壬子の目、潞(ろ)王の(李)賢を改めて沛(はい)王に封じた。この日、雍州牧・幽州都督で沛王の賢を、揚州都督・左武候大将軍に任命した。州牧の職(牧)はもとのままとした。洛州牧で周王の(李)顕を并州都督とした。この日、中書・門下の五品以上、各省の長官、尚書省の侍郎、および三等以上の親族(三等以上)に対し、ともに沛王の邸宅に赴き宴を行い(設宴礼)、『九部楽(きゅうぶがく)』を演奏するよう命じた。礼が終わると、帛や雑彩(色絹)などをそれぞれ差をつけて賜った。
冬十月の丁卯の日、陸渾(りくこん)で狩り(狩)を行った。癸酉の日、宮中に還った。この年、新羅(しらぎ)王の金春秋(きんしゅんじゅう:武烈王)が卒し、その子の法敏(ほうびん:文武王)が後を継いで即位した。
龍朔二年
二年春正月の乙巳の日、太府寺(たいふじ)に少卿一員を増設し、東西の両京を分担して監察(検校)させることとした。丙午の日、東都(洛陽)に初めて国子監(こくしかん)を置き、あわせて学生らの定員を増やし、東西の両都に均等に分けて教授させることとした。
二月の甲子の目、京師の諸司および百官の名称を改めた。尚書省を「中台(ちゅうだい)」、門下省を「東台(とうだい)」、中書省を「西台(せいだい)」、左右僕射を「左右匡政(きょうせい)」、左右丞を「肅機(しゅくき)」、侍中を「左相(さしょう)」、中書令を「右相(うしょう)」とし、その他もそれぞれ経典の意味(義訓)に基づいて改称した。また六宮(後宮)の官職名も改めた。甲戌の日、司戎太常伯(兵部尚書)・浿江道総管・楽安県公の任雅相が軍中で卒した。
三月の甲申の日、東都より長安(京師)に還った。癸丑の日、同州に行幸した。蘇定方が葦島(いとう)において高句麗を破り、また平壌城を攻めたが、陥落させることができず帰還した。
夏四月の庚申の朔(一日)、東都より還った。辛巳の日、蓬莱宮(ほうらいきゅう:大明宮の改称)の造営が完了したため、そこへ移り住んだ。
五月の丙申の日、左侍極(左散騎常侍)の許圉師を左相とした。乙巳の日、律学・書学・算学(の三学)を再び設置した。
六月の己未の朔(一日)、皇子の(李)旭輪(きょくりん:後の睿宗)が生まれた。乙丑の日、初めて道士・女冠(道尼)・僧・尼に対し、ともに父母に対して(世俗と同様に)拝礼を尽くすよう命じた。乙亥の日、蓬莱宮の各門や殿、亭などの名称を定めた。
秋七月の丁亥の朔(一日)、東宮で皇子が誕生して満一月となったことにより、天下に大赦を行い、三日間の酒宴(大酺)を賜った。
八月の甲午の日、右相の許敬宗が老いを理由に公職からの引退(乞骸骨)を願い出た。壬寅の日、許敬宗を太子少師・同東西台三品(宰相職)とし、引き続き西台(中書省)の事務を担当(知西台事)させた。
九月、司礼少常伯(礼部侍郎)の孫茂道(そんぼうどう)が「八品・九品の官吏は、旧令では青(青色)を着用することになっていますが、紫色(紫)と紛らわしく、身分の低い者が着るべき(服)ではありません。どうか碧(碧色)を着用させるようにしてください」と奏上した。詔を下してこれに従った。戊寅の日、前の吏部尚書で河間郡公の李義府(りぎふ)が復職(起復)して司列太常伯(吏部尚書)・同東西台三品となった。
冬十月の丁酉の日、温湯に行幸した。皇太子の(李)弘に国を監視(監国)させた。丁未の日、温湯より還った。庚戌の日、西台侍郎(中書侍郎)の上官儀(じょうかんぎ)を同東西台二品とした。
十一月の辛未の日、左相の許圉師が投獄された。癸酉の日、皇子の第四子である(李)旭輪を殷(いん)王に封じた。
十二月の辛丑の日、魏州(ぎしゅう)を改めて冀(き)州大都督府とし、冀州を魏州に改めた。また并(へい)・揚(よう)・荊(けい)・益(えき)の四つの都督府をすべて大都督府とした。沛王の(李)賢を揚州大都督に、周王の(李)顕(けん)を并州大都督に、殷王の(李)旭輪を名目的(遥領)に冀州大都督とした。左相の許圉師を現在の任から解任した。
龍朔三年
三年春正月、左武衛大将軍の鄭仁泰(ていじんたい)らが軍を率いて鉄勒(てつろく)の残党を討伐し、これをすべて平定した。乙丑の日、司列太常伯(吏部尚書)の李義府を右相(中書令)とした。二月の丙戌の日、隴(ろう)・雍(よう)・同・岐(き)など一十五州の戸口に対し、蓬莱宮の修築(徵修)を命じた。癸巳の日、太子の左右諭徳、および桂坊大夫(けいぼうたいふ)などの官員を置き、司経局を桂坊館(けいぼうかん)と改め、崇賢館(すうけんかん)を左春坊への所属(隷左春坊)から外した。丁酉の日、京師の官吏の一か月分の俸禄を減らし、蓬莱宮の修築を助けさせた。庚戌の日、次のような詔を下した。「天の徳(天徳)は万物を生み出し、陽光の和やかさ(陽和)は季節(節)にかなっている。囚人(幽圄)のことを思えば、夜も眠れず心痛む(載惻分宵)思いである。これまでたびたび慈悲(哀矜)をかけてきたが、なお冤罪(枉濫)を免れていないのではないかと恐れる。
京師(長安)の囚人で流刑や死刑に相当する者は、毎日二十人を(再審議のために皇帝のもとへ)連れてくるようにせよ。」そこで自ら親しく(囚人に)読み聞かせ(臨問)、多くを赦免(原宥)した。裁ききれなかった分については皇太子(李弘)に記録(録之)させた。書学を蘭台(らんたい:秘書省)に、算学を秘閣(ひかく)に、律学を詳刑寺(しょうけいじ:大理寺)にそれぞれ所属させるよう詔を下した。燕然(えんぜん)都護府を瀚海(かんかい)都護府に、瀚海都護府を雲中(うんちゅう)都護府に、それぞれ改称した。二月、前の左相・許圉師(きょぎょし)を虔(けん)州刺史に左遷した。太子(李弘)が撰述した『瑶山玉彩(ようざんぎょくさい)』が完成した。書は全部で五百巻であった。
夏四月の乙丑の日、右相の李義府(りぎふ)が投獄された。戊子の目、李義府を免職(除名)とし、巂(けい)州へ流刑(配流)とした。丙午の日、蓬莱宮に新しく完成した含元殿(がんげんでん)に行幸した。
秋八月の癸卯の日、彗星が左攝提(さしょうてい:星宿名)に現れた。戊申の日、百官に対し、遠慮なく直言して諌める(極言正諫)よう詔を下した。司元太常伯(刑部尚書)の竇徳玄(とうとくげん)、司刑太常伯(大理卿あるいは刑部尚書の改称)の劉詳道(りゅうしょうどう)ら九人を持節大使(じせつたいし)に任命し、天下を分担して巡回(分行)させた。引き続き内外の五品以上の官吏に対し、それぞれ知る限りの有能な人材を推薦(各挙所知)するよう命じた。
冬十月の丙申の日、絳(こう)州の介山(かいざん)において麒麟(麟)が現れた。丙午の日、含元殿の前で麒麟の足跡(麟趾)が見つかった。
十一月の癸酉の日、雨氷(うひょう)が降った。
十二月の庚子の目、来年正月一日より元号を麟徳(りんとく)元年と改めるよう詔を下した。
麟徳元年
麟徳元年春正月の甲子の目、雲中都護府を単于(ぜんう)大都護府と改め、官職の等級(官品)を大都督府と同じとした。
二月の丁亥の日、殷王の(李)旭輪(きょくりん)に単于大都護の位を授けた。戊子の目、萬年宮(まんねんきゅう)に行幸した。
三月の辛亥の日、大射(だいしゃ)の礼を執り行った。丁卯の日、長女(早世した娘)を安定(あんてい)公主に追封し、諡(おくりな)を「思」とした。その供奉の行列(鹵簿)や軍楽(鼓吹)、および埋葬(供葬)に必要なものは、すべて親王の制度と同様(如親王之制)にし、徳業寺(とくぎょうじ)より崇敬寺(すうきょうじ)へ改葬した(遷)。
夏四月、衛州刺史で道王の(李)元慶(げんけい)が薨去した。
五月、許王の(李)孝(こう)が薨去した。乙卯の日、昆明(こんめい)の弄棟川(ろうとうせん)に姚(よう)州都督府を置いた。
秋八月の丙子の朔(一日)、萬年宮より還り、そのまま旧宅(太宗の旧邸)に行幸した。己卯の日、万年(まんねん)県の囚人の刑を減じ(降)、これによって大慈恩寺に行幸した。壬午の日、蓬莱宮に還った。戊子の目、兼司列太常伯(吏部尚書)・検校沛王府長史・城陽県侯の劉詳道(りゅうしょうどう)に右相を兼任させ、大司憲(御史大夫)の竇徳玄(とうとくげん)に司元太常伯・検校左相を兼任させた。
九月の己卯の日、次のような詔を下した。「北周の京兆尹・左右宮伯大将軍・司衛上将軍・少塚宰・広陵郡公の宇文孝伯(うぶんこうはく)は、忠誠で明らかな心(忠亮)を持ち、貞節で賢明な志(貞賢)を顕した。(北周の宣帝の)残虐な刑罰(淫刑)が行われようとした際、まさしく諌言を奉じて仁を求め、嫌疑(忍忌)をかけられようとしても、甘んじて身を捧げて節義に殉じた(甘捐躯而徇節)。年月は久しく経ったが、その気風(風烈)は今なお生きている。まことに爵位(徽章)を高くし、その子孫(胤冑)を顕彰すべきである。その孫で左威衛長史の(宇文)思純(しじゅん)を、朝散大夫に任命するようにせよ。」
十二月の丙戌の日、西台侍郎の上官儀(じょうかんぎ)を殺害した。戊子の目、庶人の(李)忠が、上官儀と通じていた(交通)罪により死を賜った。右相・城陽県侯の劉詳道(りゅうしょうどう)を司礼太常伯(礼部尚書)とした。太子右中護・検校西台侍郎の楽彦瑋(らくげんい)、西台侍郎の孫処約(そんしょやく)に、ともに政務を担当(同知政事)させた。この冬は雪が降らなかった。
麟徳二年
二年春正月の壬午の日、東都(洛陽)に行幸した。丁酉の日、合璧宮(ごうへききゅう)に行幸した。戊子の目、雍州・洛州および諸司の囚人の再審(慮)を行った。甲子の目、泰山に向かうため、(官吏の)選考(選)を停止した。
三月の甲寅の日、兼司戎太常伯(兵部尚書)で永安郡公の姜恪(きょうかく)を同東西台三品(宰相職)とした。辛未の日、東都において乾元殿(けんげんでん)の造営が完了した。
閏月の癸酉の日、日食があった。四月の丙午の日、桂(けい)州・広(こう)州・黔(きん)州の三都督府の管内に限定して、死罪(大闢罪)から一等減じる特赦(曲赦)を行った。丙寅の日、邙山(ぼうざん)の南で武芸の講習(講武)を行い、皇帝(上)は城の北楼にお出ましになり、これを観覧した。戊辰の日、左侍極(門下省侍郎)で引き続き検校大司成(国子祭酒)の嘉興県子・陸敦信(りくとくしん)を検校右相(中書令代行)とし、大司成の職務は免じた。西台侍郎の孫処約、楽彦瑋はともに政務の担当(知政事)を解任した。
五月の辛卯の日、秘閣郎中の李淳風(りじゅんぷう)が編纂した暦が完成したため、これを『麟徳暦(りんとくれき)』と名付け、頒布した。司空・英国公の李勣、少師・高陽郡公の許敬宗、右相・嘉興県子の陸敦信、左相・巨鹿男の竇徳玄を検校封禅使(ほうぜんし)とした。六月、鄜(ふ)州で大水害があり、城や町(城邑)を破壊した。秋七月、鄧(とう)王の(李)元裕(げんゆう)が薨去した。
冬十月の戊午の日、皇后(武則天)が(泰山の)封禅を請い願った。司礼太常伯(礼部尚書)の劉詳道も上疏して封禅を請い願った。癸亥の日、高麗王の高蔵(こうぞう:宝蔵王)がその子の福男(ふくだん)を遣わして来朝させた。丁卯の日、まさに泰山を封(封泰山)じようとして、東都を出発した。この年は大豊作(大稔)であり、米は一斗につき五銭で、大麦(麰麦)は(豊富すぎて)市に並ぶこともないほどであった。
十一月の丙子の目、原武(げんぶ)に次ぎ、少牢(羊と豚)をもって漢の将軍・紀信(きしん)の墓を祭り、驃騎大将軍を追贈した。庚寅の日、華州刺史で燕国公の于志寧が卒した。
十二月の丙午の日、斉(せい)州の大庁(だいちょう:政庁)にお出ましになった。乙卯の日、担当官司(所司)に命じて泰山を祭らせた。丙辰の日、霊巌(れいがん)の宿(頓)を出発した。