旧唐書
本紀第二 太宗上
太宗上
太宗文武大聖大広孝皇帝は、諱を世民(せいみん)といい、高祖の次男である。母は太穆順聖皇后の竇(とう)氏である。隋の開皇十八年(598年)十二月戊午の日、武功(ぶこう)の別館で生まれた。その時、二匹の龍が館の門の外で戯れ、三日目に去っていった。高祖が岐州の刺史であった際、太宗は当時四歳であった。ある書生が、自分は人相見に長けていると言って高祖に謁見し、「公は貴人であり、また貴子をお持ちです」と言った。太宗を見ると、「龍や鳳凰の姿、天や日の光(天日之表)のような気品があり、年が二十歳に近づけば、必ずや世を救い民を安んじる(済世安民)ことができるでしょう」と言った。高祖はその言葉が漏れるのを恐れ、その者を殺そうとしたが、忽然と行方が分からなくなった。そのため、「済世安民」の義をとって(世民と)名付けたのである。太宗は幼少から聡明で英知に溢れ、深い洞察力(玄鑒)を持ち、物事の判断に果断で、小節にこだわらなかったため、当時の人々にはその度量を測り知ることができなかった。
大業の末年、煬帝が雁門(がんもん)で突厥(とっけつ)に包囲された際、太宗は募兵に応じて救援に向かい、屯衛将軍・云定興(うんていこう)の陣営に属した。出発に際し、定興にこう言った。「必ず旗や太鼓を多く携えて疑兵を設けるべきです。そもそも始畢(しびつ)可汗が国を挙げての師(軍勢)で天子(煬帝)を包囲したのは、必ずや国家が不意を突かれて救援がないと考えてのことでしょう。我が軍の威容を誇示し、数十里にわたって旗を連ね、夜には鐘や太鼓(鉦鼓)を響き合わせれば、敵は必ず救援の兵が雲のように集まってきたと思い、砂塵を望んで逃走するはずです。そうでなければ、敵は多勢で我らは無勢ですから、全軍で攻め寄せてこられれば、到底支えきれません。」定興はこれに従った。軍が崞(かく)県に至ると、突厥の斥候の騎兵が始畢可汗に「官軍(王師)が大挙して到来した」と急報した。これにより包囲を解いて逃走した。また、
高祖が太原を鎮守していた際、太宗は当時十八歳であった。高陽の賊の将に魏刀児(ぎとうじ)という者がおり、自ら「歴山飛(れきざんひ)」と号していた。太原を攻めてくると、高祖がこれを撃ったが、敵陣に深く入り込みすぎた。太宗は軽騎兵を率いて包囲を突破して進み、敵を射れば、向かうところ敵は四散し(披靡)、万軍の中から高祖を救い出した。折よく歩兵も到着し、高祖と太宗は再び激しく打ち払い、これを大破した。当時、隋の天運(隋祚)はすでに尽きており、太宗は密かに義兵を挙げる計略を練り、常に腰を低くして士人に接し、財をなげうって食客を養ったため、賊の将や侠客の徒で、死力を尽くして尽力したいと願わない者はなかった。義兵が立ち上がると、兵を率いて西河を平定し、これを攻略した。右領大都督に任じられ、右三軍はすべてその管轄下に入り、燉煌郡公に封じられた。
大軍が西へ進み賈胡堡(かこほう)に至ると、隋の将軍・宋老生(そうろうせい)が精兵二万を率いて霍邑(かくりゅう)に駐屯し、義軍を阻んだ。たまたま長雨が続き兵糧が尽きたため、高祖は裴寂(はいせき)と協議し、一度太原に還って後日の挙兵を図ろうとした。太宗は言った。「もともと民(蒼生)を救うために大義を掲げて挙兵したのですから、まずは咸陽(長安)に入り、天下に号令すべきです。小さな敵に遭っただけで兵を返すようでは、大義に従った者たちが一朝にして解体してしまうのではないかと恐れます。太原の一城の地を守るために還るのでは、これでは(単なる)賊と同じです。どうして自らを全うできましょうか!」高祖は聞き入れず、出発を急がせた。太宗はついに外(帳外)で声を上げて泣き、その声は幕舎の中にまで聞こえた。高祖が呼び出してその理由を問うと、答えて言った。「今、軍は義によって動いています。進んで戦えば必ず勝ち、退いて還れば必ず霧散します。衆(兵士)が前方で散り、敵が後方から乗じれば、死はまたたく間に訪れるでしょう。それを悲しんでいるのです。」高祖はようやく悟り、撤退を中止した。
八月の己卯の日、雨が上がり、高祖は軍を率いて霍邑へと向かった。太宗は宋老生が城から出て戦わないのを恐れ、数騎を従えて先に城下へ至り、鞭を振るって指揮を執り、あたかも城を包囲するかのような素振りを見せて、彼を激怒させた。老生は果たして怒り、門を開いて兵を出し、城を背にして陣を敷いた。高祖と建成は城の東に陣を合わせ、太宗と柴紹(さいしょう)は城の南に陣を敷いた。老生は兵を指揮して急速に進み、まずは高祖の陣を攻め立てたが、建成が馬から落ち、老生がこれに乗じたため、高祖と建成の軍はともに後退した。太宗は南の丘(南原)から二騎を率いて険しい坂を駆け下り、敵軍を分断し、兵を率いて激しく打ち払うと、賊の衆は大敗し、皆武器を捨てて逃げ走った。城門(懸門)が下ろされる中、老生は綱を引いて登ろうとしたが、ついにこれを斬り、霍邑を平定した。河東に至ると、関中の豪傑たちが争って義軍に駆けつけた。太宗は関中に兵を進め、永豊倉を奪って困窮した者を救い、賊の衆を収容して京師(長安)を図るよう請い、高祖はこれを良しとした。太宗は前軍を率いて河を渡り、まずは渭北を平定した。三輔(長安周辺)の官民や各地の豪強(豪猾)で、軍門を訪れて自ら尽力したいと願い出る者は日ごとに千を数え、老いを助け幼きを連れ、麾下(旗の下)に満ちあふれた。英俊な材を収容して官吏(僚列)に備えさせると、遠近でこれを聞く者は皆自ずから身を寄せた。軍が涇陽(けいよう)に至ると、兵力は九万に達し、胡族の賊である劉鷂子(りゅうようし)を破り、その衆を併せた。殷開山(いんかいざん)・劉弘基を長安の故城に駐屯させた。太宗は自ら司竹(しちく)へと向かい、賊の将である李仲文・何潘仁・向善志らが皆集まり、阿城(あじょう)に駐屯した。これによって十三万の兵を得た。長安の父老(長老)たちが牛や酒を携えて軍門(旌門)を訪れる者は数えきれないほどであったが、彼らを労って帰し、一つも受け取らなかった。軍律は厳粛で、秋毫(わずかなもの)も犯すことはなかった。まもなく大軍とともに京城(長安)を平定した。高祖が政権を補佐(輔政)すると、唐国の内史に任じられ、改めて秦国公に封じられた。
たまたま(西秦の王である)薛挙(せつきょ)が十万の精鋭(勁卒)を率いて渭水(渭濱)に迫ったが、太宗が自らこれを撃ち、大破し、一万余人を追い斬り、その勢いで隴坻(ろうてい)まで平定した。
義寧元年(617年)十二月、再び右元帥となり、十万の兵を総括して東都(洛陽)を席巻した。凱旋しようとした際、側近に「敵は我が軍が還るのを見て、必ずや追撃してくるだろう」と言い、三か所に伏兵を置いて待ち構えた。まもなく隋の将・段達(だんたつ)が一万余人を率いて後方から現れ、三王陵を通りかかったところで伏兵でこれを叩くと、段達は大敗し、逃げるのを城下まで追撃した。これに乗じて宜陽(ぎよう)・新安に熊州・穀州の二州を置き、守備兵(戍)を置いて帰還した。趙国公に遷して封じられた。高祖が禅譲を受ける(受禅)と、尚書令・右武候大将軍に任じられ、秦王に封じられ、雍州牧を加えられた。
武徳元年(618年)七月、薛挙が涇州(けいしゅう)を侵略したため、太宗は衆を率いてこれを討ったが、戦況が不利であったため帰還した。九月、薛挙が没し、その子の薛仁杲(せつじんこう)が後を継いだ(嗣立)。太宗は再び元帥として仁杲を撃ち、折墌(せつしゃ)城で相峙(あいい)対峙し、溝を深くし塁を高くして(深溝高塁)六十余日の間立てこもった。敵の衆は十余万で、兵の先鋒は極めて鋭く、しきりに挑発してきたが、太宗は武装(甲)を解いて待機し、これ(敵の鋭気)を削いだ。敵の兵糧が尽きると、その将・牟君才(ぼうくんさい)や梁胡郎(りょうころう)が降伏してきた。太宗は諸将に「敵の士気は衰えた。今こそ取るべきだ」と言い、将軍の龐玉(ほうぎょく)を派遣してまず浅水原(せんすいげん)の南に陣を敷かせて敵を誘い出させた。敵の将・宗羅㬋(そうらこう)が全軍を率いてこれを阻もうとし、龐玉の軍は危うく敗北するところであった。そこへ太宗が自ら大軍を率いて、不意に(原の)北側から現れた。宗羅㬋はこれを見て、軍を返して対抗した。太宗は数十の精鋭騎兵(驍騎)を率いて敵陣に突入し、これによって官軍(王師)は内外(表裏)から一斉に奮起した。宗羅㬋の軍は大敗(大潰)し、数千人を斬り、谷(澗穀)に投げ出されて死んだ者は数えきれないほどであった。太宗は側近二十余騎を率いて逃走する敵を追い、真っ直ぐ折墌城へ向かい、これに乗じようとした。仁杲は大いに恐れ、城に立てこもって自守した。夕刻になり大軍も続いて到着し、四面を包囲した。翌朝(詰朝)、仁杲は降伏を請い、その精兵一万余人、男女五万口を捕虜とした。その後、諸将が祝辞を述べた際、こう問うた。「初め大王(太宗)が野戦で賊を破ったとき、敵の主君(仁杲)はまだ堅固な城を守っていました。王は攻城の具も持たず、軽騎兵で追い、歩兵を待たずに真っ直ぐ城下に迫りました。皆、攻略は無理だと思っていましたが、ついには下しました。それはなぜですか?」太宗は言った。「これは権道(策)によって敵を追い詰め、計略を立てる暇を与えなかったからだ。それゆえ攻略できたのである。宗羅㬋は昨年の勝利(我が軍の敗北)を頼みとし、さらに精鋭を長く養っていたため、我が軍が出てこないのを見て、侮る心(軽んじる意)を抱いていた。今、我が軍が出たのを喜んで全兵を挙げて戦いにきたが、これを撃ち破っても捕らえ殺せる者は少なかった。もし急いで追撃しなければ、(敵は)城へ逃げ帰り、仁杲がこれを収容して安撫すれば、容易に落とすことはできなかっただろう。また、その兵たちは皆隴西の者であり、一度敗れて潰走すれば、振り返る暇もなく、隴山(隴外)の向こうへ散り散りに帰ってしまう。そうなれば折墌城は自ずから空同となり、我が軍がそのまま迫ったからこそ、恐れて降伏したのだ。これこそが成算(勝利の計算)であるが、諸君には全く見えていなかったのか?」諸将は「これは並みの人間に及ぶところではありません」と言った。敵軍の精鋭騎兵を多く得ると、あえて仁杲の兄弟や賊の将・宗羅㬋、翟長孫(てきちょうそん)らにこれを率いさせた。太宗は彼らと狩りや騎射を共にし、隔てるところがなかった。敵徒(降伏した者)はその恩に浴し、気を呑まれ、皆死力を尽くしたいと願った。当時、李密(りみつ)が帰順したばかりで、高祖は李密に駅馬(馳伝)を飛ばさせて豳(ひん)州で太宗を迎えさせた。李密は太宗の天性の神武さと軍の威容の厳粛さを見て、驚き感嘆し、密かに殷開山(いんかいざん)に「真の英雄の主君(英主)である。そうでなければ、どうして禍乱を定めることができようか」と言った。凱旋し、太廟に勝利を報告した。太尉・陝東道行台尚書令に任じられ、長春宮に鎮守し、関東の兵馬はすべてその指揮下(節度)に入った。まもなく左武候大将軍・涼州総管を加えられた。
(劉武周の将である)宋金剛が澮(かい)州を陥落させた際、兵の先鋒は極めて鋭かった。高祖は(西方の)王行本(おうこうほん)がまだ蒲州を拠点としており、呂崇茂(りょすうぼう)が夏(か)県で反乱を起こし、晋州・澮州が相次いで陥落したため、関中が震え恐れているのを見て、自筆の勅書を出して言った。「敵の勢いはかくの如くなっており、これと勝負を争うのは難しい。河東の地は捨て、慎み深く関西(関中)を守るべきである。」太宗は上表して言った。「太原の地は王業の基(もとい)であり、国家の根本です。河東の地は豊かで、京師(長安)を支える源泉です。もし挙げてこれを捨て去るならば、私は密かに憤りを感じます。願わくは精兵三万を賜れば、必ずや劉武周を平らげ、汾州・晋州を奪還してみせましょう。」高祖はそこで関中の兵をすべて出して太宗に与え、また長春宮に行幸して自ら太宗を見送った。武徳二年(619年)十一月、太宗は衆を率いて龍門関に向かい、氷の上を渡って柏壁(はくへき)に進軍して駐屯し、敵将の宋金剛と相峙対峙した。まもなく永安王・李孝基(りこうき)が夏県で敗れ、于筠(ういん)・独孤懐恩(どっここん)・唐倹(とうけん)らが皆、敵将の尋相(じんしょう)や尉遅敬徳(うっちけいとく)に捕らえられ、澮州へ連行されようとした。太宗は殷開山・秦叔宝(しんしゅくほう)を派遣して美良川(びりょうせん)でこれを待ち伏せさせ、大破すると、尋相らは身一つで逃げ延びるのがやっとで、その衆はすべて捕虜となり、再び柏壁に帰還した。そこで諸将は皆戦いを請うたが、太宗は言った。「金剛は千里の遠くから軍を動かして我が地に深く入り込んでおり、精鋭の兵や驍勇な将はみなここにおる。劉武周は太原に拠り、専ら金剛を頼りとして防壁としているのである。
「士卒(宋金剛の軍)は多勢ではあるが、内部は実は空虚(兵糧不足)であり、早期の決戦を望んでいる。我らが営塁を固くして鋭気を養い、敵の勢い(鋒)を挫けば、敵は兵糧が尽き策も行き詰まり、自ずから逃げ走るであろう。」
武徳三年(620年)二月、宋金剛はついに衆が飢えたために逃走し、太宗はこれを介州まで追撃した。金剛は南北に七里の陣を敷き、官軍(王師)を拒んだ。太宗は総管の李世勣(りせいき)・程咬金(ていこうきん)・秦叔宝(しんしゅくほう)を派遣して北側を、翟長孫(てきちょうそん)・秦武通(しんぶつう)を南側に当てた。諸軍は戦いの中で少し後退し、賊に乗じられた。太宗は精鋭騎兵を率いてこれを撃ち、その陣の後方を衝くと、賊の衆は大敗し、数十里を逃げ走った。尉遅敬徳・尋相(じんしょう)が八千の衆を率いて降伏してきたため、再び敬徳に彼らを統率させ、軍中(軍営)に混ぜて配置した。屈突通(くつとつづう)は彼らが変事を起こすのを恐れ、しきりに(敬徳を使うのをやめるよう)請願した。太宗は言った。「かつて蕭王(後の漢の光武帝)は赤心(真実の心)を人の腹中に置き、兵たちは皆命を捧げたという。今、私は敬徳を信じて任せている。何を疑うことがあろうか。」そこで劉武周は突厥へ逃亡し、并州・汾州はすべて旧地を回復した。軍中において「益州道行台尚書令」に加任する詔を受けた。
七月、諸軍を統率して洛邑(洛陽)の王世充(おうせいじゅう)を攻め、軍は穀州(こくしゅう)に次いだ(到着した)。世充は精兵三万を率いて慈澗(じかん)に陣を敷いたが、太宗は軽騎兵でこれを挑発した。当時、寡兵で大軍に敵せず、重囲の中に陥ったため、側近たちは皆恐れた。太宗は側近たちに先に帰るよう命じ、独りしんがり(後殿)を務めた。世充の驍将・単雄信(ぜんゆうしん)が数百騎を率いて道を挟んで迫り、槍を交えて競って進んできたため、太宗は危うく敗北するところであった。太宗の側近がこれを射ると、敵は弦の音に応じるように倒れ(応弦而倒)、敵の大将・燕頎(えんき)を捕らえた。世充は慈澗の守備兵を引き連れて東都(洛陽)へ帰還した。太宗は行軍総管・史万宝(しまんぽう)を派遣して宜陽から南に龍門を占拠させ、劉徳威(りゅうとくい)には太行から東に河内を包囲させ、王君廓(おうくんかく)には洛口から賊の糧道を遮断させた。また黄君漢(こうくんかん)を派遣して、夜中に孝水の川から舟師を使って回洛(かいらく)城を襲わせ、これを攻略した。黄河以南の地で呼応しない者はなく、城砦が相次いで降伏してきた。大軍は進んで邙山(ぼうざん)に駐屯した。九月、太宗は五百騎を率いて先に戦地を視察したが、図らずも世充の一万余人の軍と遭遇した。会戦となり、再びこれを破り、三千余人を斬り、大将・陳智略を捕らえ、世充は身一つで逃げ延びるのがやっとであった。彼(王世充)が任命した筠州総管・楊慶(ようけい)が使者を派遣して降伏を請うてきたため、李世勣を派遣して轘轅(かんえん)道から出兵させその衆を安撫させた。滎州・汴州・洧州・豫州などの九州が相次いで降伏した。世充はついに竇建徳(とうけんとく)に救いを求めた。
武徳四年(621年)二月、さらに進んで青城宮(せいじょうきゅう)に駐屯した。営塁がまだ築かれないうちに、世充の二万の衆が方諸門から谷水(こくすい)に臨んで陣を敷いた。太宗は精鋭騎兵を北邙山(ほくぼうざん)に陣取らせ、屈突通に命じて歩卒五千を率いて水を渡ってこれを撃たせ、その際、通にこう戒めた。「兵が交わるのを待って煙を上げよ。私は騎兵軍を率いて南下しよう。」兵がぶつかるやいなや、太宗は騎兵で突入し、身を挺して先んじ、屈突通と内外(表裏)応じ合った。賊の衆は必死に戦い、散ってはまた集まること数回に及んだ。辰の刻(午前8時頃)から午の刻(正午頃)まで戦い、ようやく賊の衆は退却した。兵を放ってこれに乗じ、八千人を捕虜または斬首したため、そのまま進んで城下に陣を敷いた。世充は再び出てこようとはせず、ただ城に立てこもって自守し、建徳の救援を待った。太宗は諸軍に命じて堀(塹)を掘らせ、ぐるりと長い包囲網(長囲)を築いてこれを守らせた。呉王の杜伏威がその将・陳正通(ちんせいつう)・徐召宗(じょしょうそう)を派遣し、精兵二千を率いて軍へ合流させた。(世充の)偽鄭州司馬・沈悦(しんえつ)が武牢(ぶろう)を献じて降伏すると、将軍の王君廓(おうくんかく)がこれに応じ、敵の偽荊王・王行本(おうこうほん)を捕らえた。たまたま竇建徳が十余万の兵を率いて世充を救援するために酸棗(さんそう)に到着した。蕭瑀(しょうう)・屈突通・封徳彞(ほうとくい)らは皆、腹背に敵を受けることになり、万全ではないのではないかと恐れ、一度軍を穀州へ退いて様子を見るよう請うた。太宗は言った。「世充の兵糧は尽き、内外の心は離れている。我らはあえて攻撃して苦労せずとも、座してその疲れ(弊)を収めることができる。建徳は先頃孟海公(もうかいこう)を破ったばかりで、将は奢り兵は怠けている。私は進んで武牢を占拠し、その要所(襟要)を抑えるべきである。賊がもし危険を冒して我らと勝負を争おうとするなら、必ずやこれを破ることができる。もし戦わなければ、数日のうちに世充は自ら崩壊するだろう。もし速やかに進まず、賊が武牢に入ってしまえば、新たに降伏した諸城は必ず守りきれない。二人の賊(世充と建徳)が力を合わせれば、いかにすべきか。」屈突通は再び、包囲を解いて険要な地に拠り、事態の変化を待つよう請うたが、太宗は許さなかった。そこで通に命じて斉王・李元吉を補佐させ世充を包囲させ、自らは歩兵と騎兵三千五百人を率いて武牢へ向かった。
竇建徳は滎陽(けいよう)から西へ進み、板渚(はんしょ)に営塁を築いた。太宗は武牢に駐屯し、二十余日の間対峙した。スパイ(諜者)が言った。「建徳は官軍の飼料(芻)が尽きるのをうかがい、黄河(河北)で馬を放牧する隙を狙って、武牢を襲おうとしています。」太宗はその計略を知ると、あえて河北で馬を放牧して敵を誘い出した。翌朝、建徳は果たして全軍を率いて到来し、氾水(はんすい)に兵を並べた。世充の将・郭士衡(かくしこう)がその南に陣を敷き、数里にわたって連なり、鬨の声を上げたため、諸将は大いに恐れた。太宗は数騎を連れて高い丘に登りこれを眺め、諸将に言った。「賊は山東で起ち、まだ強敵を見たことがない。今、険難な地を渡りながら騒がしくしているのは、軍律(政令)がない証拠である。城に迫って陣を敷くのは、我らを軽んじる心があるからだ。我らが兵を動かさずに出ていかなければ、彼らの気勢は自ずから衰える。陣を長く敷けば兵は飢え、必ずや自ら撤退するだろう。そこを追って撃てば、勝てないことはない。」
「私は諸君と約束する。必ずや午の刻(正午)過ぎには敵を破ってみせよう。」(竇)建徳は陣を敷いたが、辰の刻(午前8時)から午の刻まで、兵士たちは飢え疲れ、皆地面に座り込み、また水を争って飲み、しばらくして(陣を)収めて退却しようとした。太宗は「今こそ撃つべきだ!」と言い、自ら軽騎兵を率いて追いながら敵を誘い出すと、後続の軍も次々に到着した。建徳は軍を返して陣を敷いたが、隊列が整わないうちに、太宗が先んじてこれを撃つと、向かうところ敵は四散(靡)した。まもなく全軍が合戦となり、土煙(囂塵)が四方に立ち込めた。太宗は史大奈(したいない)・程咬金(ていこうきん)・秦叔宝(しんしゅくほう)・宇文歆(うぶんきん)らを率いて旗を振って突入し、真っ直ぐ敵陣の後方へと突き抜け、我方の旗を掲げた。賊はそれを振り返って見て大敗(大潰)した。三十里を追撃して三千余人を斬り、その衆五万を捕虜とし、戦陣において建徳を生け捕りにした。太宗は建徳を責めて言った。「私は武力をもって罪を問うているが、その対象は本来王世充(おうせいじゅう)にある。彼が得ようが失おうが、存続しようが亡びようが、汝には関わりないことだ。なぜ国境を越え、我が兵の刃(兵鋒)を犯したのか?」建徳は股を震わせて言った。「今、私が自ら来なければ、(あなたが)遠くまで取りに行く手間をかけさせてしまうところでした。」高祖はこれを聞いて大いに喜び、直筆の詔を下して言った。「隋氏が崩壊して以来、崤山(こうざん)や函谷関(かんこくかん)によって(東西が)隔絶されていた。二人の英雄(世充と建徳)が勢いを合わせていたが、一朝にして掃き清められた。戦いに勝ち、犠牲者も出なかった。臣下として恥じることなく、父を心配させないのは、ひとえに汝の功績である。」そこで建徳を東都(洛陽)の城下まで連行した。世充は恐れ、その官属(部下)二千余人を率いて軍門を訪れ降伏を請うた。これによって山東(太行山以東)がすべて平定された。太宗は入城して宮城に拠り、蕭瑀(しょうう)・竇軌(とうき)らに命じて府庫(倉庫)を封印して守らせ、一つも私物化せず、記室の房玄齡(ぼうげんれい)に命じて隋の図書や記録を回収させた。そこで、ともに悪事を働いた段達(だんたつ)ら五十余人を処刑し、不当に囚われていた者たちはすべて釈放し、罪なく殺された者たちは祭祀を行い追悼文(誄)を捧げた。将士のために大宴会を開き、功績に応じて恩賞(班賜)を与えた。高祖は尚書左僕射の裴寂(はいせき)を派遣して軍中で労わせた。
六月、凱旋した。太宗は自ら黄金の鎧(黄金甲)をまとい、鉄馬一万騎、甲士(よろい武者)三万人を隊列(陣)させ、前後に軍楽(鼓吹)を鳴らし、二人の偽君主(世充と建徳)および隋の重器(器物)や天子の馬車(輦輅:れんろ)を捕虜(戦利品)として太廟に献じた。高祖は大いに喜び、勝利を祝う宴(飲至礼)を行ってこれをもてなした。高祖は、古来の官職ではこの並外れた功績(殊功)を表彰するのに不十分であると考え、別に称号(徽号)を制定して、比類なき功徳を顕彰することにした。
十月、天策上将(てんさくじょうしょう)・陝東道大行台の称号を加えられ、その位は王公の上とされた。領地(邑)を二万戸加増し、以前と合わせて三万戸とした。金輅(金の馬車)一乗、袞冕(こんべん:皇帝や王の正装)の服、玉璧(ぎょくへき)一双、黄金六千斤、前後の軍楽および九部の音楽、班剣(儀仗用の剣)を持つ者四十人を賜った。当時、天下(海内)が次第に平定されたため、太宗は経典や史書(経籍)に心を注ぎ、文学館を開いて四方の士人を迎えた。行台司勛郎中の杜如晦(とじょかい)ら十八人を学士とし、交代で閣下に直泊させ、穏やかな顔(温顔)で接して、彼らと経典の義理を討論し、時には夜更け(夜分)に及ぶこともあった。まもなく、竇建徳の旧将であった劉黒闥(りゅうこくたつ)が兵を挙げて反乱を起こし、洺州(めいしゅう)に拠った。
十二月、太宗は全軍を率いて東へ討伐に向かった。五年正月、肥郷(ひきょう)に進軍し、兵を分けて(敵の)兵糧の道を遮断し、二か月の間対峙した。黒闥は窮地に陥って決戦を求め、歩兵と騎兵二万を率いて洺水を南に渡り、明け方に官軍に圧力をかけた。太宗は自ら精鋭騎兵を率いて敵の馬軍(騎兵)を撃って破り、勝利に乗じてその歩兵を蹂躙すると、賊は大敗(大潰)し、一万余人を斬った。これに先立ち、太宗は洺水の上流を堰き止めて水を浅くさせ、黒闥が渡れるようにしておいた。戦いが始まると堰を切り、大量の水が押し寄せ、深さは一丈(約3メートル)余りに達した。賊徒(黒闥の軍)は敗北したうえ、川に飛び込んだ者は皆溺れ死んだ。黒闥は二百余騎を連れて北の突厥へと逃走し、その衆はすべて捕虜となり、河北が平定された。当時、徐円朗(じょえんろう)が徐州・兗州(えんしゅう)で兵を阻んで抵抗していたが、太宗は軍を返してこれを討ち平らげた。これにより、黄河・済水・長江・淮水の諸郡邑はすべて平定された。十月、左右十二衛大将軍に加えられた。
七年秋、突厥の頡利(イリグ)・突利(テュリス)の二可汗が原州から侵入し、関中を侵し乱した。高祖にこう説く者がいた。「(突厥が来るのは)ただ財宝や子女が京師(長安)にあるからです。ゆえに突厥が来るのです。もし長安を焼き払って都としなければ、胡族の侵略(胡寇)は自ずから止むでしょう。」高祖はそこで中書侍郎の宇文士及(うぶんしきゅう)を派遣して山南(秦嶺以南)の居住可能な地を視察させ、すぐにでも遷都しようとした。蕭瑀(しょうう)らは皆無理であると考えたが、ついに(皇帝の)不興を恐れて直言(犯顔正諫)できなかった。太宗だけがこう言った。「(前漢の)霍去病(かくきょへい)は漢朝の将帥にすぎませんでしたが、それでも匈奴を滅ぼそうと志しました。私は不才ながら国家の守り(籓維:ばんい)を任されておりながら、胡族の戦塵を鎮めることができず、ついに陛下に遷都の議論をさせてしまいました。これは私の責任です。どうか幸いにも私の微力な尽力(微效)を聴き入れていただき、あの頡利を捕らえさせてください。もし一、二年の間にその首を縛り上げることができなければ、その時に初めて遷都の策を立てていただければ、私は二度と言い立てません。」高祖は怒り、それでも太宗に三十余騎を率いて現状を視察(行刬)させた。帰還した日、太宗は改めて(固奏)絶対に遷都すべきではないと奏上し、高祖はようやく遷都を中止した。八年、中書令に任命された。
武徳九年
九年、皇太子・李建成(りけんせい)と斉王・李元吉(りげんきつ)が太宗を害そうと目論んだ。
六月四日、太宗は長孫無忌(ちょうそんむき)・尉遲敬徳(うっちけいとく)・房玄齢(ぼうげんれい)・杜如晦(とじょかい)・宇文士及(うぶんしきゅう)・高士廉(こうしれん)・侯君集(こうくんしゅう)・程知節(ていちせつ:程咬金)・秦叔宝(しんしゅくほう)・段志玄(だんしげん)・屈突通(くつとつづう)・張士貴(ちょうしき)らを率いて、玄武門においてこれら(建成・元吉)を誅殺した。甲子の目、(太宗は)皇太子に立てられ、あらゆる政務(庶政)を自ら断決することとなった。太宗はそこで禁苑(皇室の庭園)で飼っていた鷹や犬を放し、また諸地方から献上されていた珍奇な品々(珍異)を停止させ、政治を簡素かつ厳粛(簡粛)に保つようにしたため、天下は大いに喜んだ。また百官に対し、それぞれ封事(機密の上奏文)を奉呈させ、民を安んじ国を治めるための要諦を具ぶさに陳弁させた。己巳の日、次のように命令(令)を下した。「礼制によれば、二文字の名については(一文字ずつを)偏諱(避諱)することはない。近代以来、両方の字をともに避けるようになり、そのため(文書の)廃止や欠落が多くなり、勝手な解釈が横行して、古典の教え(経典)に背いている。今後、官名や人名、公私の文籍において、『世』と『民』の二文字が連続していない場合は、一切避諱する必要はない。」幽州の大都督府を廃止した。辛未の日、陝東道大行台を廃止して洛州都督府を置き、益州道行台を廃止して益州大都督府を置いた。壬午の日、幽州大都督・廬江王の李瑗(りえん)が謀反を企てたため、廃して庶人とした。乙酉の日、天策府を廃止した。七月の壬辰の日、太子左庶子の高士廉を侍中に、右庶子の房玄齢を中書令に、尚書右僕射の蕭瑀(しょうう)を尚書左僕射に、吏部尚書の楊恭仁(ようきょうじん)を雍州牧(兼任)に、太子左庶子の長孫無忌を吏部尚書に、右庶子の杜如晦を兵部尚書に、太子詹事(ぜんじ)の宇文士及を中書令に、封徳彞(ほうとくい)を尚書右僕射にそれぞれ任命した。
八月の癸亥の日、高祖は皇太子(太宗)に位を譲り、太宗は東宮の顕徳殿(けんとくでん)において即位した。司空・魏国公の裴寂(はいせき)を派遣して南郊(天を祀る場所)に柴告(焚き火をして報告する儀式)をさせた。天下に大赦を行った。武徳元年以来、情(やむを得ぬ事情)によって流刑や配流(流配)に処されていた者をすべて釈放して帰還させた。文武官の五品以上でまだ爵位のない者に爵一級を、六品以下には勲一転を授けた。天下の租税と労役を一年間免除(給復)した。癸酉の日、掖庭(えきてい:後宮)の宮女三千余人を解放した。甲戌の日、突厥(とっけつ)の頡利(イリグ)・突利(テュリス)の両可汗が涇州(けいしゅう)を侵略した。乙亥の日、突厥がさらに武功(ぶこう)を侵略したため、京師(長安)に戒厳令を敷いた。丙子の目、妃の長孫(ちょうそん)氏を皇后に立てた。己卯の日、突厥が高陵(こうりょう)を侵略した。辛巳の日、行軍総管の尉遲敬徳が涇陽(けいよう)で突厥と戦い、これを大破して千余人を斬った。癸未の日、突厥の頡利が渭水の便橋(べんきょう)の北に到着し、その酋帥である執失思力(しつしつしりき)を遣わして入朝させ、様子をうかがわせ(覘)、自らの勢力を誇示させたが、太宗は彼を拘禁するよう命じた。自ら玄武門を出て、六騎を飛ばして渭水の上に行幸し、頡利と川(津)を隔てて語り合い、約束を破ったことを責めた。まもなく諸軍が続いて到着し、頡利は軍の威容が盛んであることを見、また執失思力が拘束されたことを知って、大いに恐れ、ついに和睦を請うたため、詔を下してこれを許した。その日のうちに宮中に還った。乙酉の日、再び便橋に行幸し、頡利と白馬を殺して誓盟(盟)を結ぶと、突厥は撤退した。九月の丙戌の日、頡利が馬三千匹、羊一万頭を献上したが、皇帝(太宗)は受け取らず、頡利に略奪した中国の戸口(人民)を帰還させるよう命じた。丁未の日、左右諸衛の騎兵の統将らを引いて顕徳殿の庭で弓術(射)を習わせ、将軍以下に語った。「古より、突厥と中国は盛衰を共にしてきた。もし軒轅(黄帝)が五兵(武器)を善く用いたならば、北の獯鬻(くんいく:匈奴の古名)を追い払うことができただろう。周の宣王が方叔(ほうしゅく)や召虎(しょうこ)らを駆使したならば、太原において(異民族に)勝利を制することができただろう。漢・晋の君主に至り、隋代に及んでは、兵士たちに日頃から武芸(干戈)を習わせなかったため、突厥が来襲しても対抗することができず、中国の民を賊の手によって塗炭の苦しみに合わせることとなった。私は今、汝らに池を掘らせたり庭園を築かせたりといった贅沢(淫費)をさせることはしない。農民には思う存分安楽にさせ、兵士にはただ弓馬を習わせる。汝らを実戦(開戦)に当たらせる際には、汝らの前に敵(横敵)がいないことを望むものである。」そこで毎日数百人を殿前に引いて弓術を教え、皇帝みずから視察して、射抜いた者にはその場で弓や刀、布帛(ふはく)を賞として与えた。朝臣の中にはしきりに諫める者がおり、こう言った。「先王(古の王)が法を定めたのは、武器(兵刃)を持って皇帝の居場所(御所)に近づく者を処罰するためでした。それは芽(萌)を防ぎ兆しを絶つ(杜漸)ことで、不測の事態に備えるためです。今、下級の将卒(裨卒)を引き入れ、天子の軒先の側で弓を引き矢を放たせており、陛下みずからその中におられます。まさに禍(わざわい)が不意に起こることを恐れるものであり、社稷(国家)の計略のためにはなりません。」しかし陛下はこれを聞き入れなかった。これ以後、士卒は皆精鋭となった。壬子の目、私家においてみだりに妖しい神(妖神)を祀ることを禁じ、勝手な祭祀(淫祀)や不敬な祈祷(非礼祠祷)を一切禁絶するよう詔を下した。亀甲での占いや易経(五兆)以外のアラカルトな占い(諸雑占卜)も、すべて停止させた。長孫無忌を斉国公に、房玄齢を邢(けい)国公に、尉遲敬徳を呉国公に、杜如晦を蔡(さい)国公に、侯君集を潞(ろ)国公に封じた。
冬十月の丙辰の朔(一日)、日食があった。癸亥の日、中山王・李承乾(りしょうけん)を皇太子に立てた。
癸酉の日、裴寂(はいせき)に実封一千五百戸、長孫無忌(ちょうそんむき)・王君廓(おうくんかく)・尉遲敬徳(うっちけいとく)・房玄齢(ぼうげんれい)・杜如晦(とじょかい)に一千三百戸、長孫順徳(ちょうそんじゅんとく)・柴紹(さいしょう)・羅藝(らげい)・趙郡王李孝恭(りこうきょう)に一千二百戸、侯君集(こうくんしゅう)・張公謹(ちょうこうきん)・劉師立(りゅうしりつ)に一千戸、李世勣(りせいき)・劉弘基(りゅうこうき)に九百戸、高士廉(こうしれん)・宇文士及(うぶんしきゅう)・秦叔宝(しんしゅくほう)・程知節(ていちせつ)に七百戸、安興貴(あんこうき)・安修仁(あんしゅうじん)・唐倹(とうけん)・竇軌(とうき)・屈突通(くつとつづう)・蕭瑀(しょうう)・封徳彞(ほうとくい)・劉義節(りゅうぎせつ)に六百戸、銭九隴(ぜんきゅうろう)・樊世興(はんせいこう)・公孫武達(こうそんぶたつ)・李孟常(りもうじょう)・段志玄(だんしげん)・龐卿惲(ほうけいうん)・張亮(ちょうりょう)・李薬師(りやくし:李靖)・杜淹(とえん)・元仲文(げんちゅうぶん)に四百戸、張長遜(ちょうちょうそん)・張平高(ちょうへいこう)・李安遠(りあんえん)・李子和(りしわ)・秦行師(しんこうし)・馬三宝(ばさんぽう)に三百戸(の食実封)をそれぞれ与えた。十一月の庚寅の日、宗室で封じられていた郡王たちを、すべて県公に降格させた。十二月の癸酉の日、自ら囚人たちの処遇(囚徒)を記録し確認(録)した。この年、新羅(しらぎ)・亀茲(きじ・クチャ)・突厥・高麗(こうくり)・百済(くだら)・党項(タングート)が揃って使者を派遣し朝貢した。
貞観元年
貞観元年春正月の乙酉の日、改元した。辛丑の日、燕郡王の李藝(りげい:もとの羅藝)が涇州(けいしゅう)に拠って反乱を起こしたが、まもなく側近に斬られ、その首が京師(長安)に送られた。庚午の日、僕射(ぼくや)の竇軌を益州大都督に任命した。
三月の癸巳の日、皇后が親しく蚕を飼う儀式(親蚕)を行った。尚書左僕射で宋国公の蕭瑀を太子少師とした。丙午の日、次のような詔を下した。「北斉の故尚書僕射の崔季舒(さいきじょ)、給事黄門侍郎の郭遵(かくじゅん)、尚書右丞の封孝琰(ほうこうえん)らは、かつて鄴(ぎょう:北斉の都)に仕え、名声も地位も高く顕著であった。志は忠義と剛直(忠讜)にあり、上奏文を奉呈して極限まで諫めたが、国家(社稷)の滅亡を救うことはできず、ついに関龍逢(かんりゅうほう:夏の暴君・桀を諫めて殺された賢臣)のような残酷な目に遭った。その季舒の子の剛、遵の子の雲、孝琰の子の君遵らは、一門が時の譴責(非難)に遭遇し、乱れた刑罰(淫刑)がむやみに及んだのである。今、これを褒めたたえ奨励(褒奨)して、特に一般の者たちとは異なる扱いとし、内務(内侍)としての服役を免除し、才能を量って改めて官職に就かせるべきである。」
夏四月の癸巳の日、涼州都督で長楽王の李幼良(りゆうりよう)が罪を犯し、処刑(伏誅)された。
六月の辛巳の日、尚書右僕射で密国公の封徳彞が薨去した。壬辰の日、太子少保で宋国公の蕭瑀を尚書左僕射に任命した。この夏、山東(太行山以東)の諸州で大旱魃があり、各所に振興と救済(賑恤)を命じ、今年の租税と役務(租賦)を免除させた。
秋七月の壬子の日、吏部尚書で斉国公の長孫無忌を尚書右僕射に任命した。
八月の戊戌の日、侍中で義興郡公の高士廉を安州大都督に左遷(貶)した。戸部尚書の裴矩(はいき)が卒した。この月、関東および河南、隴右(ろうゆう)の沿辺の諸州で、霜による秋の作物の被害(霜害秋稼)があった。
九月の辛酉の日、中書侍郎の温彦博(おんげんはく)、尚書右丞の魏徴(ぎちょう)らに命じて諸州を分担して巡回させ、振興と救済に当たらせた。中書令で郢(えい)国公の宇文士及を殿中監とした。御史大夫・検校吏部尚書・参予朝政で安吉郡公の杜淹が署位(就任)した。
十二月の壬午の日、陛下(太宗)は側近の臣下(侍臣)に語った。「神仙のことはもともと虚偽(虚妄)であり、むなしく名だけがあるにすぎない。秦の始皇帝は不相応にこれを愛好し、ついに方士(道士)に欺かれた。そこで童男童女数千人を遣わして徐福(じょふく)に随わせて海に入り仙薬を求めさせたが、方士たちは秦の苛烈な統治(苛虐)を避け、そのまま留まって帰ってこなかった。始皇はなおも海辺でためらい、これを待ち続けたが、沙丘(さきゅう)に戻って死んだのである。漢の武帝も仙人を求めるため、娘を道術使いに嫁がせたが、結局効果(験)はなく、これを処刑した。この二つの事柄から見れば、神仙などむやみに求める必要はないものである。」尚書左僕射で宋国公の蕭瑀が失政により解任された。戊申の日、利州都督・義安王の李孝常(りこうじょう)、右武衛将軍の劉徳裕(りゅうとくゆう)らが謀反を企て、処刑(伏誅)された。この年、関中で飢饉があり、ついには子女を売りに出す者まで現れた。
貞観二年
二年春正月の辛丑の日、尚書右僕射で斉国公の長孫無忌を開府儀同三司とした。漢王の李属(りぞく)を改めて恪(かく)王とし、衛王の李泰を越王とし、楚王の李祐を燕王とした。再び六侍郎(各省の次官)を置き、六尚書(長官)の事務を補佐させ、あわせて左右司郎中を各一人ずつ置いた。前安州大都督の趙王・李元景を雍州牧に、蜀王・李恪を益州大都督に、越王・李泰を揚州大都督に任命した。二月の丙戌の日、靺鞨(まつかつ)が帰順(内属)した。三月の戊申の朔(一日)、日食があった。丁卯の日、御史大夫の杜淹を派遣して関内の諸州を巡回させた。御府(宮中の宝物庫)の金宝を出し、自らを売った男女(売身者)を買い戻して父母に返させた。庚午の日、天下に大赦を行った。
夏四月の己卯の日、死体が野ざらし(暴露)になっている者について、その場所で埋葬(埋瘞:まいえい)するよう詔を下した。丙申の日、契丹(きったん)が帰順した。初めて天下の州県に義倉(ぎそう:共助の備蓄倉庫)を設置するよう詔を下した。夏州(かしゅう)の賊の将・梁師都(りょうしと)が従兄弟(従父弟)の梁洛仁(りょうらくじん)に殺害され、城を挙げて降伏してきた。五月、激しい雹(ひょう)が降った。六月の庚寅の日、皇子の李治(りち:後の高宗)が誕生し、五品以上の官吏を宴に招き、帛をそれぞれ差をつけて賜った。あわせて、この日に生まれた天下の民に粟(あわ)を賜った。辛卯の日、陛下は侍臣に語った。「君主が君主らしくなくても、臣下は臣下らしくない(不臣)ようなことがあってはならない。
裴虔通(はいけんつう)は、煬帝(隋の皇帝)の昔からの側近(左右)でありながら、自ら進んで乱(煬帝殺害)の首謀者となった。朕は今、敬慕と義理(敬義)を尊び賞揚しようとしているときであり、どうして今なお彼のような者を民を治め俗を導く立場(宰民訓俗:刺史など)に留めておけようか。」次のような詔を下した。
「天地が定まり、君臣の義が明らかになった。上下の秩序(卑高)が示されて以来、人倫の道は著しくなった。これによって風俗を厚くし、天下を教化(化成)するのである。たとえ時代が治乱を繰り返し、主君に明暗があったとしても、激風の中でこそ強い草(勁草)が分かるように、芳しい忠節は絶えることなく、心臓をえぐり体を引き裂かれようとも、(義に)赴くことは我が家に帰るかの如くである。どうして七尺の身を愛惜せず、百年の命を重んじないことがあろうか。それは君臣の義が重く、名教(道徳的教訓)が優先されるからに他ならない。ゆえに当代において大節を明らかにし、死後(身後)にも清らかな風を立てることができるのである。趙高(ちょうこう)が(秦の)二世皇帝を殺害し、董卓(とうたく)が弘農王(後漢の少帝)に毒を盛った(鴆)不義に至っては、人と神の等しく忌み嫌うところであり、時代が異なっても憤りは同じである。まして凡庸で卑小な輩(小豎)が、兇悪で背信の心(兇悖)を抱くに至っては、古の典籍(典策)を紐解けば、誅殺し滅ぼさ(誅夷)ないものはない。辰州刺史で長蛇県男の裴虔通は、かつて隋代において、晋王(後の煬帝)の藩邸に身を捧げて仕え、煬帝は昔からのよしみ(旧邸之情)をもって、特に彼を寵愛し重用した。ところが、ついに主君や親を蔑ろにする志を抱き、密かに皇帝殺害(弒逆)を企て、密かに隙をうかがい、群がる悪党(群醜)を呼び集め、長戟や流矢をもって、ある朝突然に決起した。天下の悪の中で、これほど耐え難いものはないと言えよう! 本来ならば一族を皆殺し(夷宗)にし、その首を焼いて、大いなる処刑を明示(彰大戮)すべきである。しかし、時代が変わり、たびたび赦令に遭っているため、特に極刑を免じ、除名・削爵としたうえで、驩(かん)州へ流刑(遷配)とする。」
秋七月の戊申の日、次のような詔を下した。「莱州刺史・牛方裕(ぎゅうほうゆう)、絳州刺史・薛世良(せつせいりょう)、広州都督府長史・唐奉義(とうほうぎ)、隋の武牙郎将・高元礼(こうげんれい)らは、隋代において共に任用されながら、宇文化及(うぶんかきゅう)に協力(協契)し、皇帝殺害(弒逆)を画策した。裴虔通の例に倣い、除名したうえで嶺南(嶺表)へ流刑に処すべきである。」太宗は侍臣(側近)に語った。「天下の愚かな者は、法(憲章)を犯すことを好むが、およそ恩赦や宥免の恩恵は、ただ不道徳な輩(不軌之輩)に及ぶだけである。古語に『小人の幸運は、君子の不幸である』『一年に二度恩赦があれば、善良な人は口を閉ざす(喑啞)』とある。およそ稂莠(ろうゆう:雑草)を育てる者は稲(禾稼)を傷つけ、奸心ある者(奸宄)に恩恵を与える者は善良な民を害するものである。かつて周の文王が罰を定めたとき、これら(悪人)には恩赦を与えなかった(刑茲無赦)。また蜀の先主(劉備)はかつて諸葛亮(しょかつりよう)にこう語った。『私は陳元方(ちんげんほう)や鄭康成(ていこうせい)ら(名臣たち)の間を周旋し、常に治乱の道について教えを受けてきたが、かつて恩赦について語られたことはなかった。』およそ小人(悪人)は大人(君子)の敵(賊)である。ゆえに私が天下を治めて以来、滅多に恩赦を行わないのである。今、天下(四海)は平穏であり、礼儀が行われているが、非常の恩(無闇な恩赦)を何度も施せば、愚かな者たちは常に僥倖を期待し、ただ法を犯すことばかりを望んで、過ちを改めることができなくなるのを恐れるからである。」八月の甲戌の朔(一日)、朝堂に行幸し、みずから冤罪や訴え(冤屈)を聞いた。これ以後、陛下は軍国に事なきをもって、毎日西宮(高祖の居所)で父の食事を給仕(視膳)した。癸巳の日、公卿たちが奏上した。「礼によれば、仲夏の月には、高楼(臺榭:たいしゃ)に居住することができます。今は猛暑(隆暑)がまだ退かず、秋の長雨(秋霖)が始まろうとしており、宮中は低地で湿気が多いため、閣(高層の建物)を一つ造営して居住されることを請い願います。」皇帝(太宗)は言った。「私は喘息(気病)を持っており、湿気の多い場所(下湿)に居るべきではない。しかし、もしその願いに従えば、多額の費用(糜費)がかかる。かつて漢の文帝は露台を建てようとしたが、百姓十家分の財産を惜しんで中止した。私の徳は漢の皇帝には及ばないが、費用はそれを超えてしまう。どうして民の父母たる道と言えようか。」結局、許さなかった。この月、河南・河北で激しい霜が降り、民が飢えた。
九月の丙午の日、次のような詔を下した。「高齢者を敬い(尚歯)功旧を重んじることは、先王が模範(垂範)とされたことである。(官職を)返上し綬(組)を解く(引退する)ことは、朝臣が(人生を)完遂する(克終)道である。(引退の)儀式(釈菜合楽之儀)や、教育制度(東膠西序之制)、高齢者を養う意義などは、古の記録(遺文)に見ることができる。私は恭しく大宝(帝位)を継承し、古の慣習(故実)を鑑としており、知恵を借り(乞言)尊崇すること、切に願うものである。しかし、古今の人情は異なり、世は末世(澆季:ぎょうき)に及び、名誉を求めて列に就き、大体を欠く者(引き際を誤る者)もいる。筋力が尽きようとし、晩年(桑榆:そうゆ)が迫りながら、ただ早朝からの勤め(夙興之勤)を尽くすばかりで、夜道を歩く罪(夜行之罪:分不相応な地位に留まること)を悟らないでいる。もし、足るを知る(止足)ことに心を動かし、その行動が人々を奮い立たせる(激励)に足り、公職を辞して(謝事公門)故郷の村(閭里)に骨を収めようとし、礼譲の心を持っている者がいれば、まことに嘉すべきことである。内外の文武の群官で、高齢により定年(致仕)し、上奏して職を去る者は、参朝の日には、その品級の現職者(見任)の上に並ぶものとする。」丁未の日、侍臣に語った。「婦人が深宮(後宮)に閉じ込められているのは、情においてまことに憐れむべきことである。隋代の末年、女性を求めることが止まず、離宮や別館に至るまで、皇帝がお渡りにならない場所であっても、多くの宮人を集め、民の財力を使い果たした。私はそのようなことはしない。また、掃除などの用事を除けば、他に何の用があろうか。今、彼女たちを出し、自由に配偶者(伉儷)を求めさせよう。これは単に費用を惜しむためではなく、人々がそれぞれの幸せ(各遂其性)を掴めるようにするためである。」そこで尚書左丞の戴胄(たいちゅう)、給事中の杜正倫(とせいりん)らに命じて、掖庭宮の西門から(宮女たちを)選別して退出させた。
冬十月の庚辰の日、御史大夫で安吉郡公の杜淹が卒した。戊子の目、瀛州刺史の盧祖尚(ろそしょう)を殺害した。
十一月の辛酉の日、天(円丘)を祀る儀式(有事於圓丘)を行った。
十二月の壬午の日、黄門侍郎の王珪(おうけい)を侍中とした。
貞観三年
三年春正月の辛亥の日、契丹の軍帥が来朝した。戊午の日、太廟に参拝した。癸亥の日、みずから田を耕す儀式(親耕籍田)を行った。辛未の日、司空で魏国公の裴寂(はいせき)が失政(坐事)により免職となった。
二月の戊寅の日、中書令で邢(けい)国公の房玄齢(ぼうげんれい)を尚書左僕射に、兵部尚書・検校侍中で蔡(さい)国公の杜如晦(とじょかい)を尚書右僕射に、刑部尚書・検校中書令で永康県公の李靖(りせい)を兵部尚書に任命し、右丞の魏徴(ぎちょう)を守秘書監として、朝政に参画させた。
夏四月の辛巳の日、太上皇(高祖)が大安宮へと移り住んだ。甲子の目、太宗は初めて太白殿(太極殿)において政務を執った。
五月、周王の李元方(りげんほう)が薨去した。
六月の戊寅の日、旱魃のため、自ら囚人の処遇を記録し確認(録)した。長孫無忌・房玄齢らを派遣して名山大川で雨乞い(祈雨)をさせ、中書舎人の杜正倫(とせいりん)らを関内の諸州に派遣して慰撫させた。また文武官に対し、それぞれ封事(機密の上奏文)を奉呈させ、政治の得失を極言させた。己卯の日、激しい風が吹き、木が折れた。
秋八月の己巳の朔(一日)、日食があった。薛延陀(せつえんだ)が使者を派遣して朝貢した。
九月の癸丑の日、諸州に医学(医学校)を設置した。
冬十一月の丙午の日、西突厥(にしとっけつ)・高昌(こうしょう)が使者を派遣して朝貢した。庚申の日、并州都督の李世勣(りせいき)を通漢道行軍総管に、兵部尚書の李靖を定襄道行軍総管に任命し、突厥を攻撃させた。
十二月の戊辰の日、突利(テュリス)可汗が帰順(来奔)してきた。癸未の日、杜如晦が病によって辞職を願い出たため、これを許した。癸丑の日、次のような詔を下した。
「義を掲げて挙兵(建義)して以来、戦火が交わされた場所で、義士や勇者が戦陣において命を落とした(殞身戎陣)場所に、それぞれ寺を一か所ずつ建立せよ。」また、虞世南(ぐせいなん)・李百薬(りはくやく)・褚亮(ちょりょう)・顔師古(がんしこ)・岑文本(しんぶんほん)・許敬宗(きょけいそう)・朱子奢(しゅししゃ)らに命じて、その碑銘を撰ばせ、功績(功業)を記録させた。
この年、戸部が上奏して言った。「(突厥の支配下から)塞外より帰還した中国人、および前後して帰順(内附)した突厥の民、四方の異民族(四夷)の地を開いて州県とした地域を合わせると、男女一百二十余万口に達します。」